肥後の名門・相良氏

このエントリーをはてなブックマークに追加
1ソースキー・セガール
柄倉時代から肥後にいる名門。
戦国期には阿蘇や島津に押されながらもしぶとく生き残り、
江戸時代に人吉藩として明治維新を迎えました。
歴代当主や分国法、名臣・犬童頼安や深水長智などについても語りましょう。

■関連スレ
【相良】九州戦国史について語ろう【伊東】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183386831/
【従二位】阿蘇大宮司氏【男爵】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180095303/

■武家家伝_相良氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
2人間七七四年:2008/10/21(火) 04:09:20 ID:SzDdwk26
>>1
鎌倉時代、だったw
3人間七七四年:2008/10/21(火) 04:18:26 ID:LjSE02Nb
何度も滅亡の危機に立たされてるのに、しぶといよね
西軍が負けた途端寝返って、なんだかんだで生き残っちゃうし
4人間七七四年:2008/10/21(火) 04:39:27 ID:dvv9n20P
この家はずーっと直系で続いて来たのかな?
もしそうなら江戸三百諸藩中でも最名門ってことになるね。
藤原南家為憲流だよね。
5人間七七四年:2008/10/21(火) 04:41:06 ID:OaSGULgu
」| l|i !! i | l ; l|i ! | l|; ll! ! i | l! | l|;! |l; |;|! ! l| ! | |;i ! | l|; ll! ! i ! | l|; ll! ! ! |!|
l|i ! | l| l ;l|; ll! ! | !! | |; l|;; i |! | |; l ! |;l|; ll! ! | !! l! ! | !! | |; l|l| ! | |;i ! | |; l|;l|;
l| i ! !| l; |;|! ! l| ! | |; l|; !l| l ;l|| l ;l|; ll! !i|! ! l| ! |! ! l| ! :l| l ;l| ! l|;! i | l ; l|i; i|;;
|!| l| l ;l|; ll! ! | !! | !::! |! | l| ! | |;i ! | l|;」| l|i !! i | l ; l|i ! | l|; ll! ! i | l! | l|;! |
!i|! ! l| ! |! ! l| ! :l| l ;l| ! l|;! i | l ; l|i; i|;; ! | l| l ;l|; ll! ! l|;! i | l ; l|i; i|;; i |! | | l
l|i !! i | l ; l|i ! | l|; ll! ! i | l! | l|; i ! |! |」| l|i !! i | l ; l|i ! | l|; ll! ! i | l! | l|;! |l
l; |;|! ! l| ! | |;i ! | l|; ll! ! i ! | l|; ll! ! ! |!|l|i !! i | l ; l|i ! | l|; ll! ! i | l! | l|; i ! |!
! | l| l ;l|; ll! ! l|;! i | l ; l|i; i|;; i |! | | l il| i ! !| l; |;|! ! l| ! | |; l|; !l| l ;l|| l ;l|; ll!
;l|; ll! ! | !! l! ! | !! | |; l|l| ! | |;i ! | |; l|;l|; ! | l| l ;l|; ll! ! l|;! i | l ; l|i; i|;; i |! | | l
______________________________
>                                          |,
>____________________________ .|
  ̄                 _____        |─ 、  ,─、ヽ | |
  / ̄ ̄ ̄ ̄\,,      /−、−、    \       ヽ  ・Y・  |  |__.|
 /_____  ヽ    /  |  ・|・  | 、    \ .    l `- c`─ ′  6 l.
 | ─ 、 ─ 、 ヽ |  |   / / `-●−′ \   ヽ   <___     ,-′
 |  ・|・  |─ |___/   |/ ── |  ──   ヽ   |     ヽ ___ /ヽ.
 |` - c`─ ′  6 l   |. ── |  ──    |   |
 ヽ (____  ,-′   | ── |  ──    |   l
   ヽ ___ /ヽ     ヽ (__|____  / /
   / |/\/ l ^ヽ   \           / /
   | |      |  |     l━━(t)━━━━┥
6駿河朝比奈氏:2008/10/21(火) 05:35:03 ID:sFifWCMf
(´・ω・`)y ̄~相良と言えば上泉秀綱の弟子丸目長恵が居た。


新陰流→タイ捨流を創設。
7人間七七四年:2008/10/21(火) 08:39:37 ID:Oekl9kgM
ハァハァ御家騒動
江戸時代でも荒っぽいとこが素敵(´ω`)
8人間七七四年:2008/10/21(火) 09:12:06 ID:QBQid5sK
相良義陽はわざと甲斐宗運に負けたって話しは本当かな?
9人間七七四年:2008/10/21(火) 11:33:54 ID:0iINi+8J
先祖が相良藩士の俺が来ましたよ。

義陽の逸話はどうなんでしょうね?にしても、ノブヤボでは甲斐宗運って義陽の家臣なんだよね。ある意味、ゴールデンコンビw
10人間七七四年:2008/10/21(火) 17:35:35 ID:laj/+lpa
Wikipediaの相良関係の記事は不作なのが多いな
熊本県の歴史っていう神記事に全部吸い取られちゃってる感じ
11駿河朝比奈氏:2008/10/21(火) 20:50:23 ID:sFifWCMf
(´・ω・`)ノ何気に島津家に戦で一回勝ってるんだね。


甲斐氏との関係で討ち死にしたものの相良義陽は名君みたいだし。
12人間七七四年:2008/10/21(火) 20:57:12 ID:vlVmFiCg
>>4
そもそも遠駿発祥の為憲流は繋がりが微妙だからなー
武家藤氏の中ではまともな方と言えなくもないが

>>駿河朝比奈氏
静岡県民として相良と吉川は譲れないよな。
郷土史で必ず習うし。
13駿河朝比奈氏:2008/10/21(火) 21:04:37 ID:sFifWCMf
>>12
静岡県の遠州相良の出身だからね相良氏は。

(´・ω・`)ノ゛本当は今川家の方が縁が有るけど、相良氏は大友や龍造寺や島津など強敵の中で頑張った事と丸目蔵人が好きな事で興味津々。
14人間七七四年:2008/10/21(火) 22:39:56 ID:zNNUSQMv
深水摂津は高森で討ったよ w
15人間七七四年:2008/10/21(火) 23:35:44 ID:1GB1y0LJ
江戸時代に池田から養子をとったので、相良の血は絶えてます。
16人間七七四年:2008/10/21(火) 23:43:57 ID:RhkyJuWR
>>15
相良は途中でぐちゃぐちゃになりましたねぇ・・・
それも自滅に近い形で。
よく幕府に改易されなかった物だと思う。

なので相良といえば内紛イメージが強い。
義陽の時代だけが奇跡。
九州三国志の時代に義陽がいたおかげで相良は消滅せずに済んだような気がする
最も周囲が最強だったために目立たないまま終了してしまったんだけど・・・。
17人間七七四年:2008/10/22(水) 00:16:35 ID:SYF7Rs8e
義陽は島津を恐れて阿蘇家との盟約を破り、大宮司惟将の軍師 甲斐宗運に討たれた。
しかし、それは結果的に阿蘇家にとっても痛手になってしまった。
18人間七七四年:2008/10/22(水) 01:34:13 ID:X2DhJ7/c
>>15
池田との縁は何だろう?
姫でも送ってたか、何代か前に養子とかでも。
19人間七七四年:2008/10/22(水) 02:16:53 ID:oCYg0y9A
>>15
それ以前に何度も秋月、鷲尾、遠山と幾度も相良の血を引いていない
当主が来ているので今更感はあるが、本当によく改易されなかったものだ
と感心してしまうよね。養子のすり替えとかもやってるし

>>18
秋月や鷲尾は以前に妻を迎えた縁だよね。
まあ、全然関係なくても、大藩の子息というのは
結構魅力的だよね。
20人間七七四年:2008/10/22(水) 02:27:22 ID:3tsfE4vf
なんだここも男系は途絶えてんのか。
武家の古い家で連綿と男系で継続した家はゼロか?
島津も戦国時代に庶家に当主を乗っ取られてるしな。
21人間七七四年:2008/10/22(水) 02:32:32 ID:X2DhJ7/c
>>19
池田とは特に何も無かったんだw
まあ大身の出なら実家から援助とかも期待出来るし、悪い話じゃ無いよね。
22人間七七四年:2008/10/22(水) 06:14:59 ID:G7t0fRKi
その池田も幕末に相良から養子をとって藩主に迎えてる。
23駿河朝比奈氏:2008/10/22(水) 10:22:47 ID:5eMyHKMc
(´・ω・`)y ̄~上村、犬童、深水と相良一門が一致団結すると良いんだけど、
権力争いしたりすると不味い事になってる。

丸目蔵人も一回クビになってるし
24人間七七四年:2008/10/22(水) 12:45:58 ID:mg5As586
相良は熊本の歴史というより
八代・人吉の歴史じゃねえの
25人間七七四年:2008/10/23(木) 19:24:56 ID:XcZMfx4A
陸の孤島で生き残れた様な物だろw
26人間七七四年:2008/10/23(木) 20:44:10 ID:M98NNpuR
人吉盆地は米は取れるし、籠もって戦うには適してるから無理に外に出る必要も
ないしなあ
27人間七七四年:2008/10/24(金) 02:52:36 ID:gMUAD4oR
相良の血統は江戸時代どころか、ほとんど初めから絶えてるようなもの。

ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
>いずれにしろ、相良氏を始めて称したとされる周頼は、子に恵まれなかったため
>同族の伊東祐光の次男光頼を養子に迎えて家督を譲った。
28人間七七四年:2008/10/24(金) 03:09:37 ID:WUGEvrMj
>>17
相良の目付は島津義弘だったことから考えると
共倒れを狙っていたのかもしれんな
29駿河朝比奈氏:2008/10/24(金) 07:57:30 ID:dv+CPBC/
(´・ω・`)y ̄~度重なる一族同士の御家騒動に島津義久、大友宗麟、龍造寺隆信など強敵に翻弄され、関ヶ原では西軍に付いても人吉藩2万2千石を守ったのは
運も有るけど家臣団の頑張りと小勢力で有る事も幸いしたと思う。
30駿河朝比奈氏:2008/10/24(金) 08:05:00 ID:dv+CPBC/
(´・ω・`)y ̄~正直なところ静岡県在住の俺は九州の大名の相良氏の資料があまり無いんだよね。
ネットで捜してみる事にしよう。
31人間七七四年:2008/10/24(金) 18:51:39 ID:ApjpWiVm
八代から水俣にかけてを押さえて肥後半国を支配していたころが全盛期か。
32人間七七四年:2008/10/24(金) 21:19:06 ID:3U/+J7g1
たぶん>>30は泣くことになると思われ
一般書も適当な物がない・・・
山川出版社の『熊本県の歴史』でちょろっと書いてあるぐらいかも知れない。
33人間七七四年:2008/10/25(土) 02:12:16 ID:JneEJMat
34人間七七四年:2008/10/25(土) 03:16:42 ID:Vhs12lkV
現当主は女性

35人間七七四年:2008/10/25(土) 03:43:21 ID:0h+TdrzD
熊本の歴史は細川と加藤意外は完全にスルーされてる現実

菊池氏なんて国策で英雄にしようとしたが失敗しちゃったし
阿蘇氏なんて最早居たのを知ってる奴のほうが少ないだろう
相良は人吉に根を下ろしてたからその地域では有名だからまだまし
阿蘇氏のが悲惨
36人間七七四年:2008/10/25(土) 13:48:04 ID:rwPvZDJ9
>>33
どマイナー本じゃないか でもおいらの地元の図書館にはあったようだから一度借りてみるかw
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA74052795

>>34
そうなんだ
戦後の御当主は地元で鯛焼き屋やっていたらすぃね。彼女と鯛焼き焼くのが長年の夢だったようですw
通勤にタクシー使っちゃったりしたので収支は赤字wお付きの人は大変だったとかwww

>>35
せいしょこさま!せいしょこさま!!せいしょこさま!!!
・・・というイメージしかないよ
細川はおまけ つか細川は転封後も清正のヨイショに追われ続けたようだな。
宗旨も変えているし(臨済宗→清正の信仰していた日蓮宗)
37人間七七四年:2008/10/25(土) 13:55:04 ID:rwPvZDJ9
連続スマソ

amazonの本の紹介より
>鎌倉時代、相良頼景が源頼朝から人吉盆地を賜り、
>戦国・江戸時代を生きのびた相良氏。
>幕末まで670年安泰であった大名家は相良氏をおいてない。←ここ注目
>質実に生きた鎌倉以来の名家の系譜と歴史を探る。

なんだかわざとつっこみ所を作ったようなw
38人間七七四年:2008/10/25(土) 14:32:03 ID:3o0llzYX
相良が人吉に健在である限り、
細川は一国の主ではない。
39人間七七四年:2008/10/25(土) 23:18:13 ID:Vhs12lkV
小西行長・佐々成政・名和武顕

熊本では思いっきり無視されてる三人
一説では天草五人衆よりも知名度が低いといわれている。
40人間七七四年:2008/10/26(日) 15:42:05 ID:fmb3/Po7
小西→せいしょこ様のライバル、つーか敵 よって抹殺
佐々→入国早々大検地してジモピーを酷い目に遭わせた奴 よって抹殺
名和→何それ 食ったらうまいニカ?
41人間七七四年:2008/10/26(日) 17:43:27 ID:7cQtHhSR
相良は雑魚
阿蘇大宮司家は神
42人間七七四年:2008/10/26(日) 20:42:17 ID:DJ1zVD4C
名和って名和長年の子孫?
43駿河朝比奈氏:2008/10/28(火) 07:39:20 ID:ibFoUoRU
(´・ω・`)y ̄~大内義隆に仕えた相良武任も相良一門だったみたい。


内政能力に長けた人
44人間七七四年:2008/10/28(火) 09:20:01 ID:8WmR3aAx
義隆の腰巾着風情がでかい顔すんな
45人間七七四年:2008/10/28(火) 12:03:24 ID:g/Al61t/
菊池氏の活躍譚が読みたければ
北方謙三の「武王の門」を読むべし
46人間七七四年:2008/10/28(火) 13:10:29 ID:XKez27mP
>>42
名和長年の子孫

八代城を巡って相良と和解したり対立したり
を繰り返したけど結局島津に降りました
47人間七七四年:2008/10/28(火) 13:18:46 ID:9f0Zmomu
相良の地名は田沼意次で有名ってのは
48人間七七四年:2008/11/01(土) 20:03:23 ID:RgNPmON0
田沼意次は異色の経済官僚って再評価ですよ。
(賄賂はそれなりに貰っていたはずだが、どれは当時のどの役人も同じこと)
ちなみに、牧之原市と人吉市はお互い市長が代わってから
交流が再び活発になりつつあるね。

っていうか、現当主は柏市役所勤務じゃなかったっけ?
人吉新聞のサイトにそんなこと載ってた気がする。
49人間七七四年:2008/11/02(日) 23:48:44 ID:8Szxj/+I
>>29
島津と大友には年がら年中頭抱えていたはずだが、
相良と龍造寺はほとんど接点が無かったはず。
(海側は有馬が、陸側は隈本の国人が緩衝地帯になってた。)

あと伊東とも距離のわりには、そこまで親密な関係じゃなかった。
50人間七七四年:2008/11/04(火) 09:58:37 ID:H2AaTWFP
近いといっても、人吉と都於郡の間の山間部は軍隊が通れるような場所じゃないし
おまけに米良氏という不気味な豪族がいて・・・。
51人間七七四年:2008/11/04(火) 12:28:37 ID:poRauYrj
米良美一・・・
52人間七七四年:2008/11/04(火) 12:46:53 ID:n7bmOtXA
伊東の援軍に駆け付けながら引き返したりな
53人間七七四年:2008/11/07(金) 05:25:14 ID:EzkYzQJx
元気があれば何でも出来る
54人間七七四年:2008/11/07(金) 07:12:58 ID:7Eb127SQ
>>50
米良氏って貧乏なのに何故か強いよなw
人吉を包囲したり、伊東の屋台骨を傾けることも何度か
55駿河朝比奈氏:2008/11/07(金) 07:29:07 ID:lahT3Scu
(´・ω・`)y ̄~何気に相良義滋の時代に地盤固めてるんだね。


海音時さんの小説読んだけど、丸目長恵は最初から丸目で相良一門になっててアレ?と思った。
56人間七七四年:2008/11/07(金) 21:43:16 ID:nT4+ilfx
>>54
人吉を包囲したのは北原氏(肝付氏の一派で地盤は小林付近)じゃなかったか。
まあ、米良氏も相良家の内紛には深く関わってるけどな。(十津川郷士かおまえら・・・)

オレの同級にも黒木、椎葉、興梠と、祖先が宮崎臭がするヤツがいた。
57人間七七四年:2008/11/12(水) 10:24:26 ID:XqHBUQj6
≫元プロレスラーのアントニオ猪木は、相良一族の末裔だという説がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
58人間七七四年:2008/11/16(日) 15:40:28 ID:52SYIW4b
犬童頼安の子、頼兄(相良清兵衛)って凄いキレ者だなw

大垣城での土壇場の裏切りで相良家を救い、
陪臣なのに家康と直に会える権利を貰ったり、
人吉22000石中の8000石?を占めていたりw
権力デカすぎで、当主が代替わりしたら排斥されようってもんだ。
59人間七七四年:2008/12/03(水) 00:48:04 ID:tP31AB+K
このスレで紹介された『肥後・相良一族』図書館で借りて読んだよー
結構真面目、かつ新人物往来社から出た本とは思えないほど(w)専門的な内容なので
これから入手する人はwktk+覚悟して読むのがよいよー

>>58
犬童頼兄は同盟の祖父の「色気で新納忠元を誘惑し落城を免れた話」とか
義陽の妹(島津義弘の先妻)・亀徳を誘惑しようとしたが見向きもされなかったので
ないことないこと長毎(義陽の息子)に讒言して餓死に追い込んだとか
私の中では戦国最凶のワルの一人だw
頼兄に比べたら松永久秀ってとっても善人
60人間七七四年:2008/12/03(水) 01:31:14 ID:tP31AB+K
間違い:同盟
正しい:同名

スマソカッタorz
61人間七七四年:2008/12/03(水) 09:36:09 ID:GSIG2NKa
頼兄には色々な逸話があるようだけど>>58-59、史実はどれ?
結構、伝承や講談っぽいのも入ってそうだが。
62人間七七四年:2008/12/03(水) 23:49:48 ID:W1DS9/bH
>58
>犬童頼兄は同盟の祖父の「色気で新納忠元を誘惑し落城を免れた話」とか

頼兄の祖父は重安だが…?

>義陽の妹(島津義弘の先妻)・亀徳を誘惑しようとしたが見向きもされなかったので
>ないことないこと長毎(義陽の息子)に讒言して餓死に追い込んだとか

相良晴広の没年から考えて、亀徳は頼兄より一回りから二回りは年上のはずだから、かなり嘘臭い話だ。
63人間七七四年:2008/12/04(木) 09:55:58 ID:f4zW1RLY
デニーロ忠元に色仕掛けしたのは頼兄の父・頼安
一応「連歌の応酬で落城のタイミングを外させた」と言うことになっているようだがw
知将であることには間違いないだろう>頼安
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%8D%E5%BF%A0%E5%85%83
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%AE%89
http://civil-wars-general.com/conts/000140.php

相良亀徳の死は『南陽蔓綿録』では
「(犬童)清兵衛頼兄深く悪ミ奉り候故遂ニ餓死に及ばれ(以下ry)」(元和2年10月項)とある。
頼兄がなんで亀徳を憎んだかという理由は書いていないから不明
ただし、このあと亀徳の怨霊が犬童家をたたったという噂があったそうで、
頼兄の孫・頼章は亀徳の遺骨を探し出して墓を立て直したそうだ。
・・・が、そんなことでは亀徳の恨みは解消されなかったのか、
後、頼兄は謀反の疑いで津軽へ追放、頼章は母方の縁で島津家に逃亡、犬童一族は御下の乱で滅亡、
亀徳の恨みは晴らされたのでしたチャンチャン
6463:2008/12/05(金) 01:11:37 ID:loLWwcfy
今読み返したら間違いがあった・・・
『南 陽 蔓綿録』じゃなくて『南 藤 蔓綿録』が正解。
正直スマンカッタ

ちなみに頼安の孫も頼安みたいだね
南九州の武将は「島津家久」が同時代に2人いたりややこしいね・・・
http://www.realintegrity.net/~shimadzu/shi/shimadzu-iehisa-musume3.htm
65人間七七四年:2008/12/07(日) 13:31:58 ID:fyQe5gFO
欧米の ○○.Jrみたいに功のあった父や祖父の名前を付ける風習でもあったんかね
66人間七七四年:2008/12/07(日) 18:12:40 ID:GY+61s55
>>65
伊達政宗や相馬義胤は時代を変えて二人いるね。
67人間七七四年:2008/12/07(日) 18:36:09 ID:WSNeKKgw
スレタイなぜか肛門に見えた
68人間七七四年:2008/12/09(火) 07:42:34 ID:CDL7Bsqh
相良氏って一応名目上は菊池氏の家臣?
69人間七七四年:2008/12/09(火) 11:28:23 ID:On9WGvIB
犬童一心

いんどう だと思ったら いぬどう…
70人間七七四年:2008/12/09(火) 12:17:31 ID:W7KZloQb
>>65
島津義久の初名も祖父に肖って忠良の名で元服してるね
71人間七七四年:2008/12/11(木) 00:18:55 ID:tQcVIRu0
>>69
「けんどう」だと思っていた時期が私にもありました・・・(AA略
72人間七七四年:2008/12/12(金) 22:40:56 ID:A4xYEYLB
お暇なら来てねん。ついでに焼酎買って帰ってね。
オレは里帰りのときに寄るつもりだが。


「相良氏の歴史と文化」 肖像画など展示 人吉城歴史館で特別展始まる (人吉新聞)
http://www.hitoyoshi-press.com/local/index.php?intkey=3658
73人間七七四年:2008/12/21(日) 23:54:39 ID:vgb5+bLc
質問

1・赤池長任はいつ頃まで生存していたと推測されるでしょうか?
最後に資料に名が見えるのはいつくらいですか?

2・犬童氏は結構子孫の記録が多いですが、
同じく重臣である深水氏の方はあまり長智(宗芳)以降の記録が無いように見えます。
長智には子がなかったんでしょうか?また子孫で相良氏(人吉藩)に仕えた人物はいないのでしょうか?
74人間七七四年:2008/12/22(月) 21:53:45 ID:VZibS976
鹿児島市内に焼酎あったな

相良兵六だっけか?
75人間七七四年:2008/12/23(火) 21:56:54 ID:6lvTWzzb
>>74
先祖が相良家の流れとかいう蔵元だね。
内紛で追放された方には、薩摩に亡命したのも多いだろうな。

確か、島津家久(天才の方ね)も上相良家の血筋を引いているはずだよね。
76人間七七四年:2008/12/29(月) 20:32:42 ID:pqtxhl7M
>>48
田沼意次の子孫乙。
77人間七七四年:2009/01/06(火) 17:43:23 ID:nhfW67hf
うらやましいわ
78人間七七四年:2009/01/21(水) 09:58:54 ID:Oj8QiwuN
細川家は肥後一国を領有していない、と大声で言ってやれ
79人間七七四年:2009/02/15(日) 16:18:15 ID:jTTfAxE1
初めてひなまつり行ってきますた。
相良藩十代目ひなまつり。
神城文化の森のお城の中にいっぱい市松人形とかも飾ってあって
怖かったw
80人間七七四年:2009/02/28(土) 16:46:54 ID:3Yeu0fDC
2万石強で江戸まで参勤交代。
財政が苦しそう。
81人間七七四年:2009/02/28(土) 17:01:54 ID:NcMEs4EK
それでも五島氏よりまし たぶん。
82人間七七四年:2009/02/28(土) 17:54:34 ID:quDUq5Cu
港の収益があるんじゃないの?五島氏は
相良は島津に港まで奪われた内陸の2万石だからなあ
83人間七七四年:2009/02/28(土) 18:53:50 ID:NcMEs4EK
江戸時代になってから肥後藩にお願いして
球磨川の河口の港を確保してるよ。

でも江戸中期以降は借金で首回らなかったようだが。
長崎の貿易が幕府に独占されたのが痛かったようだ。
84人間七七四年:2009/02/28(土) 19:01:31 ID:XgAdi9q3
>>83
長崎貿易の終焉はどこも同じ。
木材など換金できる物はあった。
(鉱物がロクに出なかったのは痛いけどな。)

内紛ばっかりやってるから借金がかさむのじゃねーの?
だから、幕末には島津に首根っこ押さえられる。
85人間七七四年:2009/05/11(月) 05:19:59 ID:DWDNyIQx
島津とはいつ頃から同盟関係になったんだろ?
保護国扱いかもしれないけどw
86人間七七四年:2009/05/30(土) 01:20:48 ID:TqZqa25c
永禄7年に赤池長任が攻めた島津の「筈ヵ尾」ってどこだかわかる人いませんか?
真幸院と書かれてるから、宮崎のえびの市か小林市だと思うんだけど・・・
検索しても地図見てもそれっぽい場所ないし、あるいは史料の誤記かもしれないけど
この合戦そのものが島津方の史料で探せないこともあり全くわからんのですが
87人間七七四年:2009/06/20(土) 15:39:17 ID:K4c1tX86
正に「肥後の議論倒れ」状態・・・・
88人間七七四年:2009/08/02(日) 01:27:49 ID:I5Hb0fij
>>73の質問に答えられる御仁はおられぬか?
89人間七七四年:2009/08/08(土) 12:17:29 ID:S64ivuT4
島津氏と相良氏と阿蘇氏と隈本氏の領地範囲がまったくわからない…
9086:2009/08/11(火) 18:07:08 ID:7DF30+kr
>>73>>88
赤池長任は永禄十一年正月の初栗合戦が最後じゃないかな?
そのときの戦死者の中に名はないんだが、それ以降は名を見た記憶がない。

それと深水長智には摂津介という子がいたけど戦死したらしく、やむなく
長智の弟・織部の子の頼蔵を養子として継がせたそうだ。
それが後にまで続いたかは調べる気力ないからよくわからん。
ちなみに吉賀江氏が深水姓を賜ってるそうだから、深水姓=長智の子孫では
ない可能性もある。

>>89
島津と相良はわかりやすくないか?
菱刈氏が島津に降伏するまでは、今の熊本と鹿児島の県境+
大口市&菱刈町が相良氏の領地で、
今の熊本と宮崎えびの市の県境が相良氏と北原氏との領地の境。
北原氏の領地は伊東に全部簒奪されたあと、実質島津が治める事に
なるから、今の県境に大口市&菱刈町が時代で変化するくらいに
思っていれば大体合ってるはず。

で、>>86の質問に答えられる御仁はおられませぬか?
91人間七七四年:2009/08/11(火) 21:01:29 ID:imiEBevB
>>88じゃないけど
>>90ありがとう。
赤池と深水の件について
92人間七七四年:2009/08/11(火) 21:40:36 ID:UJynMLeG
>>90
>今の熊本と鹿児島の県境+ 大口市&菱刈町が相良氏の領地
薩摩に領地があったの?
確かに菱刈氏は姻戚かも知れないが・・・
93人間七七四年:2009/08/11(火) 21:55:58 ID:7DF30+kr
>>92
あったよ。
菱刈氏は大口方面を領してたけど、大口城自体は相良家の城だったし。
ただ何処までが菱刈の領地で、何処までが相良の領地かという線引きは
かなり難しいんだよね。史料がなさすぎる。
94人間七七四年:2009/08/11(火) 23:18:11 ID:Yj2QRQ/I
深水頼蔵は朝鮮出兵の頃加藤家に出奔したのでは
95人間七七四年:2009/08/12(水) 00:03:17 ID:oUqzfXAD
>>94
調べたらそうだった。
犬童頼兄との確執で加藤家に出奔してる。で、蔚山の戦いで戦死してるね。
96人間七七四年:2009/08/23(日) 05:13:18 ID:2yqAljHt
相良家の家紋は丸に長剣梅鉢とただの長剣梅鉢どっちが正しいの?

それと六瓜七引きはどうして使われ始めたの?

教えてください。
97人間七七四年:2009/10/12(月) 08:54:28 ID:5PFiUBtP
将軍家から一文字拝領してるけど(晴広・義陽)、献金するだけの財力はどこから得てたんだろ?
98人間七七四年:2009/10/13(火) 00:32:44 ID:2iZVZeJ5
島津に家督相続のゴタゴタを突かれて奪われるまで八代の港から船を出して海外貿易で儲けてたみたい。
99人間七七四年:2010/02/20(土) 01:03:52 ID:+QukfOhf
朝鮮出兵中に頼蔵は犬童抹殺をはかるなどした為に相良内での立場が悪くなり、長毎の帰朝を機に父の織部と一緒に出奔。
犬童頼兄が長毎の息子に娘を嫁がせ専横する。長毎が遺書に機をみて頼兄を除くように書いてる。
そして犬童は青森県弘前市相良町へ…
100人間七七四年:2010/03/14(日) 04:57:11 ID:kGilcQv3
保全
101人間七七四年:2010/03/21(日) 00:47:09 ID:O2ZqBWki
犬童一心監督は頼兄の子孫らしいぞ!
102人間七七四年:2010/03/23(火) 13:08:47 ID:FMEVJhjX
Winny流出の校長って関係アル?
103人間七七四年:2010/03/23(火) 13:27:02 ID:FMEVJhjX
一応ソース
なぜ報じない?流出騒動校長の違法DLと児童ポルノ所持
http://www.tanteifile.com/newswatch/2010/03/23_01/index.html
104いけず、、:2010/03/23(火) 13:38:43 ID:viAVfhsz
名字を許されたエタやヒニンがこぞって地域の名門の名字を付けた
105人間七七四年:2010/05/26(水) 12:36:20 ID:RfsLSF2W
>>97
「輝」陽でも「昭」陽でもないから、義陽は相当金を積んだんだろうな。
106人間七七四年:2010/05/27(木) 07:18:12 ID:U4H+i6Is
島津に水俣や八代を略奪されるまでは
海外貿易で潤ってたみたいだからね
107人間七七四年:2010/06/14(月) 20:01:13 ID:tCfOpMtu
義陽は資質に疑問がある
旗にビビって退却したり、金浪費して将軍の諱もらったり、
甲斐との契りを優先して半ば自滅したり…
頼安も深水も大変だったろう
108人間七七四年:2010/06/19(土) 18:40:23 ID:UT5SPzq5
>>107
>>旗にビビって退却したり
島津側のウソ情報だろそれ。
109人間七七四年:2010/07/01(木) 17:21:33 ID:+R18S37A
名将
110人間七七四年:2010/09/27(月) 20:51:47 ID:sFRNd5RF
相良氏はすごい多分
111人間七七四年:2010/09/27(月) 21:48:04 ID:ACbesW7r
いやガチで強いよ
112人間七七四年:2010/09/27(月) 23:31:54 ID:OgYoszWB
実際強いよ
113人間七七四年:2010/10/08(金) 23:24:52 ID:Qq3eetUP
それはどうかな
114人間七七四年:2010/10/31(日) 06:53:41 ID:PefAkVTo
琢磨2万石大名
115人間七七四年:2010/11/09(火) 20:15:22 ID:nQ+eGteV
藤原南家って仮冒
116人間七七四年:2010/12/02(木) 13:05:22 ID:OHYZGIer
>>114
クマ2.2万石
人吉はいいね
117人間七七四年:2010/12/03(金) 13:45:14 ID:ylZ22B4W
今の熊本人には「相良、ダレそれ?」なんだろうか?
118人間七七四年:2010/12/03(金) 13:58:47 ID:moR+qio8
肥後国の南東の一角だからなあ
一族発祥の地、静岡県の相良は田沼意次の居城だったから少し有名
119人間七七四年:2010/12/03(金) 14:06:24 ID:o+o0gV/n
阿蘇氏に比べたら相良氏の方が有名でないか?SL人気に支えられてるし。
120人間七七四年:2010/12/03(金) 22:55:56 ID:rYR/DTZX
菩提寺にお墓がいっぱいですごかった。
数は日本一ではないか?
121人間七七四年:2010/12/04(土) 18:57:41 ID:Cuc7/L3q
↑どこの話?
122人間七七四年:2010/12/04(土) 21:03:16 ID:7ODilKyl
願成寺ですよ
123人間七七四年:2011/01/03(月) 17:43:02 ID:h5IIBkDr
深水といいます。今年熊本の実家にに里帰りした時に初めて先祖が武士であったとか、
近所の古老から深水は元は静岡の方から来たと聞いたことがあると伺いました。
古老は色々話をしてくれたのですが、熊本弁がよく分からず残念でした。
猫寺とか深水は呪われてるとか言ってたような気がします。

124人間七七四年:2011/01/20(木) 07:34:12 ID:IHV0tXPQ
静岡県民だけどのぶやぼで隣に攻め込んで旧領放棄をひたすら繰り返して故地遠州帰還プレイやったわ。
125人間七七四年:2011/01/20(木) 08:53:13 ID:+XdESkRt
相良氏って丸目長恵を配下に持ってたくらいしか分からぬ
126人間七七四年:2011/01/20(木) 18:36:07 ID:aD8sejYD
相良滅亡の危機を幾たびも克服した
双樹のニ賢臣たる犬童頼安と深水長智くらいは
記憶しておくべき。
特に深水長智はその才覚に感嘆した
秀吉からワシに仕えろと命じられても直江兼続のように拒否した漢。
ちなみに片倉小十郎が秀吉から勧誘されたってのは仙台の捏造。
127人間七七四年:2011/01/30(日) 14:56:34 ID:DuYdui/r
いま霧島噴火で大変そうだな
128人間七七四年:2011/04/10(日) 16:59:08.70 ID:4jSAMuQr
相良の直系は絶えてるけど、養子の池田家の母方の家系は、伊達家なのな

129人間七七四年:2011/05/30(月) 10:58:56.00 ID:ETwaAJuM
島津みたいに血統がつながってればすごいのになあ
130人間七七四年:2011/07/22(金) 16:31:04.97 ID:9PiLNETg
>>126
ちなみに鬼庭は政宗に突然
拉致監禁され、隙を見て夜逃げして関東まで徒歩で逃走した。
131人間七七四年:2011/07/22(金) 16:38:24.03 ID:z1vWeVpf
相良家の通字って何になるの? 数的に「頼」や「長」かな?
132人間七七四年:2011/07/25(月) 01:32:01.64 ID:Ny7ItTRG
うちのひいじいさんの名前は相良長政だな 長と頼はよく使われるね 従兄弟の名前も長使われてるな
133人間七七四年:2011/07/25(月) 03:17:08.43 ID:Mbh1PL3J
>>132
血族の御方で? 家紋とか同じですか??
134人間七七四年:2011/07/25(月) 07:40:55.02 ID:Ny7ItTRG
>>133
10年前に亡くなったじいさんの話しでは、相良頼良が先祖って言ってた 墓石に彫られている家紋は、長剣梅鉢です
135人間七七四年:2011/07/26(火) 00:18:47.55 ID:IdLyFUqh
>>134
頼良というと、戦国中期ぐらいの人物ですかな?
すごいなー。
136人間七七四年:2011/07/28(木) 22:06:52.27 ID:9PMg1wiu
相良頼良
1574年?1636年 兄忠房が夭折すると12歳で跡を継ぎ、のち秀吉に属して朝鮮出兵にも従軍した。
会津征伐に従軍しようとしたが、三成は東国に向かう諸将を差し止めており、頼房も近江佐和山に至ったところで引き返した。
伏見城攻めに加わり、その後は美濃大垣城を守備した。本戦の行なわれた9月15日、東軍の水野勝成が大垣城を攻めると、
秋月種長、高橋元種と共に垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を謀殺して東軍に降った。以前から家康に誼を通じていたこともあり、
本領を安堵された。

ググっても↑しか出てこないなネットじゃこれが限界か
137人間七七四年:2011/08/02(火) 01:05:58.54 ID:OKVbscTE
竜造寺に懐柔されてた小大名と言ふイメージしかない。
赤星は家臣か?

138人間七七四年:2011/08/02(火) 11:22:43.68 ID:W1dtRMvi
小大名のくせにしぶとく現代まで末裔いるのなw
139人間七七四年:2011/09/23(金) 08:25:35.66 ID:LVDXXGwQ
現当主ってどこいるの?
140人間七七四年:2011/09/24(土) 17:26:59.56 ID:JEq2C/te

確か前に調べた時は、東北辺りに住んでるって記憶が、 つか現当主は池田家の相良か
141人間七七四年:2011/09/27(火) 19:56:29.92 ID:ul5poRVu
>>140
茨城県在住とのこと。37代目で、男系だと池田氏かな。
江戸時代に相良氏は何度も血筋がかわっているからなあw
ここまでごたごた続きの藩も珍しいくらい
142人間七七四年:2011/09/28(水) 06:45:43.81 ID:6ay8V6ff
誰か菊池義武の子孫の相良菊池家について教えて下さい。
143人間七七四年:2011/09/28(水) 12:36:22.45 ID:SxRNs5yG

血筋が繋がっているのは、134以外にもいないものかね
144人間七七四年:2011/09/28(水) 12:39:03.71 ID:SxRNs5yG
アントニオ猪木も相良の血引いてるのかな?
145人間七七四年:2011/10/21(金) 09:48:00.05 ID:yUMt0F1q
戦国無双に相良義陽でないかなー
146人間七七四年:2011/12/21(水) 23:03:57.48 ID:mbSctu5V
相良家は内紛多すぎ
147人間七七四年:2012/01/07(土) 19:53:59.72 ID:9cy5Htpn
陶の息子に嫁兼人質として出された娘はどうなったのか
磔か自決か出家か
148人間七七四年:2012/02/05(日) 15:33:42.13 ID:sufnbenm
>>1
「肥後の名門・相良氏」 というのはおかしい。
相良は肥後藩ではない。
149人間七七四年:2012/02/08(水) 23:46:17.69 ID:cjGfj6dg
150人間七七四年:2012/04/20(金) 13:04:45.96 ID:Y8EP7gjI
>>148
肥後国のという意味だと思うので問題ないのでは?
相良氏は、地元遠州の出なんで親近感があります。日向の伊東氏と共に
静岡(伊東氏は伊豆ですが)から遣わされた一族という点も含めて。
151人間七七四年:2012/05/27(日) 18:23:37.34 ID:siwomKfZ
戦国大戦に出てるんだな
152人間七七四年:2012/05/29(火) 22:44:40.71 ID:sPZ2hmjX
相良が島津の本拠突ければ、大友も耳川で敗戦しなくてすんだかもしれないよな。
隙を突いて攻めたのに負けるなよな。
153人間七七四年:2012/06/17(日) 08:31:16.80 ID:SmOxs5cc
>>150

源頼朝の母方の熱田宮司家が藤原南家だったので、配流の身の頼朝が近郷武士団に強い親近感を持っていたそうです。北条氏も出自ははっきりしていませんが、藤原南家説も根強い。
154人間七七四年:2012/07/05(木) 11:39:29.17 ID:wH4CqKkr
義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州征伐後、豊臣秀吉より人吉2万石の領主として存続を許された。1600年の
関ヶ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返ったため、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏
は人吉藩として存続した。相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで800年以上領地替えされることもなく続いた稀有な大名である。
155人間七七四年:2013/02/22(金) 11:09:54.64 ID:7tHeoKuS
名族
156人間七七四年:2013/06/27(木) 15:33:32.31 ID:pmVJsRAu
関が原で秋月らとちょっとかっこ悪いことを大垣でやったが
まあ延命した
157人間七七四年:2013/06/30(日) 09:56:10.18 ID:TukDea0U
九州征伐でも肥後一揆でもやらかしてるのに領地替えされる事もなく代々続いてる
深水某ってどんだけ優秀だったんだよ、って話
158人間七七四年:2013/06/30(日) 12:29:13.68 ID:W4MkKgMc
和歌だかを嗜んでるため、そのレベルの高さも伴って
秀吉から気に入れられ、相良が島津に没収された
水俣だったかの代官職に任じられたりしてる。
159人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:V249IxtV
>>157
取るに足らない小地主だから生き残れたのもあんじゃね?
そりゃ、山里だから材木くらいは有るだろうけど、
運ぶあてが有るわけじゃなし
160人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:V2wdro4O
優秀だったので秀吉が対島津用に残した
161人間七七四年:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:aS50Ktvk
代官といっても事実上の領有なんだけどね。
秀吉の深水に対する扱いは、島津における伊集院忠棟のようなものだろう。
そもそも秀吉が直接に役職や領地を与えたとなると、本来は頼房を通して
与えられるべきなのにそうされなかった訳だから、深水の立場は表向きは
頼房の家臣ながらも秀吉の直臣も同義となる。源頼朝と義経の相克の原因を
鑑みれば、これがどれだけ重大なことかが判る筈。

その後、深水一族が町屋を殺略したり頼蔵の出奔に一族上げて従うなど、
少々過剰とも思える反応の裏には、相良家中での深水一族への反感が
強まっていて、深水一族は人吉に居た堪れなくなっていたとも考えられる。
162人間七七四年:2013/10/17(木) 23:32:22.91 ID:o7ZQ+t6n
分家だが相良氏の末裔だよ、俺
ちなみに某水軍の血も混じってる
163人間七七四年:2013/10/23(水) 21:04:28.44 ID:VWV8hqE+
分家って、れっきとした相良姓?
そうであれば間違いない筈だけど、もし深水とか犬童とか庶流の姓だからというのであれば、
相良家は内乱多いせいで、相良の姓自体は与えなかったようだけど、庶流の苗字を
家臣にやたら与えまくってるから、庶流の苗字であれば血の繋がりは無い可能性もあるよ

実際、あまりにも苗字を乱発したせいで家中でも混乱してしまい、
晴広の時代に、住む場所によって苗字の頭に「東の」「西の」とつけさせてる
ただ、今度は東姓、西姓に変える者が現れて、元から東姓、西姓を名乗っていた者もあったから、
結局混乱したままになったという・・・
164人間七七四年:2013/10/26(土) 23:04:48.25 ID:14lEW+R8
>>163
2代上まで相良姓だよ
で、現在の姓は村上水軍から村上
こちらは血の繋がりというより、一員として配された姓の可能性が高いらしい
165163:2013/10/26(土) 23:06:59.39 ID:14lEW+R8
村上水軍に関しては当主の血をおそらくひいておらず、
その団内で姓を配された者の末裔とのこと
166人間七七四年:2013/10/27(日) 12:23:32.01 ID:h0wFSf0a
>2代上まで相良姓だよ

おぉ! なら間違いないだろうね

村上水軍にしても、姓を与えられたということは、相良家は内乱多すぎるから
という事情があるけど、村上水軍はそうは思えないから、それだけ重用された家と
いうことだと思う
純粋にスゴイと思うよ
167人間七七四年:2013/11/04(月) 22:46:15.91 ID:X2hOPY5v
相良家は大名として生き残ったが嫡流絶えて江戸時代はgdgd。世の中いいことばかりじゃない
阿蘇家は大名としては滅びたが嫡流は今も続いて観光地阿蘇神社でウハウハ。よかったのか?
菊池家はお察しください
168人間七七四年:2013/11/09(土) 11:43:11.82 ID:p7DVYnoZ
相良氏って長く続いてるだけで大したことないよね
全盛期もいつかわからないし
169人間七七四年:2013/11/09(土) 16:38:38.02 ID:md7zCMkM
>>168
まぁ、全体から言えばマイナーな存在ではあるし、歴史の転換点となったこともないけど
鎌倉時代から幕末まで大名として生き残った家が希少である以上、そこは評価しても
いいんじゃなかろうか・・・無事此れ名馬ともいうし

全盛期はおそらく義滋から晴広の時代だろう
この頃は八代に徳淵湊を築いて、大内氏から朱印状を貰った上で明国との貿易を行ってたから、
財政的にはかなり潤ってた筈
ただ、天草では騒乱が絶えなかったから、貿易船が滞ることも多かったろうけど

それと、天草の鎮護に兵800、大口の守備に兵1,000を八代・芦北・球磨の交代で賄ってたのだが、
兵を常駐できないところを見ると慢性的な兵不足だった可能性はある
まして、八代は小豪族の惣国一揆で成り立ってて、相良の支配下にあっても絶対的なものでは
なかったから、当主は数ヶ月ごとに球磨と八代を行き来して政を行うなど、色々不自由も
多かったみたいだし
連携とれないわ、兵が足らないわじゃ、思い切った軍事行動は起こせないから、おのずと
領土拡張もなされず、全盛期だってハッキリしなくなるわな
170人間七七四年:2013/11/09(土) 23:57:30.45 ID:SeAOC3ot
おれ九州出身で相良だけど関係あるのかな?
婆さんは先祖って言ってたけどどうなんだろ
171人間七七四年:2013/11/10(日) 03:12:22.34 ID:YRWLWsBp
>>170
おそらくあると思う
可能性としては三つかな


池田氏が養子に入って存続した相良宗家の子孫である可能性がまず一つ、

二つ目は、元々の人吉地頭である相良氏の庶流に稲留氏というのがいて、
それが戦国時代より前に島津家に仕えて、後に相良に改姓してるんだけど、
その子孫である可能性、

三つ目は、相良家家老の犬童頼兄が相良姓を賜っていて、その頼兄が
津軽に追放された際に、孫の頼章が相良姓のまま島津家預かりになって、
そこで子孫を残してる(但し頼章に男子はなく、女子二人も人吉に
置いてきたので、後を継いだ養子から先は血の繋がりはない)
その子孫である可能性もある
172人間七七四年:2013/11/10(日) 14:22:04.99 ID:kFLQ+meg
≫171
詳しくありがとう。

一度婆さんの家にある相良家の本読んでみようかな。
173171:2013/11/10(日) 20:00:53.63 ID:uXrmKMRS
>>172
一つ間違えた
稲留じゃなく稲富だった・・・まぁ、既に名乗ってないから意味はないけども

それと幕末時点で御先祖がどこにいらしたかだけでも、ある程度判るんじゃない?
熊本県人吉なら池田筋の宗家の筈で、宮崎県か鹿児島県なら稲留流か犬童流になる筈だし
万一それ以外であった場合、自分には手に負えないけど
174170:2013/11/10(日) 22:50:14.19 ID:kFLQ+meg
おれが先祖の話しで聞いた事あるのは人吉だけだよ

願成寺で相良ですって名乗ったら普段見せない仏像見せてもらったことある
175171:2013/11/10(日) 23:37:09.43 ID:uXrmKMRS
じゃあもう9割方、宗家の末葉と考えてよさそうだね
更に先祖を遡れば、信長の乳兄弟である池田恒興にあたるという
176人間七七四年:2013/11/20(水) 22:26:21.48 ID:c80LwU88
相良氏の歴史って面白いと思うのにどうして熊本の人は加藤清正ばかり推すの
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384951965/

八代城跡群 国史跡に答申

国の文化審議会は15日、八代市の「八代城跡群(しろあとぐん)」を国指定史跡とするよう文部科学相に答申した。
中世から近世にかけての築城技術や城郭構造の変遷を一地域内で知ることができる点を評価された。同市内での国史跡指定は初めてとなる。
八代城跡群は、いずれも球磨川下流域にある古麓城(ふるふもとじょう)、麦島城(むぎしまじょう)、八代城の城跡と、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡の4か所(計約25ヘクタール)から成る。
古麓城は、14世紀に地元豪族の名和氏が球磨川右岸の丘陵部に築き、相良氏に引き継がれて戦国時代まで使われた。
麦島城は戦国大名の小西行長が1588年、河口の港湾地区に築いた総石垣造りの城。関ヶ原の戦いの後、加藤清正の支城となったが、1619年の地震で倒壊した。
加藤家が麦島城の代わりに築いたのが八代城。同様に石灰岩で造られた石垣が特徴。細川家に引き継がれ、熊本城とともに肥後一国二城体制を支えた。
それぞれ、1996年から発掘調査が始まった。古麓城跡からは土造りの堀切、麦島城跡からは本丸の石垣や天守台の一部、平山瓦窯跡からは2基の窯跡が見つかった。
八代城跡は明治時代以降も神社などに活用されたため、石垣や水堀、庭園などが現存している。
中村博生・八代市長は「それぞれの保存と活用を行いながら、歴史と文化のまちづくりを進めていきたい」とのコメントを出した。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/news/20131115-OYT8T01290.htm
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20131115-988389-1-L.jpg
177人間七七四年:2013/11/21(木) 17:59:22.58 ID:z1KJz5HM
そりゃそうだ、九州は全体的に歴史知識が低いから、有名なものに走られる。
この流れは永遠かな。
178人間七七四年:2013/12/06(金) 02:06:28.82 ID:xXMmHdxQ
相良義陽・肝付良兼・伊東佑兵・阿蘇惟将・秋月種実・土持親成

この中で優秀な順に選んでいくとどうなるかね?
大友義統は話にならんので却下として。
179人間七七四年:2013/12/06(金) 18:52:32.01 ID:lX8VZOa/
>>178
それぞれ優れている部分が異なるし、事績のよく判らん人物もいるから、
一概に順番はつけられんだろうけどね。
まぁ一応、参考になるかは知らんけど、各武将に対して個人的に思うところは
列記しとくわ。



相良義陽・・・実の処、早くに父と後見役の祖父を失ったせいで、家臣ら――特に
球磨側の家臣らが暴走していた節がある(上村兄弟やら東長兄やら東出羽守やら
赤池長任やら丸目長恵やら内田伝右衛門やら後醍院宗重やら佐牟田長堅やら…)。
それらを抑えきることはできなかったけど、同情すべき部分は多いと思うし、
最期は自らの命で、島津からの疑いを払拭させ高い地位での存続を勝ち取ったんだから
(島津家は北進の際に信用してない家は重用してないが、相良家は家臣含めかなり
重用された)十分評価すべきだろう。


肝付良兼・・・オヤジの兼続は気骨も武威もあると思うけど、良兼は時流も読まず、
自らの力を過信し伊東の助力を当てこむあまり島津に抗ったようにすら思う。
母親は日新斎の娘という点を鑑みても、親への忠孝よりも自我を優先した挙句、
肝付衰亡の切っ掛けを作ったまま自身は病死するという…もはや目も当てられない。
結局、大概の戦が伊東頼みだったのも高評価には値しない。


伊東祐兵・・・オヤジが精神弱々で(子供二人が亡くなる以前から何かと諦めグセが
見え隠れる)武将としては勿論、人としてもダメダメなのに対して、自身は秀吉に仕えて
槍働きで功を為した上、一度滅亡した家を再興させるという、本来嫡流が為すべきところを
成し遂げた意味では優秀な人物であったと考える。
大名に復帰する際に、父祖伝来の佐土原や都於郡ではなく、経済的に利のある飫肥
(良港の油津湊がある)を選ぶあたり(自身が嘗て城主だったというのもあるかも知れんが)、
伝統に必ずしも固執しない柔軟性を有していたのではないかとも思える。


阿蘇惟将・・・事績らしい事績ないんじゃ?。甲斐宗運がいなかったら、周辺の隈部・
合志・城・名和らの肥後豪族の連合に、速攻潰されてたんじゃないかとすら思う。
まぁ、宗運のやることに口出ししてなさそうだから、神輿としては優秀か。


秋月種実・・・秀吉にすぐさま従わなかったという意味で、時流を読めなかったと
いう見方もできる。けど、終始一貫して反大友を貫き、秀吉に安易に従わなかったのも
大友が既に秀吉に臣従していたからかもと考えれば、一本筋の通った気骨ある信用に
足る人物と言えるんじゃないか。
世の大概が、秀吉絡みの話ばかり取り沙汰すけど、それまで大友の大群を向こうに、
よくも度々抗い続けられたものだと思う。


土持親成・・・時流を見る目はあったけど、伊東は兎も角、大友と手切れするには
早すぎたかもね。精神弱々三位入道が日向からさっさと逃げ出したから、島津は
日向の地固めが間に合わず、救援も間に合わなかった。まぁ、運がなかったともいえるかも。
ただ、一度こうと決めたら最期までブレなかったのは気骨ある傍証といえるんじゃないか。
180人間七七四年:2013/12/07(土) 01:02:53.47 ID:pBDrPsUz
>>179
なるほど。参考になったわ。
自分の場合

阿蘇惟将
領土維持のため、適材適所の配役と公正な賞罰で後方支援を行ったそれなりの将
宗運に頼り切りという訳でもなく独自に島津との講和を画策・実現する程度の能力(ただし矢部町史根拠)

秋月種実
晩年を除けば毛利や大友の間を上手くすり抜けて一時期は大勢を誇った良将。
秀吉への投降の際の保身も念入りで上手く立ち回れていると思った。

という感じ。
それ以外はあまり変わらないけど、言われてみれば>>179の言う通りだなぁと思った。

あと、できれば義統様や親世代(土持は資料ないから何も言えないけど)についても述べて貰えないだろうか?
181179:2013/12/07(土) 03:31:12.41 ID:iirZN29f
>>180
自分は相良から北の勢力は、正直あんまり詳しくないから此方も参考になったよ。
秋月は一応、秀吉降伏後は南の側になるから多少は判るけど、阿蘇はやっぱ勉強不足だわ。


>できれば義統様や親世代についても

ここが相良スレというのもあるけど、自分は基本 九州の南側ばかりなんで、大友はよくわかんないや。
土持も、親成は島津側の史料から探れるけど、親の世代となると流石に・・・
だから、相良晴広・肝付兼続・伊東義祐なら語れるけど、>>180も相当詳しい方なんでしょ?
勢い余って書いたのが気恥ずかしく思えるんで、少しあっさりめに書くよ。


相良晴広は、終始守護の菊池家を奉じながらも、大友と外交で平和裏に渡りあった上、
徳淵湊と八代城下を商業的に発展させた名君だと思ってる。
内政、外交、戦、どれをとっても失策と呼べるものがない上、明らかに結果を出してるし。


肝付兼続は、気骨に優れて頑固で一本気な印象。豊州家や北郷家が貴久を守護と仰ぐ前から
相州家と姻戚関係を結んでいたのは先見の明に優れていたとも言えるし、薩州家に
押され気味だった相州家を飛躍させた一助は、兼続の武勇が担っていたのは間違いないだろう。


伊東義祐は、なんか調子づいてるときはイケイケなんだけど、壁にぶつかると途端に
やる気をなくしてる印象。弟が頭領に押されたときに、何もしないで出家してるし、
日向から豊後へ逃散する際もなんかそんな感じだから精神的に弱かったと思われ。
更に、凝り性なのか京や公家文化にかぶれて、基本的に武士が叙されない従三位に焦がれる始末。
その癖、偽の御教書は作るわ、北原領をえげつない方法で奪うわ・・・
武士らしい潔さというか気風が感じられないから、どうにもいけ好かない。


――というところかな、個人的に思うのは。
182180:2013/12/08(日) 00:39:11.65 ID:bzZSXHuM
>>181
こっちも阿蘇・三田井・和仁以外はそれほど詳しいワケではないけどね。
阿蘇家勢力図内の豪族中心なんで、ここみたいな相良について聞けるスレはありがたい。


阿蘇惟豊だけど、家督相続から追放・復帰までは個人の能力でどうこうなる状況じゃないから、同情点はある。
復帰後も新体制構築をキッチリ行って分裂を防いでいるし、兄との政争もうまく切り抜けてて隙がない(単に惟長のオツムが弱いというのも)

ただ、阿蘇家は相良と違って初期から超大勢力の隣で、常に安心できない状況なのが不運だった。
国人たちの主従関係が複雑で、相良ほど大胆な改革に踏み切れなかったのもそれを増長させていたし
従二位昇叙も家柄によるものが大きく、四方を大勢力やその追従者に囲まれて、相良に比べ拡大も限界があった。
それでも阿蘇家が戦国末期まで残れたのは古い家系ゆえの地縁の強さと一貫して大友に無理に逆らわなかった政治方針、
そして甲斐党の武力によるものだと思う。
で、それが欠点にもなったという感じか

土持の親父さんは情報が少なすぎるんで何ともいえないけど、伊東との戦いでは結果を残しているし無能ではないと思われ。
他は地元の伝承で弓が得意だったくらいしか知らない。

個人的には

大友…どうしてこうなった
阿蘇・土持…運が無かった
相良・秋月…よくやった
伊東…奇跡

という印象。
183179:2013/12/08(日) 01:45:55.98 ID:7tjL/frz
>>182
>常に安心できない状況なのが不運だった。

なるほど、領地の北と東は即 豊後だもんね。伊東もちょっかい出してたみたいだし、
何より菊池から解き放たれた豪族連中は煩わしかったろうことは想像できる。
龍造寺が大友の目を盗んでは周辺を平らげたように、少なくとも肥後北部の
豪族連中を糾合できてたら、状況は変わってたんだろうけど。
――いや、隈部とかあの連中のことだから大人しく従わないかな。


それと、自分的には

大友…キリシタンに深入りしなければ、まだマシな・・・
伊東…望みは高いが、中身が乏しい

という印象。
184人間七七四年:2013/12/08(日) 21:04:23.29 ID:5SGRBDz2
自分は母が上相良氏の小苗字姓なんだが、本当に子孫なのか自信なくなってきた
小苗字姓以外の根拠としては、菩提寺が人吉の石水寺
石水寺に相良氏一族が寺に出資?保護下にある?旨の石碑だかがあるらしい
ひいお爺さんが別の小苗字姓と結婚したが従兄弟同士の結婚であったこと
小苗字本家の敷地内に江戸年号のお墓があったこと

それ以外だと母の守護霊が母の祖父とちょんまげ帯刀したお侍さんだったらしいくらいかな
185人間七七四年:2013/12/08(日) 23:17:24.42 ID:9BKcR6q9
>>184
この小苗字ってのは曲者で、あくまで相良家が家臣に下賜した庶流の姓だから、
実際に相良庶流の血筋なのか、はたまた元は一家臣なのかがわからない
>>163にもあるように、あまりに苗字を乱発したせいで相良家でも混乱してしまい、
晴広の代に苗字の頭に「東の」「西の」とつけさせてるから、系図でもない限り
ハッキリしたことは正直わからん (系図も、江戸期は金払って改ざんできたというから
必ずしも絶対ではないようだけど)
江戸期に残った相良の深水姓も、元々の深水は絶えて、元を辿れば吉賀江という姓の
人物だったらしいし

ついでなので、>>101に関係したことも書くと、
犬童姓は義滋の代に頼安以外は粛清されてる訳で、その頼安に子は頼兄と娘のみ、
頼兄以降は相良姓を名乗ってて、犬童姓は姓を与えられた家臣のみが名乗ってる上に、
頼兄の男系の血筋は人吉からは絶えたから、人吉の犬童姓が犬童頼兄の血筋というのは
まず有り得ない
但し、義滋による粛清の際なのか、島津家に仕えた犬童姓がいるので、そちらの
系統である可能性はある

・・・と、あまり関係ないことも書いたけど、それくらい複雑化しててわからないんだよね
186人間七七四年:2013/12/09(月) 20:48:11.04 ID:Uue1l5o9
>>185
詳しくありがとう まだ勉強中だから書いてある事中々飲み込めないけど、うちは犬童姓じゃないんだ
上相良氏8つのうちの1つの姓とだけ言っておく

小苗字姓である祖父は母が3歳の時に亡くなってるし、交流があった小苗字本家とも世代が変わっちゃって直接的な交流は無いんだ
祖父が生きていればもっと詳しく聞けたろうし、ここで聞いた『肥後・相良一族』って本も中々手に入らない
いつか小苗字本家人吉を訪ねてみたいから、他に挙げられた相良氏関連本を読んでみることにするよ
小苗字姓家の歴史を少しでも知りたいからね
187185:2013/12/09(月) 21:36:29.49 ID:YykUN/Tz
>>186
『肥後・相良一族』は持ってるけど、小苗字に関しては何も書いてないよ
上相良氏関係も、家が分かれた経緯と、幕府への訴訟、多良木兄弟の反乱の
話が少しあるくらいで、地元市史に比して特筆したものはないし
また、小苗字に関しては人吉市史にも、存在した小苗字が羅列されてた程度だったから、
人吉の地元史家が地域だけで出してる本などで調べるしかないと思う

それと上相良の本官地は上球磨だから、人吉より多良木町の方がまだ痕跡があるかも

まぁ大変だと思うけど、自分のルーツを探す旅ってのは有意義だと思うし、
御先祖様も嬉しく思ってらっしゃると思うから頑張ってね
188人間七七四年:2013/12/13(金) 01:17:53.85 ID:ohN/dQAh
>>187
ありがとう頑張る>自分のルーツ探し
機会を見つけたら母と本家を訪ねて多良木に行ってみるよ
189人間七七四年:2014/01/16(木) 19:54:15.42 ID:R+j95YNd
人吉藩のお家騒動の多さは異常
190人間七七四年:2014/02/10(月) 06:01:43.21 ID:OT67zoIF
個人的に、出羽と肥後は勢力図が似通って見える。

隣国の大勢力に服従する大小の国人がおり(南部と浅利・大友と隈部etc)
南部では名家の有力大名が勢力を伸ばし(管領斯波家支流の最上・藤原南家末裔で鎌倉以来の名門相良)
北部では独自の出自を持つ古代豪族が力を振るう(蝦夷末裔を称する水軍衆の安東・神武末裔を称する神主大名の阿蘇)

こんな感じで。
191人間七七四年:2014/02/11(火) 00:14:17.11 ID:QKYnd6eu
>>190

出羽については全く知識がないのだけど、比べられると成る程似てるかも

ただ、「大勢力に服従する」はニュアンス的に違うかな
肥後もっこす共はそんな従順なタマじゃあないわ (-_-;)
192人間七七四年:2014/02/16(日) 13:29:21.28 ID:v9gVhPmK
>>191
そりゃ相良だのの余所者が出てくる中世以降のレベルで唱えられたって
血にまつわる狂気は理解出来ないだろ
クマソの狂気はアテルイより古いんだからw
東のエミシ、西のクマソ、反逆者の末裔じゃんw
193人間七七四年:2014/02/17(月) 05:47:55.25 ID:cL000zpY
>>190
消え行く大宝寺・名和とか、南北の巨大勢力(南部・伊達、大友・島津)との微妙な関係もプラスで。
194人間七七四年
県外人だが、人吉や山都では相良家・阿蘇家の歴史を大切にしているようで微笑ましい。やっぱ地域に根差した豪族だからかな?
それに引き替え我が地元での山名家の知名度は………