【上杉】松川の戦いの捏造を糾弾するスレ その5

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823人間七七四年
歴代古案1538 日付については検討の余地がある書状ではあるが
政宗が白石攻めに失敗して上杉の武威に再考を余儀なくされたのは事実であろう)
6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが甘粕の指揮の前に破れた。

これに懲りた政宗は到底、伊達軍の力量では白石城を落とせないと
心底痛感し、かつまた上杉の実力と佐竹の内通を知り
家康に隠れて西軍に内通することで7月に、
甘粕が取り決めどおり去った後に白石城を政宗は受け取ったのであろう。
>>111>>113>>177>>195>>201>>466>>526>>538
政宗→井伊へ
三月廿二日
南部からも攻撃されてまして伊達軍が討たれてるが
家康公から指示がないので南部への対応を控えてます←自分が悪いのに南部が悪いと言ってるw
佐竹から景勝へいろいろと話があったそうで
どうやら景勝の上洛は取りやめですぜ←上杉徳川の和睦をぶち壊そうと必死w
2.3日中に白石口を攻めますの、家康公も攻めてください←哀願w家康「だが断るw和賀同伴指名しますw」
そしてその後まもなく上杉側の文書に下記の者達へ福島での戦闘で
伊達軍を追い出した軍功は比類無いとの文書が発給されてます。
蓬田寒松斎
小島豊後守殿
築地修理青柳隼人佐
小田切安藝守


猶々態飛脚入念候儀、祝着ニ存候、以上
今度不慮之働候処ニ於福島堅固之防戦、殊更其地より半途乗切、何も勝手ニ被申付候故、
敵引除候由申来候、昨日如申、各堅固備と存候、猶其元之用心不可有油断候、恐々謹言
       直江
 三月廿九日 兼続(花押)
   築地修理殿
   御報