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人間七七四年:
政宗は小次郎を殺した時に弟の守役栗野藤八郎を殺し損ねた。
秀次の会った時に秀次寵臣に栗野木工之助と言うのがいて驚嘆した。
双方が下手に出ると言う笑える展開だ。
栗野はのち政宗が岩出山に帰る時に馬の鞍や帷子を贈り物し
秀次謀反の時はそれが有力な証拠とされ
秀吉の使者は、政宗が土下座して涙ながらに「もはや天命を尽きた。もう諦めた。」と言ったと報告している。
」政宗コト天道尽果、此事最前ニ言上セズ、運ノ極ミナリト申シ、落涙マデニテ、御請ハ申シ上ゲザル由」
絶望の余り落涙しての政宗三度目の命乞い土下座である。
神保相茂
大坂の陣では小勢300ながら水野勝成隊に属して
獅子奮迅の働きを見せるが、
先陣争いをして大戦果をあげた神保相茂に
「手柄を奪われた」と強烈な嫉妬にかられた味方の伊達政宗に
鉄砲を撃ちかけられ、神保隊は全滅した。
政宗は口先八丁を駆使し罪を逃れる事に成功しているが、
この大人気ない行為に島津氏をはじめとする各大名家から非難が殺到した。
寛政重修諸家譜 旧記雑録 慶長見聞書より
伊達隊は真田信繁の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、
政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、
最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。
このため信繁は悠々と大坂城に引き返し
「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
この真田撤退のチャンスの時、忠輝が「疲弊している政宗御父上が動かれないのであれば我が軍が御父上の代わりをいたそう」
と申し出たが真田に敗退した政宗は手柄を取られては困ると怒り
「真田軍の士気は高いので様子見した方がいい」と忠輝を無理に止めた。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、
勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。
しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。
味方討ちは5月7日の天王寺の戦いではなく、5月6日の道明寺の戦いの際であるとの説もあり、
前述のように道明寺の戦いでは水野家家中3人を撃ち殺しているので
7日説では2日連続で味方討ちを行ったことになるが、
6日説であれば水野隊も銃撃に巻き込んだ可能性が高いことになる。
この事件は薩藩旧記増補巻六において
DQN島津家久がDQN政宗を超卑怯者と散々に評したとされる。
金山利益で財力のある大久保長安・忠輝・政宗による謀反の風聞を聞いた細川忠興らは国許に
「大坂の次は奥州出陣だぜ!」と出陣準備を命じた。
絶望した政宗は忠輝公と大久保氏を売りとばし、すぐさま高速の速さで家康公の元へ向かい土下座したので許された。
その後、秀忠公の政宗征伐の噂がひと段落したあとに突然、秀忠公が忠輝公を改易した時の理由は
「将軍の旗本を殺したこと」
「夏の陣で戦いにおいて武門にあるまじき卑怯な行いで追撃しなかったこと」
という利益に狂い嫉妬に狂った義父の政宗の罪をなぜか婿の忠輝がすべてかぶったのでした。
明らかに政宗が信用を得るために幕府に対して自分への非難を
忠輝に責任転嫁して讒言しまくってるのが明白ですwありがとうございました。
その後、失脚した大久保の一族と縁を切って、大久保の政敵だった本多正純に急接近する政宗。
正純に頻繁に面談した政宗は毎回、執拗に百万石の約束をなんとか守って欲しいと土下座を繰り返す。
すると政宗と親しい関係と疑われた正純は秀忠公の激怒を買い見事に最上を巻き添えにして改易。