日本刀

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952人間七七四年:2013/01/27(日) 00:28:12.56 ID:VzPGRWq7
ジキチョンw
953人間七七四年:2013/01/27(日) 11:35:22.69 ID:sDGNlCs/
>>949
>移香斎は影流ではなかったか。

字が違う。
陰流だな。
954人間七七四年:2013/01/27(日) 11:59:20.81 ID:Dp3/xggy
付き合うとまた福岡の刀屋の子分が長文書き出すよ。
955人間七七四年:2013/01/27(日) 16:46:02.12 ID:5tG+MV+U
>>953
おぅ、そうだ。突っ込み入れたのにタイポとは…。
956人間七七四年:2013/06/26(水) 18:29:41.00 ID:wINRGegm
アメリカのヒストリーチャンネルで検証があってた
まず今の日本人は日本刀について固定観念を持ちすぎている。
例えばモンゴルの軽装騎馬軍団が重装備のドイツ軍をコテンパンに叩き潰した
豪族の戦闘の絶えなかった日本でも時代を追うごとにどんどん軽装化していってる
つまり、日本刀と日本の戦史は切っても離せないものなんだよ。
日本刀のあの姿が完成した平安後期から鎌倉の刀だが
戦国時代に入ると大きな変化を遂げるのが、刀の重量化
分厚く長い刀が量産されていた。刀匠の腕が劣化するほど量産体制がとられていたのは刀史が示す通り。
つまり戦場で普通に必要とされていた武器の一つ。
まず勘違いされるのが、刀か槍なのかという二元論。そんな馬鹿な話はない。
両方使われていた。そういうだけで事足りる。
で、日本刀がどこまで実用的かを検証したのがヒストリーチャンネルだった。
鉄製の鎧が発達した西洋の剣と日本刀では、どちらが鉄製の鎧に対してより大きなダメージを与えられるかということだった。
西洋の剣は鎧を凹ませ切っ先2センチが入るにもみたない穴をつくっただけで、致命傷を与えるだけの完全な貫通は不可能だった。
ところが日本刀は当時西洋で使われていた一般的な鉄の鎧を完全に打ち破って貫通させた。
実験してる連中もこれには驚いていた。
鎧も実験のために精巧につくられ、きちんとした強度を持った物であったにも関わらず、日本刀は見事にそれを貫いてしまった。
また、刀身のダメージも、西洋刀はぐにゃっと折れ曲がって使い物にならなくなったが
日本刀は刀身全体がわずかに傾いただけで全然使える状態であった
なお、刃こぼれが起こるから切れなくなるという極端論者がいるが
たとえばもっと身近なもので考えてもそれはありえない。
肥後の守や出刃包丁など、刃こぼれがおこるとキレイな線として斬ることはできなくなったからといって
それだけで獲物を殺傷できなくなるということにはなりえない。
日本刀は芸術品であると同時に、実戦のためにとことんにまで強度と使いまわしのよさを突き詰められた究極の戦闘武器であることが立証されていた。
また、それがゆえに、日本刀を扱う武術にニーズがあり発展したといってよい。
957人間七七四年:2013/09/29(日) 00:52:17.82 ID:0fYBd+Sd
                  ,,、 --- 、
               ,、-''´  ‐-' '  `'‐.、
             /´, ,  ,.r ~`"""~ ヾミ、
            .,' .〃,' .〃       ヽ.i,
            l f .´ /  __      -z,_」!        面倒くさいと思ったら上の文は
            .,'.! ,-、_L -ニ─ ''''マT ̄  「!         読まなくていいです
           ./ .f  Y. ':,    ノ. ヽ、__ノi |
           7r | ヽ ., .` ‐-- '   i   レ         簡単に言えば韓信は軍隊を強くするために
           .l lt ヽ、, |`''‐'.    `'' ,  .l!          厳しい軍律を作ったということです
           .{.{{.li .| .l  、.__ `弋ニニブ  ,j          
           ~`√l.{ .ヽ, `''-ニこ- 、_  ム〜、
            / ヽ\ `'- 、_ ``>≧゙ ,.、__`j
           .,:'゙   ヽ.\  `~フ´  ``"‐-えカ''‐-z、
        ,、ィ'"      ヽ.\  ./    ``'''‐‐{べ'=≠:こz-.、
     ,ィ='''"         .ヽ.\/.     ``'''' ┤  `ヽ, 
958人間七七四年:2013/10/10(木) 18:33:47.91 ID:APN86Que
山縣や馬場が長篠で討死したとする一次史料は?
すでに学術論文では、馬場美濃守討捕の感状である武家雲箋収録の7/20付の信長→岡三郎宛書状写も
研究の余地ありと偽文書指摘されてるくらいなんだけど。墓とかも史料的根拠ゼロだから。
また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
「穴山信君、武田信豊、小山田、甘利、諸頭がつつがない」と
一条信竜、小原宮内丞、三浦員久らの質問に勝頼が返信してる。
勝頼の側近団を中心とした改編がなされてたと見るべきだろう。
真田の家督に昌幸を送り込んだりと勝頼派閥の形成があったのだろ。
謙信から景勝への移行でも側近団の大異変が起きてるように、
前当主家臣団と新当主家臣団への移行は一次的に家の弱体化が起こる。
外征を控えて内政に集中し、掌握に務めていたから奥平離反とかあったわけだし
んでも、山県の最後は采配を口に咥えたままだったって言う逸話は好きだけどね。
959人間七七四年:2013/10/10(木) 18:34:32.18 ID:APN86Que
有名武将が畳の上で死ぬより、壮絶な死に方したほうが大衆受けするし
実際、軍記講談話を除けば、馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、
山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて6000の兵力で長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れてさっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど
天正元年7/30の時点では、武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
天正3年4/16の内容は>644に書いてあったんだな。その文書に昌幸が登場する。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
960人間七七四年:2013/10/10(木) 18:35:58.64 ID:APN86Que
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では毛利と呼応しての本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は(高柳光寿曰く)実数6000の兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り54000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して(武田軍兵力6万は尋憲記)
郡上八幡の遠藤氏や安養寺や最勝寺の一揆軍の南下で北からも岐阜を圧迫し織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの
徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し
(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
961人間七七四年:2013/10/10(木) 18:37:21.25 ID:APN86Que
まぁ実際、真田宝物館が大切に所蔵している
8/10付け勝頼→岡修理宛で
長篠で取り詰めたところ、
織田と徳川が後詰めに出てきたので
累年の願望だったので満足しました。
すぐ乗りかかり一戦して数多討ち取り、その利に乗って
信長の前まで押し寄せたところ陣城を構えて籠もっていたので
人数を入れたところ、私たちの先衆が利を失ったとのことでした。
近日には遠江へ出馬します。このたびこそ尾張三河へ乱入し
是非を決して本意を遂げれることは疑いなしです。

などと書いているから、なかなか勝負してこないヘタレ織田が
やっと長篠包囲でおびき出されてきて累年の願望が遂げれたのは確かなんだよね。
そしてさっそく決戦して野戦で織田軍を大敗させたのも間違いない話で、
家康の構城へ逃げ込んだ信長(滝川が陣城を作った記述は公記にしかない)
の目の前まで武田軍は侵攻してきてる。
さらに陣城への侵入にも武田軍は成功してるから
陣城内での乱戦で不利になったのだろう。
そこで大勝利できずに撤退したが、次回こそ遠江へ侵攻すると同時に
尾張三河へも乱入して勝負を決したいと言っていて
武田軍が崩壊してる姿はまったくない。
織田側の嘘情報宣伝で武田が大敗したと浸透していったんだろうね。
結局、武田への恐怖を知る家康が作った陣城に助けられて九死に一生を得た信長は、以後、花印が書けない体になる。
962人間七七四年:2013/10/10(木) 18:38:00.76 ID:APN86Que
織田の家臣なんて雑魚しかいないじゃん

中央佐久間軍団
 武田信玄にボロ負け、本願寺戦でも失敗し更迭
北陸柴田軍団
 上杉謙信にボロ負け、加賀を放棄し越前に長期引きこもり。上杉の内乱につけこんで佐々長縄・神保・長の活躍などで
加賀能登越中を火事場ドロするも、上杉内乱が収束に向かいだす天正8年半ば〜本能寺前の2年において越中中部〜魚津・松倉の短い区間で2年も
立ち往生(しかも上杉は内乱直後で疲弊しきった状態で下越に反乱者、天正10年からは信濃と下越・上野との4方面対策)
東海信忠軍団
 武田信玄に岩村城を簡単に奪われ、長期引きこもり
 主戦場はほぼ全て徳川家康が担当 。援軍なしの岩村城に半年ももたつき最後は騙まし討ちで何とか開城
畿内明智軍団
 強敵のいない丹波で大苦戦。2回も敗戦する。
山陽羽柴軍団
 強敵毛利輝元にガチンコ負けして西播磨から敗走、上月城まで奪われる
 激戦区は宇喜多直家と長宗我部元親任せ。三木攻略に信忠の援軍を受けながら2年ももたつき、鳥取でも4か月ももたつく。
清水宗春・補井田元清にも駆逐され、備前児島・忍城・祝山などを奪回される。
関東滝川軍団
 20そこそこの氏直に対して緒戦で上野国衆10000の敢闘を得ながら、本戦で氏直の偽退却戦術にかかって6000人戦死の大敗。
963人間七七四年:2013/10/10(木) 18:38:41.85 ID:APN86Que
豆知識
鎌倉時代後期以降の人身売買は最低価格が2貫文だったと磯貝氏が指摘してる。
実際、借金苦から子供を売る習慣を宣教師があり得ないと驚いているが、
2貫文で売れるなら止むを得ず売り、
残された家族を養うのも止むを得ないかも。
またキリスト教徒同士では敗者であっても奴隷に出来ない代わりに
イスラム教信者は奴隷にできるため、
奴隷狩りが戦の目的となる場合もある。
日本人は宗教による差別が存在しない代わりに日本人同胞を奴隷にできる一方、養子にしたり、
奴隷が得た物は奴隷の所有物に見做されるなど恩情的奴隷制度であった。
しかし九州南部を中心に倭寇文化圏は残虐な扱いを奴隷にしていたり、
しばしば奴隷獲得のために戦を惹き起こしている。
まったく蛮族と言う他はない。
ポルトガル商人は酷い扱いを受ける日本人や朝鮮人奴隷を買うことで、
待遇をよくしてやったと開き直ることができたのは、
恩情的奴隷制度の無い島津を代表とする九州倭寇文化圏の習慣を悪用したからである。
島津は豊後進攻で拉致し肥後に連行した奴隷の量が多過ぎて、それ以前に肥後で略奪しまくっていた理由により
肥後が史上最大の飢餓地獄にしてしまったほどの賊っぷり。
信長みたいに有無を言わさず女子供ごと全員虐殺されるよりは温情的奴隷になった方がいい
964人間七七四年:2013/10/10(木) 18:39:49.70 ID:APN86Que
信長みたいに捕虜なんて取らずに
和睦したフリして騙しまで皆殺しにして略奪三昧したりするよりいいだろ。
信長の越前府中での書状では、視界に映る辺り一面、死体ばかりで生きてるやつが全くいなくてスッキリするわーって高揚してたりと、
女子供関係なく根まで根絶の撫で斬りである根斬りなる言葉まで作り出した信長。
この殲滅政策を大和の僧侶たちは一国平均とか一国亡国と書いて、
織田軍の暴虐を恐れまくり、
織田軍の奈良進軍があるごとに乱暴大逆を恐れて上納金を高利貸しから借りてきて払ってるからな。
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信玄が人身売買したのはこの志賀城での援軍が敗走してもなお
徹底抗戦をした篭城軍捕虜に対してのみだけの例外的な事例。
奴隷商人のようなものが存在するような恒常的に人身売買があったなら、信玄もたった1回しかやらなかったとしたら奴隷承認は困るだろう。
謙信がやった1度だけの人身売買も、佐竹義昭の死去をチャンスに火事場泥棒をした小田天庵への報復で
しかも謙信は関東のことはまったくくわからないので古河公方重臣の簗田氏の指図に従うと以前書いていて
この時はさらに結城や小山らが小田氏の処理のことは一任してくださいと申し出ていて
奴隷売買というのも奴隷側が著しい道理的・倫理的違反に対する関東の流儀に沿った臨時的なものであり、捕虜救済を視野に入れた性質である可能性が高い。
965人間七七四年:2013/10/10(木) 18:41:01.12 ID:APN86Que
倭寇文化圏の九州南部とそれ以外の地域では全く別だと思われるが。
九州南部は海外奴隷売買目的だが、
関東では捕虜を釈放するための金銭解決法と
戦場とは関係なく借財の質となった人ではまた違うし、
畿内では信長が捕虜や奴隷の管理負担を嫌い虐殺してまわっただけだというな。
篭城して最後まで降伏しなかった敵愾心の強い捕虜をどう処理するかといえば
古今東西、反乱一揆防止や将来の報復を恐れて捕虜を殺すか、
食事を与えてほとぼりが冷めるまで牢獄にいれておくくらいしかないだろう。
そして捕虜の地位や親類関係や罪状やコネなどで価格もかわるのが当たり前で
(荒木謀反において人質虐殺を回避するよう信長へ親類が助命活動や陳情をしていたが聞く耳を持たない信長が700名近くを極刑にした例もある)
その背後関係と経済力と誰へ降伏斡旋を頼んだかでも違うだろう(取次ぎや手管や指南によりだいぶ変わる)
966人間七七四年:2013/10/10(木) 19:46:13.74 ID:APN86Que
そんなガキに論破されまくって悔しくて24時間ストーカー自宅警備員として
深夜に必死に自演レスをしていた織田厨w
967人間七七四年:2013/10/10(木) 19:47:20.23 ID:APN86Que
なんだ小学生に織田チョンは4年に渡り論破され続けていたのかワロタwww
長期に渡り論破された怨みをいま執拗に粘着報復する在日織田恨
968人間七七四年:2013/10/10(木) 19:47:55.43 ID:APN86Que
織田厨の必死な自作自演工作をお楽しみ下さいw
969人間七七四年:2013/10/10(木) 19:48:54.89 ID:APN86Que
●流出とか実名とか全部、織田半島人の自作自演じゃん。
単発ID駆使して規定事実化しようと狙って、議論から逃亡を謀ってるだけ。
そもそも●流出にしたって、実名にしたって、それを本当のことであるとする証明も証拠も
まったくないのに、事実化するために自演を繰り返してアホみたいにレスを爆撃投下してる時点で信憑性ゼロw
自分でレスした工作レスを必死に事実化しようと企んで多数派工作自演してるだけ。
だから証拠を求めてもひたすら別IDが登場してはぐらかす繰り返しw
だいたい本当に実名なら個人情報だしレス内容からsite名誉毀損になるリスクが生まれているのに
こんなに大多数の単発IDが沸きまくって悪口中傷に参加するわけないし、
実名自体が織田厨の作り出した架空だからリスクを考えることなく自演誹謗中傷してるんだろ馬鹿過ぎwww
970人間七七四年:2013/10/10(木) 19:50:00.07 ID:APN86Que
普通のマトモな常識人なら、名前が友人や他人の名前かも知れないリスクなどを
考慮するのが当たり前の思考。しかしこの自演織田厨は、当然間違いないとする自己完結脳。
そして、それに賛同して実名確実の確信をもって相槌を打ち、ゲーム板や日本史板でも盛んに言いふらしている。
このリスクを考えない行動は、織田厨自らがデッチ挙げていることを証明しているし、
こんなリスクを気にしない愚行を大多数の人間が進んで参加するわけもないので、単発ID自演をやってるのは間違いないわなw
971人間七七四年:2013/10/10(木) 19:51:04.39 ID:APN86Que
ほとんど住人のいない戦国板において
たった二日で100レスの大量投下で、しかも大半が単発IDとかwwwwwww
しかも自演じゃないきゃ「会話」なんてほとんど成立しないのに
見事に息があった会話を成立させて会話のキャッチボールとか自演じゃなきゃ
絶対不可能wwww
少しは頭を使えよ低脳織田厨wwww
972人間七七四年:2013/10/10(木) 19:56:40.58 ID:KXsyAS88
菅沼くん仕事がないの?
973人間七七四年:2013/10/10(木) 20:01:23.53 ID:APN86Que
織田厨の必死すぎる思惑
これで議論からひたすら逃亡する予定w
974人間七七四年:2013/10/10(木) 20:02:16.61 ID:APN86Que
自作自演のでっち上げ架空流出事件を続けてる織田厨はアホだなw
被害者なんていないから織田厨がいう自称個人情報をいくら晒しても訴えられるリスクなんて無いだろwww
相変わらず誰彼構わず自分の意に反するものにレッテルを貼って廻って人格攻撃して議論から逃亡してる事実を隠蔽しようとしてる工作なのはバレバレ。
975人間七七四年:2013/10/10(木) 20:24:31.32 ID:yZwqRaOa
人の居ないところを狙って爆撃か菅沼。人が多いところは怖いもんなーボコられるから
976人間七七四年:2013/10/10(木) 23:42:43.38 ID:DVG/UJN5
信長公記は関八州古戦録等と同等の捏造マンセーで塗り固められている

名前通り信長公をマンセーするために曲解して作られた妄想軍記である
977人間七七四年:2013/10/10(木) 23:43:25.18 ID:DVG/UJN5
松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲

手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
熊見川も同様

森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
978人間七七四年:2013/10/10(木) 23:44:29.70 ID:DVG/UJN5
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
979人間七七四年:2013/10/10(木) 23:45:21.59 ID:DVG/UJN5
公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ

第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実

高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
980人間七七四年:2013/10/10(木) 23:46:28.61 ID:DVG/UJN5
信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句
なんと第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい
高遠攻防戦での織田信家戦死を改竄、隠蔽
981人間七七四年:2013/10/10(木) 23:49:57.83 ID:DVG/UJN5
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
982人間七七四年:2013/10/10(木) 23:50:46.32 ID:DVG/UJN5
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽

長家家譜の成立年代は江戸時代、畠山義慶の存在を混同するようなお察し史料
北徴遺文、謙信書状は全て歴代古案によるもの、もちろんこちらも江戸時代のもの

・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き

→和議においても足利義昭は一貫して織田信長を支持。わざわざ御内書まで出して和議に奔走している。
 領土を一寸たりとも失っていない織田信長が追い込んでる敵を相手に和議をする理由は皆無、ゼロ。

 義昭主導による和議であったとする公記の記述に誤りゼロ。
 当時10歳であったホラ吹き大久保の嘘八百を真に受けた情弱による解釈

・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実

→兵糧を運び入れただけで兵に対する記述なし
 そして本願寺はここからわずか2年足らずで降伏、石山退去

・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
 山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように

→信長が高野山にいるわけもない。三七信孝、堀秀政は天正十年ではいずれも別戦線。
 堀の場合天正九年も別戦線で、いざこざがあった程度のものを誇張したオオボラ。
983人間七七四年:2013/10/11(金) 00:53:45.38 ID:CvuEDOvJ
高野山攻めは10月中旬以降に開始されてる。
公記ですら信雄を総大将に9月中に伊賀が平定され、
10月に伊賀を見聞にやってきた信長が信雄に会ったりして伊賀から安土に帰ったのは13日。
信孝は一切記録されてない大空白が続くし、
信孝の支配領地は記録が無くて実はよく分かってないのが現実。
ちなみに信雄も実際には直轄地をほとんど持ってない可能性が高く、
越前の一向宗攻めで他国衆に命令していて
伊勢衆は滝川らが命令発給しており、
信孝も他国衆や丹波衆に命令発給していたりする。
984人間七七四年:2013/10/11(金) 00:54:34.49 ID:CvuEDOvJ
二見文書とか読むと天正10年2月には織田軍は高野山から撃退されてる為か
大和国で苦戦して紀伊国から叩き出されてるっぽいけどな。
一次史料を見る限り堀も伊賀攻めに参加してるようには思えないし、
公記では信長が伊賀平定後に、伊賀に視察に行って信雄に会ったと書いてるが、
一次史料では行ってない。
かわりに伊勢に1〜2日くらいやってきて誰とも会談せずあらき宮に来てすぐ帰ってる。
985人間七七四年:2013/10/11(金) 00:55:50.44 ID:CvuEDOvJ
それに公記が荒木残党を匿った高野山が悪いと書いているが、
一次史料を見る限り、佐久間信盛が死んで遺品を高野山が預かっていたが、
信長がそれを強制没収しようとしてトラブって、
高野山攻めの陣ぶれが天正9年8/23付けでだされるとしていて、
実際にその日付に細川幽斎が南方への出陣に触れた信長書状があるし、
細川は伊賀攻めには参加してないから高野山攻めだろうね。
986人間七七四年:2013/10/11(金) 00:56:35.14 ID:CvuEDOvJ
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
987人間七七四年:2013/10/11(金) 00:57:28.41 ID:mH1OSBpd
菅沼しょっぱいな
988人間七七四年:2013/10/11(金) 00:57:28.60 ID:CvuEDOvJ
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
989人間七七四年:2013/10/11(金) 00:59:20.81 ID:CvuEDOvJ
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
990人間七七四年:2013/10/11(金) 01:00:08.63 ID:CvuEDOvJ
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
991人間七七四年:2013/10/11(金) 03:33:07.30 ID:Oyf6k2+J
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
992人間七七四年:2013/10/11(金) 03:33:52.21 ID:Oyf6k2+J
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)

天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
993人間七七四年:2013/10/11(金) 03:35:22.10 ID:Oyf6k2+J
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長
江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。
しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの
追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが
義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
994人間七七四年:2013/10/11(金) 15:00:29.98 ID:aTQVspf7
物狂いか
995人間七七四年:2013/10/11(金) 18:57:31.40 ID:2z9aNNMX
[
996人間七七四年:2013/10/11(金) 19:13:18.11 ID:2z9aNNMX
[
997人間七七四年:2013/10/11(金) 19:14:36.06 ID:2z9aNNMX
[
998人間七七四年:2013/10/11(金) 19:15:10.74 ID:2z9aNNMX
[
999人間七七四年:2013/10/11(金) 19:15:44.66 ID:2z9aNNMX
[
1000人間七七四年:2013/10/11(金) 19:17:04.85 ID:2z9aNNMX
>>536
いいえ、勝負になります。
>>538
それは別問題。
なにしろ木には他に使い道がある上、戦国時代は木が不足していたからね。
>>539
別に日本刀は高くないし、木刀はタダでは手に入りません。
材木も、それを鍛える作業も、お金がかかります。
>>540
新撰組には槍や鉄棒の使い手もいるんですが。
>>541
いいえ、必ずしも優れているわけではないです。。
>>545
>木刀が日本刀より強いwwwww

日本刀が木刀より強いwwwwww
>>546
木刀はただの木の棒ではありません
鍛える必要があります。
あと、中国人の大言壮語を真に受けないように。
ちなみに中国では日本刀対策として枝つきの槍が用いられていますが、これをどう見ます?w
>>548>>570
いったいどこに兵士に武器を配る大名がいたんです?w
もうちょっと勉強しましょう。
木刀の調達には手間も時間もお金もかかります。
>>549
普通に可能でしょうね。
>>550
江戸時代のケンカで木刀に日本刀を曲げられて逃走したという記録があります。
>>551
その必要がありません。
>>552
ないではない、ではなく、普通にそうなんです。
>>554
それまさに刃筋のことじゃないですかw
>>556
日本刀が軽い?どんな冗談ですか?w
>>557
そういう言い方をするなら、日本刀の活躍も軍記物ばかりということになってしまいますが・・・
あと軍記物だからといって史料扱いしないという姿勢はいかがなものかと思いますよ?
>>564
なかなか目の付け所がいいですね。
>>565
いいえ、違いません。
>>566
合理的に考えた結果、合理的ではない結論を出してしまったということですね。
人間世界ではよくあることです。
>>567
鈴木氏は「脇差や右手差し」で取ったと書いていますが?
捏造は感心しませんね。
>>569
くだらないと感じるのは何もわかっていないからでしょうね。
>>568>>572
>>564

>>586
槍ですよ。
>>590
抜く必要がありませんし、乱戦なら首を取っているヒマもないので、真剣より有効でしょうね。
刀より頑丈というのも見逃せません。
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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