【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】

このエントリーをはてなブックマークに追加
936人間七七四年:2009/08/15(土) 16:59:07 ID:hjUxRvFl
他所でやれ。
937人間七七四年:2009/08/18(火) 20:03:09 ID:j2yhg99v
合戦はどれくらいの時間がかかりますか?
合戦は草原で行われるものですか?
合戦が終わった後は放置ですか?
亡くなった人は弔ってもらえますか?
金目の物を取得する人はいますか?
938人間七七四年:2009/08/18(火) 20:51:39 ID:7pBrOn2K
支城や砦の戦争における役割ってなんでしょう?
各個撃破されてしまうようでは戦力の分散としか思えないんですが。
挟撃する為?でもそれなら1つ1つ潰されたら意味ないですよね?
939人間七七四年:2009/08/18(火) 22:59:02 ID:UnkIRpGz
>>938
支城にも色々あるけど、戦争時は防衛用ではなく活動拠点と思った方がいい
各個撃破されそうなら放棄して他の支城に移るか、本城(本隊)に合流します
役割は敵への牽制や妨害、見張りなど
940人間七七四年:2009/08/18(火) 23:08:40 ID:7pBrOn2K
>>939
ありがとうございました
放棄した砦は逆に利用されそうで怖いですね
941人間七七四年:2009/08/18(火) 23:18:33 ID:yGmRJvKz
最近どこかで城を包囲されてる守備側が
包囲側の後陣にいる寝返った武将を討つために城門を開いて打って出て
それを聞いた包囲側の前線にいる武将が
武士の情けとか言って感心しながら通してやる話をどこかで見た記憶があるんだけど
具体的にどこの戦いで誰の話だったのか思い出せずモヤモヤしてます

フィクションの話かもしれないけど
思い当たる人がいたらご教授いただけないでしょうか
942人間七七四年:2009/08/18(火) 23:41:38 ID:IjFDuPnb
>>937
状況によって異なる
田の中や川をはさんだり、湿地帯などはざらにある
勝った方が死体処理をします
首塚を築いて近くの坊主に供養を頼みます
雑兵や落ち武者狩りの近隣住民が主に行います
943人間七七四年:2009/08/20(木) 04:56:02 ID:mJxvsAQw
戦闘の終わった戦場は宝の山みたいなもんだからなあ
944人間七七四年:2009/08/20(木) 11:44:31 ID:wmHE739K
まあ大名のほうもそういう落ち武者狩りを容認して、変わりに戦場の清掃をさせたって面もある。
945人間七七四年:2009/08/21(金) 08:02:42 ID:kl90EcKC
質問です。
最近になって海音寺潮五郎の悪人列伝を読みはじめた程度の戦国にわかなのですが、
氏の宇喜多直家の頁に書いてある直家が浦上家に反旗を翻し、滅亡させた年が永禄四年とあったり(文春文庫 三巻 142〜144P)、
三村家親暗殺が永禄六年であり浦上家滅亡のあととしている(同152P)ところが
Wiki等に書かれている直家の略歴(前者は天正二年、後者は永禄九年)などと異なり戸惑っています。

これは氏の著作の中では宇喜多直家に限った食い違いなのか、それとも各武将など著作全体にも及ぶものなのでしょうか?

なにしろにわかのため、歴史的前後関係の前提知識がないので、氏の作品に触れる上で
戦国時代を理解するための知識の参考(別に資料にする訳ではなく話のタネとしてですが)にしてよいのか、
それとも『読物』として単に楽しむ程度に留めておいた方が良いのかわからず困っています。
本当ならば他の文献にも当たって同時代を多角的に見たりして年号等を検証することが理想なのですが、
なにしろにわかであり、年齢的に多量の本を読むことが出来ないので皆さんの知識をお貸しください。
946人間七七四年:2009/08/21(金) 08:16:25 ID:ObHl9u+t
>>945
悪人列伝は1961年の著作です。
海音寺氏に限らず、過去の作品、特に戦国氏研究があまり進展していない1980年代以前の作品では
現代の研究結果との齟齬が多く存在します。それが時代的な限界です。

まあ、悪人列伝が小説なので、資料的な価値を求めずあくまで「小説」として楽しむのが
一番良いと思いますよ。
947人間七七四年:2009/08/21(金) 09:36:50 ID:5ZYck9Bb
宇喜多に限らず、戦国武将に関わる事件には年未詳のものが多い。
当時の書状は日付を明記しているものの、年代まで書いてあるものは少なく、
そのため織田信秀の没年や越後黒田の乱などは年代が確定しておらず、
有名な事件なのに年代の比定が諸書によってバラバラな例は枚挙に暇がない。
948人間七七四年:2009/08/21(金) 10:13:01 ID:F8MsQNLW
東中国の史料が極めて少ないってのもあるしなー
949人間七七四年:2009/08/21(金) 11:21:38 ID:5YlIxPRn
信長死んだあと徳川が織田家の領地切り取りしていますが同盟はなくなってしまったのですか?
他の織田家臣団からフルボッコにされそうなきがするんですが・・・
950人間七七四年:2009/08/21(金) 11:32:58 ID:g/3JFsqI
甲州入りは正確に言えば、本能寺の後の甲州での蜂起により、織田家の代官
河尻秀隆が討ち取られる→家康は治安維持のため出兵、という流れ。
家康はあくまで、織田家の協力者として行動している。
また、この措置は清洲会議などでも特に問題にはなっていない。
(まあ夫だけにそれらの領土を維持する力がなくなったのだから、当然だが)

家康の行動は意図はどうあれ、当時の意識としてはほぼ合法的に行われている。
951人間七七四年:2009/08/21(金) 12:19:29 ID:0/GzjN3v
領地を治める力が無くなればそれを治める力のあるものが治めるのが戦国時代ってものだからな。
滝川を関東からたたき出した北条にしたって、
どさくさにまぎれて北信濃を切り取った上杉にしたって、
その件については織田-豊臣政権から何も言われておらず、むしろその状況を追認されているからね。
952人間七七四年:2009/08/21(金) 12:53:13 ID:vkY0FvcL
にわかの質問で恐縮ですが
浅井長政に関する読み物で何か面白いものはないでしょうか?
Wikiで調べて覇者の系譜と流星と言うのを見つけたんですが
前者はifもの、後者は永井路子ということで
できれば違うのを読んでみたいのですが…
953人間七七四年:2009/08/21(金) 14:32:02 ID:F8MsQNLW
>>950-951
合法とかってんじゃなくて、単純に抗議する余裕がないから仕方なく不問・追認にしたってだけ。

通常なら敵対行為で同盟決裂だけど、織田家の側に力がないから、力ずくの侵略が罷り通った。
954人間七七四年:2009/08/21(金) 14:38:01 ID:ObHl9u+t
織田も中央政府になってたわけじゃないし。切り取り上等のでかい戦国大名のひとつに過ぎない。
955945:2009/08/21(金) 16:04:15 ID:kl90EcKC
皆さんお答えいただきありがとうございました。

>>946
戦国史の研究の進展とは思い至りませんでした。
1980年代以前と以降では研究成果等の資料土壌が異なるのですね。
氏の略歴を見ても武将列伝のスタートが1959年と、戦後から15年も経っていないことから、
戦火により散逸した資料の再収集等もままならなかったのやもしれませんね。
そんなことも考えつつ史伝文学の再興者たる氏の作品に触れてみたいと思います。

>>947
そうなんですか…
学生の頃に学んだ古文書解読も年月が明記されている江戸時代が中心だったので、戦乱期や識字率等の条件をついぞ忘れていました。
やはり歴史を紐解くことの難しさを感じますね。

>>948
それも初耳です。
そもそも自分が関東の出身なので中国地方についても詳しくないのですが、
やはり覇者たりえず江戸等の王都から外れた所の文献を探すのも難しいのでしょうね。
そういえば学者である友人も四国現地での民俗調査に苦労したと言っていた気がします。
956人間七七四年:2009/08/21(金) 17:19:50 ID:5ZYck9Bb
>>951
北条については清洲会議後、柴田が憤怒している書状がある
957人間七七四年:2009/08/21(金) 17:31:33 ID:0/GzjN3v
>>953
合法とは言ってないよ。
あなたが言うように、織田に力がないから追認せざるをえなかったって事。

>>956
個人で怒るのと、政権が動くのでは違うよ。
この件で、織田系の武将から北条が嫌われたのは確かだけど、それはそれ。
これを織田政権がこのあと公式に動いたわけでも、秀吉が小田原攻めの口実にしたわけでもない。
958人間七七四年:2009/08/22(土) 11:58:40 ID:9C2qyDck
下らない質問で申し訳ないんですが、
戦国時代に限らず日本には相当数の馬がいたと思われるのに、
移動手段に、馬車が用いられる事は、ほとんど無かったのはなぜでしょう。
平安時代に貴族の移動手段として、牛車というのはあったみたいですが。
959人間七七四年:2009/08/22(土) 12:39:05 ID:2gZGxQoE
大名子女の侍女はどのように選別されたのでしょうか。
有力家臣の妻などが当てられたと考えていいんでしょうか?
960人間七七四年:2009/08/22(土) 13:38:59 ID:ivhtttXh
>>958
道が悪いから。
ヨーロッパだとローマ時代に石畳の街道が脇道を含めて整備されている。
961人間七七四年:2009/08/22(土) 14:27:06 ID:3ENhtGBk
>>958
ほとんど>>960の言うとおりだが、あと海と河川を利用した流通がかなり内陸まで発達していて、
馬車のような内陸用の輸送力に頼る必要があまりなかった。
962人間七七四年:2009/08/22(土) 14:34:45 ID:HrVmvzs/
>>959
基本的には家臣の中の信頼の置ける家の子女が侍女として仕える。
有力家臣の娘、ならともかく、「妻」が君主の正妻の侍女になる、ってのは殆どないんじゃないかな?
妻にはその家臣の家での役割がある。
正妻の侍女から有力家臣に嫁ぐ、というパターンは多そうだが。
963人間七七四年:2009/08/22(土) 16:38:02 ID:PwPjVxFV
>>958
ついでに言うと気候も関係している。
日本は温帯湿潤で雨量が多く、地震も多い上台風も多数来襲した。
また山地が多くため街道の道中では非常に狭い場所も珍しくなかった。
平野部では川が頻繁に氾濫し、川筋の変更による道の変更も少なくなかった。
このような気候・風土では道に石畳を敷いても数年で舗装しなおすことになる。
馬車が普及するには技術もさることながら、普及に適した環境でなければ難しい。
日本に住んでいるとわかりにくいが、日本ってかなり特殊な地域だぞ。
近代以前ならなおさらにね。
964人間七七四年:2009/08/23(日) 00:01:41 ID:9C2qyDck
>>960 >>961 >>963
的確なご回答有難うございました。
確かに、悪路を車輪で走るのは、些か乗り心地が悪いもの。
それにしても、中国では、チャリオットのような戦車が出現してる時代もあったようなので
日本に渡来する余地がなかったのか、とちょっとだけ不思議な気もします。
965人間七七四年:2009/08/23(日) 00:29:39 ID:fZnST0vR
日本に馬が到来したのが、大陸で戦車が消えて随分と経ってからだからなあ
966人間七七四年:2009/08/23(日) 03:30:09 ID:gC7rr66y
「戦車」と「馬車」ってのも、ずいぶん運用の違うものだしな。
967人間七七四年:2009/08/23(日) 10:34:23 ID:duEaOrdj
旅客機と戦闘機くらい違うからな
968人間七七四年:2009/08/23(日) 12:56:46 ID:a+gwqw8z
江戸時代の人が描いた未来予想図に
馬に大八車引かせて、それに何人も乗る
乗合馬車みたいなのが出来るってあったな
969人間七七四年:2009/08/23(日) 21:39:26 ID:XMZ49K+R
・本能寺の変前後から元和偃武頃の間に生存していた公家
・様々な大名と親交がある。大名以外の人物ともあればベター。
・家格が羽林家以上
・山科言継、菊亭晴季、近衛前久ではない

以上に当てはまる公家を探しています。
970人間七七四年:2009/08/23(日) 22:07:23 ID:fZnST0vR
ちょっと思いつかないなあ。
武家との接触が多いのは他には観修寺だけど、こちらは名家。
戦国期の武家伝奏は近衛家と日野家だけど、日野も名家。
971人間七七四年:2009/08/23(日) 23:59:29 ID:boa2MjAd
>>969
久我敦通とかはどうだろう?
972人間七七四年:2009/08/24(月) 00:12:56 ID:/M+6By59
二条昭実
973人間七七四年:2009/08/28(金) 22:25:58 ID:GUfjDRqY
足利将軍家側の大名の上洛が持つ意味合いって何?
974人間七七四年:2009/08/29(土) 01:25:18 ID:dRqFptAZ
>>973
室町時代の場合、大名は将軍に奉仕するため、都に常在するのが本来のあり方。
それが応仁の乱で崩れ、殆どの大名が在地に帰ってしまった。

そのため、応仁の乱以降の足利将軍家としては、大名の上洛は本来の幕府秩序の
復興を意味し、それはまた将軍権威を上昇させるわけだ。

当然そのほかにも、軍事的や経済的なメリットがあるが、基本的にはこんな感じ。

975人間七七四年:2009/08/29(土) 06:49:56 ID:MWHBjipA
室町幕府初期は足利直轄領はあったの?
それがなかったから簡単に形骸化したのだと思うけど
976人間七七四年:2009/08/29(土) 08:33:05 ID:fr4VqViR
直轄領とはちょっと違うけど、奉公衆っていう直属の親衛隊ならいた。
規模は数千っていうから規模としては大きい。
応仁の乱も存続して、戦後に義尚や義材が六角氏を逃亡に追い込むなど
幕府の権威を一時的とはいえ復古させる原動力になっている。

しかし明応の政変でこれが瓦解して室町幕府の政権基盤が崩壊した。
977人間七七四年:2009/08/29(土) 09:46:53 ID:dRqFptAZ
>>975
直轄領はもちろんあった。本領もあるが、各地の寺社領も基本幕府が管理していたので、
実質的には足利家のものだった。
畿内は一部を除いて守護家がころころ変わるのだが、京のある山城は、基本的には
幕府直領だったと言っていい。

足利義尚による鈎の陣は、近江の直轄領化を目指していたとも言われる。
978人間七七四年:2009/08/29(土) 13:15:05 ID:MWHBjipA
なるほどね
そうすると山城が幕府領でなくなるのは
応仁の乱以降ですかね
979人間七七四年:2009/08/30(日) 00:46:32 ID:hdCJkxwf
>>976
それにしてもせいぜい20万石がいいところだろ?
有力大名とガチでタイマンしたら負けるかものレベル。
980名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:11:52 ID:LqJ9ewBf
戦国時代と言うか、応仁の乱前は、権威っての言うプラスがあったからなぁ。
例えば、源氏宗家の所領は?と聞かれてすぐ出てくる?
足利、新田、武田や佐竹など、源氏と言う一族の所領は出てきても、意外と
直轄地の名前は出てこないよね。。
981名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:18:33 ID:EWG63z1k
>>978
> 山城が幕府領でなくなるのは
> 応仁の乱以降ですかね

いや、応仁の乱以降は幕府政所執事の伊勢氏が山城守護を勤めたりして、むしろ幕府による山城支配は
強化される。

幕府による支配が弱体化(あくまで弱体化)するのはやはり、明応の政変以降、
騒乱のたびに徐々に、と言う感じ。

982名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:39:40 ID:4rqjTaf0
>>981
義昭が挙兵した末期ですら、京都の町衆を軍事動員できたようだしね。

奉公衆も明応の政変以降は骨抜きになって、山城や近江などの土豪(和田氏などが
いい例)が中心の編成に変質していくとのこと。
983名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 13:27:42 ID:lyx4gL6Q
義昭の場合は松永と三好三人衆に占領されてたのを
信長が奪い返して与えたからだろ
984名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 14:33:33 ID:EWG63z1k
>>983
違う。足利将軍には色々な権限があるが、その中に京の町衆を動員する権限もあった。
985名無しさん@そうだ選挙に行こう
>>984
その権限が、義昭以前には失われていたんじゃないかと言っているのでは?
義晴や義輝が細川や三好と敵対していたとき、京の町衆が動員されてましたっけ?