1 :
人間七七四年:
いい話、悪い話の姉妹スレです。
有り得そうな話をどうぞ。
2 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 11:59:44 ID:IL1kMhm1
半島人歴史捏造スレですね
わかりかねます
3 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 15:00:06 ID:dxGPGA3Y
作り話ならいっぱいあるよな
江戸期に作られた話だが
4 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 15:32:35 ID:h7GHUTEo
捏造なんてしませんよw
清正が一時期イ・スンシンにフェラチオして仕えたって話はきいたことあります。
5 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 18:19:19 ID:iNp0wtcT
上杉謙信が武田信玄と恋人だった話しなら知ってます
6 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 18:24:49 ID:S8o4zf/+
>>4 成る程、フェラチオで仕えさせるなんて、イ・スンシンは衆道をたしなむ人だったんだな。
しかも相当なガチムチ趣味と。
7 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 22:10:34 ID:f7r3YQdm
ここって架空戦記とかを創作するスレなの?
それとも一般に流布してる作り話とか伝説集めてくるスレなの?
後者だったら別に現行のいい話・悪い話スレでよくね?
8 :
ο丁児:2009/04/23(木) 23:08:09 ID:6m5c2efI
徳川家にとって不吉な文字は「幸」
これは上田城で二回も苦杯を舐めさせた真田昌幸を指す。
もう一つの文字は「村」
これは徳川家に仇なした妖刀・村正を指す。
江戸期の講談家たちは夏の陣で活躍した真田信繁を題材にした講談を作ろうとした。
しかし「信繁」ではネーミングにインパクトがないので、何かよい名前はないかと考えた。
そこで冒頭で書いた忌み嫌う不吉な二文字をくみ合わせて「幸村」としたのである。
9 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 00:26:57 ID:XWU1u2aD
真田信繁は実は大坂の陣より前にすでに九度山で病死していた。
その死の床で信繁は自分の遺体を山中に隠して埋め、死を秘める
ように言い残した。
徳川家が信繁の影におびえる効果を狙ったのだ。
ところが無名の牢人が大坂の陣のとき、ハクをつけようと真田信繁を
自称した。これを大坂の連中がみんな信じ込んでしまった。
本人がやってくるまでの間、と思っていたのだが、もちろんすでに死んで
しまっている信繁が現れることはなく、そのまま成り行きで偽者が
信繁になってしまった。
この牢人が実は隠れた才能があって、大坂の陣ではなかなかの活躍を
見せた。
家康から遣わされて説得に来た信之は当然偽者と見破ったが、
真田家の将来のことを考え、そのことを公表せず、あたかも本物で
あるかのように振舞った。
真実を知る一部の人間が、そのことを暗に示すため、偽の信繁を
「幸村」という別名で語り伝えた。
10 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 07:09:42 ID:QJ+yXdwj
11 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 10:17:57 ID:kJGiv7S/
要するに民明書房スレにすればいいんだろ
12 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 13:55:42 ID:fGoPJ/8p
徳川家に仕えた田中喜兵衛という男がいた。
1573年三方ヶ原で武田、徳川がぶつかるが徳川が惨敗する。
この時、家臣数人が影武者になると言いこの男も「拙者が影武者なります。殿はなんとしてでも生き残ってくだされ。」
と言って、家康の側を離れた。
家臣たちが「我こそは家康であるぞ!!」と叫ぶ中、この男「我こそは家康の影武者であるぞ!!」と大声で叫んだ。
これは家康の耳にも聞こえており、「あのやろうぉぉぉぉー!!」とか言ったとか言わないとか。
家康はなんとか逃げ延び、浜松城へ戻った。
そこに影武者となった田中喜兵衛も生き延びて帰ってきた。
「殿、ご無事でなによりでした!拙者も奇跡的に生き延びることができました。」
この言葉を聞いた家康、漏らした糞を投げつけ、ひと通りゴリラの真似をした後、自ら喜兵衛を斬った。
この時の顔を描かせた肖像画が有名な「顰像」である。
13 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 14:28:16 ID:UltiIrmP
14 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 17:39:01 ID:9jfIDI/I
>我こそは家康の影武者であるぞ
前田さんちの慶次さんですよね
15 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 13:24:30 ID:zL8nRacu
「奥州伊達家は藤原山蔭流の名門の家系である」に尽きるだろ。
16 :
おっぱいうp ◆Y3W8zcC2RI :2009/08/24(月) 19:33:11 ID:AxE5cLHb
毛利家の訓練を大内義隆が見物したことがあった。
その際、ある部隊が勝どきを上げ「ヤー!ヤー!ヤー!」と発していたのを耳にした。
これを不思議に思ったか、部隊に気になる男でもいたのかは分からないが、義隆はこのことについて訊ねた。
義隆「ムフッ、なぜ、ヤー!ヤー!ヤー!って言ってるの?普通エイ!エイ!オー!でしょ?」
毛利家臣「当家には三矢の訓という元就様の訓戒がございまして、それに因んでと申しましょうか・・・まあ遊び心です。
これを聞いた義隆、自慢のマツゲを上下させムフフと笑った。
義隆「ムフッ、面白い!当家でもやってみるか!」
翌日から大内家の勝どきは「エイ!エイ!オー!」から「ウホッ!ウホッ!アー!」に変わっていたという・・・。
17 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 20:33:47 ID:+7ucnR9H
スレの主旨によっては大丈夫かもしれんが…
気になるスレだ
18 :
人間七七四年:2009/08/28(金) 22:10:07 ID:QtndiWyQ
神 五郎兵衛(1482?-1555)
本名は不明、通称の五郎兵衛のみ伝わる。
神氏は周防守護代・陶氏の重臣で、五郎兵衛は陶興房、晴賢の二代に仕えた。
髭の立派な偉丈夫で、合戦では紅の陣羽織をまとった剛の者だったという。
その一方、それまで煩雑だった戦勝祈願を勝ち栗だけで済ますなど、
合理的な性格は「栗済ます神五郎兵衛」ともてはやされたという。
天文24年(1555年)、厳島の合戦に老齢を押して出陣するも、主君・晴賢は討死。
乱戦の中殉死しようとするも思い止まり、仇討ちをすべく戦場を脱する。
弘治元年(同年)閏11月12日夜、桜尾城に毛利元就を暗殺すべく侵入するも、
主君・晴賢から賜り肌身離さず持っていた「鈴」が突然鳴り出し、計画は露見。
五郎兵衛は奮戦するが、駆け付けた毛利の軍勢に討ち取られた。
厳島の勝利の隙をつかれた元就は、自分の慢心を恥じると同時に
五郎兵衛の忠義に「武士はかくあるべし」と深く敬意を表し、
返り血で染まった服のまま家臣を集め、戒めを含めて論功行賞を行った。
以来毛利家では毎年この時期になると、論功行賞を行う慣習が出来た。
家臣達は「神五郎兵衛、神五郎兵衛、鈴が鳴る」と謡い、宴に興じたという。
19 :
人間七七四年:2009/09/09(水) 22:07:20 ID:5m7nbHeS
備 大将(そなえ ひろまさ・1530?-1610?)
「そない」とも。備氏は全国に分家を持つ豪族。多くは地元の戦国大名につかえ、槍働きで家を保った。
戦国時代の数多くの文献に登場するが、いずれも名が「大将」となっているので見分けがつかない。
ただ、有名な「備大将」は何人かいたらしく、秀吉に狙撃されたと文献に見られる。
(生没年はこの備大将である)
最近の研究では、長男は代々「大将」の名を持つのが慣例だったらしい。
またほとんど一族内で婚姻を繰り返していたらしく、代々似たような顔立ちだったという。
これらは現在残る羽壮八百(うそうはっぴゃく)備家18代目当主・備太将(ふとまさ)さん(80)の研究で明らかになった。
20 :
人間七七四年:2009/09/09(水) 22:11:38 ID:SsWmRsdc
>>19 このスレではじめて面白いと思った。上手いね。
21 :
人間七七四年:2009/09/10(木) 22:33:38 ID:U0mGUvoa
なんか男塾の民明書房刊みたいだw
22 :
人間七七四年:2009/09/11(金) 08:30:01 ID:Ji9UqI/M
23 :
人間七七四年:2009/09/11(金) 11:35:07 ID:62G3LEBc
猫利雪兎(ねこり・せっと:1511〜1583)
別名:太郎右衛門尉、式部丞、山城守、雪兎斎
後北条家臣。玉縄衆。『小田原分限帳』では、永禄二年(1559)で126貫文。
猫利氏は相模三浦氏の家臣であったが、主家三浦氏が北条氏に滅ぼされた後、
北条氏に降伏、その後は玉縄衆の中堅として活躍した。
父猫利三郎左右衛門は永禄七年(1564)の第二次国府台合戦で遠山景綱に従って奮戦したが
敵将正木大膳介に討たれ、雪兎も右目を負傷した。
その後、父三郎左右衛門の後を継いで玉縄衆筆頭格となるが、北条幻庵と
衝突を繰り返し、天正元年(1573)には北条幻庵と殴り合いの抗争にまで発展。
小田原の北条氏政が介入して雪兎は蟄居を命ぜられたが、後に復帰した。
天正11年(1583)2月、またもや素行の悪さを北条氏勝に注意されたが雪兎は
これに従わず、北条氏政の怒りを買って切腹を言い渡され、同月25日、自刃した。
24 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 14:54:55 ID:t9J44QyZ
足軽は簡単に集めることができたので武田家中では手軽とも気軽とも呼ばれていた。
25 :
人間七七四年: