1 :
人間七七四年 :
2008/08/19(火) 13:33:12 ID:tdAgqk4e いつも卑怯な手ばかり使って、 まともに戦って勝ったためしがない糞猿
2 :
人間七七四年 :2008/08/19(火) 13:36:17 ID:W4uh4+qg
(´゚ω゚`)
3 :
人間七七四年 :2008/08/19(火) 14:59:25 ID:0yrapxqD
顔の人 2ゲットじゃないすか!! これで糞スレ認定。
4 :
人間七七四年 :2008/08/19(火) 15:51:27 ID:Tt4MbMZY
天才信長は世界史上でも特筆するべき大改革をやってのけたが、 秀吉、家康は単に醜い権力争いをしてただけ。 器があまりに違いすぎる。
5 :
人間七七四年 :2008/08/19(火) 18:06:14 ID:7lxncHqG
6 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 14:06:37 ID:FlNEnD0i
>>1 山崎の戦いとか、賤ヶ岳の戦いとかどういうところが卑怯なの?
早く戻ってきたから卑怯なの?
小田原の役は、卑怯にならないように、
北条方と同じ数の兵力を揃えて攻めるべきだったと?
7 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 20:48:52 ID:ZKLTEQhC
むしろ秀吉って、負け無しなんじゃ?
8 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:02:51 ID:rB1N2/MG
嘗糞(しょうふん)朝鮮古来の民族医術の一つ 人の糞を舐めて苦ければ体調が良くなっており、甘ければ体調が悪化していると判断する 後に娯楽化し、糞の味で誰のものかを当てる遊びが流行した
9 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:08:46 ID:rB1N2/MG
[試し腹] 朝鮮における蛮風 父親が実の娘を犯し、妊娠させて、子供ができる体と確認してから嫁に出す つい最近まで朝鮮では女性の身分は低く、名前すらもらえない女性がたくさんいた ちなみに試し腹でできた子供は嫁ぎ先に奴隷として差し出される その野蛮な風習は日本統治時代に日本が止めさせたが、つい最近まで普通にどこの家でもやっていた事
10 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:10:54 ID:rB1N2/MG
あるドイツ人歯科教授の体験 その教授は各民族の遺伝子的特性の流れを調査するプロジェクトに参加していて、教授は各民族のアゴの骨の形のデーターを調査していた ある日、同じプロジェクトに参加するDNAサンプルから特性把握する調査をしていた人がこんな調査結果が出てたいへん驚いていたそうだ 「韓国人の一家族を一単位としてDNAサンプルを取って調べたんだが、父+娘 母+息子の組み合わせとしか思えないサンプルがウヨウヨ出てきた」 ガクガク((゜Д゜;)))ブルブル
11 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:13:01 ID:rB1N2/MG
朝鮮のことわざ 泣く子は餅を一つ余計にもらえる 女は三日殴らないと狐になる 他人の牛が逃げ回るのはみものだ 他人の家の火事見物をしない君子はいない 弟の死は肥やし 梨の腐ったのは娘にやり、栗の腐ったのは嫁にやる 親を売って友を買う 営門で頬を打たれ、家に帰って女房をなぐる 姑への腹立ち紛れに犬の腹を蹴る 人が自分に背くなら、むしろ自分が先に背いてやる 家と女房は手入れ次第 野生のまくわ瓜は、最初に独り占めした者が持主だ らい病患者の鼻の穴に差し込まれたニンニクの種も、ほじくって食べる 一緒に井戸を掘り、一人で飲む 自分の食えない飯なら灰でも入れてやる 川に落ちた犬は棒で叩け
12 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:20:57 ID:lN/5ytWV
まあ、 武士は犬とも畜生とも言え〜と宗滴爺様も言ってるからな。 卑怯なのは全く悪くない。
13 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:28:18 ID:ZKLTEQhC
まぁ兵は奇道とか言うし
14 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:30:13 ID:v3v8RLpZ
15 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 21:39:08 ID:rB1N2/MG
>>14 ことわざはいくつか怪しいのがあるが、他はガチ
16 :
人間七七四年 :2008/08/20(水) 23:18:49 ID:to4EFUdf
武士の嘘は武略
17 :
人間七七四年 :2008/08/22(金) 09:14:33 ID:2waWI/oD
姉川の合戦:浅井の猛攻に耐え切れず壊滅(合戦前の池田大言を吐き後秀吉と同じく壊滅事件 があったため目立たず幸運) 金ヶ崎退き口:兵半数を失い事実上壊滅(徳川佐々の活躍で朝倉軍撤退、他人の武功は俺の物) 手取川の戦い:謙信にびびり帰国(ちょうど松永が謀反起こしたので幸運) 別所攻め:進退窮まり退却する(信忠様が兵を進めてくれなかったと言い訳できたお) 小牧長久手の戦い:池田森を討ち死にさせる(信雄調略したので引き分けと言い張った) 賤ヶ岳の戦い:多勢にもかかわらず輝政を死なせる(前田調略でなんとか大逆転勝利) とても戦上手とは言えませんね ちょっと針忍ばせてみた
18 :
人間七七四年 :2008/08/22(金) 12:07:25 ID:9ywHr0FW
輝政?
19 :
人間七七四年 :2008/08/22(金) 12:57:28 ID:2waWI/oD
>18 清秀でしたごめんなさい
20 :
人間七七四年 :2008/08/22(金) 17:47:21 ID:72+UShPG
物は言い様だな
21 :
人間七七四年 :2008/08/26(火) 21:15:12 ID:3Aux1+BB
少なくとも、犬ッコロは大した意味無いんじゃ<賤ヶ岳
22 :
人間七七四年 :2008/08/29(金) 08:51:04 ID:wyyTklrP
中国大返しであんなに早く戻ってくるなんて卑怯すぎだろ、秀吉 ちゃんとゆっくり戻って、明智光秀の用意が十分に整うのを待ってから、 正々堂々と戦えや、ゴルァ
23 :
人間七七四年 :2008/09/02(火) 23:24:32 ID:bSVc3p2+
本当に卑怯だな、秀吉はw
24 :
人間七七四年 :2008/09/06(土) 10:00:21 ID:phoJMPAQ
手取川なんて、負けそうだし柴田が仕切るから「勝手に汁」って 逃げたんだよな
25 :
人間七七四年 :2008/09/06(土) 10:19:50 ID:D2QKJxHn
秀吉は毛利にまけまくってるジャン しかも寡兵の吉川元春にビビッて泣きながら撤退した実績もあるw
26 :
人間七七四年 :2008/09/06(土) 16:32:41 ID:CQASyQz4
毛利じゃなくて別所ね
27 :
人間七七四年 :2008/09/06(土) 23:43:31 ID:W1oTt2G+
秀吉は戦国一の戦下手
28 :
人間七七四年 :2008/09/07(日) 00:06:15 ID:hSnZ3xLz
_ | モパ / ヽ モパ 働かずに / ヽ | グク l @ @ l グク 食う飯は美味いか?> l @ @ l | モパ l U l モパ l U l | グク __/=テヽつ く グク __/=テヽつ く l /キ' ~ __,,-、 ヽ /キ' ~ __,,-、 ヽ | l ヘ ゝ__ノ-' ヽ l ヘ ゝ__ノ-' ヽ| ~ l ヽ-┬ ' /て=-、─----‐‐─ヽ | / て=-、─----‐‐─ヽ ' ト= -' <ニ>ト' ト= -' <ニ> \ ■■ / \ ■■■ \∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧/ \ ■■■■ < ━ ╋ ┓ ┃> \ ■■■■ /< ━┓ ╋ ┃ ┃ ┃> \ ■■☆■■ / < ┃ ┏╋━ ┃ ┃ > \ ■■■■■/ < ┃ ┗┛ ┗ ・> 彡| |ミ /∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨\ 彡彡| @ @ |ミミ ─────彡彡| U |ミミ─────────────── 彡彡| ─── |ミミミ 彡彡彡\\二/ /ミミミ 彡彡彡▲\__/▲ミミミ テ-レッテレ-♪ /彡彡▲■■■■■▲ミミ\
29 :
人間七七四年 :2008/09/08(月) 12:46:35 ID:Lki0zbnp
そうだよね〜 秀吉はものすごく弱かったのに、だれも勝てなかったんだよね〜
30 :
人間七七四年 :2008/09/08(月) 12:58:01 ID:982y07v7
秀吉は対浅井時代の箕浦合戦で、三倍の敵を正面から撃破したりしてますが。 自分が無知だからってそれで史実がすべてと決め付けられてもねぇw
31 :
人間七七四年 :2008/09/08(月) 13:54:56 ID:kmDLi4bL
>>30 秀吉は、天下人の力を使って、
自分に都合のいいように資料を捏造したんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
糞猿にそんな芸当できるわけがないwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
32 :
人間七七四年 :2008/09/08(月) 17:16:33 ID:V1wJ/2YN
>>30 ほっとけほっとけ
アンチが多い=嫉妬されてる=実績がある
なんだからさ
アンチ内ヶ島とかいるか?
アンチ=ステータスなんだよ
33 :
人間七七四年 :2008/09/08(月) 17:50:34 ID:HTGrp8Yq
34 :
人間七七四年 :2008/09/08(月) 18:45:32 ID:4m6F4x6A
>>32 けど福島正則はアンチ多いけど実績があるとは思えない。
それともあれは只単に嫌われてるだけ?w
35 :
人間七七四年 :2008/09/09(火) 11:07:48 ID:Fm5c9pQx
信長→堺〜越前〜甲斐 秀吉→薩摩〜四国〜越後〜会津 家康→堺〜越前〜九戸 秀吉はほぼ全国を視察してる。 さらに神功皇后以来の偉業で蛮族チョンの地を荒廃させ4代足利義持時代のチョンの対馬侵略と対馬人虐待の報復をし、明の永楽帝の恫喝の報復をした偉大過ぎる真の天下人。
36 :
人間七七四年 :2008/09/09(火) 13:28:38 ID:KZE3zsp6
虎御前山合戦では、織田軍本体がいる間は出てこなかった朝倉浅井軍が、信長帰ったとたんに秀吉の一隊を攻めたが、秀吉はこれをあっさり撃退したりしているしな。 無知なだけの連中が多すぎ。
37 :
人間七七四年 :2008/09/09(火) 13:41:33 ID:bcCtVvW5
最終的に、大名の配置換え権と殺生権を持ったわけだから、 他の大名より突出して天下人になった、そこんとこは認めるべきだな。 欠点は金の使い方(政治)に無知だったということ。 金持ちは3代続かないと本当の金持ちにはなれない。 生きた金の使い方を全く知らなかったということ。
38 :
人間七七四年 :2008/09/09(火) 15:37:46 ID:eQFJBS9S
秀吉より戦上手な人は?
39 :
人間七七四年 :2008/09/09(火) 21:00:14 ID:u3/LwPFO
超時空太閤秀吉 読み=【チョウジクウタイコウヒデヨシ】 スペル=【HIDE=YOSHI】 別名=【日吉丸、羽柴秀吉、日吉権現他】 種別=【?、クトゥルー神話神性「ヨグ=ソトース」と関連有り?】 使用する力=【破壊】 持ち物=【?】 出身=【日本、活動は日本〜朝鮮半島】 日本・安土桃山時代に活躍した武将。 主であった織田信長の死後にいち早く行動を起こしその後継者として日本を支配した。後に明国を征服すべく朝鮮半島へ出兵する。 「超時空太閤」とは後生の半島朝鮮人が自らの文化文物の不備を「秀吉の朝鮮出兵による破壊と混乱が原因である」と主張した事がきっかけであり、 あからさまに秀吉が関係し得ない事にまで責任を負わそうとする半島朝鮮人を揶揄した物言いの一つである。 が、仮に秀吉が「時と空間」を無視し半島に破滅と呪いを振り撒けるならば、それは正しく「神」と呼ぶに相応しい所業であると言えなくもない。 また、それらの破壊と滅亡を象徴する「超時空太閤」の象意を、クトゥルー神話において「時と空間」を統べる外なる神「ヨグ=ソトース」と合祀し、 「時間と空間を飛び越えて、数多の時に時を選ばず朝鮮半島に滅びと破滅を呼び込む荒神」として祀ったのが「超時空太閤HIDE=YOSHI」である。
40 :
人間七七四年 :2008/09/10(水) 21:44:37 ID:gLGFk3If
>欠点は金の使い方(政治)に無知だったということ ?
41 :
人間七七四年 :2008/09/11(木) 12:00:13 ID:wGvn7bpS
家康よりは100倍、魅力ある
42 :
人間七七四年 :2008/09/11(木) 12:36:04 ID:b2lwgIpc
43 :
人間七七四年 :2008/09/11(木) 20:32:35 ID:yUX6ADzY
100倍は言いすぎ せいぜい80倍
44 :
人間七七四年 :2008/09/12(金) 18:24:03 ID:Vx2gi0j8
糞猿秀吉にまともな戦なんかできるはずもない 全てにおいて無能な男
45 :
人間七七四年 :2008/09/12(金) 18:54:12 ID:dJmiX0ES
秀吉は、百姓の子から身をおこして、 全日本人の頂点にまでのぼり詰めた男 これを無能よばわりするのは、朝鮮人の誹謗にしかみえない
46 :
人間七七四年 :2008/09/12(金) 19:09:44 ID:4eCXIwtY
ヤフー・フランス伝える 「フランス国内にて韓国人男性が、大家が留守の間に大家の愛玩犬のチワワを食べようとして警察に逮捕された」 在日朝鮮人の多い日本では毎年この手の事件は多く、珍しいことではない しかし、食犬の文化は朝鮮人だけ日本人には関係ない、とは言えない 4ー5年ほど前だろうか葛飾で犬の頭部30個が捨てられているのを通行人が発見し警察に通報、精肉店を営む韓国籍の男性(82)が逮捕された 問題の胴体部はすでに韓国系の飲食店へ搬入したとの事だ あなたの近所の焼肉店は大丈夫ですか? やたら強い香辛料で臭みを消した肉を出していませんか?
47 :
人間七七四年 :2008/09/13(土) 07:57:27 ID:lcgbTnPY
>>45 秀吉は百姓の子って・・・根本的な所から間違えてないか?
戦ってのが何処から言うかで違ってくるかと思う。
決して合戦で強くもないし下手な部類だと個人的には思うが、戦略的観点から
考えればずば抜けていたと思う。
勝てるように準備し、戦う。
この辺は信長と同じなんじゃないかな。
48 :
人間七七四年 :2008/09/13(土) 23:55:17 ID:QjSRkbxx
世界史上にその名を刻んだ偉大なる天才革命家信長に比べて、 秀吉、家康はあまりにも醜く、糞すぎる
49 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 14:40:24 ID:Mi14N+E3
戦国武将の評価は、宗教の世界といっしょだな、ほんと、読んでいてよく分かる。
50 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 15:02:11 ID:ZRylLIXN
>>48 相変わらずだな、
いい加減織田厨は自分らが嫌われる原因にきずけ。
51 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 15:47:20 ID:s7MZhq++
金ヶ崎の退却戦は見事だったし、 姉川、小谷攻略に貢献、 山崎、賤ヶ岳も勝ったからこそ天下を取った。 戦下手なら、とっくに消えとる。
52 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 15:59:56 ID:ZRylLIXN
>>51 一部隊長じゃなくて総大将での議論をしてるんだ、
織田信長が総大将である
金ヶ崎の退き口
姉川の戦い
小谷城攻略戦
は論外だ。
53 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 20:43:15 ID:YnYquCCD
すまんが、秀吉が総大将の合戦だと、中国戦線から天下統一達成まで 家康戦くらいしか負けが思いつかんのだが
54 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 22:07:58 ID:poPLA7qN
縁と運とタイミングの全て活かした秀吉は、戦下手とかの次元で語るレベルとは違うと思うよ。 日本で初めて天下統一を果たした事実は誰にも覆せないと思うが。古今東西、結果が全て。歴史とは結果をなぞるもの成り。
55 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 22:46:53 ID:KXqxhmrT
>>54 言ってることが根本的にスレ違いだと思うが・・。
56 :
人間七七四年 :2008/09/17(水) 23:26:51 ID:YnYquCCD
>>55 54は、
>>1 のいう「戦下手なくせに天下人になった」て考え方への反論だろう
スレ違いとはいえない
57 :
人間七七四年 :2008/09/18(木) 08:48:32 ID:BnFV797y
>>56 ??
「戦下手なくせに天下人になった」の話なのに??
58 :
人間七七四年 :2008/09/25(木) 08:42:25 ID:Vmyfi0Ys
秀吉は戦下手すぎwwwwwwwwwwwwwww負けまくりwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 糞猿は無能wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
59 :
人間七七四年 :2008/09/27(土) 02:03:06 ID:AjJUzWw0
60 :
人間七七四年 :2008/09/27(土) 12:05:31 ID:SRQfyRqW
何をもって戦下手としてるか知らんが、どんな形であれ、天下を取った、秀吉が戦下手とは言えない。
>>1 は戦略と戦術とは何かを勉強すべし。
61 :
人間七七四年 :2008/09/27(土) 18:42:02 ID:QfQu92Mo
朝鮮蹂躙されて涙目なのさ
62 :
人間七七四年 :2008/09/27(土) 23:52:54 ID:3ljOcFVn
>>1 ローマは戦術的にはなんども大敗したけど、結局最後はかってる。
つまり軍事的能力より経済能力や運とかのほうが大事に決まってる
んだよjk
63 :
人間七七四年 :2008/09/28(日) 00:05:35 ID:x7rWR6OO
秀吉と信長入れ替えたら分かるな。 ほとんど何もできないだろな。 そもそも桶狭間を起こせない、桶狭間がない と調略の類も簡単には成功せんし、調略主体だと時間が掛かりすぎる。 信長も戦上手とまでは言えんと思うが、それ以下の秀吉ではどっかの国の後継者的 立場で戦国レーススタートさせてたら天下はとれんかっただろね。 戦術って大切だからな。信長も戦略派代表みたいにとられること多いけど、 一番最初にガツンと桶狭間でいわせたのはでかかったと思うしな。
64 :
人間七七四年 :2008/09/28(日) 00:17:14 ID:ywomMOPq
65 :
千成瓢箪 :2008/09/30(火) 21:57:38 ID:QSJo9xLr
日吉丸は日輪の子。 日の本ニッポンの申し子である! 「猿」は山王権現の象徴、日吉大社・日枝神社の神獣である! 明治日本政府は、逆賊徳川を祀った日光東照宮を貶めるために 豊国大明神を真っ先に復活させた。 いわば秀吉は、家康と違って国家公認の「神」である! 以上
66 :
人間七七四年 :2008/10/01(水) 13:53:28 ID:J2Y9c7lW
スレ主は在日か。 なるほどね。。 秀吉と伊藤は2大悪人なわけだ。
67 :
人間七七四年 :2008/10/15(水) 18:45:31 ID:SQFSy0oN
木下藤吉郎 〜 羽柴秀吉までは魅力があったんだが。 豊臣になってから魅力なくなっちゃったねぇ。。 関白太政大臣が悪かったのかな?
68 :
人間七七四年 :2008/10/19(日) 20:40:31 ID:v+P4e1ul
69 :
人間七七四年 :2008/10/19(日) 20:56:26 ID:P1g4SAYH
いや最初から魅力なんてないだろ 同僚に嫌われまくってるんだから
70 :
人間七七四年 :2008/10/20(月) 06:16:43 ID:AFFHtHB1
最初から最後まで秀吉は秀吉だったと思うぜ。 秀吉は自分の身の丈より一段高い生活をして、 身分をその生活に合わせていくタイプで、逸話でもそんな話がある。 浪人から足軽へ、足軽から小役人、武将、大名、天下人と足を進めて、 足を進めたその先が絢爛豪華な生活と、その生活に見合う身分を得るための唐入りなだけで。
71 :
人間七七四年 :2008/10/20(月) 13:47:29 ID:msrZvlU7
日本を世界初の近代国家へ脱皮させようとした天才信長の功績を台無しにした無能秀吉は、日本史上最悪の極悪人
72 :
人間七七四年 :2008/10/21(火) 12:35:39 ID:O+3dj5nH
秀吉は基地外 卑劣な詐術だけで天下が取れる戦国日本て現代と同じだなw
73 :
人間七七四年 :2008/11/22(土) 01:05:33 ID:KOClnMhr
しかしまぁ人気の無いスレだ
74 :
人間七七四年 :2008/11/28(金) 23:53:29 ID:z6QxwKOi
秀吉に戦国武将たる資格なし!
75 :
人間七七四年 :2008/11/29(土) 00:12:06 ID:A0vjPTzO
いつの世も、運がよく、人づきあいがうまく、要領よく立ち回れる奴が、出世するって事ですな〜
76 :
人間七七四年 :2008/11/29(土) 03:02:43 ID:30YHYRZs
因幡の吉岡定勝の居城を攻めたとき瓢箪の馬印を奪われてるし弱かったのはガチでしょ 結局この城も兵糧攻めにしてる
77 :
仙台藩百姓 :2008/11/29(土) 10:56:24 ID:9yBV/9yM
戦下手で天下取ったのなら天才としか言いようがあるまいお( ^ω^) まあ、戦術下手って事だろうけど 戦術的に優秀な人間は腐るほどいるけど所詮小手先の技では大勢を覆す事はできぬお┐ (´ω`) ┌ 結局のところ視野の広い戦略眼を持っていたのは信長と秀吉ぐらいのものだったお 一郡二郡取る程度なら大将が采配振るって乗り込むのもよいが 天下取りを臨むような大国になると一人で全て熟すのは不可能だお つまりは将の将たる資質が最も重要になってくるわけだお 世界的に見ても成功者は戦術下手な傾向にあるおね( ^ω^) 下手だからこそ人を使う術に長けてくるのかもしれんお( ^ω^)
78 :
人間七七四年 :2008/11/29(土) 17:15:35 ID:Wl3TRtwC
何時の時代でも政治的勝者は多くの者を味方につけた者です。 戦争だけで天下統一?日本全土を焦土にする気ですか?
79 :
人間七七四年 :2008/11/30(日) 14:48:07 ID:TGQ9wVVe
戦争は政治の一状況にすぎないわけだからな
80 :
人間七七四年 :2008/11/30(日) 17:23:41 ID:S004nO98
イメージで物言ってるヤツが多すぎる。
戦下手で武官がどうやってあそこまで出世するっつーんだ?
政治力うんぬんなんて部将時代は関係ねーだろ。
>>76 局地戦でたまに負けたらその言われようか・・・。それだと少なくとも
織田家にゃ戦上手はいねーな。
81 :
人間七七四年 :2008/11/30(日) 23:46:29 ID:GcYF2LuT
秀吉は戦国で最も無能な男
小田原攻略の直後に、それまで秀吉の諫め役だった弟の秀長が死んでしまってから「晩節を汚す」道に転落していったんだよね? 弟が他界して、たった7年後に秀吉も他界したのか…
83 :
人間七七四年 :2008/12/03(水) 13:12:30 ID:+sTltM8t
秀長は好きだが、秀長が生きていれば後年の混乱がなかったかというとそれもどうかな? 秀吉派・秀長&秀次派に別れて余計に揉めたかもしれん。
84 :
人間七七四年 :2009/01/10(土) 23:51:23 ID:ntqJtIZX
秀吉は天下を返上しろ
85 :
人間七七四年 :2009/01/11(日) 04:49:13 ID:QtelnfN/
86 :
人間七七四年 :2009/01/11(日) 06:53:00 ID:SuRDtPDN
偉大なる太閤様は信長の外道にくらべれば
意外と戦に負けてないなあ。
信長は負け戦ガ多い分強くなったのかなあ。
美濃へ攻める時でも戦では結構負けてなかったっけ?
美濃攻めも結局調略で勝ったようなもんだろ?
信長は自分が生き残れば家臣を平気で犠牲にするからね。
まあ信長が本当にすごい人物なら本能寺で死にはせんだろ。
信長は天下取れる器じゃなかったってことでしょ。
天下取った太閤殿下と東照権現殿は天下の器ってことだね。
>>85 言った処で莫迦チョンが聞くわけ無い。
太閤殿下がポケットマネーで買い取るらしい。
87 :
人間七七四年 :2009/01/25(日) 22:54:11 ID:JrCylonD
秀吉最低 信長最高
88 :
人間七七四年 :2009/01/26(月) 16:38:05 ID:Bh4INkmu
「唐入りじゃ〜!」とか言いながら 途中の半島で行き詰ってるし。
89 :
人間七七四年 :2009/01/26(月) 20:57:03 ID:35ojKoE7
秀吉の場合、戦の作戦立ててたのは全て官兵衛なのでは? 本当は全て官兵衛の手柄。
90 :
人間七七四年 :2009/01/27(火) 05:40:26 ID:DtAAyN31
最初は竹中 中盤は黒田 終盤は小早川 ってかんじじゃないの?
91 :
人間七七四年 :2009/01/27(火) 07:01:03 ID:gmdfm4Si
>>90 信長の後継者の立場を確立してからは、大軍に兵法なしだろ
92 :
人間七七四年 :2009/01/27(火) 09:05:32 ID:qPBPXGdl
信長の皆殺し作戦じゃ天下なんて無理だと思ったのではないの? 秀吉は調略や金満攻めじゃん 全大名従属させた功績は大だよなー 大名同士初めて顔合わせる機会だから
93 :
人間七七四年 :2009/01/27(火) 16:16:19 ID:tw30s/5I
単に唐入り想定しての従属だと思う 自分も若くないし
94 :
人間七七四年 :2009/02/12(木) 23:06:53 ID:kKwxcUcz
秀吉氏ね
95 :
人間七七四年 :2009/02/13(金) 00:44:26 ID:1dbAcu2D
もう芯でます
96 :
人間七七四年 :2009/02/16(月) 07:39:04 ID:0oqcE/nm
戦が弱いのに天下を取った秀吉が天才だって事だと思うが 戦術は弱いが、戦略能力が傑出してたって事だろう
97 :
人間七七四年 :2009/02/16(月) 11:21:47 ID:0VnGflly
城攻めと調略は天才だろう
98 :
人間七七四年 :2009/02/16(月) 13:15:58 ID:I8tjZITk
そうだね。
99 :
人間七七四年 :2009/02/16(月) 13:17:09 ID:I8tjZITk
権力は恐ろしい。
100 :
100 :2009/02/16(月) 13:17:45 ID:I8tjZITk
100Get
101 :
人間七七四年 :2009/03/13(金) 23:48:27 ID:M8HlujMe
つーか 六杭を待てや 蓮葉蓄善
102 :
人間七七四年 :2009/05/11(月) 15:30:31 ID:BTQmpLGu
「どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。 ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。 スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。 1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして 「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」 との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。 ただ一度だけ、日本の不正規軍… …浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。 1620年代、シャムにおいてだ。 どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。 支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。 だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。 そのことは支那自身が明言している。※ (中略) 1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、 「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。 ノエル・ペリン noel perrin( ダートマス大学英米文学教授)が分析した戦国日本の軍事力(著作「鉄砲を捨てた日本人」より) ※「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」 (日本との七年に及ぶ戦争によって我が明は膨大な犠牲を強いられた。 我が国と属国朝鮮に勝算は無かったが、関白豊臣秀吉の死によって戦争は終わった)
103 :
人間七七四年 :2009/07/06(月) 19:23:43 ID:IpCmwhfI
糞猿秀吉氏ねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
104 :
人間七七四年 :2009/07/15(水) 06:56:03 ID:13aa6Hc1
戦争ヘタクソで天下を取ったならばむしろ讃辞 他の武将は何してたんだか
105 :
人間七七四年 :2009/07/15(水) 10:30:07 ID:XgJjUSw/
朝鮮出兵も秀吉が自ら指揮してたら 明も征服していたろうな 金はいくらでもあるんだから
106 :
人間七七四年 :2009/07/18(土) 03:02:37 ID:xQTnN+6l
: /: ::::/:::::::::::::::::::::,':::,':::_:」-‐''"´ `ヽ!!::::::::l::::',:::::::::::::::::',:::::::ヽ: ,'::::::::,'::::::::::::::::::::::,'/'" -‐ ' "´ ̄ヽ イ"''==- \!:::::l::: ::',::::::::::',:::::::::: l:::::::::l::::::::::::::: ::::::l -‐ 、‐ -‐ - 、 .ヽl::::::::l::::::',:: :;:::::::: ::::::::::|:::::::::::l::::::::::| . _,,zェ=≡弍ヽ ヽ /,z===‐-、,,_ .!::::::::|:: :::l:: :i:::::::: ::: :: ::|:::::::::::|::::::: :l ィ7.il:::{;;;;;;;}::::l! ヽ / .il:::{;;;;;;;}:::liヾx. .':::::::::l:::::::|:::::l:::::::: :::::::::::l:::::::::::|::::::::::', 《 .l|、:ゞ_-' ‐' ..::::::... ‐゙-.゙.=."::ノ ..》..,':::::::::,':::::::|: :::|::::::: :::: : :::::`ヽ、:|::::: :::::', . ̄  ̄` . ,'::::: ::/,l::::::l -‐:::::::: :::::::::::::::::::l . `ヽ、:::::', /::::_ :// -‐::::::::::::::::: :::::::::::::::::::ヽ \ ',ヾ、 。 。 /// / ./::::::::::::::::::::: ::::::::::::::::::::::::\ - ', ' /- ' .,.':::::::::::::::::l:::::: ::::::::::::::::::::::::::::::ゝ、_ ', ヒ二三 ̄ ̄三二ヲ / /:::::::::::::::::::|レ'" .` ヽ 、:::::l:::::::::::::::::::::ハ ` ̄ ̄ ̄´ /`T´: :: ::i::::::::::::::! `ヽ、:::::::::::::::::::\ /::::::|!::: ::::::lレ '"´ ` ヽ 、:::::::;;:> イ:::::_::::」レ '"´ / / `..t 、 ィ.´ `ヽ `ヽ、
107 :
人間七七四年 :2009/09/20(日) 07:36:10 ID:5su1pYV3
家康は大好きだけどこいつは嫌いなんだよな
108 :
人間七七四年 :2009/09/21(月) 15:57:00 ID:zvjfnQMm
代わりに弟が戦上手
109 :
人間七七四年 :2009/09/21(月) 16:17:10 ID:EdrPdMSK
オレも秀吉ぐらいの人蕩しテクがあれば もう少し女に不自由は…
110 :
人間七七四年 :2009/09/27(日) 19:14:28 ID:Y84G1X2P
彼は人垂らしと言われるほど、敵将を裏切らせるのが上手かったのだ。 だが、その影では逆心による人質の虐殺が各地で行なわれた。 秀吉の通った後には、人質の磔柱が立ち並んで行ったのは余り知られ ていない歴史上の事実である。
111 :
人間七七四年 :2009/11/19(木) 18:28:08 ID:B0AN0tSj
1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えていたのだが、 スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、鉱山開発で過酷な労働を強いられ、天然痘などの流行もあって人口が激減した。 さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を占有した。 人種の混合政策がとられ、スペイン人の血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。 こうした過程で、アステカ文明は根絶やしにされたのである。 実はこれは日本人にとっても他人事ではない。 戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の宣教師がやってきたときに、 日本が信長や秀吉や家康のようなすぐれた人物に恵まれず、 また民族的なエネルギーも不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。 現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。 イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、 武士の戦闘能力とその動員数、そして鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、 本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。 そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、 九州の神社仏閣を破壊し、日本の中にキリスト教区を作ろうとした。 さらに明の侵略にも使おうとしたのである。 豊臣秀吉は、明がスペイン人に征服されては、いずれは日本にも魔手が伸びると考え、 バテレン追放令を出し、さらにスペインの明への侵攻を牽制すべく先手を取って明に向かったのである。 それは文禄の役のときフィリピン総督府あてに脅迫的な手紙を出していることでも明らかだ。 歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せている。 これではキリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としてしか描けない。
112 :
人間七七四年 :2010/01/16(土) 19:53:14 ID:PFGc/fck
秀吉の配下って対朝倉浅井の頃は、鬼武蔵を出すような美濃衆でしょ。 結構戦闘力は高いと思う。
113 :
人間七七四年 :2010/07/15(木) 00:12:45 ID:IFmRcOPO
だね
114 :
人間七七四年 :2010/07/15(木) 08:26:09 ID:SnHlz78i
そのおになんとかってネタ臭いしウザイ
115 :
人間七七四年 :2010/07/16(金) 20:07:21 ID:NFsKUMnm BE:239852922-2BP(240)
>>111 その時は鉄砲の数が世界一だったしな
後インドにも手紙を出した
116 :
人間七七四年 :2010/07/17(土) 17:29:21 ID:WRA212pa
同時代に生きてりゃ猿に往復びんた食らわしてやりたい。
117 :
人間七七四年 :2011/04/27(水) 09:23:48.22 ID:T4iRiiNP
右とか左とか関係なく、秀吉は下剋上をやっているんだよ 織田側から見れば、極悪人以外の何者でも無い。 英雄あつかいしてるのは、大阪のバカだけだろ。
118 :
人間七七四年 :2011/04/27(水) 09:48:18.36 ID:+FENfmDA
聖人君子に乱世を平定してもらいたいと思う気持ちは解らないでもないが 壊れた世を終わらせられるのは、壊れた世を壊せる強力な破壊者だ 破壊者に善も悪もない 乱世を征するという事は、つまりはそういう事なのだ
119 :
人間七七四年 :2011/04/27(水) 09:59:47.86 ID:HdP/a82y
なんかわざわざスレたてる程のもんじゃないのが乱立してるな
>>1 が思ったこと一々たててたらキリなくね?
120 :
人間七七四年 :2011/04/27(水) 10:54:38.29 ID:15+20429
>>117 家康を英雄扱いしてるのは関東のバカだけだろとブーメランが飛んでくるわけだがw
まぁ在日が天皇や秀吉を中傷するのは見慣れてて
今さらネタにもならねぇ。
新しい視点と切り口で勝負してくれよチョン坊。
121 :
人間七七四年 :2011/04/27(水) 11:39:00.40 ID:/+ducfWX
戦に弱いとか 劉邦ディスってんのか
122 :
人間七七四年 :2011/04/27(水) 15:16:25.51 ID:zbG9e+6K
>>118 聖人君子は得てして無能。
無能ではどうしようもないのは鳩山由紀夫前総理の醜態で立証されている。
123 :
人間七七四年 :2011/04/28(木) 08:17:43.15 ID:KRjNwgDd
何でこう、スレと言うか板違いな政治の話を持ち出すヤツが後を絶たないのだろう。
124 :
人間七七四年 :2011/04/28(木) 14:32:54.48 ID:iHbSPJ82
125 :
人間七七四年 :2011/05/01(日) 20:16:43.72 ID:BnhRa2qL
秀吉は光秀や家康、信玄と違って孫呉の兵法を全く 学ぼうとしなかったという説があるな。
126 :
人間七七四年 :2011/05/02(月) 15:08:10.38 ID:pWzD/uaN
>>120 自分が気に入らないヤツにチョンと言って見下げているだけの
腐れだな
サッサと死んでくれ
127 :
人間七七四年 :2011/05/02(月) 22:38:10.93 ID:ygCA6Uys
兵は詭道なり、卑怯ってことは兵法でも重要視さていることなのにね。 つーか、まともに戦うのはバカのすることでしょ。 兵法で最も恥ずべき行為だよ
128 :
人間七七四年 :2011/05/04(水) 03:00:18.66 ID:P8FeLj6Y
当時の孫子って漢文で書いてあったんだろ。 秀吉の身分で手紙の読み書きが出来るだけでも凄いのに 漢文を読みこなすことは無理で、作戦立案は竹中、黒田に丸投げして 正解だったでしょ
129 :
人間七七四年 :2011/05/04(水) 05:29:00.93 ID:KAdYqRSR
作戦立案を丸投げなんて聞いたこと無いけど、マジなの?
130 :
人間七七四年 :2011/05/04(水) 08:00:04.53 ID:Cynw3jHW
なわけないでしょ
131 :
人間七七四年 :2011/05/04(水) 20:38:44.22 ID:flZdYDuc
>>85 資源はない
人間はゴキブリばかり
タダでもいらんわい
132 :
人間七七四年 :2011/05/05(木) 00:13:01.50 ID:hxnwG4Sc
あえて言うけど、秀吉は戦上手。ゲームに例えると説明書や作戦内容をイマイチ理解していなくても結局こなしちゃうタイプと見る。
133 :
人間七七四年 :2011/05/05(木) 00:31:49.06 ID:BdWGGTFM
教科書通りに物事を進めるのは嫌いなタイプだろうね。
134 :
人間七七四年 :2011/05/05(木) 10:00:11.65 ID:5DUMLRg/
経験から学ぶタイプ
135 :
人間七七四年 :2011/05/06(金) 03:35:11.62 ID:kDT81qrM
信長と秀吉の簒奪は内容が全然違う。 信長の場合は、室町幕府は実質崩壊状態であり、名目的に 将軍が存在しただけだった。信長は武略で機内を統一し、 安土桃山時代の基礎を築いた。ほどんど独力で一から国家建設をした。 秀吉から始まる豊臣氏は本当の簒奪。基礎が出来上がった 織田政権を、重臣同士の争いに勝利して権力を掌握した。秀吉には、 信長と同じ条件でやったら、国家建設なんて不可能だっただろう。 三河の徳川家臣団は、今川の人質だった家康に経営方針を持たせ、三河の辺境とは いえ、一城を構えさせるまでにいたった。その後も一向宗徒の反乱や武田の侵攻を上手く 処理し、海道一の弓取りと言われるまで国力を高めた。信長の横死でも政権は動揺せず、 家康の死後260年存続できる政権を残した。 秀吉の後世の評価が両者より低いのは当たり前だろう。
136 :
人間七七四年 :2011/05/06(金) 08:25:02.74 ID:vWzaZZ7J
それを言うなら信長も家康も、秀吉の立場だったらとか考えるとモメそうじゃね?
137 :
人間七七四年 :2011/05/06(金) 12:45:29.65 ID:MHG6fzuX
>>135 そもそもまったく認識不足
秀吉がいなければ美濃攻略や近江攻略の過程において国人や地下牢人たちへの調略がうまくいかずに
信長は美濃すら攻略できずに終わっていた可能性が高い。
また上洛して畿内の広域を瞬く間に支配下におけたのは義昭に従う大名や国人が多かったからだ。
義昭を過小評価する織田厨のバカっぷりは相変わらずなんだな。
上洛後に広範囲に幕府に従う者が増えた。
義昭と信長による朝倉への上洛命令を無視したので怒った信長が討伐に向かう
(織田と朝倉は斯波氏の旧配下だが信長はさらにその庶流ゆえ反発してる)
浅井や六角や三好や本願寺との全面戦争開始。
信長が天下が混乱するのは義昭が悪いと一方的に主張しだして勝手をやり始める。
志賀の陣では義昭も信長側として朝倉に和睦を求めてる。
義昭は信長に圧迫されて我慢に限界がきて
松永や武田や本願寺ら側に移動することにした。
毛利なども義昭に従っていただけだから信長とも対立する事に狼狽するも信玄死ぬのがわかるまでは基本的に義昭側。
義昭側に付く者が多く
支配地が尾張と美濃だけにまで転落し思いっきり劣勢にたった信長は自暴自棄で比叡山を焼き討ちし虐殺
京でも金を要求し下賀茂から嵯峨まで焼き討ちし、
さらに御所への延焼も辞さず上京まで焼き討ちし焼死や溺死甚大にして
やむなく天皇が義昭を諭して信長との和睦を斡旋したくらい信長は崩壊寸前で政権担当者にあるまじきむちゃくちゃな暴挙をやり始めた。
信玄が死んでなかったら信長は敗死してた。
138 :
人間七七四年 :2011/05/06(金) 18:37:37.74 ID:eqsXmWdG
可能性の話をされてもそういうのって自分の贔屓する奴によってかなり大きく変動するよね
139 :
人間七七四年 :2011/05/06(金) 21:45:07.03 ID:ZNborpik
タラレバの話は織田厨の得意分野 相手にしないが吉
140 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 00:21:27.23 ID:MvNXsYxd
タラレバの話してるのは、どうみてもアンチ織田ですが?w
141 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 01:44:40.73 ID:93XF4+to
実際、史料を読むと 突然織田家中に秀吉が登場するや美濃や近江での調略や地下人&国人を傘下に加える見事な活動ぶりは異常だし。 その活躍のため上洛するや早くも丹羽長秀や将軍義昭配下の光秀と同格扱いにまで地位が向上し 京の政務を任されたりと驚かざるおえない。 秀吉と佐々成政や前田利家との地位の落差が激しすぎるほどの活躍をしているのだろう。 秀吉のただ者ではない人傑ぶりが窺える。
142 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 02:00:24.45 ID:S+S+wBjE
秀吉が勝てなかったのは 小牧長久手の戦いと朝鮮の役くらいだが。 秀吉は明智や柴田を区もなくひねってる。 一武将の身で大大名の毛利家も与力衆を率いて有利に戦ってる。
143 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 02:05:52.84 ID:ZDExkd71
本能寺前の序列って 勝家、秀吉、光秀、丹羽って感じかなあ。 それに信忠配下の鬼武蔵とスケキヨさんが急速に地位向上しているところか。 勝入ってどんな立場だったんだろ。株式会社に例えれば 信長会長の秘書室長って感じだったのかな
144 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 18:41:50.98 ID:cqMRg3zi
鬼武蔵の出世は約束されたもんでしょ。 初期の織田軍・・・例えば上洛軍において先鋒の栄誉を受けてるのが 柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚の4人で このメンバーは織田軍事部門のトップでしょ。 柴田は織田の家老だけど 森氏は信長直属の軍事部門の最高幹部扱いでしょ。 蜂屋はのちの馬揃えで丹羽の次の2番手で行進してるほど序列の高位だし 浅井攻めに討死した坂井の次男は信忠側近になったっぽい(長男は姉川で討死) 鬼武蔵は言うまでもなく森兄弟も信長の小姓に抜擢されてるし。 信長の弟・織田信治・氏郷を人質にだしてた蒲生賢秀の弟の青地茂綱と一緒に森可成は討ち死にしてるが 可成の与えられた宇佐山城は明智の坂本と佐久間の大津の間の地で 入京する敵勢力を牽制する位置でここで阻止できないとすぐ北を通過する山中越コースから下賀茂→上京に入られてしまう最終防衛拠点。 さらに、南の山科から下京へ入るコースを北の高地から圧力をかけて牽制する位置にもある最重要拠点だから信長の信任の強さが理解できる。 その重要性から森可成も討死してしまって浅井・朝倉軍が山科まで侵攻してしまい織田軍は摂津戦線を放棄してしまうことになるが。 池田恒興は信長の乳兄弟で小姓だったらしいから信長直属で織田家家老への目付をやってたんじゃないかな? 利家や佐々らが母衣衆やって前線への連絡将校やってるうちに越前が柴田が国主になった際に 柴田の目付けになってるから似たような立ち位置じゃないかな。
145 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 19:06:27.15 ID:cqMRg3zi
あぁごめん。比叡山を焼き討ちしたのちに坂本は明智に与えられてから この時点での森の守備範囲は坂本を含んでるわ。 そういや長島一揆で信長の弟の織田信興が討死したので 滝川一益も敗走したが池田恒興と滝川も従兄弟説あるね。
146 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 19:35:06.41 ID:cA7liT9K
秀吉>ジョン・モナー
147 :
人間七七四年 :2011/05/07(土) 23:39:22.80 ID:93XF4+to
秀吉って永禄の木下時代ですでに小早川隆景らとの外交まで任されてるのな。 よそ者でしかも織田家で底辺スタートだったのに 信長の小姓を勤めたやつらまでごぼう抜きで一気に出世しまくるとかどんだけ能力値高いんだよ… 川尻秀隆なんて信秀時代から仕えてたからかなりのオッサンだったはずなのに黒母衣衆トップの面目ねーくらい余裕で抜き去るとか。
148 :
人間七七四年 :2011/05/09(月) 17:20:39.59 ID:pTG6rI7t
>>137 秀吉の調略伝説は天下人になった後の誇張もあるのではないか?
信長は尾張統一の過程でも調略を良くしていてその段階では秀吉は
使われていない。単に猿がパシリに都合よい駒だったから使われた
だけで、秀吉がいなければ滝川一益あたりにその役割を担わせていたろう。
149 :
人間七七四年 :2011/05/09(月) 17:22:51.18 ID:pTG6rI7t
>>137 叡山焼き討ちも誇張多いよw 発掘調査したところ、伽藍一部しか焼けてなかったし、大虐殺事件なんかなかった。
長島一揆と同じレベルなんてことはない。
150 :
人間七七四年 :2011/05/09(月) 17:31:49.48 ID:pTG6rI7t
>>142 織田軍は物資豊富で信長は桶狭間以降は一度も寡兵での戦をしない主義だったからな。
秀吉が毛利や毛利型の攻略・調略を割合順調にやれたのは織田の物資あってこそ。
勝家や一益や明智ノポジショニングはすごく不利だった。
一揆持ちの国があった加賀に加えて大雪で行軍が制限され、猛将上杉謙信らと相対するんだぜ。
一益も武田攻略後、わずか一ヶ月で信長は横死して治世もへったくれもないし、諸侯の草刈り場になった。
光秀にいたっては誤算だらけで体制が禄にととなわないうちに山崎の戦いだ
家康も信雄の阿呆が勝手に降伏するしな
秀吉が地の利を得ていた運の良さはあるが正直過大評価。
大体秀吉って大量物資の合戦と調略がほとんどで武辺者ではない。
だから小牧長久手の戦いでは三河衆に遅れをとるんだよ。
151 :
人間七七四年 :2011/05/09(月) 20:39:57.95 ID:dRuqKjTy
秀吉アンチに必死な基地外チョン織田厨にワロタw
152 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 02:50:22.27 ID:daem5ddI
>>147 使い勝手がいいからだよ
今川の陪臣からのデビューで譜代でもなんでもないから、
何か外交でポカやれば素っ首叩っ斬って首を土産に他家と修復可能だしな
実際、上月城の時の信長の対応どう思う? 秀吉が救援すると約束したが、
信長は見捨てて秀吉のの顔が潰れたろ。同様に光秀の調略の時も
波多野氏や遠山氏の時も何度も顔を潰す沙汰だしているしな。
約束破ってそのまま潰れるなら「潰れても構わない」というのが信長の方針
所詮普代じゃないカラナ 秀吉や光秀が潰れようがどうなろうがどうでも良かった。
荒木村重の謀反の時もそういう織田家の雰囲気に耐えられなくなったというのが
真相に近かろう。
153 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 12:37:55.72 ID:sOJD5S/r
信長で譜代をどうこうねぇ・・・。
154 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 14:53:14.42 ID:nzNQakK7
佐久間信盛ですら追放し、領地を召し上げる信長だが。 秀吉もそういう「使い捨てカイロ」感覚だったろうな。 本能寺で横死したから、使い捨てる前に切れなかっただけ
155 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 15:57:00.25 ID:VWllgc8f
秀吉ほど実積や武功を挙げた武将を追放したりしたら、織田家臣団の信長に対する信用とかヤバくなったりしないの?
156 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 16:26:09.26 ID:1L1j4q/4
157 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 16:41:52.81 ID:gBiVvkM9
>>148 尾張統一の時の秀吉はまだ信長に仕え初めて小物レベルだった。
商売やってたおかげか算学が得意だったのだろう普請奉行・台所奉行で功績をあげたと言われる。
しかし秀吉が商売を通じて接点があったのか美濃攻略になると
近江内外の河川流通拠点に位置する竹中や美濃三人衆を始めとした西美濃衆や
東美濃の領主豪族衆の蜂須賀・前野らを調略していく。
秀吉がパシリなら浅野家の養女との婚姻などありえないし
到底、滝川ではこんなことはできない。
(伊勢攻略すらはっきりいって失敗して信長の息子を差し出すハメになってる)
>>149 そもそも認識不足。当時の比叡山では修行してる僧の家族達が山下に集住しており
そこを燃やし大殺戮されたことで壊滅的打撃を受けた。
当時の比叡山には大伽藍などなく、根本中堂と大講堂を織田軍が焼失させた。
大きく勘違いしてるようだがあくまで叡山での焼き討ち行動の否定派は
信長公記の記述のように当時は寺社堂塔500余棟なんてなかったはずで誇張だと主張してるだけ。
>>150 いやいや、むしろ秀吉がもっとも信長の拠点から離れた場所での攻略を任され
勝家や一益や明智なんかよりよっぽど不利。
秀吉は黒田官兵衛に姫路城を提供してもらって軍事的劣勢ゆえ休む暇なく調略仕事してる。
だいたい明智が丹波攻略に失敗して摂津でも本願寺に続き荒木謀反で播磨で秀吉は孤立してる。
そもそも大雪で行軍が制限されるのは柴田だけでなく謙信も同じ。
本能寺の直後にしても、秀吉はいつでも毛利と和睦できるまでになってる。
(秀吉と隆景や安国寺とは敵同士とは言えかなり長い折衝の付き合いで信用を得ている)
柴田や滝川にはそれがない。光秀が誤算も何も細川や筒井が味方になると思ってたら裏切られただけ。
信雄を調略した秀吉の周到さが光るのであって家康がマヌケなだけ。
秀吉が織田の背景で有利で、他の武将が織田の背景が使えず不利だったとする論理が意味不明。
それに秀吉は武辺者の一面もあり、大河内城攻めでは太ももに矢が刺さって負傷してたり
朝倉攻めでの浅井の裏切りでも池田指揮下で殿に参加したりと前線指揮官をやってる。
そもそもそういう武辺さがなければ浅井の小谷城の目の前で牽制する役目なんてできない。
さらに本格的な武辺者は信長直轄の前田や佐々みたいな
槍働きメインの連絡将校母衣衆であって、彼らは軍勢指揮官じゃなくて
のちに目付けになっての監視役みたいな位置付けであり軍勢指揮官に比べたら出世に遅れる。
総合能力が問われるのが秀吉や明智みたいな軍勢指揮官(柴田は織田家の家老トップだから)
武辺者にはそれだけの能力は問われない。
>>152 使い勝手がいいのではなく秀吉がむちゃくちゃ有能だから。
ミスして秀吉の首を斬るって言うなら、勝手に謙信と戦う寸前の越前から無断で帰ってきたり
宇喜多の本領安堵の帰順を勝手に受けたりした時に首を斬ってないんだ?
信長は独断専行をもっとも嫌い、佐久間信盛を首にした時も
なんで本願寺攻めでぜんぜん相談すらしなかったくせにと言ってるほど。
播磨最西部上月城を見捨てたのも毛利の大軍6万がいたという軍事的判断であり、
秀吉の顔を潰すことが目的じゃない。播磨東部の三木城攻略を優先させたため。
能力抜群の秀吉への信長の接し方は荒木なんかとは違うし、将軍配下だった光秀への接し方とも違う。
単純に同列視できるもんじゃない。
>>154 佐久間と違って秀吉は播磨・但馬・備前・美作・淡路・因幡・伯耆半国を切り従えているから
織田首脳のうちで並ぶ者がいないほどダントツの活躍してるから使い捨てカイロにするわけがない。
そしたら毛利家で秀吉を大待遇で雇用してくれるよ。
158 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 17:24:54.69 ID:5xTZ8l3/
まあだいたい合ってるが 信長は大の人間不信だよ そこを忘れちゃいかん
159 :
人間七七四年 :2011/05/10(火) 22:15:39.79 ID:v5AZLhTh
>>157 何百年も昔のことをよくここまで書けるなw
すごいよ
160 :
人間七七四年 :2011/05/12(木) 14:16:47.39 ID:4vJgC3RI
ほとんど妄想だろ 伊勢の北畠氏のことを信長の息子を差し出すはめになっているというが、 あれ普通に北畠氏を織田氏が乗っ取る気満々だから。 滝川の戦略を後年秀吉が模倣して毛利氏に甥を入れようとして主家を守る為に 自分の家をさしだしだ。それが小早川秀秋だったりするしね。 結果はご覧のとおり藩屏どころか、後世に残る裏切り者になるわけだがw
161 :
人間七七四年 :2011/05/12(木) 18:30:36.65 ID:sMl9c+nR
>>152 さんは、熱狂的な秀吉マニアなんでつね
自分の気持ちいい方に話を持っていってる
上でも書いてる人がいるけど、信長が息子を乗っとりではなく、仕方無く差し出すなんて説始めて読みました。
162 :
人間七七四年 :2011/05/12(木) 18:40:10.42 ID:vBlE5v7O
秀長も信長家臣時代は一大名だったんだよな? 信長家臣団で個人が一国任されるのは数少ないエリートだけ。 利家でさえ個人で大名格になれなかった。
163 :
人間七七四年 :2011/05/12(木) 22:13:43.75 ID:QvOoTt3o
大河内城で織田軍は将来の幹部候補がアホみたいに大量討ち死にしまくって 撤退での追撃を恐れて和睦願ったじゃねぇかw しかも秀吉まで矢傷を負う超レアっぷり激戦。 伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で しかも北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし 信雄は具教の娘の養子であって具房が北畠当主だったし 信雄の地位が上がったのは長島一揆鎮圧後の話。 信長公記&Wiki脳はこれだからダメだわ。
164 :
人間七七四年 :2011/05/12(木) 22:46:00.34 ID:SdoJIwPt
>>163 わかりました
163はサル脳だったんですね
165 :
人間七七四年 :2011/05/13(金) 02:01:21.53 ID:nZzYB7p2
信長は大河内城2ヶ月大包囲で 将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎 丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら 高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり 藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。 (大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で 落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
166 :
人間七七四年 :2011/05/13(金) 23:45:09.25 ID:vHLoyICE
162 利家でさえというが、利家は柴田付の与力大名だったろ。
167 :
人間七七四年 :2011/05/14(土) 09:53:58.43 ID:+HiBFDNi
秀吉の中国攻めはあんな大土木工事を何度もしたり敵地の米を買い占めたりできる大金を秀吉はどこから得ていたの
168 :
人間七七四年 :2011/05/14(土) 13:48:53.76 ID:RJ2dV0/m
おそらく姫路の北にある但馬の生野銀山から。 秀吉は光秀が丹波丹後攻略を完了し山陰攻略を信長から命じられるや 播磨制圧に苦戦中にも関わらず電撃的に但馬に乱入して制圧する越権行為をしている。 信長は喜んだが仕事を奪われた光秀とその家臣は憤っただろう。 そして銀山利権を背景に軍事バランスを変更させた。 中国戦線は俺の縄張りとばかりに光秀を出し抜く秀吉の凄みがわかる。
169 :
人間七七四年 :2011/06/19(日) 12:02:35.20 ID:ECkxZzbz
みんな呆れてレスが無くなった
170 :
人間七七四年 :2011/06/19(日) 14:07:22.09 ID:C0YbIN8x
チョンがレスしなければ この手のスレは落ちるだけ
171 :
人間七七四年 :2011/07/03(日) 22:46:38.80 ID:8LUMwZjA
日本歴代の天下人 神武天皇:戦普通 蘇我馬子:戦普通 天武天皇:戦上手 平清盛 :戦上手 源頼朝 :戦普通 足利尊氏:戦上手 大内義興:戦上手 細川晴元:戦普通 三好長慶:戦上手 織田信長:戦上手 豊臣秀吉:戦普通 徳川家康:戦上手
172 :
人間七七四年 :2011/07/18(月) 20:24:30.02 ID:247PXhTP
下手とする一次史料による根拠が一切提示されない件
173 :
人間七七四年 :2011/07/20(水) 22:38:04.27 ID:GJrTHvLo
まー171の勝手な主観だからなw
174 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 09:44:32.72 ID:LNVS2HmH
こんな糞猿が天下取ったのは列島最大の黒歴史だな
175 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 11:44:33.58 ID:3Lxlmnjn
この世には 人の定めた身分や階級とは関係なく世界を動かす鍵として生まれついた人間が居る それこそが宇宙の黄金律が定めた真実の特権階級・・・神の権力を持ちえたものだ 農民出身で戦下手(本当か?)なのに天下を取った秀吉は、どうしようもないほどの天才って事だろう 天運を引き寄せれるかどうか・・・引き寄せた運を乗りこなせるかどうか どんなに優れた人間でも天運を引き寄せられなければ大事は成せないし、 引き寄せた運に上手く乗れなければいけない 秀吉は天に選ばれた人間なんだよ 小手先の技術やお勉強に長けた秀才君たちは、みんな天才である秀吉に平伏した これが史実
176 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 11:51:16.93 ID:3Lxlmnjn
あの身分で手紙の読み書きが出来ただけでも凄い 秀吉は兵法書なんか読めなかったんだから、 優秀な軍師に頼るのは賢い判断力を持っていると言える(馬鹿は人の意見を聞かない) そして天才肌だから、兵法書なんか読めなくても戦えたんだろう マニュアルなくても優れた直感で臨機応変にこなせるタイプだな 人たらしの逸話を聞いても、いかにも右脳が発達した右脳人間って感じだし
177 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 13:03:29.89 ID:LoZjPnPB
兵法書読めなくても天下取れる列島のレベルw
178 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 13:09:44.92 ID:FPHlZmT0
兵法書なんて中国ですら机上の空論レベルだし 史記にしたって講談レベルでまともに そんなもんを例にだして比喩表現とかやったらバカだろ。 いかに人の心を捉えるかの調略こそ最大の武器。 軍事決戦なんてそういった地味な下ごしらえをした上でやるもん
179 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 13:24:48.82 ID:qX7duF84
調略も兵法書に記載されてますがw 日本の戦国時代の政治、戦略、戦術、外交、調略なんかは 大陸国じゃ2千年前には完全されていました 列島で穴に住んでドングリや貝食ってた頃ねw
180 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 13:37:24.83 ID:FPHlZmT0
日本で言う調略や兵法ってのは中国のそれと同意語じゃねーから。
181 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 13:41:46.24 ID:zhsbW+TQ
列島には兵法なんて存在しなかった 戦争はいきあたりばったりの遭遇戦が基本
182 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 16:29:43.02 ID:3Lxlmnjn
信玄も謙信も信長も孫氏の兵法くらいは読んでたろ 特に信玄と謙心は愛読してたはず 信長は奇天烈なところがあるから、 読んでてもそこまで重視してないかもしれんが
183 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 16:58:15.54 ID:vrS15xEO
読んでも理解できないのが日本人 そしていつも兵法にのっとった外国の軍隊にボコボコにされて逃走するマヌケぶり
184 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 17:22:23.19 ID:3Lxlmnjn
日本が負けたのってアメリカだけじゃ?w
185 :
人間七七四年 :2011/07/25(月) 17:35:08.49 ID:luWp+I6r
日本が敗北した国 韓国、中国、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ
186 :
人間七七四年 :2011/07/26(火) 23:42:04.46 ID:GQOne77X
沢山釣れるといいですね
187 :
人間七七四年 :2011/08/01(月) 13:30:39.11 ID:dtgReVxu
>>185 脳内設定を公共に垂れ流さないでください
188 :
人間七七四年 :2011/08/01(月) 13:55:43.31 ID:SQ/Ge0u0
ここ戦国ですから・・・
189 :
人間七七四年 :2011/08/02(火) 02:26:07.45 ID:t/DnS4+b
負け猿ニッポン! これまで勝ちなしw
190 :
人間七七四年 :2011/08/02(火) 11:17:15.82 ID:5JyBCmsP
>>189 涙拭けよw
日本どころか他国にすら一回も勝てたことない半島www
191 :
人間七七四年 :2011/08/02(火) 13:02:52.43 ID:P/ZIGtfJ
韓国が勝利した国 倭国、中国、アメリカ、フランス、ロシア
192 :
人間七七四年 :2011/08/02(火) 14:25:54.71 ID:oPTRB3bB
京都民がチョン思考なのは認める。
193 :
人間七七四年 :2011/08/02(火) 21:27:36.34 ID:7pg8KFDL
日本史は敗北の歴史
194 :
人間七七四年 :2011/08/05(金) 11:50:54.19 ID:eYlI9vJL
195 :
人間七七四年 :2011/08/05(金) 11:53:25.57 ID:+8cKJQt0
糞猿は嫌いだけど戦力消耗せずに外交戦でスマートに戦えるのはいい
196 :
人間七七四年 :2011/08/05(金) 12:39:30.14 ID:/oE4o3WF
元からの名家や大名でない以上、ああした戦い方もやむ無し。
197 :
人間七七四年 :2011/08/05(金) 14:32:14.91 ID:ekuadSYI
猿に支配される列島 猿の列島
198 :
人間七七四年 :2011/10/25(火) 15:48:27.83 ID:a0c973IU
199 :
人間七七四年 :2011/10/25(火) 17:34:10.51 ID:TsZDbvvC
毛利厨がいつも通り通常運転で安心でしょw 毛利厨が三成とか秀吉を褒めてたら日本が崩壊するくらいの奇跡w
200 :
人間七七四年 :2011/10/25(火) 19:45:01.94 ID:3xzIPQu3
↑チョン工作員乙 何の脈絡もなく地方叩きw
201 :
人間七七四年 :2011/10/25(火) 20:48:09.28 ID:Sxfs8hnK
毛利といえば山口県か? そういえば、祖父の代から統一教会と仲良しの政治家がいたな
202 :
人間七七四年 :2011/10/25(火) 21:05:55.07 ID:MVAZ4tEI
テロリストが大好きなチョン州人の恨は深い
203 :
人間七七四年 :2011/10/25(火) 23:20:23.20 ID:BCwf2qQj
史板から出てくんなカス工作員
204 :
人間七七四年 :2011/10/26(水) 09:29:36.72 ID:+ViNphed
毛利は草加だよ。
205 :
人間七七四年 :2011/10/26(水) 14:26:42.06 ID:aQyTsoYL
●真実を広めて下さい。〜竹島を韓国に奪われた経緯● 今いる在日の過去 (コピペ) 戦後、自衛隊が存在しない期間(1945年8月から1954年6月までは日本領土を守る組織がなかった) 韓国はその隙をついて竹島を不法占拠しようと考え、 1952年に国際法を無視して李承晩ラインを一方的に設定。 日本の外務省は直ちに抗議、アメリカ・イギリスもそれを支持した。 韓国は竹島周辺で漁業をしていた日本の船舶を漁船に擬装した武装船で 至近距離で警告なしに射殺、拿捕。捕虜には地獄のような拷問を繰り返した。 328隻を拿捕、漁民3929人を拉致監禁、日本人44人を虐殺。 韓国は人質を解放する条件として日本の刑務所にいる朝鮮人凶悪犯罪者など472人を、 放免して特別残留許可を与えることを要求、日本はその条件を受け入れた。 同時期に、韓国政府は密入国朝鮮人の祖国への強制送還の受入れを拒否。 収容しきれなくなった密入国朝鮮人に日本政府は一時的な在留を許可した。 自衛隊は、1954年7月1日に設立された。
206 :
人間七七四年 :2011/10/27(木) 15:53:23.59 ID:va2XMsUe
207 :
人間七七四年 :2011/10/27(木) 19:01:27.05 ID:GShMuREp
戦が多少下手でもそれ以外が抜群にうまかったからいいだろ 結果は天下統一で出てる
208 :
人間七七四年 :2011/11/03(木) 07:35:50.42 ID:o2TP359R
秀吉は戦下手じゃないよ 野戦に関しては得意とは言えなかったかもしれないけど城攻めは上手だし 戦下手というのは伊達政宗のような人のことを言うんだよ
209 :
人間七七四年 :2011/11/03(木) 11:30:00.47 ID:1P5gImMI
お前は相変わらずワンパターンでつまんない奴だな
210 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 02:41:52.93 ID:5i/IylAV
※秀吉失態集※ ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める ・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる ・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける ・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される ・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる ・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する ・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの 法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい ) ・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される ・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態 前田が兵を引いてなんとか助けられる ・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる ・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない 無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し 池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる ・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される ・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される ・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる ・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を 正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも 雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす ・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、 家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、 なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう ・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す ・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する ・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず 緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず 手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで 追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態) ・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる ・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する ・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない ・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない ・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う ・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、 国内を大いに疲弊させる
211 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 04:25:22.88 ID:ZvLfmmqI
羽柴秀吉? ああ次期大阪府知事のことか
212 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 09:20:24.79 ID:ULnQVOGu
>>210 毛利の捏造軍記陰徳太平記の内容パクッてたり、
事実誤認してたり、
直接秀吉の責任ではない話など
完全に悪意の歪曲してる駄文を書いて
何がしたいんだ…
213 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 11:24:34.84 ID:5i/IylAV
全て事実ですが? これが秀吉の責任じゃないというなら敗戦なんか全て大将の責任じゃなくなるな
214 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 11:31:23.75 ID:9bMR/FUg
でたね 「証拠はないけど事実ニダ」
215 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 11:33:40.67 ID:5i/IylAV
んなもん各県市町村史でも見て自分で調べろや。 全部ちゃんとのってるから。
216 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 11:59:05.65 ID:/kH+hJel
217 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 12:29:17.09 ID:5i/IylAV
それも郷土資料類に大体のってる。 大体秀吉の勝ち戦とか大袈裟な逸話なんぞほとんど講談や軍記ソースなんだから それに比べリャ遥かに信憑性高いだろ。
218 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 12:56:54.45 ID:/kH+hJel
219 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 13:14:52.73 ID:5i/IylAV
郷土資料にのってるからみとけ
220 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 13:33:32.22 ID:ULnQVOGu
つまり根拠が無いから ソース出せません。 ご迷惑をお掛けしましたってことか。
221 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 13:53:03.40 ID:5i/IylAV
どれの事言ってんの? 一次資料提示って各県市町史、日本戦史、小牧長久手の戦いの構造見ればソース元のってるけど? 秀吉の勝ち戦の方がよっぽど捏造くさい軍記講談類ばかりだろ
222 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 14:12:02.19 ID:/kH+hJel
>>221 はいはいw本の名前挙げるだけならアホでもできるネ!
223 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 14:16:04.72 ID:5i/IylAV
よぇぇぇなー。 秀吉って。。。 話にならんくらいに雑魚すぎる。 日本三大凡将の氏政、信雄、輝元に大敗(笑)
224 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 14:18:48.50 ID:5i/IylAV
※秀吉失態集※ ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める ・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる ・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける ・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される ・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる ・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する ・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの 法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい ) ・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される ・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態 前田が兵を引いてなんとか助けられる ・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる ・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない 無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し 池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる ・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される ・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される ・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる ・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を 正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも 雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす ・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、 家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、 なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう ・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す ・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する ・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず 緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず 手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで 追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態) ・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる ・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する ・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない ・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない ・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う ・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、 国内を大いに疲弊させる
225 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 21:28:37.16 ID:akgiCqPB
ソース出せずにコピペで誤魔化し(笑)
226 :
人間七七四年 :2011/11/04(金) 22:18:39.65 ID:5i/IylAV
よぇぇぇなー。 秀吉って。。。 話にならんくらいに雑魚すぎる。 日本三大凡将の氏政、信雄、輝元に大敗(笑)
227 :
人間七七四年 :2011/11/06(日) 15:15:33.66 ID:0ULS+Wn9
そもそも秀吉自身が戦下手でもかまわなくね?w 別に戦国最強を名乗ってるわけでもないしそういう評価をされてるわけでもない
228 :
人間七七四年 :2011/11/06(日) 17:05:47.54 ID:InVkJ1GR
このアホチョンは秀吉を貶めたいだけだから理由なんて何でもいいんだよ
229 :
人間七七四年 :2012/01/11(水) 22:26:56.31 ID:bXd4FB0R
>>227 何を持って「秀吉を最強」とするのは人それぞれだからな。
例えば秀吉が仮にもし、とんでもなくアホでズボラで戦下手のド変態であっても、
秀長、蜂須賀、両兵衛みたいな忠臣がなにもかも全部代わりにやって万事何事も完璧にこなせば
実績的にはそいつらを従えている「秀吉が最強」と言えるわけだ。
230 :
人間七七四年 :2012/01/19(木) 17:21:39.15 ID:AO2ue5Vc
※秀吉失態集※ ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める ・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる ・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける ・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される ・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる ・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する ・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの 法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい ) ・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される ・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態 前田が兵を引いてなんとか助けられる ・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる ・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない 無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し 池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる ・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される ・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される ・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる ・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を 正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも 雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす ・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、 家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、 なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう ・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す ・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する ・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず 緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず 手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで 追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態) ・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる ・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する ・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない ・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない ・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う ・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、 国内を大いに疲弊させる
231 :
人間七七四年 :2012/05/17(木) 23:55:38.65 ID:L8jDsl3I
どうせスレ主は農民に殺されたアホ明智厨だから
232 :
人間七七四年 :2012/05/18(金) 02:48:16.28 ID:pCZuDZAx
祖国侵略された朝鮮人なんだろ
233 :
人間七七四年 :2012/05/18(金) 22:43:33.39 ID:i76wdg70
だな
234 :
人間七七四年 :2012/05/21(月) 10:25:31.11 ID:pM4pYWPN
一次資料の意味を理解してない人が必死にコピペを貼りまくるw
235 :
人間七七四年 :2012/05/26(土) 18:40:39.74 ID:faJvUfK2
236 :
人間七七四年 :2012/05/27(日) 04:43:57.33 ID:pPSaV8Q0
IDの出ない板で撃退とか言ってもな ほとんど自演しかないし
237 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 10:57:55.61 ID:6ZEqH5Ka
238 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:23:33.55 ID:RFw7zFw1
むしろ秀吉の勝った戦なんて軍記くらいしかない
239 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:41:37.54 ID:GZzg/5Pf
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉 織田家中でいえば 柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田 >>>>>>>>>>>秀吉 こんなもん 長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは 戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事 それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ 長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然 池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死 結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して 結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか 弱いにもほどがある しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国 ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。 83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり 84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり 紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり 尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶 秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。 徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ 長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
240 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:42:57.21 ID:u0HaP11R
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。 信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる 圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。 上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し 徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。 宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った 木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。 単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
241 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:44:38.91 ID:ydo4zlOk
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは 秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな 運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は 秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる 氏政は十分先見性のある武将だろう 秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。 ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して 運だけで取ったようなもん。 実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう 秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。 中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。 信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな 本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず 柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ 運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
242 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:46:01.98 ID:CzsoOPZJ
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談 池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。 いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。 信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
243 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:50:47.44 ID:eWwpeNNh
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄&寝返りばかりで権力ガタガタな22000相手に敗走、大苦戦。 戦国最弱の豊臣軍。
244 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:52:15.80 ID:e0nXdsiR
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝 3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており 留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ 和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り 敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ 4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww 尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww 紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw 日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記) 小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww 5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない →小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって… 加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った →千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など) 6月4日 秀吉→佐竹義重 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず… 4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww 家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に 付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。 なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって… 加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる 尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww 木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ 家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
245 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:53:36.60 ID:gWHleJfM
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。 実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
246 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:54:44.73 ID:gWHleJfM
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。 実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
247 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 12:56:19.95 ID:eL2B2rBh
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚 毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが 備前・美作方面に出兵すると大苦戦 元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい 絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
248 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 13:14:25.64 ID:eL2B2rBh
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>243 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
249 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 13:14:37.61 ID:Cp+jptM8
突然狂ったようにコピペしだす奴って何かの発作なのか?同一人物?
250 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 18:28:32.94 ID:6ZEqH5Ka
>>249 小牧・長久手の戦いスレなど
いろんなスレを輝元・信長・家康を捏造してまで
全力で持ち上げる
アンチ秀吉・三成に狂ってるチョンが崩壊させてる。
251 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 18:40:23.69 ID:A153JF81
お前のことじゃねぇかw
252 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 18:49:46.38 ID:oru+Jk6C
ローマ帝国のオクタウィアヌスも卑怯者になるんだろうなこのスレ主にとっては。
253 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 19:05:41.35 ID:A153JF81
秀吉厨死ね
254 :
人間七七四年 :2012/06/02(土) 20:12:03.58 ID:owv0JbhB
秀吉厨は妄想垂れ流ししかできない馬鹿 死んでくれ
255 :
人間七七四年 :2012/06/03(日) 00:49:19.11 ID:axZ1OXn2
はいはいチョン国マンセー
256 :
人間七七四年 :2012/06/03(日) 09:12:14.00 ID:kVlZXyqr
朝鮮マンセースレ乙
257 :
人間七七四年 :2012/06/03(日) 11:11:23.13 ID:au11/H+o
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄&寝返りばかりで権力ガタガタな22000相手に敗走、大苦戦。 戦国最弱の豊臣軍。
258 :
人間七七四年 :2012/06/03(日) 11:50:42.88 ID:au11/H+o
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談 池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。 いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。 信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
259 :
人間七七四年 :2012/06/03(日) 21:39:13.68 ID:yLT3ZaSl
信長包囲網140000が、戦下手で無能な信長&寝返りばかりで権力ガタガタな10000相手に敗走、大苦戦。 戦国最弱の信長包囲網。
260 :
人間七七四年 :2012/06/03(日) 23:53:26.91 ID:nlGP2dxT
織田チョン相変わらず元気な屑だなw
261 :
人間七七四年 :2012/06/04(月) 00:40:50.26 ID:w0PPOQn7
はいはいチョン国マンセー
262 :
人間七七四年 :2012/06/05(火) 10:21:01.49 ID:HkHcu1V1
>>258 箕浦合戦の秀吉が大軍相手に引きこもってただけとかないわ
『松下文書』によれば鎌刃の砦から打って出て数倍の浅井軍を粉砕、
逃げる敵を更に追撃して小谷城まで追い込んでるんだが
指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
263 :
人間七七四年 :2012/06/05(火) 12:08:03.01 ID:YIQyybNw
信長公記みたいなデタラメ本をこういうときだけ都合よく持ち出し そのトレース部分ばかりの当代記もしっかり持ち出す馬鹿
264 :
人間七七四年 :2012/06/05(火) 13:56:27.28 ID:CynL8ZWz
秀吉厨死ね
265 :
人間七七四年 :2012/06/05(火) 15:20:19.36 ID:kOuwczyY
はいはい、チョン国マンセー
266 :
人間七七四年 :2012/06/05(火) 23:08:09.81 ID:FEourIXU
このゴミがくたばって良かったわ 下賎な民が暮らす大阪なんかが首都やったらと考えたら虫ずが走るわ そりゃあ俺みたいな有能な東京人が生まれてなかったかもしれないんだから 地方や田舎な存在価値は無い 原発事故も東北が被害にあっただけ 神聖な東京に危害が及ばなかったのが救い 我々東京人は日本人の中でも最上位に位置してるから 大阪土人は橋下という独裁者のもとで独立でもしとけや 日本に東京は必要だが、大阪なんかいらない
267 :
人間七七四年 :2012/06/05(火) 23:10:21.92 ID:FEourIXU
犯罪大好き大阪土人より朝鮮人のほうがはるかにまし これが俺ら東京人の認識
∧_∧ <丶`∀´> ∧_∧ / \ ( ) はぁ?黙ってろ在日w .__| | .| |_ / ヽ ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ /.| | | || \∧_∧ (⌒\ |__./ ./ ||. ( ) ~\____ノ |∧_∧ / ヽ嘘つきクズが \ | ( ) | ヽ \ / ヽ. 祖国に帰れよ
269 :
人間七七四年 :2012/06/07(木) 10:08:56.24 ID:ntNPUBP7
>>262 キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか
志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で
攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、
下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも
知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
以前として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。
270 :
人間七七四年 :2012/06/07(木) 10:48:28.80 ID:98dukwAW
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談 池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。 いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。 信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
271 :
人間七七四年 :2012/06/07(木) 10:55:31.90 ID:KLykTK8S
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。 実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
272 :
人間七七四年 :2012/06/07(木) 10:59:40.70 ID:XAasuy7I
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。 信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
273 :
人間七七四年 :2012/06/07(木) 12:30:06.97 ID:ntNPUBP7
一揆の者で降伏してきたヤツらもことごとく首を切れ。 昨日は洪水で動けないとの由だったが 水も引いて動けるようになっただろ。 念を入れて残らず討ち果たすことに専念せよ。 それをやった上で隙が生まれたら俺のところへ来い。 今後のことを申し聞かせてやろう。 前回の書に書いたように越前豊原に着いた。 その意に成るようにいたせ。 天正3年8/29の滝川宛の信長書状。 越前大虐殺のためにやってきた信長。 降伏した者もみんな殺せと命じている。 そして一寸の休息も許さず、すぐ働け、 達成したらすぐ俺のトコへ来い 新たな命令を伝えるとせっかちに命令している。 まさに絶対暴君にして部下を過労に追い立てる姿が見える。 この遠征が終わるや、光秀は新たな丹波戦線に派遣され そこで敗北して戻るや、すぐ摂津戦線に派遣され病になりながら 本願寺に破れて天王寺籠城をしている。 そして毛利が織田に攻撃を開始し木津川口で織田は大敗する。
274 :
人間七七四年 :2012/06/09(土) 15:09:36.14 ID:rdME5fh1
織田軍はパワハラオーナーが過労死を推奨しているブラック企業で欝になったり、出奔する配下が多発してます。
275 :
人間七七四年 :2012/06/11(月) 01:48:34.11 ID:fvxs281x
秀吉のイクサには調略が目立つ
276 :
人間七七四年 :2012/06/14(木) 22:43:33.40 ID:BQ1uAtf3
勝てば官軍
277 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:26:50.14 ID:BeN9Ad6D
ふーん。そんな無能で糞みたいな秀吉に形式的にとは言え従わざるを得なかった全国の武将達って うんこにたかるウジ虫みたいなやつらばかりだったんだろうな
278 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:27:45.03 ID:BeN9Ad6D
てか、そんだけ無能なのに天下取れる秀吉ってそんだけすごいんだよ
279 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:48:00.32 ID:reAFmupC
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
280 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:49:38.61 ID:pe9IpFj+
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。 まあ毎度の事だけど
281 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:51:10.31 ID:7mBuqaZj
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記 [参考]柏崎物語 【管理番号】 020100216456 【編/冊/頁】 10編911冊179頁 【綱文和暦】 天正6年6月21日(15780060210) 3条 【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎衣左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
282 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:53:59.56 ID:/y50xH6/
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに 安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し 毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し 毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。 その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒 この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で 宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る 備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と 膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが 気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。 運がよかったな
283 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 14:55:49.86 ID:4Xl2EgPi
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは 秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな 運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は 秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる 氏政は十分先見性のある武将だろう 秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。 ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して 運だけで取ったようなもん。 実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう 秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。 中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。 信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな 本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず 柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ 運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
284 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 18:08:24.33 ID:ij6jX9T0
しかし信長が横死して秀吉が天下人になったのだから、先見の明があったと言えるか疑問だなw 先見の明があれば信長なんざ見限る。
285 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 18:43:14.51 ID:9rk7VYJp
先見の明があったから信長について離れなかったんだろ 信長裏切った奴らは結構滅ぼされてるし
286 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 19:06:37.24 ID:ij6jX9T0
信長自体が先見の明がなくて破滅したけどな。
287 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 19:13:19.20 ID:9rk7VYJp
ほうほう、ではID:ij6jX9T0の考える先見の明のある武将を挙げてくれ
288 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 19:29:15.34 ID:ij6jX9T0
家康で決まりだろ。だから天下を最終的にとれた。 信長に先見の明があったら、本能寺の変など起こらずに済んだ。
289 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 20:07:47.00 ID:9rk7VYJp
先見の明のある人が圧倒的少数で多数の敵に突っ込むんですね 凄いなー
290 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 20:25:44.52 ID:b22SZ7lZ
部下に背かれた信長には先見の明があるんだな。 信長は自軍の壊滅を予期しながら何もしなかったんだ。
291 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 20:28:12.01 ID:FGhs2tx5
先見の明があったら信長なんか見限るって言ってんのに 先見の明があった人物の筆頭に家康挙げるって凄い発想だな。
292 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 20:31:39.73 ID:ij6jX9T0
悔しそうだなw まあ信長が破滅したことは僕ちゃんたちがいくらがんばっても動かない歴史だよ。
293 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 20:44:13.93 ID:9rk7VYJp
悔しいも何も、ズレすぎてていつものお前かってので納得したからいいわ
294 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 20:49:14.03 ID:FGhs2tx5
当然の突っ込みを入れただけなんだが、「悔しそう」だとか言うと 自分が優位に立った気になれるんだな。馬鹿って良いね。
295 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 21:25:25.80 ID:b22SZ7lZ
なあ、信長には先見の明があったのか? 家康は俺どうでもええねん。
296 :
人間七七四年 :2012/06/18(月) 21:30:26.80 ID:9rk7VYJp
カッとなってやったを予期できる奴が居たら凄いと思うね
297 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 05:55:08.22 ID:qR0D25sW
先見の明と未来予知は違うからな 信長が本能寺を予期していたと言うなら光秀がアホだったか信長が神だったかのどちらか まあ信長が破滅したなんて言ってる時点でアスペルガーだが確定だろ よほど織田家が信長の遺徳で存続したのに、武田は再興すらしてもらえなかった事実にピキってんなw
298 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 07:44:58.19 ID:1HdwEKIH
上杉は藩として存続したけど 織田は武田とおんなじで高家じゃねーかw 実質滅亡してんだよ。 しかし上杉は30万石を維持したのに較べて 織田は旧主だからと、朝鮮出兵陣の壮大さを 見せびらかせたい秀吉に家を再興してもらって 滅亡からおこぼれ復興させてもらっただけの 大名ですらなく、コジキ衰微高家だもんなぁ。 織田信雄系→2700石 織田信高系→2000石 織田信貞系→700石 もう、目も当てられないわ。
299 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 09:47:59.07 ID:gLkmEu3F
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
300 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 09:58:31.36 ID:1HdwEKIH
>>299 学者が論文で一切、シカトしてる原本不明の藩士の自己申告写し書状なんて持ち出してバカなの?
一次史料である家わけ文書からソースを出せよキチガイ。なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
折敷畑合戦を証拠立てる文書は五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。
一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。
まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書・・・こんな酷い状況だからな。
そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのになぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww毛利の史料は捏造だらけ。
せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんを出せよアホ。
アホみたいに豊富に作られた毛利家臣たちの偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www
301 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 10:01:37.21 ID:1HdwEKIH
学者も論文での一次史料ソースとして利用している東大が編纂出版してる大日本古文書における 所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の 中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。 史実の虎倉合戦 宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために 輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦) 10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し 粟屋元信など大物が討ち取られる。 萩藩閥閲録・毛利家日記 あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。 毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど 現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず 高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて 鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。 その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。 ロクな数ない???えっ?いくらなんでも余りに無知すぎるぞ。 各家わけ文書の中でダントツにもっともボリュームがあるのが 吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書等が 大量に編纂収録されている毛利なんだが(次点が伊達家) しかも書状案という後で藩や支藩が公式に捏造した文書まで 収録してあると言う捏造の温床ぶりだけど。 他の大名家は毛利よりはるかに少ない一次史料で戦国板で論争してるわけだがwww キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw 軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書をわざわざ東大が家わけ文書に関係文書として 未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwww リアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと大きな誤解をしてる時点で毛利家日記を読んだことないのバレバレw
302 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 10:43:41.96 ID:1HdwEKIH
寵命録(児玉家文書) 著作者 幕末〜明治の児玉益右衛門定正(1820-1863)と児玉元之助定勝(1851-1936) の長州藩すら知らなかった・・・つか誰も知らない幕末初登場の謎の捏造文書集。
303 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 10:48:05.97 ID:gLkmEu3F
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
304 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 10:48:46.52 ID:gLkmEu3F
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記 [参考]柏崎物語 【管理番号】 020100216456 【編/冊/頁】 10編911冊179頁 【綱文和暦】 天正6年6月21日(15780060210) 3条 【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
305 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 16:45:03.37 ID:q2uOgmR0
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
306 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 16:47:11.16 ID:1HdwEKIH
>>305 それは撤退拒否した尼子衆であって
秀吉の軍ではない。
捏造乙w
307 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 17:01:41.51 ID:q2uOgmR0
お前のアホな妄想なんぞ知らん こんだけたくさん史料が出てきてるのに妄想で捏造扱いなんなら秀吉側史料なんて全部捏造だろ 実際デタラメばっか書いてるしな
308 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 17:20:08.94 ID:q2uOgmR0
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
309 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 18:08:52.26 ID:1HdwEKIH
偽文書率No.1の毛利の腐るほど存在する捏造資料ではなく 論文でもきっちり援用される東大が編纂した家わけ文書の 毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書だけが一次史料。 こっから出せと言ってるだろカスチョン
310 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 18:32:12.26 ID:1HdwEKIH
キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を 日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に 提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw 軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書を わざわざ東大が家わけ文書に関係文書として 未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwww リアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと 大きな誤解をしてる時点で 毛利家日記を読んだことないのバレバレw
311 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 18:52:43.01 ID:q2uOgmR0
史料の編纂作業なんてどこの大名でもやってるだろ 上杉の年譜とか歴代古案とかと同じ つかあげられた文書が全て偽文書と主張してる学者なんかいるのか? 史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記 [参考]柏崎物語 【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条 【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
312 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 18:57:47.28 ID:u2g0OmSB
>>311 >>つかあげられた文書が全て偽文書と主張してる学者なんかいるのか
そんな奴いない
馬鹿一人だけ。
晋叟寺文書とか毛利藩の物が書いたわけでもなく
他の史料も花王がちゃんとついてるし捏造とか馬鹿
内容からして捏造&デタラメ99%な秀吉書状のがよほど後世の偽作の可能性高い
313 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 19:35:40.11 ID:1HdwEKIH
花王って洗剤が付いてるのかwww 花押が付いてるとかウソ言うなやwww 文字で花押がここにあったと自称して書いてるだけだろwww 歴代古案はちゃんと論文で引用されてきているものであり 長州藩士の先祖の偽文書製作ブームで功績を捏造して それに藩も水をさし疑問を差し挟むことを許さないまま 編集されたもんと違うわwww
314 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 19:48:19.64 ID:6d73qWew
Subキチってまだいるのか ニートの中でもかなり重症な方だな
315 :
人間七七四年 :2012/06/20(水) 19:50:51.34 ID:u2g0OmSB
写しに花押って書いてあるんだから毛利博物館蔵文書とかが勝手に書き足したとか 藩士が書き足したとかそういう明確なソースもってこいや 普通に明確なソースなきゃ捏造と主張しても妄想にしかならんわな
316 :
人間七七四年 :2012/06/23(土) 01:30:37.73 ID:5GDGhYRP
>>写しに花押って書いてあるんだから 写しの時点で自称じゃねぇかw ほんとうに輝元が出した書状なら 当然、毛利家文書に収録されて当然なわけだがwwwwww
317 :
人間七七四年 :2012/06/23(土) 11:04:39.83 ID:t2gaGEv3
とりあえず山口県史表題部見ればちゃんと原本によって花押つき書状だと解説されていて 原本なしだの捏造文書だの書いていない
318 :
人間七七四年 :2012/06/23(土) 11:15:23.78 ID:5GDGhYRP
319 :
人間七七四年 :2012/06/23(土) 11:56:06.47 ID:t2gaGEv3
とりあえず山口県史資料編の解説部分ちゃんと見て出直してきてくれ
320 :
人間七七四年 :2012/06/24(日) 23:43:03.31 ID:KqzebzKT
>>319 読んできたが
まったく書いてねーじゃねぇか・・・
もう一度みてきてやるから
どの巻の何ページに書いてあるか詳細を書けよカス在日くん。
321 :
人間七七四年 :2012/06/25(月) 10:17:21.56 ID:J2cM59Xk
山口県史 史料編中世1〜4に無し いったいどこに書いてんだ?
322 :
人間七七四年 :2012/06/25(月) 11:16:34.66 ID:KJL8qg+1
お前ちゃんと読んでないだろ 目次解説の所に元本によって確認できたものは「花押」としるし 複写物に依拠したものは印影としるしたとちゃんと書いてるわ
323 :
人間七七四年 :2012/06/26(火) 21:16:31.88 ID:0ZvK16gC
324 :
人間七七四年 :2012/06/30(土) 08:01:14.79 ID:i7ls/OrD
秀吉を弁護するわけではないが、半分DQNの俺から言わせてもらうと 一番敵にすると恐ろしいのは、自分が勝ち目ないと分かると土下座 してでも許しを乞い、立場逆になると多人数で少数をフルボッコ。 秀吉はその典型なわけでだからこそ天下取ったんだな〜とそう思う訳です。
325 :
人間七七四年 :2012/06/30(土) 21:35:36.50 ID:X8rr/Trl
そして後年家康がその手を使ったんだよな つーかそもそも戦下手なのに天下統一出来た事自体が秀吉の凄さだろ それを卑怯だなんだのと騒ぐって事じたいがスレ主の知能指数を現してるよな 天下統一した秀吉が自分で言った場合は最大級の嫌味だが
326 :
人間七七四年 :2012/06/30(土) 22:57:52.77 ID:aFkYwhJs
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
327 :
人間七七四年 :2012/06/30(土) 23:14:50.68 ID:aFkYwhJs
秀吉は譜代いまくりでしょ 尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。 譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等 敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。 大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震 による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない 秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。 実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
328 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 11:10:57.40 ID:wXXFxidD
逆に秀吉の軍勢を烏合の衆と呼び他の連中を強いだなんだと言うなら数ばかり多くて弱い他の連中でなんなの?脳筋なの?って話 まあお前が言わせたい言葉はまさにこれだろ?秀吉叩きをして反論者に他武将を叩かせ結果的に秀吉SUGEEEE!って形にもってきたいんだろ?
329 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 11:41:29.67 ID:qR6MlBJS
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから 経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな 秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。 何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東) これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には 芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺 にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
330 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 11:43:47.03 ID:qR6MlBJS
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う 野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、 あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら 戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。 中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし 支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、 南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ 当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると 夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより 秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる 六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
331 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 11:52:08.81 ID:G2g6khjx
>>逆に秀吉の軍勢を烏合の衆 織田家で最も格が高い丹羽ですらさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵 丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも 信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。 清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。 執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。 しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる 安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。 秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。 安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』 という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。 池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが 実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と 同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から 恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、 恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
332 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 11:53:54.43 ID:G2g6khjx
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し 秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり 己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後 柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。 池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属 追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく 城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって 森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」 と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。 万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。 というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、 信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる 小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している 織田家トップ格の二人ですらこのように土下座しまくり一々書状で秀吉の指示に忠実に動いている状況 烏合の衆だから苦戦したのではなく歴戦の織田家精鋭部隊&毛利宇喜多上杉佐竹十河河野木曽大友など敵の敵を味方につけ漁夫の利を得た 今川氏真でも勝てそうな圧倒的優位な状況で輝元・信雄・氏政などゴミ武将に負けまくっただけなのが秀吉
333 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 11:58:19.27 ID:fAwgPzH8
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。 戦国最弱の豊臣軍。 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから 一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後 すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる 秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した 100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが 6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然 畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから 戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな 秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
334 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 12:20:55.14 ID:fAwgPzH8
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
335 :
人間七七四年 :2012/07/01(日) 19:31:55.55 ID:KxrjUzET
>>322 見てきたが
どこにも書いてない。
つかお前の言う山口県史資料編自体が考古編と民俗編しか存在してない以上は架空本をデッチあげてるだけじゃんw
史料編中世1〜4で該当巻のページ数を質問しても逃亡を繰り返して話題を逸らそうと必死すぎてキモイわー。
336 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 20:05:29.38 ID:6pGmbvUy
秀吉は金や領地などの褒美をえさに圧倒的な数の軍勢で 少数をやっつけるのが基本。 つまり戦う前から勝利を決定させる戦略。 戦術はともかく戦略や政略は一流ですな。
337 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 20:10:35.52 ID:wlWXuQps
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは 秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな 運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は 秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる 氏政は十分先見性のある武将だろう 秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。 ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して 運だけで取ったようなもん。 実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう 秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。 中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。 信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな 本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず 柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ 運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
338 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 20:52:29.36 ID:VgW9jg/N
339 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 21:37:08.91 ID:HWboQNTd
そもそもここはだがのオナニースレ 精巧さを期待するのは無駄。
340 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:10:11.28 ID:jZD1M2EH
秀吉が戦下手でも弟の秀長がとんでもない戦上手だったんだから問題なかろう 長宗我部も島津も秀長の前では全くいいところなく敗北したし 戦国全般を通じて彼以上の戦上手はそうそういないだろう(ほとんど負けなし) 謙信はともかく信玄なんかは秀長に比べればゴミもいいところ
341 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:33:14.31 ID:wlWXuQps
>>338 山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ糞低脳秀吉厨がw
342 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:34:59.01 ID:zc2BZuKu
>>338 お前は日本語もまともに読めない低脳馬鹿という事が証明されたから二度と書き込むなカスがwwww
343 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:38:21.10 ID:HWboQNTd
はいはいそうでちゅねw ひとりでがんばっててくだちゃいw
344 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:43:54.61 ID:zETbhD2k
山口県史資料編凡例 2ページ目 正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし 近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした 現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に 何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。 んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず 偽文書などという馬鹿妄想いうのは秀吉厨だけ マジで死んでくれ低脳カスが
345 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:49:09.32 ID:xJJ/NN5w
武田軍団は過小の集まりだからな 史実で二倍も国力ある信濃+山之内上杉・長尾の介入の中 攻めるのが非常に困難な堅固な山城を落としまくり奪取 上野も同様に奪取 国力差2倍の今川+北条連合相手に駿河奪取 国力差5倍の徳川+織田連合相手に東美濃・三河・遠州奪取 雑魚織田トップ格の佐久間が全く歯が立たなくて逃げ回るばかりだったし
346 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 22:56:18.19 ID:sY4yjfiA
信長なんて信玄はおろか勝頼以下だろ 長篠でも城のような陣地・圧倒的兵力差・高性能鉄砲・雨でぬかるんだ地面の中 無謀に突っ込んでも織田方に6000の被害(長篠日記) 9時間も戦い続ける敢闘ぶり 岩村攻囲戦でも圧倒的な8倍もの兵力比で半年使って落とせず騙まし討ちで落とすのがやっと 高遠攻囲戦でもわずか1000そこそこの仁科に圧倒的に兵力が物を言う城外戦で 大損害蒙り一門の信家戦死・最低でも4時間継戦 そもそも信長より圧倒的に強い事が確定的な家康が信玄に蹴散らされた時点で 武田と織田なんぞ比較するまでもない 武田>>>>家康>>>>>織田
347 :
人間七七四年 :2012/07/02(月) 23:24:08.10 ID:HWboQNTd
だといいねw
348 :
人間七七四年 :2012/07/09(月) 23:19:54.37 ID:0jfnjYUw
勝頼とか信玄が落とせなかった城を落としたり鉄砲に目をつけたり 城を建て中央集権にして近代化させようとした辺りよほど信玄よりも バランスがいいぞ。母親の関係で何故か軽んじられる傾向があったのは 生まれが悪いとしか言いようがないけども
349 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 12:58:09.45 ID:iy3oEqB/
>>344 おい、デタラメ書いて逃走かw
こっちは返答をずぅっと待ってるんだがwww
お前の主張する山口県史資料編にまったく書いてないしwww
そもそも山口県史は大別すると
通史編・史料編・資料編があり
資料編は考古と民俗しか出てないから
戦国〜江戸初期を担当する巻なんて資料編にはない。
さらにその時代区分でお前が嘘を書いてるのを無視して
史料編で探すと該当するのは
史料編中世1〜もしくは近世1〜であり
なぜ時代区分も明示せず曖昧にしてレスしてんだお前。
ひたすら曖昧に書いてこんな重要な情報は一切書かずに
山口県史30巻を全部読めとか言うのかw
それとな、お前がここに転載してる書状が
山口県史のどこにあるのかも書かないと意味ないだろが。
ことごとく誤魔化しまくりだなおい。
先日、時間が少しだけ余ったから前回のように多くの巻を見る時間は無かったが
山口県史・史料編・中世1巻の凡例だけ覗いて帰ったが、
改めて見てみても2ページ以降にそんなもん一切書いてないわ。
350 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 16:00:49.27 ID:yo2YFBxL
書いてない事を書いてあると言ったり切り貼りして捏造するのはだがの常套手段 精神性がチョンだから放置するが吉
351 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 17:51:30.84 ID:93dbTrUD
文書の名前まで指定して原文まで転記されてるのに捏造扱いとかどんだけ 目が腐った馬鹿か? もううっとうしいから消えろカス秀吉厨が 山口県史資料編中世三巻凡例 2ページ目 正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし 近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした 現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に 何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。 んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず 偽文書などという馬鹿妄想いうのは秀吉厨だけ マジで死んでくれ低脳カスが
352 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 17:57:01.76 ID:WbIlcl9B
>>349 「資料編」と「史料編」の記述ミスごときで揚げ足取ってるだけじゃねぇか糞馬鹿がw
文書名まで書かれてるのに探す力もないなら書き込むな童貞包茎チンカスゴミヲタ野郎
353 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 18:02:13.85 ID:P4hX8l6r
馬鹿かお前 そもそもお前からは上記であがってる熊見川関係の資料を否定するソースどころか 何の根拠も挙がってなくただ妄想で捏造文書扱いしてるだけだろうがカスw あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても >>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。 >>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど >>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 >>そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず >>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて >>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。 >>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 >>これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。 >>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって >>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。 >>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww こんな記述どこにもねぇわカスw 糞捏造ばっか繰り返して雑魚毛利ごときに秀吉が蹴散らされた事実歪曲捏造してんじゃねぇよ馬鹿がw
354 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 18:05:50.43 ID:GA9Gydhb
秀吉関係の資料のがよっぽど捏造文書だらけだわな 妄想捏造戦果が書かれたものが9割方でまともな史料価値なんて0だし
355 :
人間七七四年 :2012/07/12(木) 18:13:57.26 ID:zfZK0DLO
>>349 お前まともな知能もないのか。よく生存してるな
山口県史で秀吉・毛利間の戦争があった天正5年〜天正10年頃の史料が多く乗ってるのは
中世編だろうが。なぜ民族編やらが持ち出されるんだ馬鹿
しかも最初にお前は
>>321 で中世編1〜4になしと言っておきながら
>>335 でなぜか民族編と考古編を持ち出して書いてないとほざき
>>349 で毛利関連史料と関係ない巻持ち出して全30巻もあるとか罵倒し
ひたすら逃げ回ってるだけだろうがアホ
んで上記にあがった熊見川関連の史料が捏造だというソースは?
お前こそソースなしに逃げ回ってるだけじゃねぇかカス
356 :
人間七七四年 :2012/07/13(金) 00:51:20.14 ID:WdVYETLN
ここまでだがの自演 ここからもだがの自演
357 :
人間七七四年 :2012/07/13(金) 01:10:25.13 ID:pYFux9Cq
秀吉厨死ね
358 :
人間七七四年 :2012/07/13(金) 01:20:08.04 ID:2dgNXxeF
毛利史料デタラメ派からは明確なソースが何一つあげられない妄想で捏造捏造いってるだけのアホ そもそも晋叟寺文書とか毛利藩の物が書いたわけでもなく 他の史料も花押がちゃんとついてるし捏造とか馬鹿 内容からして捏造&デタラメ99%な秀吉書状のがよほど後世の偽作の可能性高い
359 :
人間七七四年 :2012/07/13(金) 01:25:41.06 ID:Q+Z5OZ6a
秀吉厨はどうしようもない馬鹿だな
360 :
人間七七四年 :2012/07/14(土) 10:40:36.10 ID:61wPxEL0
えっ?ここにお前が挙げた書状が山口県史に載ってるのを証明できないのに
山口県史に書いてあると自称する
>>351 の内容を適用させる気なの?
アホ過ぎワロタwこれではまったく話にならない。
とにかく
>>281 >>299 >>302 >>303 >>308 は
下記の巻の何ページに載ってるんだ?
史料編 中世1
日記・記録・紀行・伝記・家譜・実録・雑史・軍記物語・説話・往来物・対外関係・国外史料
史料編 中世2
大島地区・玖珂地区・熊毛地区・都濃地区・佐波地区・吉敷地区
史料編 中世3
山口県文書館・厚狭地区・美祢地区・大津地区・阿武地区
史料編 中世4
豊浦地区・県外所在・賛・五山文学・和歌・連歌
361 :
人間七七四年 :2012/07/14(土) 10:53:13.11 ID:JqF322/F
お前史料検索能力もろくにないのか 文書名までのってるのに
362 :
人間七七四年 :2012/07/14(土) 12:21:49.50 ID:61wPxEL0
また誤魔化して逃げ発言ですかw
363 :
人間七七四年 :2012/07/14(土) 13:25:56.95 ID:GNoWxkon
目次に文書の名前ごとにまとめられていて小学生でもわかるまとめられ方しているのに それで調べられないって一体お前はどんだけ低脳下等生物なんだ?
364 :
人間七七四年 :2012/07/14(土) 13:41:46.69 ID:61wPxEL0
また誤魔化して逃げ発言ですかw
365 :
人間七七四年 :2012/07/14(土) 14:33:13.02 ID:GNoWxkon
原文やら文書名晒してやったのにまともに史料検索もできない お前が逃げ回ってるだけじゃねぇかw
366 :
人間七七四年 :2012/07/22(日) 10:29:09.21 ID:lx3+DRtu
なんだよ、結局山口県史にお前が上げた書状は載ってねーのかよw
367 :
人間七七四年 :2012/07/22(日) 12:40:56.99 ID:g6y+2tUn
児玉家文書って思いっきり載ってますが…
368 :
人間七七四年 :2012/08/12(日) 12:46:36.55 ID:D6vV5Lys
369 :
人間七七四年 :2012/08/14(火) 13:07:26.43 ID:ixlUX8c2
370 :
人間七七四年 :2012/08/21(火) 10:00:59.65 ID:a+rJ85dL
371 :
人間七七四年 :2012/08/21(火) 11:00:02.03 ID:VTRZmQHQ
372 :
人間七七四年 :2012/08/21(火) 14:25:40.19 ID:r0kSjHvf
血の気の多い戦国武士達を朝鮮半島で討ち死にさせ、豊臣の地盤を固めようとしたら朝鮮弱過ぎたでござるの巻
373 :
人間七七四年 :2013/06/22(土) 09:51:28.28 ID:5xspctLN
374 :
人間七七四年 :2013/06/22(土) 10:36:58.37 ID:GA8eAT9B
375 :
人間七七四年 :2013/07/19(金) 15:05:07.37 ID:KJBRu/jn
あ
376 :
人間七七四年 :2013/07/19(金) 18:16:02.24 ID:XvJfRcGw
377 :
人間七七四年 :2013/07/19(金) 18:20:42.56 ID:/vWz+kuT
378 :
人間七七四年 :2013/07/19(金) 18:25:14.94 ID:XvJfRcGw
過疎ってるのに、たった3分で即レスかよ・・・ キチガイ秀吉アンチはやっぱり24時間常駐監視のヒッキー在日だな。
379 :
人間七七四年 :2013/07/25(木) 07:18:25.67 ID:7v8v35D1
>>377 そもそも目次が山口県の地域ごとに分けて編集してあるから、
名前ごとには編集されてない。
お前が全く読んでないのは明らか。
だから答えることに逃げてるだけ。
380 :
人間七七四年 :2013/09/04(水) 01:07:32.12 ID:b63+3s77
秀吉以前は武力頼み 家康が武力のみでは天下は取れないと悟ったのは 秀吉の天下を見た後 故に秀吉が天下を取ったのは重要
381 :
人間七七四年 :2013/09/04(水) 23:51:10.06 ID:ThKo+EfL
秀吉が天下取れたの100%棚ボタでしょ 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ 秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
382 :
人間七七四年 :2013/09/04(水) 23:52:50.64 ID:ThKo+EfL
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。 信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる 圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。 上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し 徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。 宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った 木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。 単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。 別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。 織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。 本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は 初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。 そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。 家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。 まあ毎度の事だけど 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
383 :
人間七七四年 :2013/09/04(水) 23:54:14.66 ID:/BQu7J8Z
敵対勢力でも使うというより、そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから 敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと 長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理) 対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄 そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、 信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから 一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
384 :
人間七七四年 :2013/09/14(土) 20:59:12.41 ID:w+j4FQ1f
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
385 :
人間七七四年 :2013/11/19(火) 21:16:45.66 ID:e9rXCucq
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、 22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。 12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。 20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。
386 :
人間七七四年 :2013/11/28(木) 15:47:42.23 ID:pmWPgh85
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、 近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。 戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。 彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。 池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに 「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の 天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」 家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条) 跡部信氏 秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。 こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。 岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」 であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。 秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも 蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても 尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。 朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです 長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため 各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊 豊臣滅亡で完全に負け犬 朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ 史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
387 :
人間七七四年 :2013/11/28(木) 16:00:21.84 ID:5Ls/PeGf
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ >>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、 家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。 結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
388 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 08:33:13.63 ID:hPOhErPa
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22 日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12 /12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20 日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
389 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 08:35:12.77 ID:nueloS4d
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために 信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで 味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため 火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。 その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに 1年一杯苦戦してろくに落すこともできず 瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され 7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。 結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
390 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:48:10.26 ID:MgWR9WS0
延暦寺だって天正10年12月12日には日吉社が完成し 天正12年5/1秀吉が本格再興を許可して1万貫負担してるし追って8/4勅命もでてる。 上杉や秋月や毛利や竜造寺や伊達や最上なども、本格再建に協力してる。 信長のやったことは大失政だっただけだ。 延暦寺再建については、綸旨まで大名宛に出されたから、 資金がたんまり集まったからね。 前より豪華になった。 都の鬼門に延暦寺が本格再建が開始されてやっと畿内人心が落ち着いて平穏になった。 石山本願寺を隠れ蓑のように矢面に立たせてるけど、実際の黒幕は紀伊惣国一揆だからね。 だから血判状を差し出し屈服した信長は傍観している目の前で、 反織田軍事組織が安全に高野山戦線に移転していっただけ。 信長は憎き惣国一揆軍事組織にバカにされながらも、 指を加えて眺めているしか無かった。 信長はそうとう悔しかっただろうね。 結局、高野山戦線で信長は苦戦しまくった挙句に謀反で死んだ。 比叡山延暦寺を弾圧した足利義教が謀反で殺された同様の犬死だった。 そして信長が死ぬや早くも比叡山延暦寺の本格再建と、 本願寺の復権が天皇により発令されて、 畿内は急速に民心安定に向かった。 天正10年6/23には女房奉書にて勧修寺晴豊と庭田重保の斡旋で顕如と教如を和解させ 天正11年閏1月22には有馬温泉へ顕如は出発してたり、 3日後には秀吉から堺の本願寺屋敷や本願寺坊領を返還されたりと 信長が死ぬや早速、本願寺の復権がなされて自由行動しているんだよな。 それどころか柴田と秀吉の対立から柴田が江北の境目に出陣してきたのを受けて 4/8には秀吉が加賀で一揆を起して賀越が錯乱したら 本願寺に加賀を領地としてやるっていってんだよな。 秀吉がどうやら有馬温泉にいるようで8/22に有馬に顕如は物を送って 9/25にはまた顕如は有馬温泉に行ってる。 このころ、本願寺は上杉や毛利や紀伊根来寺や湯河直春らと贈答をしてる。 信長の敵と本願寺が通牒していたのが判明する。 面白いところでは天正11年3/16に顕如と教如が春日社に詣でようとしたら 興福寺衆徒に妨害されて諦めて帰ってるw
391 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:51:13.04 ID:MgWR9WS0
天正12年4/10には家康が協力して秀吉に当たるなら信雄上洛成功の時は大坂返還と共に 信長が加賀を本願寺に返還すると約束していた御判に任せて本願寺に与えると出来もしないカラ約束。 (天正8年7/17に信長が和睦の時に加賀返還の神載起請文を出していたが、約束をシカトしていた) 4/23に北伊勢一揆が勃発するや秀吉の使者の鵜飼八蔵が本願寺を詰問し、 顕如はまったく知らないことなので、北伊勢坊主衆中へ御書を使わす約束をしてる。 また秀吉陣所へも馬樽3荷と使者を送ってる。顕如も戦況を冷静に観察し、劣勢の家康に組みしないことを宣言。 信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、 22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。 12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。 20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。 そもそも山城国ですら、信長は支配出来ずに寄生虫みたいに乗っかってただけじゃんw 秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと、余裕が生まれたので、領地訴訟問題を解決すべく、 さっそく寺社や公家らを含めた山城国で検地し既得権益を整理して実質的な統治を開始している。 寺社や公家にまで検地したのは画期的な出来事として評価が高い。信長には不可能だったことだ。 信長は差出検地命令すらナメられて馬鹿にされてたからなぁ。 天正14年6/20の多聞院日記には 秀長が信長の差し出し要求で出された興福寺の石高を知り激怒してるのがわかるし。 財源確保と労役や軍備の算出の基礎データすら把握できてないのでは、 国として成立してない、子供が運営してるゴッコ遊びレベル。 これじゃ北条の方がはるかに信長の統治より優れているのは明白だよ。
392 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:54:26.84 ID:MgWR9WS0
天正13年1/3に顕如が秀吉に使者を送った時は秀吉と人質秀康、誠仁親王にも挨拶してるな。 家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し 4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、 4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、 4/10には秀吉がついに高野山真言宗総本山金剛峯寺に到着し、 4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。 4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。 4/25に信雄が四国出陣準備を命令。 5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、 本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。 信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。 信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、 秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。 譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年) 正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、 秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、 秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。 家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。 11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、 12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。 新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、 私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
393 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:56:05.57 ID:hPOhErPa
>>人質秀康 家康と徳川家臣から人質を取った 天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。 停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし >>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、 家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。 結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから 離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし 秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、 母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 >>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は >>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから 和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ >>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して 木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉 など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな ウザイからさっさと出てけよクズ野郎 看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。 家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。 看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから 大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別 主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易 宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww 基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc... 関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易 南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
394 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:57:04.74 ID:ybiucyt8
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22 日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12 /12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20 日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
395 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:57:42.57 ID:hPOhErPa
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな
>>125 >>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
宣教師の記録は
>>122-123 を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる
396 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 11:58:51.61 ID:hPOhErPa
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり 家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して 「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ >>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、 家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。 結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 跡部信氏 秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。 こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。 岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」 であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。 戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、 近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。 戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。 彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。 池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに 「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の 天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」 家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
397 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:00:11.14 ID:MgWR9WS0
天正12年 12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。 12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。 天正13年 1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて 茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。 2/10 秀吉、信雄の上洛のための路地を石清水八幡宮惣中に普請を命じる。 2/12 信雄、水野勝成らに紀伊雑賀出陣の準備を命ずる。 2/14 家康、信雄の家臣瀧川雄利へ信雄が本当に上洛するのか真偽を聞く。 秀吉の元に秀康の誘導で本田重次の子である仙千代(本田重成)が人質として到着。 2/20 伊勢国司信雄大坂へ到着 22日に能をする。24日秀吉と宗易・宗及と信雄と長益が茶会をする。 2/26 信雄、大坂より入京し、秀吉の推挙にて信雄を正三位北畠権大納言に任ず、3/2に伊勢へ帰国。 3/3 秀吉、蒔田久勝に命じて20人27日分の扶持米を織田信雄の家臣雑賀松庵らにプレゼントする(信雄大坂&京滞在費用か?) 7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。 4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。 6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。 湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、 申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。 6/11 信雄、家康に対して秀吉の佐々成政征伐を告知し、家康家老中から人質を3人ほど尾張清須に出すべきことと、 その代わり、おきい殿と石川勝千代を岡崎に派遣することを告げる。 6/19 信雄、大坂より京へ移動する。 8/5 信雄、佐々成政に秀吉に降るなら和睦斡旋することを伝える。 天正14年 1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。 この年、正三位北畠大納言信雄を秀吉の進めにて従二位に昇進叙す。 11/1 家康上洛。 11/5 秀吉の推挙で家康が参内し正三位に任じてもらい、 11/7 正親町天皇による譲位と新帝後陽成天皇即位式典が行われる。 天正15年 8/8 秀吉の推挙にて北畠信雄を正二位に、家康を権中納言従二位にする。 11/19 秀吉の推挙にて権大納言北畠信雄を内大臣に昇進させる。 天正16年 1/5 秀吉の推認にて従五位下秀忠を正五位下に昇進させる。 1/13 権大納言足利義昭出家し、秀吉と共に出仕し三后になる。 天正18年 1/13 駿府より秀忠上洛し聚楽第にて秀吉と会う。 1/21 秀吉、人質だった信雄の娘を養女となして秀忠と婚姻の儀を聚楽第で行い 人質とするはずだった秀忠の駿府帰国を許可する。 7/13 秀吉、北条征伐の褒美として三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国大幅加増を信雄に与え移封を命じる。 信雄が拒否し、家康家臣団が転封準備しているのを見た信雄家臣領民が準備した方がいいと言うも、 転封は絶対ないと断言し、秀吉の命を無視し関係を完全にこじらせる。 秀吉が信雄を改易し佐竹預かりの流罪とし、信雄旧臣木造長政らを織田嫡孫家秀信の後見家臣として付ける。 8/4 宇都宮にて信雄、家康を取次として秀吉の許しを願い出、秀吉が信雄への怒りを解き和する(烏山または那須への道中か?) 12/29 秀吉の推挙により秀忠を侍従・従四位下に昇進させる。
398 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:00:36.41 ID:YYxtvgNz
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために 信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで 味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため 火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。 その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに 1年一杯苦戦してろくに落すこともできず 瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され 7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。 結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。 秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに あきれ果てたのは間違いない。
399 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:01:57.28 ID:MgWR9WS0
天正19年 5/2 家康、信雄に会うために和泉堺に行く(秋田から伊予へ流される途中か?) 9/4 秀次により九戸政実の乱平定。 11/1 秀吉の推挙にて秀忠を参議とする。 文禄1年 正月 豊臣秀長死去。 1/10 秀吉の推挙にて織田秀信が従四位下参議となる。 2/20 織田秀信らが名護屋へ向け出陣(太閤記によれば御伽衆として信雄も従軍) 9/13 秀吉の推挙にて参議従四位下秀忠を権中納言・従三位に昇進させる。 12/10 織田秀信が岐阜鏡島に新町を作り始める。 文禄2年 10/5 御所での大能会が開催。聚楽第では信雄が杜若などを演じる。 文祿3年 2/21 築城中の伏見城の山里亭に秀次を迎えての茶会に信雄出席。 10/14 利家・信雄らが山城伏見の亭に家康を訪問する。 文祿4年 7/20 信雄ら秀頼に二心無きことを誓う。 慶長元年 5/11 従三位中納言織田秀信 関白秀次の娘と婚姻。 慶長5年 8/21 信雄西軍として旧領回復のため尾張へ出陣するも東軍に捕縛され東軍に組みすることを誓う。 8/22 池田・福島らの軍が木曽川渡河し織田軍を破り岐阜城に秀信を捕縛。 のち福島により秀信の助命嘆願が行われ死一等を免じ高野山へ幽閉される。 慶長10年 5/8 秀信、22歳で死去。 慶長19年 9/27 信雄が大坂城から金品盗んで逃亡し京都竜安寺に隠れる。 10/26 五山僧徒の保護の下に信雄が家康に謝罪のために二条城で土下座。 五山の僧たちの全力擁護で家康が折れ、のちに領地を与えることを約束させられる。 元和1年 3/17 信雄が駿府にて家康に会う。 9/10 佐竹伊達最上細川島津とともに信雄も家康に物を贈る。 寛永5年 10/8 信雄が秀忠に茶を献ずる。 寛永7年 4/30 前内大臣正二位信雄が死去。
400 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:02:17.09 ID:ybiucyt8
>>人質秀康 家康と徳川家臣から人質を取った 天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。 停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし >>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、 家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。 結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから 離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし 秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、 母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 >>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は >>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから 和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ >>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して 木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉 など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな ウザイからさっさと出てけよクズ野郎 看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。 家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。 看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから 大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別 主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易 宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww 基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc... 関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易 南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
401 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:03:22.31 ID:hPOhErPa
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり 自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。 恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、 武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。 家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。 畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず 散々いじめられてただろうが家康。 立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな 前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが) 島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて 島津を助けてやったし 上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし 殺されてるのはほんの一部にすぎないしね 自分を取り立ててくれた恩人信長を暗殺し、家を簒奪した秀吉は主殺しと主家滅亡の極悪人。 だからこそ、自分の死後は子飼い系含め、秀吉から恩を受けた連中は皆秀吉を見捨て、家康に味方したというだけ。
402 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:03:54.56 ID:nueloS4d
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。 家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw >>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、 そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり 侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して なんとか家康がこれに応じただけだし。、 >>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉 家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙 >>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった はぁ? 秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw 信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど 散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易 秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。 主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw >>彼らを関が原後に改易したのは家康 その後皆大名に復帰してるわアホ 織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を 取り立てた家康が織田に復讐www 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに 流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて 宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw 家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど 唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。 挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様 しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し 結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。 後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると 家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
403 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:05:28.84 ID:joLRN0V4
フロイスの日本史とかも秀吉の歴史改変捏造作業によってほとんどデタラメ情報満載だからね > 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた 明らかに秀吉サイドの目線で根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害 >秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ 実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・ 八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の 隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。 >敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった 松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって 味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ >秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏 秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に 美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に 木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹) しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹) >全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。 犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w >御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。 信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも 尾張の国境地帯の陣地ではない。 >羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、 佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想 >そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡もない >(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、 >その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。 そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない >そして事態はそのように展開した。 全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない >すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。 そんなこと全くやってない > 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。 秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う >これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。 縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる >全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。 犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w >御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。 信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも 尾張の国境地帯の陣地ではない。
404 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:06:14.11 ID:nueloS4d
>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、 佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想 >そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない >(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、 >その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。 そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない >そして事態はそのように展開した。 全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない >すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。 そんなこと全くやってない > 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。 秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う >これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。 縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる >三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。 明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の 巳〜午の刻。 > 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして 殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城 への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して (4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている >こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。 >羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を >すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに >おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
405 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:06:55.09 ID:joLRN0V4
>>秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていた また秀吉厨が妄想をデッチあげてるな 家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して 「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ >>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、 家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。 結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 跡部信氏 秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。 こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。 岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」 であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。 戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、 近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。 戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。 彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。 池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに 「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の 天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」 家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
406 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:08:06.63 ID:+qr8IInH
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後 その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって 秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に 信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし 翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし 家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して 「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに あきれ果てたのは間違いない。 そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから 敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと 長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理) 対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄 そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、 信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから 一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる) 秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに あきれ果てたのは間違いない。
407 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:10:32.43 ID:+qr8IInH
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな
>>125 >>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨て
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記
宣教師の記録は
>>122-123 を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる
408 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:11:45.23 ID:+qr8IInH
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど 小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね 秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに あきれ果てたのは間違いない。
409 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:14:59.20 ID:oE3AQt0Z
秀吉の戦果捏造はガチで悪質だからな。 3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており 留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ 和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り 敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ 4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww 尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww 紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw 日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記) 小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww 5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない →小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって… 付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね 加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った →千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
410 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:15:45.10 ID:oE3AQt0Z
6月4日 秀吉→佐竹義重 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず… 4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww 家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に 付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。 なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって… 加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる 尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww 木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ 家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww 9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明 信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において 懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが 断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ >>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。 なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。 しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
411 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:16:23.40 ID:oE3AQt0Z
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は
>>481-487 のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
412 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:35:38.17 ID:nueloS4d
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領され お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし 伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽 など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため 伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回 長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉 >>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり 割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ >>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので >>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら 時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、 いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら 家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。 (天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
413 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 12:38:15.38 ID:+qr8IInH
>>397 >>399 その年表明らかにお前の捏造だろ。
徳川家康文書目録や豊臣秀吉文書目録や愛知県史資料編や新修徳川家康文書の研究や東京大学史料編纂所HPの綱文で調べたが
全く出てこない項目ばかりなんだがw
414 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 16:30:17.36 ID:+qr8IInH
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は 天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため 単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく 11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく 翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の 三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている 秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない 兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた 天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、 秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす 11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている) 天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する 四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる 其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず 公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす 2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。 秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな 家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている 関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし 諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは 秀忠を疎んじていた証拠といえる 上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情 顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し 10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と 譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して 機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら 軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
415 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 17:20:26.54 ID:1R4P9yRZ
>>12 /12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
家康は人質なんて出してねーよクズ
>>12 /25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
拒否したという一次史料は?
>>1 /18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
>>茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
嘘つけ。そんな事秀吉はやってないし、信雄はその時期大阪になんていってねーよ。
>>7 /17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
そんな事信雄はやってない。
>>4 /25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
そんな事信雄はやってない。
>>6 /10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
>>湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
>>申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
そんな文書ねーよアホ。
>>1 /27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
はぁそんな事やってねーし家康は和なんか請うてねーよアホ。
416 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 22:12:25.43 ID:IIsdtUBj
秀吉は戦上手だよ。信長が秀吉を取りたてるぐらい、戦上手なんだよ。凡人からしたら槍働きしていないように見えるんだ よなー。凡人では。
417 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:04:50.62 ID:ybiucyt8
秀吉はある意味最強だよな 信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし
418 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:05:29.09 ID:+qr8IInH
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ 家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。 まあ毎度の事だけど
419 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:06:33.04 ID:+qr8IInH
秀吉の三大デタラメ ○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦 圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ ○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ ○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
420 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:37:06.84 ID:zOmE7q4d
秀吉は伊賀攻めで大敗した暗愚の凡将織田信雄より戦下手。 信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚
421 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:41:03.96 ID:joLRN0V4
○織田対上杉 謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝 謙信死後… 御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに 越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に 派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退 新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞 連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000) から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍 上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって 2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生 金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず 滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞 上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田 武田対織田… 上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属 三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死 岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり 高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す 信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり 長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前 まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死 ○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる 勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦 ○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。 徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく 秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで 1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北 二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる 蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される 以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
422 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:41:42.98 ID:ybiucyt8
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る 武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る 秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す 史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防) 織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗) 滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城 (3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ) だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある 信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。 秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。 氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。 秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。 豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡 北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた 小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。 北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。 勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ) 北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況 享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず 兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 ×武田が実力で信長に滅ぼされた ○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる 離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒 こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ 元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪 寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん いわば火事場泥棒みたいなもん 本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな 以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
423 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:42:15.89 ID:hPOhErPa
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど 小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね 秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに あきれ果てたのは間違いない。
424 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:42:36.78 ID:nueloS4d
事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で 一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし 秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし 神流川の戦いはガチンコ決戦だね。 合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし 上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる 本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど 決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。 あと信長が死んでボロボロになったのではなく 元々弱くてボロボロになっただけ。 森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし 信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも 美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに 信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。 いかに織田が雑魚だったかわかる事例 北条>>>>>織田 秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
425 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:50:41.63 ID:IIsdtUBj
秀吉が信長に認められたのも運だと言いたいわけではあるまい。
426 :
人間七七四年 :2013/11/30(土) 23:55:34.25 ID:ZIxS4qX2
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝 岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる 武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え 最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず) 姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田 よって武田>>>>>徳川>>>>織田 毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに 結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名 よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると 武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出 信玄>>>>>家康 三方が原 家康>>>>信長 姉川 謙信>>>>柴田 手取川 謙信>>信玄 川中島 家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決 柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳 滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防 北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐 織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防 北条氏直>>滝川 神流川 秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線 宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐 上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防 上杉景勝>北条氏直 天正壬午
427 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 00:36:22.16 ID:ABjayFd5
小田原征伐が不等号逆だよ。逆!!
428 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 07:52:51.53 ID:zTfMj+jY
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる) 信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された) 島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって 数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、 豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない) にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ 武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も 出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく やられまくった毛利
429 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 07:54:20.03 ID:zTfMj+jY
これらをもとに能力をつける 天下人の家臣団 政治 統率 知略 家康 110 114 108 本多 77 105 80 酒井 87 95 93 井伊 85 94 93 榊原 50 94 70 大久保 47 83 76 氏康 120 105 108 氏政 96 83 84 政宗 107 97 96 盛氏 86 99 95 元就 96 107 120 小笠原 73 78 60 依田 47 82 86 大須賀 58 82 64 天下人を苦しめた武田家臣団 信玄 97 110 96 馬場 80 93 79 山県 70 99 74 香坂 78 96 85 内藤 79 88 85 秋山 58 85 83 仁科 60 88 69 そのライバル上杉 謙信 87 120 76 景勝 83 100 86 本庄 70 99 59 斉藤 82 93 85 柿崎 30 97 12 須田 78 82 85 山浦 50 86 70 天下人の踏み台にされた雑魚共 政治 統率 知略 信長(笑) 90 71 86 秀吉(大 爆 笑)89 13 89 光秀 85 79 80 滝川 70 77 83 柴田 60 83 52 贔屓目にみてもこんなもん 他の連中はこれ以下のカス 織田厨の大好きな 信忠(笑) 50 28 30 蒲生(笑) 60 55 68 丹羽(笑) 70 15 67 カス武将の集まり織田軍
430 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 07:58:19.66 ID:2WMYIRpf
普通に史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防) 織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍100000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗) 滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城、柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ) だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はあるだろうな 事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で 一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし 秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし 神流川の戦いはガチンコ決戦だね。 合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし 上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる 本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど 決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。 あと信長が死んでボロボロになったのではなく 元々弱くてボロボロになっただけ。 森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし 信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも 美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに 信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。 いかに織田が雑魚だったかわかる事例 北条>>>>>織田 秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし むしろ織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん 美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり 動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが その後信玄に負けまくり滅亡寸前 伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり 火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。 まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ 信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも 美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに 信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。 いかに織田が雑魚だったかわかる事例
431 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 07:59:18.38 ID:2WMYIRpf
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。 その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。 秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。 氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。 秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。 北条は滝川を瞬殺した。 豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡 北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し 小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。 しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し 小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。 しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。 にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず 兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍 秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文) 北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝 豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡 北条家が江戸期も存続 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
432 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 10:27:55.01 ID:ABjayFd5
小田原の守備兵は1000ではなくて、5万だよ。
433 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 10:44:42.25 ID:WkxnsVGl
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
434 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 10:46:31.77 ID:2WMYIRpf
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で 北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
435 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 10:47:17.05 ID:Q63NawXK
北条征伐で北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に 氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
436 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 15:53:14.87 ID:ABjayFd5
小田原の守備兵は1000ではなくて、5万だよ。
437 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 15:58:13.34 ID:2WMYIRpf
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。 5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと 12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
438 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 15:59:20.71 ID:KpqJ4ngr
北条が小田原に50000も動員できるなら秀吉は国力から言っても60万くらい動員してないとおかしいからな。
439 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 16:01:16.96 ID:2WMYIRpf
秀吉はそのくらい動員してたんじゃね。那須記や榊原康政書状に50万騎集まったと書いてるし しかも米20万石と金数万両で兵糧物資を集めながらわずか3ヶ月程度で米が尽きかけてたし そのくらいいないと矛盾があるわな。
440 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 16:05:49.87 ID:tJnbHcwH
60万もいながらわずか1000程度しかいない、1人当たりの防衛面積が10Mにも及ぶ薄氷の防衛力の小田原に手も足も出ないとか どんだけ弱かったんだよ秀吉。伊達が北条方で参陣してたら二日で瞬殺されてただろ。 現に豊臣方頼みの物資すら尽きかけてる有様だし。
441 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 17:08:16.03 ID:ABjayFd5
最後まで残った北条方の主要拠点は小田原城と忍城だけだったんだろ。北条が豊臣を瞬殺できる訳がない。北条が出張ったら 豊臣に瞬殺されている側のほうだろ。
442 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 17:16:03.66 ID:tJnbHcwH
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で 北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
443 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 17:25:21.93 ID:AFQMu4XF
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、 北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など 豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。 それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで 北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により 北条方は戦意がなくなったと書いてる。) 逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し 忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。 小田原も全く手も足も出ていない。 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。
444 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 17:27:23.84 ID:2WMYIRpf
北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。 しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる 関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国 常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
445 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:00:00.49 ID:ABjayFd5
>>普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる だから豊臣が北条をフルボコできたわけね。
446 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:01:04.03 ID:zTfMj+jY
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で 北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
447 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:05:17.89 ID:2WMYIRpf
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前。 そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差の戦闘で豊臣方は 一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で 北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 北条征伐で伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に 氏家負傷とアホっぷりを晒してたし 関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。 5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと 12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
448 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:05:59.55 ID:KpqJ4ngr
60万もいながらわずか1000程度しかいない、1人当たりの防衛面積が10Mにも及ぶ薄氷の防衛力の小田原に手も足も出ないとか どんだけ弱かったんだよ秀吉。伊達が北条方で参陣してたら二日で瞬殺されてただろ。 現に豊臣方頼みの物資すら尽きかけてる有様だし。
449 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:38:08.79 ID:ABjayFd5
でたらめ言ってもったら困る。秀吉の動員兵力は23万で、北条は小田原に5万いたよ。
450 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:56:56.96 ID:z17XfSvu
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。 5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと 12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、那須記や榊原書状だと50万と書いてるのもあるくらい 北条が小田原に50000も動員できるなら秀吉は国力から言っても60万くらい動員してないとおかしいからな。 秀吉はそのくらい動員してたんじゃね。那須記や榊原康政書状に50万騎集まったと書いてるし しかも米20万石と金数万両で兵糧物資を集めながらわずか3ヶ月程度で米が尽きかけてたし そのくらいいないと矛盾があるわな。
451 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:57:48.05 ID:KpqJ4ngr
60万もいながらわずか1000程度しかいない、1人当たりの防衛面積が10Mにも及ぶ薄氷の防衛力の小田原に手も足も出ないとか どんだけ弱かったんだよ秀吉。伊達が北条方で参陣してたら二日で瞬殺されてただろ。 現に豊臣方頼みの物資すら尽きかけてる有様だし。
452 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:58:28.70 ID:tJnbHcwH
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、 北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など 豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。 それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで 北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により 北条方は戦意がなくなったと書いてる。) 逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し 忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。 小田原も全く手も足も出ていない。 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。
453 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 21:59:08.31 ID:2WMYIRpf
北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。 しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる 関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国 常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
454 :
人間七七四年 :2013/12/01(日) 23:12:37.55 ID:zHr9H8W/
なんだこれ。 島左近とか後藤マタベエが天下取らなきゃダメってことか?
455 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 10:58:28.59 ID:sNu2xTNO
つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw
8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6 あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9 好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ
過大評価の信長と過小評価の秀吉
31 :人間七七四年[sage]:2013/11/11(月) 10:27:56.33 ID:/1X1HoE0>>根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage]
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
尾張県史でも偽書状って指摘されてるのを、なんの言及もせずにさらにとソースに出したり
写しの書状を写しじゃないと言い張ったり、そもそも架空でっち上げデタラメ書状ばっか出して捏造しまくってないではやく返答しろやカス!
456 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:34:43.91 ID:dccVfOHJ
小田原の陣の直前、北条家では当主の上洛準備を進めていて、領内にかなりの負担がかかっていたらしい 有力大名の上洛は、みすぼらしい恰好はできないから、供の者も大勢引き連れなきゃいけないし、各方面への贈物も必要だし、軍事動員に匹敵するほどの負担がかかる それがパーになった上での軍事動員だから、領内への二重の負担になった 開戦時点で、北条家はボロボロ
457 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:44:38.14 ID:sNu2xTNO
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた) (黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう) 城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw 早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が 4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww 下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。 ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。 しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、 山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、 それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、 そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 (池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない) つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww 前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ 2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw 3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw) 松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw 4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも 「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。 このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」 「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために 良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」 このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、 秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。 などと最初から長陣の計画を秀吉は表明してるのに、まだ捏造するか? >>豊臣方は6月時点で兵糧不足 そんなわけなかろう。6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw 6/14には奥羽征伐のための偵察先遣部隊の蒲生氏郷が早くも陸奥国二本松に到着の書状(政宗はいまだ長井郡〜大崎葛西あたりにいた) これを受けて6/15には浅野長政が八戸らへ家康・秀次の先陣による7月上旬の奥羽平定出馬宣言。 6/20には部隊編成計画を秀吉が発表(奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第) 7/4あっけなく小田原降伏。 7/7奥州出羽仕置の方針について政宗の意見を参考にしたいと秀吉から御内意があったと 旧葛西家臣富沢直綱に正宗がウソを吐く(自筆書状なので用心のためすぐに火の中へ入れて燃やせと書く) 77/11氏政・氏照らが切腹。7/13秀吉が小田原城検分と家康の関東転封命令。 7/17秀吉も小田原を発し奥州に向かう。7/26秀吉が宇都宮に到着。 >>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
458 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:53:58.25 ID:Q1Qiucah
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー 関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある >小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた) 根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙 >>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう) 北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ 天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし >城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。 >早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww 何が問題なんだ? >下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。 >ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。 それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから 一点に集められる兵力は減るのは当たり前 >>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類 >(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない 根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 >つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww 後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね >前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw 根拠なし >3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw) 300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか 相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め) >松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw 北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても 山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、 それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな >6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw 後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
459 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:54:24.40 ID:Yl89YaAu
>そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww 根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集) 北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能 >>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて) お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える 享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4 四×20万で80万くらいいた事になるなw >>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や 北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当 >農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに 農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている >>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類 >(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない 根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 >>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w 秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな >>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換 当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
460 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:55:14.05 ID:sNu2xTNO
>>小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000 あぁ!?ここでは29万と下方修正して主張しとんのかこの在日アホ織田チョンw根拠がないから都合で兵力をかえてるだけだなw そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて) 北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換されるアホ脳。さすがキチガイですねwww 4月から4万人を動員して三ヶ月かけて石垣山城を築き始めてる時点で、 秀吉が兵糧に困ってないから、長期滞在する予定でいた意思が見てとれる。 関が原の戦いでの家康の動員力から考えて 北条がたったそれだけしか兵力が動員できなかったとするのは ありえない。 東海道の家康、中仙道の秀忠、会津街道や白河戦線の秀康 常陸の佐竹への備えの江戸駐屯軍という大兵を率いていた。 黒田基樹 毛利家文書の北条家人数覚書には 氏直馬廻七百騎という具合に書かれており 総合すると34250騎となる。 そこで上総井田氏の例をあげて騎馬数ではなく動員数を説明すると 井田氏は225人の動員を命じられており、 北条家人数覚書を見ると百五十騎と書いてある。 この数字で換算し直すと、5万2000人の兵力がいたことになる。 ただ実際の軍勢は他にも傭兵や百姓徴発もあったので、 この数字より多かったと考えられる。
461 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:56:58.31 ID:Yl89YaAu
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2 月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>>4 /13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ
>>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末まで天下の御ため
>>良いようにするつもり 今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るように
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
>4/13の秀吉→おねの侍「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
>このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同
462 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:57:32.28 ID:KiLjaDf4
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために >>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」 むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、 金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし 20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。 >>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、 集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし 兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで 秀吉ははっきりいって何もやってない。 そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し 4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった 戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。 あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、 兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる >>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。 秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。 逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし 小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
463 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:58:54.35 ID:SgYsGM1G
>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ >小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」 >「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために >良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」 >このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、 >秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。 秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000 韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。 小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり 苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな 6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず 苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず 諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし 本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし 小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による 秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。 大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。 しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない 戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため 苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス 3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ >>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために >>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」 むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、 金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし 20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
464 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 12:59:52.04 ID:rohCDgos
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、 集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし 兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで 秀吉ははっきりいって何もやってない。 そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し 4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった 戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。 あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、 兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる >>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。 秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。 逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし 小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。 >>関ヶ原の戦いに向かう東海道の家康、 中山道の秀忠、 上杉の抑えの会津街道と白河街道の秀康、 佐竹への牽制の江戸本国の牽制軍などを勘案すると、 >>小田原に1000しか動員できないとかアホみたいな捏造は信じられない。 なんでそんな全く関係ない合戦が出て来るんだよアホw関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書 その他もう一点の資料にちゃんと書いてる。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる 関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国 常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
465 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 13:00:42.99 ID:SgYsGM1G
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。 例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など 負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。 パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり 苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな 6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず 苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず 諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし 本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし 小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による 秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。 大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。 しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない 戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため 苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス 3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため 相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。 むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、 金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし 20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。 豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし 兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで 秀吉ははっきりいって何もやってない。 そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し 4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった 戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。 あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、 兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる 秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。 逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし 小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
466 :
人間七七四年 :2013/12/02(月) 13:02:15.84 ID:SgYsGM1G
>>上総井田氏の例をあげて騎馬数ではなく動員数を説明すると井田氏は225人の動員を命じられており、 なんで北条家人数覚書の〜騎を騎馬数換算なんだよアホ 井田の例は動員命令に対して実際動員できた数が少なかったってだけだろ。 国力差が7.5倍。記録の兵力比も7.5倍 北条の天正壬午の動因は2万 これらの事実から記録の記載でおおよそ妥当 石高あたりの動員力でいえば石高に比して副収入が多い西国>>>>>東国でしょ 実際87年からの動因&戦闘体制構築で貧困な北条領国では会戦2年も前の88欠村が相次いでるし お前豊臣方陣立書みていないだろ 家康軍三万騎信雄軍1万5千騎津の中将3千五千騎 金山待従二千三百騎松坂少将4千騎 金森法印八百騎両遠藤五百騎郡上待従千三百騎大垣少将二千八百騎岐阜待従二千八百騎 以下めんどくさいから略 ほぼすべての武将に騎がついてるけど豊臣方は実際60万くらいいたって事だな そもそも騎なんて言葉何の意味もなく使われたり使われなかったりするのに 馬上身分だけを示すとかアホすぎるだろ。3月28日豊臣秀吉状で5万騎にて山中城攻め崩しとか書いてるが馬上身分だけで5万もいたのかって話 >>ただ実際の軍勢は他にも傭兵や百姓徴発もあったので、この数字より多かったと考えられる。 馬鹿かお前。なら豊臣方の動員した235000の他に用兵百姓その他が含まれるからこれより遥かに人数を膨らむな 現に享禄以来年代記にも29万と書いてるし那須記や榊原康政書状によると「50万騎」を動員してる。 つか兵糧20万石米2万両を容易しながら、3ヶ月程度で底を突き始め急いで駿河湾から調達しだしてるんだから そのくらいいたとする方が自然だわなw あと北条家人数覚書は玉縄と下田が開城した4月下旬以降に作成されたとされている そして末尾には是は氏直分国惣人数積也と記載されているので全軍の人数を記したものと理解できる また毛利家文書の関東八州諸城覚書にも北条方軍勢数が記録されており この総人数も北条家人数覚書と同様 そして小田原市史資料編によるとこれと同内容が記載の文書がもう一点あるらしい
467 :
人間七七四年 :2013/12/05(木) 22:09:43.49 ID:rHkywebJ
秀吉の卑怯なところが不明。
468 :
人間七七四年 :2013/12/07(土) 17:51:20.27 ID:glWnfOkx
469 :
人間七七四年 :2013/12/07(土) 19:09:58.66 ID:CV5ZvPaZ
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。 その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。 秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。 氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。 秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。 北条は滝川を瞬殺した。 豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡 北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し 小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。 しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し 小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。 しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。 にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず 兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍 秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文) 北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝 豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡 北条家が江戸期も存続 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
470 :
人間七七四年 :2013/12/07(土) 19:10:36.91 ID:idhXKStn
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で 北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
471 :
人間七七四年 :2013/12/07(土) 19:33:43.41 ID:oRrLec07
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。 5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと 12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、那須記や榊原書状だと50万と書いてるのもあるくらい 北条が小田原に50000も動員できるなら秀吉は国力から言っても60万くらい動員してないとおかしいからな。 秀吉はそのくらい動員してたんじゃね。那須記や榊原康政書状に50万騎集まったと書いてるし しかも米20万石と金数万両で兵糧物資を集めながらわずか3ヶ月程度で米が尽きかけてたし そのくらいいないと矛盾があるわな。
472 :
人間七七四年 :2013/12/07(土) 21:10:17.13 ID:As/VwOUq
結局秀吉がどんな卑怯なことをしたというのかわからん。
473 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 01:02:55.16 ID:puYtpyT3
秀吉は信長よりも家康よりもいい人だから、卑怯なことはしません。
474 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:28:51.10 ID:/3W1CsUF
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり 自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。 恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、 武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。 家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。 畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず 散々いじめられてただろうが家康。 立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな 前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが) 島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて 島津を助けてやったし 上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし 殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
475 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:29:21.45 ID:h0atuFTK
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、 北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し 法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、 かつ彼と結ばれていたのである。 あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。 さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって 彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。 そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。 …関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと 自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。 特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。 関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。 秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より 関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、 ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実 だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。 母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし 神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように 「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し 秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。 関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。 その後妹も同じように殺されてる。 秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも 信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
476 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:30:07.60 ID:g82hMHPO
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに 宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。 そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉) 五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。 信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。 柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。 堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?) 柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。 秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。 石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、 安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので 信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。 (良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する) しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。 信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており 信雄はその者の専横を怒り斬っている。 秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。 9/3柴田→丹羽 若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。 せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので 重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。 (これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと) 三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張 三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。 我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。 三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。 あなたと我らは同前に申し談ずべく候。 若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから 申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
477 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:50:53.89 ID:ixWHli6C
10/14の晴豊記 茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。 秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね? 信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。 日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。 (多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので 御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。 ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども 御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。 坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。 御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。 天下の外聞はいかがかと思いやった。
478 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:52:14.42 ID:zqej9s5h
10/6 柴田→堀 秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。 静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。 若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが 御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。 我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして 守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。 家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。 12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが 引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である 佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候 と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。 信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。 いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。 そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。 突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと 自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。
479 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:56:30.42 ID:/3W1CsUF
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。 それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。 1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。 4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。 5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。 11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。 2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。 3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。 3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。 3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。 3/7織田信張→香宗我部 同上 3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。 3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。 3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。 信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。 そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して 秀吉のおもうがままに会談を主導。 結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成 (大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた) 信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。 清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに 宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。 そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉) 五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。 信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。 柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。 堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?) 柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。 秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。 石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、 安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので 信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。 (良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する) しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
480 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:57:58.21 ID:/3W1CsUF
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており 信雄はその者の専横を怒り斬っている。 秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。 信雄追放について イエズス会日本報告集 御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが 父の形見なのでと申し出た。 関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。 汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。 中略 じつに従順な姿勢で願ったというのに。 日本史 関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し 1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し 中略 関白はただ1人の小者と称せられている若者しか 仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。 家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で 信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが 信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き 準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。 さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している) そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。 秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。 それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄を擁立。逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。 その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと秀吉は信雄に大敗して土下座和睦してる。 北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し関東移封を拒否できないようにしている。 信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう 三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡 木造家の傀儡北畠信雄政権樹立 秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む 小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放 秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
481 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 10:59:24.71 ID:jSz78wVI
秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない) 秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に 秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。 困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。 光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。 ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ 小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。 秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明) 秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化) 秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に 秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。 困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。 大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。 小幡藩の悪政ぶり 領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。 山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている) 織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない) に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。 織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。 (信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が 1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で 宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが 天明の飢饉の災禍によってボロボロになり明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。 ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で 高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
482 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 11:11:16.57 ID:jSz78wVI
>>秀吉は充分に主家に義理立てした 主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。 >>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。 >>信雄と信孝は超アホで調停不能 だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿 秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。 >>信雄の官位官職も上げまくって そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。 その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。 >>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝 ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw >>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、 関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから 西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。 >>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。 信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに 自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。 >>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝 主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw >>織田が家康を嫌ってた ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を 取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに 家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している >>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所 守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況 永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。 それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。 >>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔 そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。 ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず) >>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく 他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。 あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
483 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 11:12:30.96 ID:h0atuFTK
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって 家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して 「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ >>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、 家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。 結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 跡部信氏 秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。 こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。 岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」 であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。 戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、 近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。 戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。 彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。 池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに 「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の 天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」 家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
484 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 11:49:24.52 ID:g82hMHPO
残虐な上に、粘着質で執拗に根に持つ暴虐の王の秀吉が 信雄を大国に封じるとは到底考えられない。 つか、もしそれほど秀吉が信雄を厚遇したというなら転封を断ったくらいで、 改易とかありえないからな。 明らかに秀吉は秀信も信雄も織田秀勝も使える時は利用するだけして、いらなくなったらポイ捨てして 禍根を残す事がないように綺麗に後片付けしてる。 信雄は佐々攻めの時とかまだ講和の使者として秀吉に利用されまくってたし、 秀吉からしたらまだまだ使えると見られてたが、北条征伐終了後はもう邪魔なだけで使えないと判断されて改易になったんだろ。 そういえば信包とか他の織田一門の連中も秀吉が主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやられて事実上失脚させられてるよな。 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな 前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが) 島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて 島津を助けてやったし 上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし 殺されてるのはほんの一部にすぎないしね 看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。 家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。 看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから 大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別 主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易 宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww 基地外すぎるなwww つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス 佐々・信孝・秀次etc... 関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり 里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易 南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
485 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 11:55:30.30 ID:dVoVpmBD
486 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 11:56:22.36 ID:dVoVpmBD
351 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 16:13:46.63
女子供を含め数十万人の日本人を虐殺している信長と家康を賞賛し、
朝鮮人の耳を削いだ秀吉を激しく非難しましょう。
356 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 08:46:50.62
秀吉は日本人を大量虐殺しない悪政をしたので、
ボケ老人になり失禁した。
まさに秀吉は逆賊であろう。
日本人として恥ずかしいので朝鮮人の方々に土下座謝罪賠償すべきだ。
信長や家康は日本人を大虐殺したので非常に評価されており、ボケることも、失禁することもなかった。
まさに英雄であろう。
362 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 21:57:05.98
>>357 人口調整して日本の国土に合わせた数に統制管理しなかった秀吉は無能だよ。
信長が日本人を数十万人殺して、
日本を安定に向けて改革したのに、
秀吉は宣教師に対して、
日本人奴隷を返還しろ!なんて愚の骨頂を始めて日本人保護をした。
儒教による兄弟の序を守れない動物日本人なんてゴミクズなんだから奴隷船に載せられるのは当たり前なのに。
だからこそ神君家康は、
大坂で20万人大量虐殺して天誅して、
朝鮮王に臣従を申し込んだ。
364 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:07:47.78
日本人を弾圧すると痴呆症や失禁症にならないのは精神医学分野の研究ですでに証明されている。
秀吉は朝鮮人の鼻を削いだから痴呆症になり失禁症で狂い梅毒脳になり顔がもげて死んだ。
365 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:12:22.18
これは外国人参政権を与えて日本人を救ってもらうしかないな。
いまこそ宣教師を厚遇した信長精神だよ!
367 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:41:15.38
マンデラと違って
いまの国連事務総長はすごい優秀なんだってね。
民主選挙で選ばれた国連世界大統領は独島を韓国領と言ってるから間違いないね。
370 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:36:46.64
>>369 ではなぜ豊臣政権は日本人に拒絶され天誅され滅亡したのですか?
なぜ20万人虐殺した徳川は朝鮮人に支持され300年も続いたのですか?
野蛮人日本人を管理した徳川は朝鮮から文化をもらって統治した。
秀吉は天道に背き朝鮮人を虐げたから天命により処断されました
371 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:39:50.54
>>368 貧困層の目をそらす目的での捏造報道に騙されてますね。
ますます世界から日本は孤立していきますね。
次は助けてあげないよ。
372 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:45:43.44
秀吉の墓は神君家康によって暴かれ遺体は辱められ、神号を剥奪された。
儒教文化圏では遺体を辱める行為は最大限の恥辱です。
これこそが秀吉への神の裁きであり、
無能悪人という歴史的断罪評価を現しているのです。
この評価は日本教科書に記述されてます。
487 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:10:09.14 ID:h0atuFTK
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。 外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり 政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような 国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり 秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻 秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位 あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、 家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。 こんな体制じゃあっさり崩壊して当然 なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない 家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に 反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。 実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。 会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、 そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。 そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし 上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然 島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。 北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ 秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから 普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ 三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん 外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり 政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような 国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて ぶち壊したも糞もねーじゃん 秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。 秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。 実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。 徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。 千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
488 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:23:06.58 ID:/3W1CsUF
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。 家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。 看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから 大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別 主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易 宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww 基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス 佐々・信孝・秀次etc... 関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり 里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易 南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
489 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:33:37.01 ID:dVoVpmBD
北条や毛利を叩きまくり、その最弱な北条や毛利に負けた秀吉っていう デタラメ捏造歪曲ロジックを よくもまあ、飽きずに続けられるな朝鮮人くんって。 しかも関が原の議論ではアホ輝元は被害者とか、 清廉潔白で誠実な家康などと喚いて全力捏造擁護して 三成を貶すなど豊臣政権をひたすら貶し朝鮮出兵での秀吉の敗北を主張。 だいたい >>看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから >>大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない などと発言して無茶くちゃ粘着しながら、秀吉を貶す時には、 >>フロイス日本史22章より。 などと普通に外人の記述を持ってくるんだからキチガイを通り越して池沼そのものなんだよな・・・ しかも武田厨のフリを装い、SABのレスを盗用して爆撃荒らしをやる時は、 三河物語の記述をソースに志賀の陣で信長は敗北したとする論調をそのまま利用しておきながら 近江戦線での秀吉を貶す時に独自に自分で作ったレスでは >>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、 >>無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている などと正反対の信長擁護のレスをして見事に、その正体が織田チョンである馬脚を現しているほど低脳在日ぶりを示すw そもそも昔のSABレスのコピペ盗用爆撃荒らしを歴史ゲーム板で開始し、 だがスレを建てて自己正当化を主張し、だがwikiまで作り発信する工作大好きキチガイはこの在日なのはバレてるし。 不等号が大好きで、不等号で大名間序列をつけたがる幼稚な習性と、 24時間自宅ネット警備員ぶりからして、就職にも失敗してんだろうなぁ。
490 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:36:38.20 ID:g82hMHPO
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、 北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など 豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。 それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで 北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により 北条方は戦意がなくなったと書いてる。) 逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し 忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。 小田原も全く手も足も出ていない。 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。 北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。 しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる 関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国 常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ 豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし 豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。 松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。 小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 フロイスの日本史によると豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね 政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
491 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:40:32.31 ID:zqej9s5h
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。 兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前。 そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差の戦闘で豊臣方は 一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実。 はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で 北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし 小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね 北条征伐で伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に 氏家負傷とアホっぷりを晒してたし 関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。 5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと 12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
492 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:43:31.51 ID:h0atuFTK
秀吉厨の嘘を一つ一つ張ってやるよ >>毛利軍自体が実は来てない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
493 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 12:44:32.77 ID:jSz78wVI
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス 天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、 去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
494 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 16:19:24.98 ID:puYtpyT3
秀吉の兄弟だよって偽って名乗り出た者を処分しただけのことね。
495 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 17:11:58.96 ID:zu2aZNnt
曲解だらけのアンチ秀吉基地外在日織田チョン
496 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 17:46:49.44 ID:jSz78wVI
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない) ・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。 ・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し 煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。 ・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質 ・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる ・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる) ・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり 清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。 ・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。 ・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる ・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。 ・宇都宮を改易する ・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐 ・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
497 :
人間七七四年 :2013/12/08(日) 17:55:20.91 ID:/3W1CsUF
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より 関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、 ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実 だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。 母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし 神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように 「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し 秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。 関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。 その後妹も同じように殺されてる。 秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも 信長ではなく秀吉の指示かもしれないね フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、 北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し 法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、 かつ彼と結ばれていたのである。 あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。 さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって 彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。 そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。 …関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと 自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。 特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。 関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
498 :
人間七七四年 :2013/12/09(月) 08:38:47.91 ID:uX719id7
関白の兄弟である証明が 若者の知り合いのほとんどがそれは事実 などと主張してるだけじゃ殺されて当然だろ…天一坊事件まんまじゃんw ただの詐欺師に主張丸出しw
499 :
人間七七四年 :2013/12/09(月) 21:37:44.44 ID:Xndl7waN
秀吉が光秀と協力していたなんていう証拠はどこにあるのかね。そんな証拠があったら光秀と同じ運命をたどることに なるだろうな。
500 :
人間七七四年 :2013/12/10(火) 23:00:45.11 ID:l6d/Xmkp
光秀と共謀していないから、秀吉は卑怯じゃないよね。
501 :
人間七七四年 :2013/12/10(火) 23:59:09.10 ID:DaEadNSz
光秀と共謀してなきゃ、本能寺から240キロもある高松までわずか1日半で情報が即座に駆け巡り しかもその真偽を確かめる事もなく、毛利と和議を結んで、備中陣を引き払うとかありえないからな。 毛利がこのタイミングで都合よく和議に応じてくれるというのもかなり奇跡だし 状況から考えて、秀吉が事前から変の事を確かな情報で知ってて、それにあわせて行動してただけ。 光秀があんな四面楚歌を招くような状況で謀反を画策するというのも実に怪しいし
502 :
人間七七四年 :2013/12/11(水) 06:46:09.17 ID:PU2OVViy
>>501 >考えにくい
なら明智光秀がマトモだとして考えれば
自分の手で信長を討ってしまえば、理由はともあれ自分が看板になってしまう。
そうなると、少なくとも秀吉は自分の幕下に収まってくれないと引き続き発生する内戦を乗り切れない。
共謀したんなら、その程度は打合せ済みの筈だが
光秀は秀吉が自分の幕下に入ってくれるとでも思ったのか?
クーデターを成功させれば否応なく指導者になれる。
それを私はクーデターを起こすだけで、後の政権は秀吉さんに渡します、だから協力してください
なんて戯言を吐けば、クーデター終了後犯罪者を討伐した上で政権掌握を計られるに決まってるだろ
秀吉が明智光秀の計画を知ってたかどうかは別だが共謀したにすれば秀吉にメリットが無さ過ぎる。
503 :
人間七七四年 :2013/12/11(水) 08:31:11.88 ID:FZ0We1Co
暴君信長を排除し、信忠も殺し、光秀に主殺しの汚名を着せられる。 メリット有りまくりじゃん。失敗しても光秀が危機に陥るだけだし、いい事づくしだな
504 :
人間七七四年 :2013/12/11(水) 21:42:52.93 ID:ORVa5iWL
信長は日本全国統一して自分の配下にしようと画策したわけ。光秀は保守的で現状維持の地方分権を考えたわけ。 だから毛利、上杉、北条、長曾我部、徳川と連合するだけで、織田の家臣団は蹴散らせる目算があった。現に 信長が亡くなったことは、毛利に知らせようとしていたし、上杉、長曾我部にだって同様の書状をしたためて いたはずだ。 秀吉が数日で帰れたのは、不思議ではない。眼の前の敵を置いて帰っただけのことだ。柴田勝家も眼の前の敵を 置いて帰れば数日で戻れたはずだ。
505 :
人間七七四年 :2013/12/11(水) 22:16:00.41 ID:FZ0We1Co
毛利も上杉も北条も長宗我部も徳川も信長を快く思っていなくても 光秀の味方になるとは限らないし、実際には主殺しの汚名を負う方が外交的にも信用性がなくなり、不利。 外交というのは、損得や利害感情以外にも、個人的好悪や大義名分や信用などが関わるわけであって、 例え理由があっても自らの主君を殺すような輩は、外交的には全く信用されないわけで。 実際信長も虐殺や騙し討ちなどが多く、敵を作りやすかったから、誰より多く部下に背かれたわけであって。
506 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 17:27:41.21 ID:MYmlo02k
>>503 誓紙も取らずに信用するほど光秀がバカだと?
逆に誓紙を朝廷にでもばらまかれたら、秀吉も共倒れ
光秀が基地外で、何の保険もなく「俺今度信長やってくるw」ってふれまわるバカでない限り有り得ない。
507 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 17:29:52.65 ID:MYmlo02k
508 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 18:56:51.67 ID:99Do+yhh
光秀が個人的に恨みがあって、それを秀吉が利用しただけじゃん。
509 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 19:06:29.04 ID:3m88cZ6w
織田家は佐久間林丹羽安藤ら次々に家臣を粛清したり、越中や能登や伊勢や近江などの国人連中を城に呼びつけて 悉く殺したり、暴虐非道の限りを尽くしていた。 光秀は、老齢であり、対長宗我部の外交政策を巡って秀吉との派閥抗争を繰り広げていたが 光秀の用意した対長宗我部の外交ルートが信長が秀吉の方のルートを選んだため台無しになった。 また波多野を倒した際、明智の母も、信長の命で救う事ができなかったと一説に言われる。 要は明智の信長への怨恨や当時の年齢や、当時の織田家や信長の暴虐非道な振る舞いや、織田での派閥抗争の敗北など 種種の要因で信長を殺そうと考えていた所に、秀吉や柴田ら他の家臣団が、暴虐の王信長を殺すぞ!という事で 結託して信長を殺しただけ。 それでもって、秀吉は共闘するはずの明智に、主殺しの汚名を一身に着せて格好の大義名分を得て摂津衆を初めとする味方を大勢得たが 柴田や瀧川や信孝がこれに憤って、明智の謀反は織田家臣での決まり毎のはずなのに!と喧嘩を秀吉に吹っかけただけ。
510 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 19:12:58.36 ID:ka139bIp
信長は馬鹿だから明智に本能寺を襲撃されるまで全く謀反に気付かなかったんだよな 普通きづくっつーの。 石田三成でも武功派連中に襲撃される際ちゃんと逃げ切ったし 家康も本能寺の変の時の襲撃とか、 関ヶ原合戦の前の奉行衆や大名衆を集っての、家康への専横に対する弾劾状叩き付けの時とかもちゃんと逃げ切ってるし。
511 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 19:28:33.83 ID:9tYMaOmB
どうしたんだ菅沼遼太君?嫌なことがあったのなら相談に乗るぞ?
512 :
人間七七四年 :2013/12/12(木) 22:29:02.39 ID:SZB+j0IB
秀吉や柴田ら他の家臣団が結託して信長を殺した証拠はどこにある?
513 :
人間七七四年 :2013/12/14(土) 14:50:41.81 ID:bEqQsy/e
やっぱり秀吉はどこも卑怯じゃないね。
514 :
人間七七四年 :2013/12/17(火) 14:10:39.27 ID:S3CCM88o
昌幸「表裏比興の者!(キリッ」
515 :
人間七七四年 :2013/12/31(火) 15:53:15.52 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、 石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、 これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww 在日朝鮮織田チョンくんさー、 三河一向一揆との戦い以来の超古参の 石川数正や酒井忠次や本多重次らから、 強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう? ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
516 :
人間七七四年 :2013/12/31(火) 18:55:06.28 ID:1FKeqkY0
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって 信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ 北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに 養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。 そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の 三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。 秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。 養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし 家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし >>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら 翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず 佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
517 :
人間七七四年 :
2013/12/31(火) 20:57:27.67 ID:1FKeqkY0 敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため 単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく 11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく 翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の 三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている 秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない 兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた 天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、 秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす 11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている) 天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する 四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる 其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず 公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす 2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。 >>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。 家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw >>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、 そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり 侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して なんとか家康がこれに応じただけだし。、 >>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉 家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙 >>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった はぁ? 秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw 信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど 散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易 秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。 主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw >>彼らを関が原後に改易したのは家康 その後皆大名に復帰してるわアホ