伊達政宗 VS 真田幸村 VS 立花宗茂

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826人間七七四年
岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、
石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。

藤木氏によると
国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
南部信直は「畿内ではどんな小物でも主に奉公をよくこなせば、すぐ身分を引き上げられ侍にしてくれるようで、それを見た者たちも我も劣らないように一層奉公した」ように実力本位。
しかし奥羽では「名字をチェックし縁で上に」と言う古い格式と伝統に縛られたもので「古本」「すたり物」と自重した。
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。

左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗に殺されたのであった。

秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。

文禄4年に伏見で成実夫人や家族は政宗に殺され、成実は出奔し成実記の記述もその前後から破棄されていて
現在は謎の空白になっている。
政宗が秀次と謀反を企ているのを危険視した成実が秀吉の元で独立しようとしたので政宗が激怒したとも言われている。

681 :人間七七四年:2010/06/06(日) 01:50:13 ID:+y24UsEb
>>680
そもそも愛姫の御側係として田村から付いてきた人々を皆殺しにして
愛姫をシカトして冷遇したり、
女子供どころか動物まで生きてるものはすべて殺したって
叔父相手に得意満面に自慢してるのが痛い。
重臣が相次いで出奔するなどもう終わってる。

大崎葛西の乱の首謀者として
政宗は今度ばかりは俺も殺されるダメだ・・・あきらめたって
涙ながらに語ったって報告を聞いた秀吉がwww状態になってたし、
秀吉に土下座しに行ったら
自分で煽った一揆の責任と取らされて
米沢・伊達・信夫などの父祖の地を召し上げられたじゃん。
しかも転封先が現在一揆勢が蜂起してる地
政宗が一揆鎮圧に失敗したらそのまま伊達滅亡と言う笑える超展開
>>681
改易の恐怖から政宗は大崎葛西の遺臣達に褒美をやると山谷に呼び出して、卑怯にも騙し討ちアチコチで大虐殺をしまくったんだよな。
仙台藩はその行為を見事に隠蔽しくさって、いまの仙台は藩祖マンセーして悪行を無かったことにし何食わぬ顔してる。