肥後の名門・相良氏

このエントリーをはてなブックマークに追加
145人間七七四年:2011/10/21(金) 09:48:00.05 ID:yUMt0F1q
戦国無双に相良義陽でないかなー
146人間七七四年:2011/12/21(水) 23:03:57.48 ID:mbSctu5V
相良家は内紛多すぎ
147人間七七四年:2012/01/07(土) 19:53:59.72 ID:9cy5Htpn
陶の息子に嫁兼人質として出された娘はどうなったのか
磔か自決か出家か
148人間七七四年:2012/02/05(日) 15:33:42.13 ID:sufnbenm
>>1
「肥後の名門・相良氏」 というのはおかしい。
相良は肥後藩ではない。
149人間七七四年:2012/02/08(水) 23:46:17.69 ID:cjGfj6dg
150人間七七四年:2012/04/20(金) 13:04:45.96 ID:Y8EP7gjI
>>148
肥後国のという意味だと思うので問題ないのでは?
相良氏は、地元遠州の出なんで親近感があります。日向の伊東氏と共に
静岡(伊東氏は伊豆ですが)から遣わされた一族という点も含めて。
151人間七七四年:2012/05/27(日) 18:23:37.34 ID:siwomKfZ
戦国大戦に出てるんだな
152人間七七四年:2012/05/29(火) 22:44:40.71 ID:sPZ2hmjX
相良が島津の本拠突ければ、大友も耳川で敗戦しなくてすんだかもしれないよな。
隙を突いて攻めたのに負けるなよな。
153人間七七四年:2012/06/17(日) 08:31:16.80 ID:SmOxs5cc
>>150

源頼朝の母方の熱田宮司家が藤原南家だったので、配流の身の頼朝が近郷武士団に強い親近感を持っていたそうです。北条氏も出自ははっきりしていませんが、藤原南家説も根強い。
154人間七七四年:2012/07/05(木) 11:39:29.17 ID:wH4CqKkr
義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州征伐後、豊臣秀吉より人吉2万石の領主として存続を許された。1600年の
関ヶ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返ったため、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏
は人吉藩として存続した。相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで800年以上領地替えされることもなく続いた稀有な大名である。
155人間七七四年:2013/02/22(金) 11:09:54.64 ID:7tHeoKuS
名族
156人間七七四年:2013/06/27(木) 15:33:32.31 ID:pmVJsRAu
関が原で秋月らとちょっとかっこ悪いことを大垣でやったが
まあ延命した
157人間七七四年:2013/06/30(日) 09:56:10.18 ID:TukDea0U
九州征伐でも肥後一揆でもやらかしてるのに領地替えされる事もなく代々続いてる
深水某ってどんだけ優秀だったんだよ、って話
158人間七七四年:2013/06/30(日) 12:29:13.68 ID:W4MkKgMc
和歌だかを嗜んでるため、そのレベルの高さも伴って
秀吉から気に入れられ、相良が島津に没収された
水俣だったかの代官職に任じられたりしてる。
159人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:V249IxtV
>>157
取るに足らない小地主だから生き残れたのもあんじゃね?
そりゃ、山里だから材木くらいは有るだろうけど、
運ぶあてが有るわけじゃなし
160人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:V2wdro4O
優秀だったので秀吉が対島津用に残した
161人間七七四年:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:aS50Ktvk
代官といっても事実上の領有なんだけどね。
秀吉の深水に対する扱いは、島津における伊集院忠棟のようなものだろう。
そもそも秀吉が直接に役職や領地を与えたとなると、本来は頼房を通して
与えられるべきなのにそうされなかった訳だから、深水の立場は表向きは
頼房の家臣ながらも秀吉の直臣も同義となる。源頼朝と義経の相克の原因を
鑑みれば、これがどれだけ重大なことかが判る筈。

その後、深水一族が町屋を殺略したり頼蔵の出奔に一族上げて従うなど、
少々過剰とも思える反応の裏には、相良家中での深水一族への反感が
強まっていて、深水一族は人吉に居た堪れなくなっていたとも考えられる。
162人間七七四年:2013/10/17(木) 23:32:22.91 ID:o7ZQ+t6n
分家だが相良氏の末裔だよ、俺
ちなみに某水軍の血も混じってる
163人間七七四年:2013/10/23(水) 21:04:28.44 ID:VWV8hqE+
分家って、れっきとした相良姓?
そうであれば間違いない筈だけど、もし深水とか犬童とか庶流の姓だからというのであれば、
相良家は内乱多いせいで、相良の姓自体は与えなかったようだけど、庶流の苗字を
家臣にやたら与えまくってるから、庶流の苗字であれば血の繋がりは無い可能性もあるよ

実際、あまりにも苗字を乱発したせいで家中でも混乱してしまい、
晴広の時代に、住む場所によって苗字の頭に「東の」「西の」とつけさせてる
ただ、今度は東姓、西姓に変える者が現れて、元から東姓、西姓を名乗っていた者もあったから、
結局混乱したままになったという・・・
164人間七七四年:2013/10/26(土) 23:04:48.25 ID:14lEW+R8
>>163
2代上まで相良姓だよ
で、現在の姓は村上水軍から村上
こちらは血の繋がりというより、一員として配された姓の可能性が高いらしい
165163:2013/10/26(土) 23:06:59.39 ID:14lEW+R8
村上水軍に関しては当主の血をおそらくひいておらず、
その団内で姓を配された者の末裔とのこと
166人間七七四年:2013/10/27(日) 12:23:32.01 ID:h0wFSf0a
>2代上まで相良姓だよ

おぉ! なら間違いないだろうね

村上水軍にしても、姓を与えられたということは、相良家は内乱多すぎるから
という事情があるけど、村上水軍はそうは思えないから、それだけ重用された家と
いうことだと思う
純粋にスゴイと思うよ
167人間七七四年:2013/11/04(月) 22:46:15.91 ID:X2hOPY5v
相良家は大名として生き残ったが嫡流絶えて江戸時代はgdgd。世の中いいことばかりじゃない
阿蘇家は大名としては滅びたが嫡流は今も続いて観光地阿蘇神社でウハウハ。よかったのか?
菊池家はお察しください
168人間七七四年:2013/11/09(土) 11:43:11.82 ID:p7DVYnoZ
相良氏って長く続いてるだけで大したことないよね
全盛期もいつかわからないし
169人間七七四年:2013/11/09(土) 16:38:38.02 ID:md7zCMkM
>>168
まぁ、全体から言えばマイナーな存在ではあるし、歴史の転換点となったこともないけど
鎌倉時代から幕末まで大名として生き残った家が希少である以上、そこは評価しても
いいんじゃなかろうか・・・無事此れ名馬ともいうし

全盛期はおそらく義滋から晴広の時代だろう
この頃は八代に徳淵湊を築いて、大内氏から朱印状を貰った上で明国との貿易を行ってたから、
財政的にはかなり潤ってた筈
ただ、天草では騒乱が絶えなかったから、貿易船が滞ることも多かったろうけど

それと、天草の鎮護に兵800、大口の守備に兵1,000を八代・芦北・球磨の交代で賄ってたのだが、
兵を常駐できないところを見ると慢性的な兵不足だった可能性はある
まして、八代は小豪族の惣国一揆で成り立ってて、相良の支配下にあっても絶対的なものでは
なかったから、当主は数ヶ月ごとに球磨と八代を行き来して政を行うなど、色々不自由も
多かったみたいだし
連携とれないわ、兵が足らないわじゃ、思い切った軍事行動は起こせないから、おのずと
領土拡張もなされず、全盛期だってハッキリしなくなるわな
170人間七七四年:2013/11/09(土) 23:57:30.45 ID:SeAOC3ot
おれ九州出身で相良だけど関係あるのかな?
婆さんは先祖って言ってたけどどうなんだろ
171人間七七四年:2013/11/10(日) 03:12:22.34 ID:YRWLWsBp
>>170
おそらくあると思う
可能性としては三つかな


池田氏が養子に入って存続した相良宗家の子孫である可能性がまず一つ、

二つ目は、元々の人吉地頭である相良氏の庶流に稲留氏というのがいて、
それが戦国時代より前に島津家に仕えて、後に相良に改姓してるんだけど、
その子孫である可能性、

三つ目は、相良家家老の犬童頼兄が相良姓を賜っていて、その頼兄が
津軽に追放された際に、孫の頼章が相良姓のまま島津家預かりになって、
そこで子孫を残してる(但し頼章に男子はなく、女子二人も人吉に
置いてきたので、後を継いだ養子から先は血の繋がりはない)
その子孫である可能性もある
172人間七七四年:2013/11/10(日) 14:22:04.99 ID:kFLQ+meg
≫171
詳しくありがとう。

一度婆さんの家にある相良家の本読んでみようかな。
173171:2013/11/10(日) 20:00:53.63 ID:uXrmKMRS
>>172
一つ間違えた
稲留じゃなく稲富だった・・・まぁ、既に名乗ってないから意味はないけども

それと幕末時点で御先祖がどこにいらしたかだけでも、ある程度判るんじゃない?
熊本県人吉なら池田筋の宗家の筈で、宮崎県か鹿児島県なら稲留流か犬童流になる筈だし
万一それ以外であった場合、自分には手に負えないけど
174170:2013/11/10(日) 22:50:14.19 ID:kFLQ+meg
おれが先祖の話しで聞いた事あるのは人吉だけだよ

願成寺で相良ですって名乗ったら普段見せない仏像見せてもらったことある
175171:2013/11/10(日) 23:37:09.43 ID:uXrmKMRS
じゃあもう9割方、宗家の末葉と考えてよさそうだね
更に先祖を遡れば、信長の乳兄弟である池田恒興にあたるという
176人間七七四年:2013/11/20(水) 22:26:21.48 ID:c80LwU88
相良氏の歴史って面白いと思うのにどうして熊本の人は加藤清正ばかり推すの
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384951965/

八代城跡群 国史跡に答申

国の文化審議会は15日、八代市の「八代城跡群(しろあとぐん)」を国指定史跡とするよう文部科学相に答申した。
中世から近世にかけての築城技術や城郭構造の変遷を一地域内で知ることができる点を評価された。同市内での国史跡指定は初めてとなる。
八代城跡群は、いずれも球磨川下流域にある古麓城(ふるふもとじょう)、麦島城(むぎしまじょう)、八代城の城跡と、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡の4か所(計約25ヘクタール)から成る。
古麓城は、14世紀に地元豪族の名和氏が球磨川右岸の丘陵部に築き、相良氏に引き継がれて戦国時代まで使われた。
麦島城は戦国大名の小西行長が1588年、河口の港湾地区に築いた総石垣造りの城。関ヶ原の戦いの後、加藤清正の支城となったが、1619年の地震で倒壊した。
加藤家が麦島城の代わりに築いたのが八代城。同様に石灰岩で造られた石垣が特徴。細川家に引き継がれ、熊本城とともに肥後一国二城体制を支えた。
それぞれ、1996年から発掘調査が始まった。古麓城跡からは土造りの堀切、麦島城跡からは本丸の石垣や天守台の一部、平山瓦窯跡からは2基の窯跡が見つかった。
八代城跡は明治時代以降も神社などに活用されたため、石垣や水堀、庭園などが現存している。
中村博生・八代市長は「それぞれの保存と活用を行いながら、歴史と文化のまちづくりを進めていきたい」とのコメントを出した。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/news/20131115-OYT8T01290.htm
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20131115-988389-1-L.jpg
177人間七七四年:2013/11/21(木) 17:59:22.58 ID:z1KJz5HM
そりゃそうだ、九州は全体的に歴史知識が低いから、有名なものに走られる。
この流れは永遠かな。
178人間七七四年:2013/12/06(金) 02:06:28.82 ID:xXMmHdxQ
相良義陽・肝付良兼・伊東佑兵・阿蘇惟将・秋月種実・土持親成

この中で優秀な順に選んでいくとどうなるかね?
大友義統は話にならんので却下として。
179人間七七四年:2013/12/06(金) 18:52:32.01 ID:lX8VZOa/
>>178
それぞれ優れている部分が異なるし、事績のよく判らん人物もいるから、
一概に順番はつけられんだろうけどね。
まぁ一応、参考になるかは知らんけど、各武将に対して個人的に思うところは
列記しとくわ。



相良義陽・・・実の処、早くに父と後見役の祖父を失ったせいで、家臣ら――特に
球磨側の家臣らが暴走していた節がある(上村兄弟やら東長兄やら東出羽守やら
赤池長任やら丸目長恵やら内田伝右衛門やら後醍院宗重やら佐牟田長堅やら…)。
それらを抑えきることはできなかったけど、同情すべき部分は多いと思うし、
最期は自らの命で、島津からの疑いを払拭させ高い地位での存続を勝ち取ったんだから
(島津家は北進の際に信用してない家は重用してないが、相良家は家臣含めかなり
重用された)十分評価すべきだろう。


肝付良兼・・・オヤジの兼続は気骨も武威もあると思うけど、良兼は時流も読まず、
自らの力を過信し伊東の助力を当てこむあまり島津に抗ったようにすら思う。
母親は日新斎の娘という点を鑑みても、親への忠孝よりも自我を優先した挙句、
肝付衰亡の切っ掛けを作ったまま自身は病死するという…もはや目も当てられない。
結局、大概の戦が伊東頼みだったのも高評価には値しない。


伊東祐兵・・・オヤジが精神弱々で(子供二人が亡くなる以前から何かと諦めグセが
見え隠れる)武将としては勿論、人としてもダメダメなのに対して、自身は秀吉に仕えて
槍働きで功を為した上、一度滅亡した家を再興させるという、本来嫡流が為すべきところを
成し遂げた意味では優秀な人物であったと考える。
大名に復帰する際に、父祖伝来の佐土原や都於郡ではなく、経済的に利のある飫肥
(良港の油津湊がある)を選ぶあたり(自身が嘗て城主だったというのもあるかも知れんが)、
伝統に必ずしも固執しない柔軟性を有していたのではないかとも思える。


阿蘇惟将・・・事績らしい事績ないんじゃ?。甲斐宗運がいなかったら、周辺の隈部・
合志・城・名和らの肥後豪族の連合に、速攻潰されてたんじゃないかとすら思う。
まぁ、宗運のやることに口出ししてなさそうだから、神輿としては優秀か。


秋月種実・・・秀吉にすぐさま従わなかったという意味で、時流を読めなかったと
いう見方もできる。けど、終始一貫して反大友を貫き、秀吉に安易に従わなかったのも
大友が既に秀吉に臣従していたからかもと考えれば、一本筋の通った気骨ある信用に
足る人物と言えるんじゃないか。
世の大概が、秀吉絡みの話ばかり取り沙汰すけど、それまで大友の大群を向こうに、
よくも度々抗い続けられたものだと思う。


土持親成・・・時流を見る目はあったけど、伊東は兎も角、大友と手切れするには
早すぎたかもね。精神弱々三位入道が日向からさっさと逃げ出したから、島津は
日向の地固めが間に合わず、救援も間に合わなかった。まぁ、運がなかったともいえるかも。
ただ、一度こうと決めたら最期までブレなかったのは気骨ある傍証といえるんじゃないか。
180人間七七四年:2013/12/07(土) 01:02:53.47 ID:pBDrPsUz
>>179
なるほど。参考になったわ。
自分の場合

阿蘇惟将
領土維持のため、適材適所の配役と公正な賞罰で後方支援を行ったそれなりの将
宗運に頼り切りという訳でもなく独自に島津との講和を画策・実現する程度の能力(ただし矢部町史根拠)

秋月種実
晩年を除けば毛利や大友の間を上手くすり抜けて一時期は大勢を誇った良将。
秀吉への投降の際の保身も念入りで上手く立ち回れていると思った。

という感じ。
それ以外はあまり変わらないけど、言われてみれば>>179の言う通りだなぁと思った。

あと、できれば義統様や親世代(土持は資料ないから何も言えないけど)についても述べて貰えないだろうか?
181179:2013/12/07(土) 03:31:12.41 ID:iirZN29f
>>180
自分は相良から北の勢力は、正直あんまり詳しくないから此方も参考になったよ。
秋月は一応、秀吉降伏後は南の側になるから多少は判るけど、阿蘇はやっぱ勉強不足だわ。


>できれば義統様や親世代についても

ここが相良スレというのもあるけど、自分は基本 九州の南側ばかりなんで、大友はよくわかんないや。
土持も、親成は島津側の史料から探れるけど、親の世代となると流石に・・・
だから、相良晴広・肝付兼続・伊東義祐なら語れるけど、>>180も相当詳しい方なんでしょ?
勢い余って書いたのが気恥ずかしく思えるんで、少しあっさりめに書くよ。


相良晴広は、終始守護の菊池家を奉じながらも、大友と外交で平和裏に渡りあった上、
徳淵湊と八代城下を商業的に発展させた名君だと思ってる。
内政、外交、戦、どれをとっても失策と呼べるものがない上、明らかに結果を出してるし。


肝付兼続は、気骨に優れて頑固で一本気な印象。豊州家や北郷家が貴久を守護と仰ぐ前から
相州家と姻戚関係を結んでいたのは先見の明に優れていたとも言えるし、薩州家に
押され気味だった相州家を飛躍させた一助は、兼続の武勇が担っていたのは間違いないだろう。


伊東義祐は、なんか調子づいてるときはイケイケなんだけど、壁にぶつかると途端に
やる気をなくしてる印象。弟が頭領に押されたときに、何もしないで出家してるし、
日向から豊後へ逃散する際もなんかそんな感じだから精神的に弱かったと思われ。
更に、凝り性なのか京や公家文化にかぶれて、基本的に武士が叙されない従三位に焦がれる始末。
その癖、偽の御教書は作るわ、北原領をえげつない方法で奪うわ・・・
武士らしい潔さというか気風が感じられないから、どうにもいけ好かない。


――というところかな、個人的に思うのは。
182180:2013/12/08(日) 00:39:11.65 ID:bzZSXHuM
>>181
こっちも阿蘇・三田井・和仁以外はそれほど詳しいワケではないけどね。
阿蘇家勢力図内の豪族中心なんで、ここみたいな相良について聞けるスレはありがたい。


阿蘇惟豊だけど、家督相続から追放・復帰までは個人の能力でどうこうなる状況じゃないから、同情点はある。
復帰後も新体制構築をキッチリ行って分裂を防いでいるし、兄との政争もうまく切り抜けてて隙がない(単に惟長のオツムが弱いというのも)

ただ、阿蘇家は相良と違って初期から超大勢力の隣で、常に安心できない状況なのが不運だった。
国人たちの主従関係が複雑で、相良ほど大胆な改革に踏み切れなかったのもそれを増長させていたし
従二位昇叙も家柄によるものが大きく、四方を大勢力やその追従者に囲まれて、相良に比べ拡大も限界があった。
それでも阿蘇家が戦国末期まで残れたのは古い家系ゆえの地縁の強さと一貫して大友に無理に逆らわなかった政治方針、
そして甲斐党の武力によるものだと思う。
で、それが欠点にもなったという感じか

土持の親父さんは情報が少なすぎるんで何ともいえないけど、伊東との戦いでは結果を残しているし無能ではないと思われ。
他は地元の伝承で弓が得意だったくらいしか知らない。

個人的には

大友…どうしてこうなった
阿蘇・土持…運が無かった
相良・秋月…よくやった
伊東…奇跡

という印象。
183179:2013/12/08(日) 01:45:55.98 ID:7tjL/frz
>>182
>常に安心できない状況なのが不運だった。

なるほど、領地の北と東は即 豊後だもんね。伊東もちょっかい出してたみたいだし、
何より菊池から解き放たれた豪族連中は煩わしかったろうことは想像できる。
龍造寺が大友の目を盗んでは周辺を平らげたように、少なくとも肥後北部の
豪族連中を糾合できてたら、状況は変わってたんだろうけど。
――いや、隈部とかあの連中のことだから大人しく従わないかな。


それと、自分的には

大友…キリシタンに深入りしなければ、まだマシな・・・
伊東…望みは高いが、中身が乏しい

という印象。
184人間七七四年:2013/12/08(日) 21:04:23.29 ID:5SGRBDz2
自分は母が上相良氏の小苗字姓なんだが、本当に子孫なのか自信なくなってきた
小苗字姓以外の根拠としては、菩提寺が人吉の石水寺
石水寺に相良氏一族が寺に出資?保護下にある?旨の石碑だかがあるらしい
ひいお爺さんが別の小苗字姓と結婚したが従兄弟同士の結婚であったこと
小苗字本家の敷地内に江戸年号のお墓があったこと

それ以外だと母の守護霊が母の祖父とちょんまげ帯刀したお侍さんだったらしいくらいかな
185人間七七四年:2013/12/08(日) 23:17:24.42 ID:9BKcR6q9
>>184
この小苗字ってのは曲者で、あくまで相良家が家臣に下賜した庶流の姓だから、
実際に相良庶流の血筋なのか、はたまた元は一家臣なのかがわからない
>>163にもあるように、あまりに苗字を乱発したせいで相良家でも混乱してしまい、
晴広の代に苗字の頭に「東の」「西の」とつけさせてるから、系図でもない限り
ハッキリしたことは正直わからん (系図も、江戸期は金払って改ざんできたというから
必ずしも絶対ではないようだけど)
江戸期に残った相良の深水姓も、元々の深水は絶えて、元を辿れば吉賀江という姓の
人物だったらしいし

ついでなので、>>101に関係したことも書くと、
犬童姓は義滋の代に頼安以外は粛清されてる訳で、その頼安に子は頼兄と娘のみ、
頼兄以降は相良姓を名乗ってて、犬童姓は姓を与えられた家臣のみが名乗ってる上に、
頼兄の男系の血筋は人吉からは絶えたから、人吉の犬童姓が犬童頼兄の血筋というのは
まず有り得ない
但し、義滋による粛清の際なのか、島津家に仕えた犬童姓がいるので、そちらの
系統である可能性はある

・・・と、あまり関係ないことも書いたけど、それくらい複雑化しててわからないんだよね
186人間七七四年:2013/12/09(月) 20:48:11.04 ID:Uue1l5o9
>>185
詳しくありがとう まだ勉強中だから書いてある事中々飲み込めないけど、うちは犬童姓じゃないんだ
上相良氏8つのうちの1つの姓とだけ言っておく

小苗字姓である祖父は母が3歳の時に亡くなってるし、交流があった小苗字本家とも世代が変わっちゃって直接的な交流は無いんだ
祖父が生きていればもっと詳しく聞けたろうし、ここで聞いた『肥後・相良一族』って本も中々手に入らない
いつか小苗字本家人吉を訪ねてみたいから、他に挙げられた相良氏関連本を読んでみることにするよ
小苗字姓家の歴史を少しでも知りたいからね
187185:2013/12/09(月) 21:36:29.49 ID:YykUN/Tz
>>186
『肥後・相良一族』は持ってるけど、小苗字に関しては何も書いてないよ
上相良氏関係も、家が分かれた経緯と、幕府への訴訟、多良木兄弟の反乱の
話が少しあるくらいで、地元市史に比して特筆したものはないし
また、小苗字に関しては人吉市史にも、存在した小苗字が羅列されてた程度だったから、
人吉の地元史家が地域だけで出してる本などで調べるしかないと思う

それと上相良の本官地は上球磨だから、人吉より多良木町の方がまだ痕跡があるかも

まぁ大変だと思うけど、自分のルーツを探す旅ってのは有意義だと思うし、
御先祖様も嬉しく思ってらっしゃると思うから頑張ってね
188人間七七四年:2013/12/13(金) 01:17:53.85 ID:ohN/dQAh
>>187
ありがとう頑張る>自分のルーツ探し
機会を見つけたら母と本家を訪ねて多良木に行ってみるよ
189人間七七四年:2014/01/16(木) 19:54:15.42 ID:R+j95YNd
人吉藩のお家騒動の多さは異常
190人間七七四年:2014/02/10(月) 06:01:43.21 ID:OT67zoIF
個人的に、出羽と肥後は勢力図が似通って見える。

隣国の大勢力に服従する大小の国人がおり(南部と浅利・大友と隈部etc)
南部では名家の有力大名が勢力を伸ばし(管領斯波家支流の最上・藤原南家末裔で鎌倉以来の名門相良)
北部では独自の出自を持つ古代豪族が力を振るう(蝦夷末裔を称する水軍衆の安東・神武末裔を称する神主大名の阿蘇)

こんな感じで。
191人間七七四年:2014/02/11(火) 00:14:17.11 ID:QKYnd6eu
>>190

出羽については全く知識がないのだけど、比べられると成る程似てるかも

ただ、「大勢力に服従する」はニュアンス的に違うかな
肥後もっこす共はそんな従順なタマじゃあないわ (-_-;)
192人間七七四年:2014/02/16(日) 13:29:21.28 ID:v9gVhPmK
>>191
そりゃ相良だのの余所者が出てくる中世以降のレベルで唱えられたって
血にまつわる狂気は理解出来ないだろ
クマソの狂気はアテルイより古いんだからw
東のエミシ、西のクマソ、反逆者の末裔じゃんw
193人間七七四年:2014/02/17(月) 05:47:55.25 ID:cL000zpY
>>190
消え行く大宝寺・名和とか、南北の巨大勢力(南部・伊達、大友・島津)との微妙な関係もプラスで。
194人間七七四年
県外人だが、人吉や山都では相良家・阿蘇家の歴史を大切にしているようで微笑ましい。やっぱ地域に根差した豪族だからかな?
それに引き替え我が地元での山名家の知名度は………