毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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331人間七七四年

晴賢から江良房栄を離反させようと恩賞で釣った元就。しかしいざ寝返ると約束を違えてたった知行三百貫しかくれない。
ふざんけんな約束ちげーよと文句言ったら隆元が逆ギレしてシカト・・・援軍もなく孤立した江良は晴賢に虐殺される。
毛利の偽書状のせいで折敷畑の戦いの信憑性がおかしくなった為に年代特定ができず
1554年9月とも1555年4月とも言われるようになった元就の詐術による野間一族虐殺の話もひどい。
ちなみに吉川元春と野間隆実の間柄は双方ともに熊谷信直の娘を妻にしていたことである。
大内さらには陶を裏切った不義の元就に怒って籠城。元就親子は苦戦の末に悪辣な詐術を弄した。
野間隆実の舅の熊谷信直の降伏勧告の内容は熊谷氏重臣の水落甲斐守を人質に出し
援軍の兵も周防国へ送り届けるし隆実の生命も保証。これを受け入れ矢野城は開城した。
しかし援軍の羽仁源七らが水落甲斐守を人質にして帰る途中で吉川の奇襲に合い全滅。
野間家臣野村弥五郎、豊島伊豆守や城兵も矢野城下の真教寺に幽閉されて虐殺。
隆実も酒肴のご馳走のあとに風呂で虐殺され野間一族は滅亡。
元就の悪質さはもはや精神異常の域に達しているのではないか?
そもそも元就の最大の失策は三村家親の行動を許可して浦上宗景を離反させたことだな。
宗景は尼子晴久と同盟を組んだ兄で当主の浦上政宗に対抗し毛利元就と同盟し挙兵。
毛利本隊や毛利に従う備中の三村家親率いる備中衆の援軍を得て各地で政宗・尼子の連合軍を撃破し、
1560年頃までに政宗の勢力を備前東部から駆逐し備前国の支配権を握ており、ここで元就が浦上と三村の間をうまく調整できなかった。
月山富田城を包囲していた1564年に三村家親は元就から陣を離れるのを許してもらい備前国に侵攻し岡山城の金光宗高を攻撃し浦上の敵対。
続いて1565年に家親は美作国にも侵攻し浦上配下の直家の娘婿である後藤勝元の守護する三星城を攻めたが直家の加勢で失敗。
結局、1567年には明善寺合戦に発展し家親は討ち死に(鉄砲暗殺は当時の鉄砲の命中精度が悪すぎてデタラメ話である)