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人間七七四年:
現在、我々は「水田」というと、広々とした平らな場所にあるものと思います。戦国時代当時は、現在我々が見るそうした水田地帯は、多くが「河川の氾濫原で
ススキやアシがボウボウと生えた荒地」でした。梅雨や台風の時期になると川が氾濫して水浸しになってしまい、農業ができない場所だったのです。
典型例は、関東平野の中心部(今の埼玉県内の東北線、あるいは常磐線や東武伊勢崎線の沿線)です。先の投稿でも書きましたが、
新潟市の周辺の越後平野、あるいは仙台市の南北の仙台平野などもそうです。
戦国時代に水田が効率よく作れたのは、山と平地の接点のような地域です。関東地方の覇権を、相模小田原城が本拠の北条氏と、
上野(群馬県)が本拠の山内上杉氏(越後の長尾氏=上杉謙信が継承)が争った当時、戦闘はだいたい今の「八高線」の沿線で行われていました。
この辺の「山と平地の接点」の場所が、戦国時代の「水田適地=領有を争うべき土地」だったのです。
というわけで、山がちの三河や甲斐や信濃といった土地は、現在我々が考えるよりも更に農業に向いた「豊かな土地」であったと言えます。