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人間七七四年:
伊達の本陣だった国見山を取り仕切ったという宮崎旨元が討たれてるしね。伊達の史料にはそう書かれてるし
上杉の史料にも似た内容がある。本陣を仕切った人物が指揮していた荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし実際須田の記録では兵糧、弾薬、
首級(荷駄隊隊長以下警備の者、下人)が梁川城へ運ばれてるこれが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
巻乃二十下479ページ (政宗)公、白石城御出陣、伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。
同上487ページ 宮崎内蔵助旨元 ハ国見山御陣場ヲ取リ仕廻テ、御幕等ヲ人夫持セ、御跡ヨリ福島表へ来ル。
で、宮崎旨元が梁川勢によって討取られるという内容へと繋がっていく訳だけど
この際奪われた陣幕は亘理伊達家、定宗の荷物に入っていた物かもしれないとも書かれてる
あと俺は面倒だから小荷駄を荷駄と略して書いたけど小荷駄だから小規模だとか、
荷駄だから大規模って区別の仕方はされてないと思うよ。小荷駄=大軍勢を賄う重要な部隊〜という位置付けで
書かれてる話も実際あるし(信玄×内藤の逸話など)宮崎旨元率いる小荷駄隊が公(政宗)の御跡を追って、
国見山から福島表へ来る途中の話。伊達による福島城攻囲とほぼ同時間帯に行われてる話
ちなみに日本戦史も同じ解釈(つーかそうとしか読めん)
伊達軍本隊の荷駄を悉く奪って、梁川城へ運び込んだという「戦果」は大きいし
一方伊達の立場から見ると、せっかく攻城用に準備してきた兵糧&弾薬がそっくり敵の城に移ってしまった
福島城どころか途中にある支城=梁川城が強化されたという結果に
この戦いの直後、伊達側の最前線にあった懸田砦が上杉の逆襲に遭い落城。懸田を奪った上杉方の簗田城兵が感状を貰ってる。
景勝・直江主従はなんで隠居扱いにならずに済んだんだろう。毛利輝元と島津義弘の両当主は剃髪強制隠居の実質領地召し上げの改易。
その後、家康が毛利秀就と島津忠恒を宛名に領地の再交付による安堵で存続が許されたわけだし。
上杉主従が関が原後に初めて家康と会談した時、薩摩の記録によると上杉主従はなんら悪びれず堂々と会談に臨んだって言うし、
家康は直江の武功を褒め称えて喜んだとも言うし。この主従と家康の関係ってよくわからねぇよな。
本庄氏の米沢藩時代の家臣団での席次は堂々の第一位
かつて謙信時代に謀反により春日山城での席次は 同族色部氏より格下にされてしまったこともあるのに
確かに石高では安田氏のほうが上位だけど席次は格段に本庄氏のほうが上位にされています
上杉氏側では松川で伊達を撃退し上杉を守ったとされるので優遇される理由はわかる
幕府からの諸大夫尋ねでは直江3万、本庄2万になってるけど本当かな。
慶長15年の将軍桜田御なりの時も、本庄は将軍から下賜品や献上を行ってる。
直江一族や江戸留守居の千坂はともかく、本庄は対外的にも直江家に次ぐNo.2とみなされてた。
会津時代の分限帳からみると、出奔した藤田や大国を除いても、須田、甘糟の下、安田、泉澤、清野、中条、色部と
同等に扱われてるから、やはり関ヶ原後地位が上がってるような気がするけどな。
伊達に大敗してたら、本庄を家康との和睦で辱めを受ける可能性もあるし、和睦がうまくいかない
可能性も出てくるから派遣したりしないだろうね。そもそも福島を空けて交渉に行くくらい福島表の戦線は
安定してたと言うことは伊達の脅威の排除に成功してるわけだし。 伊達に勝ったからこそ、
戦功を背景に有利な交渉ができ本庄を派遣した意義が生きてくるわけだし、伊達の家康への嘘報告の審議をするために、
家康の指名で本庄が呼ばれた可能性もある。戦後の伊達への家康の冷遇ぶりから有り得る話だろうね。