>>291 ドコが分からないも何もお前は前後の経緯も書かず断片的に書いてるだけで
具体的には何も書いてないからどのタイミングの何の事柄を指して書いてるかさっぱりわかんねぇじゃんwww
つーか1528年12/19に毛利が大内側になったことで義興が人質として山口に来た
井上新三郎の忠節を賞して所領を宛がってるし(当時は元兼が大内への外交やってた)
それを受けて尼子方への人質として月山富田城に毛利が出していた赤川就秀・光永秀時らが
脱出しようとして光永秀時が尼子に殺されてるのに何言ってんだw
そういや1541年にも元就は尼子から大内氏に寝返った時に義隆に安芸の平野部を中心に一千貫の加増をしてもらったw
元就はちょこちょこと小さい裏切りをしては加増おこづかいのおかわりをもらってる。
こんなことが可能なのも毛利が一揆の盟主の家柄で特別待遇だったからできた。
1540年の吉田郡山城の戦いも地元の吉田歴史資料館の職員によれば
最近の研究では、実際に尼子氏が本隊を動かした戦が殆どなく
尼子側が毛利をあまり激しく攻めた痕跡が見られないと言ってるしw
吉田郡山城の戦いも本当にあったのかねぇ?いや〜毛利のデタラメ捏造は最低だね。
義興の死後に高橋氏が大内から尼子に寝返ったのも
高橋元光が三吉氏のよって討ち死にして以来、高橋はずっと三吉氏と戦ってたが
これは大内や尼子とは関わり合いのない国人と国人同士の争いであり
しかも元就の兄の妻の実家の高橋との関係強化で
久光の養女として長女を出していたので背後に心配することなく戦っていた。
それなのに突然に元就が高橋を背後から奇襲してきたので立ち直らないほどの打撃を受けた。
さらに加増させて尼子を裏切った元就は大内に
高橋が裏切ったと濡れ衣を着せたから高橋はやむなく尼子を頼っただけ。
そして弘中隆兼と備後和智城主の和智豊郷と一緒に重光を討ち
其の子の興光が三吉氏の入君城を落して凱旋してきた時に元就に騙された
叔父の盛光が興光を殺害するや主君殺しとして盛光を殺害。
ちなみに和智豊郷の子の誠春は隆元が急死した時に毒を盛ったとされたのに何ら元就から罪に問われず
6年後に誠春兄弟が毛利の伊予遠征の帰りがけに捕らえられて厳島に監禁され殺害された。
このあたりが元就が誠春に命じて隆元を暗殺したのが
世間にバレたので口封じをするために後々に殺すことになったとされるところ。
>>292 高橋の家系図には別説があってそれも書こうとしてたがめんどくさくなって止めた。
その際の切り取りの編集ミスに気づかなかっただけだ指摘されていま気づいたわスマンな。。
>>295 なに言っているの?石見高橋氏と言われているように高橋は安芸の国人じゃないんだよ?
もともとは備中の国人やってて、その後に石見の邑智郡の阿須那に左遷転封されてきてるんだが・・・
それで豊かな石見出羽氏の領地を狙って拡大していったわけだが。
それと3千貫=約1万2千石ってどうやって算出したの?地域ごとに貫も石も基準はバラバラで
度量衡の統一が不完全ながら執行されたのは秀吉政権によってだよ。
その安芸国における貫の算出方法のソースを頼むわ。
いままで地方における貫の石への変換は戦国板で誰も手を付けてこなかった聖域だから楽しみだわ。
ただでさえ秀吉政権の算出した各国の石高ですら論争した挙句に結果がでなかったのに・・・