817 :
人間七七四年:
政宗は小次郎を殺した時に弟の守役栗野藤八郎を殺し損ねた。
秀次の会った時に秀次寵臣に栗野木工之助と言うのがいて驚嘆した。
双方が下手に出ると言う笑える展開だ。
栗野はのち政宗が岩出山に帰る時に馬の鞍や帷子を贈り物し
秀次謀反の時はそれが有力な証拠とされ
秀吉の使者は、政宗が土下座して涙ながらに「もはや天命を尽きた。もう諦めた。」と言ったと報告している。
」政宗コト天道尽果、此事最前ニ言上セズ、運ノ極ミナリト申シ、落涙マデニテ、御請ハ申シ上ゲザル由」
絶望の余り落涙しての政宗三度目の命乞い土下座である。
神保相茂
大坂の陣では小勢300ながら水野勝成隊に属して
獅子奮迅の働きを見せるが、
先陣争いをして大戦果をあげた神保相茂に
「手柄を奪われた」と強烈な嫉妬にかられた味方の伊達政宗に
鉄砲を撃ちかけられ、神保隊は全滅した。
政宗は口先八丁を駆使し罪を逃れる事に成功しているが、
この大人気ない行為に島津氏をはじめとする各大名家から非難が殺到した。
寛政重修諸家譜 旧記雑録 慶長見聞書より
伊達隊は真田信繁の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、
政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、
最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。
このため信繁は悠々と大坂城に引き返し
「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
この真田撤退のチャンスの時、忠輝が「疲弊している政宗御父上が動かれないのであれば我が軍が御父上の代わりをいたそう」
と申し出たが真田に敗退した政宗は手柄を取られては困ると怒り
「真田軍の士気は高いので様子見した方がいい」と忠輝を無理に止めた。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、
勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。
しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。
味方討ちは5月7日の天王寺の戦いではなく、5月6日の道明寺の戦いの際であるとの説もあり、
前述のように道明寺の戦いでは水野家家中3人を撃ち殺しているので
7日説では2日連続で味方討ちを行ったことになるが、
6日説であれば水野隊も銃撃に巻き込んだ可能性が高いことになる。
この事件は薩藩旧記増補巻六において
DQN島津家久がDQN政宗を超卑怯者と散々に評したとされる。
金山利益で財力のある大久保長安・忠輝・政宗による謀反の風聞を聞いた細川忠興らは国許に
「大坂の次は奥州出陣だぜ!」と出陣準備を命じた。
絶望した政宗は忠輝公と大久保氏を売りとばし、すぐさま高速の速さで家康公の元へ向かい土下座したので許された。
その後、秀忠公の政宗征伐の噂がひと段落したあとに突然、秀忠公が忠輝公を改易した時の理由は
「将軍の旗本を殺したこと」
「夏の陣で戦いにおいて武門にあるまじき卑怯な行いで追撃しなかったこと」
という利益に狂い嫉妬に狂った義父の政宗の罪をなぜか婿の忠輝がすべてかぶったのでした。
明らかに政宗が信用を得るために幕府に対して自分への非難を
忠輝に責任転嫁して讒言しまくってるのが明白ですwありがとうございました。
その後、失脚した大久保の一族と縁を切って、大久保の政敵だった本多正純に急接近する政宗。
正純に頻繁に面談した政宗は毎回、執拗に百万石の約束をなんとか守って欲しいと土下座を繰り返す。
すると政宗と親しい関係と疑われた正純は秀忠公の激怒を買い見事に最上を巻き添えにして改易。
818 :
人間七七四年:2010/06/29(火) 19:35:18 ID:qDwqF8pO
>>808 政宗は人取橋の時19歳で、相手は佐竹氏を筆頭とした南奥諸大名連合軍であった。
経験から見ても、兵力から見ても、すぐに瓦解してもおかしくない差があったのにも関わらず、
何とか持ちこたえている。
普通だったら、19歳の若輩者が圧倒的に不利な戦いを起こしたら、皆逃げていくと思うが、
家中を取りまとめ、堅陣を布いて耐え忍んだ事は、むしろ評価するところだな。
大崎合戦は、そもそも政宗が出陣していないので、お話にならない。
そして、遂に出たよw伊達の味方討ちww
ソースは?と聞かれて出てくるのは、西軍贔屓の上方の講談・噂話の寄せ集めの、
『難波戦記』に『大坂夏陣推察記』、そして上方の噂話を鵜呑みにした『薩藩旧記雑録』。
諸大名の笑い者になったwその諸大名って誰?
伊達と仲の悪い、上杉や佐竹の記録には出てこないし、
大坂の陣に出陣していた数多の諸大名の記録にも出てこないんだけど、
何故か、大坂の陣に出陣していない島津氏の記録には残っている。
その諸大名って、一体誰なんです?
819 :
人間七七四年:2010/06/29(火) 20:04:35 ID:qDwqF8pO
>>817 そもそも、小次郎が憎くて殺した訳ではないからな。
政宗の迫真の演技に何度も騙される秀吉公も、案外お優しいんですね。
まあ、仲が良かったんだけど。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3521.html >「手柄を奪われた」と強烈な嫉妬にかられた味方の伊達政宗に
これこそ、講談だろうに。
何で政宗の心理描写が出てくるんだい?
実際にあったとして、督戦で射撃した可能性だってあるだろ。
で、島津氏以外の諸大名の非難というのは、何の史料に載ってるんです?
>真田に敗退した政宗は手柄を取られては困ると怒り
「手柄に固執する政宗」というキャラクターなんですねw
わざわざ死兵を相手にする必要はない。
あっちはジリ貧なんだから、急いで攻める必要もない。
>執拗に百万石の約束をなんとか守って欲しいと土下座を繰り返す
この「土下座を繰り返す」というのは、何が出典なの?
820 :
人間七七四年:2010/06/29(火) 20:40:33 ID:r72ACOZX
>>817 政宗公の政治力の高さが伺えるコピペだなw
821 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 07:21:04 ID:A2H6Iwv0
>>818 愚将ではないことは確かだよね
>>819 出家でもさせれば良かったのにね
結果として近しい身内を殺すか追放しちゃって評価を下げる一端になってるし
大河ではお涙頂戴な展開だったけど史実はわかんないし
822 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 11:54:59 ID:z0hQOroa
輝宗が二本松城は要害だから攻撃反対とする意見を輝宗暗殺で強硬した政宗の大敗。
佐竹の目的は二本松城に兵糧を運び入れること。
伊達の阻止行動を排除し運び込むことに成功したので帰っただけ。
佐竹は片手間ついでに鬼庭左月斎を討ち取り、
死を覚悟した政宗に銃撃を浴びせて追撃の心配もなく悠々と帰国。
結果、冬季に入っても伊達は二本松城を降せずにおめおめと帰ることになった。
その後、惣無事令が奥羽に伝達されたので
恐怖した伊達&田村が、相馬に陳情して
二本松側に和睦を呼びかけて、惣無事違反は両家お取り潰しになるから
伊達は信用できないが相馬が保証するなら安心
葦名側が身元引き受け保証人になる
この条件で和睦開城になっただけ。
佐竹は目的を達成し、伊達はまったく目的を達成してないどころかフルボッコされた。
二本松は落城じゃなく、惣無事令による和睦。
伊達が勝ちなんてどう考えても大嘘。
二本松城を手に入れたのは秀吉の惣無事令により
佐竹が支援から手を引いたからであり
伊達は惣無事令にビビって相馬に和睦を哀願した方であり
伊達の勝ちなんて100%言えない。
あのな、そもそも北畠国王丸は11歳。
そんで当時のこの地域は、政宗の人だけでなく動物まで撫で斬り無差別大量虐殺による
死体の遺棄によるものか疱瘡が流行っていて葦名亀王丸もまもなく疱瘡が原因で3歳死去っていう前後の状況。
こういう状況の中で政宗はガキイジメやってるわけ。
その幼君相手に敗北続きで、しかも秀吉の命で
6/17に小笠原貞慶から田村へ惣無事の連絡がやってきて
家康が朝日姫を娶って秀吉に臣従し、上杉も上洛してきたことも知らされ、
上意に背いたら御追罰の旨があるからと言われた
田村清顕と伊達実元が狼狽して、相馬盛胤夫人になってた
実元の妹(つまりは当主義胤の叔父が実元)に和睦の斡旋依頼を陳情してんだよ。
惣無事を守らないと名門畠山氏も滅亡になると聞いて相馬を信用して開城したんだよ。葦名も二本松も幼君でなく、当主が凛々しい武者だったら敢然として拒否してたかもな。
二本松開城の頃にちょうど南部信直も秀吉に臣従するって使者をよこしてるしな。
そんで家康も上洛してきて、奥羽には正式に金山宗洗が秀吉に派遣されてきて巡察してまわるわけだ。
ちょうどこの辺りから北条が伊達にいろいろと歪曲情報を吹き込んで政宗をだまくらかして反惣無事令的な行動に誘導させるようになる。
もちろん秀吉の目が九州鎮圧へ向かっていたこともある。
政宗は惣無事令を無視し大崎家内紛の鎮圧という名目で、
甘い見通しのまま冬季に進軍し大崎合戦で大敗し伯父の義光の激怒を買い、瞬く間に黒川・志田両郡を奪われる。
それと連動しての南方戦線での郡山合戦では連合軍が新国貞通を囮として伊達の砦の近くをゆったり進軍させたら
伊達成実と片倉景綱がバカみたいに脊髄反射して片倉重継に襲撃させたら
佐竹側の二つの砦からわんさか兵が繰り出され包囲され
ヤベェと思った伊達成実と片倉景綱が兵を率いて救援に向かったら
佐竹全軍が一挙に逢瀬川を渡河しまくってフルボッコされ脱出不能になり
政宗も必死に前線まで出てきて救援せざる負えなくなり
二階堂の矢田野義正が伊達の伊東重信を討ち取ったりで伊達100人以上が討ち取られ惨敗して山王館へ逃げていったんだろ。
そんで山上に大量の銃を構えて籠もったままビビリまくり挑発しても一切出てこなくなり伯父の岩城・石川に和議斡旋を哀願したってのが郡山合戦。
ビビリ症の伊達は退却中に追撃されるのを恐れて佐竹が完全に危険ラインから消えるまで見届けてから退却したんだよなw
(その頃北方では母の義姫に政宗が泣きついて最上義光との和睦を願ってた)
823 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 12:08:03 ID:w/5+DIlL
基地害長尾厨で狂伊達アンチの奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
824 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 12:13:25 ID:z0hQOroa
アダムス(三浦按針)によって主導された家康の造船は80トン→120トンと技術ノウハウの蓄積により巨大化していった。
その造船工たちを派遣して政宗に作らせただけ。まさか政宗が摩訶不思議な能力でいきなり遠洋航海用500トン級の造船ができたとでも?
ほんと伊達厨はアホ。 しかも家康が散々に冷遇してやって日本嫌いになっていたスペインのビスカイノの帰国で航海に連れていく破目になるから
家康には失敗するのが目に見いていた。
家康が船手奉行の向井将監や公儀大工与十郎などの技術者を仙台藩に派遣させ政宗に大金(造船工800人、鍛冶工700人、大工3000人)を使わせてサンフアンパウティスタを強制的に造らせたり、
しかも政宗は江戸の空堀を掘らされ橋の改修までさせられ20万両以上の出費をさせられた(仙台藩の歳入3年分以上)
幕府を恐れた政宗は家康死後に日光東照宮の陽明門下の南蛮鉄灯篭は政宗がポルトガルから鉄を運び込んで造らせたものだし
政宗は秀宗に対して、貸した三万両を是が非でも返せと督促してるし。
借財の返済をしつこく迫り、政宗の収入源に追い込むことに成功。
のちにこれが宇和島藩の御家騒動に発展し改易問題になるなど
政宗の放蕩三昧で、すでに仙台藩は破綻状態だったとの指摘もある。
それに宇和島での親子対決で政宗は幕府に介入される前に自分から改易を願い出るくらいムチャクチャ幕府に恐怖してるし。
能などの舞台にあがって観衆に金バラまきまくって基地外のように暴れたりしてんだろ。
参勤交代が制度化される前からやたら江戸にやってきては派手な生活送ってたし、諸大名に対してやたら競おうとして見栄を張りまくり、
超デブになるほど珍しい食べ物を遠方から取り寄せて…そういや片倉を糖尿病で殺したね。
だいたい仙台青葉に当初計画で江戸以上のデカい縄張りを計画するなど悪趣味過ぎる。
仙台藩は上記の状況なのを考えないで湯水のごとく金を使う政宗の節約しない放蕩生活のせいで破綻したんだよ。
だから死後に財政破綻し滅亡同然の仙台藩は幕府に借金したわけ。
残念ながら政宗が領内を大開発し石高が上がり豊かになったとか完全に大ウソだから。
放蕩三昧生活を繰り返し、政宗死の翌年に仙台藩は財政破綻→成実が幕府官僚に土下座して銀五千貫の大借金をするハメに。
くだらん嗜好で騎馬鉄砲隊なんて役にたたない無駄装備や、
見栄を張り背丈に合わない事に近江穴太衆を高い金を出して呼び寄せて青葉城を中途半端に石垣にしたりと
幕府から使役されてる実情を鑑みない…確実に算学や財政を理解できない政宗のくだらんハッタリ趣味の浪費なわけだが。
高田城を見ると伊達に石垣を築く能力は無いね。 政宗は、越後高田城の普請のほぼ全てをやらされたりと幕府からイジメ抜かれたよね。
仙台は近江の穴太衆に作ってもらったが、田舎くせぇ尾根がくっついてる中世山城なんて古臭い城を造ったし政宗は低脳過ぎ。
弧山に平山城を作るなり、平城を造ってる時代に山猿政宗は50年遅れており、時代のトレンドから外れまくってる。
幕府の政宗フルボッコ政策での江戸城普請、神田川掘削、日光東照宮の改築はまさに真綿でゆっくり確実に政宗の首をしめていた。
さらに対伊達恫喝要員の相馬や新庄に移封してきた戸沢は幕府に保護されて強大化してくるし、
政宗が土下座して必死に百万石の約束を頼んでいた本多正純は最上改易に利用されて失脚。山形には鳥居がやってきて伊達包囲も完成。
政宗死後も、さらに伊達空堀の水堀化工事や大船が通過できるように拡張工事、
日光東照宮の改修で仙台は財政破綻状態にさせられ続け、ついには伊達騒動を引き起こし、幕府に介入監視され実質滅亡状態を維持させられ続ける。
ついには仙台藩は藩祖政宗時代からの慣例だった参勤交代コースを変更し、足利氏の領地を迂回する経費削減までやったからな…
政宗死後も搾取されまくって、特に伊達堀の水堀化工事負担は酷いもんで、綱吉時代だったかに仙台藩は膨大な借財のためについに版籍奉還したいって幕府に言い出したよな。
破綻してる仙台を省みず舞台にあがって金をバラまくとか
どんどん派手で奇矯な振る舞いをするようになり、基地害化が激しくなるのは政宗がすでに秀吉や家康や幕府に精神的に追い詰められて鬱から精神の破綻に堕ちたとする話もあるね。
秀吉への答弁などもマトモな人間の返答ではなく、秀吉も政宗がマトモな精神状態じゃないから許してやったらしい。
825 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 12:19:55 ID:z0hQOroa
636 :人間七七四年:2009/09/29(火) 10:01:44 ID:DclsGsNG
どう考えても人取橋の合戦は佐竹の勝利
佐竹は沼尻の合戦翌年で北条とは一触即発であり
盟友宇都宮氏に謀反した壬生氏攻めの最中の片手間で伊達を破った
もし北条との一触即発の対立や壬生の謀反がなくて全力で伊達を潰しにかかったらあっという間に米沢は落城だろ
沼尻の時、佐竹側はわずか2万の兵力にも関わらず8600挺の鉄砲を動員できた
人取橋のときはその多くの鉄砲は対北条、壬生攻めに振られていたから
それら鉄砲も集中できたら緒戦の野戦で伊達は終わっちゃうね
政宗って小田原に参陣して命乞いする時、会津から直接に下野に出ようとして南下したけど、
上杉と佐竹に後援された国人の反乱が酷くて
このまま南下すると殺されるってビビッて一度黒川城に引き返してから、上杉に泣いて謝罪して越後路を借りて小田原参陣したんだよなw
あまりにも武人としてみっとも無さ過ぎてワロタ
564 :人間七七四年:2009/03/01(日) 10:42:12 ID:rB2JlcXJ
>>563 政宗は須賀川〜白河への道を恐れて、南会津から下野国に出て参陣しようと大内(現在の湯野上温泉駅近くの大内宿か?)まで行ったけど怖くなって黒川城へ逃げ帰った。
大内宿からは2つの道が考えられる。
1、佐竹に支援され反乱が激しい須賀川を迂回する為に大内宿から右折して白河へ出る→白河結城氏の動きが怪しい。
2、大内宿から南会津を突っ切り日光に出る→上杉が後援する南会津の国人たちが待っている。
つまり政宗は会津や須賀川や白河の平定に完璧に失敗してるわけだ。
街道封鎖で参陣できそうになかったから、伊達存続に危機感持った家臣団が政宗毒殺し弟を擁立して許しを乞おうとしたわけだし。
佐竹や上杉は「それ見たことかw」って、そんな政宗を笑ってたろうね。
>>568 本多忠勝のたった2割程度にでも剛勇な家臣がいたら安心して通れたはずなんだが。
怯将の下には弱卒しか集まらないのだな。
570 :人間七七四年:2009/03/04(水) 18:14:29 ID:KVbDwnhr
立花宗茂なら諫める家臣に「臆病じゃなあ大丈夫」って言い放って平然と須賀川に出てきてたな!
620 :人間七七四年:2009/07/02(木) 14:36:34 ID:WnVb6pG4
惣無事令違反で討伐される伊達を救うべく立ち上がった北条を見事に裏切り秀吉に土下座。
まさに最強の鬼畜行為をおこなった政宗公こそは土下座神。
677 :人間七七四年:2010/06/05(土) 21:21:57 ID:LCJKjHPO
>>633 減転封と政宗の浪費で伊達は財政崩壊してて、豊臣秀次から大金を借金してたんだよな。
金を恵んでもらって秀次の子分になって得意満面になってたら
秀吉の秀次粛正の巻き添えに巻き込まれたバカ政宗。
政宗って政略の才能が致命的に無さ過ぎ。
826 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 12:22:51 ID:z0hQOroa
岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、
石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。
藤木氏によると
国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
南部信直は「畿内ではどんな小物でも主に奉公をよくこなせば、すぐ身分を引き上げられ侍にしてくれるようで、それを見た者たちも我も劣らないように一層奉公した」ように実力本位。
しかし奥羽では「名字をチェックし縁で上に」と言う古い格式と伝統に縛られたもので「古本」「すたり物」と自重した。
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。
左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗に殺されたのであった。
秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。
文禄4年に伏見で成実夫人や家族は政宗に殺され、成実は出奔し成実記の記述もその前後から破棄されていて
現在は謎の空白になっている。
政宗が秀次と謀反を企ているのを危険視した成実が秀吉の元で独立しようとしたので政宗が激怒したとも言われている。
681 :人間七七四年:2010/06/06(日) 01:50:13 ID:+y24UsEb
>>680 そもそも愛姫の御側係として田村から付いてきた人々を皆殺しにして
愛姫をシカトして冷遇したり、
女子供どころか動物まで生きてるものはすべて殺したって
叔父相手に得意満面に自慢してるのが痛い。
重臣が相次いで出奔するなどもう終わってる。
大崎葛西の乱の首謀者として
政宗は今度ばかりは俺も殺されるダメだ・・・あきらめたって
涙ながらに語ったって報告を聞いた秀吉がwww状態になってたし、
秀吉に土下座しに行ったら
自分で煽った一揆の責任と取らされて
米沢・伊達・信夫などの父祖の地を召し上げられたじゃん。
しかも転封先が現在一揆勢が蜂起してる地
政宗が一揆鎮圧に失敗したらそのまま伊達滅亡と言う笑える超展開
>>681 改易の恐怖から政宗は大崎葛西の遺臣達に褒美をやると山谷に呼び出して、卑怯にも騙し討ちアチコチで大虐殺をしまくったんだよな。
仙台藩はその行為を見事に隠蔽しくさって、いまの仙台は藩祖マンセーして悪行を無かったことにし何食わぬ顔してる。
827 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 14:25:12 ID:3Cn7I+vI
あのさ、反論もしないで都合のいい自説とコピペを長々と貼りつけて何がしたいの?
一つ指摘しておくけど、
>文禄4年に伏見で成実夫人や家族は政宗に殺され、成実は出奔し成実記の記述もその前後から破棄されていて
>現在は謎の空白になっている。
>政宗が秀次と謀反を企ているのを危険視した成実が秀吉の元で独立しようとしたので政宗が激怒したとも言われている。
こんな事言ってるようじゃ、議論にならないよ。
828 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 14:47:46 ID:A2H6Iwv0
よくわからんけど要は政宗は他二人より戦下手って言いたいんじゃね?
829 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 16:23:56 ID:z0hQOroa
また秀吉の会津進駐のため、小田原から会津まで「横三間の海道」と「御座所」の譜請という大土木工事が命じられ
伊達氏のみで白河から会津までの奥州側の全区間の高速道路を大急ぎで行う膨大な資金が必要な使役を命じられ
これまでの伊達氏の軍事行動費用の借財や家臣達への棚上げになっていた褒美ももはや不可能となり政宗の信用は地に落ちた。
そんな無理難題に頭を痛めていた時に大事件が勃発。矢田野兄弟事件である。
伊達全軍を挙げて砦レベルの大里城たかが500の籠城に一ヶ月に渡り超苦戦した無能伊達軍
小田原包囲中に二階堂の家臣の矢田野兄弟が政宗に反旗を翻したのも佐竹の謀略だろうね。
政宗と小田原に来た矢田野伊豆守は佐竹の陣に駆け込み、弟の矢田野藤三郎義正が大里城に泉田や明石田ら二階堂旧臣500を集めて挙兵。
結局、7/4には成実や景綱ら1万以上もやって来て伊達が全力で攻撃するも落城せず、
6/25に黒川城へ政宗帰国、7/5小田原落城、7/10に政宗が浅野や木村に会津黒川城引き渡し7/13米沢へ移動、
7/26に秀吉が宇都宮へ着陣。
秀吉の奥州案内の道造り(太閤道整備)をさせられていながら街道筋の大里城を落とせず完璧に面目丸潰れの政宗が8/2に大里城攻撃を諦め撤退。
8/7に秀吉が長沼城に到着と同時に矢田野は城を燃やして撤退。
その際に秀吉は矢田野義正の武勇に大喜びして安房守を与えて、蒲生氏郷に矢田野の本領安堵を下知。
8/9に黒川城へ秀吉が入城。
須賀川二階堂氏が最後の意地を見せつけた戦いだった。
これにより矢田野は佐竹騎下の角館で二階堂氏の名を継ぐ事になった。
資料によって錯綜するが、おそらく義宣の陣に逃げ込んだと思われる。
もしかしたら小田原からの帰路に太田近辺の義重陣に入ったのかも知れない。
なぜなら政宗は義正が矢田野に下り弟に合流すると考えて、早飛脚で成実に対して帰路の道中で討ち果たせと命じている為。
この挙兵は佐竹-相馬-二階堂の連携パターンのような気がする。
なぜなら参陣しなかった相馬が秀吉の了解を得た政宗に討たれる事態を回避したから。
当時の相馬は伊達領の駒ヶ嶺を攻めている為に、明らかに惣無事違反を行っており、
政宗は相馬侵攻を狙っていたが大里城が陥落せずに秀吉の会津着が迫り、
全国の大名たちが見守る中でメンツをかけた伊達全軍をかけた大里城攻撃になってしまい相馬討伐どころでは無くなってしまった。
佐竹が斡旋して秀吉が矢野田の所領安堵を引き出した。
相馬攻めする予定だった伊達軍を引きつけた二階堂の矢野田の時間稼ぎの間に、
参陣もせずに伊達を攻めていた相馬も佐竹の秀吉への働きかけで佐竹寄騎として許された。
参陣途中の鎌倉で当主が死んだ岩城には義重三男が養子に入ることを秀吉が命じたし。
佐竹の打った手はバッチリ当たり完全に政宗涙目だわな。
成実の正妻の亘理氏の没年は涌谷伊達家文書の記載の
文禄4年6月4日を現在の日付に修正すると
ほぼ秀次逮捕数日後という結果になるので間違いないと言われている。
このため文禄4年に成実が出奔して家族が殺されたのは確定。
ちなみに出奔前後の秀次自刃あたりで成実本人による成実記の記録も終了。
異本の政宗記などで、それ以後の記録はそれまでのパターンと変わっていて別人が付け足してると言われてる。
亘理で家族を守って討ち死にした武将たち30人余りや家族を想い量り、
政宗への怒りから記録を取るのを一切止めたのだろう。
830 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 16:27:59 ID:z0hQOroa
☆慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。
伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w
本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
831 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 16:28:44 ID:z0hQOroa
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗し、かえって上杉と南部による挟撃の恐怖に怯える。
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り
南部信直には和賀の首を贈り「そちの謀反人は死んだ。だからこれで水に流してくれ」と哀願土下座。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→57万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w
543 :人間七七四年:2009/08/03(月) 10:38:55 ID:jabTt11T
最上を改易されたあと秀忠が借金で首も回らなくなった伊達を征伐するって噂が流れて
伊達家では幕府とのシ決戦ュミレーションをしたが確実に破れると想定され、政宗が松島に追いつめられて自刃する以外の結論がでない。
そんでさらに幕府に媚びまくって土下座しまくり秀忠のご機嫌取り。なんであんなに卑屈なんだろうね。
そもそも政宗生前から江戸の空堀作りや高田城築城の使役や普請をたくさん命令される集中イジメを受けていたから、
政宗死去すぐに幕府から借金してるし。今度は空堀を水堀にしろ橋をかけろと嫌がらせを受ける始末。伊達騒動まで引き起こさせられたしなw
いまの中央線の脇に大規模な川があるが、あれは恐ろしく多額の借金をして伊達が作らされたもんだ。
破綻してる仙台を省みず舞台にあがって金をバラまくとか
どんどん派手で奇矯な振る舞いをするようになり、基地害化が激しくなるのは政宗が
すでに秀吉や家康や幕府に精神的に追い詰められて鬱から精神の破綻に堕ちたとする話もあるね。
秀吉への答弁などもマトモな人間の返答ではなく、秀吉も政宗がマトモな精神状態じゃないから許してやったらしい。