482 :
人間七七四年:
高野山は畿内を中心に全国で17万石を超える所領を持ってて織田から逃げ出した荒木を匿ってた。
高野山と織田は大和国宇陀郡などでの領有権で争っていたこともあり各地で衝突や紛争を指示してた。
これらが長期化しついに織田による高野山攻めが開始されるも織田は敗退が続き
本能寺の変まで粘りきった。
高野山側から上杉景勝に宛てて
本能寺の変まで山内に織田を侵入させなかったと書状も出しており
この時期の祖父信長との戦いをネタに関ヶ原後に改易され高野山に追放された孫の織田秀信は
高野山側から迫害され続けられた挙げ句に追放され野垂れ死んだとも言われる。