長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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531人間七七四年
>>最上や伊達に限らずほかの大名もあいまいな態度をとっていた
そうだね、俺もそれは否定しないよ。戸沢や安東や津軽は上杉・三成ラインと
人情的にも繋がっていたとする証拠もある。しかし南部には人間的に三成や上杉に味方する義理すらない。

安東氏は義光が苦戦中に有馬や榊原や佐々に「最上は打ち破られてしまうだろうが政宗がいるから大丈夫」
などと安東は伊達や上杉と通じており最上を支援する気がないとも解釈できうる報告をしてしまっている。
安東と浅利の争いにおいて安東は三成や長束と結んで解決しようとしていて家康から不興を買っていた。
嫡子俊季のほかの弟達の名は秀次(忠季)・秀信・秀長・秀則であり、いづれも「秀」が付いている。

津軽については多少長い説明が必要だろう・・・
南部が蒲生・前田・浅野と組んで津軽イジメをしていたが
それに対して津軽をかばってくれたのは三成であり為信の長男信建は三成が烏帽子親。
1602年7/18には前田家臣と為信三男信枚の家臣が京都で9日間争い双方に死者を出してる。
津軽の史書には為信2000は駿府において家康と会い国許にさらなる増援要請したが津軽で謀反があり
松野久七率いる350人の兵しか駿府で合流できなかった。美濃大垣攻めでは現地で雇った服部長門守が
大垣城へ潜入し秋月らを離反させる画策をしたと津軽一統志は記す。しかし駿府は中村一氏の城である。
6代将軍徳川家宣の教科書として新井白石が書いた藩翰譜には
為信が東軍の先陣に加わり大垣を攻め落とす話は「関が原大条志」という
書のみに見えるのみで家康の会津討伐における最上口への動員要請に津軽の名がない。
しかしこの時に津軽は東軍にいたと言うから・・・もっと調べなければと幕府公式すら疑問を呈している。
8/19秀忠→津軽には家康の出馬によりその方も御上りたるべく由、尤もに存じ候
このように津軽が上ることを賞してる。
しかしこの書状は1684年6月に京都の商人から金七両で購入して手に入れたシロモノで
1706年12月にこの書状の存在を関白近衛氏に披露している。
この書状を買うまで津軽自身すら為信の東軍参加に自身がなかったようである。
大垣攻め論功行賞 
水野900 加増1万石
西尾600 加増1万石
松平300 加増1万石
津軽2000以上 加増2000石 津軽がもっとも兵を出しているのに加増がやたら少ない・・・
関が原から250年後に編纂された三河後風土記には
天元実記に津軽が大垣攻めに人数のみ出せしと見ゆ・津軽勢は西尾の指示を受ける
と記されていると記されているとする。
関が原において長男信建は西軍として大坂城におり為信は彼に兵300を送った。
佐和山城落城の知らせを受け三成の三男重成に護衛を付けて若狭から津軽へ脱出させ
名を杉山源吾に改めさせ、その子は津軽藩執政杉山八兵衛吉成である。
論功行賞の叙勲で5/11に三男信枚が家康や義光と一緒に参内している。
津軽は宇喜多家中の者を多く召し抱え優遇している。豊太閤座像を弘前城館神として密かに祭っている。
為信の廟堂には豊臣の定紋の五七の桐がある。
信枚が津軽藩の家督を継いでいる。これは為信が三成への恩を感じつつ
東西の両方に息子を分けていたことを意味する。