127 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 20:33:25 ID:+8ZgDGjq
128 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 22:08:36 ID:MHp7+ufZ
>>126 水谷氏って結城家の客分からスタートだったのな。
真壁氏みたいな独立した国人が臣従しただけと思ってた。
129 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 00:47:48 ID:If62oVw9
結城直基っておもいきっり親父の遺言無視したんだな
130 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 18:44:01 ID:VRGt20Y7
>>128 その恩義をなんとはなく感じていたから、
多賀谷みたいに他勢力につくことはしなかったのかもね。
領地経営はめんどくさくて、とにかく戦を楽しみたいという
戦バカみたいな側面も感じられるよね。
下館は弟に譲って、自分は最前線。嫁さんなくした反動かしら
131 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 22:38:07 ID:vqo+jIT/
水谷って久下田で産業起こしてなかったか?
あと、他勢力には付かなかったけど、勝手に下野や常陸の奴ら攻めてるだろ。
132 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 16:58:24.81 ID:8htKYDQk
衝動にまかせて合戦三昧
そんな戦バカが北関東にいたんですね
主人筋の結城としては頭が痛い存在だろうな
133 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 17:15:19.06 ID:4HDV7qsn
水戸の結城寅寿って子孫だよね。
134 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 17:54:46.40 ID:TSGA196r
佐竹スレにいたおかしな陰謀史観のやつがここに来てたかw
135 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 19:19:55.15 ID:pEMZTnnM
>>133 あれは白河結城の庶流の末裔
嫡流は秋田藩士
小峰嫡流が仙台藩士
水戸は小峰の庶流やなかったか
136 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 22:38:00.15 ID:Yi7RmoDT
>>132 それでも多賀谷よりは役に立つと思っていたのだから主君も主君
137 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 00:47:53.19 ID:6aJWY0ID
>>136 実際、私戦しかしないで20万石まで領地広げた多賀谷より、
ごくたまに結城のために戦った水谷の方がまだ役に立ってただろ
138 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 09:53:51.96 ID:9Oz/23X0
関東八屋形の結城家
結城家には、徳川家も欲しがった埋蔵金があるらしいね
139 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 13:19:08.44 ID:NqGTDx/y
>>138 「結城家の初代・朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたときに従軍し、
手柄を立てて平泉の黄金のほとんどをほうびにもらった。
それは代々同家に伝えられてきたが、17代の晴朝のとき、徳川家康に狙われたため、
現在の茨城県結城市から栃木県下野市あたりに広がる旧結城領のどこかに埋蔵されたらしい。
晴朝の重臣が書き残した文書によると、財宝は重さ約8キロの金の延べ棒がおよそ2万5000本、
7キロ弱のものが2万5000本、それに30キロの砂金が入った樽が108個。
黄金の総重量は約380トンにもなる。単純計算で3800億円だが、そんなにあるはずはないだろう。
しかし、徳川家康をはじめ、大岡越前守も掘っているし、さまざまな根拠によって発掘をする人は今もあとを絶たない。
結城市にある晴朝が建てた金光寺というお寺の山門には、意味不明の3首の和歌や絵が彫り込まれていて、
この謎を解けば財宝のありかがわかるといわれている」
ホントかな? 晴朝の頃には使い潰してそうだがw
140 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 14:17:41.18 ID:9Oz/23X0
埋蔵金は、一部発見された話しがあり、渋沢栄一や岩崎弥太郎の開業資金になったって本当?
そうなると結城朝光は、源頼朝の落胤だったのか
141 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 16:52:27.80 ID:WCaUCxBc
結城合戦の時点で全て回収されてそうな気がするが
142 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 18:18:09.28 ID:DS0HFbmQ
普通に結城合戦後の御家再興に利用されたような気がする。
143 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 15:42:03.82 ID:hxNnmB7h
多賀谷がねこばば
144 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 07:24:05.52 ID:bIBiXRWx
小山さんとはいつ頃からの腐れ縁?
145 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 01:02:49.26 ID:GxThjNho
結城氏初代の朝光が小山氏の出身なのだが
146 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 21:09:58.89 ID:+fIva8Xr
天正18年6月7日、小山本城開城により、出城である逆川城も開城する。
逆川城の大将として城にいた小山家の姫芳姫は、上杉景勝、浅野弾正忠幸長
らの詰める陣所に呼び出され、そこで勅使・甘露寺大納言元長(錦御旗携行)
により、沙汰として芳姫を結城晴朝嫡男晴信(おそらく宇都宮朝勝)に賜う
との秀吉の決定が家康の書状によって申し渡された、と聞きます。
147 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 22:29:38.87 ID:oFg50Ugi
山川って、当主が相次いで若死にしてて、活躍らしい活躍もないのに、
なんで江戸時代まで大名級の地位を保てたんだろうか?
148 :
人間七七四年:2011/08/26(金) 13:08:34.26 ID:QDazOluS
保守
149 :
人間七七四年:2011/09/07(水) 13:48:44.43 ID:R/CVFPWV
下総結城家のご当主は御元気なのでしょうか。
白河結城家のご当主は頻繁に白河へ来て活躍しているらしいですが。
150 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 13:39:07.94 ID:SdpJdJEe
下総結城家って結局越前松平に吸収されてるし
151 :
人間七七四年:2011/12/06(火) 00:09:09.68 ID:VP5+8Lp0
下がりすぎだろ。
152 :
人間七七四年:2011/12/06(火) 12:23:42.84 ID:1frQ/oGm
まだあったのこのスレ!?
153 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 14:31:05.94 ID:40UUhySD
晴朝はなんのために御手杵なんて作ったんだ?
自分で使うため?
154 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 15:31:57.24 ID:5/EOy5Mu
>>153 江戸期なら参勤交代の目玉とかにするんだろうけど、作った当時はそんなこともなく。
デカイ、重いのは手槍としても実用性ないよね?
155 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 21:32:15.45 ID:T+k52D+d
>>146 芳姫って確か小山義政の正室も同じ名だったな。代々使ってるのか
てか甘露寺元長のような公家が伝えることかこれ。上杉の仕事じゃね。
また朝勝正室って真壁氏では
156 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 23:16:04.93 ID:Mv3nnzDV
>>155 そもそも朝勝は天正18年には既に正室がいたはずだが
157 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 12:15:15.87 ID:PnyNpGv5
晴朝の多賀谷嫌いは相当だったみたいね。
3万石を安堵されたのはよかったろうけど、
常に大殿からは嫌味を言われてきたと推測される多賀谷三経…。
特に秀康が死んでから晴朝が亡くなるまでの7年間は
針の筵だったと思われ、さすがに同情してしまう。
158 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 14:06:36.38 ID:+04cF+Fp
>>157 晴朝は徳川寄りで、三経は石田寄りなので?
159 :
人間七七四年:2011/12/15(木) 14:57:25.68 ID:8nyMdTnt
>>
結城成朝を暗殺した多賀谷祥永、幼い主政朝を傀儡として威勢を放つが、
成長した政朝に倒された多賀谷和泉守と、主家をないがしろにするものが
多賀谷からは多く出たので。
三経の親父、重経も結城を攻撃したこともあった。
そのため結城家からは「多賀谷家代々不忠」という評価が一般的で、
特に晴朝はその傾向が強く、結城合戦の際、多賀谷某が幼い成朝を抱いて
佐竹に逃げ延びたとする「通説」を否定し、成朝を抱いて逃げたのは
結城家の乳母と家譜に残したほどだった。
160 :
人間七七四年:2011/12/16(金) 23:09:11.56 ID:Z4LtiZdu
>>158 それはないだろう?
晴朝が多賀谷全否定の発想なら、庶流の多賀谷政広が重用されないだろう。
ましてや結城氏に義理立てして父から放逐された三経を冷遇すれば、家中へのマイナス影響がある。
161 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 12:18:27.54 ID:C0wvrw2S
>>160 人事権は晴朝にでなく秀康にあった。
と、いうより関が原後の大名家廃絶で、浪人の急増は治世を乱す
原因となり、徳川家としてはその受け皿を作る必要があった。
多のスレに福井松平家を「東国武将の吹き溜まり」と揶揄した
書き込みあったが、ある意味正しい。
実際に下妻あたりでは多賀谷残党を名乗った略奪行為が多発していた。
つまり、多賀谷三経を取り立てることによって、
多賀谷残党の救済処置、および旧多賀谷領土の治安安定を目論んだ。
徳川の方針に晴朝が逆らえるわけもなく、だからこそ恨みが
暗にこもっていったのでは…。直接折檻もできるわけもなく、
家伝のなかで恨み辛みをネチネチネチネチと。
162 :
人間七七四年:2011/12/23(金) 20:19:14.21 ID:I5J234QN
>>161 多賀谷三経の登用って関ヶ原以前じゃなかったっけ?
163 :
人間七七四年:2011/12/24(土) 12:25:19.09 ID:WfJlofUz
関が原以前は与力としての名目だけの臣従。
正式に家臣として家中に入ったのは関が原後みたい。
164 :
人間七七四年:2012/02/26(日) 21:42:31.70 ID:mhaVyjZM
165 :
人間七七四年:2012/02/27(月) 12:41:32.88 ID:VG9hfW1e
白河結城は幕府方。同じく幕府についた小山氏と共に、
権勢を高めた。
下総結城と白河結城って、当主がなぜか同性同名の時代が2回ほどあって
たまに勘違いしそうになるよね。
166 :
人間七七四年:2012/02/27(月) 18:35:39.84 ID:/vhJclIC
>>165 あ、そうなの?
wikipediaみると白河結城氏の家臣の及川氏って、
結城合戦で敗れて領地を失ったってあるから
てっきり白河結城氏も本家と一味して幕府と戦ったのかと思ったよ…
でもそしたらなんで白河結城の家臣の及川が滅亡したのかな?
wikipediaみると奥州の局地戦では逆転してる様子もあるが
どうなんだろう?
167 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 13:33:00.93 ID:QcB96pWC
>>166 結城合戦における両者の陣容は、
兄が結城方なら弟は幕府方というケースが多く、
篭城主である結城家ですら対立が起きている(小山、山川、長沼は幕府方)。
佐竹や小田なども同様。なので、
家臣が主家に背くなんてケースは普遍的に見られた。
とりあえず家名を残すという安全策から両陣営に分かれたという側面と
兄弟、親族同士の嫡流争いの延長としてこのような現象が起きた。
168 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 20:47:00.15 ID:xE3knQeH
>>167 ほほう…。なるほどな。ありがとう、御教示に奉謝す。
すると結城合戦に乗じて、白河結城の家臣の及川氏は敵方に内通して
謀反を起こしたのかもしれないねー
ところが見事にアテがはずれて主家に滅ぼされた、と。
169 :
人間七七四年:2012/11/30(金) 01:44:23.82 ID:/i/GYiyG
朝勝さんは佐竹に最後流れて行ったのか
170 :
人間七七四年:2012/12/11(火) 23:27:56.63 ID:4KvrgRlW
ほす
171 :
人間七七四年:2013/02/09(土) 09:23:55.81 ID:BV2NNph0
佐竹氏には白河・下総両家がいたわけか
172 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 12:03:55.97 ID:0D5Wcx9N
173 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 07:17:44.49 ID:oNk3czD2
174 :
人間七七四年:2014/09/06(土) 16:34:25.33 ID:ThZPLDl7
>>144-145 のぶやぼのイメージだと結城>小山と思ってただけに意外。
現在の小山市・結城市の関係をみても
やっぱり小山市が交通の要所で結城市がその衛星都市みたいな感じだな。
175 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 15:53:38.13 ID:qeZ/gQtP
>>174 小山が交通の要所として発展し始めたのって
江戸期以降じゃね?
176 :
人間七七四年:
結城家から前橋松平家にかけての、江戸初期の史料ってどこが一番揃ってるかな?
1698年以降なら前橋に藩政記録があるからわかり易いんだけど、これ以前の転封
繰り返してた時代を調べたい場合どこに行けば一番いいのか分からん