桶狭間の合戦の真実について その2

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946人間七七四年:2009/07/09(木) 15:10:11 ID:hIEDrwaE
こういうカキコを待ってました(T_T)
実際に古戦場に行かれたとありますが、当時と現在の地形はほぼ一緒と考えていいのでしょうか?
947人間七七四年:2009/07/09(木) 15:10:21 ID:1vR72eEB
織田厨は武田関連スレで武田厨の言う妄想を「信玄に都合のいい事前提でワロタw」とかけなしてくるけど、織田厨の妄想もたいして変わらんなw
948人間七七四年:2009/07/09(木) 15:13:00 ID:1vR72eEB
>>945
義元が“お歯黒”や“公家風衣装”をしてたとか本気で信じてるところが痛すぎる。
949人間七七四年:2009/07/09(木) 16:27:53 ID:a48Zh42m
他にツッコミどころがなければいいんでないの?
950人間七七四年:2009/07/09(木) 17:15:38 ID:7LDnzD3O
>>948
馬鹿か、足利将軍家の親藩だぞ
守護大名の基本の正装だぞ
お歯黒、公家衣装=馬鹿殿、弱小武将という視線でしか見てないな

威光を示す為にやるだろう
(御輿に乗ってたり、お歯黒をしてたのは事実
あとちゃんと馬にも乗ってたし、鎧兜もちゃんと装備してたとも書いとく)


>>946
緑区は名古屋市の区の中でも人口は多い方だが
デコボコしてて信じられないくらい山や坂が多い
丸根砦や義元の陣とされる場所とかはその中でもかなり急こうばいな山

関東へ行くには箱根の山とかいわれるが緑区というか桶狭間は
いわゆるそういう場所(箱根ほど大きくはないが)
だいぶ木を伐採したり埋め立てたりでほぼ一緒とは言いがたいがそれでも
桶狭間周辺がかなりデコボコなのは行ってみればよくわかる
951人間七七四年:2009/07/09(木) 17:33:23 ID:VLKbSSAQ
上洛説を否定する者も多いが、室町政権の守護の在り方を考える必要がある。
守護は、京都に常駐するべき存在で、現地の支配は守護の家臣である守護代が行った。守護自身が任国にいる方が、特殊な状態。
応仁の乱で京都の秩序が乱れてからは、現地で暮らすことも多くなったが。
守護が京都と任国の間を移動するのは「公務」であって、それを妨害するのは幕府秩序の紊乱として、罪となったはず。
その路線上にあるものは、通行に協力しなければならなかった。特別な事前工作など不要。
したがって今川義元が上洛するのは、守護としての平常状態に戻ることであって、特別なことではない。
ただ、秩序が乱れて久しいこの時代、現実問題としてはかなりの困難をともなったとは思う。平常状態にもどる、とはいってもそのまま京都に常駐することは難しかったかもしれない。
952人間七七四年:2009/07/09(木) 17:54:00 ID:QLiodIcK
ここには守護大名と戦国大名の違いすら知らんアホがいっぱいいるからね
953人間七七四年:2009/07/09(木) 18:23:49 ID:P9D49+lE
守護大名の上洛が不自然とは思わないが、
戦国大名たる今川があの状況で軍勢率いて上洛するのはどうなんだよ。
それも事前工作も大義名分もなしに。
954人間七七四年:2009/07/09(木) 20:28:54 ID:y0cM2DVb
「今度の戦俺も出るんでー、そこんとこヨロシクー」な義元の書状は誰宛てだったっけか。
955人間七七四年:2009/07/10(金) 00:17:35 ID:qoVHpVqH
義元がお歯黒とか公家衣装をしていたとしているのは
江戸中期以降に書かれた軍記物だと本で読んだなー
別にお歯黒とか当時普通だったんだろうが
なぜか義元だけの特徴のようにされてるんだよな
956人間七七四年:2009/07/10(金) 01:18:53 ID:h09RmkXv
>>955
江戸期に丁度、一般庶民のお歯黒の風習が廃れて、公家的な特徴とされたからな。
957人間七七四年:2009/07/10(金) 01:22:11 ID:soeZKeww
>>953 今川家は守護大名の家柄。実質戦国大名に変貌したからあそこまで巨大化できたのだが、どこの馬の骨ともしれない成り上がりの戦国大名とは違うという自覚と、周囲の目はあった。
塗輿の使用、は幕府の許可によるものだから、それを用いているということは、幕府の「公務」であることを示している。
しばらくの間、京都を離れていた将軍家が、この時期京都へ復帰していたから、将軍への挨拶だけでも立派に上洛の大義名分となる。別に上洛理由を審査する機関があるわけでもないんだから。
信長の尾張平定に協力すること、が事前工作でないとでも?それに、「桶狭間」直前、尾張守護の斯波や三河守護の吉良とともに鳴海にいた「石橋殿」が幕府関係者、というのが当方の説。
今川の軍勢については、警護のための部隊はついただろうが、それほど数は多くなかった、と見ている。
ただし、尾張守護斯波義銀(よしかね)同守護代織田信長、三河守護吉良義昭、地位不明松平元康をともなっての上洛というのが当方の説であるから、トータルでは相当の人数になっただろう。
松平元康が運んでいた「兵糧」とは大高城で使う食糧ではなく、この上洛軍の活動費、および関係各位への贈答品だろう。
958人間七七四年:2009/07/10(金) 01:35:32 ID:h09RmkXv
>>957
だから他所でやってくれ。
959人間七七四年:2009/07/10(金) 01:46:48 ID:KoZ6ipzD
もう読むのも疲れてきたな
頼むから3行にまとめる勉強してくれ
960人間七七四年:2009/07/10(金) 07:43:08 ID:ktxBjgxV
>>959 3行しか文章が理解できないって、頭が不自由ってことだろう。馬鹿になるため勉強しろって、言葉の根本的矛盾。
961人間七七四年:2009/07/10(金) 07:45:34 ID:h09RmkXv
>>960
先ず最初の問題としてお前は日本語の文章が書けて無い事に気が付け。
962人間七七四年:2009/07/10(金) 12:19:08 ID:Oj6dwQjn
小説家ってのは大抵こういう愚にもつかない内容の本出してるよね
963人間七七四年:2009/07/10(金) 12:40:02 ID:1yKBtrp2
>>957
織田が協力しているというのならば大高城を包囲する丸根、鷲津砦の存在は不可解だし(永禄2年、1559年)、大高城に兵糧を入れた後に松平や鵜殿らが両砦を陥落させるのもまた不可解なんだが。
964人間七七四年:2009/07/10(金) 17:38:51 ID:4eGZcSRd
わしもにゃ古屋だけど、当時の地形と今はあまり変わってないんじゃないかと思う。
適度な高低があってぐにゃぐにゃしててね。

で、いつも思うのだけど、あのあたりの丘の未開拓のところに竹やぶがうじゃっとしてるでしょう。
あれってやっぱり戦国とか江戸からそのまま残ってたりするんだろうか。
名古屋大空襲の時も直接爆撃はなかったというし、農業系の人に聞いたら、竹やぶというのは数十年ぐらいじゃなかなかできない、らしいし。

だから、あのあたりのそういう竹やぶなんかを掘ったらそれなりになんか出てこないかな、とかね。
サビついた刀あたり。

話戻して、当時と似ているとして、かなり地元に詳しくないと大軍が通ったり休憩したりするだけでも、そんなベストなコースは取れなかったと思うんだ。
だもんで細かい状況はともかくとして、勘違いの正面攻撃が通用してしまった、というのも十分あったんじゃなかったのかな。
後から調べると、そんなことをしたとは考えにくい、そんな場所で〜〜とは思えない、っていうのも正論なんだけど、結果的に通用してしまったことこそ、
なんか意表というか普通じゃない行動の元に生まれた結果、のようにも思える。
素人でごめん。
965人間七七四年:2009/07/10(金) 19:29:51 ID:KGLtmLNe
>>963 そもそも大高、鳴海城を包囲していた織田の付け城の存在自体に疑問がある。南から丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下の砦だが、たとえば中島砦。
1553年に山口父子が裏切って以来、この付近は織田にとって敵対地域。そんなところに砦を建設することが出来たのか、というのが根本的な疑問。
二つの川の合流地点に中島砦はあるのだが、地形は平坦、すぐ横を東海道が通る。砦として機能させるためには堀を穿ち、土塁を盛り、周囲を柵で囲うことが必要。
だが、北へ500メートルも行くと、敵方の鳴海城があり、歩いても5分ぐらいしかかからない。こんなところに砦を築くのは、あの墨俣一夜城より困難。鳴海城は指をくわえて自分が包囲されるのを見ていたのか。
大量の兵の援護でもない限り不可能。それでも後方から大高城の兵に襲われる危険がある。それほどの大規模な兵を動員したのならもはや一つの戦いだが、その記録はない。
結論 通説のように織田今川が敵対関係にあるとすれば、中島砦建設は不可能。中島砦からの補給なしにその南の鷲津、丸根の砦が存在することも不可能。
よって、これらの砦群は、鳴海、大高城を攻撃するためのものではない。

966人間七七四年:2009/07/10(金) 19:32:20 ID:KGLtmLNe
>>961 オマエのような○○が読めたんだ。立派な日本語じゃないか。
967人間七七四年:2009/07/10(金) 19:48:50 ID:Es+FQHkD
966は都合悪いことはすべて捻じ曲げて解釈するただの妄想家かと思ったら、それ以下のただの荒らしだったな
今日もこのスレがまともに議論出来ない状態で残念だ
968人間七七四年:2009/07/10(金) 19:50:02 ID:KEan1PcX
>>965
虎御前
969人間七七四年:2009/07/10(金) 20:19:41 ID:OWTj4Ptz
>あの墨俣一夜城より困難。

もはや、釣り以下だろ…続きは、ブログでやってくれや。
970人間七七四年:2009/07/10(金) 20:25:26 ID:vwyjPiCf
>>968 近江小谷城の西南にある虎御前山は、信長が小谷城を封鎖するために作った付け城である。敵の支配地内に作ったということでは共通しているが、この頃の信長は常に最強の軍を動かしており、その建設を強力に援護できた。
虎御前山は低い山であったが、要塞化しており、ある程度の籠城には耐えることができ、また、南東に位置する横山城からそれを援護する体制も作っていた。一時的に手薄になることはあっても、織田はこの付近で、浅井に対しては圧倒的に優勢であった。
もし今川が出てきた場合、敵中に孤立し、援兵も困難な中島砦とは、同列には論じられない。
971人間七七四年:2009/07/10(金) 20:28:57 ID:5vMSl6p7
次スレではこいつの投稿禁止をテンプレに入れるべき
972人間七七四年:2009/07/10(金) 20:30:52 ID:7h3jYuYG
>あの墨俣一夜城より困難。

ギャハハハハハハハハハハハハ
お子ちゃま向けの絵本の創作をそのまま信じてるの?
一遍死ねよ!!!!!!
973人間七七四年:2009/07/10(金) 20:35:52 ID:vwyjPiCf
>>967 あんたの言うまともな議論とは、他人がお膳立てしなければできないものなのか。そんなのは議論でも何でもない、私の語彙では馬鹿のたわごとという。
>>969 じぶんのブログで、ってこういうのを馬鹿の一つ覚えという。
974人間七七四年:2009/07/10(金) 20:40:08 ID:5vMSl6p7
>>973
あなたさまの御高説は大変難度が高く、
わたしたちでは理解が及び兼ねますので、
どうか単独スレを立ててそちらでしては頂けないでしょうか?
975人間七七四年:2009/07/10(金) 20:44:29 ID:OWTj4Ptz
>>973
>こういうのを馬鹿の一つ覚えという。

それ、そのままお返ししますわ。
馬鹿の一つ覚えのように、電波を繰り返しカキコしてるアンタにね。
妄想&仮想戦記スレとちゃうで、ここ。
976人間七七四年:2009/07/10(金) 20:51:16 ID:7h3jYuYG
それにしても今時小学生でも墨俣一夜城なんか信じてる奴はおらんぞ
さっきから笑い涙が止まらんわ
977人間七七四年:2009/07/10(金) 21:17:18 ID:EikhDM2J
鳴海は「公記」によると「南は川・海、東は谷続き、西は深田、北東は山続き」だから、善照寺から(鳴海の)東の谷を回って南東の川向いに砦を作られたら手を出しにくいんじゃね?
それに砦にだってレベルが自ずからあるだろうに一概に不可能というのは乱暴すぎる。
そもそも織田と今川の間にあなたが言うようにどのようなものであれなんらかの同盟関係にあったなら、砦を築くのはそう難しいことではあるまい。
その後、信長がさらに丸根・大高に砦を築き敵対する様子を見せたので義元は西進したということだったのかもしれないという論の展開はありかな?
978人間七七四年:2009/07/11(土) 02:14:24 ID:bmhOM/pi
>>977 周辺の地形はともかく、東海道は中島を通過後北西に向かい鳴海へ至る。この間はほぼ直線で平坦。現在は家が立て込んでいるが当時はそうではなかったはずで、城から中島は目視できた。隠密理に建設を始めたとしても、鳴海から中島攻撃に向かうのは、極めて容易。
ふつうなれば自分の家の玄関の前に、砦を作っているのを見過ごすわけがない。
公記によれば1555年の段階で、「知多郡は駿河より乱入」の有様で、その後、回復するための軍事行動があったとも思えない。もし知多郡が今川支配下ならば、鷲津、丸根は敵中に突出した危険きわまりない砦になる。
今川の了解の下で、知多郡への連絡用に作った砦、と考えているのだが、まだ考慮の必要を感じている。
979人間七七四年:2009/07/11(土) 02:19:16 ID:tmEbwcfF
だからじゃあなんで桶狭間合戦で丸根と鷲津の砦は攻め落とされたのかと小一時間(ry
980人間七七四年:2009/07/11(土) 02:20:30 ID:bmhOM/pi
>>971 先生に言って禁止してもらうもんね、ってオマエ小学生か。よいこは早く寝ましょうね。
>>975 自分のブログでやれ、妄想、仮想戦記、馬鹿の三つ覚えに訂正。
>>976 おとぎ話より難しい、といったら、おとぎ話を信じていることになるのか。周囲に人はいないだろうな、アブナイ人と思われるぞ。
981人間七七四年:2009/07/11(土) 02:50:16 ID:qhnAUzT1
>>980
>妄想、仮想戦記、馬鹿の三つ覚えに訂正。

『珍論』も入れてよw
あと、コテをつけろよ…あぼ〜んしたいから。
IDだと日で変わるからさ。正直、迷惑してるんだ。

>おとぎ話より難しい、といったら、おとぎ話を信じていることになるのか。周囲に人はいないだろうな、アブナイ人と思われるぞ。

いや、俺もアンタが墨俣一夜城を信じてると受け取ったよw
妄想癖が強そうだしw 頭の薬は忘れず服用しろなwww
982人間七七四年:2009/07/11(土) 03:00:36 ID:WYg7je6b
>>979 丸根、鷲津の戦いは、丸根砦側から松平軍に対してしかけられた。砦から打って出て、襲いかかったという。(三河物語)
もし、籠城戦ならば、小規模な砦とはいえ数時間の攻防では落ちなかっただろう。
松平軍は兵糧を運んでいたから、事を構えず大高城に入城できればそれに越したことはない。好きこのんで砦を攻めるとは思えないから事実だろう。
983奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/07/11(土) 07:53:43 ID:47hzQ2+6
最近は読みづらい書き込みが流行りなのかね。

昭和30年代の緑区鳥瞰写真を鳴海商工会で見たことがあるが、
桶狭間団地に切り崩される以前のものなので結構地形が残っていて参考にできるかも。
984人間七七四年:2009/07/12(日) 01:38:54 ID:aVt54MnL
岡部元信という人物がいる。桶狭間の戦いの際、鳴海城を守っていた。本によると義元討ち死に後、今川軍が総退却した後も城にとどまり、織田と交渉してその首をもらいうけて悠々と引き揚げ、帰路織田方の城を攻め落として帰還した勇者だそうだ。
でもこれっておかしくないか。義元討ち死にの責任を問えば、A級戦犯になるのがこの岡部だ。桶狭間に向かう織田信長は、鳴海城の北を回って善照寺砦に向かっている。この動きは鳴海城から目視できるはずで、なぜそれに対して動かなかったのか分からない。
この時鳴海城から兵を動かして、善照寺砦を総攻撃していれば信長をそこで打ち取ることもできたはずだ。さらに中島砦に信長が移動するときにもチャンスがあったはずだし、移動を終えた後でも中島砦に圧力をかけ続ければ、事態は随分違っただろう。
肝心の時に無能では、いくら戦いの後の処理が見事でも意味がないだろう。
985人間七七四年:2009/07/12(日) 02:15:19 ID:S5q+0l6+
>>984
城の守備が目的なのに
城出て総攻撃して城奪われたらどうすんだ?

城守りつつ自力で砦に攻めかかって勝てるぐらいだったら
そもそも義元の出兵の必要すらないだろ
986人間七七四年:2009/07/12(日) 02:32:28 ID:sb+IArNo
>>985 持久戦の最中ならその通りだ。でもこのときは今川本軍がすぐ近くまで接近している。この先、城を長期間維持することは考えなくてもよい。
今川義元が鳴海城に入城すればいいんだから。門番が敵と味方の識別を誤りさえしなければ、この付近にいた織田軍の数で鳴海城を落とすのは不可能。
信長を、善照寺砦にくぎ付けにすればそれで目的達成。あとは今川本軍の到着を待って、信長を降伏に追い込めばよかった。
987人間七七四年:2009/07/12(日) 02:41:51 ID:TSZra7pF
今川家の軍法で独断で動いたら軍功を挙げても罰せられるから
動くなら本陣に伺いをたてなくてはならないから動けなかった。
988人間七七四年:2009/07/12(日) 04:08:26 ID:AWWmf0k/
今川方の各武将より、織田軍の接近を許した義元に判断の誤りがあると思う。
相手が寡兵と見て油断したのだろうか? 織田軍接近は見えてたと思うのだが。
989人間七七四年:2009/07/12(日) 04:36:22 ID:4HlFA9M/
>>987 確かに、信長を討ち取るまで行ってしまえば行き過ぎだが、善照寺砦攻撃ぐらいならできたはず。
この数年前、尾張 品野(科野)城(現瀬戸市)では城方が反撃して、尾張方が作った付け城を落とし、勝利している。
990人間七七四年:2009/07/12(日) 08:57:39 ID:WgizH97B
また本論からズレて何の妄想開陳かね?
991人間七七四年:2009/07/12(日) 09:29:38 ID:nz8TsOnB
>>957の論を借りるならば、今川に尾張平定を後押ししてもらって、その見返りに上洛を協力した、ってんなら、例え岡部が発見したとしても通報する必要は無いよな、「味方」なんだから。


まあ、目視できる状態に無かったと考えることは出来ないんだろうかね。
992人間七七四年:2009/07/12(日) 09:57:46 ID:4O5XksDw
鳴海は地形的・経歴的に見て軍を動かしづらくよって守りには適してるが軍を出しづらいっぽい。
また桶狭間で信長が動かした兵が少なかったのは鳴海包囲に回した兵が意外と多かったせいではないか?
よって無理に包囲網を撃破しようとせず、今川本隊の救援を待った方が賢いと判断した。
というのは推測に推測を重ねたものだが、蓋然性はそれほど低くないんじゃないかなあと思ってる。
993人間七七四年:2009/07/12(日) 18:24:10 ID:gJKDELrC
>>991 この時代の城の重要な任務は、街道の監視。直接見えない場合には、出丸を設けて視界にいれるようにしているはず。
末盛城の近くに住んでいるんだが、付近にここが街道の監視ポイントに違いないという場所が、何か所かある。連携を保ちながら監視にあたっていたようだ。宅地になっていて、具体的証拠はないんだが。
>>992 鳴海城から兵を出しづらかった、ということはないと思う。なにしろ東海道が城のすぐ下を通っているんだから。ただ、それだけに織田方としても中島砦の北に防御のポイントは絞れる。
必ずそこからやってくる、と分かっているんだから。
それにしても、柴田、丹羽、佐久間、など、後に活躍する織田家の重臣の名が桶狭間の戦いに現れないのは何故なんだろう。
994人間七七四年:2009/07/13(月) 05:41:54 ID:HB40pobc
その頃まだ重臣ではないから目立ってないだけでしょ
そんな武将の名が出てくるほうが創作臭い
995人間七七四年
鷲津砦:織田秀敏
丸根砦:佐久間盛重
中島砦:佐々隼人
善照寺砦:佐久間信盛

て書いてあった
林はたしか名古屋城の防衛
柴田は美濃方面の防衛というのをどこかで見た