毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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337人間七七四年
なんだよ。毛利厨くんに数日の猶予を与えて俺の質問の回答を待ってたが黙殺ですかwww
>>326
>>秀吉がいつ毛利の領地の大半を支配したんだ?
俺は譲渡も何も大半がすでに秀吉に切り取られた領地とか突っ込まれてたじゃんと書いているんだぞ。
誰も播磨や因幡が毛利家の物なんて書いてないじゃんwお前ってさ頭おかしいだろ?
だがな、>>328>>329に書いたように元春や隆景に勇気があれば反織田連中を糾合し増援してれば
少なくとも但馬〜摂津ラインの毛利領国化も可能な情勢だった。
信長が明智が丹波で苦戦中のため敵中孤立の危機に成りかねない播磨に秀吉を派遣したのも
秀吉が姫路を拠点にしたのも北に位置する生野銀山からの輸送ルート確保のためで
結局、勇気の無い毛利が姫路を攻撃できずに逃げた為それを手にすることができずに敗退を続けた。
>>多治比が奪われているのは事実だよな
池享氏も多治比が奪われたとする元就の話を怪しい話と一刀両断にしてるわけだがw
>>家督相続の手順が早いから謀反だとか意味がわからない
たまたま神仏詣してた粟屋元秀が将軍から元就の家督継承の許しを得て帰ってくるとか出来過ぎなんだがwww
たまたまの突発的事態なのに速やかに将軍や幕府要路の重要人物たちへの取り次ぎの速さや
斡旋費用にどんだけ大金や贈り物を持って京にいるんだwww
>>327
養女として高橋が養育して他家に嫁がせる予定だったのに、元就がその長女を犠牲にして襲ってきたんだから
養女が人質に転落して殺されたって話なのにどんだけアホなんだお前www
>>334
書き方が悪かったね。すまん。あまり最終チェックをしないでレスするもんでね。

さて話を変えて
義興死後の守護大内義隆への対抗権力としての守護代の家中形成の進化が陶隆房のクーデターを呼んだ。
そして吉川山陰領国形成と吉川小早川の毛利本家へのクーデターたる関が原の対立から
元春宿願の岩国吉川領の成立への道。

元春の独立へ向けた動きは元就が死去するや顕著になり
仲が悪かった兄の子の輝元を周防長門2ヵ国に押し込めて大友と対峙させる一方で
隆景と共に両川は東へと広域支配目指して領土を広げていくのである。
天正9年には湯原春綱へ元春が出した書状には
「作州祝山数年被遂籠城、御忠義之段吉田ニ茂被感思召候、可被加似合之御褒美之由候、
当時依無明所、末次・黒田百貫之内五十貫地之事、従吉田可被成御扶持間之事、拙者令裁判進置候」
今回の奉公に輝元から加増すべきところだが、俺が勝手に加増してやる!と宗家を蔑ろにしているのがわかる。
毛利宗家は元春の無断決定による褒美を追認するだけの象徴的存在に落とされ、元春らは寺社に対しても独自支配を進めていく。
そして天正15年の広家の家督相続では山陰国衆15名が吉川氏に「任御下知 上様へ可抽馳走候」となる。
館鼻氏もこの事実を吉川氏による山陰国衆統制の完成と評価している。