長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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526人間七七四年
>>524
俺はアンチ伊達でも伊達厨でもない中立者だから2つの書状のどちらが正しいとか判断を保留してるだけなんだが・・・
あえてそんなに触れたいって言うなら書くけどさ、
これって伊達史観によって既存の定説を大きく覆す超ド級捏造だよね。
この歪曲史観の主張の通りだと政宗は南部と上杉を相手に無双しまくって
家康に尽くしたって話に通説を180度変更させる政宗マンセー話になるわけだ。
そしてこの政宗の大活躍を恐れた家康が百万石の加増を破棄したと・・・もう痛過ぎるわ。
じゃあこの説を成立させる障害がいくつかあるから質問するね。
わざわざ南部は上杉に付くと宣言して帰るなんてことがそもそも有り得ない。
政宗の南部侵攻を義光が通報してるのに南部が西軍上杉側と解釈するのはおかしい。
南部側に家康の鷹師がいて政宗の行動を監視してるのに南部が上杉側と解釈するのはおかしい。
政宗が西軍の南部&上杉相手に大活躍したなら南部改易と政宗百万石加増しないと辻褄があわないし、
そこを政宗を恐怖した家康による陰謀と妄想して強弁するのは理解に苦しむ。
9/27の安東→最上の書状において
由利衆とともに庄内を攻めようとして南部との連絡を取ろうとしたが
戸沢が境目にあたる淀川と申す場所にニ城を構築し人留めを開始したので
南部との通路を遮断され内府様への使者がむなしく帰ってきたと書いており
この時点でも南部が上杉側であるかどうかまったく不明である。
むしろ南部も家康側だと思われたからこそ安東は南部との連絡を取ろうとしていたと思われること。
よって一上様・中納言様御事、粗略存ましき事と言う文章を
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事に書き換えて最上が南部を改易させようとしたが
ちゃんとした文章が存在したために家康が南部の正当性を認めて南部領安堵になったと見るべき。
そう解釈すれば下記の文章との整合性が取れる。
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
南部の遠野城主である阿曾沼広長も南部軍本隊と共に最上陣に出陣するが南部本国から和賀一揆の連絡を受けて
山形から急ぎ本国への撤退命令が来た際に阿曾沼広長は伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。しかし遠野の重臣の裏切りが発生し城は南部に渡り
帰る場所を失った阿曾沼広長は伊達を頼って気仙沼に亡命。その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
ちなみに「真山記」において家康に追い詰められた政宗が和賀を生け捕りにして殺害した経緯を書いているのだが
治家記録はその内容を丸パクリしておきながら最後の部分だけ和賀が勝手に自殺したことに捏造してるよねw
>>十月下旬に小野寺を攻撃したなんて東軍だった理由にならないよ
南部は伊達と戦っていたんだから、それ以前に小野寺領に攻撃をかける余裕はまったくない。
伊達の南部への侵攻と伊達の敗北の慶長5年9月〜と6年3月〜の合戦の合間を見計らって
10/24には南部軍は小野寺氏の横手城下の家々を焼き払ったりしてるし