上杉景勝vs織田信長

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1人間七七四年
もしも本能寺の変がなかったら、やっぱり上杉滅亡でしょうか?
何かやれることがなかったでしょうか?
2人間七七四年:2009/01/17(土) 15:29:01 ID:4c9MLUZY
信長公は天才だ
3人間七七四年:2009/01/17(土) 16:33:49 ID:hIRbUsXt
臣従
4人間七七四年:2009/01/17(土) 16:42:43 ID:3NHOoeMJ
本能寺時点での勢力範囲の差を見ると織田から見たら上杉なんて屁みたいなもんだよ
あれからちょっと時間が経てば毛利・長宗我部の土地も手にするか
属国扱いにできてたんだから
確か豊臣にはたてついた北条ですらあの時点では臣従みたいな形だったんでしょ
上杉にやれることは、臣従のみ
真っ向勝負して滅びの道を進むほど景勝は馬鹿じゃないはず
5人間七七四年:2009/01/17(土) 16:48:49 ID:eTq8mP3w
ところが景勝は真っ向勝負して滅亡する気満々でした。
「これだけの相手なら死んでも不名誉じゃないし、心配いらないよ」と
手紙出してますね。
6人間七七四年:2009/01/17(土) 17:06:43 ID:a94peSOZ
この辺は謙信譲りだよなぁ
謙信も武田北条が集結してるところに「天下に名をなした武田北条の2つを一緒に相手するんだから、若輩のわしが万が一にも負けたとて恥にはなるまい」とか言って進軍するんだから…
7人間七七四年:2009/01/17(土) 17:13:24 ID:3NHOoeMJ
じゃあなんで関ヶ原後には徳川に平身低頭で保身したんだろう
徳川・最上・伊達等など相手に玉砕すればよかったのに
十数年で精神的に成長?
8仙台藩百姓:2009/01/17(土) 17:44:36 ID:DmpXkhKR
そりゃ簡単な話しだお
信長が殺す気満々だったから降伏したくても出来なかっただけだお( ^ω^)
信長は武田→上杉→北条の順で殲滅するつもりだったおね( ^ω^)
9人間七七四年:2009/01/17(土) 18:46:23 ID:MgGibs4G
もう信濃から森が乱入して来て越後を荒らしてたよな。

西から佐々、南から森、東では新発田が謀反。
かなり危機的状況。
10人間七七四年:2009/01/17(土) 19:07:45 ID:QAAAXhws
武田勝頼より無能
11人間七七四年:2009/01/17(土) 19:24:46 ID:qZH9l2FW
そもそも秀吉に真っ先に臣従ry
12人間七七四年:2009/01/17(土) 19:29:41 ID:JThvRad0
景勝は無口キャラもあって
いまいち実像が想像しにくい人物だよね
13人間七七四年:2009/01/17(土) 19:34:36 ID:ObTZRF2N
でも飲み会で騒いで〜みたいな文無かったっけ。
意外に思ったから何か記憶にあんだけど
14人間七七四年:2009/01/17(土) 19:39:18 ID:B3gTVQEm
謙信の凄さは戦の采配やら財政よりも、
本来バラバラな越後をなんとか死ぬまで統一してたことなのかもな
15仙台藩百姓:2009/01/17(土) 20:20:46 ID:DmpXkhKR
バラバラだったのは何処も一緒だお┐ (´ω`) ┌
だからこそ戦国であり、下剋上も可能であったわけだお
出来星大名達は皆これを乗り切って支配を固め、更に飛躍を続けたわけだけど
謙信あたりは支配力が貧弱で越後を押さえるのが限界だったおね┐ (´ω`) ┌
それですら薄皮一枚で支えていたようなもので死んだ途端に崩壊してしまったお
この辺りが次代に繋げる事を考慮して地盤を固めていた他の戦国大名より格段に劣り所詮は三流だお┐ (´ω`) ┌
16人間七七四年:2009/01/17(土) 20:25:21 ID:+KKZkDnI
信長には悪運があったが、最後にはそれも尽きて死んだ。
景勝にも悪運があったが、女運はとことん無かった。
17人間七七四年:2009/01/17(土) 20:37:02 ID:k0LbSJJI
景勝が無口だったという一次史料は実はないんだけどね。残されている書状は結構饒舌だし、親しい間柄のやつには、くだけた感じの文を書いてるし。確か死んだ時にも、いつも景勝から言葉をかけて貰っていたとかいう下っ端の役人が殉死していなかったか。
18人間七七四年:2009/01/17(土) 20:49:00 ID:5AD3drqk
15 説明はいいんだけど語尾が気持ち悪い
19人間七七四年:2009/01/17(土) 20:52:56 ID:hIRbUsXt
天地人の子供景勝を見ると股間がキュンとする
20人間七七四年:2009/01/17(土) 21:18:24 ID:f99fzAtH
>>18
お前はあれか?
ウンコに「色はいいんだけど匂いが気持ち悪い」とか言うタイプか?
21稲葉 ◆LNAc6A8yuo :2009/01/17(土) 21:25:22 ID:B4dyDFBc
>>20
色も気持ち悪いだろww
22人間七七四年:2009/01/17(土) 21:26:41 ID:MgGibs4G
酷い例えだな
23人間七七四年:2009/01/17(土) 21:33:30 ID:FS+QpQUg
前田慶次がいれば上杉は百年戦える!!!
24稲葉 ◆LNAc6A8yuo :2009/01/17(土) 21:40:25 ID:B4dyDFBc
>>23
前田はまだ上杉に仕えてないんじゃなかったかな?
25人間七七四年:2009/01/17(土) 21:47:38 ID:mlDkxtkB
直江兼継はこの時どうしてた?
26人間七七四年:2009/01/17(土) 21:56:36 ID:eTq8mP3w
>>11
秀吉に真っ先に臣従したわけじゃなくて対柴田で秀吉と同盟組んだら
なし崩しに臣従関係になっただけだ。
27人間七七四年:2009/01/17(土) 22:07:01 ID:mlDkxtkB
>>26
柴田、佐々と対峙したので秀吉の使者としょっちゅう接触したはず
それを通じて秀吉なら話が通じそうだと思ったのもあるんじゃないかな
28人間七七四年:2009/01/17(土) 22:12:30 ID:4nI7mel7
>>1
まず間違いなく
滅亡だろうね。

越中と信濃と上野から攻められて終了。
29人間七七四年:2009/01/17(土) 22:39:15 ID:FS+QpQUg
それでも・・・それでも真田昌幸なら何とかしてくれる!
30人間七七四年:2009/01/17(土) 22:58:36 ID:mlDkxtkB
>>28
越中は見捨てても仕方ない
越中越後の国境はかなり狭く交通が不便
(地図サイトとかで見てほしい)
ある程度の兵で食い止めることは可能
31人間七七四年:2009/01/17(土) 23:10:09 ID:vXmP/xdD
>>16
景勝は女への興味が薄かっただけだろ
24歳で正室を迎えて、側室一人とか・・・・・
32人間七七四年:2009/01/17(土) 23:18:10 ID:fm1fa+Bc
>>30
信濃ルートがメインになると思われ
33人間七七四年:2009/01/17(土) 23:26:33 ID:mlDkxtkB
>>32
上野からも地形的に無理だと思うな
史実でも攻め込めた記録ないし
となるとやっぱり川中島で決戦、これなら上杉軍に経験があるから
まだ勝ち目はあるかもしれない
34人間七七四年:2009/01/17(土) 23:26:54 ID:eTq8mP3w
>>31
四辻氏まで側室を持たなかったのはともかく
菊姫との初婚まで結婚してないのは景勝より謙信が何考えてたのか。
他の寵臣や養子たちは10代で次々結婚させ
家臣に「30歳になっても結婚してないなんて心配」と言いながら
景勝は相当可愛がってるようなのに縁談させてないとか。
35人間七七四年:2009/01/17(土) 23:37:33 ID:a94peSOZ
>>7
勝負は時の運…武門の意地を示して面目を守り一目置かれた大名。
秀吉に抵抗した九州統一寸前の島津
四国統一寸前の長宗我部
家康に喧嘩売られ奥羽統一に乗り出した上杉


武門の意地で勝つ見込みがない無謀な戦いをした(伊達に裏切られたため)
秀吉に抵抗して滅亡した北条




保身ばかりを気にして武門の面目や意地が無く戦わずして屈し命乞い土下座した政宗
36人間七七四年:2009/01/17(土) 23:43:26 ID:a94peSOZ
>>33
一時的に織田に負けても
例えば関東管領上杉に攻め込まれた為景が一度は越後から撤退したのちに返り咲いたように
越後の特殊性…山々に孤立乱立する国人の独立性を利用して景勝も復活するだろう。
柴田程度に越後は安定経営などできない。
織田に侵攻された武田のような早い崩壊も上杉には無かったしな。
37人間七七四年:2009/01/17(土) 23:53:42 ID:5kdO0KTA
宇宙最強の天才と越後の田舎大名を比べるな
38人間七七四年:2009/01/18(日) 13:16:29 ID:xDtnw3Jt
確かに地図見ると、越中側とか上野側とか、凄い事になってるなw
まぁ、メインは無理でも、進軍自体は謙信も関東に出てるんだし、できるだろうけど。

川中島で戦えれば、上杉も勝てるんじゃない?
対峙しているだけで良いものを、鬼武蔵あたりが抜け駆けして、なし崩しに決戦とかになりそうだしw

まぁ、佐々や滝川、新発田とかもいるし、川中島まで出れれば、だが。

>>36
流石にそれは無理でしょ。為景の時とは、状況が全く違う。
あの頃は越後の国内外もまとまりに欠け、逃げこむ余地もあったけど、景勝の頃は周囲もまとまった大勢力ばかりだし。

あと、一向一揆が跋扈していた越前・加賀辺りに比べれば、越後の方が統治は楽だと思うよ。
39人間七七四年:2009/01/18(日) 13:27:45 ID:QahrHfRi
信長vs景勝
じゃなくて
勝家vs景勝
になりそう。それでも織田に分がある
40人間七七四年:2009/01/18(日) 15:17:27 ID:6SqfVep9
単純兵力差が如何ともしがたいよな
41人間七七四年:2009/01/18(日) 15:22:19 ID:p3u1XQJU
>>34
そこで景勝女性説ですよ。
42人間七七四年:2009/01/18(日) 16:12:14 ID:ny0Abmhe
>>40
それだけでなく地理的に織田の反対側に位置する大名も反上杉となるだろうから勝ち目はマイナス
43人間七七四年:2009/01/18(日) 16:17:19 ID:9zpmee7J
>>41
あー、景勝が謙信の姪と記載されてる系図があるんだっけ?
44仙台藩百姓:2009/01/18(日) 18:33:57 ID:PNx+xgnq
上杉の連中は読み書きもろくにできない馬鹿ばかりだったんだね(´・ω・`)カワイソウ
当主の性別すら曖昧だなんて普通じゃ考えられんお( ^ω^)
45人間七七四年:2009/01/18(日) 19:33:15 ID:vR60HrD6
本能寺の変が無かったら上杉家は確実に滅亡してたと思う。

*例のお家騒動で越後国内は分裂&疲弊
*新発田が離反、周辺は反上杉派
*越中・信濃・上野からは織田方が侵攻の気配

と上杉方が勝てる見込み無し。さらに直江信綱の斬殺事件があるように御館の乱での論功行賞に景勝方
の中でかなり不満があったと見え、それら豪族連中が織田に調略されて織田方についてしまう可能性もあった。
46人間七七四年:2009/01/18(日) 20:49:53 ID:TLxDUehy
越中方面と信濃方面
どちらか一方でも崩れたら、もう一方も急いで撤退
追撃を受けて結局双方敗退する事になる
次から次に兵を送り込む織田には勝てんだろな
例え小競合いで一つ二つ勝星を拾っても、かえって信長の怒りを買うだけでしかないだろう
47人間七七四年:2009/01/18(日) 20:53:17 ID:kJtasex2
上杉景勝vs柴田勝家の間違いだろ
信長が出るまでもない
48人間七七四年:2009/01/18(日) 21:20:33 ID:E/YYjJ9Z
つうか家臣の謀反でどっちみち信長死亡w毛利も長宗我部も上杉も北条も徳川も見事に健在。
所詮は高転びに転落する運命から逃れられないよ信長は。
49人間七七四年:2009/01/19(月) 04:26:54 ID:FWLPHzF5
はっきり言って
信長は謀反で死んでるんだから
一番無能だと思う
最低の死に様ですよ
50人間七七四年:2009/01/19(月) 19:13:56 ID:p3R7y4Q3
新発田と停戦し、越中越後の国境を固める。
上野の滝川は信長領の最東端でそれほど脅威にはならない。
北条は常に上野を狙っており、そう簡単に攻め上れないはず。
その上で甲斐信濃の武田残党に決起を促す。
以上の上で地の利のある川中島で決戦し森長可を破る。
この軍事的威信で国内は固まる。
永久に勝てるわけではないが、これで本能寺の変がなくても
5年くらいはしのげたのではないか。
51人間七七四年:2009/01/19(月) 21:54:24 ID:OshruTu5
どうやって新発田と停戦するんだよ…あの状況下で上杉と和睦するような能無しじゃねぇよ

どうがんばっても即滅亡だよ
幸いなのが越中ルートが大軍が通りにくい事くらい。
52人間七七四年:2009/01/19(月) 21:57:26 ID:wZM6P0p6
>>50

少なくとも新発田と停戦するなら御館の乱での論功行賞をやり直し、かつ筆頭家老みたいにでもしないと新発田も納得せんだろう。
すでに織田方に調略されてるわけだし

>北条は常に上野を狙っており、そう簡単に攻め上れないはず。

北条は織田方へ恐れをなして恭順姿勢だった。まして織田の関東進出で反北条方が勢いづいてた状況で
とても上野だけに構ってられん。

>その上で甲斐信濃の武田残党に決起を促す。

江戸時代になってさえ上杉景勝を「長尾喜平次」と呼び続けるような地域がすんなり上杉方に応じるとは考えにくい。

>以上の上で地の利のある川中島で決戦し森長可を破る。

内戦で兵力が半減してる上に、越中方面からの侵攻に対処するために兵員を川中島に全部は裂けんだろう。
まして信濃に侵攻すれば織田方が美濃から大軍で信濃に押し寄せてくる
53人間七七四年:2009/01/19(月) 22:29:21 ID:AuEPKZ+q
まだ毛利の方が可能性があったな
54人間七七四年:2009/01/20(火) 00:28:38 ID:f4zkTZrp
曹操:織田信長、伊達政宗、武田信玄
劉備:豊臣秀吉、上杉謙信、前田利家
孫権:北条氏康、毛利元就、上杉景勝

こんなところか?
55人間七七四年:2009/01/20(火) 00:34:09 ID:o3HRUNXF
伊達が曹操…?
56人間七七四年:2009/01/20(火) 00:48:04 ID:xyOoC655
伊達は仙石系統
57人間七七四年:2009/01/20(火) 01:18:31 ID:39B9iI92
>>51
まず反乱を起こした理由が織田が蘆名経由でけしかけたからだしな
58人間七七四年:2009/01/20(火) 08:45:24 ID:Q/QpIL/H
伊達は曹豹か劉禅
59人間七七四年:2009/01/20(火) 17:10:41 ID:bOAZy7Vp
>>1
うん、滅亡。終了w
60人間七七四年:2009/01/20(火) 17:20:22 ID:u3bRoEKo
>>56
仙台から出てるJR線か。
61仙台藩百姓:2009/01/20(火) 18:04:55 ID:uokK+v5S
そもそも織田の主力が西に向かっている間に死にかけてるようじゃもはやどうにもなるまいお( ーωー)チーン
62人間七七四年:2009/01/20(火) 19:55:12 ID:CKsZEpEw
その通りです
63人間七七四年:2009/01/20(火) 20:03:48 ID:Z6YXHZsK
謙信vs信長でもちょっと分が悪い
謙信vs勝家くらいでちょうどいいのか?
64人間七七四年:2009/01/20(火) 20:10:24 ID:BSUvYBxJ
勝家はやられてたけど。信長もびびってこないし。
65人間七七四年:2009/01/20(火) 20:11:35 ID:xdhT7FWb
織田が得意の物量作戦を仕掛けてきて崩壊するだろうな。
あと伊達やら最上やらの東北諸将たちも織田家に誼を通じはじめていたんだから
東北方面にも注意をする必要があるね。
66人間七七四年:2009/01/20(火) 20:17:31 ID:yLbM+jgg
謙信死んだ後は一方面軍の勝家にさえ押されまくってたじゃない
勝てる姿が想像できない
67人間七七四年:2009/01/20(火) 20:25:23 ID:mWitlomx
>>66

謙信だからまとめてたようなもんで、死んだら分裂するのは当たり前。謙信も権力基盤を背景に信長みたいに兵農分離や拠点移転(上野あたりに)
をすればよかったのに。権力基盤でいうなら甲斐の三分の一しか支配できてなかった武田氏よりもはるかに強力だったので多少の強引さでそれが
できた
68人間七七四年:2009/01/20(火) 20:30:09 ID:S5kx5fXB
たとえ謙信が生きていたとしても、越中や能登で優位に立て続けることができただろうかという疑問はあるけどね。まあ、御館の乱の混乱は大きいな。
69人間七七四年:2009/01/20(火) 20:54:40 ID:BSUvYBxJ
内乱で疲弊し新発田が乱起こし蘆名とも前面交戦。
飛騨口から織田の援軍も来るし最悪な状況
70人間七七四年:2009/01/20(火) 21:03:22 ID:tjRvLUxz
信長が暗殺されれば景勝にもチャンス有るんじゃね。
71仙台藩百姓:2009/01/20(火) 21:50:35 ID:uokK+v5S
上杉があれほどあっさり瀕死になったのは謙信が後継者はっきりしなかったのが最大の原因だおね( ^ω^)
景勝が無能だったのではなく謙信が無能だったのだお┐ (´ω`) ┌
72人間七七四年:2009/01/20(火) 21:58:29 ID:xdhT7FWb
自分は毘沙門天の化身だからまだまだ死なないと思い込んでたんだろうなw
だから後継者を選ぶなんてまだまだ先で大丈夫だと楽観視してたんだろうよ。
73人間七七四年:2009/01/20(火) 22:23:11 ID:dsuBrpHa
>>63
謙信がちょっと動いたら
京で信長は終わりだと言われてたけどな
74人間七七四年:2009/01/20(火) 22:43:45 ID:CMVIxfrJ
謙信は既に後継者を定めていたとみていいだろう。
少なくとも晩年は景虎に継がせるなど微塵も考えてなかっただろうな。
75人間七七四年:2009/01/20(火) 23:53:37 ID:13/Hq05U
>>73
ちょっと動いたらアル中で死んじゃったけどね
76人間七七四年:2009/01/21(水) 00:36:51 ID:oKeR6a1r
信長は上杉はまだ余力があると見てたから先に滅亡寸前の毛利をつぶしに
備中へ出陣したんだよね
77仙台藩百姓:2009/01/21(水) 08:10:00 ID:mJnvFIzr
信長と戦って滅びるなら本望だお( TωT)
と痩せ我慢して虚勢を張ったのに
おいおい信長さん反対方向いっちゃったお(;^ω^)
と軽く放置された悲しき上杉でした。
78人間七七四年:2009/01/21(水) 18:12:31 ID:f+F801/I
本能寺の後に織田内部で揉めて佐々は秀吉に敵対して
秀吉は前田丹羽上杉に佐々を抑えるよう命じ、小牧を終えて佐々が秀吉に降伏したが、
その時何故か佐々は越中全土を領していたが上杉はいつの間に越中の領土を失ったんだ?
本能寺直後では魚津を失っていたが、その後の混乱で越中に再侵攻したんだと思っていたが。
79人間七七四年:2009/01/21(水) 20:01:14 ID:9qSwwU+O
賤ヶ岳後に佐々が秀吉に降伏した時に秀吉が佐々に越中一国安堵のお墨付きを出したので
多分、その時に越中に残ってた上杉は追い出された。

ちなみに魚津城は本能寺後に上杉が奪ったが翌年にはまた佐々に取り返された。
80人間七七四年:2009/01/21(水) 22:26:57 ID:8RL9CXn/
>>73

農閑期ならともかく初夏になれば越後に引き上げるしかないから信長倒すまで短時間であることが
必要。
81人間七七四年:2009/01/21(水) 23:45:24 ID:UUcR7JSk
夏にバリバリ川中島で戦っていた上杉家が引き上げるのか。
82人間七七四年:2009/01/22(木) 17:04:54 ID:Z/k6v0Kb
それでも冬将軍なら・・・冬将軍ならなんとかしてくれる!
83仙台藩百姓:2009/01/22(木) 18:30:34 ID:pL1pSzvk
もはや単体でどうにかなるような状態じゃなくなってたし┐ (´ω`) ┌
どれだけ延命できたかの話ししかないお
84人間七七四年:2009/01/22(木) 20:53:02 ID:6MR9RBm+
>>70にも書いてあるように信長が謀反や暗殺などで殺されたらどうだろうか?
例えば武田家を滅ぼした後、油断して警備が手薄なところを襲撃されたら
いかに信長と言えど助からないのでは?
そしたら上杉家の寿命も多少は延びていたのではなかろうか・・・・・・。
85人間七七四年:2009/01/22(木) 21:08:46 ID:rq0dwXxH
雪さえ降り出せば数ヵ月間延命出来るな。
86人間七七四年:2009/01/22(木) 21:11:56 ID:js3ffS5e
>>84
史実じゃんw
87人間七七四年:2009/01/22(木) 21:13:32 ID:2Qf56es9
>>84
すごいな! それなら上杉家も充分生き残れる。
おまい天才だな!!
88人間七七四年:2009/01/22(木) 21:43:25 ID:Z/k6v0Kb
どんな強い武将でも雪には勝てない
ナポレオンもヒトラーも寒いところへの遠征で負けた
信長も同様にならなかったとは誰もいえないのだ
89仙台藩百姓:2009/01/22(木) 22:02:36 ID:pL1pSzvk
撤退して雪解けにまた攻めて来るだけじゃんお
積雪で身動き取れなくなるのは上杉も一緒だし何の解決にもならんお┐ (´ω`) ┌
90人間七七四年:2009/01/22(木) 22:08:47 ID:qflaC6VO
というか雪でも動いてる例ってないの?
行軍は遅くなりそうだがロシア内部と比べれば
新潟なんてかわいいものじゃないか。
91人間七七四年:2009/01/22(木) 23:08:04 ID:mQyEq82b
>>88
モンゴル軍は冬にロシア遠征して勝った。

まあ>89が正解ですね。「冬まで粘れれば」寿命が翌年春まで延びてよかったねとしか。

>>90
新潟は世界でも有数の豪雪地帯ですよ。
92人間七七四年:2009/01/22(木) 23:16:15 ID:QN2iIb+I
ロシアと新潟じゃ規模が違うだろうが。どんだけ冬将軍過大評価なんだよw
93人間七七四年:2009/01/22(木) 23:26:54 ID:qflaC6VO
冬本当に動けなかったら上杉の行動は制限されすぎないか?
94人間七七四年:2009/01/22(木) 23:30:26 ID:aE/OlxY+
確かに雪降りゃ進軍は止まる。
でも、越後内でも引きこもるしかないから、そこにガンガン調略されるだけだわな。

……ほら、思い出さない甲斐。
雪解けと共に、元味方に先導されて滅んじゃった所……。
95人間七七四年:2009/01/22(木) 23:36:15 ID:ebpjt4fX
日本の日本海側が世界屈指の豪雪地帯だということも知らんのか。
因みに最深積雪のギネス記録は滋賀の伊吹山な。(日本海側とは言い難いが)
96人間七七四年:2009/01/22(木) 23:40:58 ID:rq0dwXxH
>>93
だから謙信は厩橋で越冬するんじゃん。
雪が降りだすと出られなくなるから。
97人間七七四年:2009/01/23(金) 01:02:25 ID:DQhVqxoC
冬の間謙信が越後から出てこられないので
その間に信濃で信玄やりたい放題。
関東で北条やりたい放題。

で結果謙信が夏の間に伸ばした勢力弱体してるじゃん。
98人間七七四年:2009/01/23(金) 08:10:07 ID:ey2c1M9H
豪雪を強調してるヤツはナンなんだw 数ヶ月安全なだけだろ。
春夏秋は出入り可能なんだから。織田に勝てる根拠になり得ないよ。
99人間七七四年:2009/01/23(金) 08:49:00 ID:wyQC5Mpe
確かに春日山周辺の積雪量は日本海側の中でも桁違いだが
動けない事もないよ
気温は差ほど下がらないし
100人間七七四年:2009/01/23(金) 10:26:46 ID:l+D0bJkw
単独で動くのと武装した大人数が動くのとでは違いがある兵糧運ぶのも遥かに労力入るし
101人間七七四年:2009/01/23(金) 13:29:15 ID:HcRdR/tc
御館の乱の時とかうごいてんじゃん。
冬でも動いてる例他にないか?
まさか四六時中雪が積もってるわけでもあるまい。
102人間七七四年:2009/01/23(金) 13:37:48 ID:aP3JCsdr
四六時中積もってるぞ。
御館の乱の時も真冬の一番雪がひどい時期は大規模な戦闘してないな。
越後国内より山間の峠の方が雪解け遅いけど。
103人間七七四年:2009/01/23(金) 15:00:40 ID:PYkZg8RH
でも謙信冬に関東遠征に行ってる時とか普通にあるんだけど。
というか関東遠征は別に夏の間勢力伸ばしてるわけじゃないぞ。
秋に遠征出かけて春に帰るパターンが多いんだけど。
104人間七七四年:2009/01/23(金) 15:38:12 ID:hktYmwp0
頼むから雪厨は>>1に答えてくれw で、織田に潰されない理由が
豪雪なのか。本当にそれで生き残れると信じてるのかw
105人間七七四年:2009/01/23(金) 15:44:37 ID:aP3JCsdr
雪が降りだしたら雪解けまでは生き延びれるんじゃね?と言ってるだけで
誰も信長に勝てるとは言ってないんだが
誰とバトルしてますか?
106人間七七四年:2009/01/23(金) 16:17:43 ID:3HZdzOA8
流れからすると、ココから>>88始まってるわけだけどw
107人間七七四年:2009/01/24(土) 00:06:21 ID:M90pqV11
>>103

越後の豪族には農閑期の「出稼ぎ」という感覚だったらしい。武田みたいに国内の収入不足を補うために凶作の年ほど
対外遠征してたという切羽詰ったものではなかったけど冬の人減らしなんて目的はあったと思う
108人間七七四年:2009/01/24(土) 09:42:35 ID:5Wh0MDT7
>>107
またその古ぼけた出稼ぎ説かよ。
越後が凶作なら関東も凶作。たった一万足らずの兵で出稼ぎ
(しかも武士・職人・町人混在で農民なんてどれぐらい?)ってw
関東衆も馬鹿じゃないからそう簡単に十数回も略奪されるはずないし、
第一越軍が関東で略奪したとする証拠は1561年だけ。
略奪禁止を命じた記録なら山ほどあるのにな。
109人間七七四年:2009/02/04(水) 22:40:34 ID:PI0D3Pwk
冬将軍最強!
110人間七七四年:2009/04/01(水) 08:38:09 ID:/neYP2Nx
(^ρ^)ノ<アウアーー ー
111人間七七四年:2009/04/01(水) 19:59:05 ID:jXbcxora
上杉家を継げないからって謙信の喪中に挙兵し春日山城を占拠。
家中を二つに割った内乱と言えば聞こえは良いが、
実際は譜代の重臣らは揃って正当な後継者である景虎を支持し、
春日山城内でも堀切で分断された端っこの郭に館を構えさせられていた景勝には
新参で家中での発言権が低い連中しか味方しなかった。
それでも勝てたのは、真っ先に城を占拠した為に
上杉家の軍資金や軍需物資を(もちろん景虎の分すらも)独占できたからってだけの事。
112人間七七四年:2009/04/01(水) 23:18:27 ID:NAePoXHu
釣りだよな?
113人間七七四年:2009/04/02(木) 07:07:01 ID:/wNx/ZUX
妄想するのは個人の自由だろ。春だからな...
114人間七七四年:2009/04/27(月) 01:08:31 ID:nZPkDUlk
雪、雪、っていってるけど、為景が越中で合戦してたのバリバリだと思うが。
まあ、あえて冬に攻める必要はないけど。
あと、織田が兵農分離してるとか言ってる奴ってまだいたんだ・・・。
115人間七七四年:2009/04/27(月) 14:57:18 ID:qxfELBhA
関東とか信越国境は雪で通行止めになるかもしれないが他は・・・
116人間七七四年:2009/04/27(月) 22:38:32 ID:J3w8hr9y
今ちょうど大河ドラマでやってるとこだね。
117人間七七四年:2009/04/27(月) 23:14:27 ID:Aj78SlOJ
最上、伊達、安藤も冬でも動きまくってるし上杉も御館の乱始め雪の中戦ってた事なんてたくさんある。
謙信も雪踏んで冬に関東行ったり雪どけ前に越後帰ってる事多いし
118人間七七四年:2009/04/27(月) 23:21:49 ID:J3w8hr9y
どんな強い武将でも雪には勝てない
ナポレオンもヒトラーも(以下略)
119人間七七四年:2009/04/27(月) 23:57:22 ID:K/ILp3/V
ソ連と日本じゃ気温といい積雪量といい規模が段違いすぎるしw
120人間七七四年:2009/04/28(火) 08:30:29 ID:cE4RvpxQ
越後の積雪量は異常
121仙台藩百姓:2009/04/28(火) 08:58:00 ID:NEgr5xSR
冬のアルプス越えた人もいるしね( ^ω^)
122人間七七四年:2009/04/28(火) 09:54:46 ID:/yJkJU+j
>>119
第一、広さが違いすぎる
123人間七七四年:2009/04/28(火) 17:17:27 ID:b6cFtq+R
ロシアは平均気温でも相当寒いが内陸性気候ゆえ一日の中での気温の差が大きく
−30度くらいは珍しくない 息が凍る温度
124人間七七四年:2009/04/28(火) 17:55:38 ID:BJ/DcfLO
信長が生きていたら上杉、毛利は武田と同じ運命になったはず
北条も難題をつきつけて滅亡させられたはず
125人間七七四年:2009/04/28(火) 23:44:33 ID:gMfNrMd7
商業の発達していた西国と農業中心の東国じゃ
信長もまた勝手が違ったかもしれんよ
武田はもともとボロボロだったからあっけなかったけど
126人間七七四年:2009/04/30(木) 00:00:40 ID:CBiuYQog
>>124
それを言い出したら、信玄・謙信が生きていれば
信長の覇業は間違いなく遅れていたわけで。
史実通り行かない可能性もある。
127人間七七四年:2009/04/30(木) 09:15:05 ID:5FFlOwPd
謙信が桶狭間の年に死んでたら〜
武田信玄があと十年生きていたら〜
三好長慶が元亀まで生きていたら〜

ちょっとしたifで成り立たなくなるのが信長の天下取り
128人間七七四年:2009/04/30(木) 10:30:03 ID:reY6+VF/
足利義輝が松永や三好三人衆に勝っていたら…
129人間七七四年:2009/04/30(木) 11:03:20 ID:vWDi3UJ3
足利義政が日野富子なんて嫁にしなかったら・・・
130人間七七四年:2009/04/30(木) 12:19:45 ID:rD6kiNXZ
>>124北条に関しては滅ぼしたりはしないんじゃね?
北条の中間搾取排除の統治などを見ると、信長さんとの統治と共通点もあるし、一戦あるかもしれないけど相模、武蔵くらいは残せるんじゃね?
131仙台藩百姓:2009/04/30(木) 14:05:40 ID:N9DJypcc
織田家は関東を支配し将軍職に就くつもりであったから
北条は他の大名以上に殺戮の対象になったのは間違いお( ^ω^)
132奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/05/01(金) 06:30:24 ID:uyrQLUqi
北条は北条だから執権目指して踏ん張るので殺戮の対象にはならない。
133人間七七四年:2009/05/01(金) 09:44:33 ID:IpBP9+jB
残せてもせいぜい伊豆一国だろ
134人間七七四年:2009/05/01(金) 19:47:37 ID:i2J3Zbft
>>131
>織田家は関東を支配し将軍職に就くつもりであったから

はじめて聞いた、嫌味抜きにソースkbn
135人間七七四年:2009/05/02(土) 08:53:59 ID:y5kfoX2a
はじめて聞いたわけではないが、諸説あるうちの一説だろう。
これをどういうわけで百姓が支持して事実とみなしているかまでは興味ない。
136人間七七四年:2009/05/07(木) 01:00:21 ID:AVUW7Thc
三職推任をおもいっきし拡大解釈して、かつ将軍就任には東国関東の支配が
条件という後年の捏造を信じ込んで妄想した結論

と推測してみた。
137長尾喜平次:2009/05/20(水) 13:34:22 ID:WKCXDv6s
織田軍の前に逃げ出した長尾喜平次(上杉景勝)を知っていますか?
以下、訳を載せます。原文とは多少違います。信長公記巻十四天正九年

馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。
これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することと
なったが、ここで変事が起こった。敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、
郷の刀を作ることで知られる松倉Oという地に籠り、さらに才略をもって
越後より長尾喜平次(上杉景勝)を大将に招いて一軍を形成したのである。
そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したの
だった。
3月15日の朝、信長公は安土城下松原町の馬場で馬を責めた。このとき
越中衆が顔をそろえて御礼に訪れたが、信長公はその者たちへかたじけなく
も一々言葉をかけてやった。しかし上杉景勝が越中へ侵入して小出城を
取り巻いたとの報がもたらされると、信長公はただちに「越前衆の不破・
前田・原・金森・柴田勝家の人数は、先手として時日を移さず出陣すべし」
と命じ、彼らに暇を出したのだった。軍勢はこののち夜を日に接いで行軍し、
越中に入って着陣した。
そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡Rの
うちの中田という地へ入った。すると上方の軍勢が参着したと知った
敵勢の長尾喜平次(上杉景勝)・河田豊前は同日卯刻に陣払いをはじめ、
小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た
佐々勢はただちに常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに
敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかった。しかしこれにより
小出籠城の兵は運を開いたのだった。

138人間七七四年:2009/05/20(水) 14:00:09 ID:ynnsiyRa
まず上杉の滅亡はかたい。恭順すれば国一つくらいはまかせてくれたかもしれん。確か長曽我部にたいしても途中から気が変わって一カ国しか認めなくて間に入ってた光秀が苦々しい思いしたんだろ。信長は光秀がやらんでもいずれ安国寺エケイ曰く、高コロビは免れなかったな。
139人間七七四年:2009/05/20(水) 22:46:31 ID:rrOK8CTI
>>137
景勝をわざわざ長尾喜平次って呼ぶのは「本来は謙信の後継者なんかじゃないから」
っていう軽蔑したニュアンスなの?
140人間七七四年:2009/05/21(木) 12:39:31 ID:InerVmsq
>137はYahoo知恵袋にも投稿してたwアンチ上杉なんだねw
141長尾喜平次:2009/05/25(月) 08:57:29 ID:VsRVXcE1
織田軍の前に逃げ出した長尾喜平次(上杉景勝)を知っていますか?
以下、訳を載せます。原文とは多少違います。信長公記巻十四天正九年

馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。
これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することと
なったが、ここで変事が起こった。敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、
郷の刀を作ることで知られる松倉Oという地に籠り、さらに才略をもって
越後より長尾喜平次(上杉景勝)を大将に招いて一軍を形成したのである。
そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したの
だった。
3月15日の朝、信長公は安土城下松原町の馬場で馬を責めた。このとき
越中衆が顔をそろえて御礼に訪れたが、信長公はその者たちへかたじけなく
も一々言葉をかけてやった。しかし上杉景勝が越中へ侵入して小出城を
取り巻いたとの報がもたらされると、信長公はただちに「越前衆の不破・
前田・原・金森・柴田勝家の人数は、先手として時日を移さず出陣すべし」
と命じ、彼らに暇を出したのだった。軍勢はこののち夜を日に接いで行軍し、
越中に入って着陣した。
そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡Rの
うちの中田という地へ入った。すると上方の軍勢が参着したと知った
敵勢の長尾喜平次(上杉景勝)・河田豊前は同日卯刻に陣払いをはじめ、
小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た
佐々勢はただちに常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに
敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかった。しかしこれにより
小出籠城の兵は運を開いたのだった。

142人間七七四年:2009/05/25(月) 13:04:53 ID:rxz44xon
>>141
景勝格好いいな。
流石に御館の乱を勝ち抜いたのは伊達じゃないな。
決断が早い。
143人間七七四年:2009/05/25(月) 13:15:20 ID:qcSE9uD0
景勝は兵の虚実の駆け引きがうまいな
織田の用兵が徒労になって功兵疲れてなくだな
144人間七七四年:2009/05/25(月) 13:20:17 ID:qcSE9uD0
訂正
兵疲れて功なく

まさにその軍を伐たず謀を伐つだな
145人間七七四年:2009/05/25(月) 16:57:21 ID:+FJkcxjb
>>142
一応上杉だから伊達ではないな
蘆名でもない
146人間七七四年:2009/05/25(月) 23:23:24 ID:knNM34sK
>>142
誰がつまらないことをいえと
147最上13万石、上杉91万石:2009/07/08(水) 23:08:00 ID:/mTzU29k
http://kobe.cool.ne.jp/guwappa/summer04.htm

最上13万石、上杉91万石の真実。。。。。。。。。。。。。。。。
148人間七七四年:2009/07/10(金) 20:19:49 ID:1bLlFL3y
ところで前田慶治が秀吉らの前で猿の真似をやったときに景勝だけスルーしたって話は事実なのか
149人間七七四年:2009/07/11(土) 01:41:17 ID:BbXqK5/0
>>141
逃げたというより無理押しして大敗するような大将ではないということを
描いてない?
150人間七七四年:2009/08/03(月) 17:40:10 ID:g1rhCcGv
683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/16(木) 16:58:03 ID:FOt7tlOD
ある時、聚楽の大広間に大小名が出仕して、四方山の話しをしていた。
その時の事。

前田利家が、いつものように押し黙り、皆との会話に加わらない上杉景勝に向かって、
こんな事を言い出した。

「かつてあなたは、織田軍による越中魚津城攻め(天正10年(1582))の折、魚津城の援軍して
山ノ下の難所を越えられ、天神山まで進出されましたな。
その折、中々のお手柄であったと聞いております。

…ですがそれも、我々が末森の合戦(天正12年(1584))で、能登の末森城への援軍として向かい、
佐々成政の軍を追い散らして、末森城に堂々と入城した功の前では、天神山の件など小さすぎて、
これは比べ物になりませぬな。」

この時この周りにいた者達、利家のあまりに傍若無人な発言に、皆、押し黙ってしまったそうだ。
151人間七七四年:2009/08/03(月) 20:36:02 ID:uwEFZzuc
上杉流兵法を駆使すれば戦術面では優位に立てるが
152人間七七四年:2009/08/03(月) 21:33:38 ID:+7Hj7718
上杉の「義」

謙信という強烈なカリスマが死に、また謙信自体後継者を定めないという不備があり、内紛。
織田の一部隊相手に滅亡寸前。かつて織田オールスターと対峙していた面影なし。

越後の民と国土の事を考えれば勝ち目のない無益な戦などせずに降伏すべきなのに、
最後の1兵まで抗戦する覚悟。
↑降伏しても景勝・直江主従は殺されるからヤケクソで皆道連れ。

本能寺で助かり秀吉政権になると、真っ先に臣従。
↑自分らの命は保障してくれたから。義もクソモない。

秀吉の狗となり、黄金も大量に差し出しひたすら媚を売る。
小田原や朝鮮でも先兵として必死こいて戦う。
↑直江の八王子城での女子供も一人残さずの虐殺は有名。現在に至るまで心霊スポットとして知られるほど。

保護者の秀吉の死後は三成と図り身の程知らずに家康を挑発。
征伐に来た徳川軍が反転し、東北連合軍も霧散したのを見て好機とばかりに最上を潰そうとするも、
三成張りに戦下手の直江に軍を任せるという致命的ミスを犯し、圧倒的戦力差にもかかわらず進攻に失敗。
↑この際にも直江は畑谷城で例のごとく一人残さず虐殺。戦下手の腹いせ行為。
長谷堂城では20倍もの兵力差で何度も総攻撃したものの堕ちず、逆に多数の被害を出す始末。通常考えられない。

西軍敗北後は責任とって腹を切るかと思いきや、家康に土下座で許しを請い、大減封を受ける。
でも命が助かったので景勝主従は大満足。命さえあれば領土も領民もどうでもいい。

その後は命を救ってもらった家康の恩に答えるため、家康の狗になる。
大阪の陣では徳川の先兵としてかつてのご主人様の豊臣家相手に大奮戦。大功を上げる。

「義」それ即ち自分の命を第一に考える事。
なんとなく現代に通じるものがありますな。
153人間七七四年:2009/08/03(月) 22:16:36 ID:XHfBwxEm
大河のせいでにわかアンチが増殖してるなぁ。
154人間七七四年:2009/08/04(火) 08:31:13 ID:zl02VHHh
秀吉と柴田が対立中に佐々が魚津城を攻めて、上杉側が城兵の助命を条件に開城した際
佐々は約束を黙殺して魚津城で大虐殺をやってのけた話は原典はなんだろう。
155人間七七四年:2009/08/08(土) 11:57:29 ID:S64ivuT4
信長死後も越中方面は苦戦続きだったからなあ。
さすがに新発田まで手が回らんね。
156人間七七四年:2009/08/08(土) 13:29:33 ID:Zz8lTXtR
新発田の方を優先しないとマズイだろ。
越中は最悪街道封鎖で時間稼ぎができる。
157人間七七四年:2009/08/08(土) 14:26:15 ID:S64ivuT4
新発田を攻めてたら、春日山が楽城してたじゃシャレにならんでしょ。
信濃方面も不安だし、何より親不知を軍船で迂回してきて春日山狙われたらどうすんの?
佐々と新発田も恐らく連絡をとってただろうし、下手な行動をして新発田の背後から葦名や伊達が動き出したらかなわん。
158人間七七四年:2009/08/23(日) 15:59:59 ID:ZU3QSBBu
明日の甲子園は手取川!
159人間七七四年:2009/09/12(土) 09:04:19 ID:Gn5n5V3G
そして惨敗w
160人間七七四年:2009/10/12(月) 15:03:35 ID:S/eF7Y1K
信長横死でどこも潰し合いになったから超絶ラッキーだったな
161人間七七四年:2009/11/06(金) 09:57:19 ID:/0DR2ctx
毛利以上にピンチだったしな
162人間七七四年:2009/11/07(土) 22:03:04 ID:KAwO7PM4
謙信の跡目争いで分裂して戦争にまでなってしまったのが大きい。
武田と北条の争いにまで発展。
武田は滅亡したが、順当にいけば上杉も滅亡しただろう。
163人間七七四年:2009/11/08(日) 13:01:29 ID:3BRCclHO
>>159
どう見ても惜敗だった訳だが。
164人間七七四年:2009/11/09(月) 01:31:50 ID:JXsyLjJw
>>162
上杉も滅亡したであろうという仮定には賛同するが、
武田ほど簡単にはいかなかったと思われる。

高遠と魚津比べてごらんよ。
高遠は一門の仁科盛信が指揮をとったのに一日で壊滅。

対して魚津は、こもった大将で一門と言えるのは山本寺程度、
総大将は最若の中条景泰(と書状署名順序から推定される)という陣容にもかかわらず、
全員玉砕まで何ヶ月も持ちこたえてるからな……
これ越後全土でやられたら、平定に数年はガチだぞ。
165人間七七四年:2009/11/09(月) 17:18:49 ID:0ls+h0Qm
んな無茶な。どうやって国人領主たちに一城玉砕を徹底させるのよw
木曽みたいに道案内してくれて、攻め始めから一ヶ月で終、ってのが現実的なトコじゃね?
それに攻め始めるにしても、木曽とか穴山同様に、ヒビ入れてから攻めるだろうし。

あと、魚津と比較するなら、高天神か二俣じゃない?

攻め入る兵力の最低見積もりとしては、越前・加賀・能登・越中で二万、信濃から五千、上野から五千くらい?
甲斐の川尻、上野の滝川麾下の大部分、は対北条に回されると思うから。
まぁ、信長・信忠が毛利攻めに行っちゃうんなら、このくらいかなー、と。
166人間七七四年:2009/11/24(火) 21:33:14 ID:47OgZyWT
そんな雑魚軍団じゃ返り討ちにあうのがオチ
167人間七七四年:2009/11/25(水) 23:12:27 ID:y1Mb4vSk
実際に加賀国人まで含めて玉砕してるからな。
168人間七七四年:2009/11/28(土) 10:21:43 ID:lVBY+rQt
>>165
新発田重家忘れてませんか?<ヒビ入れてから
169人間七七四年:2009/11/28(土) 13:12:34 ID:zCoitA6t
新発田に続く奴がいなかったのがなんとも。
新発田の援護に入ったのが五十公野とあとは
葦名と旧景虎派の生き残りじゃあなあ。
170人間七七四年:2009/11/29(日) 09:08:24 ID:VJXY0K4G
そこら辺は、御館の乱が災い転じてって感じになったのかなと思う。

171人間七七四年:2010/01/20(水) 00:45:51 ID:Ei1Jqr6n
養子で上杉姓名乗ってる景虎でさえたいしたメンツ集まらなかったのに
新発田ごときに協力するわけがない
172人間七七四年:2010/03/12(金) 10:09:43 ID:IvhUQzr0
新発田とか最低の裏切り者だしな
173人間七七四年:2010/04/29(木) 23:57:14 ID:eEWl39Ks
新発田w
174人間七七四年:2010/06/13(日) 18:26:02 ID:yBWL1CtE
ま、今でも先代が偉大であればあるほど相続争いはあるものでしょ。
新発田は景勝・直江の恩賞に不満を持った訳。

だけど、景虎との争いで恩賞とすべき新しい土地は得られていないんだから新発田が反乱を自重すべきだったとは思う。
175人間七七四年:2010/06/14(月) 10:33:34 ID:36jNNrsQ
景虎派の土地を取り上げて与えたら?
176人間七七四年:2010/06/18(金) 07:26:59 ID:YyvQ7rCR
古志長尾家の土地は新発田にやるには危険すぎる。
実際に「くれてやろうか」って議論はあったけど
家臣達が大反対してお流れ。
他の家は殆どが景虎派と景勝派で家を割って
景勝派に付いた方が家を貰ってる。
景虎自身は土地も兵も持ってないのでやるもんなし。
177仙台藩百姓:2010/06/18(金) 08:08:47 ID:V2YiT8ns
それで死にはぐってりゃ世話ないお( ^ω^)
178人間七七四年:2010/06/20(日) 19:56:05 ID:noUMJlC2
本能寺の後に明知を一騎討ちで討ち取り
他の4軍団長+佐々を暗殺、三法師を誘拐監禁
卍の協力を取り付けた上で
足利義昭を報じればなんとかなると思う
179人間七七四年:2010/10/23(土) 00:54:30 ID:apl8U9m7
謙信の相続争いより
信長の相続争いの方がはるかに酷いな。
しまいには乗っ取られちまって
織田秀信の末路は祖父の所業のせいで悲惨だったし。
180人間七七四年:2010/10/23(土) 03:01:19 ID:jS+mnpkg
実際なんで若年の中條が総大将なんだ。
年功なら吉江
家柄なら山本寺
だろうに

単純に兵力か
181人間七七四年:2010/10/23(土) 05:02:52 ID:eA1z4w1a
でも相続争いで秀吉が抜群の力量でさっさと織田後継者になって
天下統一したから信長の事業が評価されたんであって
織田政権が内紛で崩壊してたら信長なんて今川義元以下の評価しかなかったよ。
秀吉のおかげで信長の評価が劇的に向上してる。
182人間七七四年:2010/10/23(土) 16:32:17 ID:21fYjorI
>>181
そこまで落ちなくとも
室町期の独裁者足利義教と比較される運命になったろうな。
出生身分は違うが独裁の元、周辺大征伐、最後は家臣に襲われ犬死
183人間七七四年:2010/10/23(土) 17:22:44 ID:hUHgAq8l
いやいや
足利義教の方が信長よりかなり上の評価だから。
184ほなかいみ:2010/10/23(土) 22:43:05 ID:cc6bUlry
安部龍太郎の本は、面白かった。講演会は都内でないのかしら?
185人間七七四年:2010/10/24(日) 12:42:21 ID:I30G0cdJ
Yahoo!知恵袋によると魚津城の戦いも上杉のねつ造らしい(笑)
186人間七七四年:2010/10/24(日) 13:26:54 ID:MiJolSV0
>>185
わざわざ答えてあげる必要ないのにねえ。
回答者さんは真面目すぎるというか。
知識がどうのこうのというより、対応して下さった人に対する、最低限の礼儀もしらない、人間としてはクズだね。
187人間七七四年:2010/10/31(日) 07:43:53 ID:PefAkVTo
義教の怖さに比べたら信長は子供レベル
188人間七七四年:2011/01/21(金) 00:58:40 ID:R1xwnMLH
直江兼続が柴田に使いを出してたじゃん
織田と景勝は和睦はできねえの?
189人間七七四年:2011/01/23(日) 12:38:08 ID:o686gRQN
袋の鼠でもう詰んでるのに織田が和睦する理由がない
190人間七七四年:2011/05/19(木) 20:59:38.33 ID:BcqnL+aY
越後に攻めこんだら織田の半分以上は死ぬし
和睦したほうが織田にとっては得
191人間七七四年:2011/09/13(火) 10:26:22.36 ID:EOl+2Ga7
滅亡寸前の上杉と和睦なんて、武田の甲江和与と同じく笑止だろ
192人間七七四年:2011/09/14(水) 02:14:54.06 ID:2sm5SAhc
織田は血気盛んだからな
秀吉は勝頼も景勝も配下に加えたほうがいいと
進言したが
193人間七七四年:2011/09/14(水) 13:39:10.31 ID:iQdJUZEY
>>190
内部ガタガタで四方に敵を迎え三方から攻め込まれてる状態で半分死なすのは中々難しいぞ
194人間七七四年:2011/09/14(水) 15:45:13.77 ID:2sm5SAhc
まあ佐渡島に脱出を図るんじゃないの?
195人間七七四年:2011/09/14(水) 21:09:51.65 ID:7NTrY9XG
ヒント
⊃長尾為景
196人間七七四年:2011/09/17(土) 14:13:06.96 ID:RAi2+w4A
>>193
信雄を総大将にすれば何とかいける
197人間七七四年:2011/09/19(月) 19:12:51.06 ID:dcdn0tH6
春日山城の包囲戦、落城で滅亡かね
198人間七七四年:2011/09/22(木) 11:36:46.07 ID:DlNWIy+R
本能寺が起こらないなら当たり前のごとく上杉家は滅亡だろうな。

魚津陥落は武田でいうなら高天神陥落かもしくは木曽義昌謀反に相当する
199人間七七四年:2011/09/22(木) 20:42:07.93 ID:hpS4XW7W
鬼武蔵に春日山城の瓦ぶち破って銃撃してもらいたかったよ。
200人間七七四年:2011/11/02(水) 20:22:24.85 ID:d5YNpjsP
親不知の険があるからまだまだだな
201人間七七四年:2011/11/03(木) 00:38:19.47 ID:24zSFZlP
信濃、上野からも総攻撃くらって終了だろ
202人間七七四年:2011/11/03(木) 08:52:42.50 ID:Azm10TuO
>>201
森も滝川も撃退済み
203人間七七四年:2011/11/03(木) 18:28:32.14 ID:6iZO42i+
やあやあ我は大紫冠鎌足公が末裔、関東管領(家当主)上杉景勝である
204人間七七四年:2011/11/04(金) 09:35:50.78 ID:ULnQVOGu
武田滅亡後に空き城になった城を接収した森なんて
上杉側に見事に奪われてるのが一次史料にあるもんなw
信長公記には二本木まで侵攻して春日山城を窺ったとか大ウソ書いてるけどw
205人間七七四年:2011/11/04(金) 12:10:06.04 ID:/kH+hJel
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)
森が奪回した記録はない。
206人間七七四年:2011/11/04(金) 13:34:12.62 ID:9F1Xhd5q
>>205
森長可が上杉景勝に負けて長沼城を奪われた?
よく平気で嘘がつけるな。
207人間七七四年:2011/11/04(金) 14:14:54.28 ID:/kH+hJel
>>206
はいはい、とりあえず新潟県史の三五ニ五を見てきてネw
208人間七七四年:2011/11/04(金) 20:15:09.46 ID:n7Fnv0C1
だがなのか?上杉厨に鞍替えしたのか?
209人間七七四年:2011/11/04(金) 22:58:48.60 ID:1FyqUsVh
森に春日山城が落とされて滅亡
210人間七七四年:2011/11/04(金) 23:21:36.06 ID:pCRLqLh5
上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、
足利家家人の上杉三郎入道(頼重)より前は不明。その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か


事実上の始祖である上杉三郎入道(頼重)の日名屋敷

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉末期に額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
211人間七七四年:2011/11/05(土) 00:43:38.32 ID:bOz2Mhe0
宝賀厨あらわる
もう少し調べてから来てね
212人間七七四年:2011/11/05(土) 13:54:47.59 ID:Qq7j++hm
信長厨はどこの人間なん?頭悪そうだけど
あと、世間の情報操作に流されて信長厨なの?どこに魅力を感じるの?
213人間七七四年:2011/11/12(土) 08:30:32.90 ID:kqjNZxtH
信長厨はコーエーが信長の野望を売る為に
信長マンセーしてるのを間に受けたゲーム厨で
しかもゲーム脳で語る精神年齢が低い池沼。
214人間七七四年:2011/11/12(土) 09:38:18.33 ID:0LIKBE4V
でもコーエーが無ければ武田が信長の最強ライバルにされる事は無かったかもな
215人間七七四年:2011/12/29(木) 01:21:32.60 ID:cB4eZBKW
tsって
216人間七七四年:2012/05/12(土) 19:29:03.59 ID:RCUO9sKM
北条軍は扇谷上杉軍の籠る深大寺城をパスして河越城を直接攻撃したとか。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
217人間七七四年:2012/05/12(土) 21:33:33.06 ID:wfVs8O3L
そもそも森長可なんて当時の織田家の地位でいえば中堅格もいいとこ。
池田と同格レベルでこんなのを撃退したからなんて上杉には何の足しにもならない。
森クラスの人間は織田家にいっぱいいるし、柴田が出てきただけでもう手詰まりなのが当時の上杉
信長が自ら大軍率いて出張ったら瞬殺だった
218人間七七四年:2012/05/13(日) 00:07:05.52 ID:ZM/wcvbg
いずれにせよ武田滅亡で詰み
森を撃退できていてもいずれ織田は四方八方から越後に侵入して蹂躙していた
219人間七七四年:2012/05/13(日) 00:39:27.22 ID:u3jSyh91
圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
こんな弱軍織田じゃ親不知の天嶮で撃退されるのがオチ
220人間七七四年:2012/05/13(日) 07:34:42.31 ID:QfI58T/g
>>219
森は一週間掛からずに兵5,000で越後国境から春日山城近く二本木まで制圧してるじゃん。

221人間七七四年:2012/05/13(日) 09:42:43.79 ID:MC5NYEgR
畿内本国に信長本隊、越中から柴田前田佐々、甲信からは森滝川河尻、越後国内で新発田が反乱、伊達蘆名がこれを援助

ゲームでも勝てるかどうか怪しい状況だな
222人間七七四年:2012/05/13(日) 10:26:59.30 ID:u3jSyh91
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている
223人間七七四年:2012/05/13(日) 10:30:41.02 ID:u3jSyh91
織田厨は何回論破されても機械のように同じ妄想垂れ流すだけだな
一次資料だしてみろよバーカ
224人間七七四年:2012/05/13(日) 13:28:37.83 ID:mPEJkY0E
つうか平城の魚津城と違い
須田が籠城していた松倉城は鬼のような山城だからなー。
これ放置して親不知なんて通過しようもんなら挟撃されるだけだし
上杉水軍にも横っ腹を襲われ逃げ道もなく柴田軍消滅だろ。
天正11年4/17に景勝が糸魚川の新城に兵を入れてるから
糸魚川にも備えを構築準備してただろうし。
225人間七七四年:2012/05/13(日) 16:20:14.04 ID:MC5NYEgR
滅亡率99%から滅亡率75%くらいに変わっただけで大差なしw
まあだがの史料は条文全てまで書かないと一次史料とは言わんわなw
口では何とでも言えるw
226人間七七四年:2012/05/13(日) 16:26:41.19 ID:MC5NYEgR
上杉景勝が織田軍の脅威を全て退けるには

・柴田勝家を大将に前田佐々ら率いる北陸勢
・織田信忠の与力たちによる甲信勢
・畿内本国にいる織田信長の軍勢

これらを全て撃退しなければならないのにかたや上杉景勝は武田征伐で同盟者を全く救援できずに見殺しにするばかりか
新発田因幡の絶賛反乱中で国内統治すらまともにできていない状況。

結局新発田討伐が完遂するのは秀吉治政の天正15年で、新発田ごときに6年も費やした戦下手相手では強勢織田軍に立ち向かうすべがあろうはずもないw
227人間七七四年:2012/05/13(日) 16:49:03.50 ID:mPEJkY0E
信長が生きてようが
越前みたいに旧武田領で大規模叛乱が起きて
織田軍が叩き出されて、
滝川が北条に敗走するのが目に見えてるし。
越中すら叛乱だらけで、信長は越中国人を畿内に呼んで抹殺とか
やりまくり、越中で城割政策したりと
越中統治が困難を極めてるのがわかる。
織田の内政無視のデタラメ統治じゃ
越前同様に大虐殺大会でもやらんと越中も甲斐も信濃も統治不可能。
新発田攻略が長々とかかったのは
秀吉が家康攻めのために上杉軍を使おうとして邪魔したり
新発田も家臣化しようと企んで
たびたび景勝に和睦を持ち込んだりしてたから。
秀吉が新発田潰していいよってなったら、
背後の葦名の援軍を叩き潰してさっさと新発田なんざ滅亡させてる。
228人間七七四年:2012/05/13(日) 18:07:47.56 ID:MC5NYEgR
蘆名が当主死亡でgdgdになり、伊達も当主輝宗が拉致の末に殺されるという
未曽有の危機だったにもかかわらず景勝は新発田相手に6年も苦戦してますがwwww

しかも本能寺で織田家が混乱してくれたのに景勝はそんな状況になってすら新発田に勝 て な い w
結局太閤殿下にゴマすりをしてようやく新発田を滅ぼす雑魚上杉w
229人間七七四年:2012/05/13(日) 19:22:01.87 ID:u3jSyh91
新発田ってただ本能寺の前は対織田(平山氏によれば織田は港経由で新発田を支援していた)
本能寺後は対徳川の信濃戦線と
対佐々・北条(上野での攻防が天正12年8月の秀吉書状で確認が取れるし前年の厩橋城攻防でも厩橋北条が景勝に援軍要請してる)
に忙しすぎたのと芦名盛隆の秘密裏での支援と芦名義広の景勝への公然たる敵対行動で長らえただけ
しかも天正11年八幡表の戦いで普通に叩き出されて脅威がなくなっている
その後秀吉の介入が入って動けなくなっただけ
新発田市史とか上越市史とか基礎的な文献でもこのくらいの事情は書いてあるのに
織田厨はほんと無知だな
新発田支援してた芦名も赤谷・津川口の戦いで大敗して普通に叩き出されてるし
230人間七七四年:2012/05/13(日) 19:24:53.78 ID:MC5NYEgR
いくら取り繕っても6年も討伐にかかった事実は変わらないのに哀れwww
他家の介入なんてない方がおかしいわwww上杉と新発田以外は何もすんなってかwww
231人間七七四年:2012/05/13(日) 19:30:44.72 ID:u3jSyh91
>>230
お前はちゃんと>>229を読め
信長は同盟者の徳川を22年も滅ぼせなかったから雑魚でしたって話でもするか?w
232人間七七四年:2012/05/13(日) 19:40:06.12 ID:MC5NYEgR
>>231
は?wwww
織田が徳川を滅ぼそうとしていたっていう史料あんすか?www

間接的にどっかが援助してたってのはそんなもん言うまでもないだろwww
でそれがもたつきの言い訳になるんすか?www
233人間七七四年:2012/05/13(日) 19:43:14.41 ID:u3jSyh91
>>232
は?wwww
秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料あんすか?wwwwww
234人間七七四年:2012/05/13(日) 19:46:06.35 ID:u3jSyh91
織田は82年まで徳川を滅ぼせなかった。
武田も圧倒的国力差があったのに滅ぼせなかった
飛騨の三木も滅ぼせなかった
本願寺も滅ぼせず、朝廷による和睦仲介に頼るしかなかった
よって雑魚
235人間七七四年:2012/05/13(日) 19:49:15.79 ID:MC5NYEgR
>>233
ボケんのはまだ早いでっせおじいちゃんwww
どっかの勢力とやりあいながら別の勢力とやるのは戦国時代では日常茶飯事www
そんなのは言い訳にもならない、同盟結びまくって安全圏確保して敵を攻め取れるのはゲームだけでっせwww

で織田が徳川や三木を滅ぼそうとしていた史料はまだっすか?www
できひんのやったらできひんって言うってちっさいころ言われたやろ?www
236人間七七四年:2012/05/13(日) 19:55:42.13 ID:u3jSyh91
>>235
ハーイ織田のようなチート国力で同盟に頼りまくって敵を一つに集中しても
撃退されまくった雑魚と
わずか5000そこそこの手勢で上野下越奥州越中信濃と戦いまくって大暴れした最強上杉と一緒にしないでね
チート国力で一箇所に敵がいるのと寡兵で4箇所五箇所に敵が散在して転戦につぐ転戦しなきゃいけないのと
どちらが大変か考えようね、池沼君wwwww
237人間七七四年:2012/05/13(日) 20:05:17.83 ID:MC5NYEgR
自分の手元にいる兵力の勘定せんと巨大な敵勢力に3つも4つも囲まれるって馬鹿のやることですわなwwww
戦争で勝てばええけど景勝時代は負けてばっかwwwゲームとちゃうんやから勝てる状況作るのが大名の仕事やろwww

最強上杉なんて妄想信じ込んで自分に思い込ませる語句ばっか使ってるからそんなことになるんやろうなwww
238人間七七四年:2012/05/13(日) 20:07:47.11 ID:MC5NYEgR
でところで織田が徳川や三木を滅ぼそうとした史料はまだっすか?www
そんな妄想考えてる暇あったらさっさと探して叩きつければ織田はこうだダメだって言うのにも
少しは説得力つくんちゃうか?www
239人間七七四年:2012/05/13(日) 20:31:01.03 ID:u3jSyh91
そうですな
御館の乱で国中二分&武田北条伊達芦名が敵対して攻め込んだ状況で見事勝利したり
天正11・12と北信で徳川方小笠原勢4000を二年連続で大破したり
上野で北条を撃破して秀吉から比類なき手柄とかほめられたり
新発田を八幡で叩き出したり最上を十五里が原で撃破したり芦名を赤谷・津川合戦で破ったり
到底負けてばっかと思えるとか凄いですねwwwww

ところで秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料まだっすか?wwwwww
240人間七七四年:2012/05/13(日) 20:48:57.64 ID:MC5NYEgR
>>ところで秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
>>対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
>>秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料まだっすか?wwwwww

だがの悪い癖やなwww都合悪なったら適当に揚げ足とって史料だせだせの時間稼ぎwww
俺は「上杉景勝は新発田討伐に6年もかかった」って言ってるだけで、羽柴の干渉や別方面の政策なんて全ーく触れちゃいないってのにwww

何べんも言うけど戦国大名なんてのは複数の敵抱えるのが常で、それを上手く回避しながらやりくりするのが大名のお仕事。
景勝はそれができずに新発田ごときに6年もかかったっていうだけwwww

で、織田が徳川や三木を滅ぼそうとした史料はまだっすか?www

これは誤魔化しできひんでwwwおまえは>>234
>>織田は82年まで徳川を滅ぼせなかった。(中略)よって雑魚。

って言ってしもたからなぁwwww言ったことには責任持てって習わんかったんか?www
241人間七七四年:2012/05/13(日) 20:51:08.94 ID:u3jSyh91
ハーイ織田のようなチート国力で同盟に頼りまくって敵を一つに集中しても
撃退されまくった雑魚と
わずか5000そこそこの手勢で上野下越奥州越中信濃と戦いまくって大暴れした最強上杉と一緒にしないでね
チート国力で一箇所に敵がいるのと寡兵で4箇所五箇所に敵が散在して転戦につぐ転戦しなきゃいけないのと
どちらが大変か考えようね、池沼君wwwww


織田はところで秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料まだっすか?wwwwww
82年まで圧倒的国力差で徳川を滅ぼせなかった。
武田も圧倒的国力差があったのに滅ぼせなかった
飛騨の三木も滅ぼせなかった
本願寺も滅ぼせず、朝廷による和睦仲介に頼るしかなかった
よって雑魚
242人間七七四年:2012/05/13(日) 20:53:06.56 ID:MC5NYEgR
コピペで誤魔化して他人を諦めさせようとするのも悪い癖やなwwwいつまでもなおらんwww
でも俺は他の連中とちゃうからなwwwwいつまでも言うでwwww


で、織田が徳川や三木を滅ぼそうとした史料はまだっすか?www

基地外だの運営の犬だの言われて何も言ってこねーからwwwって思いこんどるやろ?www
おまえは所詮地方の雑魚大名を妄想崇拝して、1個も史料を出せないにわかやっちゅうこっちゃなwwww
243人間七七四年:2012/05/13(日) 20:53:21.03 ID:u3jSyh91
織田は82年まで徳川を滅ぼせなかった。
武田も圧倒的国力差があったのに滅ぼせなかった
飛騨の三木も滅ぼせなかった
本願寺も滅ぼせず、朝廷による和睦仲介に頼るしかなかった
毛利も滅ぼせなかった。内乱で自壊した斉藤も浅井や甲賀衆に助けられっぱなしで自力では滅ぼせなかった。
よって雑魚
244人間七七四年:2012/05/13(日) 20:54:41.57 ID:u3jSyh91
織田はところで秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料まだっすか?wwwwww
245人間七七四年:2012/05/13(日) 20:55:30.90 ID:MC5NYEgR
そもそも秀吉や織田佐々徳川に関与しようと考えたのは他ならぬ景勝本人やwww
別に黙秘したってええし実際十五里原なんて秀吉の惣無事令以降で立派な惣無事令違反やw

にもかかわらず上手いことやったんか秀吉の温情采配あったんかして見逃されとるwww
結局景勝の大名経営が上手くいかなかったがゆえの新発田討伐6年っちゅう事実は覆りようもないわなwww
246人間七七四年:2012/05/13(日) 20:56:28.16 ID:MC5NYEgR
で、織田が徳川や三木を滅ぼそうとした史料はまだっすか?www

247人間七七四年:2012/05/13(日) 20:58:19.05 ID:u3jSyh91
織田はところで秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料まだっすか?wwwwww
248人間七七四年:2012/05/13(日) 21:00:09.39 ID:MC5NYEgR
無意味かつ無駄な時間の抵抗やなwwww
俺が言うのもなんやけどもうあきらめた方がええでwww
俺はそんじょそこらの連中とは違う、23:59まで言い続けるしつこさだってあるさかいなww

243 :人間七七四年:2012/05/13(日) 20:53:21.03 ID:u3jSyh91
織田は82年まで徳川を滅ぼせなかった。
武田も圧倒的国力差があったのに滅ぼせなかった
飛騨の三木も滅ぼせなかった
本願寺も滅ぼせず、朝廷による和睦仲介に頼るしかなかった
毛利も滅ぼせなかった。内乱で自壊した斉藤も浅井や甲賀衆に助けられっぱなしで自力では滅ぼせなかった。
よって雑魚

で、織田が徳川や三木を滅ぼそうとした史料はまだっすか?www
249人間七七四年:2012/05/13(日) 21:03:48.90 ID:u3jSyh91
はあ?

お前が状況無視して6年かかったとか妄言はくから
それになぞらえただけだが?

上杉は新発田を滅ぼすのに6年かかった
織田は徳川タケダ三木毛利を82年まで滅ぼせなかった
本願寺も滅ぼせなかった
斉藤も自力では滅ぼせなかった
250人間七七四年:2012/05/13(日) 21:08:47.52 ID:MC5NYEgR
俺は状況なんて無視しとらんでwww純然たる事実を語ったまでやwww
上杉景勝は元上杉家臣の新発田に背かれて、それを討伐するのに6年も要したwwww
何が間違っとんねんって話やわなwwww

織田が斎藤を自力で滅ぼされへんかったっていうんは史料あんのけ?wwwまた妄想か?www
徳川と三木は同盟者なんやから滅ぼす必要ナッシングやろwwwおまえは味方勢力まで根絶やしにする独裁者気取りか?www

だから俺は「で、織田が徳川や三木を滅ぼそうとした史料はまだっすか?www 」って聞いてんのwww
味方滅ぼす道理なんてないんだから織田が敵対視しなけりゃ三木も徳川も織田の同盟者で終わりですわwww
251人間七七四年:2012/05/13(日) 21:10:19.99 ID:MC5NYEgR
大体ほんまに年寄りくさい言い方やなwww
今時ゲームですら従属っちゅうコマンドあって全部を攻め滅ぼさなくても天下統一できるご時世やでwww
どっかで40くらいのおっさんやってみたけど、案外ホンマかもしれへんなwww
252人間七七四年:2012/05/13(日) 21:25:08.31 ID:u3jSyh91
俺は状況なんて無視しとらんでwwwww純然たる事実を語ったまでやwwww
織田信長は圧倒的兵力・国力差がありながら22年かかって徳川武田三木毛利を8滅ぼせなかったwwww
本願寺も滅ぼせなかった 斉藤も自力では滅ぼせなかった
何がまちがっとんねんて話やわなwwww

織田が斉藤を自力で滅ぼしたって甲賀衆や浅井の活躍や美濃三人宗のおかげなのを無視してる嘘長公記が史料かwww
新発田は秀吉から停戦命令だされてたんだから滅ぼす必要ナッシングやろwww
お前は景勝を主君の命も無視する反逆者だとおもっとんのかwwww

だから秀吉の介入が入ったり織田や徳川北条佐々とやりあってた時期
対新発田戦に全力になってかかりきりになったり
秀吉の意向無視して新発田を滅ぼそうとしてた史料まだっすか?wwwwww

ってきいてんのwwww

三木徳川を織田が滅ぼすのも停戦令や他の敵との交戦中に新発田を上杉が滅ぼすのも一緒のことやろwwwwwww
253人間七七四年:2012/05/13(日) 22:13:01.48 ID:MC5NYEgR
まーたおうむ返しかwwww
斎藤は斎藤龍興が稲葉山去ってる時点で滅亡してんのwwww
甲賀や浅井衆の活躍?www講談の読みすぎやwwww美濃三人衆は信長に服属した時点で織田家臣やろアホwww

秀吉の停戦命令?wwwソース出さんかいwwwwむしろ秀吉は1586年から景勝側だしずっと景勝に与しとるわwww

結局まともなソースすら出せずに妄想とおうむ返ししかできへんのかwwww武田厨哀れ惨めwwww
254人間七七四年:2012/05/13(日) 22:21:38.16 ID:MC5NYEgR
挙句本願寺を滅ぼしたのが間違いとか韓国歴史でも読んでんのかって話だわなw
本願寺に情けをかけて朝廷講和と言う形を測っただけで形式上完全に本願寺の負け。
1582年の2月6日には雑賀土屋の争いを受けて本願寺の門跡(顕如)警護に織田家臣の野々村三十郎が付き従ったということが晴豊記にある。

本願寺が滅んでないのなら鷺ノ森みたいなド田舎に引っこまずとも石山に君臨すればいいわけでそれすらできなかった時点で本願寺は滅亡同然の状況。
結局顕如はその後大坂願泉寺に2年逗留した後、秀吉のおススメで大坂天満の一角に拠点を貰うまで家なき子状態であり、
これを滅ぼしていないという状況なのは苦しいにもほどがあるわなwwww
255人間七七四年:2012/05/17(木) 00:27:09.77 ID:N0O/rpxA
>>253
お前、アホ過ぎるな・・・織田厨って無知すぎる。

信長死んだことで方針転換した探題の伊達がいきなり
天正11年7/27の書状で新発田と景勝の間の無事を執り行いやって
邪魔してるのがわかるし
そもそも最優先順位が北信濃の徳川、第二が佐々、
第三が上田長尾の本領地に接する北上野で、下郡攻略は後回しにされてる。
だから信濃攻めのせいで下郡出陣延期とかよく出てくる。
しかも天正12年6/27書状では綸旨の勅使下向で納馬せざるおえなくなるなど邪魔ばかり入る。
天正13年には秀吉が尊朝法親王を利用して景勝と
新発田へも長谷三位法眼御房を派遣して戦闘中止させてる。
天正14年にも今度は尊朝法親王経由で越後高田の本誓寺まで利用して
殿下となった秀吉が双方を和睦させようと動いてるし景勝も上洛してる。
さらに秀吉は天下静謐を持ち出して
9月には今度は木村清久を派遣して調停させようとしてる。
新発田にも増田・三成・木村連名書状を出してるし。
しかも新発田を一城に攻め詰めているよしなどと三成らが書いていて
はっきり言って新発田が滅びないように戦闘停止を命じてるとしか思えない。
さらに新発田御赦免之儀とか木村まで直江に言い出す始末。
こんな交渉外交で結局、冬まで時間稼ぎされてしまうし。
(北条と徳川が沼田方面での真田への攻勢を強めていて、
秀吉は新発田と和睦させ上杉に兵を出させようとしていた)
11/4書状において真田に続き木曽や小笠原が家康から離反したことで
秀吉が関東征伐すると公表したら
焦った家康が上洛することが決まり、
やっと秀吉は新発田討伐許可を出すようになる。
天正15年5月出陣し、それに応じて葦名義広も新発田支援へ平田・金上を派遣。
5/7新潟着陣。5/13水原城瞬殺した時「ひとえに謙信様之御守護浅からず」として
逆徒近月中に滅亡すると書いて帰陣してる。
8月に再出陣。それに対応して葦名も小田切宛て書状の中で
鉄砲なども赤谷城へ送ったと書いてる。
9/14赤谷城を落とした上杉軍は帰路を封じて会津軍を壊滅させているのが伊達日記でわかる。
9/19鉄砲衆や馬上衆まで討たれ、やばくなった葦名は
時を移さずすぐに助けてくれ、佐竹義重へも加勢依頼をと白河結城へ援軍派遣の懇願してる。
しかし手遅れで10/23には五十公野城が落ち
10/28に新発田討取りの報告を景勝はしてる。
256人間七七四年:2012/05/17(木) 04:08:32.92 ID:3WZMIoh7
で、それは「上杉景勝は新発田重家に背かれて、討伐に6年も要した」という事実を覆せるのか?w
自分の家臣も纏められないのに信濃出兵に欲をかいたり、伊達や羽柴のお家の都合に振り回されていただけやん
100歩譲って天下人秀吉はいいとしても、大名のくせに拉致されて死んだ伊達輝宗に翻弄されるとか大名の器じゃないわなw
257人間七七四年:2012/05/17(木) 04:19:28.09 ID:3WZMIoh7
結局終始すれば上杉景勝の戦略性の拙さが露呈しただけやん。

中央政権と連絡を取るという重要外交で新発田に先んじられるわ、
拉致られて死んだ田舎大名に邪魔されるわ、新発田討伐捨ててまでやった信濃出兵も最初だけで頭打ちという
やったことが悉く裏目に出てほぼ全くの成果なしだったのが新発田討伐前の景勝。

結局最終的には太閤の心変わりによる上杉援助でようやく新発田を討伐と言う情けなさ。
258人間七七四年:2012/05/17(木) 07:10:14.79 ID:zrjt7amY
そもそも新発田に背かれたのは御館の乱での論功行賞が発端でしょ
元々国内二分しての戦&周辺諸国がこぞって国内侵攻してくる状況で
内戦が天正8年中盤まで続き、また同時期に織田の圧倒的侵攻に見舞われた絶望的なゲーム
本能寺後の天正10年の新発田討伐の際も信濃・上野・越中と転戦につぐ転戦による軍の疲労状況が酷かったと景勝書状にある
新発田が背いたのは新発田に与える分け前が足りなかったってだけの話でないの?
信濃で空手形連発して真田や木曽の離反を招いた家康なんかと同じ事

あとお前は何か勘違いしてるかしらんが秀吉が新発田討伐に関して何か援助した事実なんぞない
周辺諸国の状況に振り回されたというのはあたっていても景勝自身が招いてそうなったというより
謙信死後の絶望的条件からスタートしてるんだから純粋に見て戦略性の拙さとか意味不明
259人間七七四年:2012/05/17(木) 11:39:22.72 ID:Wq11JvKj
>>254
禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視してなおも籠城した教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候

5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候
然者予(蓮如)当寺に残り
可相持思立如此候

天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も
然処内輪逆意之賊
しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
朝廷の脅迫をうけてやむなく大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。

>>256>>257
>>信濃出兵に欲をかいたり
村上義清の息子の山浦景国が旧領回復を願ったから
北信濃への出兵になっただけだろ。
それに春日山の安全保障上の問題もある。
欲をかいたとか意味不明だが一次史料で証明できるのかね?
>>中央政権と連絡を取るという重要外交で新発田に先んじられるわ
新発田から中央政権に連絡をとってる姿など無い。デタラメ書いてバカじゃねーのw
新発田は佐々と連絡とってるだけで、佐々が秀吉に土下座してる負け組側でしかない。
>>拉致られて死んだ田舎大名に邪魔されるわ
政宗を上杉側に取り込んで、天正14年3/19直江書状から
妹の子が当主なので親葦名側で隠居した輝宗を無視して、政宗・景勝連合へ進展してんだがw
そして政宗も新発田支援して上杉にボコられ弱体化した葦名を攻めるようになる。
輝宗も出兵して政宗と葦名の調停を試みたりしてるが
政宗はそれも無視して、最後は父殺しへ発展w
常に上杉の外交はうまくいっているようにしか思えないが?
>>信濃出兵も最初だけで頭打ちという
信濃諸将の真田・小笠原・木曽・石川らがことごとく秀吉側に付いて家康が屈服してんだから
親秀吉側に付いていた上杉は外交的には勝利側だろw
秀吉を無視して上杉に付けとか言えるわけねーだろw
260人間七七四年:2012/05/17(木) 11:42:10.20 ID:Wq11JvKj
>>253
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を浅井に向かわせ協力を取り付けたおかげで
やっと近江からの軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は中濃・西美濃の調略に成功し
10年に美濃を奪うことができたくらいの下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど

永禄10年(1567年)8月滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが神戸氏への支援として関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒・伊勢水軍・志摩水軍に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反。
さらに北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局、戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝を与えて縁戚化させるしかなかった。
なんせ12年春には安濃津城前面まで来ながら信長は逃走してる。
そして織田方になった北伊勢の者どもを利用して調略や仲間割れを煽り
長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏の家中を疑心暗鬼にさせて暗殺や内紛を引き起こさせ
長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として渡し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して北畠は木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の関・神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
滝川三郎兵衛が九鬼を買収し志摩水軍を北伊勢反北畠連合側に寝返らせる。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)

信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔がやっと和睦に同意し
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
261人間七七四年:2012/05/17(木) 11:42:56.01 ID:Wq11JvKj


1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。

幼君斎藤義興は多いに信長を苦しめたが不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城  織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城  と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて 戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
永禄6年の観音寺騒動以来はっきりとニ派に分かれて対立する六角氏。
そこに永禄8年の将軍義輝暗殺と朝倉による義昭救出と言う事態が絡んで
ようやく信長がラッキーな情勢に変化する。
親三好派の六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
262人間七七四年:2012/05/17(木) 11:43:20.24 ID:Wq11JvKj
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。

義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
公記は例のごとく隠蔽・捏造
263人間七七四年:2012/05/17(木) 11:54:06.15 ID:Wq11JvKj
むしろ朝廷の覚えめでたい+チート尾張一国+美濃大垣城+三河水野+道三後見+今川との同盟を
信長に遺して死んだ信秀にしてみれば
信長がなんでこんなに負けまくりなのか不思議だったろう。
信長が義昭を奉じて上洛成功したのも
すべて六角義秀のシナリオに沿って市を長政へ嫁がせて
西美濃国人衆を仲間に抱き込んで
上洛への道を作ってくれたからだし
それですら信長は敗れている。
264人間七七四年:2012/05/17(木) 15:05:02.43 ID:3WZMIoh7
9月7日に信長が上洛作戦を開始してから、もう9月12日には箕作城、長光寺城ら諸城を落として、
同年9月14日には近江国主の六角義賢がボコボコにされた挙句、後藤進藤らが寝返り。

あまりに織田軍が強すぎたので山科言継が「信長は京もそのまま攻め潰す気では?」と疑心暗鬼になり
財宝を全てかたづけ洛中は終夜騒動だったことが全て言継卿記に書かれているという矛盾wwww

長々と嘘吐きしかできないだが哀れwwwww
265人間七七四年:2012/05/17(木) 15:24:37.38 ID:3WZMIoh7
大体長々と書いてるくせに嘘吐きが多すぎwww

河野島の戦いでは上洛を開始しようとする斎藤に対して織田が攻撃するという
「織田の反足利行為」を提唱しながら、一方では美濃攻略は義昭和田のおぜん立てという矛盾www

また足利義栄についても大嘘で、1567年の11月に一度拒否られたものの、結局1568年の2月には将軍職に就任している。
足利義昭は自分が将軍職になれるものと思っていたのに、義栄の方に将軍宣下が下ったことに驚愕していたことが言継卿記にある。

結局すぐに足利義昭が上洛するので大した意味は持たないが、これに慌てた時の関白の近衛前久が京からトンズラこくという有様。
266人間七七四年:2012/05/17(木) 16:51:46.34 ID:Wq11JvKj
永禄8年5月義輝暗殺

永禄9年4月に朝倉・六角・畠山・上杉の支持を得ている義昭が左馬頭になる。
8月信長が裏切り行為の美濃攻めをやったことで
六角義秀の計画は崩壊し、六角氏内では三好の後援を受けて義治が台頭。
これにより孤立無援になった義昭は三好勢に襲われ
若狭経由で越前へ逃げる。
三好優位が確定し10月に義栄もやっと嘆願が実り左馬頭になる。

永禄10年8月に義秀の後援の下に信長が美濃攻略したが、
攻略協力者の意向を無視して北伊勢侵攻を開始し大敗。
10月東大寺が三好と松永の兵乱で全焼し京は大混乱。
11月朝廷は義栄の将軍宣下願いに抵抗し却下しつつ
裏で信長に上洛するように女房奉書を出す。
しかし信長はそれを無視して北伊勢攻撃を続け泥沼。

義昭の上洛の可能性がないので
三好の圧力に屈した朝廷は関白近衛前久主導で、
永禄11年2月についに義栄を将軍にせざる負えなくなる。
これに対抗し4月に義昭元服し越前まで前関白二条晴良が駆けつける。
山科言継も下向予定だったが費用がかさむので朝倉側が断念。
8月義栄重病で危篤状態に陥る。将軍殺しを不問にした三好派の近衛前久が逃亡する。
9月信長上洛成功・義栄病死。
12月二条晴良が関白に再任。

永禄12年
大河内城2ヶ月大包囲で超大敗し
将軍になっていた義昭が信雄を人質に出すことで北畠との和睦を斡旋。

元亀元年
信長が浅井を部下扱いして裏切られる。
姉川の戦いで大打撃を受けて兵が集まらない信長は、
三好軍の攻撃に普段は使わない「将軍の親征だよ!!!」を連呼強調して
兵を必死で集めるしか、もはや手段が無かった。
しかし石山本願寺挙兵と浅井・朝倉の挟撃の結果
朝倉浅井3万に織田1万は追い詰められ
志賀の陣で二条晴良や天皇まで使って信長屈辱の土下座和睦。
267人間七七四年:2012/05/17(木) 17:54:37.17 ID:3WZMIoh7
お得意の史料曲解
268人間七七四年:2012/05/17(木) 21:36:36.95 ID:kXdNeGK0
六角義秀w
269人間七七四年:2012/05/25(金) 16:52:55.62 ID:TCOC8fI2
天正元年
11/23には滝川一益も
伊勢大湊七ヶ村老分衆へ
知多郡之儀について異儀あるべからず。御使に申し渡すと述べていて
織田にかなりの抵抗をしてるのがわかる。
天正2年の5/29には信雄の臣の沢井吉長が伊勢大湊老分中に
尾張知多郡内海所属の船を抑留を続けるなら
信長との関係が難しくなるから皆で談合して渡すようにと書いていて
武田に通じていた伊勢水軍が尾張の船舶を拿捕してる姿がわかる。
完全に海上封鎖を受けていた織田www
北畠が織田の圧力に屈して面従腹背して
大湊へ影響力を行使したから
やっと織田が動員可能になり
天正2年9月にやっと長島一向宗を潰せただけで
信玄存命してたら、織田なんて完全に滅亡してたのは明らか。
天正元年9月から10月の長島攻めでは水軍の協力を得られず
長島城自体にはまったく攻撃を加えられず対岸で傍観した挙句に
帰るところを追撃されて林通政が討死するなど
惨憺たる状況で大垣城まで雨の中を凍死続出しながら信長逃げ帰ってるしwww
270人間七七四年:2012/05/31(木) 00:28:39.97 ID:C8Qso3Wk
このことは、「赤垣伝兵衛職録絵伝」や「伊賀衆名張翔秘伝」にもきちんと書かれている
271人間七七四年:2012/06/14(木) 12:10:59.80 ID:sqRAU7+v
しかし上杉は30万石を維持したのに較べて
織田は旧主だからと、朝鮮出兵陣の壮大さを
見せびらかせたい秀吉に家を再興してもらって
滅亡からおこぼれ復興させてもらっただけの
大名ですらなく、コジキ衰微高家だもんなぁ。
織田信雄系→2700石
織田信高系→2000石
織田信貞系→700石
もう、目も当てられないわ。
272人間七七四年:2012/06/15(金) 17:40:41.54 ID:sfkhCoVa
維持がどうのとか、後世の事はスレ違いなのに、なにこのドヤ顔はw
273人間七七四年:2012/06/25(月) 10:22:12.61 ID:J2cM59Xk
そりゃあ家臣に下克上されて信長親子が謀殺され
別の家臣に織田家を下克上され簒奪されたと言う
二重下克上という戦国史随一のマヌケ織田家だもん。
274人間七七四年:2012/06/25(月) 10:25:12.26 ID:TCNRdCcJ
後世でなくても信長自身は滅びましたが
275人間七七四年:2012/06/27(水) 22:47:17.77 ID:16mdisP5
景勝は勝頼に感謝しないといけないなw
どう転んでも勝頼に生き残る余地はなかったと思う
276人間七七四年:2012/06/27(水) 23:49:51.76 ID:lLTU2wDy
感謝すべきは光秀だろ、あそこで殺さなきゃ十中八九上杉は滅んでいた。

まあだがさんのアホレスはともかくとして、織田信雄、織田信包、織田長益の
おかげで10万石近くの大名として江戸期にまで残した織田は維持の面でも偉大だわな
277人間七七四年:2012/06/28(木) 11:36:00.75 ID:hggYpfOl
新発田の乱や御館の乱につけこんで9倍もの兵力差と調略で加賀・能登・越中中部まで
楽に火事場泥棒したのに9倍の兵力差で2年も越中中部〜魚津松倉の短い区間で2年も足止めくらう雑魚織田軍じゃ
そっから先の難所越えするなんて無理
278人間七七四年:2012/06/28(木) 11:45:57.76 ID:LrLYVwp3
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。

御館の乱が長引いたのは北条武田葦名伊達の介入のせいであって
死線につぐ死線をもたらしただけの勝頼のおかげで勝ったなどという妄想は到底いえない
279人間七七四年:2012/06/28(木) 14:45:54.41 ID:WU+JvoYc
さすがアスペだが、ゲームに出てこない能登や加賀の一向衆連中をガン無視しているなw
280人間七七四年:2012/06/28(木) 16:40:23.67 ID:hZK9qGAC
一向宗なんて本願寺が和議受け入れて後大した抗戦してないだろ
柴田らが軍向けた様子もないし
ガチンコ戦闘で土井政繁や須田満親・小島らに苦戦してなかなかすすめなかっただけ
天正10年段階ですら小島に富山城奪回されたりしてたし
281人間七七四年:2012/06/28(木) 17:19:25.63 ID:ergcNWbG
よく武田みたいに内部崩壊しなかったよなw
282人間七七四年:2012/06/28(木) 19:55:07.89 ID:Ti+eYmoH
新発田が寝返ってるじゃん
283人間七七四年:2012/06/28(木) 20:10:06.13 ID:hZK9qGAC
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部で足止め食らったのが織田軍
284人間七七四年:2012/06/29(金) 04:33:49.95 ID:0ibYUcCJ
越中は上杉領じゃないし
285人間七七四年:2012/06/29(金) 10:58:01.90 ID:zUMX2ZWb
タイムアタックでもねーのに時間だけはやけに気にするからなだがは
新発田ごときに7年も平定に費やした上杉景勝のことは「ワギガー」とか「ヒデヨシガー」で無視するけどw
286人間七七四年:2012/06/29(金) 11:41:27.53 ID:IWhKxUbi
新発田ごときにってまるで新発田だけを相手にしてたかのように語るアホ
伊達や芦名・織田の支援も考慮できない馬鹿

上杉37万石上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部で足止め食らったのと同列視して考えるとか馬鹿かと

景勝>>>>>>柴田
287人間七七四年:2012/06/29(金) 11:47:56.37 ID:LpMQR0bH
信長死んだことで方針転換した探題の伊達がいきなり
天正11年7/27の書状で新発田と景勝の間の無事を執り行いやって
邪魔してるのがわかるし
そもそも最優先順位が北信濃の徳川、第二が佐々、
第三が上田長尾の本領地に接する北上野で、下郡攻略は後回しにされてる。
だから信濃攻めのせいで下郡出陣延期とかよく出てくる。
しかも天正12年6/27書状では綸旨の勅使下向で納馬せざるおえなくなるなど邪魔ばかり入る。
天正13年には秀吉が尊朝法親王を利用して景勝と
新発田へも長谷三位法眼御房を派遣して戦闘中止させてる。
天正14年にも今度は尊朝法親王経由で越後高田の本誓寺まで利用して
殿下となった秀吉が双方を和睦させようと動いてるし景勝も上洛してる。
さらに秀吉は天下静謐を持ち出して
9月には今度は木村清久を派遣して調停させようとしてる。
新発田にも増田・三成・木村連名書状を出してるし。
しかも新発田を一城に攻め詰めているよしなどと三成らが書いていて
はっきり言って新発田が滅びないように戦闘停止を命じてるとしか思えない。
さらに新発田御赦免之儀とか木村まで直江に言い出す始末。
こんな交渉外交で結局、冬まで時間稼ぎされてしまうし。
(北条と徳川が沼田方面での真田への攻勢を強めていて、
秀吉は新発田と和睦させ上杉に兵を出させようとしていた)
11/4書状において真田に続き木曽や小笠原が家康から離反したことで
秀吉が関東征伐すると公表したら
焦った家康が上洛することが決まり、
やっと秀吉は新発田討伐許可を出すようになる。
天正15年5月出陣し、それに応じて葦名義広も新発田支援へ平田・金上を派遣。
5/7新潟着陣。5/13水原城瞬殺した時「ひとえに謙信様之御守護浅からず」として
逆徒近月中に滅亡すると書いて帰陣してる。
8月に再出陣。それに対応して葦名も小田切宛て書状の中で
鉄砲なども赤谷城へ送ったと書いてる。
9/14赤谷城を落とした上杉軍は帰路を封じて会津軍を壊滅させているのが伊達日記でわかる。
9/19鉄砲衆や馬上衆まで討たれ、やばくなった葦名は
時を移さずすぐに助けてくれ、佐竹義重へも加勢依頼をと白河結城へ援軍派遣の懇願してる。
しかし手遅れで10/23には五十公野城が落ち
10/28に新発田討取りの報告を景勝はしてる
288人間七七四年:2012/06/29(金) 12:01:06.96 ID:yOQha6A7
戦争の長期化なんて弊害をうむだけだからなあ。なるべく避けられるなら避けるべき事。
景勝が新発田を滅ぼすのに時間かかったのは上記のように秀吉の介入と織田・佐々・徳川・芦名・北条との交戦で
忙しすぎただけだしそもそも上杉の国力じゃ多方面全て敵にまわして自在に遠征拡張なんてできるわけないけど
織田軍の対上杉戦は御館の乱と新発田の乱につけこんで9倍もの圧倒的大軍と北陸地元諸侯の派遣やら調略で
楽に火事場泥棒したのに上杉の内戦が終わりだす天正8年半ばから越中中部で2年も費やしているのは苦戦してるとしかいいようがない
まあ普通に見て謙信死後の上杉でも織田家最高峰の柴田よりは遥かに実力が上だったってだけだな
289人間七七四年:2012/06/29(金) 16:37:30.44 ID:EXz2Ez7u
>>288
いい加減なこと書くなよ。
月岡野の戦いでは柴田どころか斎藤利治に謙信の鍛えた精鋭部隊が瞬殺されてるだろうが。
290人間七七四年:2012/06/29(金) 18:25:21.51 ID:zUMX2ZWb
>>286
つまり外敵の支援を断ち切ることすらできない弱小大名が上杉景勝なんですねw

景勝ちゃんが新発田攻めるから他の大名は邪魔しないでーって言ってるんですか?w
信長は三好朝倉浅井武田足利本願寺に邪魔されながら畿内制圧したんですけどねw
291人間七七四年:2012/06/29(金) 18:30:43.95 ID:zUMX2ZWb
大体秀吉はともかく伊達や蘆名に邪魔されたから制圧できませんでしたとか景勝雑魚すぎ

当時の伊達家は大名なのに周辺豪族に拉致された挙句息子に殺された伊達輝宗が
伊達家当主で戦国伊達家四代考えたら一番雑魚かった時期。

蘆名家にいたっては最盛期の当主であった蘆名盛氏がくたばって、
二階堂出身のよそ者当主が再建した挙句近臣に恨み買ってぶっ殺されて、
佐竹さん家から10歳くらいの息子迎えて当主やらせてたくらいの貧弱大名

そんな雑魚すぎる伊達蘆名の妨害すら跳ね飛ばせない景勝は中央畿内なんかいったら朝倉にすら瞬殺される雑魚さ
292人間七七四年:2012/06/29(金) 18:30:46.15 ID:yOQha6A7
はいはいデタラメ乙
月岡野は一次史料で全く証明できず、あくまで太田の伝聞レベル。
明らかに太田が北陸方面の情報に疎いのがここでも露呈。
だから信長の反応が全くなし、実際は調略が成功した程度だろ。
そもそも当時の上杉は家督争いの内乱で武田軍が越後府中に駐留してるは、
北条軍が景勝の本領上田を襲撃する為に氏照と氏邦が越後坂戸城攻撃してる最中で、
越中なんて気にしてられない状況。
しかも織田は一次史料まったく無しの自称最強九鬼水軍の大船を使って
木津川口で毛利水軍を自称大敗させ瀬戸内海制海権を手に入れ
西国方面で絶対優位を確定させていながら、越中での勢力拡大すらできない体たらくw

月岡野www9/24に越中出陣を命じられ、10/4にはすでに帰陣候なのにわずか10日で
安土から飛騨経由で越中を往復して何ができんだよw

いま思いついたレベルの書き込みしかできない織田厨www

謙信だったら織田が数週間で滅ぶんじゃないか
謙信より格下の景勝相手に内乱につけこんで9倍もの圧倒的兵力差で火事場泥棒したら
越中中部〜魚津松倉で二年も食い止められたし
勝頼相手でも発狂があった長篠以外は織田方は上村・三方が原・東美濃攻防とヘタレビビリだったし
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地に発狂して突っ込んでも織田方に6000も被害与えて
9時間も戦い続けられたくらいだしガチンコで勝負したら勝頼にも劣るっしょ
信長自身勝頼を名大将的な評価してるし

また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな

謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな
293人間七七四年:2012/06/29(金) 18:33:38.80 ID:zUMX2ZWb
謙信とか手取川で大勝と大嘘かいておきながら織田信長と勝負しなかったチキンじゃんw

もっとましな擁護はないのかアスペだがwww
294人間七七四年:2012/06/29(金) 18:39:15.96 ID:yOQha6A7
>>290->>291
もう一回>>288-287をよく読みなおせば?

本能寺後
上杉37万石が信濃で徳川・越中で佐々・上野で北条・会津で芦名と対戦
伊達・芦名の支援・秀吉の介入が入る。下越平定は後回し。

本能寺前で
9倍もの兵力差の織田と対陣(織田も海上経由で新発田支援してた)

普通の脳味噌があれば新発田戦長期化なんて当たり前
むしろ9倍もの織田軍相手に越中で2年も釘付け
本能寺後も上野で北条撃破(天正12年8月秀吉書状)
信濃でも徳川方小笠原勢4000を二年連続で撃破(笠系大成・景勝書状など)
最上も十五里が原で撃破
普通に景勝>>>>>柴田だろ
295人間七七四年:2012/06/29(金) 18:42:16.84 ID:zUMX2ZWb
いくら戦果を誇張しても、いくらお家の事情だの言い訳こいても

・新発田重家討伐に7年も要した

という事実は何も変わらないんだがw

挙句撃破とか釘づけとか都合よく書いてるけど結局領地攻め取れたのは雑魚最上くらいで
大半の外征は全部徒労に終わっているという事実wwwただ徒に敵を攻撃しただけで得られたものはほとんどなしwww戦略性ゼロwwww
296人間七七四年:2012/06/29(金) 18:42:44.97 ID:yOQha6A7
>>291
蘆名盛氏って関東屈指の名将佐竹義重に赤館合戦・白川領争奪戦で勝った程の名将なんだが
謙信・景勝ともに敗北してる
御館の乱のときも2回攻め込んで2回とも撃退されてる
297人間七七四年:2012/06/29(金) 18:45:04.76 ID:yOQha6A7
>>295
お前のアホな論法は三木や徳川を織田が20年かけても滅ぼせなかったというのと同じ
最初から別の敵と戦ってたり他勢力の介入で討伐しなかっただけ
滅ぼそうと行動したら即効で蘆名もろとも叩き潰してる>>287
298人間七七四年:2012/06/29(金) 18:46:30.08 ID:zUMX2ZWb
>>296
新発田重家が反旗翻した時は蘆名盛氏もう死んでるし、
そもそも蘆名家全体で見れば最盛期だったというだけで盛氏本人の器量も特に晩年はお察し。

所詮中央で陣取る織田信長や豊臣秀吉の敵ではなく、つか仮に謙信や景勝が彼らに勝てる実力を持っているなら
ハナから信濃や上野にいくことなく中央で大戦始めればいいだけの話。寿命を言い訳にできない分、景勝はさらにお察しだがなw
299人間七七四年:2012/06/29(金) 18:47:59.97 ID:zUMX2ZWb
>>297
で、三木や徳川は織田に反旗を翻そうとしていたんですかね?w
過去の苦痛なんてそのまま忘れ去っておけばよかったものをw

まさか信長は敵対行動をとってすらいない、味方の三木や徳川も攻め滅ぼすという
基地外行動をしろ、なんて言わんよなだが?w
300人間七七四年:2012/06/29(金) 18:48:43.54 ID:yOQha6A7
>>挙句撃破とか釘づけとか都合よく書いてるけど結局領地攻め取れたのは雑魚最上くらいで
木曽・小笠原・真田は直接上杉に従ったわけではないが上杉の遠征の結果
徳川方は北信への拡張が滞り秀吉に帰参
秀吉も比類なき手柄とか褒めてる
佐渡・北信濃もちゃんと領土化して会津異封前で90万石まで回復
>>雑魚最上
ソースなし
301人間七七四年:2012/06/29(金) 18:54:33.05 ID:yOQha6A7
>>298
盛氏が義重に勝って「戦ほどおもしろきものはなし」と豪語したのは晩年の事なんだが。
会津一円に加えて下野や越後の一部まで版図広げた上に南奥州連合形成して広大な源氏勢力圏を築いている

>>所詮中央で陣取る織田信長や豊臣秀吉の敵ではなく、つか仮に謙信や景勝が彼らに勝てる実力を持っているなら
>>ハナから信濃や上野にいくことなく中央で大戦始めればいいだけの話。寿命を言い訳にできない分、景勝はさらにお察しだがなw
意味不明
>>299
何がいいたいかわからん
他方面への遠征を優先してたという事の例としてあげてるだけなのに
敵対行動を例にあげるとか意味不明
とりあえず多方面を同時に敵に回し秀吉の介入がありながら>>287
景勝が新発田攻めに全力で取り掛かれたという根拠をどうぞ
302人間七七四年:2012/06/29(金) 18:58:06.54 ID:zUMX2ZWb
>>301
おまえマジでアホなんだなwww
ゲームじゃあるまいし戦国大名なんてどこかの勢力うかがいながら
また別の勢力を攻め取るなんて日常茶飯事、別に景勝に限ったことじゃない。

景勝が新発田を攻め取れなかったというのなら、それが景勝の実力
「他の家がー」とかただの言い訳

>>他方面への遠征を優先してたという事の例として

ほとんど戦果のなかった遠征を挙げても全く意味がない。
むしろ戦略度外視して方々に攻めた景勝の無能さが際立つだけ。
303人間七七四年:2012/06/29(金) 19:00:44.95 ID:zUMX2ZWb
>>所詮中央で陣取る織田信長や豊臣秀吉の敵ではなく、つか仮に謙信や景勝が彼らに勝てる実力を持っているなら
>>ハナから信濃や上野にいくことなく中央で大戦始めればいいだけの話。寿命を言い訳にできない分、景勝はさらにお察しだがなw

結局これに何一つまともな反論を返せないアスペだが

まあ当然だ、できることはやるのが戦国時代。ましてや中央情勢の介入なんて足利義昭が六角宗房通じて嫌と言うほど要請している。
「信長や秀吉も倒せたけどやりませんでした」はただ自分の無能さをアピールしているだけ。
そのせいで信長に滅ぼされかけ、秀吉に臣従しているんだから話にならない。
304人間七七四年:2012/06/29(金) 19:00:54.58 ID:yOQha6A7
>>302
おまえマジでアホなんだなwww
ゲームじゃあるまいし戦国大名なんてどこかの勢力うかがいながら
また別の勢力を攻め取るなんて日常茶飯事、別に景勝に限ったことじゃない。

信長が今川氏真を攻め取れなかったというのなら、それが信長の実力
「他の家がー」とかただの言い訳

>>他方面への遠征を優先してたという事の例として

ほとんど戦果のなかった上村合戦や三方が原を例にあげても意味がない
むしろ戦略度外視して方々に攻めた信長の無能さが際立つだけ
305人間七七四年:2012/06/29(金) 19:02:10.09 ID:yOQha6A7
>>303
何がいいたいのか意味不明
日本語でよろ
306人間七七四年:2012/06/29(金) 19:03:50.82 ID:zUMX2ZWb
ぷぷぷwwww悔しがってコピペ返しwwwwだからおまえはアスペって言われるんだよwwww


信長が今川や武田を放置したのは畿内中央情勢に介入するため
実際信長はそれを徹底して畿内に一大勢力を築き上げ天下に最も近い存在になった。

で、景勝はそれができたの?wwww
新発田を7年も放置して、得た対価はなんだ言ってみろwww

徳川に勢力を追われた豪族を引き取り、最上からなけなしの領地を得て、秀吉に臣従したという惨めな結果しかねーくせにw
307人間七七四年:2012/06/29(金) 19:08:28.85 ID:yOQha6A7
ぷぷぷwwww悔しがってコピペ返しwwwwだからおまえはアスペって言われるんだよwwww


景勝が新発田を放置したのは信濃・上野・越中情勢に介入するため
実際景勝はそれを徹底し上野で大版図へ拡張しつつあった北条へ楔を打ち込み
同じく信濃でぐいぐい北信してた徳川も見事に頭打ちにさせ小牧長久手時も徳川領国に
ほとんど兵力を残留させ、秀吉の天下取りに大きく貢献した。

で、信長はそれができたの?wwww
徳川・武田・三木を20年今川氏真を10年も放置して、得た対価はなんだ言ってみろwww

三好に勢力を追われた豪族を引き取り、足利将軍からなけなしの領地を得て、光秀に殺されたという惨めな結果しかねーくせにw
308人間七七四年:2012/06/29(金) 19:15:19.09 ID:zUMX2ZWb
さすがアスペだが酷すぎワロタwwwww

秀吉の天下取りの波に乗ると言うせこい功績を指して景勝を持ち上げ
畿内800万石という上杉家の10倍以上の領土を「なけなし」と表現する無能さwww

織田をこき下ろしたい気持ちは十二分にわかってるけど相手が悪いからやめとけwww


織田は信長殺されてもその遺徳で織田信雄らが10万石で生き残って直系子孫が明治時代まで生き延びているような勝ち組強者

かたや上杉景勝は秀吉の威光で120万石も領していながら関ヶ原でフイにして30万石まで減らされ、挙句子孫は孫の代で断絶して
無継嗣改易処分になりかけのところを吉良家に乗っ取られると言う救済で存続した負け組wwww


どうあがいても景勝では信長には勝てませんwww
309人間七七四年:2012/06/29(金) 19:18:36.85 ID:zUMX2ZWb
大体くさびを打ち込むとか兵力をひきつけるとかやることがせこすぎwww
戦国大名のくせに敵を滅ぼすことも一丁前にできず、せこいことしかできないのが景勝www
唯一滅ぼしたのは太閤の援助を貰ってやった新発田征伐だけwww

無能大名はやることが違いますなwwww
310人間七七四年:2012/06/29(金) 19:28:44.65 ID:yOQha6A7
>>唯一滅ぼしたのは太閤の援助を貰ってやった新発田征伐だけwww
いや逆。単独でいつでも滅ぼせたけど秀吉の介入やら他の敵との対戦に終われてただけ
あと滅ぼすとか滅ぼされるとかにそんなに意味があるなら織田は本能寺で光秀・信忠・信長が殺され家臣も好き勝手に行動し
実質滅亡。豊臣も滅亡してる
>>大体くさびを打ち込むとか兵力をひきつけるとかやることがせこすぎwww
兵力が少なくて全方面敵に回して徳川(小笠原)も蘆名も北条も撃退してるんだから敢闘だろ
>>秀吉の天下取りの波に乗ると言うせこい功績を指して景勝を持ち上げ
天下取りの波にのったというより秀吉が他大名同士の交戦関係を利用しまくって
天下の地位を火事場泥棒しただけ
秀吉なんて毛利宇喜多大友木曽佐竹大友十河河野上杉蘆名など敵の敵のおかげで勝っただけだし
こっちのがよっぽどせこい
上杉は御館の乱で家中2分&織田の圧倒的大軍の攻勢&伊達蘆名北条武田の出兵状況で内乱勝ち抜き
そのままの流れで北陸火事場泥棒されたのに越中中部で2年も食い止め
本能寺後も5000程度の兵力で越中信濃下越上野会津と全方面的に回して敵を撃退してるからね
結局90万石→120万石に拡張したのも秀吉の天下取りに大きく貢献したってだけの話だし
311人間七七四年:2012/06/29(金) 19:30:45.35 ID:0ibYUcCJ
>>307
>徳川・武田・三木を20年今川氏真を10年も放置して、得た対価はなんだ言ってみろwww

天下じゃね?

>三好に勢力を追われた豪族を引き取り、足利将軍からなけなしの領地を得て、光秀に殺されたという惨めな結果しかねーくせにw

秀吉、家康と信長の配下が継承してるじゃん
312人間七七四年:2012/06/29(金) 19:33:56.55 ID:0ibYUcCJ
>>310
本能寺の変が数ヶ月後ろにずれてたら滅んでたんじゃね?
あとは信忠が死ななかったりしても滅んでそう。
313人間七七四年:2012/06/29(金) 19:34:08.88 ID:JYKIsDbV
秀吉は織田家を簒奪しただけで継承はしてないだろ
家康も織田家でもなんでもないし
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。

多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。

※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。

また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
314人間七七四年:2012/06/29(金) 19:35:00.54 ID:JYKIsDbV
清洲会議前後からの各人の敬称

蓮成院記録
三七殿(信孝)・御茶筅様(信雄)
多聞院日記
御本所(信雄)・三七(信孝)・上野殿(信包)
筒井は大和一円、筑州一円入魂
※丹波一円が織田秀勝へ渡されたとレスする人がいるが
これはどの一次史料から?
織田秀勝は丹波亀山城しか与えられてないのでは?
しかもいつの間にか羽柴秀勝が丹波亀山城主に摩り替えられていて怪しい。
また信孝死亡後に、信雄から三法師に家督が返却されたとするソースは?

イエズス会日本報告集
御本所殿(信雄)・三七殿
諸国の大半を我が物としたのは羽柴筑前殿である。

7/3
信孝が本能寺を信長墓所とする書状を本能寺に出す。
8/11秀吉→丹羽
若子様(三法師)がまだお越しにならないのは普請等ができてないからだ。
その分を聞いたので、その方は近いのであるから、自分のトコの普請を後回しにして
安土の普請を仰せ付ける。参らなければ油断と存す。さようになれば
その方も我らも外聞が悪くなる。こちらも山崎の普請を中断して安土へいく。
坂本で詳しくは会談しよう。
三七殿より言われたように美濃と尾張の国境を木曽川にする

信雄が発給する文書は「三介信雄」「信雄」もしくは印や花印だけで署名なし。
しかし8/26付け木曽宛の信孝文書には突如「織田三七郎信」と署名する信孝。
また文中では信雄を「三介へも申し遣べく事」と呼んで、家康への援軍を出そうと思ったが
相州勢を包囲して勝利眼前とのことだから止めた。かわりに尾州から兵をだすと書いてる。

8/14・15の信雄の堀や丹羽宛書状には千福遠江守が旧領復帰して
若君様への奉公ができるよう頼んでいる。


315人間七七四年:2012/06/29(金) 19:36:13.94 ID:0ibYUcCJ
>>313
継承しとるよ。
信長の配下として戦った武将、大名のみが、信長の死後天下を争っている。

つまり、信長がいなければ、これらの武将たちは天下争いすらできない存在。
316人間七七四年:2012/06/29(金) 19:42:04.85 ID:JYKIsDbV
9/3柴田→丹羽  若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)

三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。 我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。
秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか
10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから 清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。
そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が
言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある)
名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので
御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。
信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
317人間七七四年:2012/06/29(金) 19:45:21.36 ID:E6iEKDrF
10/6 柴田→堀 秀吉批判の書状
清洲において誓った置目の条々に相違している。仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。
四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが 御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。
誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して
信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。
10/22秀吉→下間 明智を討ち天下静謐にし、若子を取り立てあい極め、誓詞をたくさん出したが
相違候。若子安土へ上国のところ、押し留めることは是非に及ばず。芳情忘れ難く信長の葬儀をしたところ、かえって、各人が愚かな考えで分別できてない。
しかし五畿内の悉くから人質を取ってる。
10/28 丹羽・池田らが入洛し秀吉が信雄を家督に据える。
11/1付け秀吉→石川数正 上様の仇を討ち、国々に固く申しつけ安堵しようと思っていたところ
一年も(織田主君)あい立てず。かようなことを申す悪心の輩が出来て外聞が悪く迷惑だ。
柴田の所業をもって三七殿が謀反を企てているので、丹羽・池田と語らって三介殿を御代にあい立てる。
イエズス会日本報告集 羽柴はただちに山崎や都から三里の八幡に強固な城を築いたので
柴田と三七殿は大いに懸念し、彼に使者を送り、当初の約束では
三者対等であったはずなのに、彼は天下の絶対君主となる素振りを見せている。
すぐ二城を破壊しなければ春には彼を滅ぼすと伝えた。
秀吉はそれに対して、望むところだ。誰が天下の主になるかは、各自の腕で決まることだろうと返答した。
そして岐阜の町を包囲し三七殿は羽柴の慈悲を乞い、母と娘と家中の子弟と信長の孫を人質に取った。
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
318人間七七四年:2012/06/29(金) 19:46:41.24 ID:E6iEKDrF
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが
すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。
>>315
上記のような状態なのに継承とか言われても。
好き勝手やる名目棟梁として織田家などという体勢装ってただけじゃないか
秀吉も豊臣名乗ってるし秀信に実権も返さないし小牧長久手のときも名目として織田家としてなぞとは名乗ってないし
家康も徳川だから織田の配下でもなんでもない
>>312
越中中部で2年も足止め食らってるのに数ヶ月で滅ぶとかいわれても。
319人間七七四年:2012/06/29(金) 19:46:54.49 ID:zUMX2ZWb
信長死後の覇権争いなんて性急すぎた信孝が暴発したのが原因で
ほとんどの織田家一門は秀吉と友好的なまま終わっている。
信長葬礼ですら信長の息子である於次、御長丸が参加している。

結局信長死後に織田家臣の佐々成政ですら「信長様の頃のように天下を治めているけど万端を秀吉がやってるようじゃな」と言われるくらいに
織田家そのものの求心力の低下が一番の衰退要因で、たまたまそれに秀吉の台頭がのっかって朝廷が意を決して秀吉に実権を保証した。

だから織田家は存続しているし豊臣と違って長々と末代までお家を残しているわけで
「簒奪」なんて不勉強なことを言っている時点で妄言家の汚名はいつまでも残るよアスペだが
320人間七七四年:2012/06/29(金) 19:47:23.61 ID:0ibYUcCJ
ああ、織田家は継承してないよ
そもそも、織田家は信忠だしな。

信長を継承してる な。
321人間七七四年:2012/06/29(金) 19:49:19.40 ID:zUMX2ZWb
>>310
だから食い止めも釘づけもなんの戦果になってないって言ってるんだがw

食い止めにしろ釘付けにしろ拮抗している時点で相手も動かないけどこっちも動けないんだから当たりまえw
差引軍事ではプラマイゼロだが、総合で見ればただ軍を動員した戦費だけが残ると言うむしろマイナス要因でしかないんだがw
322人間七七四年:2012/06/29(金) 19:49:46.30 ID:0ibYUcCJ
>>318
そもそも信長は織田家を信忠に譲ってるだろ

織田家を継承 とか、自分で入れた文言に過剰反応されても困るわ
323人間七七四年:2012/06/29(金) 19:52:39.30 ID:zUMX2ZWb
そもそも織田の実権は織田秀信や織田信雄といった織田家全体で見れば寸分も動いていない。
ただ当主扱い、厚遇されてたのが織田秀信と織田信雄の間でいったりきたりしているだけで織田家の実権そのものはそのままある

秀吉が大手を振るって天下統一できたのは朝廷の権威保障と高官下賜の賜物で
これは織田家のおかげでもなんでもなく秀吉個人の織田家の再構築の才能実績が認められたからに過ぎない。
324人間七七四年:2012/06/29(金) 19:55:04.31 ID:qu7fcgBW
>>321
寡兵で圧倒的大軍を食い止めたり釘付けにするなんて普通の互角の力量では無理
戦争では兵力の多寡が圧倒的に物をいうし戦力比は兵力比の2乗に比例する
>>食い止めにしろ釘付けにしろ拮抗している時点で相手も動かないけどこっちも動けないんだから当たりまえw
拮抗なんてしてない
上杉は動員兵力5000程度で全方面敵
織田は越前加賀能登越中飛騨美濃40000〜45000の大軍で北陸戦線集中
普通に須田や土肥や小島に苦戦しまくって戦線膠着してただけ。天正10年でも富山奪回されたりしてたし
御館の乱でも伊達蘆名北条と撃退されてるし
徳川方小笠原4000や蘆名義広や北条も普通に撃退されてる(秀吉書状・笠系大成など)
325人間七七四年:2012/06/29(金) 19:55:55.09 ID:0ibYUcCJ
>>323
権威保障もあるが、生き残った信長は以下の武将の信任を得た事のほうが大きいだろうな
326人間七七四年:2012/06/29(金) 19:58:15.54 ID:qu7fcgBW
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬

小牧長久手の戦いは7倍もの圧倒的兵力差がありながら
短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと
長久保奪われ神戸も奪われ蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却
秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に苅田や放火の応酬を行って
示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に
朝廷への急速な接近をしていくのは近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記>>18と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
また豊臣政権の政権基盤の弱さを象徴するのが外様大名の広域な版図だな
それも当たり前。軍事力で屈服させたわけじゃなく惣無事令通達による停戦で平定しただけなんだから
トップが死ねばあっと言う間に政権が崩れるなんて誰の目にも明らか
327人間七七四年:2012/06/29(金) 20:01:02.37 ID:o2V617ZB
秀吉が織田家を再構築(笑)
信雄改易・信孝殺し。秀信に実権返さず豊臣姓名乗って織田家のしがらみから解放されて天下奪い取っただけじゃねぇかw
328人間七七四年:2012/06/29(金) 20:01:51.40 ID:zUMX2ZWb
>>324
でその撃退や膠着で何か景勝にとってプラスになってることはあるの?w
織田軍を釘付けにしたと言っても致命傷がなければそのまま織田は長々と軍を置き続けるだけ。
余裕こける織田北陸軍と違って上杉は四方八方敵だらけでどっちが先に崩れるかは火を見るより明らか

敵を追っ払った、なんて言っても相手に犠牲を与えてなきゃ金がかかった、で終わり
そこから上杉の利益なんて出ようはずもない
329人間七七四年:2012/06/29(金) 20:04:11.85 ID:zUMX2ZWb
織田信孝殺したのは織田信雄、すぐアンチは秀吉の陰謀だって捏造するがソースは1つもない
織田信雄の改易はやや酷なところもあるが結局信雄は息子に領地与えられて待遇自体は依然と変わらず重用されっぱなし。
織田秀信に返す実権は織田家の統治権だけ、秀吉が織田の枠組みを出て統治しろと言ったのは朝廷であり天皇。

天皇の裁可や日本国の統一より織田家の連中を優先しろというのがいかにもアホなだがの考えそうなことだなw
330人間七七四年:2012/06/29(金) 20:04:59.71 ID:o2V617ZB
>>328
そこまで敢闘してたから本能寺の変で救われたし
本能寺後も周辺勢力相手に敢闘して退けたりしてたから秀吉から120万石与えられたんだから結果からいえばあったでしょ
別に結果からみてどうこうなんて大して意味のある事とも思わんけど
331人間七七四年:2012/06/29(金) 20:07:33.34 ID:zUMX2ZWb
>>330
本能寺の変は明智光秀が独断で起こしただけで景勝は何もしてねーだろw
武田信玄が駿河取ったのを織田信長の功績にするのと同レベルw

秀吉から120万石貰っても結局それを関ヶ原でフイにして30万石まで減らされてるという学習能力のなさ。
景勝本人の実力ではなく完全に状況に助けられているだけ。
332人間七七四年:2012/06/29(金) 20:09:55.15 ID:o2V617ZB
>>秀吉が織田の枠組みを出て統治しろと言ったのは朝廷であり天皇。
秀吉自身天皇や朝廷に接近しまくって高い地位手に入れただけだから秀吉が狙ってそういう状況つくっただけ
>>織田信雄の改易はやや酷なところもあるが結局信雄は息子に領地与えられて待遇自体は依然と変わらず重用されっぱなし
いちゃもんつけて攻め込んで苦戦したから和議結んだかと思えば尾張も奪いとって改易
とても主筋に行うべき行動ではない
>>織田秀信に返す実権は織田家の統治権だけ
主君が秀信なんだから秀吉は織田家当主秀信に実権戻すのが道理
それをしてない時点でただ織田を利用するだけ利用して奪い取っただけというのがミエミエ
333人間七七四年:2012/06/29(金) 20:10:01.72 ID:0ibYUcCJ
信長も、織田家の家督を早くに信忠に譲ってるし
信長は織田家としては動かずに天下人として統治している
334人間七七四年:2012/06/29(金) 20:11:07.12 ID:0ibYUcCJ
>>330
まあ確かに、景勝は謙信よりも名将だよね
335人間七七四年:2012/06/29(金) 20:12:26.72 ID:o2V617ZB
>>331
本当に頭悪いなお前
お前のアホレス
>>その撃退や膠着で何か景勝にとってプラスになってることはあるの?
これに対する答えが
>>そこまで敢闘してたから本能寺の変で救われたし
>>本能寺後も周辺勢力相手に敢闘して退けたりしてたから秀吉から120万石与えられたんだから結果からいえばあったでしょ
これ。結果として織田軍に対する敢闘が意味あったかどうかの問題なのに
本能寺の変が起こらなかったらどうとか意味不明
336人間七七四年:2012/06/29(金) 21:06:58.70 ID:zUMX2ZWb
>>335
おまえまさか「織田軍が撤退した」というだけで景勝のプラスになるとか寝言言う気か?
織田信長本人は殺されたが景勝と戦っている織田北陸軍はほぼ無傷で帰還しているんだぞ。

柴田や前田がたまたま慎重的な考え方で上杉に手を出さなかったからこその生還であって、
そのまま織田家の主導を柴田が握っていれば上杉再征伐も十二分にありうるんだがw

明智光秀という縁もゆかりもない赤の他人の功績で相撲を取るのか上杉景勝はw
そんな他人の功績をアテにする人間と張り合うほど信長は落ちぶれてはいないぞw
337人間七七四年:2012/06/29(金) 21:10:08.75 ID:zUMX2ZWb
結局上杉景勝の織田軍に対する利益は全て明智光秀や羽柴秀吉頼みで
景勝本人は大した利益もなくただ状況に助けられていたという四流武将。

結局そんな静観的、狡猾的な方法で利益をせしめていたからこそ
中央で情勢を牛耳ることもできず、関ヶ原で4分の1まで利益を減らされるという大失態に繋がるんだろ
338人間七七四年:2012/06/29(金) 21:36:22.88 ID:o2V617ZB
>>336
>>柴田や前田がたまたま慎重的な考え方で上杉に手を出さなかったからこその生還であって、
9倍もの兵力差&内乱で自壊した所を調略しまくったのに越中中部で2年も食い止められてたんだから
慎重的な考え方も糞もない
純粋に手出してもかまれるだけだろ
須田のいた松倉城なんて大軍に囲まれてもびくともしなかったし
>>そのまま織田家の主導を柴田が握っていれば上杉再征伐も十二分にありうるんだがw
そんな妄想いわれても

>>結局上杉景勝の織田軍に対する利益は全て明智光秀や羽柴秀吉頼みで
織田はどうかしらんが秀吉は上杉と徳川北条佐々の交戦を利用して漁夫の利を得ただけ
他にも北条の同盟者佐竹やら長宗我部と交戦するため毛利やら十河宇喜多河野大友やら敵勢力の敵利用しまくって
漁夫の利を得ただけ。しかし其の状況ですら苦戦しまくり
他勢力頼み一辺倒なのはどうみても秀吉
>>景勝本人は大した利益もなくただ状況に助けられていたという四流武将。
9倍もの兵力差&内乱で自壊した所につけこまれても越中中部で2年足止めしたんだから織田家最高峰柴田より格上
御館の乱でも家中2分&武田北条伊達蘆名がこぞって国内出兵してくる状況で勝ち抜いたんだから
状況に助けられただけではなく絶望的な状況・死線につぐ死線を何度もひっくり返したってのが正解
339人間七七四年:2012/06/29(金) 21:39:05.80 ID:o2V617ZB
×北条の同盟者佐竹
○北条の敵対者佐竹
340人間七七四年:2012/06/29(金) 22:26:39.16 ID:+Fi8EVD2
謙信>>>柴田=景勝>滝川・明智=本庄>須田=佐々
>山浦=宮部・日根野・木造>>>>>直江=蒲生>>>>>>>>
>>>>信雄=上杉憲政>>>>>>>>>秀吉

こんなもんじゃね
341人間七七四年:2012/06/29(金) 22:52:08.83 ID:+Fi8EVD2
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
342人間七七四年:2012/06/29(金) 22:56:23.77 ID:jq2p4wr1
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
343人間七七四年:2012/06/29(金) 23:00:56.14 ID:sVVSIDdD
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
344人間七七四年:2012/06/29(金) 23:26:29.41 ID:zUMX2ZWb
>>338
2年も食い止めた、って全くアテにならん。信長止めたのならまだしも柴田。
結局柴田を潰さないと物量さで負けるのは目に見えている。
早く負けるか遅く負けるかの差でしかない。

そんな状況を打破したのは誰?景勝?違うよな明智光秀だよなw
景勝は何もできずに春日山城でブルってただけだよな?w

虚しく自演してはコピペ張ってるけど結局

・上杉景勝は新発田討伐に7年もかかった

・上杉景勝は独力で織田軍を倒すor撤退させることはできなかった

この二点が覆らない限り景勝に勝ち目はないw
345人間七七四年:2012/06/29(金) 23:30:29.74 ID:zUMX2ZWb
そもそも何が「死線をひっくり返した」だよw
その死線を好んで作ったのは他ならぬ景勝本人

上杉景虎との跡目争いにも武田を和平させるという下手外交を行い
蘆名や伊達につけ込まれる内乱という隙を作ったのは景勝。

自分の借金をチャラにしただけで功績扱いとか安い評価採点だなw
346人間七七四年:2012/06/29(金) 23:58:40.76 ID:sVVSIDdD
>>344
魔法じゃあるまいし9倍もの兵力で逆転撃なんてよっぽど幸運か相手が間抜けじゃない限り無理だろ
謙信の死後天正6年から御館の乱この後越後領内で内戦が天正8年半ばまで続き
この間織田方は佐々長縄・神保長住・長連龍といった地元諸侯の派遣と
柴田の加賀攻撃と飛騨口からも斉藤やら金森やらが派遣され
上杉の内戦終結の天正8年半ばまでには元々攻め取ったばかりで支配もままならない能登や越中諸侯は次々に織田方へ帰参
しかし富山城攻撃したはいいがここから先全然進めていないな
天正10年段階ですら小島に富山城奪いかえされ須田にも松倉で大苦戦
やっとこさ景勝が武田滅亡による信濃介入のために軍派遣した隙をついて4万〜4万五千もの圧倒的大軍で
わずか数千そこそこの魚津を居留守泥棒的に攻めただけ
しかも森も北信濃で上杉に長沼城奪回されてるし軍記引用ありなら滝川も三国峠越えで撃退されてるし普通に大苦戦でしょ

>>・上杉景勝は新発田討伐に7年もかかった
だから状況無視でそんなもんが根拠になるなら
信長が武田討伐に20年もかかった。今川氏真討伐家康に任せきりで全くできなかった。
三木も徳川も20年かかっても潰せなかったとかいうのと何も変わらんだろうがw
347人間七七四年:2012/06/30(土) 00:18:23.54 ID:+1BlYlQE
>信長が武田討伐に20年もかかった。

信長が本格的に力を入れた瞬間、瞬殺してね?
348人間七七四年:2012/06/30(土) 00:22:58.44 ID:MnFJLcpA
酷な真実だな
349人間七七四年:2012/06/30(土) 00:23:46.39 ID:aFkYwhJs
新発田も本格的に力を入れだしたら瞬殺されてるしなあ
信長死んだことで方針転換した探題の伊達がいきなり
天正11年7/27の書状で新発田と景勝の間の無事を執り行いやって
邪魔してるのがわかるし
そもそも最優先順位が北信濃の徳川、第二が佐々、
第三が上田長尾の本領地に接する北上野で、下郡攻略は後回しにされてる。
だから信濃攻めのせいで下郡出陣延期とかよく出てくる。
しかも天正12年6/27書状では綸旨の勅使下向で納馬せざるおえなくなるなど邪魔ばかり入る。
天正13年には秀吉が尊朝法親王を利用して景勝と
新発田へも長谷三位法眼御房を派遣して戦闘中止させてる。
天正14年にも今度は尊朝法親王経由で越後高田の本誓寺まで利用して
殿下となった秀吉が双方を和睦させようと動いてるし景勝も上洛してる。
さらに秀吉は天下静謐を持ち出して
9月には今度は木村清久を派遣して調停させようとしてる。
新発田にも増田・三成・木村連名書状を出してるし。
しかも新発田を一城に攻め詰めているよしなどと三成らが書いていて
はっきり言って新発田が滅びないように戦闘停止を命じてるとしか思えない。
さらに新発田御赦免之儀とか木村まで直江に言い出す始末。
こんな交渉外交で結局、冬まで時間稼ぎされてしまうし。
(北条と徳川が沼田方面での真田への攻勢を強めていて、
秀吉は新発田と和睦させ上杉に兵を出させようとしていた)
11/4書状において真田に続き木曽や小笠原が家康から離反したことで
秀吉が関東征伐すると公表したら
焦った家康が上洛することが決まり、
やっと秀吉は新発田討伐許可を出すようになる。
天正15年5月出陣し、それに応じて葦名義広も新発田支援へ平田・金上を派遣。
5/7新潟着陣。5/13水原城瞬殺した時「ひとえに謙信様之御守護浅からず」として
逆徒近月中に滅亡すると書いて帰陣してる。
8月に再出陣。それに対応して葦名も小田切宛て書状の中で
鉄砲なども赤谷城へ送ったと書いてる。
9/14赤谷城を落とした上杉軍は帰路を封じて会津軍を壊滅させているのが伊達日記でわかる。
9/19鉄砲衆や馬上衆まで討たれ、やばくなった葦名は
時を移さずすぐに助けてくれ、佐竹義重へも加勢依頼をと白河結城へ援軍派遣の懇願してる。
しかし手遅れで10/23には五十公野城が落ち
10/28に新発田討取りの報告を景勝はしてる。
350人間七七四年:2012/06/30(土) 00:27:10.97 ID:MnFJLcpA
攻撃するまでにもたついた揚句5か月もかけていては瞬殺とは言えんなぁ
351人間七七四年:2012/06/30(土) 00:29:50.33 ID:+1BlYlQE
長文うぜぇよ いい加減にしろ
352人間七七四年:2012/06/30(土) 00:57:52.08 ID:aFkYwhJs
そら武田攻めみたいに圧倒的大軍があったわけでも
寝返りの連鎖ばかりになったわけでもなく
北条徳川と共同で攻めたわけでもなく
浅間山噴火に見舞われたわけでもなく
蘆名・新発田両方相手にしてたんだから一ヶ月そこそこで滅ぼせるわけないじゃん
いざ攻撃したら水原城瞬殺
赤谷合戦で会津勢瞬殺
その後一月そこそこで新発田滅亡なんだから瞬殺といっていいだろ
353人間七七四年:2012/06/30(土) 01:12:21.41 ID:+1BlYlQE
地方豪族になに手間どってんのって事だよな
354人間七七四年:2012/06/30(土) 07:25:07.72 ID:JvOwOmU5
北朝鮮がアメリカに圧倒的兵力差がありながら滅ぼされないのは俺が強いからだと言ってるようなものだな
先代が心の拠り所という点も似てるんだな
355人間七七四年:2012/06/30(土) 08:00:35.56 ID:VYVibsOX
新発田に手を焼いたのは事実だが、秀吉が和睦させたりしているので単純に七年かかったという話じゃない。
景勝も本能寺の変後は新発田より信濃や越中方面に力入れてるし、新発田が暴れていても上洛したりしているので
余裕は持って対応している。
356人間七七四年:2012/06/30(土) 09:35:41.21 ID:aFkYwhJs
新発田になんか実際手を焼いてないしな
本庄や色部ら揚北衆が新発田攻め渋った上に鮎川が裏切ったりして序盤は討伐できなかっただけで
天正11年に八幡表の戦いで新発田は駆逐されてその後何の脅威もなくなって
秀吉の介入により信濃や上野や越中に出陣して永らえただけなのが新発田
天正15年に本腰入れて出兵されたら瞬殺
9倍もの国力差がありながら内乱で自壊した上杉領を火事場泥棒したのに
土肥・小島・須田に苦戦しまくって越中中部で2年も足止め食らった新発田の方がよほど問題がある
こんなんが織田家トップクラスの武将なんだから
357人間七七四年:2012/06/30(土) 11:50:05.29 ID:VYVibsOX
0か100かの話をしても意味がない。
揚北衆が動かないのも含めて手を焼いたと言っていい。
上杉の方が雑魚だとか、柴田のほうが問題とかそういうのはくだらない議論。
358人間七七四年:2012/06/30(土) 11:53:24.27 ID:MnFJLcpA
>>353
しかも先代からの上杉家臣だからな。
織田信長が造反した織田信勝を討ったから凄いって言ってるようなもの
359人間七七四年:2012/06/30(土) 12:11:17.41 ID:aFkYwhJs
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。

ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
360人間七七四年:2012/06/30(土) 17:28:49.43 ID:IEAlw76H
>>347
だよねw
チョロチョロと蝿みたいにうざい武田軍を長篠の戦で粉砕して
甲州征伐で本腰入れて潰しにかかったらほとんど何もする事なく
一ヶ月足らずで内部瓦解www
361人間七七四年:2012/06/30(土) 19:43:48.19 ID:+1BlYlQE
長篠のすごさは勝頼を引きずり出して決戦を強要させたことじゃね?

信長が、自軍の3倍の兵で出てきたのを知ってたら、普通は決戦を回避するもんなぁ
362人間七七四年:2012/06/30(土) 21:07:58.76 ID:PTfMnZVq
>361
そこなんだおね。
退路を断つまでは信長が引きずり出されたんだけど、いつのまにか逆転されてたんだよね。
363人間七七四年:2012/06/30(土) 21:35:40.98 ID:GmIFcDXX
愚問ですまんが御館の乱にでてくる斎藤朝信て上杉で何してた人なん?
越後のショウキてあだ名は聞いたけど詳しく知りません。アガキタ州みたく強いの?直江影綱みたく頭いいの?人材的にはどんな評価だったのかな、と気になったので、こういう所なら上杉に詳しい人いると思ったんで、スレ違いすみませぬが教えてくだされ。
364人間七七四年:2012/07/01(日) 00:40:56.24 ID:CEvprsmL
直江影綱が頭いいとかいう話は聞いたことないが
365人間七七四年:2012/07/01(日) 01:57:23.79 ID:zVI9Xcq/
手取川で勝った時の上杉の状況って武田で言うなら三方が原?
それとも高天神?
366人間七七四年:2012/07/01(日) 02:05:04.91 ID:x2lNap1J
それ以下じゃね
信玄の時は万に一つ奇跡レベルの勝ち筋があったが
謙信の時はもう盤石すぎて信長急死でもなければ織田に勝てない状況
367人間七七四年:2012/07/01(日) 04:39:35.19 ID:CEvprsmL
つか、本当に戦いがあったか怪しいレベル
368人間七七四年:2012/07/01(日) 10:03:52.23 ID:KxrjUzET
>>363
アホ無知の織田厨ではまともな回答は帰ってこないだろうから
俺もあまり上杉には詳しくないが回答しておいてあげよう。

斎藤朝信は謙信が二度目の上洛によって相判衆に就任したのを契機として
謙信政権に参加した。自らの城下町を持ち(柿崎景家・北条高広)
北条高広と同様に独自に判物を発給していた国人衆。
永禄2年12/26の長尾家奉書に長尾藤景・柿崎景家・北条高広と共に署判している。
それ以前の署名者は松本景繁・長尾景憲・直江実綱・吉江長資・本庄宗緩であった。

越後がまったく統一されていない状況下で、信玄・氏康らの北上の脅威に対して
一国の公権力として自立した戦国領主を政権下に取り込んでいく過程がわかる。
この事実は永禄3年になって謙信にとって3/26初の越中出兵(信玄が神保氏を後援して椎名氏を討たせていた)
この時に越中での出兵において神前筑前拘領太田上郷道場・寺家・同門前での越後軍の狼藉禁止の禁制を
北条と斉藤の連名で出してるなど、この後の謙信政権を支えていく宿老となる功臣。
神保氏を瞬殺して富山周辺を謙信は確保して背後の憂いを除くや
5/13に十一ヶ条の府内掟を出し越後府中の町人に対して諸役と地子を5年間免除し
府内を領主の干渉を受けない郡司不入の特権を与え自由都市とした。
この文書も斎藤朝信・長尾藤景・柿崎景家・北条高広が署名しており
これにより春日山の謙信は越後守護上杉氏の本拠地の府内の支配する都市法を公布できるようになった。
内政を行ったことで謙信にとって初の関東出兵を開始し柿崎景家を留守に残し
その監視役として直江実綱・吉江景資を配置し8月末に前関東管領山内上杉憲政を奉じて越山した。
12月の相模国の妙本寺への制札には長尾藤景・北条高広が署名している(謙信は厩橋周辺にいた)

天正3年6月の定書で初めて越後を統一したことが判明する。
それは斉藤朝信の他に新発田長敦・竹俣慶綱の二名の揚北衆の戦国領主が謙信政権中枢へ参加しているからである。
これにより謙信は阿賀北まで上杉政権の政治を貫徹できるようになった。
また10月には5月に長篠で敗北した勝頼と和睦し信長との対決姿勢を明確にしていく。
越後完全統一を果たした謙信にはすでに敵はなく、破竹の進撃で上洛を目指すことになる。
ちなみに天正3年軍役帳では斉藤の家格は21番目に相当しているが(6位までは上杉一族。などと言っても養子ゴリ押しだが)
面倒なので槍の数だけで言えば250の景勝(1位)、235の山吉豊守(32位)、
200の直江景綱(33位)、180の柿崎晴家(23位)
170の山浦国清(2位)、160の色部顕長(9位)、に続く153である。
このように斉藤朝信は謙信政権中枢において文武において長く謙信を支えてきた功臣であるといえよう。
369人間七七四年:2012/07/01(日) 11:59:52.93 ID:oNp6I7Ue
なるほど、そこそこの人物なんですね。影の薄い印象だったので意外でした。
大変勉強になりました。ありがとうございます
370人間七七四年:2012/07/01(日) 13:46:01.65 ID:x2lNap1J
どうでもいいけど謙信時代の話はスレ違いな

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152874850/

【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】
371人間七七四年:2012/07/01(日) 18:47:42.96 ID:Rtei05Dg
>>366
伊達も越後を狙って色々やってたからねえ。
織田と伊達、両方から攻められたら
武田の二の舞は確実。
372人間七七四年:2012/07/01(日) 19:22:19.23 ID:KxrjUzET
まぁ越中で2年も足止めされた挙句に
ロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ越中と越後国境の親不知の天嶮を織田が越えられるとも思えないがな。
新発田なんて完全に新潟から排除されて
下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
三国峠越えの厳しさは御館の乱での北条軍や
関東管領山内上杉顕定が討死に追い込まれたように
冬季を挟むことで確実に疲弊崩壊するし。
373人間七七四年:2012/07/01(日) 20:07:04.50 ID:Rtei05Dg
>>372
信濃が織田の領地に組み込まれてるのを忘れてるぞ。
374人間七七四年:2012/07/02(月) 00:18:37.04 ID:tzG4NVyh
武田が健在の頃に連携して西に打って出れればなぁ
実際は内乱抑えるのにも手こずってたけど
375人間七七四年:2012/07/02(月) 01:38:34.22 ID:JvZ2ZaEI
武田が健在の時は
〜謙信生前は手取川で大勝するなど西上
謙信死後〜天正8年半ばまで御館の乱とそれに続く内戦
天正8年後半〜新発田蜂起・すでに北陸を火事場泥棒した圧倒的大軍の織田軍の東上で迎撃体勢整わなかっただけだな

ろくな迎撃体勢のない平城魚津を景勝が武田滅亡後信濃に兵派遣した隙をついて火事場泥棒したはいいが
須田のいた松倉城は大軍に囲まれてもびくともしなかったしここを抜かない限り先に進むなんて無理
また小島らに魚津や富山奪い返されるのがオチ
376人間七七四年:2012/07/02(月) 03:39:25.72 ID:tzG4NVyh
上杉が武田と違って圧倒的に押されてても瓦解しなかったのは
御館の乱で反対勢力を全部葬ったからだろうな
もし中途半端に景虎とかいれば中から崩壊してただろうし
武田で言えば口うるさい穴山や信廉のようなご親類集一掃したようなものだし
まぁあのまま信長が死なずに森が春日山包囲して上野からも滝川が三国峠超えてきたら
上杉崩れになったかもしれんが
377人間七七四年:2012/07/02(月) 07:08:17.71 ID:nuF63UEm
森単独でも10日もあれば春日山落とせるだろ。
378人間七七四年:2012/07/02(月) 08:41:57.48 ID:8+046L5P
森って長沼攻防で敗北して撃退されて以来北進どころか信濃にひきこもってただけじゃん
信長公記は二本木に侵攻したなど馬鹿妄想書いてるが長沼に引き続き島津忠直がいる様子が
上杉書状でわかるし仁科口でも4月下旬でも防備固めてて突破された様子は全くないし
佐竹あて書状でも富山城は奪回されて残念だが信濃口の守りは万全で問題ないとか言ってるし
越中には兵動かしてるのに信濃方面には「信濃国内にいる」武将にあてた書状があるだけで
越後国境で防衛を命じてる史料なんぞない

滝川も軍記ありなら三国峠で撃退されてるし

この流れ何回目?
何回同じ事いえば気がすむの?織田厨馬鹿には学習能力ないのか
379人間七七四年:2012/07/02(月) 08:44:41.56 ID:vwFfe52L
森なんて羽黒の戦いや小牧長久手の戦下手っぷりといいザコだろw
春日山までいけるわけねーだろw
380人間七七四年:2012/07/02(月) 09:30:49.42 ID:8+046L5P
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている
381人間七七四年:2012/07/02(月) 18:02:05.78 ID:UcIulEqw
上杉を滅ぼす前に信長が病で急死する
本能寺の変が起きず上杉が生き残るにはこれしかないんじゃないか?
382人間七七四年:2012/07/02(月) 19:29:58.08 ID:qP6+4C1Z
織田が瓦解したのは信長と信忠が同時に死んだのがデカイ
一時的に圧迫は減少するかもしれんが
信忠の甲州での行い見る限り親父に追いつけ追い越せで苛烈な扱いしてるし上杉を許すとは思えない
383人間七七四年:2012/07/02(月) 21:30:31.18 ID:APOzO+va
森程度で余裕だろ
384人間七七四年:2012/07/02(月) 21:35:33.60 ID:HWboQNTd
森程度で余裕っていうか、そもそも森の快進撃が上杉本隊と織田軍北陸部隊の隙を突いて攻めてるだけだから
軍功という軍功ってほどではないんだけど、どっちにせよ森が来たところで空の春日山蹂躙される未来は見えるな
385人間七七四年:2012/07/02(月) 22:40:59.10 ID:4j07+AmH
今とは縄張りも違うんだろうけど
春日山は典型的な山城でそれなりに防御力ありそうだけどな
ただあの四面楚歌の状況で本拠地の春日山包囲されたら中から裏切り者出るだろうな
386人間七七四年:2012/07/02(月) 23:04:07.23 ID:rC+ss3V7
長沼も奪回できない森に越後侵攻なんてできるはずない
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている
387人間七七四年:2012/07/02(月) 23:18:33.84 ID:HWboQNTd
>>385
もともと森が1人で強引に攻める必要はない
柴田ら織田北陸軍や滝川ら織田中部軍の到着を待てばいいだけ
上杉からすれば森をボコボコにしたところで柴田や前田、ひいては信長本隊を抑えなければどっちみち滅亡するからな
388人間七七四年:2012/07/02(月) 23:27:21.87 ID:4j07+AmH
でも森だけでも叩ければまぁ武門の意地は見せれたよな・・・
武田みたいに2万の軍勢が一戦も交えずに瓦解とかじゃなく・・・・・・・・・・
389人間七七四年:2012/07/03(火) 00:05:54.63 ID:M1NbhNaK
松倉城の支城のひとつでしかない魚津城であんだけ苦戦
山城の松倉城を落とすは不可能。
親不知の天嶮は寡兵で十分に防衛可。
そもそも織田が制圧した地は反乱がデフォ
旧武田領でも史実どおりに反乱が起きてひっくり返る。
越中の統治すら失敗して富山城を奪回されたり
越中の国衆を近江に呼んで謀殺したり越中の城割りなど背反で満足に統治すらできない。
390人間七七四年:2012/07/03(火) 14:09:48.20 ID:H0/jbAFq
1574年ごろの勝頼と1577年の段階での謙信ってどっちが織田に勝てる可能性高かったんだろう?
391人間七七四年:2012/07/03(火) 15:43:25.21 ID:2nh5DGNb
>>387
森の性格と戦闘力なら抜け駆けして一人で春日山城を落としてしまったと思うよ。
392人間七七四年:2012/07/04(水) 01:05:29.29 ID:EtaQymTS
両者とも勝ち目ないんじゃね。
だから同じ。
393人間七七四年:2012/07/04(水) 01:28:39.78 ID:r3I5a0d3
景勝が運が良かったのは武田が驚がく的なスピードで内部崩壊した事だろ
これが長引かれたら、勝頼が篭城戦を展開している間に、信忠・信長親子鷹が
怒涛の如くなだれ込んできて即死だったろうな
武田のあまりの惨めな負けっぷりに、信長公が東海見物するくらいだしw
394人間七七四年:2012/07/04(水) 02:06:31.27 ID:NHo92b2b
長沼も奪回できない森に越後侵攻なんてできるはずない
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている

武田が健在の時は
〜謙信生前は手取川で大勝するなど西上
謙信死後〜天正8年半ばまで御館の乱とそれに続く内戦
天正8年後半〜新発田蜂起・すでに北陸を火事場泥棒した圧倒的大軍の織田軍の東上で迎撃体勢整わなかっただけだな

ろくな迎撃体勢のない平城魚津を景勝が武田滅亡後信濃に兵派遣した隙をついて火事場泥棒したはいいが
須田のいた松倉城は大軍に囲まれてもびくともしなかったしここを抜かない限り先に進むなんて無理
また小島らに魚津や富山奪い返されるのがオチ

395人間七七四年:2012/07/04(水) 05:05:41.06 ID:C22FWLWq
織田の浅井・朝倉滅ぼしたあたりからもう戦いの様相が一変してるんだよな
それまでの常識ではあり得ないスピードで浅井・朝倉が崩壊した時点で武田のような
城を一つ一つ落として版図を拡大するような手法は時代遅れになった
武田崩れのあとは上杉なんて部下に任せて安土に帰っちゃうし
北条が織田に臣従して東北の諸大名も織田に臣従し始めてたあの時期に上杉が抵抗したところで時間の問題だろ
せめて謙信ならなんかやってくれそうな雰囲気はあるが
景勝は戦下手じゃん
396人間七七四年:2012/07/04(水) 10:50:47.55 ID:NHo92b2b
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。

ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。

9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
景勝>>>>>柴田(織田家トップ格)
397人間七七四年:2012/07/04(水) 11:01:38.17 ID:TXaHN8n8
武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
398人間七七四年:2012/07/04(水) 11:03:08.56 ID:TXaHN8n8
→内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
399人間七七四年:2012/07/04(水) 16:48:50.45 ID:3E5Lvg3m
>>397
あー魚津城って平城じゃないんだわ 頑固な城なんだぜ
姫様が居た場所が平地で本丸跡とされてるけどこれは江戸時代使っていた城で
この当時8割以上は壁のような細長い山城
石垣が付近の城跡と繋がっているので行くとわかる
400人間七七四年:2012/07/04(水) 17:49:58.35 ID:TXaHN8n8
日本城郭体系には堅固とは書かれてなかったけど
401人間七七四年:2012/07/05(木) 10:20:08.98 ID:Y2e09dZt
廃城されて江戸期になかった魚津城で石垣なんてないだろ。
そもそも付近の城跡はすべて小規模な支城類であって
魚津城本体じゃないぞ。
魚津城将がさらに小規模の支城や砦に籠城した話なんて聞いたことないぞ。

ちなみに親不知の天嶮

http://www.google.co.jp/search?q=%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5&hl=ja&rlz=1T4SNYA_jaJP326JP326&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=m-v0T9zmFsznmAWOt_SUBQ&ved=0CGgQsAQ&biw=1147&bih=756
402人間七七四年:2012/07/07(土) 12:06:25.15 ID:pPMzIIJI
>>401
親不知のJR駅も崖を削って敷地を確保したとか
だから高速は海の上に作ってるんだとよ。
昔は親子連れが歩く断崖絶壁へ高波が襲いかかり
子供を海に引きずりこむ悪路だったので
この名前が付いたんだってさ。
403人間七七四年:2012/07/11(水) 04:58:56.63 ID:OqjlEkNv
ここまで読んだがゲーム脳って怖いな…

国力的に織田には勝てない。
現実的には勝負にならんよ。
武田滅亡後は地理的にも勝機が見出せないな。
404人間七七四年:2012/07/11(水) 13:38:44.63 ID:ZRaNkmHV
上杉崩壊なんて時間の問題だったから信忠もさっさと帰っちゃうし
信長は富士山見たり東海見物に興じていたんだろうね
武田より雑魚な上杉なんて信長・信忠が参戦する必要すらなかったと
405人間七七四年:2012/07/11(水) 17:27:35.29 ID:TGf9ST7a
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
406人間七七四年:2012/07/11(水) 17:34:04.09 ID:hgY5heyt
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生

景勝>>>>>>柴田
407人間七七四年:2012/07/11(水) 17:36:33.39 ID:obbHFezO
>>406
北陸をほとんど取られたんだから、柴田のほうが数段上
408人間七七四年:2012/07/11(水) 17:38:32.63 ID:hgY5heyt
滝川も三国峠で上杉に撃退されてると三国誌に書いてある
信濃・北陸・出羽・会津・下越・上野全方面から攻め込んで5000そこそこの上杉も瞬殺できないどころか
ろくな防備もない魚津に大苦戦し松倉でも手も足も出ず信濃でも長沼攻防に破れ敗北
これでは正直何年かかるかって感じだな
409人間七七四年:2012/07/11(水) 17:38:57.44 ID:dwCpgvjS
武田が雑魚なのは認めるが
上杉が武田より雑魚なわけねーだろw
信長さんが挙兵した途端内部瓦解したゴミと一緒にすんな
上杉は上にも書いてあるけどずーーーーーーーーーっと織田の
情け容赦の無い執拗な攻撃に必死で耐えていたんだからな
瞬殺されたカス武田と上杉を一緒に語るな、ボケ
410人間七七四年:2012/07/11(水) 17:42:32.94 ID:hgY5heyt
御館の乱で天正8年まで国内で武田北条伊達蘆名を敵に回しての家中2分の内戦で争ってる間に
圧倒的大軍と地元諸将の調略で火事場泥棒しただけだし
内戦終結する天正8年半ばから2年ろくに進めてないのが実情
ちなみに柴田軍は前田の史料とかだと45000もの大軍で上杉は5000程度。

どうみても景勝>>>>>>>>>柴田(織田家トップ格)
411人間七七四年:2012/07/11(水) 17:45:42.40 ID:kD8LjzJO
>>410
しかも下越で新発田も敵で伊達・蘆名もそれを後援。いかに上杉が圧倒的不利な状況にもかかわらず
敢闘していたかがわかる
普通なら1か月くらいで滅んでおかしくない兵力比と状況だからな
412人間七七四年:2012/07/11(水) 18:29:21.53 ID:vQ0gK6iG
>>409
バーカ崩壊したのは織田カスの挙兵以前の身内の裏切りのせいだっつーの
滅亡寸前まで追い詰められさんざん土下座して屈辱まみれにされた武田に
やっとこさ勝てたと思ったら自分自身も身内の裏切りに瞬殺された雑魚長風情が
上杉さんに勝てるわけねーだろw
413人間七七四年:2012/07/11(水) 20:58:06.63 ID:jk0GiIQk
上杉が強過ぎたのか、織田(特に柴田)が情けなかったのか
何れにしても武田が悲惨なほど雑魚なのはガチ
414人間七七四年:2012/07/11(水) 21:21:56.51 ID:qazqHhB6
手取川で逃げる途中で大敗
ふんどし一張の一揆勢に虐殺されまくる織田が戦国最弱なのはガチ
415人間七七四年:2012/07/11(水) 21:22:57.05 ID:TvyB9Ddc
東国武士で織田に滅ぼされたのって武田だけじゃね
東国武士の面汚しもいいところだな、屑武田はよー
その分上杉がよく耐え忍んで汚名挽回してくれたけど
なんと言っても影勝公は五大老の一人だし
416人間七七四年:2012/07/11(水) 21:29:13.43 ID:qazqHhB6
ふんどし一張の百姓に虐殺されたのは織田だけじゃね
武士の面汚しもいいところだな カス織田はよー
上杉に手も足も出ず虐殺されたあげく本能寺で殺されるわ
何と言っても武田がボコった家康は幕府開いたしよー 
417人間七七四年:2012/07/12(木) 17:33:29.91 ID:iy3oEqB/
織田・武田・上杉・豊臣の軍事組織・内政改革を論じるスレ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/
418人間七七四年:2012/07/12(木) 21:07:55.20 ID:MwlsgS8W
武田と上杉なぜ差が付いたか慢心環境の違いスレみたいのがあってもいいな
やはり謙信公と信玄の人間力の差だったのだろう
儀の謙信と非道外道信玄じゃねw
419人間七七四年:2012/07/13(金) 08:49:01.75 ID:Bm5IDJWK
織田と徳川なぜ差がついたか
やはり家康と信長の人間力の差だったのだろう
義の家康と非道外道鬼畜基地外信長じゃねw
420人間七七四年:2012/07/13(金) 13:40:00.35 ID:WdVYETLN
義の家康()
421人間七七四年:2012/07/14(土) 11:53:03.82 ID:61wPxEL0
>>417
織田は太閤検地における石高に近い兵力動員はできてないし
軍事組織も内政もデタラメ。
武田・上杉・北条に劣っている。
ゲーム厨の言う織田の国力なんてのは幻想なんだよな。
武田崩壊も天災によるところが大きいし自爆・自滅・自壊。
実際、高遠城の籠城以外ではまったく織田と武田は交戦すらしてない。
その詳細を知らない北条がバカみたいにビビってただけで
実際の織田は北条がちょっと本気出したら滝川は敗走するし
川尻は一揆風情にぶっ殺されるわ、
森はフルボッコされながら大敗走。
毛利秀頼は下条頼安に高遠城を奪回されて逃亡。
武田旧臣によりこれで織田のもろい内情が天下に晒された結果、
あっというまに下克上を誘引し織田家自体が崩壊。
422人間七七四年:2012/07/14(土) 12:23:15.68 ID:RHo+Pzlu
この無知っぷり
423人間七七四年:2012/07/15(日) 00:17:22.97 ID:6JG/A4Q1
信長が本能寺で死なず、結果、越後に攻めた織田軍によって春日山で上杉景勝が自害することになった場合、菊姫はどうするんだろう?
菊姫も自害するのかな?
424人間七七四年:2012/07/15(日) 18:18:29.90 ID:YQ2kmbNt
謙信公に心底慄いて戦線離脱した秀吉は
上杉には到底勝てぬとすぐ景勝と和睦した
信長と秀吉が最も恐れた戦国最強上杉謙信
景勝も謙信公の威光だけで豊臣政権の重臣に
なる事ができたのであった
425人間七七四年:2012/07/15(日) 23:36:04.27 ID:t4V8vrLj
謙信・影勝戦国最強親子鷹
義に生き義に死す
426人間七七四年:2012/07/16(月) 22:53:57.84 ID:JbvgJBd0
森を雑魚扱いするバカが結構いるが、森はエリートであり愚鈍ではない。
上杉勢が凄すぎるだけなんだ。
そこは押さえておこうな。
427人間七七四年:2012/07/17(火) 08:33:10.13 ID:7qmq1oKM
森はただの無策浅慮キチガイ無謀の猪武者。
ちょっと罠を張るとすぐ討死するバカ。
武田が自壊してほとんど抵抗を受けなかったから
死なずにすんだが、自壊しておらず
備えをしていれば討死してたレベル。
その時の信長も森を「若きもの」と呼んで
無謀に突き進むな討死するぞと釘を刺していたほどの自爆願望者。
428人間七七四年:2012/07/17(火) 12:33:48.44 ID:Thhc5Dvm
>>427
その森にたった一週間で二本木まで進行され春日山城落城寸前まで追い込まれてる。
本能寺後の森陣営の混乱にも一切の追撃もできなかったよね。
429人間七七四年:2012/07/17(火) 12:50:33.38 ID:DHKy2LqE
追撃する必要性が無い
そのまま美濃まで引っ込むのは景勝は承知だし
森がいなくなった後ゆっくり領土拡張すればいいだけ
実際そうしたし
430人間七七四年:2012/07/17(火) 12:55:16.30 ID:mOkIv3Xr
>>428
過去スレ無視して何回も同じ事いわせるな馬鹿が

長沼も奪回できない森に越後侵攻なんてできるはずない
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている
431人間七七四年:2012/07/17(火) 12:58:25.97 ID:ZJn4v3DA
>>428
本能寺当時天神山で柴田軍45000とにらみ合ってたのにどうやって森追撃するんだアホ

森なんて柴田がろくな防備なしの魚津城攻めかかって苦戦し景勝が越中に出兵して
越後ががら空き状態なのに信濃から春日山伺うどころか長沼や仁科方面すら奪回できなかったじゃねぇかw
432人間七七四年:2012/07/17(火) 13:08:25.33 ID:wZ+wyr6K
森には春日山に近づけても落とす力が無い
その力がある軍勢が他から迫ってる以上そこに全軍で対処する
兵を分散させない常道

越中天神山って今の地図見るとこんな場所かって感じだが
昔の地図見ると背水の陣なんだよ
主力同士ぶつけてないが日本海側ってお互い本気モードなのはガチ
433人間七七四年:2012/07/17(火) 13:24:27.81 ID:idof2VLs
二本木侵攻とか長沼奪回が書かれてるのは公記やその写本の総見記とか江戸期の軍記しかないからなぁ。
大体滝川が上野から三国峠を越えて攻めてったら上杉方のカラス組奇襲隊に大敗して撃退されたとかも軍記ソースだから全く史実扱いされてないのに
長沼奪回やら二本木侵攻のみを史実扱いするのは無理がある

信長記で長沼奪回があった4月上旬より後にも
上杉景勝は島津忠直やらにあてて仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし
5月になっても佐竹義重にあてて富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらいだし信濃方面で追い込まれてたなんて妄言もいいところ
434人間七七四年:2012/07/17(火) 16:14:33.44 ID:i7OuN16g
本能寺がなかったんだよね?
信長の同盟者家康が堺観光終えたあと武田の旧臣いっぱい抱えた状態で対上杉に参戦してくるんじゃない?
435人間七七四年:2012/07/17(火) 16:44:37.27 ID:Thhc5Dvm
その前に森が単独で春日山を落として上中越を支配下にしてる。
436人間七七四年:2012/07/17(火) 17:07:25.71 ID:idof2VLs
当時越中で55000の北陸軍&飛騨口別働隊、下越でも新発田(伊達・蘆名・織田が援護)と対戦中で
春日山ががら空き状態の上杉に対して
眼前にある長沼城や仁科郡奪回できない森にんな事できるわけない
437人間七七四年:2012/07/17(火) 21:11:26.39 ID:lDqrwG5X
>>434
旧武田領で大規模一揆が起きて織田軍が逃亡する。
朝倉滅ぼしたあとに越前で一揆がおきて織田軍が逃亡したように
織田の領国経営は失敗の連続。
越中でも富山を奪回されたりしてるし。
438人間七七四年:2012/07/17(火) 22:01:36.17 ID:i7OuN16g
仮に旧武田領から織田が逃げ出したとして、信長が健在な限り次の奴が送られてくるだけじゃないの?
いくら守りを硬くしても来るのは援軍じゃなくて敵の増援だけってゆう状況を上杉はどうやって打破するの?
439人間七七四年:2012/07/18(水) 09:09:07.27 ID:oEZg2iX6
>>437
武田残党の一揆なんて、本能寺後ですら瞬殺されてるじゃん。
440人間七七四年:2012/07/18(水) 15:06:27.09 ID:k5n9fXGs
結局死んだのは逃げ遅れた河尻くらいだからな。
441人間七七四年:2012/07/18(水) 15:10:07.37 ID:5NkgzPS/
瞬殺できるなら逃げなくてもいいだろ 無様に逆さに埋められた織田くん
442人間七七四年:2012/07/19(木) 06:45:45.38 ID:wHJ6RKs1
>>439
は?冗談言うなや。
徳川軍中核に編入されて、
家康に天下平定させてやったり、
金山金融政策から、
治水土木技術で関東開発したりと
徳川幕府の土台固めのノウハウは武田発祥ですが。
443人間七七四年:2012/07/19(木) 15:18:51.51 ID:l8CStJaQ
起源主張とか朝鮮民族みたいw
444人間七七四年:2012/07/19(木) 16:59:57.65 ID:JjGyiUMK
武田の金山技術で行き詰ったのが大久保長安の限界だったんだがな
445人間七七四年:2012/07/19(木) 17:00:23.86 ID:dVZMmvqq
しかし、何故このスレで武田の事が出てくるんだ?
まあ、普通に言ってしまえば、上杉滅亡は時間の問題だったしなぁ。
本能寺の変で助かったのは否めない。
よく解らないのは、武田攻めのように何故大軍で攻めなかったのだろうか。
武田攻めから時間が経ってなかったからかな。
446人間七七四年:2012/07/19(木) 17:23:06.62 ID:mrvXi846
本能寺でくたばるのも織田の限界だったんだがな
447人間七七四年:2012/07/19(木) 18:12:40.40 ID:vlMuuxE6
武田征伐は外道武田を滅ぼすのが目的だったからねー
武田支配による民衆・領土の疲弊困憊ぶりを木曾が信長公に直訴
越後に信長・信忠公が進軍しなかったのは上杉を滅ぼす気がなかったからだろ
越中から上杉を撃退した後は上杉との和睦もあったのでは
448人間七七四年:2012/07/19(木) 18:21:59.22 ID:mrvXi846
まあ織田ごときでは上杉は滅ぼせないし返り討ちにされるのがオチだけどねー
449人間七七四年:2012/07/19(木) 18:38:18.88 ID:TjwELhUM
大軍で攻めなかったって攻めた上で撃退されてんじゃん
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田
450人間七七四年:2012/07/19(木) 18:40:31.05 ID:TjwELhUM
しかも上杉は内戦が長期間続き疲弊状況。揚北で新発田が挙兵し
築地・本庄・色部など国人も日和見気味。鮎川も離反するなど
国内はガタガタ状態でもってこの戦果
451人間七七四年:2012/07/24(火) 08:13:08.57 ID:Exc/zTMT
織田がまだ本気じゃなかった時点で本能寺があったからでしょ。
総体的に見て、このままいけば上杉の滅亡だろうけど、信長は上杉を滅ぼす
気があったかどうかはわからんなぁ。
後北条は潰されていそうw
452人間七七四年:2012/07/24(火) 10:57:24.17 ID:J+VsHXgK
上杉を滅ぼす気があったからこそ
新発田に海上ルートで物資支援をしたり
45000の大軍で越中魚津やら富山やら飛騨口別働隊に松倉攻撃させたりしたんだろ
>>449のように織田が攻め込まなかったのではなく攻め込んだ上で撃退されたり苦戦して進めなかったというのが実情
453人間七七四年:2012/07/24(火) 14:29:48.60 ID:RaANKUXE
織田家が行う最後の決戦は必ず信長か信忠の出陣がある
それまでは消耗戦続ける予定通りの行動にも見える
まあ柴田も佐々が他へ遠征してる間に佐々が治める越中で無茶はしないだろう
一度無茶して喧嘩してるしなw
454人間七七四年:2012/07/25(水) 00:12:15.32 ID:/2lG0zQL
信長や信忠でなくても上杉方兵力は5000〜8000程度で越中飛騨別働隊森滝川新発田伊達蘆名と
十分すぎる兵力でもって周囲から攻勢かけたのに
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田
大体喧嘩話なんて軍記ネタの類にすぎないし
むちゃどうこう以前に進軍に苦戦しすぎだ
須田のいた松倉城なんか手も足も出てないし
魚津城もあれだけの圧倒的兵力と粗末な防備の割りに苦戦しまくり
455人間七七四年:2012/07/25(水) 07:59:34.42 ID:za7WmIcp
>>452
それって一方面軍だけでしょ。
実際に武田を攻めた軍勢でいけば、一溜まりもない。
苦戦させたって言ったって、結局総体的にみたらかなわない。
それが拠り所なんだろうけどね。
小学生の成績書で言えば、「よくがんばってしょう」程度だよ。
ちゃんと全体を見ないと。
ただ、景勝は御館で反発勢力は削いでいるし、武田のような総崩れはなさそう
な気がする。
456人間七七四年:2012/07/25(水) 08:09:57.31 ID:yz5GR6yB
武田征伐で諏訪の陣において
織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して
信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。

信長が武田征伐後に軍を解体して
富士山見ながら家康領へ向かったのを
物見遊山みたいに描いているから余裕あるように誤認されるが
実態はこんなもんだからな。
457人間七七四年:2012/07/25(水) 11:19:31.18 ID:MC7YyB4c

>>455
越中方面が織田精鋭部隊。
武田攻めは若き者と呼ばれた森らが最前線で独断専行してたに過ぎない。
方面軍指揮官の柴田や羽柴や明智に比べ格落ちの滝川や川尻らは信忠補佐で後方で、
信長の攻めるな指令にしたがってただけ。
458人間七七四年:2012/07/25(水) 13:00:16.99 ID:/2lG0zQL
越中での柴田軍45000と上杉勢との攻防はあれだけの国力・兵力差がありながら
シーソーゲームを繰り返していただけだからな
あまりのふがいなさに信長は業を煮やして
石黒やら寺崎やらを城に呼び出してだまし殺して
越中の城を無理矢理壊しまくって徹底的に国人の力を削ごうとしているがそれをやってすらなかなか進めないでいるのが実情
神保・佐々長縄といった越中方の地元諸将が多く味方についてかなり織田方は全進しやすい状況なのに
温井・須田・土肥などに苦戦しまくり上杉が森の信濃侵攻(長沼攻防)に出兵し
また下越での新発田への備えとあわせ、がら空きになった越中方面を圧倒的大軍で火事場泥棒したのに
ろくな備えもない松倉の一枝城の魚津に苦戦しまくりの有様
459人間七七四年:2012/07/25(水) 17:32:03.16 ID:JoJnw8Q+
精鋭部隊を北陸みたいなド辺境に送るわけないだろw
460人間七七四年:2012/07/25(水) 23:03:12.85 ID:YhxiCzrW
「織田信長のオリジナリティ要素とその犯罪性」は、
彼がもし、「明治時代(交通を開いた)に犯罪を犯さずに」今まで来たらば、
その「野望」は達成できたであろう。

彼に必要不可欠だった、
大正時代(総合理学療法の取得)、
昭和時代(資金源となる寝所を築けた)、
平成時代(人脈が成立した)
461人間七七四年:2012/07/25(水) 23:04:35.51 ID:YhxiCzrW
>>1

> 大河で信長を演じた役者

左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。

> ・太閤記(1965年 演者:高橋幸治)

遊郭を逃し、

> ・天と地と(1969年 演者:杉良太郎)

勇敢さを持てず

> ・国盗り物語(1973年 演者:高橋英樹)

要素・有資格が成らず増えず

> ・黄金の日日(1978年 演者:高橋幸治)

愛情のすべてを表さず、青いまま


>>1 (続き)

> 大河で信長を演じた役者

左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。

> ・おんな太閤記(1981年 演者:藤岡弘)

生みの親を知れず

> ・徳川家康(1983年 演者:役所広司)

父親を知れず

> ・武田信玄(1988年 演者:石橋凌)

(生みの親の種類で、武田真眩(甲府)の人の川の人間である武田信玄)=ぶどう農家の次男を知れず

> ・春日局 (1989年 演者:藤岡弘)

ホテル経営も知らず

462人間七七四年:2012/07/25(水) 23:05:07.70 ID:YhxiCzrW
>>1 (続き2)
> 大河で信長を演じた役者

左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。


> ・信長 KING OF ZIPANGU(1992年 演者:緒形直人)

日本を知らず

> ・秀吉(1996年 演者:渡哲也)

日の本人を知れず

> ・利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年 演者:反町隆史)

子供の部類を知れず

> ・功名が辻(2006年 演者:舘ひろし)

男女愛を知れず

> ・風林火山(2007年 演者:佐久間二郎)

友情を知れず

> ・天地人(2009年 演者:吉川晃司)

舶来のルートも知れず

> ・江〜姫たちの戦国〜(2011年 演者:豊川悦司)

愛の不毛者(15男の左側)が優勝したのも知らず
463人間七七四年:2012/07/25(水) 23:09:19.29 ID:YhxiCzrW
武田勝頼は織田信長に首を狩られそうになった。
464人間七七四年:2012/07/26(木) 08:15:10.16 ID:V5V4LI94
>>457>>457
すまんが、俺が言っている事とは違う。
織田勢が、武田攻めのように少なくとも東国に展開できる軍勢を本気で派遣
してきた場合の話。
柴田軍に対してとか、そんな局地的な事のどうのは全く関係ない。
465人間七七四年:2012/07/26(木) 14:51:53.17 ID:/wGlovMf
本気も糞もないと思うが。
わずか5000〜8000そこそこの上杉に>>454のように大軍で攻めかかってるんだから
これ以上兵を送りこまなくても内乱で自壊し弱体化しまくった上杉を瞬殺する分には十分すぎる
466人間七七四年:2012/07/26(木) 21:03:51.67 ID:WslD/9b1
たとえ越後領内に入れても
長尾為景が関東管領をぶっ壊したように、
織田軍は冬期でボロボロになって衰退するだけだな。
467人間七七四年:2012/07/27(金) 04:28:37.26 ID:rJ6VYbe2
島津義弘(悪代官)が倒れた理由は、織田信長が↑あんな風だから(笑)
加えて、島津義弘(悪代官)本人は「ぐうたら」+ほかの犯罪が多すぎた。

CETA日本
登場人物:織田信長 豊臣秀吉 島津義弘 福島正紀 江 > ・江〜姫たちの戦国〜(2011年 演者:豊川悦司)
                         織田信長=愛の不毛者(15男の左側)が優勝したのも知らず
                         

この長い、屏風の絵巻物語(界隈・日本、ALPHA日本、BETA日本、CETA日本、Di-ti日本)は、 
織田信長の「ぐうたら」+周知の犯罪の数々、同立て巻き兄弟殺し など、不正や、嘘、八百長などの構成で、
CETA日本、Di-ti日本が、連鎖的に滅びた(笑)
予め、界隈・日本、ALPHA日本、BETA日本、は関連せず、周知の事成り。
468人間七七四年:2012/07/27(金) 04:29:54.36 ID:rJ6VYbe2
織田信長って一騎打ち弱そうだなwww
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1276648746/

117 自分:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/27(金) 04:27:24.53 ID:rJ6VYbe2 [2/2]
>>115
> 大名同士の一騎打ちで本当にあったのは
>>安濃津(あのつ)城攻防戦の宍戸元続(ししどもとのり)vs分部光嘉(はぶみつのり)だけ。

宍戸元続(ししどもとのり)は代官ですし。

分部光嘉(はぶみつのり)も代官ですし。

制裁官として活動していただけであって、一騎打ちではないよ?


469人間七七四年:2012/07/27(金) 04:42:30.40 ID:rJ6VYbe2
織田信長はまだ大和武士に交渉している。
CETA日本からDi-ti日本に忙しいが、
真の狙いは、在日朝鮮壊しだろう?(笑)
470人間七七四年:2012/07/27(金) 07:47:55.49 ID:xARlgQjz
>>465
まあ、武田攻めは信忠に博をつけさせようとした気がしない事もないの
で、確かに東方面全軍を向ける事はないかもしれないが、あった場合の
話をしているのであって、言っている事は基本的に違うかな。

>>466
規模が違うのを引き合い出されてもなぁ。
言っている事が、太平洋末期の日本軍に似てる。
471人間七七四年:2012/07/27(金) 13:25:16.18 ID:yrC2n9ZI
越後が積雪の影響で完全に他国との交通が封鎖される冬期に、
孤立無援になった織田が
フルボッコされる未来しか見えない。
毛利、上杉の水軍に制海権取られてるだろうしな。
472人間七七四年:2012/07/27(金) 18:11:28.07 ID:rJ6VYbe2
織田信長は、左の奥方の言うまま、望むままに適うよう、内職をする癖があるが、
そんな場合は、角が丸くなり、筒は収縮し、身が縮んでしまう故、夢我さんの件も手伝って、良くない。
輝彦さんは、いかがなされたか?(笑)
473人間七七四年:2012/07/27(金) 18:31:15.32 ID:rJ6VYbe2
「左の奥方の言うまま、望むままに適うよう、内職をする癖があるが、
 そんな場合は、角が丸くなり、筒は収縮し、身が縮んでしまう故」
 
これは、武家で亡家が出ることになる原因なのだから、
この時代・この御時世においてはもう、切り上げ・終生預かりの前存故、以下同じ平。 
474人間七七四年:2012/07/28(土) 04:12:28.49 ID:r36vQLSi
織田信長(なまくら・のらりくらり)(憤怒者)・タヌキ
475人間七七四年:2012/08/01(水) 17:43:11.30 ID:e6myOOab
新潟は超豪雪地帯だからね。
北海道よりタチが悪い。
秀吉と柴田の戦いや、朝倉の浅井支援における
越前から近江への援軍に積雪の影響で難渋しているとか
子供の遊びレベルの降雪量。
特に上田長尾の本拠地は豪雪過ぎて沈黙レベル。
織田軍が越後の冬を乗り切れるわけもない。
476人間七七四年:2012/08/01(水) 17:57:04.52 ID:zZuKPkZU
春までまって滅ぼせばいいだけだしなw
477人間七七四年:2012/08/01(水) 18:54:53.92 ID:e6myOOab
>>476
毎回晩秋に降雪リセットくるけどなw
478人間七七四年:2012/08/01(水) 19:04:51.12 ID:zZuKPkZU
なんで半年以上かけないといけないんだよw
武田が何ヶ月で滅んだ?ん?ん?
479人間七七四年:2012/08/01(水) 19:21:27.48 ID:e6myOOab
高天神城は3年も籠城し続けていて徳川はかなり苦労してるね。田中城とかまったくビクともしてないし。
つか一次史料を読むと天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
甲江和与成立寸前詐欺を繰り返した挙句に
軍備解除していたのを良いことに織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
しかも大分県内にあった教会からも視認できたほど浅間山超大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み。天変地異で滅亡したのが武田家。
しかも噴火を天皇の神威とか吹聴してるし。完全に火事場泥棒でしかないのが織田で
一次史料を見る限り、高遠城以外で戦闘が一回も起きていない完全な武田自壊状態。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
北条も10日以降、武田に関する情報がまったく入ってこなくなったと嘆いているように噴火の影響で情報網が寸断されている。
480人間七七四年:2012/08/01(水) 19:24:23.43 ID:zZuKPkZU
まとめろ
駄文なんぞ読めるか
481人間七七四年:2012/08/01(水) 19:25:16.78 ID:x5qO8sHC
武田崩れは内部崩壊が原因であって上杉は内部崩壊してないからな…
482人間七七四年:2012/08/01(水) 19:47:00.24 ID:7EtXYD18
織田が勝ったのはまぐれだったんだなぁ
483人間七七四年:2012/08/02(木) 00:35:52.59 ID:F7hX1auE
まず、本能寺の変が起こらない、あるいは1年後に起こるとかなら上杉は1582年の間に滅亡だろうな。
82年の秋ぐらいかな。

ただ、上杉は武田のような内部崩壊はないだろうな。
というのも御館でそうなりそうな人物はある程度いなくなっているし。

まあ、それでも寝返る人間はいるし、ある程度内部崩壊はあるだろう。
実際新発田が寝返ってるわけだし。
484人間七七四年:2012/08/02(木) 00:44:33.06 ID:Zwi+purx
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
485人間七七四年:2012/08/05(日) 09:39:45.31 ID:5AvpU/xe
信濃から逃げ帰った織田の雑魚家臣
甲斐で殺される信忠の守役
上野で大敗する滝川
残った織田雑魚ファミリーは家臣に滅ぼされる

本当アホだな 織田は
486人間七七四年:2012/08/07(火) 13:38:25.26 ID:+cflPd/3
あれだけgdgdしたのに12万石で残れたのは当人たちの実績
487人間七七四年:2012/08/08(水) 16:12:48.83 ID:3YNZAJIg
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
488人間七七四年:2012/08/08(水) 16:17:14.45 ID:3YNZAJIg
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。


柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩


遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
489人間七七四年:2012/08/15(水) 15:35:38.19 ID:9TgzxfFa
織田厨「武田滅亡してるしwww織田は大名として存続してる勝ち組なんだが」
上杉厨「はぁ?お前んトコは大名じゃねぇじゃん。うち15万石大名ですがw」
織田厨「プププっ、そんな子孫の話まで持ち出して必死乙w戦国時代の当人たちとはまったく関係ないじゃん。まったく関係ない話を持ち出してアホすぎ」


基地害織田厨って頭がの朝鮮人並におかしいんだなあ。
490人間七七四年:2012/08/15(水) 16:38:12.21 ID:H1Yzs+qq
>>489
織田チョンは戦国時代の議論で完敗してから、
子孫の話で武田に勝利宣言するという非常に歪な精神方面に逃げ始めたからな。
まあ子孫の話なら現在の武田や上杉当主にかなうわけもないけどなw
491人間七七四年:2012/08/16(木) 15:14:48.77 ID:IRlzi+HW
4万石と15万石なんてそうたいして変わらんのだが
よほど織田の息子に一族大虐殺されて、何度も衰退しながら時の権力者に愛された織田と対照的に
一度も大名として再興されずに家まで乗っ取られた武田の恨みはすさまじいなw

自演してまでレスを繰り返すとかもう池沼の域だわw
492人間七七四年:2012/08/16(木) 15:23:44.68 ID:IRlzi+HW

【武田家】

先祖:清和天皇に連なる甲斐源氏、甲斐統一という武田の宿願を果たし甲斐守護武田信虎を父親に持つ、20万石すたーと

当主:重臣頼みで家督相続した武田信玄。上杉や北条からはまともに領地を取れず小笠原村上今川(義元死亡済)からせこせこと領地を取り100万石程度

子孫:息子の武田勝頼が織田と戦い、最後は無惨に織田息子の箔塗りで虐殺され滅亡。江戸時代はただの一度も 大 名 復 帰 で き ず 元家臣の大久保に寄生して玄孫の代に高家旗本


【織田家】

先祖:どこの馬の骨かもわからない、爺さん以降の血筋は全くの不明。そもそも織田本家ですらない傍流。大名でも守護代でもなし。

当主:重臣を服従させて家督相続した織田信長。今川義元を皮切りに浅井長政、三好義継、武田勝頼、朝倉義景ほか多くの大名、勢力を滅ぼし800万石の領土を築く

子孫:明智光秀の謀叛により山城近江丹波のほぼ全てを失う。豊臣徳川政権でさらに衰退するが最終的に一族合わせて12万石の大名を3家輩出して明治維新まで大名として存続


どこ切り取っても織田よりショボイ武田www
勝ってるのは先祖の御威光だけwwww
493人間七七四年:2012/08/16(木) 23:06:34.99 ID:EmRah0UO
信成が子孫でよかったな信長
494人間七七四年:2012/08/17(金) 00:20:45.68 ID:bWl1RaMn
現在の武田当主は経営者兼国連UNHCR協会の役員だったよね。
現在の上杉当主は宇宙航空研究開発機構を退官したんだっけ?
495人間七七四年:2012/08/17(金) 06:49:49.52 ID:qdsUcNSG
上杉はどうかしらんが、武田の血筋は信玄から数えると絶えてるからな
496人間七七四年:2012/08/17(金) 08:28:40.51 ID:t4iXJmk1
>>495
上杉は女系では一応繋がってる。男系では江戸初期に滅亡しているな。
武田は早々と途絶えて血縁無関係の養子を何度も迎えている。

織田家も現在で繋がっているのは女系のみだな。男系は明治維新まで直系で繋がっているが
それ以降は相馬家の人間が本家を継いでいる。女系を経て繋がっているのは有楽系の傍流だが、
始祖を辿ると信長に行きつく。
497人間七七四年:2012/08/17(金) 08:33:28.63 ID:t4iXJmk1
ちなみに現在の上杉武田織田三家が遡れる先祖

上杉:上杉景勝(女系有、男系は江戸期滅亡)
織田:織田信長(女系有、男系は明治期滅亡)
武田:徳川家康(女系無、本家に水戸徳川家の傍流が江戸中期に養子へ)
498人間七七四年:2012/08/17(金) 18:06:18.37 ID:KFJLK1+m

そもそも関東管領山内上杉自体が途絶えてるんだから、
いかに血統よりも優秀な者が、
代々の家宝を引き継いで、
先祖を祀ることを絶やさないことが重視されてるかがわかる。
逆に現代は養子制度に制約をかけてるから、
どんどん家が絶えて無縁仏化してる。
499人間七七四年:2012/08/18(土) 08:17:44.44 ID:9tbnVFGq
四民平等の明治以降ならまだしも
厳格な家制度が残る江戸時代で
当主は赤の他人でもいいなんてきいたことないな

伊達しかり上杉しかり織田しかり、家を繋ぐ場合は大なり小なり
家を繁栄させた英邁な当主の血を少しでも繋げるよう苦心している
これは徳川御三家でもわかるように将軍家公認の存続制度

父祖の血なんてどうでもいいと言う武田は当時としてはかなり異端
よほど家を滅亡に追いやった信玄勝頼の武田本来の血統を忌み嫌っていたと言える。
500人間七七四年:2012/08/18(土) 11:22:07.98 ID:PaGbRiMU
まあ織田の血統なんてあってもなくてもいいくらいの雑種だが
武田は血統うんぬん以前にそのブランドが最強だってことだな
501人間七七四年:2012/08/19(日) 08:33:04.36 ID:mbE3hXqN
>>494
両家とも今も栄えているな
現在の織田家の社会的地位はどうなの?
502人間七七四年:2012/08/19(日) 20:54:26.76 ID:A3CcxZt9
織田無道乙w
503人間七七四年:2012/08/19(日) 22:14:41.18 ID:RPpODEib
>>494
今を生きる個人の情報は扱いに注意
504人間七七四年:2012/08/20(月) 17:14:29.71 ID:D7myauqn
>>500
まあそうなんだけど、元は甲斐に流された犯罪者の血統なんだよね。
しかも一度頼朝により宗家は滅んでるんじゃないか?
あ、一応息子が総領を次いでいるから、滅んだ事にはならないのか。

505人間七七四年:2012/08/21(火) 11:06:37.30 ID:a+rJ85dL
>>英邁な当主の血を少しでも繋げるよう苦心
別に苦心なんてしてねーよ。
普通に平安時代から幕末までの間で
子供ができたことないのに
側室を持たない武将や大名なんていくらでもいたし
家を守っていけそうな有力な家臣などから
養子をもらう約束をしていたなんてのはかなりある。
血統重視は明治に入ってきて西洋人の考えに影響されてからだぞ。
日本人はほとんどが捏造家系図で、三代前まで遡るともう
ほとんど何もわからない先祖状態なのに
血統なんて至上の命題にしてるわけないだろ。
藩主だって血統なんてどうでもよくて、
幕府としては下克上されるような戦乱が起きず現状維持を守るために
家臣としては改易されて一族が路頭に迷うことがないように藩の存続が願っていただけで藩主のことなんて誰でもよかった。
506人間七七四年:2012/08/23(木) 00:30:56.84 ID:cTD4ca7k
>505
当主の「家」が家来を含めた一族郎党の飯の種だった大名家と天皇様を一緒にするなよw

507人間七七四年:2012/08/23(木) 08:26:35.34 ID:PeklZujo
確かに家の存続(勢力圏)が第一の武家と、天皇家他一流公家とは違うとは
思うが、>>505の言う事は大体同意出来るが、なるべく血を少しでも繋げる
努力はしていると思うよ。
中国とと違い一族領民根絶やしじゃないし、そうしないと周りが納得しない
事が多い。
有力な家臣から養子と言ったって、もともとその分家だったところからって
のも多い。
全く違うのってのはあまり思いつかないけどなぁ。
戦に負けて、養子として勝者の息子を送り込まれて家は存続も乗っ取られる
ってのはよくある事だけど。
508人間七七四年:2012/08/23(木) 08:51:33.78 ID:r1HSE+H8
蘆名とか全く血縁外から養子入れてるよな。
血縁者が全くいないわけじゃないのに。
天皇だって女性いたじゃんよ。
白河結城にしたって佐竹に対して優勢下で養子貰ってるし。
509人間七七四年:2012/08/23(木) 10:58:50.05 ID:4cgiEJma
血縁を重視してたら乳児死亡率がバカ高い時代を乗り切れる家は超稀だわな。
510人間七七四年:2012/08/24(金) 20:04:01.01 ID:CNMCCXM0
女天皇いただろ。
女系禁止になったのは明治になってからだぞ。
立花宗茂だって道雪とは血縁無くね。
普通に立花家当主として藩祖になってるし、
道雪家臣団も反対なく柳川藩立し、
島原の乱まで立花家臣団は一枚岩だったぞ。
血縁外でも優秀で武勇ある者なら、
家臣団は反対しないだろ。
511人間七七四年:2012/08/24(金) 21:44:55.20 ID:Sz0AbGlO
女天皇と女系天皇は全く異なる
512人間七七四年:2012/08/25(土) 20:04:32.21 ID:fEK+zbUj
>510,511
今頃、何を言ってるんだという感じ
但馬陽子と同レベルだな
英語の話をしている時に、アルファベットって何?と言っているようなものだ
ウンザリ・・
513人間七七四年:2012/08/26(日) 19:34:47.63 ID:zwrgCuaC
信長が生きていれば上杉は間違いなく滅亡したが、武田で言う高遠城のような形の落城をする城が多いと思う。
後世に称賛される滅亡になると思う。
御館で反対派は粛清できてるし。
514人間七七四年:2012/08/28(火) 23:26:19.21 ID:L3kEcWiv
大勢力にびびって日和る馬鹿は御館の乱で北条に付いて景勝に討伐され済み
武田崩れを知っている以上攻め込まれてから裏切っても仕方ないと知られている
まあ越中戦線で裏切りが殆ど出なかった以上越後本国も最後まで抵抗する奴だらけになるだろうな
だから勝家は景勝を越中に引きずりだしたかったのだが長可がいらんことするから…
515人間七七四年:2012/09/24(月) 13:18:10.34 ID:DZCD12yd
ノブ「武蔵じゃあ仕方ないか…」
516人間七七四年:2012/11/16(金) 19:25:14.68 ID:oMA0S4Mk
景勝厨の決まり文句
魚津は救えた、会津征伐で天下取れた
517人間七七四年:2012/11/18(日) 02:32:56.92 ID:tLcuadZB
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
518名無しさん@お腹いっぱい:2013/04/09(火) 22:09:24.86 ID:+gwoFq7r
喜平次だって、ぎゃははははははははは
銭形平次みたいだぬ。
あ、御屋形様は刀の収集家だから、切り殺されちゃう
519人間七七四年:2013/04/10(水) 18:52:02.47 ID:NZGEgwDh
たとえ景勝が戦国一の名将だったとしても
圧倒的物量差の前には滅亡しかない
520人間七七四年:2013/04/10(水) 19:10:28.07 ID:HNyoo+58
魚津を落としたところで 其の先の越後・越中国境にある超難路親不知の要害を簡単に通過できるとは思えんな。
越中魚津〜松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
御館の乱や新発田の乱で弱体化していた上杉相手にこんな弱軍織田じゃ親不知の天嶮で撃退されるのがオチ

平城の魚津城と違い 須田が籠城していた松倉城は鬼のような山城だからなー。
これ放置して親不知なんて通過しようもんなら挟撃されるだけだし上杉水軍にも横っ腹を襲われ逃げ道もなく柴田軍消滅だろ。
天正11年4/17に景勝が糸魚川の新城に兵を入れてるから糸魚川にも備えを構築準備してただろうし
521人間七七四年:2013/04/10(水) 20:03:30.95 ID:ckH1WHmx
本能寺が起こらなかったと仮定して

上杉家が凌がなければいけない兵力

柴田勝家らによる北陸方面織田軍
森長可率いる信濃方面織田軍
滝川一益率いる上野方面織田軍
新発田重家率いる反乱軍
新発田重家を助ける伊達・蘆名軍(ここまで史実で上杉と交戦したと思しき兵力)

これに加えて

徳川家康率いる徳川軍
北条氏直率いる北条軍(参戦するかどうかは未定だが)
織田信忠率いる濃尾方面織田軍
織田信長率いる畿内方面織田軍(織田家随一の規模)
明智光秀率いる丹波方面織田軍(史実では信長に謀叛する)
羽柴秀吉率いる中国方面織田軍(史実では毛利と和議寸前)

正確な兵数は不明であるが
史実で上杉が交戦した兵力のおおよそ4,5倍の兵力が
大体織田軍とそれに協力する連中の総兵力
上杉はこれを全て破る必要がある
522人間七七四年:2013/04/10(水) 20:55:12.88 ID:HNyoo+58
徳川と北条はともかく信忠とか信長とか光秀とか秀吉とか兵站の問題があるからそうそう大軍で出てこれないだろw
武田攻めのときでも大軍一挙に動員するのを信長が兵站気にして少しずつ動員しろみたいな事言ってるし
それより遠隔地の越後方面に史実の4.5倍の兵力で突入とか無理
523人間七七四年:2013/04/11(木) 13:58:26.41 ID:Q3v9wYnJ
織田領内の兵站なんてどうとでもなるわな
本気でヤバい状態ならそれくらいどうとでもなる
数では織田が圧倒的有利なんだから後先考えなければ余裕
524人間七七四年:2013/04/11(木) 17:13:37.74 ID:hE5Rqm5q
織田が上杉を攻める話をしてたのに、いつの間に織田が本気でヤバい状態の話になったんだ?
525人間七七四年:2013/04/11(木) 18:59:43.77 ID:Q3v9wYnJ
兵站云々っていかにも余裕のある勢力の発想じゃん
是が非でも落としたいなら兵站気にする前に叩き潰すだけ
「兵站に余裕がないから動員不可能」なんてゲームじゃないんだから
526人間七七四年:2013/04/12(金) 00:15:11.01 ID:sZqRjrNx
森だけで春日山落としてたと思うよ。
527人間七七四年:2013/04/12(金) 00:55:13.55 ID:fENSshzU
>>526
その森は景勝にフルボッコにされて逃げ帰ったけどな
528人間七七四年:2013/04/12(金) 08:27:23.28 ID:5FVf0wUa
それって1回だけだからなぁ。
何回もこられた場合に、体力があるかが鍵。
森はまだ後があるけど、景勝は厳しい。
越後の兵は強いけど、物量に勝てるかというと・・・。
529人間七七四年:2013/04/12(金) 10:09:39.22 ID:f4q6plf9
森は景勝に破れて長沼奪われているのが4月2日付け上杉景勝書状で確認できる
この後も長沼には島津忠直がいて景勝が指示を出しているし景勝は信濃口の無事を語ったり
仁科方面の警固を命じたりしているのにので奪回されたのは軍記引用のデタラメ
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直が滞在)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらいだし
この4/2の攻防以来森は長沼奪回はおろか筑摩・安曇郡すら奪回できてない(島津忠直が仁科方面にいるのが4月下旬景勝書状でわかる)
530人間七七四年:2013/04/12(金) 10:19:51.33 ID:+g4sYVoY
下越・奥州・北陸・上野方面と全方面に味方がいる状況で動員兵力わずか5000の上杉に対して
長沼城攻防に敗れ、長沼奪回はおろかそれより南の仁科地方制圧すらできなかったのが森。
放置しても全く問題なさそうだな
531人間七七四年:2013/04/12(金) 12:17:32.56 ID:cYZ4BEAF
織田の圧倒的兵力www
織田の圧倒的経済力www
織田の圧倒的兵站www
織田厨得意技の願望妄想www
ぜんぶ一次史料なしの妄想なんだけどなwww
532人間七七四年:2013/04/12(金) 13:11:13.03 ID:fENSshzU
あの時警戒しなくてはいけないのは織田伊達蘆名の支援を受けて勢いにのってた新発田と上野の滝川くらいだろ
実際滝川も関東の北条を気にかけながら戦わなくてはいけないが
533人間七七四年:2013/04/12(金) 13:48:08.03 ID:f4q6plf9
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
534人間七七四年:2013/04/12(金) 15:21:12.71 ID:7UEpC0lE
>>531
兵站や経済力なんてゴリ押しでなんとかなるからな
事実当時の信長が兵站や経済力を苦にして戦争をやめたことは一度もない
逆に言えば領土に何度も侵入を許している上杉景勝の方が兵站や経済力を気にすべきだろ

「織田は大軍で来ると兵站ヤバいから大丈夫」なんて甘っちょろい見方で勝てれば誰も苦労しないw

本能寺が起こらなかったと仮定して

上杉家が凌がなければいけない兵力

柴田勝家らによる北陸方面織田軍
森長可率いる信濃方面織田軍
滝川一益率いる上野方面織田軍
新発田重家率いる反乱軍
新発田重家を助ける伊達・蘆名軍(ここまで史実で上杉と交戦したと思しき兵力)

これに加えて

徳川家康率いる徳川軍
北条氏直率いる北条軍(参戦するかどうかは未定だが)
織田信忠率いる濃尾方面織田軍
織田信長率いる畿内方面織田軍(織田家随一の規模)
明智光秀率いる丹波方面織田軍(史実では信長に謀叛する)
羽柴秀吉率いる中国方面織田軍(史実では毛利と和議寸前)

正確な兵数は不明であるが
史実で上杉が交戦した兵力のおおよそ4,5倍の兵力が
大体織田軍とそれに協力する連中の総兵力
上杉はこれを全て破る必要がある
535人間七七四年:2013/04/12(金) 15:25:57.57 ID:f4q6plf9
徳川と北条はともかく信忠とか信長とか光秀とか秀吉とか兵站の問題があるし他の敵もいるしでそうそう大軍で出てこれないだろw
武田攻めのときでも大軍一挙に動員するのを信長が兵站気にして少しずつ動員しろみたいな事言ってるし
それより遠隔地の越後方面に史実の4.5倍の兵力で突入とか無理
536人間七七四年:2013/04/12(金) 20:06:38.71 ID:cYZ4BEAF
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。
よって国力の単純比較は成立しない。
そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
ちなみに天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
537人間七七四年:2013/04/12(金) 20:12:28.48 ID:cYZ4BEAF
秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる

島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ

実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
538人間七七四年:2013/04/12(金) 20:17:24.68 ID:cYZ4BEAF
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
耶蘇会の1584年の年報にもはっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし上杉も天正3年軍役帳で兵数から武器数までわかりほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
兵科別の編成がなされていたから北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
539人間七七四年:2013/04/13(土) 01:52:22.25 ID:WFCuJxg6
馬鹿だなぁおまえw
「秀吉が考え付いてその運用をやってのけた」ってことは、
「秀吉は考え付いた『それ』を主君の信長に伝えることができる」ってことだぞ?w

秀吉は信長の息子を貰うくらい信用されてるから、秀吉の手助けで
織田軍の軍制をするのは容易な話だっただろうなw
どっちにしろ上杉は詰んでるわけだw
540人間七七四年:2013/04/13(土) 03:59:43.59 ID:EEyFqlf9
信長は家臣が意見するのを好まず、なんであれ自分の従わせた。
家臣は皆、信長を恐れていた。
541人間七七四年:2013/04/13(土) 07:55:27.99 ID:E9odiKj2
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より 
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、 
 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは 
 各自に任されていた。 
 これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して 
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。 
 従って武篇道と戦果が問題となる。
信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放したが
それは信長の権力強化の表ようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、 
 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、 
 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。 
信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を 
戦っていかなければならない。 
拡大する家臣団と支配領域に応じた家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が 
なされていないからこそ生じた問題であろう。 
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。 
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに 
 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。 
この問題の解決は秀吉の課題となる。 
542人間七七四年:2013/04/13(土) 13:06:29.08 ID:qXpohm9z
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから、 
織田旧体制のままの柴田に圧勝した秀吉に対して、 
天正11年12/15に安国寺が、 
毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、 
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、 
強く決断を促す時に、 
秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、 
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。 
ドン臭い動員ではもはや神速の軍事行動が可能になった秀吉には勝てないし、 
これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。 
秀吉の先進性が光秀を速攻で討ち取り、池田や丹羽や森らをして信長の旧制を維持した柴田を見限らせ、利家も秀吉に靡いた。
徴税制度確立、兵農分離を進め虐殺や略奪をやらず民力回復に力を入れた秀吉軍はその経済政策により、信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による 
一国亡国と言われる略奪型軍隊で常に金がない状態ではない。
543人間七七四年:2013/04/13(土) 14:13:25.58 ID:aLSsgyAe
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
544人間七七四年:2013/04/13(土) 14:13:55.93 ID:aLSsgyAe
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
545人間七七四年:2013/04/13(土) 14:14:42.82 ID:aLSsgyAe
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
546人間七七四年:2013/04/13(土) 14:15:01.72 ID:aLSsgyAe
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
547人間七七四年:2013/04/13(土) 14:15:27.05 ID:aLSsgyAe
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
548人間七七四年:2013/04/13(土) 14:16:07.01 ID:fmLBdMwh
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
549人間七七四年:2013/04/13(土) 14:16:58.89 ID:aLSsgyAe
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。


秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
550人間七七四年:2013/04/13(土) 14:17:23.12 ID:aLSsgyAe
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>243
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
551人間七七四年:2013/04/13(土) 14:17:53.62 ID:aLSsgyAe
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒

この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった

この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
運がよかったな
552人間七七四年:2013/04/13(土) 14:18:19.67 ID:aLSsgyAe
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
553人間七七四年:2013/04/13(土) 14:21:25.45 ID:WFCuJxg6
>>540
ただの妄想だろ
秀吉が勝手に寝返らせた宇喜多もちゃんと許してるし
十分すぎるくらい有益なことはちゃんと家臣の進言も聞く
ましてや思いついたのは自分の息子を養子にやるくらい信用した秀吉
秀吉が考え付いたことを信長が実行するのに1年もかからない

まあそう言ってると秀吉のネガキャンをしだすのはさすが基地外だがだなw
554人間七七四年:2013/04/13(土) 15:04:04.21 ID:SmXka0Is
コピペ長すぎるし秀吉のアンチがしたいなら他所でやってくれ気持ち悪い
555人間七七四年:2013/04/13(土) 15:24:29.56 ID:qXpohm9z
まーた秀吉や三成らを貶して、
信長や家康や輝元を無理くりageする火病在日大量コピペ爆撃基地外か。
まじこのがん細胞どっか行ってくんないかな。
556人間七七四年:2013/04/13(土) 20:17:06.12 ID:WFCuJxg6
あれだけ「秀吉の前では信長なんて雑魚なだけだから上杉に負ける」と言い張っていただがが
「じゃあ秀吉がそれを手伝えばいいじゃん」という書き込みをみたら
掌返しで秀吉を叩くアスペルガーだが

ついでにID:aLSsgyAe=ID:qXpohm9z

http://hissi.org/read.php/sengoku/20130413/YUxTc2d5QWU.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130413/cVhwb2htOXo.html

アスペルガーらしい末路と言える
557人間七七四年:2013/04/15(月) 19:55:17.34 ID:bI+jpcgG
>緒戦寄せ集めでバラバラだから
>一揆勢は防戦だけでプロ武士団がなく指揮系統があいまいだから
いつものことだが全くソースがないね。そもそも指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し
秀吉は僅か五万石に過ぎず秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、 秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
>秀吉が雑魚なのは対別所明智柴田滝川徳川信雄北条などで証明済み
>よって一揆勢が雑魚だったでFA
「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦の緒戦だけで後は普通に勝利してるし、
対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
つうか早く箕浦合戦で秀吉が砦に籠ってただけ、ってソース出してよ
お得意の捏造はもう良いから『信長公記』とか『浅井文書』とか
それっぽい名前出せば誤魔化せると思ってるのかね
『信長公記』なんてネットで原文と現代語訳読めちゃうのに恥ずかしいw
558人間七七四年:2013/04/15(月) 19:57:10.98 ID:bI+jpcgG
キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか 志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
依然として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。
559人間七七四年:2013/04/15(月) 19:59:02.78 ID:bI+jpcgG
天正12年の秀吉と家康による伊濃尾の戦いでの家康勝利歪曲。
小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲(徳川軍策源地)と長島(北畠軍根拠地)の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。
一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行動に対応して伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
結論
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
信雄は北畠家から強制出家させられ小者1人付きだけの秋田流罪にされる。
560人間七七四年:2013/04/15(月) 20:00:45.07 ID:bI+jpcgG
>>家康が来ないからまんまと狙いが外れた
>>木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
>>鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
秀吉は加賀の井城を攻略後に竹鼻城へ水攻めを開始している。
つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい
秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
>>滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
>>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失
すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
>>和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
>>長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
しかも吉村に対して11/7・11/8で相次いで信雄が福田の裏切りへ対処するように行ってる状況下で。
まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
ただ単に裏切ったばかりの福田を討っただけでしょこれ。秀吉の敗北カウントになんねーよカス
どっちにしろ家康には何ら功績などない。 つか秀吉敗北カウントに入れてる城攻めの一次ソースでちゃんと明示しろよw
561人間七七四年:2013/04/15(月) 20:01:26.57 ID:ez3dV1CT
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?

秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
562人間七七四年:2013/04/15(月) 20:02:04.23 ID:ez3dV1CT
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう


180 :無名武将@お腹せっぷく :2013/04/11(木) 21:32:26.60
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
563人間七七四年:2013/04/15(月) 20:02:26.21 ID:ez3dV1CT
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
●二重掘合戦

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
564人間七七四年:2013/04/15(月) 20:02:43.96 ID:bI+jpcgG
>>家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
家康が出陣していたとは書いてないだろ捏造すんなw秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから
自分も10/20に出陣すると書いているが、10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。しかも10/18付けで家康は味方の遠山半左衛門尉討死を伝えているし
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし美濃東部戦線も秀吉有利に進んでるわけだがw
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも結局、酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
徳川が人質じゃないって言い訳してるが、徳川有利ならそんなに人質送るハメにならんだろw
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
565人間七七四年:2013/04/15(月) 20:02:47.09 ID:ez3dV1CT
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗


183 :無名武将@お腹せっぷく :2013/04/11(木) 21:33:49.17
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
566人間七七四年:2013/04/15(月) 20:03:06.40 ID:ez3dV1CT
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて家康に対しての討伐意思の表明とその実行が行われている
567人間七七四年:2013/04/15(月) 20:04:07.04 ID:ez3dV1CT
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
568人間七七四年:2013/04/15(月) 20:04:32.82 ID:bI+jpcgG
戸木城開城は他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある。
(藤田達生氏の新著の「蒲生氏郷」でもそれを支持している!)
そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本山)
一身田高田山専修寺の御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。
(ちなみに木造記にも戸木城攻め総大将を織田信包と書いている)
信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵の政権運営メンツが
人質を出してるのに最有力重臣木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
お前は勢州軍記を木造記の内容パクり先だとやたら主張してるが、お前ほんとは読んでないだろ?
勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとさらっとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと具体的に書いてあって内容がぜんぜん違う。
(家康が兵糧輸送を諦めたため7/28の時点で木造の和睦を請う態度に秀吉は本人と家老2人に
人質を出せと命じており尭慧上人の斡旋で和睦条件が緩和したので木造は速攻で秀吉に降伏したんだろう)
10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
569人間七七四年:2013/04/15(月) 20:04:36.98 ID:ez3dV1CT
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ。大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる

愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてる。蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能。蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明。大体滝川はただ協力してるだけじゃなく前年に秀吉に降ってれっきとした家臣なので独断で行動してたとするなら証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので
討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとし『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる。6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


187 :無名武将@お腹せっぷく :2013/04/11(木) 21:38:45.70
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
570人間七七四年:2013/04/15(月) 20:06:08.89 ID:bI+jpcgG
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。
尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。
どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw
571人間七七四年:2013/04/15(月) 20:06:41.81 ID:ez3dV1CT
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
572人間七七四年:2013/04/15(月) 20:07:14.68 ID:ez3dV1CT
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく

>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
●二重掘合戦

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
573人間七七四年:2013/04/15(月) 20:07:40.62 ID:ez3dV1CT
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
574人間七七四年:2013/04/15(月) 20:09:20.75 ID:bI+jpcgG
講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に
源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
北畠時代からの信雄最有力重臣の木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだろ。
家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、
駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
575人間七七四年:2013/04/15(月) 20:11:01.84 ID:bI+jpcgG
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
576人間七七四年:2013/04/15(月) 20:13:17.07 ID:bI+jpcgG
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
577人間七七四年:2013/04/15(月) 20:15:26.26 ID:bI+jpcgG
信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
(塙の大和支配もあくまで信雄の配下としての行動に過ぎないのではないか)
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。
北畠は結局、兄弟内訌で滅んだだけだしね。
木造具政は織田を利用して兄の北畠具教を滅ぼして戸木御所を自称してた張本人で
信雄を傀儡擁立にした木造家本家を継いだ首脳人物だからね。外様なわけが無い。
(息子は木造長政・具康・長正・長忠など別名多数)
吉村は単に史料が大量に遺されていただけの話で、
しかもその内容は家康や信雄から「前線の様子の報告ありがとう」な内容の書状ばっかりで
正直、内容も書かれてないので役に立たない書状ばっか。これで首脳とかありえないから。
578人間七七四年:2013/04/15(月) 20:16:03.26 ID:bI+jpcgG
それ全部、家康方の吹聴してた捏造戦果。
小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が昨日やってきた時に聞いた「世上如風聞」と書いてるし
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。 いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
必死な政略的宣伝工作かがわかる。しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
それどころか4/9の池田・森の失策の報復として、早くも4/17には家康本拠地三河国の渥美まで
秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
無防備ガラ空きの背後を見事に襲われたのが渥美郡にある常光寺の日記でバレてしまった家康www
1万討ち死と書く小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が
昨日やってきた時に聞いた 「世上如風聞」と書いてるし、明らかに家康・信雄が吹聴してたネタを聞いただけ。
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として 正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎる数字だわなw 関が原の戦いより死んでるとかありえんんわw
この戦役後に家康は敗戦処理として秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
579人間七七四年:2013/04/15(月) 20:18:21.91 ID:bI+jpcgG
1万討死は確かに現実的な数字じゃないよね。
当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
20万人が戦った関が原の戦いですら
旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
三河渥美郡にある常光寺の日記
4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
空手形の発行をする始末だからねぇ。
誰がみても秀吉の優勢は明らかで、秀吉にビビッて家康は友軍を見捨てていくから
家康をどんどん見限って秀吉に付いていく状況だからね。
どう考えても家康の方が秀吉より優勢なんておかしな解釈はできない。
580人間七七四年:2013/04/15(月) 20:20:41.99 ID:bI+jpcgG
>>秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
>>家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。
秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを秀吉を恐れ傍観してただけなのが家康。
>>鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より
加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
落とされた家康の失策でしかない。というか家康は戦略的に完全に追い詰められているよね。
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
>>この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかり
>>その間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦だ
城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
>>どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。
581人間七七四年:2013/04/15(月) 20:24:19.82 ID:ez3dV1CT
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹  ○尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ。和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなくしかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元  ○伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま ○加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日秀吉→毛利輝元 ○小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって… 付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに
砦普請で囲ったっていってましたね
○加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいのか?????
で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた11/13 家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????   明らかにデタラメ
582人間七七四年:2013/04/15(月) 20:24:37.07 ID:ez3dV1CT
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
583人間七七四年:2013/04/15(月) 20:24:57.11 ID:ez3dV1CT
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ。楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿
蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
>>長久保落居
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ
秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
>>曲解してるだけ
お前がな。11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である。11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ。楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし。あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ。あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ。木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが。実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況木造記って別名木造軍記ともいう。ソースは伊勢北畠氏の研究木造記成立
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている


191 :無名武将@お腹せっぷく :2013/04/11(木) 22:41:42.40
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
584人間七七四年:2013/04/15(月) 20:25:30.37 ID:ez3dV1CT
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
585人間七七四年:2013/04/15(月) 20:25:54.53 ID:ez3dV1CT
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ。いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し
家康の支配はわずか3郡。石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い
その後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が
上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。長曾我部の敵対者十河、
三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか
家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし。北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくり
の状態での降伏だった。逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に
背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。家康が対秀吉時に
四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も
信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して
持ち堪えられる始末)山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)
北条氏政は企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に
木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮
して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
586人間七七四年:2013/04/15(月) 20:26:12.66 ID:ez3dV1CT
>>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
>>当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外。そうでないのなら信長に従ってる身分とただ協力関係で指揮系統あいまいな一揆軍じゃ話にならん
>>『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
>>秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
当代記にそんな記載ありません
>>「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
コピペは全て客観的事実です。
>>秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
滝川戦も柴田戦も信雄も明智も北条も常に圧倒的大軍で大苦戦か大損害です
>>対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
斉藤戦ではそもそも大軍を直接蹴散らさなきゃいけない仕事はしていない。浅井朝倉では箕浦のみ。毛利戦は別所に大苦戦して
信長の援軍呼び寄せて何年もかけて播磨統一毛利がなかなか出でこない上に南条や宇喜多に足取られてから勝てただけ。
>>それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
>>本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
織田政権で同格以上だった諸将を率いてた事実なぞ存在しない。池田も森も丹羽も信長政権下では知行高や立場で秀吉よりずっと下。
むしろ秀吉の戦った相手の方が連合軍の体を成していたり(徳川織田)篭絡されて積極的に戦わなかったり(柴田)戦意に乏しかったから
(北条)そんな状況で圧倒的大軍で苦戦したり大損害受けたり瞬殺できない秀吉がいかに戦下手かわかる
>>残念ながらこっちは『信長公記』『松下文書』『当代記』に加えて残念ながらこっちも浅井文書、藤本氏や谷口氏の研究も参照してますから
秀吉側に都合いい情報だけ抽出してな
>>プロ野球がどうこうとか余人に理解出来ない屁理屈捏ねるだけの君とは違うんだよ
屁理屈ではなく当然の理屈
>>正確に言うと樋口の家臣である多羅尾相模守(とその更に家臣)の奮戦ね
そんなら樋口が秀吉の指揮に従ってる事が証明されてるんだから一揆側のようなまとまりのなさは露呈してないのは明白
軍の形態の違いだな プロ武士団のいる戦闘プロ集団とそれがいないオール素人軍団
>>秀吉が箕浦合戦で采配を振るって自軍を勝利に導いたのは『信長公記』に書いてある通り
堀軍の奮戦に助けられただけ
>>つうかせめて『信長公記』くらい読めよ
信長公記を読まないよりも曲解したり詐術的に論ずるほうが問題
>>少なくとも山崎の戦い(対明智戦)での織田信孝、賤ヶ岳の戦い(対柴田戦)での織田信雄は秀吉より格上の存在だったが
>>なんでそこで「事実なぞ存在しない」と自信満々で言い切っちゃうのかが分からない
信孝は主君、それも親が殺されたわけだから一致団結して戦意があがるのは当然。身分云々以前の問題だから指揮系統が弱まるどころかさらに
強まるだろうね。これで秀吉の指揮聞かず自分勝手じ動くならよほど親が憎いか秀吉の指揮能力が糞なんだろうね
信雄は対柴田戦では織田後継者問題が秀信に落ち着きしかもその後見秀吉が光秀を討ったという事実から事実上織田家を乗っ取った形だから
完全に秀吉より格下。信雄の領土なぞ尾張伊勢といったごく限られた地方だから領土も立場も格下。そもそも神戸は分家だから後継者に
ならないのなら他の家臣と立場何も変わらん。
587人間七七四年:2013/04/15(月) 20:26:13.68 ID:T6ZaZ5nk
ここまでいつものアレ
588人間七七四年:2013/04/15(月) 20:26:48.96 ID:ez3dV1CT
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方。家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川。7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てたから
ってだけの話だろ。秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのにこの時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・
土方雄良・雑賀松庵こいつらより貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性。別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる。
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
史料にない妄想乙
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないようにまわり砦で囲いまくって2万も残して一方で
自分はこそこそ家康の出てこれない木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
589人間七七四年:2013/04/15(月) 21:06:05.36 ID:ez3dV1CT
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
590人間七七四年:2013/04/15(月) 21:06:31.24 ID:ez3dV1CT
>>ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
591人間七七四年:2013/04/15(月) 21:42:58.46 ID:ez3dV1CT
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
592人間七七四年:2013/04/15(月) 21:43:22.06 ID:ez3dV1CT
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
593人間七七四年:2013/04/15(月) 21:43:52.89 ID:ez3dV1CT
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
594人間七七四年:2013/04/15(月) 21:44:23.15 ID:ez3dV1CT
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
595人間七七四年:2013/04/15(月) 21:44:46.26 ID:ez3dV1CT
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
596人間七七四年:2013/04/15(月) 21:45:15.22 ID:ez3dV1CT
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
597人間七七四年:2013/04/15(月) 22:38:22.18 ID:ez3dV1CT
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで5か月もようしているのは
蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
598人間七七四年:2013/04/15(月) 22:41:12.96 ID:ez3dV1CT
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
599人間七七四年:2013/04/15(月) 22:42:11.44 ID:ez3dV1CT
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
600人間七七四年:2013/04/15(月) 22:43:19.29 ID:ez3dV1CT
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
601人間七七四年:2013/04/15(月) 22:43:45.30 ID:ez3dV1CT
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
602人間七七四年:2013/04/15(月) 22:44:12.28 ID:ez3dV1CT
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる

蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
>>長久保落居
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
>>曲解してるだけ
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
603人間七七四年:2013/04/15(月) 23:21:46.83 ID:ez3dV1CT
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
604人間七七四年:2013/04/15(月) 23:22:25.75 ID:ez3dV1CT
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
605人間七七四年:2013/04/15(月) 23:23:00.09 ID:ez3dV1CT
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
606人間七七四年:2013/04/15(月) 23:23:26.13 ID:ez3dV1CT
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
607人間七七四年:2013/04/15(月) 23:23:50.38 ID:ez3dV1CT
>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
秀吉は家康や信雄を野戦につり出して大破する目論見があったのに
家康が来ないからまんまと狙いが外れた
木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ

>一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
当たり前。場所的関係から言って竹鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
そんな芸当神でもないと無理。逆にこの2城取っても信雄領国で崩壊が起こっていないのが戦局に対して影響がなかった事をあらわしている

>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
そんな資料ありません
>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
>9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
このときの和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
ソースは軍記のみです
>秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
>秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる

>(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
>秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ
三河物語や当代記に書いてある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから
継戦不可能といわれても根拠なし
>これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど)
>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ
>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな
>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう 574:名無し曰く、:2012/05/06(日) 15:57:15.33 ID:3YvKmTkl >信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
カチカチになっていたのは秀吉の方
7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの城郭をガチで攻め切れず
家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと
>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって
釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった
>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
秀吉は神戸・松ノ木・長久保・二重掘・蟹江・戸木と各城郭で苦戦・敗戦したため
家康にしてみれば雑魚すぎるぞこいつという感じだった
>無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
木曾小笠原真田水野石川が出奔し徳川の軍事機密も露見し圧倒的国力差が生じ
今川氏真でも勝てそうな状況で母と妹を人質に出し家康に大領土与え、豊臣滅亡の要因を直接作った
秀吉の大敗
608人間七七四年:2013/04/15(月) 23:24:23.96 ID:ez3dV1CT
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ

>>583
木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
609人間七七四年:2013/04/15(月) 23:42:19.85 ID:ez3dV1CT
>>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな
>>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ 大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに
>>信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろ。土方雄良・雑賀松庵この
二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
>>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
>>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明
>>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
>>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに
囲っただけで勝ったようにいわれても
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに
勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
610人間七七四年:2013/04/15(月) 23:53:59.78 ID:bI+jpcgG
さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
>>お前の主観なんて聞いてない
本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
>>信雄がへタレて
ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
>>一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定
そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
611人間七七四年:2013/04/15(月) 23:55:44.27 ID:bI+jpcgG
>>蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
ププッそれ軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
(秀吉本人も中割戦略として6/4の佐竹宛の秀吉書状で加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っている)
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
当然のように危険極まりない行為をしたために
16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で
7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
>>馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
曲解してるだけだろ。信雄と家康がすでに追い詰められているのを
秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
持っていて、見通しが付いていただけの話。
そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
>>砦を数箇所構築したので納馬する予定である
だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して
長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で
秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いてて まったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
秀吉貶したいチョン君がいくら家康が圧倒的に有利だったと捏造しても
無駄だよ。家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために
軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら良かったのにねwww
>>楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論
どこが暴論だか意味不明。
612人間七七四年:2013/04/15(月) 23:57:05.48 ID:bI+jpcgG
>>石川派遣
それ10/5の書状で木曽谷で放火した話だろ。で、結局、遠山半左衛門が討死してんじゃんよ。
それに応じて、秀吉が東美濃へ行くって10/19に宣言したけど
10/22付けで坂本まで出陣したけど、俺が向かったら敵は逃げちゃったから
このまま伊勢へ乱入するよって言ってて
結果的に信雄の降伏を早めただけなのが先がまったく読めないアホ家康の東美濃での攻撃。
11/7には美濃の東駒野でも田中真吉宛て戸田勝隆書状や土倉四郎兵衛に戦功を賞してる秀吉の姿がわかるし
>>木造の軍記を引用してた
軍記じゃないよ家譜だよ。そもそも兵糧不足で刈田をやったり、家康が兵糧搬入のつなぎ城として
浜田城を建設するように命じていたりと早くも苦境ぶりが露呈してたし
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
それを受けて7/28付の小島・蒲生宛文書ですでに木造は和睦交渉を開始してるし
さらに具体的に奄芸郡一身田の高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になったと書いてるんだから
正当な理由があって木造氏が開城しただけで不利とか関係ないだろ。
南伊勢を唯一支えていた木造の降伏が伊勢失陥確定となり信雄は即降伏したとみるべき。
>>勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
そりゃあ、あれだけ完全に秀吉に信雄が包囲され王手に至ってんだから
その状況になるまで、なすすべなく傍観していた家康が悪いに決まってるだろ。
そして当初は家康と石川だけが人質を出す条件だったのに、結局酒井まで人質を出す羽目になる。
家康単独で秀吉に敵うわけもなく、家康には従うしか選択はないのが現実。
あとは信雄を間に挟んで条件闘争をするしかない。
>>秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生
伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ完全にに周知の事実だw
そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
だいたい南伊勢戦線は戸木城が兵糧尽き、東美濃戦線でも圧倒的有利に秀吉が展開してたし、
上杉も信濃戦線に参加したから木曽をはじめ離反大会になりつつあり家康の信濃戦線はもはや崩壊前夜じゃねぇかw
613人間七七四年:2013/04/15(月) 23:58:56.29 ID:bI+jpcgG
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末で、超誇張戦果吹聴で騙して味方を増やそうと必死な情報操作w
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
614人間七七四年:2013/04/16(火) 00:00:55.39 ID:ILcsR+/Y
お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかをよく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
結果、尾張では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部の尾張北西部を秀吉に削り取られ
替地を用意できない信雄は三ケ一引などと旧知行高の三分の一を一律に減らさざる負えなくなる始末じゃんよw
>>長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略で
その妄想をそのまま流用しただけの谷口氏もまったく一次史料によるソースを書いてないアホくさいデタラメ。
秀吉がそんなことを命じた書状も皆無。ちゃんと佐竹に加賀野井城・奥城攻めを敵城中割だと秀吉は伝えてるし
さらに秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。お前があるある詐欺してる家忠日記にも当然書いてない。
つかお前が主張する「秀吉は東駒野・松の木・河波・神戸・長久保などで相次いで敗戦する醜態ぶり」とやらの具体的ソースを早く出せよw
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
堀をアンチ呼ばわりとか都合がいい頭してんなw無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してまでw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw噂レベルの話の場合は顕如日記には必ず雑説と書くが、この文にはそんなことは一切書いてない。
615人間七七四年:2013/04/16(火) 00:02:51.46 ID:ILcsR+/Y
>>陣立書から名前がみえなくなる
違う場所へ転戦しただけだろw信純=信張(同じ左兵衛佐だから)なのは有名だから知ってるよな。
んで、信張の名前で花押付きのものを5/7に香曽我部に書状出してる。
そこには二重堀なんて出てこないぞ。しかも秀吉は同月朔日にはすでに陣を
払っていることを報じているので秀吉自体もいない。
(信張は撤退理由として秀吉が敗北の体にてなどと自称してるが)

それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。
だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて、上杉の新発田攻め計画を止めさせて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)
また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
616人間七七四年:2013/04/16(火) 00:05:31.41 ID:ILcsR+/Y
>>蟹江合戦の敗戦
この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ。
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
あぁ?家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?嘘ついてんじゃねーよw日付明示してみろよw
>>滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事
だからなんなの? 俺が書いた文章がチョンだからちゃんと理解できてないの?
「この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ」と書いてるのに
なんで滝川敗戦後の話を持ち出して、蟹江攻略が当初からの
秀吉の戦略の一環だったことの証明できんの?まったくできてないだろ。
秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
そもそも秀吉の出陣先は6/21書状から伊勢であり、蟹江じゃないから滝川の後詰めをしようとしていたわけでもない。
むしろ滝川がアホな敗戦したから7/5付けで秀吉は出陣日まで仕切りなおししただけだろ。
>>秀吉のマンセー太閤記や書状なんて日付どころか内容自体デタラメだからな
その軍記の太閤記にだけ「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてるんだがwww
家康がいる清洲城と信雄のいる長島城を分断すると馬鹿馬鹿しい講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う
当然のように危険極まりない行為をしたために
滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
617人間七七四年:2013/04/16(火) 00:07:47.91 ID:ILcsR+/Y
俺の質問には一切回答しないでコピペしてるだけじゃねぇかwww
俺は回答待ちして待ってるのにそのまま誤魔化す気満々だなw
そもそも家康の擁護に 〜だったから 〜のおかげ 地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
つか読む気が失せる垂れ流し駄文で、論点を曖昧に誤魔化してるだけだし。
秀吉にガンガン侵食されていくばかりで与える領地もない信雄は、吉村が今尾で放火した功を報告してきたことに対して
3/28に粉骨を褒めて、続く4/6にいまだに秀吉方の森寺忠勝の今尾城を与えると書き
さらに4/25には駒野周辺を守っていた高木貞利にまで今尾城を与えると信雄は家臣の土方雄良に言わせて
二重約束の空手形まで発行する背信までやらざる負えないほど追い詰められてる。
ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
これにより11/7になると信雄は完全に切羽詰って、吉村まで疑心暗鬼になって疑いだすんだよなw
長久保の福田別心と書いて秀吉の調略に乗って寝返りかましたことに触れて
日原まで平手大炊助を派遣すると書いた後に、お前の妻子は俺が預かってるとか
わざわざ恫喝してどーすんだよw
11/10にはちゃんと吉村が謀反した福田を討ち長久保を落として忠義を示してるのに。
しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れはこの地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
年次不明の2月朔の信長書状では今尾城の守備について
当時の今尾城主だった貞利の父の高木貞久に申し付けたとして
諸事相談して協力して守るように吉村・木村・田中・西松ら近在土豪らに宛てた書状があり
ここらの顔役だった高木の降伏は家康・信雄らには完全に決定打だよ。
策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
士気が崩壊した信雄軍という状況は秀吉の戦略通りに事態が遂行されていった結果だといえる。
(これは戸木城にも言えることで地域の有力国人である小島民部・田丸具直・榊原(徳川四天王榊原の本家にあたる)
も秀吉に調略され付け城を相次いで造られ外部との連絡がまったくとれず完全包囲された)
まぁどうせお前は>>地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
などといつものフレーズを言い出すだけだろうがな・・・
家康の無理くり擁護に 〜だっただけ 〜だったから 〜のおかげ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
気持ち悪いほど家康贔屓の偏りっぷりだな。朝鮮人の史観って気持ち悪いわ・・・
木曾小笠原真田水野石川の出奔とかこれ全部、家康の明らかな劣勢さからの離反でなく
ある日突然降り掛かった自然災害みたいな表現で繰り返し連呼し続けるお前のチョン脳が理解できんわwww
史料を読む限り秀吉が余裕かましていて、家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ない
ヒッキーに過ぎないのが判明してるんだけどな。しかも秀吉によって上杉や毛利が北条や長曾我部と開戦してしまい、
完全に追い詰められた家康ってのが事実。秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
この戦役の主導権を終始握り続けていた。 また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、
家康が騙していただけだったりと切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
家康には打開策がまったくなく、ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。
618人間七七四年:2013/04/16(火) 00:11:54.19 ID:iWLLGpAk
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
>>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
>>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
>>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
>>情けないことになっちゃったんだがw
そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ
なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ?
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
619人間七七四年:2013/04/16(火) 00:12:28.29 ID:iWLLGpAk
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
620人間七七四年:2013/04/16(火) 00:13:02.80 ID:iWLLGpAk
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
621人間七七四年:2013/04/16(火) 00:13:48.85 ID:iWLLGpAk
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしな
ちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
622人間七七四年:2013/04/16(火) 00:14:17.19 ID:iWLLGpAk
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
>>ププッそれ軍記の太閤記に出てくる 「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
>>そんなことを秀吉が命じたソースはないし滝川が自分の意思で調儀しただけで、
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
>>19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
>>当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
623人間七七四年:2013/04/16(火) 00:41:56.04 ID:iWLLGpAk
>>曲解してるだけだろ。
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
624人間七七四年:2013/04/16(火) 00:51:31.05 ID:ILcsR+/Y
>>吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
よくそんな飛躍した妄言を思いつくもんだなw
吉村とかは信雄の家老でもなんでもねぇ末端城主で政策に関与してる立場じゃねぇだろが同一視すんじゃねぇよアホ。
だいたいその織田信雄分限帖って秀吉との和睦成立後の論功行賞後の奴だよねぇw遡って大身だからとあぁだこうだいうんだw
そもそも大身の基準ってなに?吉村の参千貫文程度が大身なのかw羽柴三郎兵衛(滝川雄利)の13万8370貫は超SSS大身とか呼称するしかねーなw
そもそも木曽や真田や小笠原ら信濃最有力国人3氏が家康から離反した理由は、真田が家康への不満を吐いた諏訪郡知行宛行約束で騙しておいて
その約束を忘れて沼田割譲しろなんてお前はアホかと離反した事実経緯を分析した池亨氏が家康からの離反組は秀吉との戦いにおいて約束された所領の獲得が
実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
ウソの連発で必死に繕ってた張子の虎のような徳川軍が秀吉軍とまともに戦えるような状況にはなく、時間が経てば経つほど徳川が一方的に不利になるだけの話。
>>天正大地震で壊滅的被害受けたのは信雄領国の尾張や三河だタコw
天正地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに三河と尾張でしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け越中でも木舟城が被害を受け
伊勢でも人家多数倒壊死者続出、京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだぞw
天正14年の木曽川被害も信雄や家康だけ被害とか頭が壊れてるとしか思えんwむしろ被害をもっとも受けたのは
信雄や家康との戦いで秀吉が削り取った尾張北西部だわwなんせ葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こってしまったほどだからなw
イエズス会日本報告集
御本所は三河国主を味方にして羽柴に敵対した。
彼は父の下僕が高い地位に上り、父の子である自分が羽柴の家臣に留まることが我慢できず除こうとした。
しかし羽柴は優れた武将であり、大きく優位にあったので彼らは降伏し和平を乞わざるおえなかった。
羽柴は和平を認め三カ国のうち、一カ国半を自分のために取り、一カ国半だけを彼に残し
彼の娘と三河国主の長男を人質として取った。
尾張の国で戦が始まるときに都に敵が来る事件が起きた。
都の副王(前田玄以のこと)も留守で大騒ぎになったが、都の反対側から三里のところに
羽柴が兵を配置しておいた1人の武将が助けに向かい敵は殺されたり連行され、副王が厳重に調べた。
すると都の二街の住民が逃げ出した。このことを聞くと羽柴は捕らえた者を餓死させようとした。
この中には裕福な者もいたので賄賂を贈り、内裏の太子に助けを求めた。そして仲介の労をして
街へ戻らせた。羽柴殿は尾張から戻ると坂東のほかの国主や大身も味方になっていた。
というのも彼の戦での成功を見たからである。
625人間七七四年:2013/04/16(火) 00:53:18.66 ID:ILcsR+/Y
つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
626人間七七四年:2013/04/16(火) 00:55:30.64 ID:ILcsR+/Y
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ山中ら尼子復興軍の敗退の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・折敷畑合戦はなかった
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
ttp://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
627人間七七四年:2013/04/16(火) 00:57:01.89 ID:ILcsR+/Y
本願寺が朝廷の和議に応じた後に信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。毛利に苦戦とかギャグかよwww
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから石高に応じた軍備と兵役の賦課のできない織田旧体制のままの武辺道重視の柴田に
圧勝した改革派秀吉に対して、天正11年12/15に安国寺が、毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、高機動の秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。
ところで安国寺はなかなか先が読める人間で1584年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。
628人間七七四年:2013/04/16(火) 00:58:01.32 ID:ILcsR+/Y
信長公記を読むと、秀吉と荒木への援軍として5/6に信忠や信雄や信孝や佐久間らの大軍が明石に到着し、
神吉城や志方城や高砂攻略を開始。
6/18に高倉山に陣する秀吉は播磨より罷り上がり山中ら救援を嘆願しに信長に会談しに出発してるが、
信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が、
秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから、退却はそれ以後の話なわけだ。
決して大敗して書写に逃げたわけじゃない。
6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない。
毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりで、
さらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城をさらに追撃し、
ついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし、
7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。その頃の秀吉はすでに但馬で国衆を召し出し、生野銀山を押さえる竹田城に弟を配置し、
信忠らの撤兵後を視野に入れた三木城包囲のための資金と兵集めをしてる頃でしょう。
そして7月は荒木が勝手に有岡城へ帰国したため謀反の噂が立ち上り始める月でもある。
摂津一国支配を仰せ付けたにも関わらずそれを捨ててまでの荒木の謀反理由は朝恩を誇り別心を構えたからであり、それならばもはや是非に及ばずだと言う。
朝廷の恩ゆえの誇りが謀反に駆り立てたと言うのはのちの光秀と同じだろう。
是非に及ばずとは朝廷の意向の前では是非を考える必要性すらないと言ったところか。
さて7/16には神吉城が落城し志方城も降参したので信忠らは秀吉方に両城を引き渡し帰陣し、
秀吉単独での三木城攻略が再開。 信長が8/15に相撲大会のために1500人を安土に集め始める中で、8/17に信忠が播磨から帰り着き納馬。
本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
4月中旬に毛利や宇喜多らが上月城包囲し、秀吉荒木が高倉山に近接対陣開始の一報が入った時は、
信長本人が出陣するって危機感持って言い出してたのに、明智や丹羽らの現地報告聞いてすっかり出陣する気持ち無くなって、
馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ。
629人間七七四年:2013/04/16(火) 00:58:59.09 ID:ILcsR+/Y
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく、
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。
630人間七七四年:2013/04/16(火) 00:59:46.37 ID:ILcsR+/Y
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。

伊賀家久の帰属に関わる萩藩士の先祖の由来があるため無かったことにできない戦ですら
捏造王の萩藩閥閲録・毛利家日記は負け戦を負けと認めず捏造歪曲する糞資料。

あれは合戦では無かったので毛利の敗北とするのは間違えなので
デッチアゲ虎倉合戦では無く正式名称は加茂崩れと呼称する始末。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が我が長州藩の家臣となった。
631人間七七四年:2013/04/16(火) 01:24:03.56 ID:iWLLGpAk
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
632人間七七四年:2013/04/16(火) 01:24:41.52 ID:iWLLGpAk
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない


4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
633人間七七四年:2013/04/16(火) 01:25:09.08 ID:iWLLGpAk
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
634人間七七四年:2013/04/16(火) 01:25:33.47 ID:iWLLGpAk
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
635人間七七四年:2013/04/16(火) 01:26:01.58 ID:iWLLGpAk
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え
1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉

>>279
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
636人間七七四年:2013/04/16(火) 01:26:26.70 ID:iWLLGpAk
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
637人間七七四年:2013/04/16(火) 01:26:56.55 ID:iWLLGpAk
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
638人間七七四年:2013/04/16(火) 06:56:18.14 ID:ILcsR+/Y
お前、それ家わけ文書に載ってると誤解してんの?w
家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www

>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、

上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語

つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
639人間七七四年:2013/04/16(火) 06:59:07.28 ID:ILcsR+/Y
イエズス会日本報告集
御本所は三河国主を味方にして羽柴に敵対した。
彼は父の下僕が高い地位に上り、父の子である自分が羽柴の家臣に留まることが我慢できず除こうとした。
しかし羽柴は優れた武将であり、大きく優位にあったので彼らは降伏し和平を乞わざるおえなかった。
羽柴は和平を認め三カ国のうち、一カ国半を自分のために取り、一カ国半だけを彼に残し
彼の娘と三河国主の長男を人質として取った。
尾張の国で戦が始まるときに都に敵が来る事件が起きた。
都の副王(前田玄以のこと)も留守で大騒ぎになったが、都の反対側から三里のところに
羽柴が兵を配置しておいた1人の武将が助けに向かい敵は殺されたり連行され、副王が厳重に調べた。
すると都の二街の住民が逃げ出した。このことを聞くと羽柴は捕らえた者を餓死させようとした。
この中には裕福な者もいたので賄賂を贈り、内裏の太子に助けを求めた。そして仲介の労をして
街へ戻らせた。羽柴殿は尾張から戻ると坂東のほかの国主や大身も味方になっていた。
というのも彼の戦での成功を見たからである。

日本西教史
羽柴はもっぱらその帝国を堅固にせんことに励み、信長の三男は、その父の臣下が簒奪をもって
己らを制御するに堪え忍ぶことあたわず、三河殿とはかった。
中略(水攻めの話が続く)羽柴は信雄と家康の2人を許した。

信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。
640人間七七四年:2013/04/16(火) 07:01:11.31 ID:ILcsR+/Y
イエズス会日本報告集
根来を攻める予定だったが、突如として信長の息子で御本殿(信雄)が羽柴に対して叛旗した。
彼は羽柴殿に人質を出していた者三人を切り三河の国主の助けを求めた。
羽柴は陰謀の経過がよくわからなかったが、迅速かつ容易にいかなる陰謀かを想像し
彼自ら敵を求める決意をした。伊勢国へ着く頃には7万になっていた。
同国に入るやただちに敵の諸城を取り囲み武力で落とし全土を抑え、長島と称する一城のみになった。
伊賀はただちに降伏したので即座に尾張へ向かった。
中略
小牧長久手の戦いが終わったのち越前・加賀・能登より3万が羽柴の援軍にきたが
かくも多くの兵力を必要としないのでただちに帰らせた。
根来の者達がこの機会に大坂を奪おうとしたが、岸和田に羽柴が中村一氏を隠していたのを知らず
奇襲され大敗し短時間に4000人以上が殺害された。
羽柴の海軍司令官の小西は敵の出陣を知ると70艘の艦隊を率いて堺の前へ出た。
豊後の国主が信長に贈った大砲一門を備えており、敵軍が通る和泉国の海岸を急襲し敵兵を殺した。
1584年6月末の書簡によれば、記述の戦ののち、三河国主も本所殿も己の城より出ることを望まず
羽柴は武力で少しづつ彼らを陥落させてゆき、今は極めて重要な城を攻めている。
難攻不落の城だったが、敵を溺死させるべく塁壁を築き、水を入れ、籠城者は恐れをなし命乞いしたが
羽柴は耳を貸さずに皆殺しにしようとしている。
彼は小西を呼び、水上からも攻撃するためであった
641人間七七四年:2013/04/16(火) 08:13:34.82 ID:TLLVdKj7
こんな長文誰か読むやついるのか?
つか、その辺はある程度調べてから来るもんだろ。
642人間七七四年:2013/04/16(火) 08:24:43.14 ID:iWLLGpAk
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々。これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる。必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない。アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
643人間七七四年:2013/04/16(火) 08:26:46.63 ID:iWLLGpAk
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる。必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
644人間七七四年:2013/04/16(火) 08:28:22.43 ID:iWLLGpAk
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」

>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
645人間七七四年:2013/04/16(火) 08:29:36.39 ID:iWLLGpAk
>>20万人が戦った関が原の戦いですら
>>旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?
むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
646人間七七四年:2013/04/16(火) 08:30:46.28 ID:iWLLGpAk
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
647人間七七四年:2013/04/16(火) 08:31:53.35 ID:eX1GAVGz
>>641
いるわけが無い
そいういう機微がわからないからアスペといわれる
648人間七七四年:2013/04/16(火) 08:32:40.86 ID:iWLLGpAk
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
649人間七七四年:2013/04/16(火) 08:34:00.44 ID:iWLLGpAk
むしろ一万人くらい戦死してないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
650人間七七四年:2013/04/16(火) 08:35:12.47 ID:iWLLGpAk
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
651人間七七四年:2013/04/16(火) 10:23:13.88 ID:iWLLGpAk
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど。秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな織田家臣
だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が
雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人4/10家康書状一万人4/11家康書状一万人4/13北条氏政・氏直書状1万人5/2小早川隆景書状一万人余り5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人家忠日記1万五千余り顕如日記1万人余りイエズス会年報1万人フロイス日本史一万人当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人  戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎
秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる。3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
652人間七七四年:2013/04/16(火) 10:24:31.49 ID:iWLLGpAk
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態。小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくっ
て佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだからいかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝してたからいかに必死で
政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地三河からして完全に崩壊してる。三河渥美郡常光寺日記
>>4/17本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃される
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河が崩壊とか馬鹿ですか?
むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
653人間七七四年:2013/04/16(火) 10:25:25.77 ID:iWLLGpAk
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
654人間七七四年:2013/04/16(火) 10:27:27.32 ID:iWLLGpAk
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
655人間七七四年:2013/04/16(火) 10:29:02.66 ID:iWLLGpAk
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情。顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停を
はかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの
家康(徳政連発と譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいある
であろう圧倒的優位な状況でありながら軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、
信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っているまた浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し
兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&
池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で
苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
656人間七七四年:2013/04/16(火) 10:30:40.71 ID:iWLLGpAk
吉村氏吉は信雄と最も書状のやり取りが盛んであり信雄の軍事活動の中核的存在であったのは明らか
そもそも木造の開城なんて木造軍記の講談ネタで一次資料にないから論外(秀吉は敵方の城について開城したら逐一書状で自慢気にかくので
それがない戸木城は最後まで抵抗したのは明白。そもそも吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない)
>>池亨氏も家康からの離反組は秀吉との戦いにおいて約束された所領の獲得が
木曽は天正12年春時点で離反してるし小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
>>実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
>>つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
657人間七七四年:2013/04/16(火) 11:20:04.31 ID:iWLLGpAk
>>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ?
北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
658人間七七四年:2013/04/16(火) 11:21:30.38 ID:iWLLGpAk
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
659人間七七四年:2013/04/16(火) 11:22:52.89 ID:iWLLGpAk
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな

>>天正地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに三河と尾張でしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
>>近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け越中でも木舟城が被害を受け
>>伊勢でも人家多数倒壊死者続出、京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだぞw
>>天正14年の木曽川被害も信雄や家康だけ被害とか頭が壊れてるとしか思えんwむしろ被害をもっとも受けたのは
>>信雄や家康との戦いで秀吉が削り取った尾張北西部だわwなんせ葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
>>美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こってしまったほどだからなw
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
660人間七七四年:2013/04/16(火) 12:11:59.13 ID:iWLLGpAk
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い
>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
また天正13年夏にも大地震が起こり 三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
661人間七七四年:2013/04/16(火) 12:51:48.16 ID:bJUjwDsQ
在日きもい
662人間七七四年:2013/04/16(火) 13:49:19.21 ID:iWLLGpAk
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25

晋叟寺文書天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
663人間七七四年:2013/04/16(火) 13:49:46.87 ID:iWLLGpAk
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
664人間七七四年:2013/04/16(火) 13:51:07.31 ID:iWLLGpAk
>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城
ソースは軍記のみです
>秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。秀長も木曽川に沿って大垣から長久保まで南下。
長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
>(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
>秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ。三河物語や当代記に書いて
ある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから継戦不可能といわれても根拠なし
>これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど)
>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ
>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな
>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記し家康もこれ以上の戦争継続は不可能
家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない。その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう
>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
カチカチになっていたのは秀吉の方。7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの
城郭をガチで攻め切れず家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと
>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって
釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった
665人間七七四年:2013/04/16(火) 13:52:18.34 ID:iWLLGpAk
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし家康らに戦局を挽回する力はまったくない
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのになぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だから砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで信雄を完全に八方塞りにして秀吉は信雄を追い詰め
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできず清洲城で震えて信雄の降伏を傍観して
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明。ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して
余裕で対応だろ。んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな。震えてたなんて史料は全くない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語って完全に周知の事実
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際。そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如日記でも敗軍したが「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」 などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。
それほど負けが痛かった証拠。顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
666人間七七四年:2013/04/16(火) 13:53:42.33 ID:iWLLGpAk
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明。しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万と
してるし秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万。また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた
手紙でも1万といってるわけで3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけ。秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死
残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている。外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは
>>非難されて当然だろう。4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどう
とさせているのがわかる。4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
667人間七七四年:2013/04/16(火) 14:44:03.02 ID:bJUjwDsQ
生活保護無職24時間自宅警備員チョン
668人間七七四年:2013/04/16(火) 15:06:23.49 ID:iWLLGpAk
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状。正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍が
あるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でも
ちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど信雄・家康勢は圧されっぱなしで5/6に加賀野井城を落とされ
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍
を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉。ヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
669人間七七四年:2013/04/16(火) 15:10:01.79 ID:iWLLGpAk
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
670人間七七四年:2013/04/16(火) 15:10:52.77 ID:iWLLGpAk
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
671人間七七四年:2013/04/16(火) 15:11:24.17 ID:iWLLGpAk
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても

>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
>>そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
>>これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。


>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww

こんな記述どこにもねぇわカスw
672人間七七四年:2013/04/16(火) 17:34:56.84 ID:iWLLGpAk
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
ただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけ。蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞ってる
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけない。蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦や
尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
673人間七七四年
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退