上越市「謙信・兼続」検定

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48人間七七四年:2009/09/02(水) 08:24:54 ID:ZbrRVtWT
>46

検定は、小学生なんかも受けに来るだろうから、そういう問題もあるんだろうね。
 けど、何も知らなかった人や偏った知識レベルの人なんかは、初心者テキストとしても使えるから、
そういう意味では良さげな感じ。
49人間七七四年:2009/09/02(水) 19:57:56 ID:hNS8amIt
>>47
上洛したあたりで愛を詠んでたぞw
ああいうシーンを入れるのはいいんだが、愛の歌を詠んだ
ことを強調するだけだったのが不本意だな
50人間七七四年:2009/09/02(水) 20:12:28 ID:c/fKVsar
似たような試験ができた。

愛・天地人検定

http://www.tenchijin-kentei.com/
51人間七七四年:2009/09/05(土) 04:50:05 ID:IkDsGmEE
>50
情報乙です。

しかし、こちらは大河「天地人」の方が主催ですかね。
同じようなものを2つも作ってどうすんだろ?
 こういうのを量産するよりは、もう少しましなドラマを作る方に力を入れて欲しかったと、切実に思う。
52人間七七四年:2009/09/05(土) 14:44:38 ID:e8bmpEUT
>49

ちょうど、そのオープニング部分は見られなくって、その歌の事は人づてに知った。
見忘れても後悔しなかったorz
53人間七七四年:2009/09/05(土) 15:10:45 ID:nes7zQzB
どうせだったら、
米沢市・林泉寺に所蔵されている『人日』(漢詞)の方を紹介して欲しかった。
観光客も呼べて、知って貰える良い機会だったのに。
(上杉家自体も、しょっちゅう歌会を開いていた)
※兼続は「人日」で、川のほとりの画林に吹く春風の心地よさと梅の花を愛メでている
54人間七七四年:2009/09/17(木) 22:04:12 ID:ySfWvkhw
上越市「謙信・兼続」検定

http://www.joetsu-kentei.net/


愛・天地人検定

http://www.tenchijin-kentei.com/


彦根城下町検定

http://www.hikone-kiina.jp/kentei/

歴史能力検定

http://www.rekiken.gr.jp/
55人間七七四年:2009/09/28(月) 00:01:53 ID:SiwxNIJI
こんなにたくさん作って
どうするんだろう
56人間七七四年:2009/09/30(水) 02:38:35 ID:DtxWLdCL
久々に続き

1595年
・金銀山の開発を進める
〈関白・秀次、自害〉
・越後国内で太閤検地が行われる。この検地をもとに「越後国郡絵図」が作成される
・伏見状に土地を与えられ、上杉家の館を建設
・兼続(36)、南化和尚より「前漢書」(国宝)を贈られる
57人間七七四年:2009/10/01(木) 07:48:16 ID:aQ8TsQvA
スレチだけど、
挟み撃ちだとか直江状だとか、あったかどうか分からないものを、あったと確定されて可哀想。
58人間七七四年:2009/10/04(日) 20:20:16 ID:dmTkaMAP
age
59人間七七四年:2009/10/06(火) 07:36:49 ID:g7fKJrFO
普通に家康に謝罪したのに可哀想。
また、アホの子扱いか…。
せめて、秀頼に先に挨拶するところを描くとか何とありそうなものを…。
60人間七七四年:2009/10/12(月) 03:31:01 ID:FDSe53XA
1598年
影勝(44)、秀吉より会津(福島県120万石)への国替えが命じられる。
〈春日山城には、秀吉の家臣・堀秀治が入る〉
兼続(39)には米沢(山形県6万石)が与えられる(与力を除いての計算なんかおかしいが)。
謙信の遺骸も会津へ移される。
61人間七七四年:2009/11/06(金) 10:36:33 ID:/0DR2ctx
遺骸も持ち歩いてたのか
62人間七七四年:2009/11/08(日) 09:37:51 ID:U3H+DEIs
age
63人間七七四年:2009/11/12(木) 06:58:31 ID:EHnT3ZLT
1598年
秀吉の死後、景勝は五大老の一人として、国政を担うようになる。
64人間七七四年:2009/11/18(水) 06:36:01 ID:ZKx/aMTj
1599年

会津領内の道路、橋などの整備を進める
〈豊臣秀頼、伏見城から大阪城へ移る。前田利家が補佐をする〉

兼続(40)、京の南化和尚より「文鑑モンカガミ」を贈られる
※南化和尚が兼続の為に示した漢籍を読む指南を収録した、兼続の自筆とされる。現在は米沢市立博物館が所蔵する国宝「上杉家文書」の一点である。
《徳川家康、豊臣秀吉の遺言に背き、他の大老から責められる》
65人間七七四年:2009/11/30(月) 09:57:30 ID:fhl0OLc+
アゲ
66人間七七四年:2009/12/02(水) 06:41:43 ID:iEpPnJIW
1600年

景勝(46)、金津に新しい城(神指城)を築城。領内の整備が疑いをかけられる

※この次の行から俗説が続く為、実際に手に入れた史実に近い事柄を絡めて書いて行きたいと思います。また後で
67人間七七四年:2009/12/11(金) 06:05:48 ID:p46TH7x6
 1598(慶長3)年8月、幼い秀頼を五大老―徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家―に託し、秀吉が亡くなる。
秀吉は、秀頼の補佐をさせる五大老と、石田三成などが名を連ねる五奉行の制度を作ったが、家康と対等の力を持っていた前田利家が亡くなり、石田三成も家康との確執から五奉行を去るなど、次第に家康の力が台頭してきた。
68人間七七四年:2009/12/30(水) 08:16:07 ID:ZQBRtpGI
《迫り来る上杉討伐と関ヶ原》
 1599~1600(慶長4~5)年初め、会津アイヅに移ってすぐ京都に入り、中央政権に携わっていた景勝は、"家康の同意を受け"会津に戻ります。
 会津国内の統治を進め、敵対する武将と接する要所には腹心を置き、その守りを固めました。また、手狭な会津若松城に代わる神差城コウザシジョウの建設を兼続に指示、あわせて街道や橋の整備を行い、鉄砲などの武器を購入しました。       続く
69人間七七四年:2010/01/18(月) 17:38:05 ID:+W2Vsw0z
※豆知識

神指城や道の整備などで動員した人夫の数は、12万人ほど。
70人間七七四年:2010/01/30(土) 15:01:03 ID:cv1V0JHM
>68
(続き)
 そうした会津国内の整備を、上杉家の後に越後に入った堀秀治は、家康に対し「上杉に謀反の疑いあり」と密告する。
家康は使者を会津に送り、また、景勝に上洛して事情を説明するよう求められる。
もちろん、景勝・兼続(上杉家)に謀反の意図などない。
国内整備は家康も同意の上だったから。
      続く
71人間七七四年:2010/03/12(金) 09:54:37 ID:IvhUQzr0
資格ガイドにも重要な資格であると紹介されてた
72人間七七四年:2010/03/12(金) 17:47:32 ID:orrbuUMq
>71
そうなんですか?
73人間七七四年:2010/04/29(木) 23:19:41 ID:eEWl39Ks
本当に載ってたw
74人間七七四年:2010/05/03(月) 05:21:56 ID:113MRhBT
それでは続きを書きましょう。
…用事があるので後で。
75人間七七四年:2010/05/31(月) 15:05:14 ID:jnrvduaq
age
76人間七七四年:2010/06/03(木) 00:00:10 ID:asrdja9G
 一応、テキストでは
『直江状』は載っていましたが、前田討伐の話といい、
五大老の規約破りといい、
家康の言い掛かり・陰謀だと言えるので、
兼続の罪はごく少ないものだと思う。
 承兌和尚の事を載せていないのは、承兌和尚をかばっている為か?
77人間七七四年:2010/06/05(土) 02:51:09 ID:a8SeLI9E
★直江兼続公 生誕450年祭、メーン事業9月に(米沢)

・9月18、19日は「戦国『鍋』合戦」と「戦国『ゆるキャラ』合戦」を行う。
・5〜11月の祭り開催期間中は、他にも関連事業が実施される。
78人間七七四年:2010/07/29(木) 09:35:26 ID:fBYoEUMJ
国家資格になる日も近いですな。
79人間七七四年:2010/11/09(火) 06:36:48 ID:CxfU/0kz
 今年の10月で
第3回を迎えました。
 ちなみに今回は「愛の段」でした。
(前回は「義の段」)

遅れての告知は残念でした。
80人間七七四年:2010/11/12(金) 02:57:27 ID:rekBE2Iy
天文17年、謙信は春日山城に入って越後国の領主となる。
後奈良天皇は、天文21年、謙信に従五位下の位を授け、弾正少弼に任じた〔官位官職〕。
81人間七七四年:2010/11/12(金) 03:10:19 ID:sxZ0QamF
(続き)
謙信は越後国内の守りを固め、自ら手兵二千を率いて京都に上り、御所に参内した。
後奈良天皇はたいへん喜び、お杯とともに、御剣を賜り、争乱を平定するようにとの命を受けた。
この時の御剣は"瓜実の御剣"(うりざねのぎょけん)と称して今に伝えられている。
82人間七七四年:2010/11/12(金) 03:45:04 ID:AlnEzrfl
(続き)
=後奈良天皇が亡くなり、正親町(おうぎがまちてんのう)が即位して、永禄元年を迎える=
翌永禄2年(1559)4月、謙信は兵3千を率いて京都に向かい、27日京都に入った。
まず将軍・義輝に会い、5月1日参内し沢山の金品を納めた。正親町天皇は、お杯と御剣を謙信に授けた。この御剣は"五虎退の御剣"と言い、今に伝えられている。
今度は、更に御所の修理のお金を献じ、自ら南門を復興し、8月まで京都に滞在し将軍を助けて都の整備に努力した。
また、比叡山をはじめ神社仏閣を参拝して回り、関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)とは国家の将来を語り合って共鳴し合い、誓文を交わし合い、将軍からは武田信玄討伐の命令を受けた。
83人間七七四年:2010/11/12(金) 04:10:28 ID:ewafhGEW
《川中島の合戦》
 甲斐の武田信玄が、信濃国を侵略しようとしたのは、天文11年信玄の妹の婿・諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼそうとした時に始まり、信濃十郡を次々に攻撃し、最後まで抵抗していたのは南の木曽氏と北の村上氏だった。
信玄は北信を手に入れようとし、天文22年(1553)8月、大軍をもって攻めた。
城主・村上義清は、勇線奮闘したが衆寡敵(しゅうかてき)せず大敗し、越後に謙信を頼って逃げ信濃の領地を奪い返して貰いたいと願った。
信濃は謙信にとって燐国であり、祖母の生まれた土地だった。謙信は信玄が理由もなく他国を侵略するのを怒り、村上義清の願いを聞き入れ、さっそく信玄に書を送って、旧地を返還するように勧めたが、信玄は応じなかった。
これが、上杉・武田両氏の川中島合戦を引き起こす元になった。
84人間七七四年:2010/11/12(金) 04:42:51 ID:0NVBzkC6
 天文23年7月、信玄が兵を進めて来た。
謙信は急を聞いて出陣すると、信玄はいち早く逸早く逃げ帰った。
翌弘治元年(1555)7月、謙信が大軍を率いて出陣すると、信玄は急を知って出陣し、川を挟んで対陣して、10月まで百数十日間、向かい合ったまま過ぎた。そこで、信玄は駿河の今川義元に頼み、和睦を申し入れた。
条件としては、信玄方の旭城までとし、以後攻略しないという事だった。そこで両軍が同意して引き上げた。ところが、信玄はこの条件を破り、翌弘治2年再び動き始め、3年2月、信玄は葛山城を攻めとり、3月に飯山城に迫った。
謙信が軍を出すと、信玄は逃げ帰ったので、謙信は葛山・旭山の両城を奪い返した。
 永禄2年(1559)謙信が京に上ると、信玄はその隙を狙おうとした。京都では、信玄の非を責め、将軍は謙信に信濃を助けて信玄を討てと命じた。
そこで謙信はいよいよ信玄との決戦を決意した。
85人間七七四年:2010/11/12(金) 12:05:30 ID:YEeFuRxm
 
86人間七七四年:2010/11/15(月) 00:03:12 ID:GTjs31LJ
(続き)
〈第四次川中島合戦〉
 信玄は、永禄3年、
川中島の近くに海津城を築き、信濃から少しも手を引こうとしなかった。
永禄4年(1561)、謙信は関東の乱を鎮め、関東菅領・上杉憲政の頼みを受けて上杉氏を継いだ。
その隙に、信玄が信濃に兵を出した。上杉方の将兵は大いに怒って、信玄征伐の意気に燃え立った。
謙信は、6月関東より越後に帰るや準備を整えた。
 謙信は、春日山城をはじめ越後の要所に諸将を配置して国内を固め、8月14日、一万三千の兵を率いて出発した。
 謙信は信濃に入ると、15日には善光寺に到着、大荷駄と五千を後詰として残し、16日、自ら八千の精兵をと小荷駄を率いて、川を越え、千曲川を渡って敵地に入り、海津城を見下ろす妻女山に陣を布いた。
一挙に敵地深く侵入した大胆で機敏な作戦だった。
87人間七七四年:2010/11/17(水) 01:27:04 ID:rujfTyxF
 一方、信玄は
上杉勢出陣の報を聞き、かねてからこの日のあるのを予測していただけに、好機来るとばかり、8月18日、一方七千の兵を率いて甲府を出発し、途中の軍3千を合わせてその勢二万。
23日には腰越に至り、状況を考えて、24日、茶臼山に陣を布いた。
これは、妻女山よりも善光寺寄りで、上杉軍の退路を遮断する位置であり、また妻女山は海津城と茶臼山から挟まれる位置とになった。
両者はここに策を凝らし、秘術を尽くし、絶妙の作戦を展開した。
88人間七七四年:2010/11/20(土) 03:04:34 ID:zVh3M+Mw
 しかし、この作戦は長期間となれば、上杉勢は兵糧を絶たれて不利になる。
妻女山の将兵は次第に焦りの色が見られ、中には退陣を勧める者も出て来た。
しかし、謙信は胸中深く期するところがあるのか、平然として、陣中に愛用の琵琶「朝嵐」をとって得意の曲を弾き、時には小鼓を打って近習に謡わせた。
この敵を呑んだ態度は、将兵の心を鎮め、一方、武田方には、何とも不気味なものに感じられた。
89人間七七四年:2010/11/20(土) 23:01:24 ID:67cyk0hL
 ところが、8月29日、信玄は突然茶臼山の陣を払って、海津城に入った。
なぜ、武田方が有利な態度を崩して陣を払ったのかは謎とされてる。
長期戦の構えをとる為だとの説もあるが、信玄が妻女山の状況を探り、謙信の態度を知って、何か作戦が隠されていると思い込んだのかもしれない。
90人間七七四年:2010/11/30(火) 00:28:12 ID:r8B2Kvug
(続き)
 9月9日、海津城も妻女山も、陣中に重陽の節句を祝っていた。
しかし、その時、すでに信玄は軍議を開いて進撃の作戦をしていた。
それは、軍を2つに分け、一軍は一万二千をもって妻女山の後方から夜襲をかけ、他の軍は八千の兵を信玄自ら指揮して川中島に陣し、追われて逃げて来る上杉勢の退路を遮断して全滅させようという作戦だった。
そして、後方に回る一軍は、地理に詳しい海津城主・高坂弾正昌信が指揮する事になった。
91人間七七四年:2011/02/28(月) 15:52:51.94 ID:ZPy1yC+c
《上杉家経営》

米沢30万石減封へ:執政・直江兼続の智政により、実質51万石に増やす。
(城下拡張と平行して、城下を洪水から守る治水工事「直江石堤」、城下・城下町に用水・薪材を供給する堰の開削の指揮。
荒地開墾(下級武士)、殖産興業を指示(越後から持ち込んだ織物「青苧」や桑・紅花・金山など殖産興業の指示)
兼続公は、「国を成すには人を成すを似てす」の通天存達和尚の教えを元に、移封後も仕官を希望する武士の召し放しをせず、共に国造りをした。
更に、後の鷹山の学問所の元になる「禅林文庫」を設立。
懇意にしていた京都の僧侶・南化玄興和尚などから写筆したり譲られた貴重な本を多数使用(「宋版史記」は国宝指定)。
更に私財を投じ、日本初の銅版書「文選モンゼン」[直江版]を出版(市立米沢図書館所蔵)。大いに武士の学問に力を注いだ。
そして、滋賀や堺(大阪)から鉄砲職人を雇い入れ、白布温泉の隠し住まわせ、幕府に知られないように鉄砲製造を行った。
(1000丁加増計2000丁、大砲20など)
そして指南書を書き、武芸も奨励し、武家の習いと防衛に務めた。
後の中興の祖と仰がれる藩主・鷹山も、過去の兼続公の施策を模倣したと言う。

尚、よく言われる上杉家自身での問題で、経済的に困窮したと出回る俗説は間違いである。
三代藩主・綱勝が世継ぎを残さず早世した為、幕府から録高を半分の15万石に減らされた為と、
当時、浪人が多数いて問題になっていた為(由井正雪の乱)の影響と、保科正之(綱勝の室の父)の指示があった為に、召し放し(リストラ)が出来なかったのが本当の理由。


※参考文献…専門書「直江兼続」(高志書院より出版)や、(上杉家所蔵)『歴代古案』書状など。
他にも、[図説]『直江兼続 人と時代』(米沢市上杉博物館より刊行)に詳しい。
92人間七七四年:2011/11/05(土) 20:07:25.03 ID:0Nz9BR4O
保守
93人間七七四年:2011/11/10(木) 16:58:07.54 ID:3BDFI9mr
94人間七七四年:2012/04/30(月) 20:56:00.94 ID:MH+TqQrZ
日本城検定

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95人間七七四年:2012/05/20(日) 18:51:24.01 ID:c5GQqAT3
96人間七七四年:2012/06/26(火) 00:28:11.15 ID:0ZvK16gC
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97人間七七四年
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