【武田】2万5千で上洛【信玄】その56

このエントリーをはてなブックマークに追加
117人間七七四年
【☆無敵☆】武田家の輝かしい戦歴【☆騎馬軍団☆】

1541年5月 信玄、信虎、村上義清に従い海野棟綱を攻める。とっとと帰りオヤジに怒られる。
   6月 オヤジ狩り開始。武田信虎追放。
   7月 諏訪頼重との同盟を一方的に破棄、名門諏訪家を攻め滅ぼす。
      12歳の幼女である姪の諏訪御料人を愛人に迎える。

1548年2月 上田原の大敗 村上5000を上回る7000もの大軍で戦に挑むも先陣を包囲され殲滅。
      副将重臣板垣、速攻で討ち死に。さらに怯んだ所を中央突破を受け、歴戦の重臣甘利、才間、
      初鹿野を討ち取られ、さらに信玄自身も足軽に切り付けられ2箇所に重傷を負う。
      将兵700も討ち取られる大敗。村上の被害は300程度。
      この戦によって反武田勢力が力を盛り返し窮地の陥る。
      平定に二年も費やし逆らう者を皆殺しにし、無駄に時間と軍費を費やす。
      後の長篠大敗の後の信濃大離反の火種を作成する。

1550年10月 戸石崩れの大敗 原虎胤のみならず信玄自身も偵察に赴き、万全の体勢を築き上げ、
      かつ、村上義清が高梨と交戦中の絶好の留守の機会に奇襲をするも、つい先程まで高梨軍と
      死闘を繰り広げ疲弊していた村上軍が急遽来襲。圧倒的に有利でありながらまたも大敗。
      将兵1000を失い、追撃を受け、信玄がその才能に期待していた未来の有望株であった
      横田高松が討ち死に。信玄は後年まで酒を飲むとこの者を失った悲しみを周りの者に語った。

1551年10月 小岩岳城に奇襲をかけるも失敗。後年、その恨みか落城の際には降伏さえ許さず城兵500を
      皆殺しにし、かつ、老人、女、子供に至るまでを奴隷として売りさばく(妙法寺記より抜粋)
      そのため現在でも落城の8月12日には慰霊祭が行われている。野戦で討ち取った首を城に前に
      槍で突き刺し並べ降伏を迫り成功するも無抵抗の城兵1000人を皆殺しにし、老人、子供は
      黒川金山に奴隷として連行し、女は女郎屋に売りさばいた志賀城と双璧を成す大虐殺である。

1552年3月 村上義清との信州常田合戦で小山田信有、小山田 昌辰、討死
1553年4月 第1回川中島の戦い(布施の対陣) 更級郡八幡で戦うも長尾軍の猛攻により一時撤退。
      高坂、奇襲をかけるも村上義清にボロボロにやられる。
      後に甲陽軍艦において見事なまでの捏造で挽回をする。
   8月 軍を建て直し川中島で戦うも越軍の連夜の夜襲に悩まされる。
   9月 謙信に敗れ、筑摩、埴科郡に侵入され、荒砥城を落とされる。
      信玄塩田城に怯えて篭る。謙信暴れるだけ暴れて帰還。
      そのまま兵2000もの大軍を率い信玄が果たせなかった京へと上洛。
118人間七七四年:2008/10/06(月) 21:00:15 ID:0+Fxeotm
1554年7月 伊奈郡神之峰城主 知久頼元、座光寺氏が謀反。国内が乱れる。

1555年7月 第二回川中島の戦い(大塚の対陣) 再び越軍の夜襲に毎夜被害を出す。
      信玄対抗して1000の別働隊を善光寺方面より向かわせ夜襲をかける。
      が、見破られ手痛い被害を出す。ウサ晴らしに善光寺より本尊を強盗。
      兵糧が底を尽き始める。今川に頼み旭山城を撤去する譲歩でなんとか和睦。

1557年1月 第三回川中島の戦い 村上義清の守る飯山城を攻略。失敗
      謙信まで出陣してくる事となり上田西方坂城、岩鼻付近の武田軍を撃破される。
      信玄出陣するも決着付かず。

1558年4月 信玄自ら武田軍二万を率い上州に侵攻。業政が吾妻に出陣している留守を狙うも、
      業政は間道を使って直ちに帰還。業政に蹴散らされ、翌日には食糧を焼かれ弾薬を爆発され
      軍を維持できなくなり即座に撤退。
      
1559年9月 飯富虎昌に安中城を攻撃させ、信玄は和田城の攻略に当たる。業政は援軍として駆けつけ
      奇襲を行い信玄の陣を混乱に陥れる。反撃とばかりに雉郷城を取り囲むも空城。
      長野業政は鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。信玄は追撃しようと鷹留城を攻めるも
      反撃を受け撤退。撤退中に伏兵を受け惨敗。兵五百を失う甚大な被害を出し撤退

1560年1月 再度箕輪城を取り囲んだが、飢えと寒さに苦しむ中、さらに安中忠政に
      糧道を断たれ、長野業政の総攻撃を受け、たまらず撤退。
   11月 武田一門の勝沼信元謀反。処刑。

1561年9月 第4回川中島の戦い 上杉12000、武田23000、上杉は数ヶ月前まで関東に遠征をし、
      疲弊をしている圧倒的優位な戦。
      啄木鳥戦法にて奇襲を行うも簡単に奇襲を読まれ、信繁、諸角、室住昌清、勘助討ち死に。
      信玄自身も本陣にまで切り込んできた荒川に切りつけられる。
      死者では上杉の1,5倍、負傷者では二倍近い損害を出す。
119人間七七四年:2008/10/06(月) 21:01:14 ID:0+Fxeotm
1565年9月 義信、飯富虎昌、謀反を起こそうとしたため処刑。国を傾けた大いなる要因となる。

1568年7月 謙信と同盟を結んでいた本庄と共謀し、大軍を率いて越後を攻める。
      が、しかし越後以前の北信濃、村上義清の守る少数の小城である飯山城でさえ落とせず。
      仕方なく撤退。駿河に侵攻。

1569年4月 合戦に敗れたため、駿河を放棄して帰還

1571年1月  駿河興国寺に奇襲をかけるが見破られ敗退。深沢城攻略も失敗。全軍撤退

1573年3月 信玄、2万5千もの大軍を率いて高天神城を攻める。が、失敗
4月 信玄没。死後娘婿の二人に裏切られる。奥平信昌、長篠城ごと徳川に寝返る
   8月 武田信廉、山県昌景、穴山信君、北遠江へ侵攻。徳川の伏兵にあい敗北

1575年5月 長篠の戦い
      死者7000、山県昌景、内藤昌秀、馬場信春、甘利信康、五味高重、安中景繁
      真田信綱、昌輝、原昌胤、望月義勝、香坂昌澄、土屋昌続、川窪信実、和田業繁、
      三枝守友、名和宗安、横田綱松、祢津是広、武田信実、討ち死に
   11月 秋山信友、大嶋長利、座光寺貞房、討ち死に

1579年9月 武田勝頼、武田信豊3000の兵を沼津に置き、徳川氏との対決のために出陣。
北条氏牽制のため富士川付近で陣を取る。が、大雨により1万2000人が溺死(武徳編年集成より)
徳川軍、駿河の持舟城を落とす。三浦兵部助、向井正重討ち死に。

1581年2月 勝頼、1万6000もの大軍を率いて高天神城の救援に伊豆に入る。三島において北条氏政の妨害にあい、
甲府に引き上げる。3月、高天神城の岡部長教ら688名の城兵全て討ち死に。

1582年1月 木曽義昌、武田に謀反、織田に寝返る。 
   2月 武田勝頼二万の兵を率いて出陣。木曽義昌に鳥居峠で大敗。曾根覚雲斎謀反。武田信豊死亡
      17日、松尾城の小笠原信嶺が反旗を翻し平谷陥落。
      18日、保科正直、飯田城を捨て逃走。信廉、戦わずして大島城を捨て逃走。20日、田中城落城

   3月 難攻不落の名城、高遠城1日で陥落。仁科盛信、小山田昌行、今福昌和、原貞胤、武田竜宝、
      武田信綱、武田信堯、一条信就、山県昌満、朝比奈信直、諏方頼豊、一条信竜、討ち死に。
      武田勝頼、盛信、信勝、信貞、信友、海野信親、跡部勝資、土屋昌恒、安部宗貞、小宮山友晴、
      滝川一益に討ち取られる。
      武田信豊、小山田信茂、長坂光堅、一条信就処刑
   4月 織田軍による武田残党狩り開始。武田信玄の六男、葛山信貞、織田信長によって善光寺で殺害
      武田残党は恵林寺ごと焼き殺され皆殺しにされる。 

      武田家唯一の生き残り武田信清、武田家滅亡時にその縁故を頼り、上杉氏に仕える。
      江戸時代まで代々、上杉家の下層家臣として飼われる。
120人間七七四年:2008/10/06(月) 21:02:09 ID:0+Fxeotm
☆偉大なる武田家の系譜

【偉大なる信玄の弟達】
武田信繁・・・信玄の采配ミスで討ち死に。
武田信友・・・織田軍に捕まり処刑される。
武田信廉・・・戦わずして城を捨てて逃げるが織田信長に捕まり処刑される。
一条信龍・・・上野で徳川軍に大敗。捕らえられて親子共々処刑される。
武田信実・・・長篠の戦いで松平伊忠に討ち取られる。
松尾信是・・・目立った功績もなく病死。

【高貴なる息子達】
武田義信・・・嫡男。謀反が発覚。東光寺に幽閉され殺害される。
海野信親・・・二男。生まれつきの盲目で僧となる。勝頼と供に自害。問題外の雑魚
武田信之・・・三男。生まれつきの病弱で十歳の若さで病死。
武田勝頼・・・四男。長篠の戦いで優秀な重臣達を皆殺しにさせ、十倍もの軍を擁しまがら鳥居峠で
       寡兵の木曾義昌に大敗。織田の本格的進行からたった二ヶ月で武田家を滅亡へ追いやる。
仁科盛信・・・五男。名城高遠城を信忠に1日で落とされた愚将。惨めに自害。
葛山信貞・・・六男。怯えて逃げるも織田軍によって善光寺で捕まり処刑される。
武田信清・・・七男。武田家滅亡後、景勝側室甲斐御前を頼って落ちのび上杉家の家臣となる。

【誠実なる一門衆】
木曽義昌・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を破り武田家を滅亡へと追いやる。
穴山信君・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を見捨て降伏。
勝沼信元・・・従兄弟。謀反の疑いで処刑。信玄の器量の狭さを立証

【優秀なる武田一族】
武田信勝・・・武田勝頼の嫡男。天目山で惨めに討ち取られる。
一条信就・・・一条信龍の嫡男。上野で徳川軍に大敗。親父と供に捕らえられ処刑される。
武田信俊・・・武田信実の子。滅亡後も生き残り保科家の口添えによって徳川家1600石の旗本として助けられる。
武田信堯・・・武田信友の子。信長によって処刑。何か活躍しましたか?w
望月信頼・・・武田信繁の長男。目立った功績もなく地味に死亡。
武田信豊・・・武田信繁の二男。部下の下曾根覚雲斎に裏切られ死亡。
望月信永・・・武田信繁の三男。長篠で無残に討ち死に。無敵騎馬軍団☆
武田信道・・・海野信親の子。滅亡時に出家。命だけは助かる。

121人間七七四年:2008/10/06(月) 21:03:48 ID:0+Fxeotm
織田徳川連合軍に討ち取られた武田の武将達

秋山信友、秋山光継、朝比奈信直、安倍勝宝、安部宗貞、跡部勝資、安中景繁、甘利信康、
雨宮家次、飯尾助友、依田信守、依田春賢、一条信竜、一条信就、今福昌和、今福丹後守、海野信親、
大熊友秀、大嶋長利、小原忠継、小原 広勝、小原下総守、小幡憲重、小山田昌行、小山田信茂、
小山田大学、鎌原之綱、金丸定光、川窪信実、葛山信貞、笠井満秀、小宮山友晴、高坂昌澄、高坂昌元、
五味高重、座光寺貞房、三枝守友、真田信綱、真田昌輝、諏方頼豊、常田春清、武田信堯、
武田信友、武田信綱、武田信勝、武田信実、武田信貞、武田竜宝、武田信豊、長坂光堅、土屋昌恒、土屋昌続、
内藤昌豊、内藤昌秀、名和宗安、馬場信春、馬場少輔、原昌胤、日向是吉、
望月重氏、望月信永、望月信雅、横田綱松、横田康景、米倉重継、湯本善太夫、湯本九右衛門、祢津是広、
名和宗安、仁科盛信、山県昌景、山県昌満、和田業繁、