【愛の名宰相?】直江兼続8【義のバカ?無能?奸臣?】

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320人間七七四年
>>307

戦国時代には珍しく、景勝・直江は心を許し合う関係にあった。泉沢久秀宅にて「直江と2人、酒を飲みバカ騒ぎして悪かった」と景勝から泉沢への書状も現存。

「直江が主君をコケにした」とか「直江>景勝」なんて時々出てくるけど、何の根拠で言ってるのか全く不明です。単なる直江の中傷に過ぎません。

最上攻略作戦も、直江は菅沢山から山形盆地に入っていない。
上山、長谷堂なんて無視して、目的の山形城攻略なんて簡単にできた筈なのに。
なぜか、山形盆地(城)に入って行かなかったのは、中央の戦況を見て山形盆地への進軍を決めようとしていたのです。

直江公は猪武者ではなかった。中央で西軍が負ければ即撤退可能な位置に布陣していたのは直江公さすがです。

万一、長期戦になれば、山形まで十キロの谷地城落城させた鶴岡の下軍、山形から二十キロの楯岡まで進軍していた酒田の志田軍も合流し、最上と留守軍には負けない戦力を持っていたのだから、

直江軍は2軍の浪人軍団(正規軍の50騎組は若松で景勝と、岩井や本庄、須田といった歴戦の勇者も伊達・信夫郡にいた)とは言え、問題無かった訳です。
しかし、革籠原の戦略と同様、「釣り野伏せ」を使った直江の撤退戦は見事でした、西軍が負けた場合、当初から撤退戦も想定していたのでしょう。

最上義光は、織田信長から貰った兜が無ければ討ち死にしていた所でした。