戦国ちょっといい話5

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228227497/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231113276/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/01/09(金) 20:21:14 ID:pejwfQaN
>1
乙に候!
3人間七七四年:2009/01/09(金) 20:32:33 ID:Z68yCiyN
>>1
乙ですー
4人間七七四年:2009/01/09(金) 21:06:38 ID:Z68yCiyN
戦国の幕開けを飾った英雄、伊勢宗瑞(北条早雲)の有名な早雲寺殿廿一箇条より、
第十四条にある、いい言葉


「いいか、身分の高い者にも、低い者にも、どんな人に対しても、一言でも、半句であろうとも、
決して嘘だけはつくな。
どんなささいなことでも、ありのままに話すんだ。

嘘で物事を取り繕えば、それは必ず癖になる。そうなったらたちまち信用を失い、人から見限られる。
そうして、その嘘を人から糾弾されるようなことになれば、それは一生の恥になる。

いつも、そう心得ておくんだぞ。」
5人間七七四年:2009/01/09(金) 21:09:15 ID:elpnJgLB
嘘ばっか付いてる俺には耳の痛い話だな…
6人間七七四年:2009/01/09(金) 21:34:28 ID:X6OtJiIx
>>4
あれ?

早雲さん、どうやって小田原城盗りましたっけ?
7人間七七四年:2009/01/09(金) 21:38:16 ID:elpnJgLB
仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。百姓は可愛いことなり
8人間七七四年:2009/01/09(金) 21:46:52 ID:Z68yCiyN
>>6
例の鹿狩りは後世の創作だからねえ。
小田原城主の大森氏は、もともと扇谷上杉方で、伊豆公方−山内上杉ラインと対立する
宗瑞の味方だった。
なんせ、山内方の小田原城への攻撃に対し、大森氏への援軍として伊勢宗瑞の軍勢が
入ったって記録すら残ってる。


宗瑞さんの小田原城攻略の経緯は、

大森氏、扇谷から山内に寝返る→伊勢宗瑞、扇谷の要請を受け小田原城を攻める→大森氏を破り奪取

こんな感じらしい。
9人間七七四年:2009/01/10(土) 00:01:21 ID:f8WuQhos
前スレ1000
鮭様降☆臨
10人間七七四年:2009/01/10(土) 00:03:41 ID:7ylZ7feT
>>9
うほっ!いい金棒
11人間七七四年:2009/01/10(土) 00:12:25 ID:QNgZKM2P


かの山中鹿之助の家臣に少々変わった男がいた。

鹿之助の娘婿でもあったその男の名は亀井コレ矩
(コレは滋からさんずいを取る)


鹿之助の没後は豊臣秀吉に仕え毛利攻めで功を上げ鹿野城(鳥取)を与えられている。

秀吉が恩賞を与えようとしたときの事。


当時まだ外国だった琉球を望み秀吉を困らせた

仕方ないので秀吉は団扇に「琉球守」と書いて渡しお茶を濁した。
これによりコレ矩は亀井【琉球守】と呼ばれるようになる。

城持ちになってからも海外への憧れはとどまる所をしらず

遂にはタイとの朱印船貿易を始め、鹿野城をわざわざ東南アジア産の木材で大改修する。

城下町の山河にインドの仏跡に因んだ名前をつけ
パダニ(マレーシア)との通商が途絶えた時には勝手にパダニ国王へ手紙を送っている。



日本で初めて西洋型帆船の建造を試みた男のお話。

12人間七七四年:2009/01/10(土) 00:45:28 ID:7ylZ7feT
>>11
鹿介たんみたく「ヒャッッホォォウ、尼子サイコー!」という御家再興マニアじゃなくて、
あっさり織田とか強者に仕えるから(鹿介と)イマイチ仲はよくなかったらしい。

……家名生き残りを図った、むしろ現実的な武将かと思っていたのにシャム,天竺マニアだったとはw
13人間七七四年:2009/01/10(土) 00:57:21 ID:wY4wx3Pi
亀井琉球守殿は実際に琉球だか台湾だかに出兵しようとしてなかったっけ?
神風(笑)にやられて命からがら戻ってきたらしいけど。
14人間七七四年:2009/01/10(土) 01:13:03 ID:crJ8zIGh
固茹で卵家臣の話。

大坂冬の陣最大の激戦の一つ、鴫野の戦いを制した上杉家に対し
後日徳川家から感状が下された。
家康から感状を戴いた古将水原親憲、なんと家康の面前その場で感状を開いて読み、
「景勝公のみならず陪臣の身である私にまでこんな名誉を戴けるとは
謙信公以来の上杉の武名をあげられて嬉しいことです」と言った。
水原は感状の内容がもし自分を上杉家臣としてではなく
上杉家を無視し徳川の家来扱いするような内容であれば
その場で受け取りを拒否する腹積りであったそうな。
そして水原は退室したのちに
「こたびの戦は子供の石合戦のようなもので怖くも骨折りとも思わなかった。
謙信公の元で戦場を駆け回っていた頃は今日死ぬか明日死ぬかと思いながら
必死に戦ってきたが一度も感状など貰えた事はなかった。
こんな花見のような合戦で感状をいただけるとはおかしなことだ」と言って
大笑いしたという。

一方鴫野の戦いにおいて水原に劣らず奮戦し功を上げた安田能元。
しかし彼は直江と折り合いが悪かったために
徳川までその武功が届かず感状は貰えなかった。
そして感状を貰った同僚に対し安田は
「感状を貰えて良かったな。俺は武功を報告する人間がいなかったために
ひとり感状を貰えなかったが、しかしお前達に負けたとは思わないぞ。
俺は景勝様一人のため戦ったのであり、公方のためになど一筋とて働こうとは思わないし、
よって公方からの感状など欲しくもない。
お前たちも今後とも景勝様を第一に考え働くことだ」と強がったという。
15人間七七四年:2009/01/10(土) 01:45:15 ID:7ylZ7feT
>>14すいばら親憲もカコイイ!が、漏れは頑固爺ぃノリの安田能元が大好きだなー

直江山城守とやたら相性が悪かったという安田さん、(兼続とお友達な)前田慶次郎と何故か仲良しだったとか。

……武辺者と教養人、両方と妙にウマのあう(元)傾奇者もいたんです。という、これは余談
16人間七七四年:2009/01/10(土) 01:54:36 ID:i4hNXzqa
>>11
亀井さんは関ヶ原の時に斎村さんに酷い事ry

これは悪い話か
17人間七七四年:2009/01/10(土) 01:57:58 ID:dNfjmzlK
水原も安野も気骨ある感じやねぇ
18人間七七四年:2009/01/10(土) 02:09:18 ID:7ylZ7feT
>>16
あー、鳥取攻めで大火を出しちゃった責任なすりつけたんだっけ。悪いやつだな…

詳しい人、向こうのスレで書いてくれんかね。
19人間七七四年:2009/01/10(土) 02:47:46 ID:KPGWL1OK
>>12
鹿介たんみたく「ヒャッッホォォウ、尼子サイコー!」という御家再興マニアじゃなくて、
あっさり織田とか強者に仕えるから(鹿介と)イマイチ仲はよくなかったらしい。

違うだろ「ヒャッッホォォウ、尼子サイコー!」という御家再興マニアじゃなくて、
山中が御家再興マニアだったら新宮党じゃ無くて御本家の義久公に行くべきだろう?
20七難八九:2009/01/10(土) 02:50:39 ID:7ylZ7feT
>>19
「だって毛利に取り込まれちゃったんだもん」


御家存続マニアではなく、再興マニアと書いたのはそのためよw
21人間七七四年:2009/01/10(土) 11:35:13 ID:crJ8zIGh
>>15
ほんとに直江と仲悪かったのかは置いておくとして
安田さんも会津三奉行と言われた行政手腕に優れた人だったらしいですけどね。
ちなみに毛利さん達と同族ですね安田さんは。
22人間七七四年:2009/01/10(土) 11:50:15 ID:Y9fHp9sC
そだね、キタジョーとモーリと同じだね。
つかきのう安田城みたけど低いし小さいしすぐに落城しそな作りに感じた。
よくあんなので徒歩20分くらいの距離にあるキタジョー城のキタジョーとちょくちょく争って滅びなかったなと思った。
23人間七七四年:2009/01/10(土) 16:31:14 ID:yFB8OBXr
>>22
城と言えば、戦国時代真っ盛りの畿内なんて、ほとんど一村一品運動ならぬ、一村一城状態だったらしい。
場所によっては一村どころか、ちょっと通りが離れただけでも城を構えたりしていたそうでw
なんでも当時は、ちょっとした有力者なら、戦略以前にステイタスとして城を構えたんだって。

徳川幕府の一国一城令は、戦略的なものもあるけど、それ以上に、分散されたステイタスを
大名大名一人に集中させて、その権威と求心力を確立する、って事もその大きな目的だったらしい。

参勤交代もそうなんだけど、これも、幕府だけじゃなく諸侯にもちゃんと得があったから、
きちんと実施されたわけなんだ、これが。
24人間七七四年:2009/01/10(土) 16:38:35 ID:KonWP0qC
大阪の陣は遠くの昔、島原の乱からでも十余年。
天下の転覆をもくろんだ由比正雪は、組織的に蜂起する間もなく自害に追い込まれた。
そして、徳川家の天下をくずすものは蟻の一穴すらなくなった。

由比正雪の乱からさらに6年後。
江戸の街の一角におこった火事が瞬く間に広まり、未だおさまらない。
尋常ではないことに気づいた江戸の庶民は、数年前に死んだ由比正雪とその一味を思い出した。

我らがヒーローJr鍋島勝茂公は、そのとき偶然にも江戸に参勤しておられたが、
折悪しく御病の床に就いておられた。

「正雪の一味が蜂起し、街中が燃えております!!」
重大情報をつかんだ家来達が、急ぎ勝茂公に言上した。
しかし、勝茂公ともあろうかたが、取り合わない。

なぜだ!
日々の政務の中でもでも、酒を飲み心休まる時でも「常在戦場」の心構えを失わない、
武士の中の武士・勝茂公も、ついに老いと病に気力を失ったのか!?
鍋島の家中広しといえど、いまや戦いに熟練したる武将は、御当主・勝茂公のみ。
その勝茂公の指揮無しでは、武門の家柄といえど戦いはおぼつかない。

ついに猛火は、公方の住まう江戸城にすら燃え移った!!
家来達は、必死になった。
「お城にも火が付きました! 戦にまちがいございません!!」

勝茂公も、家来達の必死の懇願により、病身を押して高所に登り、江戸の町をご覧になった。
そして、勝茂公はおっしゃった、
「私はこれまでにも戦場に燃える炎を見てきた。
今起こっている火事は、戦場のものとは様子が違う。
ただの火事である」と。

これが後に「明暦の大火」(1957年)とよばれる大火事での、
勝茂公の落ち着かれたご様子である。
25人間七七四年:2009/01/10(土) 16:45:33 ID:KonWP0qC
今調べてみたら、勝茂がなくなったのは、それから二ヵ月後のことだった。
「病身を押して高所に登り」ってのは俺が付け加えたんだけど、
本当に無理して火事の様子を見たんだな…。
26人間七七四年:2009/01/10(土) 16:46:05 ID:6w+hD5Ev
>「明暦の大火」(1957年)
戦後史じゃねーかw
27人間七七四年:2009/01/10(土) 16:51:07 ID:KonWP0qC
1657年だったあ〜!
28人間七七四年:2009/01/10(土) 17:05:52 ID:yFB8OBXr
元和二年(1616)、徳川家康、没する。

これにより名実ともに、将軍、徳川秀忠の治世が始まる。
翌元和三年六月、秀忠は朝廷への挨拶のため、上洛した。
この時秀忠は、仙洞御所の後陽成上皇から、お召しがあった。
上皇は語った

「家康は一生を戦国の中に過ごしたため、その行いの中には、王道に背く事もあった。
そしてそなたは治国の将軍となった。今の世の、殺伐とした気風を鎮め、仁政を施すのなら、
子孫も栄え、朝家も守護されるであろう。

過ちを改めるものには、天下の人々はそれを仰ぎ見る。
怠けたる心があれば、天運もまた心もとなくなる。

…今、将軍であるそなたに、汝の父のように異見する者は、朕の他にはもうおらぬであろう。
よってこの事、あえて話した。どうか、心に留め置いてほしい。」

秀忠はそれを、畏まって聞いていたと言う。

信長、秀吉、家康の、三つの天下を見てきた上皇からの、新しい治世への
はなむけの言葉であった。
29人間七七四年:2009/01/10(土) 18:12:34 ID:FQiYZ+Gy
>>28
この上洛、大阪の陣以前から病の床にあった真田信之が無理矢理連れて行かれた
で、家中は将軍家の嫌がらせだと大騒ぎ
小松殿は実家や娘の嫁ぎ先の高力家に抗議に奔走
ところが当の信之、帰国後に元気に
替わりに小松殿が病に倒れて翌年亡くなるという…
30人間七七四年:2009/01/10(土) 18:15:54 ID:k8EwxByG
将軍家の嫌がらせと言うより
秀忠個人の感情じゃないかと思った
31人間七七四年:2009/01/10(土) 18:18:58 ID:+7D7DeGm
上洛したのが良い息抜きになって回復したんじゃないかとも思えてしまうな
国元に居た方がなにかとストレスを感じるのかも
32人間七七四年:2009/01/10(土) 18:32:21 ID:sLeFyfEX
気を張りつめる生活に慣れすぎていて、弦が弛んだが故に病気になってしまったとか・・・
33人間七七四年:2009/01/10(土) 18:40:44 ID:BD1apIGy
>>28
んで『花と火の帝』に続くのか
34人間七七四年:2009/01/10(土) 19:25:05 ID:KonWP0qC
あれもいい所で終わってたな、そういえば
35人間七七四年:2009/01/10(土) 20:07:35 ID:7ylZ7feT
>>24は「死ぬこととみつけたり」で蜜柑
36四天王名臣録 1/4:2009/01/10(土) 21:28:38 ID:afOtHKON
元和8年(1622)、薩摩島津家の江戸藩邸を、直参旗本2名が訪れた。
「柳生新陰流・福町七郎左衛門および寺田少助、東郷重位殿との立会いを望む!」

将軍家指南役・柳生の門人と立ち会えば、勝っても負けてもカドが立つ。
家老・伊勢貞昌が応対して断ったが、薩摩にはそんなのキニシナーイ斜め上がひとり、いた。

「遠慮はいらん、討て! あ、いや・・・打て!」
島津家久(忠恒)の命で、61歳の重位は柳生の若手二人と立会った。勝負にならなかった。

福町は胸を袈裟懸けに打たれて動けなくなり、寺田は両手首をへし折られた。
二人はその場で、重位に弟子入りの誓紙を書いた。数日後、血を吐いて福町は死んだ。
(この誓紙、今も東郷家に保管されていると言う。)

「やはり、オレの示現流は天下一だったか!」家久は喜んだが、柳生の報復を恐れた重位は
貞昌の手配でその日のうちに薩摩に逃れ、二度と江戸へ出ることはなかった。

薩摩から出れぬ身となったが、坊津の代官も兼ねる重位は地元で悠々と晩年を過ごした。

ある夜、詰め碁に集中していた重位の屋敷の近くで、野犬が集まって騒いだ。
「うるさいのう。お前、行って斬って来い。」重位は嫡男・重方に野犬退治を命じた。

戻って来た重方は、野犬を斬った刀を見せ、刃こぼれしていないのを自慢した。
重位はため息をついて、立ち上がった。

「お前はまだ、当流の意地が分かっておらぬ。見よ、これが示現流じゃ!!
チェストォォォォォ━━━━━━━━━━━━!!!」

重位はかたわらの碁盤に斬りつけた。刀はボロボロになった。
ただし、その一撃は硬い碁盤を断ち割り、畳を斬り、床下の根太まで食い込んでいた。
37四天王名臣録 2/4:2009/01/10(土) 21:29:45 ID:afOtHKON
細川藤孝(幽斎)の家臣の子に、有吉四郎右衛門立行という若者がいた。
『鈍き生れつきと諸人存知候 』と「細川家記」に書かれるようなパッとしない若者だった。
「まあ、何かの時に盾ぐらいにはなるだろう。」藤孝は、彼を嫡男の与一郎に付けた。

今日も今日とて、与一郎は四郎右衛門の肩車で、遊びに出かけた。
四郎「若様、このまま行くと、大きな川がありますが・・・」
与一郎「かまわん、まっすぐすすむのじゃー!」

四郎右衛門は、バカ正直に川の中へ進んだ。意外に深く、頭までズッポリ水に浸かった。
与一郎「だ、だいじょうぶかー!しろうえもーん!」 答えは返ってこなかった。

ついに向こう岸に渡り着いた四郎右衛門、与一郎を下ろすとバッタリ倒れて動かなくなった。
「し、しぬなーしろうえもん!しんではならぬ!!」
与一郎は他の家臣を呼び、四郎右衛門の腹を踏ませ(・・・)、たまった水を吐き出させた。

なんとか蘇生した四郎右衛門、酸素欠乏症にでもかかったか、この後にめざましい働きを
するようになり、関ヶ原の戦いの際には、与一郎忠興の命で筆頭家老・松井康之と並び
豊後杵築城代になり、黒田如水と連携して大友軍を撃退している。

関ヶ原の後、天下が静まってくると各家で武功の文書化が流行り、四郎右衛門のもとにも
嫡男・康以らが記録に残そうと武辺話を聞きに来た。四郎右衛門は鼻で笑って言った。

「そんなことは外様や新参者がやることだ。オレの働きは、殿がよーーく存じておられるわ。
よって、細川家臣にオレの名字が残れば、それが武功だ。くだらん事をするヒマがあるなら、
当家の血が絶えぬ工夫でもせい!!!」
38四天王名臣録 3/4:2009/01/10(土) 21:30:24 ID:afOtHKON
各務兵庫助元正は、森家の家老にふさわしく、武勇の人として知られた。

天正10年(1582)3月、高遠城攻めの時のこと。斥候に出た元正は、塀の狭間から城内を
うかがった。隊ごとに分かれて、評定の真っ最中だった。

(よし、今のうちに攻めかかろう。戻って殿にお知らせせねば・・・)
元正は狭間から頭を引っ込めようとしたが、 「むううぅぅぅ?!」
背中の鳥の尾の指物が引っかかり、城の内側に転げ落ちてしまった。

元正「 あ・・・(゚д゚)」 城兵「 (゚д゚) 」 当然、敵が殺到してきた。
「うおおおぉぉぉ、こうなりゃヤケだ!!ヽ(`Д´)ノ 」 斬って斬って斬りまくった。

織田信忠「・・・あれ、誰?」
森長可「と、当家の士、各務兵庫と申す者!!」

残念ながら、鬼武蔵がどんな顔をして信忠に答えたか、伝えられていない。
ともかく、この時の武功で元正は『鬼兵庫』と呼ばれるようになった。
つまり、森家は二人の鬼が率いていたことになる。

もちろん、家老にまで登った男であるからには、ただの粗忽者ではない。機転もきいた。

同じく武田攻めの時のこと、元正は信玄の弟・逍遙軒信廉の討伐を命じられた。
だが敵もさるもの、事前にこの動きを察知しており、元正は武装した信廉の出迎えを受けた。
不意を突くことに失敗した元正は苦慮したが、突然ひらめいた。

元正「あっ、百段!!」
信廉「え?どれどれ?!」

信廉が馬ヲタだったのかは、不明だ。 が、元正は信廉の油断を突き、見事に討ち取った。
39四天王名臣録 4/4:2009/01/10(土) 21:32:04 ID:afOtHKON
慶長18年(1613)、伊達政宗の五男・宗綱が成人し、烏帽子親として茂庭石見守綱元が
選ばれ、綱元の屋敷で元服式が行われた。

祝いの宴席では能が舞われ、膳には豆ご飯・イワシの塩焼き・芋汁が並んだ。

翌日、仙台城で成実と祝宴の話になった政宗は、
(  ●Д゚) 「能は良かったけど、メシがイケてなくてなァ・・・」と正直にこぼした。

共感を覚えた成実は後日、綱元に会うと、「主君に粗末な膳を出すとは非礼ではないか」
と、素直な感想を告げた。

これを聞いた綱元、即座に政宗のもとへ飛んで行き、主君に詰め寄った。

「あの人取橋の戦の折り、殿は

『早く世を平和にして豆飯だの、焼きイワシだの、イモノコ汁だのを腹一杯食いたいのぉ…』

と言われました。それゆえに今、この時にそれらを召し上がっていただいたのです。
その志をお忘れになるとは・・・!!」

(●ω・`) 「 ・・・・・・ 」
さすがの政宗も、日ごろは温厚な男の熱い涙と叫びに、言葉も無かった。



以上、四天王を支えた人にスポットライトを当ててみました。連投スミマセン。
40人間七七四年:2009/01/10(土) 21:34:33 ID:k8EwxByG
百段が相手じゃガチでビビる
41人間七七四年:2009/01/10(土) 21:49:01 ID:rbWKcyPC
百段有名なんだなw
42人間七七四年:2009/01/10(土) 21:57:20 ID:sLeFyfEX
百段いる→鬼武蔵いる→鬼武蔵+鬼玄蕃=殺戮の嵐→あれ俺勝てなくね?→逍遙軒諦める

いや、妄想だけどさw
43人間七七四年:2009/01/10(土) 21:59:09 ID:k8EwxByG
20+15+15で50だな
44人間七七四年:2009/01/10(土) 21:59:42 ID:oDGnGsMu
真田信之、93歳までと長命だった。

あんまり長生きだったから、跡継ぎ息子が先に逝っちゃった。
45人間七七四年:2009/01/10(土) 22:23:36 ID:ew7SPIMh
碁盤切るって…
その気になれば細い木ぐらいなら切っちまいそうだなw
46人間七七四年:2009/01/10(土) 22:29:15 ID:yFB8OBXr
>>36-39
すげー、大作だわ。楽しませていただきました。ご苦労様です!
47人間七七四年:2009/01/11(日) 00:23:26 ID:QH892Fqh
>>44
信政はそれでも62歳まで生きてるんだよな。
90歳まで隠居できない信之も辛いだろうが、
60歳まで家督を譲って貰えなかった信政はもっと辛かっただろう。
48人間七七四年:2009/01/11(日) 00:25:18 ID:5PAcWc+r
悪い話スレで出ていた最上父子のフォロー。

青年期、家督をめぐって激しい対立をした最上家だが、
天正最上の乱終息後、子の義光は父に孝養を尽くしたらしい。

義光は父の病が重くなった際は祈祷僧や医師を招聘し、
義守も馬鹿息子かと思ったら結構やるなと見直していた。
義光はのちに、義守の看病と盛大な葬儀のために小田原参陣に遅刻した。
(ただし政宗と違って事前認可があったためおとがめなし)

こうして父・義守のために義光に呼ばれた小林玄端は山形城主の御典医となり、
最上改易後も山形に残った。

山形は江戸期から梅が多い街になった。その理由は義光が奨励したとされる、
紅花栽培で紅を取り出すのに必要とされたのが梅の酸であったからだ。

小林玄端の子孫である医師は、長崎に留学中に清人から梅で作る気付け薬
の製法を学んだ。彼は山形に戻ると、この薬を改良して売り始めた。
「甘露梅」、のちの「のし梅」である。

今でも山形土産として知られるこのお菓子は、実は義光の親孝行と
紅花奨励が要因となってうまれたともいえる。
みんなも山形に行ったら買ってみてはいかが?
だって地元にも義光土産なんてないし…。
49人間七七四年:2009/01/11(日) 00:31:41 ID:Qt8S3xBp
>>37
冴えない男が酸欠で大覚醒かw

あと幼き日の忠興のセリフに和んだ。
50人間七七四年:2009/01/11(日) 00:33:54 ID:jzApZRk6
(つд`)
コードブルー並みになけた
51人間七七四年:2009/01/11(日) 00:47:10 ID:dtXlkefx
>>49蘇生したとき、キュピーン!と額に電☆流が走ったんだな。

民政に功績があったのは知ってたが、そこまで身体張って三斎の面倒を見ていたのか…
52人間七七四年:2009/01/11(日) 01:19:01 ID:oq5dtPNb
>>35
「死ぬことと見つけたり」といえば、勝茂らの乗った船が沈みかけるシーンがあったと思う。
葉隠によると、あれは実際は直茂のエピソードらしい。

内容はほとんど小説のままで、以下の通り。

慶長年間。
鍋島直茂の乗った船が暴風雨に遭った。
沈没や浸水の恐れもあったため、藤島生益という家来は別の家来(持永助左衛門)を起こし、
二人がかりで直茂を船室の上に上げ、
直茂と家来とを、まとめて欄干に「とりつかせた」(結びつけたのか?)。
さらに藤島は、舵も予備舵も折れてしまったため、船室にあった米俵を引き出し、
結びつけ、舵の代わりにおろしたところ、船の動きは安定した。
やがて、無事に岸にたどりついた。


機転のよさのほかにも、エピソードがいくつか。
○直茂が嘔吐し、一緒に縛られている家来も嘔吐し、よごれまくり。
それを見た藤島が「兎の子取ろ(子供の遊びの一つか?)のようだ」とおちょくる。

○直茂は、「死んだときに丸腰だとはずかしいから脇差よこせ」とか言うけど、
自害する気と考えた藤島は渡さなかった。
直茂は、後にそのことを感謝している。

○供船が数艘近くを通ったので、船室の上の直茂が大声で呼んだが、船は離れる。
「誰が乗ったか見たぞ! 無事についたら切腹だ」とおこるが、
藤島が「波風のため仕方ないのでしょう」とたしなめる。
当然、切腹にはならなかった。
53人間七七四年:2009/01/11(日) 01:26:46 ID:oq5dtPNb
>>36-39
読ませる文章がうまいなあ
楽しかった

特に、碁盤を切るかっこよさと、愚鈍ながら馬鹿正直なかわいらしさがすばらしい
54人間七七四年:2009/01/11(日) 01:26:50 ID:vxd0Nmn0
>>39
>『早く世を平和にして豆飯だの、焼きイワシだの、イモノコ汁だのを腹一杯食いたいのぉ…』

なにこのかわいい野望
55人間七七四年:2009/01/11(日) 01:51:49 ID:gKgM8zi6
子供の頃 おいしいものが食べれなかったんで
大人になって美食家になったんかねェ

食べ物にも能にもすごいお金を使ってたんだろうね
56人間七七四年:2009/01/11(日) 02:31:21 ID:Oh9JU+rj
>>39で茂庭綱元の話が出たのでついでに

綱元は朝鮮出兵のおり、名護屋留守居役に命じられて政宗の名代を務めていた
秀吉は大層綱元がお気に入りで、ちょくちょく城に呼ばれていたらしい
ある日、秀吉が一言「鬼庭家は代々長寿の家系だそうだな?」と聞くと

綱元「はい。しかし、運悪く父・良直は73歳で早死にしてしまいました」

と答えたから秀吉仰天
是非あやかりたいと、綱元を風呂に入れてその残り湯を飲んだとか

綱元も鬼庭家の例にもれず長生きをしている
18歳の頃に政宗が生まれ、政宗の死後4年後まで生きた
数え年で92年の長寿であった

そして、なんと綱元の命日は政宗と同月同日の5月24日である
その日を狙って逝ったのかはわからないが、忠義篤い人物であったと伝えられている
57人間七七四年:2009/01/11(日) 05:13:33 ID:N0GAejGT
冬の陣において幕府軍を悩ませた‘真田丸’
実は当時、郭には朱地に金線の旗と長宗我部の旗が立っており長宗我部勢が主軸とすら考えられていた
朱地に金線の旗、これが真田信繁が大阪の役を通して使った旗印なのである
真田氏の家紋とされる‘六文銭’
元々は戦用の旗印(馬印)であって平時の家紋は‘結び雁金’または‘州浜’とされる
そう、六文銭が正式な家紋になったのは江戸時代なのである
真田信繁は六文銭の旗を掲げ豊臣の為に戦った、なんてのは後世の創作も甚だしい
大阪の役で六文銭の旗は幕府軍にしか存在しなかった(上田藩真田本家)
信繁は本家の旗を汚さぬかの様に真田に通じる家紋は一切大阪城中では使わなかったとすら言われる
個人に徹し家を出さないかのごとき行為
自らの行動で苦労するであろう兄への僅かばかりの気遣いであったのかも知れない

どちらに書こうか悩んだけど信繁的には‘ちょっといい話’かなと思ったんで
58人間七七四年:2009/01/11(日) 09:21:44 ID:ENDS8HUt
その郭に真田が守備してるのを悟られないように旗を朱に染めたとも言われてる
子のほうとはいえ迂闊に手を出すと痛い目にあうからね
59人間七七四年:2009/01/11(日) 09:53:53 ID:gMPl6wOI
有名な挿話なのだけどまとめスレに無かったので、島左近のお話を

関ヶ原の合戦(1600年・慶長五年)も元和偃武(1615年・元和元年)も遠い昔となってしまった
天下泰平の江戸時代の事、筑前黒田家で"関ヶ原の合戦"について話をしよう、となった時の事。
関ヶ原の戦いと言えば大谷刑部吉継の奮戦や井伊直政・福島正則の先陣争いと話題に事欠かなかったが、
皆が首を傾げるような事が、起きた。

誰も島左近の『姿』を覚えて居ないという。
そんな事は筑前黒田家に於いては考えられない。島左近の軍勢と真っ向切って戦ったのは
他のどの家でもない黒田家なのだから。だが、誰に聞いても島左近の姿が判らない。

逆に皆が鮮明に覚えて居たのは、島左近隊が上げる地獄の底から響くような『鬨の声』だった。

黒田家老臣壱>>…今思い出してみても、"あの声"には身の毛がよだって汗が出る…。(;・(,,ェ)・)
黒田家家臣弐>>あの時は、みな大方の者が魂魄を見失う様な恐怖だった、武辺で鳴らした黒田家でも恥ではあるまい…。
黒田家家臣参>>儂なぞ、夢にまで見たぞ。…何度あの"声"を聞いて飛び起きたものか…。(汗

『えい、えい!!(良いか、良いか野郎共!!(意訳)』『掛かれえェェエェ!!!』『死ねええぇえ――(#゚Д゚)――ッ!!!』と
怒鳴り散らしていた鬼神の様な左近の"声"だけは覚えているが、島左近の外装については誰も覚えて居ない。
『鬼神すら欺くであろう』と誰かが評した、そのあまりの恐ろしさに直視出来てなかったのだ。

そこで、当時石田家の家臣であった者(出典によっては島津家の関係者)に聞いたところ、こんな返答が得られた

石田家旧臣>>兜の立物は三尺余り(1b弱)の天衝を付けた朱塗り、具足は桶革胴の漆塗り。浅黄木綿の陣羽織を着ていた。

要するに、真っ赤な鎧と鍬形蟲の様な角、その上から薄黄色の陣羽織を着て居たと言うのだ。相当派手である。
だが、誰も覚えて居なかった。

"鬼"と綽名されるのは伊達じゃない。死後数十年を経ても武勇で鳴らした黒田家を恐れさせた島左近の奮闘、(かっこ)いい話。
60人間七七四年:2009/01/11(日) 10:15:21 ID:LrA2yTxp
さすが、さこにゃん
まさに鬼
61人間七七四年:2009/01/11(日) 10:25:34 ID:aHC4kQaN
>>36-39
これ一人だけ名臣とは思えないのが混ざってるんだけどw
62人間七七四年:2009/01/11(日) 11:16:23 ID:yUqPWlac
>>61
ケガの功名とか瓢箪から駒とか運も実力のうちとかいう言葉が世の中にはあってだな…
63人間七七四年:2009/01/11(日) 12:00:00 ID:BAKyhOme
本当に馬が貰えるのですね。わかります。
64人間七七四年:2009/01/11(日) 12:02:18 ID:kXKDpd+7
らぶKiss!アンカー〜あなたのキスでつかまえて〜 (ミルククラウン)
http://www.orange-mikan.com/index.php?topic=1408.0
65人間七七四年:2009/01/11(日) 17:19:26 ID:/gELtD7W
島左近というと、杭瀬川の一戦で中村、有馬を川の中に引っ張り込んで軽く一蹴した
話が有名だよね。

家康が、川の中に誘い込もうとする島側の動きを眺め、すぐに察知していた
ところはさすが。
66人間七七四年:2009/01/11(日) 18:19:41 ID:vxd0Nmn0
>>57
結び雁や州浜も使ってたのか・・・いままで知らんかった
うちの母親の実家が自称真田の流れだけど
家紋が結び雁金だから(ねーよwww捏造乙www)と思ってたんだが
調べてみようかな・・・
67人間七七四年:2009/01/12(月) 02:26:23 ID:64iID+Az
>>54-55
「このかわいい野望」を実現するために...

・小手森城の撫で切り(37564)しちゃいました、テヘッ☆

・二本松義継ごとパパンを撃ちますた、テヘッ☆

・葛西大崎一揆や南部領で和賀一揆を煽動しちゃいました、テヘッ☆


 あ、あれ?いい話の続きを河口と思ったのに((
68人間七七四年:2009/01/12(月) 02:47:13 ID:ubY1pgY8
可愛い野望だな確かに。
69人間七七四年:2009/01/12(月) 03:42:01 ID:URsQgQdr
正宗なら(ry
70人間七七四年:2009/01/12(月) 07:15:44 ID:MFdvmSWP
毛利輝元晩年の一人ごと

       ____
     /      \
   / ─    ─ \    秀就のやつ絹の布団を2枚ももってるのかお。
  /   (●)  (●)   \  
  |   ─ (__人__) ─  |  
  \     ` ⌒´     /
        ▼

     ____
   /      \
  /  _ノ  ヽ__\  
/    (─)  (─) \
|    ─(__人__)─  |  この輝元は木綿の布団を1枚しか持ってないのに
/     ∩ノ ⊃  /   最近の若い奴らは贅沢だお
(  \ / _ノ |  |   
.\ “  /__|  |   
  \ /___ / 

関ヶ原で大封を失った後の輝元の苦労が忍ばれる話。
昔読んだ歴史群像に載ってた話なので、細部は違うかもしれません。
71人間七七四年:2009/01/12(月) 08:28:30 ID:bOnr53mt
絹の布団って気持ちいいの?
72人間七七四年:2009/01/12(月) 09:38:47 ID:64iID+Az
>71上掛けとか、表面だけじゃね?

中綿も最初は「綿」じゃなかったんだろうなあ・・・
73人間七七四年:2009/01/12(月) 09:43:08 ID:MFdvmSWP
>>71
>>72
その辺りは記憶があいまいなんで間違えてる可能性大
74人間七七四年:2009/01/12(月) 10:01:30 ID:Mr/nHFA2
>>71
絹=真綿=蚕から採れた綿の事。
戦国時代では木綿(ワタの種子から採れた綿)
が主流。絹(真綿)は当時舶来品の物が大半で、
非常に高価な物だった。
使い心地も真綿の方が良い。手入れが大変だけど。


75人間七七四年:2009/01/12(月) 10:04:55 ID:rjEr/PMG
テルはそれでも長州藩を残したし人の話を良く聞くという
美点があったんだけど秀就はただの暗君なんだよな…
76人間七七四年:2009/01/12(月) 10:10:37 ID:SFPqod9w
>>75
いや、輝元の二十一ヶ条教訓条のインパクトが強くてそう思われがちだけど、
秀就は秀就なりにしっかりやってるよ。
長府や下松の支藩の独立問題とか、何のかんので押さえきって、後世に問題を残さない形で
ほぼ解決してるし。
77人間七七四年:2009/01/12(月) 10:41:11 ID:0E1tAddZ
布団と言えば佐竹(鬼)義重だな。有名な逸話だけど。

佐竹義重は就寝時、敷き布団を使わず、いつも薄い布を板張りの床に敷いて寝ていた。
(非常に暑がりな体質だったらしい。)
晩年、家督を義宣に譲るが関ヶ原の合戦後、出羽久保田へ転封される。
老いて北国出羽に移る事になった義重に義宣は、「流石に出羽は寒さが酷く、御身体に障るので
御布団と寝間着を贈ります。」と、手紙を添えて布団を贈った。
息子の気遣いに、大喜びの義重。早速布団を敷き、眠りについた。
だが暫くして…「暑い!!」と布団を撥ね除け、またいつもの様に薄い布を敷き、再び就寝した。
「老体となっても相変わらず…」と義宣も、苦笑するしかなかった。

また義重は毎日、寝床の場所を変えて、暗殺に備えていたらしい。
寝る事にこだわる武将、佐竹(鬼)義重であった。
78人間七七四年:2009/01/12(月) 11:09:03 ID:287QCiF6
相当な暑がりだな
79人間七七四年:2009/01/12(月) 11:14:48 ID:gQSjfAEk
まったくフッとんだ話だな
80人間七七四年:2009/01/12(月) 11:45:19 ID:rjEr/PMG
>>76
dクス、教訓状でボロクソ言われてるけど実績残したんだな
家光みたいなタイプって事か?

>>79
ちょ、おま…
81人間七七四年:2009/01/12(月) 12:31:07 ID:RCSDsBJQ
>>77
寒がりな俺は是非添い寝してほしい
82人間七七四年:2009/01/12(月) 12:34:18 ID:bTm4Q1iF
>>81
添い寝しようとしても「暑いっ」って蹴りだされるだけじゃね?
83人間七七四年:2009/01/12(月) 12:55:14 ID:287QCiF6
そして添い寝の相手が美少年だったら意気投合するんですね、わかります
84人間七七四年:2009/01/12(月) 15:47:07 ID:rQUC0QXG
アッー
85人間七七四年:2009/01/12(月) 17:47:29 ID:sU8WIjfN
>82鬼佐竹の人は戦のたびに武者震いが止まらず、自ら打ち太刀して戦うまで収まらないほどだったっけ。

顔が怖くて、えもいわれぬ威厳があったとも聞いたが、これは伊達政宗あたりと呼応してそう言われてるのかな?
86人間七七四年:2009/01/12(月) 17:54:45 ID:/Lh5eS9x
斎藤龍興の疑問に、宣教師どんな顔をしただろう。稲葉山城退去から
人生の幕を引く迄の数年間、畿内各地を放浪し続けた"美濃の蝮"の末裔のお話。

斎藤龍興は奸臣・斎藤飛騨守を寵愛し、美濃三人衆や竹中重治らに愛想を尽かされ
美濃から追い遣られてしまった。その人となりは『愚鈍で吃音、小太りな風采の上がらない人物』と
散々なもので、まさに暗愚の象徴だと言わんばかり。信長飛躍の踏み台の様に揶揄される
そんな龍興であるが、伊勢長島や三好三人衆の元へと身を寄せるうち、キリスト教に興味を持った。

落ちぶれても『蝮』の孫だったらしい。キリシタンを目指した龍興はルイス=フロイスから
キリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に
教会へ姿を現した際にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来た
といい、教会の信者達はとても驚いたそうである。

また、ガスパル=ヴィレラ司教に対してはこんな質問もしたと言う。

斎藤龍興>>人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。
ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。
万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。

こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか。(..´・ω・)

ヴィレラは龍興の疑問に対し『その総べてに納得がいく様な道理を上げて説明した』と記録されて居るが、どうなのだろう。
龍興が疑問に思った"なぜ"は、本当に解決したのだろうか。

1573年(天正元年)8月13日、龍興は朝倉義景の食客として刀禰坂の合戦で討死した。
祖父・斎藤道三が美濃国を奪い下克上大名になりあがってから、31年の月日が流れていた。

そんな斎藤龍興の、(実は)いい(才気の持ち主だったという)話。

87人間七七四年:2009/01/12(月) 18:00:29 ID:xrae+U1J
歴史上の人物ってのは一方からのあるいは一面しか語られないことが少なくないけど
龍興も若い頃はアレだが大器晩成の人物だったかもね
88人間七七四年:2009/01/12(月) 19:24:27 ID:b4rwt1OJ
フロイスの日本史によると黒田長政も入信してからもキリスト教に数々の疑問を持ってたとか

>特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があると
>いうことが納得できなかった。彼には、人間は道理に従って正しく生きさえ
>すれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。

この疑問も日本人修道士が解いた、ということだが…。
しかし現代人としてはその後黒田長政が弾圧側に回ることを知っているからか、
龍興の疑問からは純粋さとか真摯さが感じられるが
この長政の疑問からは「結局あんたらの勢力を拡張するために都合のいいこと
言ってるんじゃないっすかー?」という問いかけを感じ取ってしまうw
後の政治家ぶりを窺わせるものがあるというか。
89人間七七四年:2009/01/12(月) 19:36:18 ID:5DuivToW
ザビエルが日本にキリスト教の布教に来たとき農民に
「全知全能の神であるならば貴方がはるばる遠くまで布教に来なくても我々に伝える事も出来るのではないか」
と聞かれて返答に困った

ザビエルが道端でキリストの教えを説いていると一人の男が質問してきた。
「キリストの教えを信じない不信仰者は死後に地獄へ落ちるそうだが、それなら、去年亡くなった
うちの祖父はキリストの存在自体知らなかったのだから地獄へ落ちてしまうのか?
祖父はとても良い人で周りから尊敬されていたのにおかしいではないか。あなたの説く教えが
それほど素晴らしいものなら、なぜもっと早く来てくれなかったのだ?」
この質問にはさすがのザビエルも返答に困り、後に本国への手紙で、日本において布教するには
論理学の知識が必要である、と報告した。



有能と評判のザビエルですら困ってんのに86の司教が答えられるとは思えないけどなぁ
90人間七七四年:2009/01/12(月) 19:51:13 ID:rLI9LeI5
スレ違いだけどキリスト教がゲルマン人に布教する際にも同じ問題があって
それで煉獄(キリスト以前の聖書登場人物とか異教徒の偉人が罪を贖って天国にいくための場所)の概念が出来たとか。
91人間七七四年:2009/01/12(月) 19:58:23 ID:5DuivToW
それも変な話だけどな
地獄と言うほどでもない辺獄で家族が一緒にいるならそっちのほうが楽土って人もいるだろうし
いずれ天国に行けるならわざわざ信仰に従わなくても道徳的に生きてれば問題ないし
天国にいるが辺獄や地獄にいる先祖を気に掛けながら暮らすのは幸福か?って問題が出るし
92人間七七四年:2009/01/12(月) 20:03:23 ID:jD7waOZE
ちなみにこの斎藤龍興の事も、フロイスは『日本史』に記録している。
曰く、『非常に有能で思慮深い。』との事。

まぁ尤も、このおっさんに掛かるとアンチキリストはみんな莫迦で残虐で低脳に
されてしまうわけだがw

>>89
後年になって、宣教師達は『実はデウスも毘盧遮那仏も同一体だから、日本国民が昔から信奉してた
神様はキリスト教の神様と一緒だったんだよ!!(AA略)とかいうかなり苦しい言い訳を編み出したらしい
ヴィレラの頃には、突っ込まれた際のテンプレートみたいなものがもう出来てたのかも知れない。
流石はイエズス会、イタリア語のスラングで『詐欺師』という意味があるのは、伊達じゃないw
93人間七七四年:2009/01/12(月) 20:06:45 ID:OrQOsDPc
本地垂迹と大差ないけどもw
94人間七七四年:2009/01/12(月) 20:07:04 ID:ymayBMY4
>流石はイエズス会、イタリア語のスラングで『詐欺師』という意味があるのは、伊達じゃないw

な、なんだってー(AAry
95人間七七四年:2009/01/12(月) 20:11:48 ID:AdBbZHpd
ほんちすいじゃくは異端もいいところだと思うんだが宣教師でもありなのか
96人間七七四年:2009/01/12(月) 20:20:33 ID:OrQOsDPc
>>95
ローマでは絶対に認められんだろうがなw清では典礼論争とかあったし。
異端と考えるのはやっぱり現代人だからだろうなぁ。
徳川家康=東照大権現=薬師如来
こんな民族ですから。
97人間七七四年:2009/01/12(月) 20:20:37 ID:5DuivToW
ホントは無しだけどアジアで布教するにはそれしか手段が無かった
これらの地域にはヒンドゥーや仏教、儒教といったキリスト教並みに体系化された宗教が既にあったから
現代のキリスト教の分布をみてもアフリカ、フィリピン、オセアニア等体系化された宗教の無かった地域
もっともそのせいで本国から糾弾される事になるが
98人間七七四年:2009/01/12(月) 20:21:35 ID:bTm4Q1iF
>>92
>宣教師達は『実はデウスも毘盧遮那仏も同一体だから
わざわざキリスト教徒になる必要性ねええええ
99人間七七四年:2009/01/12(月) 20:36:39 ID:SFPqod9w
キリスト教と言えば、こんな話もあるね、


いち早くキリシタン大名になった者の一人、大村純忠が、キリスト教を学ばせるため、
ローマに千々石政左衛門と言う少年を留学させた。

やがて学問を究め、無事帰国した政左衛門は、キリシタンになっていない純忠の息子、善前に
密かにこういった

「耶蘇教は間違いなく邪教です。彼らの目的は日本にこの宗旨を広め、それによって
国を奪うことです。」

こんな事があったので、善前が大村家の家督を継ぐと、領内からすべてのバテレンを
追放したと言うことだ。
100人間七七四年:2009/01/12(月) 20:53:46 ID:E3T3wDRs
鎖国して正解だったな
101人間七七四年:2009/01/12(月) 20:57:02 ID:B4BnftS7
いつの時代でも見る目がある人間は本質を見抜けるわけだ
10286:2009/01/12(月) 21:22:45 ID:jD7waOZE
>>86
斎藤龍興の疑問に、宣教師はどんな顔をしただろう。 だ。"は"が抜けてたわ

>>94
引用参考文献によれば厳密にはイタリア語でイエズス会=『ペテン師』というスラングらしい。

大航海時代、ポルトガルやイスパニアは航海の末辿りついた未踏の地で、まず
キリスト教を流行させ、狂信者を育成。後は彼らを適当にだまくらかして
武装蜂起させて現地政権を転覆させると言う手を何度も使ったそうだ。

つまり、宣教師顔して片手で聖書の教えを説きながら、もう片方の手では植民地政策を
振りかざして居たというわけ。よって、宣教師の顔した侵略者の手先=詐欺師とそんな感じだそうな

1542年にはイスパニアがフィリピンまで陥落させて居たし、秀吉が本能寺以後
信長の政権を受け継いだ頃には、フェリペ二世の統括する『陽の沈まない帝国』が世界を
席巻して居た。1580年のポルトガル併合後のスペインの領地はざっと説明しても
現在のイベリア半島・オランダ・ドイツ・イタリアの一部・シチリア・カリブ海及び中南米・アフリカ沿岸・インド・東南アジア。

そもそもフィリピンの国名の由来が『もう此処は"フェリペ二世のものだから"って意味なんだから
直ぐ隣だった日本の統治者、秀吉や家康がびびってキリスト教禁止にしちゃったのも頷ける話で
チラシの裏申し訳なす



103人間七七四年:2009/01/12(月) 21:28:34 ID:5DuivToW
当時のスペインは太陽の沈まない帝国だしな
その座はイギリスに奪われることになるが
現代の西洋人は宣教師が侵略の先鋒だとは自覚してないらしいが
時代は下って清代末期の中国では裁判にまで口出すようになってる
104人間七七四年:2009/01/12(月) 21:37:18 ID:uKHbhrmT
イエズス会の戦略には、常に政治、軍事が絡み合って
布教してきたことはある意味事実である。

が、日本にやってきたイエズス会、ポルトガル人、イタリア人には、
ろくな経済的支柱がなかった。

フェリペ2世に何度も援助を要請したが、口約束
だけであったし布教に必要な費用は困窮していた。
日本が高度に武装化していて、とても生半可な派兵では
占領できないことがバリニアーノらの情報で知っていて
諦めていたし、イギリス、オランダ相手の戦争で余裕も無し。

大村純忠の許可で、長崎の港湾使用料をポルトガル、中国商人から
徴収できたが、関税はちゃっかりと純忠が自分のポケットに。

植民地の手先という誤解を生んだのは、準管区長コエリィオの
短慮、朝鮮侵攻を目論む秀吉への阿諛による大言壮語からである。
105人間七七四年:2009/01/12(月) 22:35:00 ID:uKHbhrmT
99>

天正遣欧使節の千々石ミゲルが棄教した理由は、日本帰国後にマカオでの
キリスト宣教師養成特訓講座への派遣に、彼ひとり人選からもれた点が
大きい。

大村喜前は、千々石ミゲルが棄教した後も彼を嫌い家来を遣わした。
その家来に襲われ大けがをさせられ千々石ミゲルは、
命からがら故郷から逃げ出した後、消息不明、ときいたが。

鎖国の理由は複数だと思う。

家康は、天下を取ったのちもしばらくはスペイン、さらには
オランダ、イギリスとの交易を望んだ。

が、肥前の各領主らの行状もあったが、なによりも他の大名が
海外との交易で巨利を得れば幕府にとって脅威となると考え、
これを禁じ、幕府が交易を独占する方向を画するようになった。

106人間七七四年:2009/01/13(火) 00:36:20 ID:/W18E2CE
>>81
添い寝が許されるのは葦名盛隆ただ一人のみです。
107人間七七四年:2009/01/13(火) 01:36:18 ID:wuunwrCy
大河やってるしタイムリーかなと思って書いてみる。


上杉景勝がまだ長尾喜平次顕景と名乗っていた頃、
叔父であり主君である謙信の名代として信州飯山城に出陣していた。
そして冬に入った頃謙信から書状が届いた。

「信越の峠はもう雪深くなる時期ですから、馬廻りの皆を連れて戻っておいで。
お母さんにもよろしくいってね」

と、言う訳で喜平次顕景は謙信に
「こちらも雪が降ってきました、戻ります」(という内容と思われる)と
返事を書いて出した。
すると、凄い勢いで謙信から返信が帰ってきた。
前回の手紙の日付から二日後の日付が書いてあるので
喜平次の返事を見て即返信を書いて早馬を立てたようだ。
その内容が、以下。


「そちらも雪の様子なんですね。お手紙とっても嬉しかったです!
寒いですからちゃんと身仕度をして、馬廻りの皆と一緒に帰ってくるんですよ。
分かりましたね?(前回も同じ内容書いてただろ)
途中でこの飛脚と会うかも知れませんが、そしたらこの飛脚は返してください。
途中まで迎えを出しますからね。

追伸:良い鷹が二羽手に入りました。こっちに着いたら貸してあげますね」



この頃顕景(景勝)推定16歳〜18歳。
上杉謙信、みごとに叔父馬鹿だった。
108人間七七四年:2009/01/13(火) 01:44:13 ID:z6Acl4hS
ラスボスの手紙を読んだ後だから妙に和むw
109人間七七四年:2009/01/13(火) 01:52:34 ID:lRJcNUwZ
確か既出だが何度見ても和むw
110人間七七四年:2009/01/13(火) 02:04:55 ID:wuunwrCy
話題の中でちらっと出たことはあったけど詳しい話は確か出てなかったと思う。
こんなどうでもいいような内容の手紙出すのにわざわざ飛脚まで出して
叔父と甥の間を駆け回らされた飛脚の人乙wと思ったもんで。
111人間七七四年:2009/01/13(火) 03:29:40 ID:Go//U01N
>>102
家康も伊達政宗も、遣欧使節だすまでにフランシスコ会のソテロはんだっけ。
耶蘇会以外の宣教師と出会ってけっこうマメに会っていたらしいし

家康はその前にウィリアム・アダムス(三浦按針)とか新教徒の当時いう紅毛人とも付き合いがあったんよね。

こう言ってはナンだが、耶蘇会に騙されるクラスの大名じゃ天下は狙えないよな
112人間七七四年:2009/01/13(火) 08:20:37 ID:TctAPrao
ダンディ松永久秀が確実に謀殺したと言われる男の話


三好長慶は強大な武力を背景に勢力を拡大
刃向かう者は一族皆殺しなんて当然だった
そんな三好長慶ある男が言った

(´・ω・`)「鈴虫だって大切に育てたら長生きするのに何故兄者は人の命を粗末にするの?馬鹿なの、死ぬの?」

この男、三好長慶の実弟で名を安宅冬康と言う
淡路水軍を精強な軍に再編成した凄い男………のはずである
影も薄けりゃゲーム等での評価も低いが
彼を処刑した罪が冤罪だと分かると三好長慶は完全な鬱状態になったと言われる
113人間七七四年:2009/01/13(火) 11:01:49 ID:wjrgmQxk
悪い話スレで輝政と永井の話が話題になってたんでこっちにも

父恒興、兄元助の戦死を受けて池田家を継いだ輝政は、彼らを討ち取ったという
永井伝八郎直勝という男の事が気になっていた。
そこで家康に謁見した際、父と兄を討ち取った直勝に合わせて欲しいと懇願した。
周囲の者は輝政が父と兄の仇を討つ為に言っているのだと訝しんだが
家康はこれを許可し、直勝を輝政の元に呼び出した。
輝政は直勝と対面すると、父と兄の死に様を教えて欲しいと頼んだ。
その後、永井の禄高が5000石である事を聞くと「拙者の父と兄の首の価値はたったの五千石か」と嘆いたという。
この事を家康が気にしたかどうかは定かではないが直勝はさらに五千石加増され一万石の大名となった。
114人間七七四年:2009/01/13(火) 11:01:59 ID:HoVnDeK6
>>112
粛清の原因は弾正師匠の讒言だったんよね。

三好四兄弟は、とにかくツキもなかったようで…
三好長慶は嫡子も若死にして、弾正センセイの仕業かと疑われてたな
115人間七七四年:2009/01/13(火) 12:32:13 ID:HoVnDeK6
>110
飛脚や伝馬って、ある程度治安の落ち着いた自領内じゃないと使えないから
前線へはたぶん家臣を行き来させたんじゃね?

と余談
116人間七七四年:2009/01/13(火) 14:38:52 ID:h1YHRuep
>>115
当時の大名同士の書状のやり取りは、やっぱり秘匿を要する案件も多かったので、
重要な案件の書状を出す場合は、相手側にも信頼されている、きちんとした地位の家臣を派遣したらしい。
そこで、文字に残すのではなく、使者の口によって説明させる。
戦国大名の手紙によくある「詳しいことは○○が語ります〜」ってやつね。

家同士の機密に触れるから、こういう書状のやり取りはある種の「外交官」とも言うべき人間によって
担われていたようだ。そう言った人間が出向くことができないときは、わざわざ書状で謝ったりしてる。
あと、やっぱり国を越えて書状のやり取りをするのは大変危険な行為で、

「無事書状を届けたら武功と同じとみなして褒美を出す。途中で死んだ場合は子を取り立てる。」

なんて、大名の側からの誓約書も残っていたりする。

伝説ばっかり多い森乱丸だけど、こういった書状のやり取りに、きちんと記録として乱丸の名前が
出てくるから、乱丸が有能で、信長から大きな信頼を得ていたことは間違い無いね。
117人間七七四年:2009/01/13(火) 15:11:32 ID:/b+mKlTE
>>115
謙信から喜平次に送られたこの手紙の場合
謙信自身の文面上で
「此飛脚路而相べく候得共
返事申候越され候者ハ前へ飛脚を越されべく候」
と言ってるので、飛脚でおかしくない。
118人間七七四年:2009/01/13(火) 19:05:51 ID:hTTyjGt+
>>113
本多重次「鬼武蔵を討ち取った俺ですら3000石だぞ。我儘言うなよ」
119人間七七四年:2009/01/13(火) 19:13:14 ID:sn8auvjH
>>118
家康「鬼が鬼を討ち取っても普通じゃね?」
120人間七七四年:2009/01/13(火) 19:14:45 ID:qRuPJbvB
>>118
鬼武蔵を討ち取ったのって鬼作佐なの?
121人間七七四年:2009/01/13(火) 19:16:53 ID:EQ80N/c4
>>118
あれ?あんたじゃないはず
122人間七七四年:2009/01/13(火) 19:58:14 ID:ZlK/mfpB
>>107
謙信公ってこう言う手紙だらけだったよな(w

謙信公の場合、手紙よりもメールの方があってた気がするな(ww
123人間七七四年:2009/01/13(火) 20:03:18 ID:h1YHRuep
>>120
鬼武蔵を討ち取った戦場は相当混乱していたらしく、それを討ち取った部隊も含めて諸説ある。
124人間七七四年:2009/01/13(火) 20:07:40 ID:lRJcNUwZ
討ち取った後、鬼武蔵のスタンドが大暴れしたからな
125人間七七四年:2009/01/13(火) 20:10:59 ID:umvUAhD/
銃撃で眉間撃たれて即死だから、武功なんて判明できないよね。
126人間七七四年:2009/01/13(火) 20:19:45 ID:OF+4GfeR
なんで眉間に穴が開いた程度で死んだんだろう?
127人間七七四年:2009/01/13(火) 20:29:43 ID:YOGSokqj
体調が悪かったんだろうなぁ
128人間七七四年:2009/01/13(火) 20:37:58 ID:h1YHRuep
>>127
そういえば、自分の娘は医者に嫁がせろって言い残していたな。>鬼武蔵
129人間七七四年:2009/01/13(火) 20:39:32 ID:PtiVIgOq
>>126
ワロタww
130人間七七四年:2009/01/13(火) 20:49:35 ID:FKvKP9i2
本当の戦場じゃあ、蜻蛉に構えて『エイヤ―(゚∀゚)―ッ!!』とか言ってる暇、無いんだぜ?
筑前黒田家家臣・野口一成の戦場講座のお話。

数多の戦場を駆け抜け、黒田二十四騎の一角に数えられた猛将・野口一成。
石垣積みの名人としても名を残す彼だが、自分自身も大変な武辺者であったという。
そんなある日、筑前黒田家である兵法家が道場を開き、剣術指南を行ったことがあった。

黒田家家臣>>それなら、野口殿を呼ぼうぜ。あの人の武勲は凄いからな、
        すげえテクニックとかあるに違いないぞ!!。゚+.(゚∀゚*)。+.゚

だが、実際に一成に試合をさせると…希望は失望に変わった。
兎に角、突き、突き、突きの一本槍しか出来ない幼稚な剣術だったからだ。
しかも、相手が太刀を振り下ろすと、何と一成、自分の左腕でそれを受け止め、
平然と右手で握った太刀を突き出そうとする。さすがに兵法家が怒った。

兵法家某>>何処の世界に、自分の左腕を斬り落とされながら戦う武者が居るんだ。
       いい加減、腕で受けるとか止めて真面目に戦え!!

これに憤慨したのが野口一成。胸を張って言い返した。
野口一成>>いや、俺はこの戦法で今迄、数多くの武勲を立てて来たんだ。嘘だと思うなら
       証拠を見せてやる。俺の屋敷に来いってんだ。m9っ;・`ω・´)っ

野口一成は自分の屋敷に兵法家を招くと、具足櫃の中からある物を取り出してみせた。
左手に嵌める、頑丈な鋼鉄の篭手だった。無数の太刀疵痕が残っている。

野口一成>>楯の代用として、特に念入りに筋金を入れさせた。俺の戦場流儀は、いつもこうだった。

次に見せた戦場太刀は、直刀に近いような錆だらけの太刀だった。刃の反りは曲がっており、見かけは粗末だ。
しかし尖端には磨き上げられた様な切っ先があり、頑丈さに掛けては"とても折れそうにない"ような出来だったらしい。

つまり、野口一成は戦場で敵に逢うと、先ずは考え無しの勢いで一気に間合いを詰め、敵が攻撃してきたらその剣閃を
左手篭手で受け止めるか払うかして相手のバランスを崩し、その隙に相手の咽喉輪や腋の下を太刀で突くという戦法を
兎に角磨き上げていったのである。

特に人間の右腋の下には、心臓から出て直ぐに枝分かれした腋窩動脈があり、
此処に突きを食らわせば大量の出血をもたらし、相手を衰弱させることが出来る。

戦場で同じ人間に二度逢う事は多くない。この戦法だけで野口に討ち取られた
敵は数多く見られただろうが、実際に道場で見るには単調で幼稚に見えたのだろう。

そんな野口一成の、戦場で生き延びる為に会得した我流剣法のいい(着目点の)話。
131人間七七四年:2009/01/13(火) 21:04:27 ID:9ACYv7K6
どこぞの示現流を思い出させる逸話だ。
戦場で活躍できる人ってのは案外そんなものなのか。
132人間七七四年:2009/01/13(火) 21:04:32 ID:ezoOkT6T
同様に、手のひらが傷だらけのひとも居たはず。
133人間七七四年:2009/01/13(火) 21:08:36 ID:EQ80N/c4
>>130
訓練の時は籠手付けて無いよな…
竹刀か木刀だと思うが素手で受け止めるのは痛いだろ野口w
134人間七七四年:2009/01/13(火) 21:18:52 ID:ZlK/mfpB
>>126
将門公「だよな」
135人間七七四年:2009/01/13(火) 21:25:47 ID:wT3DZul9
将門公は流れ矢だっけか。
死後は首だけで飛んでっちゃうような人なのに流れ矢で死んじゃうなんてすごくふしぎ
136人間七七四年:2009/01/13(火) 21:36:02 ID:h1YHRuep
>>135
狼男とか、ほぼ無敵なのに銀の弾丸で死ぬじゃないですか。
きっと将門公のも鬼武蔵のも、銀でできてたんだよw
137人間七七四年:2009/01/13(火) 21:55:35 ID:N9eJzU13
>>135
将門公は刀でも矢でも傷つける事が出来なかったが、大ムカデ退治の経験を持つ
俵籐太に額の弱点を見抜かれて倒れたという、アキレスみたいな伝説がある。
鬼武蔵も同じ人種だろうよ。
138人間七七四年:2009/01/13(火) 21:56:49 ID:lRJcNUwZ
人…種…?
139人間七七四年:2009/01/13(火) 22:43:13 ID:OF+4GfeR
鬼種だな
将門公は鋼のような体を持ってたから金鬼
鬼武蔵は突然相手に切りかかるから隠形鬼
140人間七七四年:2009/01/13(火) 23:07:26 ID:yOjXzKhM
風鬼と水鬼は誰ですか?
141人間七七四年:2009/01/13(火) 23:53:13 ID:iQM+RPB8
マイナー過ぎる
142人間七七四年:2009/01/13(火) 23:57:15 ID:EQ80N/c4
水鬼は水攻めの秀吉。
風鬼は…
143人間七七四年:2009/01/13(火) 23:58:20 ID:TctAPrao
>>142
寒いの平気な鬼佐竹
144人間七七四年:2009/01/14(水) 00:21:50 ID:EaTQCIa3
>>142
水鬼は名前的な意味で九鬼じゃない?
145人間七七四年:2009/01/14(水) 00:35:24 ID:6HpDkw43
>>130
介者剣術なんて兵法者はイヤミにいうけど、
戦場で鎧武者を倒そうとしたらそうなるわなー

当世鎧ぴっちり着込んでたら、狙える所は喉や脇、コカーンくらいだもん

んで(刀より)槍三倍段になる、と…
146人間七七四年:2009/01/14(水) 00:46:52 ID:6HpDkw43
>113
安藤直次(帯刀さん)と永井直勝のいい話もあったなあ。
147人間七七四年:2009/01/14(水) 01:05:26 ID:hm0M9IHb
戦場で一番人殺したと噂の鬼真壁さんの必殺技は棒でぶったたくだね
敵味方がうようよしてる戦場で流暢に技術をひけらかすよりは
相手の戦闘力を奪う一撃をがすっとお見舞いしたほうが良いと言う事でしょうかね
148人間七七四年:2009/01/14(水) 01:29:23 ID:EaTQCIa3
>>147
鬼真壁の門弟は試合に来た斎藤伝鬼坊を数十人がかりで殺しちゃうし(しかも弓で)・・・
師匠も弟子も実戦派だなw
149人間七七四年:2009/01/14(水) 01:38:00 ID:6HpDkw43
>>147バットマンだもんな。ダークナイトじゃなくて、棒的な意味で('Д`;)

そういや「鬼佐竹」義重は格別の武具ってなかったよね?
まさか小豆重光を戦場で振り回したりしてたんかね<銘はうろ覚え;


>148それ何て片腕カンフー(キル・ビルに一部ネタが使われとる…)
150人間七七四年:2009/01/14(水) 01:42:05 ID:nqPpRar/
武“芸”者というだけに、実戦を潜り抜けてきた連中からすれば1対1の立ち合いを前提にしている剣術なんて
見世物や大道芸の類だったんだろうな
151人間七七四年:2009/01/14(水) 02:06:30 ID:GbzC7g+u
>>130
可児才蔵が決闘申し込まれて、20人位の家来連れてきた話思い出した。

戦場は名のある武芸者だって弓・鉄砲で即死の世界。
道場は礼節やら鍛練の場所。
歴戦の勇者からすれば武芸の心得が有る無いの話じゃないんだよな
152人間七七四年:2009/01/14(水) 02:50:55 ID:SH8gEjPP
>>147
最上義光「棒でぶったたくなんて野蛮な」
北条氏繁「常識を疑うわ」
三浦同寸「ねー」
153人間七七四年:2009/01/14(水) 03:00:59 ID:RMj1WBew
氏繁はまぁ死んでも家潰れないからいいんじゃね
鮭はアウトだが
154人間七七四年:2009/01/14(水) 03:05:50 ID:rSjaj8hE
実際のところ、鎧の上から鉄棒でぶっ叩かれるとどんな感じなんだろ?
もの凄い衝撃で吹っ飛ぶのかなあ?
155人間七七四年:2009/01/14(水) 05:40:39 ID:NlvLZkTM
>>154
西洋でも全身を板金で覆うプレートアーマーが発達して刃物が効かなくなってきて
メイスとかフレイルみたいな鈍器でぶん殴るのが人気だったのを思い出した
156人間七七四年:2009/01/14(水) 07:45:12 ID:CRAcMVLN
本多忠勝「当たらなければ、どうと言う事はない!」
157人間七七四年:2009/01/14(水) 08:51:51 ID:binRxsNS
井伊直政「………」
158人間七七四年:2009/01/14(水) 09:24:52 ID:6HpDkw43
>>152
尉遅敬徳「(わしのイラストだけで)鬼神も寄り付かないくらい霊験あらたかなのに…(´・ω・`)」

ていうか、あんたらが言うなw
159人間七七四年:2009/01/14(水) 09:40:22 ID:7l0NwEBT
そういえば足利尊氏の肖像画で、巨大な太刀を肩に担いで騎乗している
有名な絵があったなあ。
あんなのを振り回していたら、戦場でも近所迷惑だが。
160人間七七四年:2009/01/14(水) 10:09:04 ID:ngPWB+X6
思ったんだけど火縄銃の弾ってデカいよな?
眉間に当たったというがんな所に当たったら頭上半分炸裂して識別出来なくねね?
という事で鬼武蔵生存説を唱えてみる
161人間七七四年:2009/01/14(水) 10:14:50 ID:6HpDkw43
>>159長巻や長刀みたいなもんかも。
戦国時代にも朝倉の真柄十郎左衛門みたく五尺に余る野太刀をブン回す豪傑はいたよ

ちなみに肖像画、あれは尊氏かどうかわかんね、て話になってるらしいが
162人間七七四年:2009/01/14(水) 10:56:32 ID:yY9bJzg8
>>161
高師直か高師泰だかのどっちからしいって話だね。
けど、あの姿っていうのが
『兜を被っていない、馬上で既に太刀を抜いている』っていう姿ってのは
実は敗走中の武士に良くあるスタイルらしいんだわ。そんなかっこわるいトコ
足利尊氏が絵に描いて残すかぁ?っていう説が出てる。

けど、どうも尊氏って躁鬱病だったらしいから、狸の顰像みたいに描けって
命令した可能性も無くはないんじゃないだろうかと。

ちなみにあの像で尊氏?が背負ってる太刀、ざっと見積もっても刃渡り四尺(1.1b)は
ありそうだとの事。鎌倉・南北朝時代は、太刀の流行最高潮だった。

163人間七七四年:2009/01/14(水) 11:10:45 ID:oXv1HBfW
因島の博物館だったか、記憶が定かでないが…鎌倉時代の太刀の大きさに驚いた事がある。
164人間七七四年:2009/01/14(水) 11:26:03 ID:LY8r9hqW
岩国城に馬鹿デッカイ太刀が飾ってあるねぇ
165人間七七四年:2009/01/14(水) 11:34:27 ID:hw9Q53wN
神様の奉納用じゃなくて?
166人間七七四年:2009/01/14(水) 11:48:17 ID:6HpDkw43
>>162まあ足利尊氏と一党が一度や二度、負けても懲りない人間だらけだったのは確かだろな。
九州まで落ちてもあっという間に万余の軍勢を整えて都へ攻め上ったんだっけ、
合戦で強いのは勿論として、謎のカリスマ性があったらしい
「だーいじょうぶ次は勝てる、恩賞やる!」てノリで周りの御家人をその気にさせちゃう

「ぜったい、だいじょうぶだよ!」と言っては周囲をはにゃ〜んさせるCC尊氏説


…最悪は帝国陸軍の参謀つじーんみたいなノリだがな(´Д`;)
167人間七七四年:2009/01/14(水) 12:06:29 ID:MrrlAaA+
157>
井伊直政は、関ヶ原で敗走中の島津義弘の家臣に狙撃されて
大けがし、それがこじれて死んだんだったね。
でも、関ヶ原直後島津家を直政が家康に取りなしてやったという話があったね。
168人間七七四年:2009/01/14(水) 12:24:02 ID:30izF+hX
>>162
尊氏だったら入ってないといけない引両紋もないから違うといわれてるね。
169人間七七四年:2009/01/14(水) 12:50:26 ID:6HpDkw43
>>167
島津維新と捨てガマリの家臣をあっぱれて思ったんだろうなー

あと島津氏って戦場では無闇やたら強いけど、三成挙兵以前から徳川家へ直接害をなすよな行動してないし。
万一島津征伐になったら、今度は徳川家が関東から九州南端まで遠征して、尚かつ“あの”薩隅兵とやりあわなきゃならん。
……改易しようにも、割に合わんと考えた可能性低くなさそうだ。
170人間七七四年:2009/01/14(水) 13:56:28 ID:d+Prviwj
島津日新斎の三男、島津尚久は大男で五尺の太刀ぶん回してたって記録がある
171人間七七四年:2009/01/14(水) 13:58:00 ID:FEogFiZ0
>>160
しかし思ったんだが、仏教的な地獄なら、いたって普通に鬼の中にとけこんでそうだよな。
172人間七七四年:2009/01/14(水) 14:08:38 ID:TUjyEaBt
リアル鬼を率いて侵攻してくる鬼武蔵を想像した
173人間七七四年:2009/01/14(水) 14:41:57 ID:40i1YfrJ
人類の命運を掛けた戦いですね、わかります。
174人間七七四年:2009/01/14(水) 14:49:19 ID:4Q/RD8HO
大河も武蔵でなく鬼武蔵をやれば
一大センセーションを巻き起こしたろうに
175人間七七四年:2009/01/14(水) 14:57:17 ID:IpCq9Sps
>>174
知り合いがまとめサイト見て、まず衝撃を受けたのが鬼武蔵の逸話だったなw
しかし血の臭いしかしない大河になりそうだがw
176人間七七四年:2009/01/14(水) 15:07:06 ID:F7uLdxvi
>>174
大河パワーでどこまでさわやかになるかだなw
177人間七七四年:2009/01/14(水) 15:17:17 ID:2YiEe7zH
オープニングで百段に乗って砂浜を駆ける。そこにタイトルコール。
『暴れん坊鬼武蔵』! バババーン、バンバンバンバーン!!
178人間七七四年:2009/01/14(水) 15:18:37 ID:4Q/RD8HO
>>175
その友人はなんという俺w戦国はさっぱりだけど
このスレ→まとめサイト でもう鬼武蔵の虜
179人間七七四年:2009/01/14(水) 15:27:34 ID:IONuwxWM
>>177
敵も味方の隠密も町娘も皆殺しして一人哄笑する鬼武蔵が思い浮かんだ。
喧嘩両成敗。これにて一件落着。
180井伊”通常の三倍”直政:2009/01/14(水) 15:39:18 ID:tVMmedb6

             ,イ    │
          //      |:!
            //,. -/r‐- 、| !
         /,/ ./ |  _」 ト、
       /.\`/  |二...-┘ ヽ
.        i   ,.>、;/ー- 、    l
       ! ∠.._;'____\   |
      ,!イ く二>,.、 <二>`\.、ヽ.
     /'´レ--‐'ノ. `ー---- 、 |\ ヽ、 <実にあっぱれでござる
    \  `l  (!"      Jfヽ!  `''-;ゝ
      `‐、jヽ ヾニニゝ   ゙イ" }_,,. ‐''´
         `´\  ー   / ,ィ_}
.          |_ `ー ''´ _」'
        _,.| ~||「  ̄ 人|、._
  ,r==;"´  ヽ ミ|||彡   / ` ー`==、-、
. ///,イ  ___ ヽ|||_,,. ‐''´___  | | | |ヽ
181人間七七四年:2009/01/14(水) 15:51:42 ID:+ZGtujmp
>>172-174最終話は小牧長久手の合戦か。
「鬼武蔵&森家中VSめんどくさい三河武士軍団」ついでにイケイケ池田ファミリーも

どこのハルマゲドンですか、というかそれ「300」より“わや”な話になりそう...
182人間七七四年:2009/01/14(水) 16:15:40 ID:6HpDkw43
>>174
最近じゃ新免武蔵と聞いても「ああ頓知の利いた兵法者ね」くらいしか感じなくなってしまった。どうしよう
183人間七七四年:2009/01/14(水) 16:26:52 ID:IpCq9Sps
大河ドラマ「鬼武蔵」


若鬼編:織田信忠の下につき初陣を果たした長可。若き主君の願いをかなえるため
     けなげにも敵陣に一人で果敢に攻め込む。
     若武者らしい忠義と勇気を発揮。

飛翔編:父の非業の死により若くして森家の家督を継いだ長可。彼はあえて関所や橋の
     乗り捨てや、馬揃えで犯罪者を処罰することにより、信長に「法や力がすべてではない」
     と言うことを悟らせる。

怒涛編:甲斐攻めにおいて、高遠城を攻めあぐねる織田信忠軍。だが、それを打開したのは
     城の屋根に上って下に向かって銃を乱射すると言う、長可の生み出した全くの新戦術だった。
     新時代の武将としての森長可を、満遍なく表現する。

悲天編:本能寺で信長、信忠、そして弟たちが死に、悲嘆にくれる長可であったが、秀吉の懇願により、
     信長、信忠の理想を実現するため再び立ち上がる。
     だが、彼の前に立ちふさがったのは、互いに勇者として尊敬しあう友、徳川家康であった。
     その、あまりの無常さに、長可はこの時初めて、戦いの空しさを覚える…

信長が愛し、秀吉、家康が最も恐れた男、鬼武蔵森長可の生涯が、今明かされる!
184人間七七四年:2009/01/14(水) 16:28:46 ID:CFhTh5aT
すげえおもしろそうなんだがw
185人間七七四年:2009/01/14(水) 16:33:31 ID:739pYYFY
騙されるな、本性はただのDq!!!?

      ハ,,ハ
     ( ゚ω。) 
      ~~~~~~
186人間七七四年:2009/01/14(水) 16:48:00 ID:6HpDkw43
>>183
あと“越前の狂犬”富田長繁と長島一向一揆攻めで共同戦線を張るのも忘れるなヨ♪
187人間七七四年:2009/01/14(水) 17:03:30 ID:RMj1WBew
葵三代に対抗して森三代は?
188人間七七四年:2009/01/14(水) 17:34:37 ID:oXv1HBfW
>>183の才能に嫉妬www
なんでも、美談にできるでしょ…漏れがカネ餅になったら、自伝を書いてもらおうっとw
189人間七七四年:2009/01/14(水) 17:37:09 ID:TIwzyoqC
>>179
「人間が存在しなければ問題は起こらない」
とか普通に言いそうな鬼武蔵w
190人間七七四年:2009/01/14(水) 17:59:08 ID:MrbwwuaZ
戦国でなけば暴力団、マフィアというより
アフリカ辺りに多い抗争している武装勢力の親分だわな。

何時のまにか軍の参謀総長に納まってたりして。
191人間七七四年:2009/01/14(水) 18:03:09 ID:HTwYIDYA
鬼武蔵は某革命軍の某マッセナとイメージが被るw
192人間七七四年:2009/01/14(水) 18:08:53 ID:wv5bz7jr
ノブヤボで弱いのがつくづく悔やまれる
193人間七七四年:2009/01/14(水) 18:11:30 ID:Dj7nS4Wn
でも森家って織田組の中でも小さい訳じゃないよねえ?
やっぱりまとめ上げるだけの才能もあったってことなんかな
194人間七七四年:2009/01/14(水) 18:26:56 ID:3SJD4jbW
まとめあげる…

そんなことチートモ考えてなさそう
195人間七七四年:2009/01/14(水) 18:31:46 ID:MrbwwuaZ
カダフィ大佐みたいなのかな。
196人間七七四年:2009/01/14(水) 18:43:20 ID:p/ARxwvJ
大河ドラマ「鬼武蔵」のキャスト予想
鬼武蔵 長渕剛・・・じゃないよな

197人間七七四年:2009/01/14(水) 18:44:48 ID:oXv1HBfW
>>196
もう、長淵キックは見飽きたお。
198人間七七四年:2009/01/14(水) 18:50:20 ID:cL+RcSnr
>>187
可成、長可、忠政でまるっと戦国乱世を描ききれるな
199人間七七四年:2009/01/14(水) 19:04:27 ID:8KVHyRRN
悪のりし過ぎ、vipにいけよ
200人間七七四年:2009/01/14(水) 19:04:47 ID:6mBkPdxE
可成の父、森可行の人生も興味深いな。
若くして祖父、父が戦死したり子に先立たれたりしてるけど、
本人は森家では珍しく天寿を全うしてるし。
201人間七七四年:2009/01/14(水) 19:06:56 ID:CFhTh5aT
>>199
流れを変えたいならエピソードを書いてくれ。
202人間七七四年:2009/01/14(水) 19:31:21 ID:6HpDkw43
>200そういえば
お乱もだが、森可成は織田家中イケメンで通ってたんだっけ。
203人間七七四年:2009/01/14(水) 19:37:24 ID:IpCq9Sps
戦国のラッキーマン

二階堂盛義と言う武将がいる。AAで有名なあの人だ。
彼は蘆名氏、田村氏などと抗争を繰り広げた戦国大名であったが、
永禄9年(1566)2月、蘆名盛氏・盛興父子に攻撃により、二階堂領の重要拠点、
松山・横田両城が攻め落とされ、降伏。嫡男の盛隆を人質として差し出し、二階堂氏は
蘆名家のもとに屈服した。彼は、敗残者であった。


ところが世の中、どうなるか分からない。

天正2年(1574)6月、蘆名盛氏の嫡男、盛興が、子を残さないまま死んでしまったのである。
盛氏は人質としてあった二階堂盛義の息子、盛隆を養子とし、自らの後継者とした。

この時、盛義は蘆名配下の一領主から、次期当主の実父へと大きく立場を変えた。

こうなったらやりたい放題である。蘆名氏の力を背景に、長年敵対した田村氏を攻め
ついにこれを打ち滅ぼした!負けたはずの二階堂氏の全盛期がいま、やって来たのである。
そして彼は幸せのまま、天正9年(1581)8月に没した。

戦国の世にもどん底から、天に登る事もある。そんなお話。


(田村氏を滅ぼしたせいで二階堂氏は後年政宗にフルボッコにされることは内緒だ!)
204人間七七四年:2009/01/14(水) 19:44:54 ID:Vf5qK/Cg
大久保彦左衛門の「大だらい登城」の話。
有名な物は年を取ってから(江戸時代)の話。
旗本の輿での登城が禁止された。大久保翁、これに激怒。
「ならば」と大きなたらいに乗って(おそらく御神輿の様に?)意気揚々と登城。
幕閣は大久保翁の言い分(「たらいは輿ではない」)を聞いて、年配の旗本の輿での登城を認めた。
ただ私が思うに大久保彦左衛門は若い頃に、「見栄」で大だらい登城をしていたに違いない。
だから年寄りになってもこういう「パフォーマンス」を実行したに違いない。
察するに石田三成や直江兼続の前でも、こういう事をしていたに違いない。
趣旨違いかもしれないけど、記憶に残るので乗せました。
「天地人」に大久保彦左衛門が出てきたらこれをしてほしい!
205人間七七四年:2009/01/14(水) 19:46:45 ID:pDVGeUzd
鬼武蔵が話題も出さず文句垂れてる199に向かっているそうです


<ニニ ロ━━━━O/鬼ヽ━━━━
         ∧,,∧(゚Д゚,, )
        /百 ・ )Oニ)<;;>
        /   ノ lミliii|(ヾゝ
       (o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡   ┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨
          ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
         / /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_
         ヽニフ|_|   (_/  ヽノ
             (_ヽ
   _, ,_ _, ,_
 :(;゚∀゚)゚∀゚;): ヒィィィィ──!
 :(  `⊃⊂´ .):
 :と_ _))(_ _つ:
206人間七七四年:2009/01/14(水) 19:49:11 ID:6HpDkw43
>>203
ひょえーAAの人ねw
207人間七七四年:2009/01/14(水) 19:50:54 ID:R+6IkxEe
大だらいつうとイカリヤの上に落ちてくるシーン
を思い浮かべる俺はまごうことなきおっさん。
208人間七七四年:2009/01/14(水) 19:53:02 ID:pDVGeUzd
安心しろ
全員集合世代でもない俺でもタライったらそれだ
現代ではほとんどタライなんて使わない品
209人間七七四年:2009/01/14(水) 20:12:20 ID:tVMmedb6
>>203
  ,r';;r"            |;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;
 ,';;/             /;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;
 l;;'            /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',;;;;;;;
. ,l;L_      .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;iソノ
ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
 l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、l
 | `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;;;;;;;;/ l |
. ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;ノヽ'/
. l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ < 呼びましたか〜
 ', ゞ,' '"'` '"       i;;;;;i, `' /
  ', i、-----.、       `''"i`'''l
.  ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\        ,'  ト、,
   ヽ ヽ〈    i|          Vi゙、
    ゙, ,ヽ===-'゙ ,'     ,   // ヽ
.    ',.' ,  ̄ , '    ノ  /./    ヽ,
.     ヽ.  ̄´   / ,、 ' /     / \
     ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙     /
,、 - '''´  |  ヽヽ /,、ィ     /
210人間七七四年:2009/01/14(水) 22:17:36 ID:xXQ7BCDY
>>183
天正12年(1584)、尾張国羽黒・八幡林

森長可「ぐうッ!このオレが手傷を…オレは、オレでは徳川殿に勝てんというのか!」
野呂助左衛門「殿、ここは拙者が!早く退かれよ!助三郎、殿をお守りせよ!」
野呂助三郎「承知!父上、どうかご無事で・・・」  長可「助左・・・すまぬ!!」

助左衛門「さて、そろそろ良かろう。わしも退くか」
松平家信「そこへ退くは、森の家老・野呂助左衛門と見た!返して我と戦えい!」
助左衛門「呼ばれて逃げるは森家の恥。よかろう、来い、若造!!」

助左衛門「フン、口ほどにもない。しかも良く見れば、まだ子供ではないか。どうするか・・・」
家信家臣「殿は討たせぬ!者ども、かかれーい!!」

 ド  ス  ッ

助左衛門「ぐふっ、情けが仇になったか・・・殿・・・・・・さらばじゃ!!」

野呂家中間「若━━━━━━っ!!!」
助三郎「おおっ!お前、無事だったか!して、父上はいかがされた?」
中間「旦那様は・・・これを若に渡せ、とだけ・・・・・・」

助三郎「これは・・・父上ご愛用の脇差!そうか・・・・・・お前に、私からも頼みがある。
     この手ぬぐいは、母上に 『これで汗をぬぐえ』 と、縫っていただいたもの。
     お返ししてくれい。もはや、私が汗をぬぐうこともあるまい。」

中間「そ、そんな!旦那様ばかりか、若まで・・・わしは、お袋様と奥様になんと言えば・・・」
助三郎「・・・・・・言うでない!!妻には、これを頼む。」

ブ ツ リ

中間「おお、髪を・・・若・・・若ァ・・・・・・!」
助三郎「鬼武蔵の家臣が父を殺されて、生きて戻ることなど出来ぬ!さらば!!」

長可「な、なに!助左が・・・!助三郎も、だと・・・オレが・・・オレが間違っていたのか・・・」

<次回予告>
天下統一のために、あえて『鬼』となった若者がいた。
しかし、信頼する親子の死を前にして、己の行き方に疑問を持った彼は・・・

大河ドラマ 鬼武蔵 最終回 『 長久手 』 ご期待くださ・・・るな。我ながら、なんか痛いし。

羽黒には野呂親子の供養碑があって、今でも供養祭をやってるので、興味がある方は
行ってお参りしてあげて下さい ( ;ω;)
211人間七七四年:2009/01/14(水) 22:31:18 ID:HTwYIDYA
>>203>>209
この人、そういう人だったんだw
つうか何でこんな顔グラに・・・
212人間七七四年:2009/01/14(水) 22:44:10 ID:/8TxYnrd
>>203
その二階堂ジュニアは、血縁者なのかな?
他に甥っ子とかいなかったのかな。
あるいは人質とはいえ近くに置いているうちに、情が移ったのか。
213人間七七四年:2009/01/14(水) 22:51:23 ID:YO55vba5
>>203
未亡人が政宗の伯母=輝宗の姉なんだけども(大乗院)、
彼女は政宗に対して断固抵抗した。
涙ながらに悲愴な決意を固める彼女のもとで家臣は団結、籠城する。
だが内通もあり甥である政宗に敗北滅亡。
政宗の保護申し出ををつっぱねて、
妹が嫁いでいた佐竹家に保護され亡くなったという。
214人間七七四年:2009/01/14(水) 23:17:42 ID:AWPpNEK4
‐三傑の女性に対する価値観‐
イイ話し?悪い話し?

メジャーなのでこの板の諸兄ならご存知でしょうけどお茶うけ程度に。


信長は未亡人を好んだ。いわゆるマザコンですね。これは幼い頃に母の愛情にあまり触れなかった為だと思われ、魔王と恐れられた信長の人間性を垣間見れたようで微笑ましく思うのは私だけでしょうか。

秀吉は名門育ちの女性、それも武家の名門にこだわったようで虐げられた半生の逆転というシチュエーションでエクスタシーを味わう性癖の持ち主だったのでしょうか?特に主家織田家の女性に対する執着心は…
晩年は権力に任せて凄い女性遍歴を残しました。

家康は町人の娘、下女、身分の上下を気にせず手当たり次第のような感じを受けます。50歳を過ぎた頃からロリコンの傾向が強くなったようです。

良い話しか悪い話しか、天下をとった三傑でも生身の人間性を感じれるようなお話し。
215人間七七四年:2009/01/14(水) 23:20:23 ID:YO55vba5
>>214
政宗「ちょwマザコンとかありえねーwww」
216人間七七四年:2009/01/14(水) 23:24:35 ID:IpCq9Sps
>>214
> 魔王と恐れられた信長

この「魔王」なんだけど、実は信長の「自称」なんだよねw
たしかフロイスの書状にしか出てこない話だったと思うけど、
上杉謙信が信長にあてた書状に「オレは毘沙門天」って書いてあって、それを見た信長が
対抗して「じゃあオレは第六天魔王ー!」って書いて送ったって言うw
217人間七七四年:2009/01/14(水) 23:28:10 ID:yY9bJzg8
>>214
徳川家康は"後家殺し"という異名があってだな、若い頃は健康な跡継ぎをと
未亡人、かつ経産婦である女性を好んで側室にしたがったらしい
けど、秀忠とか秀康といった後継者候補が立派に育つ織豊期末、とくに関ヶ原が
終わった後は一気にロータリーを走る走る。側室がローティーンとかはザラだったらしい。

秀吉が蒲生九十二万石を潰したのは、氏郷未亡人(信長女・冬姫)がどーしても振り向いて
くれなかったので腹いせにやったという説があるくらい織田家の血筋狂い
218人間七七四年:2009/01/14(水) 23:39:35 ID:h2Gvjyv5
高貴な幼女にモテたい秀吉。
ジュリアおたあに首ったけの家康。
219人間七七四年:2009/01/14(水) 23:56:35 ID:PDJUAMSd
幽斎流 和歌で諌める風流な教育法

◆其一
忠興がまだ幼少の頃、幽斎の言いつけを破った事があった
その際に幽斎は、ただ言葉で叱るのではなく書を書いて「これを読んでよく考えてね」と忠興に手渡した
中には小言と共に、1首の和歌が添えてあった

「いひ出し とりかへされぬ ものなれば 言の葉残せ 腹はたつとも」
(色々言っても仕方ない様な腹の立つような事があった時は、和歌でも詠んでみるといいよ)

◆其二
忠興が成人した後、とある家臣から「若様は何事にも厳し過ぎて困ります。これではとてもお仕えする事はできません」との訴えがあった
そこで幽斎はまた和歌をしたため、忠興に「この歌の心をよく考えてね」と手渡した

「真菰草 つのぐみ渡る澤邊には つながぬ駒も放れざりけり」(詞花和歌集卷第一 春)

むやみに叱らず和歌を贈り、その意味を考えさせる事によって息子の成長を期待した幽斎
そのお陰か、忠興はとてもピュアで純真な子に育ってくれました






220人間七七四年:2009/01/15(木) 00:40:31 ID:mT2CPR5d
>>219
父ちゃんはこんなに立派なのに…(;ω;)
221人間七七四年:2009/01/15(木) 00:42:26 ID:HoNxvU+4
純真だなダイヤのようにピュアで危ない
222人間七七四年:2009/01/15(木) 00:50:43 ID:S4YjTRA3
>>221
世の中からの圧迫や摩擦には強いが、金鎚でひっ叩かれるような衝撃には粉々になる繊細さ。
あと、火を尽ければ燃えるのも。…素晴らしく細川三斎じゃないか(苦笑。

223人間七七四年:2009/01/15(木) 01:03:49 ID:zd35fPHc
>>219
ピュアで純真過ぎる3歳児が出来上がったのはこれが元か
224人間七七四年:2009/01/15(木) 01:07:09 ID:U6HJWZtQ
虎哉「うちの若殿も、わしの教育あってかピュアで純粋に育ちました」
225人間七七四年:2009/01/15(木) 01:09:18 ID:iQ8rgFWP
関ヶ原の合戦のおり、ある武将の子供が忠義を示す人質として家康の元に送り届けられた
小山会議の直後でもありその武将の素早い対応に家康は大いに喜んで自ら対面
人質になる4才の子供と従臣を家康は上座から下りて労をねぎらった
が、この子供
家康に抱えられた途端に泣きだす
そらもう盛大に泣く
家康があやしても泣きやむ気配がない
困った従臣がその子を引きはがそうとすると、家康
「まあ、まてまて」
と、鞘ごと脇差しを子供に渡した
するとその子供、泣き止んで大はしゃぎ
しかし、大御所様の脇差しである、従臣が困っていると
「真、武士の子よな。父に劣らぬ将となれ」
と笑いながら、その脇差しをそのまま子供に与えた
実はこの子供、真田信之次男の信政
脇差しは吉光という業物で真田家の家宝になりました

狸親爺のちょっとほのぼのとする話
まあ、名義上の孫だからって説もあるんだけどね、そうなると只の爺バカかな
226人間七七四年:2009/01/15(木) 01:09:50 ID:2Y5yW5Q7
仲良くなるはずだわな
227人間七七四年:2009/01/15(木) 01:15:49 ID:U6HJWZtQ
>>225
最上義光の四男・比治利丸(のちの山野辺義忠)13歳も、
関ヶ原のときは家康のもとに人質としていた。
このときの彼の言動を見て、家康は"恐るべき怪童"と言ったとか。
具体的に比治利丸が何を言ったかわからんが、人質のこどもと
仲良くしていたんかね、じいさん。

まあ、比治利丸ちゃんは、信政とは逆に才能を悪いほうに発揮しちゃうんだが_| ̄|○
228人間七七四年:2009/01/15(木) 01:20:08 ID:uDwgQNq8
家康は若い頃から、人質を大切に扱うことで有名だったらしいね。
自分が織田や今川で、嫌な思いをした経験があったんだろうけど。
229人間七七四年:2009/01/15(木) 01:54:33 ID:qq1XipTa
>>214
信長が幼少から親と離れて暮らしたってのは信長公記首巻の誤読ということで
否定されているし、信長の妻妾で未亡人とはっきり判るのは生駒とお鍋くらい。
この二人だって信長から格別の寵愛を受けたかというと、そんな史料はない、
少なくともかなり怪しいシロモノ。

信長がマザコンって小説の創作だと思う。
230人間七七四年:2009/01/15(木) 03:37:25 ID:peYotJQP
後家を側室にするのは、子供を産んだ経験があるほうが子作りに有利なのと
後家の生活の面倒を見るって面もあったらしいな。
231人間七七四年:2009/01/15(木) 03:40:20 ID:IHVr1K3x
そーいや家康のロリコンも房中術の一種で、健康・長寿の為だったって話もあるな
さすがは天下人、すげぇ執念だ
232人間七七四年:2009/01/15(木) 07:18:23 ID:umMqg9SR
>>229
生駒は立て続けに3人子供を産んでるが…
233人間七七四年:2009/01/15(木) 07:50:32 ID:3I+THv95
謙信公と人質の話で、
城攻めの真っ最中に腹痛を訴えた謙信厩橋城に帰って引きこもり
腹が痛いならおとなしく寝てりゃいいのに
人質の幼児をおぶってあやして遊んでいたっちゅー逸話もあるな。
姉の子供たちを可愛がり倒していたらしいとこといい
謙信はめちゃくちゃ子供好きだったらしい。

で、この時の幼児。
一説には謙信に下馬しなかったため叩かれた逸話で有名な
成田長泰の末息子だったとか。
234人間七七四年:2009/01/15(木) 09:20:28 ID:rxyKs/WU
>>225
池田光政も祖父輝政と家康に会った際に、与えられた脇差をその場で抜いて
輝政に窘められたが、家康は「そういう肝の太さなら名君になるだろう」と言い
笑って許したとある

自分も若い頃に今川の庭で小便した人物だから、子供のやんちゃには寛大な
ようですね
235人間七七四年:2009/01/15(木) 09:35:02 ID:mz1gCJwJ
>>216
信長「ふははは!怖かろう〜」

ですね。そのうち総見寺とか作っちゃう
236人間七七四年:2009/01/15(木) 10:05:51 ID:SaVJkV3Z
謙信公はホントにカーチャンだな
237人間七七四年:2009/01/15(木) 10:56:07 ID:mz1gCJwJ
>236達筆でしかもやたら筆マメという…ね。

植木等とか、寺の息子や寺で修行した人って筆がやらかいよね。必ずしも女性的ってわけじゃないが
238人間七七四年:2009/01/15(木) 11:31:24 ID:mz1gCJwJ
>>228……自分が長男を思わぬことで失ったからなー
若い頃の実子にはむしろ厳しいイメージがある家康だけど、年とってから出来た子や人質には優しかったみたいね。(松平忠輝だけは微妙な扱い方をしたか)

あとマジな話、人質にしていた子が実家に戻って家督したとき、それまで嫌な経験が多ければいずれ主家(徳川)へ仇なすかもしれん。ちょうど自分が今川を見限ったように…

宇喜多の泳ぐ人みたく、秀吉に厚遇されて育ったから旧主が死んでからもその遺児を盛り立てようとした猶子もいる。<やり方はマズかったとしても。

君臣長幼の序を教えつつ、徳川風にゆっくり育てていけば損にはならないって冷徹な計算もしていたとおもうよ。
239人間七七四年:2009/01/15(木) 12:40:08 ID:sYc6umle
>224
まあ、目的に真っ直ぐな人ではあるが
...
240人間七七四年:2009/01/15(木) 13:42:36 ID:ZgZiSBij
>>239
でも手段は斜め上なんですよネ
241人間七七四年:2009/01/15(木) 14:08:14 ID:P0LVoEB4
Q:目的は?
A:斬!
Q:手段は?
A:斬!!
Q:邪魔者は?
A:斬!!!
Q:味方は?
A:斬!!!!

以上匿名希望武将Tさんの真っ直ぐなインタビューでした
242人間七七四年:2009/01/15(木) 14:12:13 ID:npe6FgxD
>>232
子供をたくさん生んだ=格別の寵愛でもないっしょ…
単に生駒が妊娠しやすい体質という事だったんだろうよ。
あと信長は子沢山だからそれも要因だろうね。
243人間七七四年:2009/01/15(木) 14:16:44 ID:npe6FgxD
>>238
家康が人質時代に冷遇されていたってのは創作じゃなかったっけ?
実際は当主である義元の姪である築山殿を嫁に貰ったりしてるわけだし。
244人間七七四年:2009/01/15(木) 15:01:29 ID:uDwgQNq8
>>243
待遇って、そういう表面に現れるものだけじゃないからね。
今に残っている家康の人質時代の逸話は今川家というより、その家臣団の連中から受けた
侮辱の話がほとんどなわけで。実態もそう言う、陰湿ないじめに近いことを受けたんじゃないかな?
245人間七七四年:2009/01/15(木) 15:02:05 ID:U9ms0Yh5
>>243
義元自身は色々気を使ってるみたいだけど
他の今川家中の人たちはまた違ったんじゃね
後年、城落とした時降った連中全員許したけど
人質時代にいやな思いをさせたの人だけは切腹させたし
246人間七七四年:2009/01/15(木) 15:06:10 ID:uDwgQNq8
そういえば家康は、今川義元のことは後年になっても尊敬していたようだね。
京に上り下りする時は途中、義元の墓に参って、手を合わせるのが習慣だったらしい。
247人間七七四年:2009/01/15(木) 16:11:59 ID:mz1gCJwJ
>>246
同じ「海道一の弓取り」だしね。
248人間七七四年:2009/01/15(木) 16:14:26 ID:mz1gCJwJ
>>241
おまいさん……終いに後ろから撃たれちゃうわよ?
249人間七七四年:2009/01/15(木) 18:34:02 ID:ru0NHUgP
人質言うても裏切らない限りは大切なお客さん
将来成長して実家を継げば自分の有力な配下になるわけだし
普通ぞんざいな扱われ方はしない
大内に人質に行った毛利隆元は義隆の幼女を娶って大の大内びいきになってるしね

とはいえ人間社会だから誰でも可愛がられるわけじゃないのも事実
250人間七七四年:2009/01/15(木) 18:34:09 ID:mEqSMrs5
今川義元と徳川家康、どっちがよりFatだったのだろう?
251人間七七四年:2009/01/15(木) 18:39:10 ID:vxLrvf/B
でも家臣団からすれば人質のくせに殿の寵愛受けやがってになるんだろな
252人間七七四年:2009/01/15(木) 18:40:39 ID:vReeIBmq
人質のくせにって意識はないだろう。
253人間七七四年:2009/01/15(木) 18:47:53 ID:mz1gCJwJ
>>249
> 義隆の幼女

 どうコメントすべいか……
254人間七七四年:2009/01/15(木) 19:03:19 ID:DpXz+S0h
>>252
人質の癖にっていうより、外部の人間の癖に
って感じかな。

>>246
良い話だなあ。

家康が冷遇されてた説にも、優遇されてた説にも、それぞれ説得力があって
実際はどうなんだろうかと考えていたけど、
一連の書き込みで、なんとなく家康の立場を理解できた気がする。
当主と家来との立場の違いで、人質への接し方が違ったのかもね。
255人間七七四年:2009/01/15(木) 19:26:48 ID:MAUns4io
答えはもう出てる気もするけどな。
今川義元は盟主としての貫禄と将来の布石も込みで家康を厚遇していた。
今川家臣の中には、家康を蔑視する奴もいた。

今川家としてみた場合、どっちも正解。
256人間七七四年:2009/01/15(木) 19:52:09 ID:mz1gCJwJ
>>245
岡部だか朝比奈の中の人と残った兵卒は全員助けて孕石主水元泰HARAKIRI! だったけ
まとめスレにもあったよな確か
257人間七七四年:2009/01/15(木) 19:58:37 ID:iQ8rgFWP
家康の人質時代に話が及んだんで小話

孕石元泰は家康の人質時代の隣家でありその時の対応が仇となり高天神城落城後に唯一切腹
これは有名な話
さて、もう一人家康の隣に住んでいたとされる人物が居るのをご存じだろうか
後北条氏からの人質だった、北条氏規である
この隣家説は憶測の域を出ないんだが…
家康が北条氏との交渉窓口にしたのは氏規
北条仕置きで韮山城に篭城した氏規を説得したのは家康(開城)
秀吉に氏規の助命嘆願したのも家康
と意外に接点も多い
宗家の氏直の死後は北条宗家を継ぎ息子氏盛は関ヶ原では東軍に所属していたりもする
子孫は大阪狭山藩主として明治まで続いていたり(女系だが)
近所付き合いって大切だよね
258人間七七四年:2009/01/15(木) 20:45:26 ID:mz1gCJwJ
>>257竹馬の友ってヤツね。
…逸話にある凧上げか鷹狩りを2人一緒にやってただろうか?
259人間七七四年:2009/01/15(木) 22:23:18 ID:7uk4yzcv
今更だけど7話見た、スースーするって
あれズボンだったんだなパンツじゃないものとは知ってたけどw
260人間七七四年:2009/01/15(木) 22:24:06 ID:7uk4yzcv
ごめんなさい誤爆
261人間七七四年:2009/01/15(木) 22:38:56 ID:Yy2PCWJS
でもあれはどう見てもパンツ
262人間七七四年:2009/01/15(木) 22:54:10 ID:PSFDW3pp
パンツスースースレと聞いてやってきますた
263人間七七四年:2009/01/15(木) 23:19:32 ID:WJ9soHie
パンツか、まかせろ

ある日、細川家の御用医師・伊藤三白が、細川三斎に尋ねた。

三白「大阪の陣で、斬られて死んだ者、または重傷を負った者が収容されると、たいてい
   チ○コ丸出しだったそうですが、なぜでしょうか?」

三斎「斬られて血が抜けると身が細って帯がゆるみ、引きずられると下着まで外れるのだ。

   ゆえに歴戦の勇士は 『 もっこ褌 』 と言って、首からヒモをかけて褌につなぎ、
   万が一の時に見苦しくないようにしたものだが、当節は忘れられたのだろうな・・・」

(名将言行録より)

つまり、こういうことです
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org11405.jpg.html
264人間七七四年:2009/01/15(木) 23:24:22 ID:PSFDW3pp
>>263
ヌゥ、茶化すだけのつもりだったが、さすがこのスレの住人はレベルが高い。
感服しましたw
265人間七七四年:2009/01/15(木) 23:35:40 ID:JfqY64Tb
ただの誤爆から逸話に繋げる辺り流石。

忠興も大阪の陣の頃にはすっかり古株だな。
266人間七七四年:2009/01/15(木) 23:40:41 ID:2Y5yW5Q7
相変わらず良い流れですな
267人間七七四年:2009/01/15(木) 23:56:20 ID:bU+qSeXn
>>263
へうげものという漫画で主人公の古田織部がエプロンみたいな褌をいつも締めてて、
アレ何なんだろうと2年くらい疑問に思ってたんだが、思わぬところで合点がいきましたw
268人間七七四年:2009/01/16(金) 00:00:47 ID:18r1mnlk
工藤かずや・池上遼一の『信長』でもそんな褌つけていて、なんで下着が
こんな上半身まであるんだろうと不思議に思っていましたが、ようやく
判りました。
269人間七七四年:2009/01/16(金) 00:05:02 ID:1J4b+b6c
>>267-268

(・∀・)人(・∀・)人(・∀・) ナカーマ
270人間七七四年:2009/01/16(金) 00:13:05 ID:S6wDZGJJ
当世鎧の佩楯(草擦り?)だったっけ、あのフトモモあたりを防御するやつ。
確かあれも腰に巻いた後、ずり落ち防止のストラップみたいのを肩に掛けるんだよね?
すごい機能的で驚いた。
271人間七七四年:2009/01/16(金) 00:15:44 ID:WSHkWmTd
肩こり大変そうだね。
272人間七七四年:2009/01/16(金) 00:16:23 ID:z1iLU81r
入院してた頃褌はかされたが結構いいなと思った
どっかに売って無いものか
273人間七七四年:2009/01/16(金) 00:20:36 ID:HKOe3hNR
>>263
フォォォオ〜!!
274人間七七四年:2009/01/16(金) 00:33:12 ID:uJ/NCaU2
あれ?褌うってるよねぇ?以前テレビでやってた気が
275人間七七四年:2009/01/16(金) 00:37:46 ID:WSHkWmTd
クラシックパンツ、とか言うんじゃない? 和装の一種としてもあったような。
うちのじいさんは死ぬまで褌ですた。
確かにもっこじゃないとズレる。油断するとけつの穴とか見えてたw
276人間七七四年:2009/01/16(金) 00:37:52 ID:y3c77W3e
つーか、こんなパンツまで存在するのか…

戦国武将がモチーフの男の勝負パンツ「甲冑パンツ」!!
http://ruri.crara.cc/archives/2964/
277人間七七四年:2009/01/16(金) 00:42:21 ID:HKOe3hNR
>>274
クラシックぱんちゅという商品だね。
278277:2009/01/16(金) 00:45:56 ID:HKOe3hNR
自己レス
 >275で既出やった....



>>263の三斎おいなりさんに成敗されてくるわ、、、
279人間七七四年:2009/01/16(金) 00:47:08 ID:DF13G4RF
>>276
欲しいけど、ちと高い
280人間七七四年:2009/01/16(金) 00:47:17 ID:S6wDZGJJ
>>276
う〜ん、個人的には微妙だけど、意外と真面目に作ってるっぽいね。
最初見たときは、いかにも外人が喜びそうなサァムラーイサァムラーイブッシドォー!みたいなコンセプトかとw
281人間七七四年:2009/01/16(金) 01:02:11 ID:hFk5wiue
>>276
褌は男の最後の着衣だ!紫や金の褌なんかあるか!これこそ己の心の様に輝く白であるべきだ!
282人間七七四年:2009/01/16(金) 01:06:13 ID:HKOe3hNR
>>281
お侍さん、窯風呂に脇差しを持ち込むのはどうかご勘弁下さいまし……
283人間七七四年:2009/01/16(金) 01:16:17 ID:4C+P8aqH
脇差を浴槽に持ち込みやがったと思ったら竹光だったぜ
垢やら角質やらを落としてやがら・・・

さて、あいつを真似て持ち込んだこの脇差をどうしようか・・・
284人間七七四年:2009/01/16(金) 08:05:28 ID:rbglWHCc
入浴中のところを襲撃され「せめて木刀があれば!」と無念の叫びを残して死んだ源義朝の故事もあることだし
風呂場に武器を持ち込むのはそれはそれで武士の心構えといえなくもないな
285人間七七四年:2009/01/16(金) 08:27:04 ID:sLTnOn+6
>>283
あ〜あ、なんてこった。こんなところで脇差なんかさして。
それでは鞘の中も束糸も腐ってボロボロになるぞ、もったいないな〜
286人間七七四年:2009/01/16(金) 09:26:38 ID:zaj1Epw2
>>278
忠興、あるいはゲヒ殿によるお仕置き、。
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org12244.jpg.html
287人間七七四年:2009/01/16(金) 11:10:38 ID:kqhN1U9H
>>263
越中褌を考案した忠興さんとは思えない発言だ
288人間七七四年:2009/01/16(金) 11:34:04 ID:otTL21Jo
ガキの頃、子ども相撲で廻しじゃなくて褌締めたことあるが
長い時間装着してるとケツの穴痛くなるんだよな
289人間七七四年:2009/01/16(金) 11:43:57 ID:zPypGwq4
>276着こなしとしてローライズはいいんだが、アレだな。

>>263からすると、一朝事あるときはフル珍上等・・・という傾いた精神の表現になるのかもしれん。
290人間七七四年:2009/01/16(金) 12:06:35 ID:4C+P8aqH
>>287
忠興はただの格好付けじゃないからな。

忠興は言わずもがな芸術家としても高名で、彼に武具のデザインを頼む武将も多かった。
俺は甲冑士じゃないとかぶつくさ良いながらも本人の希望通りにちゃんとデザインしてあげる忠興。
しかも作り方から材料までアドバイス付きという細やかさ。
その材料の指定に立物(飾り)は桐にせよ、とあったのを忠興の家臣が聞いて首をひねった。
「桐はもろく折れやすいので、兜の材料としてはむかないんじゃないんすか?」
それを聞いた忠興、
「武士は命を惜しまぬもの、なんで兜の飾りが折れるのを惜しむのか。
 だいたい、なまじ丈夫に作ったら木とかに引っかかって身動き取れなくなったら不覚を取るだろ。
 それに鉄とか丈夫な木材って重いし、戦いどころじゃなくなるって。
 槍働きの邪魔にならないのが一番重要なんだ」

デザインを優先して恥をかいた矢部虎之助に聞かせたい話
291人間七七四年:2009/01/16(金) 12:34:19 ID:PkXDZZIY
鉄を木材と申したか
292人間七七四年:2009/01/16(金) 12:41:13 ID:kxfT9kJA
以前、褌一丁に兜だけかぶって奮戦て話なかったっけ。
あれから時々思うんだが、「褌じゃないから恥ずかしくないもん」アニメを
作ったら結構イケルんじゃないかと。
293人間七七四年:2009/01/16(金) 12:52:59 ID:PkXDZZIY
あぁ
俺の読解力が不自由だっただけだ
294人間七七四年:2009/01/16(金) 13:15:15 ID:HKOe3hNR
>>292
(兜を着けて)「褌一丁じゃないから恥ずかしくないモン!」だな。

戦国モンティ・パイソンというか……

北条家中にそういう話はないのかね。
295人間七七四年:2009/01/16(金) 14:30:25 ID:uJ/NCaU2
褌を色かわっても使い続ける逸話は権現様だよね?
296人間七七四年:2009/01/16(金) 14:52:33 ID:4C+P8aqH
権現様のは、
褌は黄色に限る、何故ならば汚れが(略
って話だったはず。
297人間七七四年:2009/01/16(金) 15:40:04 ID:zPypGwq4
>295-296三方ヶ原以来の教訓てかぁwせdrftgyふじこlp;@:

三河武士は文句言いながらもそんな家康についていったけどな。
298人間七七四年:2009/01/16(金) 15:44:43 ID:C6wVvVJh
>>294
北条じゃないが武田さん家の勝頼さんは部下共々素っ裸で攻城戦を慣行した挙げ句見事落城させた逸話があったはず。
299人間七七四年:2009/01/16(金) 15:57:25 ID:JbdDxWmC
北条は「ちゃんと規定通りの鎧を着てない奴は北条兵として認めない!」って
法律出してなかったっけ。
300人間七七四年:2009/01/16(金) 16:00:14 ID:4C+P8aqH
出してる。
北条政権は文治主義の権化だからなw
301人間七七四年:2009/01/16(金) 16:17:51 ID:TjgeNlEy
>>298
何それ?w
kwsk
302人間七七四年:2009/01/16(金) 16:22:55 ID:zaj1Epw2
>298 >301
“素肌攻め”と聞いたら絶対信玄の逸話だと思うけどなw 勝頼の武名を高めたんだよね。
303人間七七四年:2009/01/16(金) 16:28:37 ID:TjgeNlEy
>>302
ttp://s42masa71.ld.infoseek.co.jp/shiro/zen/txt-zen/suhadazeme.htm
調べてみたけど本当にやってるんだなw
304人間七七四年:2009/01/16(金) 16:57:53 ID:zaj1Epw2
>303うほっ!いい源助・・ゲフンゲフン
勝頼と武田軍団の(武者ぶりの)いい話、ですた >上州膳城素肌攻め
305人間七七四年:2009/01/16(金) 17:37:35 ID:4C+P8aqH
つか鎧姿に対しての何も防具をつけていない(普段着)という表現が素肌であって、
必ずしも素っ裸という意味ではないぞ。

まあ褌武者がいなかった可能性は否定出来ないし、そっちのほうが面白いしなw
勝頼の今後のイメージが心配ですww
306人間七七四年:2009/01/16(金) 18:35:11 ID:8fWEI6FK
やるおテル
キリングマシーン富田
リアル鬼の鬼武蔵
鮭様

に続くこのスレでイメージが固まった人誕生か

フリチン四郎
307人間七七四年:2009/01/16(金) 18:41:25 ID:rK4xch7e
玄以ちゃんも忘れるな!
308人間七七四年:2009/01/16(金) 18:46:43 ID:S6wDZGJJ
木村重成 我慢の日々

秀頼の乳兄弟とされる木村重成。
夏の陣での慎み深い死期のエピソードや、後藤又兵衛に師事し、いざさらばと袂を分かつ場面など、
一事が万事、すべてが絵になる美丈夫だったと今日に伝わっている。

この重成、外見も本当に美男子だったようで、大阪城内でも随一だったそうだ。
しかし、美しい外見と優しい物腰、しかも実戦の経験もほとんどない若造ということで、
当初は家臣団の中でも軽んぜられ、公然と馬鹿にされることもあったとか。
普通なら問題になるような侮蔑を受けても重成は平然と受け流すばかりで相手にしない。
そうこうしているうちに、武将どころか秀頼の近従や茶坊主にまで侮られるようになった。
そんなある日、調子に乗った茶坊主が痛烈に重成を辱めた(内容は不明)。
側近くにいた侍たちは、さすがにこれは酷い、いよいよ重成が刀を抜くか!と息を呑みながら
動向を見守ったのだが…
重成は静かに茶坊主に向き直った。
「本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろうが、そうすると私も死ななくてはならない。
 しかし、今は秀頼様のためにこそ死ぬべき時。
 お 前 ご と き のために私は死ぬわけにはいかない」
そう言って笑顔さえ見せたという。

この一件で城内の者は誰一人として重成を軽視しなくなったという。
これは冬の陣よりも前の出来事。
重成は自らの信念を見事に貫き通した。
309人間七七四年:2009/01/16(金) 18:57:18 ID:KPfFtXZ9
当時のイケメンってどんな顔してたんだろ?
310人間七七四年:2009/01/16(金) 19:15:59 ID:FIpJEu9/
311人間七七四年:2009/01/16(金) 19:16:54 ID:y3c77W3e
>>310
俺もそれを張ろうとしていたw

とっさに出てくるのは彼だよなあ。
312人間七七四年:2009/01/16(金) 19:29:53 ID:urS0vVkd
イケメンなのは分かるが肖像画が笑顔なのが当時の武将っぽくなくて笑いを誘う。
313人間七七四年:2009/01/16(金) 19:32:43 ID:TjgeNlEy
>>309
西洋人が描いた信長の肖像画が参考になるんでね?
314人間七七四年:2009/01/16(金) 19:44:00 ID:ZD9Kc8wq
イケメンと言われた弾正の肖像が厳つい見事な武者ぶりだからそんな感じじゃない?
平将門の絵みたいなヒゲを逆立てた熊のような良い男
315人間七七四年:2009/01/16(金) 20:38:36 ID:i7tAnrbb
>>308
おお・・・何かそう言っちゃ変だが、漫画の正統派美形キャラみたいだw
316人間七七四年:2009/01/16(金) 21:00:18 ID:y3c77W3e
家康が駿河に滞在していた折のこと。

ある夜、ふと表に出ると、夜番の者が一人しかいないことを発見した。

「他の者はどうしたのだ?」と聞くと、一人残った当番は「そ、それが、相撲見物に…」と、
恐る恐る言上した。

さあ家康はこれに怒った。相撲を見に行った連中ではなく、残った男の方に。

「何でお前は一人残っておるのだ!!」

これに、この男は混乱した。当然である。こっちは言いつけを守っているのだ。

「腑抜けか!臆病か!?罰を受けるのが怖くて、それで残ったのか?」

実は夜番の者たち、毎夜残る当番を決めて、それ以外の者たちは遊びに出かけていたのである。
ところがこれ以降、「残ったものは臆病者」という事になり、誰も「自分が残る」とは言い出さなくなった。
だからといって全員出て行くわけにも行かず、自然、夜遊びに行くこともなくなった。


いかにも家康らしい、「叱り方」のお話。
317人間七七四年:2009/01/16(金) 21:01:03 ID:E9OPnZNU
すっかりやる夫キャラが定着した輝元だが
そんな息子を思いやり、心配する母・尾崎局の手紙

そのいち・隆元宛
「最近幸鶴丸(輝元)が私や国司元武の言うことをちっとも聞きません。
でも、あの子は私達の言う事はきかなくてもあなたの事は恐れているので
あなたから私達の言う事も聞くようにと叱ってもらえませんか?」

そのに・元春宛
「輝元のこと、ひとえにあなたさまと隆景さまにお頼みします。
あの子の親となり力になって欲しいのです」
「いつも輝元のこと、ありがとうございます。
今回の出陣がうまくいき感謝の言葉では言い表せません。
あの子は幼いので元春さまにどれだけ御恩があるのか分かっていません。
ですから輝元に代わり、私からもお礼申し上げます」

そのさん・輝元宛
「商人がやってきたようですね。買ったものは誰が選んでくれたのでしょう。
役に立たないものなど間違っても買ってはいけませんよ」

どうやら幼少期からなかなかの子だったらしい…
318人間七七四年:2009/01/16(金) 21:02:37 ID:Z1t0D43g
輝元 = ゆとり
319人間七七四年:2009/01/16(金) 21:26:43 ID:eBp+zEZD
>>316
うまいもんだなあ
320人間七七四年:2009/01/16(金) 21:49:25 ID:zPypGwq4
>>316ちょっとした人使いのツボだね。
ただ厳しく叱るのでも、綱紀を緩めてダメにしてしまうのでもない。

これは武田攻め後の天正期より、大御所になって以後の雰囲気だなあ。
本多作佐衛門がいなくてもなんとかなるくらい練れてるもんね。
321人間七七四年:2009/01/16(金) 21:56:45 ID:zPypGwq4
>>305新説・甲軍(飫富)の赤備え→赤褌+のどわor兜
322人間七七四年:2009/01/16(金) 22:40:34 ID:Z3WaX15o
>>298
その一方、勝頼の父、信玄は素っ裸で夜戦を敢行した挙げ句、春日弾正を見事落城
323人間七七四年:2009/01/16(金) 23:04:34 ID:HKOe3hNR
>>322
その素肌「責め」違えぇぇぇーよw
324人間七七四年:2009/01/17(土) 00:18:30 ID:ORkxNyAP
>>317-318
毛利元就も爺バカというか、輝元を甘やかして厳しく育て切れなかったんだろうな。内孫だし。
……なんだかんだで頼りにしていた嫡男が先に逝って気が弱ったんだろうか。
325人間七七四年:2009/01/17(土) 00:31:48 ID:PflVmcaF
その代わり隆景がしっかり躾けてたけどな。
他人の目があるときはきちんと臣下の礼をとり折り目正しく諌めたりするが、それは仮の姿。
他人の目が無いときは折檻地獄、今日も輝元の悲鳴が安芸の夜空に響く・・・。
326人間七七四年:2009/01/17(土) 00:37:20 ID:LMkLfhnp
>>324
むしろ逆。厳し過ぎたのが逆効果になって自信を無くしてしまったんだろう。
327人間七七四年:2009/01/17(土) 00:37:20 ID:ORkxNyAP
>>306

諏訪四郎どんのビジュアルイメージは、せめて“フリ○ン”じゃなくて“褌と兜のみ”にして下しゃい(違


平服のまま城乗っ取る、ってギャグ抜きで凄い出来事だろうがよ。いやマジで w w
328人間七七四年:2009/01/17(土) 01:06:17 ID:QwBvkjJr
現代で言えばスーツに拳銃&アーミーナイフだけで
武装テロリストのアジト制圧するようなもんだしなあ
329人間七七四年:2009/01/17(土) 01:09:20 ID:/GKlNQqc
>>328
セガールを思い出したw
330人間七七四年:2009/01/17(土) 01:41:46 ID:zxy5hOHw
皆さんお待ちかね。久しぶりに面倒くさい三河武士のお話ですよー!

石川重政という武士がいた。
例のごとく一向宗であり、
例のごとく三河一向一揆に参加し、
例のごとく家康と戦った。

さて、家康の手により一向一揆が鎮定されると、重政は尾張の織田信長に仕える。
だが、なんのかんのあって信長に「こいつ、家康のスパイじゃね?」と疑われ、
何のかんのあって解雇。なんのかんのあって三河に戻り、家康に帰参を申し出た。

家康「重政!またわしに仕えたいというのだな!」
重政「はい!帰参させてください!」
家康「じゃあ一向宗から改宗しろ!」
重政「嫌です!」

これだ。それが帰参を求めるものの態度か。流石に家康も腹が立った。

「重政?ちょっと側まで来い。カモン。」「はい。」

重政が近くに寄ると家康、いきなり重政の胸ぐらをつかんだ!
「!?」
よく知られているように、家康は剣術、馬術、鉄砲の達人である。無論体術も。
重政が気がついた時には、彼の体は家康の膝の下に組み敷かれていた。
ギリギリ締め上げながら家康は言う

「どうだ重政ッ!これでも改宗しないかッ!?」
「い…いたしませぬ!」
「大体お前は、もともと浄土宗だったではないか。浄土宗に戻るわけにはいかんのか!?」
「一度改宗したものを、元に戻そうなど…御免こうむります!」

じゃあもうしょうがない。ここで家康は重政を投げ飛ばした。そして

「お前は譜代じゃないから、強制できないんだよな〜」

と、嘆いた。『今のは強制じゃなかったのか?』というツッコミは無しだ。
すると投げ飛ばされ大の字に倒れていた重政、ひょいと立ち上がり、こう宣言した。

「石川重政、浄土宗に戻ります!」

家康、唖然としながら、「そ、それならよいが、何故?」

すると重政「いくら殿様とはいえ、侍を膝に組み敷くなんてひどいッスよ!
そんな状況で改宗したら、かっこ悪いじゃないですか!」

ここまで書いてきた自分にもよく分からないが、三河武士とはそういうものらしい。

この石川重政、あの石川島播磨重工業の「石川島」に、その名を残す。

『池田正印覚書』より
331人間七七四年:2009/01/17(土) 01:44:26 ID:MgGibs4G
面倒くせぇ…面倒くせぇよ三河武士

嫌いじゃ無いけどな
332人間七七四年:2009/01/17(土) 01:53:50 ID:d5mfGs9l
無理強いには反発するという気持ち、
まあ分からんでもない。
333人間七七四年:2009/01/17(土) 02:46:14 ID:fHcfMw7P
ヤンキーかw
334人間七七四年:2009/01/17(土) 02:52:57 ID:d5mfGs9l
戦闘を意識しているあたり、根本で通じるものがあるんだろうね
335人間七七四年:2009/01/17(土) 03:33:38 ID:tFFXhvQD
褌なら以前三越で売ってたな。
水玉だのいろんな模様があったはず。
今でも売ってるかどうかは知らん。

で、勝頼のキャラってのは水玉模様にフリルのついた
勝負褌をきりりと締めた美少女ってことでOK?
336人間七七四年:2009/01/17(土) 03:46:52 ID:35WJ28nm
>>335
いや普通のフンドシで高坂にムチ打たれている勝頼がしっくりくる
337人間七七四年:2009/01/17(土) 05:59:37 ID:ZQ4BFiyQ
>>325
>今日も輝元の悲鳴が安芸の夜空に響く・・・。
これ見たら隆景は阿部さんだと思ってしまった俺はだめだな
338人間七七四年:2009/01/17(土) 08:07:28 ID:TSmYXj6I
>>324
>>326の言うとおり決して甘やかしていたわけではない

晩年の輝元曰く、
「おじい様に殴られたかと思えば両川の叔父に代わる代わる怒鳴られる。
このままでは体が持たないと何度も思った」
また元春にも
「あの方(元就)が生きているうちに逆らおうとは微塵も思わなかった」
こう言わせるほどだから、輝元も元春も相当厳しい教育を受けたらしい
339人間七七四年:2009/01/17(土) 08:13:36 ID:PE95MAuo
厳しくしすぎて自分の判断力なくなっちゃぅたのかもな
340人間七七四年:2009/01/17(土) 08:59:07 ID:ORkxNyAP
>>330
おお懐かしい……
石川さんか誰か忘れたけど、過去スレで同じようなエピソード読んだ記憶がありまー

一向一揆の収束後、帰参したor捕まった元家臣が家康に「とにかく、一向から改宗せねば殺す」と脅されて「浪々の身と雖も武士が、己の命を盾に脅されて屈することができましょうか!否、断じて否!!」と断固拒否。終いに「さあー殺せー」と居直る始末

あまりの頑固さに手を焼き呆れた(そしてあたら勇士を殺したくなかった)家康が「もういいわ、どこへなりと行って、好きなようにするがいい」と吐き捨てた瞬間にくるりと平伏して「改宗しマース」という。

家康や居合わせた一同、ドリフの縁側オチみたいにこけたが、
「今、殿が“もうよい”と赦免下さいましたので再び仕えまする。家臣の列に戻った以上、主命には従わねば」と澄まして答えたとかいう。


……まとめスレにあったかなあ記憶が定かでないわぁ
#159小栗又一さんですた
341人間七七四年:2009/01/17(土) 09:09:09 ID:h31S7Ksu
>337
そろそろ褌関係のネタから離れた方が・・・ w
342人間七七四年:2009/01/17(土) 09:14:21 ID:h31S7Ksu
>>338-339
まあ、目の前で元就グランパや両川のやってる大業を見せつけられて育ったらなあ・・
四方八方に敵を抱えながらも着々と勢力を伸張してゆくんだもん。
『ボクにはむりだお・・・』 と卑屈になってしまったのも一面、仕方ないかも試練

ちょいと今風にTERU元を褒めて伸ばす人はいなかったのか。隆元もTERUには怖いパパだったと>317

土壇場で甘い見込みを立てたら家を誤りかねないから、普段甘やかすとダメなのもわかるんだが
343人間七七四年:2009/01/17(土) 09:44:54 ID:CReAlyns
三河武士って粘着且つ欲深で、家康も飼いならすのが大変だったとか。
344人間七七四年:2009/01/17(土) 10:26:12 ID:LMkLfhnp
>土壇場で甘い見込みを立てたら家を誤りかねない
関ヶ原の件はまさに「土壇場の甘い見込みで家を誤った」んだけど
主体性が育たなかったせいで二人の死後に輝元を補佐してくれる人間が
いなくなってしまったのがまずかった
345人間七七四年:2009/01/17(土) 10:45:18 ID:jssNWQK9
毛利って考えてみたら関ヶ原の時近い身内で頼りになりそうなのあんまいないのか
小早川隆景も穂井田元清も死んじゃってるし
広家がようやく輝元の8つ下で秀包や秀元はさらに若造だし…
それで広家を蔑ろにして安国寺にのっかっちゃったのかな
346人間七七四年:2009/01/17(土) 10:59:02 ID:ORkxNyAP
>>343
その代わり「儂が上洛して戻るまでの間、(人質に下向してくる)大政所を丁重にな」って言えば「心構え申したー!!」って大政所の居所に全力で薪を積み上げるんだぜ?

天下人秀吉なんかメじゃないんだぜ……
347人間七七四年:2009/01/17(土) 11:22:24 ID:j5fSDnFy
そうだなあ。末次元康、天野元政も輝元より年下だものな。

>>345
しかも、その秀元や広家よりも状況判断が甘かったというのがなんとも。
西国方面では積極的に軍事展開したりしているし、各種書状を
出しちゃってるのに、本気で何も無しで済むと思ったんだろうか。
348人間七七四年:2009/01/17(土) 11:32:55 ID:jfWw5stN
毛利一族スレを覗いてきた
【吉川】毛利一族を語る【小早川】
279 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2008/02/04(月) 20:49:40 ID:mQnz2biz
慶長5年7月14日に吉川広家が安国寺から輝元総大将擁立案を聞いて口論となり、
それを知った益田元祥・福原広俊らが7月15日に会談して、
輝元は無関係である事を徳川方に知らせようと談合して広家に話を持ちかけたのが発端。
重臣グループは元々安国寺と秀元が独立大名になったのは気に食わなかった。


なんか内輪もめしてるように見える。
あとは生存している叔父の中では二宮就辰なんかが輝元よりも年上かな?
毛利家中でどの位の発言力かわからないけど。
あと元就の七男天野元政は輝元より年下。五男・六男はすでに他界している。
349人間七七四年:2009/01/17(土) 11:34:59 ID:eTq8mP3w
TERUは三世だが先代がチート武将だった後継ぎで
二世キャラを一番上手く売り込んでるのは景勝だな。
一門が殆どいないことを活用して「俺が一番先代の事知ってるんだ」と売り込み
周囲に「あれがあの有名な…」と思わせるのに成功している。
TERUも逆に両叔父がいなけりゃここまで言われなかったかもしれない。
350人間七七四年:2009/01/17(土) 11:40:23 ID:fou7LOd6
>>228
家康の若い頃は、人質を預かる立場ではないけど。
351人間七七四年:2009/01/17(土) 11:50:03 ID:ORkxNyAP
>>349
「我が上杉家は不識庵(謙信)以来、武門の伝統が〜」ってので上手くキャラを固めてるよね。

属性=無口で頑固、ツンデレというかクーデレ。
ただし部下は武辺で一言多いヤツ揃い

どこまで直江山城守さんの翻訳に助けられたのかは、よくわからんけど(


ただ伊達の親父さま(政宗)といい、徳川幕府になってから外様大名でもそれぞれの遺風って尊重されていたように感じる
めんどくさい三河武士統率の経験に学んで、余計な口出しはしなかったということ……かな?
352人間七七四年:2009/01/17(土) 11:53:31 ID:fqmA9csY
元就って手紙とかみても、どうもうるさすぎる気がするんだよな。
隆元もずっと親父を意識しすぎて小さくなってた感じするし。父親としてはダメなタイプだな。

隆元が恵心に送った手紙とか、『名将の子には不運の子が生まれるものだってわかった。
一度は栄えてまた衰えるものなのでしょうね』みたいな、すげえ卑屈なのがあって可哀想だ。
しかも読んだあとは焼き捨ててくれみたいなあとがきまで添えて…
353人間七七四年:2009/01/17(土) 12:09:27 ID:CVgDAAA9
>>352
自分の友人知人を見渡すと、父親が口うるさかったり細かい性格だったりしたヤツは、
まあ、なんというか、依頼心の強い甘ったれが多い気がする。
「子供は父の背中を見て育つ」ってのは、父親は口じゃなくて背中で語れって意味もあるんだろうな。
354人間七七四年:2009/01/17(土) 12:58:05 ID:mIr8zC0w
元就は種馬としては大変優秀なのだが難しいところだな
355人間七七四年:2009/01/17(土) 14:05:19 ID:dZ8psaBO
まぁ毛利は傘連判状なんかでわかるとおり、重臣の権力が強くて大名の権力が弱い家なわけで
それらが対立したりすると二進も三進もいかなくなるのは元々の体質なわけで
それまでは一族がまとまる事でどうにかしてたのが、代が下って一族が重臣化してしまいってたので
あんまりTERUだけのせいにするのもどうかなと
356人間七七四年:2009/01/17(土) 14:08:07 ID:PflVmcaF
むしろTERUは一揆体質を脱して大名権力の強化を果たしたんだから無能ではない。
もっとも120万石が36万石に減って、何とかしようと試行錯誤の末の話だけどなw
それでもピンチをチャンスに変えられる人物はそうそういない。
357人間七七四年:2009/01/17(土) 14:09:14 ID:zxy5hOHw
>>350
独立した段階で、三河でも、譜代からも新たに付き従う国人からも、人質取ってるよ>家康
358人間七七四年:2009/01/17(土) 14:13:02 ID:czP5RKSp
厳しく躾けられて萎縮

厳しい人たちが次々死んで弛緩。家臣の妻を側(ry!

苦境に陥って本来の素質を発揮

評価が低くなるのは祖父、父、叔父達が弛緩すらしない人たちだったせいだわな。
359人間七七四年:2009/01/17(土) 15:11:49 ID:zxy5hOHw
>>356
> むしろTERUは一揆体質を脱して大名権力の強化を果たしたんだから無能ではない。

TERU「幕府より一国一城令のお達しだお!萩城以外破却するお!」
長府毛利、岩国吉川「こっちは周防だからどっちかの城は残して良いだろ常識的に考えて…」
TERU「うるせえ!防長は毛利宗家の領国だお!だから城を持てるのは毛利宗家だけだお!
    そうですよね幕府さん!」
幕府「え?えっと、どうかなあ?」
TERU「家康公からの安堵状は輝元にあてたものだお!防長二州は毛利宗家に与えられた
     領土だお!親戚といえども宗家の主権を侵害は出来ないお!
     幕府は家康公の命に逆らうのかお!?」
幕府「TERUさんが正しい」

こんな感じで宗家の主権確立していったTERUさん。
360人間七七四年:2009/01/17(土) 15:50:12 ID:QEYa8U7b
>>290の話が載ってる「武辺咄聞書」でのその辺りのやり取り

使者承り「折れ申候ては後日に如 何と存候」と申す。
三斎 あ さ 笑 ひ 給 ひ 「兵の戦場に出るは生て帰らんと
不思法也。立物 折ては後日の如何との思案ならは、〜(以下略)」

>>290の三災の台詞は語尾に(嘲笑)をつけて読むとよりそれらしいようです。
(武辺咄聞書だと会話の相手は甲冑作成を依頼した者の使者になってる)

ちなみに「木の立物って折れ易くない?」と言われたことに対し「三斎気色変り」とある。
他家の使い相手に外交モードだったのが無風流者撃墜モードに切り替わった
イメージ。
361人間七七四年:2009/01/17(土) 15:54:03 ID:ZQ4BFiyQ
>>347
これって広家が悪いんじゃないか
輝元がどういった行動をしていたのを
把握せずに約束を交わしたのがまずかったと思う
あと輝元はよく優柔不断とか言われてるけど
西軍の総大将や大阪城退去とかさっさと決めているんだよな
関ヶ原に来なかったのも増田の動きがおかしかっただからだし
なんで優柔不断とか言われてんだ

362人間七七四年:2009/01/17(土) 15:57:48 ID:jssNWQK9
>>360
あざ笑うって大声で笑うって意味もあるはず
あと笑止なりも残念ですって意味のはず
でも忠興の逸話で出てくる時はいつもあーバカにして嘲笑してんなって空気が
感じられてしまうのは何故
363人間七七四年:2009/01/17(土) 16:12:30 ID:vUkmsvaI
このコピペ思い出したがまんまTERUじゃないか?

800 :水先案名無い人 :sage :2009/01/14(水) 15:38:52 ID:8OB6KjLCO
「彼の長所は?」
「決断力ですね」
「では彼の短所は?」
「判断力ですね」
364人間七七四年:2009/01/17(土) 16:55:28 ID:eTq8mP3w
息子の判断を親がうるさく口出しすぎると
息子は親に判断丸投げするようになるんだろうなあ。
親に従っておけば間違いないし自分で判断すると怒鳴られるからいいや、みたいな。
365人間七七四年:2009/01/17(土) 17:46:14 ID:ORkxNyAP
>364
現代社会にもありがちだよな。親子に限らず、仕事の上司と部下とか。割と普遍原理なんじゃね?
366人間七七四年:2009/01/17(土) 17:47:42 ID:eLYByczn
信玄「嫡男は目の中に入れても痛くないほどかわいいものですな元就どの」
367人間七七四年:2009/01/17(土) 17:54:12 ID:Sl4MfcCM
市松さんとこの家臣が優秀ですぐに職が見つかったのに対して
清正君のところの家臣は就職難になったのと同じか
368人間七七四年:2009/01/17(土) 17:55:53 ID:ORkxNyAP
>>360
なんというか『あんたトコの殿様は言わなくても分かってるとおもうがなー』って内心苦笑しつつ、使者をたしなめてる感じ、かな。

そういやまとめスレに出てた加藤嘉明の富士山?イカ形兜も、装飾部分は軽かったっていう話だった。

褌から武具、指物まで勉強になるスレだわぁー
369人間七七四年:2009/01/17(土) 18:20:16 ID:Oqzzb3Gi
>>367
指示細かく出す上司の下で生き生きする奴は自分で考えて動かないタイプ多いし
自分で考えて動きたい奴はそういう上司と反り合わなかったりするしな。

自分自身切れすぎるほど切れるのに下の奴の使い方うまい如水スゴス
部下として持ちたくないけど上司にはしたいタイプか
370人間七七四年:2009/01/17(土) 18:39:32 ID:MgGibs4G
信長の鬼武蔵の教育方針は伸び伸びし過ぎだと思う。
371人間七七四年:2009/01/17(土) 18:42:51 ID:Sl4MfcCM
鬼武蔵なら仕方ない
372人間七七四年:2009/01/17(土) 18:43:42 ID:zxy5hOHw
忠興と秀忠、晩年

寛永四年(1627)、江戸に出府していた細川忠興が、帰国することになった。
当時、忠興は既に隠居の身であったが、幕府からは国持大名の帰国と同じ格式で扱われ、
屋敷には幕府より上使が派遣された。

このあと、忠興はその御礼のため江戸城に登城。
大御所、秀忠への挨拶の折、忠興は御座の間に招きいれられた。

二人で色々物語などするうちに、秀忠は忠興に
「病気も患っていると聞く。在所に帰ったなら、心のままに養生なされよ。
あなたが生きているというだけで、私は満足なのだ。」
そう言って、涙を落とした。

忠興は、この言葉に涙にむせび、「かたじけなき」と申し上げることさえ出来なかった。


同じ時代を戦い抜き、今は老いた二人の、立場を超えた友愛や連帯感を感じさせるお話。
373人間七七四年:2009/01/17(土) 19:10:02 ID:ORkxNyAP
>370-371
一見、殿様の独断専行っぽいけど家臣にフリーハンドでやらせる裁量もでかい。
ガチムチで精神までマッチョ系な人には、意外と仕えやすい人だったのかね信長って。
374人間七七四年:2009/01/17(土) 19:42:51 ID:gMAMCGdO
信長は「言われた事しかできない(やろうとしない)」タイプには厳しいって印象があるな
375人間七七四年:2009/01/17(土) 19:49:21 ID:FFQ75YJC
>>369
なんだかんだで息子も上手いこと育ってるしな。
長政がもう三十過ぎてからだが、如水は長政に意見するとき決してガミガミ厳しく
言うんじゃなくて世間話するような調子でなにかに例えたりしながら話して
それとなく気がつくようにしたって逸話が残ってる。

それで如水が息子に教えたことというと
「家臣領民全員に和やかに接しなさい。普段からよくしておけばいざという時
助けてくれるし、ものを言いやすい雰囲気でないと諫言もしてもらえません」
「目を三角にしてあれこれ監視したり報告させたりしないように。
数人の人を集めて話しているだけでも周囲の人間は何事か告げ口されているの
ではないかと落ち着かないものです。
そういうことが続くと家臣の方でもあれこれ隠し事をするようになります。
秘密を作ってもいいことなんてそうそうありません」
とかまあそんな感じのことらしい。
376人間七七四年:2009/01/17(土) 20:29:06 ID:+KKZkDnI
細川家はこれから政権握ろうという家には幸運の御守りのような家。
足利幕府崩壊から見ている徳川家なら拝みたくもなる罠。
377人間七七四年:2009/01/17(土) 21:08:26 ID:ValB562E
>>374
なるほど、だから言われてもない橋守斬りしたり独断専行で城攻めに走る鬼武蔵には甘いのか…

まぁそもそも戦弱い織田の軍勢で鬼と謳われるような奴が貴重だっただけだろうけどw
378人間七七四年:2009/01/17(土) 21:10:53 ID:+kXEWoxV
まだ織田が戦に弱いとか言う奴がいるのか…
379人間七七四年:2009/01/17(土) 21:11:06 ID:CVgDAAA9
>>375
やはり如水さんは基本的には良い人なんだろうなあ。
もし如水が天下を握ったら、その後の日本はどうなったんだろう。
380人間七七四年:2009/01/17(土) 21:19:32 ID:VukNBuc7
>>378
そういうのはいいっこなしよ。
信長の兵農分離も政教分離も何でもありのスレなんだから。
381人間七七四年:2009/01/17(土) 21:20:29 ID:PE95MAuo
天下取れる可能性があったのは関が原位だが九州制覇、中国、近畿を順調に攻略し
石田か徳川を下してDQNを治められたとしても
自身の寿命があとわずかしかないから体制を確固たるものにする前に死去、崩壊するだろうな
382人間七七四年:2009/01/17(土) 21:23:06 ID:5npRgVR2
天下とってもすぐ誰かに譲っちゃいそう
で、自身は基盤固めに東奔西走する
いい人過ぎるイメージだ
383人間七七四年:2009/01/17(土) 21:34:05 ID:r/tddL1P
>>375
そこで、ついでに一言「まあだからってなんでも家臣に舵を取られるようなことになってもいかんけど」
「大事を成す時には秘密裏にことを運ぶことも大事だけど」って付け加えるあたりも卒がない
384人間七七四年:2009/01/17(土) 21:49:25 ID:fHcfMw7P
如水は勝海舟のイメージ。
頭良い、器量もでかい、人物眼がある。でも政争には弱い。

0か100か、みたいなとこがあって10から20への飛躍をする
為の我慢や忍耐を厭いそう。
385人間七七四年:2009/01/17(土) 21:56:36 ID:CVgDAAA9
>>384
あーなるほど。
全部手に入らねえなら止めだ止め!みたいな感じかな。
極端な言い方だけど、天下とかどうでも良くなって吹っ切れたというか。
それなら隠居後の好々爺ぶりも肯けるな。
386人間七七四年:2009/01/17(土) 22:07:03 ID:9YymdsL5
クロカン、その知

秀吉の四国攻めの先鋒大将には、宇喜多秀家と仙石秀久が選ばれたが、軍監として
黒田官兵衛が付けられた。
讃岐から上陸した彼らは順調に攻略を進め、植田城までやって来た。

家臣「ここまで来たら、あのような小城、ひともみに潰してしまいましょうぞ!」
官兵衛「・・・いや、まずはこの辺りの地形を調べよ。」

調査の報告を受けた官兵衛は、結論を下した。

官兵衛「よし、長宗我部のいる阿波へ急ぐぞ。あのような小城、捨て置けい。」
家臣「 ? 放っておけば、城から追撃を受けてしまいませぬか?」

官兵衛「あの城から追っ手など出るものか。そもそも、あんな所に城のある訳はないのだ。」
家臣「 ????? 」


後年、長宗我部元親は語った。

「植田城は、オトリの城だった。秀吉軍が調子に乗って攻めかかれば、あの山間の地形では
大軍は行動が制限される。
そこを讃岐と阿波の国境に置いた本隊で夜襲し、一泡吹かせるはずだった。

いや、大将が宇喜多や仙石だけならば、そうなっていただろう。 黒田官兵衛などという
歴戦の古兵がいたので、わしの策は水の泡になってしまった・・・・・・!!」
(黒田家譜より)
387人間七七四年:2009/01/17(土) 22:07:37 ID:9YymdsL5
クロカン、その情

関ヶ原の戦の際、九州にいた黒田官兵衛・入道して如水は、西軍の大友義統に攻められた
豊後杵築城の救援に向かった。 途中の山に、人影らしきものが見えた。

如水「あれは、敵の物見ではないか? 騎馬の者、誰か見て参れ!」

しかし、黒田家本隊は嫡子・長政に預け、ここにいるのは如水が中津で雇った寄せ集めの
兵ばかり。まともな馬に乗っている者など、一人もいなかった。

皆が顔を見合わせていると、田代彦助という者が進み出た。「拙者が見て参ります。」

如水「お前は徒歩ではないか!それならオレの予備の馬を貸してやる、これで行け。」
彦助「ありがたい仰せですが、ここは殿の万が一を考え、徒歩で行きます。」

如水「あれが敵なら、必ず伏兵が隠れている。ならば、お前の身が心配だ。
    ここは、やはり馬で行け。」
彦助「もったいないお言葉・・・伏兵がいれば拙者は討たれましょうが、如水様のために
    捨てる命ならば、惜しくはありませぬ。」

彦助はそう言って、如水の馬にまたがった。

如水「よいか、伏兵がいたら、すぐに帰れ。そういう時は生きて戻り、報告するのが本当の
    手柄ぞ。 わ  か  っ  た  な  ?!」

彦助はうなずき、人影に向かった。人影と見えたのは、五輪塔に蓑が掛けられており、
風で舞い上がって見え隠れしていただけだった。 如水一行は安心して軍を進めた。
(黒田記より)
388人間七七四年:2009/01/17(土) 22:22:27 ID:5GWeZtq5
如水は下心があるから秀吉がもうろくして豊臣政権がぐずぐずになってくの黙って見てたイメージがある
389人間七七四年:2009/01/17(土) 22:22:32 ID:czP5RKSp
>>386
先鋒:宇喜多秀家と仙石秀久

すごく猪です…
390人間七七四年:2009/01/17(土) 22:27:12 ID:MgGibs4G
>>387
戦場で大将が物見に自分の馬を差し出すって異例だよな
391人間七七四年:2009/01/17(土) 22:28:11 ID:484PIMZH
>>386
九州のときも軍監如水だったらよかったのにねぇ
392人間七七四年:2009/01/17(土) 22:30:13 ID:CVgDAAA9
如水さん上司にしたいナンバーワンだな…。
そういや性格破綻者だった後藤又兵衛すらも如水は可愛がっていたんだっけ。
よし決めた!
俺、この戦が終わったら、黒田家に仕官するんだ!
393人間七七四年:2009/01/17(土) 22:31:19 ID:VI+XF/+u
見える見えるぞ!
なぜか細川家に仕官して奥方の顔を見てしまう>>392の姿が!!
394人間七七四年:2009/01/17(土) 22:31:28 ID:Sl4MfcCM
西軍足軽乙
395人間七七四年:2009/01/17(土) 22:42:22 ID:PE95MAuo
理想の上司ナンバーワンは道雪だと分かってます
396人間七七四年:2009/01/17(土) 22:43:48 ID:eLYByczn
>>392

その後、朝鮮出兵に赴き
かの地で降倭となった>>392のその後を知る者は、いない・・・
397人間七七四年:2009/01/17(土) 22:48:54 ID:PE95MAuo
朝鮮出兵で朝鮮に降った日本兵ってその後どうなったんだ?
398人間七七四年:2009/01/17(土) 22:50:02 ID:CVgDAAA9
朝鮮の足軽の格好をして何とか逃げ出してきたぞ…

おや、あれに見えるは薩摩は島津義弘の旗印!
おーい!俺はここにいるぞー!おーい…
399人間七七四年:2009/01/17(土) 22:54:02 ID:QwBvkjJr
>>398
ワロタw
何回死亡フラグ立てるんだwww
400人間七七四年:2009/01/17(土) 23:49:51 ID:3WovwkKA
フロイスも絶賛だった黒田孝高、熱心な信徒だった。
伴天連追放令の際はあっさりと棄教したことになっていたが、
意外としぶとく棄てていなかったとか。小西行長的だったのかな。

隠居した後は、福岡城内の一角で質素な生活だった。
また、死んだ時の福岡城での儀式が、神道でも仏式でもなく
異様だったとかの伝説を聞いたことがある。

抜群に頭良かったが、信長、秀吉のような特殊なカリスマ性、征服欲は
なかったんだろうね。
401人間七七四年:2009/01/18(日) 00:04:21 ID:YHpLRIk7
>>397
女真族(清王朝)との戦いに投入されたりして重宝されていたらしい。
402人間七七四年:2009/01/18(日) 00:11:10 ID:e9qUCJYW
鉄砲使いを中心に、戦い方を教えたりもしたらしいね
403人間七七四年:2009/01/18(日) 00:14:13 ID:JJqLTxnA
出羽庄内の基礎を築いたとして、このスレで有名なのは北楯大学。
しかし、「庄内」そのものを創った男がいる。
「悪屋形」として有名になってしまった大宝寺武藤義氏だ。

武藤氏はもともと鎌倉から続く地頭の家筋。
が、一門同士で数十年も内戦するわ、その収拾に越後が介入するわ、
義氏の親父が信玄に内通して謙信にバレ、義氏を人質にして土下座するわ、
とにかくもうボロボロだった。

当主となった義氏はまだ十代、若き胸に決意を抱く。…オラは強くなるよ!
それから十数年、義氏は戦いまくった。
もともと大宝寺家の領地は、地頭職に補された大泉庄とその周辺だけ。
それが羽前の日本海沿いを斬り従え、内陸部や羽後にさえ出兵できるようになった。
しかも、謙信の死後は織田信長に貢納、屋形号までいただいた。
親父、オラはついにここまで来たよ!
義氏は高らかに宣言する。
「もはや我が領土は大泉庄のうちも同然、つまり『庄内』である!」

この後、義氏が殺され、大宝寺家は見る影もなく没落する。
しかし、義氏が苦闘の末に統合した「庄内」は現代まで残った。
悪屋形の(もっと知られて)いい話。
404人間七七四年:2009/01/18(日) 00:26:50 ID:49OAb9A5
>>403
その大宝寺さんを家臣内通させて攻め滅ぼしたのは、
鮭様↓なんだよなw




                         ,:'.  /// // // il   l::::l::::::::
                         ,:'   // /l|| ///i l   ,'::::i.i:::::::::
                          ,'   / /  ,ソi |. i i ! l i /:llンi:::::::::
                      ,'      ; .l l l !ill !i  i:/ メ、l::::::::
                      ,'   ,:    /| i l l. ill. i  ! ,i l:::::::::
                      ,'   /    / l   l. il|i l  ∧メ !::::::::
                     ,'   ,'   . ,'i lハ ', i. ill    X ',、::::::::::
                   ,'f ,' ,'  i i i! ! i l  i il i   i l.l! iヽ::::::::
                    li'}  ハ: ,'i i、! ', ' ヾi  i i  i l l l ! i:::::::r^
                      i!.i ソ il ir !ミ、、 i  !、 ', ! ',l  i ', ',',::::i
                      l i ,' ハ i !! 廴ツ、ヾ  ':、 i i  i !ヽゝ::::l 
                      !.li!.l|!| リ ` ェ、..ヾ ヾ、 ヽ:、 i ! ハ、!l ヾ、::l
                    ! !从      """ヾ:、ヾ: 、弌itーマ、:ヽi
                     ′ i           .:: ヽ ー`=.公、`:i
、、_                    _,r:::i     rー-‐ '''' ー ‐ --:: 、:ヽ::i
   `''''"'''ー- 、、、、、、、、、 -‐ー''''''' /:::'.     ``¨':':‐:::::::-::::::::、_  ヽ:;::l
               '"       ./" ゙:,  ゙、   ヽ、,..:::::::::::::::/ , ` 、  `
                __,      ',::、   ゙ヽ 、:_:::::::::::r ;´ ' ヽ、  ` -、
         `;;=--‐‐''''""         ',:::、  `'':::::::::::::;: '   i    ヽ、,
        i´          ,      ',::ヽ    ::::;::i  _ -t^ヽ、_   ゙`
           l          i       ヽ::`:ー ':::::i .ノ:i ノ:::::::: 〉  
         '          il      ,.ゞ=ー'"メ /::::レ:::::::::::/
           i           il   _ ,ィニ´ ニヽ    ーヽ:::::::::::::::/
         i           ill ,イ:::::iニニニソ、     ヽ::::::::::/
            i       illl ´    lニニニ/ ヽ.    ',::::::::i
             i        illl    /ニヽン     ヽ   /::::::::!
          i.      illll  , ' \\ i      ヽ , ':::::::::::i
405人間七七四年:2009/01/18(日) 00:31:23 ID:4dU3kXfL
>>404
まあ揚北の本庄一派に牛耳られてもうたし。
最上義光は庄内・最上川の鮭が食べたかったんだから仕方ない((
406人間七七四年:2009/01/18(日) 07:08:10 ID:a3pn3dnO
夢は「討ち死に」

舞台は将軍も徳川家光の治世となって久しい時代。
筑前黒田家において1000石の知行を食んでいた森勝右衛門成正という男が居た。

森可成の弟、森可政の6男として生まれた成正は幼少の頃に可政と黒田長政との間の約束により
黒田家預かりの身分となって過ごした。
理由については関が原の合戦の折に預ける子供の居なかった森忠政に代わって人質に出されたのでは
無いかとも言われるが黒田長政は「子孫に至るまで誠意を尽くし面倒をみる」という書状を可政に送るなどし成正を丁重に迎え入れた。
そんなこんなで帰される事もなくそのまま黒田家に仕える事になった成正だが厚い待遇にも関わらず彼には不満があった。

「武門の人間として生まれた以上、かの三左衛門可成や鬼武蔵の如く戦場で戦って死にたい!」

悶々とした日々を送る成正であったが大坂の陣も今は昔。そんな機会もあろうはずもない。
しかしある時、九州で幕府ですらも手を焼く大規模な一揆が起こる・・・「島原の乱」である。
待ってましたと言わんばかりに遺書をしたため黒田忠之率いる鎮圧軍に参加をする成正。

死を恐れぬ戦いぶりで島原城総攻めの際にも本丸にまで飛び込み28箇所もの手傷を負いながら暴れ続け
程なくして島原城は陥落。天草四郎も死に乱は終結した。

しかし負った傷もまた深く自力で歩いて帰る事も出来なくなった成正は船曳刑部に肩に掛けられてようやく陣屋に帰り着くと
念願叶って満足したかそのまま静かに息を引き取った。

その死後も黒田長政の約束通り福岡森家は明治維新まで福岡藩士として存続をした。
407人間七七四年:2009/01/18(日) 08:57:59 ID:Gq78sHnT
>>391
軍監:黒田
先手の将:長宗我部・十河

こんな面子攻めたくねえ・・・

九州攻めってこの逸話の真逆だなー
歴戦の古兵がいてもそれだけじゃ駄目ってわけだね
408人間七七四年:2009/01/18(日) 10:04:02 ID:/MdpIWcb
>>407
>九州攻めってこの逸話の真逆だなー
>歴戦の古兵がいてもそれだけじゃ駄目ってわけだね

軍監の分際でスタンドプレーに走る鈴鳴り野郎がおるから・・・
なにが悲しゅうて島津の伏せ勢がいること確定の河を渡らにゃならんのだヽ(TДT)ノ センゴクの○○ー
409人間七七四年:2009/01/18(日) 10:13:50 ID:HBOZI9TX
如水「某は、リーダー黒田考高。通称如水軒。
   計略と用兵の名人
   某のような天才策略家でなければ
   百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらん。」

義元「麻呂は今川義元でおじゃる。通称海道一の弓取り。
   自慢の教養に、公家はみんなイチコロでおじゃる。
   お歯黒かまして、蹴鞠から和歌まで、何でも嗜んでみせるでおじゃる。」

吉継「よおお待ちどう。拙者こそ大谷吉継。通称大谷刑部。
   百万の兵を与えて自由に指揮させる腕は天下一品!
   奇病?業病?だから何。」

戸次顕連「通称雷神の化身。
     戦の天才だ。大友宗麟の猿でもブン殴ってみせらぁ。
     でも主家没落だけはかんべんな。」

我等は、道理の通らぬ戦国の世の中にあえて挑戦する。
頼りになる神出鬼没の、特攻輿武将 英チーム!
助けを借りたいときは、いつでも言ってくれ。
410人間七七四年:2009/01/18(日) 10:32:33 ID:/MdpIWcb
>409
なぜ肥前のクマー様がおらんとですか あくやくですか
411人間七七四年:2009/01/18(日) 10:49:17 ID:3oLUg/1K
ベッキーの諱は鑑連だろ
412人間七七四年:2009/01/18(日) 10:50:24 ID:sXKBcjKk
>>409
上手いなあw
名将揃いで、しかもネタ担当までいるw
413人間七七四年:2009/01/18(日) 10:52:34 ID:+2RqS2/I
>>346
「母親なら粗略にしねえだろ」とか足下みるからな秀吉は
流石ラスボス汚い汚い

どうせなら焼き殺しちゃえばサルも身の程を知っただろうに
414人間七七四年:2009/01/18(日) 10:52:53 ID:/MdpIWcb
>411あまり怒りなさんな、たんなる誤変換だとおもうよ。 

漏れんnとこのFEPじゃ顕って「あきら」か何かでしか変換できないわ
「あきつら」→第一候補:安芸津等 ...('A`)
415人間七七四年:2009/01/18(日) 10:56:19 ID:/MdpIWcb
>413まぁちょっと餅つけ

大政所ファイヤー!したら作左や三河武士団の愛する家康が死んでまうがな。
たかが天下人の老母と戦国大名家のバリバリ当主、全く割にあわん。
416人間七七四年:2009/01/18(日) 11:17:10 ID:aHF05A2K
そんなことすれば徐州で暴虐の限りを尽くした曹操の再来となる。
417人間七七四年:2009/01/18(日) 11:28:22 ID:q/MwntwH
主君家康は惨殺確定、
その後復讐に狂ったラスボスが大軍率いて根切りしに押し寄せる

割に合わんことはなはだしいな
かなり計算高いとこも持ってる作左がやるわきゃない。
自分が得するための計算じゃなく家康が得するためなら自分が悪評かぶっても、って計算だけどなw
418人間七七四年:2009/01/18(日) 11:37:16 ID:bmz3s3xa
たいした護衛もつけない老女を大の男が手にかければそれだけで天下の物笑い
大政所は一応家康にとっても義理の母親になるんだからますます殺すなんて出来るわけがない
419人間七七四年:2009/01/18(日) 12:10:30 ID:tBf+xXtQ
病死よりも討ち死に

柳生清厳は柳生利厳の長男として生まれ、尾張藩徳川義直の小姓として300石で働いていた。
清厳は父直々に柳生新陰流の指導を受けてを修めただけでなく宝蔵院流の槍も習得し、その上学もあるため
新陰流の後継者として期待されていたが病によって仕事を辞め自宅で蟄居をせざるを得なくなった。

ちょうどこのとき九州で島原の乱が起こった。
この乱を聞いた清厳は「私は不幸にして任を辞めざるを得なかったが、このまま病死するのは不名誉なのでこの戦いで死んできます。」
と言って家族に伝えずに槍を片手に島原へ行き奮戦し、敵を数多く討ち取ったが銃弾に当たり討ち死にした。
420人間七七四年:2009/01/18(日) 12:13:50 ID:xioopNlA
>>410
実は5人いる「龍造寺四天王」の特攻野郎版をやりたいのですね分かります_
421人間七七四年:2009/01/18(日) 12:29:33 ID:5eOmbA0I
竜造寺隆信、メタボで馬に乗れなかったんでしょう。
最後、あまりに重いので家来が輿を放り出して逃げ出し
島津に討ちとられたとか。

息子もDBだったけど、馬OKだったの?
422人間七七四年:2009/01/18(日) 12:54:29 ID:A4L9wkkh
肥後、要塞の54万石

肥後54万石を持つ加藤清正。
彼は将来起こる豊臣と徳川との戦いに備え国内を整備しつくした。
現在でも熊本市内は清正の街割を色濃く残しているため市内は酷い渋滞の有様である。

清正といえば熊本城であるが熊本城以外にも国内に様々な国内整備している。
その一つがあまり知られていないが田原坂。清正が整備を加え北の要塞としたのである。
清正は熊本城から田原坂までの約四里を掘抜き道にしています。
田原坂はなだらかな丘をくり抜いて道が通っており、腹切り坂とも呼ばれていました。
当時北からの軍事的進入路はこの道しかなくこの整備により熊本城に近寄るのさえも困難となりました。
この田原坂は西南戦争で実用性が示されることとなります。
西南戦争で熊本城の功績を讃えられる清正だが田原坂も清正の功績の一つである。
官軍も薩摩も清正の遺産を手に戦っていた何とも言い難い古の遺産のお話。
423人間七七四年:2009/01/18(日) 13:00:24 ID:tPt2MDyo
クマさんは

有馬晴信を討伐しに行った時に
敵方の攻撃を味方の喧嘩と勘違いして
「今は争うときにあらず、龍造寺隆信ここにあり」って叫んだら
応援に来ていた島津方の川上忠堅に居場所がばれて首を落とされたんだそうな


424人間七七四年:2009/01/18(日) 13:14:13 ID:5Ke8lgg7
ソビエトばりの逃亡兵皆殺し戦術も万能じゃあ無かったんだよな
425人間七七四年:2009/01/18(日) 13:23:40 ID:pK2JzU15
>>389
だがその通説には疑問が残る・・・ごめんこれ言いたかっただけだ
426人間七七四年:2009/01/18(日) 15:05:09 ID:6hsigrMS
そう言えば、今日1月18日は鮭様の命日らしいな。(享年六十九)
みんな、山形に向かって黙祷。

そしてこれを気に最上義光の話をしようか、と言っても種が無いので
まとめサイトを見るに当たり案外上がっていない島左近の話を

"過ぎたるもの"と言われても、鬼は恩義を抱いて獄門に到る。
石田治部少輔の懐刀として関ヶ原を震撼させた島左近清興の先見を見据えた炯眼のお話。

1599年(慶長四年)1月、太閤秀吉薨去を待って居たかの様に江戸の古狸は眼を醒ます。
禁制である他家との縁組を押し進め、奥州伊達家・尾張福島家・阿波蜂須賀家と立て続けに
婚姻を押し進め、自勢力の麾下に置く。これを詰問するために大坂からは使者が幾度も江戸に向かい
特に五大老・前田利家は強い反発を示し、諸大名は利家・家康双方の屋敷に集結する。
世は、一触即発の危機に瀕していた。

そんな中、徳川家康は柳生宗矩に上方での情報収集を指示。元が大和柳生荘出身の国人である柳生家、
宗矩は島左近の屋敷を訪ねていった。

二人は座敷にて対面し、世間話などで茶を濁していたが
柳生宗矩が世上の雲行きが怪しい事に触れると、島左近は呵呵と笑うばかり。

島左近>>なぁに、世間は色々ときな臭いかも知れぬが…杞憂じゃ、何も起きはせんよ。
      今の諸将には松永久秀や明智光秀の様に智謀に優れ果断な人物が居ないからな。(,,´・ω・)旦~

さらに話題が進み、宗矩は五奉行・官僚派の中心人物・石田三成の事に触れる。
すると、島左近はたった一言こう呟いた。

島左近>>あぁ、その話か。───…それも心配しなくていい。もう、"時"を見逃し、見失っているからな。

"時"とはずばり、徳川家康を討つ機会である。
左近は三成に対し、太閤死後の家康台頭が間違いない事を提案、討つのであれば早い方が良いと
たびたび言上しており、実際に昨年末から今日に到るまで複数回、徳川家康を討つ好機があったと言う。
しかし、三成は事後に起こり得る懸念に臆したのか決断しない。
それならば、加藤清正・福島正則ら疎遠な重要人物とのわだかまりを捨てて好誼を結び、家康陣営の
切り崩し策を防御、その間に民政に心を砕いて人望を得るべきだと次の策を進言したが
それも三成は見送った。

島左近>>既に諸将の人望は家康に傾いており、今さら地固めをしても無駄だ。
     治部少輔殿には勝ち目はあるまい…もはや、今となってはな。―…(,,´・ω・)っ旦~ フゥ

そう言って、左近は宗矩を帰させた。
徹底した現実主義者でなければ生き延びれない戦場の武士であった左近と、
推測・期待値で物事を判断する内務官僚であった石田三成。
確かに、左近は"過ぎたる者"だったのかも知れない。

だが、佐和山城と違い左近には意地と忠義に報いる鬼の意思が宿っている。
既に開戦の一年半前に敗北を悟っていた左近は、関ヶ原で鬼の面目を躍如する
裂帛の闘い振りを見せて東軍を慄かせ、そして戦場の露と消えていった。享年不詳。

そんな島左近の、いい(先見の明と判断力の)話。
427人間七七四年:2009/01/18(日) 15:28:45 ID:8J69zbAf
>>421沖田畷で討ち死にしなくてもそんなにメタボじゃ早死にしただろうな。
428人間七七四年:2009/01/18(日) 15:50:48 ID:JNO5T+Xn
>>421
それはメタボじゃなくてデブというんジャマイカ?
429人間七七四年:2009/01/18(日) 15:59:00 ID:/MdpIWcb
>>426
知られている水口城の暗殺(というかほとんど焼き討ち)計画以前から
秘かに何度も「内府殿を討つならば、今、お下知を!」ってやってたそうだからな。


最後に、子飼いの甲斐忍びへ向かってぽつりと
 「また鯉を獲ってきてくれぬか・・・」呟いて、隆慶一郎の小説が始まるわけで
430人間七七四年:2009/01/18(日) 16:01:15 ID:SHszI4yy
>>426
>わだかまりを棄てて交誼を結ぶ

それやろうとしても好物の栗を持参いたした、さあ私にかまわずどうぞ、だから所詮無理なのでは
431人間七七四年:2009/01/18(日) 16:05:17 ID:/MdpIWcb
>>406 >>419
現代に生きる漏れから見たらどうしても「?」てなるけど、

父や兄が華々しく戦場で散っていった世代の武士には
“(自分たちだけ)生き残ってしまった”、“置いて行かれた”感覚があったんだろうね。

大坂の陣でも島原の乱でも、敗者はむろんのこと勝ったハズの幕府方で名のある武士の討ち死にが多いんだよな
432人間七七四年:2009/01/18(日) 17:57:15 ID:cfXEsPl+
徳川家康は甲斐を手に入れると、奉行として平岩親吉らを派遣した。

家康「甲斐の者から付け届けなどあろうが、適当に受け取っておけ。」
親吉「?!これはしたり。ワイロを取ると見られ、侮られてしまいませぬか?」

家康「程度の問題じゃよ。金品を取って便宜を図るのは問題外だが、全く取らぬというのも、

「あの奉行は、話の分からんヤツだ」 となって、民は親しまず、沙汰にも従わぬようになる。

そもそも『沙汰』という言葉自体、川の『沙(すな)』を『(淘)汰』して砂金を採るところから来た、
訴えを聞き分け、裁断するという意味の言葉じゃ。

みずからドップリ川に浸かり、泥にまみれて沙と小石を選り分けねば、砂金は採れぬよ。」
(前橋聞書)


才能は家康より上だったかも知れないが、他人を許せず、他人に親しまない
『 横柄者(へいくゎいもの) 』が、暗殺・謀略を他人に任せられず敗れたのも、道理なるか。
433亀だけど:2009/01/18(日) 18:36:12 ID:oQaE35SH
>>298 >>301-303
〜上州膳城素肌攻め、ダイジェスト劇場〜


「ふ〜〜、休憩休憩」

今、具足をくつろげて休息している僕は
斜陽の武田家を立て直そうとする、ちょっと勇猛な四男坊
強いて他家と違うところをあげれば
親父殿がガチムチでバイなチート武将だったてとこかなー
名前は武田四郎勝頼


   |>
   |  そんなわけで上野国東毛地方の膳城まで
_| ̄|_ 物見にきていたのだ
|膳 城| (AA地味城で代用 )
434亀だけど・続き:2009/01/18(日) 18:40:00 ID:oQaE35SH
ふ と 見 る と
城内で玉村五郎兵衛某が渋川主膳正と口論していた

「ウホッ! いい内輪揉め……」

ハッ
そう思ってると
突然城兵が僕らの見ている目の前で
城門の閂をはずして 打ち掛かってきたのだ……!

左馬助信豊ヽ(゚∀゚)ノ 殺 ら な い か ?


   |> そういえばこの膳城は、
   |  大胡民部左衛門を城代に入れたばかりの寄せ集めだった
_| ̄|_ 東毛地方のほしい僕らは平服なのに誘われるまま
|膳 城| ホイホイと城門までついて行っちゃったのだ―――

 ↓
四郎勝頼ヽ(`д´)ノハカリゴトナクシロヲセメルナンテ タケダノグンポウニャナイケド…

 ヽ(#`д´)ノ エエイ、ヤッヂマイナー!
  ↓


   (;;;))
    ( )   ウーウー
    从    ジャーンジャーン
     |   ガシャーン
  _| ̄|_
  |膳 城|     …アッ-!!

 〜これが「もっこ褌に兜のみ」武田の上州素肌攻めと伝わる〜

    (..)   
    (从) ブスブス…
  (;; 从))
  |膳城跡|
435人間七七四年:2009/01/18(日) 18:59:57 ID:QH1TvYUj
その勢いで桶狭間も頼む
436人間七七四年:2009/01/18(日) 19:03:13 ID:IIVbzOSB
>>435
既に桶狭間スレにある

桶狭間の合戦の真実について その2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1207682585/598-604
437人間七七四年:2009/01/18(日) 21:29:41 ID:Fq8BAwqW
>>426
じゃあ義光ネタを追悼投下。山形市は義光400忌の2014年までに
義光祭復活をめざしているとか云々。


義光の向学心

義光は京都滞在時代、一花堂乗阿という僧侶に『源氏物語』など、
文学講義を受けていた。その結果、源氏マスターとして切紙
(免許皆伝)まで受けることになった。

ある時、京都にいる乗阿のもとに噂が聞こえてきた。
(`・ω・´)「もっと文学知りたいお!
山形の家臣にも文学を広めたいお!」

乗阿はそれを聞き、山形まで旅をすることにした。

乗阿は山形のきれいな町並みに驚いた。と、何やら人だかりがある。
義光「師匠キタ - .∵・(゚∀゚)・∵. - ッ!!」
近づいてみると義光自ら乗阿を出迎えていた。義光は事前に
師匠の来訪を聞きつけ待っていたらしい。

彼はそのあと寺に滞在したが、ひっきりなしに文学講義を頼む
最上家臣が訪れてきた。
義光は彼に米も金もしまいには置き場所に困るほど送ってきたという。
いくつになっても文学修練を忘れない話。

余談。義光は連歌と和歌が得意で、連歌の句数は細川幽斎パパに
次ぐ戦国大名中第二位、『新式連歌注』という連歌参考書を
里村紹巴に添削を受けながら執筆したという。
現物は歴史館にあるよ。
義光の連歌は大学講師の論文のネタにもなっていたりするので、
気になる方は図書館ででも論文さがしてみてね。
438409:2009/01/18(日) 22:53:46 ID:HBOZI9TX
>>411

出掛ける前にカカッと書いたもんでスマンですw

あと吉継の<百万の兵を与えて自由に指揮させる腕は天下一品!
よく見たら文章変だな<百万の兵を自由に指揮する腕は天下一品!
に脳内変換してくだされ
439人間七七四年:2009/01/19(月) 00:05:21 ID:+Lo67c+K
>>434
この戦の後上野下野の国人が武田に寝返って北条はこの方面で劣勢になったりしてるし、やっぱ武田と真っ向から戦うとロクな事にはならんな。
440人間七七四年:2009/01/19(月) 00:59:53 ID:cGv0I30x
>434“もっこ褌に兜のみ”は一応フィクションだろ……と注釈しとくわなw

>>439武田と戦って、つくづく割に合わんよなー 代替わりしても、やけっぱちな強さは相変わらず;

膳城攻めは半分偶発的に始まったんだが、一揉みに城を乗っ取ってる。
(この上野進出時に動員した軍勢は約一万、膳城に取り掛かったのも一部とはいえ数千いた筈で、守備兵より多かったんだけど、ね)
遠江・高天神城を下したり、勝頼の武威って決して低くないよな……
441人間七七四年:2009/01/19(月) 01:07:37 ID:T2qqmSdH
>>440
ただ勝頼の代になってから本国の甲斐で、惣村が軍役の人夫の供給を渋ったり、乞食を雇って
代理で出させるような事態が他国にも聞こえるほど頻発したらしいので、勝頼への反発や、
そこからくる求心力の低下はやはりあった模様。
442人間七七四年:2009/01/19(月) 01:07:54 ID:Oay93GaQ
兜と褌だけと聞いて、マフラーと靴だけで雪合戦した
友人を思い出した。
443人間七七四年:2009/01/19(月) 01:16:37 ID:cGv0I30x
>441
最大の軍役負担は信玄の上洛戦じゃ…… しかも当主の死病で中途半端に引き上げて、実入りも少なかったわけで。
444人間七七四年:2009/01/19(月) 01:17:29 ID:cGv0I30x
>442
……(けっこう)仮面ライダー?
445人間七七四年:2009/01/19(月) 01:28:53 ID:oSFPgUG+
>>439
それをいい具合に利用してた全盛期の今川の凄さも良く分かるネ

何故か次の世代に移った時には
北条武田に生かされてる状態に変わってたけど
446人間七七四年:2009/01/19(月) 07:26:16 ID:oQuD407m
>>443

当時信玄より若いとは言え既に30過ぎた徳川家康を
脱糞させ自殺寸前まで追い込んだのは実入りが少ないとな?
どう考えても長篠の敗戦以降のgdgdっぷりですがな
447人間七七四年:2009/01/19(月) 07:51:01 ID:S6Un9XiY
恐怖させたことは逸話にはなるかもしれんが実入りにはなるのかな
これが影響で家康が武田恐怖症になって本来の実力を発揮できなくなったとかあるのかな?
448人間七七四年:2009/01/19(月) 07:56:49 ID:+BA/SsuY
>>446
領土拡張もなかったし実利ゼロだろ?
脱糞させても銭にならんよ。
449人間七七四年:2009/01/19(月) 08:13:41 ID:VNokU2Ue
実入りは少ない
当時の恩賞は敗者の土地と蓄財、信玄は上洛でこれらを得ていない
勝頼は恩賞として蓄財を切り売りせざるをえず財政的負債を負わされた
小山田等の裏切りも金銭契約でもあった君臣の関係を反故にされたから
信忠が小山田を殺したのは「投降」と「裏切り」を区別してみせる事によって織田の支配力を強める狙いがあっただけ
450人間七七四年:2009/01/19(月) 08:21:11 ID:T2qqmSdH
まあ信玄がもう少し生きたら状況は全然変わったんだろうけどね。

勝頼は、武将としては家康や信長、そして信玄にも能力で劣るとは思わないが、
なんというか、古い中国の言い方で言えば、?武の傾向があったと思う。
長篠以降はどんなに戦闘で勝っても、政治的にはどんどん追い詰められていった。
451人間七七四年:2009/01/19(月) 08:28:49 ID:T2qqmSdH
うは、旧字体は出ないのか。「涜武」ね。>>450
452人間七七四年:2009/01/19(月) 11:39:26 ID:IkAm1pzx
>>437
鮭様って人に対する心遣いが凄いと思う
お祭り復活できるといいね
453人間七七四年:2009/01/19(月) 11:39:33 ID:cGv0I30x
>>445んだんだ。
太原和尚と今川義元って、軍事力以上に政治外交力が優れているよなー

……放っておいたら武田晴信が信濃の次あたり、駿河に攻めて来るの99%確実だよもん。
454人間七七四年:2009/01/19(月) 12:53:30 ID:efh4ARPZ
なんで確実?
455人間七七四年:2009/01/19(月) 17:07:53 ID:6hMdmXo8
駿河は港も金山もあり農耕もできる非常に魅力的な土地
北条氏との折衝さえ上手くいけば越後よりも本国から近い駿河に攻め込む方がいろいろと都合がいい
456人間七七四年:2009/01/19(月) 18:46:46 ID:wen7GY6i
コーラを飲んだらゲップが出るようなもんかな。違うか

>>454
>455が書いてくれてるけど、甲斐信濃から一番近い、河口や港のある国が駿河遠江。
相模も海に面しているが、小田原はじめ駿河より守りが堅くてめどいんじゃないかな

額面の石高が増える以上に、港町を押さえてしまえば交易の上がりで税収が増える。
大名家が直接タッチしなくても山国の産品と平野・海側の産品が交易できて領国全体を早く豊かに出来る


457人間七七四年:2009/01/19(月) 18:53:03 ID:bcRzJHXu
スレ違いすぎる話題はそろそろ自重してくれ…
458人間七七四年:2009/01/19(月) 19:01:13 ID:0oWWZ3Rr
義元生存中で桶狭間がなかったら、信玄は信濃征服しても駿河は攻められないでしょ
459人間七七四年:2009/01/19(月) 19:22:03 ID:6hMdmXo8
いい土地の話・・・ってのは無理矢理過ぎるかw

有名どころで悪いが、馬場美濃の話

武田信玄は甥・今川氏真を攻め、これを遠江へと追った
その際、信玄は駿府城を焼くが
「今川の貯め込んだ財宝を焼くなんて勿体ない! 運び出して武田の物にすべし」と命じた
しかし兵士が財宝を運び出している現場に出くわした馬場は
「合戦後の混乱に乗じて敵の財宝を奪うなど、貪欲な武将と後世の笑い者になります。それくらい考えなさい」
と言わんばかりに折角運び出した財宝を再び火中に投げ込ませた
後に信玄はこれを聞き「言われてみればその通りだ。流石は七歳も年上な事はある」と言ったそうな

武将としての名を惜しんだいい老将の話
460人間七七四年:2009/01/19(月) 19:28:20 ID:bcRzJHXu
>>459
この話を見るたびに違和感を感じるんだよなあ…
この駿府攻めの以前も以後も武田(武田に限らないが)は略奪をやってるのに
この時だけ馬場がこんな態度をしたのに違和感を感じる。

消失した今川家家宝は国宝級のものも多々あっただろうから尚更残念だ…
461人間七七四年:2009/01/19(月) 19:34:59 ID:6hMdmXo8
それは凄くわかる。が、まぁ一応美談でしょう
あるいは歴史ある名門だから気を遣ったとか

小笠原と諏訪はどうなんだと言われると・・・
462人間七七四年:2009/01/19(月) 21:36:40 ID:LfIpD9jI
今川も明智秀満を見習って財宝を武田に譲渡すればよかったのにね
立場は違えど同じ名将だね 馬場と明智
463人間七七四年:2009/01/19(月) 21:56:37 ID:GSjaxhHu
>>460
多分、家康の忠臣に気を遣ったんじゃないかな?
鳥居忠元の正妻は馬場美濃の娘だからね。彼も
戦のドサクサで、家康に嘘をついて娘をGETしてるからね。
464463:2009/01/19(月) 22:01:42 ID:GSjaxhHu
忠元×
元忠○
です。すみません!
465人間七七四年:2009/01/19(月) 22:16:21 ID:VqaBMraT
>>447
実入りというより実が出(ry
466人間七七四年:2009/01/19(月) 23:52:38 ID:T2qqmSdH
天文十二年(1543)、大内義隆と尼子晴久の、月山冨田城の戦いのこと。

この戦いは大内勢の敗北となり、大内軍の一員、毛利元就もまた、敗走の憂き目に会った。

元就勢は出雲と石見の国境、大江坂七曲という場所まで逃げたところでついに、尼子軍に
追いつかれた。もはやこれまでか、というとき、元就の家臣、渡辺通は元就に、

「私が尼子軍をひきつけます!その隙にお逃げください!」

と、元就の甲冑を着込み、元就の馬に乗って、元就本人に成りすまし、
尼子軍に突撃を仕掛けた。

元就はその隙にこの場を脱出。渡辺は壮絶な討ち死にをした、という。


毛利創生の頃の、忠臣のお話。
467人間七七四年:2009/01/20(火) 00:02:36 ID:GbERsHrH
イイ嵯峨源氏ダナー

父親が相合元綱を擁立しようとして元就に殺されてるのにな>通
468人間七七四年:2009/01/20(火) 00:41:34 ID:pdFhioG7
910 名前:[名無し]さん(bin+cue).rar[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 22:55:33 ID:dJh60c/k0
黒田官兵衛を大河にする前に森長可が先だろ
織田家随一のDQN侍鬼武蔵のが人気出るよ

誰だこれやった奴wwww
469人間七七四年:2009/01/20(火) 00:45:24 ID:/CQ6lAMN
>>465
黄ばんだ褌の話もそろそろ離れませい・・・
470人間七七四年:2009/01/20(火) 00:55:12 ID:yI7akFwr
>>466
大河ドラマでのその場面よく覚えてるな。感動的だった。
「殿を生かした渡辺通がいたからこそ、毛利は栄えたと言われるが
ずっと、誇りにございまする」
471人間七七四年:2009/01/20(火) 01:12:00 ID:L6YobqII
>>468
どこの板か解らんがこのスレの住人は2CHのあちこちの板に広範囲に生息してる可能性が高いから、そんなレスがあっても不思議とは思わんな。
472人間七七四年:2009/01/20(火) 01:26:26 ID:CTebU/+w
>>471
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473人間七七四年:2009/01/20(火) 01:39:55 ID:gfUm4PAy
テラカオスwwwww
474人間七七四年:2009/01/20(火) 01:48:57 ID:kdn07PN1
範囲ひれーよw
475人間七七四年:2009/01/20(火) 01:53:13 ID:39B9iI92
ブラウザ使ってる奴は表示されないからそいつらでも氷山の一角です。
476人間七七四年:2009/01/20(火) 01:58:12 ID:Yvg/jsBo
俺がよく出入りするのは、喪男板とか、大相撲板とか、自転車板とか、酒板とか、NHK実況板とか
477人間七七四年:2009/01/20(火) 02:03:40 ID:yV8qAbQe
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範囲広いとかそんなレベルじゃねえぞ
478人間七七四年:2009/01/20(火) 04:08:23 ID:m5Z+YsZv
つまりあれだ、このスレには、
歴史ゲーム好きで
漫画喫茶によく行ってて
窓使いの
×1
がたくさんいるんだよ
どこにでもいそうじゃまいか
479人間七七四年:2009/01/20(火) 04:10:15 ID:znElxWhj
歴ゲならわかるがその他はさっぱり理解できんwwww
480人間七七四年:2009/01/20(火) 05:29:15 ID:hwF5sIOu
>旦那がアスペルガーで離婚した人 [×1]

細川玉さん何やってんすかw
481人間七七四年:2009/01/20(火) 07:27:09 ID:+mE8iGyK
鬼女きめー
482人間七七四年:2009/01/20(火) 09:52:55 ID:ASvMQwj5
>>480
カトリックは離婚…出来ないんで…
483人間七七四年:2009/01/20(火) 11:05:28 ID:/CQ6lAMN
>459 いい土地、ってか湊が縁の話。

織田信長の父ちゃん信秀は今川方から那古野城を奪取した知略の人、
爺ちゃんの弾正忠信貞(信定)も先進的で経済センスのある人だったらしい。

信貞は尾張下四郡の守護代・織田大和守家(清洲さん)の陪臣で、守護・斯波氏からすれば家臣の家臣だった
当初は直轄で知行する土地もあまりない清洲三奉行の一人だったが、
木曽三川の渡しで盛っていた川湊の津島に目を付け、近所の勝幡に城を築いた。

信貞爺ちゃんがほぼ一代、じっくり時間を掛けて津島から海西郡(海部郡)に勢力を持つようになると、
津島湊からの冥加や運上金で、小禄ながら織田弾正忠家は財政が豊かになったそうな。
信秀さんの頃には那古屋や熱田(ここも神社の門前で盛っていた町ね)も押さえてゆき、
石高以上に資金力のある信秀さんは尾張・三河・美濃と神出鬼没で活躍して「器用な仁よのう」と評されたという

ここまではただの郷土史みたいな話でスマソ

で、時代がずっと下って永禄の頃、孫の上総介信長が桶狭間の合戦で今川義元を運良く?奇襲することができた件。
義元に一番槍をつけた信長馬廻の服部小平太一忠、ついで義元を討ち取った毛利新介(新助)良勝が、
那古野や清洲からの譜代ではなく、信貞以来三代仕えてきた勝幡衆・津島衆だったというンですよ、奥さん!

信長の飛躍は三代に渡って築かれた財政基盤や人材にもよっているという、信貞爺ちゃんの(目の付け所が)いい話。

※愛知の郷土史研究でいろんな話が残っていて、どこまで本当かはわからんけど
484人間七七四年:2009/01/20(火) 11:29:57 ID:3bjMBFOb
毛利輝元の先見性

1573年
長府毛利家文書
輝元が穂田元清に当てた手紙。
信長には強気な態度をとることが寛容である。
次は宇喜多直家に注意せよ。信長が敵となれば直家を先鋒として戦わせれば問題ないだろう。
浦上は気にしなくて良い、兎に角毛利が織田を気にかけていることは絶対に直家には知られないように。


この段階で浦上を見限り信長の停戦命令を無視し宇喜多に肩入れし宇喜多を勝利に導く
信長との開戦当初は宇喜多が先鋒となって戦っていたので中々の戦略眼を持っていた。

っというか宇喜多はやはりこの当時から大国毛利からも警戒される程の(ry
485人間七七四年:2009/01/20(火) 11:38:48 ID:eCRPI5Nx
泳いで参るの親父とは信じられんよな
486人間七七四年:2009/01/20(火) 11:59:12 ID:gGAKTXPg
息子はちいさいころからみんなにかわいがられて育ったからな
親父とは境遇が違うし
487人間七七四年:2009/01/20(火) 12:02:36 ID:VdCceML0
>>484
これ宇喜多スレだかで見たわ
その時は輝元の逆法則っぷりに注目が集まってたw
488人間七七四年:2009/01/20(火) 12:38:12 ID:2hVXNrxt
百聞は一見にしかず

ある日ある時、徳川家康が敵地に斥候しに行った時の話
右手に深田があるのを認めた家康、おもむろに白服を着て部下に
「右手には何が見える」
部下は見たまま
「深田があります」
と言い終わらない内に、家康はいきなり深田にダイビング、腰まで埋まる
何が何だが解らない部下、兎にも角にも家康を深田から引っこ抜くと

「この通り、腰まである。馬でも脚が届かずに身動きとれなくなって、
討ち取られる恐れがあるから注意するように」
と家康は腰まで泥が付いた白服を示して、注意を促した。

「その様な事、言葉で言えば解ります」という部下に対し、
「戦の最中は言葉で伝えた事など直ぐに忘れる。こうすれば忘れないだろう」

人に物事を教えるためにはインパクトが重要なのであった
489人間七七四年:2009/01/20(火) 12:40:41 ID:xG7bKwW9
>>484
やっぱ謀略暗殺マニア直家さんとTERU元の相性は良くなかったんだな。

しかし泳いで参った息子とTERUは豊臣五大老、関ヶ原西軍主力をはって後々までの縁もあるなあ
490人間七七四年:2009/01/20(火) 12:50:30 ID:xG7bKwW9
>488
泥リンピック家康萌え
491人間七七四年:2009/01/20(火) 12:54:34 ID:YPrFhJnr
>>488
これ絶対、「一回やってみたかった」ってだけだろw
492人間七七四年:2009/01/20(火) 13:02:37 ID:xG7bKwW9
>>491
家康なりに精一杯「ヒャッハー!」て叫んだと妄想w
493人間七七四年:2009/01/20(火) 13:40:31 ID:BoXSTXs4
>>491
このスレに出てくる家康像からすると、頭に

最近斥候の仕事がやや手抜き気味で調査の詰めが甘かったりしていざというときに困ることが増えてきた
かといって斥候失格というほどでも無く面と向かって処罰するには及ばずなかなか注意することも出来ずにいた家康さん
そこであるとき

とか付け加えても不自然じゃない気がする
最後に

それを見ていた本田作左衛門・・・でもいいけど・・・
494人間七七四年:2009/01/20(火) 14:24:34 ID:tKsE0gem
三河武士は主従そろって面倒くさいぜw
だがそれがいい。
495人間七七四年:2009/01/20(火) 16:06:52 ID:Bjmf8Lpu
>>484
毛利の盟友・三村家親を暗殺した宇喜多だから意識して当然
しかも先陣を申し付けることで宇喜多の力を削ぐ意味もある
まあ三村が宇喜多を討ってても同じことになっただろうが
496人間七七四年:2009/01/20(火) 17:32:11 ID:kDHxKcy/
古草履のように捨てられた三村は一大兵乱を引き起こすことになるが…
これは悪い話だな
497人間七七四年:2009/01/20(火) 17:55:52 ID:RCZIUbMH
吉川元春が大反対したんだけどな
昔から友好関係だった三村を切ってよりにもよって宇喜多と組むなんて
毛利は信頼をなくすぞってすげー嘆いてたはず
498人間七七四年:2009/01/20(火) 18:58:22 ID:39B9iI92
浦上宗景が義昭と信長の仲介でセッティングしたんだっけか。
499人間七七四年:2009/01/20(火) 21:02:35 ID:s3sQvB+H
家康の寵愛を受けた側室であり、関ヶ原や大阪の陣にも同行した於梶の方(於勝の方)のお話

ある時、家康は本多忠勝、平岩親吉らを集めて飲み会を開いた
その最中、家康が「この世で一番美味い食べ物はなんだろうか」と皆に問うた

何事においても全力でな三河武士たち、やれ○○が美味い!いや△△だ!と議論白熱一触即発
そんな騒ぎを見ながら、ニコニコとお茶を煎れている於梶の方

そこで家康が、於梶の方にも一番美味い物はなんだと問うと
「いちばん美味い物は、塩に御座います」と答えた
家康が理由を聞くと
「食べ物の美味いという基準は塩加減に御座います。どんな良い料理でも、塩が無くては味が整わないので御座います」
これには家康ほか一同深く納得

話はこれで終わらず、家康は次に「ではこの世で一番不味い食べ物はなんだろうか」と皆に問うた
○○が不味い!いや△△だ!とまたもや全力で罵り合う三河武士たち、話がまとまる気配も無い

そこで家康が、於梶の方にも一番不味い物はなんだと問うと
「いちばん不味い物は、塩に御座います」と答えた
先程と同じ答えではないか!と家康が理由を聞くと
「食べ物の不味いという基準は塩加減に御座います。どんなに良い料理でも、塩を入れ過ぎると食べる事が出来ませぬ」
これにも家康ほか一同深く納得

「こやつがもし男に生まれていれば、大将として大軍をも指揮出来るだろうに。誠に惜しい事だ」と家康は言ったとか(故老諸談)




500人間七七四年:2009/01/20(火) 21:04:05 ID:ZPlw/yOC
屁理屈お化けじゃないか
501人間七七四年:2009/01/20(火) 21:18:46 ID:Wc5zO7Ib
>>500
家康49歳の時に13歳で側室に上がり、男装の騎馬武者姿で関ヶ原にも従軍し、
勝利したからお前も勝に改名しろと言われた家康お気に入りのおにゃのこです
502人間七七四年:2009/01/20(火) 21:39:47 ID:i/9w1AoJ
これは座興にマジになっちゃった大人たちを、また座興に引き戻したって逸話なんじゃないかな
それなら家康の言葉も分かる
503人間七七四年:2009/01/20(火) 21:48:36 ID:xG7bKwW9
>>499
お梶(於勝)さんねー、太田康資の娘か孫(姪っ子かも)だったけ?

関東国人の太田一族。北条征伐→家康関東入府以降の側室で、歳の差ありまくり。しかも>499みたく頭が切れるのな。

輿入れした初めはツンツン過ぎたのか、一度家臣に下賜されてしまい、ブチ切れたお梶の方。
松永弾正先生のHOW TO本か何かを読んで?夜毎セクロス修業しまくって〜昼間、旦那のしおしお振りに驚いた家康に〜呼ばれて側室に戻ったとかいう、
微妙に頓知の利いた方向に全力で突進するバイタリティの持ち主。

某時代小説の作者は「これは絶対めっちゃロリSっ娘だったに違いない」という納得したいけどアホwな説明をつけ加えていますた……

家康爺ちゃんの(ナニが気持ちの)いい話。ええと;


寵愛された割には子供に恵まれなくて、関ヶ原後に生まれた娘も幼くして亡くなったんだよなー
504人間七七四年:2009/01/20(火) 21:54:21 ID:i/9w1AoJ
> 旦那のしおしお振り
> ロリSっ娘

ちくしょう!ちくしょおおおお!
505人間七七四年:2009/01/20(火) 21:57:33 ID:/HHeI23s
>>504
キミも天下を取れば、そんな側室が持てるんだぞ!
506人間七七四年:2009/01/20(火) 22:01:30 ID:xdhT7FWb
天下は取れなくても一城の城主にさえなれれば可能だろうなw
だけど戦国時代の女性って脇とかすねとか鼻とかの無駄毛処理はしていたんだろうか?
507人間七七四年:2009/01/20(火) 22:05:17 ID:/HHeI23s
戦国期は知らんが、江戸期のいい所の武家の娘さんは、陰毛も含めて毛抜きで
つるつるにしておくのがマナーだったって聞いた覚えが。
確か毛抜きの専門業者もあったはず。
508人間七七四年:2009/01/20(火) 22:08:19 ID:+VospaG+
線香で焼くって方法もなかったっけ
509人間七七四年:2009/01/20(火) 22:09:03 ID:mo/7nOJq
>>506
腋毛は第二次大戦後、アメリカの影響でそり始めたから戦前までボーボーよ。
ヨーロッパでは今もボーボーだ。
だがそれがいい、とは思わないか?

>>507
高級遊女じゃなかった? 軽石や線香で処置していたらしいが。
510人間七七四年:2009/01/20(火) 22:12:37 ID:/HHeI23s
>>509
吉原の高級遊女が毛を処理するのは、旗本の家の風習を真似たものじゃなかったっけ?
511人間七七四年:2009/01/20(火) 22:14:28 ID:kpJLlT2U
いくら美女でもお歯黒をしていたら萎える自信がある
512人間七七四年:2009/01/20(火) 22:15:48 ID:/HHeI23s
>>511
お歯黒は既婚者だけだ。安心しる。
513人間七七四年:2009/01/20(火) 22:21:02 ID:wTMZ4RHt
つまり僕は鉄漿を見ると萎えちゃうから君と結婚しないんだ
ということですか
514人間七七四年:2009/01/20(火) 22:23:21 ID:mo/7nOJq
こう考えるんだ、昔は照明が暗いから顔なんかどうでもいい、と
515人間七七四年:2009/01/20(火) 22:30:24 ID:/HHeI23s
つーか、安土桃山期くらいになるともう、日常的にお歯黒の風習があるのは公家くらいで、
庶民は冠婚葬祭なんかの特別な場合にのみ、お歯黒入れてたらしいよ。
516人間七七四年:2009/01/20(火) 22:31:02 ID:ILS0afe7
>>514
吉川元春さんわざわざの書き込み乙です。
517人間七七四年:2009/01/20(火) 22:36:46 ID:mo/7nOJq
家臣の妻だと思えば、お歯黒していてもたつお!
518人間七七四年:2009/01/20(火) 22:42:56 ID:39B9iI92
>>517
TERU自重
519人間七七四年:2009/01/20(火) 22:43:47 ID:ZEZq8i+9
仮に忠興の奥様が吉川の奥さんみたいな顔だったら・・・
520人間七七四年:2009/01/20(火) 22:50:14 ID:/HHeI23s
つーか、家臣の嫁を奪う人物は、戦国時代に限ってもそうとう候補が出てくるけどね。
ラスボスを筆頭にw
521人間七七四年:2009/01/20(火) 22:52:34 ID:udGiPMvH
>>514
蓼喰う虫も好き好き、ですか

でもまぁ、熊谷の娘で妹の方は美人だった=実は吉川夫人も美人だったんじゃね?って説もあるよな
522人間七七四年:2009/01/20(火) 22:57:35 ID:mo/7nOJq
>>520
政宗「非常識な話だ」
秀吉「品位がなさすぎるの〜」
523人間七七四年:2009/01/20(火) 23:02:04 ID:/CQ6lAMN
>>510
遊女つーと、武家よりもっと古い公家の風習をまねたという話があってだな

白ごにょごにょはお公家の風習かもしれませんぞえ?
524人間七七四年:2009/01/20(火) 23:02:27 ID:peBNMmzS
信長『嫁じゃなくて宝を取り上げればおk』
宗鱗『全く嫁の一人や二人ケチケチすんな』
525人間七七四年:2009/01/20(火) 23:04:47 ID:VdCceML0
輝元の嫁寝取りは本人のつまらなさと相まってビミョー
やっぱり宗麟くらい突き抜けてないとな
526人間七七四年:2009/01/20(火) 23:32:29 ID:3bjMBFOb
前田利家と加藤清正 槍の又左を引き継ぎし者


前田邸と羽柴邸が隣どうしだった頃、秀吉の側にいた清正はよく利家と会う機会があった。
利家と言えば槍の名手であり信長の側近として前線で名を馳せた荒武者である。
清正は利家に憧れており、利家が屋敷に居る日は来る日も通い利家から槍術を習った。
そんな清正を利家も「まるで自分の若い頃とそっくりだ」と可愛がり、いつしか親子のような関係になっていた。

利家から教えを受けた清正はこの後前線で数々の武功をあげる事になる。

時は飛んで秀吉死後。利家と家康とが対立するに至る。
前田邸、徳川邸とそれぞれが集結するなか清正は前田邸に向かった。
清正の中では殺したくなるくらい癪に障る小西や石田がいるにも関わらずである。
この時三成は前田邸に利家の看病という名目で利家の側に逃げ込んでいて、
前田家臣からも煙たがられており中には清正に誅させようという者も出始めた。
清正も自分の尊敬する利家の影に隠れる三成に苛立ちを隠せなかった。

利家は清正を呼んだ。
利家「戦いともなれば勝つも負けるも五分だが私は病には勝てない。
家康とは和議を結ぶが自分の死後必ず家康は戦を仕掛けるだろう。
虎、お前はこの会談を見届けこの後どのように世が動くか考えてみよ」

利家は清正を護衛につけ、家康との会見に望んだ。利家は清正を他の誰より信頼していた。

この後、利家は家臣共々仲良くするようにと遺言を清正に残したらしいが見事にぶちやぶった清正\(^o^)/
527人間七七四年:2009/01/20(火) 23:34:40 ID:tA8VnbfZ
正則「ふっ」
528人間七七四年:2009/01/20(火) 23:53:08 ID:ZEZq8i+9
故松永久秀さん「約束破るって最悪だよ清正君」
529人間七七四年:2009/01/20(火) 23:58:32 ID:/CQ6lAMN
>504
TERU元だって、このスレじゃやるおキャラなのにリア充だ・・・ぜ・・・
530人間七七四年:2009/01/21(水) 00:16:36 ID:FPO8fAcL
>>526
司馬の関が原の、冒頭の見せ場だよねそこ。
司馬の歴史解釈には賛否色々あるけど、あの場面の筆力は流石だったなあ。
悪役なのに圧倒的にかっこよかったもの。家康。
531人間七七四年:2009/01/21(水) 00:34:55 ID:FPO8fAcL
朝目新聞でまとめサイトが紹介されてたw
532530:2009/01/21(水) 00:36:07 ID:FPO8fAcL
すいません>>530は悪いスレのほうの誤爆です本当にすいません…orz
533人間七七四年:2009/01/21(水) 00:36:27 ID:LYj3cs7U
>>530
司馬関が原の家康は最高だと思う。
腹黒だけど魅力的でかっこいいんだよなぁ。
534533:2009/01/21(水) 00:38:41 ID:LYj3cs7U
誤爆に普通にレスしてしまった…orz
535人間七七四年:2009/01/21(水) 00:39:58 ID:/Q9LVNfa
>>531
kwsk
536人間七七四年:2009/01/21(水) 00:42:25 ID:HOJCh7CJ
537人間七七四年:2009/01/21(水) 00:44:17 ID:HOJCh7CJ
超大手の朝目に一押しで載るとはすごいな〜。
アクセス一気に増えるんでね?
538人間七七四年:2009/01/21(水) 00:49:36 ID:/Q9LVNfa
>>536
おお、ありがとう。すげーな!
539人間七七四年:2009/01/21(水) 00:52:59 ID:eoq3kwDQ
>>536-537
しかしアンテナに引っ掛かったネタは「パンツとふんどし」なんだな。さすがだw
540人間七七四年:2009/01/21(水) 00:53:59 ID:grpVQDci
感慨深いな

>all
おめ。
541人間七七四年:2009/01/21(水) 03:04:05 ID:yh7TawAE
佐竹義重は見るけど息子の義宣は見ないようなので

いい話?

「国の宝は山であり、山の衰えは国衰である」

佐竹義宣、渋江政光は秋田の山林保護に力を入れたみたい

雪深い秋田では、冬農民の仕事がないため、その雇用対策も兼ね、秋田炭の
生産に力を注いだ。

ここで面白いのは、藩士へは、無料で配っていたのではなく
製炭費に当たるお代を給与天引きしていた。
これによって、市場経済による値段に生活が脅かされることなく、
生活できるように配慮されていたとか

ただ、庶民には決して良い制度ではなく
勝手に炭を焼いたり利用すると死罪だったとか


他に佐竹義宣に関するものとしてこんな話がある。

秋田の名物に「ハタハタ」という魚

この魚はもともとは常陸の大洗沖に棲んでいたそうで関ヶ原の戦いの後,
全国の大名の改易が終わった後に佐竹義宣は常陸から秋田に転封されることになった
このときに「ハタハタ」も佐竹義宣を追って秋田に行ってしまい
以後常陸では獲れなくなったという

また,同様の話で、
佐竹義宣の時代には,多賀郡では良質の金銀が採掘出来た
ところが,義宣がいなくなってからは,金や銀が石灰岩に
変わってしまったという

542人間七七四年:2009/01/21(水) 03:36:17 ID:Q+1l2Qmh
ホント戦国大名って大変だよな。政治経済戦争どれもできないといけないし。大統領より大変かな?
543530:2009/01/21(水) 03:38:01 ID:FPO8fAcL
> このときに「ハタハタ」も佐竹義宣を追って秋田に行ってしまい

> ところが,義宣がいなくなってからは,金や銀が石灰岩に
> 変わってしまったという

怪しい魔法使いか何かか義宣はw
544人間七七四年:2009/01/21(水) 04:22:31 ID:s6ga80K/
手で触れるとなんでも金に変わる王の話があったな・・
545人間七七四年:2009/01/21(水) 04:44:23 ID:iBdeWwDq
ミダス王だっけか…
ロバ耳にされたりと色々お騒がせな王さまだよね
546人間七七四年:2009/01/21(水) 10:12:24 ID:6QU3Iu7k
>>541 >>543
もう佐竹義宣がハマちゃん@釣りバカの人か何かに見えてしまうわ   w

義重=“鬼のような”スーさん…あ、あれ?
547人間七七四年:2009/01/21(水) 12:21:06 ID:dL5uGMtY
>>542
よく考えるととんでもない職業のような気がしてきたw
しかもいつ戦死したり暗殺されるかわからないという・・・
548人間七七四年:2009/01/21(水) 12:25:56 ID:xdnm4cyk
厳しい環境のほうが優秀な人材が育つということですかね
549人間七七四年:2009/01/21(水) 12:30:26 ID:GOzc3Q4t
元就の厳しい教育
隆景の厳しい指導

結果:家臣の妻を側室にするお
550人間七七四年:2009/01/21(水) 12:37:28 ID:6QU3Iu7k
>549あ゛ー
551人間七七四年:2009/01/21(水) 12:41:55 ID:syqBL0lI
>>495-497
三村家と言えばこんな話
三村家親の弟に三村親成という者がいた
彼は家親死後の三村宗家-織田同盟に反対し当主三村元親が毛利に反旗を翻した際は宗家と袂を分かち毛利に付いた
元親が毛利に滅ぼされた後は一族の遺児を養っており一概に裏切り者とは言えない様である
さて、おいたが過ぎた‘鬼日向’こと水野勝成が諸国を放浪していた際に鶴首城主だった三村親成の世話になった
親成は勝成を気に入って養女としていた兄家親の娘を嫁がせた
状況としては一浪人に三村宗家の娘、である
勝成は親成の下でも長続きせず余所へ移動するのだが彼女もそれに従っている
時は流れて関ヶ原
西軍に付いた毛利の転封で没落してしまった三村親成
備後福山藩主となった水野勝成は彼を1500石の高禄で家老として召し抱えた
彼に従っていた兄家親の娘は勝成の正室として世継ぎを生んだ
世の中どうなるか分からないモンである
552人間七七四年:2009/01/21(水) 14:52:46 ID:8vR6O5h+
信長「やはり娘婿とは仲良くしたいものだ、なあ竹千代」
家康「まったくですな」
553人間七七四年:2009/01/21(水) 15:12:25 ID:EMWh2pCs
忠勝「それがしも娘婿とて実の息子同然と考えております」
家康「・・・」
554人間七七四年:2009/01/21(水) 15:18:18 ID:6QU3Iu7k
>>551塞翁が馬やねぇ。


…水野勝成の庶子やら孫はかなりやらかしていたようなアレだが
555人間七七四年:2009/01/21(水) 20:08:06 ID:FPO8fAcL
>>554
しかも歴史に残るような派手なやつを、ってのが流石子孫だと思ったw
556人間七七四年:2009/01/21(水) 20:16:32 ID:9qSwwU+O
水野勝成は家督相続まで西日本の色んな場所に出没してるな。

実の父親に奉公構食らってたのと自身の気性のお陰でどこにも居着けなかったがw
557人間七七四年:2009/01/21(水) 20:41:15 ID:6QU3Iu7k
>>556
勝成パパン本人もかなーり歌舞いた人だったんだろうなあ;

伊達政宗あたりとマブダチんこできそうな気もするが…
双方わがままつーか、強引グ・マイウェー過ぎて駄目なのかもね?
558人間七七四年:2009/01/21(水) 21:13:39 ID:rF40D0p+
本当に凄いのは50数回の戦にて生き残った伝助と言う兵士。
家族を殺されてしまい、死にたいと考え毎回最前線で戦い続けるも毎回生き残ってしまう。
伝助は伝説の兵士。
50数度の戦で関ヶ原、大阪の陣も戦うも死ねず、75歳で死地を求めて宮本武蔵とも対決している。
武蔵は伝助の一撃を避けきれずに尻餅をついたとすら言われている。
ようするに伝助は死にたくても強すぎて死ねなかったという。
そんな彼も武蔵のはからいで共に生活をするが、81歳で死す。
最後の言葉は「ありがとう、宮本さん」らしい。

首切り茂吉と言う農民もいる。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて伝助との激戦の末、首を打たれたと言う。
559人間七七四年:2009/01/21(水) 21:30:53 ID:LYj3cs7U
>>558
俺もそのスレ見てたよw
560人間七七四年:2009/01/21(水) 21:30:55 ID:9uDfqkb7
流石に御伽噺でも伝説でもない2chの作り話を貼るのはどうよ
561人間七七四年:2009/01/21(水) 21:31:30 ID:kPhG01a1
>>558
【戦国】妄想農民伝【最強】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1229041733/
562人間七七四年:2009/01/21(水) 21:32:31 ID:PxOoOb+x
>>541
美人もぜんぶごっそり持っていったから、常陸はブ*が多くて
秋田が美人だらけになったという話も聞いた。
まあ出羽は美人の名産地ともいうし、日照時間の関係だろうけどな>秋田美人
563人間七七四年:2009/01/21(水) 21:46:46 ID:D+Tz9XK4
秋田出身だが佐竹氏の秋田への馴染み方は異常

民謡で歌われている桧山納豆も佐竹氏が伝えたと言われてるし
ハタハタは方言でサタケウオなんて呼ばれてたりもするし(理由は>>541
現秋田市長も佐竹氏の末裔だし(評判はともかく)
あまりに馴染みすぎているから
関ヶ原後に転封されてやってきたなんて全然知らなかった
564人間七七四年:2009/01/21(水) 21:57:25 ID:6QU3Iu7k
>>563
そののち、常陸国水戸では徳川光圀が〜大日本史編纂のため〜貸した重税で民百姓は悶え苦しんでますた

水戸黄門って、学問は奨励したけど……
565人間七七四年:2009/01/21(水) 21:59:30 ID:PxOoOb+x
>>564
水戸の家老は鮭の子孫なんだよな。
ちょっとは先祖の精神をまねて、殿様止めてくれればな…
566人間七七四年:2009/01/21(水) 22:17:41 ID:hrobwFUY
他にも雑賀孫一の子孫がいたり、尼子の末裔がいたり、何気に豪華な水戸家臣団
もっとも御三家全般に言えるけどな
567人間七七四年:2009/01/21(水) 23:01:26 ID:RRvIJMYE
水戸藩家老となるその山野辺義忠の話。

義忠は最上義光の四男。14歳にして1万9000石を領し、山野辺姓を名乗る。
一門きっての俊才と目され、必見した家康に「恐るべき怪童」とまで評された。
が、その才能が義忠待望論につながり、最上騒動へ発展、改易の憂き目となる。
義忠は備前池田家のお預かりとなった。

ちょうどこの頃、池田家で大事件が発生する。
藩士・河合又五郎が主君・忠雄の小姓を殺害、出奔したのだ。
しかも、よりによって池田恒興を討った旗本・安藤家に逃げ込んでしまう。
河合家の旧主だったからだが、忠雄にとってはたまらない。
忠雄は敵討ちの遺言まで残し、外様大名と旗本の対立に発展してしまった。

実はこの時、又五郎を一時匿ったのが蟄居の身だったはずの義忠。
…ということは、安藤家への手引きにも関わっていたことになる。
忠雄は病死、池田家は藩主幼少という名目で鳥取へ移封。
この時に、義忠は水戸藩に1万石という破格で迎えられるのだった。
義忠の次男は藩主の娘を娶り、徳川の端に連なる身分となる…

旗本、親藩とのパイプが見え隠れする義忠、確かに「恐るべき」人物だったかもしれない。
世渡りのいい話である。
568人間七七四年:2009/01/21(水) 23:11:38 ID:6QU3Iu7k
>>567アッー!!な恨み妬みで大騒動にハッテンした、


荒木又右衛門「鍵屋の辻」でつね。

569人間七七四年:2009/01/22(木) 00:20:27 ID:pa4kW9yv
まとめスレのアクセスが伸びているらしいな。いいことだ
570人間七七四年:2009/01/22(木) 00:53:02 ID:B9udGMTu
佐竹と言えば人間門松だな
571人間七七四年:2009/01/22(木) 00:54:39 ID:gMUqRO+Y
>>569
この間見たブログで、まとめサイトの面倒くさい三河武士の感想で、
「だから松平瞳子はあんなに面倒くさいのか。徳川系の姓だし。」
ってのがあってワラタw
572人間七七四年:2009/01/22(木) 01:57:48 ID:J61lyO7s
>>571
マリみては意外と戦国武将の名字でてくるよね
島津とか支倉とか藤堂etc.
573人間七七四年:2009/01/22(木) 01:59:16 ID:38giPFYq
漫画家なんか?
結構多いね、キャラクターに戦国武将の姓がついている漫画は
574人間七七四年:2009/01/22(木) 02:15:01 ID:dE/j3Hac
凡庸じゃなくて且つ自作の性じゃないのって探すと
自然に歴史上の有名人の性になりそう
575人間七七四年:2009/01/22(木) 02:23:58 ID:LwRJpofC
秀吉の割り粥話がないような気がしたので書いてみる。

豊臣秀吉が母の菩提を弔うために高野山を訪れた時のこと・・・
盛大に法要をいとなんだ後、秀吉は急に割粥
(米粒を臼で割り、お粥にしたもの)が食べたくなり、すぐにつくるよう
住職に命じた。

ところが、高野山にはお米がなく、おまけに米臼もない・・・
天下の太閤殿下の申し入れを断ることも出来ず、住職は困り果ててしまう。

すぐさま米を調達に向かわせる住職
それ以外に全山の小僧を集め、米粒を包丁で二つに切り
これを粥にして献上した。


秀吉は大いに喜んだが、あまりにも切り口の見事なことに気づき
「いかにしてこのような粥を作ったのか」と住職にお尋ねた。
住職が米粒を包丁で切ったことを言うと、秀吉は大いに感激し、
みなにほうびを与えた。

さらに、秀吉が「お山に臼はないのか」とお尋ねになったので、
住職は「はい、女人禁制のお山には杵(きね)はたくさんございますが、
臼(うす)は一つもございません」と答えた。

ややしばらくしてから、機転に満ちた住職の答えの意味がわかった
秀吉はは「さもあらん」と大笑し、上機嫌で高野山を下りた。


この話、秀吉が感激した話と住職に怒った話がある。

「いかにしてこのような粥を作ったのか」と住職にお尋ねた。
住職が米粒を包丁で切ったことを言うと、秀吉は急に怒り出し、
「何故、最初から無いといわんのじゃ!!」と住職に怒鳴る。

驚いた住職に秀吉はこう切り出した。

「ワシは別に贅沢がしたい訳ではない。
確かに割り粥が食べたくなり注文したが、
米が無いならば素直にそう言えばよいではないか。
人に無理強いをさせる為に天下人になった訳ではない。」


と、秀吉は住職にいうものの
時の権力者に「米がないです」とは言えないもの・・・

576人間七七四年:2009/01/22(木) 02:26:53 ID:hI/v9RF3
漫画で日本の偉人豪傑を題材にするのは良いことだと思う。
学校って日本の歴史上の人物のいい話をしないから・・・・
他の国の学校ではありえないことらしい。
577人間七七四年:2009/01/22(木) 03:09:42 ID:sby0ltEN
>>568荒木又右衛門「鍵屋の辻」って>>567の事だったんだ
地元の人なんだが全然知らずに親父から軽く聞いただけだったが池田家とかでかい所絡んでて感動した
578人間七七四年:2009/01/22(木) 10:54:29 ID:fejyzaE9
>>574
性⇒姓
いやらしい文章になってるぞ
579人間七七四年:2009/01/22(木) 12:11:58 ID:KOhGxKI2
>574名門守護赤松さん乙

>>578ということですね
580人間七七四年:2009/01/22(木) 16:27:36 ID:KIUj8GGw
>>541
なんか福の神にしか見えなくなってきたので俺もw

岩手と秋田の境にも「駒ケ岳」ってがあるんだが、駒(馬)型の残雪が
頭を岩手側、お尻を秋田県側に向けてる。

すると、肥しは秋田に落ちるから「秋田の米は美味い」と言い伝えられているそう。

なんて話をバスガイドから聞いて変に納得してきましたw
581人間七七四年:2009/01/22(木) 17:19:33 ID:09ho1nKP
国立博物館内の因州池田家の門というのは、この御家中の御門でござるか?
582人間七七四年:2009/01/22(木) 17:31:33 ID:6HFOar/J
>>566
豪華さでは細川家が最強、御三家は敵ではない。
こんなメンバーは仮想戦記でも揃わないぞwww

有名武将の末裔の家臣団は、
荒木村重、足利義輝、斯波義銀、織田信包、吉良親貞、武田義信、
大友宗麟、後藤基次、最上義守、氏家卜全、明智秀満、北畠具教、
夏束正家、田中吉政、山中鹿之介、堀尾吉晴、中村一氏 etc

ttp://www.shinshindoh.com/00-x-busyou.htm

583人間七七四年:2009/01/22(木) 17:35:53 ID:gMUqRO+Y
>>582
何このプチ室町幕府
584人間七七四年:2009/01/22(木) 18:08:20 ID:KOhGxKI2
>>583
三管領に四職、鎌倉御家人の末裔バリバリだねぇ
585人間七七四年:2009/01/22(木) 18:40:33 ID:QcFtgE54
>>582
茶器だけじゃなくて武将もコレクトするのかw
586人間七七四年:2009/01/22(木) 19:02:31 ID:gSfGeX6c
>>581
北条得宗家もいるのか…
大友や加藤の遺臣も多いのね。
587人間七七四年:2009/01/22(木) 19:16:58 ID:KOhGxKI2
>585
単なる名門収集マニアや奇人変人フェチじゃなくて、中には“鈍き生まれつき”の有吉四郎右衛門(立行?)とかも居るんだよな。
そっちはショタ忠興のわがままに付き合って酸素欠乏症に掛かった?挙げ句にNT覚醒しますた 
※まとめスレ、DQN四天王の家臣シリーズに出てたネタ
588人間七七四年:2009/01/22(木) 21:25:03 ID:oWMdEV6t
そういや後藤又兵衛が出奔&奉公構(893の回状)の時も拾おうとしてたな
長政相手に「やんのか?ゴルァ」で。
589人間七七四年:2009/01/22(木) 21:40:29 ID:hPlG/PV1
>>588
あれは後藤又兵衛の出奔の原因が忠興にもありそうな感じだから責任取る意味も…?
嫌いな奴の重臣が自分を頼って逃げて来たから男気見せてついでにイヤガラセ
みたいな感じだろうか…
そういや後藤又兵衛って一族郎党連れて出奔してるみたいだけど
それってもしかして(暫定)敵国細川領との境目の城もぬけのからじゃねーの?
気づいた福岡の人間は真っ青だろうなw
590人間七七四年:2009/01/22(木) 21:43:37 ID:pRhGKd96
忠興が又兵衛を迎える時、黒田家の送り狼を予想し国境まで鉄砲隊を派遣した。

徳川家を巻き込んでの大喧嘩になった。
591人間七七四年:2009/01/22(木) 22:36:53 ID:RwjylRZH
>>582
久武と吉良が揃ってるのも仮想戦記くさいよなw

足利今川武田大友阿蘇斯波土岐一色www
592人間七七四年:2009/01/22(木) 22:55:05 ID:gMUqRO+Y
>>591
> 足利今川武田大友阿蘇斯波土岐一色

このうち今川と斯波と一色は足利の支族だというw
593人間七七四年:2009/01/22(木) 23:01:30 ID:bPKCF5zh
多分、家来の氏一覧を作って、にやにやしてたんだろうな。
次は日野一族どっかにいねーかな とか。
594人間七七四年:2009/01/22(木) 23:35:09 ID:8JaGivd/
九州で足利今川大友阿蘇斯波一色と揃えたら少弐と菊池も欲しいなw
595人間七七四年:2009/01/22(木) 23:50:05 ID:bPKCF5zh
惟宗とかも
596人間七七四年:2009/01/23(金) 00:14:56 ID:rfpuU4lC
まとめサイトが1位になってる
http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html
597人間七七四年:2009/01/23(金) 00:43:00 ID:reFuYj8q
>>575
>時の権力者に「米がないです」とは言えないもの・・・
もはやそういう気配りも出来ないタダのキチガイジジイです

高野山の坊主共も、そこで米じゃなくサルに包丁振るって
殺してやったら良かったのにね
598人間七七四年:2009/01/23(金) 00:49:26 ID:CQq4MtH3
>>575
無知でごめん、
米がない、というのは普通に貧しくて米がなかったのかな。
それとも高野山の僧は米を食べないしきたりとか?
599人間七七四年:2009/01/23(金) 00:51:42 ID:bHz51Zqi
米がない=民は貧しい=為政者は何やってんだ=秀吉無能
つまり体制批判になるってことだろ、それも本人に向かって言えない罠
600人間七七四年:2009/01/23(金) 00:53:47 ID:rfpuU4lC
>>598
実際には高野山はあの辺一帯の領主でもあるから、米が無い訳がないんだけど、
まあ、秀吉の逸話にはこの手のがやたら多いんだけど、ある種の御伽噺と言うか、
そう言う風に捉えたほうがいいよ。
601人間七七四年:2009/01/23(金) 01:24:50 ID:CQq4MtH3
>>599-600
サンクス。
この逸話内では>>599の意味合い、現実としては>>600なんだろうな。
なんかあさってのこと考えてたわwありがとう。
602人間七七四年:2009/01/23(金) 02:20:53 ID:Ipw2FxlP
真田信幸が、名を『信之』と改めたばかりのころ。

ある日、信之は何人かの家臣とともに、船で川を下っていた。向こう岸の山肌に、
杉が青々と茂っているのが見えた。

信之は従う者のうち、まだ年若い者に質問した。
「お前たちの中で、杉の葉を食べたことがある者は、おるか?」

もちろん、誰もそんな物を食べた経験などなかった。
「 ・・・それは、今が泰平であるおかげだ。」 信之は、ポツリと語った。

「オレは、ある。 その昔、勝頼公が滅んだ際、人質だったオレは、甲斐から沼田へ脱出した。
織田軍の追っ手におびえ、道を急いだオレたちは食料の調達もままならなかった。
ひもじさの余り、杉の葉を取ったのさ。 ・・・ハハっ、とても食えたものじゃなかったがね。

その後も、ヒエ粥を食ったりして何とかしのいだよ。 これがまた、マズい代物でなあ・・・
・・・なに、今だって苦いものをかみ締めているようなもんだから、変わらんよ。
だが、そうやって苦難を乗り越えてきたおかげで、お前たちを食わせる事が出来るのさ。

いいか、侍には杉の葉を食い、ヒエ粥をすすり、苦いものを呑んででも、生きねばならん時が
あるのだ。 良く覚えておけ。」
603人間七七四年:2009/01/23(金) 02:37:13 ID:EUCMV51t
>>562
磯山さやかとか白石美帆とかタヌキ顔美人がいるじゃないか 茨城
604人間七七四年:2009/01/23(金) 02:42:31 ID:DhapVyJ0
>>602
ホント苦労人だなこの人は…

九度山で貧乏なのに小作りに励む弟に行って聞かせて来い。
605人間七七四年:2009/01/23(金) 02:44:35 ID:fMIogjKR
>>602
その時にもう少し美味い物を食べていたら
長生きできたかもしれなかったんだろうな・・・
606人間七七四年:2009/01/23(金) 02:46:37 ID:Bjn4t0le
惜しい人を・・・
607人間七七四年:2009/01/23(金) 02:54:05 ID:7adreVK2
お前らは信之が何歳まで生きたら納得すんだよw
608人間七七四年:2009/01/23(金) 02:57:30 ID:EqcbRYAw
信之さんは本来なら130才生きられたはず(;ω;)
609人間七七四年:2009/01/23(金) 02:58:58 ID:eCUjJzuP
この流れよく見る気がするなw

まだ若いのに九度山配流され、親父と自分は監視付きで町にも出られない
慰めといえば山に入って釣りでもするか側にいる奥さんといちゃつくか・・・
そんな生活だもの。子作りに励んでしまうのも諾なるかな

・・・と、たまには信繁の弁護してみる。弁護になってない気もするが気にするな
610人間七七四年:2009/01/23(金) 03:04:05 ID:P78ZaEcR
この秀吉がらみの話でまだ書かれていなかったのでこちらを・・・

「信長の手紙・おね(又はねね)宛」
※おねはご存知、豊臣秀吉の正妻”北政所”


秀吉がまだ長浜城主だった頃のお話

安土城内

信長「・・・暇だな」

一人暇を持て余す信長のもとに来客が・・・
秀吉の正妻・おねが土産を持って長浜から訪ねてきたのだ。

おね「信長さまーーーーo(;△;)o 」
信長「ん、おねではないか!どうした涙など流して」

いつも笑顔を絶やさないおね。
しかし今日は様子が違う
611人間七七四年:2009/01/23(金) 03:05:04 ID:P78ZaEcR
610続き

信長「おね、如何したのじゃ?」
おね「聞いて下さいよ、信長様!うちの人また側室を迎えたいなんて
言い出すんですよ!o(;△;)o 」

信長「何?秀吉の奴、この前側室を新たに迎えたばかりではないか・・・」
おね「私に子供が出来ないのをいい事に・・・(ρ_;)」

※事実として長浜城主になって以降、秀吉の女遊びには拍車がかかったと
言われています。

おね「もう!!あの人にはほとほと愛想がつきました!!(`Д´) 」
おね「大体、私と結婚するときには『そなたを嫁に出来たワシは三国一の
幸せものじゃ!』なんて言っていたのに!あの人ときたら!!」

時間を追うに連れ、夫秀吉に対してヒートアップするおね
信長はただただ頷くのみであった・・・

しばらくして、落ち着きを取り戻したおね。
主君の信長に夫・秀吉の愚痴を洩らした事を詫び始めた。

おね「も、申し訳ありません!!信長さまともあろうお方に主人の愚痴を・・・」
信長「構わんよ。ワシも退屈しのぎになった」
612人間七七四年:2009/01/23(金) 03:07:00 ID:P78ZaEcR
610続き

この当時、おねが行った行動を今の時代に当てはめてみると・・・

夫が務めている会社の社長に夫の愚痴を言いに行く妻
という現代社会ではありえないような行為に該当します。

〜数日後〜

おねのもとに信長からこの前の土産に対するお礼の手紙が届きました。

おね「この前は勢いとはいえ
信長さまに主人の愚痴を言うなんて・・・(´〜`;)」

恐る恐る手紙に目を通すおね。
そこにはこう書かれていた。

「先日はたくさんの土産をありがとうございました。
 お礼の品を持たせようと思いましたが、貴女様のお土産があまりにも
 素晴らしいものばかりだったので、今回はやめておきますね。 
 しかし、貴女はしばらく見ない間に、一段と美しくなりましたね。
 以前、藤吉郎(秀吉)が、貴女様への不満を言っておりましたが
 言語道断だ。
 貴女様ほどの妻を見つけるのは、あのはげねずみ(秀吉)には
 二度と出来ますまい。
 不満もあるでしょうが、正妻らしく堂々とかまえ、
 やきもちを焼いてはいけませんよ。
 正妻であるから、言うべきことは言う方がよいでしょうが
 ほどほどにしてやりなさい。
 なお、この手紙は藤吉郎に見せて上げて下さい。
 それでは・・・

 藤きちらう(秀吉のこと)
  をんなとも(おねのこと)  のふ(信長のこと)」

おね「の、信長さま!!o(;△;)o」

織田信長は冷酷で残虐な人間と言われますが、自分に従う家臣や領民には
寛大な心で接していたようです。

織田信長も人間だったってことですかね。
613人間七七四年:2009/01/23(金) 03:15:14 ID:hdZiBtPX
>>609
範囲指定だが屋敷外への出入りが自由なだけでも通常の‘蟄居謹慎’より監視は緩かった>九度山
まあ、大阪の役で豊臣に付いた息子に連座して切腹した増田長盛をみても真田家に対する寛大さは異常
上田からの転封以前は豊臣政権成立以前からの領土を維持して居座る数少ない大名だし(その他は減封された島津、毛利、伊達くらい)
614人間七七四年:2009/01/23(金) 03:21:42 ID:fMIogjKR
>>612
確か秀吉には
「股間を焼打ちされたいのかコラ」
って言うメールを送ったんだよね?
615人間七七四年:2009/01/23(金) 03:25:27 ID:IiuA8hQQ
このエピソードは信長の職務以外の場での一面とともに、
秀吉夫婦の規格外振りが際立ってるw
覇王も内心この夫婦には苦笑いだったのでは
616人間七七四年:2009/01/23(金) 03:26:19 ID:aP3JCsdr
普通の謹慎は窓も扉も開けちゃダメ真っ暗な中髭もそっちゃダメ
月代も綺麗にしちゃダメの自主牢屋暮らしみたいなのなんだっけ?
617人間七七四年:2009/01/23(金) 03:42:23 ID:eCUjJzuP
ん・・・いや、緩かろうが何だろうが押し込められていることに変わりは無いと思うんだけどな。てか何にツッコミ入れられてるのかイマイチわからん
そういや配流先で子を作るって行為自体はそれほど珍しい事でもないのでないかと思うんだが、どうなんだろ?
ついでに真田父子って「配流」?「蟄居」?

>>616
それって江戸中期の「公事方御定書」の後の話じゃなかったか?
618人間七七四年:2009/01/23(金) 04:01:14 ID:1bgd7ExV
信長は利益さえ絡まなければ以外とまとも
DQN四天王にも劣る
619人間七七四年:2009/01/23(金) 04:07:30 ID:XGUj6OXB
みんな信繁の子づくりが貧乏の元みたいにいうがな、昌幸が大名暮らしをすてられず
どーしても無駄遣いしてしまうから信繁が困ってた、ってな話もあるんだとフォローしておく。
昌幸が死んだ後、たくさんいた使用人もリストラしまくったとかなんとか。

まぁ一番苦労してたのは信之に違いないが。
620人間七七四年:2009/01/23(金) 04:10:32 ID:CNoa7a3s
>>614
殿いつ乙
621人間七七四年:2009/01/23(金) 04:11:45 ID:rfpuU4lC
信長はむしろ、下世話って言っていいくらいの人間だよねw

あと信長に「革命児」みたいな呼び方をして、旧来の権威や秩序を破壊しまくったような
変なイメージがあるけど、
実は信長って若い頃から、それはもう細心なくらいに、「合法性」ってのを大切にしているんだよね。
信長が旧来の法や慣習を逸脱したことは一度もない。
恣意的な行為をする時でも、合法性の衣をまとうことを絶対に忘れない。

破壊的ではなく旧守的で、逆説的だけどだからこそ天下盗り寸前まで行った、って言ってもいいと思う。
622人間七七四年:2009/01/23(金) 04:22:10 ID:hdZiBtPX
>>617
当初の配流先が高野山だった事からも単なる流罪ではなく謹慎の意味合いが強い事が伺われる
まずこの高野山配流自体が信繁の妻子随行によって九度山に変更
元から一族流罪ならば女人禁制の高野山ではなく遠島になる
信繁の妻子を巡って徳川方が処罰内容を二転三転している事が伺い知れると思う
また、九度山には16人の家臣が徳川方の許可を得て付き従っている
昌幸、信繁を単なる罪人としてではなく武将として徳川方が一応の礼節を示している証
さらに九度山での昌幸、信繁の住居は‘真田屋敷’と呼ばれた独立した新設の建物であり既存の寺社で暮らしてはいない
‘真田屋敷’の建築費用は丸々信之持ちだったらしいが…
泳いで参った人と比べても優遇されてると感じるんだがなぁ
623人間七七四年:2009/01/23(金) 05:02:45 ID:IiuA8hQQ
>>621
たしかに信長は自領の法制度には厳格でチンピラ行為を凄く嫌うタイプ。
通りを歩く女を下品にからかった者をその場で斬り捨てたりしてる。
ただ、罰を適用するさいにまったく情を挟まないような・・・・
フロイスには、信長の前だと家臣たちはとても緊張して恐怖を感じていると書かれ、
秀吉には、信長様は一度敵となった者を許すことがなかったと見られている。
松永久秀、荒木村重そして明智光秀らは、
信長の性格をわかっているから反逆する覚悟が半端なく、
凄く士気の高い敵になっちゃってるところがあるんだよね。
対一向宗の場合にも同じことが言える。
厳格なところが長所であり短所になってる。
624人間七七四年:2009/01/23(金) 05:16:54 ID:y0SSCstm
チンピラ行為を嫌うとかはともかく、法を厳格にしてるのはそうだと思う。
からかった者を斬ったのは烏帽子取り合い事件で禁止令出した後だからねぇ。
でも、選銭令はどんなに頑張っても守られなかっただろうなぁ。
625人間七七四年:2009/01/23(金) 07:02:44 ID:bkLtTCgG
特に「うつけ」のイメージと敵への残酷さ、みたいなのがかなり一人歩きしてるような節はあるな
626人間七七四年:2009/01/23(金) 07:18:03 ID:CNoa7a3s
上に立つ者はそれだけの覚悟が無いといけないってことかな
627人間七七四年:2009/01/23(金) 08:51:15 ID:Zd00aMEK
じゃあなんで鬼武蔵には甘いんだよ
628人間七七四年:2009/01/23(金) 08:57:45 ID:Twx4R3ch
>>623
信長は敵どころか裏切り者すらちょくちょく許してるぞ
秀吉の信長評は、前政権のトップに対するものだって点は考慮すべき
629人間七七四年:2009/01/23(金) 09:02:19 ID:T5FbHfDS
件の久秀・村重は裏切りが確定した後でも交渉してるくらいだからな。
まあ理解されにくい性格ではあったんだろうね。
630人間七七四年:2009/01/23(金) 09:07:04 ID:Wg0qpWsk
>>628
松永弾正とか、本当は可愛くて仕方なかったんだろうね
あの二人が地球儀や彗星をみたら面白い問答をしそう…


荒木村重のときも信長自身は相当驚いて「なんかの間違いじゃね?」とかって言ったというし。
631人間七七四年:2009/01/23(金) 09:21:36 ID:hjo5obQ4
兄弟の裏切りも許してるし、柴田も許してるな
632人間七七四年:2009/01/23(金) 09:40:05 ID:Bi0VUvLa
村重に関してはあの待遇で何不満なんだよ、と思うのはよく分かる
633人間七七四年:2009/01/23(金) 10:15:52 ID:/BNtvTct
厳格・寛容が両極端すぎる
こんな奴を主君にしたらどう付き合えばよいのか解らん
634人間七七四年:2009/01/23(金) 10:34:42 ID:9E39E4sv
基本は寛大で、歳を食うごとに短気になっていったイメージ。
家康の逆パターンみたいな。
635人間七七四年:2009/01/23(金) 10:37:15 ID:Wg0qpWsk
>>632
村重自身は身内の不始末に引きずられて?かなりテンパって事に及んだたみたいだし、
そこに弁舌爽やかで知謀抜群の黒田官兵衛が説得に乗り込んで来たりしたら却って逆効果なんじゃ。
『うわっ、チャべぇー!あの官兵衛が俺を帰順させようと必死だよ。…これって、どんな好条件で許されても後で粛清されんじゃね?』という疑心暗鬼に陥ったかもよ。

信長は信長で、官兵衛が拉致監禁されたのを『うわっ、やべー!クロカンが戻ってこねぇー……村重の謀反に同心しちゃったりなんちゃったりして!?』とハラハラドキドキのチキンレース状態に

黒田官兵衛は村重のこと心配してマジ必死だったらしいから、まさに悲劇


……裁定。
荒木一族老若男女37564
636人間七七四年:2009/01/23(金) 10:52:23 ID:Wg0qpWsk
>>610
織田信長って、身内や配下には案外優しいし家族まで気配りもしてんだよな。

家督を継いで間もない頃、尾張稲生合戦の後始末で弟の勘十郎信勝を手ずから殺したんだが。重臣筆頭格の柴田勝家は許してるし…


あとは秋山信友と遠山未亡人のおばさんがケコーンして岩村城が武田方に下った時にブチ切れたくらいかね……まあ(武田信玄が同盟を破棄して攻めてきた)時期が最悪だったからなぁ。
637人間七七四年:2009/01/23(金) 12:04:45 ID:DBxB73KX
能力がある人材には寛容だったが…非才には容赦が無かったと解釈していいのかな?
638人間七七四年:2009/01/23(金) 12:23:19 ID:X8e2AyHD
と言うよりやる気のない奴に厳しい
だから殺る気のあり過ぎる鬼武蔵にはだだあま
639人間七七四年:2009/01/23(金) 12:26:55 ID:Bi0VUvLa
分相応で骨惜しみしないで働いてる奴は正当に評価するタイプじゃないの。

怠惰な奴には鬼のように厳しいけど
640人間七七四年:2009/01/23(金) 12:54:00 ID:y0SSCstm
あくまで、こういうのは主観だからねぇ。
林秀貞が無能、怠惰とは思えないし。
活躍以上に利権を主張した云々も
たいした根拠があるわけじゃなかったと思うし。
信長=能力主義って考えは、
追放された配下=無能、怠惰となるのが好きじゃない。

ってスレ違いだなこりゃ。
641人間七七四年:2009/01/23(金) 13:12:00 ID:Wg0qpWsk
>638なんか、いい悪いスレの鬼武蔵シリーズ見ていて漠然と感じたこと。

それこそ“厳格な法運用を企図”していたっつー信長が「鬼武蔵だから仕方がない」って理不尽全開のオチをつけるところ、
これって同時代の人間にとってもシュールでブラックな一種の笑い話だったんかなあ。
642人間七七四年:2009/01/23(金) 13:45:30 ID:0gMSYsao
団右衛門の意地

加藤嘉明に仕官した塙団右衛門は足軽大将に取り立てられたが、軽率な采配のせいで、
「貴様は勇気ばかりで戦場の駆け引きを全く知らぬ。貴様を取り立てたのは誤りだった
わ!」と嘉明に罵倒された。
団右衛門は嘉明の罵倒に恨みを抱き、加藤家を退転した。
そして、嘉明の妨害によって乞食にまで身を落とした団右衛門であったが、豊臣秀頼の
招きに応じ大坂城に入城した。

冬の陣において団右衛門は、大将として床几に腰かけ采配を振って夜襲をかけるなど活躍
し、道々には「夜討ちの大将塙団右衛門」と書かれた木札を多数ばらまき、団右衛門の勇名
は一躍東軍にも轟いた。

冬の陣の後、豊臣・徳川間で和睦が成立し、団右衛門は持ち場であった今福に「塙団右衛門」
と大書した長さ2尺の木札を立てさせた。
怪しんだ家来が理由を聞くと、
「嘉明のくそ野郎は、このワシを討ち取ると意気込んでいるそうじゃ。だから、ワシの居所を
こうやって教えてやるのよ。」と平然とうそぶいた。

そして、団右衛門の木札を見てその健在ぶりを知った東軍の旧友が、続々と団右衛門を訪ねて
きたが、なぜか格別仲のよかった林だけは訪ねてこない。
団右衛門は人づてに林に遊びにくるように言ったが、林はこう言ってきっぱり断った。
「オレと貴様はいかに出世しようとも、戦になれば槍をとって先頭で戦う、それが本当の武士の
姿だ、と誓ったな。
しかし、貴様は冬の陣の夜討ちの際には床几にふんぞり返って采配をチャラチャラと振っていただけ
というではないか。誓いを破った団右衛門のツラなど見たくもないわ!!」

それを聞いた団右衛門は笑いながらこう言った。
「林の言う通りじゃ。しかし、かつてワシは嘉明に『大将の器量がない』とコケにされた。だから、
一度は采配を振って兵を自在に操れることを嘉明めに見せつけたかったのじゃ。
その念願は冬の陣で果たしたので、次の合戦には槍刀の折れるまで存分に働いてみせようぞ!!」

果たして、大坂夏の陣での樫井の合戦では大野主馬に采配を預け、団右衛門は自ら十文字の槍を振って
先陣に立ち、壮絶な戦死を遂げたという。
643人間七七四年:2009/01/23(金) 14:14:19 ID:Wa0fjEss
>>642
何つーか人の評価に左右されちゃってるようにも見える。
気のいい奴なんだなとは思うが。
644人間七七四年:2009/01/23(金) 15:23:09 ID:iG+4CemP
>>636
おつやの方のやらかしは時期とか関係ないと思う。
養子に出したくないけどお願いされて嫌々息子を養子に出したのに、
あっさりと武田に渡して自分は敵武将と結婚なんてされて切れない奴はそうそういないとおもうよ…
645人間七七四年:2009/01/23(金) 15:37:27 ID:srlJWbUo
昔々大愚と愚堂という僧がいた
ある日二人のところに男が訪ねて来た
男は位の高い人物で仏道を学びたいと訪ねて来たのである
そこで愚堂は
「あなたほどの官位の高い人物なら容易に禅を知ることが出来るでしょう」と言った
ところが同席していた大愚がそれを聞き
「(゚Д゚)ハァ?官位は高いかも知れんがこいつは禅について無知無学な馬鹿者だぞ?」と愚堂に言い返した
これが発端になって大愚と愚堂は言い争いになったが訪ねて来た男が仲裁に入り
「あなた方の言い分は良く判りました。私は大愚様を師にしようと思います」
と言い男はその後大愚に教えを請うようになった
646人間七七四年:2009/01/23(金) 18:39:11 ID:rfpuU4lC
信玄流、寺社の取り扱い方

武田信玄が上野を占領したとき、上杉憲政の子息を祭る寺にお布施をし、
盛大に弔わせた。
これは、憲政の子息を誅殺した北条との立場の違いを明確にし、山内上杉家の
旧臣たちは、信玄を慕うようになった。

そして信州を占領したときは、西条山に村上氏代々を祭った神社があったが、
信玄はこの神社を焼き払い、寺領、社領の一切を取り上げた。
これによりこの土地は村上氏とのつながりを絶たれ、一帯の武士は信玄に
反抗することがなくなった。

信玄のこう言う面を、上杉謙信は大いに批判したらしいが、
神仏もあくまで自分の利害のため利用する、合理主義者信玄らしいお話。
647人間七七四年:2009/01/23(金) 18:49:38 ID:f3WW+SFw
信長は「無法の賞」を実践してたんだろう、と思うが
余りにも恣意的というか感情的な部分があるわな。
648人間七七四年:2009/01/23(金) 19:06:10 ID:PJhGpGjk
諏訪氏の取り込みも寺社政策の一つかな。
649人間七七四年:2009/01/23(金) 19:28:46 ID:xKr4ZGmp
>>642
団右衛門が落魄して「雲水をしていた頃の話

団右衛門は臨済宗妙心寺の僧である大竜和尚に弟子入りして修行していた。
大竜和尚は団右衛門に「鉄牛」の名を与え、ある日葬儀に遅刻してきた団右衛門を叱った。

団右衛門が「貴方は天を翔ける大竜、そして私は鉄牛(だから遅いのですよ)」と言う意の漢詩を
スラスラと読み上げると、大竜和尚は「上手いこという奴だ。」と褒めて許したという。

ちなみに、加藤家を退転した団右衛門は、屋敷の門に
「オレみたいな鴻が、加藤家みたいなちっぽけな巣に棲める訳ねえじゃんwwwって意味の漢詩を書き
付けたって逸話もある。

結構インテリ?
650人間七七四年:2009/01/23(金) 19:47:10 ID:DhapVyJ0
頓知のきいた漢詩だな。

教養が無いとこれは書けないだろう。
651人間七七四年:2009/01/23(金) 19:58:00 ID:tUqSTxrj
>>645
細かいこと言うようだけど大愚宗築と愚堂東寔が諮問を受けたのは
福井藩の松平光通(結城秀康の孫)から

つまりその話ぜんぜん戦国時代の話じゃないぞ
652人間七七四年:2009/01/23(金) 20:03:02 ID:srlJWbUo
うげ、マジか
戦国時代の逸話って聞いてたんだが
653傾!!武辺塾  第壱話:2009/01/23(金) 22:51:41 ID:Ipw2FxlP
永禄2年(1559)、豊前門司城攻めの時のこと。城の救援に駆けつけた大友の大軍を前に、
毛利軍はやむを得ず船で一時退却した。

それを見た大友の勇将・滝田民部が、波打ち際まで馬を寄せて一騎打ちを望んだ。
毛利軍の中でも何人かが、これを受けるべく外した武装をつけ直し始めたが、

「ここは、この俺に任せてもらおうか。」 「な、なにぃー!乃美宗勝!!」

児玉就方「大丈夫なのか、アイツだって武装を外してるじゃないか・・・」

隆景「フッ、ヤツなら心配ない。 厳島の戦いの際、来島通康を説得した話ばかり有名だが、
   自分の武器が折れても、落ちている武具・馬具を拾って手柄を立てるような男だ。」

武装もせず、ただひとり船を岸に戻した宗勝は、その辺に転がっていた雑兵の槍を拾った。
その槍で滝田を一突きに突き伏せると、さっさとまた船に乗り、船団に引き上げた。

この武功により、元就から
「 豊前国門司城下に於て其方壱人(略)高名、元就直に見及び心地よし 」と感状が出ている。
(武辺咄聞書より)

この男、永禄4年(1561)に再び門司攻略に参加し、大友軍の先鋒の将・伊美弾正と
またまた一騎打ちを行い、手傷を負いつつも伊美を討ち取り、門司城を奪取している。
654傾!!武辺塾  第弐話:2009/01/23(金) 22:52:43 ID:Ipw2FxlP
慶長3年(1598)11月、唐入りの諸将は太閤秀吉の死去に伴い、撤退を開始したが、
順天城に閉じ込められた小西行長を救うべく、島津義弘を中心とした救出隊が組まれた。

包囲軍が救出隊の迎撃に回ったため順天城の封鎖はゆるみ、行長は脱出に成功したが、
救出隊は帰路に露梁津で、李舜臣率いる大規模な水軍と交戦する事態に陥った。

必死に防戦するも、朝鮮随一の海将の前に、続々と味方の船が座礁する、不利な戦況。
そんな時、折悪しくも義弘の船は潮に流されて、敵の船へと近づいて行った。

もはや敵船は乗員の顔が分かるほど近づき、甲板にはこちらを確実に拿捕すべく、
引っ掛けるための鎖鎌を振り回している者までいる。

樺山久高「くそぉー!『鬼石曼子』とまで恐れられたワシらが、海の藻屑と消えるんかー!」
「要は、敵を近づけなければ良いだけのこと。 ここは私の出番ですね。」
久高「お、お前はーっ!種子島久時!!」

義弘「鉄砲伝来の家ってのは、名前だけじゃねえ・・・味方ながら、恐ろしい男だぜ。」

久時は愛用の鉄砲を構えると、船の揺れにもかまわず、敵船に向けて次々に撃ち放った。
弾はことごとく鎖鎌を振り回していた者のみに当たり、ひるんだ敵船は離れて行った。

島津軍の帰国後、太閤検地で薩摩・知覧へ所替えを命じられていた久時は、功績により
先祖伝来の地・種子島を取り戻すことができた。
(征韓録より)
655傾!!武辺塾  第参話:2009/01/23(金) 22:54:34 ID:Ipw2FxlP
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は、越前・北ノ庄に退却して行った。

勝家は途中の山に殿を残し、秀吉軍の追撃を阻んだ。 これを見た秀吉は人を選び、
騎馬隊を編成して攻めさせたが、上から鉄砲を撃たれて、隊長が戦死するありさまだった。

山登りに成功しても、伏兵が待ち構えているかもしれない。 かと言って、目の前の敵を
放置するのは武門の恥だし、迂回して時間を無駄にすれば、勝家が再起するかもしれない。

蜂須賀正勝「どうやら、俺が出ねばならんようだな。」
虎之助 「こ、小六さん!!」 市松 「こ、こりゃあオレたちの出番はなさそうだな・・・」

秀吉の前に出た正勝は、
「伏兵が大勢なら、すぐ戻ります。少数なら、馬を輪にして走らせる。それを合図に、
全軍で登って来て下されや。」 と言い残し、騎馬隊を組んで、柴田軍のいる山に向かった。

正勝は敵の射程ギリギリまで近寄って留まり、敵の射撃がいったん収まるのを見計らって
射程内に一度だけ踏み込むと、すぐ後退した。

これを見た柴田軍は、正勝が逃げたと思いこみ、斉射を止めて全軍で追撃を開始した。
敵の実数を見切った正勝も後退を止め、騎馬隊を車懸りにして、敵を向かえ討った。

正勝の馬が輪乗りになったのを見た秀吉軍は、一斉に敵に向かって殺到した。
一気に距離を詰められた敵は、鉄砲の用意が間に合わず全滅し、秀吉は安心して
勝家の追撃を続行できた。
(太平不忘記より)

眠いし、ネタも切れたのでこれにて失礼。スレ汚し御免なれ・・・
656人間七七四年:2009/01/23(金) 22:55:29 ID:3G6F0sDF
>642
嘉明さんの言い分もわかるんだけどね。豪傑でも無双でもない兵卒の身分だと、
部隊長が勇猛果敢すぎて敵中に突出したり、激戦区で血戦続きだったりすると・・


塙団右衛門や渡辺官兵衛(了)の逸話みてると、手柄は立てたけど命令違反で
勝手に持ち場から動いてました、なんて話がちょろちょろある。
戦機を逃さず仕掛ける嗅覚はさすがだとおもうけども、嘉明とか御大将にしてみれば
自軍の備に予期せぬ隙が生じたりして苦労するんだろな。
657人間七七四年:2009/01/23(金) 22:58:29 ID:3G6F0sDF
>653-655

関ヶ原の“島津の退き口”はさしずめ、直進行軍あたりか。
・・・最強893のおっちゃんがひこにゃん(
658人間七七四年:2009/01/23(金) 23:39:26 ID:zTcfLiHK
最上の粘り(前)

慶長五年、上杉討伐のため奥羽東軍連合は山形に終結。
しかし石田三成挙兵を受けた急遽家康は反転し、上杉討伐は中止に。
焦った諸侯は最上勢だけを残し、そそくさと自領へひきあげていった。
それを見た最上家臣は激怒! 
<#`Д´> 「おのれ奴ら、誓詞血判を反故にしやがって! 
もう絶望した、ゆるせん、追撃して呼び戻すッス!」
いきりたつ彼らに最上義光は言った。
(´・ω・`)「こんな時に逃げる奴らなんてどうせ頼りにならないじゃない?
それに追撃した背中を上杉に襲われたらどーするよ? ヤバイじゃん。
それに無理強いしたら敵に寝返る奴も出るよ。そしたら家康公に
面目たたないでしょ。三成が挙兵したら、そりゃみんな焦るのも
しょうがないよね。そもそもオレは命がけで戦うつもりだったし、
助っ人を頼りにしていたわけじゃないよ。ただ二心なく、約束をまもって、
命あるかぎりベストを尽くして、この身ひとつに敵を引き受ければ、
どんな強敵にだって簡単には負けないと思うんだ!」
こう言われて家臣はもっともだと赤面し、義光に従った。

ちなみに南部勢が猛スピードでもどったのは、最上の甥っこが
一揆をあおったからである…。
659人間七七四年:2009/01/23(金) 23:40:26 ID:zTcfLiHK
最上の粘り(後)

さて、引き戻す諸侯は金山の番所で足止めをくらう。
そこには丹野与惣衛門という隠居した老人が守っていた。
(´∀`)「おやおやみなさん、せっかく加勢にいらしたのに、
敵の旗も見ないでお帰りですか。もしかして上杉についたんですか?
おかしいなー、義光公に確かめないと通せませんよ。ちょっと待ってください」
と、彼は言うと門を閉めてしまった…。
イライラした諸侯がそっと様子をうかがうと、鉄砲数百挺がズラリと並べられ、
背後の山には紅白の旗がなびき、木陰には数百人がひそんでいる。
無理矢理突破しようとすれば、逆落としに襲ってきそうである!
皆ポカーンとしていたが「ジジイ一人がなんだ! 突破しちまえ」
と言い出した。だがそれを「そんなことしたら上杉に寝返ったと
思われるだろ常考…」とストップ。皆苛立ちながら待っていた。
と、義光につかわせた使者が戻ってきた。与惣衛門は
「いやいや、通していいとのことです。失礼しました」と木戸を開けた。
通り過ぎながら諸侯が見ると、鉄砲と見えた中には火縄をくくりつけただけの
棒きれがたくさんある。旗に見えたのは布を木々にくくりつけたもの、
大勢が木陰にひそんでいるように見えたのは、女子供たちが鉢巻きを
まいたものだった。与惣衛門パネェ!と退却するものたちは感心したという。

慶長出羽合戦では、東根城は正規の軍ではなく民間人が直江勢を撃退した。
また、他の戦場でも義勇兵が奮闘したとも。この合戦で最上が粘った背後には、
こんな無名の人々の活躍もあったのである。
660人間七七四年:2009/01/23(金) 23:50:11 ID:rfpuU4lC
そんな家康と義光の親密さをあらわす手紙

家康が、最上義光も朝鮮への出兵から漏れたと言う事を聞き

「不思議な事に出羽(義光)も自分も、今回は命を見つけましたね。
やがてやがて、国に戻れば、また鷹狩りなどを楽しめますね。
夢か現かと、喜んでいます。」

原文
『ふしぎに出羽も我等も、此度の命をみつけ候、やがてやがて国にくだり、
鷹をつかひ候はん事、ゆめかうつつかとよろこび候』

秀吉の方針に反することを堂々と書いているわけで、よほど信用している人間にじゃないと、
こういう手紙は出せませんな。
661人間七七四年:2009/01/23(金) 23:53:06 ID:y8AHyGnC
花の慶次読んでみると敵側にも関わらず、作者は鮭様の描写にもある程度気を使ってるように見えるんだよな
その辺のいきさつを知ってたから配慮してんだろうか
戦争前なのに鮭様の眉間に何故か傷痕があったけどw
662人間七七四年:2009/01/24(土) 00:16:29 ID:cURY9O9K
>>646で信玄の神仏に対する姿勢の話が出てたので

幼き政宗が不動明王を見て「梵天丸もかくありたい」と言った後の話
(本当に言ったのかどうかは知らないが)

信玄は自分の姿を模して不動明王像をよく彫らせたという話を虎哉より聞き、
政宗は一言「信玄は賢い」と評したという

曰く、
「これを信玄の像であると言えば、後世身分卑しきものに辱められるかも知れぬ。
 しかし不動明王だと言えば、めったに神仏を辱めようとするものもいまい。」

なんともヒネた考え方をするガキである
虎哉の教え方どうこうではなく、生まれたときからひねくれ者だったのかもしれない
663人間七七四年:2009/01/24(土) 00:26:05 ID:1nYOX3GG
>>653-655
最後は富樫・虎丸が戦うものと思って、楽しみにしてたのにw
664人間七七四年:2009/01/24(土) 00:28:39 ID:X8uQ6Dr1
>>658
政宗「その甥っ子って奴は最低だな、俺なら喜んで援軍を出すぜ」
665人間七七四年:2009/01/24(土) 00:34:14 ID:gxHI5CQ0
本庄繁長「眼帯を付けた人が越後を荒らしています><」
666人間七七四年:2009/01/24(土) 00:37:17 ID:gxHI5CQ0
会津だった
667人間七七四年:2009/01/24(土) 00:43:02 ID:PoF7mYna
>>610
この手紙信長公の朱印付の公式文書なんですよね
668人間七七四年:2009/01/24(土) 03:05:41 ID:/kZ5OgZf
戦国武将の話が続いている中で公家の話を


山科言継(やましな ときつぐ)

戦国時代の公家で山科言綱の子。
内蔵頭から正二位・権大納言に昇った人物。


”公家”という概念だけでは語ることの出来ない人物
それが、山科言継。


公家と聞くと内向的なイメージの人物が多い中で、
積極的に外交・交友をしていったのが言継だった。
また、多種多様な才能で生き抜いたマルチ人間でもあった。


1548年に室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領されて
しまう。普通の公家だとここで泣き寝入りするが、言継は違っていた。

言継は自ら染めや仕立ての技術を習得しており妻や家人とともに装束製作に当たり、
天皇の服ばかりでなく諸家からの注文にも応えていた。また器用な言継は医術や調薬も修めていて、
しばしば人々の依頼を受けて診察したり、薬を調合して届けている。
収入が途絶えがちで苦しい公家の財政事情を言継は己の技能によって
山科家の収入を支えたのである。
669人間七七四年:2009/01/24(土) 03:06:42 ID:/kZ5OgZf
668続き

また、言継は朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として後奈良・正親町両天皇下で逼迫した
財政の建て直しに奔走する。
当時の朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金であった。
言継はその献金獲得のために各地を訪ね歩いた。


言継の奔走記録として

1533年

歌舞音曲を扱う楽奉行として、尾張の織田信秀を訪問。
信秀や平手政秀以下の家臣団に和歌や蹴鞠の伝授を行って人脈を深め、
後に天皇の即位式に対する信秀からの献金獲得に成功。


1556年

義理の叔母にあたる寿桂尼・今川義元親子を訪ねて駿河を訪問し、
献金の確約を得た。


1566年

結城氏重臣の水谷正村に働きかけて御料所回復に成功し、
その謝礼に正村の従五位下伊勢守への任官を推挙している。


以上のように言継は持てる人脈をフル活用して朝廷への金策に奔走した。
弁舌に優れている他にも、大酒のみであったことや朝廷を守らんとする直向さに
多くの大名は好意を寄せたものと思われる。
670人間七七四年:2009/01/24(土) 03:07:56 ID:/kZ5OgZf
668続き

また、あまり公家に好意的ではなかったと言われる織田信長も言継とは良好な
関係にあり言継も信長と朝廷との橋渡しに協力を惜しまなかった。


これだけだと言継の人脈は大名や公家・有力者のみに見られるかも知れないが、
言継の人脈は決して上の方ばかりではなかった。
その気さくな人柄で庶民とともに入浴する事もあり、優れた医療知識をもって
天皇や公家達のみならず、京の庶民に対しても治療をしていた。
しかも無理に治療費を取るようなことはしなかった為、言継は庶民から大変人気がある公家であった。


それ以外に言継は数々の著作物を現代へ残している。

『言継卿記』(ときつぐきょうき)なる日記。
大永7年(1527年)から天正4年(1576年)の50年に渡って書かれている。
(散逸部分もあるが)有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料となっている。

この日記内には山科言継と”剣聖”として名高い上泉信綱との交友記録が書かれている。
また医療に精通した言継が、自身で治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も書かれており
現存する日本で最古のまとまった診療録(カルテ)であるとも言われている。

戦国の世でなく、現代であったならば山科言継はどれだけ社会に貢献しただろうか・・・
などと考えてしまうくらい才能溢れる人材だった。
671人間七七四年:2009/01/24(土) 03:12:57 ID:KuwCqWmM
山科言継と言えば、戦国大名と酒の飲み比べをして、相手を酔い潰させて
言う事を聞かせると言う、暴飲戦術の大家。
672人間七七四年:2009/01/24(土) 03:28:07 ID:y69lVpzS
謙信だったら大歓迎だろうな
673人間七七四年:2009/01/24(土) 03:41:46 ID:o4s6NbFs
黒田家は代理を立てればおk
674人間七七四年:2009/01/24(土) 03:44:21 ID:p3OaSnRB
言継で金策といえば、
後奈良天皇の十三回忌をやりたいけど、例によって金が無いのが朝廷。
公家衆だけでなく天皇まで頭をひねるが良い案がない。
そこによぼよぼの言継さんが名乗りを上げる。
言継「徳川家康には貸し(徳川改姓に奔走した)があるから、ちょっと行って金貰ってくる ノシ」
天皇「え、あ・・・?よ、よろしいように」

天皇のお墨付きを貰った言継はふらふらと京を出て三河へ下る。
途中、旧知の信長に会っていこうと岐阜へふらふら。
言継「ぃょぅ!調子どう?」
信長「ちょwじじいww なんでこんなところにいんだよwww
    金が無い?それにしたってあんたが行かなくたって・・・。
    だいたい家康はいま、駿河にいるしなあ・・・。その歳で長旅は・・・。
    よし、俺に任せろ。じいさんは岐阜でのんびりしてろ」
と、代わりに家康を脅はk、もとい交渉を始め、
信長「じいさん、ほら、これは家康から。それとこれは俺からも。あんま無茶すんなよ」

おかげで法会も無事済み、山科言継の面目も大いにたった。
しかし信長をしてそこまで親切にさせるだけの何かを持つ、とある公家の話。
675人間七七四年:2009/01/24(土) 04:05:58 ID:cURY9O9K
>>674
信長さん、いい人だな
自分の職務を全うしてる人にはえらく優しいね
676人間七七四年:2009/01/24(土) 04:21:24 ID:oyb/tDtj
最近の信長擁護の多さは異常
677人間七七四年:2009/01/24(土) 04:33:05 ID:KuwCqWmM
つーか、擁護って言うより、最近の研究の結果出てくる信長像ってのが、
「同時代的にはごく常識人で、多少怒りっぽいものの家臣の面倒見もよく、
また、旧来の権威も尊重するタイプ」って言う、
小説なんかでの信長のキャラクターから大きく外れた物だからではないかな?
678人間七七四年:2009/01/24(土) 04:38:34 ID:5LI5vovK
現代で言えば体育会系か?
やる気のない奴が嫌いで後輩の面倒もよく見て上の人間の話はちゃんと聞く
うん、やっぱ体育会系だ
アッー!なのもラグビー部とか柔道部では良くある話
679人間七七四年:2009/01/24(土) 04:48:51 ID:Kt14Kj+g
>>668-670
何かそれだけで1本の大河ドラマ出来そうな気がするなw
もしかしてもうあったりする?
680人間七七四年:2009/01/24(土) 05:44:32 ID:o4s6NbFs
マイナー武将の基準を大きく間違っているNHKが取り上げるわけがないかと
681人間七七四年:2009/01/24(土) 07:43:28 ID:KuwCqWmM
徳川家康の「依怙」と「贔屓」

徳川家康があるとき言うには、「依怙贔屓」と一言で言うが、依怙と贔屓は別物である。

依怙とは、特定の人間を偏愛し、片手落ちの人事をする事で、これは君主として
やってはいけない事である。

だが、贔屓とは、目をかけ援助してやる事で、これは才能はあってもまだ地位の低いものを
引き上げるために、君主として、むしろ行わねばならない事である。

このように、人の上に立つものは、依怙はしてはならない、贔屓はやるべし、と、心がけるべきである。
682人間七七四年:2009/01/24(土) 08:53:14 ID:g9AA/1fn
>>681
それうちの上司にも聞かせてやりてえ
683人間七七四年:2009/01/24(土) 09:20:11 ID:UVf4zuKD
むしろ悪い上司の言いそうな台詞だな。
684人間七七四年:2009/01/24(土) 10:00:35 ID:yc5UIpBr
真田信之の話

晩年、92歳で隠居のかなった信之は柴村の隠居所へ入った
この柴村、松代城から見て完全な鬼門であり臣下にはそれを口にする者もあった
いわく、「何故わざわざ鬼門に、御身に障れば如何なさります」
だが信之は聞かず平然と柴村の隠居所へ
半年後、息子で二代藩主信政の死により後継に関して御家騒動が勃発
信之は老体をおして解決を図り、あわや改易の危機を乗り切ったが三代藩主幸道就任から暫くして死去した
家臣は信之が身を挺して改易という鬼を祓ってくれたと口々に言ったといわれる
ちなみにこの柴村の隠居所は信之の遺言で寺となり信之の本墓所の大鋒寺となった
信之は今も松代城の鬼門を押さえているのである
685人間七七四年:2009/01/24(土) 10:27:51 ID:p1HsAvt+
やっと隠居出来たと思ったら・・・少しは楽させてやれよ
686人間七七四年:2009/01/24(土) 11:10:25 ID:DvJgOqJZ
御家騒動がなければ、あと10年は長生き出来たろうに……。
687人間七七四年:2009/01/24(土) 11:11:39 ID:o4s6NbFs
弟が大人しくしてれば徳本先生と張れるな
688人間七七四年:2009/01/24(土) 11:25:44 ID:iKoxPFAz
なんでわざわざ鬼門に・・・長生きして欲しかった・・・
689人間七七四年:2009/01/24(土) 11:29:36 ID:U6HPMqAj
兄ちゃんは本当心労で早死にしそうなタイプに見えるなw
690人間七七四年:2009/01/24(土) 11:37:42 ID:KGeA51AM
おまいら信之公を何歳まで生きさせたら気が済むんだよw

ということで締め
691人間七七四年:2009/01/24(土) 11:40:18 ID:2oIjPF3j
信濃だから・・松代に鬼武蔵(のスタンドか何か)が出たんじゃね? >>684 んでそれを鎮めに篭もったと。
692人間七七四年:2009/01/24(土) 11:45:06 ID:o4s6NbFs
百段が出たと申すか
693人間七七四年:2009/01/24(土) 12:28:08 ID:2oIjPF3j
>670
信長も信秀パパンの代から御所の造営に献金したり、割と勤皇家なイメージあんだけどね。
公家衆には『時々おっかないこというなあ、旭日天昇の勢いにのった武家だからなあ・・』と思われていたかも試練が

一応義昭を旗印に上洛して一瞬だけバクーフを再興したり。

その上で使えないヤツ、腐敗堕落した都や叡山の坊主はkill...
694人間七七四年:2009/01/24(土) 13:17:10 ID:7ZU738af
正親町天皇を動かして石山本願寺と和平、と
ブランド利用価値がまだまだあったから。

坊主は、全部だめだったんだろうなあ、
イエズス会との付き合えば交易に役立つが。

法華宗の坊主、
「耶蘇なる邪教の布教をお認めになれば、ありとあらゆる禍、
天変地異が起こりまくり、国の地はやせ衰え、稲はならず飢えが襲い滅びましょう」

信長
「まことそのような怖ろしき邪悪な力をかの者どもが持っておるのなら
早速にも高碌で召抱えたいものである。
われに敵対する国々に工作員として送り込めば無駄に兵をおくらずにすむ。
さぞ役立つことじゃろう。」
695人間七七四年:2009/01/24(土) 13:35:59 ID:iKoxPFAz
臨済宗の坊主
「またまたご弾正をw」
696人間七七四年:2009/01/24(土) 13:39:35 ID:REtetJdI
まぁ、手管は人の行いと言えど宣教師が工作員なのは確かだが(w
697人間七七四年:2009/01/24(土) 13:40:12 ID:1qF9ABMO
>>676
亀だけど
教科書や物語レベルでとはいえ、残酷で破壊魔で恐怖政治をひいていた、みたいな書かれ方や教え方がされてきたからその反動で多少大袈裟に反対方向にぶれるのも仕方がないんじゃないかな
698人間七七四年:2009/01/24(土) 14:15:47 ID:fCb36TeC
>>697
そんな教え方されてるか?
むしろ旧来の伝統に囚われない革命児的な扱いだろ。
残酷な面を教えられていて歴史上人物人気No.1なら、
今の日本人の価値観おかしいってことになるぞ(笑)
699人間七七四年:2009/01/24(土) 14:27:32 ID:o4s6NbFs
今の日本人の価値観がおかしいのは合ってるんじゃないかしら
700人間七七四年:2009/01/24(土) 14:33:39 ID:p1HsAvt+
歴史知識ゼロの人間が戦国BASARAやった直後みたいな価値観だなw
701人間七七四年:2009/01/24(土) 14:43:11 ID:vVFKb1r3
>>681
成る程、よくよく考えれば本来贔屓ってのが良い意味だからこそ
「贔屓の引き倒し」なんて言い回しも成立するんだな。
702人間七七四年:2009/01/24(土) 14:48:47 ID:G22Npyg8
>>701
役者の贔屓=ファンとか。
なるほど、権現様。
703人間七七四年:2009/01/24(土) 15:01:36 ID:3kq52N71
教科書がどうか知らんけど大体何かで信長について語られる時は
革新的イメージと共に非道さが強調されてるように思うが
大体の「歴史好き」はそこまで深く知ってるわけないから尚更な
BASARAなりコーエーだけでなく多数の媒体でああなるのは
それこそ「ベタな」信長のイメージを引きずってるからじゃないのか
704人間七七四年:2009/01/24(土) 15:21:10 ID:G2Hjiisu
>>662
その不動明王像って残ってないのかな。
705人間七七四年:2009/01/24(土) 15:28:00 ID:v52fZuSn
歴史ドラマ、小説、ゲームなどでは信長は狂気な人物と描かれている場合がほとんどだからなあ。
下手に歴史が好きな人ほど上記の媒体で信長=狂気とイメージがつく人が多いんだと思う。
706人間七七四年:2009/01/24(土) 15:28:08 ID:U6HPMqAj
良くも悪くも「そこにシビれるあこがれるゥ!」的な書かれかたをしてると思う>信長
707人間七七四年:2009/01/24(土) 15:31:52 ID:o4s6NbFs
ズキュウウウウウンと比叡山焼き討ちですねわかります
708人間七七四年:2009/01/24(土) 15:49:19 ID:5ks4DbcG
快川紹喜は、正親町天皇から『国師』の称号を授かり、天下の名僧として知られた。

直江兼続と交流のあった南化玄興、自身の後を継いで妙心寺住職となった大虫宗岑、
そして、伊達政宗の師として名高い虎哉宗乙らの、優秀な弟子を育てた教育者でもある。

その評判が遠く甲斐にも伝わり、武田信玄から特に招かれて、塩山恵林寺の住職となった。
勝頼を喪主として、信玄の葬儀を執り行ったのも、彼である。

天正10年(1582)3月、甲斐武田氏は織田信忠に滅ぼされ、その庇護を受けていた
六角承禎の子・義弼らが、恵林寺に逃げ込んで来た。

当然、信忠は義弼らの引渡しを求めた。
「申し訳ない。 『寺内は聖域、俗世の法に寄らぬ』と、昔から決まっております。
それに御仏に仕える者が、殺されると分かっている人間を、引き渡せる訳がありませぬ。」

快川は引渡し要求を蹴り、義弼らを逃がした。 (後に義弼は秀吉のお伽衆になった)

従う者は手厚く保護し、従わぬ者は仏教の中心・比叡山とて容赦しないのが織田家である。

4月3日、森長可の義兄・関長安らに率いられた織田軍は、修行僧など150人が残る恵林寺を
取り囲み、周囲に柴や枯れ草を積み上げた。
織田兵が柴に点火したその時、快川が青年僧を引き連れ山門に姿を現し、吠えた。

「ええか、お前ら!静かに座禅を組むのに、何も山奥や湖水のほとりへ行く必要なぞないわ!
 『無』じゃ!心を『無』にすれば、炎の中とて、涼風に吹かれるようなもんじゃい!!
カ━━━━━━カッカッカッカッ!!!!! 」
(安禅必ズシモ山水ヲ須イズ、心頭ヲ滅却スレバ火モ自ラ涼シ)

快川の気迫に打たれた織田兵がぼうぜんと見守る中、一代の傑僧は炎の中に消えた。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」は今なお、精神統一の究極の境地を表わす言葉とされる。

快川紹喜 〜 戦国史上最も慈悲深く、最もロックな坊主、の話。
709人間七七四年:2009/01/24(土) 16:07:16 ID:/hMtyaHH
こんなところにも鬼武蔵の影が・・・
710人間七七四年:2009/01/24(土) 16:11:09 ID:do8AXyCp
信玄公の心の友で明智光秀の親戚なんだよね
和尚
711人間七七四年:2009/01/24(土) 16:19:56 ID:fCb36TeC
>>710
光秀にはこの理由もあったのかもしれないな。
712人間七七四年:2009/01/24(土) 16:28:03 ID:gxHI5CQ0
比叡山焼いたけど森可成の墓を作ってくれた寺だけは焼かなかった信長
713人間七七四年:2009/01/24(土) 16:30:44 ID:KGeA51AM
>>712
すごく・・・依怙贔屓しすぎです第六天魔王様
あっ、依怙と贔屓は権現様曰く違うのかw
714人間七七四年:2009/01/24(土) 16:37:18 ID:v52fZuSn
>>712
聖衆来迎寺の住職は寺にとって敵だった森可成が討ち死にした後に丁重に弔ったらしいからね。
715人間七七四年:2009/01/24(土) 16:44:44 ID:yc5UIpBr
信長が織田家当主になる前、ある寺の坊主を切って捨てた
周囲が理由訪ねると
「あの坊主は太ってていた。悟りを開かんと厳しい修行に精錬しているはずの坊主が太っているはずがない。かの者は仏の言葉を借りて人を惑わし私腹を肥やす外道よ」

これが信長
716人間七七四年:2009/01/24(土) 16:59:48 ID:o82EU4+d
理屈っぽいが筋は通ってるなw
717人間七七四年:2009/01/24(土) 17:03:51 ID:eMftPUaE
>>714
こういう話は好きだがまた森家かという気もしたw
718人間七七四年:2009/01/24(土) 17:44:11 ID:UJdCkjlc
>>644
事実上、降伏開城の条件が結婚だった訳で、
仕方のない事と思うが。
遠山勢に勝てる見込みが無い状況で、降伏する事まで責めるのは酷だと思うよ。
719人間七七四年:2009/01/24(土) 17:56:38 ID:xTDTdlkA
>>715
確か、信長と無辺のやりとりでも似たようなのあるね。
信長が出身地を聞いているのに、適当な答えをした無辺に激怒して、
「貴様は人間じゃねえ。きっと化け物だ。だから火あぶりにする。」と言うと
「ゴメンナサイ。出羽国の羽黒出身です。火あぶりまじカンベン。」って謝った
って逸話(信長公記)もあるね。
悪い話だからこれ以上詳しく書かないが、信長と無辺の逸話はなかなか面白い。
720人間七七四年:2009/01/24(土) 18:30:00 ID:KuwCqWmM
>>704
恵林寺のこれがそう

武田不動尊(信玄生不動)
http://dottailor.img.jugem.jp/20080113_364900.jpg
721人間七七四年:2009/01/24(土) 18:33:05 ID:/G94rLUG
>697
ガッコじゃ簡単に習うけど、たとえば「楽市&楽座」って実施すんのたいへんな政策よね・・・
強力な武家の庇護で安定して流通や商売ができるってだけでなく

当時は大元を寺社が持ってた“商売・製品製造する許認可権(既得権)”なんかも奪っていくわけだから
昔からの都市、とりわけ畿内なんて抵抗勢力の塊が武力持って蟠ってる状態。
そりゃあ伊勢や京近江、大和や紀伊なんか寺領多いしバリバリ武装しているし信徒の武家も加わるし最悪だわ


権威は尊重すっけど、坊主や神人が商売スンナ!って信長流の潔癖さが残酷さにもつながってる気はするね
722人間七七四年:2009/01/24(土) 18:43:09 ID:KuwCqWmM
>>721
いや、信長の楽市楽座は、既に楽座状態であったものを追認したものに過ぎない。
そうでない地域では、座の既得権を追認している。
信長の楽市楽座が画期的になったのは、その政策からではなく、信長領国が広がる事により
結果的に各地の楽座がネットワークで結ばれた事。

それから、よく信長が関所を廃止したって言うけど、信長が廃止したのはあくまで敵国の
防衛用の関所であって、そうでないものは温存されている。
京の物流に関する関所は、それを管理する公家や寺社の既得権と共に完全に認められた。
(秀吉が京都大改造のときなくした。)

また、楽市楽座も参加は自由でも、新たに参入するには信長への上納金が必要。
この上納金が織田家の重要な軍費のひとつになった。

信長のやった事は、理想でやったわけではなく、現実と密着した、無理のない斬新的な
物だったわけで、革命的とか革新的とか、そう言う物ではないのですよ。
723人間七七四年:2009/01/24(土) 18:49:16 ID:1/ttqSj6
戦国時代を通して少しずつ変わっていった事を
さも信長一人がやったかのように言われてるんだよな
724人間七七四年:2009/01/24(土) 18:50:16 ID:UVf4zuKD
信長がいるから時代が変わるのではない、時代が変わるから信長がいるのだ
725人間七七四年:2009/01/24(土) 18:52:17 ID:clQ8WJBU
「心頭の火滅却すればまた涼し」と読むんじゃないか、なんて記述をどっかで読んだな
ソースはない
726人間七七四年:2009/01/24(土) 18:53:26 ID:REtetJdI
楽市楽座は余所でもやってる品。
中央を押さえた信長がやったから効果が大きかったって事だろう。
727人間七七四年:2009/01/24(土) 18:56:43 ID:fCb36TeC
>>725
なるほどな
冷静に考えれば悟っていようが生きている限り神経はあるわけだから、
心頭滅却すれど火はまだ熱い
だよな
728人間七七四年:2009/01/24(土) 19:02:39 ID:KuwCqWmM
>>723
一般的な評価って意味では
「細川が搗き、三好がこねし近世餅、座して食らうは信長なりけり」
って感じだねw
729人間七七四年:2009/01/24(土) 19:18:04 ID:bfbRxOzn
良い話スレ的に書くなら信長は死んだ時期が良かった。
あの時点で死んだから叡山焼き討ちや長島包囲戦あたりの行為があっても、
治世全般を見て評価をされてる。
長生きして晩年の太閤のように歳を取って判断力が低下したら(してなくても、だがw)、
それこそ酷い事になっていたかもしれない。
730人間七七四年:2009/01/24(土) 19:36:38 ID:clQ8WJBU
某小説ではひどいわりを食った十河存保と、長宗我部元親の話

阿波攻略を目指す長宗我部元親は、十河存保を勝瑞城に攻めた
ところが、ひどい豪雨に襲われた挙句、長宗我部軍は洪水に見舞われてしまった
8〜9月のことなので、台風でも直撃したのかもしれない
長宗我部軍は陣屋の屋根、樹木の上へと逃げる羽目になった
もちろん、十河軍が見逃すはずがない
小舟で漕ぎ出した十河軍は、樹上の長宗我部兵を狙撃して回った
が、大勢が覆るわけもなく、水が引くと攻城は再開され、存保は讃岐へ逃れることになる

後に、十河方は宴席のたびに「鳥刺し舞」を舞った
勝瑞城での手柄自慢を、寝鳥を取る鳥刺しに例え、憂さを晴らしたのだ
これを聞いた長宗我部方は悔しがり、同じく鳥刺し舞をやった
こちらは、十河方の卑怯を嘲笑うためだった
応酬を知った元親は家臣をたしなめた
「存保は勇将だった。弓矢をとって敗れた武門を嘲笑い、酒席の肴にするとは恥ずかしくないのか」
それ以降、鳥刺しが舞われることはなくなったという

後年、九州攻めで仙石秀久が逸った時、存保は仇敵の元親に同意して秀久を諌めた
結局は押し切られ、存保は長宗我部信親とともに戦死。三十二歳だった
731人間七七四年:2009/01/24(土) 19:52:03 ID:v52fZuSn
十河家は当主の存保が仙石のせいで討ち死にしたというのに改易されてるんだよなあ…
討ち死には豊臣の譜代家臣である仙石のやらかしのせいであって十河には何の落ち度も無かったというのに…
732人間七七四年:2009/01/24(土) 19:55:35 ID:KuwCqWmM
そういえば九州攻めのコレで、十河家は改易されて長宗我部家は無事だったのは、
豊臣政権において長宗我部が、一条家の家老、つまり豊臣家から見て陪臣って認識だったから、
って説があるね。
733人間七七四年:2009/01/24(土) 20:33:14 ID:45wyNfiq
センゴクの武田勝頼かっこいいな
734人間七七四年:2009/01/24(土) 20:36:27 ID:gmTGyqym
讃岐に譜代入れたかっただけだったりして
735人間七七四年:2009/01/24(土) 20:54:31 ID:UEUGF06d
怨みに思ってる筈の十河方も止めたのか
こりゃいい逸話だな
736人間七七四年:2009/01/24(土) 21:12:45 ID:dhfrQWCv
仙石に同調したら自分も行かんでもいい死地に放り込まれるんだし伏兵が居ると見たらそりゃとめるだろう。
長宗我部だけしにいく破目になるならともかく
737人間七七四年:2009/01/24(土) 21:14:14 ID:wiu7XAGy
>>662
ナメられちゃあいかん。
738人間七七四年:2009/01/24(土) 21:14:18 ID:UEUGF06d
>>736
舞いのことだよ
739人間七七四年:2009/01/24(土) 21:15:19 ID:dhfrQWCv
>>738
そうかすまん。
ちょっと川の向こう攻めて来るわ
なーに楽勝さ
740人間七七四年:2009/01/24(土) 21:18:55 ID:wYpunwf8
ちぇすと〜
741人間七七四年:2009/01/24(土) 21:28:51 ID:p3OaSnRB
みんな逃げて、鬼が、鬼武蔵が川を渡ってこっch、qあwせdrftgyふじこlp
742人間七七四年:2009/01/24(土) 21:58:23 ID:hvg+4Uvd
渡る世間は鬼武蔵ばかり
743人間七七四年:2009/01/24(土) 22:03:02 ID:DvJgOqJZ
仙石ばっか悪く言われるけど、大友のバカ殿の判断ミスも大きいんだよな。
暗愚な殿様ってのは少なからずいるけど、あそこまで酷いのも珍しい気がする。
744人間七七四年:2009/01/24(土) 22:04:29 ID:ZAFy2Fu6
>>733
高天神城に援軍送らなかった件については「信長の宣伝工作であって勝頼は悪ぅないよ」方向で擁護するんだろうかね
あれで家臣たちから決定的に見限られたんだが
745人間七七四年:2009/01/24(土) 22:06:10 ID:bFGzxgqS
>>718
信長だって降伏を責めたわけじゃない。
単に降伏して捕虜になったり逃げ戻ってきたのなら、大きな咎めもないだろう。
746人間七七四年:2009/01/24(土) 22:27:06 ID:CpHHltM3
有名すぐる逸話だけどマトメにないから書き込み

お題「三倍段とかネ〜わw by塚原卜伝」

後の世にもその名は轟き剣聖の誉れも高きこの人物
もとは常陸国の鹿島神宮祠官 卜部覚賢と言う者の子であったが
塚原城の城主 塚原土佐守安幹の養子となり塚原高幹と名乗る。
実父からは鹿島の太刀を義父からは香取の太刀を習い
まさに両神宮の武神の加護を受けたかのように上達し、長ずるに至って
更に兵法の術を究める為に門弟などを数十人伴って廻国修行に出た。
そんな彼に下総国で梶原長門と言う長刀の名手が立ち合いを求めた・・・
これに対して卜伝の門人達は
弟子壱「梶原長門もここらじゃ名の通った達人なのだぜ?」
弟子弐「おまけに長刀使いとかどんだけ〜wなんかヤバくね?」
弟子参「とりあえず師匠にやるかや ら な い か ?聞いてみようぜ」
          :
          :
卜伝「相手は長刀使い?ラクショーw」
弟子壱「( ゚Д゚)ハァ?」 弟子弐「(゚Д゚)ハァ?」弟子参「(゚Д゚ )ハァ?」
卜伝「おいィ?長刀と言っても刃は二尺でしょ
   俺の刀の刃は三尺あるんですわ?お?」
弟子達「そりゃそうですが・・・(´Д`)」
卜伝「お前らは馬鹿すぐる!卜伝が勝つのは当然に決まっている
   黄金の鉄の塊で出来ている卜伝が長刀装備の長門に
   遅れをとるはずは無い
   柄は幾ら長かろうと触って斬れる訳じゃないから怖くないの
   むしろこっちの方が長い得物を持っていると云える」

そんなやり取りが近辺遍くところに伝わり
立ち合いの当日、見物人は雲霞の如しと言われるほどに集った
大衆が固唾を飲んで見守る中、いざ立会いが始ると
先日の大言に違わず卜伝は長門の左腕をアッサリと切り落とし
アッー!と言う間に勝負を決してしまった。
(ちなみに明治三十三年に行われた国内初の天下一武道会こと
第一回武徳大会では並み居る強豪を下し優勝したのは
長刀使いにして唯一の女武芸者 園部秀雄と言う女傑)
さすがに剣聖は格が違った
747人間七七四年:2009/01/24(土) 22:41:55 ID:hBGD1OwW
>>746
ブロントコピペ混ぜるのはやめろw
748人間七七四年:2009/01/24(土) 23:17:48 ID:p3OaSnRB
じゃあもう一つ塚原卜伝。

諸国を巡る塚原卜伝は、当然途中船に乗って川や海などを越えることがあった。
そんな船上、些細なことから同情していた武芸者と口論となった。
何某「もー、お前とは話にならねぇ。ちょっと面かせやゴルァ」
卜伝「おーおー白黒つけてやろうじゃねぇか。おい船頭、あの小島に船つけろ。あそこでヌッ殺してやる」
何某「上等だ、この野郎!」
下手に反抗したら何されるかわからないと、船頭は二人の言うがままに小島へ船を寄せた。
何某は船が島に着岸するのも待ちきれず、ざっと飛び込んでそのまま小島に駆けのあがった。
そして刀を抜き放ち、後を追ってくる卜伝を迎え打たんと振り返る。

その眼に飛び込んだのは、小島からゆるゆると離れていく船だけ。
船頭から竿を奪い取り船を漕いでいた卜伝が叫んだ。
「ちょっーーとそこで頭を冷やせば?」

後の無手勝流である。
749人間七七四年:2009/01/25(日) 00:00:16 ID:U6HPMqAj
>>746
卜伝にブロントさん混ぜるとかちょとsYレならんしょこれは・・?
750人間七七四年:2009/01/25(日) 00:57:44 ID:3gBZb2Ql
>>732
豊臣家でも意外に席次が低かったというね。
そんな土佐の出来人に対するコメント。

多聞院英俊のコメント
『土佐国の大将は長曽我部という人だ。彼は「土佐の一条家の家臣では」一段
の勇将だ。』
ちなみに日記の日付は天正13年6月で、四国征伐直前の元親の絶頂時代。

山科言経のコメント
『土佐に長曽我部てヤツがいるらしい。名字は「チョウスガメ」て読むのかな?
変な名前www』

正しい名字は長宗我部だが、二人とも日記には長「曽」我部と書いている。所詮は
無島鳥の(ry

751人間七七四年:2009/01/25(日) 01:05:25 ID:KUw6XDXC
土佐ってもうなんか秘境みたいに思われてたんかな?
へんな部族扱いだもん
752人間七七四年:2009/01/25(日) 01:09:11 ID:z8hGLN95
四国は長く細川氏の領地だし、その後の天下人である三好氏にも長宗我部はついていた時期もあり、
また、一条家も公家の家で、歴史的にも京にダイレクトにつながった存在だったのに、
何故か田舎者扱いなんだよね、長宗我部。
753人間七七四年:2009/01/25(日) 01:20:27 ID:PugsJ1LL
現代でも渇水が頻繁な貧乏な土地柄だしなぁ
754人間七七四年:2009/01/25(日) 01:26:41 ID:HGotfTPN
>>753
それは讃岐の話だよ・・・。
755人間七七四年:2009/01/25(日) 01:27:40 ID:pA3nnEf1
実際、貴族社会じゃ伝統、蓄積、血脈、人脈が価値基準だからなあ
領地がでかい?兵が強い?ふーんそう、ぐらいの感覚なんだろう
756人間七七四年:2009/01/25(日) 02:33:36 ID:bYtaLNlk
>>750
軽く見られてたのはともかく、
音だけあっていて、字が違うってのは当時ではよくあること。
757人間七七四年:2009/01/25(日) 02:54:45 ID:IDcbWePx
長宗我部が三好についていた???????????????
758人間七七四年:2009/01/25(日) 04:35:27 ID:NME8w8ZQ
以前、石田三成が太閤検地時に島津家の石高(税)をまけた話が
あったと思うが、佐竹家でもそんな話が残っている。


小田原の北条征伐・奥羽仕置後

豊臣秀吉は全国的な検地(太閤検地)を実施した。
太閤検地の責任者であった石田三成は関東地方の検地をすることになった。

そろばんを弾く三成

三成「結城晴朝殿が10万石・・・(パチパチ)」
三成「里見義康殿が9万石・・・(パチパチ)」
三成「宇都宮国綱殿が18万石・・・(パチパチ)」
三成「・・・うーん( ̄〜 ̄;)」


三成が悩む理由・・・それは関東に入部した徳川家康のことであった。

秀吉の命で家康は祖父清康からの地であった
三河を含む5カ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)
150万石(一説には125万石説もあり)から
北条氏の旧領7カ国(武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総)
256万石へ移封された。

未だ北条氏の残党が不穏な動きをする関東を
容易く家康が治めることは出来ないと秀吉は考えていた。
しかし、三成は秀吉の考えとは逆に家康の関東統治が
滞りなく進むと予想していた。


三成「太閤様は徳川殿の統治を甘く見ておられる。
   太閤様亡き後、徳川殿が行動を起こす可能性もある・・・( ̄〜 ̄;)」

※事実、徳川家康は関東入部後、旧領よりも多い100万石以上
 の直轄領に重臣達を代官として任命し難なく統治を可能にし、
 発展を遂げていった。
759人間七七四年:2009/01/25(日) 04:37:44 ID:z8hGLN95
大永四年(1524)、北条氏康が12歳の頃のこと、小田原城で、鉄砲を撃つことがあった。
この頃はまだ鉄砲が珍しく、場内の侍たちは皆、これを見物しに集まった。
氏康も、この時鉄砲を始めて目の当たりにした。
彼も無論近くに行ってこれを見ていたが、銃が発射されると、その轟音に大きく驚いてしまった。

その氏康の姿に、集まっていた侍たちはついつい笑った。
笑われて、12歳の氏康はこう思った。

「死のう」

彼はおもむろに小刀を取り出すと、いきなり腹につきたてようとした。

周りは大騒ぎになり、よってたかって刀を取り上げた。すると氏康は、笑われて
死ぬ事も出来ないのかと、鉄砲の音に驚いた自分が情けなく、泣いた。
泣いている氏康に、守役の清水吉政はこう言った。

「勇者は物に驚きやすいと、昔から申します。
馬の中でも勘のいいものは、夜になっても周りを警戒して寝付かず、
飼い主を困らせると言います。
物に驚くと言うのは、それだけ新しい状況の変化に、敏感に反応しているということです。
これは武将として、ほめられるべき資質なのです。
知らぬものを驚く事は、臆病ではありません。」

そう言われて氏康は、ようやく泣き止んだ。


驚く事の価値を諭された、少年の日の氏康のお話。
760人間七七四年:2009/01/25(日) 04:38:09 ID:NME8w8ZQ
758続き

三成「後々のことを考えて、徳川殿に対して
   包囲網の布石を打っておかなければと思ったが・・・」
三成「結城殿・里見殿・宇都宮殿の石高を合わせても37万石
   ・・・徳川殿の1/6程度の石高か・・・」
三成「北に上杉景勝殿が控えるといっても越後・佐渡を合わせても
   80万石程・・・( ̄〜 ̄;)」
※越後は太閤検地時40万石程度でしたが、
 金山や貿易港を加えると70〜80万石程の収入だったそうです。

三成「伊達殿から召し上げた会津には蒲生氏郷殿が移封するが
   良くて50万石程・・・( ̄〜 ̄;)」
三成「全てを足して・・・(パチパチ)、167万石・・・
   約170万石・・・」
三成「ようやく包囲網らしくはなるがまだまだ徳川殿には敵わん
   ・・・( ̄〜 ̄;)」
三成「如何したものか・・・」


計算詰めで疲れた三成はしばし横になることに・・・
横になった時、三成はある大名家の検地資料を目にした。


三成「・・・佐竹義重殿?そういえばまだ佐竹殿の検地調査書に
   目をとしていなかったな。」
三成「どれどれ・・・」
三成「何!!佐竹義重殿の石高80万石!!Σ( ̄□ ̄;) 」
三成「しかもこの石高は常陸国のみで、周辺の親族関係の大名家を
   加えると100万石を超えるとな( ̄□ ̄;)」

※事実、当時の佐竹氏の領国近辺には親族衆の大名家(相馬氏、白河氏など)が存在しておりこの大名家のみで
 30万石ほどになる計算だった。
761人間七七四年:2009/01/25(日) 04:40:49 ID:NME8w8ZQ
758続き

三成「仮に佐竹殿の80万石を上杉・蒲生他の170万石と合わせると
   250万石になる・・・」
三成「親族衆の大名家30万石を加えると・・・なんと!!
   280万石!!Σ( ̄□ ̄;)」
三成「徳川殿の石高を越えるとな・・・」

この時、三成の脳裏に徳川包囲網の構想が完成した。
※後年、蒲生氏郷死後に越後の上杉景勝が会津120万石に
 移封することとなる。

三成「しかし、このまま80万石の調査書を提出しても佐竹殿が
   包囲網に参加することはないなぁ・・・」
三成「しかも、義重殿は徳川殿と懇意な間柄だし・・・( ̄〜 ̄;)」
※同じ清和源氏の流れを汲む家康と義重は以前から懇意の仲であった。


三成「まてよ?義重殿は隠居の身で現当主はご子息の義宣殿・・・」
三成「よし!お父上の義重殿が徳川殿と懇意にしているのであれば、
   私は義宣殿と懇意になればよいではないか( ̄ー ̄)ニヤリ」
三成「そうと決まれば、義宣殿にこの件を文にしたためよう」


この時、三成は佐竹氏の石高を54万石と秀吉に報告したと言われている。
なんと26万石も税をまけたのである。
これ以降、三成は上杉氏、佐竹氏と懇意な関係を築いて行く事となる。

その後、秀吉没後に三成が加藤清正らの襲撃を受けた折も
義宣は三成の救出に向かっている。
また、関ヶ原の戦いでも義宣は西軍に付くことを表明している。
(ただし、この時は父、義重に反対されて結局は中立となる)

この他にも逸話として、関ヶ原の戦い後に捕まった三成は影武者で
本物の三成は佐竹氏に身を寄せて秋田入部へ随行したという逸話もある。

もう少し三成にコミュニケーション能力があれば、
徳川家康が専横を極めることもなかったのでは
と思えてしまう・・・
762人間七七四年:2009/01/25(日) 04:55:47 ID:z8hGLN95
まあ、家康の専横と言うより、それに先行して三成ら三奉行と宇喜多、毛利の同盟が
秀吉の死後成立してて、それによる政権を樹立しようとしたら失敗したので、家康が
主導権を握った、って言うのが実態らしいけどね。

先に秀吉の遺命を破ったのは三成の方だったりする。
763人間七七四年:2009/01/25(日) 05:33:10 ID:q2BWMe5G
三成は負けたからこそ忠義者って言われてる人っぽいな
佐竹の石高ごまかしてるもの自分の将来の栄達のためって感じだし
764人間七七四年:2009/01/25(日) 05:49:57 ID:0Notwc75
佐竹・上杉・蒲生を連合させて徳川にぶつけるのは良いが、家康が仙台の
やんちゃ坊主を味方につければ計算ひっくり返るよ!と言ってあげたい。
765人間七七四年:2009/01/25(日) 06:53:44 ID:RM6ZrRJW
あれは手懐けられんだろ
766人間七七四年:2009/01/25(日) 07:23:13 ID:Dzi1bACr
石田三成は小田原征伐の際に豊臣秀吉の惣無事令を無視して、
その後も恭順の態度を取らない伊達政宗を処断しようとした。
伊達家が北条家と同じ運命を辿るところを徳川家康、前田利家、千利休が間にはいってとりなした。
伊達政宗はこの時点で徳川家康寄りになっている。
767人間七七四年:2009/01/25(日) 09:12:30 ID:Hk8C39IT
>>759
これいいなあ
768人間七七四年:2009/01/25(日) 09:25:03 ID:jOeoeCIL
>>759
この鉄砲というのは種子島とは別物
769人間七七四年:2009/01/25(日) 10:20:17 ID:GOERX5+X
>768それなら氏康の年齢に納得ですだ

ほうろくみたいな、いわゆる焼き玉の類かな?


※川越夜戦に絡めたエピが前スレだったか、でてたけど...イイハナシダナー
770人間七七四年:2009/01/25(日) 10:33:57 ID:SwNU5wOB
>>766
一方、森忠政は家督相続の際に所領を蘭丸と同じ7万石まで削られた事を秀吉に懐いてるふりをしながら
実は16年間ずっと腑に落ちて無かったので家康側に付きました。.
771人間七七四年:2009/01/25(日) 11:01:40 ID:bD6XKChj
>>759
こんな小さい頃からすでに篭城癖がついていたんだな…納得
772人間七七四年:2009/01/25(日) 12:13:12 ID:6tvbUW5R
>>771
その篭城癖のせいで城内では殆ど裸だったらしいですね
最近読んだ「殿といっしょ」のと言う本の3巻に出てました
773人間七七四年:2009/01/25(日) 12:33:26 ID:7t4U1Syl
>>759
風林火山の横内正の声で脳内再生させると説得力倍増だなあ。
774人間七七四年:2009/01/25(日) 12:55:26 ID:PugsJ1LL
>>768
火矢?
775人間七七四年:2009/01/25(日) 12:59:38 ID:HClQwcus
塚原卜伝と氏家卜全を昔からよく間違える
776人間七七四年:2009/01/25(日) 13:28:00 ID:gpJOi1jo
>>774
中国伝来(1510年?)の鉄砲じゃね?
種子島に比べて精度はかなり悪かったらしい。
777人間七七四年:2009/01/25(日) 13:43:59 ID:hoZUaiJD
>>776
普通に考えれば焙烙玉
様はマンガに出てくる丸い爆弾
原理的には現在の花火と同じで
炎と破片負傷効果を狙った手榴弾的な意味合いもある
元襲来時に鎌倉御家人達をパニックに陥れた‘てつはう’の進化型
戦国時代の陸上戦ではあまり見られないが水上戦闘では主力兵器
木造船にとって火力と衝撃力を兼ね備えた焙烙玉は有効な兵器だからね
倭寇が東シナ海を暴れ回れたのもこの焙烙玉のおかげ
北条は房総を巡って水軍運用が盛んだったから当然多数を保持していたはず
778人間七七四年:2009/01/25(日) 14:18:06 ID:Lfw8jPmg
まとめに無かったで有名な前田利家の晩年の話を一つ

晩年の槍の又左

利家は死の床で妻の松にこう言われた。
松「あなた様は今まで散々殺生を行ってきました。私が地獄に堕ちないように
  経帷子をこしらえて置きました。これを死の旅路にお使い下さい。」
  利家に着せようとした。

その問いに利家は
利家「わしは戦場にて敵を多く殺してきたが、無意味に人を殺したり、
   苦しめたことは一度も無いぞ!!だから地獄に堕ちる事は無い!!それでも
   ワシを閻魔が地獄に堕とすなら、先に行った者どもと一緒に地獄の閻魔
   を相手にひと戦してくれようぞ!!」着るのを拒否した。

武人とは最後まで武人と言うお話。
779人間七七四年:2009/01/25(日) 14:28:11 ID:GOERX5+X
>>777
相模の前に伊豆をガッチリ抑えてるもんね。
海賊(水軍衆)のやることはお手の物だわな

……城で焼き玉実演て気をつけないとアブないが
780人間七七四年:2009/01/25(日) 15:17:59 ID:5bCMjNQo
>>778
直江「何なら俺が閻魔様に書状を書いてやろうか?」
781人間七七四年:2009/01/25(日) 16:19:22 ID:ZYD07EoR
>>778
これは普通にかっけえ
782人間七七四年:2009/01/25(日) 16:19:59 ID:iE2Bb9Xa
鉄砲のそもそもの由来って、意外とよくわからないらしい。
783人間七七四年:2009/01/25(日) 16:21:09 ID:WcX5gFG6
>>766
まあ、それに伊達家の本領(伊達郡、置賜郡周辺)はお取り上げされて、
一揆で壊滅的な被害を受けた大崎・葛西領への移動だからね
伊達に恨むなと言っても無理な話だ
784人間七七四年:2009/01/25(日) 16:27:01 ID:bYtaLNlk
>>769,774
火銃・神槍かと。
鳥銃以前の原始的な中国製火器で、倭寇を通じて日本にも入ってきていた。
文献上、これらも「銃」と書かれるので火縄銃との区別が付かないのが困り者。
どんなものかといえば映画もののけ姫でたたら衆が使ってたアレ。
785人間七七四年:2009/01/25(日) 16:32:43 ID:/6DRuzv3
>>776
日本にも少量輸入されてた銅手銃じゃないかな。音は火縄銃よりでかい。
ようつべで中国の三眼銃の試射動画あったけどすごい轟音だ。
中国では三つの銃身を持つ三眼銃が爆発的に普及し、遼東などで銃砲師団も創設されていた。
786人間七七四年:2009/01/25(日) 16:34:25 ID:d88U+MPi
>>783
もともと惣無事令違反もあるし、葛西一揆関与の疑惑もあるし。
むしろ本来なら死罪や取り潰しのところを助命されたり免罪されたり、
伊達が豊臣を恨むのは無茶苦茶な逆恨みだと思うが。
787人間七七四年:2009/01/25(日) 16:42:56 ID:z8hGLN95
鉄砲伝来についてだが、「北条五代記」には、永正七年(1510)に中国より伝わった、とあり、
この北条五代記は江戸期の軍記物だが、明応大地震の描写など、最近一定の信憑性が
あるのではないかと言われている書物。

まあ、種子島以前から、種子島ルート以外からも鉄砲が伝来していただろう、
って言うのは現代ではほぼ定説になっているね。
ちなみに種子島に伝来した鉄砲は、軍事用ではなく狩猟用。
しかもヨーロッパではなく東南アジア製だったらしい。

どうも日本の鉄砲史というのは、それまでにあった何種類かの鉄砲のうち、
種子島に伝来したものを軍事用にカスタムしていったものが、他種を圧倒し
普及していった、と言うものらしい。
788人間七七四年:2009/01/25(日) 16:58:25 ID:WcX5gFG6
>>786
伊達をあまりかばうつもりもないが、
地域的に優勢な勢力が、豊臣の政策を既得権の侵害と見るのは不自然じゃなかろう
島津しかり、北条しかり、九戸しかり
彼らにだって言いたいことは山ほどあったはず
789人間七七四年:2009/01/25(日) 17:07:45 ID:ocoQ7J3p
>>761
机上の空論っていうか…
恩を与えたら絶対に返して貰えるって思ってる辺りが甘いっていうか…

佐竹三家に鬼の親父が生きてる佐竹で、義宣に恩売ってもなぁ
790人間七七四年:2009/01/25(日) 17:25:34 ID:qrXxlNXx
>>761
有力大名に恩を売っておくのも個人的な友誼を結ぶのも悪い手じゃないんだけどな
島津や上杉それに佐竹など、仮に豊臣政権が安定していればそのまま三成の支持者になった可能性がある
そして家康への牽制としては位置的にも石高的にも絶好のポジションだし、発想はいい
鬼佐竹の影響力が強すぎたのが問題だろうなぁ・・・

>>763
負けたからこそってよりは、家康が存命の内に豊臣を滅ぼしたからこそだと思う
791人間七七四年:2009/01/25(日) 17:31:51 ID:7DgHUC5S
三成がしかけなきゃじりじり切り崩されてくだけの話だと思うわ
792人間七七四年:2009/01/25(日) 17:58:42 ID:Dzi1bACr
>>788
島津義久の細川藤孝あての書状に羽柴秀吉への不満が見える箇所がある。

「羽柴秀吉はまことに素性の由来が知れぬ人だと、
世間ではもっぱらの噂のようですね。
我が島津家は源頼朝以来の家柄です。
しかるに羽柴秀吉を関白殿扱いした手紙を書かねばならぬとは、
悪い冗談かと笑ってしまいます。
また彼のような人に関白を免許されたのは、天皇の言葉が軽々しかったからでしょう。」

島津家の秀吉に対する不満がよく伺える書状だね。
関白の件に関しては天皇にまで不満をぶつけているから相当なものw
逆に言えば武家の名門にここまで言わす秀吉の立身出世ぶりと才能も凄すぎると言える
793人間七七四年:2009/01/25(日) 18:44:21 ID:iE2Bb9Xa
血みどろでまとめ上げた薩摩、大隅を、
「あれは無かったことにしよう、もう一回やり直し!」
だもんね。
794人間七七四年:2009/01/25(日) 18:50:49 ID:PugsJ1LL
中央には中央の理由があるだろ
こっちの力が行き届かないような僻地に九州統一目前の島津みたいな馬鹿でかい大名置けるか
当時200万石ぐらいあったんじゃないか?
795人間七七四年:2009/01/25(日) 18:55:10 ID:z8hGLN95
>>794
だからって島津にしても(北条にしても長宗我部にしても伊達にしても)、いきなり現れた中央による
中央の理論の押し付けに、はいそうですかと従う義理はないって話ですわ。

正しい正しくないの世界じゃないからね。利害問題。
796人間七七四年:2009/01/25(日) 20:04:14 ID:3I118l78
つ「勝った奴が偉い」

まあ…負けた奴が何言っても意味ないよね
自分も人から奪ったわけで
797人間七七四年:2009/01/25(日) 20:23:44 ID:pZQjqtM3
その三成の家臣、小幡助六の身を挺した忠義のお話

関ヶ原で西軍が敗れた後、三成ら敗走した諸将の捜索が行われていた頃、1人の男が捕らえられ家康の前に引き出された
名を小幡助六郎信世、三成に仕え二千石を与えられていたという男である

この助六、三成の居場所を教えよと詰問された所
「勿論、主君の居場所はよく存じております。が、それがしは年来恩を受けた身であり、今この難儀を逃れる為に口を割るような不義は致さぬ
たとえ骨を砕かれようとも断じて申しませぬ故、試しに拷問にでもかけてはいかがか」
と堂々たる態度で己の覚悟を言い切った

これを聞いた家康大いに感嘆し
「この者まさしく忠義の士である。三成の行方は知らないのだろう。知らないからこそ1人落ち行く所を捕らえられたのだ
このような士を拷問する必要など無い。将たる者は忠臣義士に情けをかけるものである」
と言った後に縄を解くよう命じ、「何処へなりと行くがよい」と釈放してしまった

釈放された助六はその足で近くの寺へ入り、寺の者にこれまでのいきさつを話した後
「思いがけず赦されたとはいえ、このまま生き永らえていてはまた辱めを受けるか知れない
此処を死に場所とするので、屍は密かに埋葬して頂きたい」と頼み自害した

この報を受けた家康は、家臣達に
「やはり小幡は忠義の士であった」と語ったと言う
798人間七七四年:2009/01/25(日) 20:39:43 ID:wI9LcrZn
だが結局捕まる三成。
報われないなあ…
799人間七七四年:2009/01/25(日) 20:58:07 ID:G8EyYZQq
家康から命ぜられたとは言え、捕まえたのもかつて三成から恩を受けた田中吉政ってのもねぇ
800人間七七四年:2009/01/25(日) 20:58:12 ID:0clTdren
三成の人の機微のわからなさからすると、家臣にこれだけ慕われてるのは実に不思議
801人間七七四年:2009/01/25(日) 21:00:25 ID:z8hGLN95
>>800
下僚への接し方と、同僚への接し方は別だからねえ。
会社でもよくいるでしょ?部下からはやたら慕われているんだけど、会社内では
孤立しているタイプ。
802人間七七四年:2009/01/25(日) 22:49:59 ID:TF7a7ZLf
>>792
伊作家は庶流だろと言う突っ込みはありなのだろうか…
803人間七七四年:2009/01/25(日) 22:59:06 ID:8sFwgGcB
>>802
分家と云えど島津家だからな…本家を継いだ身でもあるわけで。
というか秀吉に比べれば伊作家だろうが相州家だろうが信濃島津氏だろうが「名門」だと思う。
804人間七七四年:2009/01/25(日) 23:15:47 ID:Dzi1bACr
豊臣氏の名前も磐石の体制築けていれば新たな名門になったのに。
氏族として認められた矢先の関ケ原だからな・・・・
豊臣氏の流れって今残ってないよね?
805人間七七四年:2009/01/25(日) 23:27:40 ID:Ct2nsKTq
羽柴利次が豊臣と言えなくもない。
806人間七七四年:2009/01/25(日) 23:33:53 ID:G8EyYZQq
>>804
木下家が江戸時代でも豊臣を本姓にして明治まで残ったからその系統が続いてるんじゃないの
807人間七七四年:2009/01/25(日) 23:49:49 ID:qeR6kLvW
>804

華族類別録第75類豊臣朝臣てのがありますよ。
家としては残っていたようで。
808人間七七四年:2009/01/26(月) 00:38:21 ID:Ud+M2gkn
滝口に豊臣姓がいたはず。
809人間七七四年:2009/01/26(月) 00:57:50 ID:sAm0JJq4
とはいえ木下家定は秀吉と血の繋がりはないんだよなあ
810804:2009/01/26(月) 01:08:16 ID:oc4jx1/g
皆さん詳しいです
豊臣氏の流れは残っているんですね
勉強になりました
811人間七七四年:2009/01/26(月) 01:14:46 ID:rGGV7gxs
氏としては残っているけど
秀吉の血統は残ってないって事だ罠
812人間七七四年:2009/01/26(月) 01:19:24 ID:UR544KMq
千姫に子供がいたらやっぱり殺されてたのかな
813人間七七四年:2009/01/26(月) 01:25:19 ID:Ku22NSuX
生かされたとしても出家させられたろうな。
814人間七七四年:2009/01/26(月) 01:37:29 ID:QQjvNN2w
天秀尼が殺されてないんだから、女子なら殺されないだろ。
男子なら保証の限りではないけど。
815人間七七四年:2009/01/26(月) 04:28:27 ID:nUjzRuGW
有名な話だけどまとめサイトになかったので
中島可之助、信長との会見

1575年長宗我部元親は信親の烏帽子親を信長に頼み、同盟を組もうと中島可之助を織田へ遣わした。
中島可之助は信長と会見したさい信長から「元親は無鳥島の蝙蝠」と言われてたが中島可之助「蓬莱宮の寛典に」と言い返した。
信長はその答えを賞賛し、烏帽子親を引き受け、元親の四国切り取りを自由にした
816人間七七四年:2009/01/26(月) 07:35:19 ID:vWXm9lkK
>>748
�落語でこんなのがあったな。
817人間七七四年:2009/01/26(月) 09:36:15 ID:XrlDK27r
>815蓬莱島の寒天、とも聞いた。音だけ一緒で益々意味は不明だがw

〜時代は下って〜

宮内少輔「信長公は倅の烏帽子親まで引き受けてくれたのにひどいです、四国を完全制圧して私と倅を滅ぼそうとしてたですー」

惟任日向の人「じ、自分に四国攻めの采配をお任せいただければこんなことには……(涙)」

〜更に下って〜

センゴクの人「大友義統殿に泣きつかれたので、仕方なかったんで御座るよ〜 ごめんね♪」

all「ごめんで済んだら石川五右衛門は放免なんだよゴルァ!」
818人間七七四年:2009/01/26(月) 10:07:39 ID:fxrpYDCw
>>797
身を挺した忠臣がいるかと思えば、ちょっとまぬけな家臣も…

長宗我部鞍

長宗我部盛親の家臣に中ノ内惣衛門と言う人物がいた。盛親は
大阪の陣で敗北し、落ち延びようとしていた。
盛親は空腹を堪えきれず、惣衛門に食料の調達を命じた。惣衛門
は近くの村で餅を村人から買い、盛親に届けた。だがこれが運の
尽きであった。惣衛門は身なりこそみすぼらしく、まるで流人の
ような風体であったが、村人に餅と引き換えに差し出した物は、
なんと黄金の小判であった。村人は怪しみ、即刻領主の蜂須賀家に
通報した…。
盛親一団は捕縛され、盛親は斬首された。惣衛門は奇跡的に助命され、
盛親から託された馬の鞍を携え土佐に帰り、帰農したと言う。

後にこの惣衛門の子孫が蜂須賀家に取り立てられたらしい。そこで
家伝の盛親の馬の鞍に、ぜひ乗ってみたいと言う物が続出。新参の
子孫が 断れるはずもなく、希望者全員を鞍に乗せた。だが蜂須賀家の者は
即座に落馬し、子孫や長宗我部縁者の者は悠々と乗りこなせたと言う。
皆は盛親を慮って「長宗我部鞍」と名付け、特に長宗我部の旧臣達は
これを敬い、亡き長宗我部家を偲んでいたと言われる。
819人間七七四年:2009/01/26(月) 11:23:30 ID:rDbaM8Ub
>>818
盛親が小判使って見つかる話は悪い話でガイシュツ
820人間七七四年:2009/01/26(月) 11:39:01 ID:lpDsy9Uj
中ノ内惣衛門にスポット当ててるから、俺はOKだと思う。
小幡助六と対照的で面白いね。
こう言う話は被ったり、バリエーションが有ったりするから、無下に「既出」
で切って捨てるのはどうかと思う。
821人間七七四年:2009/01/26(月) 11:45:51 ID:cEFyWTAh
っていうか鞍の話だしね。
全然既出じゃないよ。
822人間七七四年:2009/01/26(月) 13:31:09 ID:EYZqNob7
池田光政って地元では名君と呼ばれてるらしいんだけど
バラ寿司の話を聞く限りではただのケチにしか思えんのだが

誰か光政絡みでちょっといい話を紹介してくれ

823人間七七四年:2009/01/26(月) 15:33:09 ID:zcmTakh4
そこまで行くと戦国じゃないような。
824人間七七四年:2009/01/26(月) 16:18:20 ID:cEDjWc8b
>>822
生まれが1609年で戦国どころか安土桃山にもかすってすらないんですが
825人間七七四年:2009/01/26(月) 17:08:27 ID:3AaH0gaU
大阪の陣でも7歳だしなあ。島原の乱に参加したわけでもないし…。
826人間七七四年:2009/01/26(月) 19:10:46 ID:7/OHwqv9
>>822
前の方に
家康のお目見え時に拝領した短刀をその場で抜いて、
輝政に咎められたが、家康にその大器を誉められたとある
現役世代に係わってるのはこれ位かな
827人間七七四年:2009/01/26(月) 19:29:52 ID:gQd2sRVn
>>804
一族が貧弱で秀吉一代の成り上がりに過ぎないし、家康が放置するはずが無い。
ねねの実家の浅野家は特別扱いだったけど。
828人間七七四年:2009/01/26(月) 19:50:53 ID:t6rlNwzj
まあここは戦国時代限定だ!絶対限定だ!とするよりも
多少違う時代の逸話もOKという柔軟性のあるスレであって欲しいなあ。
まあ俺の個人的願望だけど。
江戸時代のいい話・悪い話、室町時代のryといった具合に姉妹スレを立ち上げてもいいかもしれないね。
立ち上げるとしても日本史板だと人いなさすぎなんだよなあ…
829人間七七四年:2009/01/26(月) 19:56:25 ID:3AaH0gaU
>>828
ここも最初は人いなかったんだぜ…。
1日1スレあるかないかみたいな時期も結構あったw

まあ、ここも足利義教の時代あたりから、江戸初期くらいまでは普通にカバーしてると思うけど、
日本史ちょっといい話悪い話も、確かにほしい気もするね。
830人間七七四年:2009/01/26(月) 19:57:09 ID:Sh9ljRpG
現存の武田信玄と柴田勝家が話題に出てくるくらいだから
多少関わってる(子孫とか因縁とか)なら許容範囲ってとこじゃない?
831人間七七四年:2009/01/26(月) 19:57:59 ID:Kf5D7w3j
一日一スレって大賑わいじゃないか
832人間七七四年:2009/01/26(月) 20:04:23 ID:3AaH0gaU
だなw>>831
1日1レスですw
833人間七七四年:2009/01/26(月) 20:32:31 ID:gQd2sRVn
>>802
同族間の婚姻で血の濃さは、本家も分家も似たようなものかな
834人間七七四年:2009/01/26(月) 20:33:33 ID:gQd2sRVn
>>800
家臣には手厚く遇するよね。島左近とかその他にも。
835人間七七四年:2009/01/26(月) 21:30:11 ID:ULiecaQj
>778亀れす 

前田利家に限らず越中一向一揆では織田家総出で・・
その後も魚津城の根切りや北条征伐八王子攻め、いろいろやってるけどまあ、その

おまつさんが案じたのも無理はないというか

↓こんなかんじ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-44.html
836人間七七四年:2009/01/26(月) 23:40:49 ID:ZsLV8D9u
黒田長政と不仲となった後藤又兵衛の話は有名だけど。

執拗な奉公構で追いやられた京都にて。

粘着な黒田長政、何とか又兵衛をぶっ殺したいと
又兵衛には面の割れてない2人の剣客を雇い入れ、
福岡から京都へと向かわせた。

又兵衛の深夜帰宅途中を狙うも、なかなか隙を見つけることができず
刺客はなかなか襲いかかれない。やがて無人の小道に差し掛かった。

急に又兵衛が振り向き、彼のほうから笑顔で声をかけた。

「あんたら、見かけない顔だがおそらく刺客であろうな。
無理だ、無理だよ。遠路はるばる来たのに相手もせずに無駄足に
なってしまうが、こんな乞食浪人相手に死ぬことはもっと無駄だろう。
やめとけ、やめとけ。」

手練の刺客らは呆気にとられるも又兵衛の迫力に押され、すごすごと
福岡まで逃げ帰ってきた。
切腹覚悟でおそるおそる主人の長政に事の次第を報告した。

脇息にもたれ事の始終を聞いた長政は、暗い表情で答えた。
「又兵衛であったならばそうであろうな、
つい腹が立っての短慮であったが、お前たちにはそもそも無理というもの。
遠路はるばるの仕事、大義、ご苦労さん早く帰って休め。」
とねぎらいの言葉をかけたという。

粘着で陰気な長政であったが、よく人の資質を見抜く力はあった。
837人間七七四年:2009/01/27(火) 01:03:42 ID:bOGd/W0d
>>719に出ていた信長と僧とのやりとりを詳しく(悪い話かと思うが流れ上こちらで)

天正初期、諸国を廻る無辺という僧がいた。
無辺は自分の生まれた所も親も知らないと公言していた。
そして自分は不思議な法を知っていて、これを伝授された人は災いをのがれ、
末法にはすべての罪が消えると言っていた。
この説法を聞いた民衆は彼を信仰し銭や米が無辺のもとに山のように集まった。
されど無辺は銭や米を目にもかけず、
各地に夕方やってきては朝には旅立っていた。
ある時、安土にやってきたのを聞き信長は無辺を呼び出した。

信長「お前が無辺とかいう僧か?」と睨みつける
信長「お前の生まれはどこだ?」
無辺「無辺」
信長「無辺とは何処だ?唐か?天竺か?」
無辺「天にあらず地にあらず、そして空にもあらず」
信長「天地にないだと?それならば何処に安心立命するんだ?」
無辺「・・・・・・・」答えられず沈黙
信長「有情無情、天地をはなれることあらず。さてはオマエ化け物だな。よし試してやろう!」
信長、馬の灸に使う鉄を焼きゴテのようにして無辺の顔に当てようとする。
無辺「わ、わたしは、で、出羽の、は、羽黒山の者ですっ」
怯えきった無辺はガクガク震えながら白状した。
信長「オマエ最近、弘法大師の再誕だの言って妖しい術を見せただろ?オレにも見せろや」
怯えきった無辺、返事も出来ず
信長「このような売僧に領内をうろつかれたら、領民はたぶらかされ、
理由なく神仏を祈るようになり、筋の通らない幸福を願うようになる。
無辺!オレの手にかかり、その後、神通力で生き返ってみろ!」
と言い、たちどころに殺してしまった。
838人間七七四年:2009/01/27(火) 01:08:08 ID:u6bganoq
>>837
実はこれにそっくりの話が室町中期にあったりする。
そっちの方は最後に幕府の捕吏によってとっつかまるお話だけど。
839人間七七四年:2009/01/27(火) 01:16:08 ID:bOGd/W0d
>>838
そうなんだ。
この話はよく見ると信長は本職の僧に禅問答で圧倒してる。
信長も古典や仏教の素養がかなりあったのだろう。
ただ殺す必要があったかは微妙
840人間七七四年:2009/01/27(火) 01:38:44 ID:C+hXk25b
>>839
禅問答じゃないだろ。
真言宗か天台宗(修験)だろ。
841人間七七四年:2009/01/27(火) 01:39:09 ID:Ly5ZIy08
>このような売僧に領内をうろつかれたら、領民はたぶらかされ、
理由なく神仏を祈るようになり、筋の通らない幸福を願うようになる

殺した殺さないはともかく、いい話じゃん
842人間七七四年:2009/01/27(火) 02:07:24 ID:bOGd/W0d
>>840
無辺は修験者か密教僧なのかもだけど、
信長との問答は禅問答的じゃないか?
禅僧が問答したときだけ禅問答と言うならオレの間違いだ。
843人間七七四年:2009/01/27(火) 02:16:19 ID:5ez0gORX
では>>837の話をいい話スレっぽく

続き。
その後、信長はこの無辺を泊めていた寺(忘れた、すまん)の住職を呼び出して詰問した

「なんであんな腐れ坊主を泊めていたんだコラ」

その返答

「実は寺が古くて一部は破損して、修理費も捻出できないので人寄せの為に泊めていた」

それを聞いた信長

「だったらオレに言えよ」

そう言って修理費用を寄付した。
844人間七七四年:2009/01/27(火) 02:19:03 ID:XWgg1Fni
>>843
ツンデレワロタw
845人間七七四年:2009/01/27(火) 02:20:42 ID:u6bganoq
>>843
こういう後日談がすぐ出てくるところが、このスレのすごいところだな。
846人間七七四年:2009/01/27(火) 02:24:11 ID:f3uQqwZj
信長いい漢すぎる
847人間七七四年:2009/01/27(火) 02:25:21 ID:64z4vJzz
信長公記の臍くらべ
ttp://souta13.blog.shinobi.jp/Entry/31/
処刑されたのは
無辺という人が女性にゴニョゴニョしたかららしい
848人間七七四年:2009/01/27(火) 02:30:19 ID:u6bganoq
信長といえば、若い頃うつけだと言われてた件だが、あれはうつけの振りをしていたとか
言われるが、どうも本当にグレていたらしい。
そして平手政秀の諫言と切腹で、本当に立ち直ったらしい。信長は後年まで
平手さんに感謝している。
849人間七七四年:2009/01/27(火) 02:32:04 ID:KXoDVN/W
>>847
臍は分かったけど"くらべ”が分からない
850人間七七四年:2009/01/27(火) 02:37:22 ID:lfEddbti
>>847
こういう奴いつの時代でもいるんだな。
851837:2009/01/27(火) 03:18:08 ID:bOGd/W0d
なんとこんな余話があったとは・・・・
やはり信長公記などの全文を見なければダメなのかも
オレが参考にした本には問答の末、
無辺を殺したとしか書かれていなかったので
信長さん本当にすみませんでした。
反省します。
852人間七七四年:2009/01/27(火) 03:23:23 ID:tSFmguwR
>>847
ちょっと何処ろではない悪い話だな
853人間七七四年:2009/01/27(火) 03:30:50 ID:EiAHiRwo
補足がすかさず入るあたりがこのスレのいい話。
854人間七七四年:2009/01/27(火) 03:39:15 ID:ReLPZ2Wq
>>847
バイトに落ちたってマジかよ
855人間七七四年:2009/01/27(火) 03:54:54 ID:5ez0gORX
信長って無宗教無神論者のようにイメージが語られるけど、実際は宗教に対しては
かなり理想を求める部分がある。フロイスらキリスト教に好意を示したのも、
逆に堕落した仏教に厳しいのもその現われと言える。

現代からしたらいい話。
熱田大宮司千秋家は源頼朝の母や、足利尊氏の先祖で頼朝に協力した義兼の
母を出したりで武門からは尊崇をうけた。
その千秋家は戦国期には織田弾正忠家に与みし、当時の当主季光は信秀の
稲葉山城攻撃戦で戦死。息子季忠は桶狭間で戦死した。
季忠の息子季信はそのときまだ母の胎内にあり、その後母の実家に預けられた。
季信が十五歳になって信長に拝謁したときにかけられた言葉。

「熱田大宮司職は神祇伯に次ぐ重要な職だが、三代にわたって戦死してしまった。
 以後は戦に出るのをやめて、大宮司職に専念するように。」
856人間七七四年:2009/01/27(火) 05:50:31 ID:64z4vJzz
855>> 堕落した仏教

延暦寺VS園城寺
ttp://homepage2.nifty.com/butuUkai/ganso/enryaku.htm
「興福寺の悪行三昧」
ttp://homepage2.nifty.com/butuUkai/ganso/kohuku.htm

年表見ただけでワロタ
857人間七七四年:2009/01/27(火) 05:53:40 ID:u6bganoq
>>856
そのホームページは恣意的過ぎだよ。
騒動があったと言う事のみを上げてそれを批判してるだけ。
印象操作にしても粗雑過ぎる。
858856:2009/01/27(火) 06:02:09 ID:64z4vJzz
>>857
ちょっはしゃぎすぎた
申し訳ない
たしなめてくれてありがとう
歴史はなぜそれが起こったかの背景など
流れでみないといけないよね
これからは気をつける
859人間七七四年:2009/01/27(火) 09:11:41 ID:OH0sxvvt
慶長3年(1598)11月、徳川家康は京・伏見の自邸に島津義久を招いた。
弟・義弘の、朝鮮での活躍に対する感謝・・・というのはタテマエで、来るべき時に備え、
『鬼石曼子』の協力を得たいがためである。

家康「今日は、良くお越し下さった。これを機に、親しくお付き合いさせていただきたく・・・
   ついては、九州を統一せんとした際の武勇伝など、ぜひお聞きしたいものですな。」

義久「いや、オレはなーんもやってないんで。戦は弟たちや、新納とか家臣のおかげで
   勝てたんで。オレなんて鹿児島で留守番やってただけで」 イッテテカナシクナッテキタ (´・ω・`)

家康「Σ(゚Д゚;) わーっ!! 飲んで!飲んで忘れましょう!この鴨汁なんてサイコーっスよ!」


「もうお帰りになったか。しかし、『愚兄賢弟の見本』というウワサを聞いたが・・・」
「まぁ、自分が無能だっていう自覚があるだけマシじゃね?」 「「HAHAHAHAHA!」」

深く長い、ため息が聞こえてきた。
家康「いやはや、さすが島津は名族であり、義久こそは大将の鑑よ。うらやましいことだ。」

「はて、『自分はなにもしていない』と言う男が、なぜ大将の鑑なのでしょう?」

家臣の問いに、家康は忌々しげに答えた。
「大将自らは動く事なく、勝つ。これが名将でなくて何であろうか!もし、本当に義久が
忠義を捧げるに足らぬ愚者なら、今の世では弟だとて、いや弟だからこそ、裏切っておるわ。

また、主の功を上回る臣、これも義久が真に愚将ならば、ねたみを覚え、誅殺していよう。
主が臣を信じ、臣が主を信じているからこそ、義久は動かずして家臣を使えたのだ。

その証拠にあの嘘つきめ、耳川の合戦には出陣しているし、沖田畷の戦でも、後詰めとして
肥後まで出ておる。当主として、命運の掛かった戦には、責任を果たしているのさ。

・・・やれやれ、どうやらわしは一生、戦場に立たねばならんようだの。」
860人間七七四年:2009/01/27(火) 09:37:03 ID:VdEKwkyB
出来る、出来すぎる弟を持ったお兄ちゃんの悲哀だね。

でも、かなりケチというか兵隊さん、ちっとも送らなかったから
弟死にそうだったぞ。
861人間七七四年:2009/01/27(火) 09:58:02 ID:KZZ4d7dB
まあ義久の言葉を素直にとるか家康の言うことに真実があるか考えさせる逸話ではあるな
862人間七七四年:2009/01/27(火) 10:11:13 ID:1W8iPTW9
>>860
上方の戦より国許の備えを優先したんじゃね?
関ヶ原当時は肥後や豊後の情勢が東西分かれてヤバかったから。

維新斎は当初東軍につく段取りだったていうし…
863人間七七四年:2009/01/27(火) 11:01:57 ID:VdEKwkyB
朝鮮の時も送んなかったから、太閤殿下の
ご機嫌そこね、御家ぶっ潰されそうで恐かったぞ。

国元がどうのこうの、だろうけどそれにしてもだなあ。。。
864人間七七四年:2009/01/27(火) 11:13:23 ID:V15Fp3s3
送らなかったと言うより
家臣団が強烈なのが多すぎてまとめて送れなかったというか
梅北みたいに反乱起こす香具師もいれば
薩州家忠辰みたいに勝手に独立軍送る香具師もいたしなぁ

書いている内にだんだん悪い話になってきた希ガス
移動するか・・・
865人間七七四年:2009/01/27(火) 12:37:43 ID:cmdbMuTs
梅北は義久に誅殺された大野忠宗とも繋がりがあったとか無かったとか
866人間七七四年:2009/01/27(火) 13:56:10 ID:1W8iPTW9
>>836
お互い能力は認め合っていても、こりゃ性格面で相当相性が悪かったんだろな……
867人間七七四年:2009/01/27(火) 16:00:18 ID:bQky3YxP
今、信長様がおられたら某クサレ新興宗教団体どもは根切りにされてるな
868人間七七四年:2009/01/27(火) 17:47:21 ID:bOGd/W0d
信長は京都への往復の際、美濃と近江の境の山中というところを通っていた。
そこを通る際に不具の者が雨露に打たれ乞食をしているのを見た。
信長はそこを通るたびいつも見るこの者を不憫に思い、
ある時、この乞食を知る者に尋ねた。
「乞食というものは元来、住所不定の者であるのに、
なぜこの者はいつも同じ場所にいる?
なにか理由でもあるのか?」
尋ねられた者が言う。
「この者は昔、ここ山中の宿で常盤御前を殺したゆえ、
その因果によって先祖代々不具に生まれ乞食をするのである。
世間では山中の猿と呼ばれている。」
と答えた。
ときは過ぎ天正三年六月二十六日、信長が上洛したとき、
不意に山中の猿のことを思い出し、木綿二十反を持ち、
山中の宿に、その村の住人すべてを呼び出した。
なにを仰せ付けられるかと住人一同心配しながら集まったところ、
信長は木綿二十反を山中の猿に与え住人たちに言った。
「その半分を売り、家を建て、餓死しないように情をかけてやれ。
なお隣家の者たちは、麦、米が出来たらそれぞれ一度ずつ、
毎年少しずつとらせたら、この信長に対しても祝着に思うであろう。」
と申しつけたので山中の猿だけでなく、山中の町のすべての者に、
袖をしぼらぬ者はなく、供の者たちもその慈悲深さに感じたという。
869人間七七四年:2009/01/27(火) 18:11:07 ID:1W8iPTW9
>867
それを当時、極めて大規模に10年やったのが石山戦争…か
最初は特に織田と敵対していたわけでもなかった風だけど。元亀天正のは信長包囲網の(実質)最大勢力だろ?

一向の教義が先進的だったのかどうかわからんが“あの”三河武士ですら一揆に童心するヤシがいたんだから、すごい浸透力だよな

870人間七七四年:2009/01/27(火) 18:33:58 ID:Tl9IRfQY
織田家中はもともと本願寺とは仲の悪い法華信者が多かったからなあ
871人間七七四年:2009/01/27(火) 18:46:23 ID:gHXTsElG
信長の心意気

フロイスはキリスト教の布教許可の朱印状を得るため、織田家臣のキリシタン・
和田惟政に頼んで、信長との面談を果たした。
フロイスは布教許可を得るために銀や西洋の物品を献上しようとしたが、信長は
その申し出を断ってこころよく布教を許可した。

信長はフロイスにこう言った。
「ワシには金も銀も不要である。もし布教を許可するためバテレンから贈り物を
受け取れば、ワシの品位は失墜するであろう。」
次に惟政にこう言った。
「ワシがバテレンに粗野で非人情な対応をすれば、果たしてインドやフロイスの
出身であるヨーロッパ諸国にワシの良い評判が届くだろうか。惟政はどう思う?」

フロイスは「日本史」にて信長のやりとりをこう記している。
872人間七七四年:2009/01/27(火) 18:51:59 ID:4SJxTy/E
>>860
大体関ヶ原に兵を送れなかったのは
義弘さんの息子さんが京都で伊集院忠棟斬り殺したのが原因で
薩摩で反乱(庄内の乱)が起こって国がメチャメチャになったからじゃないの…
子の因果が親に報いというか何というか
873人間七七四年:2009/01/27(火) 18:58:13 ID:gHXTsElG
>>869
>それを当時、極めて大規模に10年やったのが石山戦争…か
確か、信長は本願寺教如に挑戦状を書いているよね。
内容は忘れたけど、〆は「坊主(教如)がくたばるか、オレ様がくたばるかだ!」
って「直江状」ばりに結構カッコよい書状。内容知っている人書いてくれ。
874人間七七四年:2009/01/27(火) 18:58:35 ID:3JYWO55m
>>871
大内義隆「さすが信長殿は天下の覇権を握られたお方。
      贈り物を貰わないとバテレンの布教を許可しないなんて器の小さい奴の所業じゃ。
      我が大内家も父の代に天下の覇権を握った名門よ。勿論布教許可に貢物なんていらぬわ」
875人間七七四年:2009/01/27(火) 19:05:39 ID:P0q9MJQE
>>874
なげーよw
876人間七七四年:2009/01/27(火) 19:06:43 ID:FhHoy/Z1
平手『人から物を取らないとは…』
877人間七七四年:2009/01/27(火) 19:19:04 ID:1M08sK3h
まとめ見て思ったけど民衆が宣教師をやり込めた話はあっても坊さんがやり込めた話ってなくね?
878人間七七四年:2009/01/27(火) 19:33:16 ID:WBpi6cut
>877
つ 蓮如(のお文)シリーズ
加賀や越前、吉崎御坊の連中はそりゃもう、すごかったンだから・・らしい

臨済や曹洞の坊さんで立派な人も、有力武将を教育したり文通や問答してる人けっこういたよな。
879人間七七四年:2009/01/27(火) 19:34:44 ID:WBpi6cut
>>872
さすがはDQN四天王!家督前からやらかしてますなァ

 ソコに痺れ憧れ・・・ねーよw
880人間七七四年:2009/01/27(火) 19:42:33 ID:1M08sK3h
いや、坊さんが宣教師をやり込めた話はないなぁと思って
逆にやりこめられて逆ギレした話はあるけどさ
881人間七七四年:2009/01/27(火) 20:16:34 ID:CijNhk+Y
宣教師って話を摩り替えちゃうから困る
882人間七七四年:2009/01/27(火) 20:27:37 ID:bOGd/W0d
>>880
この時代は日本全体がキリスト教に対してそれほど警戒していなかった。
キリスト教も、神道の八百万の神々、仏教で言う八万四千の法門の一つで、
教え方は違うが根源である真理は同じと神職、僧ともに考えていたみたいだね。
しかし少し時代が下ると多神教風土の日本とキリスト教の相容れない部分が鮮明化しだす。
この時分になると当時のインテリの重鎮、林羅山みずからキリシタンと論戦して勝利している。
そしてキリシタン弾圧、島原という流れ。
島国根性とか言うが、日本人は外来に寛容。
ただ相手が敵なり工作員だったりする場合、気付くのが遅い・・・・
今もそんなとこあるような
883人間七七四年:2009/01/27(火) 20:43:42 ID:jQ+y7nnO
考えてみれば八百万の神と仏教が普通に混在してる宗教観も凄いよね
神道祭祀長である天皇が、上皇になれば出家して法皇とか。親王が座主とか門跡とか。
古代の頃より機会主義的だったということかな
884人間七七四年:2009/01/27(火) 21:18:31 ID:T9dLxfTO
>>861
いやどう考えても義久の謙遜だろ…日本人的に考えて
五大老筆頭の家康の前で「全部俺が一晩でやってくれました」とか言えるわけないじゃん
885人間七七四年:2009/01/27(火) 21:21:09 ID:bOGd/W0d
>>883
神道、仏教ともに八百万の神々と八万四千の法門という他派を許容する宗風なのであまり不思議ではないような。
機会主義ではなくて神仏習合の考えのもとの共存共栄主義だと思っています。
886人間七七四年:2009/01/27(火) 21:28:29 ID:rXHLDhQf
ヒンドゥー教も似たような感じなのかな?
887人間七七四年:2009/01/27(火) 21:29:02 ID:u6bganoq
つーか、信長は本願寺を根切りになんてしてないぞ。
信長が戦ったのは、あくまで「大名」としての本願寺だ。
信長の領内で浄土真宗が禁止された事例は一切ない。
そして本願寺との最終的な和睦の形式も、大名同士のそれと一緒だ。


本願寺との戦いを宗教戦争だと定義するのは、「革命家信長」像からくる
典型的なミスリード。

あと、本願寺は新興宗教じゃない。信長と戦ってる時点で宗教としては既に歴史も権威も
ありすぎる。
本願寺と戦う羽目になったのは、まあ、信長はそう言うのばっかりなんだが、
ずさんな政治工作で取り込みを失敗して、戦わなくて言い勢力をわざわざ
敵陣営に向かわせてしまった面が大きい。

信長の失策なんだよ。
888人間七七四年:2009/01/27(火) 21:46:55 ID:u6bganoq
ついでに言うと、「信長が本願寺の本拠地大阪を求めて戦った」、って言うのもウソ。
城の破却と領地の割譲は大名同士の戦争で和睦が行われる場合の通例で、
信長と本願寺もそれに従ったに過ぎない。
そして本願寺の大阪退去は、1580年の最終的な和睦条約において始めて出現したもの。

本願寺にしてもそうだが、比叡山にしても興福寺にしても、現代の宗教勢力と違い、
「大きな封土を持つ大世俗勢力」と言う面をきちんと把握しないと、あの時代の読み方を間違える。

ちなみに本願寺支配化の地域では、布教の自由も含めた、完全な「信仰の自由」が
保障されていた。他宗派の寺社領の保護もきちんとなされていた。
つまり宗教団体としてより、封建領主としての本願寺の面こそが、当時の実態だったんだよ。
889人間七七四年:2009/01/27(火) 21:51:06 ID:jGq4czMg
871>

細かいところですマン。
和田惟政は、イエズス会に心をよせ便宜を図ったが、摂津の荒木村重戦で
討ち死にするまで決心がつかず受洗はしなかったし、そのことを
フロイスはずっと悔やんでいた。

信長は、いくつかの献上品を見て迷ったが、敢えて高価そうな時計は
西洋人の手になければすぐに壊してしまうだろうからと辞退し
確か西洋の帽子を選んだのでは。お洒落だったんだね。

信長は、イエズス会の組織化された通信網を知っており、「日本国王」
として西洋に自分の名声が及ぶことを非常に意識した、国際感覚を備えていた点で
出色の政治家だった。

安土城下の壮麗な屏風絵を、イエズス会を通じてローマ法王に贈呈したが
現存は確認されていない。その絵を見ていた正親町天皇が所望したが、
信長は、あんたにはあげないよ、とすげなかったとさ。
890人間七七四年:2009/01/27(火) 22:13:29 ID:u6bganoq
>>877
> まとめ見て思ったけど民衆が宣教師をやり込めた話はあっても坊さんがやり込めた話ってなくね?

当然。なぜなら宣教師が坊さんをやり込めたと言う話は。『100%』宣教師自身の
記録であり、逆に言えば宣教師自身の記録にしかない。
はっきり言えば一方的勝利宣言の記録。

だいたい宣教師の文章は、本国に好印象を持ってもらうためもあって、自分たちの活動を、
何かにつけ大げさに書きすぎている。

逆に日本側には、浄土宗や法華や曹洞宗などの間の宗論の話は残っているが、
キリスト教との宗論の話は、どのような記録にも一切残っていない。

記録がすべて消滅したと言うのは非常に考えにくく、当時のキリシタンには、本格的な宗論を
行えるほどの力はなかったと考えられる。
891人間七七四年:2009/01/27(火) 22:29:08 ID:nXzywpnJ
大分、後世になるが江戸時代にシドッチという宣教師が日本に潜入し、捕えられて
新井白石と問答した時に、シドッチが天地創造神話を語ると白石は
「天地万物が神が作ったというなら、その神は誰が作ったのか?」
と問いただし、シドッチもこれには返せなかったらしい

最も白石は神道や仏教の創世神話も信じていなかったようだが、キリスト教のそれは
神道や仏教に劣ると評している
892人間七七四年:2009/01/27(火) 22:46:43 ID:jGq4czMg
当時、イエズス会は宗論では苦戦も多かった。
その一方で、坊主どもの堕落不勉強も負けず劣らずなかなかで
結構いけてる時もあった。
信長の出席下の法華宗日乗との論戦は有名、へこまされた日乗が
刀を振り回し暴れ、イエズス会が勝ったことになっている。
負けて信長に首を切られた真言の坊主もいた。

言語の問題が大きかったが、カトリック側のイデオロギー的混乱もあった。
ゼウスを大日如来と訳してしまった当初の混乱、どうも
最初の日本人修道士、アンジロウらしいが。
元琵琶法師ロレンソは、かなり善戦し多くの信者を得たし、信長の
覚えもめでたかった。

神を作った物など存在しない、なぜならば最初の差異を為すものは
言及不可の超越者であり、差異は無限の連鎖を為すのは超越者が存在する証、
という論法ではなかったかいな。

誰か当時の神学に詳しいお方・・・
893人間七七四年:2009/01/27(火) 22:52:06 ID:u6bganoq
>>892
> 信長の出席下の法華宗日乗との論戦は有名、へこまされた日乗が
> 刀を振り回し暴れ、イエズス会が勝ったことになっている。
> 負けて信長に首を切られた真言の坊主もいた。

それもイエズス会側の著述にしかない。

だいたい日乗は、その「論戦」なるものがあったと言われる時期以降も
信長に重用されており、信長が、目の前で刀を振り回すような不始末をした人間を
そのまま召し使うとはとても思えない。だいたい刀振り回すような事態になれば
必ず話題になり公家などの日記にも出てきそうなものだが、そういったものも存在しない。

このようにキリスト教側の記録と言うのは、そうとう気をつけて読まないといけないのですよ。
894人間七七四年:2009/01/27(火) 23:13:09 ID:jGq4czMg
893>

日乗の件、確かにその点はそうだわいなあ。。日本側からの検証は不能。
ただ江戸時代に膨大な記録が綿密に抹消された可能性はあると思う。

当時のポルトガルがもたらした航海術、天文学、地誌学、
諸々の科学への憧憬とカトリックとが二重に重なり、
仏僧の世俗化にうんざりしていた武士、商人らは
カトリックへの憧憬へと変わったのでは、と一つの仮説だけど。。
895人間七七四年:2009/01/27(火) 23:20:23 ID:u6bganoq
>>894
> ただ江戸時代に膨大な記録が綿密に抹消された可能性はあると思う。

そりゃ可能性だけならどんな事でもいえるけど…

だいたい、大量の文章の抹消なんて事をすれば、それは必ず行政措置になり、
文章行政の鬼である徳川幕府にその記録が残らないわけがない。

それにそんな大規模な措置が行われれば、必ず話題になりその事自体が記録に残る。
幕府も私的な日記の類に手を出せるわけじゃない。

そう言う論はたまにあるけど、はっきり言って現実的ではないと思う。
896人間七七四年:2009/01/27(火) 23:20:41 ID:28ozKFuN
>>892
信長に重用されて毛利と外交した日乗がそんな醜態さらすとは
俺には思えないんだよねぇ・・・
897人間七七四年:2009/01/27(火) 23:26:29 ID:u6bganoq
>>891
> 「天地万物が神が作ったというなら、その神は誰が作ったのか?」

もうちょっと詳しく言うと、白石が言ったのは

「天地万物を創造したデウスがいるというなら、
デウスにもまた必ずこれを造り出した作者がいたはずだ。

デウスが自ら成り出でることができるものならば、
天地もまた自成し得ることに何の不思議もない」

って事だったそうな。
898人間七七四年:2009/01/27(火) 23:31:59 ID:nXzywpnJ
>>895
江戸時代とそれ以前の記録量くらべても、前者がその数倍あるという現実
それを見れば「徳川家が都合の悪い記録を抹消している」という気持ちは解る
まぁ、書かなかったという事はあるだろうけど、結局的な抹消作業はねーな
899人間七七四年:2009/01/27(火) 23:35:16 ID:u6bganoq
>>898
> 江戸時代とそれ以前の記録量くらべても、前者がその数倍あるという現実

ん?記録量って何の?キリスト教関係の?
どれだけの期間の、何を、何に比べて数倍って事?
900人間七七四年:2009/01/27(火) 23:43:53 ID:zbE9+j+v
日蓮宗でてきたので前田慶次郎と織田家の妙法の旗のお話。

信長は無信仰者だったが、織田家は日蓮宗の信仰の篤い家だった。
織田家では先祖が「南無妙法蓮華経」と書いた旗を作くり軍旗とした。

信長が一向宗の本山である大阪石山城を攻めた際に、
この旗を押し立てて陣を張っていたが、ある日奇襲をうけ旗を奪われてしまった。

これを見ていたのが、当時浪人していた前田慶次郎。
戦見物をしていたものの、血が騒いだのか、旗が奪われたのを見るや奮戦し見事奪い返した。
普通ならこれを功とするのだろうが、慶次郎はなぜか旗を織田家の武将に渡しどこかに行ってしまった。

漫画の主人公っぽい前田慶次郎の良い話。
901人間七七四年:2009/01/28(水) 00:03:02 ID:nkJaaqi/
先輩すげぇ
902人間七七四年:2009/01/28(水) 00:22:54 ID:4HW1TxQL
まるっきり信用しないってのもどうかと思うけどキリスト教的視点で見られる事が多いよね

ザビエルが日本に渡来して島津領に居たときは忍室って坊さんの厄介になってた
ある日ザビエルがふと堂内を歩いていると座禅を組む若い僧達が修行に励んでいる
親しい間柄になっていた忍室がちょうどそばに居たので
( ・∀・)「彼らは何をしているのですか?」
と質問した。すると忍室は
( ´∀`)「あいつは寺にどれだけ寄付がなされたか考え、あいつは出世を考え
     あいつはあまりに退屈だからどうやって暇つぶしをするのか考えている。
     要するにあいつら全員碌な事考えてないよ 。」
( ゚д゚ )「」

忍室にしてみればちょっとした冗談のつもり、
もしくは過去の逸話を引用して本当に禅と言うものを示したのかもしれないが
ザビエルには意図がまったくわからず坊主というものは
必死の行為をあざ笑う低俗な輩という印象が植え付けられたとか

異文化を理解するというものは難しく誤解を生むという悪い話
903人間七七四年:2009/01/28(水) 01:17:28 ID:pvhpUaWj
           ∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |   なにマジになってんの?
          彡   (_●_)    ミ
           /、   |∪|    ,\   この鮭の切り身やるから帰れよ
          /.|     ヽノ    | ヽ
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .‖ /
            ("___|_`つ
904人間七七四年:2009/01/28(水) 01:21:22 ID:glXRoUgG
>>903
鮭ウマー!
905人間七七四年:2009/01/28(水) 01:36:51 ID:b/9H4QuK
>>903肥前の熊様乙
>>904出羽の鮭様乙
906人間七七四年:2009/01/28(水) 03:47:16 ID:MihyWage
馬場信春、合戦を語る

馬場 美濃守 信春。
十八歳で初陣を果たし、数々の合戦で活躍、62歳の時長篠の合戦で討ち死にするまで、
その身に薄手の傷すら負わなかったという、戦国最強を謳われた甲斐武田軍団を象徴する
武将である。

ある時、小山田弥三郎という者が、信春にこう聞いてきた

「あなたは若年より何度も合戦で手柄を立て、弓矢の冥加もきわまるような活躍を
していますね。
特にその戦いの中でかすり傷一つ負わなかったと言うのは、軍神、摩利支天のご加護でしょうか?
そのような手立てがもし、学べるものであれば、是非教えていただけないでしょうか?」

それに対して信春は

「怪我をしないようにする方法…って言っても、教えるような事はないなあ。
戦場は千変万化し、臨機応変が求められるだろ?それで戦って物は、最初の取り決めとは
違ってくる部分が出てくるわけだ。そうなったら取り決めにこだわらず、手筈の違う部分は無理に
修正しようとせず、その流れの中で勝利するよう奮戦する、これが肝要だな。

最初の取り決めのままに戦しようとすれば必ず、その違いに当惑してうろたえ、かえって傷が広がり
大敗北する事にもなり、酷い首尾に終わるものさ。
戦の間中、小賢しく目を見開いて全体の流れを把握するのが重要だな。
良くいくさする者は戦わない、良く戦う者は死なない、って言うだろ?

臆病心が起こると尻込みをし、視野狭窄に陥って間違いを起こす、そう俺は見ている。
まあ、こんな事言うと、『勇猛な奴でも怪我する事あるだろ』なんて言われちゃうな。
俺はそう言う人たちに勝っているわけじゃない。こんな事言うのもおこがましいんだぜ?
まあ、ただ運が良かったんだよ。


昔、小幡虎盛殿と話をした時、こう言われた事がある。
『競り合いの時は敵よりもまず、味方のほうをしっかり見ろ。その上で命を捨てるつもりで
かかっていけば、犬死にする事はない。見殺しになる事はないと信じられれば、手柄も
立てられるものさ。』
俺はこの言葉を一生懸命覚えたなあ。今でもこれは真実だと思ってる。


戦ってものにもな、”色”があるんだ。
例えば、味方が敵国奥深くに入ったときは、無理に手柄を立てようなんて考えるな。
敵の動性を知る事を心がけろ。そうすれば陣を引く時に、しんがりを担当できるし、
それが手柄になる。
逆に敵が国境を侵して領内深くに攻め入ってきた時には、敵の兜の吹き返しか、
敵の指物のゆるぎ様をよーく観察しろ。そこに敵の勢いが見えてくる。
そうして、敵の勢いが盛んな時は手を出さず、勢いが衰えたと見たら、すぐさま打ちかかれ。

でもまあ、これはあくまで一騎がけのときの話だぞ。大軍を任されたときは別の話だ。
え?大軍を任されたときはどうするか、だって?
そりゃ当然、『戦わずして敵に勝つにはどうするか』を、一生懸命考えるのさ。」
907人間七七四年:2009/01/28(水) 09:15:35 ID:WVgclX9Y
馬場さん「不死身の馬場美濃」「不死身の鬼美濃」
原虎胤さん「鬼美濃」

初心者にはこんがらがるんですが…
908人間七七四年:2009/01/28(水) 09:24:39 ID:opnvpq8i
鬼といえば鬼玄蕃
909人間七七四年:2009/01/28(水) 09:32:07 ID:0gFDBy0Y
>902身も蓋もない坊さん...('A`)

「若い僧はまだ煩悩を捨てられず、未熟だから修行に励んでいるのですよ」という婉曲な表現だったのか…

実は後に還俗して武士として名を残したヤツがいたりしねえッスか? <碌なこと考えてなかった小坊主の中に
910人間七七四年:2009/01/28(水) 09:38:49 ID:0gFDBy0Y
>>906
対決!剣豪・塚原卜伝VS鬼の馬場美濃


「どうやって相手を川の中洲に置き去りにできるか考えています」

「そりゃ、戦わずして勝てるのがいっちゃんイイよな!」

〜二人は意気投合しますた〜
911人間七七四年:2009/01/28(水) 10:43:28 ID:y4WcoH0d
>>887
つーか、信長は本願寺を根切りになんてしてないぞ。
本願寺との戦いを宗教戦争だと定義するのは、「革命家信長」像からくる
典型的なミスリード。

信長は敵勢力を寝返らせるけど、宗教で頭逝かれてる連中はどうにもならないと大量に虐殺してる。
宗教勢力が政治に及ぶのを抑えるために、本願寺にいろいろ規制してそれが前面対決につながってる。
宗教戦争といえる。ここで本願寺を叩き潰し、江戸時代は東西に二分したのが結果的によかった。
現在は創価学会というカルトがのさばってるけど。

912人間七七四年:2009/01/28(水) 11:12:04 ID:SRsZX5Cc
>>911
いい加減ウザいから
そんなおまいは塚原さんに斬り(ry
913人間七七四年:2009/01/28(水) 11:31:14 ID:diQhA9hC
吉岡先生でもいいな
914人間七七四年:2009/01/28(水) 11:43:09 ID:J5/e9b0s
剣聖・上泉先生に一票
915人間七七四年:2009/01/28(水) 12:09:12 ID:Dye44eDp
片倉重綱による略奪説と保護説のある真田信繁の娘梅と漏れなく付いてきた次男守信
その保護説を裏付けるとされる逸話

大坂の役後に行われた敗残兵狩り
当然男児たる守信は捕縛対象だったのだが伊達家は高野山に守信の死を奏上
仙台にいる守信は真田信尹の架空の孫として幕府に嘘を届けた
この段階で伊達家と旗本真田家(信尹系)は危ない橋を渡っている

それから暫く後
松代藩主真田幸道が仙台藩主伊達綱村に招かれ仙台に赴いた時の話
幸道が場内を案内されていると結び雁金の羽織(一部資料には六文銭)を着ている伊達家臣を見つけた
名を聞くと片倉沖ノ進という
だが片倉家の家紋は九曜紋、政宗が忠興に強請ったアレである
不思議がって幸道は出自を尋ねた
家紋からすれば滋野氏に縁ある縁者(滋野氏庶流が海野氏でさらに庶流が真田氏)に思われたし曾祖父昌幸の娘は伊達家臣の妻(との説)だったからである
本家と旗本真田家(信尹系)の関係の深さから、幕府と同じ誤魔化しは通じないと思ったのか沖ノ進は恐る恐る自らが真田信繁次男守信の子である事を告げる
この辺りバカ正直としか言いようがない
ところが、幸道は意外な縁を大いに喜んで沖ノ進の手を取って労いの言葉を贈ったと言われる
沖ノ進の出自の隠匿も快諾したそうな、後世の誇張はあるかも知れないがね
後日、幸道が江戸藩邸に居た時、当時の片倉家当主片倉景長の名で沖ノ進の件に関して感謝の旨を伝える使者が訪れたのは現存書状からも間違いなく事実
その後、真田家と伊達家でどんな話がされたかは不明だが「既に将軍家へはばかるを及ばざる」と、時の仙台藩主伊達吉村の命で沖ノ進は真田辰信を名乗る事になる
信繁子孫である事は明治になるまで隠し通したが…
これが今日まで続く仙台真田家
途中で養子が入り嫡流は途絶えたが子孫の方々が本家の子孫同様真田祭りには来ておられます
916人間七七四年:2009/01/28(水) 12:33:46 ID:0gFDBy0Y
>>915イイハナシダナー
真田信繁も大谷刑部の娘をめとってたり、家系って色んなところでつながってるやね。

……九度山でのギシアンにも効能があったということで、信之兄ちゃん堪忍な
917人間七七四年:2009/01/28(水) 13:38:14 ID:uS6m+ZA1
政宗や秀秋がハァハァする美形で大阪の陣じゃ鬼小十郎と呼ばれる活躍
信繁の忘れ形見のあしながおじさんになってその内一人が後妻になる

二代目小十郎のイケメン度は異常
918人間七七四年:2009/01/28(水) 14:35:39 ID:ACul/ecN
政宗「2代目小十郎はワシが育てた」
919人間七七四年:2009/01/28(水) 14:37:57 ID:NkRdi6Ro
反面教師的な意味でですね、わかります
920人間七七四年:2009/01/28(水) 17:10:19 ID:oE7+V2nJ
>>906
長いけど真剣に読んじゃったわ。
当然のことばかりのようで、妙な説得力があるな。
921人間七七四年:2009/01/28(水) 17:12:46 ID:ANw/nlpy
>>906
小山田弥三郎って小山田信茂の兄ちゃんだな。
922人間七七四年:2009/01/28(水) 17:37:49 ID:HGbK7KvA
織田信長が鷹狩りに出たときのこと。
老婆が泣き悲しんでいるのを見た信長。
どうしたのかと理由を尋ねさせると、
老婆の家に先祖代々伝えられた田畑を村名主に奪われ、
飢えと寒さで涙をこぼしているのだと言う。
不憫に思った信長は城に帰ってから、
丹羽長秀に老婆のことを調べさせ村名主を呼び寄せた。
調べた結果、老婆の言い分に間違いがなかったので、
すぐに田畑を老婆に返させた。
遠近の者はそれを伝え聞き、公正な処置に感心したという。
923人間七七四年:2009/01/28(水) 17:50:43 ID:/o4FV7x7
>>909

禅の語録を読んでるとそういう言い回しはよく見るよ。

日本人の俺にも大概わけがわからんのに、
外国人には余計わからんわな。
924人間七七四年:2009/01/28(水) 18:29:55 ID:SB0kzU+z
不正を許さない男!
それが、NO・BU・NA・GA!!
925人間七七四年:2009/01/28(水) 18:33:29 ID:gsVbaQsp
但し森一族を除く
926人間七七四年:2009/01/28(水) 18:50:58 ID:vB/OtNdv
誰か宇喜多直家がどんなに良い奴だったか語ってくれ
あんなに謀殺しまくりってのはよほど普段信用されてたんじゃないかと思うんだ
927人間七七四年:2009/01/28(水) 18:51:22 ID:eAexZrAi
>>926
まずまとめ見とけよ
928人間七七四年:2009/01/28(水) 18:52:23 ID:I4jJwALA
宇喜多直家さん、華麗なる暗殺、粛清遍歴


中山備中…酒宴や狩猟を頻繁に行う仲になり近づき油断したところを直家が直接殺害。
島村貫阿弥…中山備中殺害時に主君との謀計により誘き寄せ少人数で沼城に入ったところを殺害。
禾最所元常…男色の気がある元常のもとに岡剛介を送り込み仕えさせて暗殺。
三村家親…日本初の狙撃による暗殺。
宇垣与右衛門…直家も参加した鹿狩りの時に鹿と間違われて何者かに討ち殺された。
伊賀久隆…直家が饗応した時に毒を盛る。

松田元輝…直家に内応した家臣伊賀久隆の鉄砲隊に撃たれ討死。
金光宗高…家臣殺害を理由に切腹させる。
浦上宗景の嫡子与次郎…城に招待し毒を盛る。
浦上久松丸…対浦上宗景のため擁立したが、後に直家に毒殺。
929人間七七四年:2009/01/28(水) 18:54:02 ID:ngReF72v
「不正」っていうと悪事一般より背信的なものや卑怯なものそんな感じをうけるけど、森一族はそういう感じはしない、特に誰かさん
もう卑怯もなにも構わず一直線
そういえば森+DQNで「もきゅん・MQN」ってあだ名のサッカー選手が現実にいたのを思い出した
930人間七七四年:2009/01/28(水) 18:57:14 ID:Rq9/Bkhu
>>925
毛利秀頼「信長様の鬼武蔵への対応ものすごく・・・甘いです・・・」
931人間七七四年:2009/01/28(水) 19:03:45 ID:EKT1tiyG
>>929
森一族の誰かさんは正々堂々と一刀両断に切り倒すからなw
932人間七七四年:2009/01/28(水) 19:04:51 ID:n1WfQO1Q
>>926
詭道を直進 家を興す  宇喜多直家
遺孤に忠実 家を護る  宇喜多忠家
泳ぎに秀で 家を流す  宇喜多秀家
933人間七七四年:2009/01/28(水) 19:07:15 ID:SB0kzU+z
>>932
大河ドラマ化決定!
934人間七七四年:2009/01/28(水) 19:07:56 ID:Uuufw0vE
>>929
サッカーはしばらく見てないし「もきゅん」も聞いたことないがもしかして川崎の森勇介かな…
怒ってピッチ際のペットボトルを蹴飛ばして退場(うろ覚え)とか色々…
警告、退場数が凄く多いんだよな…氏真公の旧領出身とは思えない。
935人間七七四年:2009/01/28(水) 19:16:27 ID:RetW9+EO
サッカー選手で森っていったら勇介よりレゲエキーパー思い出すよね
J史上最長の出場禁止3ヶ月は森一族の名に恥じぬ
936人間七七四年:2009/01/28(水) 19:21:48 ID:7lrVzZ+/
>>934
森勇介の事だが、もきゅんは2ch国内サッカー板の中でのあだ名だから気にする事は無い
スレチすまん
937人間七七四年:2009/01/28(水) 19:39:44 ID:0gFDBy0Y
>>926いい直家というとあれだよ、
毛利と手切れの時に証人にだしてた戸川秀安の倅を取り戻そうとして……
「安国寺さん拉致軟禁」

まとめスレ見てつか。
938人間七七四年:2009/01/28(水) 19:44:29 ID:0gFDBy0Y
>928
あと島村某は父祖の仇だよん。直家だけがダークザイドだったわけでもなし、ぶっちゃけお互い様なンだから。
939人間七七四年:2009/01/28(水) 19:48:10 ID:5Xj7SCh8
>>907
虎胤さんが最初の「鬼美濃」。
虎胤さん死後に信玄が「鬼美濃の武名にあやかれ」と言って、馬場に美濃守を名乗らせた。
940人間七七四年:2009/01/28(水) 20:30:28 ID:SB0kzU+z
俺、息子が生まれたら鬼武蔵って名前にするんだ
941人間七七四年:2009/01/28(水) 20:37:37 ID:I4jJwALA
生まれる前に死ぬのか生まれてから死ぬのか
942人間七七四年:2009/01/28(水) 21:46:31 ID:eN409pue
細川さんちの料理ネタ

ある日、千利休が細川忠興に鶴の料理を所望した
別にたかったわけではなく、有識故実に詳しい細川家の包丁さばきを見たかったからだ
鶴がないということで鷺をさばいたが、さすがに見事な腕前
利休も褒め称えたが、最後にぼそっと言った
「しかし、なんだかまな板が低くてかっこ悪かったんですが、あれはわざと…?」
料理は作法の一つだから、当然まな板も寸法が決まっている
さっぱり気づかなかった忠興だが、そう言われると気になった
台所の者に聞いてみると、
「す、すみません、随分古くなってたので、ちょっと削って綺麗にしたんですけど…」
とのこと
「いやはや、宗匠の目利きは剣のようじゃわい」
料理してたのに気づかなかった忠興、苦笑するしかなかった

利休の目がいい話
943人間七七四年:2009/01/28(水) 21:49:27 ID:JFwFiH5V
台所のものは、その後手討ちになったのでは。。
944人間七七四年:2009/01/28(水) 21:50:00 ID:xOqIHx7n
名付けた途端、息子に一刀両断されて死ぬんじゃね?
945人間七七四年:2009/01/28(水) 21:50:29 ID:dDfcohRZ
その後の台所の者が無事である事を祈る。
946人間七七四年:2009/01/28(水) 21:58:28 ID:uS6m+ZA1
>>943-945
お前ら仲いいなwww
947人間七七四年:2009/01/28(水) 22:00:35 ID:Rq9/Bkhu
お玉を見てないなら多分無事だ。
948人間七七四年:2009/01/28(水) 22:01:01 ID:h/Q9QXHe
訓練されてる奴多すぎるwww
949人間七七四年:2009/01/28(水) 22:02:08 ID:NvKklBBW
てっきり手討ちにするかと思ってビクビクしてたが、なくて良かったw
…無事だといいが
950人間七七四年:2009/01/28(水) 22:02:35 ID:JFwFiH5V
いやいや、無事に済んだとは到底思えないよお。。
951人間七七四年:2009/01/28(水) 22:05:11 ID:eN409pue
おまえらときたらww
952人間七七四年:2009/01/28(水) 22:06:27 ID:I4jJwALA
※注:このスレはいい話スレです
953人間七七四年:2009/01/28(水) 22:06:28 ID:Tyx3MyIU
ワロタw
しかし利休はさすがだな
954人間七七四年:2009/01/28(水) 22:07:04 ID:nhNST2f2
手討ちにしたかしなかったかないと、落ち着かないというか。
オチつかないというか…もやっとするな。さすが四天王w
955人間七七四年:2009/01/28(水) 22:21:41 ID:MihyWage
970踏んだ方は、宣言してからスレ立てお願いしますー。

↓スレタイ

戦国ちょっといい話6


↓テンプレ


戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231498134/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231113276/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
956人間七七四年:2009/01/28(水) 22:37:51 ID:WAMGXFck
そろそろ鮭が足り無そうなので鮭ネタを

律儀な吉川元春

秀吉の要請で、しぶしぶ九州討伐に借り出された吉川元春
陣中、同友だった黒田如水の接待を受けていた。

如水「元春殿、遠い所、よくぞおいでなされた。ささ、此方へ
本日はご馳走を用意した上、ゆっくりとくつろいで下され」

元春「そうですか、それは有り難い」
如水「本日は市場でいい鮭が手に入りましてなぁ、これで
一杯やろうと思いまして善に用意しておきました」

元春「鮭か……(汗)」

元春は迷っていた。以前から持病である皮膚病を患い、激しい
痛みをともっなっていたからである。
“鮭は血を破る性質がある”持病には悪い事は元春は十分
知っていたが、折角、同友である黒田如水が用意してくれた
ご馳走を一口も手を付けないのは流石に失礼である。

元春「まぁ二、三口(旨そうだし…)程度なら問題なかろう」

体に悪いと知りつつも律儀にも鮭を食べてしまったのである。
結局、それが命とりとなり、陣中、11月15日、九州小倉城で
元春は病死した。

元春の律儀さが命を縮めたのかもしれない。


しかし、如水ほどの男が皮膚病に鮭が悪いってこと位、
知ってると思うが……まさか、初めから狙って……
まさかね(汗
957人間七七四年:2009/01/28(水) 22:39:26 ID:I4jJwALA
既出ネタには噛みつかずに優しく教えてあげましょう
958人間七七四年:2009/01/28(水) 22:39:57 ID:I4jJwALA
>>957は追加案ね
959人間七七四年:2009/01/28(水) 22:40:54 ID:nhNST2f2
>>956
最上義光「ちょw鮭ごときにそこまで執着しなくてもw」
960人間七七四年:2009/01/28(水) 22:45:39 ID:WAMGXFck
元春のまとめに無かったのでカキコしたのだが
既に出てたのか、それは失礼した。
961人間七七四年:2009/01/28(水) 22:47:38 ID:MihyWage
>>960
黒田如水の方で調べるべきだった。
962人間七七四年:2009/01/28(水) 22:58:42 ID:+28/qSuO
悪い話にだいぶ差つけられたなーと思ってたらいつの間にか抜き返してるww
963人間七七四年:2009/01/28(水) 23:04:56 ID:nhNST2f2
>>962
政宗「オレのおかげだろうな、人格者だからな」
忠興「いや、オレたち父子の料理のおかげだ」
鬼武蔵「なーに、オレあっての延びさ」
家久「盛り上げられて誇りに思う」
市松「オレ、大活躍!」
964人間七七四年:2009/01/28(水) 23:13:29 ID:4HW1TxQL
>>909
キリシタン側の記録であることに加えてザビエルが滞在した寺は
既に廃寺になってるからわからないだろうなぁ
965人間七七四年:2009/01/29(木) 00:16:43 ID:snAshfTS
>>963
では、そのうちお二方にご登場願おう

関ヶ原の前哨戦・岐阜城攻めは、福島正則と池田輝政の先陣争いの末、一時この城を
預かった経験から、縄張りを熟知した輝政が一番乗りを果たした。

正則「ギギギ、輝政め、清洲からここへ来る時も抜け駆けしやがって。絶対許さネエ!!」

そんな正則のもとに、輝政から使者がやって来た。
「本日の一戦、滞りなく城を取ったること、『ご同様に』めでたく候。

・・・と、申しておりますが、なんと返事しましょう?」使者の口上を、正則の近習が取り次いだ。

正則「そんなモン、『クソでも喰らえ!』とでも言っとけ!!」

近習が(い、いいのか?!)と思いつつ、返事を伝えるために立ち去ろうとした時、
たまたま福島隊の陣に来ていた細川忠興が、それを止めて正則に言った。

忠興「おい市松、その池田の使者、斬っちまイナー」
正則「おぉぉぉい!?使者はべつに悪くねぇって!なんで、罪もない人間を・・・」オマエガイウナ

忠興「だって、『クソ喰らえ』なんて返事、輝政に伝われば、お前らケンカすんじゃん?
   これからまだ大勝負も控えてるのに、味方の士気に影響すんだろが。
   それなら、使者を斬って『使者来てないよー』って言った方が、カドが立たねーだろ。」

正則「い、いや、もっともだが、しかしそれは・・・どどど、どうすれば・・・」
忠興「なら、ここはオレに任せときな。」 正則「・・・頼む・・・・・・」

近習に代わって輝政の使者と会った忠興は、言った。
「おっしゃる通り、本日の合戦、首尾よく落城させ、ご同様にめでたく候。今日に始まった
ことではないが、池田殿のお手柄には感じ入った。今後のことを委細面談の上、相談したい。

・・・と、正則が言っていたので伝えてくれ。」

こうして忠興の機転(?)により両家は事なく済み、関ヶ原本戦を存分に戦うことが出来た。
966人間七七四年:2009/01/29(木) 00:28:36 ID:s1q0fWty
市松...w
可児の槍の話といい、こんなんだから四天王に入れないんだ。
967人間七七四年:2009/01/29(木) 00:33:40 ID:xd3vh/0B
市松は短気で軽率で酒乱なのは悪いんだが、
冷静なときは案外良識的というか常識派というか、普通なんだよなw
968人間七七四年:2009/01/29(木) 01:13:54 ID:QVYtgUYV
忠興かっけえなぁ。濡れたわ
969人間七七四年:2009/01/29(木) 01:57:39 ID:/Wdyjh5x
いい話スレと悪い話スレは統合すべき。

どうせ混同する輩が跋扈するんだから。
970人間七七四年:2009/01/29(木) 02:27:25 ID:st6Tcfm6
あえて毒吐いて場を自分が仕切った上で丸く収めたってことか
やるじゃん忠興

鬼武蔵と蒲生のケンカにwktkしてた頃からずいぶん成長してるな

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-293.html
971人間七七四年:2009/01/29(木) 02:36:38 ID:6KkbQzdL
>>970
スレ立てよろ

↓テンプレ
>>955
972人間七七四年:2009/01/29(木) 02:42:17 ID:st6Tcfm6
たてられなかった…スイマセン
どなたかお願いいたす
973人間七七四年:2009/01/29(木) 02:45:44 ID:6KkbQzdL
やってみる
974人間七七四年:2009/01/29(木) 02:46:59 ID:6KkbQzdL
たてられたー!

戦国ちょっといい話6
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233164778/

ここ埋まったら移動してください。
975人間七七四年:2009/01/29(木) 02:51:03 ID:7c5bVNyC
>>972
じゃあ俺がやってみる
976人間七七四年:2009/01/29(木) 02:51:07 ID:st6Tcfm6
>>974
乙!!申し訳ない
977975:2009/01/29(木) 02:54:02 ID:7c5bVNyC
と思ったらもうたってた

>>974
978人間七七四年:2009/01/29(木) 07:39:52 ID:EW8g58Dn
徳川家康が世継である秀忠に言う。
「人を使うのに心得ねばならぬことがある。
たとえば一本の木を二つに切り分けて、
一つは仏像の形を作れば、
愚か者は何か利益があると思い、尊ぶだろう。
もう一つは面白く動くカラクリ人形を作れば、
遊びものにするだけで尊敬しないが、
実のところ仏の形よりは人の用をなすものである。
冠でも靴でも同じように作るのだが、物には貴賤の分別がある。
このことを見誤ってはいけない。
天下人たる者の目をつけるところはここである。
金銀は宝といえども、飢えを救うには雑穀の用もなさない。
人もまたこのようなものである。
返す返すも捨ててはいけないものは人々の才能である。」
979人間七七四年:2009/01/29(木) 09:57:26 ID:kpgae7e1
>>978
つまり「いい話スレ」も「悪い話スレ」も依怙の沙汰にならぬよう、中庸に楽しめとおっしゃったのですね。権現様さすがでし…
980人間七七四年:2009/01/29(木) 11:18:52 ID:fH9ZG9MV
家康の家臣の資質に対する慧眼を物語る伝説、
森鴎外の短編でよんだけど「佐橋甚五郎」は本当の話ですか?
981人間七七四年:2009/01/29(木) 16:27:18 ID:AiUUxZJI
>正則「い、いや、もっともだが、しかしそれは・・・どどど、どうすれば・・・」
亀ギブスのリッキーホイで脳内変換されたw
982人間七七四年:2009/01/29(木) 20:05:44 ID:r1cGgupl
>>965えもいわれぬ市松クオリティだなあ・・・
戦場往来バリバリの人が岐阜城攻め直後でもこんなんでっかw
983人間七七四年:2009/01/30(金) 02:42:31 ID:Y5ltAS3J
埋め代わりに、こんな世の中だから、なんとなく身にしみる、家康の言葉

「俺が死んだ後でもな、二代三代たっても、国や社会が、平和で安定している。
そう言う仕組みを考え実施しておく事、これは何体も大仏を作る事なんかより、
遥かに大切な事なんだ。俺はそう思うよ。」

過度に家康を持ち上げる気はないけれど、戦国の悲哀も栄光も、すべて体験した人を、
晩年になっても突き動かしていたのは、こう言う理想の為だったんじゃないかな。
984人間七七四年:2009/01/30(金) 02:44:44 ID:cslQ81Fs
>>983
さすが家康
ラスボスなんかとは大違いだな
985人間七七四年:2009/01/30(金) 04:04:50 ID:fmelAKnF
>965これが鮭様なら
「策略でもみだりに“You,使者を斬っちまいなyo”とか、いうもんでないよ」とこっそり忠興を窘めたかもしれんね・・・

細川忠興はいっぱしの戦国武将の上にDQNノリと風流人要素がわしわし混ざってるから
いろんな引き出しがあってこまる。読んでておもしろいがw
986人間七七四年:2009/01/30(金) 04:16:16 ID:BaFZL7Mn
政宗「いや〜、そんなに褒められると照れちゃうな」
987人間七七四年:2009/01/30(金) 04:41:49 ID:MA0l72az
>>983
厭離穢土欣求浄土の旗は最高にカッコいい!
988人間七七四年:2009/01/30(金) 05:18:00 ID:Dmsl5t0Y
>>983
豊臣家を滅ぼすにあたってかなり強引なこともしたから、その言い訳のようにも聞こえるが・・・
まあ戦乱に終止符を打った功績も事実だもんな。
989人間七七四年:2009/01/30(金) 07:54:12 ID:rg4znBJ/
国家安康君臣豊楽だったか。ありゃ解釈がひどすぎるな。
まともな人間とは思えんよ。
990人間七七四年:2009/01/30(金) 08:01:33 ID:Y5ltAS3J
>>989
あの解釈は至極まともと言うか、「家康」の名前も「豊臣」と言う文字も、
豊臣家の側で「隠し題」として、意図的に入れたものだぞ。
しかも「家康」という「諱」を、家康に無許可で使っている。しかも対になる豊臣家のほうは姓なのに。

これははっきりと、豊臣家が家康を低く見ているという意思表示。
もはや限りなく、豊臣家の側からの家康への、徴発に等しい。

今だって、社会的地位のある立場の人が公の場で呼び捨てされたら、それは善意のものとは
絶対に受け取らないだろ?そして当時は「諱」に関しては、ぞんざいな扱いはタブーそのものといっていい。

あの事件でまともじゃないのは、豊臣家のほうだよ。
991人間七七四年:2009/01/30(金) 08:16:45 ID:eDghR3pp
有名ネタで埋め

東北の地に戸沢盛安あり
戦場におきて‘鬼’と賞されし猛者なれど決して降りし者を殺める事なし
「我、鬼となるは戦場のみ」
992人間七七四年:2009/01/30(金) 09:29:16 ID:0PFF+Y0y
>>990
なのにあの鐘が破壊されずにそのまま現存してる不思議w
993人間七七四年:2009/01/30(金) 09:36:51 ID:Y5ltAS3J
>>992
それは発想が逆だよ。
幕府はアレが「明白な証拠」だから残したんだよ。

よく「徳川幕府は自分たちの都合の悪いものがすべて処分した」なんていう人がいるけど、
もしあの鐘が「都合の悪い」ものなら真っ先に処分したでしょ?

あの鐘は当時、誰が見たって豊臣家の不手際を証明するものだった。
当時のありとあらゆる立場の人間の残した記録を見ても、徳川の批判を不当としたものは一切ない。
時代が下って人の意識が変わったせいで、あの鐘銘の意味が分からなくなって、
家康陰謀論のような「変な」結論を導き出す人間が出てきたんだよ。
994人間七七四年:2009/01/30(金) 09:40:56 ID:WPDx/WQO
埋めついでにコピペ

団右衛門の妖怪退治

福島伊予守の書院の雪隠に化物が出るという噂が立った。夜に厠に行く者の尻を撫でる。
その手は毛が生えていて爪が長いということである。そのため日が暮れるとその厠に行く者がいなくなった。

或る夜、伊予守方に武藤修理・坂井主膳・大橋茂右衛門・牧主馬・村上彦右衛門・塙団右衛門らが夜話に集まった。
夜中に団右衛門が厠に行って用を足していると、厠の上の松の大木から何者かが伝ってくる物音がして梢より厠の屋根
に飛び降りた。その足音は大男のような足音であった。
団右衛門は驚いたが、

「これが世間で噂の化物というものであろうか」

と思い、厠の屋根よりそっと覗き込む。その顔は朱をぬったようであり目は光って鏡のようであった。牙を噛みだす様子は
鬼面に似ていた。
団右衛門は少しも騒がず、はったと睨み返す。化物は顔を引っ込めていなくなった。そのまま厠の下より毛の生えた手で団
右衛門の尻を撫でる。心得たりと捕らえようとすると手を引っ込めてまた屋根より覗きこんできた。
また睨み返すと、これまた顔を引っ込めて厠の下より尻を撫でる。その手をひしと捕らえて内に引きこむと、厠の戸は破れた
ものの内に引き込むことが出来た。
団右衛門は得たりやおうと組み打ちし上に下にと投げ倒す。その物音を聞いて人々が厠に走りより、一人の小姓が化物の足を捕
らえた。団右衛門は血に染まり、化物を脇差にて刺し通したところを見ると大きな猿であった。

「噂であった化物はこの猿に違いない」

と広島の者はみな団右衛門の勇気を称えた。
(武辺咄聞書)
995人間七七四年:2009/01/30(金) 09:45:24 ID:WPDx/WQO
埋めついでにコピペ

明智三羽烏再び

「本能寺の変」において織田信長に一番槍をつけたのは安田作兵衛だが、ともかく明智家中で最も功を立てたのは安田作兵衛、
古川九兵衛、箕浦大蔵丞の三人である。彼らは「 明智三羽烏 」の異名をとった。

数年後、天野源右衛門と改名して立花左近将監宗茂に奉公して京都の旅宿にいた安田を、紀伊の浅野幸長に召し出された古川が
訪ねて来た。そこへ偶然同じ浅野家臣の箕浦もやって来た。
本能寺以来、ひさびさの対面ということで安田がもてなし古話に花が咲いた。
そのうち話は「変」での働きぶりに及び、「 誰が一番よくやったか 」と我が俺がの争論になってきて、古川・箕浦が口論し始
め安田が仲裁しても収まりそうもなかった。

その時、突然外が騒がしくなった。三人が二階から見ると、血刀をさげた男が逃げて来るのを二、三十人が追い掛けているのが見えた。
「捕まえてやる」と、まず安田が二階から下りた。続いて古川。古い槍傷で少し足の不自由な箕浦は遅れた。ところが古川は今し方まで
箕浦と昔の手柄争いで熱くなっていたので、自分が下りると段梯子を取り外してしまった。箕浦が飛び降りようかどうしようかと躊躇って
いると、血刀をさげた男は逃げ場を失い屋根へ上がって三階の廂の所を走って来た。
待っていましたとばかり箕浦は組んて倒しその首を切り取った。そこへ駆け上がって来た古川にその首を示し、
「このとおり、手柄を立てるのは常に拙者が先だ。本能寺の夜討ちの時もいうまでもない」
と箕浦は誇らしげに言った。

武名にかけるこの執念、まさに戦国武士の意地であろう。
996人間七七四年:2009/01/30(金) 09:58:27 ID:zfQEBMm5
>>989
鐘楼事件にしても大阪埋め立てにしても、説得力ある新しい説出てる。
今時そんな事いってたら司馬厨とか言われるぞ
997人間七七四年:2009/01/30(金) 09:59:59 ID:sXzaTzWV
>>990
それこそ無茶な解釈だ。
豊臣があえて判っていてわざと入れたという根拠は?ソースは?
998人間七七四年:2009/01/30(金) 10:12:13 ID:1WG9Enm1
じゃあ俺も埋めついでに書いてみるか

陶隆房方の悪い逸話が山程ある大寧寺の変のちょっと?いい話
大内義隆を追う陶軍の攻撃は苛烈を極めたが、
義隆が足を止め後ろを振り向くと兵達は矢を射つのを止め平伏したという
そして義隆がまた逃げようとすると平伏を止め攻撃を仕掛けたという
…こう説明するとまるでドリフのコントのようだが、いくら謀叛を起こしても
主に面と向かって弓は引けなかったという話
999人間七七四年:2009/01/30(金) 10:15:42 ID:ffqXLDQI
こっち埋まってなかったのね

埋めついでにコピペ

西の仲良し家族毛利さん家のおはなし

隆元・元春・隆景がまだ幼かった頃、元就がある雪の日に雪打ちをするように言った。
そこで隆景と元春が雪合戦をして、隆元は縁先でそれを見ていた。
元春は初め雪をたくさん持って隆景を散々に打ち、隆景は袖をかざして退いた。
そして元春が少し油断した隙に隆景が進み出て散々に打ち返した。
これを見た元就は、「隆景は知謀有て、敵のきほひ(気負い)来る時は、
其来鋭をさけて扨打ちおほせ、懈る処の其惰気をうつ事神妙(感心なこ
と)の至り也。」と隆景を評したという。

元就パパのいい子育ての話
ていうか元春もほめてあげて
1000人間七七四年:2009/01/30(金) 10:16:50 ID:ffqXLDQI
1000ゲットだお
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
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