>>367 訂正 義隆側の西条木追山城も→義隆側の西条槌山城も
吉川元経の妹と元就が婚姻してるし、元就の妹と吉川元経も婚姻してるから
尼子と元就は婚姻関係で深くつながってる。
1515年末にも吉川経基(子が国経と尼子経久正室・孫が元経・曾孫が興経)が
尼子経久に毛利との縁談を提案していることからも窺われる。
ゆえにまず幸松丸を殺害し元就が跡を継いだのは尼子の承認あってのことだろう。
一方で毛利家臣は栗屋や井上などを代表に陶を通じて大内とつながってる。
その家臣団を取りまとめているのが志道だろう。
だからどっちと手を組んでも片方との完全な断交などは無く、連絡チャンネルは残している。
好条件さえ提示されたらすぐに陣営を変える蝙蝠が元就の欲深いスタンスだろう。
>>毛利家文書251号に書かれているが元就が過去を振り返って書いているので、
安芸の大半が尼子になびいたが毛利だけが大内に忠勤したとかデタラメが書いてある
元就の捏造ストーリーによって1523年尼子の鏡山城攻撃を境として
大内は東西条からも全兵を撤退させたので中国地方はこれより20年の間、尼子の勢力が強かったが
そんな中で毛利だけは大内に忠節したから大内から得た領地は正当だと主張して大ウソを吐いてる。
その元就の吐いたウソを正当化させる為か、大内側にずっと属していない証拠になるような
尼子からの加増などの書状がかなり処分されていると思われる。
そんな中で珍しく残っているのが
1532年7/10尼子晴久と元就が妻の実家の吉川の仲介で兄弟契約してる(毛利家文書210号) だろう。
このタイミングは尼子経久の三男の塩冶興久(妻の実家は備後山内氏)謀反の時期と重なっており、
経久と晴久と元就が協調して興久を挟撃体制を敷いているのであり、
1533年には興久は備後へ逃走してなおも反抗しているが、元就と晴久の義兄弟化は地理的にも乱の鎮圧に効果はあったろう。
そして乱の鎮圧後は当然に尼子から加増があったはずであろう。
しかし1534年9月23日には大内義隆から元就に官位を授けるように後奈良天皇に申し出て、
のちに叙任しておりさっさと尼子を裏切っている。そしてさらに吉川興経から尼子との和睦を斡旋されているが
元就に怒っている尼子側が拒否しているのが笑える。さすが鉄面皮元就である。
元就は一揆のリーダーとしてその婚姻関係をフルに使っている為に
保護者である大内も尼子も一目を置かざるおえない強固な立場がある。
これを期待して小早川も吉川も宍戸も熊谷も養子や婚姻を申し出てきたのであり、
かれらの家々の婚姻関係もフルに動員すると石見や備後にも影響力を行使でき、
その毛利系列会社の力は大内や尼子以上の兵力を安芸において動員するのも可能な巨大勢力であった。