戦国ちょっといい話10

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話9
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240492546/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話9
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240753114/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/05/26(火) 14:31:18 ID:ruGVfFRh
>>1
乙そして埋め

…あれ?
3人間七七四年:2009/05/26(火) 16:25:30 ID:1pFrgoTp
>>1
乙!
4人間七七四年:2009/05/26(火) 17:08:00 ID:ipkzc0XA
>1殿、ナイススレ立てでございましたな
5人間七七四年:2009/05/27(水) 00:44:43 ID:OS/js5zz
佐々成政は居城の比良城の客分・千田吟風に古今東西の名将達の
ことを教わった。だけどもこの頃の成政は素行が悪く、吟風に突っ掛かった。

「くだらねえ。昔の武将の言行なんて、本当にあったか怪しい
もんだ。違うかい、先生よ?」

成政は過去の名将の逸話なんて嘘臭い、自分には信じられないと
食ってかかった。すると吟風は成政にこう言った。

「ほう、名将達の言行を疑われるのか。しかし、何故その前に
ご自身の馬の肥やしにもならない馬鹿な遊びに疑問を抱かぬのやら?」

成政は吟風に一泡吹かせたつもりが、逆に痛いところを突かれて
しまった。それからの成政は素行を改めて真面目になったという。
6人間七七四年:2009/05/27(水) 05:39:46 ID:SRU8aMvQ
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ

  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                      ○
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   .,.⊥、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)
       梅干  高菜 大腸菌 こんぶ クロロホルム 豚インフル オプーナ
          ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、   ,.-、    ,.-、
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  (,,■)   (,,■)
          砒素 明太子 ちりめんじゃこ ゆかり  柴漬  塩辛 とりかぶと
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、   ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)  (,,■)
      鮭 猫いらず  野沢菜  サリン ツナマヨ 石見銀山  鮭マヨ 鮭ハラミ
71ちゃん:2009/05/27(水) 10:35:07 ID:J+8ruBoz
>>6
ちょ、毒増えてるwww
鮭と鮭ハラミと鮭マヨをいただきます
8人間七七四年:2009/05/27(水) 11:15:17 ID:rNp6A2/g
石見銀山ってなんだよwwwww
9人間七七四年:2009/05/27(水) 11:25:44 ID:h66OkbIN
>>8
ネズミーランドのアレやソレをポアするお薬でし
10人間七七四年:2009/05/27(水) 11:55:14 ID:TAtu+J0/
石見銀山は猫いらずの別名なんだけど……猫いらずもあるんだよなw
11人間七七四年:2009/05/27(水) 13:32:27 ID:TFuLMtWx
>>5
注意やアドバイスは相手を納得させなければ反抗心を煽るだけだからな。
だけど武田信繁のようにその反抗心を戦にぶつけさせる方法もあるわけで。
時と場合によって良いことが悪くなり、逆もまたある。
このスレは奥が深い
12人間七七四年:2009/05/27(水) 14:01:28 ID:+liEFnnL
応仁の乱において、西軍の大将となった山名宗全。

ある時彼が、とある大臣家の公家と話をしていた時、この公家が『先例』という事に
強く拘るのを聞いて、このように言った

「公家の方々は何かと言えば、先例、先例とおっしゃる。
しかしこれからは、”例”を、”時”と言う文字に置き換えてみてはいかがでしょうか?

世の中が安定し、法が不変の時代ならば、先例を引くのはよいでしょう。
しかしそうで無い時代では、それは全く通用いたしません。
あなた達公家は先例に拘るあまり、時代の変化を理解できませんでした。
そのため武家に天下を奪われたのです。

もし古来の『先例』を当てはめるなら、何故このように、宗全のような卑しい者が身分尊きあなたと、
今対等に会話をしているのでしょうか?

このような事、古来いずれの時代の”例”にも無かった事です。
すなわち、これこそが”時”なのです。」


先例の通じる時代では無いのだ、過去よりも今の現実を見つめよう。
この後の、長い混乱を作り出した一方の当事者の、時代認識である。
13人間七七四年:2009/05/27(水) 14:58:39 ID:+ZTIVyBp
>>6
直家様、ますます饗応の腕がおあがりになられて・・・
14人間七七四年:2009/05/27(水) 18:12:26 ID:SRU8aMvQ
>>12
その後、山名家が没落していって豊国が腐れ禿鼠のような卑しい身分出身に
隷属するようになったこととあわせるといろいろと考えさせられるが…

宗全の時代認識は正しいな
15人間七七四年:2009/05/27(水) 20:39:32 ID:XAZIPYxt
山名家ってなんだかんだいって戦国時代でも頑張ってたよな。
16人間七七四年:2009/05/27(水) 20:58:04 ID:BOF4Jlut
まとめから来ますた
個人的には宇喜多のが好きだけど、池田光政公の話をば…
文才無いけどどうかご容赦を

光政公、三名君と謳われるほどのやり手であると同時に、幕府に謀反を疑われたりする独立不羈な人物でもありました。
なんと光政公、謀反の噂が流れると釈明どころか藩領の西端(江戸方向)に城のような威圧的な建物を、あてつけがましく普請したのです。
場所も山陽道を扼する山腹のこと、幕閣も「すわ築城か!?」と色めきたちます。
しかしながらこの建物、城ではなく学校として使用されたのです。
光政公は母も妻も将軍家からの入嫁であり、多少の無茶もできたのでしょうが、彼の剛毅な(偏屈なw)性格が覗えます。

現在もこの学校は「閑谷学校」として現存(講堂は国宝)しています。
17人間七七四年:2009/05/27(水) 21:18:20 ID:h66OkbIN
>16
閑谷てめっさ紅葉が綺麗なとこだよ〜

秋に平服で行くと確実にカゼをひくくらい涼しい。夏でも涼しい。

しかし、領地の西側って江戸じゃなくね? <旧地名ならごめん
18人間七七四年:2009/05/27(水) 21:44:12 ID:BOF4Jlut
>>17
スンマセン、普通に東でした
一応地元なのに、何をトチ狂っていたのかorz

観光dですw
19人間七七四年:2009/05/27(水) 23:33:38 ID:3I0nIrso
人気の理由、不人気の理由

肥後半国を治めていた行長。彼の南肥後での人気は現在イマイチです。


南肥後にはキリシタンが続々と集い、南蛮の技術を取り入れた宇土(行長拠点)は大いに発展していきました。
しかし行長、やってはならぬ事をやってしまいます。

それは寺神社の破壊です。某お隣の大名もやらかしてましたが…。

インテリのキリシタンの人々ならまだしもこの行為は一般人から見れば狂気の沙汰。いつか神罰が下ると。

その後、小西家滅亡後南に入ってきた清正。
「(´・ω・`)ぶち壊されたり焼き討ちにされた神社寺は復興するよ!皆協力してね!」

っと神社寺の建て替え、河川整備、熊本城築城など莫大な予算を公共事業につぎ込み、民達に仕事を与えました。
清正は民に金払いがよく、民達に不平不満を溜めさせない用気配りし各地の工事を進めていきました。

この用な丁寧で公平な対応、また神仏の再興などが後の清正の地場での根強い人気、神格化へと繋がっていきます。
一方行長はバチがあたったなど評され神社を再興し神となった清正と大きく差をあけられてしまいましたとさ…
20人間七七四年:2009/05/28(木) 01:44:39 ID:yuiixjxG
徳川家康の家臣である夏目吉信は三河一向一揆に加わって
家康に刃向かったが、松平伊忠に敗れ、寺に立て篭もった。

寺を包囲した伊忠は家康の命令がありしだい攻撃するつもり
であった。だが家康の命令は許せというものだった。家康は
伊忠の働きを褒めた上で、蔵の吉信を討つのは篭の鳥を殺す
に等しいと言って、許すよう命じた。伊忠は寛大すぎると
不満だったが、主君には逆らえないと、命に従った。

まさか助かると思わなかった吉信は岡崎に向かって平伏した
という。吉信は家康を裏切ったことを恥じた。それからの彼は
よく仏堂に入っては、私を主君のお役に立たせたまえ、と大声
で祈ったそうである。

こうした恩があったからこそ、家康が三方ヶ原で窮地に陥った
時に、吉信は家康を守って死んだのである。
21人間七七四年:2009/05/28(木) 10:42:50 ID:NjO2z9gc
これはただの思いつきなのだが、
家康が全体的に家臣に甘い(他家比)のって、
義元がそれだけ人質の家康を丁寧に扱ったから、なのかね。
人質ですら斯くの如し、しかるを況や家中をや、ってなノリで。
22人間七七四年:2009/05/28(木) 12:23:23 ID:uWQxFL3N
君主権が弱く、下に対して掣肘が加えられなかった。
かつ中央の礼儀と無縁で、武士豪族が高級層化していなかった。

江戸時代にこの二つが進むと、かつての三河譜代のとやらも大人しく官僚化。
23人間七七四年:2009/05/28(木) 12:59:21 ID:nY34zLww
>>20d
神君がらみじゃ割と有名所だけど
やっぱいい話だねぇ……夏目漱石や房之助さんの遠いご先祖様。

子孫がヘマやったときも士籍に残され家名を保ったのは
幕府に家康から「夏目の子孫を粗末にせんでくれ」と伝えられていたんだとか
24人間七七四年:2009/05/28(木) 15:02:45 ID:VOYCkwqD
>>23
へ?マジで血縁なの?
25人間七七四年:2009/05/28(木) 15:07:38 ID:lrYBDX8b
>>24
そうだよ。漱石はこの夏目さんの子孫。
26人間七七四年:2009/05/28(木) 15:45:14 ID:nY34zLww
>24
坊っちゃん……というか金之助はんの性格にカッチリ現れてるっしょ。

「ユー・アー・チキン!屋根から飛び降りる度胸もねェのか貴様」と中指おっ立てて挑発されたら、
やらいでか!て屋根からダイヴするよなお人だ。


……めんどくさい明治の文豪……
27人間七七四年:2009/05/28(木) 16:05:57 ID:TRKp6qg3
夏目吉信→夏目漱石(小説家)
織田信長→織田信成(フィギュアスケート)
小野鎮幸→オノ・ヨーコ(芸術家)
肝付氏→肝付兼太(声優)
佐竹氏→佐竹敬久(秋田県知事)

あと誰かいたか?
28人間七七四年:2009/05/28(木) 16:08:16 ID:VOYCkwqD
>>25>>26
同じ名字なのは偶然だとずっと思ってた
トン
29人間七七四年:2009/05/28(木) 16:24:13 ID:1nvKS9Fk
佐々淳行とか細川元総理とか山中豊子とか吉川晃司とか三枝成彰とか小早川毅彦とか
どこまでホンとか知らんけどね。
30人間七七四年:2009/05/28(木) 16:26:38 ID:hzxc0itB
あと筒井康隆
31人間七七四年:2009/05/28(木) 16:29:16 ID:TRKp6qg3
松田聖子忘れてた
しかし結構いるもんだな
32人間七七四年:2009/05/28(木) 16:54:13 ID:P4cBftym
ゴルフ協会の偉い人が鍋島家だってゴルフ部の友達から聞いたことある
33人間七七四年:2009/05/28(木) 16:57:31 ID:rBwtflfv
松平定知は松平定信の関連じゃなかったっけ。
まぁ江戸だが。
34人間七七四年:2009/05/28(木) 17:04:14 ID:nY34zLww
>>27
井伊さん彦根市長何十年やってた
35人間七七四年:2009/05/28(木) 17:20:26 ID:QBuHqeu5
甘利虎泰(武田二十四将)→甘利甘利明(衆議院議員、行政改革担当相)とか
36人間七七四年:2009/05/28(木) 17:24:37 ID:1nvKS9Fk
えっ?
37人間七七四年:2009/05/28(木) 17:30:55 ID:lrYBDX8b
細川護煕元首相が出ないとは…

細川忠興に近衛前久の血まで引いている。
38人間七七四年:2009/05/28(木) 17:33:52 ID:hBsra04N
>>27
爆笑問題太田光の嫁、光代は松永久秀の子孫だとか
39人間七七四年:2009/05/28(木) 17:52:38 ID:FBfZci/5
>>37
>>29で出てるよ。
40人間七七四年:2009/05/28(木) 17:53:22 ID:1aSCxe31
41人間七七四年:2009/05/28(木) 17:58:28 ID:CthW3n4E
ちょっと戦国時代から外れるけど逸話スレで何度か一休さん出てるから
K1の武蔵が一休さんに出てくる新右衛門さんのモデルになった人の子孫だね
同じ格闘家で毛利元就の息子、秀包の直系子孫の毛利照彦とか
42人間七七四年:2009/05/28(木) 18:01:47 ID:8bOaT18B
細川藤孝の回想

天正6年からの荒木村重の反逆の際のことです。
彼の日頃の言動からこれは危ないと、かねがね総見院様には申し上げてたのです。
それを村重のやつめは、藤孝が讒言したとかなんとか、逆恨みの被害妄想というものです。

有岡での包囲戦が手詰まり、長期化した中で、私めにも出陣の御命が下ったのでした。
というのも少し前、織田信忠様の部隊が夜襲を受け、散々蹴散らされたことも
味方の士気を大いに損なっておりましたし、総見院様もお怒りでした。

雨の中、長路丹波から細川の部隊が有岡城と面した最前線に布陣したのです。
私は確信しておりました。到着して疲労が極に達しているであろう、その今夜、
しかも雨のそぼ降る中でこそ、常々遺恨に思っている村重が襲ってくると。

夕刻、有岡に数年前から潜入させておきました工作員から、村重、自ら小勢を率いて
襲撃をかけてくるとの知らせ有り。

すぐに鉄砲隊の火縄には革を巻かせて雨に備え、民家に忍ばせておきました。

夜半、雨の泥濘な中を、先ず村重の別働隊が牽制の攻撃をかけ、すぐに退却して行きました。
私はこれを囮と見抜き、数十人の雑兵の両手に各々数本の松明を持たせ、さも細川隊が追撃に
移るように見せかけたのでした。

程なく、本陣の前の壕から人の気配がしてまいりました。村重の本隊です。
声も無く忍んでまいります。
十分に引き付けた後、一斉に撃たせまくったのでした。

村重の一隊は、算を乱して退却に移ったのですが、足元の泥にすくわれ容易に逃げ出せずにおります。
百数十名の武者を討ち取りましたが、当方の損害は皆無でございました。

着陣し、疲れきったその日こそが、まさに勝負でございます。

43人間七七四年:2009/05/28(木) 18:08:40 ID:Qvrosgsd
板垣退助は板垣信方の子孫。
ただし退助の代に「乾」から「板垣」に改姓している。
ともかく甲斐の民衆の支持を得た退助は
甲州勝沼の戦いで幕府側の新撰組に勝利し、
武田神話に1ページを書き加えることになる。
山梨でいまだに武田氏が熱狂的に支持されているのは
板垣退助の活躍のおかげもあったのだろうと思う。
44人間七七四年:2009/05/28(木) 18:11:25 ID:lrYBDX8b
>>39-40
すまん。許してくれ。

>>42
藤孝は本当に、武人としても達人だな。
45人間七七四年:2009/05/28(木) 18:11:46 ID:7lC71m1r
>>27
亀井茲矩→亀井久興(衆議院議員、国民新党幹事長、元国土庁長官)

あとは変わり種で
相馬盛胤→相馬恵胤(故人、中央競馬馬主協会連合会元会長、柏台牧場経営)
46人間七七四年:2009/05/28(木) 18:20:51 ID:TRKp6qg3
>>42
数年前から潜入させてるあたり先見があるなぁ
…もしかしたら織田家内の権力闘争に使ってたのかもしれないが
47人間七七四年:2009/05/28(木) 19:13:19 ID:wiBymy/R
>>27
佐伯惟教→緒方洪庵(医師、蘭学者)
48人間七七四年:2009/05/28(木) 19:13:59 ID:srRIl0SQ
>>27
立花宗茂→料亭旅館御花の社長
49人間七七四年:2009/05/28(木) 19:25:56 ID:2lkU+CPc
生天目瞳(声優) 武田軍末裔
50人間七七四年:2009/05/28(木) 19:28:24 ID:q0ZrsDoT
キリが無いからそろそろ止めようぜ。

普通に1000まで埋まるぐらい居る。
51人間七七四年:2009/05/28(木) 19:36:15 ID:VgZY/VH0
>>50
言いだしにくい事をよく言った!!
オマエ、侍だよ!!
52人間七七四年:2009/05/28(木) 19:56:17 ID:lrYBDX8b
大阪の陣において、信州松本藩初代、小笠原秀政が、長男・忠脩と討ち死にした時、
彼の近習10人のうち、9人は皆、秀政と同じ場所で討ち死にした。
ただ、鳩館弥右衛門一人が、その時他の場所にいたため、生き残った。

戦後、その領地松本において、秀政親子の死から百日目に、追善が行われることとなった。
その九十九日目にあたる日、弥右衛門は妻に、「明日は舅の所で、精進落ちをするといい。
お前は今から、子を連れて舅の所に行きなさい。」そう言って、家を出した。

実家に帰った妻は、夫の言う事を不審に思い父に相談した。するとその父は、あわてて
弥右衛門宅に向かった。

「娘から話は聞きました。弥右衛門殿、あなたは悪しき覚悟をなさっているのではないですか?
十人の内一人生き残ったからといって、それは卑怯な振る舞いをしてそうなったわけではない。
その事でもし、何か至らぬことを考えているのであれば、それは返って不覚悟と申すものだと
拙者は考える。それをあなたに言いに来たのです。」

弥右衛門はこれを聞き、さにあらぬ体で
「なにをおっしゃるかと思えば、私はそのような事、一向に考えておりませんよ。
妻はそちらで、どうしてそんな事を申し上げたのやら。
そのような心にもない事、世間に聞こえれば、返って我々の
大きな恥とも傷ともなってしまうじゃないですか?」

そんな風に言うし、また、主君の死から百日もたって、その後を追う事もあるまいと思ったので、
舅も安心して帰宅した。

翌日、弥右衛門は寺において、主君、秀政の追い腹を切って、死んだ。

そこには書置きが残っていた。

『このたび大阪で、殿様に御昵懇に召し使われた十人の内、九人まで、乱戦の中
殿の御前で討ち死にされました。

私は他所で働いていたため、一人生き残りました。
この口惜しさ、これに過ぎるものはありません。
早速にも追い腹を斬ろう、そう思いました。

しかしよく考えてみると、行きがかりの討ち死になれば、それで良いのでしょうが、
生き残った私には、殿より仰せ付かった役儀上の仕事が残っています。
これを残して逝くことは忠義ではない、残らず終えてから殿の後を追おう。そう考えました。

そうして今、全ての仕事を終えました。思い残す事何も無くなった故、今日、殿のお供をいたします。』

秀政の近習がみな、高い忠誠心を持っていたのは、若い頃、小姓として使えていた彼らを、
容貌ではなく、その心根が正しい事を持って寵愛したからだ、と言われる。

余談だが、残された弥右衛門の子は成人すると、小笠原家の家老となり、後、病死。
その子もまた、小笠原家に仕えた。


一人残された男のお話。
53人間七七四年:2009/05/28(木) 23:30:25 ID:2pIxbxyn
切ない…(;_;)
54人間七七四年:2009/05/28(木) 23:40:00 ID:GvCW6SNh
>>20を見て思ったけど、このスレでは三方が原での
夏目吉信の身代わりエピソードはまだ出てないんだっけか?
あれ自体物凄くいい話だと思うし、はじめて聞いた時は思わず涙してしまったんだが。
55人間七七四年:2009/05/29(金) 00:00:45 ID:lK84txWP
>>54
驚くべき事にこれ単体での話は出て無いっぽいな。
息子の話は出てる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-230.html
56人間七七四年:2009/05/29(金) 00:03:47 ID:pPHza6ze
息子関連で出てたが、さらっとだな
57人間七七四年:2009/05/29(金) 00:05:24 ID:yFj16U4l
>>52
しかし本当に皆良く、死にたがるのな・・・
それが武士の潔さと言っちゃえばそうなんだろうがこのメンタリティーは何処から来たんだろう
正直今の日本人と同じ民族とは思えないよ
58人間七七四年:2009/05/29(金) 00:18:35 ID:/54IwGke
成人するまでに半分以上が死ぬ時代だからねえ
それでなくても野良犬よりも死体の方が街中では珍しくないような社会情勢なんだろうし
59人間七七四年:2009/05/29(金) 00:33:15 ID:pPHza6ze
戦乱の世といっても戦場以外は結構平和なんだけどな
戦国時代100年余で人口も2.3割増えてるくらい平和
60人間七七四年:2009/05/29(金) 00:44:56 ID:P9E6QVrV
戦では100人くらい死んだら大敗北だし…。
一部の撫で斬りなんかを除けばそんな民衆に被害が出てるとも思わない。
民衆殺せば後が圧倒的に恐ろしい。
忠義忠義って騒ぐのは旗本か一部の階級のみ。
戦場でも雇われや農民は決死で戦うかと言えばそうでもないし。
戦傷で死ぬ人は多かったかもね。
61人間七七四年:2009/05/29(金) 01:03:39 ID:wEDAU3qA
落ち武者狩りで農民が兵隊をぶっ殺してたりもしたしな。
62人間七七四年:2009/05/29(金) 01:14:56 ID:dlvqFiEj
まあ殿と近習が自分以外みんな死んだらおめおめ一人生きてられないだろう
自分一人生き残って幸せだったのか未だにわからないってのは太平洋戦争の生存者も言う言葉だしな
63人間七七四年:2009/05/29(金) 02:36:14 ID:phY7wZRX
生き残った、じゃなくって
生き残ってしまった、なんだよな…
64人間七七四年:2009/05/29(金) 05:01:13 ID:7ciZBH5z
牟田口廉也の名前は出すなよ荒れるから
65人間七七四年:2009/05/29(金) 07:20:32 ID:ecvKJIfN
>>62
震災やこないだのJRの事故とかの災害後でも少なからずそういう人が出るから
どうも周りが死んでいく中生き残った事が辛いってのは人間として珍しくないメンタリティーらしい
武士があっさり死にたがるのもそこら辺があるのかもしれない
66人間七七四年:2009/05/29(金) 07:43:43 ID:0sc77biG
後、子孫や一族のためもあるな
戦で討ち死にしたり追い腹切ったりしたら
その子供は目をかけられるから
67人間七七四年:2009/05/29(金) 08:10:41 ID:7zt0vvW8
>>64
牟田口は別に荒れないだろ。
思想を問わず全会一致でダメ将校なんだから。
本当に荒れるのは外国に直接関わる話。

むしろスレに関係無いから自粛すべきというのが言うべきこと。
68人間七七四年:2009/05/29(金) 10:56:28 ID:/54IwGke
>>58-59
戦場で死なないからって平和に生きていられる時代じゃないでしょ

普通に生きていても、飢えて死ぬし怪我したら衛生状態の悪さで簡単に悪化して死ぬ、ただの風邪でもコロリと死ぬ。
まして戦国時代は社会基盤も脆いし、自然環境も室町以来ずっと寒冷に傾いてるから食料生産力も落ちてる。
勿論小児死亡率の高さは言うまでもない。江戸時代ですら半分が生き残れるレベルじゃなかったか。
現代の成人年齢の20になる頃には顔見知りの同世代は半分死んでるわけだ。
20くらいとなると親も40近くとか過ぎとかだからこれも普通に死んでる可能性が高い。

戦国でなくても近代以前の人類はこんな環境で生きてきたんだ、人命に価値があるという思想が個人に生まれるのは
難しいだろう。
69人間七七四年:2009/05/29(金) 11:53:39 ID:qvpqMlVG
コロコロ死ぬから長生きしたお祝いとかあるとも言えるんじゃね
70人間七七四年:2009/05/29(金) 13:42:37 ID:JgECr1ri
道元とか法然とかもそうなんだけど
若年にして自ら発心して仏道に入る人が多いのも
人があっさり死ぬからなんだよな
71人間七七四年:2009/05/29(金) 14:22:20 ID:i45g/QnM
というか、仏教教祖の釈迦の発心理由がそれだしな
72人間七七四年:2009/05/29(金) 14:50:14 ID:zWzKERkw
生き残るのが難しかったからこそ優秀な人材が尊ばれ
生きることに価値が見いだされた側面もあったと思う。
ただ死は日常に溢れていて、覚悟するのはさほど難しくなかったろう。
73人間七七四年:2009/05/29(金) 17:56:16 ID:ROEE8q/Y
(身内の)肉体は滅んでも、その心、魂だけは残り続けて欲しいという願望もあったから、信心深い人が多かったのかも知れない。
74人間七七四年:2009/05/29(金) 18:12:25 ID:JgECr1ri
そういえば茶道の一期一会の考え方とか
「この度の出会いの後は再び会うこともないかもしれない
だから一席の茶会に心を尽くしもてなしをしよう」
っていう非常に死を意識した思想なんだよな
茶道が武士の間に流行したのもいつ死ぬともしれない生活の中で
習慣的に「末期の水」ならぬ「末期の茶」をやっておいて
ある日来る死を儀式化する側面があったんジャマイカとどっかで聞いた
メメント・モリってやつかね
75人間七七四年:2009/05/29(金) 18:27:16 ID:v7sCyWaG
高虎「朝起きたら、今日が死ぬ日だと思っておくもんだよ」
76人間七七四年:2009/05/29(金) 19:18:26 ID:sxIB3PJ4
>>54
夏目正吉単体の話を詳しく
概要はしってるんだが詳しく知りたい
77人間七七四年:2009/05/29(金) 19:28:56 ID:zs9Ttgcx
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2110.htmlの後日談かもしれない話

江戸時代の秋田藩士、長山盛晃は次のような記録を残している
『不思議なことがある
横手城代の戸村家が所持する馬道具、鷹の道具などに
真田左衛門の銘があるものが多いというのだ
戸村側でも理由は知らないという
私も鷹道具を拝見したが、「さなださえもん」と仮名で彫られていた
古びた感じから、後から彫り付けたようには見えない
なぜこれが戸村家に伝わるのか、私にはよい考えは浮かばない
ここに記しておいて、後人の評を待つことにしよう』

盛晃、小西行長の子孫を名乗る富豪が秋田にいるという記事も載せている
が、こちらはだいぶ懐疑的で、「そのうち糾明してやる」とまで書いている

はて、真田親子が薩摩からはるばるやってきたのだろうか
そんなロマンを感じさせる話
78人間七七四年:2009/05/29(金) 20:01:13 ID:+dAWCKcP
モンゴルに渡って世界一の版図築いたんだよな。たしか。
79人間七七四年:2009/05/29(金) 20:02:37 ID:+efwIugk
>>76
三方が原の戦いにて

武田軍の猛攻の前に総崩れとなった徳川勢

家康もわずかな供周りとともに敗走していた。
そこに現れたのが夏目正吉であった。
正吉は浜松城の留守居役であったのだが、味方の敗報を聞くや、
わずかな手勢と共に駆けつけたのだった。

正吉は家康に退却するよう進言したが、家康は聞かず、
「ここで自分一人生き残る事はできない」
と討死覚悟で追手に向かおうとする有様であった。

正吉は家康を睨みつけ、
「そのような心根は、まるで木端武者ではありませぬか」
「最早遠慮いたさぬ。これからはそれがしがお館を名乗りまする」

と言うやいなや、家康の馬の首を浜松城の方に向け、馬の尻を槍で突いた。

馬が浜松城目がけて一目散に駆け去るのを見届けると、
正吉は「我こそは徳川三河守家康なり、我と思う者は参るがよい」
と大音声で呼ばわり、槍を振るって瞬く間に2騎を突き落とした。
そして、引き連れてきたわずかな手勢と共に追手に向かって斬り込んでいった。

奮戦空しく、正吉以下正吉の手勢は残らず討死したという。

しかし、彼らの決死の戦いが功を奏し、家康は九死に一生を得て、
浜松城に帰還する事ができたのである。

こんな感じ
80人間七七四年:2009/05/29(金) 20:51:50 ID:sxIB3PJ4
>>79
おおwサンクスw
たしか夏目正吉って三河一向一揆で一向宗側にいたんだよなw
81人間七七四年:2009/05/29(金) 21:23:00 ID:wuFpyLwV
>>77
なにこの江戸Xファイル
長山、あなた疲れてるのよ
82人間七七四年:2009/05/29(金) 21:47:40 ID:lK84txWP
秀吉があるとき、黒田如水に問うた

「この天下に最も多いものは何か?」

如水答えて曰く、「人です。」

「では、天下に最も少ないものは何か?」

如水、再び答えて曰く、「人です。」


黒田如水、いい話というか、いい言葉。
83人間七七四年:2009/05/29(金) 23:40:13 ID:A9XLeq/1
>82
人手と人材、てヤツだね。ビジネスマソの教訓書きによく戦国武将が云々〜て出てくるワケだw
84人間七七四年:2009/05/30(土) 01:14:22 ID:IQ0oeMNq
打ち続く戦乱の中で、朝廷の財政は困窮していた。老齢の山科言継が自ら
大名達に援助を求めるほどで、天皇のおわす皇居ですら、織田信長が修繕
するまで酷く荒廃していた。また外観だけではなく節会や礼楽もまた廃れ
ていたという。

織田信長はそうした実情を危惧した。信長はアドバイザーであり、諌臣で
もある武井夕庵に朝廷の祭事について尋ねた。

夕庵が言うには「朝廷の節会はすっかり絶えてしまって、中老以下の方々
はかつての礼楽を知らず、見たこともないでしょう。こうして十年余りが
過ぎたので、朝廷の礼楽は跡形もなくなってしまいました。国家を治める
ためには、礼楽が正しくなければいけないというのに、ああなんと嘆かわ
しい」ということであった。

常々、上下万民を一子として天下をなそう、と思っていた信長は「では、
そちが計らうのだ。そうしたことは誰に聞けばよいのか」と夕庵に問うた。
夕庵は「なんと言っても老者の方であればご存知でしょう」と答えた。
信長は「では、その者の言う通りにして、そちと九衛門が計らえ」と指示した。

そして武井夕庵と菅谷長頼がいろいろと手配した結果、節会が催された。
しかし、長らく行われていなかったため、中老以下の諸卿殿上人の様は、
まるで初めての稽古のようで滑稽だったという。

こうして祭事が再興されたので貴賎問わず、右府信長公は末世に稀なる
大将だと言い合ったという。

一部訳に自信ないけど、概要は合ってると思う。
85人間七七四年:2009/05/30(土) 01:18:46 ID:yK28vNTm
>>77
娘どころか、息子も秋田に往ってたよね。
86人間七七四年:2009/05/30(土) 01:31:41 ID:IQ0oeMNq
>>84
早速間違えましたorz
すいませんまとめで6行目を修正して下さい。

○もある武井夕庵にしばしば質問し、夕庵も事にふれて諌言した。
87人間七七四年:2009/05/30(土) 02:19:25 ID:+t/ruiON
>>57
死にたがるんじゃなくて
「カッコよく死ねれば家名が上がる。そしたら一族郎党はどこかに召抱えられて飢え死にせずに済む」
っていうことなんじゃないの

息子や兄弟が生き延びれば自らの遺伝子は残る、っていうミツバチ的発想かもしれない
88人間七七四年:2009/05/30(土) 02:34:26 ID:5aMBW6hb
でも短い寿命だの厳しい環境だのは日本に限らなかったろうに、
他の国でここまで死に急いだ人々ってのも聞かんな
89人間七七四年:2009/05/30(土) 03:03:08 ID:WP1OMMoN
当事の武士が皆そうだったわけじゃないでしょ
信長なんてどんだけ負けたって挽回の余地があるうちは逃げまくってるし
家康もうんこ漏らしたって自害してない
むしろ死に急いだのが一般的じゃないからこそそういう話が残ったんじゃないのかな
殉死だなんだってのが多くなったのは江戸時代入ってからでしょ
90人間七七四年:2009/05/30(土) 04:05:26 ID:QZKbCYPB
ありきたりだが、主君のため、お家のために死ぬことが美徳とされていたからこそ、
そういう話がいっぱい残っているんだろうね。

91人間七七四年:2009/05/30(土) 09:03:16 ID:9tb1HuI9
使う側と使われる側の需給が一致してたんでしょ

立派に討ち死にすれば、家はきちんと残してくれるし目も掛けてもらえる

討ち死にした者の家の面倒をきちんとみれば、他の者も後のことを気にせずに働いてくれる


儒学に基づく忠義って、戦国期にはどんなふうにとらえられてたんだろ
92人間七七四年:2009/05/30(土) 09:07:55 ID:yDvBVC4n
>>91
「君、君にあらざれば、臣、臣たるべからず」
君主の責務果たせなければ仕える必要なし。

ただし、一族郎党・譜代の場合は別。
これは、一族郎党を含めて一家を成しており、君主を捨てるのは事情によっては
いいけど、血縁を切るのはどうあれいいことじゃあない、という意識から。

ようは、君主や国家よりも、家や一族の方が大事。
93人間七七四年:2009/05/30(土) 13:36:32 ID:ZFzY53G3
う〜ん、そうかな?
そう言うことよりも、めんどくさいから
ってのが真相に近い気がする。
ぶっちゃけ、同じ状況でも生き残る奴は生き残ってるわけで
戦国のめんどくさい人達もめんどくさいことがあって
恥じるべきことと世間が思う事をいちいち弁明しなきゃならん
ってのが、めんどくさくてたまらないから、それなら死んじゃえ!
ってとこじゃないかな。
94人間七七四年:2009/05/30(土) 14:14:36 ID:6uH/++Gm
想像だけでものを言わずに、『看羊録』に、朝鮮の儒学者姜のが武士に対して
「どうしてそんなに命を粗末にするのか」と質問した際の答えがあるから、調べてみれば。

かつて、ちょっと悪い話スレにも出てきたし。
95人間七七四年:2009/05/30(土) 20:46:19 ID:D5Ebu+WX
流れを読まずに話投入。

木村長門守重成のお話

時は慶長19年の暮れ、大阪冬の陣が終わり、一時的に講和なった際のエピソード。

和議にあたり、秀頼の正使に任命された重成は、家康の許に赴いた。

重成が家康本営の奥に通されると、玄関から廊下にかけて、
徳川家譜代の将士が威儀を正して、ずらりと左右に並んでいる。

重成はその真ん中を、まるで誰も見えていないかのように、
目礼のひとつもせず、まっすぐ正面だけを見据えて静かに歩いて行った。

譜代の将士達は、「あれが木村長門守か」「若造のくせに生意気な」「礼儀を知らんのか」
と互いに顔を見合わせては重成の悪口を言い合った。

そして、家康の許まで行き、皆がそれぞれ席に落ち着くと、
互いにあいさつを交わし、家康は講和の誓詞に血判を押し、重成に渡した。
重成は家康の近侍が運んできた誓詞をうやうやしく一礼して受け取ると、
しばらく内容を読んでいたが、最後の部分でふと顔を上げるとこう言った。

「これではご判(血判)の血が薄く、よく見えませんが─」

家康も心の内ではムッとしたかもしれないが、ここは器の大きいところを見せて、
「自分ももういい加減年なので、血も出ぬようになったのだろう」
と誓詞を取り戻し、再度血判を捺し直した。
重成はそれをしっかりと確認した上で、丁寧に礼をし、それを文箱にしまうと、
「では、これで」と席を立った。

そして、今度は左右に並ぶ将士達に向かって丁寧に挨拶すると、
「今日は主君、秀頼公の名代として参りましたので、さいぜんは誠に失礼致しました。
なにとぞお許し下さい」
そう言葉を掛け、しずしずと通っていった。

先程、悪口を言っていた将士達は恥ずかしくなり、返事もできぬ有様。
わずかに、伊奈筑後守忠政が、
「ごあいさつ、いたみいります。さあ、ずっとお通り下さい」
と挨拶した。
重成はそれに丁寧に会釈すると、そのまま玄関を出た。

譜代の将士達は後になって、
「立派なものだ」「四方に使いして君命を辱めず、とはこういう事を言うのだろう」
と、手の平を返すように重成を褒め称えた。
家康もよほど感心したらしく、あとでそばにいた近侍に向かって、
「秀頼はよい家臣を持っているな」とため息をついたという。


花も実もある若武者、木村長門守重成のいい話でした。
96人間七七四年:2009/05/30(土) 20:55:59 ID:uOqOEOo9
>>94
これだな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1286.html
もっともこれは下級武士の話で上級武士、特に昔からの家の家臣は忠誠心が強い的な事も
看羊録に書いてあるけど
97人間七七四年:2009/05/30(土) 21:00:27 ID:rEqSiNFW
>>95
木村重成って、戦前は大阪方の登場人物の中で最も人気があったらしいね。
若くてハンザムでかっこよくて。
98人間七七四年:2009/05/30(土) 21:03:02 ID:uOqOEOo9
>>95
黙々と仕事をこなす理想のサラリーマン像だなぁ
奥さんも美人らしいし
99人間七七四年:2009/05/30(土) 22:03:55 ID:yK28vNTm
>>97
腐女子の餌にされるのも時間の問題だ
100人間七七四年:2009/05/30(土) 22:08:45 ID:5aMBW6hb
理想化された侍像を絵に描いた様な生涯だもんな、そりゃ人気出るわ
101人間七七四年:2009/05/30(土) 22:27:23 ID:eQXk3Naq
家康がすぐに腹を召したがったり、有楽が信忠に腹を召せと進言したりしたところを見ると、
当時の武士というか、名のある武将はいかにして死ぬかということにこだわっていたのではないかな。
どうせ死ぬのであれば見苦しい死に方だけは名誉のためにもできない、と。

負け戦でも大将は自分から率先して逃げるわけにもいかず、誰かが馬の向きを変えて尻を叩いて走らせればOKというのも似たものかもしれない。
102人間七七四年:2009/05/30(土) 22:57:58 ID:COQuia02
>>95
生まれてくるのが遅かったな。
秀吉時代なら知行の方ももう少しよかっただろうに。
103人間七七四年:2009/05/30(土) 23:04:54 ID:OjkfXRGm
親父の木村重茲の淀18万石が秀次事件でパアになっちゃったからなぁ
104人間七七四年:2009/05/30(土) 23:38:59 ID:tPAJtzxF
重成が18万石の太守として大阪の陣に望んでいたら戦況は・・・変わらんか
105人間七七四年:2009/05/30(土) 23:41:16 ID:YfA8UCry
>103
槍の穂先が赤かったパパですね・・
106人間七七四年:2009/05/31(日) 00:14:49 ID:HYXlm1Hy
成瀬正成が領主になってから、領内では善政が敷かれたので、
良民達は正成を尊敬していたという。領内には米屋八郎兵衛
という代々裕福だった商人がいた。ところがある時、八郎兵衛
が自首してきたことがあった。八郎兵衛は自分の罪を語った。

「私の家は米の商いをしてきましたが、実は二つの升で不正を
して裕福になったのです。ですが、貴方様が良い政治をなさって
いるのに、不正を隠していることが恥ずかしくなりました。洗い
ざらいお話いたしますので、私を裁いてくださいませ」

八郎兵衛は自分の不正を告白して裁きを仰いだ。だが正成はこういった。

「自首したのだから裁く必要はあるまい。その代わりにこれから
七年間、これまでとは逆に売る際に大きな升を、買う際に小ささな
升を使用するのだ。そして米以外に呉服なども売るようにせよ」

八郎兵衛は大変喜んで、正成の言う通りにした。すると値段の
安さが評判となり、他領の人々が八郎兵衛のところにやって来る
ようになって、さらに繁盛したという。
107人間七七四年:2009/05/31(日) 00:16:16 ID:HYXlm1Hy
>>106
ちなみに犬山城主の頃の話
108人間七七四年:2009/05/31(日) 00:22:42 ID:FZ1o9+kl
そういえば成瀬氏って、正成の時代から明治維新までずっと犬山の領主なんだよね。
109人間七七四年:2009/05/31(日) 00:33:46 ID:E+zu+jNv
5年前までは成瀬家が城主だったぜ
110人間七七四年:2009/05/31(日) 04:00:51 ID:HrM2JrzO
ちょっといい話の番外編
481 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 23:52:57 ID:CsR+iQIB
あー、和み話では無いけど、なんとなく書いてみる。

ちょっとした縁で知り合った外国人(在住3年、たしかアメリカ人)の話だが。
そいつは戦国武将とか侍が好きで、好きなゲームは信長の野望。
それまで特に接点も無かったんだけど、ある日突然話しかけてきた。

俺の家は一応某武家の血筋で、時代錯誤な言い方をすれば「本家」ってやつなんだが、
誰から聞いたか知らんが
「キミは○○家の長だって聞いたんだけが」
って言われたんで

「ああ、うん。そんな大げさなものじゃないんだけど」

って言ったら、

「ちょうどいい、君に見せたいものがあるんだ」

ってウキウキ顔で言ってきた。

で、急かされるままそいつの席へ行くと、ノーパソを開きはじめるそいつ。
スリーブ状態のノーパソが復帰すると、ゲーム画面。
「今君の一族の悲願を達成したところなんだ」
って自信満々に肩をポムって叩かれた。
見てみると確かに全国統一を成し遂げた俺のご先祖様。
「パラメータが低くてね、苦労したよ」

なぁ、お前大学で何やってんの。
111人間七七四年:2009/05/31(日) 04:04:06 ID:TQQlnIqE
なんか良い奴だなw
112人間七七四年:2009/05/31(日) 04:20:11 ID:Og8WOI7n
一応気にしてるんだなw
これがユダヤ人とかだとシャレにならなくなる
113人間七七四年:2009/05/31(日) 04:31:59 ID:juRNul7X
最後のジョークがアメリカ人っぽくていいねw
114人間七七四年:2009/05/31(日) 04:56:49 ID:INuGMrf2
どの大名家だろ。
一条?今川?姉さん?
115人間七七四年:2009/05/31(日) 07:48:35 ID:RrCpjAUV
こういうのは調べないのが花なんだよ
116人間七七四年:2009/05/31(日) 08:43:30 ID:w2dwVapx
>>110
俺宮崎なんだけどまず伊東で始めて挫折しちゃうだよね。
117人間七七四年:2009/05/31(日) 09:56:54 ID:vcgMUuJF
直感で佐竹が浮かんだ
118人間七七四年:2009/05/31(日) 10:22:31 ID:vlXyVQl2
こと烈風伝においてはパラより武将数だからなあ。
119人間七七四年:2009/05/31(日) 11:54:47 ID:r9VIr1Vf
そういう細かいことを尋ねる時は、名前欄に「本多正純」と入れるんだ
120人間七七四年:2009/05/31(日) 12:24:13 ID:+PLSIJWI
だが断る
121人間七七四年:2009/05/31(日) 12:35:46 ID:wv8EnQgs
信長の野望で天下統一って事は大名なんかな?
覇王伝以降は知らないけど。
122人間七七四年:2009/05/31(日) 12:37:23 ID:yP0PCmat
確か犬山城って成瀬氏が財団作ってそこに権利?を移譲したんだよな
犬山市民にゃいまだに殿様扱いなんだろ成瀬家
123人間七七四年:2009/05/31(日) 12:54:04 ID:9Kpyss/H
さすがに個人じゃ維持管理が難しくなったのかねえ
124人間七七四年:2009/05/31(日) 18:26:27 ID:/aWdo2RJ
犬山城は個人所有だったおかげで
天守に余計な手が加えられずに現存しているのはあり難いことだ。
バリアフリーも何もあったもんじゃないからけっこう危険だけど。
125人間七七四年:2009/05/31(日) 19:16:10 ID:XLfgrJCt
昔々、江戸の町に清兵衛という正直者の屑屋がいた。この清兵衛がある日、長屋裏で
浪人・千代田卜斎に小汚い仏像を押し付けられ、結局ニ百文で引き受けた。
タメ息ついて重い仏像を担いで行ったが、世の中奇特な人がいるもので、細川家臣の
高木佐久左衛門という若侍が三百文で買い取ってくれた。

数日後、清兵衛は再び高木に呼び止められた。
「実は、仏像を磨いておったら底が外れ、中から五十両もの金子が出てきてのぅ。
これは由緒正しい家が没落して、隠し金の事を知らずに売ったのだろう。
わしは仏像を買ったので、金子を買ったのではない。この金子は売り主に返してくれ。」

清兵衛は正直に五十両を浪人・卜斎に届けたが、こちらも
「売ったものは、もはや自分の物ではない。中から何が出ようと、わしは知らん。」
と、受け取らない。困った清兵衛が大家に相談すると、
「高木へ二十両、卜斎へ二十両、清兵衛に手間賃で十両」という案を出してくれた。

この和解案を高木は承知してくれたが、卜斎は納得しない。
「何と言おうと、売り賃以上の金をもらう謂われは無いわ。」
「じゃあ、別の物を渡して、その売り賃ということにしましょう。それなら、もらった事には
なりませんよ。」
ようやく納得した卜斎、普段使っている茶渋で汚れた茶碗を手放し、二十両を受け取った。

この話、のちに高木の殿様・細川三斎の耳に入った。
「近ごろ聞かぬ美談である。どれ、その茶碗とやら、見せてみよ。」
高木が薄汚れた茶碗を三斎に見せると、利休の弟子の目の色は変わった。
「これは…!唐渡りの『井戸茶碗』ではないか!三百両出そう、オレが買い取る!!」

大金を前に、高木は困った。清兵衛も困った。とりあえず前と同様に百五十両を卜斎へ
届けたが、卜斎も困った。
「もう渡す者も、ないのぅ……聞けば、高木殿は気骨ある士のようで、独身であるという。
ここは、わが娘を嫁に差し上げ、結納という事でなら金を受け取るがどうか?」

さっそく清兵衛は、高木に縁談を話した。高木も乗り気になった。
「…という訳で、娘さんも良い方のようなんで、結婚しちゃいましょうよ。
今でこそ貧乏でヒドい身なりですが、ありゃ磨けば光りますよゲヘヘヘ」
「磨けば…?いや磨くのはやめよう、また金が出るといかん。」


長々と続けましたが、故・三代志ん朝の十八番、おあとがよろしいようで…
えっ?「落語じゃねーか」って?
それが現存してるんですよ、大名物・銘『細川井戸』。しかも重文。

ttp://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/display/2008/spring.html
まあ、「目黒のサンマ」が家光のお忍びの事だと言われてるように
「元ネタになった話があった」ぐらいに考えとくとホッコリできるかも知れません(´ー`)
126人間七七四年:2009/05/31(日) 19:24:24 ID:vlXyVQl2
ホッコリしたw
127人間七七四年:2009/05/31(日) 19:25:43 ID:gIZrJFZX
ニヤリとしたわw

忠興の反応もぽくていいw
128人間七七四年:2009/05/31(日) 19:36:41 ID:OYV/pwyr
すっげえwwと思うのと同時にめんどくせえww
それにしても文化人モードの忠興さんはまともだw
129人間七七四年:2009/05/31(日) 20:15:53 ID:Vf4ah8qT
>千代田卜斎に小汚い仏像を押し付けられ
酷い奴かと思いきや卜斎いい人でホッとした
130人間七七四年:2009/05/31(日) 21:54:11 ID:Z1AZwq1R
スレタイ通り「ちょっといい」話だな
131人間七七四年:2009/05/31(日) 23:45:36 ID:dcWIvk+d
>>125
ゲヒ殿がアップを始めました
132人間七七四年:2009/06/01(月) 00:36:28 ID:ucpZlkpY
ちょっと前に四国の武将が話題になったが、全然話題にならなかった
蜂須賀家政のお話。

家政公がある家来を加増したのだが、それから三、四日後に家政が
駕籠に乗っている時に、中からさらに加増の記帳をして家来に与えた。
ところが家来はまだ最初に加増された時のお礼をしていなかった。
おかしいなと思った家来は家老に

「某は加増されたばかりで、お礼の言上もしておりませぬ。
にも関わらず、本日加増されたのは何かの間違いなのでしょうか?」

と聞いた。そこで家老が家政にこの事を伝えたところ家政は

「実は最初は百五十石与えるつもりだったのだが、いろいろ考えて
一旦、百石だけ与えたのだ。だが駕籠の中で人間一寸先は闇だと
思ってな。今、残り五十石を与えないと、どこかで何かが起こって
わしの考えがそのままになるやもしれんと思い、急に記帳を書いたわけだ」

と述べたという。
133人間七七四年:2009/06/01(月) 00:43:36 ID:/viHrcZ/
狸さんは計算しすぎだなw
134人間七七四年:2009/06/01(月) 01:04:20 ID:RCEit5EI
>>132
蜂須賀一党も人間味あるっていうか、面白い逸話残すねぇ……

足利家の末裔たる平島公方を下級藩士みたいな禄で生干しにしてたのは
豊家恩顧の大名家だから徳川家に対してポーズとる必要があったのか、
小六正勝さん以来、足利将軍家や室町バクーフと機内政権に深刻な恨みでもあったんかしら。
135人間七七四年:2009/06/01(月) 02:48:13 ID:m1DIgFai
義晴の系統が嫡流として残ってるんだから、政権争いにやぶれた平島を厚遇する必要もないでしょ

古河と小弓のほうは合体しちゃったんだっけか?
136人間七七四年:2009/06/01(月) 02:52:35 ID:SwEwTieu
駕籠の中が暗くて一寸先は闇って…なわけないか。
それにしても後々のことを考えてるとは名君だったんだな
137人間七七四年:2009/06/01(月) 08:10:34 ID:Y1u4FJ4J
>>125
三歳様の評価がものごっつ上がったぞw

千代田卜斎は登用されたりしなかったのだろうか…
138人間七七四年:2009/06/01(月) 08:44:01 ID:NPP9iZTU
三百両のお宝茶碗を普段使いして茶渋で汚していた卜斎こそ真のかぶき者
139人間七七四年:2009/06/01(月) 10:28:48 ID:RCEit5EI
>138
三斎が他の高弟よりかたくなに守ったていう利休流の「わび」に通ずるかもね。素っ気なく
140人間七七四年:2009/06/01(月) 14:39:43 ID:+Zg28uec
卜斎こそなにものだよって感じだなw
141人間七七四年:2009/06/01(月) 14:57:08 ID:eR9TiRZy
実は逃げ延びた光秀だったよ説
142人間七七四年:2009/06/01(月) 18:18:49 ID:Sx/AKoxe
実は感動した三斎が嘘をついて褒美を与えたよ説
143人間七七四年:2009/06/01(月) 18:23:34 ID:8Zqb1tq2
実は三百両どころか六百両は下らない名品で
後に六百両で伊達家に渡り真っ二つにされ
現存する細川井戸は慌てた伊達家家臣が作った偽物説
144人間七七四年:2009/06/01(月) 18:36:46 ID:AU0QYPye
実はレプリカで
「本物を割った人は三斎さんが井戸に沈めましたよ」
という意味で名付けられた説
145人間七七四年:2009/06/01(月) 20:06:21 ID:lNRHHzFI
>>141-144
調度いいくらいにちょっといい話なのに四天王クラスの話にしたいのか(笑
146人間七七四年:2009/06/01(月) 22:35:34 ID:RLKeOabC
足利義政の奉公衆(将軍直轄軍)に、東常縁と言う人がいた。
彼は美濃国郡上郡、山田庄を領する国人であったが、関東における鎌倉公方足利成氏と
関東管領上杉房顕の戦い、享徳の乱の勃発により、幕府の命により関東管領の支援の為
関東へと派遣された。

さて、この常縁が関東の戦乱に飛び回っている中、都において、応仁の乱が勃発する。
その戦乱は美濃へも飛び火し、東軍方であった常縁の所領は、西軍の美濃守護代
斉藤妙椿の軍勢に、攻め取られてしまった。

派遣先の関東でこの報を聞いた常縁は驚き嘆いた。

「承久の乱の軍功で拝領して以来二百五十年、山田庄は一度も他人の手に渡らなかったのに、
今遠い関東において、我が領地落城を聞くとは!」

常縁はこの嘆きを歌にし、ともに関東に派遣された同僚の浜春利にそれを送った。


 『あるがうちに かかる世をしも見たりけり 人の昔のなおも恋しき』


常縁の東家は、先祖の重胤が鎌倉三代将軍実朝の近臣であり、実朝とともに、歌聖、藤原定家に
歌を学んで以来、歌の上手の家として知られており、常縁もまた、多くの大名を歌の弟子にするほどの
名人であった。

この歌に春利は感心し、京にいる兄の康慶にこれを書いて送った。
するとこの歌、康慶を経て京の文化人の間でたちまち評判となり、関東で13年間も苦労しながら
所領を横領された常縁に、同情が集まった。

さて、その横領した斉藤妙椿、彼もまた文化人として有名であり、また足利義政の奉公衆として、
常縁の同僚ですらあった。
妙椿もこの歌を知り、その内容に心を痛めた。そこで康慶にこう伝えた
「同じ歌道に親しむ身として、非道な事はできない。にす常縁殿が私の為に歌を詠んでくれるのなら、
奪った領地はお返ししよう。」

これを春利を通じて聞いた常縁、早速に歌を詠んだ。しかも十首も。

 『堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ』
 『いかばかり 歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを』
 『かたはかり 残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道』
 『思ひやる 心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら』
 『たよりなき 身をあき風の音ながら さても恋しきふるさとの春』
 『さらにまた たのむに知りぬうかりしは 行末とをき契りなりけり』
 『木の葉ちる 秋の思ひにあら玉の はるに忘るるいろを見せなむ』
 『君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし』
 『みよし野に なく雁がねといざさらば ひたふるに今君によりこむ』
 『吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを 』

これに感動した妙椿は

 『言の葉に 君か心はみづくきの 行すゑとをらば 跡はたがはじ』
(あなたの誠意は良くわかりました。今後もそのお気持ちが変わらないのなら、領地は返還しましょう)

そう、歌を返した。
そうして、領地横領の翌、文明元年、将軍の許しを得て京に戻った常縁は、妙椿と対面し、
無事、領地を返還された。


戦国の始まりの頃、歌で領地を取り戻したお話。
147人間七七四年:2009/06/01(月) 22:43:00 ID:/viHrcZ/
>>146
これまだ未出だっけ
戦国Xファイルにあった記憶はあるんだが
148人間七七四年:2009/06/01(月) 22:52:47 ID:RLKeOabC
>>147
東常縁で検索した限りではなかったので、おそらく未出かと。
149人間七七四年:2009/06/01(月) 23:28:29 ID:r46mTe6N
ひ孫は自身で内ヶ島さんと一緒に埋まってしまうんだよなぁ
150人間七七四年:2009/06/02(火) 00:13:56 ID:Oz31NCG9
長篠の戦いは多くの死者を出した激戦であった。徳川家康は散っていった
武田の兵士たちを心から悼んで、その骸を集め、塚を築いて彼らを手厚く葬った。
敵と味方で大小の塚が築かれ、人々は武田信玄父子にちなんで信玄塚と名付けた。

しかし、長篠の戦いの翌月、信玄塚から大きな蜂がむらがり出て、通行する
者を刺すようになり、村人たちの間で「死者たちが祟っている」と噂になった。

噂を知った家康は大恩寺の演誉上人に法要を依頼した。そして七月二十一日、
多くの僧が集まって盛大な法要が営まれたという。

この出来事こそ、今日まで長篠にて七月におこなわれている火踊りの
起源であると伝える。
151人間七七四年:2009/06/02(火) 00:21:00 ID:QKjZcQc9
>>150
mms://info.manabi.pref.aichi.jp/10003066/shingen08_bb.wmv
mms://info.manabi.pref.aichi.jp/10003066/shingen09_bb.wmv

これはまた激しい祭りだな
152人間七七四年:2009/06/02(火) 00:25:02 ID:qjirmVFn
演誉上人に信玄塚の法要を進言した。
153人間七七四年:2009/06/02(火) 00:37:51 ID:eO0lTGft
帰雲城の内ヶ島さんは外国人に地震の何たるかを教えるのにぴったりな素材だよな
所在不明&埋蔵金でインパクト大
154人間七七四年:2009/06/02(火) 01:22:12 ID:ICE+oGJa
>146
本領である下総東庄の紛争を鎮めてるときのことじゃなかったかしらん
155人間七七四年:2009/06/02(火) 01:45:56 ID:X2Lj3t70
>>146

( ;∀;) イイハナシダナー
こう言うもののふのあはれが廃れてそのうち
武者は犬とも言え、畜生とも言え勝つことが本にて候
に変遷していくのかと思うと
平家物語で号泣していた天徳寺宝衍とか既に時代遅れな人だったんだな
156人間七七四年:2009/06/02(火) 04:31:53 ID:GkvZZPbZ
>>155
武者が負ければ女子供が泣くというのも道理だから、
朝倉宗滴が間違っているとも思えない・・・というかこの話にその喩えは合わない気がする。
歌で返して貰える場合なら朝倉宗滴だってわざわざ血を流さないだろう。
157人間七七四年:2009/06/02(火) 10:14:55 ID:e4cDV2ky
常縁さんにとっては、武力よりも歌力のほうが威力があったわけだ。
自分の得意な力を使って勝ったんだから、見事な武士だよ。
158人間七七四年:2009/06/02(火) 10:52:57 ID:j6RLhA0S
一方、薩摩には物騒な歌で敵を追い返した人が。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1754.html
159人間七七四年:2009/06/02(火) 10:56:36 ID:p1dnaOyE
細川三歳さまの御父君も和歌の才能で関ヶ原を生き抜いたしな
それも常縁さんがいなかったらどうなってたことやら…

常縁さん…古今伝授の家柄のお人です
160人間七七四年:2009/06/02(火) 11:27:33 ID:xtVNuhza
一方信長の御父君は連歌仲間を(ry
161人間七七四年:2009/06/02(火) 11:34:15 ID:e4cDV2ky
一方信長の子孫に歌の才能はなかった。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090602-00000041-spn-spo
162人間七七四年:2009/06/02(火) 11:51:30 ID:GUiGxxFV
これは酷い・・・
才能が無いとか以前にホトトギス関係ねーじゃん
163人間七七四年:2009/06/02(火) 12:23:07 ID:v8WaqQ/f
ネタになるような事をなかなか言わないから、鳴かぬか鳴かぬかとメディアがおしかける、というのを自らをホトトギスに例えた良い歌じゃない。
164人間七七四年:2009/06/02(火) 13:22:57 ID:dy6Ss0K5
泣かぬって全部誤植か?
大丈夫か校閲
165人間七七四年:2009/06/02(火) 13:24:13 ID:ICE+oGJa
そういえば光秀の子孫って女優がいなかったっけ?
166人間七七四年:2009/06/02(火) 15:03:38 ID:F7WFupiA
>>164
スポニチだし
167人間七七四年:2009/06/02(火) 15:22:25 ID:kI8zW9tY
>>165
長宗我部の子孫と言うAV女優もいた
168人間七七四年:2009/06/02(火) 15:37:57 ID:LhM5RaUX
信成は比叡山には慰霊に行かないのか?
169人間七七四年:2009/06/02(火) 19:32:35 ID:QLUqGWwT
信長子孫の会みたいのは入って無いらしいから
そういう機会も無いかもね
170人間七七四年:2009/06/02(火) 20:55:38 ID:c4ZL0o+f
三介殿の子孫だからしょうがない。
171人間七七四年:2009/06/02(火) 21:11:29 ID:1C4a6Y8L
蜂須賀正勝の子孫という女優もいるな。
172人間七七四年:2009/06/02(火) 21:39:19 ID:NpT3qFmn
和歌が出たので氏真の話でも。



ある時、徳川家康と今川氏真が和歌について論じ合っていた。


氏真公曰わく、

「和歌というものは奥深いものです。しかし言葉選びが難しく、なかなかいい物はできません」

と、和歌の難しさを語る。
さて、それに応えて家康公曰わく、

「いや、技法に拘るよりものびのびと思うままに詠むのが良いのではないかな」

と言ったそうな。



一口に歌と言っても、それぞれ見方が違うというお話。


(見方によっては『悪い話』だけど、私は嘗て戦った二人がのんびりと話してる図を想像したので、一応こちらにw)
173人間七七四年:2009/06/02(火) 21:52:12 ID:1C4a6Y8L
氏真と家康は別に仲が悪いわけでもなかったみたいなんで悪い話でもないような。
174人間七七四年:2009/06/02(火) 22:12:50 ID:NpT3qFmn
>>173
個人的には二人が仲良く話してていいな、とも思ったんですけども、見方によっては悪くなるのかな、と思いましたんでw

時期と位置が合うか怪しい話ですが、『あまりに頻繁に氏真が会いに来るから、家康は辟易した』という話もありますし。
ただ、こちらは『なんだかんだで会ってる』みたいな書き方なんで、それはそれで微笑ましいんですけどね。
175人間七七四年:2009/06/02(火) 23:41:36 ID:GUiGxxFV
氏真は信長の前で蹴鞠を披露したりも出来るからな
もはや武門の意地とかを超越して悟りの境地にいると思うね
176人間七七四年:2009/06/02(火) 23:47:14 ID:lgi5mKTB
ときどき氏真という人間が何を考えていたのかよく分からなくなる。

心境を綴った日記でも残しといてくれれば良かったのに。
177人間七七四年:2009/06/02(火) 23:53:19 ID:QKjZcQc9
氏真は父を討った信長よりも、同盟を裏切った武田に一番の恨みを持っていたみたいね。
武田が滅びるとそれまで組織してた今川旧家臣団を解散して、家康なんかに後を託して
京に隠棲してる。その時点で武士としての自分の人生は、一区切りつけたんだろうね。
178人間七七四年:2009/06/02(火) 23:54:39 ID:Xr8dNApv
>>165
明智光秀の子孫で、忠興の子孫でもある政治評論家ならいるぞ。
細川隆一郎(細川忠隆の子孫)
179人間七七四年:2009/06/02(火) 23:56:04 ID:eSRASkSq
歌と蹴鞠の事を考えてたんだろ
六角みたいに積極的に行動してないし
180人間七七四年:2009/06/02(火) 23:59:30 ID:lgi5mKTB
>>177
長篠で内藤さんを討ったのが今川衆から戦闘に参加した朝比奈泰勝なんだってね。

ある意味では一矢報いたのかもしれない。
181人間七七四年:2009/06/03(水) 00:18:52 ID:84gYW3LI
氏真は織田や徳川にはあまり遺恨感じてなかったみたいだしなあ
織田信長が後小町天皇に遊びにおいでよ、プリン(当時は婦凛という当て字)出すからさとやられたとき
喰い方が分からないんだけどと悩んでいたら、俺が教えやるよとやったらしいし(後今川記)

ある意味人なつっこい奴なのかもしれない
182人間七七四年:2009/06/03(水) 00:29:28 ID:GfdJJfXc
>>157
総合歌力演習で自衛官が富士の裾野で歌を詠みあう姿を想像してしまった。
183人間七七四年:2009/06/03(水) 00:34:59 ID:84gYW3LI
今川氏真で面白そうな話ひっかかったから181書いたが、よく調べたら嘘話のようなので、スルーで
184人間七七四年:2009/06/03(水) 00:40:43 ID:CWXHfcge
家康自身は今川流の教育を受けて歌会も事前勉強無しに出席する程だったけど、
詠む歌は下手だったらしい。

でも自分に芸術的才能が無くても割とへっちゃらなのがマゾ体質・・・もとい、
身の程を知る男、家康。
185人間七七四年:2009/06/03(水) 00:45:39 ID:BA9+CdBz
徳川家康が駿府に隠居していた頃、岡崎で大雨が降って矢矧大橋が
流失し、家康が新しい橋を架け直すように指示したことがあった。

すると側近らが「私たちは以前より考えていたのですが、この際
橋を架けるのをおやめになってはいかがですか。というのも、
あの橋はここらでは珍しいほど大きく、費用がかかるでしょう。
それに未だに世は不安定ですから、いざという時には川が天然の
要害となることでしょう。しかし橋があるとそれも台なしです。
ですからこの際、橋は架けずに舟渡しになさっては」と具申した。

だが家康は「何を言うのか。矢矧橋は古くから記録にも記されて
きたもので、日本に知らぬ者はいない。それを費用がかさむからと
いまさら架けるのをやめて、旅人を困らせるようなことを君主が
おこなってはならぬ。費用がどれだけかかろうともよい、早く橋を
架けよ。それから要害というものは人によって、時によって異なる
ものだ。わしが思う要害とは、人々の心を固くすることよ。だから
早々に橋を架けて旅人の苦労を取り除くのだ」と言って側近らの意見
を斥けたという。
186人間七七四年:2009/06/03(水) 00:48:21 ID:q3YkIQph
確かに氏真は日記の類は残してないが
「なかなかに世にも人をも恨むまじ 時にあはぬをを身の咎にして」とか
「悔しともうら山し共思はねど 我世にかはる世の姿かな」
とか歌には結構感情こもってないかな
諦めとか悔しさとか羨望とか達観とか
なんか色々感じる歌だと思う

某氏真小説だと晩年家康にやたら会いにくる氏真にイライラしてるのは本多正純だったな
まあ小説の話なんだけど想像するとちょっと笑えるw
187人間七七四年:2009/06/03(水) 00:49:48 ID:4N7nfaft
後年の家康とは考え方が違うな
188人間七七四年:2009/06/03(水) 00:55:12 ID:drxwjabX
>>187
いや、家康は一貫して交通インフラの整備には積極的だよ。
だいたい、東海道をはじめとした街道の整備は家康がやった事だもの。
189人間七七四年:2009/06/03(水) 01:09:10 ID:tBD3+h5o
ガチバトルしてたライバルより
裏切った元味方のほうが憎い
ってのはわかる気がするなあ。
190人間七七四年:2009/06/03(水) 05:25:38 ID:svbWbhsw
家康も裏切った元親族
191奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/03(水) 06:38:08 ID:SaG6srkl
もとちかぞく。
192人間七七四年:2009/06/03(水) 07:49:44 ID:l/s6CEW5
悪い話スレの「和歌などは公家のやること」発言は
氏真が和歌の話ばかりしてうざかったからキレちゃったのだろうか。
193人間七七四年:2009/06/03(水) 08:10:19 ID:D6bts2az
>>185
>>わしが思う要害とは、人々の心を固くすることよ。だから
>>早々に橋を架けて旅人の苦労を取り除くのだ」と言って側近らの意見

これは甲斐の腐れ坊主の「人は城」に通じるものがあるな
まぁ、神君は信玄に私淑していたというので当然といえば当然かもしれん

194人間七七四年:2009/06/03(水) 08:25:13 ID:+SUpghU4
>185
橋を架けて「人が要害」って言うのは、
松平信綱の逸話として読んだ記憶がある。
江戸時代のテンプレ?
195人間七七四年:2009/06/03(水) 09:47:47 ID:+MhXyQlN
矢矧橋が洪水で破壊された

A.掛け直せ!
 -50D
B.そのままにせよ
 安定度-1
196人間七七四年:2009/06/03(水) 10:18:40 ID:ryv+r5OQ
>>192
誰だって虫の居所が悪いことはあるわな
それが史料に残っちゃうような人は大変だ
197人間七七四年:2009/06/03(水) 10:46:35 ID:o2zoQE2o
>>186
天汝ですね?w>某小説あれは面白いw


でも、鬱陶しいと思いつつも結局会ってしまう家康がかわいいw
198人間七七四年:2009/06/03(水) 12:12:45 ID:naZl3JzA
>>174家康は元祖「海道一の弓取り」今川義元公を尊敬してたっていうからね。
大名としては氏真は頼りないが、逆にいえばギリギリ生きるか殺すかって決着を待たずに済んだ。

旧今川系の家臣も大勢抱えているし、粗末にはできなかったんだろね。
……氏真がチンタラ遊びに来たのを追い返しもならず、お茶したり歌を詠んだりw
199人間七七四年:2009/06/03(水) 13:41:27 ID:t/ynzK92
旧今川に旧武田
小田原征伐後は旧北条の家臣も抱えてるね>家康
うち、さいたまの見沼区だが
近所の寺に初鹿野伝右衛門の墓があるのを知ってちょっとびっくり
この辺りに所領を貰ってたのか
200人間七七四年:2009/06/03(水) 13:43:59 ID:hsX3to0j
>>178
細川隆一郎の娘、細川珠生はキリスト教徒で洗礼名がガラシャ。

って話はここのスレで聞いたのかな?
201人間七七四年:2009/06/03(水) 13:53:33 ID:AldyzVpE
細川の子孫と明智光秀の関係で言えば、
ミリオネアの出題ミスを思い出すな
あれはあれで面白かった
202人間七七四年:2009/06/03(水) 15:02:40 ID:evrM4c0M
>>199
船橋には成瀬正成と之成の墓所宝成寺があるなあ
前をけっこう通るけど入ったことはない

正成はあるらしい、だったかな?
203人間七七四年:2009/06/03(水) 16:54:29 ID:NFHpGtT0
>>199
南蛮人に知行を与えて武士にしたのは家康のみ
どこが保守的やねん

信長や秀吉も「それはないない」を手を横に振るぞ
弥助は良くて中間くらいでしょう
204人間七七四年:2009/06/03(水) 17:33:43 ID:hS/GTPgZ
下のおすすめにサラッと釣板のフライフィッシングスレがあってワロタw
ここの住人なら陣笠被ってテンカラ釣りだろうがjk
折角だし武士と魚釣りの逸話なんか拝読したい
205人間七七四年:2009/06/03(水) 19:21:20 ID:bJd1kyeu
>>199
今夜は対遠江戦ですよ。
206人間七七四年:2009/06/03(水) 19:34:39 ID:kFZH30at
氏真は、徳川配下で城主になったり、晩年は家康の外交官として、京都の公家と交流してたらしいね。
乞食ではなく、家康の保護があったみたい。
207人間七七四年:2009/06/03(水) 20:31:37 ID:AKg57roF
>>204 こんなのはどう?
下野喜連川藩といえば、古河公方足利義氏の裔として、わずか五千石ながらも
その格式は10万石待遇、藩主の位階は四品と諸藩の中でも格別として扱われて
いた。
しかし、それだけに藩の財政は常に火の車だったらしい。
そんな喜連川藩の収入源の一つにこんなのがあった。

喜連川は奥州街道の宿駅の一つで、領内を東北諸藩の大名行列が通る。
大名行列が来ると、喜連川藩の藩主は街道にかかる橋の下にいそいそと釣りを
しに出かけた。
困るのは橋を通る他藩の大名。いくらなんでも位階四品の喜連川藩主の頭の上
を通るわけにはいかない。
そこで、喜連川藩に通行の御挨拶として厚く進物をする。
そのうえでやっと喜連川藩主はどいてくれて、大名行列は橋を通行できた。
仙台藩をはじめとする東北諸藩の贈り物で、喜連川藩の財政はだいぶ潤ったと
いう。

そんな、喜連川藩の要領のいい?話。
208人間七七四年:2009/06/03(水) 21:39:45 ID:y3rC+KK5
高家も大変な立場だったんだな
赤穂の殿様に吉良が刃傷沙汰起こされた遠因なのかも
209人間七七四年:2009/06/03(水) 22:45:11 ID:Qtwipxkf
なんかヤクザが因縁つけてしのぎかけてるみたいな光景だなそれ
210人間七七四年:2009/06/03(水) 22:46:17 ID:8ShvzCrO
>>208
喜連川家は高家ではなかった。ちょっと中途半端な立場だけど、
知行5000石の別格外様大名というところ。
参勤交代も免除されていたはず。一応は参勤交代はしていたけど、
江戸にいたのは正月前後の3ヶ月くらいで、年頭の将軍挨拶が終わったら
帰ってしまったそうだ。

赤穂事件の原因に、高家吉良家への賄賂が少なかったと言うが、実際は「指南料」
と思えばいい。簡単に言えば授業料だが、幕府黙認の収入だったとか。
赤穂事件の前にどこかの藩の殿様が浅野と同じく進物をケチったらしくて吉良にいびり抜かれた結果
完全に切れて家老に「明日吉良を斬る!」と言ったところ家老が思いあたるところがあったらしく
追加の進物(小判)を菓子折につめて持っていったら翌日からやさしく教えてもらえたと言う事があったらしい。
吉良の立場からすれば、教えるのに授業料ケチりおってというところだろうか。
211人間七七四年:2009/06/03(水) 23:00:50 ID:tmRGODK4
>>207
日本の官位で四品なんてのは初めて聞いたが四位のことか?
212人間七七四年:2009/06/03(水) 23:03:36 ID:lw31xBD+
賄賂が貰えないと死活問題だったんじゃないかな
高家にとっては
213人間七七四年:2009/06/03(水) 23:30:38 ID:AKg57roF
>>211
一品〜四品は親王などの天皇家の親族に与えられる位階。
(立て前上は天皇家の)家臣に与えられる正一位とか従二位とかより
形式上の位階は上
214人間七七四年:2009/06/04(木) 00:10:08 ID:i79L1FyD
>>207
伊達家に素通りされて藩主がわざわざ江戸城まで出向いて嫌味言ったって話があったな
215人間七七四年:2009/06/04(木) 00:32:23 ID:tW0W5vcz
>>212
たぶん高家の財政は付け届けがなきゃ
あっという間に破綻するだろうね
216奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/04(木) 00:34:03 ID:A+8oriUr
授業料として暗黙のうちの公認だったみたいな。
217人間七七四年:2009/06/04(木) 00:35:56 ID:yAwJ7jzN
四国の逸話が少ないというので千代の話を。

山内一豊が近江唐国の領主になった前後のこと。一豊は秀吉から
築城の目付に任じられた。しかしこの仕事、働く人員に食事を振る舞わない
といけなかった。家計は苦しいが他の目付はちゃんと振る舞っているし
どうしたものかと一豊は悩んでいた。

そこで一豊の妻千代は夫を陰ながら支えようと思い立ち、自分の毛髪を
売って食事代に当てた。当時、髪はかつらやつけ髭の材料として需要があったのである。

髪を売った千代はそれを隠す為に頭に手ぬぐいをしていた。一豊もさすがに
気付いて何故手ぬぐいを巻いてるんだと理由を聞いた。
真相を知った一豊はびっくらこいて何も言えなかったが、千代は「これなら
埃が払いやすいですよ」と気丈に答えたそうな。

ちなみに明智光秀の妻ひろ子にも髪を売った逸話があるそうな。
218人間七七四年:2009/06/04(木) 00:43:46 ID:yAwJ7jzN
もう一つ。

結婚してすぐの山内一家は極貧だったらしく、まな板も買えなかったそうな。
そこで千代は枡を裏返してまな板代わりにしたという。この枡は山内家が
大切に残してきたそうで、裏には包丁の跡があったとか。
藤並神社に奉納されていたが戦災で失われたとのこと。
219人間七七四年:2009/06/04(木) 00:52:06 ID:yAwJ7jzN
最後に。

千代は明からの織物やそれの国産織物の切れを集めてはちまちま縫い合わせて
一つの小袖を仕立てたそうな。

ある日のこと、それを見た客が、千代の小袖が
素晴らしいのでぜひ秀吉様にお見せになってはと勧めた。
千代は謙遜して断ったのだが、客があまり勧めるので思い切って秀吉に
見せてみたところ、
秀吉も小袖の出来に感心したそうな。
220人間七七四年:2009/06/04(木) 00:56:46 ID:TnMV3BIt
>>207
鬼武蔵が東北大名でなくて良かったなw
221人間七七四年:2009/06/04(木) 01:12:01 ID:RkszRPQy
鬼武蔵は居ないがDQN四天王に虚無眼竜はいるという罠
222人間七七四年:2009/06/04(木) 01:12:53 ID:RkszRPQy
変換ミス(汗

鬼武蔵は居ないがDQN眼竜はいるという罠
223人間七七四年:2009/06/04(木) 01:33:04 ID:lknUmM3h
キョム眼竜かわええ
224人間七七四年:2009/06/04(木) 01:39:38 ID:0g6Jrwmf
>221-222
虚無僧コスプレして尺八を吹きながら
「風が語りかけます……」とかいう伊達政宗を妄想してしまったじゃないかw
225奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/04(木) 01:45:44 ID:A+8oriUr
きっと>>221の時点で間違えていないんだと思う。
226人間七七四年:2009/06/04(木) 03:00:15 ID:jgzSxGsa
虚無眼竜格好ええ
邪気眼竜にとか親戚にいそう
227204:2009/06/04(木) 03:19:02 ID:g5QK12tg
>>207
面白かった!ありがとう!
228人間七七四年:2009/06/04(木) 08:54:36 ID:iBKoDCL8
>>217
やっぱいい女だよなぁ
髪は女の命って時代だしここまでされたらがんばらないとって思うわ
山内一豊自身はあまり好きではないけど
229人間七七四年:2009/06/04(木) 09:24:42 ID:KgJji6sq
>>208
実収以上の家格を保たなきゃならんからね、その上有識故実とか典例まで……
指南料だか山吹色の素敵なお菓子でも貰わんとやってられなかったのだな
230人間七七四年:2009/06/04(木) 10:20:57 ID:T5V9Zzno
>>221
政宗は子供のいたずらだけど、武蔵は殺人鬼
231人間七七四年:2009/06/04(木) 11:43:48 ID:RkszRPQy
>>224
「うまい!うますぎる!!」
と続くのですね。
政宗だけに似合いすぎです。
232人間七七四年:2009/06/04(木) 11:45:33 ID:hTMgA4cq
小牧長久手、かの有名な、本多忠勝、家康救援の出撃の折の事である。

忠勝の兵300、秀吉の大群と、堤を一つ隔てただけで並進した。
二町ほどに近づくと、双方互いに向けて発砲を始め、犠牲者も多く出た。
この時忠勝、部隊に命令を発した、

「砲声を聞くごとに、必ず天を仰ぎ見よ!」

部隊の者たち、意味が良くわからないまま、ともかく言われた通りにした。
するとこれを見た豊臣方、「敵が天を仰ぐと言う事は、さては我らの射撃の角度が間違っていて、
銃弾が彼らの頭の上を飛んでいるに違いない!」

そう思い一斉に撃ち方を変えた。そのため忠勝の部隊に、弾丸が当たる事はなかったと言う事である。

本多忠勝の、鉄砲防衛、ちょっとの工夫でこの効果!の巻。
233人間七七四年:2009/06/04(木) 12:01:57 ID:5r6bhACC
>>229
それだったら吉良はストレートに懐が寂しいから指南料よこせといえばいいのにね。
鈍い人は嫌がらせされても性格の悪いやつだと思うだけで気づかないと思う。
234人間七七四年:2009/06/04(木) 13:39:57 ID:FI/jFuiz
>>217-219
さすが千代の旦那の妻
こういう良妻を娶りたいぞ
235人間七七四年:2009/06/04(木) 14:13:59 ID:IEXI3AML
>>233
んな事言ったら次から値切られますって
あくまで建前は 「 提供するサービスに見合った指南料 」 なんだから。
吉良さん、払った分の仕事しかしてないだけだったりするかも
236人間七七四年:2009/06/04(木) 14:50:18 ID:vaD4mwBW
やる夫が吉良邸に討ち入りするようです
ttp://yy700.60.kg/yaruo/kako/1242/12423/1242307473.html
ここらへんで高家についても触れられてるね
237人間七七四年:2009/06/04(木) 15:39:25 ID:3Wei0X+e
>>233>>235
本当はそうだったんじゃないかな。基本的に、勅使饗応役は幕府の公的任務である事だから、
高家が教えるわけであって、失敗したら責任は高家に行くかも知れないが、かといって、
ましてや朝廷の儀礼は本来大名家自らが研究すべき事でもあろうところを指導するわけだから
指導料よこせということになる。

>>234
>さすが千代の旦那の妻
 ↑誰?
238人間七七四年:2009/06/04(木) 16:32:53 ID:0g6Jrwmf
>>237そのまんま千代ですがな。全てまるっとお見通しな美人賢妻 <だが貧乳だったという(嘘)

>234は「山内一豊の妻」じゃなくて「千代の旦那」のが有名だろうという婉曲な皮肉でjは・・・w
239人間七七四年:2009/06/04(木) 16:42:41 ID:9anWS+eg
           __
        , ‐' ´   ``‐、             / ̄:三}
.     /,. -─‐- 、.   ヽ        /   ,.=j
 _,.:_'______ヽ、 .!       ./   _,ノ
  `‐、{ へ  '゙⌒ `!~ヽ. !     /{.  /
    `! し゚  ( ゚j `v‐冫   , '::::::::ヽ、/     そんなことより相撲大会しようぜ!
.    {.l   '⌒      ゙ 6',!   / :::::::::::::::/ __
.     〈  < ´ ̄,フ  .ノー'_ , ‐'´::::::::::::::;/ (_ノ)‐-、
.      ヽ.、 ` ‐", ‐´‐:ラ ':::::::::::::::: ;∠.   ヽ_}  ゙ヽ
        ,.r` "´  /:::::::::::::::::::ィ´  `ゝ  !、  /
     /       / :::::::::::::::: ; '´   /´\ /   r'\
.     i      ! ::::::::::::::/一豊| .!::::::::/ヽ、.._!ヽ. ヽ、
     {      {:::::::::::;:イ /   ‖i:::::::/:::::::::::::/  \
.      ヽ       ヽ,.ァ‐'´ /ヽ 二 ,/`ヽ、::::::::: /
240人間七七四年:2009/06/04(木) 18:22:17 ID:j2ibr27L
なんかあずまんがのちよちゃんで再生したら萌えた
241人間七七四年:2009/06/04(木) 18:52:56 ID:Ixsi4smj
>>231
忍藩の話題なんて誰もわからんぞw
242人間七七四年:2009/06/04(木) 19:29:01 ID:5z9HpFSz
六十二万石最中
243人間七七四年:2009/06/04(木) 20:07:39 ID:PyJnfXUU
>>232ほお〜凄いね、さすが忠勝だ
244人間七七四年:2009/06/04(木) 20:19:50 ID:iBKoDCL8
忠勝っぽくない話ではあるけどなw
245人間七七四年:2009/06/04(木) 21:42:24 ID:TQtMdP3i
忠勝も長篠までは槍一筋に懸ける武者だったけど
山県昌景の死に様を間近で見て合戦後、
今後戦で血が騒ぐ事はないだろう、と侍大将の心得を悟って
後には息子にも身に応じた戦振りを心がけるように言ったそうな
246人間七七四年:2009/06/04(木) 22:09:36 ID:iBKoDCL8
おお、そんな話が
なるほどそれなら納得がいく話ではある…
山県の死になにか思うところがあったのだろうな
247人間七七四年:2009/06/04(木) 23:50:07 ID:Cff5HWD3
今さっきテレビで
「人間は二度死ぬ、一度目は肉体が死んだ時に、
二度目はその人のことを語る人が誰もいなくなった時に」ってやってた。

4、5百年前の武将達が、俺らがこうやって語ることでまだ生きてるんだなって思ったら、ちょっと泣けてきた・・・。
248:2009/06/05(金) 00:10:01 ID:IF+8QPId
>>218 まな板→ >>238の上段
249人間七七四年:2009/06/05(金) 07:59:27 ID:C0o8MuFZ
寝たきり痴呆でやたら手がかかる祖父の介護をしてる身としては、脳みそいかれちまって
かつての人格なくなっちまった時点でジーチャン死んだなーってかんじだな
今はもうジーチャンの形をした世話の焼ける何かだ
250人間七七四年:2009/06/05(金) 08:25:21 ID:bruHXAea
>>249
気持はわかるがそんなこと言うなよ
島津維新斎殿の例もあるように、じいちゃんの魂はどこか奥深いところできっと生きてるさ
251人間七七四年:2009/06/05(金) 09:16:34 ID:iXXm7yn4
老人ホームでタチコマに不発弾を渡すじいさんが頭に浮かんできた
252人間七七四年:2009/06/05(金) 09:51:18 ID:QeP/lTPc
>>249
ホラ貝吹いてみ?
253人間七七四年:2009/06/05(金) 10:46:57 ID:pIzrjADh
>>249
うちのばーちゃんもそんな感じだったんだけどさ
死ぬちょっと前くらいになって突然なんか元気になったんだよ
おれいきなり「ちょっと○○ちゃん」って呼ばれたから
振り向いたらばーちゃん昔みたいに笑っててさ
「いつもありがとうね、○○ちゃんもやりたいことあるのにね」
って言われたんだ
名前呼ばれたのどころかおれだってわかってる風なだって久しぶりだったから
すげーびっくりしたんだけどさ
ばーちゃんそれからちょっとして死んじゃったんだ
ボケた人も心のどこかは昔の自分残ってるんだよ
悲しいこと言うなよ
254人間七七四年:2009/06/05(金) 10:48:54 ID:BOmyUVMV
長野業政が病死し、武田信玄による上野攻めがいよいよ本格化する。
信玄の先手、那和無理之助の手勢200余騎は、秋間山を越え鳥川を渡り、
鷺坂長信の砦を攻め立てた。

この時鷺坂は長野氏の主城、箕輪におり、砦には留守の者たちしかいなかった。
彼らも必死で防戦したが衆寡敵せず、ついに砦を捨て箕輪へと落ち延びていった。

無理之助は砦を放火すると、敗兵を追撃し白岩山に至る。ここで箕輪より、
老将、安藤九郎左衛門、100騎ほどを引きつれ援軍に現れた。

彼は那和勢と激突、3度まで敵を追い崩したが、深入りした所を狙われ終に討ち死にした。
その首を取る折、安藤の直垂の裏より、血に塗れた一首の歌が見つかった。

『老いの身は 何国(いずこ)の土になるとても 君が箕輪に心留まる』

これを見た人々は皆、安藤を感賞しないと言う事はなかったと言う。

長野氏の滅亡が目前に迫った時期の、ある武将の覚悟と忠義、のお話。
255人間七七四年:2009/06/05(金) 12:11:27 ID:djkxJA2z
名は無理の助きた
256人間七七四年:2009/06/05(金) 16:09:56 ID:6pWaMSJG
名和宗安の名前が出るのは珍しいな
那波/那和、またはそのまんま縄とも書いた資料があるみたいね
通称の無理介のとおり、どんな無理でも押し通す頑固で豪傑肌の人物だったとか
257人間七七四年:2009/06/05(金) 16:18:51 ID:HPmoofU/
花沢城の逸話面白いなw 本当武田軍は戦あるたびに歌詠むのなw

無理の助 無理するわけでもないなら 道理の助に改名しろよとかw
258人間七七四年:2009/06/05(金) 18:50:41 ID:csmzm4WV
>>247

それこそ武士の求めた物だろうね

命に限りはあるが、名に限りは無しと…


259人間七七四年:2009/06/05(金) 20:00:19 ID:pLdspAKt
井伊直孝は大坂の陣に際して、配下の老軍師、兵庫に助言を求めた。

「お前は軍略に優れていると聞く。そこで今度の戦について何か
言っておきたいことはないか」

「某は生い先短い老いぼれなので、今度の戦に参加できないこと
が無念でござるが、今まで探究してきた軍略の秘訣を記した書が
ありまする。殿のご参考になれば幸いにござる」

書を受け取った直孝がそれを見てみると、ただ『大将は志を決断
し、迷わず下知あるべし』とあった。

「なるほど道理だ。戦では迷わず決断しよう」

直孝の言葉を聞いた兵庫は

「某は長年探究してきましたが、結論はただこの一言でござる。
曖昧な心構えでは兵の道をなすことはできませぬ。その他に某が
申し上げることはございませぬ。この秘訣をご理解頂けたならば、
こんなものは無用の長物でござる」

そういうと兵庫は直孝の前で書を燃やした。
260人間七七四年:2009/06/05(金) 20:16:14 ID:pLdspAKt
>>259
すいません修正します。

×そういうと兵庫は直孝の前で書を燃やした。
○と言って、直孝の前で書を燃やした。
261人間七七四年:2009/06/05(金) 20:19:53 ID:BOmyUVMV
>>259
決断の重要性、ですなあ。
戦場じゃ将が迷えば下は動かなくなりますもんね。
262佐久間盛政:2009/06/05(金) 20:28:47 ID:EKl9pnGD
やはり戦場では迷わず前進あるのみ、だな。
263人間七七四年:2009/06/05(金) 21:04:24 ID:20CiMaq4
前田利家
「いやいや時には退くことも肝心でござる」
264人間七七四年:2009/06/05(金) 21:12:37 ID:yddTzv9c
梶原景時「いかにもいかにも」
265ビッテンフェルト:2009/06/05(金) 21:38:28 ID:0uGOcOEH
森長可「退いたら斬るからな」
266人間七七四年:2009/06/05(金) 21:48:29 ID:BEKj1sVf
あんたは退く時も喧嘩売りながらやからねwww
267人間七七四年:2009/06/05(金) 21:49:43 ID:BOmyUVMV
天正十五年、九州征伐の時の事である。

堀秀政の陣中において、秀政の近習山下甚五兵衛と言う者、にわかに乱心。
秀政を後ろより斬り付けんとした。

この時、重臣の堀監物は山下の後ろにいたが、これを見てすぐさま刀を抜き
山下を斬りつける。ところが監物の刃が届くその瞬間、

秀政振り向き、監物と同時に山下を切り払った!
そして監物の方を向き、一言。「わしの方が先であったな。」


名人久太郎に油断は無いのだ。
268人間七七四年:2009/06/05(金) 22:14:05 ID:X8Glmb2k
漫画みたいな事するなぁw
269人間七七四年:2009/06/05(金) 22:39:21 ID:4dBy3Jhk
>>253
くそう、泣かされた。
不覚なり。
270人間七七四年:2009/06/05(金) 22:59:35 ID:NRzGseBt
戦国時代の話ではないが、戦国武将の話なのでご容赦を
綱淵謙錠の『幕末に生きる』から「孤独の老武士」
(本ネタは室鳩巣の『駿台雑話』)

天徳時(今の虎ノ門駅近く)という格式ある名刹でのお話。
寛永年間というから1624年〜43年の頃、天徳寺不断院にて
経に聞きほれる一人の老武士がいた。老武士は旅人の
装いであったが、これが縁で不断院で働くようになる。
教養もあり、人格者でもあったため、寺務を取り仕切る
までに信頼された。

年号が正保になり(1644年)さる大名が隠居後の話し相手を
斡旋してくれないかと天徳寺に打診してきた。非常に条件の
良い待遇を約束され、住職は件の老武士を推薦したが、
老武士は
「実は自分は蒲生氏郷の旧家臣、結解某という者でございます。
蒲生家滅亡後は他家に仕える気も無く行き倒れる気持ちで旅を
しておりましたところ、計らずもここ天徳寺でご恩を蒙り、今は
ただそれに報いたいと思うばかりで、新たな主人に仕えとうは
ございません」
と言って断った。そう言って昔、蒲生氏郷からもらった感状や
諸大名からの招き状を披露し「もはや無用のもの」と焼き捨てた。

そして明暦三年(1657年)、あの明暦の大火が起こる。いわゆる
「振袖火事」というやつ。
火の手が天徳寺にも迫り、いよいよ危ないとなると件の結解某、
「それがしにおまかせください!」と他の僧達を立ち退かせ、
下働きの者と貴重な仏典、仏像、日用品まであらかた非難させ、
「これで思い残すことはない」と自分以外の全員を逃がした。

後日、焼け跡には手を合わせ結跏趺坐した姿で黒焦げになった
結解某が見つかったそうな。

死に場所を見失った戦国武士が、運良く殿軍を勤めることができたお話。

この結解某、作者の綱淵謙錠は『氏郷記』の南部征伐(1591年)にて
十一番備(氏郷は十二番備)を勤めた結解十郎兵衛ではないかと
推測している。この時十九であっても、大火の際は八十五ということで
当時としてはかなりの長寿。

でも実は更に興味深いことに綱淵謙錠はこの結解十郎兵衛の名を
『氏郷記』でしか見つけられなかったと書いているが
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%B7%EB%B2%F2
我等が「いい話」スレの中にも登場しているのである。
1568年の氏郷初陣の際に種村伝左衛門と共に氏郷の父、
蒲生賢秀から「剛の者」として近習を申し付けられているのだ。

この時、齢19で大抜擢されたのだとしても、没年108歳と北条幻庵よりも
10年以上長生きしたモンスターということになってしまうが、
とりあえず蒲生家に信頼された結解家という忠臣が居たのは
間違いない。

長文スマソ
271人間七七四年:2009/06/05(金) 23:13:46 ID:BORV6J1V
常識的に考えるなら、一族内の誰か、かな。
十郎兵衛という名なら、同名者が一族内にいてもおかしくないと思う。
272人間七七四年:2009/06/05(金) 23:17:17 ID:BOmyUVMV
>>270
( ;∀;)イイハナシダナー

しかし、あの綱淵謙錠が見つけられなかった結解十郎兵衛も、
ググルと結構出てくるね。

ネット社会ってすごいな。
273人間七七四年:2009/06/05(金) 23:23:48 ID:KZmFhkui
>>258
犬ともいえ 畜生ともいえ 武者は勝つ事が本にて候
274人間七七四年:2009/06/05(金) 23:39:32 ID:NRzGseBt
>>272
ホントだねえ。

奥村桐之丞
実名不詳。初め北条家臣。小田原攻めで蒲生氏郷の家臣、結解十之丞の槍を合わせ、
十之丞の股を突いた。(「叢記」)

結解ファミリーの一員か、同一人物なのか分からんがこんなのもあった。

ちょっと見ただけで
・六角氏に従っていた蒲生賢秀の下、浅井攻め(1560)
 結解十郎兵衛が浅井の将、百々を討ち取る。
・氏郷の初陣vs北畠(1568)
 結解十郎兵衛が氏郷を見失って叱られた。
・上の小田原攻め(1590)
 結解十之丞が奥村桐之丞に指された。
・南部征伐で十一番備え(1591)
 結解十郎兵衛

と、同一人物ではないだろうが、これだけ長く蒲生家の下で結解さんの
戦場での働きが残っているのだから、武門の誉ある家だったんだろうな。
代々仕えた(と思われる)主君が滅んで後の太平の世での心情には
計り知れないものがあっただろうな。
明暦の大火の修羅場の中に死に場所を見出せたのはこの上ない
喜びだったのかも知れないね。
275人間七七四年:2009/06/05(金) 23:48:04 ID:BOmyUVMV
>>274
おそらく結解家の当主が代々十郎兵衛を名乗っていたのでしょうね。

しかし蒲生家は、新参取立ての家臣の事は多く記録に残っているけど、こういう譜代の人は
いまひとつ地味な印象ですな。
276人間七七四年:2009/06/06(土) 00:05:28 ID:73zAIf80
堀秀政の同僚なのに、人気も知名度も負けてる長谷川秀一の逸話。

長谷川秀一は朝鮮で戦っていた。ある時、関白秀次が丹羽五平次を
陣中見舞いの使者に立てた。とくに木村常陸介は沢山の品を頂き、
書状も他の者より丁寧であった。嬉しくてたまらない木村は秀一に
「この書状をご覧あれ。関白様は私を気にかけておられる」と自慢した。

しかし秀一はどうでもいい感じである。彼はやがて口を開いて
「俺は日本に戻っても秀次様にお会いするのが嫌だ。朝鮮で戦って
いる連中はいつか秀次様の家来になるというのに、昨年三月の出陣
から今まで、一度として言葉をかけてくれたことはない。秀次様は
天下を治めるに値するお方なのだろうか。

貴殿が秀次様に御恩を感じておられるのなら、丹羽とともに賜った
品を皆に分け与えて、『長陣、ご苦労様』と声をかけてやること
ですな」と忠告した。

「うっ、確かに長谷川殿の仰る通りかもしれん」はたと気付いた
木村は忠告に従った。これがうまくいったようで、武将達は秀次に
返礼の手紙をしたためたという。秀一の忠告によって多くの武将が
秀次への思いを強めたことだろう。
277人間七七四年:2009/06/06(土) 00:31:09 ID:Q3G8HWV7
>>276
これはいい話になるのか?
だって木村常陸介って秀次に連座して・・・
278人間七七四年:2009/06/06(土) 00:33:16 ID:9ifeAUDT
>>277
この逸話の当時なら間違いなくいい話だろw

しかし長谷川さんも、上司運が無いというかなんというか。
279人間七七四年:2009/06/06(土) 09:42:42 ID:fB2PPNVz
>>278
俺もこいつの下は嫌だなて上司について働いてるよ。先行き思いやられるよ。だらだら働いてルートは覚えない運転は下手な上にスピード狂。月のノルマも(後延々愚痴
280人間七七四年:2009/06/06(土) 10:29:24 ID:P8/hlqzS
殿を操ってこそ家臣よ
281人間七七四年:2009/06/06(土) 11:51:01 ID:16D7ure3
君君たらずといえども臣臣たらざるべからず、と申すではござらぬか!

(`・ω・´)9m
282人間七七四年:2009/06/06(土) 12:29:02 ID:ReLEG+Mq
>>281
それは朱子学の悪い部分を強く受け継いだ朝鮮儒教な考え方じゃね?
三度諫めても聞いて貰えないなら泣いて従えってやつ。

日本では陽明学のほうが好まれるところが大きいから、
三度諫めても聞いて貰えないなら、そこを去れ。もしくは下剋上
283人間七七四年:2009/06/06(土) 12:49:24 ID:9ifeAUDT
儒学の広まった江戸期でも、ダメな殿様には家臣が平然と、押し込め、強制引退とか
させるしねえ。
284人間七七四年:2009/06/06(土) 12:49:26 ID:8/JoWbCp
学問なんてツールにすぎんのだから、どちらをとったってイインダヨ
285人間七七四年:2009/06/06(土) 13:46:36 ID:zbDxasFo
御当家の御武運もこれまででござるな( ゚д゚)、ペッ
って言い捨てて城に鉄砲撃ちかけて退転するのが正しい戦国武士だよね!
286人間七七四年:2009/06/06(土) 16:46:55 ID:9ifeAUDT
武田家において、ある時土屋昌続が高坂弾正に尋ねた

「武を勤めるのは武士の職分と言いますが、家臣たちに、武道に励め、と言うと
喧嘩ばかりするようになり、作法を良くせよと言えば、武道をおろそかにして
武士の職分を果たしません。これはどういう風にすればいいのでしょう?」

高坂、これを聞いて
「それは、各々が腰に差している刀、脇差のようにせよ、と言えばよいのです。」

土屋、しかしその意味が良くわからない
「それは一体どういうことなのでしょうか?」

「刀や脇差を磨いで、これを差しているのは人を斬る為です。
ですが、常に鞘に入れていなければ差す事ができません。

人を斬るものだからと言って、抜き身のままで差せば、差す人の身も傷付け、
刀脇差も錆びて使い物にならなくなります。
だからと言って刃を付けない刀を差しても、それは人を斬る事も出来ないなまくらですよね。
磨いで刃をつけて鞘に入れて、それで初めて刀、脇差と言うものは、携帯する
武器として機能するのです。

武士の家の者だからといって、武道を嗜み過ぎて喧嘩ばかりするのは、刀を抜き身で差すのと
同じ事、そして武道に無関心になるのは、刃を磨いでいないなまくら刀と同じ事。

よって、家臣たちに武士としての職分を解らせるには、腰に指す刀、脇差のようにせよ、
と言えばよいのです。」

高坂弾正の、武士の本質を表した言葉。
287人間七七四年:2009/06/06(土) 17:09:37 ID:Qr8f4+ty
>>286
あー・・・これはいい話
288人間七七四年:2009/06/06(土) 17:30:35 ID:YpT5Vg9c
そして当人は御館様の鞘に(ry
289人間七七四年:2009/06/06(土) 19:28:11 ID:Ka/ZyZ4f
誰が上手いこと言えと(ry
290人間七七四年:2009/06/06(土) 20:19:33 ID:meSztt4X
元百姓とは思えない。すごい。
291人間七七四年:2009/06/06(土) 20:27:41 ID:1arl4rj9
>>288
鞘を普通にタコと読んで???となってしまった_| ̄|○
疲れてるのか俺・・・・
292人間七七四年:2009/06/06(土) 20:36:53 ID:ILf2CHGn
武士が喧嘩で一度刀を抜いたら殺すか殺されるかのどっちか
それを仲裁に入られるようでは武道の心得がなっとらんから
両方成敗する法律あったよね 本当武士は半端ないぜ
293人間七七四年:2009/06/06(土) 20:39:46 ID:DxhpNy4A
>>290
百姓といっても地侍クラスだったんじゃねえの?
秀吉みたいに。
294人間七七四年:2009/06/06(土) 20:44:27 ID:WZhg0q3z
>>291
               l^丶
               |  '゙''"'''゙ y-―, あ ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう    
               ミ ´ ∀ `  ,:'     
             (丶    (丶 ミ   いあ    いあ
          ((    ミ        ;':  ハ,_,ハ   ハ,_,ハ
              ;:        ミ  ';´∀`';  ';´∀`';, ,
              `:;       ,:'  c  c.ミ' c  c.ミ  
               U"゙'''~"^'丶)   u''゙"J   u''゙"J

            /^l
     ,―-y'"'~"゙´  |   それ  るるいえ うがふなぐる ふたぐん
     ヽ  ´ ∀ `  ゙':
     ミ  .,/)   、/)    いあ    いあ
     ゙,   "'   ´''ミ   ハ,_,ハ    ハ,_,ハ
  ((  ミ       ;:'  ,:' ´∀`';  ,:' ´∀`';
      ';      彡  :: っ ,っ  :: っ ,っ
      (/~"゙''´~"U    ι''"゙''u   ι''"゙''u
295人間七七四年:2009/06/06(土) 22:03:59 ID:1arl4rj9
>>294
ちょw邪神召喚すなww
でもちょっと元気になった自分は変だ。ありがと。
296人間七七四年:2009/06/06(土) 22:43:16 ID:c8lfJZtv
高坂の出自は諸説あるが、夜に掘ったり掘られたりの農耕作業が得意だから百姓で合ってるだろう。
297人間七七四年:2009/06/07(日) 00:01:56 ID:Y7ss74og
武士だろうが百姓だろうが男は死狂い
みんな頑張ろうぜ!!
298人間七七四年:2009/06/07(日) 00:03:48 ID:9id80Ibe
>>296
ここは大喜利をする場所ではござらぬw
299人間七七四年:2009/06/07(日) 00:56:07 ID:vp+uov0f
瀬戸内百姓
300人間七七四年:2009/06/07(日) 01:06:07 ID:JSepw3CN
>>297
一瞬男狂いにみえたw
流れ的にまちがってないしw
301人間七七四年:2009/06/07(日) 03:15:56 ID:068Sws0v
>>288
>>296
座布団1枚ずつやろうw
302人間七七四年:2009/06/07(日) 04:48:42 ID:ASupsDAk
えぇい、出会え出会えい!!
303奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/07(日) 05:20:31 ID:Xsy0d/Wa
むしろお前らもちつけ。
士農が分かれていない時代なんだから。
304人間七七四年:2009/06/07(日) 08:59:46 ID:gWPlt4mh
逃げ弾正もお屋形様からは逃げ切れなかったのか
305人間七七四年:2009/06/07(日) 11:42:31 ID:fWGlKJgZ
武田信玄死す。この報を知った徳川家康は次のように言った。

「惜しい武将が亡くなった。信玄のごとき弓矢の道に優れる
大将は古今東西、そうそういるものではない。私は若年の時分
より武田信玄のような武将になりたいと理想に思ってきた。
つまり信玄は私に弓矢の道を教えた師のような存在というわけだ。
私は本気でそう思っておる。だからお前たち家臣もそのつもり
でいてほしい。武士ならば、例え敵であろうと立派な武将の死を
悼むべきである。

隣国に強大な敵がいれば、我々は自然と武道に励み、政治も慎重
になって失敗も少なくなる。したがって信玄という存在が我々を
緊張させ、徳川長久の基ともなったといえる。隣国に強敵が
いなければ、弓矢の道に疎くなって次第に弱体化してしまうであろう。
信玄のごとき敵の死は決して喜ぶことではないのだ」

家康は信玄に徹底的に負かされたばかりだったが、信玄の死を残念
がった。家臣たちは家康の言葉に従い、皆が信玄の死を惜しんだという。
306人間七七四年:2009/06/07(日) 12:39:11 ID:Rd706nr/
長篠後ですら武田に苛められてたのにずいぶんと余裕だな
307人間七七四年:2009/06/07(日) 13:02:23 ID:068Sws0v
なるほど、この言によれば松平清康という名将の存在が織田信秀を鍛え上げ、彈正家の発展につながったということになるな…

の割には信玄隣国の今川氏真はw
308人間七七四年:2009/06/07(日) 13:20:10 ID:lovt8kya
海道一の弓取りにとっては信玄なんて敵じゃなかったってことだな
309人間七七四年:2009/06/07(日) 16:34:37 ID:SkO2N33S
本音半分、ハッタリ半分
310人間七七四年:2009/06/07(日) 16:56:12 ID:ktA8cixI
>>307
単に居候中の外祖父とその息子及び曾祖母の弟の子孫に外交と謀略で引っかき回されただけだろ?
能力自体は結構高しやった政治も評価できるぞ氏真
311人間七七四年:2009/06/07(日) 17:09:31 ID:LhH90SpX
しかみ像なんて描かせるくらいだから 並みの武将じゃねぇよな 
どういう精神構造してるんだが感嘆するよ 達観してるっていうか
312人間七七四年:2009/06/07(日) 18:08:02 ID:Vlh5fWLY
氏真など同盟国という恩恵で胡坐かいてただけのボンボンだろ
瞬殺されて当然
313人間七七四年:2009/06/07(日) 18:19:09 ID:zVpVj5wa
小田原の役の時の事である。

榊原康政はその家臣伊藤顔助の部隊を大磯の切通しに置き、小田原に出入りの者を
防いでいた。
ある時、下総の住人山岸主税介が、小田原に入るためここを通り抜けようとしたが、
この部隊に補足され、強く抵抗したものの、終に生捕りにされた。

この山岸は家康の元より秀吉に使わされ、その尋問を受けたが、その後再び徳川に返された。

家康はこの山岸に、「お前の命は助ける。今後はわしの味方に属せよ。」と、声をかけた。

が、山岸はこれに「自分は北条氏に恩があり、どうしても小田原城に入りたいのです!」
もはや北条の敗北は、誰の目にも明らかであった。だが山岸はこの期に及んでもなお、
小田原に味方したいのだ、と言う。

家康はこれに「お主一人くらいが新たに籠城しても、もはや何ほどの事も無いぞ?」と言ったが、
それを許し、山岸を解放した。

こうして小田原城に入った山岸であったが、山岸が体の数ヶ所に傷を負っている事を、
城中の者たちが不信だと言い出し、「山岸は敵にたぶらかされたのだ」と、終に彼を捕え、
牢に入れてしまった。

さて、北条氏が降伏すると、小田原城は榊原康政らが、受け取りに入った。
確認の為伊藤顔介が城内を見回っていると、牢でかつて生捕った山岸に、ばったりと出くわした。
伊藤ははすぐに主君康政に報告をし、これを聞いた康政は、彼をすぐに牢から出し、
二百石を与え家臣とした。

後に山岸の武勇を知った結城秀康が、彼を千石を持って招こうとしたが、
榊原家が彼を牢から出しただけではなく、取り立ててくれた事を恩に感じていたため、
これを受けず、さらには榊原家からの加増も受け付けず、一生を小知のまま仕えた
とのことである。

損得や利害よりも、恩義を第一にした、とある侍のお話。
314人間七七四年:2009/06/07(日) 18:28:43 ID:Y7ss74og
>>311
とにかく諦めないし、本質的に他人に屈服することがないんだよな。
環境や状況には従うんだけど、心から服従することを絶対にしないみたいな。
今川義元、武田信玄、織田信長に対してもそこは一貫してる。
315人間七七四年:2009/06/07(日) 19:14:53 ID:0UTPcw9Y
>>312
義元の尾張侵攻での無理な動員、並びに桶狭間で軍の中核層失って領国大混乱だからなぁ。
おまけに勝頼以上に戦力立て直すだけの時間与えられていなかったから、その辺は考慮してやらないと。
316人間七七四年:2009/06/07(日) 19:23:30 ID:PkRYRF/7
似たようなのは芦名、伊東、龍造寺、大友だな
決戦で重臣失って崩壊パターン
…改めて見ると島津は敵将殺し過ぎだな
317人間七七四年:2009/06/07(日) 19:58:09 ID:AUKIz4WM
三方を包囲されただけでそんなに不利になるもんなんだろうか?
飛び道具は今ほど発達してないし一方に逃げ道は一応あるのに
318人間七七四年:2009/06/07(日) 20:08:08 ID:Y7/HsJfG
>>313
恩義が第一って今ではあまり考えられないよね
だから戦国が好きなんだけどもw
319人間七七四年:2009/06/07(日) 20:39:20 ID:+McHS2Yi
戦国時代だって希有な例でしょ。
あれだけ豊臣に恩のある加藤福島も加増目当てで寝返ってるわけだし。
320人間七七四年:2009/06/07(日) 20:56:13 ID:gupgLlL9
氏真最高や!
メンチなんか最初からいらんかったんや!
321人間七七四年:2009/06/07(日) 20:58:37 ID:SnBXnNYR
阪神の助っ人外国人に言及するのはやめていただきたい
322人間七七四年:2009/06/07(日) 21:22:44 ID:Btw+0NHI
>>317
いや普通に不利ですがな。
三方を囲まれていると言う事は、当然3方向に目を向けなければならない訳で、
その場合、平時ですら国境警備やらで金かかるのに、戦時では最悪3方向からの侵攻に備えなければいけないわけで。
それを打破するんだったら、侵攻をはじき返すだけの軍事力とそれを支える経済力を備えないといけないわけだから、
如何に至難の業かはご理解頂けると思うんだけど。

特に今川や武田みたいに、重臣・中堅層が壊滅してしまった場合、
国内大混乱→国内鎮圧あるいは外敵からの防衛の為に、生き残った連中動員→生き残った連中の負担増大→負担に耐え切れず離反→最終的に内部崩壊
の負のスパイラルに突入してしまうケースになってしまうから尚更ね。
323人間七七四年:2009/06/07(日) 22:22:21 ID:wi19T3Gv
>>319
関ヶ原は徳川対豊臣の構図ではないし加増云々は関係ないよ
324人間七七四年:2009/06/07(日) 22:36:07 ID:Rd706nr/
いやアレは本音ではさすがにみんな家康による政権奪取だってのはわかってたでしょ
というか徳川についた連中が建前信じてると考えるのは
逆に彼らの能力を過小評価してるということになるでしょ
325人間七七四年:2009/06/07(日) 22:39:13 ID:zVpVj5wa
>>324
政権奪取というか、あの当時家康は既に政権そのものだったからね。
豊臣家の名の下の、家康の執権体制と言うものを支持するかしないか、って所だろうね。
326人間七七四年:2009/06/07(日) 22:41:12 ID:wi19T3Gv
>>324
まあそれはあるよね
ただ寝返ると言うと反対側についたら豊臣終了しないみたいな雰囲気だから
語弊があるかなあと思って
327人間七七四年:2009/06/07(日) 22:48:53 ID:ktA8cixI
関ヶ原は、むしろ現執権徳川家康と五奉行石田三成の政権争い程度でねえ?
んで西軍は徳川死んでくれれば自分にも天下を狙えるとか思った連中が付いて、
東軍は、今のままの流れで政権委譲が平和りに進むことを狙ってたとか。
(ただでさえ朝鮮出兵で予算がぎりぎりだから金のかかる戦なんてやりたくない位の思惑で)
328人間七七四年:2009/06/07(日) 23:09:50 ID:VU7XK3zK
家康が豊臣政権の中枢を担うことと、新たに徳川政権を築くことは別じゃねぇか?
関ヶ原前後は、徳川が豊臣を潰すなんて思ってなかったやつもいるんじゃね?
329人間七七四年:2009/06/07(日) 23:12:26 ID:zVpVj5wa
まあこれ以上はこっちでしましょう

【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ13【東軍】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1214108230/
330人間七七四年:2009/06/08(月) 00:02:15 ID:69KbnAO1
>>311
今川家での教育がよかったのかな。
将来の今川家を担う重鎮として期待されてたのだろう。
331人間七七四年:2009/06/08(月) 00:08:28 ID:nTOkAnad
>>313
ここまでくると立派な偏屈だなw
知に働けば角が立つ情に竿させば流される

意地を通せば窮屈だ!
332人間七七四年:2009/06/08(月) 00:46:33 ID:sYIvx5Sf
夏目漱石って生粋の江戸っ子だけど、メンタリティはご先祖様の三河武士
そのままだよな。

いや、生粋の江戸っ子だからこそそうなるんだな。
333人間七七四年:2009/06/08(月) 08:41:28 ID:X+1hYAdk
坊っちゃん冒頭の、子供の頃同級生に弱虫呼ばわりされて
校舎の2階から飛び降りたくだりなんかそうだな。
334人間七七四年:2009/06/08(月) 08:42:36 ID:5kcttrwA
めんどくさい遺伝子は明治にも滅ばなかったんだな。
335人間七七四年:2009/06/08(月) 13:30:44 ID:P4hiK0IA
>>331
……だがそれが(・ω・´)イイ!!

意地を立て通すのも武士の華ってね。
336:2009/06/08(月) 19:52:41 ID:BC0vr46K
>331-334 >>23-26
337人間七七四年:2009/06/08(月) 19:57:17 ID:KL0xxXjL
秀吉の大阪城天守の位置が鬼門に当たる。この事をある者が、秀吉に言上したことがあった。
これに秀吉答えるに

「天下の鬼門は日本の丑寅である。大阪一箇所の鬼門など、我に当たる鬼門では無いわ!」


秀吉の気宇の大きさがよく出た話。
338人間七七四年:2009/06/08(月) 20:20:15 ID:MgUtiwXW
>>337
しかし、大坂冬の陣に大砲の目標にされ和議を余儀なくされる
そういう意味では天下を失った後の豊臣家に、大坂城の鬼門にある天守は大いに祟ったと言えよう
339人間七七四年:2009/06/08(月) 21:48:30 ID:VagOeplQ
そりゃまあ、秀吉領の鬼門方向に勢力張ってた柴田を鎧袖一触だったしなあ。
その前は鬼門方向から攻めてくる朝倉相手に殿やって名を挙げたし。
鬼門とか言われても笑い飛ばすしかないだろうな。
340人間七七四年:2009/06/09(火) 13:53:54 ID:PttN1fTh
加藤嘉明は武士が仕える心がけに付いて、常にこのように言っていたそうだ。

「武士は、常に不巧者のつもりでいるべきだ。そうしておけば、仕えそこなうと言う事は無い。
巧者のように振舞えば、必ず失敗をするものだ。

不巧者であると思えば巧者に尋ね、知恵が無いと思えば知者に頼る。
こうすれば不巧者も巧者と同じになり、知恵の無いものも知者と一緒になる。

自分の巧や知を誇り我を立てれば、高慢に陥るものなのだ。」

たたき上げの苦労人、加藤嘉明らしい言葉である。
341人間七七四年:2009/06/09(火) 17:01:41 ID:0jBVc/7E
>>340

>自分の巧や知を誇り我を立てれば、高慢に陥るものなのだ
まさにこいつが塙さんで、仕え損なうわけだな・・・何故か納得したw
342人間七七四年:2009/06/09(火) 20:03:30 ID:EgGF1ZR6
>>337-339

鬼門なんてものはさすがの豊国大明神には通用しないが
ただの人間である息子や側室程度じゃ駄目なんだなw
ラスボスすげぇwww
343人間七七四年:2009/06/09(火) 21:17:58 ID:mB4i2aZh
淀城って大坂から見てキ・モ・ン
344人間七七四年:2009/06/09(火) 21:44:37 ID:6osbC5i8
大坂の陣後、前田利常は戦死した者達を宝円寺で追悼した。
利常は各人の位牌を作って死者の冥福を祈った。また利常は遺族を
連れ回り、優しく悔やみの言葉をかけ、自ら香を焚いて涙を浮かべて悲しんだ。
この事を見た者も聞いた者も誰もが、このお方のためなら命など惜しいものか、と言ったという。
345人間七七四年:2009/06/09(火) 21:46:13 ID:Zl78R+sL
さすが鼻毛だな
346人間七七四年:2009/06/09(火) 21:47:42 ID:a1CWhmw2
さすが金玉見せびらかしだな
347人間七七四年:2009/06/09(火) 22:08:07 ID:Zl78R+sL
さすが蛇責めだなって書くと悪い話になっちゃうからやめとこう
348人間七七四年:2009/06/09(火) 23:33:23 ID:49Ug6RmU
>>345-347
ないす流れw
349人間七七四年:2009/06/10(水) 00:39:01 ID:dR/1w8cX
小松姫の関ヶ原

あまりに有名な話なのだが、まとめサイトで独立しては書かれていなかったので、記録の為に。
ご存知、戦国日本最凶・・・ではなかった最強の鬼嫁としてその名を日本全国に轟かす小松姫。
義父に戦国謀略横綱(東の正横綱)真田昌幸、義弟にKY赤備え真田信繁、そして亭主は

戦国一胃痛の似合う男、真田信之(この頃は信幸)である。

会津攻めと言う事で義父義弟と亭主は出征して小松姫は沼田はお留守番だった。(そりゃそうである。)
さて、その頃犬伏(栃木県小山市あたり)では亭主と義父と義弟はあの有名な犬伏の別れとなってしまった。
当然義父と義弟は上田へ帰るのだが、途中には沼田がある。寄っていこうと考えるわな。『いろんな意味で』
ところが亭主の信幸は使者を走らせて状況を先に沼田に知らせていたようである。
昌幸が沼田へ到着し孫の顔を見たいから城に入れてくれと言ったところ。門から出てきたのは、
お留守番の完全武装の小松姫を総大将とする完全武装した留守居役と侍女達。
既に殺る気満々の姿だったのだ。そして小松は舅の昌幸に対してこう言った。

小松姫「もう敵味方の間柄になった故、大殿と言えども門をあけるわけには参りませぬ !」

昌幸もこうなれば退散するしかなかった。仕方ないので城の近くの寺で休憩を取ったところ。
今度は、沼田から小松姫が孫2人を連れてやってきた。孫の顔を見たいという昌幸の願いを
かなえるためにである。ただし、寺のまわりには・・・・

護衛兵という名の監視部隊が昌幸達の動向を監視していたのだ。

これには昌幸も参ったらしく曰く

昌幸「さすがは本多忠勝の娘。武家の妻女はこうあるべきじゃ 。」

と感心したとか。謀略に対して筋で勝利した小松姫の格好いい話でした。
ちなみに昌幸唯一の敗北だそうである。(関ヶ原までは上田城を保っている。)

もう一つ付け加えると、小松姫は本多忠勝と側室の間の娘だそうで、
その母上の名は、「乙女」という事だそうである。
350人間七七四年:2009/06/10(水) 00:53:11 ID:3MYY9TVA
>>349
実名わかってるのレアだな
351人間七七四年:2009/06/10(水) 02:16:06 ID:QmBjbvXs
あ、これまだ出てなかったんだw
352人間七七四年:2009/06/10(水) 04:20:33 ID:BjrBxrYA
古老の語った事である。

ある時、佐々木大膳大夫なる者が狩猟に出、出雲から伯耆へと越えた。
そこは人跡も稀で、清流の流れた場所であったが、その川で、一人の美女が
裸で泳いでいるのが見えた。

彼は思わずそこに近づくと、川端の石に衣がかかっているのを見つけた。蝉の羽のように美しく
軽い衣であった。佐々木はこれを懐に入れ、近くの麻畑の中に隠れた。

さて、美女が川より上がれば、衣がなくなっている。驚きと恥ずかしさに泣いていると、
そこに佐々木が偶然のように出て行き、「あなたは誰ですか?」と尋ねた。

女は言う、「私は天女です。天よりこの水の清らかさを見て、下って浴泳していたのですが、
今衣を失い天に帰る術をなくし、どうして良いかわからず泣いていたのです。」

これに佐々木、「それは仕方が無い。ともかく私に付いてきてください」と、着替えに持ってきた
帷子を着せ、連れて帰った。やがて二人は夫婦となり、子が誕生した。
この子は後に、経久と名乗った。

この時佐々木は、彼女も子の母となり、もはや天上に帰る望みも無いだろうと考え、
かつて衣を隠した事を告白した。

彼女はそれを聞き、懐かしそうに「その衣を見せて欲しい」と言うので、取り出して渡したところ、
たちまち空へと飛び上がり、「あなたとの今生の対面はこれまでです。どうかその子を
良く育ててください。私はその子を天より守ります。」そう言うと。雲の中へと消えた。

佐々木はこれを大いに悔やみ、嘆き悲しんだ。

残された子は、成長するとその名字の佐々木を改め、天子(あまこ)とした。
「天人の子」と言う意味である。その後ある人から、天子の字は帝に恐れ多い、と言われ、
これを「尼子」の字に変えた。

そう、この天女の子こそ、戦国初期の驍勇、尼子経久なのである。

出雲に伝わると言う、尼子経久出生の伝説。
353人間七七四年:2009/06/10(水) 05:44:32 ID:QxidjHu1
>>352
雪女の話に似てるなぁ
354奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/10(水) 06:16:21 ID:IsnGr2O4
むしろ羽衣伝説近江版。
355男は黙って…(一):2009/06/10(水) 10:59:40 ID:unU+lH2q
小田原攻めの功で大名になった加藤嘉明が新しく召抱えた侍の中に、無口な男がいた。
地味な男で、織田信雄に殺された三家老の一人、岡田長門守に仕えていたという事以外
家中の誰も彼の人となりを知らなかった。

ある時、加藤家の者が連れ立って熱田へ参拝した際、徳川家の一行と同じ船に乗った。
しばらくすると、徳川家臣の方から話しかけて来た。
「失礼、加藤左馬介殿のご家来衆とお見受けしたが?」
「いかにも。」
「おお、やはり!では、ご家中に須藤太左衛門というお人は、おられるかな?」
「そんな名の者がおった気はするが、それが何か?」

「ナニかも何も当家では、須藤殿を鬼神のように言っておりますぞ!?
かつて当家は、ここから程近い星崎城を攻めた事がござるが、その時の城方の一番槍が
須藤殿でござった。
しかもその後、立て続けに三人と槍を合わせ、三人目は堀へ突き落とす武者振り。
二人目に槍を合わせた鈴木与八郎などは、現在その功で出世しているほどですぞ。」
「それはおかしい!!」

加藤家の者は、みな驚いた。大声を上げて前に進み出たのは、あの無口な男だった。

「その鈴木殿とやら、槍を合わせた際、口臭が殊の外悪うござった。
あのような身だしなみ悪きお人、とても高禄を取ること、成りますまい。」
「そう、それそれ!鈴木は筋目正しき者なれど、日頃だらしないと評判でしてなぁ。」

「一度に三人の相手をした上、敵の口臭にまで気づく余裕を保ち、それを誇らぬとは…」
加藤家で静かな勇士・須藤太左衛門を称えぬ者は無かったという。
356男は黙って…(二):2009/06/10(水) 11:00:22 ID:unU+lH2q
田市郎兵衛は浪人して困窮していた所を、寺沢広高に四百石で拾われた。
黒田長政などはこれを惜しみ、「三千石出そう、ウチに来い!」と市郎兵衛を誘ったが、彼は
「拙者、ほとんど飢え死にせん時、寺沢家に招かれて命を拾いました。
禄の大小で、その恩を忘れられましょうや?」と、これを断った。

業を煮やした長政は、市郎兵衛の主君・広高に直談判に及んだ。
長政の執着を不審に思った広高は、理由を長政に尋ねた。

「おや、当人から聞いておられぬか?かの市郎兵衛、首供養を成し遂げた武辺者ですぞ!

しかも、ある戦で殿軍を引き受けた際、負傷者の助けを求める声に応じ、自分の馬に
これを乗せて、馬の口を取って退こうとした。
当然、敵が数人ばかり追いかけて来たが、市郎兵衛がそのうち一人を、ただ一突きで
突き伏せると、誰も追って来なくなり、彼は見事に自陣へ帰り着いた。

負傷者など放っても苦しからぬものを助けたばかりか、冷静に敵をさばき、殿軍をやって
のけるなど、並の武者では出来ぬ技。三千石出して、何が惜しかろうか?」

驚いた広高は、早速に市郎兵衛を呼びつけた。
「なぜ、己の功を誇らぬ?当家で三千石出しても良いのだぞ?」
市郎兵衛は答えた。
「実は、負傷者を救う気などありませんでした。しかし、拙者より後に退く者がいて、これを
助けて帰れば、拙者の評判が落ちると思い直し、仕方なく助けて帰ったまでにござる。」

「今どき、何と飾らぬ男よ・・・」
長政は市郎兵衛の引き抜きをあきらめたが、後々まで彼を称えた。
357男は黙って…(三):2009/06/10(水) 11:01:19 ID:unU+lH2q
徳川家康がある戦の時、坂部三十郎広勝と久世三四郎広宣に物見を命じた。

「お請けいたす!!」
坂部は叫ぶや、すぐに馬にまたがり、颯爽と飛び出して行った。
対する久世は、黙ってモゾモゾとしており、家康の御前を立ちかねているようにさえ見え、
やっとの事で出て行った。家康の近習は、二人について話し合った。
「坂部の武者振りは、見事!それに引き換え久世はなんじゃ、臆したのか?」

これを聞いた家康は、機嫌悪く吐き出した。
「汝ら、何も分かっておらぬな・・・!
坂部は生れつき胆が太く、敵を何とも思っておらんだけよ。対して久世は、努力して
武者働きしており、常に生きて帰らぬ覚悟である故、臆して見えるだけよ。

今に見よ、生れつきのカンで働く坂部より、久世の方が良い働きをして戻るであろう。」

はたして、久世の方が坂部より敵陣深く進み、詳しく調べ上げて戻って来た。



己の能力や武功を誇らず渋く光った彼らに習い、オレも口を閉じるとします。
358正純:2009/06/10(水) 12:48:06 ID:JUxDi5tR
して、彼らはその功にていかほどの褒美を頂いたのですか?
359人間七七四年:2009/06/10(水) 16:35:04 ID:kGLd0ODZ
>>358
だーかーらーアンタと違って出世とか評価とかかまわない人の話だってw

マジレスすると>>357の久世さんは子供の代で老中になったはず
360人間七七四年:2009/06/10(水) 18:23:19 ID:0yx3GKfb
宮崎羽衣伝説
・「指輪は全部鉄で出来ているので錆びる。鉄をおしゃれに言うとシルバー」と自信を持って言い切る。
・タイ料理(特に生春巻き)が大好きで、行きつけのタイ料理屋では「生春巻きの子」と呼ばれる。
・城や時代劇が大好き。また、理想のデートは城めぐりらしい。
361人間七七四年:2009/06/10(水) 19:01:32 ID:E3senSL1
>>360
節子、それ うい や
362人間七七四年:2009/06/10(水) 19:34:32 ID:KhZPRoc1
ある時、足利義政は不思議な夢を見た。何者かが義政の前に現れたのだ。
「あっ、父上!?」なんと義政の前に現れたのは父義教であった。

義教は束帯姿で、義政に「義政よ。今、私は生前に犯した数多の罪によって
苦しんでおる。だが私は善行だってやってきた。きっと生まれ変わっても
また将軍となるであろう。どうか飢饉に苦しむ民に施してやってほしい。
そうしてくれれば、地獄にいる私の苦しむも少しは和らぐことだろう・・・」
とお願いした。

やがて目を覚ました義政はすぐに家臣を呼び出して、父の願い通り
人々に施すよう指示したという。
363人間七七四年:2009/06/10(水) 20:09:47 ID:MPKWOIw+
>>362
義教たんって、義政が赤ん坊のころに死んでるよな、と思ってみないでもないw
364人間七七四年:2009/06/10(水) 21:27:06 ID:KhZPRoc1
>>362
すいませんよく調べたら義教が名乗ったのか義政が顔を覚えてたのか
よくわからなかったんで
>「あっ、父上!?」
の部分はまとめに載せないでください。
365人間七七四年:2009/06/10(水) 21:33:49 ID:E3senSL1
ばんにん☆きょーふ♪
366人間七七四年:2009/06/10(水) 22:16:54 ID:gX1B4/Ov
>>362
それって源氏物語にも同じエピソードがあった気がする
あっちは皇族だけど
367人間七七四年:2009/06/10(水) 22:45:04 ID:nX9652oZ
>>362

ちょっと補足


義政は100貫文を寄進して六角堂で施行させたんだがうまく行かず
その月の内に鴨河原・油小路への死体処理作業に変更されたそうな。
ちなみにこの期間中も花御所の移転作業は中断されてないな。
建物の移転だけで軽く2000貫文以上かかったといわれてる・・・・

368人間七七四年:2009/06/10(水) 23:02:23 ID:fHLG/uhQ
>>366
アレは源氏の兄=朱雀帝が弟を須磨流しにしたのをくよくよ悩んでいたら、
兄弟のおとんが夢に出てきて兄貴がノイローゼになり、弟を呼び戻したっつう話だな。
でもあれはそもそも弟が兄貴の彼女とヤッちゃって失脚したから…
兄貴カワイソス
369人間七七四年:2009/06/10(水) 23:31:16 ID:qqPw39EI
源氏物語って…詳しく読んだ事無いけど色々とアレだな…
370人間七七四年:2009/06/10(水) 23:33:37 ID:QmBjbvXs
日本最古の腐女子の書き下ろした伝説の作品だからね。
371人間七七四年:2009/06/10(水) 23:39:48 ID:uCUthbzH
平安の腐女子ぱねえ
まともなのは更級日記くらいだな
372人間七七四年:2009/06/10(水) 23:47:52 ID:fHLG/uhQ
そんなこと言うけど、
信長は謙信に源氏物語屏風をプレゼント。
秀吉は身辺が落ち着くと源氏の勉強を開始し、書写。
家康は大坂城から脱出した女房に源氏を語らせる。

とまあ、三傑だって教養として学んでいたわけだから。
上杉謙信、細川幽斎、豊臣秀次、最上義光あたりも源氏マニア。
義光は嫁さんのために、源氏絵巻をオーダーした記録がある。
373人間七七四年:2009/06/10(水) 23:47:53 ID:ODRGedSr
紫式部=ハーレクイン系腐女子
和泉式部=女流エロポエム作家
清少納言=バブリー系辛口エッセイスト
菅原タカスエの娘=文科系女子エッセイ

こんな感じ?
374人間七七四年:2009/06/10(水) 23:49:59 ID:SMC8sFs7
>>362



     戦     国     時     代     じ     ゃ     な     い     件     に     つ     い     て



375人間七七四年:2009/06/10(水) 23:50:41 ID:FCXAL6Fj
き、紀貫之は?
376人間七七四年:2009/06/10(水) 23:54:03 ID:fHLG/uhQ
  .ト│|、                                |
. {、l 、ト! \            /     ,ヘ                 |
  i. ゙、 iヽ          /  /  / ヽ            │
.  lヽミ ゝ`‐、_   __,. ‐´  /  ,.イ   \ ヽ            |
  `‐、ヽ.ゝ、_    _,,.. ‐'´  //l , ‐'´, ‐'`‐、\        |
  ヽ、.三 ミニ、_ ___ _,. ‐'´//-─=====-、ヾ       /ヽ
        ,.‐'´ `''‐- 、._ヽ   /.i ∠,. -─;==:- 、ゝ‐;----// ヾ.、
       [ |、!  /' ̄r'bゝ}二. {`´ '´__ (_Y_),. |.r-'‐┬‐l l⌒ | }
        ゙l |`} ..:ヽ--゙‐´リ ̄ヽd、 ''''   ̄ ̄  |l   !ニ! !⌒ //
.         i.! l .:::::     ソ;;:..  ヽ、._     _,ノ'     ゞ)ノ./
         ` ー==--‐'´(__,.   ..、  ̄ ̄ ̄      i/‐'/
          i       .:::ト、  ̄ ´            l、_/::|
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             ヽ     ー‐==:ニニニ⊃          !::   ト、
            ヽ     、__,,..             /:;;:   .!; \
             ヽ      :::::::::::           /:::;;::  /  

ちなみに戦国一番の文化人武将、細川幽斎は
「おまえらは源氏や伊勢をエロだなんだいうけど間違っている…
あれは理想の政治論を説いているんだよ!」
「な、なんだってー」
という解釈を残した。
応仁の乱以降の乱世では、王朝文学は平和の象徴として尊ばれたという。
おまえらもエロだのハーレクインだの言わないで、幽斎先生を見習うんだw
377人間七七四年:2009/06/11(木) 00:00:54 ID:kuVrewpV
アマテラスは引きこもり、紫式部は腐女子、清少納言はブログ女、紀貫之はネカマ、
乙姫はツンデレ、七福神はスーパーロボット大戦、聖武天皇は収集ヲタで正倉院はヲタ部屋、
病草紙はふたなり、後白河法皇は最新流行の追っかけ、古今和歌集はまとめサイト、
とりかへばや物語はエロゲ、秀吉はコスプレじじぃ、狂言は第一次お笑いブーム、
鎌倉末期は新興宗教ブーム、戦国の茶道は萌え喫茶ブーム。
江戸期に入るとエロパロ二次創作がこれでもかってぐらい溢れかえっている。

事の良し悪しは置いといて、日本人は伝統的に変態遺伝子を受け継いでいるのは事実だ。
外国人から指摘されたとしても悪びれる必要はない。堂々と千年変態だと答えればいい。
378人間七七四年:2009/06/11(木) 00:00:56 ID:rftit2wc
女の振りして日記書いてたのがいたけど
あれはネカマの走りなのかな。
379人間七七四年:2009/06/11(木) 01:10:44 ID:Ziges3dB
これはとある武士の話。その男は旗差物をしていたのだが、
それには『一歩も退かず』と記されていた。

ところがこの男、敗戦につい戦場を離れてしまう。
男はやがて川に辿り着き、喉の渇きを潤そうとした。
その時、水面に何かが映った。一歩も退かず。まさしく男の旗差物の字である。

その字が男に勇気を与えた。奮い立った男はとって返した。
そして男は敵陣に突撃し、遂に討たれたのだった。
380人間七七四年:2009/06/11(木) 05:23:14 ID:R044yyAy
>>378
紀貫之「土佐日記」

冒頭いきなり「男のすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」
        (男がしているという日記とかいうのを、女の私もやってみようと思ってしてみた)

文の確認がてらwikipediaみたら、
女になって書く、というよりも仮名遣いで書くというのが主体だったという説が載っていた。
(当時仮名遣いは女性が文章を書く時に使用し、男性は漢文体だったらしい)
381人間七七四年:2009/06/11(木) 08:58:16 ID:bmYWLVkH
漢字が苦手じゃったのじゃな
382人間七七四年:2009/06/11(木) 09:08:35 ID:vm07Zbyo
>>380
みんなわかっててTSモノとか言ってるのかと思ってた
わかってなかったのか
383人間七七四年:2009/06/11(木) 10:39:27 ID:sQyzlCeU
やっと国風が見直されてきた時期だから、仮名っておもしろいよね、和歌っていいよね
と主張したかったんかな
384人間七七四年:2009/06/11(木) 10:40:40 ID:zlROmY7C
>379
名は残ってんの。
385人間七七四年:2009/06/11(木) 14:01:51 ID:Fnx+0oNk
朝おんスレかと思ったじゃまいかお前ら
386人間七七四年:2009/06/11(木) 14:33:51 ID:zclZgAqJ
>>340
加藤嘉明は、元々家康の家来で、三河一向一揆で浪人しなければ三河譜代だったのにね。
徳川の天下になってからは、その点が不利になってる。
387人間七七四年:2009/06/11(木) 14:35:48 ID:zclZgAqJ
>>344
ハナゲ結んだ状態で葬式で泣くのかな?
388人間七七四年:2009/06/11(木) 19:18:57 ID:GVVwokCp
まとめサイトみたら、七難八苦の人が出てないようなので書いておく。

尼子家中で勇士と名高かった山中鹿介幸盛は、尼子家を復興させ、
織田家と同盟して毛利家と対立した。
その鹿ノ介に明智家臣野々口丹波が相談した。

「いくさ場にでるとなにがなにやらわからなくなります。
しかし朋輩はそうではなく、冷静に動けるらしいのです。
拙者は生まれついての臆病者なのでしょうか」

鹿之介「そこもとは正直な方ですなw。
槍をどうふるったの、立ち回ったのと吹聴しているのは
ほとんどウソッパチです。
この鹿之介も初陣からしばらくは無我夢中で動きまわって、
気がついたら武勲を挙げていたというのが実のところ。
十ほど首を上げてからですな。周りが見えるようになったのは」

最初からできる人なんていない、経験と努力が大事という話。
まあそう自覚してなきゃ「七難八苦を与えたまえ」なんていわないか。
389人間七七四年:2009/06/11(木) 20:08:18 ID:uo2hz/oM
七難八苦は元々は憎き毛利に七難八苦を与えたまえっていうのが
いつの間にか意図をすり替えられたとか何とかかんとか
390人間七七四年:2009/06/11(木) 20:50:51 ID:xjsTqQgL
>>388
いいなこれ
山中鹿之助ってとこがいい
391人間七七四年:2009/06/11(木) 20:51:53 ID:xjsTqQgL
精神科のHPにあるQ&A集みたいな
392人間七七四年:2009/06/11(木) 21:37:25 ID:6wYNhGNL
何が何やらわからんまま十も首を上げるのかい
393人間七七四年:2009/06/11(木) 22:39:19 ID:s19tcVXa
>>383 国風で思い出した、ちょっとトリビア(?)

近衛信尹は、秀吉に関白の位を奪われたり、奔放な行動から薩摩に配流になったりと、
信長や謙信と親交を結んだ父・前久と違い、政治的才能は無かったが、
本阿弥光悦らと並んで「寛永の三筆」と呼ばれ、一流の教養人として知られた。

ある日、信尹に和歌を習っていた武士が、質問した。
「賢人を訓読みで『かしこきひと』というのは分かります。しかし、なぜ聖人を訓読みで
『ひじり』というのですか?」

信尹は答えた。
「聖人は、是 『非』 を 『知り』 尽くしているからです。漢字もやまと言葉も、理の無いもの
などありません。

例えば、東は日が昇るので『日頭(ひがしら)』から、南は全ての者から日が見えるので
『皆見(みなみ)』から、西は『いにしえ』、日が落ち過去のものになる、というところから、
北は日差しを待ちわびた所に『来たる』という意味。

そして、昼は『干る(ひる)』、日照りで乾くという意味、夜は『寄る』、日光の無い心細さで
集まるという意味なのです。」


しょせん逸話なんで真偽は分かりませんが、我々がいつも使っている言葉にも
変化を重ねた長い歴史がある、というお話。
394人間七七四年:2009/06/11(木) 23:09:21 ID:Lrg8+nDy
>>393
「ひじり」の意味に感動した。
是非をわきまえる人間が尊敬されてきたわけだ。
395人間七七四年:2009/06/11(木) 23:10:08 ID:M/LjrgMY
そういう言葉遊びというか語源雑学好きだw
396人間七七四年:2009/06/11(木) 23:17:39 ID:h5bZf3fS
オレは日(暦)を知るからと聞いたんだが、色々と説があるんだな。
397国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/06/11(木) 23:30:42 ID:QNJF6DJh
>是 『非』 を 『知り』

是を切るのは不自然だなあ。
398人間七七四年:2009/06/11(木) 23:44:27 ID:w7Aon14D
「是非(ぜひ)」じゃなくて「是(これ)」だろ・・・
399人間七七四年:2009/06/12(金) 00:36:07 ID:zcYIcUYH
逸話じゃなくて思ったことだけど、稲生の合戦で信長は筆頭家老に背かれて
佐久間・平手・青山は日和見で激ヤバだった。でもあえて信長に従った
数少ない奴に森可成がいたわけ。だから後々になって鬼息子とか森一族が
優遇されたのって信長が可成に感謝してたのかなとか思った。
400人間七七四年:2009/06/12(金) 01:09:14 ID:CWNU5gZ4
蒲生氏郷の元に、あの佐々木高綱の物だと言う、名高き鎧があった。
ある時細川忠興がその事を知り、氏郷に言った

「くれ。それ、俺に。」

この事を聞いた蒲生家家臣、亘理右衛門は大いに驚きあきれた。誰が考えたって
蒲生家の重宝である鎧を無心する忠興も忠興だが、氏郷もお大名の権化みたいな性格である。
くれと言われた物は、渡さずにはいられないだろう。
それはある意味美点なのであろうが、しかしこの鎧ばかりは…

右衛門、氏郷に釘を刺した。
「殿、これは代々御家に伝わる宝であります!どなたにも差し上げるわけには行きませんよ!」

「え?もう忠興に上げるって言っちゃったよ?」

遅かった。

しかし右衛門、これもまだ想定内だとばかりに
「で、では細川様には、似たような鎧を贈りましょう。なあに、違いなんかわかりはしませんよ。」

これなら双方丸く収まる。これで解決だ。
ところがそう思わない人がいた。もちろん氏郷である。

「右衛門、古歌にも、こうあるではないか

『なき名ぞと 人には言いて ありぬべし 心の問はば いかが答えむ』
(身に覚えの無いことであると、人に言ってごまかしていても、自分の心に問えば、どう答えると言うのか)

そんなごまかしをすれば、この詩の意に恥ずかしいだろう?」

そういってその鎧を、忠興に贈ったそうである。

蒲生氏郷は、困るほど正直なのだ。
401人間七七四年:2009/06/12(金) 01:13:13 ID:jkQKv8+d
>>400
いい奴は早く死ぬんだな・・・
402国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/06/12(金) 01:24:44 ID:akomp+65
信長の婿と光秀の婿の話なんだなあ。
403人間七七四年:2009/06/12(金) 01:40:51 ID:wCrNh0r3
>400
そういや玉子死んだとき蒲生氏郷って生きてたっけ
どっかのサイトか本で、号泣する忠興を氏郷が慰めるみたいな話を見た覚えが
404人間七七四年:2009/06/12(金) 01:44:05 ID:CWNU5gZ4
>>403
とっくに死んでます
405人間七七四年:2009/06/12(金) 01:55:07 ID:wCrNh0r3
>404
トンクス
慰めた面子がうろ覚えだな
ちょっと調べてくる
406人間七七四年:2009/06/12(金) 10:39:10 ID:LWJ3ZvLO
>>404
でも確か忠興もその鎧返してたよな
既出だったと思うけど
「一度あげたものはもういらん」って
氏郷が受け取らないから
氏郷が亡くなってから返してたとおも
407人間七七四年:2009/06/12(金) 10:53:14 ID:SHeml9u8
姉妹スレでDQN話が出てたので、対抗して(悪)さんのちょっといい話を

世が泰平に慣れ始めた元和のころ、大身の侍の間で猛犬を飼うことが流行した。
中納言になったばかりの徳川忠長も例に漏れず、どこへ行くにも数多くの猛犬を引き連れ
先触れ代わりに歩かせていた。

ある日、忠長の犬番たちが、戯れに通りすがりの田舎侍に猛犬をけしかけた。
猛犬は一直線に田舎侍に飛びかかったが、次の瞬間、鼻先から頭部を真っ二つにされた。

走って立ち去る田舎侍を犬番たちは追いかけたが、田舎侍の逃げ込んだ屋敷を見て、
自分たちが犬をけしかけた事は隠し、忠長に犬を斬られたことを報告した。
田舎侍が逃げ込んだのは、薩摩島津家の屋敷だった。

忠長は激怒し、早速使者を島津家久(忠恒)のもとへ送った。
「わが犬を殺めた不届き者を、こちらへ引き渡されたし。」

家久は、鼻で笑って答えた。
「犬は獣狩りに走らせるもの。この家久の家臣に走らせる謂われはない!
斬ったのも、犬が噛み付こうとしたからで、もっともな理由である。
だいたい自分の家臣をよく調べもせず、よその家臣を「よこせ」とはどういうことだ?
その者はまだ当屋敷におるが、当家に犬の代わりに出す家臣などおらぬ!!」

そう聞いて意地になった忠長、「是非にも受け取りたし!」と、また使者を送ったが、
「意地を立てるなら、江戸市中では、はばかりがある。参勤交代の途中にでも
来るんだな。もとよりウチに道理のあることだ、将軍血筋とて遠慮はせんぞ!!」
と、家久は挑発した。

キナ臭くなった事態に、老中・土井利勝が調停に乗り出し、
「屁理屈だが、犬をけしかけたのは犬番の罪で、犬自身に罪は無い。それを斬ったのは
マズいのでは?」という利勝の言葉に家久が折れ、家久自身が忠長邸にあいさつに
行く事で、やっと騒動は収まったそうな。

一族への仕打ちや、粛清の嵐の印象が強いけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-674.html
とか、殉死者九人とか、自分に従う者は大切にする一面もある、家久(悪)さんでした。
408人間七七四年:2009/06/12(金) 11:22:47 ID:y4dHNLEd
仕打ちや粛正やらってのはどうしても政治的な事もあるからねえ
個人的には仲のいい人でも死んでもらわなきゃいけないってこともあるし
409人間七七四年:2009/06/12(金) 13:23:45 ID:+Xk6cxFq
話の本筋ではないが、土井利勝の言葉の魔術師ぶりに感心したw
410人間七七四年:2009/06/12(金) 13:28:40 ID:pKWhCI/B
鬼武蔵「じゃあ、ちょっと犬番も斬って来る」
411人間七七四年:2009/06/12(金) 13:29:55 ID:CWNU5gZ4
土井利勝に任せると、諸大名は誰からも強制されていないのに、気がつけば自主的に
幕府の意向通りに行動していた、っていうくらいだからね。日本の歴史上でも有数の
政治的天才だったって評価すらあるね。

この程度の騒ぎを治めるくらい、どうってこともなかっただろうな。
412人間七七四年:2009/06/12(金) 13:33:32 ID:helYowBN
>>410
蛇と橋番と関所番だけにしとけw

>>407
仮にDQ久が家臣を差し出してたら、島津初の暗君として歴史に名前が残っただろうな

まぁ、それはともかく、某小説とかだと忠長って薩摩の養子に望まれてたんだっけかw
413人間七七四年:2009/06/12(金) 13:39:51 ID:9FSOEOn5
土井さんは苦労が絶えない印象があるけど何かまぁ、その、かなり好きだわ
414人間七七四年:2009/06/12(金) 16:21:47 ID:w1a5bM6H
家久(悪)のちょっといい話のはずが土井利勝のいい話にすり替わってて吹いたw
415人間七七四年:2009/06/12(金) 16:43:24 ID:8uyeL8U+
だってDQ久様だもん!!
416人間七七四年:2009/06/12(金) 19:23:33 ID:K3RGMqDE
武田厨の自慢する信玄の戦果の実像w

小田井原の戦い1547年 信玄27歳 
武田軍4000 山内上杉軍3000
関八州古戦録のねつ造

塩尻峠の戦い 1548年 信玄28歳
大勝利は甲陽軍艦のねつ造

〜 25年間の空白w〜

三方ヶ原の戦い1573年 信玄54歳
武田軍 2万7千 徳川・織田1万1千
戦力差は2.5倍 勝って当然


寡兵の敵に負けまくりの武田信玄の無様な戦歴w

上田原の戦い 

武田軍8000 VS 村上軍5000
武田軍死者700〜1200 村上軍死者 300
(板垣信方、甘利虎泰討死 信玄負傷)


野々宮の戦い

武田5000 VS 小笠原1000 
武田軍死者 300

砥石崩れ 

武田軍7000 VS 村上軍 2500
武田軍死者1000〜5000  村上軍死者 193
(横田備中討死)


第四回川中島合戦

武田20000  VS 上杉13000
上杉軍の死者3400 負傷者6000
武田軍の死者4600、負傷者13000
(武田信繁、諸角虎定、山本勘助討死)

三増峠の戦い
武田20000  VS 北条6000〜7000
被害不明
(浅利信種討死)

犀ヶ崖の戦い
武田27000 VS 徳川軍 100
武田軍 死者数百
417人間七七四年:2009/06/12(金) 19:29:33 ID:aJ5M7SLq
>>407
殉死者九人で思い出したけど、義弘の殉死者はみんな忠恒に家禄没収されたんだよね
当の忠恒の殉死者は死後どんな扱いを受けたのかな。やっぱり家禄没収?
418人間七七四年:2009/06/12(金) 19:43:59 ID:TDeqMJxp
逸話というよりは民話ですが…

琉球の島尻郡に、佐敷の小按司、と呼ばれている若い按司(領主)がいた
当代の小按司、家督を継いだものの、母に渡された財産はわらしべ一本だけ
落ちぶれた家には、新当主に渡す財産とて何もなかったのである
彼はそれを持って出掛けていった

しばらく行くと、味噌屋があり、紐が足りないと困っていた
「もしそこの方、よければそのわらしべを譲ってください」
「これは我が家の全財産だ。ただでやるわけにはいかん」
こうして、小按司は一ヘラの味噌と交換した
またしばらく歩くと、鋳かけ屋(修繕屋)が鍋を直すための味噌が足りず、困っていた
「おお、そこのお方(ry」
「これは我が(ry」
味噌は鍋金となった
次に会ったのは鍛冶屋で、地金が足りなかった
小按司は半分を渡し、半分で小刀を打ってもらった
彼は歩きに歩き、ついに与那原の港までやってきた
そこでは唐船が出港するところだったが、錨が海底に引っ掛かって揚がらなくなっていた
「縄を切りたいのでその小刀を(ry」
ここで交換したのは、なんと金屏風であった

さて、佐敷は当時、南山の領域だったが、南山王がこの噂を聞き付けた
「小按司といえば、あの貧乏按司か。金屏風もみすぼらしい屋敷では台なしだ」
王はそんな勝手なことを言い、屏風を献上するよう談じ込んだ

「ほかならぬ王の命ならば従いましょう…ただ、これは我が家の全財産です。
 代わりに与座の井戸を下さるならば差し上げます」
こうして、小按司は島尻郡の重要な水源を手に入れた
しかも水の利用に税をかけたため、彼の家は急激に成長した

やがて、南山王が死ぬと、人々は水を握る小按司を後継者とした
彼は琉球統一を志し、中山、北山を次々に滅ぼし、臣下の身から三山の王となった

佐敷の按司、名を尚巴志という
419人間七七四年:2009/06/12(金) 19:45:35 ID:t9uIcZGS
戦国美麗姫図鑑 実在の姫100人が萌えキャラに
http://mainichi.jp/enta/mantan/graph/book/20090611/
420人間七七四年:2009/06/12(金) 20:02:57 ID:FpxufV9P
あいつ、わらしべだったのか
421人間七七四年:2009/06/12(金) 20:23:46 ID:RNo8aHe8
>>418の話は沖縄県民でどれぐらい知っているのかな?
リアルわらしべ長者の話なんだけど
422人間七七四年:2009/06/12(金) 20:37:46 ID:9J6GDoEl
武田家臣・今福友清、入道して浄閑斎は公事奉行を努めていたが、
ある悪癖で有名であった。それは三度の飯よりも、刀の試し切りが好きな事。
首切り役がいるにも関わらず、罪人を自らの手で処断しないと気がすまない性分。
裁可の済んだ者から、ばっさばっさと斬り殺し、五十前までに千人斬ったとまで噂された。
ある時期、浄閑の子供が立て続けに死に、祟りだとも噂されたが、本人はどこ吹く風。

「んなわきゃねーだろwwwガキが死ぬのなんて別にちゃんとした理由があるんだよw」

と、一向にそれを止める気配は無かった。

あるとき、信州岩田村竜雲寺の法興和尚が法事のため甲府にやってきた。
霊魂の祟りは信じずとも浄閑斎、腐っても出家、和尚を尊敬していたので
和尚が逗留していた屋敷に挨拶に出向いた。

さて、挨拶も済み、雑談を始めた二人。浄閑の噂は和尚も当然知っており、

「浄閑殿はいい年こいて、まだためしものなどやっておられるようですが、
 真にもって罪深い事とは思いませんか」

と切り出した。それに対して浄閑斎

「はぁ?いや和尚様、あれは俺が切りたくて斬ってるわけじゃなくて
 斬られる連中の罪科が切らせてるんすよwだから別に俺が悪い事
 してるわけじゃないでしょwww」

と言い返した。たしかに一利ある。和尚はそのまま黙ってしまった。
さてそのうち囲炉裏の火が弱まってきたので浄閑斎が炭を継ごうとしたが、
炭が大きく火箸で挟めない。浄閑斎、しかたがなくこれを素手で囲炉裏に放り込み、
汚れた手を手ぬぐいで拭いた。

これを見た和尚が言った。

「はて、どうして手を拭きなされた?」
「いや、手が汚れたかですが」
「なぜ手が汚れたのですかな?」
「そりゃ、炭を触ったかっしょwいったいなんなんすかw」
「さて、その事でござる!」

和尚が突然語気を強めた。

「炭を触ると手が汚れるのは炭がさせる事でござろう。
 同じようにいくら咎が人を斬らせるとは言え、斬れば
 貴殿の心が汚れ申す。ましてや、その貴殿はその汚れを
 一心に引き受けてくれる首斬り役という火箸がありながら、
 なぜ手を煤だらけにするような真似をなさるのか?」
「・・・・・・」

浄閑斎は顔を赤らめ返事もせずにそのまま帰宅してしまった。

以来、浄閑斎は試し斬りをぱったりしなくなった。
彼が奉行の職を辞し、久能山城代に転出するのは
それからしばらくの事である。

まとめの大谷千人斬り疑惑でちょっと触れられてたけど、全部じゃなかったので
423人間七七四年:2009/06/12(金) 21:32:12 ID:HlxjaT/8
昔の坊さんにはとんち技能必須だな
424人間七七四年:2009/06/12(金) 22:03:06 ID:/CS76Wae
人斬りに説教する>>422とかDQN眼竜に鉄拳制裁かます虎哉さんとか
時代のせいか戦国の坊さんは肝の太さが違う気はする
425人間七七四年:2009/06/12(金) 22:23:35 ID:TZhjTHfH
しかしどっちかというと仏教より神道の理屈ではないかこれ…・?
426人間七七四年:2009/06/12(金) 22:28:45 ID:CWNU5gZ4
試し斬りと言うとこんな話も


徳川秀忠が将軍の時の話である。

当時将軍家では、しばしば新刀の試し斬りが命ぜられた。
この時秀忠からは「試したままに提出するように」と命ぜられていた。
そして秀忠はそのようにして出された刀の刃の様子、脂のついた鉄の色まで
仔細に観察したのだと言う。

ところが近習の中に、斬ったばかりの、血脂のついた刀を御前に持ち込むのは
汚らわしい事ではないか、と言う者があった。
しかしこれを聞いた秀忠は

「武に、穢れなどと言う事は無いものだぞ?」

と言った。
このようなことがあったので、それまで試し斬りの奉行は、服を改めてから登城していたのだが、
それからは試し斬りを見届けた時のままで、直ちに登城するようになったと言う事である。

秀忠の、武士らしい実証主義が感じられるお話。
427人間七七四年:2009/06/12(金) 23:27:09 ID:He/lRVk+
真田信吉・信政兄弟が大坂城を攻撃していたときである。
当然彼らは、徳川方についていたのであるが、お父さんの信之はというと、

持病の胃痛(癪)で上田で寝込んでいた。

さて、実は彼ら兄弟は信之の代理と言う事で大坂城を攻めていたのだが、
当然大坂城には・・・・・

本当に空気の読めないおじさんの真田信繁がいた。

ある時、大坂方の木村重成が攻撃側の六文銭の旗と兄弟達を見て信繁に聞いた。

木村「あそこで攻撃方を指揮しているのは、信繁殿の甥御殿ですかな?」
信繁「いかにも、上田の兄上の名代で来ているとの事にござる。」
木村「見ていましたところ大変見事な大将ぶり、あのように見事な采配をしている大将を
   鉄砲玉で討ち死にさせるのは実に惜しい事にござる。鉄砲で狙わないように指図しましょう。」

そう。彼ら兄弟達はその武者ぶりで大坂方から感心されていたのである。
そのため、鉄砲で討ち死に=雑兵に撃ち取られた、という不名誉な事にならないように
大坂方からも配慮されていたのだ。
戦いの中にも礼儀があり、六文銭の新世代をおじさんの信繁の前で見せつけたという話である。

それでも彼ら兄弟は大坂から無事に帰ってみれば、

小松姫「2人の内どちらかが死ねば忠義というものを示す事が出来たのに。(-_-)」

と、立つ瀬もヘチマもなかったのである。
428国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/06/12(金) 23:43:06 ID:akomp+65
>>427
興味深いながらもトホホな話なのが残念。
429人間七七四年:2009/06/12(金) 23:46:44 ID:CQob1Hs5
意外と凄かったんだな、信之の息子達も
430人間七七四年:2009/06/12(金) 23:53:59 ID:KQKqltI/
既出なんだよなぁ、これは
431人間七七四年:2009/06/12(金) 23:56:06 ID:CWNU5gZ4
>>430
まとまった形ではまだだと思う
432人間七七四年:2009/06/13(土) 00:12:40 ID:noxDAH/C
武田信玄が小笠原長時と戦った桔梗ヶ原の戦いには武田の軍師、山本勘助
も従軍していた。

戦いのさなか、勘助は赤子の泣き声を耳にした。そこで勘助は四方を
飛び交う弓弾をものともせずに赤子のもとに駆け付け、片手に抱き上げると
そのまま敵軍と戦ったのである。しかし、勘助は手や足が不自由である。
赤子と一緒では共倒れになりかねない。

窮した勘助はとりあえず赤子を隠すことにした。あたりを調べると塚の上に
松があるのを見つけた。勘助は松の根本に赤子をそっと降ろすと「松よ。
この赤子をかえすがえす頼むぞ」と語りかけて戦場に戻っていった。

やがて小笠原軍が退散すると勘助は一目散に松のもとに戻ってきた。
すると赤子はなにやら喜んでいる様子である。なぜならば松の葉から滴る
雫をまるで母乳のごとく赤子が口に含んでいたからだった。勘助の願いを
聞き届けた松が母親のごとく赤子に接したのだろうか。

それから半世紀たって一里塚が作られた。人々はその松こそが、乳松だ、
勘助子育て松だと今日まで伝えている。実物が見たい方は塩尻市にどうぞ。
433人間七七四年:2009/06/13(土) 00:30:44 ID:RV/xiPhy
>>418

沖縄絡みで一話


伊是名島に内間金丸という男がいた。
農民出身であったが中々優秀な人物であったようで、首里に渡り、当時は越来王子であった尚泰久に仕えるようになった。
国王となった尚泰久に信頼され御物城御鎖之側(交易品の保管責任者、琉球王朝では超重要職)にまで出世した。
しかし尚泰久が亡くなると、冷遇されるようになり半ば強制的に引退させられた。
※尚泰久の後を継いだ尚徳はまだ若く(即位した時21歳)何かにつけ意見する金丸を煙たがったらしい。


やがて尚徳が亡くなり三司官(琉球王朝に宰相に当たる役職)が尚徳の世継を王位につけようとしたところ
諸臣が猛反対し終にはクーデターを起こした。彼らは口々に
「物呉ゆしど吾御主、内間御鎖ど吾御主」(我々の生活を安定させる人こそ我々の君主、内間にすむ人こそ我等が君主)と叫び世継及び母親の王妃を殺害。他の王族を追放し、内間御殿に隠居していた金丸を王位に推戴した。

こうして群臣に擁立され金丸は名前を尚円と新ため第二尚王朝を開くこととなった。




彼の息子尚真の時代、琉球王朝は黄金期を迎える事となるのだが それはまた別のお話。
434人間七七四年:2009/06/13(土) 02:21:04 ID:BWvEbJA/
戦国の話だから一応時期関係も一寸。

418は尚巴志王在位時代は1421年〜1439年
433は内間金丸(尚円王)在位時代は1469〜1476年ですな
435人間七七四年:2009/06/13(土) 02:23:15 ID:gPNjHhx3
>>433
ある意味スゲー出世だなw
436人間七七四年:2009/06/13(土) 03:11:23 ID:SpwYy3M6
>>411
さすが徳川幕府の誇る「めんどくさい対策係・総元締」たる老中ですな

酒井忠勝といい、土井利勝といい……
437人間七七四年:2009/06/13(土) 04:02:59 ID:hUtok7aK
めんどくさい群れを操るには胆力と言葉遊び的な話術が必須という
438人間七七四年:2009/06/13(土) 04:04:34 ID:0M+p+ojJ
  家督相続年 死亡年 活動年数 相続時勢力圏 最大勢力圏   勢力拡大率    死後
信長  1551年 1582年  31年  4万石   *600〜800万石 150倍〜200倍 大名としての織田家は存続
信玄  1541年 1573年  32年  26万石    73〜94万石  2.8倍〜3.6倍 大名としての武田家は滅亡

*織田は京と堺を抑えていたので実質は1200万石とも言われている。
439人間七七四年:2009/06/13(土) 04:12:03 ID:ZuMovUu4
武士の情け


関ヶ原合戦の後いよいよ石田三成や小西行長が斬首される事となった
死刑執行当日、六条河原に向う道程で戦犯者を一目見ようと人だかりが出来ていて、石田三成一向を哀れみや同情はたまた嘲笑したり様々な様子で見守っていた
まさに辱めである


ご存じの通りこの見せしめは、三成の権威を地に落とし、これから始まる徳川政権がより盤石になる為のプロパガンダ的な意味もあるので
この人だかりは徳川政権的に好都合であり狙い通りでもあった


しかしそんな幕府も願ったり叶ったりな辱め連行パレードを…
「待たれよ」
と護送に加わっていた一人の男が止めた

その者は一同をひとまず停止させると、石田三成と小西行長に何も言わず近付き顔が隠れる深い編笠をソッと被せてやった
顔を晒させない気遣いでした

男は水野勝成だった
武士の情け 〜了〜

440人間七七四年:2009/06/13(土) 04:31:27 ID:t9WYbjCZ
↓この話に加えたいね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1744.html
441人間七七四年:2009/06/13(土) 04:38:33 ID:ZuMovUu4
>>439の補足↓

石田三成は数ヵ月前に加賀井重望へ水野忠重(親父)の暗殺を依頼した張本人、本来は憎むべき相手

小西行長はかつて使えていた(異説あり)上司だがケンカして出奔、元は不和の間柄

水野勝成は他にも大垣城で最後まで抵抗して籠城いた福原長堯を称賛して助命嘆願を出したりと意外にも戦いが終れば「アレは戦での事だしもう過ぎた事」ってノリだったみたいだ、それ系の話が結構ある
でも結局、福原長堯は三成の縁者って事で切腹させられるけど


ちなみに俺が読んだ本には安国寺恵瓊の事は一切書いて無かったので彼にも編笠を被せてあげたか被せてあげ無かったかは不明です
お粗末でした
442人間七七四年:2009/06/13(土) 04:52:00 ID:jITkGZS5
>>433

いつも思うんだ。

> 物呉ゆしど吾御主



>我々の生活を安定させる人こそ我々の君主

と注釈するのは超訳が過ぎるんじゃないかと。
443人間七七四年:2009/06/13(土) 05:00:10 ID:SIyjeMro
どう訳すのがいいの?
444人間七七四年:2009/06/13(土) 11:09:00 ID:eRw8rH7W
現代の日本語に訳すなら「ヒャッハー」てとこじゃね?
445人間七七四年:2009/06/13(土) 11:57:31 ID:SIyjeMro
さすが 4 4 4
446人間七七四年:2009/06/13(土) 12:02:46 ID:xAfX75KR
>>433
>世継及び母親の王妃を殺害。
ここだけ取り上げたら全然いい話じゃないなw

>>444
ナイスアシストw
447人間七七四年:2009/06/13(土) 13:01:34 ID:/gHhXmaS
いい話と悪い話スレのレス数の差が殆どないんだが
逆転しちゃまずいと思う。
向こうには四天王+1がいるので
此方側も品行方正四天王を設定して
ラスボス様は双方に均等に出演していただくということでひとつ。
448人間七七四年:2009/06/13(土) 13:15:09 ID:YD+uMPXN
>>442
直訳だと「物をくれるやつこそ、わが主君」だからねえ。
あんまりいい話じゃないよね。
449人間七七四年:2009/06/13(土) 14:09:48 ID:SeqHA/xQ
>>447
前スレから200レスの差を埋めようとしてるのに中々埋まらないのはお前のせいか!
450人間七七四年:2009/06/13(土) 14:19:59 ID:1W45Vsxl
普通に逆転した時あっただろ
451人間七七四年:2009/06/13(土) 14:42:11 ID:xEIpu8pW
スレ分離前から見てるけど
どうでもいいだろそんなもん
452人間七七四年:2009/06/13(土) 15:03:07 ID:SeqHA/xQ
どうでも良くない人もいるのさ
個人でやってる事で他人の投稿を抑制しようとはしないのでご安心を
453人間七七四年:2009/06/13(土) 16:34:13 ID:mBw3TksM
品行方正なんかどうかはわからんが、「いい人」四天王を創設するとしたら
仏の茂助さんは当然入るんだろうな。
454人間七七四年:2009/06/13(土) 16:38:24 ID:DdplDMgm
名人久太郎、蒲生氏郷、細川幽斎、立花宗茂とか?
455人間七七四年:2009/06/13(土) 16:43:49 ID:FxnH7+Ah
>>441
>>石田三成は数ヵ月前に加賀井重望へ水野忠重(親父)の暗殺を依頼した張本人、本来は憎むべき相手

いや、むしろ恩人じゃね?w
父親が死んでくれたから家督相続できて関ヶ原を水野宗家当主として戦えた

456人間七七四年:2009/06/13(土) 16:46:05 ID:lvJQt16B
親父との仲は最悪だったからむしろ大喜びだろ。
457人間七七四年:2009/06/13(土) 16:50:19 ID:36/x7Nf/
>>432
勘助優しいな 乳松ってネーミングもすげーw
458人間七七四年:2009/06/13(土) 17:02:37 ID:b1U4CQm+
>>454
いまいちインパクトに欠けるな
いい人達だが仕方がないのだがなんかこうもっと
見ただけで権現様が焼き味噌こぼすようなインパクトが欲しいところだ
459人間七七四年:2009/06/13(土) 17:12:34 ID:VhjuLJHa
>>458
井伊人になら焼き味噌こぼすインパクト感じてくれるかな、権現様
460人間七七四年:2009/06/13(土) 18:19:38 ID:ONY0birc
焼き味噌こぼしちゃいかんだろw
461人間七七四年:2009/06/13(土) 19:03:57 ID:XftZzZ35
「前田慶次と真田信幸の遭遇」
本能寺の変により、関東攻めの最中だった滝川一益軍は撤退することになった。
真田昌幸は一時滝川に人質を提出していたが、神流川での滝川軍敗北を知ると
北条氏とも通じ、いよいよ滝川軍撤退と知って佐久・小県をおさえるため嫡男・
信幸を大将に軍を派遣した。 信幸軍は上野から信濃へ入る軍勢を発見した。
おそらく織田勢であろう。 緊張が走る。
信幸は軍を小高い山に引き上げ、様子をうかがった。
やがて、信幸は軍勢の中に見知った顔を見つけた。

「おお、この軍勢を率いてる者は間違いない。
 前田慶次だろう。彼とは懇意なので心配はいらない」
すると前田慶次も信幸に気づいた。
「珍しいな、真田殿がこのようなところへ参るとは。我々の道中警護でもし
 てくれるのか。たとえ一揆が道をふさいでも蹴散らしてやる。せっかくの
 親切だが、軍は引き取ってくれぬか。先日信長公が亡くなったようでな、
 上方は真っ暗だわい」
敵か味方か定かでない真田相手に信長の死を明かす豪放な慶次の言葉に、信
幸も感心して軍勢を引いた。
                          「滝川一益事書」
                           「加沢紀」
462人間七七四年:2009/06/13(土) 19:29:12 ID:ONY0birc
           ,, -──- 、._
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ:
      :|       (__人__)    |:      >>458 こ、これは焼き味噌だあーーー
      :l        )  (      l:        だってよーーーwwwwwwww  
      :` 、       `ー'     /:
       :, -‐ (_).        /
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´
          :ヽ   :i |:
             :/  :⊂ノ|:
463人間七七四年:2009/06/13(土) 20:22:55 ID:ipZFYc8z
>>453
立花宗茂、蒲生氏郷、武田信繁、平手政秀も候補かな
464人間七七四年:2009/06/13(土) 20:27:11 ID:YO0phxEJ
>>461
兄ちゃん顔広!
465人間七七四年:2009/06/13(土) 20:30:35 ID:/2f3QLJ2
どちらかというと、慶次の顔が広すぎるだけなんじゃなかろうか…
466人間七七四年:2009/06/13(土) 21:40:11 ID:o784Fl9E
徳川家康は、酒井忠尚の家来であった榊原小平太を、見所があると自分の旗本としてもらいうけた。

この頃、水野信元の家来に神谷金七と言う者があったが、彼はこの小平太と、前々からの
友人であった。金七は小平太の旗本への取立てを大変喜んだが、

「しかしおぬしは小身者だ。まともな具足も持っていないのではないか?」

小平太、無い、と頷く。

「やっぱり。それでは向こうに行って笑われるぞ。
そんな事だと思っていたので、これを持ってきた。餞別に受け取ってくれ。」

と、繕いの少々ちぎれた、銀具足を渡した。

小平太が家康の旗本として初めて戦に出たとき、この具足を着て戦い、見事武功を成した。
そこでこれ以後吉例として、出陣の時はこの敗れた具足を、真っ先に持たせていたそうだ。

後の徳川四天王、榊原康政の、若き日の話である。
467人間七七四年:2009/06/13(土) 22:12:44 ID:xAfX75KR
>>466
これはよい話

しかし、この「神谷金七」さんをぐぐ〜る先生に聞いても答えがないんだが・・・
(「神谷金 型 」というのが大量にヒットするw)
468人間七七四年:2009/06/13(土) 22:18:03 ID:XftZzZ35
>>464
真田昌幸は一時滝川に従ってたし、慶次の父(いとことも)とも
言われる滝川益重が沼田城代になっていたのでそれの辺で面識が
あるのかもしれない。
469人間七七四年:2009/06/14(日) 00:20:33 ID:3SL4TrTp
>>466
金七も小平太もかわいいなw
470人間七七四年:2009/06/14(日) 01:55:57 ID:VmPrkirq
信之兄ちゃんの意外な交友範囲の話(?)

島原の乱討伐に向かう細川忠興の子・忠利に、真田信之が忠告した。

「このたびの動員は、先ごろ大将の板倉重昌が討ち死にしたゆえ、一刻も早く一揆勢を
踏み潰すためのものです。しかし、この戦は手間取ると思ったがよろしい。

その昔、私が北条討伐に加わり忍城を攻めた時、兵が臆してわが号令も聞きかねる
ありさまでした。陣に帰ってから、私は父・昌幸に抗議しました。
『あんな腰抜けばかりの部隊をつけられても、ロクな働きができませぬぞ。』

私は父に、叱られました。
『若造が、何を不勉強なことを言っておる?!先般、我らは北条に敗れ、名胡桃の城を
奪われた。一度負け戦を経験した恐怖はな、三年は失せぬものじゃ。
そういう兵を使っても、勇むはずがなかろう。無理をさせず、ゆるゆると攻めよ。』

今度の島原でも、板倉が戦死して多くの者を失っており、兵が勇むことは無いでしょう。
さすれば手間取ると判断して、ご出陣あるべし。」

信之の言葉を守った細川隊は、自重しつつ城を攻め、力を温存し、最後の総攻撃で
一揆の首魁・天草四郎を討ち取る殊勲を上げた。
471人間七七四年:2009/06/14(日) 10:24:16 ID:Agu6EeuE
官兵衛「出来る男は息子を千尋の谷底に付き落とすもの
   流石は太閤に一目置かれた御仁昌幸殿
   いい話ですな」

半兵衛「私も息子が戦物語の最中に小用で席を立とうとしたのを
    叱りつけた事があります、皆一度は通る道ですな」
472人間七七四年:2009/06/14(日) 10:35:02 ID:KqIHyLwC
武田信虎「わしも息子を(ry」
473人間七七四年:2009/06/14(日) 10:58:23 ID:GVAUpaDw
>>472
あんたは違うだろ!!
474人間七七四年:2009/06/14(日) 12:25:19 ID:tty/ma3o
信之って16、7歳でもう部隊指揮してるから北条討伐のころだと
10年は戦歴積んでるはずだけど表裏比興の者にかかっちゃまだヒヨッ子か…
475人間七七四年:2009/06/14(日) 13:00:35 ID:4L5CAO2h
北条幻庵 朝倉宗滴 島津日新斎 の3人は出会ってたら仲良さそう

しかし調べてみると80〜90歳超えて長生きしてる戦国武将も結構多いな
476人間七七四年:2009/06/14(日) 16:08:06 ID:d+gIzRv8
>>475
なんか3人で茶なんかすすって「ではそろそろ・・・」とか言って
いきなり合戦始めそうだなw
それも物凄い三つ巴戦www
477人間七七四年:2009/06/14(日) 16:13:11 ID:N/3wq8mw
>>475
宇喜多・松永・尼子あたりもw
478人間七七四年:2009/06/14(日) 18:47:17 ID:P4CDW021
>>477
なんか3人で茶なんかすすって「ではそろそろ・・・」とか言って
いきなり尼子一人ぶっ倒れるのか。
479人間七七四年:2009/06/14(日) 18:49:27 ID:Fqef4Xgn
>>478
そのくくりなら尼子は経久だろ
480人間七七四年:2009/06/14(日) 18:57:37 ID:QGAn9qlB
天正十五年、九州征伐の時の事である。

堀秀政の陣中において、秀政の近習山下甚五兵衛と言う者、にわかに乱心。
秀政を後ろより斬り付けんとした。

この時、重臣の堀監物は山下の後ろにいたが、これを見てすぐさま刀を抜き
山下を斬りつける。ところが監物の刃が届くその瞬間、

秀政振り向き、監物と同時に山下を切り払った!
そして監物の方を向き、一言。「俺の後ろに立つな。」


ゴルゴに油断は無いのだ。
481人間七七四年:2009/06/14(日) 19:17:44 ID:1jo2da9K
>>478
3人で茶すすって
 ↓
ではそろそろ、の合図で
「「「ん?おかしいな・・・誰も倒れな(ry」」」
 ↓
んじゃ、やるかで三つ巴の暗殺戦
482人間七七四年:2009/06/14(日) 19:18:26 ID:1jo2da9K
>>480
最近出たような
483人間七七四年:2009/06/14(日) 19:41:35 ID:SBzUQVug
>>841
その組み合わせだと他の奴が暗殺しようとした事に気付いた時点で、
暗殺にこだわらず残り二人をその場で斬り殺す経久というのが浮かんでならない。
484人間七七四年:2009/06/14(日) 19:57:19 ID:UjWb7/qa
徳川家康は短気をおこして近習を叱ることがあっという。
こんな時、本多正信はどうしたか。まず正信は現場にやってきて

「上様、何故そんなにお怒りなのです」

と聞いてみる。家康は訳を話すのだが、ひどい時には口から泡を
出したという。正信は訳を聞くと

「それは仰るとおりですな。まったく貴様ともあろう者がなんて
ことをやらかしたのだ!!!」

(えっ、なんでお前がそんなに怒るの?!)

と家康以上の剣幕で怒るので、当の家康が黙ってしまう。
正信は続けて

「いいか、お叱りではなくご教訓と心得るのだ。上様はお前を一人前に
育てようと思っておられるからこそ、お叱りになるのだ。

お前の父はあの戦で功があった。それにあの城攻めではこうであった。
お前は父に負けぬように頑張るのだぞ。

一度、散々に叱られたからって落ち込むんじゃないぞ。
上様はお前を叱って喉がかわいておられるようだ。お前が茶を
奉るのだ。さ、これからは元気を出して奉公せい。落ち込んでは
ならぬぞ。上様もそのように思っておられる」

と言って聞かせるのである。この間に家康も自分が怒っていた
ことを忘れてしまうのだ。正信は最初は叱っているのだが、途中から
教訓と励ましに変わっていくので、家康の怒りは和らぐし、近習も
気を落とさなかった。そのため、正信の生きているうちには、側近で
閉門や解任になった者はいなかったという。
485人間七七四年:2009/06/14(日) 20:20:27 ID:1jo2da9K
これはいい腸腐れ
486人間七七四年:2009/06/14(日) 20:35:24 ID:1t/JS3ST
正則ぶっとびage
487人間七七四年:2009/06/14(日) 20:35:35 ID:+JwrUm8z
で、怒られた者の名はなんと?
488人間七七四年:2009/06/14(日) 21:58:51 ID:imC6O6DD
本多弥八郎にて候
489人間七七四年:2009/06/15(月) 00:08:11 ID:wxdAmGFH
市松華麗に飛んだでござるの巻
490人間七七四年:2009/06/15(月) 01:00:22 ID:LdrGeJbT
>487
本多正純乙
491人間七七四年:2009/06/15(月) 02:58:24 ID:0QKGH0Wn
>>407
犬番はもちろん腹切ったんだろうな
492人間七七四年:2009/06/15(月) 10:08:47 ID:01RzaFNg
>>487
>>484を読んでる途中で絶対出てくるなと思いつつも、本当に出てくるから笑ってしまうw
493人間七七四年:2009/06/15(月) 11:50:34 ID:TbOipK9y
上野介汎用性高過ぎだろw
494人間七七四年:2009/06/15(月) 14:32:29 ID:sXjvexJv
忠興の家康評と分析(1/2)
関ヶ原開戦を控えたある日。
清洲に在陣中の福島正則のもとへ
加藤嘉明、黒田長政、浅野幸長、細川忠興などが集まり色々グダグダだべっていた。
話が弾み、色々話題が巡る中、ふとしたことから秀吉と家康の比較が始まった。

「今回の上杉を討ちに内府が御出陣中、上方で謀反が起きた流れってなんかあれと似てないか?
ほら、太閤様が中国で毛利とやりあってる最中に明智謀叛の報せが来た時」
「うん、似てるね。あの時太閤様はすぐに毛利と和議を結んで播磨に御帰陣。
すぐにお発ちになられて勝竜寺に向かい明智を討ち果たされた」
「すばしっこい方だったなあ」
「話変わるんだけどさ、今回の内府のやることは何か意外なことばっかだよね。
小山では俺たちに加勢を頼むとばかり思ってたんだけどさ、
『来てくれてありがとう、嬉しいよ。だけど君たちにも上方に人質があるだろうし、みんな帰って治部少輔に付いた方がいいよ、それがいい』
とか言ってんの」
「なかなか深いな。こうも言っていた。
『上方はああ言っているが、合戦みたいな大きいことにはならないよ。人質を殺すくらいだろう』
そう言って江戸へ帰られた。すぐさま御出陣と勇み足であれば、
我ら先手だけで治部少輔を血祭りに上げて内府のお手など煩わすまいものを。なかなか御出陣なされぬのは怪しいな。」
「すぐに江戸を出て合戦になれば、十中八九天下は内府のものだろうに。太閤様と比べるとゆっくりしてるよなあ」
495人間七七四年:2009/06/15(月) 14:36:03 ID:sXjvexJv
忠興の家康評と分析(2/2)
こうした雑談の中、忠興だけは最初から何も言わず黙って話を聞いていたのだが、それが突然口を開いた。
「色々話は聞いたが、俺はそうは思わん」
こんな言い方なので皆はちょっとムッとして「じゃあお前どう思う」と忠興の意見を求めた。
忠興はこう言った。

「みんな分かってるとは思うが、明智謀叛時の太閤と今の内府では、その状況が天と地、提灯と釣り鐘だ。
あの時の太閤はわずかに播州一国の主であり、西に毛利を抱えながら明智を討たねばならぬ。まあ籠の鳥のようなものよ。
とてもうまくいかぬと分かっていながら深い考えもなく出発して運良く明智が討てた。籠城などなさらぬところは流石に感心したが危ないものだ。
しかし内府の場合はだ、こちらは関八州の大将であり海千山千の武功の達人。
さらに家中には忠孝厚き臣下をあまた取り揃え金銀兵糧も事欠かぬ。
しかし御出陣なさらぬのだ。大方、その理由は我ら味方の大名たちが先に馳せあがって治部少輔とぶつかれば良いと考えているからだ。
その後からやって来て治部少輔のみならず我らもまとめて滅ぼそうという考えだろう。
だからといって内府を相手に戦えるかといえば我らには無理だ。
今は我らを頼みにしているようではあるがいざとなれば我らなど気にもすまい。
内府の立場ならば本来はもっと早く、それこそ太閤より十倍も二十倍も早く動けよう。
そんな内府のお心は太閤よりはるかに恐ろしいと俺は思うよ」

みなは忠興の家康評に感心し、
「越中は全然喋らないのに最後に止めを刺すのが上手いな。俺たちの考えが子どもじみていたように思うよ」
と言い合ったという。
496人間七七四年:2009/06/15(月) 14:43:58 ID:2KATsgci
全然喋らないのに最後に止め、つまり部下の失態には無言で斬ですね
497人間七七四年:2009/06/15(月) 14:45:40 ID:sXjvexJv
家康の三人の息子達@三成挙兵
永井直清覚え書きより
「薩摩守(松平忠吉)殿はただいきり立って高名せんとばかり喜んでおられる。
三河守(結城秀康)殿はその一乱のついでに面白い事が起きて、
ご自分の天下となることもあろうかと、にこにこせられている。
秀忠公は天下を取り損ねはせぬかと密かに心配でござる」

最終的に秀忠に決まって良かったんじゃないかとこれを見て思った。
なんというか個性豊かな息子達を持ったよね。
498人間七七四年:2009/06/15(月) 15:45:36 ID:pyJ+St0i
>>497
そういえば御三家の義直、頼宣、頼房も、性格はバラバラだねw
499人間七七四年:2009/06/15(月) 17:23:52 ID:oG0y3323
>>495
最初から秀吉子飼いみたいにして育った人達と、
忠興みたいな大名の立場で育った人とでは、やはり認識が違うんだな
500人間七七四年:2009/06/15(月) 17:28:57 ID:pyJ+St0i
永禄六年(1563)、武田信玄はこの国峯城をいよいよ攻め取らんと、1万3千の兵をもって上州へ
侵入した。信玄は南上州、南牧の砦に着陣すると、小幡信貞を呼び、尋ねた。

「お主の同族である国峯城主、小幡景純はどのような性格の者であるか?」

「景純は器量も体力も人に優れ、武勇も逞しい大剛の者ですが、ただ物事に驚きやすく、
突然の出来事には、周章狼狽いたします。」

それだ!ここで呼ばれたのが内藤修理亮昌豊。
彼に対しなにやら相談をすると、その後軍勢をわけ松井田、安中、箕輪に配置し
援軍に対しての備えとするとその夜、信玄の旗本数千がひたひたと国峯城に押し寄せた。

そこで旗本の部隊から、竿につけた提灯に火が灯され、高く掲げられた。この時である

国峯城程近くの高台に、幾万とも知れぬ火の光が群れ突然現れた。そうして旗本の部隊と共に
一斉に鬨の声をあげ、大地を振るわせた。

これに国峯城の小幡景純は大いに驚き、「このような大軍相手に、とても防ぎきれるものではない」と、
たちまち防衛を諦め落ち延びて行った。武田軍は上野攻略の拠点、国峯城をついに奪取したのだ。

ところで、この時大軍に見えたものは、内藤昌豊の小荷駄部隊であった。
彼は荷駄馬一頭につき提灯二つを取り付け、さらに人夫達にも全員に松明を持たせ、
合図と共に一斉に点火させたのだ。


城攻めは心理戦とはよく言われる事だが、信玄らしい、敵の性格をよく把握した上での
城獲りのお話。
501人間七七四年:2009/06/15(月) 17:31:15 ID:pyJ+St0i
>>500
あああ1行目いきなりミスがあったorz

×この国峯城
○長野氏配下の国峯城
502人間七七四年:2009/06/15(月) 22:06:43 ID:eHwc0qaL
あれ、池波センセの剣の天地とは実際は全然違うのね。
503人間七七四年:2009/06/15(月) 23:17:20 ID:KwN39jZl
修理はいつでも小荷駄隊
504人間七七四年:2009/06/15(月) 23:57:17 ID:Oo0szGAN
前田利常は幕府から鶴の肉を賜り、家臣たちに披露した。
この時に利常はお膳係に「本多安房守と横山山城守のご飯は後回しに
して先に他の料理を出せ」と指示した。他の者はちゃんとご飯と
一緒に出された。この理由は二人が老齢であるので、冷えた飯は
食いにくかろうという配慮であった。当の二人は利常の配慮に深く感謝したという。
505人間七七四年:2009/06/16(火) 00:12:43 ID:rsD+Muxb
>>504
本多安房守って、本多正信の次男の正重さん?
506人間七七四年:2009/06/16(火) 00:41:50 ID:6aNDWgyv
家康が駿府を選んだ五つの理由
駿府城落成の祝いの席で増上寺の僧観智国師にこう語っている

1.幼年の頃ここに住んでいたものだから自然故郷のように感じて忘れられない。
幼い時に見たものを成長した今見るのはなかなか愉快なことだ。
2.富士山高く北に秀で、山脈は左右に並び居り、冬は温暖で年寄りには易しい土地だ。
3.米が美味い。よそより美味い。
4.南西に大井・安部といった大河が流れ、北東に富士山・箱根の天下の険を有するため、守るに良い。
5.でも交通の便はいいよね。海道あるし。みんな来るの楽じゃない?

そんなに誉められると照れるというくらい駿河は誉められている
お茶も美味いんだぜ!やぶきたは明治以降だけど!
冬は実際あったかいと上京してから身に凍みてわかった
家康も寒いところが嫌いだったんだろうか
507人間七七四年:2009/06/16(火) 00:45:32 ID:AI+xlMpP
駿河近辺にすむと、環境がよすぎて引っ越しできなくなるとは何かで聞いた。
地震も少ないよね? 江戸とはちがってさ。
508人間七七四年:2009/06/16(火) 00:58:28 ID:vWQS5qVM
米がうまいとかぶるんだろうが、地酒もおいしいのがあるな
509人間七七四年:2009/06/16(火) 01:02:34 ID:0iibNEps
現代において駿河が田舎になってしまった理由そのものだなあ
気候が良すぎると住んでる人間はおっとりとしてしまうね
510人間七七四年:2009/06/16(火) 09:06:49 ID:pJY2VaTy
駿河は気候が穏やかでのんびりしてるから、
立身出世する人間が居ないとか言われたことあるな。
隣の遠州だと同じような気候でも、また少し違う気がするんだけど。
511人間七七四年:2009/06/16(火) 12:46:58 ID:XeIRUTYg
伊東が近いから地震多そうと思ったがそうでもないのか静岡
まぁ古代より富士山さえ爆発しなけりゃな
512人間七七四年:2009/06/16(火) 13:49:29 ID:IlE3RUUi
直家「備前も気候が穏やかで台風もよける、正にわしのようにおっとりした人物が住む土地じゃぞ」
513人間七七四年:2009/06/16(火) 17:55:25 ID:NXOTJHkc
久秀「なんのなんの、大和の人間なんかry」
514人間七七四年:2009/06/16(火) 18:44:30 ID:pipJsSQ2
>>509>>510
三重もそういうところがあると思う。
515人間七七四年:2009/06/16(火) 20:54:26 ID:eTItPmyw
>>512
秀家「父上、八丈島も住みやすいところですぞ」
516人間七七四年:2009/06/16(火) 21:08:09 ID:bE2LgsmF
出雲に佐陀江なる湖があった。ここは堀尾吉晴の家来たちにとって
憩いの場所だった。しかしある時、農民らが「灌漑に使いたいから
銀子二十枚で払い下げて下さい」と求めてきた。

奉行の者はかまわないと思ったのだが、吉晴は奉行を叱って「国に乱が
あった時、敵の中に飛び込んでいく武士たちが楽しむ場所を銀子などに
換えることができようか」と反対したという。
517人間七七四年:2009/06/16(火) 22:01:25 ID:mY34sogt
北条氏政は武田信玄の娘の黄梅院を妻としていた。
この夫婦には後の当主氏直がうまれている。
さて、信玄が駿河を攻めたという知らせと共に、
甲相駿三国同盟は破棄となり、氏政夫婦は離縁と決定した。
武家のならいであるとは言え、当の氏政は最後の最後まで渋ったそうだ。
黄梅院の甲斐送還の時、氏政は16貫文という大金を与えた。堪忍料としてだが、
甲斐での生活がうまくいくようにとの配慮もあっただろう。
だが、黄梅院は甲斐に帰ってからすぐに、27才で亡くなってしまった。
数年後、父親の氏綱が亡くなりもう一度、甲斐と同盟する事になった。
このとき、氏政が信玄に頼んだのは、黄梅院の遺骨を分けて欲しいと言う事だったのだ。
この願いは叶えられ、黄梅院の遺骨は早雲寺の黄梅院と言うところに
北条家正妻として葬られたという。
518人間七七四年:2009/06/16(火) 22:04:27 ID:6aNDWgyv
>>517
氏政の父親は氏康だよ

なんだかこのあたりの夫婦はなまじっか仲がいいから辛いな
519人間七七四年:2009/06/16(火) 22:13:11 ID:mY34sogt
>>517
すいません、まとめサイトにのせるときは、
×氏綱→○氏康に改めてください。
520人間七七四年:2009/06/16(火) 23:29:00 ID:RGwtTNf7
西軍についた丹羽長重は、関ヶ原の戦いの結果、没落した。
これにより長重は漂白し、付き従ったのは大谷与兵衛一人であったと言う。

大谷は自分の馬に長重を乗せ、三尺手ぬぐいを切り裂いて轡を結ぶなど、懸命に世話を焼いた。
各地で落ち武者狩りが勃発したが、これをなだめすかし、あるいは夜を徹して逃げ、
ついに長重を上方へと送り届けた。

この時、長重は大谷に手を合わせて、「お前から受けた恩は決して忘れぬ。もし許され、
再び大名へと戻る事ができたなら、必ずその十分の一を与える!」
そう、約束した。

後、長重が1万石で召しだされた時、早速に大谷を呼び、千石を与えたと言う。

世の人々はこれに、「主君が上がり目の時は、誰でもそれに付き従うものだが、
落ち目を見届けた大谷与兵衛こそ真の忠義者である。」と、そのように言いそやしたそうである。
521人間七七四年:2009/06/17(水) 00:10:28 ID:7u6qkpfE
「万貫の太刀一本では戦は出来ないけれど
百貫の槍百本あれば国を守れる」
みたいな事を言ったのは誰だっけ?
522人間七七四年:2009/06/17(水) 00:17:34 ID:vKdMXfzQ
悪い話のほうで家康の人材登用の話が出ていたので、こっちにも張ってみる


家康がある時、家臣の高木清秀を使番とし、筧正重を旗奉行に任命しようとした。

この人事案に本多正信は
「高木は高禄の士なので、こちらを旗奉行とし、筧は小禄ですからこちらを使番とすべきでしょう」
と、意見をした。
これは役職としては、旗奉行のほうが格が上であったためである。

ところが家康
「禄が多い者を旗奉行にし、禄の少ない者を使番とする、と言うのは、知行の多寡をで人を用いると
言う事だ。これは人材登用の目的にかなうものではない。

わしが見るに、筧には旗奉行の能力がある。そして高木は使番が相当であろう。そう判断したため、
それぞれをその役職に就けようとしたのだ。もし筧が小禄で、この役にそぐわないと言うのなら、
相応に禄を増やしてやればよい。

能力の有無を考えず、知行の多少だけで人の軽重を判断するのは、人を使う道では無いぞ。」

そのように言われたそうだ。

後の足高制を髣髴とさせる、家康の人材登用法のお話。
523人間七七四年:2009/06/17(水) 00:49:23 ID:r9aRkUJC
>>521
子供の頃読んだ歴史まんがだと朝倉の景孝が言ってた気がする
ひょっとしたら教孝かも
524人間七七四年:2009/06/17(水) 01:45:42 ID:N7kwatHj
>>517
嘘か真か、
氏政は横梅院を国境まで見送ったっていうしね。

愛妻と離縁しろといわれ、いやいや離縁した直後、
幼い我が子を越後へ人質としておくれとして言われれば、そら出し渋るぜ。

というか氏康は氏政になんか恨みでもあるのかw
525人間七七四年:2009/06/17(水) 01:54:07 ID:6+Ztb+Z5
>>522
本多弥八郎正信の面白い話、でもあるね。

家康がカッとなって家臣を叱りだしたら、途中で話を引き取ってサドの神(正信)のが大げさに怒り出す
しかも「殿は貴様が憎くて叱っているのではない、貴様に立派な士となってほしいからこそぞ!」とかナントカ
進んで憎まれ役を買って出て、主君と他の家臣の仲を取り持ってしまう
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2238.html

で、家康がやった妥当な施策には通り一遍の反対論を延べて見せて、
「実はかくかくしかじか、この方がよいじゃろ?」とことをわけて話されると
「さすがは殿のご慧眼、この佐渡守では思いも寄りませなんだ。恐れ入りましてございますハハーッ!」
とかなんとか持ち上げて、家康の名君ぶりや“徳”を伝えるわけだ


本多正信が直江山城に好意的だったのとかわかるな、意外や石田治部とも話が合いそうだし
526人間七七四年:2009/06/17(水) 02:13:56 ID:B4sjYwER
箸の上げ下ろしというかメシの食い方まで文句をつけるくらいだからね>氏康→氏政
ごはんに汁を何回かけようが構わないじゃんって思うよ

と、まあ例の汁かけごはんのエピソード自体が実話かわからんけど
そんな話が伝わっちゃってるのって
氏政の凡庸で悪い話ってことではなく
氏康の子育て失敗あるいは細かいこと気にしすぎの悪い話じゃないのかと思ったり

……おっと、ここはいい話スレだったw
527人間七七四年:2009/06/17(水) 02:47:33 ID:K5UUVEQL
ていうか、今に残るレベルの公的な飯の話をしたってことは、重臣クラスも前での話ってことだよな
今ですら恥の文化は重要なのに、そんなことを面前で話された息子の立場は?っては思う
528人間七七四年:2009/06/17(水) 02:54:07 ID:w2N/mc48
それ以前に、氏康ほどの人物が家臣たちの前で「我が家も息子の代で終わりじゃ」なんて言うとは思えないんだが
529人間七七四年:2009/06/17(水) 02:56:15 ID:plHqbbKx
自分ではなく親父の子なんだな、きっと
530人間七七四年:2009/06/17(水) 03:03:49 ID:vKdMXfzQ
つーか、氏政は結果的に北條家を滅ぼしてしまったから、必要以上に悪く言われてるね。
今に伝わる氏康の叱責ってのも、氏康の口を借りて後世の人が言わせたものだと
考えるべきでしょ。
氏政は、実際にはかなり早い段階から北條家の軍事、政治に参画して、氏康隠居後は
外交などを除いて、ほぼ当主としての権限を行使している。関東からの謙信の勢力の駆逐など、
氏康の功績とされるものも、多くは氏政の手によるものだったと考えて良いと思うよ。
531人間七七四年:2009/06/17(水) 04:17:57 ID:TVqZQ0W8
氏政、氏直親子は実績はかなり凄いのに割り食ってる部分があるね。
氏直はお祖父ちゃんが氏康と信玄で舅が家康とか胃に穴が開きそうだ。
親戚のおじちゃん連中も変なのぞろいだ。
532人間七七四年:2009/06/17(水) 08:17:38 ID:sl8nojpr
で、TERUがなんだって?
533人間七七四年:2009/06/17(水) 09:35:47 ID:WVzW1D1O
北条氏康も生涯無敗で相模の虎とまで言われたのに軍事面で影が薄い
534人間七七四年:2009/06/17(水) 13:20:20 ID:tDRRhX1q
道雪の酒 肥前の酒

「肥前の熊」と謳われた猛将、龍造寺隆信と
「雷神の化身」と称された大友家の勇将、立花道雪は
筑前、筑後の覇権を巡り激しく争っていた。

戦の陣中、隆信が昼食を食べている所に、道雪から和議の使者が来た。
隆信も(どうやら潮時か…)と思っていたので、和議に応じた。
道雪の使者は和議の祝いとして、道雪から贈られた太刀、馬、酒樽を
隆信に差し出した。隆信は喜び、贈られた酒樽に歩み寄ると、手にした
飯椀に酒を酌んだ。
隆信の家臣達はあわてて制止した。「まことに失礼ながら、その酒は
毒酒かもしれませぬ!飲んではなりませぬぞ!」
戦中の、しかも和議が成ったとは言え敵方が贈ってきた酒である。家臣
の言い分はもっともであった。だが隆信は笑って言った。

「道雪は手強い奴だ。もし敵将に毒酒を仕込むような輩であれば、今頃
筑前と筑後は俺のものであろうよ。」
と言って飯椀に酒を酌み、立て続けに三杯も酒を飲み干し、
「道雪殿の酒、まことに美酒であった。道雪殿にも肥前の酒を
一献差し上げる」と使者に自ら用意させた酒樽を渡して返した。

使者からこの事を伝え聞いた道雪は、「大将として剛勇の者だ。
まことに難儀な漢である。」と苦笑し、贈られた肥前の酒を
近習が止めるのもかまわず、椀に三杯の酒を酌み、飲み干した。
535人間七七四年:2009/06/17(水) 13:26:37 ID:xrk8Fwl8
>>533
武田や上杉が進行してきたら小田原に引きこもっちゃうからな
536人間七七四年:2009/06/17(水) 14:03:22 ID:vKdMXfzQ
サツマイモ事始

琉球王国の官士に、野国総管(のぐにそうかん)という人がいた。
1605年の事。彼が明に進貢船で使節として派遣された折、ある地方で飢饉が起こったが、
「蕃藷」と言う、外国から来た芋のおかげで多くの命が助かった、と言う話を聞いた。
そこでこの芋の苗を三品種ほど分けてもらい、琉球へと持ち帰り、故郷の野国村で栽培を始めた。

やがてその事を、琉球王族でもある儀間真常と言う人が聞きつけ、野国から芋の苗を分けてもらい、
自分の領地である垣花村にてその栽培法の研究を始めた。
琉球におけるこの芋の栽培は、少しずつ広まっていった。

数年後、琉球に大飢饉が起こった。
多くの人々が飢えて死んだ。が、蕃藷を栽培していた村では、
一人の餓死者も出なかった。

このことから儀間真常は、琉球王に蕃藷栽培の重要性を説き、その進言は容れられ
琉球全土で蕃藷の栽培が行われるようになった。

それから100年後、1705年に、薩摩国揖宿郡の漁師である前田利右衛門は、この琉球の人々が
普段から食べている芋に興味を持ち、苗を分けてもらい栽培を開始。やがてこれが薩摩全土、
そして日本全体に広がり、「サツマイモ」の名称で呼ばれるようになった。

那覇市奥武山公園内にある世持神社では今も、琉球、そして日本のサツマイモの祖である
野国総管と儀間真常が、大切に祀られている。
537人間七七四年:2009/06/17(水) 15:32:02 ID:N7kwatHj
>>533
このスレは検証不要だから真偽はともかく、

・小沢原で初勝利
・第一次国府台に参加
・河越夜戦で大勝
・第二次国府台で逆転V
・第二次駿河進行で信玄を完封

と主だったものだけ見ても凄いと思うぜ
まあ軍事面の影の薄さでいったら氏政のが凄いけどな。
結構な回数、自ら軍を率いて各地を転戦してるのに、
引きこもりとか言われちゃってるしなw
538人間七七四年:2009/06/17(水) 16:35:59 ID:xKCyqQJg
>>534
三国志演義にも陸抗(陸遜の息子)と羊コで同じような話があったな
この場合は薬を贈られたんだったか
539人間七七四年:2009/06/17(水) 18:44:26 ID:B4sjYwER
宇喜多殿から和議を祝して茶が届きましたぞ
540人間七七四年:2009/06/17(水) 19:04:25 ID:tmWsJFR+
直家に注がれた酒って、ロシアンルーレットみたいなもんだな。
もし酒に毒がなくても、安心した所をグサリとか…恐ろしい。
541人間七七四年:2009/06/17(水) 20:11:05 ID:gDHAgPxV
新聞の日曜版のコラムに紹介されてた話

噺家の元祖と謳われる、豊臣秀吉のお伽衆・曽呂利新左衛門
秀吉に気に入られ、ことのほか寵愛された
ある日、秀吉の側近達はその秘訣を知りたがり、新左衛門に尋ねた
新左衛門は次のように答えたという

「飯にはこれといって味があるわけではありません。一方、菓子は甘くてうまいものです
では、飯を食わずに菓子だけ食っていられるかといえば、それは飽きますね
同じことで、主君に甘言でへつらっていても、いずれは飽きられるのです
甘い菓子は飽きる、一方の飯はいつでもうまい
甘言で主君に取り入ろうというのは、大きな了見違いなんですよ
米のように、退屈もせず、気遣いもない、そういうものを目指しなされ」

「主君の寵愛などというものは、長続きしないのです
こびずへつらわず、まっすぐの心で奉公なさいませ
ほかに、これといって伝授もヘチマもございませんな」
542人間七七四年:2009/06/17(水) 21:17:39 ID:EG0KfBCe
新左衛門さんといえばアニメの一休さんでも>>541の話があったな。
543人間七七四年:2009/06/17(水) 21:55:00 ID:5fyj0CMd
本多佐渡守が軍議に出席している時に気に入らない意見が
出ることがある。こういう時に佐渡守は「おっといかんいかん。
うっかり眠ってしまいました。で、なんですか?」と家康だろうが
徳川四天王の意見だろうが聞いてないふりをした。そして自分も
賛成する意見の場合は「おお!それは名案ですな。流石○○殿、
頭が下がります」これでもかと誉めちぎった。このことを人々は
「正信のたぬき寝入り」と呼んでいたそうだ。
544人間七七四年:2009/06/17(水) 22:37:12 ID:vKdMXfzQ
>>543
上の方で正信と三成は気が合いそうって書き込みがあったけど、
三成にはこういう、抜け抜けとした腹芸は出来ないだろうし、やろうとも思わないだろうねw
545人間七七四年:2009/06/17(水) 23:01:14 ID:Fvb17gRv
>>544
そこが苦労した人間とそうでない人間の差かと
546人間七七四年:2009/06/17(水) 23:35:51 ID:zmkvLihp
年齢から学ぶものもあったろうね。
三成は死んだときやっと40の入り口、ばりばり仕事してたのは少壮気鋭の30代。
秀吉があんな馬鹿な死に方(成人した甥を族滅して幼児を遺す)しなけりゃ、
どんな風に年取ってたのか考えると面白いな。

サドの神も若い頃一揆を仕切ってた頃は、もっとずっと角の立った性格だったんじゃ
ないかと想像するw
547人間七七四年:2009/06/17(水) 23:57:20 ID:ub8f7C17
息子の正純の方は実際結構石田と仲いいしな
正純ももう少し親父くらいに器用ならあんなことにならなかったろうに
548人間七七四年:2009/06/18(木) 01:55:36 ID:GxxdX0xR
>>539
松永殿からも茶が届きました
549人間七七四年:2009/06/18(木) 05:14:14 ID:xkZjlm8J
天と地とでの宇佐美がそんな風に書かれてたなあ
550人間七七四年:2009/06/18(木) 08:22:43 ID:NCDDVZD1
足利義昭とかも数奇な人生だよなぁ。もう少し評価高くても良いような…
幕府は滅びちゃったけど信長死後も一応将軍職にあったし、
辞任後も出家して朝廷からは准后、秀吉からも1万石。
結果論だけど義昭の存命中は誰も将軍職に就き幕府を開くことはなかったし。
慶喜と比べても、そう悪い余生でもなかったんじゃないかな。
551人間七七四年:2009/06/18(木) 10:57:18 ID:VdDar1E2
まあ、本人の余生が穏やかなことと時代的な功績は必ずしも合致しないからなぁ。
552人間七七四年:2009/06/18(木) 12:41:00 ID:j+D3mIZK
もし義昭がもうちょい長生きしたら、家康が将軍職に就くのはさらに難航しただろう、とも聞く。
553人間七七四年:2009/06/18(木) 13:01:19 ID:Ad8gYw4g
反論は一言ですみます

「三職推任」

義昭が死ぬまで将軍位にあれたのは、当人の政治工作など能力の成果でなく、
完全に運と他人の都合の結果だからな。
554人間七七四年:2009/06/18(木) 13:35:28 ID:efBKhhIb
慶喜の余生なんて蝶ハッピーな余生送ってるじゃんか
555人間七七四年:2009/06/18(木) 14:22:45 ID:Eo5zYpA/
滅ぼされもせず以後担ぎあげられもせずひっそりと歴史から消えていく日本の将軍ってある意味すげえと思う
556人間七七四年:2009/06/18(木) 14:25:38 ID:NCDDVZD1
>>553
もちろんそうなんだけど、完全に運の良さと織田家内部の都合なんだけど、
義昭の諦めの悪さ、鞆に落ちて粘りに粘ったのはもう少し評価して良いとは思うんだよね。
557人間七七四年:2009/06/18(木) 17:11:10 ID:efBKhhIb
>>555
そういや懐良親王や足利直冬ってドコいったんだろうな
5581/2:2009/06/18(木) 17:57:35 ID:M7XWHW+T
小田原の役の時の南上州、この周辺の主城である国峯城の枝城、宮崎城(現群馬県富岡市)は、
双方の城主、小幡信貞が小田原城に籠ったため、いまだ幼少の弟、小幡信秀が
城代としてこれを守っていた。
が、ここにも前田、上杉を中心とした3万5千ともいう大群が押し寄せる。

水の手を切られた宮崎城の者たちは、例の如く米を流して水に見せる、等の奇策で
この大軍をよく防いだ。
しかし彼我の差はいかんともし難く、落城ももはや間近、と言う事態に陥った。

この時小幡氏の重臣、浅鹿民部は、小幡信秀に言う

「敵は大軍であり、もはや防ぎようがありません。信秀様は今すぐ、一先ず何処かへ落ち延びてください。
私はこの城に残り、夜になってから城に火をつけ、ご自害なされたかの態に見せ、
その後、後を追います。どうかお早く!」

信秀は是非も無く、日が暮れると供も連れず城外へと出た。
彼は、「南の方の秋畑は山地なので、敵も来ないだろう」と考え、見つからないよう、樵夫の通路だと言う
草深く曲がりくねった道を行った。
そのうちに峰に上り国峯のほうを見ると、城は焼け、炎が天に登り、まるで昼間のような明るさであった。
国峯城の屋形、櫓が焼け崩れる音、敵の勝ち鬨の声が聞こえてきた。

信秀は心細くなり、民部たちが、そろそろ自分に追いついてくるかと振り返りつつ小柏の峠まで
進んだが、誰も来はしなかった。
こうして一人で歩き続け、鹿島(現群馬県伊勢崎市鹿島)という場所に着いた頃に、夜が白んできた。
5592/2:2009/06/18(木) 17:58:20 ID:M7XWHW+T
秀秋はあせった。「夜が明ければこの地の者たち、私の姿を怪しみ絡め捕り、
敵陣に注進するだろう。そうなったらせっかく落ち延びた意味が無いではないか。どうしたものか…」

ふと見るとその地には、大きな森があり、その中に入っていくと、大きな神社があった。
そう、地名からもわかるように、ここには鹿島大社があったのだ。
「鹿島神は軍神と伝え聞く」、秀秋は心細くなり、どうか無事に守り給えと祈り、こっそり社殿の中に入り
隠れて、眠った。

やがて日が暮れると起き出し、暗闇にまぎれて、方角もわからぬものの、谷川の流れを頼りに歩いた。
谷から峰、峰から又谷と十里余りも歩くと、日野山の北、大沢と言う所に着いた。
先の鹿島からは、街道を通れば僅か3里ほどの場所である。信秀は疲れ果てた。

ふとその先を見ると、堂らしきものがある。近寄るとそれは、不動明王の尊堂であった、
これに信秀は「日野では鹿島明神の下で一夜を明かし、今日は計らずも不動明王を拝すとは、
不思議な因縁だ。」と喜び、明王に無事を祈ると、御堂の柱に寄りかかり、そのまま眠り込んでしまった。

さて、夜が明け日も高くなった頃。雨引村(現群馬県甘楽町)の向陽寺と言う寺の住職、
伝州と言う僧が。この尊堂を訪れた。不動明王に詣で、読教をしているとき、ふと見ると、
御堂の柱の所に、歳の頃12,3ほどの、清らかな侍が眠っている。
僧はこの侍の服装や武具の立派さに不審を抱き、供の僧を呼んだ、するとその声に
信秀は目を覚ました。

が、信秀は余りの驚きのため、口も利けないようであった。そこで伝州和尚から
「私はここの燐村、雨引村は向陽寺の住職です、毎月28日にはここに参詣をいたすのです。
ところであなたはどういう方でしょうか?」

信秀、ようやく落ち着いて
「どうかこの事は、人には知らせないで下さい。
私は国峯城主、小幡信貞の愚弟です、この度の大戦に打ち負け落城におよび、是非も無く
ここまで落ち延びてきました。」

これを聞いて伝州和尚は驚いた。「これはまさしく不動明王のお引き合わせでしょう!
どうか我が寺にお越しください!」

実はこの伝州和尚、甲斐武田氏の一族であり、かつては武田軍に加わり戦った事もあった。
そして信秀の小幡氏は無論、かつて武田家に仕えた家である。

和尚は、信秀を村童のようにして扱い、隠し通した。
やがて戦争が止み、関東に徳川家康が入ってくると、信秀はこれに名乗り出る。
家康は信秀を取り立て、徳川家の旗本とした。

小田原の陣の、とある少年の逃避行、のお話。
560人間七七四年:2009/06/18(木) 19:04:07 ID:h9xVkGOn
途中で名が変わってる…


ま、酒宴を開くから是非来なさい。

561人間七七四年:2009/06/18(木) 19:20:08 ID:M7XWHW+T
ああ!×秀秋、○信秀
何でこんな間違いを…。

2/2の1行目と5行目、まとめに乗せる時直しておいてください…orz
562人間七七四年:2009/06/18(木) 21:20:44 ID:lGg+z5rK
不思議な縁だなあ
563人間七七四年:2009/06/18(木) 22:19:22 ID:wB4w9FU9
ある時、徳川家康は阿倍川の水を駿府城の泉水に引くことにした。
奉行が測量した結果は寺の敷地を通すというものだった。
すると家康は「寺を潰してまでやらなくてもよい」と言いだした。
奉行は「しかし、ここはよい水路に入っているのです。寺は適当な
場所に移動させればよろしいのでは」と言ったのだが、家康は
「そういうことは場合によるのだ。泉水に水を引くのは、わしの
慰みにすぎない。いわば私事である。わし一人の楽しみで古来より
あった寺を動かしていいものか。敷地を通さなければ文句はない。
それが無理なら泉水はなくてもよい」と言ったという。
564人間七七四年:2009/06/18(木) 23:38:42 ID:M7XWHW+T
>>563
おお、そういえばこの話、出てなかったのか。
565人間七七四年:2009/06/19(金) 01:59:06 ID:zYVhmHw9
>>550
まあ信長が基本的に主筋をサツガイしないタイプだったし
斯波義銀、織田伊勢守(だっけ?)、義昭は追放で済ませている。
この頃の名門の家柄なら、下手に野心持たなければ生き延びてるのが多いね。
今川、山名とか。
566人間七七四年:2009/06/19(金) 02:48:59 ID:+S/buOXm
>>563
どこぞの映画監督は「邪魔だからあれをどけろ」と普通に言うらしいがw
567人間七七四年:2009/06/19(金) 02:50:13 ID:MpncPHjR
悪魔のように細心に
天使のように大胆に
キャメラを廻してたあの御大か
568人間七七四年:2009/06/19(金) 06:18:30 ID:jV80CFnA
最強伝説…
569人間七七四年:2009/06/19(金) 07:21:45 ID:cUf3nUMg
白 井 最 強
570人間七七四年:2009/06/19(金) 08:24:06 ID:ZlK1hdef
>>534
山内二十六ヶ山の頭領、神代勝利の毒殺を謀って失敗したくせにw
571人間七七四年:2009/06/19(金) 11:02:57 ID:p29Ov09C
寺沢広高の嫡男と、島津家久(忠恒)の娘が結婚することになり、島津家より
伊勢平左衛門(伊勢貞昌の一族か?)という者が婚儀の使者として唐津を訪れた。

めったにない祝い事の使者を、寺沢家一同で盛大な宴席でもてなしたが、この平左衛門、
泥酔した上に暴言を吐き始めた。
「ウィーヒック 寺沢家とー島津家ではー家柄といい、石高といいー釣り合わぬ縁組じゃなー」
暴言を聞いた寺沢家臣の中には、「平左衛門斬るべし!」と激怒する者もいたが、
婚儀の破談になることを恐れ、みな必死に我慢した。

天草城代・高畑新助もその一人だった。
「酔った上とはいえ、聞き捨てならん。だがここはガマンして、こやつの帰りを送って行き
道中で反論した上で、屈服させてやる。」
そう思い、平左衛門の帰り道に付き合った新助だったが、酔っ払いの罵声はますます
大きく聞くに堪えぬ内容になり、道行く人に達するまでになった。

キレた。 斬った。

この話を聞いた島津家久は、
「平左衛門が非儀無礼、言語道断なり。深くお詫びする。新助とやらが斬ったのも
もっともである。新助を罰することの無いよう、お願いする。」

と言い、早速使者を寺沢家に派遣したが、高畑新助は平左衛門を斬るに至った所存を
書置き、すでにみずから腹を切っていた。
「即座にこれほどの事をやってのける士が、こんな事で・・・」新助を惜しまぬ者は無かった。

蛇足
広高の嫡男は早死にして、家久(悪)の娘はさっさと実家に戻ってるので
島原の乱後の寺沢家改易は(悪)さんの陰謀・・・ではない、と思います。
572人間七七四年:2009/06/19(金) 12:13:10 ID:tX0if/yb
>>571
後に補足も書いてあるけど、年代的にみても謎があるお話ですよね。
悪久はそのころまだ正室亀寿とバトル続行中で、子供はいないはずなのですよ・・・

ちなみに伊勢平左衛門は悪久付きの筆頭家老で有名な伊勢貞昌の兄です。
573人間七七四年:2009/06/19(金) 12:19:19 ID:p/zoEpsN
同盟のために養女をとって嫁がせるというのが無いわけでもないし。
家格の差を考えればありえる話かもしれない。

案外、伊勢平左衛門の娘を養女にして嫁がせたとかだったりしてね
574人間七七四年:2009/06/19(金) 12:41:33 ID:C01j2Mt4
島原の後じゃ家久(悪)は死んでるだろ
575人間七七四年:2009/06/19(金) 13:18:22 ID:U/XT74Wl
あれこれ悪久の娘じゃなくて義弘の娘で悪久の妹の鶴姫の話じゃね?
576人間七七四年:2009/06/19(金) 13:31:27 ID:Tcn3Si9c
謎は深まるばかりでございまする
577北条氏規・韮山城の戦い(1/2):2009/06/19(金) 15:14:11 ID:U/XT74Wl
小田原合戦の話である。
北条氏康の四男、北条氏規が守る韮山城総勢三千六百は、
織田信雄等豊臣側の軍勢四万四千による攻撃を受けていた。
韮山城には五つの門があり、豊臣方はその五つの門の何れかを落とさんと
正面から挑みかかっていたが、
門に近づくと城内から弓矢鉄砲を撃ちかけられ、
門前に死体の山が築かれる事態となった。
豊臣側の福島正則隊は西側の十八町門を攻めていたが、
死傷者が増えるばかりで一向に埒があかないため、
三人の豪傑が門へと突撃、突破をすることになった。
三人は矢弾丸の雨の中をものともせず進んだが、
三人の内二人は矢狭間から襲いくる北条の槍長刀に討ち取られてしまった。
残った一人はカッとなり槍を突きだしたが、
滅茶苦茶に振ったためその槍先も折れてしまう。
流石のこの勇士もこれは無念、死んだなと思ったが、
すぐに落ち着くと討ち取られた二人の首を小脇にかかえ、
悠々と引き上げだした。
その様を見て北条方は一斉に男へ銃の標準を合わせたが、
それを氏規が制止した。

「あれほどの武勇の武士を、情けもなく討ってしまうのは軍神に対しての名折れじゃ」

兵達は勇士から標準を外し、再び他所に攻撃を始めた。

幼少時を武田や今川で人質として行き来して過ごし、
また氏政・氏直に代わり上方との折衝を務めた氏規には、
すでに北条の未来が見えていたのだろう。
しかし一方で北条のため戦いぬく覚悟は確かにあり、合戦に先駆け兄達に
「それがし一命あらんほどは、韮山の城を敵の馬蹄にかけまじく候」
と誓っている。
三月下旬に始まった韮山城の戦闘は、
六月二十四日まで続く小田原合戦最大の激戦地となった。
三カ月の間韮山は孤立無援の中士気を高く保ち「敵ながらあっぱれ」と評される戦いぶりを示す。
しかし勇戦すれども城外の戦況は悪化の一途を辿り、
小田原城は完全包囲され、支城も忍城と韮山を残すのみという状況に及んで、
ついに氏規は家康からの降伏勧告を受け入れ城を開くのであった。
578北条氏規・韮山城の戦い(2/2):2009/06/19(金) 15:15:09 ID:U/XT74Wl
氏規は戦後、兄氏政・氏照の介錯役を務めている。
そして役目を終えた後その太刀を自らの腹に突き立てようとしたが、
その可能性を危惧した家康により派遣されていた
榊原康正、井伊直政等が駆け寄り取り押さえ、
説得して思い留まらせた。

その後氏規は甥の氏直と共に高野山に追放されたが、
小田原合戦の翌年氏直と共に許され、
その氏直死後は彼の一万一千石を引き継ぎ、
一族唯一の大名として家名を明治まで残している。




余談だが豊臣側の生還した勇士は
笹の指物を付けていたということである。
579人間七七四年:2009/06/19(金) 15:20:11 ID:3SpQh0t9
語り口上手い!
580人間七七四年:2009/06/19(金) 15:27:01 ID:091hnnAE
家康がそこまで気にかけたのは、やっぱり幼友達だったからなのだろうか?
581人間七七四年:2009/06/19(金) 15:29:40 ID:44qFKqHg
>>577−578
最後のオチまで含めてめちゃめちゃいい話だわー。

> その可能性を危惧した家康により派遣されていた
> 榊原康正、井伊直政等が駆け寄り取り押さえ、

幼馴染でかなり仲が良かったんだよね、家康と氏規。
582人間七七四年:2009/06/19(金) 16:13:14 ID:3qAa+dxd
笹の才蔵さんもいいね。
583人間七七四年:2009/06/19(金) 21:09:40 ID:MOkqlBuB
関ヶ原から退却中のこと、
島津義弘一行は長宗我部盛親の陣の近くを通りかかった。
かつての友軍とはいえ、小早川の裏切りや敗勢が既に決したこともあって
「裏切って殿の首を手土産にするのでは…」と疑う者もいた。
(疑われたほうはいい迷惑だろうが)

そこで伊勢貞成、「某、単身偵察の任に当たらん」と使者を買って出て
盛親のもとへ乗り込み

「島津兵庫入道、今日の決戦は秀頼公の御為のみを思って行ったこと。
 決して私心から加担したのではなく二心あるものではありません。
 今わが方の将士は殆ど戦死し、僅かな兵を率いて帰国するところです。
 願わくば他日のため、我が殿に二心なきことの証人になって頂きたい。」

と堂々と述べたので盛親は大いに感動し
「今日の合戦、兵庫殿の奮戦に勝るものは無い。
 我等もこれより一戦交えた後に大阪に引き上げるつもりである。
 必ずや大阪城で落ち合おうとお伝えくだされ」
と答えて道案内の従卒まで着けてくれた。

伊勢貞成の剛毅な使者ぶりは川上忠兄と並んで後々の語り草と成り、
関ヶ原の勲功第一と称えられた山田有栄も死に臨んで
「合戦で臆したことは無かったが、貞成が使者を名乗り出たとき、
 それに遅れたのは無念至極。
 お前達も常に武勇を心がけ他人に遅れる事が無いように務めよ」
と師弟に言い残すほどであったと言う。

そんな彼に>>571のような運命が待ち構えていようとは誰が想像したであろうか…
584人間七七四年:2009/06/19(金) 21:18:35 ID:44qFKqHg
>>583
ああ、伊勢平左衛門=伊勢貞成なのか。
あわせると、酒は怖いよって話だなw
585人間七七四年:2009/06/19(金) 21:44:08 ID:tcrBlT3l
仕事から帰って晩酌してスレ開けたら>>571>>583で酔いが醒めたわww
オレも酒量減らそー
586人間七七四年:2009/06/19(金) 21:54:40 ID:EulBaYS2
驕りが出たのかねぇ
587人間七七四年:2009/06/19(金) 23:17:32 ID:tX0if/yb
わざと暴れたという説もあるね。島津家側の史料による話だけど。
寺沢広高がキリシタンだったからヤパーリ縁談を破談にしたくなってケンカを売ったという。

でも寺沢ってとっととキリシタンは廃業したような記憶が・・・あれ?
588人間七七四年:2009/06/19(金) 23:42:24 ID:wBb04bMA
もう何が事実だかさっぱり分かんない話だな
589人間七七四年:2009/06/20(土) 00:18:52 ID:8NnnmjOr
島津って、立花と会う前に長宗我部とも会っていたのか。
590人間七七四年:2009/06/20(土) 00:18:54 ID:AoTIZJkV
出てなかったので。
いい話かわかりませんが……。


戦国武将のほとんどが嗜んだとされている衆道だが、嗜まなかった人もいる。
そのうちの一人が、御存知天下人の関白殿下・豊臣秀吉。
ある日、秀吉公が家康公と話していたとき、


秀吉「わし、衆道に興味わかないんだけど、おかしいことなのかのぉ……?」
家康「はぁ……」


というやり取りがあったそうな。
真偽は不明だが、秀吉公と家康公の(仲の)いい話?
591人間七七四年:2009/06/20(土) 00:43:51 ID:YYYv4NlW
家康なんて生涯の衆道相手は一人だけだったのでは?
592人間七七四年:2009/06/20(土) 00:49:28 ID:rmxeIjGj
井伊万千代は多分確定。
永井万千代も可愛がられた様だけど、信康に可愛がられてたからだっけ。
593人間七七四年:2009/06/20(土) 00:51:55 ID:XH5UYZiD
>>589
それどころか、伊勢貞成は長束正家の陣に、川上忠兄は家康の陣に
撤退しますからって報告に行ってます。

それと>>571の話だが、伊勢貞成の没年は1607年て書いてあるから
忠恒の娘ではないと思われる。
594人間七七四年:2009/06/20(土) 00:59:00 ID:AoTIZJkV
>>591
相談する相手間違ってますよねぇw

>>592
逆に、万千代しか伝わってないのが気にかかりますね。
他にいたのか、家康も秀吉と同じだったけど直政のスピード出世と一緒に疑惑がついたのか。
595人間七七四年:2009/06/20(土) 01:08:35 ID:AoTIZJkV
>>581
よく、そう言われていますね。
氏真、家康、氏規の三人で遊んだりしてたんですかね。
596人間七七四年:2009/06/20(土) 01:30:15 ID:JF6PIVTQ
もしものことがあるから流石に氏真はどうだろね
597人間七七四年:2009/06/20(土) 01:34:23 ID:QM9v6aMF
>>577-578
韮山じゃなかったかもしれんが、駿河国境から伊豆の防衛ラインで
清水康英やその息子“尻でキュッ”清水太郎左衛門正勝ら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-237.html
デンジャー極まりない坂東武者が立てこもって上方武者をさんざ悩ませた話があったような?

まさか北条氏規までヒャッハーな坂東武者ズの系譜だったんじゃ……

598人間七七四年:2009/06/20(土) 03:55:49 ID:ptJ9DTth
いい話でも悪い話でもないから書き込むのちょっとためらうけど書いちゃう。


津軽為信に仕えた忍者、服部長門のお話。

服部は甲賀の出身で忍者の出であり、なおかつ甲賀忍術の達人であったといわれる。
為信には初期から仕えた古参の家臣とも関ヶ原合戦の直前に加わった新参とも言われるが長くなるので割愛。

彼を語る上で外せないのが大垣城攻略での活躍だろう。
服部長門は合言葉や合印を使って大垣城に潜入し城内の備え、将士の士気など様々を調べ周り
攻め方を研究した。さらに嘘の情報を流してのかくらんも行った。

長門「この戦はもう徳川様の勝利で確定だから。このままだと君らマジやばいよ。
   なんとかしてあげるからYOU裏切っちゃいなYO」
これにより大垣城は俺は裏切る、いや裏切らないの大騒ぎとなりやがて内乱にまで発展した。
この隙を突いて大垣城攻撃隊が攻め込み、落城とあいなった。

これを聞いた家康は
家康「お前マジパネェな。褒美に俺の名前を一字やるよ。これからは康成と名乗れ」
これにより以後は服部長門康成と名乗る。

三百石で召抱えられていた長門は千石に増禄され後に家老となる。
現代で言えば諜報部員が国防大臣に出世したようなものか? とにかく異例の出世である。

為信没後は幕府に二代藩主信枚の後見役に任じられ二千石に増禄され、
後には津軽藩の国替えを防ぐべく尽力したと伝えられている。

ちなみに服部半蔵の三代目が余りにダメな子だったため、その部下達が彼を頼って
津軽に落ち延びた…という話もあるがあくまで伝説である。
599人間七七四年:2009/06/20(土) 04:06:47 ID:ZQYUkCa3
伊賀じゃなくて甲賀なの?
服部だし「成」て通字が入ってるのに
600人間七七四年:2009/06/20(土) 04:43:11 ID:9wsT16qk
伊賀と甲賀は近所だろ
601人間七七四年:2009/06/20(土) 08:27:32 ID:5GtAq7pl
お隣さんだし交流も盛んで
小説や漫画みたいに敵でもライバルでもないからな
602人間七七四年:2009/06/20(土) 09:33:53 ID:bzOgdL30
ハットリ君のせいで犬猿の仲だと思ってたぜ
603人間七七四年:2009/06/20(土) 09:57:24 ID:c1y43NBI
>>597
氏規は弓の大変な名手で韮山の戦いでも自ら弓を取り多くの豊臣の兵を討ち取ったらしい
対武田の防衛戦でもかなりの活躍をしている
しかし人柄は温厚で篤実、いかにも外交向きの上品な御仁なので
あまりデンジャーでキュッなイメージは無いな
同じスピリットは持っているかもしれんが
604人間七七四年:2009/06/20(土) 10:00:53 ID:KmSv98Ks
>>590
「とりあえず、肉体言語で衆道について語りそうにない人間に相談してみた」
ってことなんだろうか?
605人間七七四年:2009/06/20(土) 10:32:54 ID:N0KZ+rWU
伊賀と甲賀って境の山を巡って争論やってなかったっけ?
606人間七七四年:2009/06/20(土) 11:32:12 ID:TplGdxQS
あれはプロレスだから
607人間七七四年:2009/06/20(土) 12:30:56 ID:p1U1IQ5d
やっぱり衆道ダメな人の話

奥方が好きすぎる細川忠興は男色が大嫌いで、家中でも衆道の契りを固く禁じた。
しかし、いつの時代も火遊びのスリルを求める人間はいるもので、忠興の近習と小姓が
関係を結んだのが発覚した。

忠興「オレが衆道を固く禁じてるのは、知ってるだろ。覚悟はできてるんだろうな?」
男色s「はい!ボク達、この恋に命かけてるんです!」 (`・ω・´(`・ω・´) シャキーン

忠興「そうか。禁を破ったとは言え、何事も命がけになるのは、立派である。
その心がけで、戦場でも励んでくれ。勝手にしろ。」
こうして二人は解放され、自由になった。

ホントに自由だった。
男色s「あ、あの…殿、そろそろボク達にも仕事を下さい…」ヤルコトナイ… ( ;^ω^( ;^ω^)
忠興「ん?言っただろ、『勝手にしろ』って。ブラブラするなり、ウチを出てくなり、
勝手にしろや。」
Σ(゚д゚lll(゚д゚lll)

その後も仕事をしない(与えられない)二人に、周囲の風当たりも悪くなった。
「…職場恋愛とか……殿に許されたからって……仕事もせんと……」
m9( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )c9m

(;´・ω・)(・ω・`;) ……
(´・ω・)   (・ω・`) ……
(・ω・`)             (´・ω・)

気まずくなった二人は関係を自然解消し、以後細川家に衆道は無くなったという。
608人間七七四年:2009/06/20(土) 12:39:21 ID:QM9v6aMF
>>607
辞令「二名をハイパーメディアッー!クリエーター房(室)付きに任ずる 」

壁も天井も床板まで真っ白な部屋に押し込まれて放置プレイですね。
609人間七七四年:2009/06/20(土) 13:09:43 ID:WR1ZYrvf
>>607
さすが四天王の中では(比較的)知性派の忠興公
これが鬼武蔵殿なら問答無用で……
って、鬼武蔵殿はアッー!はむしろ好物でしたかな
610人間七七四年:2009/06/20(土) 13:13:49 ID:QhsHcNGr
>>607
いい・・・話?
611人間七七四年:2009/06/20(土) 13:24:07 ID:c6j+a2WV
三歳様の策で若者が眼を覚ましたいい話じゃないか



・・・気に入らない部下にパワハラした話ではない。多分。
612人間七七四年:2009/06/20(土) 13:26:09 ID:h0ODELgm
切り殺さなかっただけでいい話に見える不思議
613人間七七四年:2009/06/20(土) 18:32:44 ID:+BSHlo5e
職場恋愛禁止の規律を徹底したとすればいい話
614人間七七四年:2009/06/20(土) 20:31:19 ID:fDu1qGIi
>609
シグルイの双子の相手した陰間みたいになるとオモ。
615人間七七四年:2009/06/20(土) 21:22:39 ID:5hk6gmNm
>>612
その時点ですでに35人か36人(*)切り殺してたからだろw
*36歌仙参照
616人間七七四年:2009/06/20(土) 22:28:23 ID:2c7Svp4c
1587年、秋田で安東愛季が病死すると家中は大混乱となった
1589年には、周辺勢力を巻き込んだ内乱、湊合戦が勃発する

その後、なんとか内乱を鎮圧した実季方は、謀反人の追捕に全力をあげた
しかし、安東脩季という大物が一人だけ、身を隠し続けた
彼をかくまったのは、配下の豪族・森元祐禅である
結局は発覚し、脩季は自害、祐禅も罪を問われて捕らえられた
当然、家中は祐禅死罪という意見だった
が、祐禅助命を願う者がいた。いまだ15歳の実季、その人である
「自分の主君を敬愛し、かくまったことが罪科なのか?むしろ立派な行いじゃないか」
実季はそう言って死を免じ、追放に処した

祐禅は甲斐に隠れ住んでいたが、
やがて佐竹義宣が秋田に移る際、荷を運ぶ船の案内役を務めたため、
男鹿の肝煎として帰国できたという
617人間七七四年:2009/06/20(土) 23:13:06 ID:c6j+a2WV
こういう人格者があんな悲惨な老後を迎えなきゃならんのか・・・
618人間七七四年:2009/06/20(土) 23:36:58 ID:CPxs4L7V
>>617のおかげで哀しいお話を思い出しました・・・(´;ω;`)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1983.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1559.html
619人間七七四年:2009/06/20(土) 23:54:24 ID:YYYv4NlW
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                   イ:::::i:::::::ハ::::::::: ヾ:::: |:::\:::ハ::::| :::::::::::::::::::::::\ 
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 実 や |i         ヽ   | ト/人7} 〃〃    〃〃´ ∠イr 'ちノ::::: |  ふ 家 
 季 っ  |i      / ・ i     イ:リ::::|    '、        |:::::rイ:::::::: |  え 族
 ち た  |i          t    / i:::::ハ    r‐--ー、     /ハi!:::::::::::::::: |  る が
 ゃ ね  |i         〃 ●   ハ::::::: \   .イ_ _,,ツ  イ/'/:::::::::::::. <  よ
 ん    |i   r一 ヽ      )  /i::ハi::::i:::::>,, ___ _,, ´ /,,ハ/|/:::ii:::::::: |  !!
 !    |i   |   i   ∀"    "  ̄ ̄     ト、  //ヽ  ̄" ̄  |
        |i   |    i   ノi            ノ:r j       :ア` …‐: |
       |i ニ|   |二二◎        __,..'| /        /   :::: |
       |i  i    i   ヽ      __,,:'´   t/       /    :: |
       li           }    ,_:'´     {    ,,___ /     ,,/i \____
       |i           |  /j\    _:ヘ:ニヽ,,,/_,,    , /:::j      j
  __ /          / ⌒`)⌒) i:::::ヽ::`r‐'___ `   ヽ ,,:_,,_,,/:::::ノ"ノシ    〃
      ,ノ フr フ   メ   / ノ  ゝ:::::: ゝ- 、 ヽ     |::::::::::::::::::::ソ /     ./
620人間七七四年:2009/06/21(日) 00:11:07 ID:HLeF4R8Y
いやそりゃ人形とお話するけどさwww
621人間七七四年:2009/06/21(日) 00:36:00 ID:AZUb7Hje
そのAAは
622人間七七四年:2009/06/21(日) 00:45:50 ID:M8qq6HvM
たえちゃんをこのスレに張るなよ…
623人間七七四年:2009/06/21(日) 09:02:22 ID:IsR+UYg7
すっかり木造の人ってイメージが定着しちゃったな実季…
624人間七七四年:2009/06/21(日) 13:21:04 ID:xHJyXXrr
DQN四天王+テラ小物ス市松さんは言うに及ばず

鮭様
狂犬富田長繁
やるおテル
フリチン四郎勝頼
魔法使い義宣・ただしリア充
ヒャッハー坂東武者(鈴木大学はじめ全般)


らに続く、フィギュア遊び実李ちゃん
625人間七七四年:2009/06/21(日) 13:23:19 ID:h4SfDJxH
覚醒実季
ある条件を満たすと大名としての自覚を失い、真剣に木像を友人扱いするようになる
626人間七七四年:2009/06/21(日) 13:24:54 ID:wNw9+gzd
実李ちゃんはガチで可哀相なのでネタにしにくい
627人間七七四年:2009/06/21(日) 13:27:08 ID:IsR+UYg7
>>616自体は真面目にいい話だし他に出てる話もいい話なんだがなぁ
やっぱり初めに出された木像の逸話がインパクトありすぎるのか
終わりよければ全て良しと言うが晩年があれだとやっぱりなぁ…
628人間七七四年:2009/06/21(日) 14:06:07 ID:+EW6hhmL
>>627
人格者であることと家庭的幸福とは無縁、ということだなw
629人間七七四年:2009/06/21(日) 14:12:08 ID:s0+dk/E5
真面目ないい人ほど精神を病みやすいとか言うしな。
秋田は鬱病とか自殺の発生日本一とか聞いたが
戦国時代からすでにその傾向があったのだろうか。
630人間七七四年:2009/06/21(日) 14:27:30 ID:0h0Lf8kt
鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。
    …それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうが
    その先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
631人間七七四年:2009/06/21(日) 14:29:35 ID:IsR+UYg7
>>630
悪いスレ前スレで既出
ってかマルチすんな
632人間七七四年:2009/06/21(日) 14:53:18 ID:z/yp6sgv
木像に話しかけたのは別に気が違ったわけじゃないと思ってたが違うの?
隠居中に系図作ってるし、おかしくなったわけじゃないと思うけどな。
633人間七七四年:2009/06/21(日) 14:56:31 ID:IsR+UYg7
現代でも人形やぬいぐるみに語りかける子供はいるし、
おばちゃんやおばあさんが草木に話しかけるなんて光景はみられるが
自分の像を造らせて自分の名前付けた木像に語りかけるってのはなぁ
気が触れて無くても寂しすぎる晩年だろう
634人間七七四年:2009/06/21(日) 15:07:42 ID:Q+hQN6AY
おめぇらが冷遇するから、俺はこんなんになっちゃったよ!
っていうポーズかもな。
635人間七七四年:2009/06/21(日) 15:09:31 ID:ZeGjLTMX
寺に引きこもる謙信かよw
636人間七七四年:2009/06/21(日) 18:17:34 ID:OdCQNiHw
このスレにもいるんじゃないの?
リアルドールに話しかけている奴w
637人間七七四年:2009/06/21(日) 19:05:50 ID:T9IecYSO
まあ贔屓の女性キャラを嫁にしてる男なら大勢いそうだ。
638人間七七四年:2009/06/21(日) 19:38:14 ID:zv3aED0w
まとめにちょろっとあったけどいいかな?

後奈良天皇の十三回忌の法会が近づいていた。しかし朝廷には金がない。
そこで権大納言・山科言継は徳川家康を頼ることを提案。朝廷もそれに
賭けることにした。

当時は盛夏。しかも行き先が三河となると、老人の言継の身に何かあっても
おかしくはない。言継は出発前、息子言経に神楽の奥義を伝授した。
それだけ覚悟した旅だったらしい。出発した言継はまっすぐ三河に向かわず、
岐阜に向かい始めた。言継は信長に会おうとしたのである。

まず信長の側近・武井夕庵と会った。夕庵も高齢だが、金華山を行ったり
きたりして、信長の「この暑さの中を老身だというのに本当にご苦労。
三河まで行くのは私用と公用のどちらなのだろうか。老身には山登りは
きついだろうから麓の邸宅でお会いしよう」という言伝を言継に伝えた。

次の日、信長が山を下りたとしらせが来たので言継は出かけたのだが、
やっぱり明日にしてくれとまたしらせが来た。ところが言継がやれやれと
宿に戻ると、今度はすぐに来てほしいとしらせて来た。こうした行き違いが
あったものの、なんとか言継は信長と面会できた。

事の次第を知った信長は「仰天」した。そして信長は「老体が猛暑の中、
三河まで赴くのは大変であろう。それに家康は駿河辺りにいるはずだ。
他用がないのなら、三河まで行くこともない。わしがなんとかするゆえ、
岐阜でゆっくりしておられよ」と心強い言葉をくれた。また、あとで夕庵が
「家康殿がダメだったら殿が一、二万疋は用意してくださるでしょう」と
信長の内意を伝えてくれた。

こうして初めは死ぬかもと思っていた旅だが、信長の計らいで一件落着となった。
結局、二万疋が献上されたのだが、その四分の三は信長の献上したものだった。
また、信長は言継に渡状を渡して、献金は京都まで運んであげたという。
639人間七七四年:2009/06/21(日) 19:57:24 ID:WjDgFaeg
なんで頼るべき人物の提案で、信長じゃない家康の名が出て来るのか理解出来ないな。
江戸時代になってからの作り話じゃあるまいし
640人間七七四年:2009/06/21(日) 20:00:38 ID:2+2GW7hB
たしかこの時、家康は朝廷に貸しがあったから、だったかな。
名前を家康と改名した際、朝廷が何かして上げたとか何とか。
で、それをネタに家康に無心に行ったと。たしかそんな内容だった気が。
641人間七七四年:2009/06/21(日) 20:08:18 ID:H2lWurYe
>>640
家康でなくて松平を徳川に改姓した時の借り
毛利みたいにある程度、歴史のある国人と異なり、松平は生粋(?)の氏知れぬ身
三河を統一した時に三河守になるには血統的に問題があるので系図を公家に
拵えてもらった
また、これによって他の松平家に対して上位であることを示した

それなりに借りはありますな
642人間七七四年:2009/06/21(日) 20:10:58 ID:gIo7aWyM
>>632
俺もなんか禅とか哲学?みたいなのの裏付けがある行動かと思ってた
俺には意味わからんけど
643人間七七四年:2009/06/21(日) 20:16:53 ID:x2F9R6t4
確かに現代人の価値観から見るとおかしいと思うかもしれないが
ものにも魂が宿ると広く信じられていた時代の話だし
おかしい話でもないと思う
アンネが日記に名前付けて話かけているようなもんだ
話かけても返ってこないことは
本人が一番よくわかっているだろうことを考えると涙が止まらんよ
俺男の子だけど
644人間七七四年:2009/06/21(日) 20:51:18 ID:hbK+R0sh
たとえ木造に魂が宿ったとしてもその魂は喋ってる自分のもので・・・あれ?
645人間七七四年:2009/06/21(日) 20:57:11 ID:IsR+UYg7
>>643
像が自分をかたどったもので無く自分の名前で呼んでいなければその通りだとは思うんだがなぁ…
646人間七七四年:2009/06/21(日) 21:33:04 ID:RZepzllV
明智光秀の良い話

天正3年(1575年)、織田軍は越前一向一揆の征伐を開始。
府中での撫で斬りを始め、数万とも言われる人々が虐殺された上に
一向一揆に加担しなかった農民も織田軍の略奪や横暴を恐れて山奥に避難する等、どの集落も廃墟同然の有様であった。

こうした報を聞いた光秀は朝倉家に仕えていた頃に与えられた領地であり、自分の家族とも親しく過ごしてくれた東大味の住民の安否を気遣い
この地を戦禍から逃れさせる為に柴田勝家・勝定らに依頼し、この地の住民の安堵状(制札)を出させたと言う。

西蓮寺の衆宛に出された二通の安堵状も残されており、曰く
「この寺に住む者等は早く帰って住居する様に。もしこれを非難する者あらば知らせよ。その者らを蹴散らしてくれる」
その依頼は守られ、その後も勝家による保護は篤くなされた。そのこともあって、土地の人々は「織田軍から村を守ってくれたお方」として光秀に対する尊敬と感謝を強めたという。
647人間七七四年:2009/06/21(日) 21:34:11 ID:RZepzllV
後に光秀が本能寺の変で信長を討ち、天下に謀反人・逆賊の汚名を残した後も
東大味の明智館跡に住む三軒の農家は光秀の遺徳を慕い「生きているのは光秀様のおかげ」と光秀の秘仏を作り、密かに数百年の間守り続けた。

やがて徳川の世が終わりを告げ、明治の世になると、三軒の農家の子孫達は敷地内に「光秀の秘仏(木像)」を御神体として祠を建て「明智神社」と命名した。
世間からは逆賊を何故奉るのかと白眼視されたものの、時が経て、光秀の歴史的評価が変化。

かつて三軒の農家で守ってきた境内の管理は東大味町へ移行、昔は子孫を批判した人々とも和解・反省し
地元では神社の事を「あけっつぁま(明智様)」と親しみを込めて呼び、今に至っている。
余談ながら、光秀は東大味に数年間住んでいる時に娘の玉子(後のガラシャ)を授かっており、ガラシャ生誕の地としても知られているそうです。
648人間七七四年:2009/06/21(日) 21:49:19 ID:yWWk1H5K
九州征伐の戸次川の戦いでボロ負けした仙石秀久は当然改易された。
とはいえ、まだ戦国時代。どこかで合戦なんて可能性もあったりする。
そこで、彼は高野山でおとなしくして・・・・なかった。
いつの間か徳川家康の客将になっていた。今で言えば非正規雇用である。
さて、そうこうしている内に北条征伐となり、徳川家も北条征伐に参加していた。
もちろん仙石秀久もである。で、その彼の格好というのが凄い。

たくさんの鈴をつけた甲冑にドハデな陣羽織。

想像するにつけ、うるさそうである。歩く騒音と言うところか?
さて、彼はこの人目に付く格好をしつつも、活躍をした。ある意味、
活躍した事を知ってもらうためにそんな格好をしたのかも知れないが、
彼だって大名復帰を賭けていたのだろう。彼は本当に戦場で大活躍し、
地名にその名を残した。

箱根仙石原

である。こうして、
仙石原にその名を刻むと共に大名へも復帰した仙石秀久であった。
649人間七七四年:2009/06/22(月) 00:17:06 ID:K6C3aXJm
>>646->>647
数百年もの間、守り続けるって大変なことだよな
よく頑張った
650人間七七四年:2009/06/22(月) 09:56:38 ID:zKFLdiFe
明智光秀こそ義の武将
651人間七七四年:2009/06/22(月) 10:10:51 ID:vap7ZYAU
>>648
仙石秀久

政治   D
知略   D
采配   E
武勇   S
胡麻すり S
652人間七七四年:2009/06/22(月) 10:26:23 ID:xTTShLvQ
>>646-647
ええ話や……
逸話見てると光秀は本当に少し真面目すぎで律儀ないい人だよな
こういう人がキレると大変なんだろうけど

>>468
仙石は戸次川がひどすぎてどうもなあ……
司馬史観すぎるのかもしれんが何しても軽薄に見えてしまう
もう少し調べたら何か擁護する点が見つかるだろうか
653人間七七四年:2009/06/22(月) 10:53:38 ID:Qnt93s7e
才能がないのにそんなポジションに配置されちゃった事くらいじゃない?擁護
654人間七七四年:2009/06/22(月) 11:00:33 ID:VGJsDpNO
じゃあ、こんな話

関ヶ原の戦いに遅れた徳川秀忠は家康の怒りを買い、目通りすら許されなかった。
この時、小諸六万石の領主として秀忠についていた仙石秀久が、家康の前に進み出た。

「確かに決戦は終わっており、今さらそれについては、何も申しません。
しかし、もし西軍の意気が盛んで、戦いが拮抗した場合、秀忠様があとから到着、
と聞けば、西軍の士気と戦いの行方に、重大な影響を与えたでしょう。
その後なら、真田など使者を送るだけで降伏します。
それがし、『小事に拘り大事を忘るるは名将の為さざる所』と聞いております。
恐れながら、今の秀忠様の処置は間違っておられる。」

家康は秀久の直言を褒め、他の者の取り成しもあり、秀忠と対面した。
秀忠も「秀久が忠義、忘るること無し。」と言ってこれを喜び、将軍となった後も
秀久が小諸から江戸に来ると、必ず使者を板橋まで送り、出迎えた。

何年かのち、土井利勝が秀久のもとにやって来た。
「貴殿、末子を両御所(家康・秀忠)のどちらにも目通りさせておらぬとか。
拝謁させて、ご子息の栄達を図りなされ。」
秀久は答えた。
「それがし、未だ両御所の厚恩を返せず、嫡子・忠政も別に恩を賜っております。
どうしてこの上、末子まで拝謁などできましょう。」
「なるほど、良いお心がけです。しかし、今回は上様の御意ゆえ、お請けあれ。」

利勝の説得により、秀久の末子は旗本として取立てられた。

ソースが言行録なんでアレだけど
ひいき目に見れば関ヶ原における秀忠の兵力温存説はここからかなーという話と、
大失敗して自重をおぼえたゴンベ、という話。
655人間七七四年:2009/06/22(月) 11:27:40 ID:lv2YmXTd
仙石か。槍働きだけやらせておけば後世に勇名を残せただろうな。
656人間七七四年:2009/06/22(月) 11:53:25 ID:zpRR/UiR
戸次川では負けただけでなくその後とんづらこいたからなあ
657人間七七四年:2009/06/22(月) 12:02:29 ID:xTTShLvQ
>>654
秀忠取りなした話は榊原康正の方にもあるからなあ
658人間七七四年:2009/06/22(月) 12:43:37 ID:zpRR/UiR
つまりあれだ、「みんな」が執り成したので許してあげたんだな
ゴンベも康政もその他諸々みんなで許してあげなよといったからと
659人間七七四年:2009/06/22(月) 13:29:22 ID:uOk7YK1h
>>654
ここでも土井利勝の言葉の魔術師ぶりが光ってるなw
660人間七七四年:2009/06/22(月) 13:34:35 ID:G+vOLpdD
タラレバーで説得されても説得力がない
661人間七七四年:2009/06/22(月) 17:49:39 ID:JDSOjtdY
家久   ∧
      ('∀`)  (鱈レバー…毒殺に使えそうだお…)
     ノヽノヽ
       くく
662人間七七四年:2009/06/22(月) 21:56:42 ID:pqSbWZhx
やっぱり槍働きと胡麻すりしか記録に残ってないゴンベさんであった
663人間七七四年:2009/06/22(月) 23:09:00 ID:xYd1jLGV
ゴンベの子息ってちょっと波乱人生
・長男が盲目
・後継者と決めた秀範が関が原で西軍につき(廃嫡)、大坂の役では豊臣方に
・後を継いだ忠政、小諸城主から上田城主へ
664人間七七四年:2009/06/22(月) 23:56:54 ID:LMSZaO0f
徳川頼宣の付家老の安藤直次は、頼宣の教育係として手抜きをしなかった。
その様子ははたから見ても厳しいものだったらしい。

見かねたある人が
「あなたが殿に申し上げているのを聞くとあまりにひどい。
黙って殿のお言葉を聞くのが、あなたにとって幸いであろう。」
と直次に言った。

すると直次は
「それは違いますな。すべて殿にとって幸いと言える。
殿が某の言葉を聞かれるのは当然のことです。」
と言ったという。
665人間七七四年:2009/06/23(火) 00:00:42 ID:Z6YnXdDw
>>664
ある意味、教育者として適任でしたな。→安藤直次
666人間七七四年:2009/06/23(火) 00:32:28 ID:QTPQTDMv
>>663
豊臣家臣として節義を全うしたのは秀範の方だな
親父の方もまあ徳川に恩義があったのだろうけど
667人間七七四年:2009/06/23(火) 05:09:21 ID:L/A2U3QR
仙石は貴重な関西の蕎麦名産地を作ってくれた一族w
668人間七七四年:2009/06/23(火) 08:18:03 ID:6NUi9h9N
自分の息子が戦死しても「犬にでも食わせとけ」の人だし、厳しくて当然
669人間七七四年:2009/06/23(火) 10:38:07 ID:YHt6DhJ0
関ヶ原の戦いの少し前、犬伏で父や弟と別れた真田信幸は小山に駆けつけ、
舅・本多忠勝と同宿した。
夜になって、同じ信濃出身の保科正光が密かに訪ねて来て、信幸に耳打ちした。

「お主、なぜここに来られた?徳川は譜代が多い、外様がこの先どう扱われるか、
良くお考えあれ。かく言うわしも、真田より先に徳川についた身ながら、この戦に勝っても
遠い磐城へ移封されるらしい。
わしの今の失意、お主ならお分かりだろう?もう一度考え直されよ!」
信幸は答えた。
「私は既に決めたのです。もう言わないで下され。」

説得を断念した保科が去ると、入れ違いに忠勝がやって来た。
「今、黒い鎧の武者が出て行ったようだが、誰が来ておられたのかな?」
信幸が動揺を隠して黙っていると、忠勝が言った。
「フン、あの鎧は保科であろう。おおかた、「所領に帰れ」とでも説きに来たか。」
驚く信幸に、忠勝は続けた。
「なァに、あの帰り方では、あやつは逆にムコ殿の腹でも探りに来たのだろう。
何も心配する事はない。」

忠勝の言葉通り、戦後に信幸改め信之は父・昌幸追放後の上田領を相続できたし、
保科は本領・高遠を安堵された。
「このように、舅どのは戦の機微に練達するばかりでなく、洞察力も神の如しであった。」
後々まで信之は語ったという。
670人間七七四年:2009/06/23(火) 11:54:09 ID:V0zlt9yd
嫁はともかく義父はいいよなあ
仲も良かったみたいだし
こんな義父なら「お義父様を俺に下さい」と言いたくなる
671人間七七四年:2009/06/23(火) 12:07:57 ID:Pw48B5SP
漏れなくおn…もとい嫁が付いてきます
672人間七七四年:2009/06/23(火) 12:51:59 ID:xyTUNakF
嫁の方も実際はそんなに悪妻じゃないかもしれない。
夫婦仲は他人が外から見てもわからんよ。
673人間七七四年:2009/06/23(火) 13:54:06 ID:/u5/Wp02
小松さんに先立たれて信之、「我が家の灯火が消えた」と嘆いたそうだしね。
誇りたい舅・嫁、自慢できる婿・ダンナだったと思う。
674人間七七四年:2009/06/23(火) 14:04:30 ID:V0zlt9yd
それはそうだと思う
ソクラテスの妻も夏目漱石の妻もそうだが
ジョークに出来る悪妻って実は得難いものなんじゃないかと思うよ
本当にひどい話はジョークにならない
675人間七七四年:2009/06/23(火) 14:11:28 ID:/Jf9xncw
飴と鞭の使い分けが上手かったんだろ>小松さん
それが鞭の部分だけしか知られていないor記録に残っていないから悪妻扱いなのでは?

少なくとも現代の暴力しかない似非鬼嫁とは訳が違う気がする
例えるならフクシに甘くない落合信子
676人間七七四年:2009/06/23(火) 14:24:03 ID:IPS/XhLv
そもそも小松は良妻賢母な記録、逸話ばかりだろ
何で悪妻になってんだ?
677人間七七四年:2009/06/23(火) 14:45:41 ID:pjNKw2ws
信幸兄ちゃんとの馴れ初めとか、
北国街道を通る前田家の行列から品物巻き上げたとか、
今にも戦場に出そうないでたちの肖像画とか、
悪妻っていうより、とにかくインパクトが強烈すぎるんだよね…。
678人間七七四年:2009/06/23(火) 15:51:17 ID:i89NIQdi
江戸時代の小松殿の評価は良妻賢母と言うところだったらしい。
但し、本人は戦国時代の生まれなので、やることなすことのインパクトが
ありすぎると言うところだが。
というより、本多家は忠政以外インパクトを取ったら何も残らないような気がするのだが。
679人間七七四年:2009/06/23(火) 16:25:57 ID:72K7yUsd
戦国屈指の傭兵集団雑賀衆が浄土真宗に集団で帰依したのは本願寺蓮如が紀州に布教に訪れた時のことである。
阿弥陀仏を信じて南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間でも救われるという教えは、
明日をも知れない傭兵集団である雑賀衆の心を癒していたのだろう。
退けば無間地獄、進めば往生極楽というのも傭兵集団には心強かったのだと思われる。
一方、同じ紀州の傭兵集団である根来衆は真言宗根来寺の僧兵を中心としていたので、
紀州には一向衆門徒の雑賀衆と根来寺の僧兵を中核におく根来衆、二つの傭兵集団が誕生することになったのである。
仏教の教えが直接的に人の境遇や立場を救っていた頃の話。
680人間七七四年:2009/06/23(火) 19:02:57 ID:HTAGLvPx
俺の中では小松姫は美化した北斗晶になってるから困る
681人間七七四年:2009/06/23(火) 19:07:11 ID:80Am72d7
戦国ビギナーが今まで色々な戦や人物、逸話を良いスレ悪いスレで見てきて
ふと初心に帰ってみたが、桶狭間の戦いって本当に滅茶苦茶な話なのな。
「一武将ならぬ大大名が、存亡の危機どころか圧倒的優勢疑いない遠征で討ち死に」
なんて話、他に聞いた事無いや・・・。
682人間七七四年:2009/06/23(火) 19:13:04 ID:OCIURNT/
厳島も河越夜戦もあるぞっと
683人間七七四年:2009/06/23(火) 19:16:39 ID:luwCnGqf
沖田畷の戦いが一番近いかな
河越夜襲、九州の桶狭間、西国の桶狭間は大将や大名の討ち死にじゃないし
684人間七七四年:2009/06/23(火) 19:18:21 ID:7L2Mo3m7
沖田畷の戦いもそうだね。
685人間七七四年:2009/06/23(火) 19:20:48 ID:IPS/XhLv
厳密に言えば桶狭間時の義元は大名じゃないけどね
686人間七七四年:2009/06/23(火) 19:24:08 ID:tjuV9HUb
「森家一汁三菜のこと」

天正11年12月から翌年2月間での間に、長可は、濃洲梶田の城主斉藤玄蕃、安八郡の城主稲葉一鉄、郡上の遠藤大隈守
胤基左馬介慶隆、高山の金森長近などの城を攻めてこれらを降し、いずれもその幕下に入れて領地を拡大した。
稲葉一鉄が金山へ挨拶に来たところ、長可は大変喜んで三汁十菜以上の御馳走を作りもてなそうとしたところ、一鉄はこれ
を見て次の間へ立って行き、一汁三菜にしてくれといい、林新右衛門と各務清右衛門の両名に向かって言うには、

「長可様はまだお若いのだから、方々方はよくよく気を配って御奉公を願いたい。みんな大名のことゆえ御料理のことなどに
ついて好き嫌いをいうはずはないが、このたび美濃の面々が沢山御旗下になって、これから追々御挨拶に来ることと思う。
そのときに金山は山の中ゆえ、いつも肴があるわけではなく、このような御馳走をしようと思っても出来ないこともある。
すると稲葉一鉄が初めて伺候した時の料理と後から来たものの料理とが違うとあっては、差別待遇したこととなって不快の
念を持つようになり、長可様の御為によくないと思う。御旗下になった以上は、必ず御家のために働くから決して御心遣いを
せられぬよう願いたい」といった。

これ以来、何人が来ようとも森家においては一汁三菜の外は決して御馳走せぬようにと林、各務両名へ申しつけたと言う。

・・・・「森家一汁三菜のこと」なんてタイトルですが、稲葉一鉄のちょっといい話・・・?
687人間七七四年:2009/06/23(火) 19:28:14 ID:luwCnGqf
さすが頑固一徹の語源になっただけのことはあるw
688人間七七四年:2009/06/23(火) 19:37:34 ID:+/134Aw0
>三汁十菜

出しすぎだろうw
689人間七七四年:2009/06/23(火) 19:47:36 ID:luwCnGqf
>>688
まぁこんな人もいることだし義興に比べればまだマシなほうかと
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-848.html
690sage:2009/06/23(火) 19:57:15 ID:oZVEUTxh
雑賀衆と根来衆はともに鉄砲のプロフェッショナル集団。
鉄砲に関する先見性は信長を超えていると思う
691人間七七四年:2009/06/23(火) 20:00:50 ID:rRKed4Xj
>>686
やっぱり戦国武将って、料理にも相当気を使ってたんだろうな…
島津氏と肝付氏は和睦の祝宴に「鶴の吸い物」が出たってだけで、
合戦になったとか…すごい時代だ。
692人間七七四年:2009/06/23(火) 20:02:54 ID:+/134Aw0
>>689
そいつを忘れてた。

まさに過ぎたもてなしw
693人間七七四年:2009/06/23(火) 20:06:04 ID:OCIURNT/
>>691
kwsk
694人間七七四年:2009/06/23(火) 20:45:10 ID:3JAuAQ5s
でも、朝飯に蓼使ってるのに切れて塩でいいとか言う奴も居るしなあ
栄養学という概念が無いから仕方ない点はあるんだが
695人間七七四年:2009/06/23(火) 20:50:01 ID:uSSo7C23
>>693
まぁこっちは言い話スレなんで詳細は省くが、肝付兼続が島津氏主催の宴席(?)で鶴の吸い物を勧められたんだと。
で、鶴というのは肝付氏の家紋なもので、いたく立腹→「よろしい、ならば戦争だ」

で、この戦争で島津氏は肝付氏を滅ぼすんだが、島津忠将を失うほどの激戦だったとか。

ちなみにもてなしたのは伊集院忠朗だったような。

まぁ悪い話のほうだねw意外にも悪い話のほうにもなかったみたいだわw
696人間七七四年:2009/06/23(火) 22:04:28 ID:9gyJYSbZ
>>688
故実に基づけばそれでも少ないくらい。
「本膳」「本膳料理」でぐぐって見ましょう。
697人間七七四年:2009/06/23(火) 22:27:49 ID:EkU8clOg
>>695
詳細わかってる話なら是非向こうのスレに
698人間七七四年:2009/06/23(火) 22:42:31 ID:xi3UlFnk
鶴の吸い物といえば前田利家殿をお忘れなく
699人間七七四年:2009/06/23(火) 23:54:23 ID:24s5H5H0
一条兼良の女性観

「一般的に女性は若い時は親に、成人してからは夫に従うべきで、自立する
必要無しと言われている。女性は優しくて従順であることが美徳とされる。
しかしながら、日本は和国と呼ばれ、女性が治めるべき国なのだ。
天照大神は女性であるし、神功皇后は八幡大菩薩の母であり、新羅と百済を
服従させて、この葦原の国を建国した・・・

・・・女性だからと侮ってはいけない。古代には多くの女帝が厳然と国を治めた。
現在でも威厳をもった女性ならば国を治めるべきである。」

女性(日野富子)が政治に関わることを否定した「応仁記」とは違う見解。
700人間七七四年:2009/06/24(水) 00:14:34 ID:tF5aaT40
>>699
応仁記は意図的に富子を悪く書いてる節があるからなあ。
701人間七七四年:2009/06/24(水) 01:53:42 ID:av1+U485
まだでてないようなので
本多忠勝の兜のお話

永禄4年、忠勝14歳の時のこと
斥候を命じられ、刈谷・大府・小川へと単独潜入していたのだが・・・
その帰り道、数日前からの悪天候で川が増水してしまい、渡れなくなっていた。
橋は遠く、泳ぐこともできない。忠勝は困り果ててしまった。

その時、彼の目の前に一匹の牡鹿が現れ、川へと向かっていった。

するとその鹿、増水した川を渡り始めた。
「あの鹿が通ったところは浅瀬なのか!」
忠勝はその鹿の後を追い、なんとか川を渡る事が出来た。
川を渡りきった頃には、鹿の姿はなかったという。
 
「あの鹿は伊賀八幡宮の使いだったに違いない!」
その後忠勝は、伊賀八幡宮の神主に兜製作を依頼。
この時出来上がった兜が、あの『鹿角脇立兜』なのだそうで。


忠勝が無傷だったというのは、この兜の御加護(?)なのかも。
702人間七七四年:2009/06/24(水) 02:04:31 ID:CiNzIT8E
>>701
この話聞いた事があるけど未だ不思議なのは、
何で神主に兜の制作の依頼したのだ?
甲冑デザインのバイトでもしていたのかなぁ?
703人間七七四年:2009/06/24(水) 03:53:43 ID:+oP2V3NS
>>702
日根野「それがし、兜作りにかけては誰にも負け申さず!」
704人間七七四年:2009/06/24(水) 08:34:12 ID:zG5dfAHF
毛がぼさぼさついてる唐の頭兜に鹿の角までつけるだなんて平八はお洒落さんだね
705人間七七四年:2009/06/24(水) 11:01:56 ID:fzxLroHD
>>680
プロレス板の北斗スレ覗いてみろ・・・・
小松はそこまで酷かったとは思えない
706人間七七四年:2009/06/24(水) 11:45:58 ID:h7BuQHZx
戦国時代とプロレスを比べるなよ・・・・
武士に妄想はあってはならないもの。
プロレスはファンの妄想頼み。
相容れないものだよ。
707人間七七四年:2009/06/24(水) 12:53:30 ID:GRgzVttV
市松「だよなあ。鬼嫁ってやつはあんなもんじゃない」
708人間七七四年:2009/06/24(水) 12:55:25 ID:rj2QQT/X
>>706
こんな事もあるわけで
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html
妄想というか相手をひるます武威は武士にも必要
709人間七七四年:2009/06/24(水) 13:47:40 ID:h7BuQHZx
>>708
戦で虚実を使い分けるのは大事だよ。
しかしプロレスの勝敗には虚しかない。
そのまとめサイトの話とプロレスファンの妄想はまったく繋がらない
710人間七七四年:2009/06/24(水) 14:22:17 ID:7ruLeLUj
>>709
ちょいと違うかな。
>プロレスの勝敗には虚しかない
ってのは、まったくそのとおりだけど
>プロレスはファンの妄想頼み
ってのは、もうないよ。
そっちが好きな人は、みんな格闘技系に流れたからね。
今のプオタは、講談好きな奴って感じかな?
ケツはわかっているけど、その中の物語が好きなところとか。
711人間七七四年:2009/06/24(水) 14:31:35 ID:Cq6XxKae
触らぬ神になんとやら
712人間七七四年:2009/06/24(水) 14:33:23 ID:ou9Yqj6+
白兵武者って漫画の話じゃないのか
713人間七七四年:2009/06/24(水) 17:03:19 ID:mPf4hIIK
>>709
長尾景春だっけ、まとめスレにあった(北条早雲と)国際電話での名ゼリフ応酬に魂がしびれましたぜ
梶原(政景)イズム………
714人間七七四年:2009/06/24(水) 18:33:21 ID:nMj2gr4P
>>694
栄養学がなくたって「良いもの食えば体が発達する、ただし食い過ぎるとブクブク太る」
ぐらいのことは本能的・経験的に分かってたでしょ

蓼の奴は正確が悪いだけ
715人間七七四年:2009/06/24(水) 19:38:45 ID:/WJyT9UD
泰平の世を迎えた頃、薩摩に派手な服を纏った集団が出没し出した。

ある者は法螺貝を吹き鳴らし、またある者は大声で喚き散らしながら夜の街を駆けずり回る。
言って見れば江戸時代版の珍走団である。
彼らのあまりにも酷い騒ぎぶりに付近の住民は安心して眠れぬ有様だった。

これに激怒したのが島津義弘公である。

「武士の子が庶民の安寧を脅かすとは言語道断!!」

役所に町民の訴えが届いたのを知るや、
騒ぎを起こしていた二才衆と父親を屋敷へ呼びつけて大喝一声をくらわせた。
一通りのお説教を終えた義弘は、二才衆に反省の為の配流を申しつけて最後にこう付け加えた。
『お前達の将来を鑑み、特にこの四書を持たせる。配流先でしっかり学ぶように』

さて数ヵ月後、義弘は配流先から戻ってきた二才衆と父親達を屋敷に呼び出した。
義弘や近臣、父親達は屋敷の奥に控え、二才衆には隣の部屋で一名づつ四書を朗読させたのである。
さすがに義弘の大喝が堪えたのか、皆しっかり反省したらしく、
一人の例外も無く一言一句間違えずに最後まで読みきる事が出来た。

かくて二才衆の更正に満足した義弘は、恐縮する父親達に罪を許すことを約束した。

以降二才衆の非行はピタリと止み、義弘公のお通りと聞けば食事中の者も
皆外へ出て拝礼するまでになったという。
716人間七七四年:2009/06/24(水) 19:51:23 ID:qHfWkefo
>>715
やくざ屋さんみたいだなw
カタギに迷惑かけんなよ!みたいな
717人間七七四年:2009/06/24(水) 20:01:15 ID:rj2QQT/X
>>715
今の世の中にはこういう若者に影響力のある頑固爺が必要かもね

>>716
後年の薩摩藩はマジで極道化してるが
スレ違いだから詳細は言わないけど兵児二才組ちょうこわい
718人間七七四年:2009/06/24(水) 20:08:49 ID:4kMN0n5X
義弘でも修正できなかった家久(悪)って一体・・・
719人間七七四年:2009/06/24(水) 20:18:08 ID:ATU5h39N
義弘公の前ではおとなしいとか。
720人間七七四年:2009/06/24(水) 20:21:03 ID:/WJyT9UD
泰平の時代の若者と言えば
朝鮮の役も関ヶ原も伝え聞いた話しか知らないわけで、
『生ける伝説』に大喝をもらった二才衆も肝を潰さんばかりだったに違いない…
721人間七七四年:2009/06/24(水) 20:21:18 ID:tCc5WvNN
猫かぶりっ子だったのか・・・
722人間七七四年:2009/06/24(水) 20:29:02 ID:4kMN0n5X
>>719
最も性質が悪いタイプじゃないかw
723人間七七四年:2009/06/24(水) 20:54:12 ID:HSoL3Gmt
>>716
騒乱期の武装勢力なんてやくざと変わらんだろ
724人間七七四年:2009/06/24(水) 21:24:50 ID:aBW2x/PC
>>720 泰平の時代の若者のお話をばひとつ

十河一存は、「鬼十河」または「夜叉十河」といわれた讃岐の猛将で、
その武勇から家臣たちからも信望厚かった。
一存の髪型は前髪をぜんぶ引き抜き、
さらに月代を大きく広げて剃り上げる「十河額」と呼ばれるもので、
家臣の中には「十河額」を真似する者も多かったという。

家光の頃、旗本小普請組の二男・三男の若者たちに、「十河額」が流行した。
前額から頭の中央にかけて月代を四角に大きく剃り込むもので、
十河一存の武勇にあやかろうと真似をし始めたといわれています。

一存が「十河額」にした理由は、肌が弱く、長時間兜をかぶっていると、
汗で蒸れて湿疹になってしまうので、それを防ぐための実用的な髪型だったようである。
725人間七七四年:2009/06/24(水) 21:30:06 ID:mPf4hIIK
>>724
肌の弱さを克服すべく?
有馬温泉に湯治に出掛けたのが……(´;ω;`)ウッッ..
726人間七七四年:2009/06/24(水) 21:36:19 ID:rj2QQT/X
頭剃らずに兜を被ってると蒸れて逆上せるらしいね
尚文の民族、漢人、朝鮮人は頭を剃る習慣がなくて
尚武のモンゴル、満州、日本に頭を剃る習慣があるのはそのためだと聞いてなるほどと思った
眉唾かもしれないけど
727人間七七四年:2009/06/24(水) 21:41:25 ID:j+3p9wPf
>>723
武家と任侠では歴史的に成り立ちが違うし社会的役割として果たしてきたことも違う。
というか仕事場自体が被らない。
728人間七七四年:2009/06/24(水) 21:51:40 ID:/WJyT9UD
前髪を引き抜くってのはそれだけで痛そうだなぁ…
729人間七七四年:2009/06/24(水) 22:28:45 ID:w4IrkY9z
まとめスレに無かったので、投下。
戦国からちょっと離れちゃうけど、戦国の気風を残す遅れてきた豪傑・南龍公の話。


生まれながらの将軍こと、徳川家光公の治世の時のこと。
家光公は上洛後、名古屋城に立ち寄ると告げた。
これを聞いた徳川義直公は、勇んで宿泊の準備を進めた。


ところが。


準備が整い、後は将軍家を迎えるだけという状況になったにも関わらず、何故か家光公は突如として立ち寄りを中止した。
(義直公が謀叛を企んでいるという噂が流れたためとも)

収まらないのは、全てを台無しにされた義直公である。

義直「この度の将軍家、あまりと言えばあまりな仕打ちをなさる!
ここまで恥をかかされたとなれば、天下の笑い物、家臣にも面目が立たぬ!
かくなる上は名古屋城に籠城し、一戦交えるしかない!」

それを聞かされた頼宣公は慌てて兄を説得するが、怒り心頭の義直公は聞く耳を持たない。
ならば、と頼宣公、とんでもないことを言い出した。

頼宣「兄上がそこまで仰るならば、私としても反対するわけには参りませぬ。
なれば、将軍家を帰路にて襲うため、兵を挙げるべきでございます!
勝ち目のない籠城で詰め腹切らされるよりは、打って出て将軍家に襲いかかる事こそ武門の意地!
しかし、仮に将軍家を討ち漏らすような事があれば、私も兄上と共に討ち死にする覚悟です」


弟の大演説を聞き終えた義直公は、はらはらと涙をこぼしてこう言った。

義直「有り難いことだが、尾張の問題に紀州を巻き込むわけにはいかぬ。
それに権現様の御遺言に背くのもしのびない。
謀叛の話は聞き流してくだされ」


そして、義直公が決起することは終ぞ無かったのであった。



安藤直次に「義直様しか、殿と仲良くしてくれる人はいないんですからね!」とまで言われちゃった頼宣公の、男気溢れる話。
(家光公の悪い話かもしれないけどw)
730人間七七四年:2009/06/24(水) 22:45:26 ID:B0pYwA/L
ドタキャンはいつの時代でも、どんな身分でも失礼だよなあ
731人間七七四年:2009/06/24(水) 22:49:33 ID:6bpcY2ok
>>726
眉唾だと思うぞ。
ヨーロッパでも中東でも頭髪を剃る習慣は無かったよね?
732人間七七四年:2009/06/24(水) 23:01:32 ID:J3U3/59Y
月代ってただのハゲ救済策だろ
頭髪史に残る革命だったと思う
蒸れ云々はただのこじつけ
733人間七七四年:2009/06/24(水) 23:08:49 ID:nMj2gr4P
>>727
>>723は新興勢力を悪党呼ばわりする手合いでしょうね
734人間七七四年:2009/06/24(水) 23:09:35 ID:tF5aaT40
いや、源平の昔から月代は、元々兜がずれたりしないよう、しっかりと固定するため剃っていたもの。
なので合戦の時は剃っていたが、普段は伸ばしていた。
そして武士以外が剃る事は無かった。

月代が「国民的」ファッショになったのは、実は平和になった江戸時代から。
「安定した強力な統一武家政権」という、実は日本史上初めての物が成立したため、
武士以外も武家風にあこがれたためらしい。
735人間七七四年:2009/06/24(水) 23:20:23 ID:rj2QQT/X
立花家家臣小野鎮幸が加藤清正の家臣になっていたときのこと
清正と鎮幸が談笑していたが次第に清正が自虐トークを展開し出した

「ガキの頃から戦ばっかで読み書きなんてやる暇無かったよ。
おかげでいつも書状のやりとりが大変で大変で…
書状のやりとりに難が無い和泉(鎮幸)がうらやましいよ(´・ω・`)」

当時、叩き上げの武将が文盲なのは珍しくなかったが
清正のような大身にもなると書状のやりとりも多くなる
その上読み書き出来ない奴は畜生以下と見られる風潮も存在していたため劣等感もあったのだろう
若い頃やっておけば良かったというのはいつの時代も変わらぬ嘆きである

これを聞いた鎮幸は笑って
「いやいや、実は私も61歳までいろはのいの字も読めなかったんですよw
昔、朝鮮の陣の時に毛利から書状が来たんですがこれが全然読めない(笑)
60歳近い、それも立花家の家老とあろう者が読み書き出来ないなんて
他所に知れたら私の恥だけじゃ済みませんからね。
冷や汗ものでしたよw背中なんてビチョビチョでしたからねw
運良くちょうどその時内田玄恕が通りましてね。彼に返書を書かせて事なきを得たんです。
こんな事があったんで一念発起しましてね。
帰国してからウチの女房に読み書き習いましたw
最近やっとにじり書き出来るようになったんですよ〜。」

なんと鎮幸、60の手習いに挑戦しているという
しかし清正は自虐モードに入っていたのか

(´・ω・`).oO(どうせ謙遜してる嘘を付いているんだろう)

と思って間に受けなかった

後日、旧立花家家臣にこの事を聞いてみた
しかし帰ってきた答えは予想に反して「鎮幸の言っているこ事は本当である」との事だった

清正は感嘆して
「昔から偽りなきを武士とはいうが和泉(鎮幸)のような者は稀である
和泉こそは真の武士の典型だろう」
と言い、鎮幸を重用したと言う

小野鎮幸は62歳でその生涯を終えた


生涯勉強!
学問を始めるのに年齢は関係ない!
君も「ああすれば良かった」、「こうすれば良かった」と終わった過去を嘆かずに
今から挑戦してみよう!m9(`・ω・´)
736人間七七四年:2009/06/24(水) 23:25:33 ID:7RsdLwSV
ぎゃー耳にいてええ!w
737人間七七四年:2009/06/24(水) 23:26:59 ID:tF5aaT40
>>735
イイハナシダナー
感動してしまった。
738人間七七四年:2009/06/24(水) 23:32:32 ID:C0LKQ7MV
>>735
仕事が忙しくて…
いや、余暇が全くない訳じゃないけど…
…言い訳ですねorz
739人間七七四年:2009/06/24(水) 23:36:33 ID:h7BuQHZx
>>735
年老いてなお勉強する姿勢にも頭が下がるが、
なによりその正直さに痺れた。
格好つけないのがムチャクチャ格好いい
740人間七七四年:2009/06/24(水) 23:36:57 ID:HSoL3Gmt
>>733
うむ、たしかにK福の科学党は嫌いだな
741人間七七四年:2009/06/24(水) 23:38:16 ID:rj2QQT/X
>>731
ヨーロッパでも丸坊主にしてたと思ったが
アラブ判らないな
環境的に兜付けたんだろうか?
742人間七七四年:2009/06/24(水) 23:43:41 ID:tF5aaT40
>>741
ヨーロッパ貴族がカツラつける風習って、元々は兜かぶるために毛を剃ったためだと
聞いたことがあるな。
743人間七七四年:2009/06/24(水) 23:54:24 ID:lzhZxEtK
>>724
戦国期までは髪の毛を、手でひっこ抜いたりして、若者は苦痛だった。
かと言って剃刀とか使うのは「縁起が悪い。」て言われてて、禁忌だったらしい。
これが嫌で元服を拒む者もいたし、頭皮が痛んで戦や仕事にならない者もいた。
そこで織田信長が「織田家の者は、剃刀で髪を剃って良い。」
と許可したので、その後は剃刀で剃るのが一般的になったらしい。
合理的な信長らしい逸話だ。
744人間七七四年:2009/06/25(木) 00:52:26 ID:tkYs3VGa
相馬家に佐藤為信と言う男がいた

為信は義経四天王の佐藤継信、忠信の末裔で
小斎城代として重用されていたが同じく相馬家家臣である桑折左馬助を討ち伊達家に寝返った

実は為信の父、佐藤好信は磯部城の軍奉行をしていたのだが
桑折左馬助の讒言で所領を没収され領地は桑折のものに
その上自分の館に狼藉を働かれた。好信はこの事で憤死している
これを為信は恨み伊達氏に小斎城を攻められた際、父の敵と援軍に来た
桑折左馬助を討ち果たしたのだった

伊達家に寝返った後もも利己故に寝返ったと思われるのを嫌って加増の申し出を拒否している
その後も対相馬戦で活躍したという

さて、話は変わるが日本の兜には頭頂部に天辺の穴と呼ばれる穴が空いている
元々は結った髪を兜から出す装飾の為の穴だったようだが
そのような風習が無くなった戦国では新しい様式の兜の出現と共に廃れてきたが
この穴から八幡神が降りてきて自分を守ってくれる、兜蒸れを防ぐ等の目的で空けられる物もあった。
このため八幡座、息出しの穴とも呼ばれる

話は佐藤為信に戻る
為信は葛西・大崎一揆において佐沼城を落とすべく参戦していた
城を落とすべく沼地の浅瀬を進行していた為信
その為信に向かって一発の銃弾が向かってきた
弾は兜の八幡座を見事射貫き為信は討ち死にした

神を降ろす為に空けた穴に降りてきたのは鉛玉だった
そんな悪い話

良い話スレで兜蒸れの話が出たので
745人間七七四年:2009/06/25(木) 00:52:59 ID:c++a7/0l
>>735
>清正は感嘆して
自分も猛勉強を始めたって続くのかと思った。
それにしても清正公がへうげものの具志堅清正で脳内再生されて困る。
746人間七七四年:2009/06/25(木) 00:55:13 ID:tkYs3VGa
誤爆orz
ま、まぁ住人被ってるだろうし張り直しは止しておきます…
747人間七七四年:2009/06/25(木) 01:11:48 ID:MfIYcuM3
清正は仕事を部下に任せず自分でほとんどやっちまったっていうからその後自分も読み書き習ったかもしれんね。
文盲のままじゃほとんど自分でやるのは流石に無理だろう。
748人間七七四年:2009/06/25(木) 01:15:18 ID:iszQnAcw
清正って土木とか築城に関しては天才というか、取りあえず才能大だよね
文字読めなくて、ああいう設計とかの仕切りが出来るものなんだろうか
749人間七七四年:2009/06/25(木) 03:00:26 ID:yt9fuWpa
>>746
どどんまい
750人間七七四年:2009/06/25(木) 03:11:12 ID:EsTvaXRh
>748地形や空間把握の能力が抜群に優れていた、てことなのかもね。

三国志のケ艾[トウガイ]なんかがそんな人だったていうな。
751人間七七四年:2009/06/25(木) 03:23:50 ID:Mo9Amtpf
スレ違いだけど、王平も読み書きできないから人に読んで貰って書物の内容を把握していたって正史に記載があったよね。
752人間七七四年:2009/06/25(木) 03:32:46 ID:45gTEMVr
そんな戦国武将の文盲に関する後世の見方


徳川吉宗の頃、岩淵夜話などを著した大道寺友山の「武道初心集」に言う

「武士ってものは三民の上に立ってるわけだから、きちんと学問をして広く物事の道理を
理解しておかないとダメだよね。

たまに『乱世の武士は学問なんかして無いじゃないか』なんてことを言う奴がいるけど、
乱世は生まれて15,6になったら、初陣に出なきゃいけなかったんだぞ?
もう12,3になったら馬、槍、弓、鉄砲、とにかく一通りの武芸を身に着けておかないと
どうにもならないわけだから、机に向かって勉強なんてしている暇は無いわけだ。

そんなわけで戦国乱世には無学文盲、一文字もわからないような武士がいくらでもいたんだけど、
それは本人の心がけが悪かったわけでも、両親の教育が悪かったわけでもなくて、
とにかく武道一筋に心がけた結果だったんだよ。

今は天下静謐って言っても、そりゃあ武士だから武道を粗略にするわけには行かないよ?
だからといって乱世の武士みたいに、15,6で初陣なんて世の中じゃ無いんだからさ、
10歳くらいになれば、四書五経七書なんかを読ませて、手習いもさせて、そう言う勉強を
きちんとさせておいて、そして武芸の方は15,6くらいになって体がきちんと出来てきてから、
習わせるといいんだよ。こういうのが治世での武士の育て方、って奴だな。

とにかく勉強は大切だよ?乱世の武士は文盲でも言い訳がきくけどさ、治世の武士で
無学文盲は、言い訳が効かないもの。」


治世の武士は武士で大変だなあと、思わないでも無いお話。
753人間七七四年:2009/06/25(木) 04:05:59 ID:4ZW+xze9
八幡座を矢が貫通したのは源平だったか?
754人間七七四年:2009/06/25(木) 04:14:39 ID:iszQnAcw
>>752
8代目でそんな警告というか指南が出る時点で当時の武士のやばさが分かる
755奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆ZawoPLATttff :2009/06/25(木) 04:34:10 ID:iRgq0fpG
現代の文治の割には文弱さが目立つところに通じるものがあるな。
756人間七七四年:2009/06/25(木) 10:36:33 ID:QURfXZdj
三河武士の手習い

大河内善兵衛という三河武士がいた。「五千石男」村越三十郎などと並び称される
不器用・無教養な男だったが、家康が
「『六十の手習い』と申すからには、六十歳まで勉強はできるはずだ。」
と言うのを聞いて一念発起し、いろは四十七文字を覚え、近ごろは数字・国名などを
習うようになった。

習ったからには使いたくなるのが人の性で、ある日、江戸城の詰所に来た善兵衛、
「おのおの方、文字というものをご存知か?」と自慢し出した。
「ほう、一つ教えていただこうか。」無教養の者は純粋な興味から、教養ある者は
ニヤニヤしながら集まったところで善兵衛は話を続けた。

「さて、近ごろ拙者が習いおる所では、数字というのは、『一』が万物のはじめ、
左から筆を入れ、右に引き、油断無く止める・・・」と学者の受売りそのままに語りだした
・・・のは良いが、『七』まで来て、二画目を左右どちらに曲げるか忘れてしまった。

「善兵衛、どっちに曲げるんだ?」「うむ、どっちが良い?」「聞かれても困るわ!」
「分かった、左じゃ!!」と言い切り善兵衛、左に書いたものだから、教養ある者は
もうこらえ切れずドッと笑った。

これを耳にした家康は苦笑しながら、
「善兵衛は日頃の気性の如く『忘れた』と申さず、左へ曲げたは武士の意地あっぱれ。
今日よりそれを賞し、左七の字の指物を許す。」と言ってこれを褒めた。

笑い話を美談に変えた家康はさすがと言えようが、善兵衛の親類である金兵衛には、
それだけでは済まない。
「大河内家の良い恥さらしじゃ!わが子はこんな事の無いようにせねば・・・」
そう言って一子・長四郎を、一家総出で厳しく育てた結果、長四郎は長沢松平家に
養子に請われるほどになり、のちに老中にまで出世した。

『知恵伊豆』松平伊豆守信綱が、これである。
757人間七七四年:2009/06/25(木) 11:22:23 ID:Nlyzy/G5
>>748
同じく築城名人の高虎も漢字の読み書きは不得手で
署名の際にも「さと(佐渡守)」「いつみ(和泉守)」て書いてたんだよな。
指が欠損してたから書くのも不自由だったんだろうが。

>>756
知恵伊豆誕生秘話か。
何がきっかけになるか分からんものだなw
758人間七七四年:2009/06/25(木) 13:00:21 ID:32bI2FPT
松平信綱の生年が慶長元年(1596)で、
養子に入ったのが慶長6年(1601)だろ。
大河内家は何歳の子に英才教育してんだよって話だが。
759人間七七四年:2009/06/25(木) 13:11:17 ID:861unuC+
胎教?
760人間七七四年:2009/06/25(木) 14:07:12 ID:s9G3LJzz
歴史趣味が嵩じてくると市販されてる小説や書籍だけだは
満足出来なくなってきて現代語の史料・文書を漁り始める

すると次には古文書・旧記の類に触手を伸ばし始める…
が、ここで古文漢文の解読が避けて通れなくなるんだよな

日々是勉強、生涯学習しようぜおまいら
761人間七七四年:2009/06/25(木) 14:19:19 ID:dh19mHef
朝倉宗滴の話

三十歳の時のこと。
対する一揆側の兵を馬上から長刀で討ち取り、
その首を中村清右衛門にとらせる。

三十一歳の時のこと。
玄忍なる者(忍者?)を帝釈堂にて馬上から弓で討ち取り、
その首を吉井宗左衛門にとらせる。

五十一歳の時のこと。
京都は泉乗寺合戦で敵を三人射倒して、
その首をそれぞれ家来たちにとらせる。

宗滴には七人の男の兄弟がいたが、
敵の血を武器につけたのは宗滴だけだったという。
大将の身分ながら家来の者と同じように働いたので、
士卒足軽たちも宗滴の言うことを聞かないということがなかったと今に伝わっている。
762人間七七四年:2009/06/25(木) 15:17:02 ID:LwPdU1EY
その武勇が朝倉の者たちに受け継がれていれば・・・・
763人間七七四年:2009/06/25(木) 19:03:15 ID:vOpuCoMu
受け継がれた人が約一名
764人間七七四年:2009/06/25(木) 19:11:39 ID:87GC/j2m
富○さんは蛮勇
765人間七七四年:2009/06/25(木) 19:18:32 ID:yn5n7FFn
太郎太刀の人は?
766人間七七四年:2009/06/25(木) 19:45:54 ID:JScLGyhJ
みんなの勉強に関する逸話が面白かったので一つ

北条氏綱の嫡男、後の氏康がまだ元服前の出来事
氏康が習い初めの年齢を迎え、氏綱は家臣一同にまず何を習わせるべきか問うた
これに、家老・松田左馬助が進み出、「算術がよろしいでしょう」と答えた

若い家臣達、一様に嘲るような笑みを浮かべた
少年期の氏康、鉄砲の逸話もあるように臆病者と侮られていた節がある
武勇第一の若侍にすれば、確かに算術あたりがお似合い、と思ったのだろう

が、氏綱は怒り、彼らを大喝した
「心得違いをするな!
大将というものは、兵を動かすにも兵糧を見積もるにも、算用算術がなくてはならん
老臣の左馬助はそれをよく知っているから、ああ申したのだ
若輩がそれを笑うとは何事か」
そう言って、氏綱はまず氏康に算術を学ばせた

大将・氏康の基礎を作ったのは、偏見のない氏綱の教育方針だったのかもしれない
767人間七七四年:2009/06/25(木) 20:38:39 ID:45gTEMVr
>>766
氏康のやった税制改革とかすごいからなあ。有る意味数字の芸術。
ああいう政策が出来るのは、こういう教育方針があったからなのだね。
なんか納得できる話だ。
768人間七七四年:2009/06/25(木) 20:50:26 ID:tkYs3VGa
>大将というものは、兵を動かすにも兵糧を見積もるにも、算用算術がなくてはならん
当時これが判ってる大名ってどれぐらい居たんだろう?
769人間七七四年:2009/06/25(木) 20:53:43 ID:D6HmFS/S
>>760
とうの昔に捨てた古文・漢文の教科書が惜しくなるんだよなぁ
学生の頃は歴史に興味なかったのに。人生なにに興味を持つか分からんね
770人間七七四年:2009/06/25(木) 20:56:04 ID:TgSG0/p2
氏康は祖父、叔父も勉強に厳しそうだ。
特に祖父は暇があったら本読めなんて言うくらいだし。
実際北条家の武士は文字の読み書きは皆出来たんだろうか。
771人間七七四年:2009/06/25(木) 21:00:17 ID:RFFzdRCo
俺は剣道の胴をあげたことを悔やんでる
あれさえあれば足軽の具足ならすぐに作れるのに…
772人間七七四年:2009/06/25(木) 21:02:52 ID:fa0FSZ6m
>>744
>伊達家に寝返った後もも利己故に寝返ったと思われるのを嫌って加増の申し出を拒否している
>その後も対相馬戦で活躍したという

なんて良い話なんだ 。・゚・(ノД`)・゚・。
このスレにピッタリな話ではないか
773人間七七四年:2009/06/25(木) 21:49:48 ID:eCFFjQkI
>>770
祖父はもう別格だろさ。
小笠原とならぶ礼法の宗家当主の娘を母に、宗家当主の腹心格を父に持ってるからな。
しかも三男坊で家の当主に慣れる可能性もないからその分学問に力入れていたろうし。
そのかいあって義視の近習をへて今川に拾われた経験を思えば相当息子や孫の教育にも力入れたと思う。
774人間七七四年:2009/06/25(木) 21:55:13 ID:i6QMNemK
>>756
ググッたら、その逸話はそれこそ村越三十郎の話のようだが、同じようなものなんですかね。
775人間七七四年:2009/06/25(木) 22:05:08 ID:qEUShzWM
北条は残ってる文書量がハンパない上に
わりとしっかりした文体の書状が多いから
そこそこ古文漢文できれば意味読むのが楽だし楽しいぞ
字も丁寧な人多いしな
776人間七七四年:2009/06/25(木) 22:55:12 ID:uQipr9fi
北条さん家の教養 その一端

永禄三年(1560)、第四代古河公方足利晴氏が死んだ時、その妻芳春院(氏綱の娘)が
詠んだ歌六首


亡き跡を 嘆くばかりの 涙川 流れの末は 永き滝つ瀬

睦まじく 結ぶ契りの 睦言も むなしき空に 紫の雲

あはれさの あとに残りて あぢきなや あけぼの照らす 有明の月

満ち潮に み法の船の み(水)馴れざお 弥陀の誓いと 身はなりにけり

たれも皆 頼みをかけよ 他念なく 他力の心 ただ仏なる

二つなく 不捨の請願 不思議やな 深き願ひぞ 不退とはなる


各句の上の字を並べると全部「なむあみたふ(南無阿弥陀仏)」になる
教養とはちょっと違うかもだけど、初めて見た時スゲー感心した覚えがある
幻庵さんとかにミッチリ仕込まれたんだろうなあ
777人間七七四年:2009/06/25(木) 22:57:07 ID:R5bwm38Z
>>776
縦読みうめぇwww

あ、でも、本物は縦書きだから横読み?うめぇ
778人間七七四年:2009/06/25(木) 22:59:38 ID:BLG71BID
北条は割と近代的な文書行政を確立してたんだっけ?
779人間七七四年:2009/06/25(木) 23:00:14 ID:vgls2+1C
夏衣キツゝナレニシ身ナレドモ別ルゝ秋ノホドゾモノウキ
虫ノ音ハ涙モヨホスユウマグレサビシキ床ノオキフシモウシ
アハレゲニ思フニツレズ世ノナラ七ナレニシ友ノ別モゾスル
見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ
誰トテモ終ニユカン道ナレドサキダツ人ノ身ゾ哀ナル
吹ハラフ嵐ニモロキ萩ガハナタレシモ今ヤオシマザラメヤ


伊達政宗が原田宗時を弔った漢詩『国風六首』も、実は頭文字が
南無阿弥陀仏になる。
780人間七七四年:2009/06/25(木) 23:05:59 ID:rCSAwqB3
島津義久が甥の久保(忠恒の兄)を弔った際に詠んだ歌も
頭文字が南無阿弥陀仏だったりします。

南 なく虫の 声は霜をも 待ちやらで あやなく枯るる 草の原かな 
無 むらさきの 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行くへなるらむ
阿 あめはただ 空に知られぬ 習ひあれや うき折々の 袖にかくれて
弥 みし夢の 名残はかなき 寝覚かな 枕に鐘の 声ばかりして
陀 たづねても 入らましものを 山寺の ときおく法の ふかきこころを
仏 ふでをみぎり 弓を左に もてあそぶ 人の心や 名に残らまし

横読み?の南無阿弥陀仏って結構メジャーだったのかな?
781人間七七四年:2009/06/25(木) 23:08:23 ID:tkYs3VGa
ここにも老いてなお教養を身に付けんとする武将が

朝鮮出兵の時、島津義弘は暇が出来ると必ず筆を手に取って
書家として名の合った近衞公(信尹?)の筆跡を学び
良く書けたものは国に居る近衞公に送って批評を仰いだ

義弘は朝鮮出兵時に古今和歌集、千載集、拾遺集、論語等
数十冊の本を持って行っていたという

義弘が朝鮮に渡ったのは57歳
老いてなお学ぶ事に貪欲ってのは美徳だよな
現代じゃ若い頃から勉強が嫌で学ぶ事を放棄することが多いってのに
782人間七七四年:2009/06/25(木) 23:12:55 ID:iszQnAcw
しかも地獄の戦線での話だからな
783人間七七四年:2009/06/25(木) 23:17:39 ID:tkYs3VGa
>>776-780
笑点でよく単語の頭文字をお題にしてることあるだろ?
それと同じ感覚なんじゃないか?
784人間七七四年:2009/06/25(木) 23:18:52 ID:Uc2r8pYA
>>768
算術を理解出来たと推定される大名

前田利家(効率的蓄財術のため)
徳川家康(効率的へそくり術のため)
黒田如水(効率的へそくり術&兵力動員力の推定のため)

毛利隆元(国家予算編成)

算術は大体奉行級が知っている必要があるなぁ。
785人間七七四年:2009/06/25(木) 23:22:25 ID:tkYs3VGa
>>784
さすがに戦国後期にもなるとそうだけど
氏綱の時代じゃそこまで重視してる大名や重臣は多くはなさそう
786人間七七四年:2009/06/25(木) 23:23:35 ID:45gTEMVr
大阪の陣が始まろうと言う頃のことである

尼崎に、わずか8歳の領主、建部三十郎と言う者がいた。
領地も小さく、僅か五百石であった。

蒲生家牢人、興十郎は、この三十郎付きの家臣であった。
興十郎には野望があった。どうにかして、この幼い三十郎君を、取り立てていただくのだ。

大阪と関東の間には既に、不穏な空気が流れていた。
もし会戦した場合、幕府軍にとって、尼崎は大阪攻め戦略の重要拠点になる。

「そうだ!」

興十郎は家康に通じ、三十朗の名で誓紙を出した。
それから「秀頼公からのご命令である」と、尼崎近郊の庄屋を呼び集め、突然宣言をする
「お前達、早々に人質を出すように!もし異論あらばここで成敗する!」

このようにして興十郎は人質として、庄屋達の妻子兄弟を集め、それをことごとく
尼崎の屋敷に入れた。そして「もし我々に反抗するなら、人質を焼き殺す!」と、威した。

さらに主君三十郎にも、「もしこの謀が失敗した時は、三十郎君はそれがし、そして
人質とともにここで焼け死んでいただきます。」と、覚悟をきめさせた。
幼少の主君は、この家臣を信じた。

また、三十朗の母には、その時には三十朗の弟を連れ、親類である池田家に逃げるようにと、
あらかじめ決めていたそうだ。

関東と大阪が手切れとなった時、興十郎の措置のおかげで、尼崎で大阪に通じる者は無く、
ことごとく幕府方に従ったそうだ。

戦後、幕府は建部三十郎の功に対し、一挙に二十倍、一万石の所領が与えられた。
そう、ギリギリではあるが、大名に取り立てられたのだ。この時三十郎、12歳。

ちなみに興十郎は、建部の姓を与えられ、主君の親族扱いとなり、
伊丹有岡城の代官となったそうである。彼もまた、小さいながら城持ちとなった。

ちなみに、この時出来た建部氏林田藩は、外様ながら改易されることもなく無事、明治まで
続いた。

乱世の最後に、小さいながらも実を結んだ、とある野望のお話。
787人間七七四年:2009/06/25(木) 23:31:26 ID:tkYs3VGa
博打打つなぁ
まぁ世の中見えてないとこんな博打考えつかないから優秀な家臣だったことに違いはない
788人間七七四年:2009/06/25(木) 23:45:00 ID:9bCDjiSp
しみるねぇ・・・
789人間七七四年:2009/06/26(金) 00:03:10 ID:LwPdU1EY
>>786
久々に清々しい気分になったよ。いい話だな〜
790人間七七四年:2009/06/26(金) 00:12:51 ID:OiOww81/
ある時伊勢の国での出来事である。
七人の侍が神社に集まり、その中の一人が言った。

侍「これから東国へ下るが、我々は仲間だ。この七人の中で一人が出世して大名になったら、
  残りの六人は家臣としてもり立てよう。
  そして大名になった者は主君として、家臣となった六人を重臣にしよう。」
六人「おう!」

こうして七人の侍達は神水を酌み交わし、出世したときの約束を取り交わし、東国へ向かった。
長い期間が過ぎたがその中の一人が大名になった。北条早雲である。
六人の家臣となった仲間達は約束を守り、家臣として北条家草創期の早雲を
陰となり日向となり、又、戦の時は手足となって働いた。
早雲は、これら仲間達との約束を守り、重臣として取り立てたのである。

後の創作といわれているが、早雲の野望を支えた者達の話でした。
ちなみに、この話で出てくる大道寺と多目は「御由緒衆」として本当に重臣となっています。
多分北条家内に、元ネタはあったのでしょう。
791人間七七四年:2009/06/26(金) 00:22:03 ID:ylmha9Ft
漢ってやつぁ・・・
792人間七七四年:2009/06/26(金) 00:27:05 ID:Q6csKigg
>>781
奥さんに返事書いて貰おうと字を綺麗にしたり
古典からネタ持ってきたりで必死だったんじゃないか?w
>>790
( ;∀;)イイハナシダナー
793人間七七四年:2009/06/26(金) 01:06:24 ID:55A3U5n0
>>786
日本史板某スレで弱小藩ネタで盛り上がったときに話題となった林田藩には
そんな誕生秘話があったんですね・・・
関西の住人で「林田藩」と言ってもどこにあったか即答できる人は0.1%以下でしょうけどw

ちなみにそのスレで林田藩以下に存在感のない藩として認定されたのが仁正寺藩(市橋氏)だった・・・
794人間七七四年:2009/06/26(金) 01:18:02 ID:r3yc8kAS
>>790
創作ってわかってなけりゃ感動できたんだが・・・
795人間七七四年:2009/06/26(金) 01:18:59 ID:OiOww81/
漢ネタで。

関ヶ原直前の上杉攻めへ向かう徳川家康は伏見城へ寄った。
ここは、鳥居元忠が守将であったが、今回はちょっとどころかとんでもなくいつもと異なっていた。
そう、家康が伏見へ立ち寄ったのは・・・

鳥居元忠へ、死守命令を下すためであったのだ。しかも確実に死ぬ命令を。
さて、伏見城で鳥居と対面した家康は、命令を下してから鳥居に言った。

家康「伏見の城兵は少ない。必要な兵数と武器弾薬は置いていく、申してみよ。」
鳥居「殿。今はお家にとって兵も武器も弾薬も必要なとき。殿が多くお持ちください。伏見は現在の手勢で守ります。」

こうして、鳥居は少ない手勢で大きな伏見城を守る事になった。家康がしつこく聞いても断ったからである。
その夜、家康と鳥居は夜遅くまで談笑した。家康人質時代からのつき合いである。つもる話もあっただろう。
鳥居が下がるとき、家康は小姓に案内をさせるように命じた。これが2人の最後の別れとなった。

上杉征伐中に石田三成挙兵の知らせがきたとき、伏見では籠城戦が始まっていた。
鳥居元忠は家康の命令を忠実に守り、一人でも多く、一分でも長く、西軍を地獄へ引きずり込んだ。
江戸に家康が戻った頃に届いたのは、鳥居元忠戦死の知らせだったという。
796人間七七四年:2009/06/26(金) 01:41:42 ID:oJSFigjr
関ヶ原の戦いで、島津義弘はなんとか戦場から抜け出すことができた。
彼は薩摩に帰るために甲賀方面を通った時に、ある老人に奈良まで案内して
ほしいとお願いした。老人のおかげで奈良にたどり着いた義弘は「ここまで
よく案内してくれた。礼としてこれを授けよう。今度、これを持って薩摩に
来るといい。ではさらばだ」と言って刀と金龍の印の笄を与えて、去っていった。

その後、老人が笄を証に薩摩までやって来た。恩人の来訪に義弘は
「おお、なぜもっと早く訪ねてくれなかったのだね」と非常に嬉しそうだった。
二人は当時の辛かったことなどを語り合った。老人は連日、盛大にもてなされ、
観光案内もされたという。やがて老人が帰る時にはたくさんの黄金が与えられ、
老人を薩摩に連れてきた者にも黄金が与えられた。
797人間七七四年:2009/06/26(金) 01:41:49 ID:LWuBiqiK
>> 795
いつ聞いても泣ける、ガチで。

つーか、改めて思うけど、こういう本当の有名どころって意外と出てないのなw
798人間七七四年:2009/06/26(金) 01:45:39 ID:BF8rRTKe
戦後の鳥居の息子の加封具合を見ると
ホントにこんな感じのやり取りがあったんだろうなと感じる。
799人間七七四年:2009/06/26(金) 02:05:22 ID:/1jsvC7B
ちゃんと報いるのな。
800人間七七四年:2009/06/26(金) 02:09:20 ID:jkSISPqo
>>795
高橋紹運と同じで、意味のある玉砕なんだよな
801人間七七四年:2009/06/26(金) 02:49:42 ID:r3yc8kAS
>>795
島津軍を城に入れなかったのもいい意味でであってほしい。
背景に黒いものが見え隠れしてしまうと、気持ち的にトーンダウンしてしまうから。
802人間七七四年:2009/06/26(金) 03:48:31 ID:KQ3O81Nr
妖怪・鳥居耀蔵ってこの元忠の子孫?
803人間七七四年:2009/06/26(金) 04:23:45 ID:dMcfxStj
>>802
違う。鳥居耀蔵の父は林衡という儒者。庶流の旗本鳥居家に養子に入った。
804人間七七四年:2009/06/26(金) 04:27:29 ID:KQ3O81Nr
d
血の繋がりはないんだね
良かったw
805人間七七四年:2009/06/26(金) 04:50:38 ID:dMcfxStj
ちなみに鳥居耀蔵の実弟の林復斎は、国際通の開明派で、日米和親条約のときの
交渉責任者をやったりもしてる。
806人間七七四年:2009/06/26(金) 04:51:56 ID:ZSDBP3/O
>>780
冠とか沓って技法は昔からあってな・・・
807人間七七四年:2009/06/26(金) 04:55:31 ID:ZSDBP3/O
妖怪さんは流刑先での評判はいいんだよねえ
人って難しい
808人間七七四年:2009/06/26(金) 05:42:56 ID:ih+AFcua
>>797
最初の頃のスレの感じは「皆があまり知らない、戦国のちょっと良い話を書こう。」
みたいな感じだったから有名な話は敢えて書かないってのが、暗黙の了解みたいなね…
最近は「戦国逸話集(良い話編)」な感じだから、有名な話も結構投下されて来たよね。
809奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆ZawoPLATttff :2009/06/26(金) 09:40:03 ID:tejLW0Bv
>>786
ググってみたらその三十郎、下間頼龍の外孫なんだな。
810人間七七四年:2009/06/26(金) 11:29:00 ID:HW8wqwDJ
>>808
有名所はもう既出だろうからって避けてるってのもあるかと
811人間七七四年:2009/06/26(金) 12:51:34 ID:s7KS0PHM
>>761
ベッキーさんこと立花道雪さんにも通じる大将の心得ですなあ。
戦場の艱難辛苦を逃げ隠れせず、兵卒と共に味わっているから、兵も「この大将のためなら!」て抜群の槍働きするんだよね。
812人間七七四年:2009/06/26(金) 13:05:25 ID:jkSISPqo
中国では呉起あたりが兵卒と同じ装備、同じ待遇で戦ったのが有名だな
兵卒の膿を吸ってやったり、多少やりすぎ感もあるが
813人間七七四年:2009/06/26(金) 13:06:33 ID:ETY/R24T
>>812
兵士の母さんは泣いてるぞ
814人間七七四年:2009/06/26(金) 18:16:45 ID:rrHqRqwM
膿吸い出す話は元就あたりにも残ってたっけ?
テンプレといえばテンプレなんだろうが、
元ネタが春秋だと普通に読んでる可能性も高いからねぇ
815人間七七四年:2009/06/26(金) 19:21:49 ID:SSL8HWcF
>>812
いかにも中国人が好きそうな逸話で。
816人間七七四年:2009/06/26(金) 19:39:39 ID:THqWf7pA
建部氏林田藩ってほとんどの藩主が70歳から80歳ぐらいまで生きてるな。
817亀だけど:2009/06/26(金) 20:09:31 ID:CCsuFq4Y
>>729-730ホンマどこまでも意地っ張りだなあ紀州さまw
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2115.html

しっかし、頼宣だけでなし義直にいちゃんまでも……
政宗の謀反しちゃうぞしちゃうぞ詐欺なんて幕府にしてみりゃ可愛いもんだ

家光将軍にしてみれば、おじさんだけど年齢はほとんど同世代で、なおこの気概。
弟の駿河大納言なんてメじゃない愉快で危険な親戚だね;
818人間七七四年:2009/06/26(金) 21:26:19 ID:OJq6uNOW
>>816
じゃあ幼い殿様はギリギリ戦国の語り部になったのかな
ググったら外様だけど池田家の親戚なせいかわりと重用されてて
色々な仕事やってた
819人間七七四年:2009/06/26(金) 21:33:28 ID:3pI1ADdi
>>812-815
確かに両方「中国」の人だなw

一方、もっと東の方には膿よりイチモツを吸う方が大好きな大名も大勢居そうだがアッー!
820人間七七四年:2009/06/26(金) 22:41:44 ID:svByDm0E
>>817
というか親戚の立場だからこそ
こういうことが通るんじゃないのかなーとも思う。
他の大名だったら、タイミング悪けりゃ潰される口実にもなるし。

821人間七七四年:2009/06/26(金) 23:23:51 ID:bCWAjAEd
>>819
こんなに白い膿を溜めおってからに
どれ、それがしがたっぷりと吸い出してやろう
822人間七七四年:2009/06/26(金) 23:25:42 ID:YTHUy/iE
そういや西国の大名で男色家ってあんまり聞かないな
823人間七七四年:2009/06/26(金) 23:31:47 ID:7gnuCeoJ
大内義隆を忘れるなんてどうかしてるよ!
824人間七七四年:2009/06/26(金) 23:33:26 ID:7JZo+P9R
>>821
ちょ、そ、それわw
825人間七七四年:2009/06/27(土) 00:17:38 ID:i31hCh32
北条さん家の教養シリーズ


北条氏政の下に、都より勅旨が参られた時の事。
氏政は小よろぎの磯という所で、月見の宴を催した。

ここで歌合せが行われたのだが、氏政は最初の句として

『秋もなかば 我身もなかば こよろぎの いそがぬ年の いかでたつらん』

氏政はこの時三十歳。六十を一期として、「我が身も半ばとなった」と詠んだのである。

この見事な歌に勅旨は感じ入り、「今夜は、この上の詠歌はいらないでしょう」と、
その夜は、この一首のみの宴となった。

やがて勅旨が京に帰ると、その歌は勅旨の口から叡聞に達し、叡感の余り
御薫物五香を氏政に下された、ということである。

氏政の歌、帝も唸らせるの巻
826人間七七四年:2009/06/27(土) 00:30:42 ID:PYisLs/d
一条氏の援助を得、長宗我部国親が岡豊に復帰したころのこと
国親はまさに四面楚歌の状況にあった
仇敵・本山氏とは和睦したものの、依然大きな脅威だった
吉良氏、山田氏ら本山氏とともに岡豊を攻めた家々も健在である
後援者である一条氏の本拠・中村は、地理的に遠い
その上、四散した旧臣達は、国親の実力を測りかね、なかなか集まってこない

「仇敵に囲まれているというのに、仇討ちどころか孤立するばかり
行く末もおぼつかぬ。どうしたら父母の無念を晴らせるか」
国親は日々、嘆いていた

そんな彼に心強い味方が現れる
近隣の領主で、知謀に長けた吉田孝頼である
孝頼は国親に具申した
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず
大事をなすには、まず人です
人を懐かすため、真っ先になすべきは慈悲をかけることです」

国親は納得し、早速政治を改めた
高すぎた税は引き下げ、法度を緩和し、領民一人一人に目を配る善政をしいた
人々は一斉に国親を称賛し、この評価を聞いた旧臣も次々に帰参してきた

長宗我部躍進の基礎を用意した、天地人の話
827人間七七四年:2009/06/27(土) 01:28:16 ID:qsFADB/g
>>826
ナイスパパン♪ というか吉田のじっちゃまナイスアシストだよね。

吉田一族には大備後って大物も出てくるんだな、なんつーか創業の功臣の鑑というか
828人間七七四年:2009/06/27(土) 01:49:25 ID:v7fy9G+K
>>822
中国地方で男色なんてやってると
美男子の刺客を送りつけられますからな。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-430.html

上の話に出てくる[禾最]所元常が男色家で
岡郷介(剛介)というのが宇喜多家中の小姓の中で
一番の美形&武芸の持ち主であり
偽装刺客として送り込まれて
サックリと任務達成したというお話があるです…
829人間七七四年:2009/06/27(土) 02:22:37 ID:i31hCh32
美男子と言うと、すごい有名な話だけどまだ出てないようなので書き込んでみる


蘆名盛高は武勇の大将としても有名であったが、なにより、
絶世の美少年として名が高かった。

蘆名が佐竹との合戦に及んだ時のことである。
佐竹の大将、佐竹義重は、合戦の最中、この盛高を見て、衝撃をうけた。

一目惚れをしてしまったのだ。

その晩、義重は思いのたけをつづったラブレターを書き、送った。敵の大将に。
盛高もこれを読み、義重の自分への想いに感動した。

そんなこんなで双方、書状をやり取りしているうちに、ついに合戦は止み、和議がなった。
愛が戦争を止めてしまったのだ。

そんな戦国の、ラブ&ピースのお話。
830人間七七四年:2009/06/27(土) 02:33:33 ID:8A9V4Iuo
高ではなく隆ですな
盛高は別にいるので念の為

でも、結局男色のもつれで死ぬんだよな
831人間七七四年:2009/06/27(土) 02:36:29 ID:i31hCh32
>>830
おう…、しまったーorz

すいませんまとめの管理人さん、まとめに乗せる時直してください…。
832人間七七四年:2009/06/27(土) 03:22:55 ID:Xm0CccBk
ちなみに盛氏は盛興の後室を養女にして盛隆を婿にした
妻は元主君の内室である、しかもこの室は彦姫といい伊達晴宗の四女で盛隆の母の妹にあたり叔母だったのだ
盛隆は抱く前に平伏して「ご免」と言ったとか
このあたりは兼続と舟に通ずるいい話
833人間七七四年:2009/06/27(土) 03:30:23 ID:4lNd8l5V
>>829
なにその戦国ランスw
834人間七七四年:2009/06/27(土) 11:42:07 ID:TLN5qwiH
>>833
アレは鬼畜イケメンと姫武将がラブってコメるファンタジーだけど
コレは太田三楽や真壁氏幹を飼ってる鬼とショタのアーッ!なリアルである件
835人間七七四年:2009/06/27(土) 11:58:42 ID:vp2JoLH/
>>826
吉田一族は人物が多いね
黒い仕事も道化役もこなす孝頼はえらい
836人間七七四年:2009/06/27(土) 20:44:06 ID:kLhfT7QE
>>802
有名どころだと、大石内蔵助が元忠の子孫だな
837人間七七四年:2009/06/27(土) 20:46:24 ID:MOoY7jOw
秀吉が島津義久を下した後のこと。

秀吉は島津家臣の新納忠元と会った。秀吉は忠元に
「まだわしと戦いたいかね?」
と質問すると忠元は
「我が主君と敵対なさるならば何度でもお相手しましょう。」
と言った。

秀吉は
「さすが勇士であるな。」
と言って着けていた陣羽織を忠元に授けた。受け取った忠元が
下がろうとすると・・・
「待て。まだやる物が残っておる。」
秀吉は白刃の長刀の首もとを掴んで、石突の方を出して授けた。
この状態なら、忠元が殺ろうと思えば秀吉を刺すことができる。
しかし秀吉の豪胆な振る舞いに、忠元は身震いしながら受け取ること
しか出来なかった。

その後、帰宅した忠元に若侍たちが会見はどうでしたかと聞いてきた。
これに忠元は
「・・・俺が刃向かえるような御仁ではなかった。さすがの俺も腰が抜けたわ。」
と答えたという。
838人間七七四年:2009/06/27(土) 20:58:29 ID:TLN5qwiH
まあその割に太閤検地が始まっては反乱を勧め
歳久処罰と聞いては反乱を勧めるんですがねw
839人間七七四年:2009/06/27(土) 21:01:32 ID:/RGWkIuE
ラスボスのすることといったら
刃が潰してあったら面白いんだが
840人間七七四年:2009/06/27(土) 21:05:57 ID:z27LfoEp
>>838
そりゃあ、新納さんは刃を向ける者じゃなくて、その者が持つ、相手に向けられる刃の方だからな。
841人間七七四年:2009/06/27(土) 22:13:04 ID:kexM5wdj
1587年、日本のキリシタンたちは恐れに震えていた。
豊臣秀吉によりバテレン追放令が発せられたのである。
蒲生氏郷、黒田孝高、小西行長などの代表的キリシタン大名達は表向き棄教し、
太閤の意志に準じる態度を取った。

しかしこの命令をやはりと言うか何と言うか高山右近だけは拒絶した。
表向きの棄教ですらしなかった。
右近にとって信仰は所領や地位より大切なものだったのである。
彼は棄教を拒否すると身をくらました。


その頃小西行長は秀吉の怒りを買うことを恐れ、堺に戻り怯えていた。
日本のキリシタン大名達の中でも地位が高く、政権の中枢に近い行長の許へは
毎日のように逃げてきた宣教師やキリシタンが助けを請いにやってきた。
行長はそれを冷たくあしらい追い返していた。

「助けるのは無理だ。俺だって立場がある」

その行長の言葉に宣教師たちは絶望し、ほとんどのものが長崎に逃げていった。
しかし留まりなおしつこく行長に会おうとする者がいた。
イエズス会の良心グネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父である。
彼は危険をおかして行長の屋敷を訪問すると行長と何時間も議論をした。
そして行長に自分が殉教を覚悟していること、逃げるつもりは全くないと言うこと、
もちろん信仰を偽るつもりも、ごまかすつもりもないことを語った。

行長は、さながらペテロの様に肩を震わせ号泣した。

そして現実に負けて信仰を曲げた己を恥じた。
オルガンティーノとなぜかその時やってきた高山右近は、
そんな小西を励ました。

その後、小西はすっかり信仰を取り戻し、キリシタン大名として生きるために
秀吉の目をたばかり、ごまかし、色々やっちまったりしたが、
それでも彼が最後まで地位や名誉を捨てることができなかったのは
皆様ご存知の通りです。
842人間七七四年:2009/06/27(土) 22:21:56 ID:i31hCh32
>>841
遠藤周作が「鉄の首枷」の中で、そういう行長を書いていましたねー。
843人間七七四年:2009/06/27(土) 22:28:02 ID:xAhuWoRe
誰もが聖人君子に馴れるんなら宗教に戒律なんて無いさ
小西行長は自分の信ずる下へ行けたのかねぇ
844人間七七四年:2009/06/27(土) 22:31:12 ID:ij6isIwG
>>776
うわーwまとめのコメント見て気づいた!
これ句の頭だけじゃなく五七五七七の頭もナムアミダブで揃えてる!
すげーw感動!!
845人間七七四年:2009/06/27(土) 22:32:04 ID:qS28HBjN
信仰を取り戻した小西に(一時的にだけど)
受け入れ拒否られたフロイスはさすがだと思う
846人間七七四年:2009/06/27(土) 22:34:23 ID:xAhuWoRe
>>844
マジだ…
良く考えつくもんだ
847人間七七四年:2009/06/27(土) 22:41:15 ID:kexM5wdj
>>845
フロイスは真っ先に逃げてるからなあ……

一応ネタ元はオルガンティーノ神父の書簡からです
848人間七七四年:2009/06/28(日) 01:51:59 ID:4QYQHro9
>>776を見てて、島津日新斎と貴久もそういう句を読んでるのを思い出した。
芳春院さんほど凄いものではないけど、一応上げとく。


永禄九年(1566年)に島津義久、義弘、歳久兄弟は、伊東家が建設中の
小林城を攻め取ろうとしたが苦戦、なんとか城を焼き本丸を残すのみとなったが
ここで伊東軍の援軍が現れ、義弘が大怪我したことにより島津軍が撤退して戦いは
終結したのだが、小林城の内堀と外堀が双方の軍の将兵の死体で埋まるほどの
大激戦となった。
そこで、日新斎と貴久は双方の死者を弔うため「南無阿弥陀佛」が冠された和歌を
発句していている。


●日新斎

南: 何事も 何事もみな 南無阿弥陀仏 なほ討死は 名をあぐるかな

無: 無益にも むつかしき世に うば玉の 昔のやみの 報いはるらん

阿: あしき世に あらゆる物も あしなれば あからさまには あらじ身のはて

弥: 南には 彌陀観音の 御座なれば 身まかる時も 御名を唱えよ

陀: 誰にかも 誰ぞと問わん 誰しかも 誰かは獨り 誰かのこらん

佛: ふつふつと ふつと世も身も ふつきりに ふつとくやしく ふつと悲しも


●貴久

南: 名を重く おもふ心の 一筋に 捨てしや輕き 命なりけり

無: むらむらに しぐるる今日の 柴よりも 昨日の夢ぞ はかなかりける

阿: ありはてぬ 此の世の中に 先立つを 歎くぞ人の 迷なりける

弥: 水のあわの あはれに消えし 跡とてや 折々ぬるる 袂なりけり

陀: 立ちそえる 面影のみや なき人の 忘れがたみと 残し置きけん

佛: 佛ます 世をいづくとや たづぬらん 呼べば答ふる 山ひこの聲


この二人が同時にこのような発句をした例は他になく、相当の死傷者が
出たものと考えられる。(ちなみに木崎原合戦の頃は二人とも既に他界)
849人間七七四年:2009/06/28(日) 04:20:18 ID:w+HcOaLF
島津貴久の逸話って少ないよな
ザビエル絡み以外で何かあればプリーズ
850人間七七四年:2009/06/28(日) 04:24:00 ID:7LLTIife
>>848
むかし、"かきつばた"だけでもすげーとおもったが、島津親子もまけてねーな…
851人間七七四年:2009/06/28(日) 13:04:12 ID:uP/JlwNl
>>849
貴久って前半生は分家とシバキ合い、後半生は伊東・肝付とドツキ合いの話ばっかで
(しかも出陣してるのは家臣や息子達)逸話らしいお話ってないんだよねー俺もプリーズ
というわけで貴久じゃないけど島津の珍しい人のお話

文禄の役の時のこと。『明軍来る』の報を受けた日本軍は、江原道・慶尚道の入口に近い
金化城での防衛を決定した。しかし諸将は、近くに都市が無く孤立しやすい金化へ行くことを
渋り、結局奉行らの指図で島津家がこの任に当たることになった。。

伊集院幸侃は、島津義弘に進言した。
「諸将が『防衛し難い』と言っている城を、我らだけで守るのは、賛成できません。
わが薩摩兵とて、金石のごとく固いわけではありませぬ。この任は辞退するべきです。」
これに義弘の嫡子・島津久保が反論した。
「『士は勇を尊ぶ』、と言う。諸将が断ったのは、勇なきが故だ!これに習えば、我らもまた
勇なき者ということだ。恥ずべきである!」義弘は久保の言葉に従い、金化に移った。

しばらく後、ついに明軍が来て金化城近くにある山に登り、城中をうかがった。
久保はみずから鉄砲隊200を率いて山を奇襲してこれを追い払い、首30余を得た。
思わぬ手柄に喜ぶ兵たちに、久保は言った。
「この程度の首を持って帰り、功を誇る気は無い。」
そこで首を全て木の枝に吊るし、銃創のある敵の遺体を木に縛りつけ、金化城に戻った。

これが良い敵への威嚇となり、敵は再び金化城を伺わなかった。
その事を知った義弘は久保を激賞し、諸将はことごとく久保の武勇に感服した。


ああ、この人が長生きしてくれれば…
852人間七七四年:2009/06/28(日) 13:10:45 ID:Sskq/thZ
こんな剛毅なお兄ちゃんがポックリ逝くとは思わなかったろうなぁ
家久(悪)が油断しまくってたのも無理ないかもしれん。
853人間七七四年:2009/06/28(日) 13:19:33 ID:ELyd+h32
>>851
オレ的なぜ死んだしランキング二位のクボじゃないか!(一位長宗我部信親)
早くに病死したからはかないイメージだったけど猛将タイプだったのか・・・
854人間七七四年:2009/06/28(日) 13:42:56 ID:7LLTIife
>>そこで首を全て木の枝に吊るし、銃創のある敵の遺体を木に縛りつけ、金化城に戻った。
ああ、ここはやはりなんとなく家久(悪)と血を共有しているなと感じたw
855人間七七四年:2009/06/28(日) 14:07:51 ID:z8oC9o8m
死体吊すなんざ中国じゃ昔から、アメリカの西部開拓時代じゃ当たり前にやってた事。
さらし首だって似たようなものだし、何も特別じゃないじゃん
856人間七七四年:2009/06/28(日) 14:19:05 ID:yz7Bynyz
>>855
それはその通りだけど、日本の文化としては死体を吊るすのは一般的ではないような…
死体に触るのは穢れるとされてた時代だし

相手が日本兵じゃないから、向こうの風土に倣ったのかな
857人間七七四年:2009/06/28(日) 14:21:19 ID:Ka59w4PW
磔のつもりだったんじゃね。
戦場ど真ん中で忙しかったから、磔の簡略版というかそんな感じで。
858人間七七四年:2009/06/28(日) 15:21:43 ID:Ifb/F+VP
明軍兵士「俺は見た。朝鮮には人の首が実る木があるんだ」
859人間七七四年:2009/06/28(日) 17:17:55 ID:kds82dkt
悪久さんならさらし首どころか討ち取った武将を剥製にして晒しそうだ
860人間七七四年:2009/06/28(日) 17:23:47 ID:J1W0FazY
スレ違いなんで結論だけ書くと、日本中で死体をゴニョゴニョなんてのはやってることですよ

861人間七七四年:2009/06/28(日) 17:53:18 ID:NI5eE6km
信長「まったく死体を辱めるなど言語道断」
862人間七七四年:2009/06/28(日) 18:06:19 ID:kN1VwwvQ
>>848
日新斎の句は北条と同じく全部南無阿弥陀仏になるようになっている。
863人間七七四年:2009/06/28(日) 18:53:35 ID:cykoQtDs
東京国立博物館で小早川秀明の陣羽織見てきた
かっこいいわ・・・
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________65___&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=I393
864人間七七四年:2009/06/28(日) 19:21:23 ID:ssn2bPU+
>>858
It's strange fruits

明兵は世界最初のジャズメン
865人間七七四年:2009/06/28(日) 19:27:27 ID:0x71UH0T
>>862
ちょっと反則気味だけどね
866人間七七四年:2009/06/28(日) 19:46:36 ID:5XbRp6Vs
>>851
300って映画で死体で飾った木があって、スパルタ人がビビっていたのを思い出した。
867人間七七四年:2009/06/28(日) 19:51:37 ID:Kk9fETwV
永禄9年。武運つたなく、尼子義久は毛利に敗れた。
重臣らと共に毛利に下り、幽閉されることになったのだ。

義久は尼子家家宝の銘刀・荒身国行(頼国行)を毛利から隠した。
国は取られても家は取られたくないと、必死だったのかも知れない。
しかし天正16年。ついに刀の在処が発覚する。
輝元「家宝が欲しい」
義久「何のことですかな」
輝元「国行を隠し持ってるのを知っている。それを譲って欲しい」
義久「な、なぜ今更」
輝元「太閤に献上するのに、一番適しているのが国行だからだ。
   尼子の家宝というのも箔がつく」
義久「そんな理由で…」
輝元「譲って欲しい。幽閉されている義久には、刀は必要ないだろう」
義久「……。わかりました。私を生かすも殺すも毛利次第。
   刃向かうことなど出来ません。お譲りいたします。
   その代わり、貴方に家宝を教えた者の名を、聞いてよろしいですかな」
輝元「ふむ。家老の大西十兵衛だ。よい家臣をお持ちだな」
義久(嫌みか)
義久は輝元に家宝を取られ、憤った。
16年。懸命に隠してきた家宝が、家臣の告げ口で
簡単に取り上げられたのだから、それも当然である。
しかも天下人への媚びとして使うのだから、悔しさはひとしおだ。
そして、義久は刀を握った。
乱心であるを理由に、尼子家家老である大西十兵衛を切り捨てたのである。
もちろん、本当に理由は輝元に家宝の存在を洩らしたことなのは、明白な事実だった。

翌17年。ついに義久の幽閉は解かれる。
そして人質から客将へ立場が変わった。そんなあるとき、義久は刀の件について知ることになる。
輝元「今だから言えるが、十兵衛が家宝のことを告げ口したのは、義久のことを思ってのことなのだ」
義久「どういう事ですか」
輝元「家宝の在処を教えるから、そなたの幽閉を解いて欲しいと、大西は私に掛け合ってきたのだ」
義久は驚いた。
裏切られ続けた義久の人生にも、忠義の臣は居たのだ。
義久は十兵衛の忠義に感謝し、
その嫡孫・新四郎に大西家を継がせるとともに大西家を手厚く遇するのだった。


余談になるのだが、家宝である国行は、太閤の手から今度は大谷吉継に下賜されたそうな。
868人間七七四年:2009/06/28(日) 19:52:27 ID:Kk9fETwV
やる夫口調が書けなかった。すまん
869人間七七四年:2009/06/28(日) 19:53:19 ID:LvV1Byfv
>>863
なんてプロレタリアート
870人間七七四年:2009/06/28(日) 19:56:24 ID:StcR6+CV
まあ、ビリーが子供の頃はリンチされた黒人は木に吊るしておくのが当たり前だったみたいだし
871人間七七四年:2009/06/28(日) 19:58:07 ID:+01SrhGo
>>867
なんというか、切ない話だね。
忠義の形は難しい。
872人間七七四年:2009/06/28(日) 20:19:22 ID:CpoRSVav
義久は宇山もやっちゃってるから微妙だなあ。
ていうか裏切りは全部毛利発端じゃないかw
873人間七七四年:2009/06/28(日) 20:23:48 ID:hSDVW8B5
>>866
ペルシャの不死隊がどう見ても忍者なあの映画かw
ラストの3倍の敵?楽勝じゃん!と言ってのけるスペルタ兵は格好良かったが

>>868
そんな縛りねぇよw
しかしどちらかと言うと早とちりしてしまった義久の悪い話では…
輝元が煽ったとはいえ
874人間七七四年:2009/06/28(日) 20:35:24 ID:/pB3omhG
>>866
ひょっとしてあの死体の木って史実?
実際のペルシア軍もやってたのかな
875人間七七四年:2009/06/28(日) 20:36:00 ID:VSuGXJVv
いずれにしろ、大西の行為は裏切りだし、覚悟の上ではなかったかと思う

それから、宇山の死は家中の内紛が結構複雑にあった末のようなんで、
一概に義久個人の過ちとも・・
876人間七七四年:2009/06/28(日) 20:40:30 ID:cTJvo23f
屍体を見せしめにというと、某吸血鬼な串刺し公を思い出す。
877人間七七四年:2009/06/28(日) 21:05:00 ID:HYfzE76o
意外な人の忠義(?)の話

関ヶ原の戦いの後、薩摩に逃れた宇喜多秀家は、徳川と島津家久(忠恒)らの交渉により
死一等減じて八丈島に流罪となった。薩摩を去る日、秀家は家久に感謝しつつ言った。

「落人の身を今日まで養っていただき、感謝する術が無い。私には二人の家臣がいる。
玉川義則と山田半助と言い、節義ある士だ。この二人を、あなたに仕えさせてほしい。」
家久は了承し、二人は島津の家臣となった。

このうち玉川が馬術・弓術の達人と聞いた家久は、その馬術を試すことにした。
馬術披露の当日、三原重庸が玉川のために引いて来た馬を見て、家久は激怒した。

「それは誰も乗りこなせぬ悍馬ではないか!うぬら玉川を新参と侮り、辱めんとするか?!
ええぃ、オレの“小澤”を引け!あれは良い馬だ、玉川にくれてやれ!」

のちに玉川改め本郷伊予守義則は、
「薩摩に使えるのは、私の本意ではなかった。「士は二君に仕えず」とあるように、
十年働いて恩を返した上で、八丈島に行くつもりだった。
だが、家久様のお言葉は私の臓腑を貫き、今や薩摩を去るに忍びぬ。
これよりは一心に家久様に仕えん・・・」そう言って涙したという。

その後しばらくして、城近くで火事があり、筆頭家老・伊勢貞昌は馬で城に急行した。
家伝の馬術を誇る貞昌に先んじて、城門の前に弓を持った騎馬の士がいた。
「はて、わしに先んずるは何者だ?」
「本郷伊予にござる。新参者の私は騒動の中、城に入るべきではないでしょう。ここで異変に
備えまする。ご家老、早く城中を守られたし!」その態度に、貞昌は大いに感じ入った。

本郷義則はその馬術・弓術の全てを薩摩に伝え、慶長二十年、惜しまれつつ世を去った。
家久はこれを悲しみ、一首を詠んだ。

馴れ馴れし 見し世の春も 限りぞと 移ろう花の 跡の悲しき

本郷の教えた日置流印西派弓術は伊勢貞昌の従弟・東郷重尚が継ぎ、今に伝えている。
ちなみに同じ日置流印西派を学ぶ法政大学弓道部は、全国大学選抜大会6回、
全関東学生選手権大会11回、全日本学生選手権大会8回、全日本学生王座12回の
優勝回数を誇る、学生弓道界の雄である。
878人間七七四年:2009/06/28(日) 21:14:09 ID:hSDVW8B5
家臣には配慮する方だよな家久(忠恒)
主君の配慮を心から理解して分を弁え驕らない家臣もまた良し

忠義の士の技が400年経って今でも継承されている
素晴らしいね
879人間七七四年:2009/06/28(日) 21:35:55 ID:E7TzFuK6
>>878
まだあなたは本当の家久(悪)を知らない・・・w
餃子の王将が卵一日100万個使うように
家臣を殺しているお方ですぜ

おっとこれ以上はスレ違いなんでまた後日・・・
880人間七七四年:2009/06/28(日) 21:45:12 ID:5xqYO+cU
ふと思ったんだけど
宇喜多秀家って朝鮮渡海やら薩摩への逃亡やら
八丈島への配流やらで移動距離が半端ないですな。
881人間七七四年:2009/06/28(日) 21:46:22 ID:OU016/pP
…山田半助さんは?
悪久さんに苛められて黒歴史になってるとか?
882人間七七四年:2009/06/28(日) 21:56:58 ID:HYfzE76o
>>881
元ネタの注に「或云半助ハ早ク国ヲ去ル」とあるので浪人として過ごしたか、
八丈島にでも行って無名で終わったんでしょう。

きれいな悪久だって存在するんですよw
883人間七七四年:2009/06/28(日) 22:26:05 ID:+FKB6IvA
ああ、良い奴が良い事してもあまり印象に残らないけど
DQNが良い事すると凄い印象に残るということだな
884人間七七四年:2009/06/28(日) 22:31:48 ID:wSvR6dOs
本郷義則、調べてみたら石高多く貰ってるな。
慶長十八年の記録で1307石。
山田有栄が同じ年度で1806石だから破格の待遇じゃないか。
885人間七七四年:2009/06/28(日) 22:41:58 ID:ELyd+h32
お気に入りとは言え新参者に家老待遇か
ホント悪久さんは「家臣には」優しいな
886人間七七四年:2009/06/28(日) 23:20:00 ID:E7TzFuK6
>>884
うわ・・・こんなむけむけのことしてよく山田とか怒らなかったな。
確かこのころ新納忠元家なんかは1000石きってたのではなかった?

要は旧臣には自分の素性がバレバレだから
新参者を優遇して自分の言うことをきく親衛隊を作ろうとしてたのかも知れないな。
887人間七七四年:2009/06/28(日) 23:48:01 ID:wSvR6dOs
>>886
それはわからんけど、山田は寛永九年には2656石になってるから
勘繰るほどの事は別にないんじゃない?
888人間七七四年:2009/06/28(日) 23:55:10 ID:NSVlnBSA
黒田如水はケチだったが、時には貧しい者、困っていた者のために多く
出費したこともあった。ある家臣が、ちょっと金の使い過ぎでしょう、
と諌めたところ、如水は

「私が出費を嫌った理由は、与えるべき者に思うように金銀を与え、
使おうと思った時に使うためだ。使うべき時にこそ使わなければ、
金銀も石瓦と変わるまい。」

と言った。
889人間七七四年:2009/06/28(日) 23:56:22 ID:hSDVW8B5
能力持ってる奴を優遇しただけかもな
890人間七七四年:2009/06/29(月) 01:11:49 ID:V1w/Sqt0
能力もそうだし、名分上も貰い受けた家臣だからそう粗略には扱えなかったのかもな。
弱味につけこんで安く買い叩いたなんていわれたくなかろう。
891人間七七四年:2009/06/29(月) 03:32:36 ID:zngWal9A
佐竹家みたいに戦乱から太平の世に変わりゆく中で人事異動が激しかったんじゃないかねえ
体制システムも変化していくし、新参でも有能なら厚遇、古参でも言うこと聞かないならビッシバッシ
892884:2009/06/29(月) 13:01:29 ID:KNH6/L5Z
追記だが、慶長十八年に於ける筆頭家老・伊勢貞昌の碌は2531石。
山田自身が我々が思ってるほどに、そのときは高い地位を得てなかったと
考えた方が妥当かも知れん。
ちなみに伊勢貞昌、寛永九年には3812石になってる。
急激な碌の上がり方は、義久の旧臣殺して浮いた分を与えたのか、
はたまた諸県地区の開拓推進がうまくいったためか。
893人間七七四年:2009/06/29(月) 14:23:31 ID:74WCYhKH
>>848
爺ちゃん手抜きだろw
894人間七七四年:2009/06/29(月) 18:41:46 ID:/d9JjttW
>>883
映画版のジャイアンの事ですね。
895人間七七四年:2009/06/29(月) 19:18:44 ID:NbYIBUkx
家久と仙石と忠興は、ここでは人気無いけど政治家としてちゃんと仕事してるよ。
鬼武蔵は例外だけど
896人間七七四年:2009/06/29(月) 19:21:02 ID:Wd2yxwYr
悪久と仙石はともかく忠興は結構人気ある気がしてた
この差はなんなんだと思うくらい
897人間七七四年:2009/06/29(月) 19:24:33 ID:pZAbnaCb
三人とも頭がいいのは間違いないが、忠興には都会的な知性や学識を感じる。
898人間七七四年:2009/06/29(月) 19:42:40 ID:OcqwicFd
>>885
家臣に優しく身内(妻など)に厳しいのは専制君主として名君の素質の一つだろうな
これが逆だったら単なるDQNで終わったかもしれない

899人間七七四年:2009/06/29(月) 19:44:12 ID:9y0irWHv
>>895
待った!鬼武蔵は金山の町の発展に大きく貢献してるんだぜ?
900人間七七四年:2009/06/29(月) 20:35:23 ID:tGv2LAUG
先日、ちょっと春日(高坂)氏のことを調べていたら
やっぱり鬼武蔵はDQNなのだと思った

いい話スレでもなかなかいい話が語られない鬼武蔵……
901人間七七四年:2009/06/29(月) 20:41:09 ID:ogfVYzA3
高坂昌元さん可哀想
902人間七七四年:2009/06/29(月) 20:42:59 ID:9y0irWHv
18年後にまた鬼がやってくる
903人間七七四年:2009/06/29(月) 20:44:08 ID:B853aEjx
鬼武蔵誕生

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-382.htmlと
いろいろやらかしてしまった森勝蔵長可、ついに第六天魔王からの呼出しを食らった。
さすがに覚悟を決め、硬くなった長可に信長の声がかかった。

「源平のころ、同じように五条の橋で人を討ったる、武蔵坊という者がおったそうな。
お前も、かの豪傑にならい、今日より「武蔵」を名乗るが良かろう。」

のちに信長は正式に武蔵守の官名を与え、これに奮起した長可は、その武者振りから
「 鬼 武 蔵 」 と呼ばれるようになったという。
904人間七七四年:2009/06/29(月) 20:49:25 ID:znGVzzYS
んもう!お父さんがそうやって甘やかすから・・・
905人間七七四年:2009/06/29(月) 20:52:16 ID:9y0irWHv
甘やかし過ぎだろう・・・jk

乗り討ちの話に全くノータッチだから困るw
906人間七七四年:2009/06/29(月) 20:53:40 ID:wLpbwUqh
弁慶「一緒にしないで下さい」
907人間七七四年:2009/06/29(月) 22:21:12 ID:B/99TFaR
佐竹家が秋田に移った後のこと

ご隠居の義重は六郷というところに住んでいた
ある日、その義重が所用で久保田城下に滞在した
義宣から、ご機嫌伺いの使者として、桐沢久右衛門という者が派遣された
近況など話すうちに、久右衛門から、義宣が見事な白鷹を手に入れたという話が出た

「ほう、わしはかつて常陸で百万石にも近い領地を治めたが、白い鷹は見たこともない
義宣は果報者のようだ」
義重は感心したように言った。この親子、相当の鷹狩好きである
それを知る久右衛門は、「では明日お借りして参りましょう」と約束した

そして翌日、久右衛門は鷹を借りると、再び義重を訪ねた
「ほう、これは見事…」
義重は鷹を腕に乗せ、眺めていたが、やがて目からはらはらと涙を流した
思わぬ反応に久右衛門は動揺し、つい「献上いたします」と言って鷹を置いて帰ってしまった

さて、当然ながら義宣は怒った
御前に呼び出された久右衛門がちらと伺うと、義宣の顔は憤激に染まっている
久右衛門、覚悟を決した
申し開きはせず、手討ちを望んで首を差し伸べた
義宣は上座からつくづくとその態度を見つめていたが、その場では何も沙汰せず、奥へと下がった

三日後、久右衛門へ改めて命が下った
久右衛門を勘定奉行に任ずるという、義宣の上意だった
908人間七七四年:2009/06/29(月) 22:27:15 ID:QQMmacwE
判らん
粛正してまで集権化を謀った義宣がなぜ久右衛門を許したんだ…
909人間七七四年:2009/06/29(月) 22:32:17 ID:8iCyRCML
さすがに父に献上したからって手討ちにしたらまずいと気づいたんじゃないか。
910人間七七四年:2009/06/29(月) 22:33:31 ID:E6IrYXBb
集権化の障害になるような大身じゃなかったんじゃない?
なんとなくただのDQNとは違うイメージがあるし
911人間七七四年:2009/06/29(月) 22:37:48 ID:QQMmacwE
しかし三日後に勘定奉行にしてるんだぞ
…と思ったけど昇進なのかどうか判らんな
912人間七七四年:2009/06/29(月) 22:47:29 ID:KCmaKrG7
オチがよくわからんね
正直者だから経理を任せるには適任って話?
913人間七七四年:2009/06/29(月) 23:01:11 ID:B/99TFaR
こうとしか書いてないので、完全に想像だけど
そもそも義重が落涙したのは、常陸への憧憬と義宣政権への安堵と、
感情がないまぜになったからだろうと思う
すると義宣が怒ったのは、常陸を引きずる親父への苛立ちゆえじゃないかなーと
久右衛門の潔さを見て、義宣は自分の大人気なさを反省したんじゃなかろうか
914人間七七四年:2009/06/29(月) 23:04:00 ID:pZAbnaCb
命にかかわるような事でも言い訳をしない=財政を預かる財務官を任せてもごまかしをしない、
って事なのでしょうね。

後細かいことを言うと、「勘定奉行」が成立したのは元禄期の幕府においてなので、
この時代は、財務担当官があったとしても呼び方は、「勘定方」でしょうね。
今の大河で兼続のお父さんが、「上杉家の勘定奉行」というありえない役職に付いてて
流石に驚いた覚えがあるw
915人間七七四年:2009/06/30(火) 00:06:23 ID:CfdrBoK8
こやつは嘘がつけんなと思ったのかも知れない
916人間七七四年:2009/06/30(火) 00:55:58 ID:hIZX6h/D
>>914
あれは大臥ドラマといって大いに寝るためのドラマに御座いまする。
917人間七七四年:2009/06/30(火) 01:21:07 ID:HY2FH7E4
>>916
貴様、誰が上手い事を言えと言った!そこへ直れ!
918人間七七四年:2009/06/30(火) 04:17:26 ID:GcebqQnk
森長可が小牧長久手の戦において羽黒の陣で敗戦を喫した後の話。
犬山城に豊臣秀吉がいたので諸大名が登城した。そこには細川忠興、蒲生(忠三郎)氏郷らが列座していた。
そこへ長可がやってきた。
みんなはそれなりの挨拶をしたのに蒲生氏郷だけは大身の身なので上座で寄りかかって座って長可には挨拶をしなかった。
その態度に憤慨した長可は刀を2、3寸抜きかけ氏郷の前で膝を押し立て
長可「そこもとは鈍三郎か?それとも忠三郎か?」
氏郷「・・・」
長可「おい、何とか言えよ」
氏郷「・・・」
長可「どちらの名でもないようだな。」
言い捨て立ち退いた。

後に2人はこう物語る。
氏郷「羽黒で負けた腹いせに絡んできたのだ。」
忠興「今思い出しても脇の下から汗が流れる。」

今の浮世は結構ずくし 森の武蔵に池田がなくば 諸国諸大名は長袴
919人間七七四年:2009/06/30(火) 04:31:03 ID:W+raQhdq
見たことあるし既出かな
あと悪い話向けだと思う
920人間七七四年:2009/06/30(火) 05:10:10 ID:GcebqQnk
「諸国諸大名は長袴」の意味を考えたらいい話だと思った
あとまとめサイトになかったと思う
921人間七七四年:2009/06/30(火) 07:26:32 ID:uIi/F2vF
922人間七七四年:2009/06/30(火) 17:15:01 ID:JspuG3kD
俺文才がないから誰か曲淵吉景の話を面白おかしく頼むよ
こんな人物
曲渕吉景
武田家の家臣。曲渕勝左衛門。百姓の出であるという
板垣信方の草履取りとして仕え、鳥若という名前を与えられた。
信濃・小田井城攻めで戦功があり、武田家直参となり、山県昌景につけられた
奇行の人物として有名で、信方の死後、跡を継いだ板垣信憲が成敗されたことで武田信玄を逆恨みし命を狙ったという
のちに信玄に説得され、それ以降忠誠無二の臣となった
理非曲直のわからない人物であったらしく、生涯七十四度の訴訟をして勝ちが一回、示談が一回、あとは全て敗訴したという
武田滅亡後、徳川家康に仕えて相州・足柄郡で五百石を賜った
923人間七七四年:2009/06/30(火) 17:28:01 ID:J/85GHLO
>>922
あるよー

曲淵庄左衛門の訴訟2話・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-598.html
924人間七七四年:2009/06/30(火) 17:36:18 ID:JspuG3kD
おお、あったのか
こりゃ失礼しました
925人間七七四年:2009/06/30(火) 19:39:24 ID:ylMnpnBD
会津転封を命じられた蒲生氏郷は途中、江戸城に徳川家康を訪ねた。
家康は精一杯のもてなしで氏郷を迎え、彼に語った。
「これからは近き国同士、何事も申し合わせて行きましょうぞ。ついては、お近づきの印に
餞別を差し上げよう。何でもお望み下され、できる限りの事をしますぞ。」

家康の好意に、氏郷は言った。
「にわかに大大名となるに及び、かなり支度を整えましたので不足の物はありませぬが、
せっかくの仰せゆえ、一つ所望いたす。
ただいま座敷に通されし時、色黒の老人が朱鞘の大脇差を脇に置き、平伏していましたが
あれは何者でしょうか?近ごろ見かけぬ面白き男振りなれば、わが家臣に申し受け、
会津に連れて行くことができれば、かたじけなく存ずる。」

「なぁに、その程度易きことにござるが、あの者は板垣信形の草履取りだった卑しき者。
さらに信形のせがれは不調法により信玄に成敗を受けたが、あの老人はそのころ
曲淵庄左衛門と名乗り、士分となって奉公しておった所、信玄を主の仇としてつけ狙った
ほどの無分別者。
貴殿が召し使われても、何の御用にも立ちますまい。」

家康の答えに、氏郷は笑った。
「筋目も分別も年齢も、私は構いませぬ。が、家康殿がそこまでかばうご寵愛の家臣と
見えたる以上、ムリに所望もなりますまい。
なるほど、あれが曲淵吉景にござったか・・・まあ、ならばせめて昔語りなど聞かせては
下さらぬか。」

これは家康も快く応じ、庄左衛門が宴席に呼ばれた。彼の語る信玄・勝頼二代の物語に
宴席の一同、時を忘れて過ごしたという。


以上、岩淵夜話より工場長相変わらずの人材コレクター及び権現さま家臣を愛する話。
926人間七七四年:2009/06/30(火) 20:18:46 ID:HPM+4acS
み、見てみたい・・・
面倒くさい三河武士の棟梁に無分別と言われてしまうこの男が
工場長に再生されて真人間になった姿を
927人間七七四年:2009/06/30(火) 20:27:34 ID:ou5bFlj/
曲渕ってそんな逸話もあったのか 知らなかった
むちゃくちゃなクレーマーなのは知ってたけどw
928人間七七四年:2009/06/30(火) 21:28:58 ID:01dEWZgl
>>918
まあ信長の娘婿で立場はDQNより上だったからね。信長存命時代は。
929人間七七四年:2009/06/30(火) 21:33:43 ID:hiX6MuGs
>918>>920どの〜

ワンナウト〜〜
930人間七七四年:2009/06/30(火) 23:02:49 ID:/N/5Ec5j
立花道雪 若者は斬らず

道雪は世間に聞こえた人格者であったが、規律には厳しかった。
勝手に陣から抜け出した兵達を、見せしめに処刑した事もあった。

ある時、道雪の近習の一人が、同じく道雪の女中と不義密通をして
しまった。この事は瞬く間に立花家内で広まった。さぞ、道雪様は
お怒りであろうと推察した他の近習が、道雪に進言した。
「道雪様、あの者は不義密通を致した不届き者。成敗致しましょう。」
だが道雪は言った、
「ばかもの。若い男が女に溺れる事はあたりまえだ。あいつは若く、
まだ分別の利く様な歳ではない。そんなことで、あたら若者を斬る
事など出来るか。心配せずとも、あいつは戦では他の誰より勇敢に
戦うさ。」
進言した近習、そして周囲の者も、それ以上若者を非難する事は
無くなった。

だが、道雪の言葉を人伝に聴いた若者は、その後女中と会う事を止め、
程なく起きた戦で一番に敵中に乗り込み、討ち死にした。
若者の討ち死にの報を聞いた道雪は、涙を流しながら手を合わせ、
近習につぶやいた。
「見よ、あいつは誰よりも勇敢であったであろうが…」

道雪も近習達も、若者の死を深く悼んだと言う。
931人間七七四年:2009/06/30(火) 23:05:27 ID:dxUPmD7N
>>930
もうでてたような…
932人間七七四年:2009/06/30(火) 23:14:01 ID:jJJmGf1a
>>931
いや、初出だな。既出は最初の2行だけだな。
>>930
本当の人格者だな…こう言う上司なら、文句無しに付いて行きたい。
933人間七七四年:2009/06/30(火) 23:15:32 ID:hiX6MuGs
>931
後半、割と有名な話らしいけど、道雪さんカテゴリでは未出やね。

前半はこれか。軍令違反話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-876.html
934人間七七四年:2009/06/30(火) 23:30:46 ID:Hp/ypeG4
道雪が若者を自殺同然の一番槍に追い込んでるよ・・・
しかも綺麗にまとめてるしおじいちゃん怖い
935人間七七四年:2009/07/01(水) 00:08:18 ID:2dkuPXXV
最上かどっかで似た話があったような
936人間七七四年:2009/07/01(水) 00:24:21 ID:F85t6c81
937人間七七四年:2009/07/01(水) 00:51:01 ID:6pWZAwTs
孫武の話と同じパターンだね
明らかに狙ってる時点でいい話なのだろうか?
938人間七七四年:2009/07/01(水) 01:03:27 ID:nCJksHIW
単に斬ってしまえばそれで終わりだが、自らの度量広さと教養の深さを見せられ、また他の家臣への引き締めにもなるじゃない。
利用できるものは利用するという、現代のMOTTAINAI精神に繋がる良い話じゃないか。
939人間七七四年:2009/07/01(水) 02:15:42 ID:lr5FZGT+
・不義密通で手打ちになりました
・許されて家のために奮戦しましたが、討死してしまいました

上二つを比べた場合、近習にとっていい死に方がどちらかがいいか考えれば
いい話ともいえるんだろう
現代のように名誉とか、家とかを重視しない見方であれば迷うってことなんだろな
940人間七七四年:2009/07/01(水) 02:36:09 ID:pNZBHasJ
戦だから死ぬこともあるけど もし手柄を立てて生き残ったら
皆の前で褒めて名誉回復してやろうと思ってたんじゃないのかな
失敗しても後に生かすって感じで再チャレンジできる社会として後身への手本になるし
941人間七七四年:2009/07/01(水) 03:15:35 ID:UNSSxNj0
亀井さんの大井手

鳥取平野は千代川の氾濫が度々あり、また農業用水の確保が難しく、
おおくが田畑に適さない荒地であり、これにより鳥取の住民は、多くが貧しかった。

因幡鹿野城主であった亀井茲矩は、これを深く憂いていた。
やがて関ヶ原で東軍についたことにより、三万八千石に加増されると、この長年の懸案を
一挙に解決させようと動いた。用水路の造成による、新田開発である。

茲矩は馬で現地を視察すると、ついてきた役人にこう言った

「わしの馬の足跡に沿って、水路を作れ!」

このように1600年(慶長5年)から7年の歳月をかけ、延長16キロメートルにも及ぶ
「大井手用水路」が完成した。
この用水路には、水量を調節する多くの「樋」が造られ、樋守が置かれた。そして
水田の大きさによって支流の水路の幅や深さを決めることにより、効率の良い分水が可能となった。

水路の完成により、それまでの荒地に新田、新畑が次々と開墾され、千代川の西側では、
当時だけで1,200ヘクタールもの新たな田畑が作られた。

この用水路は、鳥取平野の人々に恩恵を与え続けた。地元の人たちはこの水路を
『亀井さんのおおいで』と呼び、亀井茲矩への感謝を、今も忘れないのだと言う。

「琉球守」「台州守」だけじゃない、亀井茲矩の民生の、ちょっといい話。
942人間七七四年:2009/07/01(水) 08:13:14 ID:9xCYSP59
島津側は長宗我部信親の遺骸を返還しており、従来の合戦では考えられない程、丁重に扱われた。
元来、島津家では勇猛果敢な敵将に対して敬意を惜しまない家風である事や、
壊乱した豊臣軍の諸隊とは対照的に徹底抗戦した土佐勢全体への敬意も含まれていると思われる。
943人間七七四年:2009/07/01(水) 10:31:44 ID:U6phjJYx
それは逸話じゃなくて考察(?)だろ
944人間七七四年:2009/07/01(水) 10:47:58 ID:IkphLE3S
話豚切りすまん
前にどっかで謙信が全長9メートルの手習い本を作成して景勝に送ったってのを見たんだが
それをシコシコ作ってたのは出兵中に陣中で、だったとかいうのはマジ?
ほんとだったら叔父馬鹿伝説に新たな1ページが加わるな
945人間七七四年:2009/07/01(水) 11:04:53 ID:aT41wypJ
家康と氏郷の曲渕庄左衛門を巡るやり取り凄く良いなあ。
でも曲渕翁、家康に仕えてから意外にも内政でも良い働きしたらしい。
946人間七七四年:2009/07/01(水) 12:29:36 ID:G6PLVQFh
>>941
「樋」って大事なんだよね
確か江戸時代は流派もあって樋について書かれた書物も多かったはず
土木技術や治水工事は国や村作りの基礎だからな

樋渡とか「樋」の付く苗字の子孫は
大抵先祖がそういう職に就いてたんだろーな
947人間七七四年:2009/07/01(水) 13:29:59 ID:H5O8nS3g
相良晴広の家臣に、北崎与兵衛という者がいた。

ある時、人吉の大畑郷に島津軍が侵入してきたのであるが、相良軍はこれを撃退、
多くの首級を獲るに至った。
この頃、与兵衛は歳にして十六、これが初陣であったこともあり首級を
獲るには至らなかったのである。
与兵衛、落胆しながら陣へと引き上げていると、何と路傍の戦死者の中に
肥大化した陰嚢(キャン玉袋)を持つ者を見つけた。与兵衛、何を思ったか
この陰嚢を切り取って包み、あたかも首級を挙げたかの如くに帰途につく。
その途上、知己である横嶺なる者に出くわした。
見ると横嶺、首級を一つ上げているではないか。
そこで与兵衛、横嶺に「首を担ぐのは重いゆえ、両方の首を一緒に担ごう」と提案。
横嶺はそれに応じ、共に担いで陣へと戻るのだが与兵衛、これをまんまとすり替えた。

陣へと戻ると、まずは与兵衛が晴広に首級を献じ、与兵衛はその功を賞せられる。
次に横嶺が献じるべく包みを開く。そこには、首級の大きさの不思議な肉塊が
入っているだけであった。
横嶺、大いに驚き思わず「途中で化けおったか!?」と言った。
満座の者らはこれに大いに笑ったという。
晴広はこれを与兵衛の悪戯と察したが、敢えてこれを咎めなかった。


その与兵衛であるがそれからは武勇の士となり、天正15年の九州征伐で
秀吉軍が八代で暴れた際、皆が秀吉軍を恐れ抗わなかった中ひとり気を吐き、
「吾が居城は君の賜る所、何ぞ関白の威を懼れて、彼の兵の横暴を許そうか!」
と、薙刀をふるって89名を討ち取るが、最後は家に火を放ち、切腹して火中に
没したという。
948人間七七四年:2009/07/01(水) 13:36:29 ID:G6PLVQFh
西郷隆盛や桐野利秋が罹患してた象皮症か>キャン玉袋
949人間七七四年:2009/07/01(水) 13:39:42 ID:PL0IpfHb
89名を討ち取るってどんなばけもんだよ
950人間七七四年:2009/07/01(水) 13:42:07 ID:UNSSxNj0
関係ないが、今の国民新党の亀井久興幹事長が、亀井茲矩の亀井家の人間だと知って驚いた。
今は石見の地を、竹下さんと猛烈に争っているらしいw
951人間七七四年:2009/07/01(水) 13:43:18 ID:H5O8nS3g
>>949
ゴメン。正確には””斬った”だった。討ち取ってはないかも。
まとめに上がる際には管理人様に修正していただければ幸いでございます。
952人間七七四年:2009/07/01(水) 13:54:35 ID:H5O8nS3g
>>948
おそらく、そうでしょうな。
世界にはこんな人もいるから不思議ではないのかも。

http://www.youtube.com/watch?v=4ZpPaauWsyw
↑ グロくはないけど、唖然としますので注意
953人間七七四年:2009/07/01(水) 13:59:43 ID:36jomDq1
>>949
九州では良くある事w
954人間七七四年:2009/07/01(水) 14:53:50 ID:Hxw3RBlm
>>947
横嶺さん心の広い人だったんだな
あるいはお人よしか
955人間七七四年:2009/07/01(水) 16:07:32 ID:yvQVbqDq
北条さんちの教育・氏直の場合
小田原戦役後、小田原北条氏五代目当主北条氏直は、
なんとか命だけは許されて家臣・親族300名と共に高野山に登った。
しかし交渉上手の叔父、氏規も同行していたし、
氏直にとって義父にあたる家康の口添えなどもあったろう。
翌年には何とか秀吉に許されて、大名として復帰するメドがつく。
秀吉はつい先日改易した織田信雄の大阪屋敷を氏直に与え、
更に知行地を与える約束、
予定されている秀吉の唐渡りに氏直を同行させる約束をした。

氏直は大いに張り切った。
正式に大名として復帰するだけではなく、まだ挽回の機会さえある、
彼はそう考えたのだ。
しかしそんな彼の気概とは裏腹に、北条家の懐事情は散々だった。
当たり前だが、300名も人がいるのに収入が無いのである。
知行地は貰えるから将来的には収入があるが、今は借金するしかない。

そこで氏直は自ら計算し、書類を作成し、その借金の返済計画を練った。
更に緊縮財政を徹底し、台所から何からきっちり予算を組んだ。
奉行衆を任命し、着々と受領の準備は進む。
後は領地を受け取るだけであった。

まさか、そんな彼が10日ほど後には鬼籍に入るなんて誰が予想しただろうか。
956人間七七四年:2009/07/01(水) 16:53:23 ID:+SagdA4j
まだ若かったのにね。もう少し長生きできれば一国もらえたのに。
関東征伐前に頭下げてれば領国安堵されたかな。
957人間七七四年:2009/07/01(水) 16:53:23 ID:yvQVbqDq
明記し忘れたけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2304.html
を受けての氏直の教養に関する話でした
958人間七七四年:2009/07/01(水) 18:36:55 ID:DVsaYIEg
>>953
大友の家臣だった吉田一祐も、死ぬ前に
月山の長刀でそのくらい斬ったって逸話が
あったな。
959人間七七四年:2009/07/01(水) 18:49:06 ID:AczxU8fg
義輝さんはどれ位斬ったんだろ
960人間七七四年:2009/07/01(水) 20:01:11 ID:74PhRvfe
既出だったということで埋めがわりに秀頼脱出劇その二を。

大坂の陣も終盤になり、いよいよ大坂城に火の手が回ってきた。
「もはやこれまでだ。しかし秀頼様のお命だけはお救いしなければ。」
そう思った大野治長は秀頼を裸にし、真菰(イネ科植物)に包んで
濁水に流した。この時、治長は秀吉秘蔵の吉光の短刀を秀頼に持たせたという。

やがて秀頼は水門から流れ出て来た。そこには秀頼を逃がすための
舟が待っていたのだが、その舟に乗っていたのは、なんと夏の陣直前に大坂を離れていた
織田有楽斎であった。

有楽斎は舟底に秀頼を隠して河口までやってくると、加藤忠広の舟に引き渡した。
そして大型船に乗り換えた秀頼は誰にも見つかることなく肥後に逃げおおすことが
できたという。
961人間七七四年:2009/07/01(水) 20:04:33 ID:UNSSxNj0
> 秀頼を裸にし、真菰(イネ科植物)に包んで
> 濁水に流した。

秀頼って、身長180以上で、体重も100キロ以上の肥満だったと言うから、流すのは相当大変そうだw
しかし新スレ立つ前に埋めないで〜。
962人間七七四年:2009/07/01(水) 21:01:58 ID:yvQVbqDq
実際のところ大阪の陣の秀頼ってもう結構な大人なのに
こういう民間伝承みたいなやつだとなんだかずっと幼児だったみたいな感じだよな
963人間七七四年:2009/07/01(水) 21:04:39 ID:UVcfLGot
ずっと阿斗の印象を引きずった劉禅みたいな
964人間七七四年:2009/07/01(水) 21:10:26 ID:6pWZAwTs
実際秀頼は自害してるんだろうけど
本人としてはなんとも不本意な扱いなんだろうな
逃げた先で天草四郎になったり鹿児島で嫌われ者になったり
965人間七七四年:2009/07/01(水) 21:12:59 ID:FnhxXPPs
秀頼というと、子供の頃に読んだ学研の真田幸村の漫画では
オドオドした頼りなげな小柄の坊ちゃんにかかれてたので
俺の中では未だにそういうイメージがあるなぁ。

葵三代の大柄な秀頼にはびっくりしたけど
あっちのほうが史実に近いみたいね。
966人間七七四年:2009/07/01(水) 22:10:47 ID:uvlPN6Ji
>>947
> 晴広はこれを与兵衛の悪戯と察した
横嶺の後ろで必死に笑いをこらえてる与兵衛が目に浮かぶw

>>955
切ないなあ。こういう話よわいわ
967人間七七四年:2009/07/01(水) 23:42:15 ID:kk9gCbNs
ちょっと新スレ立ててくるさ
968人間七七四年:2009/07/01(水) 23:44:47 ID:kk9gCbNs
969人間七七四年:2009/07/01(水) 23:46:50 ID:uvlPN6Ji
>>968
( ;∀;) イイハナシダナー
970人間七七四年:2009/07/01(水) 23:56:29 ID:V5oMpyLg
>>968
2ゲットしてきた。乙でした。
971人間七七四年:2009/07/02(木) 00:03:58 ID:38aE4AcM
>>968
おお、お疲れです。

埋め代わりに

建仁寺の雄長老の小者に、鳥刺しの名人がいた。
この男の事が豊臣秀吉の耳に入り、その鳥刺しの技を見たいと、内々の御沙汰があった。

しかし長老は秀吉に「真に有り難い仰せではありますが、あの者は、名もただ松若というだけの、
身分も無い者であり、このまま殿下にお目通りさせるのはいかがかと存じます。」

「ふむ…、では伯耆とでも名乗らせると良かろう」

「伯耆!?それでは余りにも身分不相応で、恐れ多いことでございます。」

「なに大事無い。柄さし箒よ。」

太閤殿下のちょっとした頓知話。
972人間七七四年:2009/07/02(木) 18:44:23 ID:sJqZDR0o
コメントを放棄させて頂きます
973人間七七四年:2009/07/02(木) 20:26:21 ID:iTVnlQeA
花の慶二なら利家が無理やり爆笑して
秀吉に睨まれて震えそうな場面だな
974人間七七四年:2009/07/02(木) 20:28:21 ID:S2EM1U0E
歌丸「武蔵君ちょっと972を座布団ごとたたっ切・・・」
975人間七七四年:2009/07/02(木) 21:07:48 ID:o7OxVobY
実は子供が二人いたり>秀頼
976人間七七四年:2009/07/02(木) 21:42:07 ID:38aE4AcM
山崎の合戦にて明智光秀が滅びた後の事、細川幽斎、忠興親子が上洛し、羽柴秀吉に対し
帰順への御礼を申し上げに現れた。

このとき秀吉、幽斎に向かい

『細き川こそ二つ流るれ』

と詠んだ。細川親子が二人で現れた事を表したのである。
これに幽斎

『御所車 引き行く跡に雨降りて』

と、即座に上の句を付けた。これには秀吉、深く感心し、ついでに筆者も感心した。
そこで秀吉

「これまでの丹後の知行、相違なし」

との安堵状を、これまた即座に渡したそうである。
977人間七七四年:2009/07/02(木) 21:55:38 ID:DCCB/W6Z
>>976
筆者て誰よ
978人間七七四年:2009/07/02(木) 21:58:52 ID:38aE4AcM
>>977
me

読んで「うめえなー」って感心したんだよう。
979人間七七四年:2009/07/02(木) 22:00:17 ID:9wg8UykQ
>>976
ドサクサに紛れて何言ってんだw

それはともかく相変わらず即興でこんなのが出てくる幽斎はマジ完璧超人だな
980人間七七四年:2009/07/02(木) 22:01:07 ID:K8Ge1pv8
>>977
筆者(ふでじゃ)というくらいだからきっと筆だろう。
981人間七七四年:2009/07/02(木) 22:03:07 ID:GQl4V0ba
文中にそんなこと書かれたらビックリするわw
しかし幽斎の相方が秀吉な事が多いから
秀吉はいつか黙らせてやろうと思ってたんじゃないかw
982人間七七四年:2009/07/02(木) 22:37:45 ID:SNSJ8HUY
そんなの即答できねーよな
すげーなすげーよ幽斎
御所車(秀吉) 細き川ふたつ(細川親子)ってことかな
轍の跡に流れが出来るってのも「従いますよ」って意味にとれる
983人間七七四年:2009/07/02(木) 23:55:33 ID:VQiLR7ow
幽斎って煮ても焼いても食えないやつだったんだろうなあ
いい意味で
984人間七七四年:2009/07/03(金) 00:04:10 ID:fg6thKTM
慶次に人が言う前に下の句思いつく(だっけ?)
って揶揄されるだけはあるw
985人間七七四年:2009/07/03(金) 00:12:05 ID:Z96oi9Kc
頭がいいイメージがあるけど、考えるより感覚的なものだったのかもね。

今で言うと島田伸介?
ごめん、例えが悪いな、うん。
986人間七七四年:2009/07/03(金) 00:23:57 ID:HcYbTts1
>>985
大統領のスピーチライターとかじゃね?
当意即妙ってことで
987人間七七四年:2009/07/03(金) 00:28:58 ID:540eeE8e
>>986
それはお伽衆のほうが近いような
988人間七七四年:2009/07/03(金) 01:40:19 ID:fdjap2wL
父親がこんな完璧超人だったら、そりゃ息子は歪んで育つわ
DQNな部分以外勝ち目が無いもん
989人間七七四年:2009/07/03(金) 06:22:34 ID:ocm74Zsl
家久(悪)「そうそう、親が完璧超人なら仕方ない」
990人間七七四年:2009/07/03(金) 06:28:09 ID:r4cdaanC
>>944
遅レスだが謙信が景勝に送った手本の一つが
謙信が関東征伐真っ最中に書かれたものなのは確か。
一緒に送った手紙に「戦の無事を祈ってくれてありがとう。
こっちももうすぐ用事終わって帰るからそうしたら色々と話してあげましょう。
字が上手になったね、もっと上達するようにお手本送ります」と書いてるから。
…まとめサイトにあったような気もするが。

カタカナのいろは練習帳と「い=伊井位〜ろ=呂路露〜」って奴の
どっちがこの手紙と一緒に送られたもんかは知らん。
991人間七七四年:2009/07/03(金) 10:18:53 ID:spMd7ckz
スレ埋めにふさわしく大阪城堀埋めのときの話でも。
真偽不明、ガイシュツならスルーすれ。

惣構え取り壊しとなり、当然真田丸も破却されることになった。

そんな中、真田さんのおかげで以前えらい目にあった秀忠が、

「真田丸の材木を燃やして暖をとってやろうわい、フハハ」
そんなことを言い出した。

ところが幸村、見越していたのかどうなのか、自分で真田丸の廃材を処分してしまっていた。

ちなみに大阪市内には坂が多く、それは埋められた外堀の後なんだとか。
ちょっと行ってみたくなった。
992人間七七四年:2009/07/03(金) 10:27:12 ID:+APeNzuM
なるほど。そこでも遅延してしまったと。
993人間七七四年:2009/07/03(金) 11:12:14 ID:y14iPGGK
>>990
気になってまとめサイト見てみたが載ってないような。
994人間七七四年:2009/07/03(金) 11:55:48 ID:J3knwzQQ
>>993
お手本を書いた話は別の話に繋がる流れで出てるかもしれん。
どっか読んだ記憶はあるんだが……
995人間七七四年:2009/07/03(金) 15:28:55 ID:r4cdaanC
もしかしたら戦国武将の手紙スレに書いたかもしれん。
しかし、戦の最中に習字の手本を書いていたってのは良い話でもないようなw
996人間七七四年:2009/07/03(金) 17:11:21 ID:6Tj5LVC2
北畠具教の家臣に家城之清という老臣がいた。家城は「槍の主水」と仇名されるほどの
槍の上手で、信長の大河内城攻めに際しても初戦の池田恒興との戦いにおいて
功の第一とされるほどである。

この大河内城攻め、緒戦において北畠家は一度も敗退しなかったものの、結局は
信長の子・茶筅を当主・具房の養子とする事実上の敗北となった。しかも領内の関所及び
幾つかの城を廃却するようにと命じられてしまった。
しかし一度も負けを喫していないこともあり、これに納得できぬ者たちも多かった。
結果、廃城となる予定であった曽原城の城主・天花寺小次郎はこれを不服として籠城、
同じ従騎大将であった家城もこれに加勢すべく曽原城へと入ったのである。

籠城も二年以上に及んだあるとき、中々これを落とせなかった織田掃部は遂に
具房に出陣を要請する。
家城、曽原城を囲む軍に主君の旗が聳えるを知り、「主君には弓を引けぬ」と
仁よりも義を取る道を選ぶ。
結果、家城は曽原城を出て、この囲む軍に参加していた船江衆へと加わり、
逆に曽原城を討つ側にまわる。家城の抜けた曽原城は天花寺共々滅亡するに至った。

この家城、家中の者らが次々と織田方に靡く中にあっても北畠家への忠義を貫く。
信長に具教ら北畠の者らが討たれた際も旧主を裏切らず、具教の弟である具親の
起こした反乱軍に参加、しかし元同輩らとの戦いに敗れ防戦するも三瀬の地で討ち取られた。
997人間七七四年:2009/07/03(金) 17:32:09 ID:T+RS0Faa
>>996
北畠具房も利用されるだけの悲惨な生涯だなあ…。
998人間七七四年:2009/07/03(金) 18:36:31 ID:X3UkSDWF
合戦も無く平和でござりまするのう
999人間七七四年:2009/07/03(金) 18:37:35 ID:X3UkSDWF
ささ、1000をおとり下され、殿!
1000人間七七四年:2009/07/03(金) 18:40:54 ID:uOhWzb26
         , -=ミ;彡⌒`丶、
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      l::::::rィノツノtゝミン、ノノン、:::::::l
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      lと',  `"" ,l l `""  ,リぅ!    
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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