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人間七七四年:
能登守護である分家の畠山義総と共に越中と紀伊の分国を持つ管領畠山政長の子である
河内畠山氏の畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城を落城させて奸臣を除いた謙信は毒殺されたと言う
能登畠山氏第11代当主畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その遺児の畠山春王丸を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
奸臣を支援した織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に
伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
死んたから支援の名目が失われたってことにしないと
あんだけの陣容を備えながら上杉軍から逃げた理由を作り出せないからね。