伊達政宗 VS 真田幸村 VS 立花宗茂

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829人間七七四年
また秀吉の会津進駐のため、小田原から会津まで「横三間の海道」と「御座所」の譜請という大土木工事が命じられ
伊達氏のみで白河から会津までの奥州側の全区間の高速道路を大急ぎで行う膨大な資金が必要な使役を命じられ
これまでの伊達氏の軍事行動費用の借財や家臣達への棚上げになっていた褒美ももはや不可能となり政宗の信用は地に落ちた。
そんな無理難題に頭を痛めていた時に大事件が勃発。矢田野兄弟事件である。
伊達全軍を挙げて砦レベルの大里城たかが500の籠城に一ヶ月に渡り超苦戦した無能伊達軍

小田原包囲中に二階堂の家臣の矢田野兄弟が政宗に反旗を翻したのも佐竹の謀略だろうね。
政宗と小田原に来た矢田野伊豆守は佐竹の陣に駆け込み、弟の矢田野藤三郎義正が大里城に泉田や明石田ら二階堂旧臣500を集めて挙兵。
結局、7/4には成実や景綱ら1万以上もやって来て伊達が全力で攻撃するも落城せず、
6/25に黒川城へ政宗帰国、7/5小田原落城、7/10に政宗が浅野や木村に会津黒川城引き渡し7/13米沢へ移動、
7/26に秀吉が宇都宮へ着陣。
秀吉の奥州案内の道造り(太閤道整備)をさせられていながら街道筋の大里城を落とせず完璧に面目丸潰れの政宗が8/2に大里城攻撃を諦め撤退。
8/7に秀吉が長沼城に到着と同時に矢田野は城を燃やして撤退。
その際に秀吉は矢田野義正の武勇に大喜びして安房守を与えて、蒲生氏郷に矢田野の本領安堵を下知。
8/9に黒川城へ秀吉が入城。
須賀川二階堂氏が最後の意地を見せつけた戦いだった。
これにより矢田野は佐竹騎下の角館で二階堂氏の名を継ぐ事になった。
資料によって錯綜するが、おそらく義宣の陣に逃げ込んだと思われる。
もしかしたら小田原からの帰路に太田近辺の義重陣に入ったのかも知れない。
なぜなら政宗は義正が矢田野に下り弟に合流すると考えて、早飛脚で成実に対して帰路の道中で討ち果たせと命じている為。
この挙兵は佐竹-相馬-二階堂の連携パターンのような気がする。
なぜなら参陣しなかった相馬が秀吉の了解を得た政宗に討たれる事態を回避したから。
当時の相馬は伊達領の駒ヶ嶺を攻めている為に、明らかに惣無事違反を行っており、
政宗は相馬侵攻を狙っていたが大里城が陥落せずに秀吉の会津着が迫り、
全国の大名たちが見守る中でメンツをかけた伊達全軍をかけた大里城攻撃になってしまい相馬討伐どころでは無くなってしまった。
佐竹が斡旋して秀吉が矢野田の所領安堵を引き出した。
相馬攻めする予定だった伊達軍を引きつけた二階堂の矢野田の時間稼ぎの間に、
参陣もせずに伊達を攻めていた相馬も佐竹の秀吉への働きかけで佐竹寄騎として許された。
参陣途中の鎌倉で当主が死んだ岩城には義重三男が養子に入ることを秀吉が命じたし。
佐竹の打った手はバッチリ当たり完全に政宗涙目だわな。

成実の正妻の亘理氏の没年は涌谷伊達家文書の記載の
文禄4年6月4日を現在の日付に修正すると
ほぼ秀次逮捕数日後という結果になるので間違いないと言われている。
このため文禄4年に成実が出奔して家族が殺されたのは確定。
ちなみに出奔前後の秀次自刃あたりで成実本人による成実記の記録も終了。
異本の政宗記などで、それ以後の記録はそれまでのパターンと変わっていて別人が付け足してると言われてる。
亘理で家族を守って討ち死にした武将たち30人余りや家族を想い量り、
政宗への怒りから記録を取るのを一切止めたのだろう。