毛利衰退の原因は、元就が作っている件

このエントリーをはてなブックマークに追加
351人間七七四年
1567年11月からの隆景の伊予遠征ってさ、
そもそも宗麟が一条へ援助して
伊予方面に毛利の目を向けさせておいて
その間に北九州の親毛利勢力を撲滅させる策なんだよな。
中国で動員された国人達はみんなは
いくら大義名分で、「厳島の恩返し」※を強調しても
「なんで小早川の私欲のために俺らが狩り出されなきゃならんわけ(怒)」
って超不満タラタラでの従軍だったし。
しかも、伊予遠征してたら
大友が親毛利勢力をフルボッコしまくり北九州の情勢悪化で
一条氏を伊予から追い払うこともできぬまま
伊予遠征打ち切りして船に乗るや
中国国人たちは故郷を海上から眺めながらも帰れず、
そのまま北九州直行に付き合わされて
中国の国人達の士気がものすごい低くなっちゃうんだよな。
おかげで隆景の軍は立花城下の決戦で道雪に大敗し、
最後は降雪の夜に毛利全軍追撃をうけて泣きながら大敗走だもんな。
その間の四国でも大友の後援を受けている一条氏が西園寺をも降し伊予での主導権を握り
1568年11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて河野との形勢逆転に成功し
1569年11月には毛利が上記のように大友の前に大敗。
1570年からの元亀年間には甥の宗麟と一条氏は宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
この成功で傲慢になった一条兼定が家臣の讒言を信じたりで自爆して家臣に追放されちまい
豊後へ逃げたのちに、大友兵を借りて一条VS長宗我部の決戦で敗北し
長宗我部の四国での覇権が確立していくわけだが。
※過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。

何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。