長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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525人間七七四年
葛西大崎一揆において同時に転封とそれに伴う伊達家中の知行再編が行われたが、
減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、転地の際にはそのままでは収穫を見込めない
荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、困窮した家臣団の不満が高まった。
転封を拒んだ北目城主・粟野重国が居城を攻め落とされたほか、
伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。
また、広大な知行地を与えた重臣達に領地復興を丸投げする格好になったため、
仙台藩において地方知行制が幕末に至るまで残存する原因となり集権化は大幅な後退を余儀なくされた。
この経済的困窮の打開が政宗主導の和賀一揆による南部領切り取りや
松川の戦いでの福島城奪取による家臣への加増目的だった。
家康の百万石の約束もまた伊達家の家老衆への加増となっていることからも伊達家中への取り込みが見える。
これは家康による伊達家中への支配を嫌がる政宗が、
政宗主導での上杉領の切り取り分配による伊達家中集権化を目指すチャンスが
関が原の東軍勝報のドサクサに起こったことに起因する。
以前、伊達厨が福島城攻略失敗を誤魔化す為に
最初から福島城ではなく梁田城攻略が目的だったとデタラメを吐いていたが
片倉の二番隊が福島城へ向け進撃を始めている最中に簗川城からの内通の申し出があって
深夜に急ぎ片倉が福島城から梁田城へ目標の変更を政宗に具申するが、
政宗は「もう二番隊が進撃してるから無理」と拒否した事実を無視していたね。
そして実際は福島城攻略に失敗した為に恩賞が払えない政宗は窮して10/19宗薫から家康への伝達において
せめて20万石でも15万石でもいいから政宗に対して不満だらけ家臣達への堪忍分で加増してと泣きついてる。