桶狭間の合戦の真実について その2

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1人間七七四年
桶狭間の合戦の真実について
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149962872/
2中山鹿之助 ◆.Ooo.qq.q. :2008/04/09(水) 05:12:46 ID:3i+zmUUm
 中 中
(・山・)
3人間七七四年:2008/04/09(水) 09:50:37 ID:wNG5fk65
はじめましてO・K・ハザマです。
4人間七七四年:2008/04/10(木) 00:20:14 ID:7dH6ORyh
奇襲
5毛利新介:2008/04/10(木) 02:05:10 ID:RC43c4hN
首より情報の時代
6人間七七四年:2008/04/11(金) 00:42:40 ID:kJ1OYOdG
やった復活だ〜
また現地の人の話ききたいなあ
7人間七七四年:2008/04/11(金) 08:04:09 ID:TYg8oTEL
桶狭間…見事なくらいに周りに住宅が建ちならんでてガッカリした
8人間七七四年:2008/04/11(金) 14:02:42 ID:6TlIznPW
地形はまだ残ってるさ
9奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM :2008/04/12(土) 12:36:06 ID:CzUSUwQY
また現地レポでもやろうかな。
10人間七七四年:2008/04/13(日) 05:27:54 ID:UJccw+8G
関ヶ原なんて新幹線通ってるし
11人間七七四年:2008/04/15(火) 18:43:29 ID:sQCSa/P/
12人間七七四年:2008/04/24(木) 17:37:09 ID:PBmqu1AY
13人間七七四年:2008/04/24(木) 22:13:26 ID:LUKShuTI
桶狭間の戦い

源義経と楠木正成が知略を尽くして戦ったアレか・・・
14人間七七四年:2008/04/25(金) 11:58:16 ID:5YE51tLU
桶狭間の戦い

今川兵300vs織田兵2000で正面攻撃。
織田の圧勝。

以上。
15人間七七四年:2008/04/26(土) 18:05:32 ID:0sYdAE6W
今川が地元の百姓達の貢物をよろこんであんな谷底のような狭間に陣を開いて裸踊りなんかしてるから織田信長に奇襲されるのだ。
16奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM :2008/04/26(土) 19:56:16 ID:Gew6jVAp
桶が谷底ってどういう見解だそれ。
17人間七七四年:2008/04/26(土) 20:06:01 ID:0sYdAE6W
小学生用の織田信長伝記の挿絵を見たのだ。
しょうがなかった。
18奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/04/26(土) 20:24:56 ID:Gew6jVAp
納得。
19人間七七四年:2008/04/26(土) 20:40:09 ID:0sYdAE6W
しかし有松町桶狭間三丁目にある桶狭間古戦場公園の地名として広坪というが旧地名は田楽坪という。
現地人によると公園から西方面全体に昭和時代の最後付近まで泥田が残っていたというから驚いた。
この公園から西へ行くと今川諸将が布陣した高根、巻山などがある。
公園から東へ100〜150m行った辺りの丘陵頂が今川本陣跡と推察する。
20奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/04/26(土) 21:08:18 ID:Gew6jVAp
公園のすぐ脇に今川本陣跡の看板立ってるけどね。
21人間七七四年:2008/04/27(日) 20:33:52 ID:+dCecgl+
近くのお寺に今川義元の木像があるね(教科書で見たやつ)感動した。ガラス格子から少しだけしか見えないけど。
このお寺でクビ実験したらしいね。かつてここで信長と幕僚達がいたと思うと身震した。
22奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/04/27(日) 20:53:03 ID:9wezbneb
桶狭間愛昇殿ですべて台無しだったりするけどね・・・orz
23人間七七四年:2008/05/04(日) 11:02:08 ID:ylHADNjW
桶狭間で大雨が降らなかったら信長は包囲殲滅されていたのでしょうか?
24人間七七四年:2008/05/04(日) 11:05:04 ID:boYdroEZ
>>23
別に雨は関係ないだろ?
25人間七七四年:2008/05/04(日) 11:42:19 ID:0AicJs/D
>>23>>24
包囲殲滅はされない。
信長に気が付いても信長より早く義元本隊には辿りつけない。
それよりも隊列乱して雨宿りとか、甲冑脱いで一休みとか、
そっちのほうに雨のご利益が。
26人間七七四年:2008/05/04(日) 11:57:01 ID:boYdroEZ
>>25
信長は善照寺から中島砦へ移る際に「道は進みづらく今川勢から丸見え」と反対する家老衆を押し切って移動してる。
つまり今川本陣からは信長勢は丸見え。
で、その後に信長は山際に軍勢を寄せるわけだが、にわかに強風をともなった大雨に襲われる。
しかし、山上の今川勢に襲い掛かるのは雨風が収まってから。
大雨がこの戦いに大きな影響を及ぼしたとはとても思えない。

ちなみに信長が善照寺に着いた時に佐々と千秋が今川勢に襲い掛かるが撃退されてる。
これを見た義元は謡をうたい陣を据えたそうだ。
この戦いがあるから、中島砦に移った小数であることがわかりきってる織田勢が思い切って自陣に攻めてくるわけがないという思い込みからくる油断めいたものはあったかもという気はする。
27人間七七四年:2008/05/04(日) 12:56:40 ID:ylHADNjW
今川軍は前方から攻めて来る信長勢を撃退する能力はあったけど風雨による自然障害途中、猛進してきた織田軍によって不覚を取った、そういう理由で負けたと考えてよろしい訳で。
28人間七七四年:2008/05/04(日) 13:36:13 ID:boYdroEZ
>>27
信長が攻めかかったのは雨が上がってからだが、その様子を見て今川勢は慌てふためき崩れたったと『信長公記』とあるから雨後の処理に今川勢が織田勢より兵数が多い分、手間取ったということはあるかもね。
29人間七七四年:2008/05/05(月) 00:35:51 ID:w0O5hIBL
雨は信長軍の背中側から降り、今川軍は顔面に雨を受けるとなると雨が上がって少しの間は織田軍を捕捉するのが困難だったのかなぁ?
雷雨の場合の陣では槍などの高い物体は落雷の危険性があるから横にでも伏せていたのかなぁ?
あ、桶狭間戦は雷雨じゃないね、ごめん。
30人間七七四年:2008/05/09(金) 16:41:53 ID:0gzmmOyJ
1.今川の目的は上洛ではなく鳴海城救援だった。
2.信長の義元本陣に対する迂回急襲はなかった。
3.織田勢と今川勢の比率が1対20(2,000対45,000)は過大。

これが基本線ということでいいのかな?
31奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/05/10(土) 00:03:20 ID:/ndQNMus
>>30
3には全面的に賛成。
32人間七七四年:2008/05/10(土) 12:26:11 ID:Q1kUKD9u
>>30
1.鳴海と大高を確保して、三河・尾張国境を完全に制圧するという説も。
2.文句無し。
3.文句無し。今川の石高から言えば25、000も怪しい。
  
2、に対して文句無しというのは信長公記で進軍ルートが明記されているから。
  (かつての帝国陸軍参謀本部が勝手に奇襲説を作り、当時の学者は反論を許されず
   定説として広まるという不幸な出来事が)
ただし信長公記で今川45,000などと書いてあるから正面攻撃を疑われたりするんだよね。
33人間七七四年:2008/05/10(土) 15:41:28 ID:ZBq5SD0c
勝手に奇襲説を作り上げたのではなく、小瀬哺庵の信長記を基本にしたから
哺庵信長記の記述通りにやって判定した結果、織田勢は惨敗に・・・

つか当時の学者の反論なんてのはなかった、そこまで史学が発達してなかったから
34人間七七四年:2008/05/24(土) 08:37:42 ID:rgl0mVVw
一万石250人ってのは
武田騎馬軍団 対 織田三段撃ちとかを史実とした日本陸軍が出した数字なので
絶対的に信用するのはどうかと思う。

しかも、1,2年に渡って諸役を免除して
大動員の体勢を作っていることから
通常の動員能力よりは多くの動員があったと見られる。
35人間七七四年:2008/05/31(土) 16:28:16 ID:9TF12dOu
松平清康の守山崩れも、実は上洛戦です。

三河の大軍1万を率いて、信秀、斉藤をぼこるために、守山に出陣したが、
刺客に討たれた。

36奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/05/31(土) 23:08:25 ID:Sn2/jByv
どうやって清康が一万も動員できたのか教えて。
37人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 07:19:08 ID:HRJZNE22
>>34
上杉征伐の兵力動員を見る限り1万につき250はある程度の目安になるかと。
38人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 02:20:24 ID:vTPW34zH
遠征時250て意外と間違ってなさそうなんだよな、例外はもちろん多いけど
39人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 02:59:50 ID:Y7gCx6O3
石高から推測する動員数の例外だと、島原の乱の時の小倉藩が16万石で8000人動員したってのがあるな。
40人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 20:47:51 ID:yzKED0Me
それは結構無茶しているな
島原の時じゃ石高も兵力もそれなりに信用できるし
41人間七七四年:2008/07/22(火) 13:50:06 ID:rGOe+y/T
桶狭間ってのは、信長の楽勝だったのを、太田牛一が、劇的な勝利に脚色したものです。

尾張は60万石ありますんで、今川の70万石と互角です。

今川の4万5千というのは、根こそぎ動員と、尾張国境の反信長勢力を今川方とカウントしている。

戦場にいたのは、実数1万5千くらいで、しかも分散していた。

信長のつくった囮の砦攻略のために。

織田の2千とか5千って、本隊だけです。

島津といっしょですよ。
42人間七七四年:2008/07/23(水) 00:11:37 ID:as4QLRaL
牛ちゃんはあの時代100近くまで生きたもんです。
43人間七七四年:2008/07/23(水) 00:50:20 ID:UkSh1S9a
実際は今川歩兵中心三千、織田騎馬中心二千五百のほぼ正面衝突でしょ。
そこで地の利もあって織田が圧勝した。
今川本体約五千の前後の兵はほとんど機能できず、また荷台隊も多かった。
44人間七七四年:2008/07/23(水) 02:41:45 ID:2uukF51T
牛一が何歳まで生きようと従軍当時真相を知りうる立場じゃないから、
どこまで一次史料として信用できるのか不明。
45人間七七四年:2008/07/23(水) 03:51:07 ID:as4QLRaL
44さん、確かに。
46人間七七四年:2008/07/23(水) 04:41:53 ID:zhvG4tZm
>>43
鉄砲は馬に強くて足軽に弱いのですね。わかります。
47人間七七四年:2008/07/23(水) 06:06:02 ID:JRNQHv+n
>>43を読んで
どう考えれば
>>46の言い分がうまれるのかがわからない。
48人間七七四年:2008/07/23(水) 16:38:29 ID:BPR5chXS
鉄砲や長槍、騎馬で重装備している織田の少数精鋭部隊が、

今川の寄せ集めの農民兵に、圧勝するの当然だろ。

大将の義元が討たれ、重臣多数討死。

幕末の長州の高杉の奇兵隊みたいなもんだろ。

秀吉や蜂須賀の陽動の遊軍(野武士)もいたわけだし。

相手が、少ないと勘違いして敵本陣まで攻め入ったら、敵に包囲されていた。

島津の釣り野伏せりといっしょ。

今川の内政すげーて、マンセーしている厨房、アホか?
今川の旧臣で、織田・豊臣・徳川に重用されてるヤツ皆無。井伊は違うからな。
49人間七七四年:2008/07/23(水) 21:41:34 ID:RKI2HukN
梅雨期の雨中、舗装されていない道を“掛け登る”?
本当か?
元自衛官として演習で同様な状況で長距離行軍してぬかるんだ斜面掛け登ったこ
とあるが、疲れきった体で泥に足は取られ体力をかなり消耗した

戦国期の足軽は携行するにはあまりに不安定に長い長槍を持ち、現代の歩兵より
重い装備を持ち、半長靴でもなく、鉄帽の下にプラスチック製のライナーもなく
手拭いで覆っただけで直接陣笠被って強襲

そんなことありえるだろうか?
時間は多少かかるかも知れないが、敵に気がつかれずに迂回して“掛け降りて”
奇襲する方が軍事的に見て妥当な気がする

第一、直接強襲説だと中山砦を突破した際、敵兵が四散したというが
必ず複数の兵が今川の本陣に逃げ帰り、異変を報じるはずだ
それを敗残した兵と今川側が見ない方がおかしい
直接強襲説のまま行くと必ず今川側は迎撃体勢を取ったはずである
50人間七七四年:2008/07/23(水) 22:34:00 ID:8u+vWR1x
「桶狭間の真実」とかいう本見てみ
51奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/07/23(水) 23:39:34 ID:uxre9SaL
現地も見に行ってくれ。
52人間七七四年:2008/07/24(木) 11:31:46 ID:Ert4C+j4
>大将の義元が討たれ、重臣多数討死。
と、書き込んでおいて、
>今川の旧臣で、織田・豊臣・徳川に重用されてるヤツ皆無。
と、辻褄の合わないことを書く奴。
死んだ武将を重用できるわけがないw
53人間七七四年:2008/07/24(木) 22:21:25 ID:BpxOOKr6
>>48
これは酷いwww

この時期まだ試行段階だし、そもそも携行していたのかどうかも怪しい。
最初から山岳戦をイメージしていたなら出来るだけ軽装だったはず。まだ
火縄カバーもないし。

>>49さんの話はすごく貴重。私も山登りは好きだが雨はきつい。まして道
なき道を数千規模が移動するなど無理じゃないかな・・・。
道三健在時にはどうしても美濃の山猿に勝てなかった尾張兵がそんな悪
天候の中果たして大軍の目を盗んで大将のところまでたどり着けるのか?

ということで、私の結論は、「だまし討ち」です。降伏すると見せかけて悪条
件の地に、歌舞音曲やら女やら上手いもんで釘付けにして置いて一気に
奇襲と、そんな感じ。
54人間七七四年:2008/07/26(土) 05:54:08 ID:hcCkzCE0
>>49
梅雨時の雨中+傾斜のあるあぜ道+個人装具の重量+裸足同然+疲れ切った体+駆け降りる


  ∧∧   )   ("
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡(⌒;
     ̄ ̄ (^(⌒;
   ズザーーーーーッ

  ∩∩
 〜|∪|     (""
 ヘノ ノ    (⌒("
((つ ノ⊃≡≡(⌒;≡
 ̄ ̄ ̄(⌒(⌒;
ズズズズズ
55人間七七四年:2008/07/26(土) 10:22:55 ID:RWfuY3+O
>>54
運動神経の鈍いやつはそうなるな
56人間七七四年:2008/07/26(土) 12:51:04 ID:rhXJUvz7
桶狭間山(明確な地名はないけど)は緩やかな丘っぽい。織田軍は国道一号線より北側の昔の道から大将ケ根あたりから武路、田楽坪を黙々と行軍したのではなかろうか。
駆け上るというのではなく黙々と行軍といった感じか。古い記憶だが俺もレンジャー訓練の時、駆け上って攻撃したはほとんどない。
57人間七七四年:2008/07/26(土) 14:38:05 ID:5QmBLNb7
>>47
>>43がなんの根拠も無く騎兵だの荷台隊だのとゲーム的な発想持ち出してきたからじゃね?
58人間七七四年:2008/07/26(土) 15:38:53 ID:RWfuY3+O
戦国時代の騎馬武者は戦闘時は通常下馬して戦ったと
小和田大先生がおっしゃってるぞ
59奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/07/26(土) 17:13:04 ID:OiwOcp6l
>>56
>武路、田楽坪
武路は山のテッペン、田楽坪は隘路。
大将ヶ根から向かうと小川を越えなければならない。
60人間七七四年:2008/07/26(土) 19:35:06 ID:rhXJUvz7
じゃあ、大高緑地から三丘陵を正面攻撃突破して桶狭間公園に推参!
61奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/07/26(土) 19:55:11 ID:OiwOcp6l
海の中を行軍せえと・・・
62人間七七四年:2008/07/26(土) 19:57:38 ID:49bQGEC8
いまいち当時の地形がわからないのだがわかりやすいサイトないでしょうか?
63奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/07/26(土) 20:24:56 ID:OiwOcp6l
サイトは知らんけど地名はかなりわかりやすいよ。


1・鳴海という地名で感じろ。
2・(上〜下)汐田や浦里がかつての海岸線だった。
3・星崎は岬だった。
4・鳴尾、上浜は海岸線が下がってできた土地。その奥の元塩町は塩田。

ソースは南・緑区役所と両図書館で呼んだ区史。
64人間七七四年:2008/07/27(日) 00:40:13 ID:FQ+tOZF2
どこのイタリア軍だよって感じなのか?>今川
65人間七七四年:2008/07/27(日) 02:39:39 ID:zdkNC+Zz
近代兵装で武装を固めても、槍と弓で武装した役場勤務の公務員に撃破されるのがヘタリアクオリティ
66人間七七四年:2008/07/27(日) 07:00:23 ID:5hdt9UVb
現地の看板に今川軍は東軍、織田軍は西軍と書かれてるのが新鮮だった。
67人間七七四年:2008/07/29(火) 20:20:25 ID:jQZ95Kw4
桶狭間合戦で信長の相手が武田信玄だったら桶狭間山に陣を布いただろうか。
68人間七七四年:2008/07/29(火) 21:06:04 ID:eB6X+5Nj
桶狭間山に陣を布いたね。
なぜなら、今川軍は東海道を進んできたからで、いったん道をそれて、
大高城攻めをしている。

大高城を本陣にして大軍を集結するには、道が細すぎるので、
主力が集結する本陣としては
東海道上の桶狭間山あたりに陣をかまえざるをえない。
69人間七七四年:2008/07/29(火) 21:24:18 ID:eB6X+5Nj
桶狭間で織田軍の勝利は、強烈な追い風と雨にあり、と思っているよ。
信長公記に、「味方には、背後から降り掛かり、敵の面(つら)に雨がかかる」
という意味の記述があり、背後からの強風で突撃しやすい状態になってた。
「空晴るるを見て」信長がかかれ、と号令した、という記述を、
雨がやんで(風もやんでか?)から攻撃を開始した、と、なぜか皆、解釈したがる。

夕立ちのときは、豪雨でも空の一部に晴れ間が見えることはよくあることで、
だから、「空晴るるを見て」は、「晴れ際に」と解釈するのが妥当。
つまり、強風も豪雨もまだ続いていて、それが止みそうになったので、
攻撃が開始された、わけよ。

この説の根拠として、この豪雨と強風を「熱田神宮のご加護か?」と兵たちが
言っているのが重大な証拠になる。

現場の兵たちは、この豪雨と強風を、有利に戦えるチャンスと思っているわけよ。
単なる有利じゃないよ。神憑かり的な有利なチャンスだ。(だから、ご加護か?と思ってる)
で、そのチャンスを、風も雨も止んで消滅するまで、信長が待っていたかっつーの。
消滅しないうちに、つまり雨も風も止まないうちに攻撃した、と解釈するのが自然な流れだろ。
ちなみに、風はダウンバースト状態だったらしく、大木が倒れるくらいだから
風速30mぐらいあったらしく、これでは風下側の今川軍はまともに戦うのは不可能で、
水をまくがごとく崩れて敗走するわな。
70人間七七四年:2008/07/29(火) 21:25:28 ID:jQZ95Kw4
で、信長に殺られると。
71人間七七四年:2008/07/29(火) 21:41:11 ID:eB6X+5Nj
んだ。
72人間七七四年:2008/07/29(火) 21:50:30 ID:4GyHuJ4Q
>>68
今川本陣って数千でしょ?
松平・朝比奈の数千の先陣勢は鳴海・鷲津を攻めた後大高城で休息してるから
別に大高に入ってもいいんじゃ。
73人間七七四年:2008/07/29(火) 22:04:21 ID:eB6X+5Nj
松平・朝比奈の「数千」の先陣勢に加えて、
今川本陣の「数千」の軍勢も、
大高城にさらに集結か?。

メインルートである東海道上に鳴海城があるから、主力は東海道上に置いて、
先陣の有力部隊だけ(家康ね)大高城に向かわせるというのが、無難な配置かと。

ただ、今川の本陣だけが、大高城に入って、というのは充分ありえる。
74人間七七四年:2008/07/29(火) 22:25:03 ID:jQZ95Kw4
>現場の兵たちは、この豪雨と強風を、有利に戦えるチャンスと思っているわけよ。

雑兵はそんな事まで考えちゃぁいねぇ。
75人間七七四年:2008/07/29(火) 22:36:38 ID:eB6X+5Nj
信長公記によると、その雑兵達が言ってたんだけど。
熱田神宮のご加護か?、ってね。

雨がやんで、晴天、無風になるまで、
待たせていたとしたら、雑兵達もぶちキレそうだ。
76人間七七四年:2008/07/30(水) 00:02:38 ID:3eAXNKSc
>熱田神宮のご加護

神から守られてるという感覚は上も下も誰でも思うだろ。
雑兵は指揮官の命令で動く消耗的存在。何も分からんし、立身の為の手柄あさりの野人に近い。

この戦いは突っ込んだら勝ちゃったって言う程度の合戦だろ。
77人間七七四年:2008/07/30(水) 14:03:52 ID:0kuNQbt6
今川の過去の兵力を見ると、25000とか45000は、ありえん。

15000が実数だろ?

雪斎、朝比奈、松平の3軍構成が、大将義元に変わっただけなので、

1部隊の最大見積もり兵力は5千くらい。

岡部が今川本隊敗走後、唯一残っていたが、単独で織田に攻撃かけれるほどの
兵力でないから、刈谷の水野攻撃して、撤退している。

岡崎の城代も撤退している。西尾の吉良・牧野が残存しているくらい。

弥富の服部は、熱田の住民に撃退されてる。熱田の住民が武装していることが
驚き。

野武士や町人など、織田は民間人の武装率が高い。
78人間七七四年:2008/07/30(水) 18:28:10 ID:QzdMrTXT
>>41
>桶狭間ってのは、信長の楽勝
楽勝とはとうていいいがたい。
>尾張は60万石ありますんで、今川の70万石と互角です
大嘘。当時、尾張の一部はまだ今川領。しかも相次ぐ内戦で尾張の兵力はごく少数。対し、今川は勝ち馬に乗りたいだけの連中も含めることが出来たので大兵力になったってだけ。
>今川の4万5千というのは、根こそぎ動員と、尾張国境の反信長勢力を今川方とカウントしている。
まさか戦国時代の兵が全部武士だとか思ってるのか?関が原は実質数千対数千だとか、上杉謙信が10万で北条の城落とせなかったのはその内が裏切り者やら役立たずやらで実質は謙信だけとか無茶なカウントしてるの?
あのな、兵力の内訳が色々あるのは当たり前なんだよ。そういうのをひっくるめて普通兵力って言うんだ。分散してたからとかその内の何割かは戦う気が無かったから実質兵数はこれだけとかあほか。
そんなこと言ったら今川だけじゃなく織田も、すべての大名家の兵力から全部おとしてかなくちゃいけないから結局割合あんまかわらねーぞ。ま、45000は牛一というより今川の喧伝ぽいけどな
>信長のつくった囮の砦攻略のために。
普通の作戦なんだが。大軍なんだからこれは効率から考えても当たり前。
>織田の2千とか5千って、本隊だけ
でもそのうち数百は囮部隊として今川方にぶつかってけちらされてる。
そして残りの数千も、信長単騎に後からついてきただけだから、実質信長は一人で今川45000を打ち破った・・なんてばかげた論法をお前はしてるんだがわかってる?
戦の兵数で「実質」という言葉ほど逆に怪しいものはない。
79人間七七四年:2008/07/30(水) 20:11:52 ID:vT4uKD0p
今川45000というのは誇大気味だが、少なくともそういう触れ込みで、
織田軍の首脳部も、そのくらいの大軍がキタ、と思っていたみたいだね。
80人間七七四年:2008/07/30(水) 21:15:58 ID:HHfClmxU
兵数の水増し宣伝は洋の東西を問わず昔から。
ただ、支那のように十倍以上に言ったり、当時の欧州のように軍の過半数が女子供って事は無いだろうけど。
81人間七七四年:2008/07/30(水) 21:36:37 ID:uqwn+HRo
>78

自身たっぷり。
82人間七七四年:2008/07/30(水) 21:59:09 ID:vT4uKD0p
今川軍が、15000としても、
対する織田軍はさらに少なく、2000前後か。

ここから見える今川の兵は、兵糧運んで疲れている、と、誤認したうえで、
勘違いしたまま突っ込んでいったら、勝ちゃったって言う合戦かな、やっぱり。
83人間七七四年:2008/07/30(水) 22:22:07 ID:SJ1ywRfF
まあ駿遠三+αで2万は動員可能。それに>>78の言うようににわか寄子も膨
れあがって、4万とかそういうプロバガンダになったんだろう。数字は嘘でも、
リアルな情勢としてはむしろ真実。

対する尾張は、当時の信長の実力的に動員可能数はやはり2000ぐらいだと
思うよ。

84奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/07/30(水) 22:36:04 ID:R966JQAl
>駿遠三+αで2万は動員可能。

三国同盟は鉄壁なんだな。
85人間七七四年:2008/07/30(水) 22:45:04 ID:qxPAP1XN
信長が清洲篭城策を採用せず、野戦に打って出た時点で、
義元の首は獲れずとも、一戦交えるだけで信長の勝ちって気もしなくもない。

少なくとも父の信秀は今川勢を一度押し返した実績があるわけで。
その辺の自信は当時の織田家に組した尾張兵にもあったはず。
86人間七七四年:2008/07/30(水) 23:05:44 ID:uqwn+HRo
78と83は同一人物。
87人間七七四年:2008/07/30(水) 23:31:34 ID:QzdMrTXT
>>86
とりあえず違うぞ
88人間七七四年:2008/07/31(木) 07:44:05 ID:2RVncKls
うん、違うよなw

IDくらい見ろよ。三戦板でIDなくてアレだからこっちで有りにしたのに。
89人間七七四年:2008/07/31(木) 18:47:40 ID:CE2cuxYf
いや、お前らは同一人物だ、間違いない
90人間七七四年:2008/07/31(木) 23:22:27 ID:xxcrpLLV
>>83
信長は1559年の時点で尾張の反対勢力をあらかた抑え込んでるんだけど。
実力的に、なら2000は少なすぎると思うけど。
91人間七七四年:2008/07/31(木) 23:36:50 ID:Kkctdx/H
道三もビックリの長槍を持てたのが2千人なんじゃないかな
92人間七七四年:2008/07/31(木) 23:37:48 ID:aB9CxPIp
押さえ込んでる=すぐ動員できる、わけじゃないわな。それに国内で乱戦が続いて疲弊しきってた。
事実、桶狭間後の斉藤家との戦いでの兵力もそこまでたいした数じゃない。
とはいえ2千というのは本隊の数だけではないかとも思う。
囮の数百の兵や、北の斉藤家への備えを省いてる可能性がある。
93人間七七四年:2008/08/02(土) 04:04:35 ID:o8wgP6ib
今川全軍2万程度で
各砦の抑えに兵を分散させていた
本陣は3千程度
織田が5千程度の兵で今川本陣隊を
数でごり押ししたってとこだな
当然、今川は影武者とか用意してて
各部隊に伏せて、どれが本陣かかく乱していたと妄想するw
混乱時に大将を的確に討つなんて
数で勝って圧倒的有利な立場じゃないと無理だろ
まして奇襲じゃ

桶狭間の経緯は織田が反攻に出ていて鳴海城が窮地だった
この戦いは織田家に対する今川の反攻戦
こう考えると
今川は織田を舐めていなくて
ガチの局地戦を挑んでいたと考える

94人間七七四年:2008/08/02(土) 07:44:54 ID:QGaIFYU2
普通に考えればそうだろうな。
周囲にもすわ上京か?などと喧伝して大軍を徴発しておいて、結果が砦三つとか
じゃ笑い者にされるw

それにしても、あのような狭隘な地形で5千をどう動かしたのかが難しいね。
分散して本陣を開けるように動かしたとしても、なんで簡単に本陣突入を食らったのか。
俺はしつこいようだが信長自身が白旗あげて和平交渉に望むと見せかけて、酒や料理で
釘付けにして置いてのだまし討ちだった気がする。
でもって、戦後そんなこと恥ずかしくて言えないから今川の方は封印、織田の方も武力で
破った話だけを情報統制した。

でなければ、4万が2万であってもあっさり大将首となるのが理解しがたい。
95人間七七四年:2008/08/02(土) 17:44:01 ID:bGLNuFp/
また自演か・・・
96人間七七四年:2008/08/02(土) 19:04:25 ID:Nw+jUYxu
>>94
自分はアンチ織田だがおまいさんがそこまで断言できる文献を是非教えてほしいんだが。
97人間七七四年:2008/08/02(土) 22:44:07 ID:8WteunoK
>>95
自演って何さ。一人認定はよくない。
98人間七七四年:2008/08/02(土) 23:07:12 ID:M0EqyMk3
>>94
>あのような狭隘な地形で5千をどう動かしたのかが難しいね。分散して本陣を開けるように動かしたとしても、なんで簡単に本陣突入を食らったのか。

信長方も当初、いきなり全軍をつれて今川に突っ込んだのではなく、最初は信長一人、途中で追いついてきて数百、
更に途中で変化、というような数を捕らえにくい動き方しながら突っ込んでる。

その少し前に数百の部隊を囮に使い、今川前衛部隊を撹乱してるがそれが効いたんじゃないか
9994:2008/08/03(日) 06:04:45 ID:bS3UvpMO
自演じゃないよ

>>98
ふむ。それもよく言われるが、いつも出される疑問も、そこなんだよね。
そんな突発的・偶発的な動き方を意図的に作り出せるものかどうか。
少なくとも非常警戒態勢でいつでも出動・集結できる臨戦状態でなければ
いけないし、桶狭間に敵がいる、そこに大雨・・・ってだけで突発的に動いた
のがあり得ないと思う。
100人間七七四年:2008/08/03(日) 09:17:53 ID:JqO13LDQ
昔自○隊にいたけど、千人単位の軍勢を突発的に動かすのはまず無理。
どこの誰を攻撃するという目的がハッキリしてないと軍は動きようがないから。
しかし無線技術がないのに当時の主将や部将の用兵技術は素晴らしいものがあると思う。

瀬名氏俊という今川先発隊長が計画した桶狭間合戦時の布陣状況を見ると大池なる水の手を確保し、
大将は高地、前方の山に前衛とキチンと兵を配置している。
明治の陸軍が測量した桶狭間の地形図をみると推定義元陣地と前衛との距離は200〜300m位。
田楽坪近辺の深田の存在も確認できる。主陣地〜前衛までの間には三本程度の農道が存在していが、ここを織田軍に寸断されると偉い事になる。
101奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/03(日) 09:32:01 ID:NLVUwL30
北側に瀬名陣、東にセト山、南に大池があるのだから、織田勢は西側からしか攻められない。
102人間七七四年:2008/08/03(日) 11:29:56 ID:xYUf8Pu8
国道一号線を東に行くと桶狭間あたりからやたら渋滞するのは義元の呪い。
103人間七七四年:2008/08/03(日) 11:47:20 ID:JqO13LDQ
西から攻める、中央をごうそするとなると攻者三倍原則が不成立になるから織田は玉砕、信長は死亡。
織田主隊が1500あるいは2000として今川前衛、主将護衛は合わせて500から700程度ならば話は別。
織田砦攻城隊に大部分を割いたとしてもこの合戦は圧倒的に今川軍が有利。
信長は地豪族と組んで地理を明るくし鎌倉往還を利用して北側から丘陵を行軍し田楽坪に到達、今川本陣と前衛の交通路を遮断したとしか考えられん。


104奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/03(日) 11:55:02 ID:NLVUwL30
>>102
あそこだけ対面通行なのが呪いだな。
105奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/03(日) 11:58:02 ID:NLVUwL30
>>103
往還から向かったら本陣に辿り付く前に消耗しまくるだろ。」
106人間七七四年:2008/08/03(日) 14:33:48 ID:6VeVCVOV
>>99
信長の発言からして、「本隊の場所が確実に分かっていたから」「大雨だから」突っ込んだわけじゃないだろう。そもそもその時期は梅雨の時期で、雨が降るのは両軍予想していたこと。
突っ込む直前も、信長は兵士達に「敵の部隊は戦い続けで疲れているから俺らのほうが有利」という旨の発言をしている。しかし実際は疲れなどあまりない義元の部隊だった。
もちろん、兵士達に気合いれるだけの方便だった可能性もあるが。その直前の熱田でのお参りなんかとつながる一連のパフォーマンス、鼓舞みたいなもの。

それに、そもそも突っ込むかどうかをその場で決めた節がある。本隊の間近にきたとき、多少の躊躇・・というか観察してるのが伺えるし。
雨が一時的におさまってから突っ込んでいるが、奇襲の意味で言えば雨が振ってる最中の方が敵は驚くのではないだろうか。もちろん、単に物理的に難しかったから、というだけかもしれないが。
信長は敵の前衛ではなく、敵の後方主力部隊にぶつかって退ける、ぐらいに考えていたのが当初の作戦だったのではないだろうか。
地形上、作戦上においても、ある程度敵がいくつかの部隊で別れて攻撃してくることは想定しただろうし、実際に今川全軍とぶつかった場合、前衛よりかは敵の後方を叩いて混乱させ、一時でも撤退させる、というのが現実的な作戦なのではないだろうか。
ひっそりと近づいた、というのも事実だろう。信長は旗も兵も隠しに隠し、数を悟られぬように気を使いながら近づいている。

そしてここで強く言っておきたいのだが、尾張兵、少なくとも信長の率いていた部隊の兵は、俗説のような弱兵ではなかったということだ。
尾張内部では倍以上の敵を倒し、戦に戦を重ね、しかも少数であるがゆえに信長に細かく指示、統率された部隊は精鋭中の精鋭であり、その兵を率いているからこそ信長は相手が同数以上でも勝てる、というような突撃をしたのではないだろうか。
また、突撃の仕方が良い。普通、戦というのは手柄が何より大事なので敵の首やら耳やらをみんなとっていくものだが、この時の信長は「首は打ち捨てにせよ」と言っている。つまり、殺すだけでとにかく敵を攻撃し、「崩す」ことを念頭においている。
本当に当初から義元の首しか考えてなかったというのなら、多分こんなことは言わないのではないだろうか。

結論として、信長の戦略は前衛部隊を前線に釘付けしながら、自分は横から敵後方を霍乱し、崩して撤退させる、だったと思う。
「戦術なんてものは日頃から考えておくもの」と大笑いしたという信長のエピソードがあるが、やっぱり信長は桶狭間での戦はある程度最初から想定していたものだったのだろうと思う。
農民自警団を組ませ、敵部隊の情報が通るようにしていたあたりから考えても、備えはしっかりしていたのではないだろうか。
「知恵の鏡もくもったか」と、桶狭間直前に、作戦を説明しない信長を柴田勝家がこう評したが、これはむしろ、「それまで信長は凄かったのに今回はどうしたんだ」というニュアンスだ。
桶狭間の幸運というのは雨が降ったなんてことではなく、撃退するだけのつもりが大将の首まで取れた、ということだろう。
勝ち馬に乗ってきただけの連中は、今川後方を叩かれるだけでやる気をなくすだろうし、残った今川の部隊とだけならその数のままぶつかってもまだ勝負になる。
107人間七七四年:2008/08/03(日) 16:05:44 ID:dK+VH1lQ
>>106
>尾張内部では倍以上の敵を倒し、戦に戦を重ね、
>しかも少数であるがゆえに信長に細かく指示、統率された部隊は精鋭中の精鋭であり

研究者の谷口克広さんは、「桶狭間はこうだった!」みたいな具体的な言明は避けてるが、
ただ、信長の馬廻りが優秀だったからではないだろうか、という予測は立ててるね。

実際、信長が近衛兵の育成に力を注いでいた節はいくらか見受けられる。
10894:2008/08/03(日) 19:42:44 ID:6ELJQjg/
>>106
なるほど、一応それで首獲った毛利義助の行賞がなかった理由にはなるのかな。
それは戦略になかった、とか。

俺が一番引っかかるのはこれ。なんで一発で展開が変わってしまう大将首獲った奴が
冷遇されたのか。

まあそれも持論の「謀略戦によるだまし討ち」説の傍証なんだがw
首実検したのか、義元の終焉の地はどこなのか?

>>100
当時は既にある程度東海道は整備されていたという説もある。
これがどの程度だったのかにより、布陣の様子も一変してしまうよね。

>三本程度の農道が存在していが、ここを織田軍に寸断されると偉い事になる。
「存在してい(た)」なのか「(る)」なのかわかりませんが(笑)、多分(た)でないと意味が
ないので、そう補足するとして、このあたりの地形が大湿地帯で、雨の多寡に関わらず
雨季には非常に不自由な土地であったことは間違いないでしょうね。確かに農道といえ
ども重要なルートだったんでしょう。ただ、大軍を展開するにあたって、そんな基本的な
ことを義元ともあろうお方が考えなかったはずがない・・・。
難しいね、全く。
109人間七七四年:2008/08/03(日) 21:35:55 ID:JqO13LDQ
桶狭間布陣は義元が考えた訳ではないと思う。布陣計画は瀬名でしょう、やはり。
会戦よりもっと前から瀬名藪という監視所跡を設け当日の着陣までの誘導を受け持っていた。
義元の目的はここで織田軍と決戦するわけではなかったからあくまでも休陣場所。

110人間七七四年:2008/08/05(火) 20:09:57 ID:TB0moVV3
自演だからぱったり止んだな。
111人間七七四年:2008/08/05(火) 20:17:24 ID:l/zwD+7h
自演・・?
そうか、俺は眠ってる間に自分のレスに自分でレスをつけてたのか。そうかそうか
112人間七七四年:2008/08/05(火) 21:20:32 ID:YHzq33TE
>>106 「知恵の鏡もくもったか」と、「それまで信長は凄かったのに
今回はどうしたんだ」というニュアンスだ。

なるほど、確かにそのような意味をいってるね。信長は凄い。信長公記に、
信長の側近の兵は(次男三男の?)凄腕を多数揃えていたので、
一度も戦いに負けたことがなかった、という記述があった。精鋭を揃えていた
ことは確実らしいぞ。

>>雨が一時的におさまってから突っ込んでいるが
これは間違い。今川側の記録として、三河物語に「車軸の雨がふりかかる」ところに
織田軍が攻め掛かってきたので、我も我もと敗走した、と記述してあるがな。
(車軸の雨というのは、大粒の雨。)

台風なみの暴風雨が、戦いの直前に「たまたま」発生して、
これを逆風の状態で戦うはめになった今川軍では、段々に軍勢を揃えていようが、
打ち負かされかねない。相手は、負け知らずの精鋭揃いだということなので、今川軍苦戦だな。

今、たまたま部家の外は風混じりの豪雨が降ってて、さっき露天風呂に
入ってきたところだが、向かい風の雨では目に雨が入ってしまい、まともに
行動できような状態じゃないよ。
113人間七七四年:2008/08/05(火) 21:36:47 ID:GTHGsJpK
>>110
いい加減自演認定やめろ、織田厨。うざいだけだ。
114人間七七四年:2008/08/05(火) 21:41:07 ID:TB0moVV3
しかしお前も自演。
115人間七七四年:2008/08/05(火) 21:43:41 ID:YHzq33TE
>>109 そうだね。桶狭間布陣は義元が考えたわけじゃなくて、
地理に明るい先陣部隊に決めさせるだろう。(だったら、家康かな…)

本陣の場所がわからなくて伝令が右往左往してしまわないように、
本陣がどこどこにある、という情報は指揮官レベルの人には周知させて
いたらしい。これは現代の軍隊でも同じ。

織田軍がその情報をとらえて本陣の場所を知った可能性もなくはないが、
「本陣はここぞ」と信長が言ったのは、戦いで突き進んでいる真っ最中になってから。
116人間七七四年:2008/08/05(火) 21:49:29 ID:GTHGsJpK
>>114
不満があるなら知識や理論で言え。
一時期さんざん自分達と違う意見の者を自演認定して総スカンされた
織田厨の悪癖はまだ直ってないようだな。
117人間七七四年:2008/08/05(火) 22:09:18 ID:TB0moVV3
あ、自演だ。
118人間七七四年:2008/08/05(火) 22:16:29 ID:GTHGsJpK
>>117
ここまでくると必死さが笑えるw
まずは同時間帯に違うIDが連続して出ている事を説明してみろよw
119たられば君:2008/08/05(火) 22:40:16 ID:Xpc+nGlS
つまんないからよそでやってよ
なんとか厨だとかスレに関係ないんだからさ
120人間七七四年:2008/08/05(火) 22:48:24 ID:TB0moVV3
いぱいいんたねともてるから
121人間七七四年:2008/08/06(水) 00:13:38 ID:DcoRMeFi
>>112
>これは間違い
間違い、と言い切るのはどうなのよ。
122人間七七四年:2008/08/06(水) 00:43:17 ID:NL52yTPT
桶狭間の戦い時の今川軍って殆どが補助部隊の非戦闘員だったんですね。

織田信長が正面から突撃したら殆どの兵隊が逃げ出したとか…
尾張の弱兵の織田軍が今川軍を破ったのも納得。
それを劇的な奇襲戦と信じこんで、織田ファンになる奴って可哀相だなw
12394:2008/08/06(水) 07:18:22 ID:1ylQg8uC
布陣は多分先手の瀬名だったんだろうな。謹慎中で単独行動の前田にも
かなりの犠牲を出したり、その後の行状見てもあまり名将とは言えない感じ。
本当に地形を知悉しているとは言い難いかも。
また、そんなのに布陣をまかせた義元も、なんかなあ。
まあ、大軍なのと連戦連勝だったから油断もあったかもしれないが、雨の予兆
がある梅雨時に、湿地帯に本陣を置くのかどうか。これも信じがたい。

謀略で義元を釘付けにして置いたから乱戦でも信長が本陣の場所をすぐに特定
できた、って説は、注目に値すると思うよ。丸根など諸陣地は意図的に見殺しにし、
陽動部隊の特攻と合わせて兵力の分散と油断を生み、更に戦勝祝いとして大量の
祝いの食べ物を偽装した蜂須賀に運ばせ、足止めする。
ここまではまだ兵力差から危険な博打でしかないが、最大の僥倖である豪雨が襲っ
たので、ある程度敵の布陣を知悉していた信長が精鋭を本陣の前面まで運ぶことが
出来た。今川の本陣がそんなに弱いはずはないが、不慣れな地形と油断、それに
豪雨によって一時的に戦闘能力を削がれた、そこへ突然敵大将の突撃。これは
たまらん。同じく本陣への突撃を受けた信玄が崩れなかったのとは条件が違いす
ぎる。

信長の方が、より勝つために小さな工夫を沢山積み重ね、そしてベストタイミングで
起こった雨を味方にして、勝った。雨が早すぎてもまた遅すぎても、積み重ねた謀略
の半分も機能しなかっただろう。
124人間七七四年:2008/08/06(水) 13:42:59 ID:NL52yTPT
桶狭間の戦いって今の山梨県内の天気ぐらい酷かったんじゃね?
今川義元は多分、落雷で死んでしまったんだよ。
125人間七七四年:2008/08/06(水) 21:32:37 ID:Xh2A6gND
>>121
間違い、と言い切るのは、雨が止んだとは
信長公記にも三河物語にも書いてないのと、
むしろ文面からは、降雨中のままであることを示しているのに、
「空晴るるを見て」の一句から
「雨が止んでから」とか「雨が止むのを待ってから」と拡大解釈しているからさ。
126人間七七四年:2008/08/06(水) 21:55:43 ID:Xh2A6gND
んじゃ、資料をば。

『三河物語』
義元ハ、其ヲバ知リ給ズシテ、弁当ヲツカハせ給ひて、ユク/\トシテ御給ひシ処に、車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に、永禄三年庚申五月十九日に、信長三千計にて切て懸ラせ給えば、我モ/\ト敗陣(軍)シケレバ

『信長公記』
山際まで御人数寄せられ候ところ、俄(にわか)に急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。見方(みかた)は後の方に降りかゝる。(中略)
空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。
127人間七七四年:2008/08/06(水) 22:06:17 ID:Xh2A6gND
ついでだけど、某HPによると、
義元は沓掛から、いったん大高城に入り、その後に、桶狭間の本陣に戻り、
そこで討たれた、という説があり、

その根拠は三河物語なんだけど、たまたまその文面を見つけた。

義元ハ地鯉鮒より段々に押て大高え行、棒山之取出ヲツク/\〃ト巡見シテ、諸大名ヲ寄て、良久敷評定ヲシテ、「サラバ責取。其儀ナラバ、元康責給え」ト有ケレバ、

棒山というのは丸根砦のこと。地形的に、本当に丸棒みたいな尖った山をしてる。
128奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/06(水) 23:31:58 ID:qMVC2PsQ
そういうときはHP貼ってくれよ。
129人間七七四年:2008/08/07(木) 00:04:56 ID:zW6sbkpD
130奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/07(木) 00:13:15 ID:LHIfR9Es
>>129
ありがとう。

沓掛にいて尾張を目指すなら鎌倉街道を通るのが自然だからねえ。
大高に入らないまでも救おうとするなら岡部がいる鳴海城に直接向かいそうなもんだ。
131人間七七四年:2008/08/07(木) 00:38:28 ID:zW6sbkpD
>>130
鎌倉街道を通るのが自然、というのは鋭い指摘。

東海道を延々とやってきた義元は、急に東海道をそれて北上して沓掛城に
入っている。鎌倉街道は東海道の旧道のようなので?、塗り輿は通れただろう。

そして、鎌倉街道を通って、善照寺砦を攻略して、鳴海城に入れば、
大高城の付け城は孤立して、無力化されると思う。

だが、わざわざ南下して、大高城救援に向かっているのだから、
大高城は兵糧の欠乏によって、緊急で助けないとヤバかったのだろう。
最初に兵糧米入れやってるし。
132人間七七四年:2008/08/07(木) 19:04:18 ID:x9gpvefq
>>125
>拡大解釈
いや、拡大解釈じゃないだろ。普通そう思うよ。雨がやんでいないにしても弱まったとか、雨は降ってるけど狐の嫁入り状態で、雲の切れ目にあたったとかさ。
大体「空晴るゝを御覧じ」突っ込んでるわけで、そうなれば当然突っ込む前兆やきっかけ、タイミングが良いなどの説明と受け取るのが自然。
ずっと変わらない降雨中だったら空晴るゝを御覧じ、なんて書くわけがない。
つまり雨量に変化があった、と捕らえるのが自然。仮により一層強くなったのならそう書けばすむ話なわけで、
となるとやはり控えめにいっても「視界が開けた」程度の意味はあるわけで、その状況が起こりうるとしたらやはり雨が弱まった、わずかな時間でも止んだ、と考えるのが自然では?
133人間七七四年:2008/08/07(木) 19:12:55 ID:zW6sbkpD
>>132
>雨がやんでいないにしても弱まったとか、
>雨は降ってるけど、雲の切れ目にあたったとかさ。

そのような話ならオッケー!。
「空晴るゝを」を、雨が止んで晴れてから、と解釈するのは気が障っただけ。

134人間七七四年:2008/08/07(木) 19:44:00 ID:zW6sbkpD
信長公記と同じくらい古い時期に書かれた「三河物語」だけど、
「空晴るゝを御覧じ」と「車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に」みたいに
違ったことが書かれているのが、大高城兵糧入れの順序。

信長公記
「五月十七日 今川義元沓懸へ参陣 十八日夜に入り 大高の城へ兵糧いれ、助けなき
様に 十九日朝、塩(汐)の満ち干を堪が(考)へ 取手(砦)を払ふべきの旨必定と相聞こえ
候ひし由」
17日に義元が沓懸へ参陣して、18日に大高の城へ兵糧いれて、19日に砦)を払ふべきの旨
と、解釈するのが普通だな。

三河物語
「元よりスゝム殿ナレバ、即押寄て責給ひケレバ、程無タマラズシテ、
作(佐久)間ハ切て出ケルガ、雲(運)モ尽キズヤ、打モラサレて落て行。
家の子郎従(党)共ヲバ悉打取。其時、松平善四郎(正親)殿・筧又蔵(正則)、
其外之衆モ打死ヲシタリ。其より大高之城に兵粮米多誉(籠)。」

砦を攻略して、其より大高之城に兵粮米をこめる、と書いてあって、兵粮米
を入れるのは後。戦術的にも、兵粮米入れは砦を払ってからの方が合理的だが…。

というわけで、信長公記は、
十八日夜に入り、
大高の城へ兵糧いれ助けなき様に十九日朝、塩(汐)の満ち干を堪が(考)へ
取手(砦)を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由

と解釈して、十八日夜に兵糧いれたんじゃなくて、
大高の城へ兵糧いれのため19日に満干を考へて砦を払ふべきの旨必定だと
十八日夜に報告があった、と、解釈する説が最近の歴史雑誌に載ってた。
これなら、三河物語と同じく、兵糧入れの順番が合う。

だが、信長公記で、そのあと2回も兵糧入れが先、との記述があって、
信長ががなった場面
「あの武者、宵に兵糧つかひて夜もすがら来り、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を
砕き、」
家康の休憩の場面
「今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。」

というわけで、牛一は、大高城への兵粮入れは、砦攻略よりも先、と考えていた
ことがわかる。
135人間七七四年:2008/08/09(土) 18:03:55 ID:sHgdrO/J
桶狭間の戦いで最前線にいた者として、前田利家がいる。

このときの事を何か言い残していれば(たとえば正面攻撃のルートとか)、
決定的な証拠になるのだが、国祖遺言などの書物にも桶狭間のことは何も
言ってないようだ。

秀吉はこの戦いにいなかったらしいが…。
信長公記を書いた太田牛一は、34才で弓の名手だったから参戦したらしい。
泥田の中に逃げた今川兵が水しぶきをあげてのたうっているのを、織田兵が追い付いて
首をとらえている様子などを書き残しているから、これは直接見たのかもしれない。

三河物語を書いた大久保なんとかは、この年は0才児だったから、あとで聞き書き。

総見記だの改正三河風土記などは、さらに後世に書かれているので、ここに
書かれている新事実は、新事実発見というよりは、創作くさい。
136奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/09(土) 18:53:25 ID:wO0tWsmt
パワーバランスを考えると、水野氏や知多勢の動向が語られないところが気になった。
137人間七七四年:2008/08/09(土) 19:20:24 ID:sHgdrO/J
前田利家は、桶狭間で首を3つもとっているのだから、
首を捕ったときの様子を記していれば良かったのに〜、まったくもう!。

水野氏や知多勢の動向といえば、信長公記の天理本ですよ。
他の信長公記と、一部、内容が違うのが特徴で、特に桶狭間のところは
とくに違いが目立つところで、
一つ書き(一、なんとかかんとか。一、なんとかかんとか。と書くやり方)
でなく、言い回しが違う。

水野氏や知多勢は、大高城すぐ南の付け城にいた。(天理本より)
水野氏は、今川(というか家康)に内通して、戦わなかったらしい。なにしろ
家康の実家だから。
138人間七七四年:2008/08/09(土) 19:27:05 ID:sHgdrO/J
母親の実家ね。
家康は、大高城の兵糧入れの直前に、こっそり母親に会いに行ってたらしい。

このとき母親は、水野氏のところに出戻って?いた模様。
139奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/09(土) 19:40:25 ID:wO0tWsmt
久松さんを今川使って配下に収めてるしなあ。
ある意味信元は甥っ子に翻弄されてるな。

あと他スレに誤爆してたのを再掲。
ユーストア横の古戦場跡に立って360度見渡す。
桶狭間住宅は沼地、ユーストアは竹林。セト山は草原。
幕山の麓が水田地帯。
140人間七七四年:2008/08/09(土) 19:43:00 ID:sHgdrO/J
水野氏や知多勢の動向といえば、藤井説が有名だったか?。
(HPあるが、省略)
その内容だけど、水野氏は織田軍に属していたが、今川軍侵攻によって
こっそり寝返り。だが桶狭間で今川義元討ち死によって、織田軍にまた寝返り。
信長の心証を悪くして、後年、切腹させられる。

大高城を包囲してた付け城は5つあったらしく(これは天理本以外の信長公記には書かれていない)
そのうち、鷲津、丸根は戦闘で陥落。
水野が守っていた砦は、不戦。
残り2つは、佐々と千秋が守っていたが、今川の大軍が来ると前々から
注進してたのに信長は清洲城で談笑してて無視されてて援軍も送ってくれず、
撤退の許可もしてくれなかったので、佐々と千秋は敵前を無断退却。

鷲津などを守っていた佐久間たちは、律儀に守って討ち死にしてしまって
いるわけで、中島砦前方に無断退却してきた佐々と千秋は、
背後の善照寺砦に信長がきたのを見ると、超・気まずくなったのか、
今川軍前衛に突撃して、戦死してしまった。信長は、佐久間たちだけでなく
佐々と千秋に対しても、「おめーらも死ね」と言わんばかりであった。(暗黙だが。)

で、今川軍が疲れたところを、信長が攻めてその場の勝利を得る計画だったらしい。


141人間七七四年:2008/08/09(土) 19:43:05 ID:cmwuDlxd
松平は織田に通じていて裏切ってたんじゃね
142奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/09(土) 19:59:36 ID:wO0tWsmt
尾張を今川勢が攻めると。
緑区までは抜けても南区以降、泥沼の消耗戦になることは本人たちも分かってるだろうからなあ。
信長の本当の地元は海部郡なんだから。
143人間七七四年:2008/08/09(土) 21:02:52 ID:K1xPKGOI
尾張全部が湿地帯と言ってもいい所だからね。
桶狭間一帯も湿地帯が多かったが、そこで奇襲されて大将が討ち取られるようじゃ、
その後の本格的な泥沼戦闘は勝ち抜けないw

なんでこんな時期を選んだんだろうね。マジ、信長など鎧袖一触で京都まで行く気満々
だったんか?
144人間七七四年:2008/08/09(土) 21:09:51 ID:sHgdrO/J
145奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/09(土) 21:12:34 ID:wO0tWsmt
>>144
酷い海岸線図だな。信長は海を突いて行軍したんかいな。
146人間七七四年:2008/08/09(土) 22:27:57 ID:TKVqe8hJ

桶狭間の戦いにおける「豪雨」の関連性は、史料に関係なく、
地元の人間にすると、違和感無く「有り得る話じゃ」と妙に説得力がある。

毎年だいたい同じ時期に、凄まじい落雷を伴った豪雨の存在を分かっていながら、
地下駐車場に止めていた、買って間もない我が愛車を水没させてしまった、
瑞穂区住人の俺にとっては尚の事。…それからずっと紫の名城線ですよ。
147奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/09(土) 22:38:59 ID:wO0tWsmt
武路に住んだ経験のあるオレからすれば、通説自体がギャグなんだよね。
148人間七七四年:2008/08/09(土) 22:55:14 ID:sHgdrO/J
>>145
酷い海岸線図、って指摘鋭いねえ。(なんですぐわかったんだろ)

満潮時だから、という説明もできないこともないが、指摘どうり、
もっと陸地は多かった、らしい。

この古地図(蓬左文庫)を参照。ただし、西が上になっているから御注意。
ttp://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/images/okehazamakozu.jpg

>>146 地元の情報サンキュー。毎年だいたい同じ時期に、とは興味深い。
149人間七七四年:2008/08/10(日) 08:58:56 ID:yy4/pSQp
>147
そういうお前もギャグだろ
150人間七七四年:2008/08/11(月) 05:32:20 ID:DwcpSWcg
音痴は自分が音痴だという自覚が無いから音痴なんだよ
仕方が無い
151人間七七四年:2008/08/12(火) 19:44:53 ID:K5BYaB0e
夏だなw
152人間七七四年:2008/08/15(金) 20:50:20 ID:cEyZeH9s
信長公記で、牛一は方角のことをよく書いているけど、
今日読んだNHKの本では、小和田教授が戦国末期にはすでに磁石が
使われていたんだそうだ。
桶狭間のときも、使っていたのかもしれないな。
153人間七七四年:2008/08/15(金) 21:21:33 ID:OqoPBPEW
>>152
忍の必需品に水に浮かべる磁石がある
戦国期にも使ってたかは分からんが
154人間七七四年:2008/08/15(金) 22:14:07 ID:qUM45mW7
実質的に家督を継いだ弟と重臣豪族の軍勢を打ち負かして、独裁体制を確立したから自由に軍を動かせたという説は本当?
155人間七七四年:2008/08/15(金) 22:39:46 ID:NLUorx8W
重臣のうち、林と柴田は城に篭った一方で
佐久間や佐々が討死にしてる所を見ると
かなりの強権はあったんだろうな。
156人間七七四年:2008/08/15(金) 23:49:37 ID:vp2qjtO9
157人間七七四年:2008/08/16(土) 21:33:07 ID:4tvijI4D
これ

丘の上に上がった今川本陣に落雷が落ちたのが
原因じゃないの?

その混乱しているところに
織田が正面突撃すりゃ
当時の庶民なら
「神が降ってきた」「何かのたたり」とかで
我先に逃げたのは言うまでもない。
158人間七七四年:2008/08/17(日) 01:00:55 ID:YBxxV55x
おしい、実は隕石落下
159人間七七四年:2008/08/17(日) 08:44:55 ID:41Sv3y9F
メテオか。メテオじゃ仕方ないな
160人間七七四年:2008/08/18(月) 00:05:10 ID:vmdmtFg3
>>157
これが一番真実に思えたりするw
161人間七七四年:2008/08/18(月) 00:18:29 ID:KPkjPSj6
じゃあTBSの織田信長の落雷は史実どおりか。
162人間七七四年:2008/08/19(火) 21:08:55 ID:IzxYphxU
いや違う、神軍の降臨があったんだよ。

熱田神宮の神の軍勢がやってきたのさ。

桶狭間の勝利の原因は、しっかり書かれてあるがな。
なぜ勝てたのか?って、「あまりのことに」と
もの凄い事態が起きた、ということが記されている。

163人間七七四年:2008/08/19(火) 21:19:53 ID:IzxYphxU
>>153
戦国期にも使ってたよ。
戦をするときに、陣の位置や、攻める方向を「占う」のに
どうしても方角を知る必要があった。
占いといっても非科学的というわけではなくて、当時としては
最先端の情報分析の技術だ。

例を挙げれば、
熱田神宮から鷲津丸根の陥落の煙をみたとき、
「東をご覧じて」とある。
これは実際には真東ではなく、東南で少しずれている。

でも、中島砦からは、東南に向かって攻め掛かっていて、これは
正確に方角を判定している。

他にも、長篠の戦いで、北東に向かって攻めたと、信長公記に記されている。
戦いを起こす直前には、ちゃんと方角を測っている証拠じゃねーの。
たとえ豪雨があろうが、梅雨時であろうが、方角を知っているのは
磁石を使って測り、すぐ側近の占い師?に吉凶を分析してもらったのだろう。
164人間七七四年:2008/08/20(水) 19:13:27 ID:n8bCzDI2
中島砦からは、「東」に向かって攻め掛かって、だったっけ?
165奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/21(木) 00:54:40 ID:kUJWmKjc
いいんじゃないか。微妙に南に偏るけど。
166人間七七四年:2008/08/21(木) 18:51:22 ID:y7Jo2K8T
信長公記と三河物語で、それぞれの場面をつなぎあわせてみる。

信長と義元、佐々らが戦った場所を同時に見るほどの近さにいる。

信長、前進して「あの武者ども」がいる山際まで接近する。
今川の前衛、「はやく帰らせたまえ」と幹部に退却を進言する

これからいよいよ戦闘開始!のところに、強烈な追い風と豪雨が発生する。
晴れ間が見える。信長「かかれ」という。
今川の陣は、車軸の雨が降り掛かってきたところ。

つまり、信長のいるあたりは晴れたが、
今川がいるあたりは雨が降りかかったところ。

しかも今川のいる東に向けて突風がふいていた。
信長、黒煙をあげて突撃。(雨の量は少なかった?)
義元、討ち死にする。
167人間七七四年:2008/08/21(木) 21:45:14 ID:XPdUsCni
>>166
これはもう神仏の加護があったとしか思えない、
……ような描写をしてるわけだ昔の人は。
168人間七七四年:2008/08/21(木) 22:00:45 ID:ZWyjXFi/
神が与えたようなチャンスで今川を破り
神が与えた偶然で本能寺に散った訳か?
169人間七七四年:2008/08/21(木) 22:09:11 ID:y7Jo2K8T
もう、まぐれ勝ちの極み。
170人間七七四年:2008/08/21(木) 22:15:45 ID:cCJtLPBT
むしろ現実的に起きたことを「天運」としてる感じだろ。そうした方が「神がかり」として神秘性を宣伝出来るから。
だからいつまで経っても勝因がはっきりしない。色々細工の後が見えるのに、そこをあんまり追わないで「運良く雨が降って」とか解説してるテレビとか多すぎ。
171人間七七四年:2008/08/22(金) 23:10:41 ID:ty0WMJiJ
ざっと、読んだけど、謀略説がちょろちょろ出てるのはうれしいな。
もちろん、雨の話は事実で、信長のほうがやんだ位に今川軍が土砂降りになった、そういう
ラッキな面もあっただろうけど、なんらかの謀略で本陣の位置を知っていた、というのが
重要ではないだろうか。
長篠みたいに一線に向かい合ったわけでなく、かなり断片的な布陣だったろうし、効率よく
攻撃できた、というのはあるだろう。
義元が「緩々」してたというのも、信長軍をナメてて油断してたであろう。
このあたりにも謀略のふいんきを感じる。

グーグルアースで桶狭間見ると、すぐ近くに競馬場があって比較がしやすい。
あの面積に1万人ぐらいいたとすると、今川軍はあの競馬場の倍ぐらいの面積で
それが各小山に分散してた。
具体的な地形はともかく、今に残る竹やぶとか見ると、かなり湾曲してたであろう
地形だから、正面から攻撃できたら兵数の差も関係なかった、というのもある。
172人間七七四年:2008/08/22(金) 23:48:37 ID:011dBCGc
本陣の位置を知っていたかについては、
自陣の大将がどこにいるかは、常にわかるようにしてたようだ。

そうでなければ、信長が熱田新宮に行ったあとに、
伝令が清洲城に行ってしまう可能性があるわけだ。

たとえ知らなくても、
今の会社で社長への取次ぎみたいに、どこにいるかは知らなくても、
その場その場で、担当者が指示して、社長につながるようにするのかも
しれないが。
173奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/23(土) 00:16:19 ID:7Edjv6q/
>>171
グーグルアースで見たのなら、
・当時には愛知用水がなかったこと。
・手取川の支流は三丁山から流れていること。
・普通、川の横には道があること。

かつて武路のファミリーマートのすぐ近くに住んでいた。当時無かったけど。
174人間七七四年:2008/08/23(土) 00:53:55 ID:urWNV65f
>>171
織田軍が今川本隊に突撃したのは偶然だ。
175人間七七四年:2008/08/23(土) 10:03:59 ID:MvvY27oJ
>>172
そういうこといつも考える。
連絡なんて一人体調こわしたら伝わらないし、確実性から言っても
複数の伝令出してたんだろな、って。
機密なのかあまりそういう記録みないけど。

>>173
そそ、川の回りなんてすぐに場所が変わるけど、山ってのは動かないからね。
山の湾曲の微妙なラインなんてのは400年だったらあまり変わってないかなと。
わしもにゃ古屋だもんで、道も家もろくに無かった頃のあのあたり知ってるよ。
驚くのは熱田から鷲津だったかの砦の煙が見えた、ってことね。
最近高層ビル増えたから、どっかに入り込んで一度見てみようかと思ってる。
大須の近くに高いのできたんだよね。

>>174
もちろんそうかもしれない。
ただ、あれだけの完勝劇を、偶然、で片付けるのは惜しいような。
別に陰謀とか謀略にこだわるわけではないけど、そう考えたほうが
より納得できるような面もありそ。

176人間七七四年:2008/08/23(土) 13:13:47 ID:urWNV65f
>>175
今川本隊にいたのは殆どが補助部隊の非戦闘部隊だったらしいから、
完勝も当り前かと…
177人間七七四年:2008/08/23(土) 15:28:34 ID:yC+xR7UP
>>176
何時の間にかその説が浸透してるみたいだけどソースなに?
178人間七七四年:2008/08/23(土) 15:53:14 ID:urWNV65f
>>177
はっきり言って自分はそのソースは知らない、
>>176で言った事はこの戦国板でこの前知った。
179人間七七四年:2008/08/23(土) 16:20:05 ID:yC+xR7UP
>>178
俺その話が出るたびにソース聞いてるんだが誰も答えてくれないんだよなw
気持ちが悪いわ。ムズムズするわ。
180人間七七四年:2008/08/23(土) 16:24:26 ID:9PYBk6em
本陣に補給部隊しかいないとかネタにマジレスしても生姜あるまい
181人間七七四年:2008/08/23(土) 19:50:53 ID:FLaIMOoB
趣旨は違うが、三河物語』に
「嵩にある敵を下より見上げてみるときは、小勢をも大勢にみえるものなり」
という指摘があって、つまり、

織田軍は意外と数が多かったので、

「早く帰らせたまえ」と今川前衛を本陣の方へ戻すように進言している。
織田軍は3000ばかりで切り掛かってきたそうだから、
今川本隊にいた戦闘部隊もせいぜい3000くらいか。
182人間七七四年:2008/08/23(土) 20:04:55 ID:QBpIOHQn
奇跡があるとしたら
信長の戦況判断の誤りおかげだなw

結局、
戦場になった場所が大高城の目と鼻の先
で松平が終始、大高を抑えてまもっていたw
桶狭間戦のとき、駿河先鋒隊は既に撤兵を完了してた
あとは分かるな

この事実がある限り
桶狭間なんて歴史的には価値がないことが分かるw
183人間七七四年:2008/08/23(土) 20:15:36 ID:FLaIMOoB
信長の戦況判断の誤りおかげだなw。まさにそのとおりだ。

「我が軍は小人数だけど、敵は疲れているから恐れるな」
と、小人数のまま、疲れてもいない今川軍に突進していったのだから。

先頭で突っ込んでいった信長は、討ち死にして首をとられても
おかしくなかった。
184人間七七四年:2008/08/23(土) 20:45:52 ID:/u8mBvC8
しかし兵数で見れな絶望的な戦力差でも
織田方に大きな離反者もなかったのは、大したものだ
185人間七七四年:2008/08/23(土) 20:55:15 ID:2XKqK5jc
「あれは戦い続けて疲れた兵だから勝てる」
と部下に言ってるあたり(鼓舞、士気をあげるための方便の可能性もあるが)、本陣狙いで行動したわけじゃないだろう。
つまり普通に戦って追い出す予定だった、ということがうかがえる。
当時の信長の兵は尾張統一戦で磨きに磨かれた精鋭で、近辺ではその強さが語られていた。
飛ぶ鳥も落とす勢いだったし、そもそも桶狭間自体が信長からしかけた戦に対応して今川が動いただけ。
後詰部隊に兵を隠して近づいて攻撃。その他の敵前衛部隊には砦や囮部隊で注意をそらす・・までは実際にやっているから考えていたのは間違いない。
では敵部隊とあたった後はどうするのかというと、そこから先の説明が一切ない。
内部情報の流出を避けるために作戦を一切話さなかった信長だし、しかも勝って終わったんだから語る必要も無くなった、ということなのだろうが・・
186人間七七四年:2008/08/23(土) 20:56:42 ID:PI4hdl4L
逆に謀略説を否定する方がおかしいよな。

信長の能力で1級なのは、経済戦略と情報処理能力だろ。
兵そのものは弱兵と言われながらも、大きくは自分の描いた絵を堅実に
実現していったわけで。

義元の居所を知っているだけでも、何かありそう。
187人間七七四年:2008/08/23(土) 21:10:26 ID:2XKqK5jc
離反に関しては確かに当時ほとんど無かったな。
柴田勝家のような元信雄派なんかも、信長と直接戦をして敗れた以降は人が変わったように忠誠を誓っている。
「下」に入る人間にとって、トップに求めるのは生き抜く実力があるということがまず第一な時代だから。
当時の信長の連戦ぶりを見て、強く忠誠を誓った精鋭たちのほとんどは本能寺の最期まで裏切っていない。
そもそも桶狭間みたいな兵力差ならかなり離反者が出そうなもので、さらに囮とぶたされた部隊は明らかに死を命じられているというのにしっかりこなしてる。
当時の信長軍の結束の強さがうかがえる。


むしろ後の混成部隊より強いんじゃないかと・・信長直轄軍は後に数千で二万を相手に叩いているし。
まあさすがに言いすぎか。
188人間七七四年:2008/08/24(日) 03:35:13 ID:7QNby5kC
2万を数千でって原田の後始末のこと?
189人間七七四年:2008/08/24(日) 11:41:02 ID:+6JCxp+f
>>184
最近の検証で、兵力は同じくらいだったらしいよ。
つか、その程度しか集められない事情だったらしい。
なので、京に行くって言うのは不可能だし、地域制圧ってのが主な目的だった
って言う説が今は主流。

>>186
それはもっと後じゃないか?
つか、信長の情報能力って1級品だったのか?
信長の勘違いで突っ込んで、偶然討ち取ったらしいってのが最近言われている
解釈らしい。
まあ、義元の顔なんて、信長の武将の何人が見知ってたかだよなぁ。
首実検で、お歯黒している首がある、それでどうも義元らしいとわかったって
どっかで聞いた。ソースはない。
190人間七七四年:2008/08/24(日) 13:21:36 ID:EYjcxX0U
>>189
兵力が同じわけないだろう…
本隊のみの兵数とか、尾張と駿遠三の国力の比較か何かと勘違いしていないか?
そもそも今時上洛説をとなえる人間などほとんどいないよ
191人間七七四年:2008/08/24(日) 13:25:29 ID:fsAvtqWJ
同じじゃなくて、あまり大差なかったことだろ。
5・5:4・5で今川軍の方が多かった。
192人間七七四年:2008/08/24(日) 17:41:08 ID:ZtcmqCPG
>>189
どうしてそう、「らしい」「らしい」「ソースは無い」
なんて話をそうもっともらしくいえるのか。
今までの話聞いてなかったのか?
193人間七七四年:2008/08/24(日) 17:46:02 ID:EYjcxX0U
>>191
誰もキッカリ同じとは言ってないw
そしてそのよく分からん比率をkwsk教えてくれ
194人間七七四年:2008/08/24(日) 19:50:12 ID:xevbcsz/
東海道(国道1号線)の

山あいのところの街道上で

1000人、2000人が乱闘したのだから、
今川に1万人以上いようが
最前線で戦っている部隊は五分五分だろ
195奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/24(日) 20:28:57 ID:SD86MK09
なにこの極端な原点回帰。
196人間七七四年:2008/08/25(月) 06:59:32 ID:Bunr19k+
仮に2万出ていたとしても、実際の戦闘部隊の中核は半分もいなかっただろうな。
だから、本陣を衝く方向によっては結構防御が薄かったんだろう。
197人間七七四年:2008/08/25(月) 07:04:07 ID:RSe7qCrI
最近は正面からの強襲説が有力ですが
そこん所どうなんでしょ?
198人間七七四年:2008/08/25(月) 08:33:04 ID:LjsyjP77
>>197
それ、なんて“奇襲戦”?
199人間七七四年:2008/08/25(月) 10:55:13 ID:57A4j0Cm
>>194
誰も最前線の話なんかしてねーって

200人間七七四年:2008/08/25(月) 14:39:11 ID:dOWWz/Vr
藤本の説が今のところ知名度はあるね、新しいし。
で、ラッキだった、という結論か。

三河物語がよく引用されるけど、戦いの描写はどのぐらい信憑性があるのだろう。
公記を読んだ人がそれらしく書いた、なんてぐらいの印象なんだけどな。

謀略説で強力なのは、信長が降伏宣言、会見場所までお互い設定、そこへつっこんだ、というもの。
これだと義元が油断してた理由や、数の多さ、非戦闘員かどうか、という論議がほとんど不毛に成る。
単なる辻褄あわせっぽいが、意外にありそうには思える。
もちろん証拠はないんだがね。
201人間七七四年:2008/08/25(月) 19:06:10 ID:yZBMWpcz
桶狭間なんて上洛はおろか織田家殲滅でもなくただの国境紛争
その程度でいきなり降伏なんて言い出したらかえって警戒されるわ
202人間七七四年:2008/08/25(月) 19:19:40 ID:6L6P8Xh9
元々信長は敵部隊を崩すのが目的で攻撃してる。だから首をとらないで討ち捨てにせよ、って言ってるんだが、
そうなると討ち取り目的ではなく、普通に勝てると考えていたことになる。しかも、大将部隊のみに狙いを絞ったというわけですらなかったぽい。
「じゃあたとえその部隊を崩しても、敵兵力が全部集まってくれば負けるじゃないか」
と考えがちだが、そうでもない。後詰の軍なら、むしろ無理をしない。大崩を避けようとする
信長としては、今川後方の部隊に兵を隠して近寄り襲い掛かった崩せれば、とりあえずなんとかなる、と考えていたのではないだろうか。
「国力差から言えば、ここをしのげてもいずれつぶされるのでは?」
とついつい考えてしまいそうになるが、そうでもない。当時信長は尾張の完全統一を目指していて、それは近い状況にあった。(その尾張統一の邪魔になったのが、今川方が尾張に残している城であり、それを攻めたことが今回の戦の発端なわけだし)
とりあえず尾張を完全統一すれば、今川とももう少しマシに戦えるだろうという観点から言えば、信長にとって一回撤退させて時を稼げれば充分、ぐらいに考えていたのではないか。

この説の要点としてもうひとつ大事なのが、尾張の弱兵と三河の強兵がやったら尾張の兵がまける、なんて俗説を信じないこと。
そもそもその尾張の兵という定義にしろ、いつの時代の兵なのか、誰についていた兵か、戦経験の多い兵かそれとも違うのか、
尾張兵が出たとされる戦いで果たして100%尾張兵なんて時はあったのか、なんていう物凄く当たり前の疑問があるのに、不思議とそこはみんな言及しないんだよな。
後半の信長はどうみても色んなところの兵使ってるけど、何故かこれも尾張兵で統一したりする奴が平気でいたりする不思議。
信長直轄軍として戦に戦を重ねてきた兵士と、それに比べれば戦が少なく、三国に渡って拾い集めた兵士のどちらが強いのって話とも言えるのだけど、
とりあえず兵の強弱は置いておくとして、信長が自分の兵や結束に自信を持っていたのは確かなようだ。

個人的な結論としては、信長の考えていた作戦というのは、色々工夫、細工をした後が見られるが、基本的には敵後方部隊を叩いて勝利、だと思う。
勝てる自信があった、ということなのだろう。まあ実際に勝ったんだから文句は言えないのだが。
ラッキーがあったとすれば、敵大将が逃げ遅れたことだが、仮に生きたまま撤退してくれても信長としては充分だっただろう。
203人間七七四年:2008/08/25(月) 23:06:15 ID:xCZSzTYT
降伏とまでは行かないが、講和とか、会見をしたい、なんて申し込みは十分に考えられる。
実際信長はその場所まで行ってるわけだからね。
ほんで、普通なら警戒するのを、それも怠ったぐらい義元は油断してたかもしれない。
大軍だし。
ま、このあたりは小説になってしまうんだが。

兵の強さとか結束とかいうのは2次的なもので、やっぱり勝算がないと戦わないでしょう。
稲生の時も半分ぐらいで戦ってヤバかったのを「大音声」なんだが、この時も不思議な
勝ち方なんですよね。
だから、本当に100%イノシシ武者で偶然勝ったのか、それとも謀略的な
なんらかの勝算があったのか。

浅井を信じてあっさり裏切られたり、最後の変とかもだけど、単に強運だった、それでここまでこれた
というのも理解は出来るし、その背景にカリスマ的実力と謀略的才能、これは文献にはのらないだろうが、
そういうのもあったんだろな、と。
204人間七七四年:2008/08/26(火) 14:08:44 ID:p9CXW5Pe
尾張統一戦では2倍(最近では5倍ってされてるらしいが)の敵を相手に信長勝ってるけど、それもあまり詳しく語られてないんだよな。
ぶっちゃけ、戦術などと言うものはよっぽど真横で見ていた人間じゃないと分からないだろうし、
しかも大名の中でも特に信長はあまり説明してくれないたから、太田さんもとりあえず戦況の断片を拾い上げていくしかなかったんだろう。
で、その行動の軌跡を見て、戦術を想像してくれ、と。
でも抜けてるところが多すぎて想像できない、というのが本当のところ。
兵力がそれなりに拮抗していたり、勝因や敗因がはっきりかかれていいるの戦は良いのだが、大劣勢をはねかえした戦と言うのは、
一体何が決め手になったかを細かく書いてくれないと後の人間にはちっとも分からん。
で、頭脳停止状態に陥り、ラッキーとか言い始めてしまう。

まあそれでも、なんとか拾って組み立てるのがこのスレの目的だろうが。
205人間七七四年:2008/08/26(火) 16:31:17 ID:5rUydZBO
だな。
ものすごくシンプルに、奇跡とか強運とか天才性、とか言うよりなんらかの策略で本陣を
知っていた、そしてイチかバチかでそこにつっこんだ、というのが唯一の勝算であり
勝因であった、としたほうがより理解しやすい気がする。

なにせ敵将の首をいきなり取れたなんて、普通はありえないような勝ち方でしたからね。
そういういろんな要因が重ならないとあそこまで完勝は出来なかった、みたいな。
206人間七七四年:2008/08/26(火) 19:18:54 ID:0TuXiZzz
龍造寺隆信と今川義元
207人間七七四年:2008/08/26(火) 23:46:59 ID:C7Pl9VNP
>>205
そういう、個別の事象を積み上げていくのが信長の身上だしな。
戦闘自体も手堅い方だし、何の成算もなく一か八かの無謀突撃なんて最も
信長らしくない。

>>201が言うのは理屈としてはわからんでもないが、国境紛争なら国境紛争
なりの交渉はあり得るわけで、むしろ上京の壮図を企図しての大軍でない方
が講和もあり得るだろう?鷲尾峠辺りまで今川の手に落ちれば、清洲など風
前の灯火だし、その手前の桶狭間一帯でもやはり義元にとっては満足できる。
その辺りの条件交渉との触れ込みで使いが来れば、当然油断どころか「これ
で尾張も終わりじゃ!がはははは」などと部下と酒飲んで気がゆるむのも当然。

蜂須賀のおもてなしが、信長という御仁を無視した単独行動とは到底考えら
れないし、じゃあ裏切ろうとしたのかといえば、その後の処遇見ればそれも
あり得ない。これが事実だったとすればどう見てもその目的は敵本陣の位置
の限定にある。それだけでも勝算は少ないなりにゼロから飛躍的に高まる。
更に、前田勢や各砦の健闘による勢力の分散、土地柄にとって最悪の豪雨、
これなら慎重で戦には臆病と言ってもいい程の信長にも、難しいながら賭に出
るだけの勝率は出せた。だから出ていき、そして勝った。

ただ、死後にも信長記に書けないほどのタブーがあったのか、それとも単に
牛さんが取材しきれなかったのか。
208人間七七四年:2008/08/26(火) 23:54:21 ID:q3s3FsNX
>>205
無知乙
209人間七七四年:2008/08/27(水) 01:37:26 ID:WxjRIwdj
>>207
信長は手堅いほうかな。
いつも一騎がけしてるし、ムチャもしてるような気がする。
ただ、徳川軍を主戦に近いようにしたりするのは手堅いというより、いやらしい、
ということか。

それより、牛さんも書けないタブーというのに同意だな。
首巻は相当アヤしいと思う。
例えば信秀葬儀、道三対面、このあたりなんか小説のようなふいんきがある。
その延長上で桶狭間を考えると、「勝ち目の少ない戦にどうしてあんな完勝できたのか」
というのは、何らかの「知られてない事実」の上に成立したもの、という考え方も
そうはおかしくはないようなね。
210人間七七四年:2008/08/27(水) 01:56:26 ID:Gxkwa+nU
単に取材しきれなかっただけだと思うけどね。

太田牛一は、首巻の大部分の頃は信長に直に仕えていた訳ではないということを考えれば、
特に不思議だとも思わないが。日記のようにリアルタイムにメモしてきたことですらないのだから。

記述がないのなら、それは書かなかったのではなく書けなかったというだけでしょう。
なんというかね、大田を過大評価しすぎだと思う。牛一って単に馬廻りの一員ってだけの存在で、
別に織田家や信長のタブーや機密に触れられる地位身分でもなかったのだから。
211人間七七四年:2008/08/27(水) 07:18:07 ID:XI13VxQX
じゃあ、50年、100年もたってから書かれた戦記を信じろ、というのかよ。

降伏の謀略だの、蜂須賀小六がどうの、付近の農民が酒を本陣に献上だの、
簗田広正が本陣の位置を通報、だのは、

これらはみーんな後世のでっちあげ(らしい)みたいだぜ。
212人間七七四年:2008/08/27(水) 09:15:03 ID:XI13VxQX
太田牛一は、桶狭間の合戦に参加していたかどうかは、
信長公記にはあいまいだが、34才だったし、
織田家の弓の名手三人の内に選ばれていたから、すごく身近で、
桶狭間の合戦の情報を得やすい立場にいた。
小瀬ほあんは生まれてもいなかったから、創作を付け加えて戦記物を書いた。
この戦記物にさらに脚色して総見記だのの戦記物がさらに書き加えられて、
さらに新事実が創作加味された。
213人間七七四年:2008/08/27(水) 13:31:02 ID:WxjRIwdj
牛さんの人間像とかもいろんなとこで言及されてるけど、首巻に関しては
「創作」も多く含まれてる、というのはあるだろう。
これは単に不明な部分を補った、というのではなく、「都合の悪いことをはしょる」
「都合の良いように書く」そういった意味も含めて。

例えば、帰蝶の記述がないこともそうだろうし、信秀葬儀の「筑紫の僧、
あれこそ国を〜」とかもかな。
さらに、信長の負け戦が載ってない、なんてのもよく見かける。
これには、全勝だから、なんて反論もあるみたいだが。

45000人に信憑性がないように、公記だから正しい、ではなく個別に
検討が必要だろうし、桶狭間で藤本が採用してる具体的描写にも
なんらかの検討は必要だろう。
214人間七七四年:2008/08/27(水) 23:30:37 ID:XI13VxQX
帰蝶かよ!。(濃姫)
もろに武功夜話じゃん。吉乃のところの話は、まるごと創作みたいだよ。
>>213が言わんとしていることはわかるが、例えに使った文献はよろしくない。
帰蝶が輿入れするから、吉乃を隠した、というのは当時の風俗から言うと矛盾してるしな。
だから、武功夜話はほとんどが明治になってから創作された話、と暗に批判されるしまつ。

ともあれ、首巻はやや間違いが多いのは事実。
とくに、桶狭間の年を間違えているのが最大級の間違い。
本の構成上からいっても、そのあたりは前後の記事の順番までずれてる。

おまけに、牛一の書いた信長公記でも、天理大学図書館の保管本は桶狭間の内容が一部違っている。
今川が攻めてきたとき、会議をやらずに雑談してた、のではなくて、
信長は一戦すべきと弁説をぶっているという描写がなされているほど。
215人間七七四年:2008/08/28(木) 01:06:47 ID:i43pxka1
えーと・・・(@@;
とりあえず、話を整理して初心者の自分が知りたいのは

1・今川と織田の開戦前の状態と戦略的な戦争の意味。

2・あの時期で義元が死亡すると遠州は崩壊するということが諸大名ではどのくらい常識だったのか?

3・織田と今川の基本的な兵装の違いと軍隊訓練度がどのくらいか?

4・結果的に勝利した織田信長はそれまで桶狭間と同じタイプの強襲?戦術を多用していたのか?

5・織田家を表や裏からでも支援していた第三勢力がどのくらいあったのか?

6・討ち取られた義元と当時の信長の人物的な違いと能力の特色。

7・仮に今川が勝利していたらどうなったのか?
  また天気も軍略も関係なく正面から戦ったら今川の勝率(被害)はどのくらいだったか?

8・攻め込んだ側or防衛した側は 勝利すると どのくらい儲かるのか?

かな?
216人間七七四年:2008/08/28(木) 01:45:41 ID:zvFFuXnp
>>215
めんどくさいから
ここ読んでみてから妄想してみなw

http://kagiya.rakurakuhp.net/
217人間七七四年:2008/08/28(木) 22:19:39 ID:q7xOZ4Fq
>>214 とくに、桶狭間の年を間違えているのが最大級の間違い。
>>本の構成上からいっても、そのあたりは前後の記事の順番までずれてる。

ソース
ttp://homepage3.nifty.com/yogokun/okehazama.htm
218人間七七四年:2008/08/29(金) 07:36:15 ID:FEwEXX/m
>>213
でもスタンスとしてはそれで正しい。
特に自分の従軍以前は直接見聞がないし、聞き取りするにしても一番
後からの取材で、仮に1600年成立としても、実に40年も前の話だ。
20才の兵士でももう60才w
当時の平均寿命からしても、聞き取りも困難を極めただろう。まして、
前線兵士には首脳部の判断なんてわからないし、複雑に入り乱れて
どうなってんのかよくわからん乱戦だから、聞く人によって言うことが
みんな違う可能性もある。
「信長の棺」じゃないが、それこそ秀吉が真相を知っていたかどうかだな。
それによってどう「書かせた」かの判断も違ってくる。
219人間七七四年:2008/08/29(金) 11:21:49 ID:NUlW+c3Z
よく平均寿命と言いますが当時は早死にする子供が
平均を大きく下げていただけで50位でばたばた死んだ
わけじゃ無いずら
220人間七七四年:2008/08/29(金) 15:21:45 ID:NyKvyZ/D
213です。
ブコウは別に引用してないけどね、濃姫を持ち出しただけで。
ちなみに、日本歴史8月号に小和田がブコウについて論文載せてるよ、参考までに。

首巻の間違いについては、記憶違い、みたいに簡単に処理されてるけど、もっと牛さんの
積極的創作の意図があったのでは、という説もある。
普通は、公記に疑義唱えるとうるさいのが出てくるのだけど、ここではみんな冷静だから
そういう観点の元に首巻を語ってみたい、というのが最初の言いだしっぺ。

つまり、信長出生までさかのぼったりね。
221人間七七四年:2008/08/29(金) 18:32:54 ID:i+eKO3pN
>>215
2.はこの板の氏真スレ読んでみるといいんじゃないかな
配下豪族の動向とか義元死亡後の状況がわかりやすい
222人間七七四年:2008/08/29(金) 18:33:24 ID:Ch1B1tQc
もちっと勉強してこいよ。「ブコウは別に引用してないけどね」って、
ブコウの孫引きを>>213は信用してるんじゃないか。この態度だけで、
どんなレベルかわかってしまうよ。
小和田哲男?氏の本は、ルーズなのが多いから、いちいち眉にツバつけなきゃならない。
223人間七七四年:2008/08/29(金) 19:14:59 ID:NyKvyZ/D
>>222
まぁ、もちつけ。
ブコウなんて偽書なのはわかるし、参考にする時もブコウ系の引用は
避けるようにはしてる。
あくまで213は公記の話だ、ブコウは関係ない。
もしかして、濃姫のことを、帰蝶、といったのが気になるのか?
単に試しに変換したら出てきたもんで、そのままにしただけだ。
吉乃、なんてのはさすがに使わないから安心しておくれ。
224人間七七四年:2008/08/29(金) 21:34:37 ID:Ch1B1tQc
わかった。すまんかった。
225人間七七四年:2008/08/29(金) 21:42:55 ID:NyKvyZ/D
いえいえ、だがね。
226奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/29(金) 22:31:32 ID:X9+pzLqq
前野交差点は今日も雷だった。
227人間七七四年:2008/08/29(金) 23:13:29 ID:IFTbwt+5
>>219
いや50代は死ぬよ普通にw
こういうデータは、2才頃までの乳幼児の死亡率をカットしてある。

戦前でも60過ぎたらまあ長寿なんだから。百姓仕事を舐めちゃいけない。
228奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/29(金) 23:14:10 ID:X9+pzLqq
基本は破傷風。
229:2008/08/29(金) 23:27:05 ID:sJZiWa+m
l
230人間七七四年:2008/08/30(土) 00:12:19 ID:5Xhj/EfF
>>226
お前近いな。
小豆沢も雷が凄かった。
231人間七七四年:2008/08/30(土) 16:37:40 ID:mYWk2Pkg
にゃ古屋はすごいがや。
232人間七七四年:2008/08/30(土) 22:10:05 ID:jQhT94Xr
おまいら
たった一ヶ月前の7月30日の晩メシ何だった?、て
正確に答えられるか?

人の記憶に頼ることしか出来ない時代

そんな時代の太田が書いたものなんて・・・(以下略)
233奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/30(土) 22:16:39 ID:oy1SCobP
>>232
豚しゃぶサラダ。
234人間七七四年:2008/08/30(土) 23:16:21 ID:DMwhXs2c
>>232
ヒント:日記帳
235人間七七四年:2008/09/04(木) 19:32:16 ID:hGdJ1mqh
>>232
ナポリタンスパゲッティーだったな

あと紙の存在忘れてね?
236人間七七四年:2008/09/04(木) 19:44:37 ID:rzvXMNjE
尾張の人からはうつけといわれ美濃の人からはたわけといわれたと
書き分けられていたというのを読んだことがある
しかし先日クイズ番組でたわけという言葉は江戸時代にできたということだった
237奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/09/04(木) 23:26:53 ID:tAUZI6+I
田分けが?
238人間七七四年:2008/09/05(金) 21:00:19 ID:XrvIHbsG
そうそれ

そしてたわけには単に馬鹿というだけでなく獣姦や近親相姦をも含むこともあると

239人間七七四年:2008/09/05(金) 21:24:23 ID:DkohxtuL
>>238
へぇ、へぇ、へぇ
240奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/09/05(金) 23:49:18 ID:nMN/uNo7
一所懸命と同時の発祥だと思ってた。
241人間七七四年:2008/09/06(土) 00:56:08 ID:3DXFsDun
242人間七七四年:2008/09/07(日) 13:51:48 ID:0gMwbRaJ
>>239
うわっ!
「へぇへぇへぇ」
とか笑ってやがる。

>>236>>238はガチか。
243人間七七四年:2008/09/08(月) 03:10:38 ID:ftdU/dwv
三河物語も、信長公記も、江戸時代初期に作成されたものなんだけど。

家忠日記では、2千500余が、今川軍で討死なので。

今川本隊は、ほぼ全滅なので、2500しかいないことに。

なので、信長公記の4万5千は、ありえんな。

信長2000 VS 今川2500

信長の圧勝。今川全滅。
244人間七七四年:2008/09/08(月) 03:20:08 ID:ftdU/dwv
定光寺年代記
(永禄)三年 五月十九日駿州義元尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人被打、
245人間七七四年:2008/09/08(月) 18:25:15 ID:WmLE7biq
あほばっか
246人間七七四年:2008/09/08(月) 19:01:37 ID:ePews/os
と、阿呆が申しております。
247人間七七四年:2008/09/08(月) 19:18:13 ID:qsmNJ5vO
みんなわかっててボケてるよな?
248人間七七四年:2008/09/09(火) 00:21:21 ID:8Wllx0m7
>>243
全ての行につっこみどころがw
249人間七七四年:2008/09/09(火) 15:57:32 ID:1jA7WRnd
信長2000 VS 今川2500

ショボw 雑魚同士の争いにはお似合い
250人間七七四年:2008/09/09(火) 21:12:47 ID:qf71DLRK
昔、世紀末の「織田信長」という歌が大好きだった。
251奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/09/09(火) 22:10:51 ID:P30tfrPc
戦国時代に万人単位の戦争なんてどれほどもないだろうに。
252人間七七四年:2008/09/10(水) 07:30:48 ID:oycDrvRz
家忠日記の記載は、聞き捨てならんな。チェックしとこう。
253人間七七四年:2008/09/11(木) 17:17:47 ID:17KLbJnU
たわけ、だけど、公記の成立は江戸初期でも、たわけ、と美濃衆が信長を呼んでたのは室町後期だからね。
このあたり微妙なとこだわな。
254人間七七四年:2008/09/11(木) 18:12:15 ID:K2ibXktK
>>250 ♪血みど〜ろの乱世に魔性の巨人〜

カラオケにあったら歌いたい曲だったなぁ
255たられば君:2008/09/11(木) 19:03:24 ID:wBCOMIwi
爆裂聖飢魔Uだっけ?
256人間七七四年:2008/09/12(金) 21:14:31 ID:9R4h22M9
逆らう者、皆地獄行き、ヘイヘイ♪
257人間七七四年:2008/09/13(土) 11:05:28 ID:aNdXGSdv
>>217
信長公記を絶対視しすぎ、
他の史料すべてがまちがっている・役にたたないとし、
今川義元が兵力的に互角の相手に兵力分散したうえで前線に出るような愚将でなければ
その理論は成り立たない
258人間七七四年:2008/09/13(土) 11:10:05 ID:EsnGpsG5
義元自身がが自分なら少数でも多勢を打ち破れると思っていたなら成り立つけどね
259人間七七四年:2008/09/13(土) 23:31:16 ID:e12A6xqj
俺の説では信長に対し今川義元が「桶狭間で待つ」と言ったんだと思う。
義元は「信長の野望:武将風雲録」を用意して待っていた。信長はゲームの上で大勝したので義元は自殺した。
それだけだな。
260人間七七四年:2008/09/15(月) 00:03:11 ID:xcVSk97m
「たわけ」は、記紀にも載ってる由緒正しい言葉なんだが(w
261奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/09/15(月) 23:51:31 ID:C2vY2DxS
「戯」を「たわけ」と訳したのはいつごろなんだろう。
262人間七七四年:2008/09/16(火) 09:24:19 ID:tZcg9424
今も昔も脚色ありきの歴史だね
スポーツの世界でのイチローなんかにもいえるけど
それほど他の選手とくらべて結果的に差がないものを大きくみせようとするね
今の時代ではマスコミがそれ

イチローと同じ数だけ打席に入ればかなり多くのバッターが毎年200本安打打てる


263人間七七四年:2008/09/16(火) 09:33:17 ID:OjQDplKi
なぜこの板にアンチイチローが
264人間七七四年:2008/09/16(火) 10:48:53 ID:RTAwI9gt
誰だってあの条件なら関白や将軍になれた、という理屈か。
265人間七七四年:2008/09/16(火) 18:38:29 ID:gnaPqTaO
実際に戦場に出た兵数を何故色々いじる意味がわからん。
例えば尾張付近で、対今川(対織田)として戦うための兵士には違いないんだから減らしたり増やしたりはおかしい。
例えば織田全体の総兵力で言えば、織田方は5000ぐらいあっただろうが、しかしこれには美濃への抑えなど別勢力への控えのため、実際には5000は使えない。
今川も同じで、自領の兵士全て連れてこられるわけもない。周りは同盟国と言っても完全な空白を作るなんてよほどの信頼関係がないと無理だ。
つまり、織田((最小)2000〜(最大)4000程度)VS今川(15000〜45000)というのが、あの戦いに向かい、実際戦闘できる距離と言える兵数の現実。なのに何故信長は前に出たのか。

物凄く簡単でゲーム的な解釈をするなら、つまり信長は強いので、単純にぶつかれば勝てるという図式。これは途方も無い話に聞こえるかもしれないが、それは信長のイメージが凝り固まってるせい。
信長は色んな戦に出ているが、必ずしも成功しているわけではない。むしろ色々と失敗をしているがその大体は基本的に攻めたゆえの戦であり、例えば尾張、に攻め込まれて負けて本拠地をとられた、などということは、
信長がその場で直接指揮をした戦ではほぼ皆無と言っていい。守りの戦においては、当然のことながら相手より有利なのである。
そんな信長だから、守りの戦なら10倍相手でも勝てる、というのがまず一つの案。

ただ、この案ははっきりいって現実感の薄い、前もって書いたようにゲームみたいな思考法である。
ただ全て捨てるのもどうか、ということで、俺の考えというか妥協点としては、桶狭間の勝因や実情はこういうことだったのではないかと思う。
・この時の信長軍は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
・守りの戦ゆえ地の利を知り尽くしていた。
・今川軍は勝ち馬に乗ってきただけの兵が多く、一部を覗いては、いざとなればすぐ逃げるような軍で構成されていた。
・逆にこの時の織田軍の裏切り率は恐ろしいほど低く、極めてよく統率されていた。
・この時の信長は、あまり知られていないが百姓からはよく信頼されていた。桶狭間時は自警団を作っていたが、彼らが信長に情報を多く与えていた。
・信長は相手を全滅、などは考えていないし、本陣だけ狙うなんてことも考えていなかった。現実的に敵部隊にぶつかって、殲滅ではなく撤退させるだけ、という現実的な考えだった。
・信長は篭城が嫌いなので、例え死んでも降伏するよりマシ、と思っていた。

などのことが複雑に絡み合って、結果ああいうことになったのではなかろうか。
266人間七七四年:2008/09/16(火) 20:24:40 ID:iWbVNnC/
この時点では尾張統一戦を勝ち残った精鋭部隊だから
局地的な戦闘なら将兵共に自信はあったんじゃないかな
今で言うところの攻勢防御の軍行動が結果的に義元を
討ち取るという幸運に繋がったのではないかと
267人間七七四年:2008/09/16(火) 20:47:43 ID:6Z8ekJCY
信長陣営に多大な討ち死にが出ている件は
どうも忘れられているように思う。
268人間七七四年:2008/09/17(水) 07:00:22 ID:WSCX4OhD
>>265
今川が4万5千とかどう考えても絶対無理だろ。
石高でいえば2万出すのがせいぜいなのに。
公記の誇張だよ。
269人間七七四年:2008/09/17(水) 15:41:27 ID:/aGU9EFw
複雑な要因があったのは確かだろうが、それでも敵大将の首まで取れたほどの勝ち方というのは
なかなか有り得ない。
明石説っぽい、信長なんらかの作戦説、のほうが、かえって合理的な気もする。
大将首を取った人物より、情報をもたらした人物のほうが恩賞が多い、という昔からの
疑問に答えてるし。
もちろん、史料はないんだが、シンプルなところが明快でね。
270人間七七四年:2008/09/17(水) 18:54:47 ID:ulCsrV7q
>>268
そりゃ単純に今川だけの計算ならそうだろうけど
271人間七七四年:2008/09/17(水) 19:33:50 ID:AzIp0CDI
いや、おしくらまんじゅうの試合みたいに押し合って勝った感がある。
桶狭間合戦の解説本を信長公が見たらこう言うだろう。「俺そんなし情報戦してねぇよ、突っ込んだら勝っただけだよ」
272人間七七四年:2008/09/17(水) 20:25:58 ID:xyjxnJzT
桶狭間ネタに関しては
信長公記を全否定してもいいな
273たられば君:2008/09/17(水) 21:14:11 ID:eSPVZwiK
>>265ってつまり「火事場のクソ力」ということだよね?
あるいは1000万パワーバッファローマンに挑むロビンマスクか
274人間七七四年:2008/09/17(水) 22:26:51 ID:V1KCbu6T
義元は馬にも乗れなかったデブだったから、首を打たれたんだろ?
で、なかったら家康みたいに即効で逃げとるよ
275人間七七四年:2008/09/17(水) 22:39:48 ID:KXqxhmrT
輿に乗ってる=デブって言う考えのヤツがまだいたのに驚きだ。
276人間七七四年:2008/09/17(水) 23:24:23 ID:htscA7UB
>>270
今川勢以外にいたっけ?桶狭間に。
277人間七七四年:2008/09/18(木) 00:45:48 ID:1G2QTJ0l
定期的にヨシモトデブで輿乗れないとか嘘かく奴がいるな。
278人間七七四年:2008/09/18(木) 00:54:51 ID:HViRErgO
いるいるw
279人間七七四年:2008/09/18(木) 02:31:45 ID:iiJYoZe8
>>268
四万五千は誇張もしくは今川の自称をそのまま書き記したかだろうと思うが、
二万が精々というのも一万石250人という動員率からの計算で(実際にはもちっと低いが)、
戦国時代の平均が350人だったという説からすればもっといく。
280人間七七四年:2008/09/19(金) 01:13:59 ID:h3v9bE4d
>>279
今川って80万石そこそこだから一万石350人で計算しても
三万もいかないんだけど。
281人間七七四年:2008/09/19(金) 09:10:08 ID:ASFK3S76
石高関係ない兵数集めてる事例って結構多いから領地量云々は
そういった可能性もある程度です
282奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/09/19(金) 22:04:07 ID:PLti6ZL9
仮に三万率いて尾張に向かったとしよう。

・・・武田と北条は聖人かつ大馬鹿だということか。
283人間七七四年:2008/09/20(土) 20:05:31 ID:8UiQneKH
上洛戦ではなく、単なる後詰だからすぐ戻ってこられるから、大半を総動員っていうのも可能性としてはありだけどね。
それでも最低限残すだろうが。
45000という数字には多分今川の喧伝も混じってるんだろうが、もしかたら単に今川家の総兵力かもしらんね。
で、実際に攻めてきたのはその半分か半分より上ぐらいとかね。
ま、可能性の話だけど
284人間七七四年:2008/09/24(水) 08:14:40 ID:dfoY1sR5
最近の研究では、五分五分だったって事らしいが、どうなんだろうね。
個人的には信長の方が若干少なかった様に思う。
が、尾張の人口からすると、五分五分だとしても不思議ではないんだよなぁ。
285人間七七四年:2008/09/24(水) 18:49:56 ID:41w560kP
いや、当時尾張は戦続きだったし、その戦の兵力も1000ぐらいのばかり
しかも義元と戦うとき、はまだ尾張全てを統治していたわけではなく、義元に一部をとられていた。
さらにそんな中で美濃への抑えを最低限よけておくと、尾張方の兵力はあんなもん。

もうひとつ、兵力ってのは勢いのある方につく。織田信秀が美濃へ攻め込んだ際に色んなところから兵を出せたのは、信秀の実績と勢いのお陰。
当時は大分信長につく人間も増えてくる、まさにこれからという時。義元が攻めたのはむしろベストタイミングだった。
286人間七七四年:2008/09/24(水) 19:20:55 ID:MTEWgR0A
桶狭間の戦い

京都に号令をかける今川義元は四万の兵を率い、尾張の国へ来た。
織田信長はこれを迎撃する為、四千の兵を率い桶狭間まで来た。
信長は蜂須賀小六に命じて桶狭間近辺の百姓を偽って今川義元にお酒と食べ物を供せよ、と命令した。
織田信長は自分の軍隊を迂回させ義元を眼下に見下ろす位置に軍隊を密行させた。
戦勝に酔いしれ、軍備を解き、酒や謡に興ずる今川軍に豪雨が襲った。
信長は号令を下し、山を駆け下り、今川義元を奇襲攻撃した。
信長は勝利した。桶狭間の戦いは織田信長による緻密な計算と情報収集力による大勝利で終わった。

桶狭間の戦いはこれでいいじゃないか、者共、夢を壊すなよ。

                       by信長
287人間七七四年:2008/09/24(水) 20:07:41 ID:gtch2lZk
>>286
なら甲陽軍艦に書いてある武田家の所行も全て事実ということで。
288人間七七四年:2008/09/24(水) 21:06:36 ID:37EqHYbz
甲陽軍鑑は最近では偽書の疑いが濃くなった
まああれほどウソが多くてはいたし方ないかと
289人間七七四年:2008/09/24(水) 22:22:05 ID:JvE1zx+W
>>284
それどういう最新の研究?
上限で4万対4万もありえないだろうし、4千対6千、というのかな。
なんしろ、元ネタ知りたいなも。
290人間七七四年:2008/09/24(水) 22:38:19 ID:sn5js3tz
>>288
最近っていつの話よ。
むしろ甲陽軍鑑の価値は明治以来下に見られてきたのが
最近の国語学の進展で戦国時代当時の口述を元にしたのが確実視されて
急速にみなおされてるんだが。
291人間七七四年:2008/09/24(水) 23:29:09 ID:MTEWgR0A
今川義元が桶狭間で討たれるように山本勘助が仕向けた、と去年の大河だったが、史実もそう言う風にしてやれ。
その方が面白い。上杉謙信も正義の心から武田信玄に塩を送った、そう言う風にしてくれ。そのほうがカッコエエ。
292人間七七四年:2008/09/25(木) 00:23:33 ID:LxTylmPP
あれは二万弱対四千弱の戦いだった
293人間七七四年:2008/09/25(木) 08:18:49 ID:frdsqyrE
>>285
その勢いがどっこいどっこいだったんじゃね?
俺たちは後世から物事をみているから、信長が不利だと知っているわけで、実際に
信秀も今川方面にしているし。
まあ、大敗してるけど。

>>289
歴史群像かな?
今川は本当に2万5千の兵で進軍し、信長は2千だったかの検証してた記事が
載っていたな。
今川勢は諸処を考慮すると、実際には均衡した兵しか動員できなかったと言う
結果だった。
基本的に石高が尾張と変わらなかったらしい。
後は当時の信長と義元の知名度の差でどのくらい人が集まったかだと思う。

それと、ここの人は知っていると思うけど、尾張に今川の分家があったよね。
だまし討ちくらって追われちゃったけど。
その分家のお家再興も考慮しての進軍だった気がするのだけど、その辺はどう
なのかな?
294人間七七四年:2008/09/26(金) 11:58:41 ID:x5LQwgkX
>289
最近その雑誌よく聞くけど、なんか内容がハチャメチャだな。

>290
甲陽軍鑑の記述から、藤本の正面攻撃説への批判も出てるんだが、なにせ甲陽軍鑑自体の
評価がわからないので、そのあたりもう少し詳しく知ってたら教えてくれぇ。
295人間七七四年:2008/09/26(金) 13:11:53 ID:gBzmUVXP
甲陽軍鑑は小説
そこら辺の所を分かってないアホが多すぎる
296人間七七四年:2008/09/26(金) 20:04:08 ID:Yv/HL7M7
>>289
そもそも信長だって尾張一国を完全に掌握していなかったじゃん。
詳細を知りたい
297人間七七四年:2008/09/27(土) 00:59:58 ID:ytxUy7uk
http://homepage3.nifty.com/yogokun/okehazama.htm
このページの人は同等って言ってるなw
298人間七七四年:2008/09/27(土) 01:26:46 ID:AICLSrQm
いろいろと突っ込みどころが多いな。
鉄砲の保有量とかの考察も・・・
299人間七七四年:2008/09/27(土) 03:02:03 ID:s2T5FOMM
石高は確かに土地ごとの潜在的な動員可能兵数を測る指標ではあるけど、
それだけが即座に動員可能かどうかはまた別問題。


ということだけ指摘しておこうかしら。
首の数に対する考察やら何やらにもつっこめるけど。
300人間七七四年:2008/09/27(土) 19:02:18 ID:PndW1J1Y
石高はあくまである程度まともな状態ならそこそこ、言いかえれば、あくまでそこそこしか通用しない話。
この石高で兵数を出すというのもあくまでテンプレというか、兵力を出すための式の一つに過ぎない。
例外なんていくらでもあっただろ。
301人間七七四年:2008/09/27(土) 22:05:52 ID:eq2RQcgk
石高で言うなら
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
とこんな感じ
今川は駿河遠江に加え三河の大半と尾張の一部
背後の武田北条とは三国同盟に加えて、この時期は謙信が上野にでて勢力拡大中
この状況で武田北条が今川を攻める理由は無い

織田は尾張8郡のうち
海西郡は今川味方した服部が横領中
海東郡は沿岸の蟹江城が落とされたりと沿岸部は不安定
愛知郡は鳴海沓掛城周辺を今川に奪われている
知多郡は大高及び鳴海沓掛が今川に奪われて陸路は分断されている
上4郡は岩倉家を前年に滅ぼして占領したばかりに加え、
丹波郡犬山の信清は従属させているといった関係
春日井郡の品野城の松平を1559年にようやく追い出したばかり

外交関係は美濃の斎藤と敵対

この状況で尾張57万石のうちどこまで動員できることか
302人間七七四年:2008/09/27(土) 22:33:36 ID:tpkgqTui
一つ前のレスに、石高なんてあてにならないと書いてあるが・・・。
信長には津島と熱田があったけど、それでどのくらいの動員数があったんだろね。
303人間七七四年:2008/09/27(土) 23:22:32 ID:C6EOymqc
そりゃ、やっぱ石高だろうよ。
304人間七七四年:2008/09/27(土) 23:41:04 ID:z4i9OCV7
通説によると当時の人口ベスト3は京都越後尾張
これは全国の石高に比例していない
305人間七七四年:2008/09/28(日) 00:01:54 ID:pn/rLhDG
津島と熱田は織田と結びついて繁栄していたけど、桶狭間の時はどうだったか・・・
津島はその下流域の長島河内の諸勢力が今川について敵対
熱田も今川勢力の鳴海まで10キロない
さらに一時は極近距離の中村に砦を築かれていたし、
桶狭間時は服部らに攻めこまれていたりもする、撃退したけど

伊勢湾の制海権が織田家にあったときはともかく、
今川家に移っている桶狭間時は若干経済力が落ちていた可能性もあると思う。
もっとも今川家と経済的に対立関係にあるため、熱田津島は自己の権益守るために
織田家に積極的に協力してくれるだろうけど
306人間七七四年:2008/09/28(日) 00:02:23 ID:pn/rLhDG
>>304
ソースは?
307人間七七四年:2008/09/28(日) 00:44:30 ID:j19Ha1fX
>>301
だから
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
でも
三河は松平主流で今川の手足として動かせないね
実質、駿河遠江が今川主力で
桶狭間の時駿河隊の動きがハッキリしてないの
こうなると兵力差は大してないよ
たぶん、
駿河本体は参戦してないだろうね

実質
今川の動員は一万程度じゃないの

308人間七七四年:2008/09/28(日) 00:51:51 ID:EiLHsi8t
三河といっても、鵜殿氏や山家衆、牧野氏などがおり
松平氏ばっかりじゃないだろう。
309人間七七四年:2008/09/28(日) 01:55:31 ID:/5kulPMh
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310人間七七四年:2008/09/28(日) 05:27:52 ID:k3n3H9u1
新説桶狭間合戦―知られざる織田・今川七〇年戦争の実相
(学研新書 34) (新書)
橋場 日月 (著)


つう最近出た本を読まれた方はいますか?

それなりに興味深い新説が発表されてるなら買おうと思うのですが。



311人間七七四年:2008/09/28(日) 10:20:06 ID:p1ZY+zHY
>>305
信秀の時代には別スレで書いてあったけど、朝廷に今のお金で数億円寄付して
いたらしいね。
信長の時はそこまではいかないまでも、それなりの軍資金は出していただろう
ね。

俺も>>307と同じで、動員数は1万前後だったんじゃないかと思う。
対する信長は5〜6千前後で、桶狭間の信長対義元は同数くらいだったんじゃ
ないかと思う。
定説(笑)の上洛戦ではなかっただろうし、織田家との決着をつける戦でもな
く、地固めの要素が多分に見られるので、無理しての大動員ではなかったと思う。
312人間七七四年:2008/09/28(日) 12:15:53 ID:Tb5XZ0hQ
地図見てわったことだが、米みたいな重い兵糧を運ぶときは、
静岡あたりから運ぶとなると、大高の城がちょうどいい場所にあるんだよね。
うまいぐあいに最前線。

鳴海の城は城下の川まで潮の満ち引きがあったとはいえ、古地図みると
川が細くて、舟で兵糧の運び入れが難しそう。

なんでも武田の西上作戦での3万の軍勢は、1日で30トンの米を消費したそうだから。
313人間七七四年:2008/09/28(日) 17:33:55 ID:NQHtQ/te
>>307
元康君が先鋒として頑張ってたんだから充分動かせると思うが
なんのために何年もかけて口説いたんだよ
314人間七七四年:2008/09/28(日) 17:40:21 ID:9yKtSo76
>310
ほぉ、情報さんきゅ。
橋場さんは最近いろいろ唱えてるね。
桐野の連載でもよく取り上げられてる。
たぶん、水軍とかそういうのじゃないかな。
315人間七七四年:2008/09/28(日) 18:00:36 ID:9yKtSo76
信秀は4000貫出してるし、伊勢神宮の修理の時もどえりゃぁ出してる。
ではそのお金がどこから出たかというと、津島湊の貿易ではないだろうか。
だから、津島は味方する、とか出てたけど、もう津島は完全に信長の支配下にあったし
そういう安堵状というのは信長文書の中でも一番古いぐらいで結構有名。

>312
それに関して桶狭間での水軍との関連が310のあげた本の中に載ってるんじゃないかな。
で、当時は1回に6合配ったそうな。
1日、とよくなってるけど、さすがにそこまで多く食べないだろう。

自分も今川はせいぜい1万で信長本体が2000ぐらい。
だから藤本的な解釈で十分勝負にはなったとは思う。
316人間七七四年:2008/09/28(日) 18:16:54 ID:p1ZY+zHY
>>313
その元康くんが三河でどれだけの影響があったかだろうね〜。
大半は日和見してたんじゃないかと。
317人間七七四年:2008/09/29(月) 01:45:07 ID:PJpZcXvt
元康はそこまで関係するか?元康を握られておる松平衆だけでなく、三河の
ほかの豪族も今川氏に従っているわけで(特に蒲郡一帯の鵜殿氏など今川
氏の縁戚でもある)、三河=松平だから今川氏の戦力つぃては不足とは
いえないのではないか?
存命当時の雪斎なども支配に関与しているしな。
318人間七七四年:2008/09/29(月) 01:45:50 ID:PJpZcXvt
「い」が小さくなってしまった。すまん
319人間七七四年:2008/09/29(月) 09:19:48 ID:M8brhNYV
そだね、当時元康はまだ16〜7の子供だし、桶狭間自体には特に関わってないでしょ。
義元の一存で松平の戦力も自由に使えただろうし。

元康個人としてはがんばったおかげで生き残って、もしかしたら織徳同盟にも影響を
及ぼしたかも、とすると、これは日本史を左右するがんばりだったわけだが、これは後の話だな。
320人間七七四年:2008/09/29(月) 14:30:10 ID:GnMnrrRp
>>319
逆に使えんでしょw
321人間七七四年:2008/09/29(月) 23:20:29 ID:E8hEViA4
傀儡政権の良い見本だろ松平家は。立場上、兵をださなくちゃいけないってんで2万とも3万ともって数に膨れ上がったってことじゃないかな。
そして元康は忠義を見せるためにも先鋒させられて、砦落としてる。
戦う場面になったら一応戦うけど、本隊がやられたんなら、無理して戦う程では無いって連中が多かったからこそ、義元がやられた途端みんな速攻で帰ったんではないかと。
首を返せと吼えたのは今川直属の家臣ぐらいだったが、実際に戦意があったのはこのあたりだったんじゃないかな。ま、全軍が戦意もってるような戦の方が珍しいんだろうが。

それと、あれだけの兵を動員してきた割には、終わり方がやたらとあっさりしてる。
動員数に目をくらまされがちだが、あくまであの戦はあくまで織田から売った喧嘩で、後詰なんだよな。
義元にとっては、大軍を動員して勝ち戦を確定させて、ちょっと尾張の一部を削り取ってさっさと終わらせるつもりだったんではなかろうか。
にも関わらず織田がまさかの攻撃をしかけてきた、と。
322人間七七四年:2008/09/29(月) 23:31:24 ID:yjrLCwTg
なにこの入門篇
323人間七七四年:2008/09/30(火) 01:38:09 ID:oDbuMKfG
織田から売ったけんかだったっけ。
324人間七七四年:2008/09/30(火) 06:34:18 ID:yNIfpMWg
>>323
義元の西上は信長の領地を取り返そうとする動きに対してのものだからそうとも言えるしそうとも言えない。
325人間七七四年:2008/09/30(火) 09:27:02 ID:yO95+A10
>>314
橋場さんの説では、鎌倉街道を通った別働隊が、沓掛城近くの峠(大木があったところ)
を通って、義元本陣を背後から急襲(というか挟み撃ち)したってことになってるぞ。

どこまで本当やら?。
326人間七七四年:2008/09/30(火) 09:39:58 ID:0/lhG7WZ
鎌倉街道から南下する説は豊明古戦場説の補強であり
江戸時代に作られた誤解
327人間七七四年:2008/09/30(火) 10:09:51 ID:oDbuMKfG
>325
小和田は、ピンポイントで場所を指摘してるしね。
藤本説にもそろそろ反論が出てるし、今後が楽しみではある。
328人間七七四年:2008/09/30(火) 18:52:38 ID:yO95+A10
>>312
「元康は丸根・鷲津を落とした後)其れより大高城に兵糧米多く籠める。」と三河物語にある。
軍勢1万人が食べる兵糧は、兵1人1日1kgとして、1日10トン。
馬で運ぶと、1頭で2俵(およそ100kg)運ぶとして、1日でも100頭必要。
「多く籠める」というからには、ざっと最低でも10日分として、1000頭もの
馬を使って、大高城に運びこまなければならない。

よって、丸根・鷲津の攻略前に、陸路を通って大高に兵糧をいくらか運び入れたが、
丸根・鷲津の攻略後に、舟を使って、大高に兵糧を多く籠めたのだろう。

この兵糧は、義元本体がきたとき使うのための兵糧であり、
今川領国から海路運んでくるとなると、大高城しかない。
329人間七七四年:2008/09/30(火) 19:02:43 ID:yO95+A10
最初の、夜の兵糧入れは陸路で。
夜間航行は危険なので、舟による兵糧入れは朝になってから。

このあたりの説は、カギヤさんのHPのパクり。
330たられば君:2008/10/01(水) 00:03:36 ID:ybuQuVQm
大高城に一万人分の兵糧を入れる意味が全くわからない・・・
331奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/01(水) 00:15:37 ID:zhu8upgf
大高城の縄張りを見れば確かに。
332人間七七四年:2008/10/01(水) 00:19:00 ID:Y54CKhrK
大高でとりあえず、様子見するつもりじゃなかったの?
織田のうつけが攻めてくればそこで迎撃、何もしなかったら徐々に数日かけて放火とか
領内にちょっかいかける。
もう少し本格的に攻撃するつもりだったかもしれないし、それには10日分、というのは
良い計算だと思う。
あんなにあっさりやられて、家康も驚いたんじゃないか。がっくし、でもラッキとか。
333人間七七四年:2008/10/01(水) 02:37:38 ID:1b7CJ1O0
元康が義元を売ったんじゃね
合戦場所が目と鼻の先なんでしょ
334人間七七四年:2008/10/01(水) 16:49:55 ID:cQaA1uGM
>>330大高城に一万人分の兵糧を入れる意味が全くわからない・・・

桶狭間の本陣にいた義元は、その後、どこに行くつもりだったんだよ?。

義元は、
駿府城を出て(1日目)、
浜松城(当時は曳馬城?)(2日目)、
吉田城(3日目)、
岡崎城(4日目)、
沓掛城(5日目)、
という順番で、毎日、城に泊まっている。
(信長は、朝出て昼には戦場に着いているのだから、すごく近い)

義元は沓掛城を朝出て、昼食をとるときには桶狭間の本陣にいて、
夕方にはどこにいるかとなると、野営のままか?。
大高の城に入るのが妥当だろう。攻略したばかりだし。

家康や朝比奈の先鋒の軍勢が、すでに合計3000人以上は
砦攻略で大高近くにいたのだから、
義元本陣が到着すれば、
ざっとみて、一万人分の兵糧を入れなきゃならんだろう。

もしも兵糧を入れなかったら、今川軍は10日ももたずに敗退だぞ。
335たられば君:2008/10/01(水) 19:03:27 ID:ybuQuVQm
>>334
今川軍が桶狭間を突破したという仮定なら
大高城みたいな小さくて中洲に閉ざされた山城よりも、
街道に近くて大きい鳴海城に入るほうが自然だと思うけど。
知多半島征伐でもするなら話は別として、
大高城の位置と大きさを見てみたらいいと思う
3000人も入城したら身動き取れない小城だし、当時の麓周辺は沼だらけで
城下町も成立していない、駐屯さえ難しい土地だから。
336人間七七四年:2008/10/01(水) 19:36:46 ID:cQaA1uGM
鳴海城は、付け城をまだ攻略してないから、入城できないよ。

街道上に中島砦がある。
中島砦は、川の合流点の背後から攻めるわけだから、攻略は容易だと思うがな。

善照寺砦は、要害のうえに兵力の集結地になっていたから、この砦の攻略はやや難しい。
でも、善照寺砦でさえ、一見2000人も入れるほど大きくないぞ(信長はここで集結)。

今川軍は大高城には全員は入らずに、義元が本丸の建物に寝起きすることにして、
普通の兵達は、城内だけでなく、鷲津や丸根の砦や中島砦を見下ろす斜面上などに居ることに
なったろうな。
337人間七七四年:2008/10/01(水) 22:36:43 ID:ZG9GXCc9
遅レスだけど
>>294
長年甲陽軍鑑を研究した酒井憲二氏は国文学の立場から分析し
軍鑑の中には室町時代の古語、仮名遣い、当時の甲斐・信濃の方言や庶民が使った
「げれつ言葉」を多数使っている事から江戸時代初期の人間である小幡が書けるものでは
ないことを明確にした。さらに軍鑑はその文体からもともと香坂の口述を筆記者が記録したものである
可能性が高いこと、軍鑑には「この末切れて見えず」などの記述があるところから
香坂の口述を筆記した原本は江戸時代に発表されるまでに相当痛んでいた事が推測されている。
よく指摘される年号や時系列の間違いだが、これは香坂自身が「昔の事を思い出しながら書いてるから
年号なんか覚えてないし事件の前後とか間違えてるかもよ。」と文中で述べている。
平山氏はもともと香坂の口述を基にした原本に後々の人間が様々なエピソードを付加していったのが
今ある軍鑑なのではないかと推測している。

>>295
そう言ってるやつほど武田をたたく時に知らず知らずのうちに軍鑑が基の話を
してしまうことが多いんだよなあ。勝頼陣代説なんかその典型。
338奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/01(水) 23:26:22 ID:sCinEhFY
陣代説ってのは「勝頼を認めねーぞ」という一派が家中にいるまま武田本宗が滅んでしまい
一派は江戸期まで生き残ってしまったから仕方ないんだろうな。
339人間七七四年:2008/10/02(木) 00:26:28 ID:BqGhZeWg
>>337
その説も結構我田引水が強いと思うんだけどね。

江戸時代の人間というが、小幡景憲は1572−1663で、戦国室町を全く知らない人間でもない。
>室町時代の古語、仮名遣い、当時の甲斐・信濃の方言や庶民が使った
逆に言えば、これが小幡には無理だったとして、香坂なら可能とする理由は?
「この末切れて見えず」これも箔付けや説得力を増すために他の書物でも見られる。
>「昔の事を思い出しながら書いてるから年号なんか覚えてないし事件の前後とか間違えてるかもよ。」
これもかなり言い訳くさい言い分だしね。

さらに付け加えると、甲陽軍鑑の信憑性は単に著作者だけの問題でなく、内容に多分に
おかしな点、まちがっている点、矛盾している点などが多々見られるからで、著者が
小幡でなく香坂だったとしても、それだけで史料としての信憑性が高まるわけでもない。
340人間七七四年:2008/10/02(木) 06:56:27 ID:dY+bd0ZR
>>339
小幡はその活動期間から言って活動期間は戦国後期。

香坂なら可能とする理由は?
っていわれても香坂は1527年の甲斐の生まれで農民出身。
香坂にならできて全然不思議じゃないんだが。
むしろ香坂にできない理由なんかあるのか?
言い訳くさい、っていっても実際かいてあるんだから仕方あるまい。
そもそも動機は勝頼政権への忠告だったみたいだし。

おかしな点や間違ってる点はほかの資料でもあること。
注意して他の資料と併用して読めば十分役立つ。
>>337でも平山氏が後の人間が様々に話を加えたのだろうと書いてるよ。
341人間七七四年:2008/10/02(木) 11:55:20 ID:fdCFeBTX
>>337
さんきゅ、まってた。
342人間七七四年:2008/10/02(木) 18:52:12 ID:BqGhZeWg
>>340
>後の人間が様々に話を加えたのだろうと
香坂より後の人が
「室町時代の古語、仮名遣い、当時の甲斐・信濃の方言や庶民が使った「げれつ言葉」を多数使って」
様々に話を加えたのですね?
だったら、同じことを小幡では出来ないとする理由は?

>注意して他の資料と併用して読めば十分役立つ
他の史料で確認できなければ信用できないってことですね逆に言えば。
343人間七七四年:2008/10/02(木) 21:35:17 ID:iQCbns3O
歴史は全部作り話、嘘八百。
344人間七七四年:2008/10/02(木) 21:56:02 ID:qcTI14ag
甲陽軍鑑の○○本、○○大学所蔵本、というふうに
個々の甲陽軍鑑の古本に固有名詞をつけて紹介すりゃいいんだよ。

信長公記の池田本、健勲神社の本、天理本、安土日記、とかね。
甲陽軍鑑のなかでも、もっとも古態を示している本に「この末切れて見えず」
と書いてあるんだろ。江戸時代の版画?による印刷本の甲陽軍鑑では、全部省略されたようだが。
345人間七七四年:2008/10/02(木) 22:14:42 ID:fdCFeBTX
最初に聞いたものだけど、337の言ってることはわかる。
342の論もこういった文献を語るにはいつも出てくる問題ですしね。

明智軍記も「不正確」ではあるが「資料としては有用な面もある」という
研究家もいるし、要は読み手の問題なんだろう。
346人間七七四年:2008/10/02(木) 23:44:53 ID:eJzVPiyb
>>342
平山説はあくまでも一説にすぎんよ。
そして平山説通りだとしても香坂に近い年代の人間が書いたとすれば
なんの問題もなくなる。小幡にできた理由なんかむしろないぞ。

信長公記も同様だという事をちゃんと認識してほしいもんだね。
信長公記にないから嘘、信長公記にあるから他を見ないで全部本当なんてのは
ないよ。ただ軍鑑ではかなり武田の軍体制や軍の技術についても深く触れている。
武田のかなり枢要にいた人物のを基にしたと考えるとすっきりするな。
347人間七七四年:2008/10/02(木) 23:56:01 ID:BqGhZeWg
>>346
一応平山説が正しくて香坂が書いたとして、
当人が「記憶があやふやで自分でも自信ないよ」と断っている記述の内容が信用できるんですか?

>香坂に近い年代の人間が書いたとすればなんの問題もなくなる。
主観の問題とえばそれまでだけど、小幡だって十分近い。生まれは香坂がまだ生存しているうち。
戦国後期に生まれ育った小幡では、戦国時代の言葉を知りえないなんてどんな理屈だよ。
348人間七七四年:2008/10/03(金) 00:06:43 ID:hwKOt/+N
別にそんな議論するようなことでもないと思うんだが
どんな軍記物でも他の1次史料から確認できる部分は史実の可能性が高く、
確認できない部分は史実であるかは保留でいいじゃんか

で公記と軍鑑の差は一次史料から確認できる部分に差がある程度の違いでしかないと
349人間七七四年:2008/10/03(金) 00:10:40 ID:kSF/dNA+
>>347
年号とか順番はそりゃあてにならん。
だが内容や経過、軍制とかは当時の武田の資料を見ても符号する点が多いのは知ってる?
明らかに違うのはあるけどね。

小幡が近いって何の冗談。香坂は1527年生まれでもと農民出身。
小幡は1572年生まれで武田の有力配下武将小幡氏の息子。
言ってしまえば香坂が45歳の時に小幡が0歳なんだぞ。
これで近いなんて冗談としか思えん。小幡が成人したころには
もう香坂の時代の言葉なんか死語になってるだろ。
10年前のコギャル語でさえ今はとっくに死後になってるんだぞ。
350人間七七四年:2008/10/03(金) 00:25:52 ID:NdI7ybOG
>>349
そういう例えをすると、当時45年で言葉が変わった、という史料を出せ、という
絶好のレスがかえってくるぞ。

公記にも、牛一が「爺だではっきり覚えとらんがや」って表現がある。
似てるよな、実際。

ちょっとズレるが公記の首巻には牛一の創作が相当入ってると思う。
信長の都合の悪いことはかなりごまかしてあるように見えるんだよね。
351人間七七四年:2008/10/03(金) 13:21:54 ID:JtwANSOZ
>>350
>信長の都合の悪いこと

ってなに?
352人間七七四年:2008/10/03(金) 15:34:47 ID:pOYNT6OY
>>351
うん、
多分言っても織田信長を“神格化”してる君には
「その信長の都合悪いこと
は信長に絶対ありえないこと」
と脳内変換されちゃうから言っても意味ないから、この議論の場から消えてね。
353人間七七四年:2008/10/03(金) 15:51:55 ID:6ZduYazA
>>352
「創作が相当入ってると思う」とか「悪いことはかなりごまかしてあるように見える」とか主観的なことばかり言ってて「議論」ってw
具体的にはどういうものがあって、その根拠となる史料なりを上げてくださいよ。

ただし、信長公記は牛一自身の定本は無く、人に求められる度に書いてその都度内容が変わってる部分もあるらしいから、本人の思い込みや記憶違いにる誤謬の他に要求者が喜ぶような改変はあるんじゃないかな?
354人間七七四年:2008/10/03(金) 16:20:54 ID:NdI7ybOG
>>353
ごめん、言いだしっぺだ。
別に根拠とは言わないし推測100%だ。
先に言い訳しておくが、信長の生母に関して各資料が曖昧、確定できない、ということから
公記は本当にわからなかった、のか、意図的に隠したのか、わからないが
信長は嫡統ではなかったのではないか、というのを聞いたことがあって
織田家統一のエグさから見てもある程度理解はできるな、と思っただけだ。
人に強制するわけでも議論でもないがので、消えろ、と言われたら消えるが
推論あり、で語るのが許されるなら、ということだ。
355人間七七四年:2008/10/03(金) 19:31:54 ID:XqkIZIIH
>>352
横レスだけど、なんだお前。
まだ「悪いことって何?」としか聞いてない相手に勝手に神格化してると決め付けて、罵倒とか。
条件反射で仮想敵作るとか、どこのバカだよ。
お前が消えろよ。マジ気分悪いわ。
356人間七七四年:2008/10/03(金) 20:55:45 ID:XRnSPK6r
まあ普通に考えるなら公記に信長生母のことが載っていないのは単純に牛一が書く必要性を認めなかったからだろうな、
信長の正室側室妹娘などのことが少しでも公記に載っていたならまだ可能性も多少出てくるかもしれないが、
実際には織田家の女性のことは母に限らず公記には一切出てこない、お市の方でさえ多分一回も名前が出てこなかったと思う。

だから公記に限って言えば信長の生母を誤魔化す隠すなどということはまず無いといって良いと思う。
357人間七七四年:2008/10/03(金) 20:56:37 ID:DZGl7PuX
織田家統一のエグさって?
これがすでに偏見だと思うけど。
358人間七七四年:2008/10/03(金) 21:00:12 ID:Ez8Pe4Rk
公記には、お市の方が多分一回も名前が出てこない?。
ほおーっ、まったく意外だね。

家康と浅井長政については、両方とも「御舎弟」呼ばわりしているから、
信長にとってはどっちも弟扱いだったようだ。
359人間七七四年:2008/10/03(金) 21:06:34 ID:Ez8Pe4Rk
公記を書いた牛一は、公家の間男(姦通)事件を速攻で書き上げているから
(取材元は公家の婦人からだったか、珍しく情報源の氏名を書いてある)、
女性に関して興味がなかったわけではない。
360人間七七四年:2008/10/03(金) 21:33:20 ID:XRnSPK6r
>>359
まあ公記にも朝倉家の娘の集団暴行事件とか、売春宿の婆さんの話とかもあるけどね、
ただ織田家の子女に関してはノータッチ。
まあ市は浅井のことで徳姫は信康、叔母は秋山と磔があるから書けないとしても、
信忠生母に関しても全く書いていないというのは、
これだと信長生母も単に書かなかっただけと考えるのが妥当だと思う。
361人間七七四年:2008/10/03(金) 21:52:02 ID:JtwANSOZ
>>354
>>信長は嫡統ではなかったのではないか、というのを聞いたことがあって
>>織田家統一のエグさから見てもある程度理解はできるな、と思った

誰に聞いたのか知らんけど、公記には、信長と勘十郎信行は同母だと書いてある。
信秀の嫡男として、信広、信長、信行以外に候補になりそうな男子がいるのか。
信長が正室の長男で嫡男だと思うが、違うというなら根拠を示して欲しい。

織田家統一のエグサ?どこが?
毛利家や斎藤家などと比較して、どこがどうエグイの?
362人間七七四年:2008/10/03(金) 22:06:02 ID:XRnSPK6r
信長は同母、毛利斎藤大友は異母弟その違いじゃね
363人間七七四年:2008/10/03(金) 22:07:21 ID:NdI7ybOG
>>361
いや、聞いた話しだから申し訳ないが公記には「御舎弟」とあって「同母」とはないんじゃなかったっけ?
364人間七七四年:2008/10/03(金) 22:17:09 ID:NdI7ybOG
>>361
いや、みんなエグい、と思うよ。
別に毛利とか斉藤よりエグい、とは言ってないと思うけど。

それと、信長が「うつけ」で信行は「折目高なる〜」でしょう。
こういうのは牛一独特の表現で、同腹でない、ということを婉曲に表現したのでないか、と。

また、平手自決とかも、もちろん公記に理由は載ってるが、別の解釈もできるのではないか、と
展開してる。
20年弱ぐらい前に流行った説だけど若い人は知らないのかな。
もちろん、推論、解釈論、説、だからね、わしは「ある程度は理解出来る」といっただけで
人に強制したり、正しい、と主張してるわけじゃないからね。
そこのところご理解よろしく。
365人間七七四年:2008/10/03(金) 22:34:39 ID:XRnSPK6r
今読みなおしたら
織田家の女性は道三息女を婿にとったってのと
信長生母が末森に信勝と一緒にいて、兄弟で争った時使いとなったって公記に記されていたや
サーセン
366人間七七四年:2008/10/03(金) 22:42:42 ID:Ez8Pe4Rk
母親を使って、弟を城に呼び出して殺害した、
という残酷な事件だっけ?
367人間七七四年:2008/10/03(金) 22:46:55 ID:XRnSPK6r
>>366
稲生合戦の後、末森にいた信長生母が信勝の使者となって詫びを入れたため信長も赦免
その後、信勝は信安と組んでまた信長と敵対、その時信長は仮病を使っておびき出して信勝を暗殺
という流れかと
368人間七七四年:2008/10/03(金) 23:08:20 ID:NdI7ybOG
信行暗殺は、信忠が生まれたから、という指摘もあったな。
つまり信長から見て自分の後継者が出来たわけで、織田家内で確固たる
立場が築ける、という。
369人間七七四年:2008/10/03(金) 23:58:03 ID:JQYBU2nM
>>350
実際入りまくってる。
桶狭間4万5千正面突破を皮切りに佐久間の兵力の存在がなぜかない稲生、
長良川では全軍潰走してるのに信長自身が斎藤勢の追手に向かって一発鉄砲撃ったら
それで敵の追撃がやんだりとあきらかに誇張や持ち上げが入ってる。
まあこういうのは首巻以降もあるんだけど首巻は特に講談風味が入ってる。
370人間七七四年:2008/10/04(土) 00:03:42 ID:rCU3b4RP
単純に最初の頃の話は忘れてる&人から聞いた、なんだろ
371人間七七四年:2008/10/04(土) 00:07:22 ID:ZbltE0L9
稲生ですごいのは「大音声」じゃないか。
大声で勝てたら苦労はいらんよね。
合戦以外にも、「筑紫の僧あれこそ国を〜」なんて講談だし
道三の「馬をならべるだろう」とかもね。

でもこういうこと言うと、「公記を疑うのか」ってカキコ絶対にあるぞ。
372奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/04(土) 00:09:16 ID:ViQgGqI0
雰囲気だけ利用しとけばいいんだよそんなもん。
373人間七七四年:2008/10/04(土) 01:53:05 ID:qxewa6sV
だな
あまり細かく表現や数字を気にしていくと使える史料なんてなくなりかねない
374人間七七四年:2008/10/04(土) 02:21:56 ID:bAHgTF4l
>>364
>いや、みんなエグい、と思うよ。
それは当時の周囲に人間が、ですか?それともあなたが現代人の価値感覚で、ですか?

>牛一独特の表現で、同腹でない、ということを婉曲に表現したのでないか、と
恣意解釈が過ぎると思う。信秀葬儀のことを言っているのなら、牛一はその記事の最後で
「他所から来たえらい僧侶が、あれこそ天下人の器だ」
なんて文を挿れている。まあ創作だろうが、こんな創作をいれていること自体が、牛一の
信長>信勝の表現だと思うがね。本当に信長をけなすつもりがあったのなら、最後の文は
明らかに逆効果。

>20年弱ぐらい前に流行った説だけど若い人は知らないのかな
知っているよ。当時読んだ。感想は「史料を自分の都合いい部分しか抜き出さないで切捨て、
結論ありきで論を進めている」典型的な「センセーショナルな新説(根拠不十分)」を売り物に
した宣伝文章だと思った。
375人間七七四年:2008/10/04(土) 08:32:57 ID:Op9wDv/3
>>371
大音声云々は、要するに兵どもに主従関係を再認識させたってことだろ?
あの戦いはなんとなくだが柴田もあまり戦意が感じられず、必死なのは林だけって感じ。
兵たちも上司が必死だから仕方なく従軍してたが、その更に上の上司に一喝され戦意喪失。
公記を疑うのはそこまでだ!w
376人間七七四年:2008/10/04(土) 11:30:29 ID:yieTrbBo
三河一向一揆で家康の姿を見た門徒が主君には槍を向けられないとかいって逃げ出したのと同じ理屈か
377人間七七四年:2008/10/04(土) 12:07:35 ID:20nEPNdI
>>374
もちろん今の自分が現代感覚で、ですよ。

あの最後の文が創作だろう、ということで共通理解が得られるのは何より。

新説というか、珍解釈、というのが多かったようですが、「理解できる部分がある」
という感じでね。
あの本でわからないのが「五箇条の事書」での書形式の問題。
やっぱりあて先が日乗とか印とか「破格」なの?問題ないの?
義昭が出したもの、というすごい推論になってるけど、書式については
何も知らないので教えてもらえたらうれしいです。
378人間七七四年:2008/10/04(土) 23:58:05 ID:b9PK22hT
>>335
どして最前線の城に入らないとダメなの?
大高城が理想でしょ
それに兵員全部城に入る必要もなく、周りで野営するでしょ
379奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/05(日) 17:33:16 ID:3wIEbqnC
大高城の周りの地形で数千単位の軍勢の野営は無理じゃないかなあ・・・
中洲だわ沼地だわ山林だわで想像つかんよ実際。

まわりの城砦に分散するほうが現実味あるだろ。
380人間七七四年:2008/10/06(月) 09:13:27 ID:IVM3/dhy
今川先鋒が、大高城の周囲の砦を制圧して、いったん休憩に入り、
今川本陣も桶狭間まで来たのだから、

その晩は、そのあたりで夜を過ごして、夜間のうちに攻撃の陣形を済ませて、

翌日には中島砦を攻略して、鳴海城に入城の予定でしょうね。
381人間七七四年:2008/10/06(月) 09:25:49 ID:IVM3/dhy
鳴海城に入城したら、ついでに防御の弱い丹下砦も攻略すれば、
要害の善照寺砦に籠る織田勢も、背後を絶たれて撤退せざるをえなくなる。

こうすれば、意外と大軍でもなかった?今川軍は、
大高、鳴海の付け城を排除、という当初の目的を達成したことになり完了し、
上洛はせずに帰国の途についたと思う。
382人間七七四年:2008/10/06(月) 12:10:41 ID:fNtEG5vn
ところで、義元は上洛目的だった、という説はどうなった。
その前に謙信が5000の兵を連れて半年も京にいたのは京防衛のためではないか、
その前の信長にしても、そんな感じだったが。
とすると、義元軍の数とか侵攻の程度がもう少し本格的だったというようにも取れる。
学研新書読んでないのでマトはずれだったら悪いが。
383人間七七四年:2008/10/06(月) 14:29:15 ID:IVM3/dhy
謙信は、舟に乗って
コソーリと京都上洛。
だったと思う。
384人間七七四年:2008/10/06(月) 19:40:11 ID:q5gLBh2O
>>383
堂々上洛と言うよりは「ぶらり一人旅」に近い風情があるな。
ちょうど政治家の靖国参拝のように公人と私人の境目グレーゾーンみたいな。
今だったらレポーターに「公式上洛ですか? 天下取りの意思を表明されるのですか?」とか突っ込まれそう。
385人間七七四年:2008/10/06(月) 19:53:26 ID:IVM3/dhy
信玄だって、駿河を領地にしてあるのだから、海路を使って、
京都に上洛することも一応可能だったはず。

現に、海路を通って、家臣を京都に遣わしている。

焼き討ちされる直前の比叡山の僧侶を連れ帰っている…らしい。
新田次郎原作の漫画(さいとうたかお著)からだが。
386人間七七四年:2008/10/06(月) 20:03:30 ID:IVM3/dhy
>>384
「ぶらり一人旅」か。あんがいこれに近いかも。
越後守護の任命をもらうためだったらしいが、謙信だって当時の大都会で
ある京都に行ってみたかったんだろうな。
謙信の京都上洛は、合計2回のはず。
387人間七七四年:2008/10/06(月) 22:16:51 ID:fNtEG5vn
もうちょっと緊張感あるほういいな。
388人間七七四年:2008/10/07(火) 07:32:47 ID:UKkHFtLh
いや、謙信の場合は
越後の産物を買ってもらう為の、セールス目的もあるでしょ。

直江津の発展の為には、しっかり中央に媚びないとね。

389人間七七四年:2008/10/07(火) 09:43:27 ID:1aiNYDgg
合戦場って、豊明側に碑がありますが、有松とか(緑区と)大府の境目のコジマとかジャンボリーあたりでも
行われたんですかね?星城高校なんかも含めて。
390人間七七四年:2008/10/07(火) 12:05:57 ID:NWXtZiRl
>>389
跡はふたつある。もちろん確定はできない。
ただ、この間辺りの丘を小和田はピンポイントで確定している。
現在の地形から推測するに蓋然性が高い、とは思うけどね。

でグーグルという便利なものができてあのあたりの地形を見ると
丘も微妙に湾曲して住居なんかはその曲がりにそってたっている。
こういうのから推測してCGなんかで復元、ってどこかがやらないか期待してるんだよね。
400年前とは違う、というレスが必ず帰ってくるが、近くの竹やぶとかみてもかなり当時の
ままの趣きがある。
わしらが子供の昭和3〜40年代なんかは、ド田舎、であれ結構昔のままじゃないかと
思ってね。
もちろん、正確にどこに道が、まではわからないだろうけど、イメージとして田んぼと竹やぶと
小山と、そういうのの復元ってみてみたくてね。
391人間七七四年:2008/10/08(水) 19:06:31 ID:WxqACmyq
今の桶狭間あたりは、住宅密集地で何がなんやら。
どこが高くてどこが低いのか、もうごちゃごちゃでわからない。
392人間七七四年:2008/10/08(水) 22:34:39 ID:y9B7Yyit
大体、大高が港のそば、ってのが不思議なんだ。
山、ってイメージしかないもんね。

で、「桶狭間合戦の図」に詳しい人いる?
義元本陣は左京山駅200mの漆山、なんてなってる。ほんとかね。
週末行って来ようか。
393人間七七四年:2008/10/09(木) 00:08:54 ID:IqVt5uUe
雨か・・
394奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/09(木) 20:01:59 ID:gQuFFm3J
>>392
桶狭間に3年、丹下砦脇に7年住んだオレでよければ。
395人間七七四年:2008/10/09(木) 23:43:39 ID:gNhsrKDL
左京山駅周辺は良い意味ではインターナショナルな地域です。
朝鮮高校があり、団地には日本で働く東南アジアの方達がいっぱいです。
女性は大高のJR高架下周辺で一人の散策は避けてください。
396人間七七四年:2008/10/10(金) 08:34:59 ID:k6GWRfqd
>>392
大高から笠寺にかけては
鳴海、元塩、汐田、浦里、北浦とか海に関係のある地名が多いね
397人間七七四年:2008/10/10(金) 21:16:50 ID:KH4KTkRx
>>392蓬左文庫の桶狭間合戦絵図
ttp://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/images/okehazamakozu.jpg

ふつう本に載っている桶狭間の地図を見ると、大高城のわきは大河?の河口だが、
沖合いはすでに陸地化しており、村も存在していた。鳴海は完全に内陸。

この画像地図を見ると、大高の西に道があって、海に通じて終わっているので、
ここが舟乗り場か?。
398人間七七四年:2008/10/10(金) 22:16:20 ID:L/juE2mR
鳴海城と大高城は、織田領の中で孤立しているので、
今川からの連絡や物資の補給は、船を使ったはずだね。
399奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/10(金) 23:29:56 ID:T1Id8sfo
扇川と手越川の位置で相当歪んでるから脳内補正が必要だな>>397
400人間七七四年:2008/10/11(土) 03:06:18 ID:wGE+E2xM
>>397
その絵図は江戸時代のもので、合戦当時よりも海岸線が後退しているってことはないですか?
401焼き味噌テクニック:2008/10/11(土) 14:01:05 ID:gEpWxE00
みんな大好き東照大権現だよ〜♪
信長に逐一義元の情報を垂れ流していたのも
義元に桶狭間で休むように言ったのも俺w
混乱に乗じて三河を取り返し独立したかったんだ、何年か経って
武田に今川攻めさせたのも後の世に色々とバレない為の事後処理ってやつ?
案の定世間では武田は裏切り癖があるから徳川可哀想ってなってるしw
信玄の奴あとで気付いちまって(おせーよw
三方ヶ原に呼び出されてフルボッコにされたけのはさすがの俺もしかめっ面
でもみんなは判ってくれるよな?これも鳴くまで待とう不如帰だ!
あんなに上手くいくとは我ながら脱糞モノだったぜ
そうそう本能寺を光秀に襲わせたのも俺、猿と共犯だけどなw
まーその猿も俺の掌で踊らされていた訳だが幕府開いちまえば歴史なんて
幾らでも粉飾できるし、これだから律義者は止められねーぜwww
402人間七七四年:2008/10/11(土) 15:29:42 ID:qEpwQAv1
>>397
ども。

江戸時代に書かれたものだろうから当然厳密な意味では海岸線は後退
してるだろう。
ただ今とあまりに違うから当時のふいんきをよく表してるとはいえる。
我々は現在の海岸線知ってるから後退、とは言うけど当時の人にはそんなこと
わからなくて、かなりその時点での状態に近いのでないだろうか。
当たり前だがね。
ほんで川なんてしょっちゅう向きや流れはかわるだろうから。
403人間七七四年:2008/10/12(日) 18:54:27 ID:9Yn4NMpC
汐田あたりから名和にかけては江戸時代に入って新田開発が盛んに行われたとこだから
その頃の海岸線や村を現しているんだろうね
404人間七七四年:2008/10/12(日) 18:57:18 ID:3uy/jsBP
江戸期に入ると東海道一帯は、埋め立てと新田開発で文字通り地形が変わったらしいね。
405奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/12(日) 21:01:38 ID:CuRIUDsZ
熱田が海に面しているくらいだから。
東海豪雨のときに市内南部で浸水した地域は海か潟だったと信じてる。

地名で言うと浦里西部・最中・上汐田・中汐田・名和北・鳴海栄・大同町・源兵ヱ町・要町・丸の内
大磯通・ちかま通・大江町・加福本通・大高から東海市にかけての「〜割」「〜新田」は海だと考えている。
逆に星崎・中屋敷・星宮・元鳴尾・元柴田あたりは陸地で。
406人間七七四年:2008/10/14(火) 13:49:02 ID:DyNRf4Yr
星崎は陸地だったようだね。
織田信長が、上の道、下の道のうち、
潮が満ちていたので、上の道を通ったとある。

では、下の道は何かというと、星崎経由で、大高に直行する道があったようだが、
満ち潮だったので、川を渡って大高城方面へ行くことができなかった。
407人間七七四年:2008/10/14(火) 15:32:11 ID:PUA7RwMe
大高の知人に聞いたら今でも〜砦みたいな地名や呼称があって、
そこは確かに「こ高いとこにあるよな〜」なんて言ってた。
鳴海、なんて海そのものの地名だしね。
408人間七七四年:2008/10/14(火) 20:07:40 ID:DyNRf4Yr
今でも、鳴海城のすぐ下の川は、潮の満ち引きがあるはず。
409人間七七四年:2008/10/15(水) 14:58:39 ID:5OMf3nOT
>>407
丸根砦近くの砦前やろ
410人間七七四年:2008/10/15(水) 15:02:40 ID:5OMf3nOT
沓掛城なんだけど
現地に行くと良く整備されて遺構が残っているが
直ぐ近くに小高い丘があるのに何であんな低地に作ったんだろう?
411人間七七四年:2008/10/15(水) 16:00:12 ID:5VtuVUhT
>>410
太平の江戸時代に移築したとか?
412人間七七四年:2008/10/15(水) 16:50:15 ID:5OMf3nOT
関ヶ原戦後すぐに廃城になっているよ
413人間七七四年:2008/10/15(水) 21:06:39 ID:5VtuVUhT
それじゃあ、水源の関係かな?
414人間七七四年:2008/10/15(水) 21:49:23 ID:aiHY28mz
>>410
その遺構がそこにあったというのは確かなの?
ある有名な寺なんて、礎石、のかわりにプラスチックの板がはめてある。
415奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/15(水) 22:10:08 ID:+g9dNcSa
ちず丸で見ると感覚的に分かりやすいな。
416人間七七四年:2008/10/16(木) 00:12:38 ID:+kujnpN9
>>414
それは遺構保護の為にわざとそうしてるのでは?
本物の遺構は埋め戻して上に復元したダミーを置くのは有りえます。
遺跡保護の為にはその方が良いらしい。(大気にさらすと一気に風化が進み、結局遺跡破壊になってしまう。
417人間七七四年:2008/10/16(木) 00:21:36 ID:eLp9kSOi
>>416
かもしれない。ただ10個ぐらい並んでて1〜2個は本物の石だった。
コンコンやって確かめたような。
もちろんその石もダミーかもしれないけどね。
環境保護というより盗難防止かもね。
418人間七七四年:2008/10/19(日) 18:40:51 ID:qy2so+4J
元々、建物があって住んでいたところを、
後から掘をほって、城と化した場合は、
城として不自然な形になることがある。
419人間七七四年:2008/10/21(火) 01:44:17 ID:QE5Wnxip
新説 桶狭間合戦は面白いね
420人間七七四年:2008/10/21(火) 03:19:30 ID:FrLCimmy
定光寺年代記
(永禄)三年 五月十九日駿州義元尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人被打、

今川軍は、1万しかいない。定光寺年代記がそう言ってる。
421人間七七四年:2008/10/21(火) 03:24:21 ID:JZn3kPtk
それだけじゃ全軍が一万だったのか、兵を分散させた結果その時の義元の手元には一万しかいなかったのかの判別がつかない。
422人間七七四年:2008/10/21(火) 03:27:30 ID:FrLCimmy
北条早雲が、三河に攻め込んできたときも、今川1万余となってるし。

1万が実数では??????????
423人間七七四年:2008/10/21(火) 03:36:05 ID:JZn3kPtk
それはそれで時期が違いすぎるから。
あとはまあ、その定光寺年代記がいくら信用のある史料だとしても、それ一つを以って決めるのは乱暴かと。
424人間七七四年:2008/10/21(火) 09:28:12 ID:YEkwrdKw
駿遠三は広いから留守部隊も大勢いないとダメだからそれほど
戦力集中は出来ないだろうから1万人超えぐらいでいいと思うな
425人間七七四年:2008/10/21(火) 11:26:09 ID:ZHIMvqzL
>>420
>>駿州軍勢一万人被打

被打=うたれ=討たれ

駿河勢1万人が討ち死にといっているのだ

ちょっと誇張はいってるよな
426人間七七四年:2008/10/21(火) 11:39:07 ID:m6YbVp8C
まあ本当に一万人も死んでたら二度と立ち直れないからね
427人間七七四年:2008/10/21(火) 13:02:30 ID:2H3Z6R4e
ま、今川が織田にボコボコにやられた、という風に当時は伝わったということはわかる。
428人間七七四年:2008/10/21(火) 22:00:59 ID:ZHIMvqzL
討ち死にが一万くらいなら、
全滅でない限り、
攻め込んだ時の数は、二万くらいはいたのではないか。
429人間七七四年:2008/10/21(火) 22:12:00 ID:QE5Wnxip
戦国史上屈指の大敗、砥石崩れだって討ち死には1,000人いないんだぜ
430人間七七四年:2008/10/21(火) 22:25:58 ID:zKp3r9Nv
部隊の二割が戦死で全滅って言われるわけだが。
431人間七七四年:2008/10/21(火) 22:44:38 ID:VRa4pw0W
太平記の時代は10万人とか平気で討ち死にしてるなw
432奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/21(火) 23:29:38 ID:aTUP6Kcr
それを言うなら頼朝は28万騎を率いてだな・・・
433人間七七四年:2008/10/23(木) 00:00:27 ID:0cFIx3af
ありえね〜〜〜w
434人間七七四年:2008/10/23(木) 19:51:21 ID:jVrQwkhq
「足利季世記」
・今川:一万余

やっぱり、1万しかいない今川。

435人間七七四年:2008/10/25(土) 13:15:01 ID:CwPWrSxO
http://homepage3.nifty.com/yogokun/okehazama.htm

桶狭間って、やっぱりおかしいよね?
436人間七七四年:2008/10/25(土) 13:16:58 ID:o358G3Sk
>>435
あまりの読み難さに3秒で閉じた
437人間七七四年:2008/10/25(土) 13:38:21 ID:fLRH3Sqm
そのサイトと、それへの反論は上の方で既出だな。
438人間七七四年:2008/10/27(月) 18:47:23 ID:vr/DOL2p
また検討しなおしてもいいんじゃない?
上の方と同じ展開になったとしてもヨシ
439人間七七四年:2008/10/28(火) 01:56:01 ID:JoMWCLMs
じゃ、とりあえず上で出た事を簡単にまとめてみっか。

・信長公記の内容で、通説と年号が異なる場所がある。これは牛一が2000という兵数に説得力を持たせるため、わざと手を加えたことによるもの。
→当時牛一は従軍しておらず、この部分は伝聞である。執筆はかなり後年になってからであり、伝聞で得た情報が不正確だった、ということも考えられる。
なんらかの政治的判断があったのかどうかは不明。あったかもしれない。

・尾張の石高からみて、2000しか動員できなかったというのはおかしい。
→石高はその土地における最大動員可能数の目安にはなるが、常に動員力をフル活用出来るとは限らない。

とりあえずこんなとこ?他のところを検討したいのなら何か言ってくれ。
つーかまじで見にくいよそのサイト。
440人間七七四年:2008/10/28(火) 15:57:42 ID:n4w8DghT
うまくまとめたな。要点とらえてる。
441人間七七四年:2008/10/28(火) 21:13:32 ID:aLgE+BbW
戦が長くなるかもしれないから当然鳴海城までは後から来たとは思うが
信長軍は手弁当でOKだから基本的には2〜3000はすべて戦闘員だろうね

一方遠征の今川は現地調達はあっても小荷駄隊は相当な数だろうなあ
442人間七七四年:2008/10/30(木) 07:35:50 ID:WAcVQLOz
沓掛城までは事前に兵糧を集めておいただろうが、
桶狭間本陣、大高城などは、織田領内だから、
進軍したらすぐさま小荷駄隊で兵糧運び入れだろうね。

桶狭間本陣では義元が「弁当をつかわしてゆるゆるとしていた」とあるから、
沓掛城で弁当を作っておいて昼飯用にくばったのかもしれん。
443人間七七四年:2008/10/30(木) 11:09:04 ID:pnSzo8DB
>>442
桶狭間本陣では昼食とったけど、
夕食および翌日以降は大高城でとる予定だから、
先に松平隊が兵糧いれしている。
本陣は戦闘員よりも小荷駄隊が主体だったてのはありえないんだよね。
だいたい、小荷駄隊だって、敵に襲われれば槍もって戦うって(w
444人間七七四年:2008/10/30(木) 14:31:13 ID:FwfaB3+h
予想される本陣近くに穴を掘って伏兵を500人ほど隠していたという説が最近有力になってきている。
合戦前に付近の農民まで動員して穴掘ってたようだね。
445人間七七四年:2008/10/30(木) 14:38:46 ID:91RvCOW5
>>444
物凄い机上の空論っぽい話だなw
江戸記の軍学者の説みたいだ。
446人間七七四年:2008/10/30(木) 14:57:11 ID:sI68KGWe
机上の空論とは失敬な

妄説という立派な言葉があるのに
447人間七七四年:2008/10/30(木) 15:29:16 ID:pnSzo8DB
>>444
さすがにそこまでやると、今川のスパイが探知するだろう
448人間七七四年:2008/10/30(木) 17:40:30 ID:su9Zov2Z
レベルの乱高下が激しいスレだなあ
449人間七七四年:2008/10/30(木) 18:02:43 ID:O6e3Fhqb
な、なんだってー(AA略
とか言っとけばよかったんじゃないか?
珍説なだけに。
450人間七七四年:2008/10/30(木) 18:25:46 ID:91RvCOW5
なんだってー(ry と言えば、
昔本当に、桶狭間は宇宙人が今川軍を殲滅したって奴があったなw
451人間七七四年:2008/10/30(木) 20:16:35 ID:WAcVQLOz
まあ、後年になって、
肉人という宇宙人らしいのが家康の屋敷に忍び込むくらいだから。
「神祖、駿河にゐませし御時、或日の朝、御庭に、形は小児の如くにて、肉人ともいふべく
、手はありながら、指はなく、指なき手をもて、上を指して立たるものあり。見る人驚き」
452人間七七四年:2008/10/30(木) 21:16:24 ID:PGmb8Xze
今川本陣に予想外すぎる無名の内通者がいたことで良くね?
453人間七七四年:2008/11/04(火) 07:16:48 ID:QFdfi7hU
山本かんすけが、今川本陣に織田軍を誘導して討ち取らせた、
という説があったな。
さいとうたかお漫画の「風林火山」だが。

今川軍が弱体化するのが目的で、その後、武田軍は駿河に侵攻。
454人間七七四年:2008/11/04(火) 09:14:44 ID:HDRBgV1a
今川が桶狭間なんて危険な場所にいること事態が不自然だからね。
その場所に行かなければならない理由は何だろう?
信長が降伏を申し入れた場所が桶狭間じゃなかろうか。
油断したところを山から駆け降りてきた信長の家臣か何かが、今川を討ち取ったわけだ。
455人間七七四年:2008/11/04(火) 09:22:51 ID:QFdfi7hU
桶狭間は、東海道の街道上だぞ。

今でも国道だの鉄道が集まる重要地点。関ヶ原ほどではないが。
456人間七七四年:2008/11/04(火) 10:26:04 ID:RkIdrCbs
今の桶狭間交差点なら戦国時代は巻山という地名
国道でいうなら23号線のほうが近い
457人間七七四年:2008/11/04(火) 11:17:54 ID:h5MuqQsm
>>454
降伏申し込んだって、武装したままで今川本陣に近づけるわけがなかろう

「信長の首を出せ。話はそれからだ」って言われる
458人間七七四年:2008/11/04(火) 12:10:24 ID:SjeRwG07
桶狭間はれきっとした山なんだがね
こんな所へ誘導するアホはおらんだろ
459人間七七四年:2008/11/04(火) 13:53:59 ID:+QYdGzY3
>今川が桶狭間なんて危険な場所にいること

おそらくこれは、「桶狭間とは田楽狭間のことだったんだ!」という、
はるか後の時代における強引な後付けトンデモに引き摺られた誤解だろうよ
460人間七七四年:2008/11/04(火) 16:37:11 ID:HDRBgV1a
そうなのか、行ったことないから分からんな。
当時の暦は地方によって違うし、伝言ゲームみたいに事実が変わっていく段階で
聞いた話なのだったら、きちんと書けているはずがない。
牛一が参戦していたのなら別だけどね。
信長大好きの牛一が2000人で打ち倒したという話を主体に書いた場合
信長公記みたいになってしまうのは不思議ではなく、
意図的に年号を置き換えたという根拠には乏しいと考える。
書いていて、おかしいと思ったかもしれんがね。
461人間七七四年:2008/11/04(火) 16:58:15 ID:g/Tpu9g2
定光寺年代記
(永禄)三年 五月十九日駿州義元尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人被打、

今川軍は、1万しかいない。定光寺年代記がそう言ってる。

「足利季世記」
・今川:一万余

やっぱり、1万しかいない今川。

462人間七七四年:2008/11/04(火) 16:59:02 ID:Df36VSqJ
>>461
軍記ものを根拠にしてどうする
463人間七七四年:2008/11/04(火) 18:20:11 ID:HDRBgV1a
しかし一万くらいが妥当でもある。
既出のサイトの検証は的を獲ている。
今川は信長公記の記述より少なく、信長は多い説には賛成だ。
あと降伏を申し入れたとして、武装したまま行ったとは限らない。
というより武装して行くわけがない。
首を差し出しに行ったと見せ掛けたのかもしれんぞ。
464人間七七四年:2008/11/04(火) 21:39:40 ID:xUZISeCH
一万だってもの凄い数だ
働き盛りの男が一万人だぞ
しかも日本の人口は今の1/5以下
どうも昔の戦の数は誇張が大きい
465人間七七四年:2008/11/04(火) 23:20:41 ID:Sun7n6Dn
織田側の資料ばかり問題になってるが、今川方の資料はなんかないのかな。

織田が降伏申し込んでだまし討ちにした、というのは昔からある説だが、これが
案外一番妥当な感じもする。
首を出せというほどの大合戦ではなく、単に領土紛争的なものなら、話し合いしたいから
場所を教えてくれ、みたいに言って相手の本陣さえわかればいい。
そうすれば「緩々」の意味もわかるし、今川だってバカじゃないから教えるわけない、とか
よくある反論なんだけど、小さいながらも砦落として自軍のほうが大軍なんだから
本当に大雨も降ってきたし、「緩々」しちゃったんじゃないか。

そしたら「すわかかれ」だもんでね。
牛一の記述なんだけど、そういう細かい事情知らない兵の聞きとりだと、丁度
そんな風になるんじゃないかな。
小和田や藤本が場所の特定みたいなこともしているけど、今川軍から織田軍が
丸見えだったにもかかわらず正面から打ち破れた、というのは今川の方に尋常じゃない油断というか
なにかがないとね。
やっぱり、幸運だった、というだけなのもちょっとどうかと思う。

もちろんそんな史料も証拠もあるわけじゃないのだけど、状況から考えるに
そういったみせかけ降伏説というのは意外としっくりあてはまるようにも思う。
大体いきなり敵大将首が取れるというのもありそうでありえないぐらいの完勝だし。
466人間七七四年:2008/11/04(火) 23:24:13 ID:Df36VSqJ
>>465
三河物語>今川方の資料
467人間七七四年:2008/11/04(火) 23:45:22 ID:EUhYtSBY
天理本だとまた内容違ったような…
468人間七七四年:2008/11/05(水) 01:19:23 ID:xcye+r35
しかし、小競り合いのように言うのは
双方に被害が大きすぎる。
主力決戦としか思えない。
469人間七七四年:2008/11/05(水) 11:17:33 ID:LvRXr72w
今川氏と領国支配とかには関係情報ないのかな。
今度図書館行ってみてくるか。
470人間七七四年:2008/11/05(水) 17:43:55 ID:0Dkco4cI
地元の市立図書館の郷土史には、少し変わった情報があるかもしれない。

会津で郷土史の本買って読んだら、会津の戦いのエピソードで
一般には聞いたこともない話がいくつも載ってたぞ。
471人間七七四年:2008/11/05(水) 19:24:19 ID:LvRXr72w
そういうのはほとんど創作だろうけどね。
472人間七七四年:2008/11/05(水) 19:25:45 ID:Lv0QIZG4
桶狭間合戦以前、織田信長と今川義元は桶狭間以前に顔あわせしてるだろ。
守護職斯波家と吉良家?の和睦か何かで。その時に領土の話し合いで揉めたんちゃうか?
473人間七七四年:2008/11/05(水) 20:22:55 ID:GXg/lTJJ
昔からもめてる間柄だから今更なあ
474人間七七四年:2008/11/06(木) 00:06:53 ID:k5v08Zsg
>>472
それいつぐらい?
うつけの真っ最中だった信長なら十分ありそだな。
475人間七七四年:2008/11/06(木) 01:08:47 ID:XD3awMaP
>>474
>>472は、信長公記によると弘治二年(1556)だね。
三河の上野原で、織田今川双方の軍勢が、160メートルほどの間隔をあけて
ずらりと並んでいたそうな。

まあ既にうつけ時代ではないがな。
476人間七七四年:2008/11/06(木) 01:42:09 ID:Mgzw2TVY
>>461
>定光寺年代記
>(永禄)三年 五月十九日駿州義元尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人被打、

この一文だけだと、「一万人が討たれた」と読めるな。
=被害が一万とも読めてしまう
477人間七七四年:2008/11/06(木) 08:15:49 ID:ACGxRmfB
駿州だけで一万とも読めそう
478人間七七四年:2008/11/06(木) 08:36:02 ID:gFdSjMyo
一万人も討ち取られたなんてのはちょっと信じ難い
千人の間違いだろう
多分大げさに書いたんだよ
479人間七七四年:2008/11/06(木) 12:31:41 ID:XD3awMaP
>>478
それを具体的な資料を持ってきちんと推論できるようにしないと、ただの空想で終わっちゃう。
480人間七七四年:2008/11/06(木) 13:22:17 ID:anoWrLQI
当時の合戦形態で考えたら、戦死者一万はさすがにサバ読みすぎとしか考えられないけどな。
(戦傷者としても多すぎる)

ただ定光寺年代記の文章からは「今川軍総勢一万」とは読み取れない。そこはガチ。
481人間七七四年:2008/11/19(水) 05:03:48 ID:VmkGLEks
>>195 >>199 みたいな人が、今川だけに不利な雨が降ること信じてるんでしょうね。
雨降っても土煙上がる、ってのも飲み込んじゃうんでしょ。
局地的なこと無視したら、説の自由度上がるだけ。局地的=条件。
だから、日付や時間が正しいかどうかも吟味すべきだと思います。
でも疑い出したらキリないのも事実(ぁ

めんどくさがりやな俺は一応、このHPの言う事半分以上信じてますよ。
ttp://k-gensai.hp.infoseek.co.jp/mythsandtruths/t002okehazama.html
482人間七七四年:2008/11/19(水) 11:25:38 ID:itbC07q6
>>481
そのHPに書いてあることは、どう考えても
↓のところに大きな無理がある。
>そうこうするうちに、信長はあれよあれよという間に攻撃をしかけてきて前線を突破し、あっという間にその後方の義元本陣まで飲みこんでしまった。
483人間七七四年:2008/11/19(水) 13:39:55 ID:vqij6pf2
>>481
疑うもなにも一次史料がないから仕方ない
古地図を眺めて伝聞を逐一検証する作業にならざるを得ない
懐疑的に進むのは必然だよ
484人間七七四年:2008/11/19(水) 19:16:37 ID:+8JEvV0x
>>481に記してあったURLは、すごくよくまとめてあるね。

>>482の指摘どうり、末尾の
「そうこうするうちに、信長はあれよあれよという間に攻撃をしかけてきて
前線を突破し、あっという間にその後方の義元本陣まで飲みこんでしまった」
というところが、説明不十分という指摘はごもっともなことだ。

義元は、織田軍に備えて、前衛の軍を配置していた。
この前衛の軍を撃ち破って、義元の旗本まで突き進むことが、
実際に可能なのか?、というのが問題だろう。

信長の家老たちも、信長の馬にすがりついででも引き止めている。

だが、直後に異変が生じているね。
今川に逆風が吹いたとな。
485人間七七四年:2008/11/19(水) 19:26:00 ID:JAdZ0VSp
疲れているはずだから勝てる
486人間七七四年:2008/11/19(水) 19:31:16 ID:JAdZ0VSp
ごめん >>485訂正

「敵の部隊は疲れているから勝てる」という信長の発言をどうとるか、が大事だと思う。本当にそう思っていたのか、士気をあげるための単なる方便だったのか
信長公記が信長の勘違いを載せるかどうか・・と思ったが、これぐらいなら書くか
487人間七七四年:2008/11/19(水) 21:25:57 ID:+8JEvV0x
本当に「疲れている部隊」だったから、
という指摘をしているHP(かぎや)があったな。
信長が言ったのは、勘違いしたままそう言ったのではなく、本当だったと。

家康は確かに大高城にいたが、丸根、鷲津を攻めた部隊は、
そのまま北進して街道に出て、義元本陣に戻っていた最中だったとか。

そこを千秋らの部隊が追撃をかけて返り討ちにあい、敵(今川)の部隊は
もう連戦につぐ連戦で疲れきってしまい、そこへ信長がやってきて、「あの者ども、疲れ…」。
488奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/20(木) 00:11:47 ID:+syQ+E+0
また手取川と扇川が無視されているのか。
489人間七七四年:2008/11/20(木) 01:57:26 ID:thbiqYaj
手取川は織田軍が大敗したはずなのに名のある武将は誰も死んでないからな
これではなかった事になっても当然なんだよ
490人間七七四年:2008/11/20(木) 05:49:11 ID:hlP4CWvv
>「分捕りをなすべからず、打捨てたるべし」

この言葉から、「とりあえずひと当てしてみよう」みたいなのではなく、
何らかの決意や確信があったと思うのだが。
491人間七七四年:2008/11/20(木) 07:23:18 ID:uUJ+sXDV
むしろ「深入りせずひと当てしよう」って感じの方が強いんだが>「分捕りをなすべからず、打捨てたるべし」
492人間七七四年:2008/11/20(木) 09:36:55 ID:Rz81M0Lg
そうか?
その発言は敵が義元本隊であると認識していなかった証拠だと思うがなあ。
ここで勝ってもそれで終わりじゃないんだから、欲に走るなと戒めたと見るべき。
493人間七七四年:2008/11/20(木) 10:21:10 ID:lu/8i4cl
「討ち捨て」は普通城攻めの時にしか発しない言葉だおね
勝っても相手領地を攻め取る気が無いので褒美無いよと言いたかったのか
雑兵少なく家臣ばかりだったのでまかり通る言葉なのか
ただ長期戦を想定していたなら討ち捨てておkは無いと思う
494人間七七四年:2008/11/20(木) 12:51:12 ID:hlP4CWvv
>>492
軽く、という小競り合いみたいなもんじゃなくて、
乱戦になるっていう前提を持っているように思ったんだが。
495人間七七四年:2008/11/20(木) 19:24:18 ID:uUJ+sXDV
>>494
むしろ乱戦にならないよう、威力偵察のようにさっと討ってさっと引くような戦い方を
考えていたからこその、「分捕りをなすべからず、打捨てたるべし」だと思うのだけどね。自分としては。
要は「すぐ逃げられる身軽な戦闘をしろ」って意味だろうし。

本格的な戦闘を考えていたのなら、分捕りは戦闘意欲を掻き立てるものだから
むしろ奨励するでしょう。

あと、戦の形は状況によってどんな形にでも変わるから、最初から「乱戦」なんて事を前提として
戦闘を始めるのは、リスクが高すぎる。

とりあえず信長としては、ひと当てして相手の様子を見ると言う、最もリスクの少ない戦術を
取った。それが今川方に何らかの理由で混乱を引き起こし、それを信長が戦期と見て
本体の旗本を突撃させた、ってのが自分の考えです。
496人間七七四年:2008/11/20(木) 20:58:47 ID:hlP4CWvv
>>495
>むしろ乱戦にならないよう、
>威力偵察のようにさっと討ってさっと引くような戦い方を考えていたからこその
あー言われて見ればそうかもしれんなぁw

>それが今川方に何らかの理由で混乱を引き起こし、
結局ここだなぁ。様子見の戦闘で混乱するのかという疑問がある。
497人間七七四年:2008/11/20(木) 21:14:17 ID:uUJ+sXDV
>>496
おそらく、寝返りが出たといったような流言が出たのでは、と考えます。
まあ、あくまで想像だけどねw
498奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/20(木) 22:30:38 ID:+syQ+E+0
>>489
ごめん。>>488

誤:手取川
正:手越川
499人間七七四年:2008/11/21(金) 00:25:19 ID:dfaFI2VO
どの隊からも織田軍丸見えなのにどうして???ってことだね
丸見えなんだよ今川からは
なんで負けたん?
500奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/21(金) 00:28:31 ID:yMnBRBUO
>>481のサイトのように北から攻めてきたら、間に森があっても丸見えだわな。
川を2つも渡ってるんだし。なにより瀬名陣をどうやってやり過ごしたんだろう。
501人間七七四年:2008/11/21(金) 19:40:32 ID:W9Xct/VM
お前が考えても答えは出やしねーよ
502人間七七四年:2008/11/21(金) 20:44:29 ID:LBblHu+q
このコテハンさんは地元だから参考にはなるでしょ
503人間七七四年:2008/11/21(金) 22:18:17 ID:4UvyxkzH
じゃあ、千秋らが討ち取られた前哨戦を、信長も義元も見たそうだが、
両方から見える位置から逆算して、
義元の本陣は、有松中学校あたり?。
504奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/21(金) 22:44:21 ID:yMnBRBUO
オレはユーストア南の公園だと思ってる。
505人間七七四年:2008/11/24(月) 18:34:41 ID:K6wJCnRj
オレはユーストア南の公園から200m東だと思ってる。
506人間七七四年:2008/11/24(月) 19:56:36 ID:sUB1rxty
あの辺りでまだ整地されていなくて合戦があった時代に近い藪はありますか?
そこを基にして、木の高さや密集度などを類推して、
街道を外れた場合に馬は通れたのか、人は通れたのかを予想したり、
季節や天候によって変わる視認範囲を色々な場所から測定してみるのも面白そうです。

新緑の季節で大雨の場合と、落葉した冬の晴れた日とでは合戦の結果に大きな影響が出たかもしれませんし、
もし街道以外を進めたのであれば、今川軍が街道を封鎖していた場合にも、
織田軍は虚をついて今川本陣に向かう事が出来た可能性もあり、
行軍進路の予想を違った切り口から考えることも出来ると思います。
507奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/24(月) 21:48:29 ID:GIXeCaAy
>>505
思い切り崖やん。

>>506
幕山から桶狭間交差点の道の西側は比較的削られていないんじゃないかな。
武路南も整地されたとはいえあれだけの台地が残っているので、
住宅を全て無視すればある程度のイメージは付けられると思う。
508人間七七四年:2008/11/25(火) 19:02:41 ID:VeIVv3E+
>>507
ありがとうございます。
GoogleMapで確認しましたが、かなり整地が進んでいるようですね。
教えてくださった場所に加えて少し北に向かい保健衛生大学周りやみどりが丘公園辺りと、
南の大府市や東海市方面にも足をのばしたいと思います。
時代も季節もずれ過ぎているのであまり参考にはならないかもしれませんが。

また、有松から北にいくと徳重あたりまでちらほら竹薮が残っているのですが、
あれが当時は雑木林だったのか、竹に侵食された結果なのかも興味深いところです。
509奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/25(火) 23:15:04 ID:xA6IAR06
緑区の昭和30年代の航空地図を前の職場で見たんだけどね、
桶狭間住宅が造りかけなものだからなかなか面白い地形だったよ。
510人間七七四年:2008/11/26(水) 21:32:02 ID:G8dh7Dp6
東海市にすんでますが、東海市には桶狭間戦はおろか戦国時代に関する話しはきいたことがないです。 まあ、今川方も、逃げるとしても、三河方面だったろうし、戦火の拡大も、東海市にはなかったぽいですが、 何となく… 大府はまた別ですが…
511人間七七四年:2008/11/27(木) 15:24:39 ID:mUUz7Ju1
>>510
>>389あたりを見てみて下さい
東海市はほとんど海でしょう
512人間七七四年:2008/11/27(木) 19:21:06 ID:iGDLvlyc
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM

こいつなんなの? えらそうに
513人間七七四年:2008/11/27(木) 22:05:57 ID:ByMEeUCO
>>508
孟宗竹なら言うとおり浸食だろうね。
雑木林というと、きちんと手入れされた入会地の事なんだけど、当時のそのあたりが
そんなに開発されてたのかどうか。
514奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/27(木) 22:11:43 ID:zrioAXz8
>>513
その雑木林を嘲笑うかのように当時から通っているのが鎌倉街道。
515人間七七四年:2008/11/29(土) 20:05:54 ID:hTChZN3G
自慢か
516奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/29(土) 20:35:46 ID:m7W6DFAD
長い時間をかけて自然に成立する道は、竹林をものともしない。
517人間七七四年:2008/12/01(月) 19:42:01 ID:Vf2QSiBK
新興宗教をやっつけてくれよ。
518人間七七四年:2008/12/01(月) 21:05:17 ID:4gneSqJF
何の話題かわからんな
519人間七七四年:2008/12/09(火) 15:36:21 ID:r8UWGutY
今川義元と雪斎を神格化して、家康の師匠にしようという勢力がこの知恵袋にいますね。捏造は許されませんよね?小和田哲男でしょうか?今川厨の捏造擁護にだまされないように。

海道一の弓取=徳川家康のこと。今川義元のことは完全な捏造。

家康の軍法の師匠は、雪斎は、幕末の地誌(郷土誌)の駿国雑志の捏造。徳川の公文書に記載なし。

家康は、今川に恩義を感じていた?捏造です、改正三河後風土記、徳川実紀では、今川は三河を横領した悪党です。

520人間七七四年:2008/12/09(火) 18:03:30 ID:pX/anUNK
>今川は三河を横領した悪党です。

吹いたw
521人間七七四年:2008/12/09(火) 21:44:54 ID:tGBwi+vU
>>519
家康が殿様になれたのは、義元様のおかげだろうが。
522奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/09(火) 22:54:06 ID:jcv1tNlW
清康の挫折はどう考えようか。
523人間七七四年:2008/12/10(水) 00:29:45 ID:1+P1xjTQ
>>521
こいつ有名なキチガイだから相手にしない方がいいよw
524人間七七四年:2008/12/10(水) 06:32:24 ID:mia1L6iV
見えないものが見える不思議な人がいるな
525人間七七四年:2008/12/10(水) 17:29:43 ID:fN+2ZQQt
改正三河後風土記は、資料の信ぴょう性ナシ。
526人間七七四年:2008/12/10(水) 17:38:34 ID:fN+2ZQQt
コピペ転載

42 :人間七七四年:2008/12/05(金) 00:26:58 ID:4EttCeYw
奇襲という用語の定義からすれば、今川軍は確実に織田軍の攻撃は
予期していたのではないか?
何しろ、山の上から見ていて、砦から自分たちの下まで真っ直ぐ突き進んでくるのを
把握していたはずだろう?
ただ、直前に向かい風の驟雨があったために、隊列を維持していられなくなってしまい、
防御が機能しなかっただけだろう。

伊達正宗の擦上原とかもだが、時として本当に「追い風が吹く」人間ってのがいるのだなw
527人間七七四年:2008/12/10(水) 17:42:51 ID:HEtTagtQ
つか何時まで奇襲攻撃信じてんだって話だよ
528人間七七四年:2008/12/10(水) 20:03:40 ID:UlKoEs9Y
>>526
>砦から自分たちの下まで真っ直ぐ突き進んでくるのを把握していた

そもそも、砦からそいつらが出てこないと今川軍がはなっから思っていたとしたら、
織田軍が「真っ直ぐ突き進んでくる」時点で奇襲といえなくも無い。

桶狭間って開戦が夕方ごろで、普通、戦というのは早朝から始めて夕方に終わるものだったから、
その点で織田軍の思わぬ進軍に今川軍は動揺したのでは、と藤本説。
529人間七七四年:2008/12/10(水) 21:19:46 ID:NDmGl4qv
>>528
相手が「思わぬ進軍」したから、動揺しただと?

今川軍て烏合の衆なのな。そやつの脳内では(笑
530人間七七四年:2008/12/10(水) 21:24:48 ID:VCJxRnQu
信長公記で信長が相手は丸根・鷲津を攻めて疲れた部隊だとか
味方を煽ってたのは、一般的には故意とされてるが、確証はない。あるいは本心かもしれん。
本気で勘違いしてたとしたら、風雨が味方しなかったら信長死んでたんじゃないかw
531人間七七四年:2008/12/10(水) 21:29:40 ID:zeTBILKr
>>530
まあ信長は、ある時期まで異常に運がいいからな。
ぶっちゃけ運だけで生きていたと言うか…。斎藤義龍や信玄、謙信の死なんて幸運にもほどがあるし、
それ以外にも例えば上洛の時の六角戦も、六角がお得意のゲリラ先鋒で行こうとしたら、
ちょうど一族の不和があって上手く連携できず各個撃破されたりw

でも最終的に信長は、自分の幸運を過信しすぎて滅びた感があるけどな。
532人間七七四年:2008/12/10(水) 21:43:10 ID:jUDdGNnk
>>531
そうですねwチンギスハンもナポレオンも幸運で勝ち上がったんですねわかります
533人間七七四年:2008/12/10(水) 21:54:43 ID:zeTBILKr
>>532
当たり前じゃん。運のない武将はどんなに優秀でも大成しない。
運が悪けりゃすぐに死ぬんだから。
534人間七七四年:2008/12/10(水) 22:01:20 ID:VCJxRnQu
まあ運が悪ければ杉谷善住坊の狙撃で死んでる。
535人間七七四年:2008/12/11(木) 11:55:09 ID:x3M1HpSY
何でも運で片付ける思考停止人間はいつまでたっても居なくならんな
536人間七七四年:2008/12/11(木) 11:57:40 ID:HIajrCIQ
運の重要さを理解できない奴も思考停止だけどな。
537人間七七四年:2008/12/11(木) 13:32:49 ID:fnGBVmal
>>530
雨が止んでから「かかれ!」と号令。風雨はほとんど関係ないな。
538人間七七四年:2008/12/11(木) 17:17:12 ID:bEHfYGp3
雨がふりかかるところに攻め懸かってきた。風雨に大いに関係あるな。
539人間七七四年:2008/12/11(木) 17:22:22 ID:bEHfYGp3
>>530
相手が引けば攻めろ、相手が攻めてきたら引け、と指図しているので、
疲れていると思った今川兵がじつは疲れてなくて
どっと攻めてきたら、織田軍は逃げの一手。

信長は死ななかったと思う。たぶん。
540人間七七四年:2008/12/11(木) 18:25:01 ID:gMZNrGkb
こんな本が出ましたな

【信長の戦い@】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった
ttp://www.yosensha.co.jp/book/b2896.html
541人間七七四年:2008/12/11(木) 18:39:24 ID:bEHfYGp3
藤本正行 著じゃないか!。こりゃすげえ。
読まなくては。
542人間七七四年:2008/12/11(木) 23:21:16 ID:OuemKiMR
でも藤本氏が信長公記を真面目に読んだ結果として桶狭間の迂回奇襲を否定したのって、
もうずいぶん前だよな。
おんなじネタで何度本出してるんだという気も、ちょっとするのだがw
543人間七七四年:2008/12/12(金) 11:09:18 ID:TARZx/0o
>>537
読みやがれ(w

信長公記(原文)
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_1.pdf
544人間七七四年:2008/12/12(金) 12:19:41 ID:GOEB84R7
>>543
「空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ」とあるが何が可笑しいん?
545人間七七四年:2008/12/12(金) 18:01:18 ID:Bm/MQH+t
公記の原文ってこんな明治時代みたいな文章なの
546人間七七四年:2008/12/12(金) 19:36:45 ID:TrjaiHfN
明治時代はまだまだ文語調だったからね
547人間七七四年:2008/12/12(金) 19:59:35 ID:O/TZ/KhT
翻刻を知らんとは・・・
548人間七七四年:2008/12/12(金) 20:11:30 ID:2LGIGBRj
今川義元と雪斎を神格化して、家康の師匠にしようという勢力がいますね。捏造は許されませんよね?小和田哲男でしょうか?今川厨の捏造擁護にだまされないように。

海道一の弓取=徳川家康のこと。今川義元のことは完全な捏造。

家康の軍法の師匠は、雪斎は、幕末の地誌(郷土誌)の駿国雑志の捏造。徳川の公文書に記載なし。

家康は、今川に恩義を感じていた?捏造です、改正三河後風土記、徳川実紀では、今川は三河を横領した悪党です。


549人間七七四年:2008/12/13(土) 00:49:02 ID:i0mbrpIG
本陣の旗が折れるほどの風雨を正面から受けたら、とてもじゃないが隊列を保ってられないし、
楯などの防御道具も、敵に向けて置いていられない。
雨が止んだからとて、目の前の敵を迎え撃つ大勢は、すぐには整わないだろうね。

「奇襲」という言葉が好きな人に言わせれば、天候的奇襲とでも言おうかw
550奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/13(土) 00:53:23 ID:xykCW9bV
>>548
三河の横領は認めてもいい。
ただ今川氏が刈谷の出身なのを見落としてはいけない。
551人間七七四年:2008/12/13(土) 01:51:33 ID:oPLpGfcV
>>550
こいつは、いろんなとこでこういう事言ってる気違いだから
相手にするだけ無駄だよw
552人間七七四年:2008/12/13(土) 02:37:52 ID:0D8fArgi
今川義元と雪斎を神格化して、家康の師匠にしようという勢力がいますね。捏造は許されませんよね?小和田哲男でしょうか?今川厨の捏造擁護にだまされないように。

海道一の弓取=徳川家康のこと。今川義元のことは完全な捏造。

家康の軍法の師匠は、雪斎は、幕末の地誌(郷土誌)の駿国雑志の捏造。徳川の公文書に記載なし。

家康は、今川に恩義を感じていた?捏造です、改正三河後風土記、徳川実紀では、今川は三河を横領した悪党です。


553人間七七四年:2008/12/13(土) 06:35:31 ID:tfR+ZDiN
コピペか
554人間七七四年:2008/12/13(土) 13:25:08 ID:gHqiGLtk
>>549
それほどの風雨だったら、織田軍のほうも、
槍や弓矢を吹き飛ばされる、濁流に足をとられる、馬がパニクる、指揮が伝達不能、視界不能
などのダメージを受けるだろうなーwww

正面攻撃だとすれば、今川軍が有利な高地にいたことも忘れてはいけない
555人間七七四年:2008/12/13(土) 13:39:13 ID:jOye65o4
>>554中国の馬謖って人もそんな事言っていたらしいね
556人間七七四年:2008/12/13(土) 14:44:24 ID:LlKv0/vm
向かい風で強い雨となったら、まず前を向いてるのが大変だからなあ。
557人間七七四年:2008/12/13(土) 16:30:22 ID:To6+4CFA
>>554
織田から見れば追い風だったらしい。しかも突撃前に納まったともある。
横風や向かい風の場合は難儀でしょうが追い風なら視界不能という事もないでしょう。
追い風では逆に移動速度が上がったりします。なので織田勢は大した混乱もなかったのでは?
ひょっとしたら織田勢は、今川勢が風雨による混乱を収拾する前に突撃できたのかも知れません。
558人間七七四年:2008/12/14(日) 15:27:52 ID:j5mGI8pK
雨が降って、今川の鉄砲が使用不能になった。

今川軍も鉄砲を装備していた。装備の差はない。
559人間七七四年:2008/12/14(日) 19:28:11 ID:rP5hcMgQ
鉄砲が使えない不利は守る側に顕著に出るよね。
でも60年じゃまだそんなに割合高くないんじゃない?
560人間七七四年:2008/12/14(日) 19:42:54 ID:IhmEv2Ch
>>544
引用の原典が「信長公記」に対して、>>538は「三河物語」を引用してるぞ。

「車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に、永禄三年庚申五月十九日に、信長三千計にて
 切て懸ラせ給えば、我モ/\ト敗陣(軍)シケレバ、義元ヲバ毛利新助」

猛烈な風と通り雨が、織田軍の上を過ぎて(空晴る)、
今川軍にかかったとき(車軸ノ雨ガ)、←自転車でも車輪覆いがないと、
水しぶきを振りまくので、そのような横っ飛びの状態を車軸ノ雨というのか?。
織田軍は攻撃した。

織田側は晴れているのに、今川側は向い風の豪雨の真っ最中、では勝負にならんぞ。
561人間七七四年:2008/12/14(日) 19:48:10 ID:IhmEv2Ch
三河物語の執筆時は、著者の大久保ナントカは生まれてなかったので(多分)、
桶狭間の合戦の描写は聞き書き。
一方の、信長公記のの著者太田牛一だが、30才ごろで弓の名手で
この後の美濃攻めでは大活躍するが、

桶狭間の合戦には参加しておらず、聞き書きである、という意見がある。

どちらも聞き書きなら、桶狭間で織田が攻撃したのは、晴れていたとはいえないぞ。
片方の文献は否定しているのだから。
562人間七七四年:2008/12/14(日) 19:57:33 ID:rP5hcMgQ
雨上がりの攻撃でも雨中の攻撃でも、どちらにしろ今川軍は隊列の崩れた状態で
攻撃を受けたのだろう?
敗因はそこに尽きるのではないか。
563人間七七四年:2008/12/15(月) 12:50:00 ID:YjPPdWYk
そりぁ本陣崩壊しているから陣形が乱れた崩れたのは間違いない
ただその原因を天候に決定出来るほど今川軍が無能なのかって話し
564人間七七四年:2008/12/15(月) 20:49:17 ID:f/AGiRXI
摺上原だって風向きで優劣が変わってるからね。
牛一曰く、木がへし折れるほどの風雨だったら、隊列は保てないでしょ。

戦国時代の戦術を考えた時、守りの要は長柄足軽で、隊列を組んで槍を構える。
長柄足軽が完全な槍衾を組んだら、容易には近づけない。

一方で、軍役で動員しただけの長柄足軽は、攻撃的な運用など出来るものではない。
そこで攻撃の要は、武士が担う。槍を手に、個々の武勇で攻めかかる。
だから一番槍ってのは武士の誉れであり手柄なのだな。
武士は個々の武勇が基本なので、隊列はさほど重要ではない。

ただ前述の通り、相手の長柄足軽が完璧な隊列を組んでいたら、いくら武勇に優れた
武士でも簡単には攻められない。だから相手の隊列を崩してから攻める必要があり、
そのために飛び道具が使われる。
早い話、飛び道具による隊列の崩し合いで勝てれば、そこから武士たちが突入して
白兵戦に持ち込み、敵を壊乱させる。相手の隊列を崩す前に突入したら、返り討ちに遭う。

桶狭間では、既に隊列は崩れていたのだから、あとは攻めかかれば良かったのだな。
信長が攻撃に出た瞬間に、義元も攻撃命令を出せていたら、勝敗は逆だったかもしれないが、
そこでやはり、直前まで追い風だったか向かい風だったかの差が、出たのではないかな。
565人間七七四年:2008/12/16(火) 02:14:05 ID:H94tLQsN
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/

久保田昌希

百科事典なのに、自分の主観と感想で、今川義元をマンセーしている。

小学館って、ガイキチだな。
566人間七七四年:2008/12/16(火) 02:20:53 ID:57UQE5j0
>>565
気違いはお前だよクズw
いろいろなところで書き込んで迷惑かけるなよ
567人間七七四年:2008/12/16(火) 16:18:34 ID:H94tLQsN
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/

久保田昌希

百科事典なのに、自分の主観と感想で、今川義元をマンセーしている。

小学館って、ガイキチだな。


568人間七七四年:2008/12/16(火) 19:39:29 ID:zMAKw4sK
>>567
駿遠三の太守であり
愚将ではないからな
マンセーしても別にかまわないと思うが

>>554
桶狭間に実際に行ってみるとわかるが
あのあたりで一番の高地といっても
目に見えて判るような高地ではないから
それ程有利と言うわけでもないよ
569人間七七四年:2008/12/16(火) 19:54:12 ID:ioqrBH/p
昔は十分な丘陵地帯だろ。瀬名なんとかさんは戦地としてここを選んで正解
570人間七七四年:2008/12/16(火) 21:59:01 ID:VORP8lSd
>>560
>織田側は晴れているのに、今川側は向い風の豪雨の真っ最中、

織田と今川は、いったい何km離れて戦っているのか?
そんなのありえねえだろ。
刀槍を交わして戦っているのに、そんな天候の差があるわけがありません。
今川が戦えないほどの暴風雨なら織田も戦えません。
公記の記述のほうが正確。
つまり、暴風雨のあいだは「山際」で待機、やんだ時に攻撃開始です。

>>564
一度、台風のときにでも、実験してみるといいですよ。
2千人くらいで、一部は乗馬、その他は長い棒でも担いで、山道を2・3km
まともな集団行動ができるかどうかをね。
追い風だから楽だとか、とんでもないことですね。

尾張兵といっても全員が桶狭間周辺の土地勘持っていたわけでもないんですよ。
しかも正面攻撃ならば、織田は今川の本陣にたどり着く前に、
その途中にいる今川の前衛をかわしたり戦ってすり抜けないとならないんですよ。

>>568
織田が出撃した中島砦は海抜ほぼ0m、今川本陣があったと推測される桶狭間の中腹は海抜20-30m
しかも、今川が先に戦場に到着していて、中島砦に向かって布陣。
途中の小高い場所には見張り部隊も配置済み。
兵数からいっても、圧倒的に今川有利ですよ。
571人間七七四年:2008/12/16(火) 23:14:36 ID:H94tLQsN
今川や徳川も鉄砲や忍者はいたけど、

義元がアホで、信長が天才だったので、信長軍の圧勝だった。

島津家久の釣り野伏せりで、竜造寺隆信を討ち取ったように、戦場で
敵の総大将と重臣多数を討ち取るという数少ない事例。

ましてや、島津と違って、1560年頃のことだし。

豊田の鈴木氏、刈谷の水野など、西三河ですら完全に領国化できていない。

尾張三河国境紛争が正解で、上洛などではない。
572人間七七四年:2008/12/16(火) 23:50:03 ID:VCF6YFeT
>>570
雨の中を行軍したのではなく、今川軍の布陣する山の裾に辿り着いた頃に雨になった。
そこで一時停止。
雨が止んだところで攻撃開始。
573人間七七四年:2008/12/17(水) 00:08:37 ID:dBebZZaO
http://rek.jp/index.php?UID=1227713609

この書状では、今川が織田に押されて困っているようだぞ。

今川が織田を圧倒していた事実はないな。
574人間七七四年:2008/12/17(水) 00:35:29 ID:Pv7ERzlu
>>573
天文18年って、まだ信秀が生きてた頃の話じゃん。桶狭間時の信長のおかれた状況と
全く違う。


こんな物を出してどうしたいんだか。
575人間七七四年:2008/12/17(水) 11:41:18 ID:beo5drDa
>>571
オマエの言う天才が、史上稀に見るアホな死に方をしたのだが?
576人間七七四年:2008/12/17(水) 12:01:31 ID:kaGSEqHF
>>572
>今川軍の布陣する山の裾

ソースあるの?
「公記」には、「山際」と書かれているが。
577人間七七四年:2008/12/17(水) 13:39:20 ID:n64lAs10
同じ意味なんじゃねえの?。

そのときの今川軍と織田軍の接近は、数百メートル以内。
「かかれ」と信長が号令して走り出したわけだから、2kmもあったら
そんなに長く走れない。
>>570は頭いいのか悪いのか混在している内容だな。
578577:2008/12/17(水) 13:49:16 ID:n64lAs10
>>570通り雨なんだから、降る範囲は狭くて、豪雨のすぐ先では
降っていなかったことはよくあること。
夕立ちを思い出してみろよ。
だから「いったい何km離れて戦っているのか?」って、なんでそんな発想になるんだ?。

「今川が戦えないほどの暴風雨なら織田も戦えません。」も
今川には顔面に風雨が打ち付けて、ろくに戦えない有り様なのに、

背中に風雨が打ち付けて追い風となっている「織田も戦えません。」なのか?。

その下からの記述は概ね同意。
579人間七七四年:2008/12/17(水) 13:56:54 ID:n64lAs10
>>564 牛一曰く、木がへし折れるほどの風雨だったら、隊列は保てないでしょ。

うむ、激しく同意。
風速20〜30mもの突風が吹いた模様。しかも今川には向かい風。

ここの公記の記述で少し問題なのは、沓掛の峠の大木が東向きに倒れた、というところ。
木がへし折れるほどの風雨、という意味はいいのだが、

このとき織田軍は沓掛までは行っていないのだから、
沓掛での記述がここにさりげなく混じって書いているということは、
後から聞いたか聞き書きで、牛一がその現場で見たわけではない、という疑念があること。

太田牛一は桶狭間に参戦していないのではないか?(つまりどこまで本当のこと書いているか?)
という記述箇所だな
580人間七七四年:2008/12/17(水) 14:25:36 ID:n64lAs10
風雨がやむまで待ってた、というのも変だな。
風雨が邪魔だったのか?

熱田新宮の神軍か?と兵たちが言っていたのだから、邪魔どころか
加勢になった、とみるべきじゃねえの。

だから「空晴るるを見て」夕立ちがやみそうになったので、急いで攻撃命令を下した
んじゃねえの?。

中島砦までは細い道で、後続の兵たちは急に来れないから、

来るのを待っていた、というならわかるけど。

風雨で織田軍の移動が見えなかったというのは変。
三河物語の記述では、織田の軍勢はモロに見えてるし、
兵の人数まで数えられてる。
3000人と数えられたが、これは意外と多い、と判断したらしく、
急いで帰れと今川の仲間に指示してるし。

三河物語の著者の周囲には、桶狭間に実戦参加した経験者が大勢いて
その人たちから聞い書きしており、三河物語は、信長公記に次ぐ一級資料。
581人間七七四年:2008/12/17(水) 21:45:31 ID:mHbxxrCz
晴るるを見て、だからまさに雨が止んでからだろう。
朝駆けと同じだよ。
夜討は確かに奇襲になるが、自分たちも地理もわからず同士討ちの可能性もある。
朝駆けなら相手にとっては奇襲になるが、こちらは危険が無い。
雨が上がった瞬間、より混乱してるのは今川だから、まさにその瞬間は
織田にとって絶好の機。
582人間七七四年:2008/12/17(水) 23:21:40 ID:kaGSEqHF
>>577
山際には、1)山のすそ、2)山の稜線、の二つの意味があります。
正面攻撃説だと、山裾と解釈するのでしょうが、そうだとすると、
本陣のある山裾まで敵が迫っていたら、暴風雨だろうと、それに対抗する措置をとるでしょう。
第一、敵が山裾に到着するまで雨は降ってなかったから、丸見えなのに何やっていたのでしょうか?

山際=山の稜線、すなわち尾根と解釈したらどうでしょうか。
尾根の反対側まで接近したところで雨が降り出したのでそこで待機(敵から見えていないから当然可能)
雨がやむと同時に攻撃命令
そして、今川軍が突然の攻撃を受け、慌てふためいている描写から、
織田軍の接近に気づいていなかったと解釈するのが自然ではないでしょうか。

「(今川軍は)水をまくるが如く、後ろへクワッと崩れなり」
『柄杓で水をまいた時、その水が向こう側へバッと飛び散るように、今川兵が逃げ崩れて行った・・・』
この描写は、山を攻め登った様子ではなく、
敵陣よりも高いところから、駆け下りて行った視点で語られていると思います。

>そのときの今川軍と織田軍の接近は、数百メートル以内。

ですよね。だとしたら、
>織田側は晴れているのに、今川側は向い風の豪雨の真っ最中

は、ありえないでしょう。
織田軍の頭上の雨がやんだ時は、今川軍に降り注ぐ風雨もかな〜り弱くなってるんじゃないでしょうか?
いや、ほぼおさまってると言ってもいい状態。
しかも、刀槍で戦うんだから、両者入り乱れて戦うのだから、条件は同じ。
とすれば、風雨のせいで負けたなんて、とても言えませんよね。
583人間七七四年:2008/12/17(水) 23:50:31 ID:jMdf2WN+
この大雨のせいで
崩れたあと今川側は撤退が困難になったのと、
大高近辺の今川勢は低湿地帯や川を越えることが出来なくなって、織田勢の側面を突くことはおろか、
義元の救援も困難になった?
584人間七七四年:2008/12/17(水) 23:58:14 ID:ZCAJqvtS
まともな将なら、桶狭間山に陣取るならすぐ近くの中島砦の動向には常に注意しているはず。
信長が中島砦まで来た事は、義元は把握していただろう。
中島砦から、まっすぐ義元本陣に向かおうが、どこかから迂回しようが、モロバレだろうな。

「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、
敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる」

義元にすれば、風雨さえなければ、隊列を組んで静かに待っていれば、
何も問題はなかった。なにせ最初から高所に布陣しているのだから、相手の出方を
待って迎撃すれば必勝は疑いない。
動かない事で、相手が突っ込んで来たらまずは楯を連ねて弓矢鉄砲で迎撃、
それで止まらなければ長柄で防御という二段構えが完全な効果を発揮する。
無理に攻めかかる必要が無い。

>>582
>この描写は、山を攻め登った様子ではなく、
>敵陣よりも高いところから、駆け下りて行った視点で語られていると思います

山の上に布陣していて、片方から攻められたから反対側へこぼれ"落ちて"行ったのでは?
おけはざま"山"に布陣したと書いた当の本人ですからね。牛一は。

>織田軍の頭上の雨がやんだ時は、今川軍に降り注ぐ風雨もかな〜り弱くなってるんじゃないでしょうか?
>いや、ほぼおさまってると言ってもいい状態。

>>581参照。防御が機能を停止していたところから、そうそうすぐに立ち直れるものじゃない。

>>583
この時代は裏崩れだ友崩れだと、兵があっという間に離散するのは、ままあったことなので。
だいたい無線も無いので、隊列を崩したあとに散り散りになったら、まず反撃できません。
585人間七七四年:2008/12/18(木) 16:10:08 ID:PG8Gha5Y
>>584
>「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、
>敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる」

その急雨が降ってるあいだ、戦闘はしてないことに注目。
織田兵は「神軍(かみいくさ)か」と囁きあう。つまり待機している状態です。

>おけはざま"山"に布陣したと書いた当の本人ですからね。牛一は。

「おけはざま山に、人馬の休息これあり」
は、必ずしも、山頂に本陣を置いたことを断定できません。
中腹であっても、『○○山に布陣した』と表現することはあります。
猛暑の日であったことから、日陰もあり、水の補給の容易な場所こそ本陣にふさわしい。
東海道から、大高方面へつながる道が分岐するあたり。
つまり、中腹の窪地と考えるのが妥当です。

山頂には、見張り部隊を配置すればいいです。
第一、吹きさらしの山頂に本陣があって、大木が倒れるほどの強風が吹いたら、
それだけで、義元はじめ風に吹き飛ばされ、山から転げ落ちて壊滅状態です(笑

>防御が機能を停止していたところから、そうそうすぐに立ち直れるものじゃない。

正面攻撃説じゃないんですか?
>まともな将なら、桶狭間山に陣取るならすぐ近くの中島砦の動向には常に注意しているはず。

自分でも書いてるじゃないですか。そのとおり。
中島砦に向けて前衛部隊を布陣させ、本陣を防備する隊も配置。
小高い場所(複数)には見張り隊も置きました。
敵が東海道沿いに接近してくるかぎり、見落とすわけがありません。
雨が降り出す前から、敵がふもとに迫って来ているのが見えているのだから、
暴風雨が始まる前から、報告、指令、配置替えなど、防備強化はできているはずです。
中島砦から本陣までは約30分の距離(途中、今川兵が妨害すればもっとかかる)。
万全の態勢で待ち受けることができたことでしょう。
多少混乱したとしても暴風雨が弱まってきたら、すぐさま迎撃の態勢をとるでしょう。
なにしろ目の前の麓に敵が待機しているのですから(正面攻撃説によれば)。

まあ、私は本陣は窪地にあった説なので、
暴風雨による本陣の被害は限定的だと思いますがね。

それにしても、中島砦に向けて配置された今川の前衛部隊は何をしていたんでしょうか?
佐々・千秋らの300人を、「瞳(どう)とかかりて」瞬時に殲滅した部隊ですが。
586人間七七四年:2008/12/18(木) 22:50:42 ID:KzmBL4cw
>>585
>その急雨が降ってるあいだ、戦闘はしてないことに注目。
>織田兵は「神軍(かみいくさ)か」と囁きあう。つまり待機している状態です。

え?俺はず〜〜っと、雨が止んでから信長が攻撃命令を出したのだと
主張してるんだけど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

雨はあがる時はすぐにあがるもんでしょ。だからまさに天祐。
所在が分かってる敵の攻撃を止められない理由があるとすれば、
隊列の崩れた所に突撃を受ける場合ぐらいしか、合理的には説明できない。
あくまでも見えない位置から攻撃されたと主張するのなら、
信長が義元本陣に東に向って攻撃をしかけられる、しかも相手に気づかれない
配置というものがありえるのか?という話になる。
587人間七七四年:2008/12/19(金) 12:47:42 ID:vaafP9Aq
>>586
ありゃ、人違いだったか。失礼。
「今川は顔面に風雨を受け、織田は追い風」と主張していた人と間違えました。すみません。

>>信長が義元本陣に東に向って攻撃をしかけられる、しかも相手に気づかれない
>>配置というものがありえるのか?

「旗本は是なり。是へかかれ」と御下知あり。未の刻、東へ向かってかかり給う。」

高所から見ていると(山裾からなら絶対見えない)、
入り乱れて戦う敵味方、混乱する今川軍の中に、300騎ほど固まって逃走を図っている集団が見えた。
「あれこそ義元の旗本に違いない。あれにかかれ!」
てことでしょう。
東は、東海道の沓掛方面。義元がそっちへ逃げようとしていたのを発見したと考えられます。
・山際から駆け下りて本陣を襲った時は、南に向かって
・戦いの場から逃げる義元に攻撃した時は、そこから東に向かって
で、なんら矛盾はないです。

「義元本陣に東に向って攻撃」という記述は、公記のどこにもありません。
山際=山の稜線=尾根。だから、相手からは見えなかったわけですね。
588人間七七四年:2008/12/19(金) 19:55:04 ID:fZDMsduW
千秋と佐々は、果たして単なる抜け駆けだったのか。

あるいは松井や井伊らを釣り出す囮であって、
信長の深謀に乗って犠牲を買って出たのか。

信長信者は後者ということにしたいのだろうが。
589人間七七四年:2008/12/19(金) 21:04:48 ID:tPo7RN+5
千秋と佐々は、守備していた砦を無断撤退した部隊(の隊長)。
丸根と鷲津の隊長は真面目に死守して玉砕したが。
中島砦の隊長は、梶ナントカが任されているので、中島砦には入れず前面に集結していたらしい。
この説は、カギヤさんのHPから。

>>584は天才。

織田信長が義元を攻撃したとき、その戦いで今川方から見た戦いの様子が記されている文献がある。

「三河物語」だけどな。物語と題名にはあるが、小説とか軍記物ではなくて、日記に近い。
著者の大久保家は、三河の譜代。

善照寺砦に集結した織田軍を、今川の先鋒が偵察したのちの場面が以下。
「早々被レ帰せ給え」ト六左衛門尉申ケレバ、急早メテ行処に、
 徒者ハ早五人三人ヅゝ山えアガルヲ見て、我先にト退ク。
 義元ハ、其ヲバ知リ給ズシテ、弁当ヲツカハせ給ひて、ユク/\トシテ
 御給ひシ処に、車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に、永禄三年庚申五月十九日に、
 信長三千計にて切て懸ラせ給えば、我モ/\ト敗陣(軍)シケレバ、
 義元ヲバ毛利新助(良勝)方ガ、場モ去ラサせズシテ打取。」

「徒者ハ早五人三人ヅゝ山えアガルヲ見て」
山の際まで来た信長が「かかれ」と号令して、徒歩の者が今川軍のいる山を上り始めた場面。

「我先にト退ク。 」
今川の先鋒が、水をまくるがごとく崩れる場面。

「義元ハ、其ヲバ知リ給ズシテ」
千秋と佐々との戦闘は見たようだが、同じ場所なのに、今度の攻撃は知らなかったらしい?。

「ユク/\トシテ御給ひシ処に、車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に、」
ユク/\トシテは、ゆるゆるとして、の意味。
ゆるゆるとしているところに、車軸ノ雨(横殴りの雨)が降り掛かった。

この記述は大問題。
信長は空が晴れるのを見て「かかれ」と号令して、先頭の者が山を上りはじめて、
でも義元は気付かず、
その後に、横殴りの雨があった、と記述されていること。

信長公記と三河物語のどちらかが間違っているという見方でなく、どっちも正しいと
すれば、こうなる↓。

一,中島砦を出た織田軍の頭上に、熱田新宮の方から東に向かって大変な早さで通り雨がキタ!。
一,中島砦の「南東」の山の際にいた今川の先鋒は、雨に降られず、織田軍の攻撃を受けて
  (理由はまだよくわからないが)水をまくるがごとく我先に退く。
一,今川の本陣は、先鋒のいた位置ではなく、もうちょい東の方で、今回の攻撃は
  義元には見えなかった。ので、のんびりしていた。
一,東に流れた「通り雨」が、義元の本陣にキタ!。
一,東に向かって攻め懸かった織田軍は、義元を討ち取る。
590人間七七四年:2008/12/19(金) 21:13:43 ID:tPo7RN+5
義元に織田の攻撃が見えなかったのは、西の空には通り雨があったから。
かいな。
とりあえず、これで一応すっきりと通じるし、
桶狭間合戦がなぜ少勢の織田信長が勝てたのか、解説できたんではないか。
591人間七七四年:2008/12/19(金) 21:15:56 ID:uv01VBAh
信じられないほどの運のよさだよなw
592人間七七四年:2008/12/19(金) 21:28:58 ID:tPo7RN+5
今川の先鋒がなぜ水をまくるがごとく我先に退いてしまったのか?だが、
千秋と佐々の300を一気に撃退しているので、
今川の先鋒は、およそ3倍の千人いた、と考えられる。

織田軍は2千人だというが、信長公記は桶狭間合戦があった年を間違えており、
織田信長が2千人くらいの動員兵力しかいなかった古い時期(つまり数年前)
にあたるページに、桶狭間合戦は書かれている。

実際にはもっといたらしく、また三河物語には三千人で攻めてきたとあるので、
織田軍はとりあえず三千人とする。となると、今川の先鋒の3倍の兵力となり、
一気に撃破できる、というか、今川兵がビビッて逃げ出させることができる。

今川兵の先鋒も本陣も、意外と大軍ではなかった、ようでもあるな。
593人間七七四年:2008/12/19(金) 21:35:11 ID:HRNuM9od
正面攻撃しておいて、10倍以上の敵にどう考えたって勝てる訳がないだろうが
594人間七七四年:2008/12/19(金) 21:48:52 ID:tPo7RN+5
晴れてから、織田軍は攻めた。

(今川軍は)攻撃を受けてから、雨が降った。

通り雨だったから、という理由でうまく説明がついたと思ったが、

織田軍は、黒煙をあげて走って、雨雲を追い越したらしい(笑)
595人間七七四年:2008/12/19(金) 21:57:20 ID:tPo7RN+5
今川軍は、せいぜい1万人かなあ。

鳴海城と大高城(と沓掛城)に、人数を「たぷたぷ」と入れ置く、
と、たっぷりと兵力を城に入れておいたようだから、その人数も含めたか?。

丸根、鷲津の攻撃に、約2000人ずつ派遣しているから、義元本体は5000人か?。
推測ばっかりだけどな。
596人間七七四年:2008/12/19(金) 22:38:00 ID:vaafP9Aq
>>589

「車軸ノ雨」には、横殴りの雨という意味はありません。大粒の激しく降る雨のことです。

車軸の雨(しゃじくのあめ) :雨足(あまあし)が車軸のように太い雨。大雨の形容。
(慣用句辞典)
雨(あめ)車軸(しゃじく)の如(ごと)し :雨脚を車軸に見立てて、大粒の雨が激しく降るさまをいう。
(Yahoo!辞書)

六左衛門尉は、それ全部自分の目で見たんですか?
善照寺砦を偵察した目で、(山頂にいる?)義元の様子の描写とか、信じがたいのですが。
善照寺砦と義元の本陣は4-5kmは離れているし、途中には山もあります。
樹木も茂っていて、個人の識別などできないと思うのに、不思議です。
信長軍は善照寺砦から出撃して山へ登ったんですか?
伝聞にしても、時系列などがかなり混乱して不正確に伝わった話のようです。

>>589
今川の先鋒は、佐々・千秋らの300人をあっという間に殲滅したので、
記述されてないが、相当の戦力が配置されていたはずです。
戦わずして退却するのはありえないでしょう。
また、これを簡単に、(理由はわからないが)、退けたとしても、
織田軍が義元本陣に接近するまでまだ20分くらいあります。
義元がユク/\トシテいたとしても、本陣にいた全員が油断していたのでしょうか?
正面から接近してくる敵に、襲われるまで気がつかないってことがありうるのでしょうか?
597人間七七四年:2008/12/19(金) 23:16:04 ID:SyCu9cyV
迎撃態勢を整えて待ち構えていたのに・・・・雨のバカヤローーー・・・・
598人間七七四年:2008/12/20(土) 18:20:28 ID:Q7eV5nl2
AAで地図を書いてみた

     ■善照寺砦                   
■鳴海城                         
\          _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \        /_/\/\/\/\/\/\/\/\/
  \■中島砦  //                  
   \     \\     低い山なみ        
    \     \ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
     \      ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
      \                      
        ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_______       
                      \______ 
                            |\_
    /\  /\  /\  /\  /\  /\  |  \_____
   //\\//\\//\\//\\//\\//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\//\\//\\//\\//\\//\\ |
  \\\ \/  \/  \/  \/  \/  \ |
  ///                       |
  \\\                       |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城
599人間七七四年:2008/12/20(土) 18:39:12 ID:Q7eV5nl2

     ■善照寺砦                   
■鳴海城    ◎信長が到着                  
\          _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \        /_/\/\/\/\/\/\/\/\/
  \■中島砦  //                  
   \     \\     低い山なみ        
    \ ○千秋 \ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
     \○佐々   ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
      \↓↓                   
        ̄↓↓ ̄ ̄ ̄ ̄\_______       
        ↓↓↓           \______ 
        ×××千秋と佐々の戦闘         |\_
    /\  ↑↑↑↑/\  /\  /\  /\  |  \_____
   //\\/○○\○○○\//\\//\\//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\/○\○○○\\//\\/◎◎\//\\ |
  \\\ \/  \/  \/  \/◎◎\/  \ |
  ///   今川先鋒       今川本陣     |
  \\\                       |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城

善照寺砦に信長が到着したのを見た千秋と佐々は、今川軍に向かって攻撃して、
討ち取られる。信長と義元はこの戦いを見たため、義元の本陣は近い。
が、このとき信長は義元の本陣があることを知らなかったので、義元の本陣は
やや右側の方にあったと想像される。参照:逢左文庫図
600人間七七四年:2008/12/20(土) 18:51:40 ID:Q7eV5nl2

     ■善照寺砦                   
■鳴海城                         
\          _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \        /_/\/\/\/\/\/\/\/\/
  \■中島砦  //                  
   \↓↓   \\     低い山なみ        
    \↓↓   \ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
     \↓↓    ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
     ↓\↓◎信長                  
     ↓↓ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_______       
      ↓↓↓↓            \______ 
          山際まで人数寄せられ候       |\_
    /\  /\  /\  /\  /\  /\  |  \_____
   //\\/○○\○○○\//\\//\\//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\/○\○○○\\//\\/◎◎\//\\ |
  \\\ \/  \/  \/  \/◎◎\/  \ |
  ///   今川先鋒       今川本陣     |
  \\\                       |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城
信長が中島砦を出る。「あの武者、宵に兵糧つかいて」と
「あの武者」とは低い山並の北側斜面に陣取った今川先鋒である。
中島砦より出て、山際まで御人数寄せられ候のところ。
参照:信長公記
601人間七七四年:2008/12/20(土) 19:01:35 ID:Q7eV5nl2

     ■善照寺砦                   
■鳴海城                         
\          _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \        /_/\/\/\/\/\/\/\/\/
→→\■中島砦  //                  
→→●●●●●→ \\     低い山なみ        
→→●●●●●●●→\ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
北西 ●●●●●●●→ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
に  ↓●●風雨●●●→                 
熱田  ↓●●●●●●→ ̄ ̄\_______       
神宮   ↓●●●●→           \______ 
あり    ↓↓↓↓にわかに急雨 敵の面に打付くる   |\_
    /\  /\  /\  /\  /\  /\  |  \_____
   //\\/○○\○○○\//\\//\\//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\/○\○○○\\//\\/◎◎\//\\ |
  \\\ \/  \/  \/  \/◎◎\/  \ |
  ///   今川先鋒       今川本陣     |
  \\\                       |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城
にわかに急雨(むらさめ)石氷を投げ打つ様に、敵の面に打付くる。
味方は後の方に降りかかる。余りの事に熱田大明神の神軍(かみいくさ)
かと申候なり
引用:信長公記
602人間七七四年:2008/12/20(土) 19:16:52 ID:Q7eV5nl2

     ■善照寺砦                   
■鳴海城                      
\          _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \        /_/\/\/\/\/\/\/\/\/
  \■中島砦  //                  
   \     \\     低い山なみ        
    \     \ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
     \     ●●●\/\/\/\/\/\/\/\
      \↓↓  ●●●●●            
       ↓↓↓ ̄●●風雨●●●____       
        ↓↓↓ ●●●●●●    \______ 
        ↓↓↓水をまくるがごとく崩れ      |\_
    /\  ▽▽▽▽/\●●●●  /\  /\  |  \_____
   //\\/▽信長▽/\\●●●\//\\//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\/▽▽▽▽/\\//\\/◎◎\//\\ |
  \\\ \/  \/  \/  \/◎◎\/  \ |
  ///   今川先鋒離散     今川本陣     |
  \\\                       |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城
雨雲が過ぎ去って「晴れて」から織田軍は攻撃を開始。
今川先鋒は水をまくるがごとく崩れる。
この場面は三河物語で、
「歩行者(かちのもの)は早五人三人づつ山へあがるを
見て、我先にと除(のく)」とあるので、
織田軍はいったん「あの武者ども」がいた山の斜面へあがった
と考えられる。
603人間七七四年:2008/12/20(土) 19:33:29 ID:Q7eV5nl2

     ■善照寺砦                   
■鳴海城                      
\          _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \        /_/\/\/\/\/\/\/\/\/
  \■中島砦  //                  
   \     \\     低い山なみ        
    \     \ ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
     \      ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
      \                      
        ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_______       
              ●●●●●   \______ 
               ●●●●●●       |\_
    /\  /\ ◇◇◇→ ●●●●●●● /\  |  \_____
   //\\//\\◇◇◇→ ●●●●●●●//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\//\\信長◇→//\●●◎◎●//\\ |
  \\\ \/  \◇◇◇→/  ●●◎◎●●  \ |
  ///      ◇◇◇→    今川本陣●    |
  \\\               ●●●     |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城
山の斜面へあがった信長は、同じ斜面上に今川本陣がある
のを発見する。「旗本は是なり。是へ懸かれと御下知あり」
「是」が、高い所から見下ろす意味だとすれば、一応通じる。

今川本陣は、街道を見下ろす斜面にいたが、雨と風で車軸の雨が
降りかかったところである。そのため視界が悪く見えなかったのと、
織田軍は、予想外なことに街道の方からでなく、左手の山の方から
斜面の峰々を越えて襲撃してきた。

「おけはざまという所は、はざま、くてみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、
節所(せっしょ)という事限りなし。」
街道(東海道)を直進したわけでなく、山の斜面を横に突き進めば、
上り下りを繰り返すむちゃくちゃな強行軍になった、と解釈される。
604人間七七四年:2008/12/20(土) 19:43:02 ID:Q7eV5nl2
−完−
藤本先生にこの2chスレ、連絡してみよっと。新著読んでから。
605人間七七四年:2008/12/20(土) 19:49:00 ID:N+4RJg9E
ほんとにこの状況だったとしたら信長、天運があるにもほどがあるw
606奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/20(土) 23:43:09 ID:sfQgNjbz
天気論に飽き飽きしていたが、AA連投は一気にいい流れに変えてくれたな。
607人間七七四年:2008/12/21(日) 09:01:03 ID:8xTqrCUn

藤本正行『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)

ttp://www.yosensha.co.jp/book/b2896.html
608人間七七四年:2008/12/22(月) 13:40:46 ID:a4OHnTlb
アマゾンブックで取り寄せて読んでみた。

今川の面にあたった風雨は「東向き」であるはずなのに、上記AAでは、
今川軍先鋒は南にいるため、風向きが正面からでなく横になってしまう。
織田軍にとっても、背中に風があたらず、右横腹になってしまう。
よって、今川軍先鋒は中島砦の南にはいないと解釈される。

逢左文庫図でも
ttp://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/images/okehazamakozu.jpg
本陣は、中島砦から「東南」で、これは漆山であると判断できるが、
実際の地形では、漆山は「中島砦の真南」500メートルに位置する。

よって、>>607の本の情報を加えると、今川軍先鋒は、上方(北)に位置する
低い山なみの左端にいた、ようでもある。

     ■善照寺砦                   
■鳴海城                      
\    ◇◇◇→  _/\/\/\/\/\/\/\/\/
 \中島砦◇◇◇→ /_○○/\/\/\/\/\/\/\/
  \■ 信長◇→//○○○今川先鋒           
   \ ◇◇◇→\\○○○  低い山なみ        
    \◇◇◇→ \ ̄○○\/\/\/\/\/\/\/\
     \      ̄\/\/\/\/\/\/\/\/\
      \       ○○○           
        ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_______       
              ○○○北西に向 \______ 
               ○○○ けた今川軍たち  |\_
    /\  /\  /\  /\  /\  /\  |  \_____
   //\\//\\//\\//\\//\\//\\ |  △桶狭間山?
  ///\\//\\//\\//\\/◎◎\//\\ |
  \\\ \/  \/  \/  \/◎◎\/  \ |
  ///              今川本陣     |
  \\\                       |
  ///       低い山なみ           |
  \\\                       |
  ///                       |
  \\\■鷲津砦  丸根砦              |
   \\\  /\■ /\  /\          |
    \\\//\\//\\//\\         |
     \\//\\//\\//\\         |
      \/  \/  \/  \         |
                            |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■大高城

うーむ、これでいいんかいな?。イボ付き亀頭にしか見えん…。
609人間七七四年:2008/12/22(月) 13:50:07 ID:a4OHnTlb
>>606
中島砦跡地から眺めて、「山」に見える所って、
(実際に山でなくてもよく、丘陵の先端とか、台地の斜面でもいい)
いったいどこに相当するんでしょうか?。
現地を見ないとよくわからないです。中島砦からすぐ東に見える(と思われる)
低い山なみ、って、「山」に見えますでしょうか。山際まで寄せる、ってそこかと?
610奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/22(月) 22:02:37 ID:TkEWROla
>>609
中島砦の位置は扇川と手越川の三角州だったっけね。
ということは南南東に漆山はいいとして
南東に左京山・東の坊主山に至るまでは「曽根」なんて地名が残っている。
ここが低い山並みにあたるだろうし、は手越川沿いが東海道になってしまうあたり、
有松までは山並みを抜けるにしてもそれほど勾配ないんだよね。
611人間七七四年:2008/12/25(木) 14:47:33 ID:+IgzRzCS
では、漆山ではなく、
南東に左京山・東の坊主山に至るまでは「曽根」
あたりが本陣もしくは旗本がいた、
と想定しても、大きな問題はないかと。
612人間七七四年:2008/12/25(木) 16:58:44 ID:8DcUcaAy
史料ガン無視以前の大問題じゃんそれ
613奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/26(金) 01:05:06 ID:+0WiLDb9
曽根は愛智郡。有松や桶狭間は知多郡だからね。
614人間七七四年:2008/12/26(金) 19:11:56 ID:cuRORsxR
義元がいた本陣は、いまだにはっきりしてない。

図示している古い資料は、逢左文庫図だけ。
ttp://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/images/okehazamakozu.jpg
だが、
逢左文庫図中の脚注は、迂回奇襲が書かれている(らしい)ので、
逆に疑わしい資料になってしまっている。

地図その2
ttp://fileman.rakurakuhp.net/UserFiles/19697/Image/1181610229.jpg
鍵屋さんのHPからだが(表示デカッ!)、

義元がいた本陣は「高根」である、

とすれば、
平地から山にあがる位置だし、右下に池がある構図からいえば、
漆山と似て無くもない。

次いで資料として使えそうなのは、信長公記のなかで、
「戊亥(北西)に段々に構え(?)」たところ。
逆算すれば、
信長の南東に義元の本陣があった、と推測することができる。

また、千秋・佐々の戦闘を 「是を見て」という表現のところ。
千秋・佐々の戦闘を、信長と義元が両者が見ることができる地点、
と考えると、
義元の本陣の位置は、東の奥でなく、

「高根」あたりか?

曽根は、中島砦のすぐ東側?。
615人間七七四年:2008/12/27(土) 00:29:20 ID:orG5IH78
ZIPをくれの人は義元さんがモデル?
616奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/27(土) 01:32:09 ID:jeJdzpuX
>>614
高根は現在の桶狭間交差点の南西。
617奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/27(土) 01:41:36 ID:jeJdzpuX
追記。
武路と武侍が分かれてるのが残念なんだが、武路南部には「瀬名陣」という古名がある。
618人間七七四年:2008/12/27(土) 04:00:06 ID:KmLiq15x
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/

久保田昌希というアホ教授が、上洛説は、徳川中心史観だとかほざいてる。

太閤記に上洛って出てくるんだよ。徳川のせいじゃないだろ。

こいつ、今川マンセーのアホ学者。
619奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/27(土) 09:45:52 ID:jeJdzpuX
>>618の映像を見せてもらった感想。

・「至沓掛」の文字が虚しい。
・信長勢は水陸両用の戦車にでも乗っているのだろうか。
・大将ヶ根のガストでドリンクバーのコーヒーでも飲んで古地図を眺め直せ。
620人間七七四年:2008/12/29(月) 23:48:04 ID:1Si+8t07
おせっかいなんだよ、こぞう。
621奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 00:41:28 ID:yjLUi+4X
年男3回迎えて小僧呼ばわりとはこれまた新鮮。
622人間七七四年:2008/12/30(火) 04:20:12 ID:B8end1CT
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/

久保田昌希というアホ教授が、上洛説は、徳川中心史観だとかほざいてる。

太閤記に上洛って出てくるんだよ。徳川のせいじゃないだろ。

こいつ、今川マンセーのアホ学者。


623人間七七四年:2008/12/30(火) 17:42:37 ID:B8end1CT
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。

624人間七七四年:2009/01/03(土) 17:31:52 ID:dVjTjC2u
今川軍って、1万しかいないから、信長2千で勝ってもおかしくない。
625人間七七四年:2009/01/04(日) 10:12:24 ID:VTxX0HyU
今川義元のふりして実は上杉謙信だったら信長もちょっと考えただろう。
626人間七七四年:2009/01/04(日) 19:45:46 ID:acqQniGw
>>618
その動画相当古い説のままだな
627人間七七四年:2009/01/05(月) 17:37:48 ID:9m2ARbSj
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
628奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/05(月) 22:25:08 ID:RCPnsRAm
徳川視点の曲学的な史書の評価を史料扱いするのはどうなんだ。
629人間七七四年:2009/01/05(月) 23:00:26 ID:2yk0bT16
>>628
キミはキミで思考停止しているような。
630奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/05(月) 23:11:51 ID:RCPnsRAm
それならそれでいいんじゃないの。
631人間七七四年:2009/01/05(月) 23:27:32 ID:olz6y3jC
しゃしゃり出るなと言う事だ。
632奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/05(月) 23:32:47 ID:RCPnsRAm
取るに足らない評価で語られてもな。
同一世代の史料から海道一の評価を見せてくれ。
633人間七七四年:2009/01/05(月) 23:33:34 ID:2yk0bT16
ツーかいつから家康のスレになったんだここは。
634人間七七四年:2009/01/06(火) 04:47:12 ID:1sBr6vls
棒山に布陣した今川義元から、真下の信長軍は丸見えだったけど、
今川に気付かれずに、ひそかに、山にのぼった織田軍の攻撃で、
義元は討ち取られた。

三河物語より。

信長軍(3千)の兵力は、5千の内と、今川に読み取られている。

今川の兵力は、定光寺年代記の記述から、1万余であろう。

635人間七七四年:2009/01/06(火) 22:41:19 ID:QBGvrpnb
??
636人間七七四年:2009/01/07(水) 09:02:38 ID:FtVbsZI0
>>634
ひょっとして、信長は、鷲津・丸山方面の「山」に上ったかもしれないな。

中島砦から「南」に向かって、つまり鷲津・丸山方面に向かって、山を上る。

「あの兵は、鷲津・丸山を攻めて疲れている」と言っているくらいだから、
鷲津・丸山のある南へ向かって、進んでもおかしくない。

で、山を上ったところで、今川の塗興を発見。「旗本は是なり」と急きょ、
東向きに突撃。

義元は山を下って、街道(東海道)を東に向かって逃走。

信長は「山を駆け下りながら」谷間の義元を襲撃。
東向きに攻めたのだから、つじつまが恐ろしいくらいに、合う。
637人間七七四年:2009/01/07(水) 09:05:34 ID:FtVbsZI0
迂回奇襲説は「本当だった!」ということで。
ただし、従来の迂回説は、北回りだったが、
>>636は、南回り説。
638人間七七四年:2009/01/07(水) 09:25:00 ID:FtVbsZI0
今川の戦闘部隊は、鷲津・丸山攻めに使われており(約2500ずつで計5000人)、
お昼ぎまで、信長が前線に来なかったせいもあって、
大高城に戻って休憩させていた。

前夜のうちに清洲城の軍議で、信長が早朝から増援にかけつけていたら、
家康らは大高城に戻って休憩させていなかっただろう。

結果論
清洲城で軍議しなかった → 家康らが前線に来ず、5000人の敵を減らす
あの兵、疲れていると勘違い → 撃ち破るつもりで信長前進してしまう
突如突風が吹く → 信長軍5千 対 今川軍5千 で、信長勝つ。
639人間七七四年:2009/01/07(水) 14:10:38 ID:1QSvFaMn
何年か前にはマスコミで「桶狭間は奇襲ではなかった!!」とずいぶん騒がれたけど
最近はまた「やはり奇襲だった!!」という論調になってきたな

まあ、「新奇」なものを取り上げるのがマスコミの使命だから仕方ないが
640人間七七四年:2009/01/07(水) 18:16:44 ID:/fk5NpAS
この戦いの結果がもたらした歴史的意味についてですが、
今川家という軍閥にとって致命傷とは言えないのでしょうか?
当主義元以外には大した戦死者もおらず、今川家が衰亡したのはひとえに後継者氏真の無能が原因だとする主張を見かけたのですが。
だとしたら、長篠合戦の敗北も武田家にとって致命傷ではなかったのでしょうし。
641人間七七四年:2009/01/07(水) 19:53:15 ID:0CX9zfAK
当主が討ち死に、というのは戦国でも数少ない。特に今川は義元という優秀な大将により伸びた国だから、混乱は大きい。
こういう時ってのは内部でも割れるもの。氏真の立った位置は、信長に似ている。父の突然の死、というところね。
信長あたりは、大名どころか重臣の息子としてのスタートだから、むしろ割れて当然だったが。
氏真の致命傷は、家康に独立を許したことではなく、その後もどうにもできず、逆にどんどんやられていってしまったところだ。
642人間七七四年:2009/01/07(水) 20:16:50 ID:+k6d9D7S
細かいことを言えば当時の当主は氏真でないかい
643奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/07(水) 23:08:00 ID:q7t+9igj
駿府出立時なら間違いない。
644人間七七四年:2009/01/08(木) 07:23:11 ID:zZjGLVBv
桶狭間の戦いって双方に相当な被害が出てなかったっけ?
645人間七七四年:2009/01/08(木) 07:38:49 ID:dSROSJHu
では織田方の武将の戦死者ゆうてみい
646人間七七四年:2009/01/08(木) 08:36:22 ID:ovoYCr4v

藤本正行『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)
647人間七七四年:2009/01/08(木) 10:56:06 ID:6axztK2e
>>645
佐久間大学。家老クラスの重臣?
千秋加賀。尾張の豪族。動員可能兵力300前後の将?
佐々隼人。小豆坂合戦で名を上げた武将。
648人間七七四年:2009/01/08(木) 13:33:39 ID:1fVE7325
>>646
あちこちで何度も宣伝してうざいよ、君。
本人か?出版社の人間か?
二番煎じの本の宣伝するより、新しい説でも考えてろ。
649人間七七四年:2009/01/08(木) 13:54:01 ID:zZjGLVBv
前スレよりコピペ

織田勢戦死武将

佐久間盛重
織田秀敏
飯尾定宗
佐々政次
千秋季忠

今川勢戦死武将

松井宗信
井伊直盛
久野氏忠
蒲原氏徳
由比正信
庵原元政
三浦義就
藤枝氏秋
一宮宗是
今川義元
650人間七七四年:2009/01/08(木) 13:56:04 ID:zZjGLVBv
>当主義元以外には大した戦死者もおらず
ってことはありえないな
651人間七七四年:2009/01/08(木) 14:14:49 ID:SnyJGXTP
佐久間盛重は落ち延びたと記す資料もあり、最期はどうなったか不明
652人間七七四年:2009/01/08(木) 14:27:01 ID:xzcxr5TV
おっと 佐久間大学その他を馬鹿にするのはそこまでだ
653人間七七四年:2009/01/10(土) 20:29:54 ID:72bNOS2z
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。

654人間七七四年:2009/03/05(木) 18:56:39 ID:GjQEsFYc
桶狭間はそうだったのか…( ゚Д゚)
http://live2.ch/jlab-fat/s/fat1236175710934.jpg
655人間七七四年:2009/03/31(火) 15:05:29 ID:zydsikiL
保守
656人間七七四年:2009/04/01(水) 02:32:10 ID:OU8PxJWI
桶狭間当時 斎藤義龍は何してた?
657人間七七四年:2009/04/01(水) 19:22:48 ID:z470WAKZ
領内の収拾に励んでたよ
658人間七七四年:2009/04/01(水) 20:18:41 ID:nqPCoZoy
>>650 南京攻略戦の指揮官、松井岩根大将の先祖は今川家の重臣で、桶狭間の戦いで討ち死にしている。桶狭間にある高徳院の墓地に、戦死の地を示す石碑がある。
659拉致拉致教団:2009/05/17(日) 21:43:24 ID:Z/KnYbgy
佐久間大学
660人間七七四年:2009/05/18(月) 20:49:53 ID:EVUfs7I6
逃げるでおじゃるよ
661奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/05/19(火) 06:48:25 ID:vSBlgV4g
古戦地が間違った解釈になっていて、松井大将が利用されて輔弼している構図。
662人間七七四年:2009/05/22(金) 21:32:36 ID:/se5WSZv
>>661
で、なんで義元だけ麻呂みたいな格好してるんだ?足利義昭なんかも麻呂だったのか?
豊臣秀吉、秀次、秀頼も麻呂化してもよさそうだし。
663奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/05/23(土) 06:38:36 ID:MWrgHddG
>>662
バカ殿の役割を後世に押し付けられたからじゃないの?
当時の正装みたいなものだと思えば麻呂がうじゃうじゃしてても別に不思議じゃないが、
少なくとも戦地にあって本当にわざわざ歯ァ塗ったくってる暇があっただろうか。
664人間七七四年:2009/05/23(土) 19:24:56 ID:9g9MLMzE
首洗って備えるのが当時のあれじゃなかったっけ
665人間七七四年:2009/05/28(木) 21:02:02 ID:xy6mHCi4
義元だけが麻呂だったとか、輿に乗れないほどデブだったとか、戦下手だったとか本気で信じてる奴はこの板にいる資格はないな
666人間七七四年:2009/05/29(金) 19:58:17 ID:rJijC1k2
>>665
じゃあ、あと誰が麻呂だったんだ?朝廷に忠誠を誓う謙信なんかも麻呂じゃなかったら
不忠者だな。
667人間七七四年:2009/05/29(金) 20:47:38 ID:TTU1tHhI
>>666
当時は戦に行く前に打ち取られた際の事を考えて、いいとこの大名は、いわゆる首を洗うという奴で、お歯黒をしたり髪や眉を整えたりと恰好を整えたんだよ。全員じゃないし、必ず毎回というわけでもないけどな。
それにそもそもお歯黒はお前が思ってるほど当時は珍しくないもので、どこに行っても見られるものだったんだよ。もちろん武将や大名みんながやってるわけじゃないが、義元が珍しい、のではなく、そもそも特別珍しいことではない、という風に認識を改めた方がいい。
今の時代劇なんかでは全然出ないから勘違いしてるのかもしれないが、実際にはあっちいってもこっち行ってもしょっちゅうお歯黒の人にあう、という感じだったんだよ。
役者が嫌がるとか見栄えの問題でやってないだけ。いいとこの姫様は当時成人の証として、早いうちから塗られたものだとか。
あと輿に乗るというのは、いいとこの大名だけが認められたことで、誰がやってもいいってわけじゃあない。身分の証明の意味もあったんだから、謙信がやるにはちょっと家格がね。
しかし謙信が忠誠を・・とか不忠とか、あんたやや悪い意味で純粋なやつだなあ。
668人間七七四年:2009/05/31(日) 19:10:37 ID:f1gp0sHo
熱田から桶狭間までの区間にいたはずの有力者たちは、
今川側だったり織田側だったりとコロコロ変わってる。
桶狭間の合戦時にスンナリ熱田から現地に行けたということは
コイツ等は当時織田側だったってこと。

水野氏あたりもそうだけど、
微妙なパワーバランスのやつらが実は信長側だったとしたら、
兵力かなりあるんじゃないかな。

669人間七七四年:2009/05/31(日) 21:10:06 ID:lhgBYpTC
安全消極策で砦に篭っちゃうと、当時の策的能力ではスルーできちゃうんじゃないかに
670人間七七四年:2009/06/01(月) 13:32:27 ID:dsnfgFiD
棒山に布陣した今川義元から、真下の信長軍は丸見えだったけど、
今川に気付かれずに、ひそかに、山にのぼった織田軍の攻撃で、
義元は討ち取られた。

三河物語より。

信長軍(3千)の兵力は、5千の内と、今川に読み取られている。

今川の兵力は、定光寺年代記の記述から、1万余であろう。

671人間七七四年:2009/06/01(月) 17:19:18 ID:bvWqnft6
>>670
「今川に気付かれずに」
つまり、今川方の情報を何らかの理由で織田方が知ってたわけだよね
謀略の匂い。。。
672人間七七四年:2009/06/01(月) 17:36:36 ID:RLKeOabC
>>670
>>671
せめてこのスレの内容を読んで方書き込め
最低限このくらい見ろ
>>598-608
673人間七七四年:2009/06/02(火) 21:03:08 ID:TGruypDo
674人間七七四年:2009/06/02(火) 21:57:55 ID:hTW7gSRL
わしの小さい頃はテレビの時代劇や映画でもちゃんと鉄漿してたもんなぁ。
675人間七七四年:2009/06/02(火) 22:15:14 ID:kBcKXkdC
>>673
今となってはなつかしい奇襲説だな。
676奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/03(水) 06:13:16 ID:SaG6srkl
地理関係がかなり荒々しいな。
677人間七七四年:2009/06/04(木) 10:07:16 ID:2ZEnWvEB
>>640
すぐに武田の例を出したがる馬鹿女が笑える。
しかも全然例えになってないし(笑)
678人間七七四年:2009/06/04(木) 10:20:08 ID:S5o0+aUn
今川家は、駿河を領地とする。

義元の頑張りで、隣国の遠江を領地に加え、さらに三河も領地化、さらに
尾張の一部まで領土とした。

義元が死んで、尾張領は失い、三河も独立してしまった。
老練な信玄が、隣国にいるとなると、駿河・遠江を維持することは、さすがになかなか困難かと。

信長が桶狭間の勝利で得たものは、尾張領内にあった今川家の領地を奪取したこと。
679人間七七四年:2009/06/06(土) 00:06:15 ID:7DBwruTD
結局今のとこは藤本の新書に対して明確な反論みたいなのは出てないのかな。

乱取りとか、甲陽軍艦あたりの信憑性の話ぐらいが不確定ってぐらいか。
680人間七七四年:2009/06/07(日) 00:41:42 ID:8GvqlIRl
>679

反論も何も、以前からの藤本氏の説に対する反論書がいくつか出て、それに対して今回の新書で
※「信長公記」以外の「甲陽軍鑑」他の史料は信用できない、
※自分は「信長公記」の記述を忠実に読んで正面攻撃だと思うんだ(この部分は以前からのひとつ覚え)、
でも「信長公記」の記述について疑問を指摘されると
※「いや、信長公記も軍記物だから」とか書いてるんだもん、
そんなの相手に再反論するヒマも興味も無いんじゃない?みなさんw
681人間七七四年:2009/06/07(日) 11:12:15 ID:kVlhWC33
>>667 武闘派のエース、本多忠勝だってお歯黒をしている。有名な肖像画を見れば分かる。
682人間七七四年:2009/06/07(日) 11:19:54 ID:zVpVj5wa
>>681
これね
http://g2.quickart.jp/fd/d/75-15/tadakatsu.jpg

お歯黒=貴族って印象になったのは江戸期だもんな。
この頃は一般的風習。当然信長も秀吉も家康もやってた。
683人間七七四年:2009/06/07(日) 11:33:08 ID:DPf4TZAA
義元の進出に合わせて、河内二の江の坊主、うぐいらの服部右京助の水軍が、千艘ほどが鳴海城近くの海上に接近していた。と信長公記にはある。
二の江は後の伊勢長嶋城あたりらしい。とすれば本願寺勢力が動いていたとも思われる。前記の藤本氏もそうだが、桶狭間の戦いを織田、今川間の国境紛争、とする人はこれをどう解釈するのだろう。
また、大高城兵糧入れをもって、鳴海、大高両城は兵糧が不足していた、と考える向きもあるようだが、海上の封鎖は困難で、伊勢湾方面からならこれらの城には、いつでも補給はできた。
米、味噌など重量のかさむものは船で運ぶ方が、はるかに合理的。ちなみに伊勢湾岸、愛知県東部にあった蟹江城はこの当時今川方で、今川は伊勢湾で活動できた。
684人間七七四年:2009/06/07(日) 11:35:41 ID:DPf4TZAA
>>683 蟹江城、愛知県東部は間違いで、西部が正しい。以上訂正。 
685人間七七四年:2009/06/07(日) 11:56:33 ID:9mOSBDx1
問題は蟹江にどうやって物資を送るのかとか
見つからずに海上輸送できるのかとか
686人間七七四年:2009/06/07(日) 15:35:37 ID:HCKhqjvd
>>685 そのために金という便利なものがある。金さえ払えば伊勢の商人から米等、必要な物資を買うことはできただろう。
商船に乗せて運ばせれば、鳴海、大高への補給は簡単だった。織田方としても、すべての商船を臨検してはいなかったろうし、食糧を運ぶ限り、通常の取引か、軍事目的かは判断できない。
いっしょに刀や槍を運んでいれば別だが。
駿河から伊勢への金の運搬は、やはり、商人に依頼すればできただろう。
687奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/08(月) 05:14:34 ID:tGhOgjOF
東海市・名古屋市南区・港区・中川区・海部郡蟹江町あたり、戦国時代だと半分海だからね。
知多の海運は戦国時、フル回転で渥美や伊勢や紀伊とを結んでいただろうよ。
688人間七七四年:2009/06/08(月) 11:54:24 ID:PwKdFNt6
>>680
ありがと。
正面攻撃説は一般的になってきたかと思ったが、藤本説もまた「単なる個人の主張」ってとこなのか。
桐野の連載では、反論したいんだがうまい根拠がない、って感じでごにょごにょしてるように思えたもんで。
小和田なんかは正面説を採用してるようだが、新書で軽く触れてた程度だったかな。
689人間七七四年:2009/06/08(月) 16:21:45 ID:VgePuAxh
お歯黒なんて戦後までバアさんはみんなやっていたぞ。
というか、戦前までは女がお歯黒するのはエチケットというか
ファッションで、戦後までそういう世代が生きていたということ。
夜中にろくな照明がない時代は、暗い中で歯を見せるとそこだけ
白く浮き上がるので不気味でしょうがなかったのが原因らしい。

大正期あたりからお歯黒をしない人間が増えてきて、戦後世代が
ピタッとやめた。その頃に流行りはじめた映画が、時代劇であっても
女が白い歯を見せるという光景をたれ流しだして、その結果として
「戦国時代にお歯黒なんかしていたのは麻呂キャラだけなんだろ」
というとんでもない誤解を植えつけ、高度成長期に信長神話が次々
捏造されてそれを定着させることになってしまった。

テレビ映画で植えつけられた洗脳記憶って、テレビ映画でしか払拭
できないんだよな。戦国期の人間が男女問わずみんな真っ黒い歯をしてた
リアルドラマか、義元を東海一の弓取りとして正当に描くドラマが
大人気を博さない限り、分権や書物じゃこの状況は覆らないよね。
690人間七七四年:2009/06/08(月) 17:30:47 ID:ErZNSklC
>>689 国営放送の直江兼継が歯を真っ黒にして出てきたら、どんな反応がるだろう。
691人間七七四年:2009/06/08(月) 17:43:06 ID:EoBhcg0K
NHKは中国直営放送だよ
692人間七七四年:2009/06/08(月) 19:05:24 ID:xkf23+V0
大河でも昔はお歯黒あったりした気がする
693人間七七四年:2009/06/08(月) 20:23:49 ID:uASebyc7
前衛的な時代劇映画では比較的最近のものでも鉄漿を施してたな。

けっきょくは「見る側」の問題なんだな。
694人間七七四年:2009/06/08(月) 23:38:27 ID:fRezMn6H
織田方の鳴海城包囲、というのもいささか疑問が残る。何故って鳴海城を封鎖するってことは、そのすぐ下の鳴海宿を封鎖することでもある。(鳴海は鳴海城の城下町ではなく、町の方が古い)鳴海宿は東海道の宿場町だ。
つまり織田は東海道を封鎖してしまった、ということになる。
東海道は東国と西国を結ぶ幹線道路ではないか。織田と今川の私闘のために天下の交通が滞ることに対して、苦情は出なかったのだろうか。
695人間七七四年:2009/06/08(月) 23:45:16 ID:KL0xxXjL
>>694
つーか、海路はともかく東海道はこの当時荒れてて、主要街道はむしろ山中道だったっぽい。
696人間七七四年:2009/06/09(火) 18:15:39 ID:pDEWwAmF


もしも綾瀬はるかに将軍宣下がくだったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1244521393/


もしも綾瀬はるかに将軍宣下がくだったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1244521393/



もしも綾瀬はるかに将軍宣下がくだったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1244521393/


697人間七七四年:2009/06/10(水) 08:38:11 ID:LQ+Fgb9B
>>695 江戸時代までは、というより鉄道網が整備されるまでは、中山道が重要な役割を果たしていたことは事実だが、東海道が廃れていた訳ではない。
五十三次として江戸時代に整備されたのは、道路自体というよりその宿場だったのであり、一般に主要な道路はそう簡単には廃絶しない。
ただ、この付近にもう一本鎌倉街道がありそれが東西を結んでいたのは事実。
698人間七七四年:2009/06/10(水) 10:31:21 ID:jmOsx7h6
信長が鷲津などの砦に行こうとしたとき、下の道(上?)を使おうとしただろ。

鳴海城に敵がいても、通過することはできたということさ。
満潮時には行けないが。
699人間七七四年:2009/06/10(水) 17:25:33 ID:fkOXH7Rb
。(                                   ´・ω・) 、<(今川義元は桶狭間山に兵三千は置いてたよ。ただ、非戦闘員が多く輿のすぐ近くに義元がいたから討ち取られた。
700:2009/06/10(水) 19:46:06 ID:8zM7XP8j
戦闘員ってショッカー軍団みたいだな・・・
怪人でもいたら信長倒せたかな
701人間七七四年:2009/06/13(土) 07:52:22 ID:vs2KEQzo
>>698 尾張側から鳴海の東へ向かうことはできただろうが、その逆はできない。尾張方の中島砦が、東方からの鳴海への通行を封鎖していたからである(東海道はこのあたりでは南北方向に進むから、位置的には中島砦は鳴海の南にある)。
もし、中島砦が西への通行を許せば、封鎖の意味がなくなってしまう。
702国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/06/14(日) 07:17:24 ID:l+h90W/e
鳴海城と中島砦が南北というのはちょっとアレだなあ。
北西⇔南東くらいの手越川沿いね。
703人間七七四年:2009/06/14(日) 22:34:43 ID:L2aoNTji
鳴海城の東側は、陸地なんだから通れるさ。
ttp://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/images/okehazamakozu.jpg
桶狭間合戦の地図というと、いつも同じ地図がでてくるが
(鳴海城の東側にある川が幅広のもの)
実際には川幅は狭いうえに、海の上にあたる場所には当時すでに集落あり。

星崎城という城まであったことになっているが(甲陽軍鑑では桶狭間合戦では
星崎城のことを何度も言及している。信長公記では星崎城の記載なし)、
地図では位置はもっと北にあり、現在は小学校の跡地になってて、高さ10mの台地上。
704人間七七四年:2009/06/15(月) 04:28:05 ID:Qjk2+/xe
まあこれが信玄だったら、無様に桶狭間のようなところに本陣を置いたり
しないな。
最低、周囲に物見を張り巡らして織田勢の動きを逐一察知する術は義元より
はるかに上回ってただろうし、てゆうかもう少し前線を有利にしておいてから
尾張領内に本陣を置いたことでしょうね。
705国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/06/15(月) 05:36:42 ID:GesGEV2t
星崎より本星崎に近い感じかな。
706人間七七四年:2009/06/15(月) 06:42:42 ID:TbyAD/Y1
>>704
> まあこれが信玄だったら、無様に桶狭間のようなところに本陣を置いたり
> しないな。
> 最低、周囲に物見を張り巡らして

普通はそうする
当然義元もそうしていただろう
ただ突撃する軍勢の先陣の騎馬隊のほうが速いだけ

>織田勢の動きを逐一察知する術は義元よりはるかに上回ってただろうし

八幡原ではどうだったのかな?

>てゆうかもう少し前線を有利にしておいてから尾張領内に本陣を置いたことでしょうね。

例えば信玄のどんな
707人間七七四年:2009/06/15(月) 12:05:37 ID:+Kt7Hzer
自演乙
708人間七七四年:2009/06/15(月) 13:04:07 ID:TbyAD/Y1
>>707
武田厨に都合悪そうなやり取りは自演だったで済ましたいわけね

安心しろ
見るからに戦板初心者を深く追撃しようとは思わないから
709人間七七四年:2009/06/15(月) 13:16:33 ID:qLcgxvl7
丸根、鷲津両砦を落とした後は、中島、善照寺以外に織田勢の拠点はないのだから、今川方はこれらを包囲しておけばよかった。
昼前、大高城へは松平の兵が休憩のために入ったから、大高城の兵をこれらの砦へ向かわせるのはまったく合理的な判断だったはずだ。
ふたつのうち、規模の小さい中島砦に対して重点的に兵を配置するべきだったろう。もしそれがなされていれば、信長は中島砦から動けなかったはずだ。

710人間七七四年:2009/06/15(月) 13:30:59 ID:qLcgxvl7
実は、桶狭間合戦以前、信長の事績には非常な疑問がある。それは、何故尾張統一ができたのか、ということだ。
斎藤道三が失脚して以来、信長はまったく孤立した。東では今川と対立、西には斎藤義龍、およびそれと結んだ岩倉の織田伊勢守。
父の家臣だった山口父子は今川に通じ、清洲の織田大和守も親今川となっている。さらには弟の信勝も信長と対立。
このような絶望的な状況から僅か3年あまりで、尾張国内を統一する。それも最後の敵、岩倉に対しては、まだ城が落ちない前に京都見物にでかけるという余裕だ。
岩倉、清洲、信勝、どれをとっても信長と互角以上に戦える勢力である。なぜこれらを同時に相手にして勝ち抜くことができたのか。
桶狭間だけならば、幸運に恵まれた、で説明できるかもしれないが、
711人間七七四年:2009/06/15(月) 13:38:43 ID:2jYG24LT
素人なんですが、実績はあったのでは?
稲生の戦いは、素晴らしいと思うのですが。
712人間七七四年:2009/06/15(月) 15:36:09 ID:JMl42rIy
>>710
少し推論がある。
ざっと大まかにだけど、信長は清洲を早くならまかされていたでしょう。
信秀の朝廷に寄付したような大金とか財力はやはり清洲湊とかそのあたりの貿易によるところが大きくはなかったか。
そしてそれは決して、きれいな金、じゃなくてある程度、武力やら実力を背景にした金、つまり今で言う893の上納金みたいなもんで。

出す方なんかは、より強いものに守ってほしい、というのがあるし、旧家臣の次男三男、みたいなのもより強いやつにつきたい。
ましてや、金持っててうつけで行動力あって、そういうのがいたら、少し実力があるようなのはみんな信長についたと思うんだ。

なので、あの頃は、数、じゃなくてそういうなり上がり的な人望と言うか、それで少数でもケンカに強いようなのが信長に集まったのではないか。
稲生でも、少数で苦戦だったのを「大音声」で打ち破った、とある。
迫力で脅した、というのもあるだろうし、「金やるから寝返れ」みたいなのも十分に効く、ような時代と場所だったとは思う。

妄想オツ、と言われるだろうが、これは桶狭間にも通用する信長の部下の「少数精鋭」というのにも関連するし、桶狭間では、海路も関係してた、というのならそういった
海上貿易権にも関わってくる。

さらに、妄想を続けると、織田家統一は、相当なダ〜ティ〜なやり取りの元に可能だった、とこれは史実からでも十分に推測は可能だろうし。
兄弟や親族を殺しまくって統一したわけだからね。さすがの牛さんでも書けない様な事情があっただろう、というのはそんなにめちゃな妄想とも思えない。
実際に、絶望的な状況から3年で統一した、のだからね。

信長は天才だったからです、なんてのはさすがに2ちゃんにはいないと思ってるが・・
713人間七七四年:2009/06/15(月) 15:52:44 ID:pyJ+St0i
まあ信長天才説なんて、今じゃよほどお目出度い人しか信じていないだろうw
714人間七七四年:2009/06/15(月) 18:58:30 ID:ucUXAMZM
>>711 確かに稲生合戦での信長の活躍は目覚ましく、自身で敵方の事実上の大将、林美作を討ち取っているが、信勝軍には思う存分戦えない事情があったから、多少の割引は必要だ。
それは信勝自身が出陣しておらず、柴田勝家が代理で末盛の兵を率いていたことだ。信長の母、土田御前は末盛にいた。
信長と土田御前は不仲だったと言われるが、母子のあいだの感情は他人にはうかがい知れない部分がある。首尾よく信長の首を打っても、土田御前がそれに対してどう反応するかは誰にもわからない。
戦場では信長と関わりたくない、というのが信勝軍参加者の心情だったのではないか。
信勝が自身で参戦していれば、すべての責任は信勝が負うことになるから話は別だったろうが。
715人間七七四年:2009/06/15(月) 19:00:59 ID:GWx2M2OF
ずいぶんと恣意的な書き方だな。
信長は普通にまれに見る優秀というか才気あふれる男だと思うし、そして同時にダーティな部分も多分にあるだろ。
というか戦国大名にはみんなそういう部分があるのを知らない人間なんてこの板にはおらんだろ。
716人間七七四年:2009/06/15(月) 20:27:59 ID:pyJ+St0i
>>715
信長が優秀な武将であり政治家であった事を否定するようなのはいないだろ。
ただ、時代を越えた天才とか言われると、そりゃ違うだろって話になるだけの話で。
717人間七七四年:2009/06/15(月) 22:20:20 ID:EkxmKKo7
有光説に一票
718人間七七四年:2009/06/16(火) 02:40:55 ID:l5KN6RWR
処刑に鋸引きとかあったり、頭蓋骨を杯にするのが流行したり
親兄弟で殺しあうのは当たり前、暗殺毒殺騙まし討ち上等の時代に
ダ〜ティもクソも無いだろうし
そんなことを牛一が斟酌するというか斟酌するような行為と認識せず普通によくあることとしそうだが
719人間七七四年:2009/06/16(火) 05:31:08 ID:N1JNJW/A
なんかなぁ。
兄弟、親族は普通コロせんでしょ。

それをやったからこそ、710、に戻るんだが、さらに推論はある。

>714
に聞きたいんだが、信長の母が、土田御前、というのは、確定かい?
信長ー信勝同母、ってのは、公記、で確定してる?
案外微妙じゃない?

だからこそ、信勝は出陣しなかったとかね。
そして、だまし殺し、でしょ。

勝家とかツッチ〜母は、信長が「鬼ッコ」ってわかってたんじゃないかなぁ。

この辺は、推論、だから、それを承知で語り合いんだけど、710の疑問に答えるには、これしかないとは思ってるんだ。

ちなみに、信秀葬儀のあの「うつけ」と「折目正しき」なんてのは、一種の象徴じゃないのかな、あれ、「史実」でいいの?
いいならいいで、逆に「明解」なんだけど。

「葬儀に呼ばれなかったから暴れた」、って今でもよくある話なんだよね、にゃ古屋では。
うつけだが父の片腕、品行方正だが実力不明、ってよくある話でしょう。

そうやってよ〜〜く考えていかないと、710みたいな、「3年で尾張統一」の不思議がとけない気がする。
720奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆36LfxCD/TI :2009/06/16(火) 06:18:47 ID:CrqxxNIr
名古屋に限らず戦国の血縁ってのは、結構切羽詰まらない限りムチャクチャな殺戮とかしない印象。
721人間七七四年:2009/06/16(火) 08:27:22 ID:S+UNrqab
> 兄弟、親族は普通コロせんでしょ。

現代の感覚で物をいう無知無能の馬鹿乙
骨肉相食むこの時代にの兄弟同士の殺し合いなどいくらでも出てくる
アホは死ねよ!!
722人間七七四年:2009/06/16(火) 10:13:37 ID:P2r2DrE4
>>706どこまでもい必死な今川厨w
ろくに信玄のことを知らないくせに、滅亡された悔しさから何かと信玄より
劣ってるということを認めたくないという根性みえみえw

信玄は本陣突撃されても持ちこたえました、最終的に分散させていた別働隊
によって勝利しました、義元は突撃されても持ちこたえず死亡・・・・・・

信玄が尾張を攻略するならもう少し調略などを駆使して前線の安全を確認
してから行動していたことでしょうね、それに軍勢の編成の仕方が違う。
自らの指揮一つで手足のように軍勢を四方に対してどこでも反転させれる
ようにしていた信玄とそれができていない義元との差。
723人間七七四年:2009/06/16(火) 10:30:45 ID:VU/OtN0v
>>719
徳川家康、武田信玄、伊達政宗、今川義元、後は以下略。
724人間七七四年:2009/06/16(火) 11:00:29 ID:mTcmAvFo
頭蓋骨を杯にするのが当たり前、流行った?は無いだろうwww
信長のあの逸話自体、真偽は不明だが、真だとしても、家臣一団は信長のその暴挙を諌めた、とあるぞw
725人間七七四年:2009/06/16(火) 11:06:09 ID:vsr9uleN
>>722
吠える前にまず誰の説を支持し、その上で信玄だったらここをこうせずにこうしていた、と説明してくれないか?
それとも信長関連のスレを荒らしにきたら信玄の名前があったから噛み付いたのかな?
726人間七七四年:2009/06/16(火) 12:50:39 ID:ANOnrWy5
桶狭間に関する新しい資料はないかね?
新しいデータを入れて検討しないと、従来の説と大した差はでないよな。

三河物語の著者大久保ひこざえもん?は、桶狭間合戦のとき
兄が、義元の本陣にいたらしいので、
三河物語のなかでも古い時期の版なら、少し内容に差があるかもしれないしさ。
信長公記の天理本みたいにさ。

ただ、信長の陣を見上げて人数が多い、少ない、と今川の偵察が判断した話は、
藤本の新著では、完全に削除されてしまった。何か使えない要素があったらしい。
727人間七七四年:2009/06/16(火) 13:37:35 ID:foS7TiOd
信長が降伏する約束していて、義元とオケハザマで会うことになっていた。でなければ、あんな場所をワザワザ通ることもありえない。
728人間七七四年:2009/06/16(火) 15:31:41 ID:LgCUNQ7x
桶狭間の戦いで不思議なのは、信長にはこれ以上ないぐらいの幸運ばかりが続くのに、義元側は素人でも思いつく程度の対策も施さずに打ちとられてしまうこと。
もし奇襲(あるいは正面攻撃でもよいのだが)を受けても、最初の一撃で義元が即死するか負傷して動けなくならない限り、逃げ出せるだろう。そうした時のために近習たちが傍にいるのだから。
729人間七七四年:2009/06/16(火) 16:50:36 ID:RGwtTNf7
>>728
だかそう言う対処が出来なかったほどの状況だったから幸運って言うんだよ。
義元側が対処できる程度の事なら、それは幸運じゃ無い。
730人間七七四年:2009/06/16(火) 19:01:20 ID:UMip0NYD
相手の骨に金箔を塗るのが流行ってのはさすがにないし、やはりやや珍しいことではあっただろう。
しかし、はくだみにするのは怨みをぶつけるとかっていうよりは、死者に対して敬意を表したり、死者の力を得るといったような意味だよ。
わりと大陸側では色んなところである話。だからこそ、創作混じりというかもじってる部分がある。
あと兄弟は普通殺せないって言ってる奴は、本当に何をいってるんだろうかと。
そりゃ家督とか全く関係ない平穏な時期ならいざ知らず、家督相続の時期は大抵の家で大騒ぎだぞ。今川も上杉も斉藤も親兄弟相手に殺しあいしてるだろ。
しかも信長は明らかに親戚や弟がはむかってきてるのに黙ってろってあり得ない。むしろ一度許したとか若いせいか甘すぎる。
この後もずっと見逃すような奴が大名やるんなら速攻で滅ぶのが自然だよ
731人間七七四年:2009/06/16(火) 19:26:50 ID:vZ6kWdkI
いや、普通は殺せない
しかし普通でないことをした人だけが生き残れる

って解釈するのが妥当だろう

汚れたこと、惨いこと、心苦しいことをやらなきゃ戦国大名になれなかったわけで
732人間七七四年:2009/06/16(火) 20:03:03 ID:nrfuQWSt
義元は麻呂だから馬鹿で弱い
信玄は入道だから利口で強い
733人間七七四年:2009/06/17(水) 06:13:37 ID:T4r3QM55
>>714 土田御前が信長の母であることを疑う理由はない。もしそうではない、とするなら実母がいたはずだし、その存在を秘密にする理由がない。
信勝の遺児は津田信澄として信長のもとで成長するが、重用されている。もし信勝が異母弟だったらここまでするか。
喜六郎という弟が、龍泉寺の近くで、森山の織田孫十郎の家来に誤射され死亡するという事件があり、末盛からは信勝が、清洲からは信長が現場に駆け付けるが、そのとき信長は「我々の弟などというものが・・・」
と言っている。牛一も直接聞いたのではないだろうが、そこまで疑い出したらきりがない。
ちなみに土田はツチダではなくドダ。土田は地名だが、清洲付近のそれと岐阜県可児市のそれと、二つの説がある。
天正10年、信忠が武田と戦うため東へ向かう際、岐阜を出て最初に泊まったのが可児市の土田。
734奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆36LfxCD/TI :2009/06/17(水) 06:24:30 ID:1NTrPkPj
可児市民だったオレが一言添えておく。

確か土田御前が可児出身だとかいうのは武功夜話出典だったぞ。
河で隔てられていないので織田氏に靡きやすい土地だったというのならわからなくもないが。
735人間七七四年:2009/06/17(水) 08:25:04 ID:FiHtsYL/
>>725明らかに釣りとわかるような内容のわずかなレスに、マジレスしている君も
おかしいぞ、結局信玄と義元の違いを君も述べられないんじゃないの?
一部の基地外信長ファンや今川厨にとって信玄は目の敵みたいなもんだから。
736人間七七四年:2009/06/17(水) 11:39:13 ID:xCgw0uag
>>728
> 義元側は素人でも思いつく程度の対策も施さずに打ちとられてしまうこと。

その直前の佐々と千秋の襲撃は撃退してるんだがなあ。
まあ数は300程度だったらしいけど。

その後も信長の動きは丸見えだったようだったから、会戦直前の大雨で体勢が崩れそれを直しきれないうちに信長の猛襲を食らってしまったのではなかろうか?


> もし奇襲(あるいは正面攻撃でもよいのだが)を受けても、最初の一撃で義元が即死するか負傷して動けなくならない限り、逃げ出せるだろう。
> そうした時のために近習たちが傍にいるのだから。

義元の近習たちは義元を囲みながら退いていったぞ。
結局、何度か戦闘を行うたびに少しづづ討ち取られ、300騎が50騎ばかりになってしまったがな。
そこに信長自身も戦闘に参加、義元も奮戦し襲い掛かってくる服部の膝口を斬ったものの毛利についに討ち取られた。
737人間七七四年:2009/06/17(水) 13:01:01 ID:DzEEdwfW
>>734  稲生の戦いで信長の家来に討たれた信勝側の武士の中に、きよす衆、土田の大原というものがいる。
土田御前と何らかの関わりがあったものと思えるから、清洲の土田と考えるべきだろう。
738人間七七四年:2009/06/17(水) 13:41:42 ID:zIBgG4c8
ルート外れてオケハザマに行ったことが不思議。
信長が降伏するといっておびきだした。
739人間七七四年:2009/06/17(水) 18:25:25 ID:ZUcx/m4p
>>733
ウケウリで悪いし、あくまで解釈の問題なんだが、もし信長ー信勝別腹、というのなら信長の母はやっぱり書けない様な
低い身分と言うか、公記の首巻を書くような頃にはその存在を公にはできない、みたいにはなってたんじゃないか。
他の記述も全て、正嫡、みたいに書かれてるし、さすがに信長を「兄弟親族たくさん殺した傍流の子」とは書けない様になってたというか。

信澄の面倒を見たのも、本家の血、というのをそれなりに守る必要があったんじゃないか。
旧家臣も多いし、ある程度織田家が安定するまでは、ってね。

キロクロウ事件の時も、真っ先にかけつけたのは、信勝、であって、この信勝ーキロクロウは描写も「折目正しき」系で、同母、だったとは思われる。
それに対して信長はあの葬儀の時が象徴なんだが、明らかに「対比」された表現になっている。

「我々の弟」というのも微妙な言い方で、「本家の折目正し兄弟に、妾的な子が発言した」とすると、やっぱり「100%同腹」の根拠としてはどうだろう。
そして、信長は結局、信勝を「だましうち」してるのは事実で、この結論がなんかイヤらしくて。

これは別に「信長ー信勝別腹」を主張してるのじゃなくて、そう解釈したとすると710みたいな疑問が解決する、そして信長の出生と言うか織田家の事情と言うのもそれなりに話が通る。
さらに、信秀葬儀、道三対面、「あれこそ国を持ち足る人よ」、みたいないろんな牛さんの作為的な表現、もそれなりに話がつながる、ような気もする。

一般に解釈されてるほど、信長正嫡、織田家統一、というのはきれいごとじゃなくて、史実でもなくて、牛さんでも書けない様なドロドロ、だったのじゃないかな、ってね。
740人間七七四年:2009/06/18(木) 12:43:40 ID:Hi5Vp85W
勝った奴が正嫡。

勝ってたら信広が嫡男、と記録には残るんだろうね。
741人間七七四年:2009/06/18(木) 12:57:17 ID:Ad8gYw4g
それはない。

というか、資料の改竄とか捏造とか陰謀論に走りすぎ。
742人間七七四年:2009/06/18(木) 15:31:00 ID:lhTs/FYh
桶狭間の戦いで不思議なのは、なぜ義元は、信長が尾張国内を統一し、それなりに力をつけた後になって尾張に攻めてきたのか、ということだ。
まだ統一が済んでいない時ならば、信長はそちらにも兵力をさかなければならないから、十分な力が出せない。
スポーツ大会じゃあるまいし、尾張代表が決まってから攻めてくるのは変じゃないか。
敵がまだ弱いうちに叩く、敵の敵と連合するのが戦いの鉄則ではないのか。
743人間七七四年:2009/06/18(木) 15:38:28 ID:9PAXd1jQ
実は信長の統一を今川が支援していたとか?
744人間七七四年:2009/06/18(木) 16:02:11 ID:6FhXhlvH
信長が鳴海を囲む動きを見せたから。
745人間七七四年:2009/06/18(木) 18:36:56 ID:LXgX2r//
>>743 反対だよ。今川の上洛作戦に協力する、と見せかけて信長が桶狭間に義元をおびき出したんだ。
桶狭間古戦場、現在でも確定していないが、江戸初期でも桶狭間戦の経験者は生きていた。正確な場所がわからないとはまったく奇妙な話だ。
それは現在の歴史家が意識的に、ガセネタと称して高徳院の地を除外しているからだ。高徳院は国道一号線、当時の東海道のすぐ脇にある。
こんな分かりやすい場所が戦場では奇襲説はとてもなりたたない。
桶狭間を指定したのは信長側で、そこに義元がやってきたところを、襲ったんだ。
746人間七七四年:2009/06/18(木) 18:39:44 ID:M7XWHW+T
さあ珍説奇説陰謀論が盛り上がってまいりました
747人間七七四年:2009/06/18(木) 19:19:03 ID:EirYLS09
>>745
山口教継の存在がすっかり抜け落ちてるな。
748人間七七四年:2009/06/18(木) 20:06:16 ID:/nhvv+ej
信長は偽りの降伏でオケハザマを指定した。
749人間七七四年:2009/06/18(木) 20:27:55 ID:9rJnj9HH
>>745 義元は織田を見限って投降してきた山口父子を、駿河に呼び寄せて殺してしまった。もし、義元が本気で織田と戦うつもりだったら、殺すことなどありえない。
投降しても殺されるならば、だれもそれ以後は投降しなくなる。山口父子を殺したことは、信長に対するラブコールだった。
そもそも、なぜ今川と織田が戦わなければならないのか、その理由を言える人はいるのか。
確かに、信長の父信秀は義元と激しく戦ったが、やはり激しく戦った斎藤道三と一転強固な同盟を結んだことをどう思うか。
織田と今川が戦う、ということを前提としてしか考えないから、桶狭間の戦いの本質が見えれ来ないんだ。
750人間七七四年:2009/06/18(木) 20:29:50 ID:M7XWHW+T
仮定と思い込みだらけの悪文。
751人間七七四年:2009/06/18(木) 20:40:07 ID:z7f8KvG8
何故信長が尾張統一するまで待ったとか義元と戦う理由とか・・本当にこのスレは低レベルですね
今川義元の足跡や状況を微塵も知らないんじゃないかと思えるような書き込みばかりだ。
752人間七七四年:2009/06/18(木) 20:42:39 ID:EirYLS09
山口親子を織田への再度の寝返り疑惑で誅した後に鳴海城に重臣の岡部元信を入れてるな。
まあ山口親子誅殺は織田の謀略と言われてるが、それは置いとく。
その後織田は鳴海城の周囲に善照寺、中嶋、丹下の各砦を築いて圧迫している。
また鳴海城近くの大高城に対しても鷲津、丸根砦を築いて孤立させてる。

大高、鳴海の二城への救援及び、あわよくば織田へ打撃を与えるのを目的とした行動と見た方がまだマシだろ。
753人間七七四年:2009/06/19(金) 00:24:30 ID:IYDM2O42
>>752 これは、まあ桶狭間の戦いに至る情勢の定説というものだけれど、以下の文をどう読む。
4月上旬、三川国吉良殿と武衛様(斯波義銀)、御無事御参会の扱ひ、駿河より吉良殿を取り持ち、相整え候て、武衛様御伴に、上総介殿御出陣。
三州の内、上野原に於いて、互いに人数立て備え・・以下略
信長公記首巻は、記述が乱れ編年体になっておらず、この項にも年期の記載がないため、何年のことなのかはわからない。ただ、桶狭間以前であることは明らかである。
駿河より、とあることに注目して欲しい。つまり、この記述は駿河の今川義元と、織田信長が会見した事実を述べているのではないか。もし他の解釈があるのならそれを示してほしい。
信長と義元が直接会見していたという重大事実を、これまで桶狭間の戦いを語る歴史家はいっさい無視している。
ちなみにこの文のあとには、武衛様国主と崇め申され、清洲の城渡し進ぜられ、信長は北屋蔵へ御隠居候皮脂なり、と続く。
前後の事情から判断すると、1556年のことと推測される。
754人間七七四年:2009/06/19(金) 00:38:17 ID:q9eLfWfD
>>753
素人も漏れに詳しく教えて。
両人が会ったと仮定して、会見の内容ななんだったんだろう?
755人間七七四年:2009/06/19(金) 01:13:47 ID:44qFKqHg
>>753
> この記述は駿河の今川義元と、織田信長が会見した事実を述べているのではないか。

読み方が根本的におかしい。普通に斯波と吉良の挨拶であるとしか読めないだろ。
だいたい義元は出てきて無いのに。


大発見したつもりで興奮してるのかもしれないけど、それ、間違ってるから。
756人間七七四年:2009/06/19(金) 01:40:10 ID:VvqLSMEb
>>753
一時期、内外の目を逸す為に斯波義銀に尾張を譲っていた信長が義銀に随伴し、三河の上野原で斯波義銀、吉良義昭が会見した、としか読めんだろ。
今川義元の存在があるならばそう書いてあるはずだが、その文中には、治部少輔などの官位名すら出てねーよ。
757人間七七四年:2009/06/19(金) 11:47:28 ID:lHcsoOnH
>>755 >>756 駿河より吉良殿を取り持ち、とある駿河はどう解釈するのか。吉良は三河の住人で、駿河は関係ないだろう。
根本的におかしいのは君たちの方。それに、いまここで出典を出せないのは恐縮だが、1556年の3月、義元が三河にいた、という記録を見た記憶がある。
758人間七七四年:2009/06/19(金) 11:48:13 ID:C8Ynag0T
「駿河から吉良が来た」という文章が、どうやったら「今川義元が来た」になるのかさっぱりわかんね。

信長公記には例えば「甲斐から武田使者が来た」という文章があるが、これは信玄自らが来たとなるのか?
759人間七七四年:2009/06/19(金) 12:22:46 ID:VvqLSMEb
>>757
だからその文中のどこに今川義元の存在を示すものがあるんだよ。
単に吉良が今川の支配下にあった事への言及みたいなもんだろ。
760人間七七四年:2009/06/19(金) 12:31:29 ID:1Ipx8j9H
吉良は今川との抗争に敗北し、当主は駿府に居住させられていた(つまり人質)のだが。

駿河居住期間に今川の命令で吉良当主が遣わされたとなれば、
当然、駿河から来た使者と見なされる。
それをどう解釈すれば、今川義元本人が会見したとなるのか理解不能。
761人間七七四年:2009/06/19(金) 12:52:19 ID:1LMiFtca
>>754 前年の11月、美濃の斎藤道三が息子、義龍のクーデターにより失脚した。道三は稲葉山と長良川をはさんだ鷺山城に籠城、睨みあった。義龍は岩倉織田氏と連合、信長は岩倉と敵対関係になる。
東に今川、北に美濃、岩倉という敵をかかえ、四面楚歌の状況に陥る。このとき信長はすでに、清洲城を手に入れていたが、旧織田大和守の家臣たちは今川を恐れて信長に従わない。
「尾張半国は御進退なすべき事に候へども、河内一郡は(中略)御手に属さず、智多郡は駿河より乱入し、残って二郡の内も、乱世のことに候間、確かに御手に随わず。」と公記はこの間の事情を記す。
ところが、翌年の四月以後、この状況は改善されたと見え、それより3年後の1558年信長は岩倉城を落とし、尾張を統一をなしとげる。
つまり、もし信長が、何かの魔法を使ったのでなければ、1556年の4月に状況を根本的に変えるような何かがあった、と推測するのが自然ではないか。

762人間七七四年:2009/06/19(金) 13:34:37 ID:VvqLSMEb
1556年の4月ね。
長良川の戦いだわな。

その後の8月に稲生の戦いで信勝に勝ってるな。
763人間七七四年:2009/06/19(金) 15:30:31 ID:MHOqsnUp
美濃の余波で尾張内の旗色が明確になり信長はそれに勝利したってこと?
764人間七七四年:2009/06/19(金) 20:25:32 ID:CxlIPALt
四月上旬、三河上野原で信長は、義元と会見した。>>753(このことを妄想という人もいるけれど{759、760}こうなったら行くところまで行く)転機はこちらの方だ。
この会見で義元と和解し、尾張国内での立場を安定させた信長が、美濃国内で孤立していた斎藤道三を尾張に引き取ろうとしたことから起きた戦いが、長良川の戦いだ。
長良川まで出れば、あとは船で下って終わりまでたどり着ける。信長が大良まで出陣し、義龍勢を引き付ける間に道三が脱出する予定だったのだが何らかの手違いで上手くゆかず道三は義龍軍につかまって敗死する。
信勝との戦いは家督争いではなく、今川と和解した信長に、かつての信秀のもとでの反今川から抜けられない信勝を中心とする勢力が反発した、というのが真相だ。
信長の尾張統一戦で不思議なのは、なぜ美濃は同盟関係にあったはずの岩倉織田氏を助けなかったのか、ということだ。当然の疑問なのに誰も問題にしない。これについてはまた後で。
765人間七七四年:2009/06/19(金) 20:36:42 ID:SSWJNxLY
仮説の最初の前提となる会見が事実として成立していないのに
ここで長文を書き流されても読む気になれないし
迷惑ですらある。
自分のブログでやってくださいよ。
766人間七七四年:2009/06/19(金) 20:46:34 ID:CxlIPALt
>>765 論理の分からない人はほんとに困る。上野原で信長と義元が会見した、というのは仮説だ。
でもその仮説で、込み入った事象が説明できるなら、その仮説が真理に近いということだ。
記録されていないから事実として存在しない、こんな考えだから文系は馬鹿にされる。
767人間七七四年:2009/06/19(金) 20:48:19 ID:44qFKqHg
>>766
どうでもいいから仮説を証明してから来い。
768人間七七四年:2009/06/19(金) 20:51:51 ID:CxlIPALt
>>767 だからさまざまな事実で証明しようとしてるんじゃないか。なにかの権威で保障してもらうことを証明と勘違いしていないか。
769人間七七四年:2009/06/19(金) 20:56:37 ID:o+7HiAXC
べつにおかしい説ではないだろ。

桶狭間の合戦が1560年だから、わずかその4年前のことだ。
信長の尾張統一がまだで、内戦状態のときだし。

そのとき、今川の重臣が、駿河から派遣されてきて、
信長もその会見に立ち会った、という資料だろ。

吉良が尾張に来て、勝手に織田氏と交渉してたら、それこそ変だから、
義元の指示または、了解か、指図として、代理の重臣が派遣されたんだろ。
770人間七七四年:2009/06/19(金) 20:56:41 ID:44qFKqHg
>>768
お前は自分が仮説「を」証明しようとしているんじゃなくて、
仮説「で」証明をしようとしていることに早く気が付け。
771人間七七四年:2009/06/19(金) 20:56:52 ID:SSWJNxLY
悪いけど仮設にすらなってないんだよね。
会見があったとするのが読違いによる誤解だと判明してんだから。
772人間七七四年:2009/06/19(金) 21:11:25 ID:VvqLSMEb
>>764
だから、仮説も何も、あの文中には駿河の今川義元の支配下にあった吉良義昭が、三河の上野原で斯波義銀と会見し、それに斯波に尾張を譲っていた織田信長が随伴した、としか読めんだろ、って言ってんだよ。
その文中に三河上野原において、今川義元の存在を示唆するものがどこにあるんだよ。

773人間七七四年:2009/06/19(金) 21:14:32 ID:o+7HiAXC
>>753の理解の一助として、徳川が三河の領主になったのと、同じパタンと見ることができるよ。

三河で内戦になり、領主だった松平宗家は、親族の勢力が強大になり伊勢に脱出した事があった。
そのときの脱出は、殿様と家来1人だけで、たった2人だけのちっぽけな存在。伊勢の親類先で右往左往して、
松平家は絶滅の危機となっていた。

そこで、たった1人しかいない家来が、駿河に行って、今川義元と「会見」してきた。
松平の宗家を、バックアップすることを義元は約束して(正確には、松平の父と約束していた)
松平の殿様は、「国主と崇め申され、岡崎の城渡し進ぜられ」て帰り咲いたわけだ。

松平宗家を乗っ取ろうとしていた親族は、(今川の軍事力に屈して)松平宗家に従った。
松平宗家からは、義元に人質を送った。これが家康。

というわけで、>>753の話をこれとおなじパタンだったとすれば、
内戦で、本家でもないが斯波義銀をキープしていた信長は、義元と交渉して、
今川の軍事力を背景として、斯波義銀を国主に認めさせた。これで、信長は尾張統一戦を
すすめやすくなった、と解釈することができるわな。
774人間七七四年:2009/06/19(金) 21:31:56 ID:rTbAzsxE
誤った仮説を元に証明をし
その証明のつじつまが合うから仮説が正しいと言う
引っ込みがつかなくなったんならID変わるまで黙ってろよ馬鹿が
775人間七七四年:2009/06/19(金) 21:32:19 ID:VvqLSMEb
>>769
吉良は別に重臣でもなんでもないぞ。
西条と東条に別れて内部抗争してたら今川に引間荘を取られてようやく抗争を終わらせたのが享禄、天文くらいで、その後は織田に荷担してたが1549年に今川に攻められて当主の義安は駿河に抑留されてる。
その後、会見に出て来る義昭が今川によって捩込まれて家名の存続を許されてるくらいだ。
776人間七七四年:2009/06/19(金) 21:32:31 ID:44qFKqHg
>>773
根本的に勘違いしている。
777人間七七四年:2009/06/19(金) 22:06:07 ID:o+7HiAXC
>>775 ぐえっ、博学!。恐れ入りました。
>>775のような解説をしてもらうと、本当にかなわないなあ。
778人間七七四年:2009/06/20(土) 12:21:44 ID:JF6PIVTQ
はい、以後スルーで
779人間七七四年:2009/06/20(土) 16:33:14 ID:BoELAnTA
信秀死後、時を経ないで鳴海、大高城の山口父子が、今川方へ走ったことは、織田にとっては大打撃であった。鳴海城は尾張平野の東にあって三河への出口にあたると同時に、東からの脅威に対する尾張防衛の関門にあたる。
ここを失ったことにより、織田は三河への出兵が不可能となったばかりか、国内も脅かされることになる。パンツのゴムが切れたのと同じで、まったくの無防備になってしまった。
織田、今川の三河を廻る覇権争いは、このことによって今川勝利の形で最終的に決着がついた。この勝利を今川へもたらしたのは間違いなく山口父子である。
しかし、義元にとってこの山口父子の寝返りは、一時的な利益をもたらしはしたものの、必ずしも両手を挙げて歓迎するべきものではなかった。裏切りを受けた信長と、山口父子との間には当然のことながら、激しい確執が生じたからである。
この時期信長は美濃の斎藤道三と同盟しており、その関係で岩倉織田氏とも良好な関係にあった。清洲織田氏は、岩倉とライバル関係にあったこともあり、山口氏裏切りのあとは今川寄りになりつつあった。
もし、今川氏が山口父子を中心として対尾張政策を進めた場合、尾張が親美濃と親今川の二つの勢力に分裂して軍事衝突に発展する恐れがあった。こうなると地理的に尾張に遠い今川は不利である。
今川氏の狙いが天下にあったとしたら、それが足利幕府の再興でも自身による新幕府でもよいのだが、このことは誠に具合が悪い。
つまり、尾張分裂のきっかけを作っておきながら、乱世に新秩序を、と言っても何の説得力もない。
山口父子の寝返りは、今川にとっては有難迷惑であった。そして、今川義元にとって、織田信長こそが尾張において、同盟を結ぶべき本命だったのだ。
780人間七七四年:2009/06/20(土) 17:07:41 ID:NiJs4WaN
信長の守役だった平手政秀が割腹して死ぬという事件が起きている。信長の素行が悪いのを憤り諫死した、ともいわれるのだが、その直後に行われた有名な正徳寺の会見で、斎藤道三は信長を最大級に評価している。
政秀には信長の価値が分からなかったということになるが、これは奇妙ではないか。
政秀の死は、山口父子の裏切りと深くかかわっている、と考える。同じ家中にありながら、山口氏の裏切りを未然に防止できず、信長を窮地に追いやったことの責任をとったのではないか。
これから先は、単なる憶測だが、山口父子と平手政秀はごく近い親戚だったのではなかろうか。織田信秀家中では、それぞれが重臣であり、家柄は釣りあっている。
もしそうであったとすれば、政秀自身にも裏切りの嫌疑がかけられたかもしれない。その疑いを晴らすために死を選んだのではないかと推測する。

781人間七七四年:2009/06/20(土) 17:16:43 ID:svQv/dUr
わかってると思うけど相手しないようにな
782人間七七四年:2009/06/20(土) 17:19:40 ID:VuXY1V7V
>>781
えー……ダメなのか。
783人間七七四年:2009/06/20(土) 17:41:08 ID:NiJs4WaN
>>781 歴史は物語りである。その物語を成り立たせるために様々な資料が必要となってくる。資料と関わることだけが目的の変態であってはならない。
そのことを分かっていないと781のようなただ威張るだけのいやな奴になってしまうよ。くやしかったら、テーマはなんでもよいから、まとまった考えを提示して見やがれ。
いけない、つられてつい下品になってしまった。
784人間七七四年:2009/06/20(土) 18:00:42 ID:VuXY1V7V
あー、やっぱだめだ、自制できん。


平手政秀 1553年自害
山口教継寝返り 1555年
785人間七七四年:2009/06/20(土) 19:09:09 ID:+EH4L/pj
荒らしだよなこれ
786人間七七四年:2009/06/20(土) 20:53:37 ID:jbrFXb7j
>>784 山口父子の裏切りは、「信長公19の歳、山口九郎二郎20の歳」と公記に明記されている。これは天文22年1553年。


787人間七七四年:2009/06/20(土) 22:03:24 ID:Q2kzqS/v
公記は間違い多いしなあ、特に首巻
788人間七七四年:2009/06/20(土) 22:37:51 ID:zI3KJf/M
>>787 確かに信秀の死は天文20年という説もあり(というよりこちらが主流)で、公記の前出の部分は問題もある。
しかし、1554年には村木砦の戦いがあった。村木砦は今川が大高、鳴海両城と連絡するため作ろうとした砦だから、山口父子の裏切りが、これより後であるはずがない。
789人間七七四年:2009/06/20(土) 22:38:58 ID:svQv/dUr
はずが無いとか言われてもねえ
790人間七七四年:2009/06/20(土) 22:52:34 ID:zI3KJf/M
>>789 山口父子がもし裏切っていなければ、鳴海、大高城は織田方に属す。今川が村木砦を作る必然性は全くない。
山口父子の裏切りは1553年が最も有力、1551年の可能性もある、とするべきだろう。
791人間七七四年:2009/06/21(日) 01:10:53 ID:9UmCVDs4
敵の近くに出城造るのは基本だろ
792人間七七四年:2009/06/21(日) 08:15:57 ID:kkhTGnLC
そもそも村木砦って、どこに?。桶狭間合戦の記事で聞いたことないな。
793人間七七四年:2009/06/21(日) 08:29:13 ID:kkhTGnLC
ネットで村木砦を調べたら、大高城の南東にあった。

大高城の南にある出城といえば、最近いくつかの砦が有名だな。
>>790の指摘は、かなり興味深い。
794人間七七四年:2009/06/21(日) 12:20:12 ID:2LvBZ1YZ
戦術的に重要な地点というものは攻撃側だろうが防御側だろうが変わらんわけで
或る地点を「Aが抑えた」という記述があっても、それをもってAが攻撃側だったか防御側
だったかを判定する根拠にはなり得ないのではないかいな。
包囲側の陣城として地の利を得ている地点は防御側の出城としても有効。
逆もまた成り立つ。
795人間七七四年:2009/06/21(日) 12:37:33 ID:+n7RJMxb
>>641
今川が義元の代で伸びた国ってアホですか?(笑)
家督相続時にはすでに駿河と遠江二国所有してましたが?
所詮義元は20年間で三河一国しか平定できなかったおじゃるで〜す
796奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆36LfxCD/TI :2009/06/21(日) 13:02:04 ID:1OY9wAXN
鵜殿救出戦が取るに足らない説になってきたな。
797人間七七四年:2009/06/21(日) 14:06:41 ID:FcWOK0mV
今川義元の評価って、桶狭間の前はどうだったの?
798人間七七四年:2009/06/21(日) 14:42:40 ID:Klc/kYM1
>>797
完全にあの辺の中心勢力。少し大げさだが、尾張以西の実質的な「公儀」になりかけていた。
799人間七七四年:2009/06/21(日) 15:00:54 ID:KKnpczO6
尾張以「西」?
800人間七七四年:2009/06/21(日) 15:04:18 ID:FcWOK0mV
>>798
thx.
有能な人だが、桶狭間で討死して評価を下げた人物像でいいのかな?
801人間七七四年:2009/06/21(日) 15:08:45 ID:ZrnVmD42
公儀ってどの範囲が区切りになるんだろう?

当時は東国最大最強の大名だっただろうな。
信玄が政虎に討ち取られるレベルの大事件だったに違いない。
802人間七七四年:2009/06/21(日) 15:22:22 ID:Xum6T8xV
1553年の山口父子の裏切りで、西三河は事実上今川義元の支配地となった。>>779 次に義元が打つべき手は何か。それは、これまでの西三河争奪戦の一方の当事者、織田氏と接触を持って、西三河が今川のものであることを認めさせることである。
西三河が今川の支配下にあることを、織田との交渉の中で認めさせ、公知の事実として周辺の者たちに知らしめることである。そうしておけば、以後織田はいっさい三河に手だしが出来ない。
1553年以来、今川からは織田に対して必ず、外交交渉につくよう、要請がなされたはずである。もちろん、信長にとって、それは父信秀の築いた遺産を完全に失うことを意味したから、容易には飲めなかっただろうが。
1556年四月、三河上野原で尾張の斯波義銀と三河の吉良義昭との会見を名目として、織田と今川との間で交渉が持たれた。前年の1555年の11月に斎藤道三の失脚で、危機的状況に陥っていた信長が、今川との外交交渉に応じた、ということだ。
今川との間に、和解が成立したことは、吉良義昭が駿河へも、三河へも戻らず、信長に同行して尾張に来たことで推察できる。もし織田、今川間が決裂していたら、こんなことはありえない。
1560年の今川義元の征西を、尾張三河間の紛争解決のため、とするのは誤りである。その問題は1556年四月に最終的に決着している。

803人間七七四年:2009/06/21(日) 16:11:02 ID:AzgN4erI
今川からすれば数段家格の劣る織田にわざわざ認めさせる必要はねーしなあ。
そんな事やってんならそれこそ山口親子誅殺は不可解だし。
804人間七七四年:2009/06/21(日) 17:17:23 ID:Ge5r+m7y
土地の売買が行われても、後になって実はあの土地は私のものだ、と言い出す人間が出てくる可能性がある。そのために土地を登記する必要があるのだ。
近代社会では、この登記を取り扱うのは役所だが、この時代にはそんなものはない。だから織田から直接、この土地は今川の物に相違ありませんという確約を得ておく必要がある。
家柄云々はまったく関係ない。所領安堵の一種というべきか。
805人間七七四年:2009/06/21(日) 19:40:17 ID:KKnpczO6
> 1553年の山口父子の裏切りで、西三河は事実上今川義元の支配地となった。

水野氏の存在は?村木砦攻めは何だったの?

> 今川との間に、和解が成立したことは、吉良義昭が駿河へも、三河へも戻らず、信長に同行して尾張に来たことで推察できる。

会見の後、互いに軍兵を返したはずだが、義昭が信長に随行し三河に戻らなかったってのは何に書いてあるの?

1556年の斯波と吉良の和解が信長と義元の外交交渉の結果であり、それが義元との和睦であった可能性は必ずしも否定はしないが。
806人間七七四年:2009/06/21(日) 19:41:23 ID:AzgN4erI
いや、益々意味不明なんだが……土地の売買とか登記とか出て来る意味がさ。
807人間七七四年:2009/06/21(日) 20:33:03 ID:lQpMfEr7
>>806 「事実上」を「ほとんど全部」、の意味に使っている。水野氏は数少ない例外。
公記、上野原の会見に続く条、「尾張国端海手に付けて、石橋殿御座所あり。(中略)吉良、石橋、武衛仰せ談ぜられ御謀反相半ばの刻、家臣のうちより漏れ聞き、則ち御両三人御国追い出し申され候ひしなり。」
とある。石橋殿が何者かは不明だが、これにより吉良が尾張にいたことは確認できる。上野原会見の時を除いて吉良が尾張に来る可能性はない。この追放劇は、桶狭間の後のことだと思う。
その他、上野原会見の最後の部分にも、「それより人数御引き取り候なり。」とある。この「人数」をも吉良一行ととれば、信長が彼らを引き取った、と解釈できる。
808人間七七四年:2009/06/21(日) 20:44:15 ID:AzgN4erI
>>807
俺にそのレスを返されても困る訳だが。
809人間七七四年:2009/06/21(日) 21:02:32 ID:kkhTGnLC
>>807の説が、かなり信ぴょう性がでてくれば、桶狭間合戦について
有力な新説が登場!ということになるな。

>>802で「1555年の11月に斎藤道三の失脚で、危機的状況に陥っていた信長」という件は、
斎藤道三の失脚によって、道三の子と信長は交戦状態になっているから、今川との
2両面作戦は無理がある。今川と和解がなされたという説もごもっともだ。

引用した資料の元の、資料名をいちいち述べれば、信ぴょう性は充分高まる。信長公記ならなおさら良い。
首巻はちょっと間違いが目立つが、他の資料よりははるかにマシ。
810人間七七四年:2009/06/21(日) 21:05:10 ID:KKnpczO6
>>807
> 公記、上野原の会見に続く条、「尾張国端海手に付けて、石橋殿御座所あり。(中略)吉良、石橋、武衛仰せ談ぜられ御謀反相半ばの刻、家臣のうちより漏れ聞き、則ち御両三人御国追い出し申され候ひしなり。」

見落としてた。ありがと。
桶狭間後、家康は吉良義昭を攻撃してたのでてっきり三河にいると思ってたが、信長によって追放された後三河に行ったんだな。

そうであるとすると、斯波と吉良の会見が信長と義元との和睦の結果だと仮定してもこの三人が追放された時点で信長と義元の同盟が破綻したことにならないか?
811人間七七四年:2009/06/21(日) 22:42:51 ID:mrq51+fi
1560年の今川義元の征西が、上洛である可能性はあるのだろうか。現在の歴史学では、上洛説はほぼ否定されているように見える。
だが、それは今川と織田が対立関係にある、という前提に立つからそうなるのである。抵抗する織田軍を蹴散らしながら上洛する、などということは確かに考えにくい。
織田と外交交渉すれば通してくれるかも知れない、それすらしないで今川はやって来たのか、こんなことは確かにありえない。だから上洛ではない、と考えるのは早計だ。
1556年四月上旬、、三河上野原ですでに両者の間ですでに合意ができており、それに基づいて今川は上洛作戦を発動したのである。


812人間七七四年:2009/06/21(日) 22:49:06 ID:AlkrlE54
上杉謙信の小田原出兵が控えてるのが明らかだっんだから、
悠長に上洛なんて夢見てないで北条援軍の準備してろよ。
尾張侵攻はそれに備えての動きじゃないのか?
813人間七七四年:2009/06/21(日) 23:07:53 ID:MgcZWLuy
>>810 吉良、武衛(斯波)石橋、の3名を追放したのは「桶狭間合戦」直後と理解している。
つまり通説とは異なり、1560年の時点で尾張は、斯波義銀を守護として頂き、織田信長を守護代とする体制であった、と考える。
もちろんこの守護は飾りで、実権は信長にあったのだが。彼ら3人が何のために尾張にいたのかについては、また後で。
石橋殿について、もし心当たりがある人がいたら教えて。
814人間七七四年:2009/06/21(日) 23:13:50 ID:AzgN4erI
>>811
道中の大名と誼を通じた形跡も無ければ書状に「上洛」の文字もねーんだよ。
815人間七七四年:2009/06/21(日) 23:23:44 ID:AlkrlE54
>>814
この流れだと、「今川は織田を先に将軍と会見させ、その準備をさせた」とか、
「将軍のもとには今川から信玄を憎む信虎が派遣されていた。
今川は信虎とともに北条と武田を長尾に売り渡し、
彼らを互いに争わせて自らは悠々と上洛するつもりだったのだ」
「この重大な裏切りがあったからこそ、武田はのちに駿河併合の道を選んだのである」
などと言いかねないなw
816人間七七四年:2009/06/21(日) 23:24:17 ID:FcWOK0mV
またまた、素人質問だが…今川義元の出陣は必要だったの?
当主自ら出陣するような必要性はなんだろ?
817人間七七四年:2009/06/21(日) 23:31:09 ID:Klc/kYM1
>>816
当時はもう氏真に家督譲ってる
818人間七七四年:2009/06/21(日) 23:57:08 ID:WGN/XHRc
>>814 道中の大名といえば、関ヶ原経由だと斎藤、浅井、佐々木あたり、鈴鹿越えだと北畠か。全部戦国時代を乗り越えられなかった大名だけれど、資料がどれほど残っているのか。
道中の大名と誼を通じた形跡といわず、もしまとまった資料が残っていれば、確かに奇跡だな。今川だって大名としては滅びて、どれだけ資料が残っているのか。
819人間七七四年:2009/06/21(日) 23:57:23 ID:gxI4Y5G2
出陣って
上洛だから本人が行かないとな。
820人間七七四年:2009/06/22(月) 00:00:49 ID:O8eICEAc
>>817
あ、言い方が悪かったです。
今川家の中心人物たる義元の出陣が、必要な戦だったのでしょうか?
士気は上がると思うのですが…。
821人間七七四年:2009/06/22(月) 00:07:10 ID:0c2PgKyY
>>815 陰謀論マニアが自分を笑うの図。
822人間七七四年:2009/06/22(月) 01:04:28 ID:GvNRsxsz
>>814 それでは、尾張、三河国境平定作戦であった、という確かな資料があるんですね。知りたく思います。
823人間七七四年:2009/06/22(月) 01:41:58 ID:xtU/4xG0
>>820
基本的に領国全体レベルの大規模動員なら当主、または世継等、当主直系
系列が総大将になるのが常識。
理由としてはこの時代に主力の指揮権を「他人」に預けることの危険もそうだが、
仮に信頼できる家臣を総大将にしたとしても、領国を挙げた軍を指揮して勝ったとなると
当然、その戦功や名望が極端に膨らむわけで。
もし、その家臣本人に一切野心が無かったとしても、その存在自体が組織を
不安定化させるわけだから、そういう事態は未然に防ぐべきだし、実際に皆
そうしたわけだ。うっかり特定の臣に功績を集中させてしまったなら、義経のように
処分するしかなくなる。
824人間七七四年:2009/06/22(月) 01:53:51 ID:O8eICEAc
>>823
丁寧な解説、ありがとうございました。
人材育成、人材登用、適材適所だけじゃない、リアリズムな側面を見落としてました。
825人間七七四年:2009/06/22(月) 03:15:18 ID:tWU4mnIn
雪斎死後じゃ一任できそうな配下が見当たらんねぇ
朝比奈だとそれこそ後が怖そうだ
826人間七七四年:2009/06/22(月) 04:57:13 ID:XGEU2hPq
>>822
悪魔の証明
827人間七七四年:2009/06/22(月) 14:22:50 ID:goVCjgde
1555年、信長は清洲城奪取には成功したものの、本来ならばそこに所属するはずの旧織田大和守の家臣たちを掌握することができなかった。
1553年の山口父子の裏切りで鳴海、大高城が今川方となっていたため、尾張は東からの脅威にまったくの無防備で、今川勢の侵入に真っ先にさらされる尾張下四郡の者たちは、信長配下に入ることをためらったのである。
いそれでも時間をかければ信長は、これら旧大和守系の家臣を取りこんでゆくことは可能だったろう。
しかし、この年の11月、信長にとっては全く予想外の事件が美濃で起きた。強力に信長を支援していた斎藤道三が、息子義龍に追放されてしまった。さらには信長の庶兄、信広が義龍と結び信長に叛旗を翻した。
この間の事情を公記は記す。「三郎五郎殿御敵の色を立てせられ、御取合半ばに候。御迷惑なる時、見次ぐ者は稀なり。ケ様に攻め、一仁に御成り候へども、
究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし。」
信長が孤立しながらも意気軒昂であった様子がわかるが、兵力の不足はいかんともしがたく、僅か83騎の信長軍が、岩倉勢3000と対峙したこともあった。
この時は、巧みに衝突をさけ無事味方を引き揚げさせたのだが、相手を打ち破るなど思いもよらない状況であった。
このような状況は1556年四月の上野原での今川との会見を経て、急速に改善された。
今川との和解によって、それまで信長の下に出仕せず日和見を決め込んでいた旧大和守系の家臣が、信長の下に馳せ参じた。今川と信長の対立がなくなれば彼らが信長に背を向ける理由はなにもない。
それまでの日和見姿勢にたいしての負い目がある分、信長に対して一層の忠勤を励まなければならなかったのである。信長は、彼らを岩倉の織田伊勢守にぶつけることで尾張統一を目指したのである。
上野原の会見後、斯波義銀が尾張守護に復帰した。信長はそのもとで守護代となった。このことも尾張統一にむけての大きな力となった。
従来、尾張は守護代が清洲の織田大和守と岩倉織田伊勢守の、二人が立つことが慣例であったが、このとき岩倉は守護代に任命されなかった。義銀は信長の傀儡であったから、これは当然である。
そのことだけでは効果は少なかったかも知れないが、岩倉に対するはげしい武力攻勢とあわされば十分の効果を発揮した。
守護代ではないという事実は、伊勢守配下の者たちが、そこから離脱する口実になったからである。
1555年暮れには底を打った信長の勢力が、上野原の会見から3年のうちに尾張統一を達成したのはこうした事情であった。上野原で織田、今川が和解したことは疑問の余地がない。
828奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆36LfxCD/TI :2009/06/22(月) 14:26:45 ID:AUx5XxGj
岩倉なんて今でも古くて小さな町だが、3000の兵力はどこから動員したんだろう。
829人間七七四年:2009/06/22(月) 14:58:03 ID:z9VOiktW
そりゃ金で雇った足軽だろうが、数の方は実際には、300もいればいいほうだろうな。
830人間七七四年:2009/06/22(月) 15:03:35 ID:BSHZL3UJ
闇金の手口はここ → http://www.d2.dion.ne.jp/~aknet/akutoku.html

http://d-atari.jp/kikaku/sds.htm なサイトから、メアドを入手する闇金も多い。

闇金の種類は、http://yami.sarakinn.com/syurui.html#3 など多岐に並び、

http://www.lifestyle-web.jp/ の探偵なんかもそうらしい。

闇金や詐欺の被害にあった人は、勇気をふりしぼって、誰かに相談しよう
831人間七七四年:2009/06/22(月) 16:57:44 ID:kaxM4Wx4
>>828
昔の大きな集落が今の大きな街とは限らないからね
古い街ほど発展に取り残された例もあるし
832人間七七四年:2009/06/22(月) 18:46:06 ID:I2VRp0h+
>>827「究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、
御合戦に及びて、一度も不覚これなし。
信長が孤立しながらも意気軒昂であった様子がわかる」

信長には、屈強のサムライが七、八百いて、合戦では一度も負けなかった
という意味だから、意気軒昂のレベルでなく、連戦連勝の破竹の勢いだったんじゃヒ?
833人間七七四年:2009/06/23(火) 01:25:54 ID:ffwK7hv9
稲生の戦いでは、敵方の林美作が率いる兵が700、柴田権六、1000。ただし、柴田の1000は信勝の兵を預かっているから、信勝分700、柴田分300ぐらいか。この時信長が率いたのは700を越えない数。
牛一は正確な数を知ることができる立場にあったのにボカして書いているのは、相手との釣り合いを考えてのことで、実際はもっと少なかった可能性がある。
信秀の下での重臣に過ぎなかった林が、700を率いていることを考えれば、信長の下にあった七、八百の数は、国内の局地戦では有効でも、尾張統一を目指すには圧倒的に不足。林クラスの武士は国内に多くいたはずだから。
それに、信長の兵は当時の水準でもかなり損耗率が高かったようだ。それが強さの秘密でもあったのだが。
834人間七七四年:2009/06/26(金) 05:36:55 ID:h7xcoeRD
信長が運命を切り開い戦いは1554年に行われた、村木砦の戦いである。村木砦は知多半島の東の付け根、すぐ南にある水野氏の緒川城を抑えて、西の鳴海城への連絡路を確保するため、今川氏により作られた。
水野氏からの救援要請を受けた信長は、熱田から船で知多半島に上陸、緒川城に向かった。鳴海、大高城を今川に寝返った山口父子がおさえていたため、陸路は使えなかったのである。砦の攻撃は1月24日に行われた。
信長自身が鉄砲を放ち、砦の狭間を制圧する間に、兵が犠牲を顧みず突入するという強襲を行い、その日のうちに相手を降伏させた。相当数の死者、負傷者を出したが、信長自身にとって初めての今川との戦いは、完全な勝利に終わった。
これに対して、今川方でもっとも近くに城を持っていた山口父子(村木砦から鳴海城までは10キロ程度)は何らの動きを見せなかった。なぜ動かなかったのか理由は分からない。
危険を冒しての出兵で、鮮やかな勝利をおさめた信長と、うまく動けば信長に打撃を与えるチャンスがあったにもかかわらず、何も出来なかった山口父子、この両者の違いを見ていた者がいる。
それは今川義元である。この村木砦の戦いを契機として、義元は山口父子を見限り、信長との交渉の機会を模索し始めるのである。山口父子の処刑はもう少し後のことであるが、その運命はこの時決まった。


835人間七七四年:2009/06/26(金) 15:14:51 ID:iHRHd7Ko
ちょっと横から悪いが、上洛目的ではなかった、というのは「上洛」というのを、天下人を目指そうとしていた、みたいな強い意味に
とって、それをいろいろと「ありえなかったろう」みたいに説明している。

ただ、とりあえず京にごあいあつその途中で邪魔なヤツはけちらす、頭下げてきたら許してやる、まさか、この大軍には向かっては来ないだろう
そんなかんじではなかったかな。

義元が「輿」にのっていたのを「油断しすぎ」「いや、当時はそういう格好は慣例」とかよく聞くけど、上にもあったように「本人が出陣してこそ意味があった」とするならば、やっぱり、国堺争い、だけですますよりも、
京まで行く、そういう意思はあったんじゃないかな。

もし、最初から国堺平定作戦メイン、なら、あまりに弱すぎるというか情けないというか、戦闘モードではない、というか。
もちろん、負けちゃったからそう思えるだけで、勝った信長のほうが強いしラッキだった、というのもあるだろうが、それでも最初から戦闘メインの行動というよりは
上洛の方にメインがあった、とするのはそうおかしくはないように思える。

このあたりよくまだわからないとこなんだけど、どうなんだろう。
そんなに「上洛目的ではなかった」と定説っぽい結論にはなるんだろうか。
836人間七七四年:2009/06/26(金) 15:24:10 ID:nvOjXe1Y
明確な目的も無く、とりあえずで大軍を動員するの?
その大軍の補給は?
837人間七七四年:2009/06/26(金) 16:05:15 ID:vXQtaEev
途中に根拠地ももたねー軍勢ノコノコ引き連れて事前の挨拶も無しにそこのけそこのけお馬が通る、かぁ。
838人間七七四年:2009/06/26(金) 16:54:50 ID:HzhFhE5m
今川義元が、上洛する理由というか名分はあった。義元はその直前に朝廷から三河守に任命されている。当時の武士がよく使った自称○○守ではなく、正式なものだ。
その就任あいさつのために上洛する、のは極めて自然に思える。経済的に収支があったか、という問題はあるが。
輿に乗るのは、幕府から許された特権で、勲章つけるのと同じ。ついでに言うと足袋を履くことを許されるのも一つの特権で、肖像などで足先を見せているのはそれを誇示していることになる。
839人間七七四年:2009/06/26(金) 17:11:35 ID:rK5Q20y0
上洛のため、尾張国内を行進して行く可能性はない。濃尾平野は木曾、長良、揖斐という三大河川があり、この当時は治水が十分行われていなかったこともあり、美濃は通りにくかった。
尾張熱田で船に乗り、伊勢の桑名へ行くのが江戸時代の東海道だが、鳴海で船に乗り、美濃の墨俣へ行くのがそれ以前の経路。あの更級日記の著者はこのルートを使っている。
「桶狭間の戦い」の直前、うぐいらの服部右京介の水軍1000艘あまりが鳴海の近くの黒末川に接近していた、と公記には記されている。義元も鳴海で乗船して、伊勢湾を横断する予定だったのではないか。
840人間七七四年:2009/06/26(金) 18:17:20 ID:ptaVkJ44
信長が上洛したのはルート上の大名二家が
双方、致命的なお家騒動を起こし瓦解していた六角と三好だからだろう
草刈場へ踏み込む調度いい大義名分になった。
841人間七七四年:2009/06/26(金) 18:46:31 ID:GoL5dhKP
むしろ信長の時の上洛ルートは、行きはよいよい帰りは怖い、だったな。
六角と三好のしぶとさはもっと語られていい
842人間七七四年:2009/06/27(土) 01:48:48 ID:T69LmSBC
渋太いどころか、両家とも脆弱の極み

お家騒動が無ければ、本来六角は浅井に対し相当な優越的立場のまま推移しただろうし
三好は天下を統べる公儀になれた可能性すらある
もしそうなっていたら、当然信長の侵攻に成功する余地は無かった
843人間七七四年:2009/06/27(土) 07:30:18 ID:FhStklw6
あの当時三好といっても実質松永だが
844人間七七四年:2009/06/27(土) 09:14:02 ID:J1tq8pW2
三好ー松永は京を制圧した時点で一種の天下人モ〜ドみたいなもんだからなぁ。
ビジョンがないとか局地的とかいろいろ言われて、信長にケチらされてるから、893の3日天下みたいな印象があるけど
信長の美濃制圧がもう少しでも遅れてたりしたら、傀儡とはいえ将軍家も押さえてたわけだし、なにがどうなってたかわかんないような。

タラレバ語ってもしゃあないが、三好公儀の可能性なんて十分だったと思うよ。
信長のタイミング、信玄が死んだタイミング、とかなんか奇跡的なところであの凝縮した年間は推移しててすごいとは思う。
845人間七七四年:2009/06/27(土) 20:00:39 ID:oHBHSIXC
>>842
はなんか勘違いしてるな
846人間七七四年:2009/06/27(土) 23:44:58 ID:T69LmSBC
>>845は何も知らないし何も理解出来てない
847人間七七四年:2009/06/28(日) 00:40:07 ID:c6V4BuwG
1556年、三河上野原で織田、今川の間で和議のための会見が持たれたが、これを主導したのは今川方である。信長の独裁であった織田方には、かつての平手政秀のような外交官はおらず、今川に接触する方法がなかった。
接触は今川方から行われたが、その交渉を担当した者が誰なのか、記録は残らないが推測が可能である。見ず知らずの者が今川の使者と称して信長への面会を求めても受け入れられるはずがない。
この当時、今川家中で信長と面識がある者はごく限られる。それは村木砦で信長と戦い、敗れて撤退した砦の守将である。もちろんこっそりと逃げて行ったのではなく、織田と今川との間で交渉が行われ、その結果武装解除して駿河への帰還が許されたのだろう。
信長とこの人物は間違いなく対面して言葉を交わしている。彼がその時の御礼の言上を名目として清洲を訪ねれば、信長側には拒絶する理由がない。この面会の中で、織田、今川の会見の話が持ち出されたのであろう。
この人物が誰かは分からないが、最も可能性があるのは、後に鳴海城を預かることになる岡部五郎兵衛だろう。彼は上野原会見を実現した功績で、村木砦の敗北を帳消しにし、鳴海城の城番に出世したのではないだろうか。



848人間七七四年:2009/06/28(日) 01:12:57 ID:Q3Hp9TeJ
出世もくそも岡部氏は今川の重臣だろ。
849人間七七四年:2009/06/28(日) 02:36:09 ID:PcRvGzZc
使者はそれ専門の家臣がいるっての
850人間七七四年:2009/06/28(日) 07:26:30 ID:RMZOxmYr
鳴海から大高にかけて海を復元してくれないかな
そして桶狭間近辺の民家を撤去してほしい
つまり広大な古戦場を再現したい
851人間七七四年:2009/06/28(日) 08:44:45 ID:uSk5MkWw
こらこら、今でも横の方に竹ヤブとかいっぱいあるし、かなり当時の地形はわかるからがまんしておくれ。
民家の並びみても、完全直線碁盤の目じゃなくて、かなりぐいんちょと曲がってるでしょ。
当時の丘みたいなのの段差がそのまま残ってそうで面白いのだよね。
低いとこは、川とか道が通って変化はしてるだろうけど。
852人間七七四年:2009/06/28(日) 12:53:56 ID:SejSyucn
>>848 鳴海城は尾張国内にあるが、「桶狭間の戦い」までは今川の支配下にあった。今川の重臣が入るのに何の不思議もない。 >>849 戦国時代の風習などあまり分かっていない。こうしたことがあった、ぐらいは言えても、こうしたことはありえない、とは言えない。
前回書き忘れたが、この今川方の使者は、直接織田家に来たのではなく、緒川城の水野氏を仲介として織田に接触したはずだ。
信長を上野原の会見(はじめから場所は決まっていなかったかも知れないが)に誘い出すのに、今川方が切り札としたのが、山口父子の首。山口父子の首を差し出すことを確約することで、今川は尾張を織田信長に任せる意思表示をした。
山口父子が駿河に呼び出されたのは、たぶん1555年の終わりごろ。信長の意志を確認した後、切腹を命じたのは1556年の一月か二月頃だろう。
通説では、山口父子の「裏切り」が偽装であるとの噂を、義元が信じて処刑したことになっているが、それほど軽率な人物ではこの時代を生きていけない。しかし、義元への忠節が偽りであること、を処刑の理由にしたことはありえただろう。
尾張に届けられた首を信長が確認して、会見は正式に決定されたと考えられる。


853人間七七四年:2009/06/28(日) 13:20:04 ID:Q3Hp9TeJ
わざわざそんな今川が下手に出る必要があるとは全く思えんのだがな。
854人間七七四年:2009/06/28(日) 14:07:27 ID:NBbf7G/k
もう触れるな。
気が済むまで書き込んだらどっかいってくれるだろ。
855人間七七四年:2009/06/28(日) 15:13:32 ID:ebXeZdaA
>>846
意や主張を伝えることは勝手だし、吟味したり議論したりするのは良いことなんだけど、
それ以前に相手の文章読んでないって意味だよ
856人間七七四年:2009/06/28(日) 17:24:19 ID:xLCAneho
>>853 大規模な武力を用いず、尾張に影響力を行使できる絶好のチャンスではないか。これをみすみす見逃したあげく、二万五千の大軍を率いて信長に首を献上に来る今川義元のイメージは、義元に対する冒瀆だと思わんのかね。

857人間七七四年:2009/06/28(日) 20:36:24 ID:bjmN7/Cy
>>856
義元への冒涜というが義元なんか戦下手で有名だろ
北条と戦えば連戦連敗で外交によって領地を取り返してもらっている
せいぜい勝ち戦は吉良攻めぐらいだ
死線をくぐり抜けてきた信長とは訳が違う
858人間七七四年:2009/06/28(日) 23:39:33 ID:pi7Yw/05
>>657 だったらなおのこと、外交で片がつくこの機会を利用しようとしたんでないかい。
859人間七七四年:2009/06/29(月) 04:05:14 ID:4rgfzvVL
信玄の仲介が無ければ、おじゃるはとっくに死んでましたね
860人間七七四年:2009/06/29(月) 06:57:34 ID:hdyCHNGe
おじゃるとは麻呂の事でおじゃるか?
861人間七七四年:2009/06/29(月) 23:50:48 ID:LfyaAYRZ
今川義元が、織田信長を滅ぼすつもりならば、1555年11月以降が絶好のチャンスであった。代理のものでもよいから、軍を尾張東部へ侵攻させれば、旧織田大和守の家臣たちは競って服従しただろう。
兵力で信長を圧倒することが可能だった。
ただ、信長を討ち取ることができたとしても、その後の見通しは明るくない。美濃と結んだ岩倉織田、信勝、信広など、残った的を撃破できるか、それらとの戦いを指揮できる者が今川にいたのか、疑問である。
この時期、今川打てる最強の手は、信長を味方につけることである。信長が尾張最強の存在であることは衆目の一致するところだ。それを自陣営に加えることが出来れば、間接的に尾張を支配できる。
通常ならばこのように強い者は、他人の手など借りる必要がない。しかし、この時期の信長は道三との同盟を失った直後で、危機的な状況に置かれていた。今川との和解に応じる可能性は十分にあったのである。
いくら信長が誇り高い存在であっても、滅亡か今川との和解かの選択を迫られれば、答えは明らかではないか。
織田信長は、斎藤道三とそれまで同盟関係にあった。他人とは同盟しない孤立主義者ではない。今川義元との同盟を絶対に受け入れない理由があったと思うか。
1556年四月、三河上野原において織田と今川は和解したのである。ただ、今川方も信長のメンツを傷つけないよう注意深く接したであろう。同盟を結べば十分に役立つ存在であったからだ。
上野原に今川義元自身が出馬した、と考える理由である。
862人間七七四年:2009/07/01(水) 09:39:48 ID:uwmecTCW
桶狭間の戦いはすべて捏造だよ
真実は義元の本陣に投降してきた信長が並み居る諸将を斬りまくったんだ
同盟者がいきなり裏切ったんだからいくら東海道の弓取りでも清康のごとく斬られるよな
863人間七七四年:2009/07/01(水) 18:36:01 ID:YnqdTiAt
あまりにも重臣連中が死にすぎてるからな
重臣たちが一堂に会する場所に突っ込んだとしか思えんのは事実だ
864人間七七四年:2009/07/01(水) 20:23:02 ID:mIX/gbI8
桶狭間は、今川方が敷いた陣ではなく、尾張方が作った接待施設。ここで尾張側のしかるべきものが今川方の首脳部を迎えて、両者が挨拶をかわした後、その先導で当日の宿泊地鳴海城へ移動する予定だった。
この種の施設は、当時「茶屋」と呼ばれた。城や砦ほど厳重ではないが、不審者などが近づかないよう周囲を柵や土塁で厳重に防備していた。
今川義元一行は、午前中にこの施設に入り、ここで尾張側から接待を受けていた。この時代には珍しく昼食をとっていたのは、尾張側が歓迎のしるしとして提供したものであったからだ。当然酒も出ただろう。
彼らはここで尾張側から歓迎の使節が来るのを待っていた。それは言うまでもなく、この時の尾張守護代、織田信長である。
信長は確かにやってきたが、今川方が期待したのとはまったく違った形であった。
今川義元の周囲は300人の旗本が固めていた。これは局地戦では決して少ない数ではない。それなのに義元が脱出できなかったのは、それが周囲を柵で囲まれた閉鎖空間内で起こったからだ。
今川方が、礼装だったか旅装のままだったかは不明だが、甲冑は身につけていない。腰に刀は帯びていただろうが、槍は茶屋のなかには持ち込んでいない。
これにたいして完全武装の織田軍が切りかかったのだから、勝負は明らかであった。
865人間七七四年:2009/07/01(水) 20:42:45 ID:5t8jnE7f
そんな小学生が思いつきそうなやり方が通るんならどこの大名もやってるだろうし、それが仮に、他の大名がしないような稀に見るあくどい行為だってんなら色んな家の記録に書かれてるよ。
しかもそんな戦い方なら織田方の犠牲者はなんだよ。ほんとは死んでないってのかw
つか投稿してきた信長がいきなり斬りまくるとかどんだけだよ。無双でもやったのか?
866人間七七四年:2009/07/01(水) 21:07:06 ID:nCJksHIW
>>864
それなら何の為に今川は丸根と鷲津の砦を攻め落としてんだよwww千秋や佐々の別働隊は何なんだよwww
867人間七七四年:2009/07/02(木) 00:48:26 ID:7QbEDQbb
ま、奇襲、なんてありえないし、公記、的な藤本さんもそれが限界だし。

明石説が、一番じゃないかと思う。
その後の、アネガワ、ミカタ、イシカワ、もだけどね。

結局、信長は、すごい、とは思うけど、それ以上ではない、し、それ以下でもない。
かの、三職推任、の答えさえ出てれば・・
ま、関係ない、という論文もあるけどね。
868人間七七四年:2009/07/02(木) 01:21:51 ID:qaKWifSg
この不自然すぎる句読点はあれか、たて読みしてくれということか
869人間七七四年:2009/07/02(木) 01:54:12 ID:bj5haSJN
三職推認の話は村さんの独走でFAでてるじゃん
870人間七七四年:2009/07/02(木) 03:19:13 ID:NOCkf3uS
>>866
馬鹿だなぁ、あれは反今川派だよ
敵を欺くにはまず味方から
彼等を見殺しにすることで義元を安心させたんだよ
871人間七七四年:2009/07/02(木) 03:20:58 ID:38aE4AcM
仮想戦記は他所でやってくれ
872人間七七四年:2009/07/02(木) 04:02:48 ID:afHKuJSP
うん…流石に、興醒めだわ。
873人間七七四年:2009/07/02(木) 05:25:51 ID:PDHvrHRA
桶狭間は『三河物語』が一番真実に近い
874人間七七四年:2009/07/02(木) 08:31:46 ID:1t+2XVMv
近代の戦争に例えると
情報弱の今川=日本軍
暗号解読、情報戦の織田=米軍
ミッドウェイ海戦ですな
875人間七七四年:2009/07/02(木) 15:15:39 ID:38aE4AcM
>>874
そんなに無知を晒してどうしたいんだ?
876人間七七四年:2009/07/02(木) 19:36:15 ID:GZAf9ETD
>>873 藤本さんの最新の本では、『三河物語』は無視。

雨の中を攻撃してきた、と記述してある点が、公記とは一番違う。
877人間七七四年:2009/07/02(木) 20:55:47 ID:nw8AYCi6
まあ、しかし当事者の一つ徳川家、それに後の経緯からわりと中立に近い立場の
家が天下人になったにも関わらず、こうも史料が少ないと言うことは、とりあえず
同時代人から見ればそんなにインパクトの無い「普通の」合戦だったということだろうな。
結局、同時代人には自明だったいくつかの事実が書き落とされたせいで、明治の参謀本部
には奇跡の逆転勝利に見えてしまい、それが後を引いて諸説喧々囂々の現代に至ると。
878人間七七四年:2009/07/02(木) 21:48:06 ID:qaKWifSg
家康が中立ってww大笑いした。
879人間七七四年:2009/07/02(木) 22:20:28 ID:497hKirZ
>>876
藤本より三河物語の方がはるかに信用を置けるけどなw
880人間七七四年:2009/07/02(木) 23:18:59 ID:nw8AYCi6
>>878
それじゃ江戸初期の徳川家旗本連中が織田や今川に肩入れした文書を
残さなけりゃならない動機が何かあるのかね?
881人間七七四年:2009/07/02(木) 23:35:00 ID:qaKWifSg
>>880
あんた自分で言ってて気づいてるだろ、ほんとは。おかしいって。
それとも気付かないふりを決め込んでるのかな?
882人間七七四年:2009/07/02(木) 23:46:58 ID:nw8AYCi6
>>881
何が?
事実上今川家を廃亡させ、関ヶ原で弾正忠家に止めを刺したような家の人間が
何で中立的でない立場で史料を残すことになるのかと言ってるんだが?
まさか当時今川家部将だったんだから今川滅亡後まで今川方擁護の立場で史料を
残す筈だとか思ってるんじゃないよな?
883人間七七四年:2009/07/03(金) 00:12:00 ID:h5MkPvJS
1556年に織田と今川の間に和解が成立して、信長は本格的に尾張統一戦に乗り出すことが可能となった。これは斯波義銀を守護、織田信長を守護代とした体制の下で行われた。
のち、信長は斯波儀銀を追放するのであるが、それはいつのことであろうか。公記にはそのことを記したとおぼしき記述があるのだが、年期が記入されないのでそのままではいつのことかは分からない。
「尾張国端、海手へ付けて、石橋殿御座所あり。服部左京介、駿河衆を海上より引き入れ、吉良、石橋、武衛仰せ談ぜられ、御謀反半ばの刻、家臣のうちより漏れ聞き、則ち御両三人御国追い出し候ひしなり。」
尾張国端とははっきりしない書き方だが、これは鳴海付近と考えるべきだろう。鳴海城内か、その近くにこの御座所はあったと考えるべきだろう。
服部左京介はこことは別の部分に登場する。「爰に河内二の江の坊主、うぐいらの服部左京助。義元へ手合わせとして、武者舟千艘計り(中略)大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども(以下略)」これは1560年5月19日、「桶狭間の戦い」があった日のことである。
「服部左京介、駿河勢を海上より引き入れる」は同じことを指していると考えられる。つまり、斯波義銀たちを追放したのは、「桶狭間の戦い」直後であった。
つまりこのことは、「桶狭間の戦い」の日まで。織田と今川は決裂してはいなかったことを示している。もし、そのときすでに両者が対立していたら、三河守護の吉良義昭が尾張にいることは考えにくい。
ここに出てくる石橋殿だが、よくわからない。だが、尾張や三河の人間ではないことは確かであると思われる。守護である彼らと対等につきあえる人間は、そこにはいない。
京都から来ていた室町幕府関係の人間ではなかろうか。今川義元の上洛に協力するために幕府から派遣された人物と推測するのだがどうだろうか。
今川義元の計画は、尾張、三河の守護、織田信長、松平元康らを引き連れた壮大な上洛計画であったと思う。
884人間七七四年:2009/07/03(金) 00:15:43 ID:EEmzrqXN
>>882
>事実上今川家を廃亡させ、関ヶ原で弾正忠家に止めを刺した

天然だなあこりゃ
885人間七七四年:2009/07/03(金) 00:41:53 ID:tv78Rvkd
徳川家の資料が曖昧なのは
家康が裏切った可能性もあるからでしょ

決戦場が大高城と目と鼻の先で大高城を守っていたのが家康
義元が大高城で出てすぐに戦闘が起きたようだから怪しい


織田軍が的確に今川本軍を叩いたのは
家康と信長はこの時点で通じていたってこと
886人間七七四年:2009/07/03(金) 01:01:56 ID:JZscWC9V
お前頭良いな!
887人間七七四年:2009/07/03(金) 01:05:52 ID:T+RS0Faa
もはや陰謀論の世界になってきた。




頼むから自分でブログ作ってやってくれ。
888人間七七四年:2009/07/03(金) 03:17:42 ID:bNWbH6rw
煮詰まってくると結局そうならざるを得ないな。
結局のところ「圧倒的にデータが足りない」と。

部下に合戦の報告をする信長の手紙とか残ってたらいいんだけどもw
889人間七七四年:2009/07/03(金) 14:54:49 ID:Spo59Keo
>>887 これらの論は、基本的に信長公記を読み込むことにより成り立っている。
織田信長の尾張統一戦が今川義元との和解により可能となったこと。
1556年より尾張では、守護、守護代の体制が復活していること。
これらはすべて公記に基づいている。別に、これらの論が誤りだというならそれもよいけげど、資料に基づき、論理的に反論していただきたい。
今川と織田との関係は、織田信秀の三河侵攻以来始まっている。(正確には尾張を今川が支配していたこともあり、それを追放したのが信秀なののだが、それはこの際除く)
それをトータルに見ようとしないで、ただ1560年の義元と信長の関係だけしか見ないのは単なる戦記オタク。
信長が勝ったのは情報を重視した、とかいう愚にもつかない与太話を読んでうれしいのか。(情報が重要であること自体を否定する気はないが)
信長が勝ったのは、当日豪雨が降ったからって、雨が降らなかった信長は天下を取れなかった、と本気で思っているのか。
陰謀論だの仮想戦記だの言う前に、こうしたレベルの低い話を批判するのが先だろうが。

890人間七七四年:2009/07/03(金) 15:35:02 ID:s16TfAVc
確かに陰謀論というよりは仮想戦記だな。
永禄元年に松平元康が三河寺部・広瀬を落とし水野氏を圧迫、
対して科野城も落とせなかった織田を見れば、尾張は既に今川氏に蚕食されていた。
桶狭間において公記をどう読み込もうと佐久間大学や佐々隼人・千秋四郎といった
家中の大身がたおれる説明がつかない。

公記に基づいてもこうなるわけだが、電波論に付き合うべきなのだろうか。
違う視点を持つのは賛成だがトータルに見るというなら、仮定を前提にはしても
証明なくそれを決定事項にすり替えて論を進めないようにな。
891人間七七四年:2009/07/03(金) 16:41:16 ID:vFq3tynb
>>888
「データが足りない」ってのも一つのデータなのだよ。
つまり、よく知ってる人間にとっては詳細に書き残したいと思うほど
面白い話じゃなかったということだから。
892人間七七四年:2009/07/03(金) 20:16:48 ID:2aDEv9mW
大将の首をとった戦が面白くもない話なんてことはないと思うけど。

データがない、のではなく当時はあったが残っていないだけじゃない?
火事でなくなることもあったろうしね。
そういうことを考えず、ないことがデータなんて言うのは恥ずかしい
893人間七七四年:2009/07/03(金) 20:36:16 ID:elOkXmOI
>>883服部左京助で検索すると、面白いことになりそうだな。

桶狭間の戦いがあった日
「爰に河内二の江の坊主、うぐいらの服部左京助。義元へ手合わせとして、武者舟千艘計り(中略)大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども(以下略)」

その後
「尾張国端、海手へ付けて、石橋殿御座所あり。服部左京介、駿河衆を海上より引き入れ、吉良、石橋、武衛仰せ談ぜられ、御謀反半ばの刻、家臣のうちより漏れ聞き、則ち御両三人御国追い出し候ひしなり。」

尾張国端で、今川か織田かで揺れ動く小勢力がいて、今川義元の侵攻で服部左京介はなびいたため、
桶狭間の戦い後は、追放されたという意味なんじゃね?。単に。
894人間七七四年:2009/07/04(土) 00:20:43 ID:GTXfrI1Z
>>892
高い関心の持たれてる文書なら複写なり引用なりされるから
そう簡単には消滅しないw
火事一発で無くなるような文書は当時どうでもいい代物だったってことだ。
895人間七七四年:2009/07/04(土) 06:52:53 ID:aM8s6Fn+
斎藤道三が失脚してすぐ、信長の庶兄、信広が斎藤義龍と結んで、信長に叛旗を翻した。これは信長の置かれた立場を一層苦しいものにした。公記も「御取合半に候」と書き、なかなか決着がつかなかったことを示唆している。
この反乱がどのように終息したのかを、公記は記さないため、詳細は不明であるが、不思議なことにその後信広は処刑も追放もされず、十数年後伊勢長嶋で討ち死にするまで、織田家中で重要な地位にあった。
その理由は、信広の反乱が個人的野心に根差したものではなかったからだ。信秀系織田氏、弾正忠(だんじょうのじょう)家は、この地方の水運の中心の商業都市、津島を経済基盤としていたことはよく知られている。
当時の水運は海というより河川を用いるそれで、津島の水運も木曾、長良、揖斐川などを活躍の場としていた。これらの河川は美濃国内を流れていたため、津島の保護者である弾正忠家にとって、美濃の政権と対立することは好ましくなかった。
したがって、義龍と結んだ信広の動きは、弾正忠家を守るための行動であって、信長としてもそれを否定することはできなかった。だから信広は罪を問われなかったのである。
道三失脚と同時に美濃と関係を失い、ふたたびその関係を回復する見込みがなかった信長は、このとき弾正忠家の総領としての資格を失ったと見做されたのである。信広の反乱の少し後、弟信勝とも対立し、やがて稲生の戦いに発展するのであるが、これも同じ理由からである。
このときの信長は清洲城の、織田大和守の支配地の実効支配を回復するより生きる道がなかった。そのためには今川との和解が必要であったのである。
896人間七七四年:2009/07/04(土) 06:59:17 ID:2aCAHpNB
>>894
ほー
では織田に滅ぼされた武○家とか川○島の合戦とかもか?
897奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/07/04(土) 07:48:40 ID:jUaeTbH4
まあ弾正忠家というのが信広から信正とかいう系図があるなら>>895もいいんじゃないかな。
898人間七七四年:2009/07/04(土) 08:14:00 ID:lgPt7QNa
単に処刑出来るだけの権力も権威もまだ無かっただけだろ
899人間七七四年:2009/07/04(土) 08:56:56 ID:jcuYoIRm
信勝だって一回は許したじゃないか
900人間七七四年:2009/07/04(土) 18:42:35 ID:Z3unnId3
>>897
ちょwwwマジレスっすかwwww
これだからオッサンは困るんだよwwww情弱がwwww
どうせニコ厨なんだろうけど(プッ
だいたい戦国板で馴れ合いとかお前頭湧いてんのか?
お前がマジレスするのは勝手かもしれないがお前にマジレスを求めてるやつなんていないんだよ
死ね、氏ねじゃなくて死ね
901人間七七四年:2009/07/05(日) 15:10:04 ID:+53OjwK4
と つ ぜ ん の は っ き ょ う
902人間七七四年:2009/07/06(月) 01:26:50 ID:jKgYXbts
1556年四月の織田と今川の和解を受け入れがたくしているのは、信長が義元に降伏するはずがない、降伏して欲しくないという、この後の歴史を知る者の願望である。ことの推移を冷静に見れば、この和解が成り立ったことが分かるはずだ。
この両者の和解に困難があったとすれば、それはこの時の両者の力が違いすぎることである。清洲城は確保したものの、大和守系家臣には背かれ、弾正忠家の総領の地位を失っていた信長と、義元とでは力の差がありすぎて対等な関係は成り立たない。
和解とはいうものの、事実上は信長の全面降伏とならざるを得ない。これは「御合戦に於いて一度も不覚これなし」と評された当時の信長のイメージの否定でもある。かといって、今川義元には信長の顔を立てた形で和解する理由もないように思える。
だが、力が違いすぎるこの二つの勢力が、まったく対等とは言わないがそれに近い形で和解する方法がひとつ存在した。それが、上洛作戦である。
今川にとっても上洛は、かなりの困難を伴う。一方で尾張を支配下におくこともかなり困難な事業である。しかし、この困難な事業をふたつ組み合わせれば、別々に行うよりも遥かに少ないエネルギーで実現できる、と思いついた人物がいた、ということだ。
織田信長を今川の上洛計画の中に組み入れることで、両者の新たな関係を築くのである。義元に降伏するのではなく、その計画に参加するのであれば信長のプライドは傷つかない。
今川義元は、三河上野原に於いて1556年四月上旬、織田信長に対して自身の上洛作戦への協力を求め、その実現のために信長主導による尾張統一に協力することを申し出たのである。
のちの事態の推移を見れば、この通りに動いていることが了解されよう。上洛実現の直前になって、信長がそれから降りてしまったのがいわゆる「桶狭間の戦い」なのである。




903人間七七四年:2009/07/06(月) 02:55:37 ID:liCFuqJn
上洛計画なぞ大層な御計画を立ててるわりにはその他の上洛途上の大名とはなんら交渉してないようだねぇ。
904人間七七四年:2009/07/06(月) 06:44:23 ID:sNplx0E9
>>903 信長時代、日本国内では多分、万を越える大量の鉄砲が用いられたが、その時代の鉄砲はほとんど一丁も残っていない。そう簡単に消滅するものでもないのに。
博物館や資料館には甲冑が多く展示されるが、信長時代以前のものはごく少ない。資料が必ず残る、と考えない方が良い。
905人間七七四年:2009/07/06(月) 06:55:50 ID:gKIcQCGJ
上洛しても当時は三好が天下を万端握ってるから何の意味もないな
906人間七七四年:2009/07/06(月) 06:59:25 ID:6+1rb1P2
>>904
あんた少し前に
重要な資料は簡単にはなくならないはず
などと言ってなかったか?
907人間七七四年:2009/07/06(月) 07:10:27 ID:ou8Ve3iQ
溶かしてリサイクルぢゅ
(●`ε´●)
908人間七七四年:2009/07/06(月) 07:54:31 ID:/r6p0Dzp
>>904
明治に入り陸軍が徴収
でも数は結構あって骨董品価値は薄い
909奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/07/06(月) 08:01:13 ID:stgG7IUw
流れ早えな。
910人間七七四年:2009/07/06(月) 10:24:27 ID:IBLoXfc/
桶狭間奇襲説がもてはやされたのは、明治時代に今川=ロシア、織田=日本と置き換えて理解していたから。上洛説が否定されるのは、天皇の価値を低く見ようとする戦後のマルクス主義史学の影響による。
歴史学もまた、それが存在する時代背景から自由ではいられない。
>>905 上洛という共通の目的を設定することによって、今川と織田の関係を作り上げようとした、というのがこの説。上洛して現地で何が出来るか、はあまり大した問題ではない。
>>906 それは別人。資料が残るとは期待しないというのが、当方の基本的考え。
>>908 現在残る火縄銃はほとんどすべて江戸時代製。それ以前のものはほとんどまったくない。日本史に火縄銃のスレがあり、その中で火縄銃の権威、澤田平氏の文の引用が見られるはず。
911人間七七四年:2009/07/06(月) 11:18:30 ID:qwndBjXH
上杉謙信の上洛も織田信長の上洛も足利将軍家の要請を受けてのもので天皇とは関係ないと思うんだが……
912人間七七四年:2009/07/06(月) 11:49:03 ID:N87SuJxZ
妄想スレになってきたね…。
913人間七七四年:2009/07/06(月) 18:35:15 ID:f64YCn8L
>>910
マルクス主義…
お前は戦後すぐで意識の固まった人間らしいな。
頼むから気持ちの悪い妄想するなら、コテつけるかそれが嫌ならブログでやってくれ。
914人間七七四年:2009/07/06(月) 20:01:47 ID:BJPL5A0m
>>910
横からで悪いがどうも色々納得いかないのだが。
織田と共同で「ただ上洛するだけ」ならあんな大軍でもないだろう。
織田との共闘ならどうして砦を攻撃してるの?あんなに織田方に名前のある戦死者が出てるの?
手紙が「偶然のこっていない」ということももちろんあり得るけど、とりあえず「積極的に隠すべき理由」や「存在が消失するために必然の理由(例えば消耗品はなくなるのが自然、のように)」がない限りは、
「実はあったんじゃないか」っていうのは希望的観測に過ぎないよね。義経がチンギスハンになったっていう希望的観測を、特に大した理由もなく「とりあえずこれを前提にして、信じて」っていうのは無理があるよね。
もちろんその先に、「このちょっとした障害を除けばこの仮説は上手くいくんだ」ってな話はみんなけっこう聞くと思うんだけど、無視して良いレベルじゃない、酷い前提を前に出して語るのはどうなのよってこと。
仮説を出すのは良いよ。ただあまりにあらだらけの、簡単に弾かれるような仮説は駄目だろってこと。
あなたの書いたこと、みんな納得してる?してないよね。素直に訂正しなよ。そうすればまたみんな聞いてあげると思うよ。
915人間七七四年:2009/07/06(月) 20:31:30 ID:IaU2wFNC
>>904
子供のころ、鉄パイプに爆竹詰めて球を打ち出す遊びをやったが、
パイプの底が爆発で必ず抜けてしまい、球はあまり早くは打ち出せなかった。
火縄銃は、ネジで固定したんだよな。
さて、その遊びで使った鉄パイプだが、後日になると、ものすごくサビついた。
火薬の燃焼した成分が、塩以上にサビやすくするものらしい。

というわけで、火縄銃は試射すると、長期保管がもう不可能になる、と推測してみる。
916人間七七四年:2009/07/06(月) 23:22:17 ID:/r6p0Dzp
ネジだと!?そんな高等技術は・・・
917人間七七四年:2009/07/06(月) 23:47:28 ID:lY5yeND9
>>914 1555年末の織田信長の置かれた状況は最悪で、滅亡の一歩手前であった。今川との和解以外に生き延び、尾張を統一することなどできない。この説が一般的でないのは、誰も信長のこの時代のことを真剣に考えていないから。
桶狭間の戦闘のことばかりに目を引かれ、それに至る経緯を考えていないから。まあ、信長がこの後天下統一一歩手前まで行ったことは事実だから、こんな時代のことはどうでもよい、と言えば言えるのだが。
桶狭間の通説を、納得して受け入れている人はいるんだろうか。迂回奇襲説が事実ではなく、正面攻撃説が受け入れられつつあるように見えるが、これも受け入れがたい。
中島砦は、東海道を抑えるために作られた。そこから出撃するということは、東海道を進むということだ。幹線道路を攻めてくる織田軍に負けてしまう今川軍を想像できるか。藤本説ではこの間苦しい説明があったが受け入れがたい。迂回説を否定した功績は認めるが。
今川が粉砕されたとしても、敗れた今川軍が地上から消えてなくなる訳でもあるまい。退却する今川軍を織田軍はどう追い越したのか。こんなことはありえないから小瀬甫庵あたありが迂回奇襲説を考え出したんだ。これはほんの一例だ。
その他あげればきりがないほど、疑問はいくらでも出てくる。つまり、桶狭間合戦についての通説なるものは極めて怪しい。通説が信頼できない、ということから当方の追及は始まっているんだから、通説を信じろと言われても聞く耳持たないよ。
世の中にはナイーブな人がいるなあ、ぐらいにしか思わんよ。織田重臣の討ち死にについてだが、5月19日の昼過ぎには織田と今川は戦闘状態に入っている。だから、織田方に死者が出るのは不思議ではない。
この戦闘は鳴海城と善照寺、中島砦の間で起きたもので、信長が桶狭間に移動する間、鳴海城の兵の接近を防ぐための戦い、と理解している。退却を許されない戦いだったから、300名中50人という多くの死者を出した。
918人間七七四年:2009/07/07(火) 00:14:49 ID:WA3mDvWC
>>914
多分わざとなんだろうけど、とりあえず自分の書いた文を一行一行見なおして、それからいったいどこにつっこまれたのか、どういう意図なのかをよくかみしめて答えなよ。
長文書く奴にありがちな、わざと話を少しずつそらしていくって薄汚い。
けどどうせ逃げるような書き方するだろうから、逃げられないようにここから少し縛った書き方してやろうか。

>通説が信頼できない、ということから当方の追及は始まっているんだから、通説を信じろと言われても聞く耳持たないよ。

おまえこう書いたな?お前の文のコピペなんだから否定しようがないだろ。
さて。次にお前があてた俺の文>>914 この文のどこに「通説」って言葉も「信じろ」って言葉も出てくる?
お前の書いたことなんだから当然責任もてるよな?とりあえず探してみろよ。ほら。
あるなら出してみろ。

今お前はこう思ってるんじゃない?「いや、そういう風に感じた」と。
となると当然それはお前のニュアンスの汲み取り方の問題であって、すでに「通説を信じろ」、などとはっきりかけることではない、ってことが分かる?
俺が言ってるのは「通説を信じろ」ではないし、「通説を信じるな」、でもなく、お前の前提はあらだけだよっつってるんだよ。
にも拘わらず、勝手に相手の意見を変えるのは、これまた実力不足の負けず嫌い、威張り散らし屋に多いことで、「相手の意見を自分が答えやすいように脳内変換して答える」現象。

ま、とりあえず反論するつもりがあるなら >>914 から「通説」「信じろ」を探してみろ。
無理ならまずお前の文の一端には「間違いなく誤りがあった」ってことになる
919人間七七四年:2009/07/07(火) 00:15:41 ID:WA3mDvWC
>>918 
>>917あてね
920人間七七四年:2009/07/07(火) 06:01:39 ID:tr3KUOhN
>>914 >>918 最初から、これらは相手にしていない。このテーマについて何の見解も示していないからだ。周回遅れのランナーと言うより競技に参加すらできていない者と張り合う気は最初からない。
脇から、この選手のフォームはよくない、それでは通用しない、と言っているだけじゃないか。そんな者につきあっても、時間の無駄。
これまでは桶狭間前史について述べてきたが、5月19日に何が起きたのかにテーマをシフトしたまで。あんたに反応しているんじゃない。
これからは従来言われている桶狭間戦の問題点について書く。
921人間七七四年:2009/07/07(火) 06:26:49 ID:FwZnTptV
>>920
910の人ですね。あなたの斬新な説はここの住民のレベルではとても付いていけません。
どうか、あなたを理解できるレベルの高い方たちの為に自身のブログを立ち上げそこで
御説を展開してください。
922人間七七四年:2009/07/07(火) 06:36:51 ID:/9PaJ9uV
漏れも、ブログでやってほしいわ。
923人間七七四年:2009/07/07(火) 12:30:03 ID:qfssH0em
ブログか検証サイトでも立ち上げてやってくれ。
924人間七七四年:2009/07/07(火) 12:53:37 ID:wfzccHfF
>>915
犯罪者め!
925人間七七四年:2009/07/07(火) 16:19:00 ID:VjII2kZe
>>718>>724
頭蓋骨を杯にするのが流行ってって、
それは密教か修験道の由来の話で、
本来はもっと高貴な相手(本来は仏陀?)の頭骨を使用しないと駄目なんだけど、
当時はそれにあやかってだかで適当な相手の頭骨を飾って仏具にしていたとかではないかと思う。
926人間七七四年:2009/07/07(火) 19:36:28 ID:qfssH0em
つか、流行ってないっての。
927人間七七四年:2009/07/07(火) 20:06:50 ID:L8md6yH3
浅井の頭蓋骨で、酒を飲んだとでも思っているのだろうか。
928人間七七四年:2009/07/07(火) 21:09:46 ID:bqEXy+fr
頭蓋杯のことだろ
チベットじゃ一般的
日本じゃ信長以外に黄門様が持っていたとか
929人間七七四年:2009/07/07(火) 21:41:36 ID:WA3mDvWC
>>920
何一つ反論できずに逃亡ですか。どうぞどうぞ
930人間七七四年:2009/07/08(水) 03:27:57 ID:xESJ5cE6
ここで、桶狭間に住んでる俺が通りますよっと
931人間七七四年:2009/07/08(水) 07:11:08 ID:/fExqlr0
どこから頭蓋骨に酒注いだ話になるのやらw
932国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/07/08(水) 07:46:11 ID:exVcFGz8
>>930
よう元ご近所。
933人間七七四年:2009/07/09(木) 02:24:34 ID:fD4rsKRR
亀だが
>>896
>>894ではないが、
武田氏の文章は北条氏に次いで残ってる方だと思うぞ。
武田氏遺文集は全6巻。文書数は数千にも及ぶ膨大なものが残ってる。

川中島の関連文書も武田上杉ともに結構ある。
934人間七七四年:2009/07/09(木) 02:55:42 ID:Ch3W0ltA
ものの例えにマジレスは
マジレスされる側に責任があるんだが
今の場の空気に似つかわしくはないね
935奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/07/09(木) 03:44:55 ID:/SutJW9m
妄想の吐き出し口に堕しているよりはいいんじゃないの。
936人間七七四年:2009/07/09(木) 05:42:53 ID:yYZs54VD
>>929 あんな大軍、というが、義元の率いた軍勢の総数は不明。公称45000、実数25000あたりが定説のようだが、これもまた確かな根拠があってのことではない。
私自身はもっと少なかった、と考えているが、今川はこの時の出兵以前に、鳴海、大高城を含め、すでに早くから兵を尾張東部に展開しているから、それらを含めれば25000ぐらいにはなるのかもしれない。
あんたに反論してるんじゃない。あんたの説など存在していないんだから、反論のしようがない。自分の一般的な方針を述べたまで。言葉の端をつかまえて、お前は俺を正しく理解してないって、言われてもねえ。
証拠がない、という人が多いんだが、もし、証拠があるなら、それをだせばよいだけ。でも世の中には証拠が残らないことが、結構多い。ただ、証拠がないからなにも語れません、ではあまりにもつまらないから、仮説を立てて真実に迫ろうとするまで。
それにしても、桶狭間のスレだから、信長に興味がある人が集まるんだろうが、信長に真っ先に追放されそうな、固定観念に凝り固まった因循姑息な奴の多いこと。
937人間七七四年:2009/07/09(木) 05:50:43 ID:sxKtz2pB
>>936
> 信長に真っ先に追放されそうな、固定観念に凝り固まった因循姑息な奴の多いこと。

この一文で創作物によって作られた信長しか知らないと言う事がまるわかりなわけで。
938人間七七四年:2009/07/09(木) 05:57:40 ID:8Mo32Kn7
妄想の捌け口になるよりは〜と言ってるそばからご登場w
しかも罵声混じりに妄想垂れ流しかよ。

仮説は歓迎するけど電波はお断りなんだよね。
証拠がないから妄想してみました〜まではいいし、
その内容がどれだけ衝撃的で突飛なものであってもいいけれど、
矛盾点が多くて説得力に乏しい新説は妄説の域を出ないんだよ。
数々のツッコミに対して何かまともに反論してみては?
939奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/07/09(木) 06:02:39 ID:/SutJW9m
>>1から読んでると、まるで別のスレッドに変質してるな。
940人間七七四年:2009/07/09(木) 09:04:23 ID:RrgJFVRi
>>939
あんたも律儀だね
941人間七七四年:2009/07/09(木) 10:30:15 ID:y0cM2DVb
>>936
誰でもレスできるこんな掲示板で他人の意見は聞きません、俺の論が絶対だ、なんて言うくらいなら、コメント不可にしたブログにでも書いておけば良いんじゃないかと。
942人間七七四年:2009/07/09(木) 14:01:29 ID:7LDnzD3O
正面突破説にはやっぱり疑問を感じるな

1・中島砦から大高公園を通って、桶狭間山への攻撃
佐々隊が壊滅した後に、突破したとあるが
いかに視界不良でも兵力差が織田二千・今川5千では兵力差がありすぎる
ましてや今川軍は丘の上

2・実は大高城の視界の良さは抜群、実際に行ってみたが
鷲津、丸根どころか大高緑地の方まで視界がみえる
織田軍が正面突破を敢行しようものなら家康が急行して挟撃の危険性もあり

3・中島砦〜大高緑地公園のある丘〜桶狭間山
実は凄く長い距離突破して今川義元を撃つのはかなり困難
突破して運よく義元に達したなんてありえない
943人間七七四年:2009/07/09(木) 14:16:41 ID:7LDnzD3O
おいらの考える新・迂回説

1・善樟寺砦をたった信長は中島砦に2千の兵を入れる
対する今川軍は丘の上に5千(大高城までのルートを確保したので鳴海城方面に矛先が向いてた可能性もあり)


2・暴風雨の佐々隊等をカモフラージュにして大高の丘の上にいる今川軍へ玉砕をかける

3・この暴風雨の中、江戸時代の”東海道の鳴海の宿場街”を通って、沓掛城方面に展開する輜重隊(兵糧)を
攻撃するために進軍

4・ところがここで梁田が今川義元の本陣を発見する(大将ヶ根に信長が到達した時点で)
南方1kmの桶狭間山へと進軍する(大将ヶ根、義元本陣があったとされる桶狭間山からは互いには見えない)

5・義元の陣ふもとへ来たときに雨が上がり、信長軍強襲、義元本陣の1000程度の兵は豊明方面の桶狭間と
名古屋方面の桶狭間へと逃げる(ここは名古屋方面説を取る)

6・前方には譜代の将がいるのでそちらへ守られながら馬に乗って逃亡する義元だが田楽狭間で
(風雨による泥に)馬が脚を取られて落馬そこへ追撃する信長軍に討ち取られる
944人間七七四年:2009/07/09(木) 14:26:11 ID:7LDnzD3O
>>943
2に関しては大高と呼ばれるだけあってかなり大きな丘で今川軍は
”東海道”を通る織田軍に気付かなかった可能性あり(風雨であったことも考慮して)
佐々隊を壊滅した今川軍は中島砦に2千の兵がまだいると思ってた可能性も

3に関しては現・1号線に関してはその”大高”を切り開いて作った可能性がありアテにならない
で旧鳴海の宿場町は両方を山に囲まれててて(今はどこも住宅ばかりできづかないかもしれないが)
商業が行き交いする”交通路”として考えるとイササカ危険とも思えるので実は江戸時代以前の
東海道は鳴海の宿を通らず義元のように大高を通った可能性あり(もしくは海岸線)
ましてや大軍を通す場合はやはり沓掛〜桶狭間山〜大高ルートが一番安全といわざるを得ない
尾張の北の川、東の山や谷を信長は知り尽くした可能性大、このルートは実は信長の発見かもしれない
(このルートは奇跡の勝利と共に江戸幕府にとっても独立のキッカケでもあるから縁起がイイので
宿場町にしたのかもしれない)
945人間七七四年:2009/07/09(木) 14:47:07 ID:7LDnzD3O
4に関しては、梁田が服部・毛利を押さえて武功第一とあるのは俗説といわれるが、戦後沓掛城主になったのはまぎれもない事実
(織徳同盟を結べるとは思ってなくて再度今川軍の進軍の方が可能性として高かった可能性を考慮すれば
対今川最前線であり最重要拠点をまかされたと言ってもおかしくはない)
ゆえに桶狭間の勝敗を左右するくらい重要な情報を伝えたのは間違いない
あと義元自身もお歯黒や御輿に乗って進軍してた事から(地元住民も今川本陣へ贈り物を届けてたのも確認されている)
かなり目立っていた事から意外と義元本陣の位置を探るのはそこまで難しい事ではなかったようだ
(足利一門の威光を示す為の装束といわれるがそれが逆にアダになったと見ていいかも)

5これは義元本陣からは中島砦方面の西側への視界はよく見えるが
実は北側方向は(デコボコしてて)イマイチわかりづらい
そして5千の兵が大高方面に縦長になってた可能性が大なので
義元本陣が”山”の上に500〜1000といたとしたら、そこへ強襲をかけたことで
逆に孤立、そして混乱、前方の譜代の部隊、後方の沓掛城へと逃げる
またそれが逆に義元が丘の上にいた事から丘の下への奇襲のような形になって
田楽狭間で義元が捕まる
ちなみに桶狭間公園のあるユーストアのある東側、
長福寺のある北側で一番高い丘が義元の本陣と思ってくれていい(といっても住宅地だけど)
そんなに大軍も置けなかっただろうし、当時は森林も多かった事も考慮してほしい
丘のてっぺんの見はらしのいい場所だった事がアダになって孤立・混乱したというのがよく分かる
桶狭間からそっちへ行く坂がかなり急だから
946人間七七四年:2009/07/09(木) 15:10:11 ID:hIEDrwaE
こういうカキコを待ってました(T_T)
実際に古戦場に行かれたとありますが、当時と現在の地形はほぼ一緒と考えていいのでしょうか?
947人間七七四年:2009/07/09(木) 15:10:21 ID:1vR72eEB
織田厨は武田関連スレで武田厨の言う妄想を「信玄に都合のいい事前提でワロタw」とかけなしてくるけど、織田厨の妄想もたいして変わらんなw
948人間七七四年:2009/07/09(木) 15:13:00 ID:1vR72eEB
>>945
義元が“お歯黒”や“公家風衣装”をしてたとか本気で信じてるところが痛すぎる。
949人間七七四年:2009/07/09(木) 16:27:53 ID:a48Zh42m
他にツッコミどころがなければいいんでないの?
950人間七七四年:2009/07/09(木) 17:15:38 ID:7LDnzD3O
>>948
馬鹿か、足利将軍家の親藩だぞ
守護大名の基本の正装だぞ
お歯黒、公家衣装=馬鹿殿、弱小武将という視線でしか見てないな

威光を示す為にやるだろう
(御輿に乗ってたり、お歯黒をしてたのは事実
あとちゃんと馬にも乗ってたし、鎧兜もちゃんと装備してたとも書いとく)


>>946
緑区は名古屋市の区の中でも人口は多い方だが
デコボコしてて信じられないくらい山や坂が多い
丸根砦や義元の陣とされる場所とかはその中でもかなり急こうばいな山

関東へ行くには箱根の山とかいわれるが緑区というか桶狭間は
いわゆるそういう場所(箱根ほど大きくはないが)
だいぶ木を伐採したり埋め立てたりでほぼ一緒とは言いがたいがそれでも
桶狭間周辺がかなりデコボコなのは行ってみればよくわかる
951人間七七四年:2009/07/09(木) 17:33:23 ID:VLKbSSAQ
上洛説を否定する者も多いが、室町政権の守護の在り方を考える必要がある。
守護は、京都に常駐するべき存在で、現地の支配は守護の家臣である守護代が行った。守護自身が任国にいる方が、特殊な状態。
応仁の乱で京都の秩序が乱れてからは、現地で暮らすことも多くなったが。
守護が京都と任国の間を移動するのは「公務」であって、それを妨害するのは幕府秩序の紊乱として、罪となったはず。
その路線上にあるものは、通行に協力しなければならなかった。特別な事前工作など不要。
したがって今川義元が上洛するのは、守護としての平常状態に戻ることであって、特別なことではない。
ただ、秩序が乱れて久しいこの時代、現実問題としてはかなりの困難をともなったとは思う。平常状態にもどる、とはいってもそのまま京都に常駐することは難しかったかもしれない。
952人間七七四年:2009/07/09(木) 17:54:00 ID:QLiodIcK
ここには守護大名と戦国大名の違いすら知らんアホがいっぱいいるからね
953人間七七四年:2009/07/09(木) 18:23:49 ID:P9D49+lE
守護大名の上洛が不自然とは思わないが、
戦国大名たる今川があの状況で軍勢率いて上洛するのはどうなんだよ。
それも事前工作も大義名分もなしに。
954人間七七四年:2009/07/09(木) 20:28:54 ID:y0cM2DVb
「今度の戦俺も出るんでー、そこんとこヨロシクー」な義元の書状は誰宛てだったっけか。
955人間七七四年:2009/07/10(金) 00:17:35 ID:qoVHpVqH
義元がお歯黒とか公家衣装をしていたとしているのは
江戸中期以降に書かれた軍記物だと本で読んだなー
別にお歯黒とか当時普通だったんだろうが
なぜか義元だけの特徴のようにされてるんだよな
956人間七七四年:2009/07/10(金) 01:18:53 ID:h09RmkXv
>>955
江戸期に丁度、一般庶民のお歯黒の風習が廃れて、公家的な特徴とされたからな。
957人間七七四年:2009/07/10(金) 01:22:11 ID:soeZKeww
>>953 今川家は守護大名の家柄。実質戦国大名に変貌したからあそこまで巨大化できたのだが、どこの馬の骨ともしれない成り上がりの戦国大名とは違うという自覚と、周囲の目はあった。
塗輿の使用、は幕府の許可によるものだから、それを用いているということは、幕府の「公務」であることを示している。
しばらくの間、京都を離れていた将軍家が、この時期京都へ復帰していたから、将軍への挨拶だけでも立派に上洛の大義名分となる。別に上洛理由を審査する機関があるわけでもないんだから。
信長の尾張平定に協力すること、が事前工作でないとでも?それに、「桶狭間」直前、尾張守護の斯波や三河守護の吉良とともに鳴海にいた「石橋殿」が幕府関係者、というのが当方の説。
今川の軍勢については、警護のための部隊はついただろうが、それほど数は多くなかった、と見ている。
ただし、尾張守護斯波義銀(よしかね)同守護代織田信長、三河守護吉良義昭、地位不明松平元康をともなっての上洛というのが当方の説であるから、トータルでは相当の人数になっただろう。
松平元康が運んでいた「兵糧」とは大高城で使う食糧ではなく、この上洛軍の活動費、および関係各位への贈答品だろう。
958人間七七四年:2009/07/10(金) 01:35:32 ID:h09RmkXv
>>957
だから他所でやってくれ。
959人間七七四年:2009/07/10(金) 01:46:48 ID:KoZ6ipzD
もう読むのも疲れてきたな
頼むから3行にまとめる勉強してくれ
960人間七七四年:2009/07/10(金) 07:43:08 ID:ktxBjgxV
>>959 3行しか文章が理解できないって、頭が不自由ってことだろう。馬鹿になるため勉強しろって、言葉の根本的矛盾。
961人間七七四年:2009/07/10(金) 07:45:34 ID:h09RmkXv
>>960
先ず最初の問題としてお前は日本語の文章が書けて無い事に気が付け。
962人間七七四年:2009/07/10(金) 12:19:08 ID:Oj6dwQjn
小説家ってのは大抵こういう愚にもつかない内容の本出してるよね
963人間七七四年:2009/07/10(金) 12:40:02 ID:1yKBtrp2
>>957
織田が協力しているというのならば大高城を包囲する丸根、鷲津砦の存在は不可解だし(永禄2年、1559年)、大高城に兵糧を入れた後に松平や鵜殿らが両砦を陥落させるのもまた不可解なんだが。
964人間七七四年:2009/07/10(金) 17:38:51 ID:4eGZcSRd
わしもにゃ古屋だけど、当時の地形と今はあまり変わってないんじゃないかと思う。
適度な高低があってぐにゃぐにゃしててね。

で、いつも思うのだけど、あのあたりの丘の未開拓のところに竹やぶがうじゃっとしてるでしょう。
あれってやっぱり戦国とか江戸からそのまま残ってたりするんだろうか。
名古屋大空襲の時も直接爆撃はなかったというし、農業系の人に聞いたら、竹やぶというのは数十年ぐらいじゃなかなかできない、らしいし。

だから、あのあたりのそういう竹やぶなんかを掘ったらそれなりになんか出てこないかな、とかね。
サビついた刀あたり。

話戻して、当時と似ているとして、かなり地元に詳しくないと大軍が通ったり休憩したりするだけでも、そんなベストなコースは取れなかったと思うんだ。
だもんで細かい状況はともかくとして、勘違いの正面攻撃が通用してしまった、というのも十分あったんじゃなかったのかな。
後から調べると、そんなことをしたとは考えにくい、そんな場所で〜〜とは思えない、っていうのも正論なんだけど、結果的に通用してしまったことこそ、
なんか意表というか普通じゃない行動の元に生まれた結果、のようにも思える。
素人でごめん。
965人間七七四年:2009/07/10(金) 19:29:51 ID:KGLtmLNe
>>963 そもそも大高、鳴海城を包囲していた織田の付け城の存在自体に疑問がある。南から丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下の砦だが、たとえば中島砦。
1553年に山口父子が裏切って以来、この付近は織田にとって敵対地域。そんなところに砦を建設することが出来たのか、というのが根本的な疑問。
二つの川の合流地点に中島砦はあるのだが、地形は平坦、すぐ横を東海道が通る。砦として機能させるためには堀を穿ち、土塁を盛り、周囲を柵で囲うことが必要。
だが、北へ500メートルも行くと、敵方の鳴海城があり、歩いても5分ぐらいしかかからない。こんなところに砦を築くのは、あの墨俣一夜城より困難。鳴海城は指をくわえて自分が包囲されるのを見ていたのか。
大量の兵の援護でもない限り不可能。それでも後方から大高城の兵に襲われる危険がある。それほどの大規模な兵を動員したのならもはや一つの戦いだが、その記録はない。
結論 通説のように織田今川が敵対関係にあるとすれば、中島砦建設は不可能。中島砦からの補給なしにその南の鷲津、丸根の砦が存在することも不可能。
よって、これらの砦群は、鳴海、大高城を攻撃するためのものではない。

966人間七七四年:2009/07/10(金) 19:32:20 ID:KGLtmLNe
>>961 オマエのような○○が読めたんだ。立派な日本語じゃないか。
967人間七七四年:2009/07/10(金) 19:48:50 ID:Es+FQHkD
966は都合悪いことはすべて捻じ曲げて解釈するただの妄想家かと思ったら、それ以下のただの荒らしだったな
今日もこのスレがまともに議論出来ない状態で残念だ
968人間七七四年:2009/07/10(金) 19:50:02 ID:KEan1PcX
>>965
虎御前
969人間七七四年:2009/07/10(金) 20:19:41 ID:OWTj4Ptz
>あの墨俣一夜城より困難。

もはや、釣り以下だろ…続きは、ブログでやってくれや。
970人間七七四年:2009/07/10(金) 20:25:26 ID:vwyjPiCf
>>968 近江小谷城の西南にある虎御前山は、信長が小谷城を封鎖するために作った付け城である。敵の支配地内に作ったということでは共通しているが、この頃の信長は常に最強の軍を動かしており、その建設を強力に援護できた。
虎御前山は低い山であったが、要塞化しており、ある程度の籠城には耐えることができ、また、南東に位置する横山城からそれを援護する体制も作っていた。一時的に手薄になることはあっても、織田はこの付近で、浅井に対しては圧倒的に優勢であった。
もし今川が出てきた場合、敵中に孤立し、援兵も困難な中島砦とは、同列には論じられない。
971人間七七四年:2009/07/10(金) 20:28:57 ID:5vMSl6p7
次スレではこいつの投稿禁止をテンプレに入れるべき
972人間七七四年:2009/07/10(金) 20:30:52 ID:7h3jYuYG
>あの墨俣一夜城より困難。

ギャハハハハハハハハハハハハ
お子ちゃま向けの絵本の創作をそのまま信じてるの?
一遍死ねよ!!!!!!
973人間七七四年:2009/07/10(金) 20:35:52 ID:vwyjPiCf
>>967 あんたの言うまともな議論とは、他人がお膳立てしなければできないものなのか。そんなのは議論でも何でもない、私の語彙では馬鹿のたわごとという。
>>969 じぶんのブログで、ってこういうのを馬鹿の一つ覚えという。
974人間七七四年:2009/07/10(金) 20:40:08 ID:5vMSl6p7
>>973
あなたさまの御高説は大変難度が高く、
わたしたちでは理解が及び兼ねますので、
どうか単独スレを立ててそちらでしては頂けないでしょうか?
975人間七七四年:2009/07/10(金) 20:44:29 ID:OWTj4Ptz
>>973
>こういうのを馬鹿の一つ覚えという。

それ、そのままお返ししますわ。
馬鹿の一つ覚えのように、電波を繰り返しカキコしてるアンタにね。
妄想&仮想戦記スレとちゃうで、ここ。
976人間七七四年:2009/07/10(金) 20:51:16 ID:7h3jYuYG
それにしても今時小学生でも墨俣一夜城なんか信じてる奴はおらんぞ
さっきから笑い涙が止まらんわ
977人間七七四年:2009/07/10(金) 21:17:18 ID:EikhDM2J
鳴海は「公記」によると「南は川・海、東は谷続き、西は深田、北東は山続き」だから、善照寺から(鳴海の)東の谷を回って南東の川向いに砦を作られたら手を出しにくいんじゃね?
それに砦にだってレベルが自ずからあるだろうに一概に不可能というのは乱暴すぎる。
そもそも織田と今川の間にあなたが言うようにどのようなものであれなんらかの同盟関係にあったなら、砦を築くのはそう難しいことではあるまい。
その後、信長がさらに丸根・大高に砦を築き敵対する様子を見せたので義元は西進したということだったのかもしれないという論の展開はありかな?
978人間七七四年:2009/07/11(土) 02:14:24 ID:bmhOM/pi
>>977 周辺の地形はともかく、東海道は中島を通過後北西に向かい鳴海へ至る。この間はほぼ直線で平坦。現在は家が立て込んでいるが当時はそうではなかったはずで、城から中島は目視できた。隠密理に建設を始めたとしても、鳴海から中島攻撃に向かうのは、極めて容易。
ふつうなれば自分の家の玄関の前に、砦を作っているのを見過ごすわけがない。
公記によれば1555年の段階で、「知多郡は駿河より乱入」の有様で、その後、回復するための軍事行動があったとも思えない。もし知多郡が今川支配下ならば、鷲津、丸根は敵中に突出した危険きわまりない砦になる。
今川の了解の下で、知多郡への連絡用に作った砦、と考えているのだが、まだ考慮の必要を感じている。
979人間七七四年:2009/07/11(土) 02:19:16 ID:tmEbwcfF
だからじゃあなんで桶狭間合戦で丸根と鷲津の砦は攻め落とされたのかと小一時間(ry
980人間七七四年:2009/07/11(土) 02:20:30 ID:bmhOM/pi
>>971 先生に言って禁止してもらうもんね、ってオマエ小学生か。よいこは早く寝ましょうね。
>>975 自分のブログでやれ、妄想、仮想戦記、馬鹿の三つ覚えに訂正。
>>976 おとぎ話より難しい、といったら、おとぎ話を信じていることになるのか。周囲に人はいないだろうな、アブナイ人と思われるぞ。
981人間七七四年:2009/07/11(土) 02:50:16 ID:qhnAUzT1
>>980
>妄想、仮想戦記、馬鹿の三つ覚えに訂正。

『珍論』も入れてよw
あと、コテをつけろよ…あぼ〜んしたいから。
IDだと日で変わるからさ。正直、迷惑してるんだ。

>おとぎ話より難しい、といったら、おとぎ話を信じていることになるのか。周囲に人はいないだろうな、アブナイ人と思われるぞ。

いや、俺もアンタが墨俣一夜城を信じてると受け取ったよw
妄想癖が強そうだしw 頭の薬は忘れず服用しろなwww
982人間七七四年:2009/07/11(土) 03:00:36 ID:WYg7je6b
>>979 丸根、鷲津の戦いは、丸根砦側から松平軍に対してしかけられた。砦から打って出て、襲いかかったという。(三河物語)
もし、籠城戦ならば、小規模な砦とはいえ数時間の攻防では落ちなかっただろう。
松平軍は兵糧を運んでいたから、事を構えず大高城に入城できればそれに越したことはない。好きこのんで砦を攻めるとは思えないから事実だろう。
983奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/07/11(土) 07:53:43 ID:47hzQ2+6
最近は読みづらい書き込みが流行りなのかね。

昭和30年代の緑区鳥瞰写真を鳴海商工会で見たことがあるが、
桶狭間団地に切り崩される以前のものなので結構地形が残っていて参考にできるかも。
984人間七七四年:2009/07/12(日) 01:38:54 ID:aVt54MnL
岡部元信という人物がいる。桶狭間の戦いの際、鳴海城を守っていた。本によると義元討ち死に後、今川軍が総退却した後も城にとどまり、織田と交渉してその首をもらいうけて悠々と引き揚げ、帰路織田方の城を攻め落として帰還した勇者だそうだ。
でもこれっておかしくないか。義元討ち死にの責任を問えば、A級戦犯になるのがこの岡部だ。桶狭間に向かう織田信長は、鳴海城の北を回って善照寺砦に向かっている。この動きは鳴海城から目視できるはずで、なぜそれに対して動かなかったのか分からない。
この時鳴海城から兵を動かして、善照寺砦を総攻撃していれば信長をそこで打ち取ることもできたはずだ。さらに中島砦に信長が移動するときにもチャンスがあったはずだし、移動を終えた後でも中島砦に圧力をかけ続ければ、事態は随分違っただろう。
肝心の時に無能では、いくら戦いの後の処理が見事でも意味がないだろう。
985人間七七四年:2009/07/12(日) 02:15:19 ID:S5q+0l6+
>>984
城の守備が目的なのに
城出て総攻撃して城奪われたらどうすんだ?

城守りつつ自力で砦に攻めかかって勝てるぐらいだったら
そもそも義元の出兵の必要すらないだろ
986人間七七四年:2009/07/12(日) 02:32:28 ID:sb+IArNo
>>985 持久戦の最中ならその通りだ。でもこのときは今川本軍がすぐ近くまで接近している。この先、城を長期間維持することは考えなくてもよい。
今川義元が鳴海城に入城すればいいんだから。門番が敵と味方の識別を誤りさえしなければ、この付近にいた織田軍の数で鳴海城を落とすのは不可能。
信長を、善照寺砦にくぎ付けにすればそれで目的達成。あとは今川本軍の到着を待って、信長を降伏に追い込めばよかった。
987人間七七四年:2009/07/12(日) 02:41:51 ID:TSZra7pF
今川家の軍法で独断で動いたら軍功を挙げても罰せられるから
動くなら本陣に伺いをたてなくてはならないから動けなかった。
988人間七七四年:2009/07/12(日) 04:08:26 ID:AWWmf0k/
今川方の各武将より、織田軍の接近を許した義元に判断の誤りがあると思う。
相手が寡兵と見て油断したのだろうか? 織田軍接近は見えてたと思うのだが。
989人間七七四年:2009/07/12(日) 04:36:22 ID:4HlFA9M/
>>987 確かに、信長を討ち取るまで行ってしまえば行き過ぎだが、善照寺砦攻撃ぐらいならできたはず。
この数年前、尾張 品野(科野)城(現瀬戸市)では城方が反撃して、尾張方が作った付け城を落とし、勝利している。
990人間七七四年:2009/07/12(日) 08:57:39 ID:WgizH97B
また本論からズレて何の妄想開陳かね?
991人間七七四年:2009/07/12(日) 09:29:38 ID:nz8TsOnB
>>957の論を借りるならば、今川に尾張平定を後押ししてもらって、その見返りに上洛を協力した、ってんなら、例え岡部が発見したとしても通報する必要は無いよな、「味方」なんだから。


まあ、目視できる状態に無かったと考えることは出来ないんだろうかね。
992人間七七四年:2009/07/12(日) 09:57:46 ID:4O5XksDw
鳴海は地形的・経歴的に見て軍を動かしづらくよって守りには適してるが軍を出しづらいっぽい。
また桶狭間で信長が動かした兵が少なかったのは鳴海包囲に回した兵が意外と多かったせいではないか?
よって無理に包囲網を撃破しようとせず、今川本隊の救援を待った方が賢いと判断した。
というのは推測に推測を重ねたものだが、蓋然性はそれほど低くないんじゃないかなあと思ってる。
993人間七七四年:2009/07/12(日) 18:24:10 ID:gJKDELrC
>>991 この時代の城の重要な任務は、街道の監視。直接見えない場合には、出丸を設けて視界にいれるようにしているはず。
末盛城の近くに住んでいるんだが、付近にここが街道の監視ポイントに違いないという場所が、何か所かある。連携を保ちながら監視にあたっていたようだ。宅地になっていて、具体的証拠はないんだが。
>>992 鳴海城から兵を出しづらかった、ということはないと思う。なにしろ東海道が城のすぐ下を通っているんだから。ただ、それだけに織田方としても中島砦の北に防御のポイントは絞れる。
必ずそこからやってくる、と分かっているんだから。
それにしても、柴田、丹羽、佐久間、など、後に活躍する織田家の重臣の名が桶狭間の戦いに現れないのは何故なんだろう。
994人間七七四年:2009/07/13(月) 05:41:54 ID:HB40pobc
その頃まだ重臣ではないから目立ってないだけでしょ
そんな武将の名が出てくるほうが創作臭い
995人間七七四年
鷲津砦:織田秀敏
丸根砦:佐久間盛重
中島砦:佐々隼人
善照寺砦:佐久間信盛

て書いてあった
林はたしか名古屋城の防衛
柴田は美濃方面の防衛というのをどこかで見た