毛利輝元が大阪城に立て篭もった!!

このエントリーをはてなブックマークに追加
826人間七七四年
川之内海賊衆の家の一つ福島氏は武田領ど真ん中で孤立し維持し続けることは不可能で亡命。
故地への復帰は武田滅亡後(1540年)の1541年であり、証拠として天文10年9月20日の大内義隆袖判宛行状に
佐東郡中庄司内五拾壱貫□五百目地事とあり義隆は51貫余を福島親長に与えている。
しかし大半は毛利が貰っていて佐東や安南合計1000貫の所領が毛利へ
さらに1542年11月にも判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍を
毛利直属にしているように福島氏が宛がわれたのはわずかだった。
親長の子の福島隆弘は1543年大内義隆の出雲侵攻に参加し出雲にて討死
1544年7月19日大内義隆は中庄司のうち56貫余など福島氏遺領を宮福(親長娘で福島家を嗣いだ元長の妻)に安堵している。
827人間七七四年:2011/06/02(木) 06:02:21.71 ID:jrhUHJt9
白井膳胤(子)は熊谷宗直娘を妻にしており武田の暗殺指令による山中成祐の
熊谷信直暗殺事件の政変で疑われ府中城の白井備前守の元より逃亡。
1527年大内から周防熊毛郡に三百貫を宛がわれ佐東郡内(北庄・山本・箱島)も保障される。
(佐東郡に関して・・・毛利も大内から与えられた事になっていた可部の地を所持してないのに
熊谷を離反させる時に与えていたりと戦国期には空安堵はよくある)
大友の一万田文書には3月に豊前守護代の杉興重が大友兵を同伴しての仁保島や日地島攻撃して帰ったとある。
しかし大内軍は和智氏や湯浅氏ら備後勢が尼子に寝返ったので三次市和智町のあたりで11月まで和智細沢山対陣。
1528年7月にはいまだ大内がもたもたと白井攻めをしてるのが確認される。
828人間七七四年:2011/06/02(木) 06:09:27.98 ID:jrhUHJt9

1529年(享禄2年)大内義興死去の年。仁保嶋海上諸公事の白井光胤(祖父)も
息子のいる大内に亡命し周防玖珂郡に二十石・豊前築城郡に十二石の知行。
膳胤出雲侵攻で戦死説あり。白井房胤(孫)が1543年に相続し周防・豊前の知行を安堵される。
大内に属して周防豊前に居を移しているため仁保島の地を所持していた証拠はまったくない。
熊谷氏を始めとして国人達は所領を一族で分割しており惣領を中心とした惣領制にするために苦心を重ねていて
分割されていた一族を強力な寄親からの惣領公認の後ろ立てを背景に一つに纏め上げようとした。
これは井上一族にも言えることで井上宗家を蔑ろにして一族は直接に毛利に仕えたりと分裂していった流れを食い止め
纏める為に井上宗家は寄親元就に近づき惣領としての立場を確固たるものにし元兼主導で井上一族を纏めることに成功した。
829人間七七四年:2011/06/02(木) 06:16:11.01 ID:jrhUHJt9
元兼暗殺はその商業流通による利権を奪おうとした元就の暴挙であり、
元兼専横と記しているのはのちに正当化しようとする元就本人の弁解によるもの。
元就のこの手の弁解はかなりの捏造歪曲を含んでいる。
例えば義興による加増の由来などで元就が過去を振り返って書いているが
大内は東西条からも全兵を撤退させたので中国地方はこれより20年の間、尼子の勢力が強かったが
そんな中で毛利だけは大内に忠節したから大内から得た領地は正当だと主張するなどデタラメが書いてある。
また兄弟も親戚もいない天涯孤独な元就などとウソを書いている。
さらに尼子がやってきた時に幸松丸が死ん時に元就が跡を継いだのは尼子の承認があった事実も隠している。