【上杉】松川の戦いの捏造を糾弾するスレ その5

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821人間七七四年
「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他【二三人】討捕、験越候、満足ニ候、
今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、
國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、
其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、
以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状)
伊達厨がよく、最初の一行目を削除して転記して
今日此表ニ而者三百餘人←ここから2ちゃんに書く手紙のことですねwww
【二三人】討捕←ここ注目w
戦に負けても戦働きをした家臣には恩賞を与えなければならないので
勝ち負けに関わらず上記のようなものは出す(事実、伊達軍は一寸の土地も得ていない)
しかも、この手紙には伊達側の被害甚大なことには一切、触れられていない。
300百人討ち取りってのは政宗の大ウソ宣伝。
この手の捏造戦果のウソは家康に対しても行なっている。
ここではっきりしてるのは 殊会津江之状使其他【二三人】討捕
であるが、福島から会津への書状を持った非武装の伝令の使者ら2、3人を討ったに過ぎないwww
(23人なら廿三人と表記される)
しかも誇大広告のような一次資料の手紙を集めても治家記録のような内容にはならないw
むしろ会津陣物語を参考にしつつ伊達が勝ったように歪曲してるのが治家記録。

さて伊達厨がなんで最初の一行目を削除して転記するのか不思議なところだw
書状を下記に正確に転記してみることにした。
備中二番ニ候へ共、為御意、脇道参候ニ付、宮代御合戦ニ逢不申、福島虎口へ懸著、鐵炮掛申候砌、物頭二名討死、
一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、
武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)」
なんと片倉は脇道にそれた所に布陣してたので本合戦に遭遇せずと書かれているのであるwww
完全な伝言ゲームである。しかも相手は蒲生衆であり景勝衆の軍事行動ではなく、単なる独自行動していた友軍である。
まったく笑える話である。
蒲生氏郷普代衆を討ち取りと記し、さらに成実は越後兵(堀衆?溝口衆?村上衆?)を討つと記すなど、
当時の人が間違うはずがない簡単なミスが続出し認識が間違いまくりのデタラメばっかりが伊達の捏造を表している。
いったい関ヶ原の伊達軍は誰と戦ってるの?見えない敵と必死に戦う迷走ぶりだなw
無理やり「蒲生が減転封した時に上杉に仕えた」「もともと上杉は越後にいたから、いつもの癖で書いた」と解釈しないといけないかね?
なら蒲生氏にそいつらがいた証拠は?蒲生って書けば嘘でもどうせわからねーと思って書いたの?それとも後世の捏造かね?