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人間七七四年:
会津陣物語に書かれてるような迎撃作戦など主張してないようだが。家康に白河で降伏するつもりだったと主張したいのかい?
家康を白河で迎撃しようとした事まで否定するつもりか?
白石の仕置きを命じてるとか甘粕が常駐してないとか言ってる書状は佐竹のスパイの車氏ら複数人に宛てた書状のことだろう。
そこからわかるのは上杉と伊達の密約が家康にバレないように細心の注意を払って、わざと車氏らにも披露してる点だけ。
後世の目からみれば直江らのアリバイ作りで、いかにもわざとらしく見えてしまい、初めて読んだ時は笑ってしまったものだわ。
そもそも車氏に教える必要性がまっくないのに わざわざ車氏に読ませること自体に違和感を覚えないなら君はかなりの勉強不足。
まぁ中途半端な歴史ヲタは書状の内容は読んでも、宛先などは読み飛ばしてしまう素人レベルも多いからやむを得ないかもな。
「何時ニよらす彼地江正宗打出候者、可乗出候条、不可有油断候」以前の文章内容は状況と行動指令だから
そのままに受け取っていいだろうね。 問題は上記文章が車らへのポーズってこと。
たしかになんどとなく兼続は 政宗が来たら俺も乗り出すよ〜だから油断しないでね♪ってお約束文章で、出る出る詐欺をやってるね。
まったくそちら方面に出てくる気がないのに。なんらかの合意ができていたからかもね。
それに彼地なんてあいまいな表現でお茶を濁して特定しないように気をつかっておられる。
川俣城を攻めた伊達の桜田も血気逸って勢いで攻めただけで、上杉側の車や上泉らも、真実を知らされてないだけかもね。
だから川俣を上杉に奪回された後は、なんらかの合意にしたがって 前線の武将をなだめて伊達も再攻撃しないで引いてるわけだろうね。
なんらかの合意=密約ですね。 状況証拠からみても兼続も政宗も取り決められて国境線引きが暗黙の了解で存在してる。
もし違うというなら川俣で大規模な軍事決戦が存在し伊達軍が大敗したためにその野望が潰えたと解釈するしかなくなる。
「彼地」を白石と断定するなら、もっとはっきり書けばよいが そこは機密を握る者、車らにちゃんと明示しないわけだ。
密約を破った伊達を川俣で大破して刈田郡の密約ラインまで押し戻した。しかし直江は刈田郡西部は譲渡は暫くお預けにして政宗の忠勤をみることにした。
汚名挽回を期し密約の刈田郡全土を早く受け取りたい政宗は、直江への謝罪のために山形に集結していた米沢討伐軍を瓦解させるために南部へ侵攻した。
政宗が南部へ北上したのも対徳川に神経を集中して密約ラインを直江が堅持していたので、
後方を伊達は攻めませんよ心配する必要はありませんよと直江へアピールする目的である。
しかし一度はあわよくばと密約を反故にして川俣まで南下した政宗は後ろめたさと直江の大挙北上を恐れて、密約の白石の一時返還を申し出たと言う。
伊達は上杉の忠犬として、最上を売り、南部、安東、戸沢らを撤退させ山形の戦力を低下させ、伊達、小野寺、上杉の同盟ラインが完成。
これらの功績により密約に従い刈田郡西部の湯原城の譲渡を上杉から政宗は受けることを許されたのである。
伊達領へ突出し上杉領から孤立する白石は守るに不適な場所だから放棄したであろうことは想像に難くない。
その戦略は正しく、隘路の福島に侵攻した伊達軍は上杉領に深く突出した形になり、逆に上杉からの会津、米沢、二本松などからの急派による
包囲の恐怖に常に怯え、事実、正面では政宗陪臣2人が討ち取られ、さらに背後を制せられた政宗は伊達の聖地が炎上する
阿鼻叫喚の中を必死になって、出陣からわずか2日のうちに北目城まで壊滅敗走した。
まさに直江軍事ドクトリンに従った戦術的後退と機動包囲であり、家康を白河へ迎える戦略も似たようなものだったであろう。
軍事教本における模範的成功例と言えるだろう。
文盲?彼地が白石なわけがないだろうが。恣意的解釈すんなよ。