毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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349人間七七四年
高橋鑑種が毛利領への調略で成果を挙げたため毛利討伐発向準備を下令するも、
和睦の話が現実味を帯びてきたので中止。
1562年9月道雪が補給線を切り開くため松山城の戦いで毛利を大破。
9〜10月に両軍が中元寺や桜井や柳浦で交戦
10月13日道雪や吉弘が松山包囲のついでに門司郷大里で門司城番や村上水軍を撃破し
城将冷泉五郎元豊や桂兵部大夫元親、赤川助右衛門(又左衛門尉元吉)を討ち取る
大友尼子同盟
松山城の天野隆重もしきりに城番の交代を隆元に願うまで追い込まれる。
これを受けて元就は追いつめられ1563年3月和睦。
和睦の時の門司城の扱いは不明

1564年4月毛利の唆しで秋月筑紫謀反 7月には彦山も謀反 8月毛利は大友と和睦誓紙を交換しつつ高橋に謀反を勧める背信行為。
高橋は毛利領の国人への調略で成功を収め、毛利領侵攻に自信があったが中止になり、毛利領の国人達に対して面目を失い恥をかいていた。
大友側が幕府に、うわべで和睦のフリしてるだけで和睦条件である九州の国人との関係を切らない元就に圧力を加えるよう依頼。
なお、これ以上の謀反を煽るようなら大内の旧臣たちをこちらも煽ると警告。
まったく改まらない元就に激怒しこの後に実際に大友側にいた大内輝弘を毛利領へ上陸させようとして
中国側の島へ渡海するも、内応した陶や内藤の親大内国人が毛利側に討たれ上陸失敗。
1568年5月20日西大野宮山に籠城していた仁保隆慰らが田原親宏に落とされ
大坂山の杉と西郷も降伏し田原勢は7月に杉七郎重良の苅田松山城攻撃を開始受け
1569年3月両川が門司城を奪い小倉着陣し前年の玖珠郡長野氏の三岳城攻めに続き、三岳城で(企救長野?)長野を攻略し立花へ
立花城攻防戦で大内輝弘の上陸に成功&小早川軍の敗北で攻防戦に大友が勝利。
大友と連動し尼子再興軍の出雲山中とともに浦上宗景と一味した藤井一党も備後方面で毛利へ挙兵

孤立した高橋鑑種が大友に降伏したので高橋の名跡を奪い、腹心の紹運に高橋の名跡を与え
高橋鑑種には代わりに規矩一郡を与え小倉城に高橋鑑種を移す。
門司城の状況は不明
(小倉城に一度は毛利側へ寝返ってから大友に降伏してる危険な高橋が配置されたことから、
目と鼻の先の門司城は大友側だったと言われる。毛利側の史料の追放された高橋を拾って小倉へ配置したってのは大ウソ捏造)

1570年2月大友側として高橋鑑種が門司城を攻撃

門司城の状況は不明

ちなみにもともと小倉築城は住吉神社領吉母浦へ流れついた寄船を利用し掻楯板として毛利側の急造の城
暗黒寺が交渉役として小倉津町衆に外構え70枚を、堀隔子造成は規矩郡中へ申しつけ金具調達は本人
毛利は南条と一緒に堀担当の日野衆を派遣する。
小倉は家久が1570年に伊勢神宮上洛途中に午後2時ころ小倉の町に着き大友統治下の高橋鑑種殿の館を一見したと出てくる。

ほんと毛利厨みたいな無知なヤツは疲れるな。。