毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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271人間七七四年
>>269
子作りマシン元就の派閥が幸松丸派の領地をごっそり奪いとって勢力も精力も一気に増したじゃんw

そういや1569年の信長配下の摂津守護池田勝正指揮下の但馬守護山名祐豊攻め・播磨浦上城攻撃は
すさまじい勢いで誰も阻止できなかったと言うね。
なんせルイス・フロイスが天下に高名であり、要すればいつでも五畿内においてもっとも卓越
と賞嘆した池田勝正は金融政策に明るく領地支配の確立から兵農分離まで成し遂げていたとも言われ
根来衆を傭兵として配下に加えて無敵の軍だったとも言われた。
結局、越前朝倉攻めで呼び戻されたが金ヶ崎の退き口において秀吉や光秀らを配下にして殿を務めたほどの実力者。
ほんと元就は運だけで領地を拡大できただけ・・・織田の朝倉攻めのおかげで元就は命拾いしたよね。
ちょうど元就は大友に大敗し宇喜多に備中美作を奪われ、尼子残党に出雲と伯耆の大半を奪われ
毛利方の伯耆の南条と因幡の武田は各々連絡線を分断され孤立し各個撃破の危機下だったんだから。
おまけに信長に許された山名祐豊が織田配下として但馬に帰還して
因幡守護の甥の山名豊国と毛利方攻めしてんだから。毛利厨にとってもう朝倉義景って救国の英雄だよなぁ。
もし朝倉が織田に出仕してたら元就は織田軍にフルボッコされて元就は信長に殺されてたよね。
まぁでも史実では1570年内は信長が志賀の陣で追い詰められて朝倉に土下座したりしてたから毛利は余命伸びたね。
毛利が破滅する寸前に元就がギリギリのタイミングだったけど死んでくれてよかったよね。