1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 00:13:43 ID:Kyk6iZ6b
3 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 00:24:17 ID:FfuX1AuH
其之弐ってあるけど
4 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 00:27:11 ID:Kyk6iZ6b
なるほどな。
>>1の一つ目のアドレスにスレ名もなく前スレともないんで気がつかなかったわ。
だが早過ぎないか?
5 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 01:03:40 ID:Q93wzTLx
香ばしすぎる
6 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 02:48:50 ID:Lm1o5GVw
ま た イ左 ケケ 厨 が ヵ 儿 ├ ス レ 立 τ T= σ ヵゝ
7 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 10:48:19 ID:KMClk/zl
いばらぎ人糞スレ乱立させすぎ
8 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 12:29:29 ID:f7mnEjG/
9 :
東義久ってどぉ?:2008/03/12(水) 16:34:08 ID:dsPPvJ6V BE:2137860689-2BP(1)
>>1の関東の盟主は「北関東の盟主」に訂正した方がいいんじゃない?
10 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 17:40:34 ID:RkCGS8Si
ついでに言えば南陸奥を入れるのも若干やりすぎだ
11 :
東義久ってどぉ?:2008/03/12(水) 18:09:14 ID:dsPPvJ6V BE:712620083-2BP(1)
>>10さんへ
陸奥は広いからどこまでが「南」なのかが漠然と過ぎるよね?
12 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 18:22:06 ID:RkCGS8Si
>>11 たぶん陸中以北は少なくとも南陸奥には入らないと思うなあ
陸前のうち大崎あたりはともかく伊達領は入ると思う…んだけど…?わからんですw
いずれにしても北関東はともかく南奥州の盟主までいくと
佐竹贔屓したい俺から見てもやりすぎと突っ込みをいれさせてもらいたい
13 :
奥七郡の人:2008/03/12(水) 23:29:46 ID:5Dh/0FsL
>>1は俺らが否定したから嫌がらせに書いただけだろw
北関東というか常陸半国と武茂・茂木・高野郡あたりの盟主だな
建前上、大掾一門の領土はすべて加算しておくべき。
15 :
奥七郡の人:2008/03/13(木) 21:19:13 ID:Sg5EWhgu
建前でも微妙だと思う
江戸氏でも建前上の関係だし
大掾となると更に外に位置する
16 :
人間七七四年:2008/03/16(日) 00:56:13 ID:eI99IiuA
>>1 関東、南奥州の盟主になったつもりで武田家無き後は源氏之頭領になった気になり
若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒されまくり
武田信玄、上杉謙信にはびびりまくりの妄想だけは戦国最強武将佐竹義重のへたれを語り合おうではかいか!!
これの方がふさわしいぞ!
17 :
人間七七四年:2008/03/16(日) 22:59:32 ID:iBeTeWZL
>関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!
こんな事誰も言ってないし書いてもない
>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?
>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?
結論
>>1=北条厨
18 :
人間七七四年:2008/03/16(日) 23:12:46 ID:0WRWWAs1
と、伊達厨が必死です
19 :
人間七七四年:2008/03/17(月) 23:49:22 ID:XVVvLP5/
哀れ伊達厨w
20 :
人間七七四年:2008/03/21(金) 16:00:39 ID:0ZXVw9Ng
ま た イ左 ケケ 厨 が ヵ 儿 ├ ス レ 立 τ T= σ ヵゝ
22 :
人間七七四年:2008/03/22(土) 22:43:13 ID:7DLOrDav
12万石が妄想を膨らませるスレはここですか?
23 :
人間七七四年:2008/03/24(月) 21:51:08 ID:oPx6PBUJ
いかにも
24 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 17:58:56 ID:16A4lpEY
\●/age
25 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 18:19:31 ID:vQBEjTg8
伊達と佐竹は偉大スレ立ててよ。
仲悪すぎだろ。
従兄弟同士でなにやってんだか、って感じ。
27 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 03:38:06 ID:EntL3eQz
義重と輝宗、義宣と政宗…二代にわたって従兄弟同士だもんネ。
だからこそ、骨肉の争い・泥沼化。
まあ、輝宗当主時はそうでもないが…。
28 :
人間七七四年:2008/04/22(火) 07:24:26 ID:oXx/iOYO
義重と政宗って会って話した事あるのかな?
政宗「叔父上、叔母上はお元気ですか?」
義重「あぁ、元気じゃ。いつもソチの事を案じておるわ。」
政宗「叔母上には色々と助けて戴きましたゆえ…」
義重「だったな…」
政宗「宜敷くお伝え下さい…」
義重「伝えておこう。義宣や義広には内緒にな…」
政宗「恐縮です」
料亭政治みたいだなそれ。
30 :
人間七七四年:2008/04/23(水) 12:56:13 ID:amUM+Cxg
>>28 実は義重と政宗は八百長やっていて、律儀な義宣だけが奥州の反伊達勢力を結集してまじめに戦争している図が浮かんだw
31 :
28:2008/04/27(日) 03:09:58 ID:vAwS0oIF
>>30さんへ
そう感じましたか…
私は義重夫人が実家(伊達)の為に色々と暗躍した…って事と、それを知りながら夫人を咎め立てしなかった義重の懐の深さを表現したつもりだったのですが…
しかし義重夫人って、どんな女性だったのだろう?
良く言われる様に、婚家より実家を第一(大切)に考えた(活動した)…実の息子より実家の跡取り(甥)を優先したのでしょうか?
32 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 03:38:30 ID:ocnQwiEq
佐竹で大河ドラマは無理かなぁ…?
義昭・義重・義宣の三代で…じゃなくて義重・義宣の二代で…
茨城県と秋田県が協力して大河誘致運動すれば良いのに…って。
今、茨城県は塚原卜伝の誘致をしてるけど。
33 :
人間七七四年:2008/05/24(土) 19:26:11 ID:pHpM4Cl0
佐竹のドラマは見たいけど
1年持たせるのはきついよな
じゃあ来年の大河ドラマ「天地人」に出るかなぁ?
35 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 23:02:54 ID:GHIW1RFp
ちょい役っぽくて寂しいけど出そうだろう。
石田三成の大河ドラマなら出るけどね、上杉家の家来の話だもの。
まあ、そんなには出ないよな
独眼竜で佐竹の幟が真っ赤だったのを見てびっくりしたな。てっきり白地だと思っていたがあれどうなん?
>>38さん
数年前の茨城県立歴史館での「佐竹展」で、赤い旗指物が展示されてました。
秋田からの借り物です。
秋田へ行って見て来て下さい…とは軽々に言えませんが、お近くにお寄りの際は是非とも…orz
40 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 00:51:09 ID:+6KyY5bb
車丹波は絶対にでるな!
役者はケンどーこばやし??
41 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 21:36:12 ID:eUo3B+sy
「天地人」の山は、やはり関が原直前の上杉征伐でしょうな。
徳川に対する上杉&佐竹と、漁夫の利を狙う伊達、東に陽動されている家康を見て呼応する三成&島左近。
move、or not move、that's probrem!な状況で。
42 :
人間七七四年:2008/06/12(木) 02:58:47 ID:1Jcpa9La
佐竹の部下に青柳っている?
祖父曰くご先祖さんだとさ
本家は茨城県岩瀬
43 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 18:08:02 ID:r7Kw/zfH
茨城県の旧岩瀬町には「青柳」姓が沢山居るの?
もしお祖父様のお話が本当なら、真壁の家臣か組下かもね。
常陸平氏(大掾系)なのか、藤氏秀郷系なのか…。
ちなみに貴家の家紋は?
44 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 20:55:25 ID:URI+M4ms
茨城北部行ったら半分以上が佐竹一族か配下と同じ姓だよ
45 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 23:35:13 ID:kPI8BnVk
46 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 23:40:57 ID:kPI8BnVk
因みに姓は『青柳』でなく『天○谷』です
自分でも色々調べたんですが…中々分からず
祖父があの世にいっちまう前に調べたくて
(´∀`∩;)
昔の家系図は泥棒にパクられて行方不明に
47 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 06:10:46 ID:5JGUASH1
>>42 青柳は全国に多い名字。
常陸にいた青柳で最も勢力が大きいのは江戸家臣の青柳氏。清和源氏義光流武田一党。
それ以外はシラネ
武田信親の二子信雄、武田弥七郎と称し、須賀村を食む、
のち江戸氏に属し、行方郡青柳村を領す、
子左大夫信利、その子信家、大膳という、その子信正藤左衛門と称す、
天正十六年、佐竹氏の為に没落し、流浪す、天下統一の後、
再び青柳村の古館に住し、青柳氏と称す、子信勝善右衛門と称す、
その二子勝貞、信之あり、勝貞の子貞信、式部と称し、享保中水戸侯に謁す、
その子信嗣、子信栄(青柳系図)
以上新編常陸国誌より
48 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 14:05:03 ID:DWZcj75c
>>47 アリガト!(´▽`)
感謝感謝
見たことある名があるのでちょいと調べてみます
49 :
人間七七四年:2008/07/23(水) 12:28:26 ID:1a+dTQi7
ウィキペディアに佐竹義重の肖像画は甲冑姿しか描かれていないって書いてあるけど
義重の肖像画なんてあったか?義宣と間違ってる気がするが
50 :
人間七七四年:2008/07/23(水) 17:34:17 ID:VON6xOKQ
>>39 光栄の佐竹氏の幟が白地だったから誤認してたよ
そうか赤か。かっこいいな!来年の大河に登場を期待したい
51 :
人間七七四年:2008/07/23(水) 18:52:29 ID:RpC0bJ4E
旗差物も色々あるでしょ
うちにあるのは白地に黒だし
52 :
人間七七四年:2008/07/23(水) 21:21:56 ID:vyKXeMze
白もいいけど赤もいいね。
53 :
人間七七四年:2008/07/24(木) 01:16:47 ID:GNRTlxYZ
赤の指物ねえ・・・ありえるな。
頼朝の佐竹攻め受ける前は、源氏筋でありながら親伊勢平氏勢力だし、地元の親分格吉田氏も平氏だし。
赤=平家、白=源氏。
>>50 佐竹が赤指物翻すのなら源平合戦まで遡らないと。
54 :
39:2008/07/26(土) 01:19:30 ID:fk0SmwpD
展示されてた旗指物は「白地に赤」でした。
赤地に白ではありません。訂正致します。
55 :
人間七七四年:2008/07/26(土) 02:43:54 ID:KJrQPyKc
NHKの独眼では鬼佐竹の旗は赤地のだったぜ!
56 :
人間七七四年:2008/08/17(日) 12:04:48 ID:Scj2QxqE
佐竹が関東管領を譲られそうになった有名な話があるけど、
あれって本当なの?
出所が確認できないので信用していいのかどうか迷うんだけれど。
57 :
人間七七四年:2008/08/26(火) 18:54:25 ID:mMgeV1Ph
58 :
人間七七四年:2008/08/28(木) 04:24:15 ID:O/sOkD9k
>>32 義重や義宣が史実では関わらない場所にまで
出没してくることになるよ。一豊やまつみたいにw
59 :
人間七七四年:2008/08/31(日) 03:58:22 ID:nz1mntS2
なんかNHKが間違えてるってことないの?
60 :
人間七七四年:2008/08/31(日) 11:35:37 ID:td9zvdMQ
61 :
人間七七四年:2008/09/17(水) 04:52:02 ID:mIS4TJFR
>>59 よく有るよ
例えば「功名が辻」の時、三成が七将に追われた際にそれを救ったのが山内一豊…
62 :
人間七七四年:2008/09/17(水) 09:04:47 ID:aTTLBCEz
63 :
東義久ってどお?:2008/09/17(水) 09:50:39 ID:78Aw6xBg
>>56さんへ。
ザッと調べてみたが、どうやら『義昭家譜』だけらしいよ。
という事は、2つの理由が考えられます。
1.佐竹側の拡大解釈。
2.義昭が断ったので、上杉側の資料に記載していない。
これは皆さんの想像に任せます。恐々謹言。
64 :
56:2008/09/17(水) 10:49:03 ID:9Nqs2vzM
>>63 おお、これは有益な情報ありがとうございます。
仮に事実だとしても佐竹側しか記録に残さないでしょうけれど、
それにしても諸条件から鑑みてありえない話のような気がしてなりません。
65 :
人間七七四年:2008/09/17(水) 12:36:32 ID:49KDUOUP
佐竹は無理だから徳川光圀でいいじゃん
お供つけて全国行脚って設定で
66 :
東義久ってどお?:2008/09/17(水) 14:13:34 ID:78Aw6xBg
>>64さんへ。レスありがとうございます。
「管領譲渡の話」ですが、実は私もほんの少し気になっていました。
「憲政自ら常陸へ行った」というのは、眉唾物だと思いますが…
本当のところは「使者を送って打診した」ぐらいでしょうね。
67 :
人間七七四年:2008/09/19(金) 01:40:38 ID:QtNSSukv
>>66 何も憲政が常陸まで出向かなくとも下野辺りで落ち合って会談した可能性はあるのでは…などと想像してみる。
が、使者を遣わし口上述べさせた…ってのがやはり妥当でしょうね。
管領様からの御使者に対して一門重臣総出で饗応しただろう…だから佐竹に記録が残ったとも考えられる。
68 :
人間七七四年:2008/09/19(金) 17:03:20 ID:OFx11GNo
じゃあ、関東管領を受け取れるかどうか、重臣達が総出で検討しただろう。
でも、憲政の領地の上野や武蔵あたりまで維持できるか?となると、
当時の佐竹氏の力では、そこまで遠征するのは難しかったんじゃないか?。
後年、栃木南部が北条軍に押されて、佐竹氏は何度も後詰めしているが、
やっとという感じ。軍勢は、南に行ったと思ったら、次は福島県の方に
北上したりして、南と北で大忙し。
69 :
人間七七四年:2008/09/20(土) 04:54:07 ID:D9RWt+LL
憲政は「家名」と「管領職」をセットで譲渡し庇護ないしは援助を求めた…
義昭は今更「家名」を貰った所でマイナスばかりでメリット無し
「上杉」を名乗ったら、一門が許さないだろうし…対北条への思惑もあっただろう
「管領職」だけを受けるのなら、必ずしも北条との敵対を意味しないだろうな
と、思った
70 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 13:50:13 ID:2rV+hiuN
実際にそういう話があったとしても、常陸だけで精一杯の佐竹じゃ
管領職を譲られても謙信のように北関東を一時的にまとめあげることも叶うまい
71 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 17:04:18 ID:cQaA1uGM
んだんだ、当時の佐竹は20万石ぐらいじゃね?。
72 :
東義久ってどお?:2008/10/02(木) 15:41:42 ID:gHAvo8a2
>>67-70さんへ。ROM楽しませてもらいました。
弘治二年(1556)頃まで義昭は、白河結城氏に対する北上政策一本だけで…
太田より南の江戸・大掾・小田や、西の宇都宮(というか放浪中の広綱)と仲が良かったようだよ。
南下を始めて小田と戦うようになったのは…海老島の戦い辺りでしょうかね。
>>69-70さんへ。これはあくまでも私見ですが…
その頃、北条や里見が独断で「管領」「副将軍」を名乗っているから、問題ないと思いますよ。
ただ、
>>69さんの言う通り「一門が反対した」が「今の所」一番真実に近いように思います。恐々謹言。
73 :
人間七七四年:2008/10/02(木) 19:23:00 ID:4Vwy1rOB
名乗るのに問題あるとは言ってないが、
名乗っても上杉謙信のように関東管領というネームバリューを
フルに近い形で利用するのは難しいんじゃないの?って話
74 :
人間七七四年:2008/10/06(月) 12:29:29 ID:ZvBhGYvU
というか、そういうつもりがないから体よく断ったんだよ
義昭は旧体制からの飛躍を目指していたから、どちらかと言うと北条なんかの思想に近い
75 :
人間七七四年:2008/10/06(月) 13:55:27 ID:rEDdBVoX
釣りかよ
76 :
東義久ってどお?:2008/10/13(月) 15:24:45 ID:hEfmoIx9
>>73さんへ。そういう意味なんですねぇ。確かにその通りです。
義昭時代の政治・軍事力は、やや低かったのでしょうか?
永禄七年(1564)1〜2月や九年2月の小田攻めを見ても、小田領は(常陸国で)自身の守護管掌国であるのにも関わらず、謙信(の政治・軍事力)に頼っていたようですし…、
前者ではその後、北義廉が小田城代になったけど、簡単に氏治に奪回されていますね。
加えて、自らも府中に移住してまで力を入れた、大掾乗っ取り計画(永禄七年6月〜九年6月27日)も僅か3年で頓挫してますね。
常陸南部に対して政治・軍事力を高めたのは…
太田三楽斎父子が片野に入城(永禄九年6月28日)してからでしょうね。
>>74さんへ。
いいとこ突きましたね。それを失念していました。お見事です。
これは以前「\●/佐竹氏を語るスレ 其の2」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/ でレス574の顔文字さんも語っていたのですが…
義昭は府中に居城を移したり、旧小田領に対して検地するetc.していたから、
今川北条武田以上信長・宇喜多直家と同じ位、肩書きよりも現実主義・実力主義だったかもしれないね。
(ただし、朱印状や分国法・分検帳がないけど…)恐々謹言。
77 :
人間七七四年:2008/10/13(月) 17:18:06 ID:dTudji6b
>>76 小田城が奪還されたのも大掾の取り込みが頓挫したのも義昭の死後だよ
小田攻めは謙信の関東管領就任後だから共戦するのは自然だと思う
佐竹が常陸守護と言っても、小田氏もまた幕府から所領を安堵されているわけで
佐竹が独断で潰していいという事はない
その点、公方や管領を味方陣営に引き込めばその大義を得る事ができる
謙信にしても管領就任間もなくだから力を誇示して関東衆を掌握する必要があった
双方の利害が一致した結果として行われたものだ
無論、関東衆にとって謙信の持つ兵力が魅力的であったのは間違いない
78 :
人間七七四年:2008/10/14(火) 06:02:41 ID:ChlxBYbR
でも実質的に北関東から南奥の諸氏を纏め上げたは佐竹だろう
南関東は北条は纏め上げたと言うより領国化を進めてたが…
ここで一つ皆さんに考えて戴きたいのは「左京大夫」は南奥などの諸大名に乱発されてるのに対して「右京大夫」はほぼ関東では佐竹のみって事
たしか足利幕府の右京大夫って細川管領家…じゃなかった?
79 :
人間七七四年:2008/10/14(火) 08:16:49 ID:Irp0eGmE
いいところに気づいたな。
確かに足利幕府では右京大夫は細川管領家しか任じられない官途。
つまり右京大夫=管領ということなんだな。
知ってのとおり関東独立志向の関東公方は、
京都寄りの関東管領上杉家と仲が悪かった訳だ。
そこで関東公方は「私的な」管領を任じることで、関東の体制を見直そうとした。
佐竹義人は血脈も管領に値する人物だったことから、
足利持氏は京都とは関係無しに義人を「右京大夫」にした。
佐竹はそれ以来「関東だけの右京大夫」を名乗った。
何故佐竹に上杉憲政が関東管領を譲る気になったのか、
何故佐竹が北関東南奥の盟主になれたのか、ちゃんと理由があるのだ。
同じように岩松や小山も右京大夫を名乗ったことがある。
だが数代後の子孫にまで受け継いだのは佐竹のみだろう。
ついでに里見は関東公方の政所管理関係者だったっぽいので、
これまた「関東副将軍」を名乗る下地があったということだな。
佐竹の関東での政治的立場は中央も知っていたらしく、
織田信長は佐竹義重に初めて手紙を送ったとき「左京大夫」と下り書きしている。
「右京大夫」は慣例からダメなので左京大夫にしたんだろう。
ただ山内殿に遠慮したのか京都に配慮したのかは知らないが、
佐竹義重自身が「佐竹右京大夫」と示された例は知らない。
子の佐竹義宣は正式に朝廷から右京大夫を任命された。
足利幕府が滅亡してフリーになった「右京大夫」を、
故事を知っていた秀吉が義宣に名乗らせた訳だ。
こういうところは秀吉の粋なところであり、おっかないところでもある。
ちなみに戦国時代の越後の上杉と佐竹の通常の動員兵力は同じくらいだ。
5000よりは多いが10000まではいかないくらい。6000〜8000くらいだな。
永禄四年の大小田原攻めといい、永禄七年の小田攻めといい、
佐竹義昭は山内殿をフルにコキ使って自制力の拡大に利用しているな。
こういうことを言うとまた荒れるかもしれないけどな。
80 :
人間七七四年:2008/10/14(火) 10:44:24 ID:t1v7XdzA
そういう経緯があったから義重も常陸介を貰っておきながら全く名乗ろうとしなかったわけだ
81 :
人間七七四年:2008/10/14(火) 11:23:20 ID:/5YJ4vxI
佐竹は動員力はあるけれど、引き連れるだけでそれを手足のように操る地盤がなかったんだよね。
だから越後上杉の5000と佐竹の5000は質が違うと思う。
能力の高低じゃなくて、家臣掌握の問題ね。
82 :
人間七七四年:2008/10/14(火) 12:40:15 ID:t1v7XdzA
それは体制の違いだよ
土地土地によって支配の形も違う
83 :
人間七七四年:2008/10/20(月) 10:32:02 ID:VUtgz3xv
岡本梅江斎って実際どんな立場だったんだろうね
84 :
人間七七四年:2008/10/20(月) 12:23:37 ID:cAFXcO2Z
>>83 宿老で佐竹家中で最高位の権力。
東、北、南、小貫、和田、梶原と同格で、こいつらとタメ口をきける立場。
仕事としては、上記の連中と違って、常に当主のそばにいて、
外交、内政、軍事にわたるかなりの権限をもった。
公方、管領、関東八館などが書状を送るときには岡本が奏者となる事が多く、
また佐竹の直轄地および新たに入手した土地の年貢の管理、
外様的立場にある地侍等の三分の一上前の上納請求、
戦争での戦術、戦略に関する参謀などなど、家中最大の実力者。
85 :
人間七七四年:2008/10/22(水) 20:45:15 ID:0bokgfdA
岡本家の存在なくして、佐竹家の存在はない!
岡本家は出羽でも家老職を出した家柄。
86 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 12:18:47 ID:oY/Vetbu
単に入道した武士なのだろうか?それともどこかの寺の住職で佐竹に協力していたのだろうか?
佐竹関連の書状を見ると梅江斎宛てのものが非常に多いけど
いまひとつ岡本氏の実像が掴めない
87 :
人間七七四年:2008/10/24(金) 12:18:22 ID:5j3zVTYY
>>86 岡本氏は藤原秀郷流で鎌倉幕府御家人の家系。
もとは奥州の岩城付近に所領を持っていて、
次第に強くなった岩城氏に法体で家臣となった。
(法体で家臣となったということは所領をほぼ全て没収されたのかもしれない)
そして佐竹山入の乱に岩城氏が介入した時に、
岡本妙誉が直接反佐竹勢力との間に入って交渉し、
佐竹義舜に所領を貰い、やがて次第に佐竹家臣化していく。
この頃一時妙誉は在京していたこともあり、ここに京都とのつながりがある。
太田では松山という場所に少林院という禅寺を構えて定住。
妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
(ひょっとすると梅見での三十三館主暗殺はここで行われたのかも知れず、
あるいは偕楽園造立は梅好きな禅哲に最初の起源があるのかもしれない)
ちなみに佐竹にきた岡本妙誉の子のひとりは岩城に住み、
ここで佐竹系岡本と岩城系岡本に別れた。
88 :
人間七七四年:2008/10/25(土) 09:49:54 ID:A3TRH0O9
>>87 なるほど
家臣てのとは微妙に違うみたいだね
天海とかみたいなものか
禅哲も高僧で顔が広かったのだろう
小山氏みたいな名門大名から室を迎えたぐらいだし
89 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 23:07:51 ID:VqPIRE79
岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。
90 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 23:08:25 ID:2o/Z2UHB
岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。
91 :
人間七七四年:2008/10/30(木) 07:19:07 ID:WAcVQLOz
>>87 >>妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
>>もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
市街地をくぐる「梅香トンネル」で有名?な梅香だな。
92 :
人間七七四年:2008/10/30(木) 11:02:38 ID:iVnu9L8V
>>88 「高僧」が「女犯」するのか?
知行を貰ってれば「家臣」だろ…普通
小山氏は確かに名門だが、佐竹の重臣に嫁を出すって事は当時の「格」が佐竹より下って事を示す例証と言うべきか…
禅哲の室(小山女)が正室腹なのか側室腹なのかにもよるだろうが…
93 :
人間七七四年:2008/10/30(木) 15:09:24 ID:2ZeuMpZY
94 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 03:33:52 ID:5yjwdOZu
貰って無ければ佐竹家の外交官を無報酬でやってた…って事になる
禅哲には当然家族は居たし家人も居ただろう…どうやって養う?
たまから貰ってると考えるのが自然じゃないかな
出典を示せって事なのか?
95 :
94:2008/10/31(金) 03:47:20 ID:5yjwdOZu
>>たまから〜×
だから〜○
失礼しました
96 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 12:39:43 ID:okRoc25s
>>94 普通、僧で家臣になる事はないよ(無論例外はあるが)
だから武家に仕える場合は還俗して僧籍を抜ける、禅哲の孫である宣綱も還俗して佐竹の家臣になった
僧に対しては寺を建立して住職に据えたり、寺領と言うものを宛がう
寺領というのは読んで字の如く寺の領地であるが
これに対しては租税や兵役の義務は発生せず
基本的に武家の介入を受けない、言わば武家によるお布施である
大名などがこのように寺を保護する事で僧達も大名に協力するが
決して武家の主君と臣下の関係ではない
97 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 02:22:53 ID:WjTkZ2fB
>>96 何を当たり前の事を長々とレスしてんだか…
当時、僧が妻帯するのが普通か?(浄土真宗系は別だが)まぁ女犯をおかす破戒僧は居ただろうが…
法体だからと言っても必ず坊さんとは限りないし
だからといって岡本一族が僧侶じゃなかった…とは言わないけどね
98 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 08:16:06 ID:N/RUn3AK
>>97 そのわりには無報酬とか検討違いの事言ってるがw
99 :
人間七七四年:2008/11/09(日) 21:41:49 ID:IyKd7dHA
もりあがっとるのう。
100 :
佐竹敬久:2008/11/10(月) 23:14:57 ID:m72d1yr+
101 :
人間七七四年:2008/11/22(土) 03:49:18 ID:zbn7ZAWC
>>98 何を煽ってるんだか?
ここ一連の岡本氏のレスの流れから無報酬と決め付けてるわけじゃないから検討違いとは言えないなあ。
寺領あるいは知行・役料を受けて佐竹家に属してなければ外交にたずさわることは出来ないしね。
102 :
人間七七四年:2008/11/22(土) 16:04:12 ID:CaZtq9HK
103 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 04:48:26 ID:nYUY6Rrh
「東義久ってどう?」さん、現れないかな?
104 :
人間七七四年:2008/12/20(土) 09:53:17 ID:kLxJqssg
東義久といえば、陸奥高野郡周辺の勢力配置も複雑怪奇だな
105 :
人間七七四年:2008/12/30(火) 15:47:27 ID:e4pIwe/1
「佐竹桐」という紋は佐竹東家の紋ですか?
106 :
人間七七四年:2009/01/07(水) 00:35:54 ID:iKlvSTRG
佐竹桐って聞いたことないね。
五参の桐とどうちがうの?
107 :
鬼義重:2009/01/08(木) 15:28:00 ID:dX/JLJcS
出陣致す!!
108 :
人間七七四年:2009/01/09(金) 08:51:49 ID:UZ5nwWis
関ヶ原後に義久が
家康から佐竹領安堵を受けたが急死して
白紙に戻されたって話の真偽はどうなの?
以前、義久が安堵を勝ち取った話はウソで、義宣に露見しそうになって自害したらしいって話を戦国板で読んだんだが
いろいろ見てみたがどっから出てきた話だかわからん。
109 :
人間七七四年:2009/01/09(金) 14:27:27 ID:3UzszSvF
>>108 義久が家康に「自分の存命中は国替えをしない」と約束を取り付けたと言うのは
江戸中期に小野寺道維が古老の話しを纏めたものが出典
秋田叢書に収録されている
これによると義久の独断で行ったらしい
書状などが残っているわけではないから真偽は不明
藩史類を見る限り義久はあまり家中での評判はよくなかったようだ
どこの藩でもそうだけど、あまり強大な力を持ちすぎると
嫉みも手伝って動向を疑われやすく色々と責任を押し付けられて奸臣のようにされてしまう事が多い
義久も伊達との内通や義重夫人との密通までにおわせるものがある
110 :
人間七七四年:2009/01/09(金) 16:20:27 ID:UZ5nwWis
>>109 おぉありがとう。
東義久はけっこう好きだから、評判が下がるのは個人的には(涙)なんだが、好きな梶原政景も一度は北条側へ寝返りしたりと一癖あるから仕方ないな。
それが忠実すぎたらアゴで奴隷のように使われるし、少し危ういくらいが待遇よくなるだろうし乱世の生きる術だし。
111 :
人間七七四年:2009/01/14(水) 17:11:44 ID:U4x70mWL
東義久って、北酒出か南酒出へ養子に出されてた
東家は義久の兄が継ぐが若死に
東家の養子に義重の次男喝食丸内定
「喝食丸」は東家嫡男の幼名とか…
その義重次男が白川結城家に入嗣
東家に義久復帰
義重に重用され、事実上の三家筆頭へ
って事でOK?
112 :
人間七七四年:2009/01/14(水) 19:53:11 ID:Uoeqbp17
>>111 義久は養子ではなく、恐らく義久の為に再び酒出家が創出された。
というのは北酒出家は承久の乱の時に美濃に所領を得て移り、
たぶん所領を横領されて幕府奉公衆になったあと、義篤の時に常陸へ戻ってきて、
佐竹基親が馬場家を創出し馬場篤親を名乗った。
南酒出家も同じく美濃へ移ったと思われ、北酒出と争って吸収されたか滅亡した。
つまり養子というか養父がいなかったので、創出だな。
そんで佐竹東家の幼名が喝食というのは正しい、
また東家を白川義広が継ぐかもしれなかったというのも恐らく正しい。
だが白川義広は結局東家を継いでないので、義久はずっと東家のまま。
義久は義広が成人する前から活躍しており、元亀年間からすでに佐竹一家筆頭。
酒出家は義久の兄の義忠が継ぎ、さらに後に馬場家の子孫で大山家の女婿で
大山を名乗っていた何某が継いだ。血脈としては本来の酒出に戻ったことになる。
113 :
105:2009/01/15(木) 15:52:21 ID:Fs7g5iKl
114 :
人間七七四年:2009/01/15(木) 15:53:58 ID:SWyi5VvV
葦名援軍送れたら伊達厨に負けなかった
115 :
人間七七四年:2009/01/15(木) 17:20:56 ID:s85Xv4Z2
>>113 よくわからんが、秀吉から貰ったんじゃねーの?
>>114 送らないのが佐竹のいいところ。
116 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 01:15:33 ID:EkFG22/S
>>110 三楽や梶原さんは、中央政権とも独自に繋がろうとしたりしてるし、
中々したたかだよね。
117 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 08:19:12 ID:Czt3HAV7
彼らは基本的に自立した領主であり佐竹の家臣ではないからね
佐竹三家にしてもそうだ
義久は佐竹宗家とは別に秀吉に音物を送ったりしている
小田原着陣の際に献上したものを見ると東家は宇都宮や結城などと同じぐらいの量がある
いかに義久が力を持っていたか窺い知れる
そういや三家の通称は
南=三郎
東=源六郎
北=又七郎
でいいんだっけ?
118 :
人間七七四年:2009/01/17(土) 09:50:43 ID:7PtnoQDu
>>117 わしもいろいろ悩むところなんだが、
佐竹三家は「自立した領主ではない」訳ではないはず。
戦国時代は、権限が分掌された、宗家の意を受けて動く存在。
無論ある程度の自由はあったが、それは北条にとっての
氏照や氏邦の所領と同程度のもの。
「北条氏照は北条家臣ではない」とは普通言わないのと同じで、
「佐竹義久は佐竹家臣ではない」と言うことはないだろう。
豊臣政権時代は、豊臣から六万石を貰い一見独立した領主に見えるが、
これは「奏者領」とでも呼ぶべきもので、巨大な所領を持つ大名の多くが、
豊臣政権との交渉窓口として家臣に分割給与されたもの。
豊臣から見て外様の旧族大名、例えば毛利(安国寺)や、島津(伊集院)、
宇都宮(芳賀)なども同程度の所領を貰っている。
ついでに佐竹「家臣」の範囲だが、
実際問題は「家臣」の定義次第だが、佐竹の場合は洞中(≒分国)に属する
領主は佐竹「家臣」として見なしても問題ないと思う。
じゃあ例えば小田、大掾、太田、江戸、小野崎、真壁、船尾、大山、小場の
何処までが「家臣」で、何処までが「家臣」じゃないの?と問われると、
ぶっちゃけ厳しいものがあるからな。「全部家臣じゃねーよ」というなら、
他の大名だって「家臣」じゃなくなるのが当然出てくるわけで。
佐竹は彼らの軍勢指揮権は持っており、彼らの家臣に対して官途付与等の
人的関係を持つことまではあったが、独自の外交は許していたし、
その本領内部に立ち入ることもなかった(が、ある程度の監督、所領宛行はしていた)。
歴史的経緯を見れば、これらは豊臣政権によって最終的には
佐竹に帰属すると見なされたわけで、広義の佐竹家臣と見なして問題はないだろう。
119 :
人間七七四年:2009/01/17(土) 13:33:32 ID:a94peSOZ
秀吉から直江みたいに陪臣扱いされてたんだっけ義久?
毛利家臣から秀吉直臣になったのは小早川隆景くらいか。
120 :
人間七七四年:2009/01/17(土) 16:53:58 ID:s9cyRCOf
>>116 太田や梶原は、言っても佐竹の居候みたいなもんだしね。
121 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 17:23:53 ID:F7+Tdxfo
>>118 しかし彼らは
・軍事指揮権
・外交の権限
・婚姻の権限
・農民に対する兵役や年貢などの賦課権
・宗家旗本以外に対する知行の権限
・官途、受領や一字の付与権
・商人、職人に対する諸役賦課・免除権
・過書の発給権
・制札・禁制の発給権
など、大名が持ち得る権限を全て持っていたと言っていい
彼らはあくまで佐竹宗家とは別家であり
起請文でもって盟約を結んでいた点、江戸や真壁らと同じであったと言える
まだ佐竹宗家から分離して年月が浅い点、他よりは宗家に近い関係ではあったが
義久の代は上記のような権限を持つに至っていた
例えば真壁氏についてだが、その家譜に於いても天正18年に佐竹の配下となったと記している
つまり彼ら自身も佐竹の配下であったつもりはなかったのだろう
秀吉の名により佐竹の家臣に位置付けられた事によってお互い主従の契約を結ぶに至ったと見るべきではなかろうか
122 :
人間七七四年:2009/01/20(火) 02:02:21 ID:YMJ2b2W8
まあ、秀吉の登場はひとつの契機にはなったろうね。それが最終的に
秋田転封後の、佐竹義宣とその側近層が主要な位置を占める体制に
なっていくわけだけれど
123 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 18:09:11 ID:UBb7tS/b
>>121 だからその辺は「家臣」の定義次第なわけだよ。
「家臣」という言葉を乱用してしまうために、こういう齟齬が出てきてしまう。
(ただオイラは学問的な場でない限り、別にある程度の乱用はかまわないと思うけど)
戦国期の佐竹の家格制(あくまで格式)の中では、
・御一家 = 東北南、江戸、大塚、山能、大山、石塚、小場等々
(擬制的な血縁関係を元にした佐竹の「一門」。特に東北南と宗家から養子が入った家は
「御親類中」と呼ばれ、その他の一家より格が少し上だった)
・御諸家 = 千葉、小山、宇都宮、那須、小田、大掾、伊達、蘆名、岩城、小田原等々
(本来は佐竹と同格の家々。ただし大掾は1564頃以降、小田は1583頃以降、
佐竹の洞に含まれるようになる。つまり洞は格式でなく実力を元に構成された、
佐竹氏の諸勢力編成原理ということになる)
・諸家からお分かり候御傍 = 塩谷、武茂、松野、宍戸、太田、梶原等々
・近進 = 和田、小貫、伊藤新蔵人、井上信濃守等々
(その他恐らく別名「氏子(うちこ)」、あるいは「抱え」を宛がわれた人々もこの中に入る。
和田、小貫などの宿老は御一家と同格とされる。)
などに分かれており、近世的?に「家臣」などとは言わないわけだ。
>>121の定義だと、佐竹では、「家臣」=近進だけ、ということになってしまう。
さらにこの定義で見るならば
>>118でも言ったとおり北条氏照も「北条家臣」ではない。
松山城の上田はどうなの?あるいは織田の柴田や明智、羽柴はどうなの?
ってことにもなりかねない。それほど「家臣」を厳密適用する必要はあるのかな?
むしろ厳密にするなら「家臣」ではなく、「近進」を使うべきじゃないか。
それに
>>121の権限はあくまで宗家大名を後ろ盾として行使できるものであって、
佐竹東らが「自立」的に運用できるものではないはずだよ。
どれだけ自立的かどうかで「家臣」か否かを計るのは微妙じゃないかな。
あるいは中世的な諸勢力混在の在り方を、近世的、あるいは現代企業の社員的な
意味合いで「家臣」の定義付けを行うのがそもそも間違っているか。
あと一応文書での裏づけだと、上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
もっとも家中と「家臣」をどこまで同じと見るかは謎。
124 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 20:00:44 ID:DhSji46r
>>123 出羽で世話をしようと思ってた相馬家は何になるんだろ?
125 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 21:17:12 ID:UBb7tS/b
>>124 奥州相馬氏は戦国時代なら館、御諸家クラス。格式では伊達、岩城、蘆名と同じ。
豊臣政権では佐竹の「与力」になったとされる。
多分「特に命令がない場合は佐竹といっしょに行動すること」的な立場と思われる。
126 :
東義久ってどお?:2009/01/23(金) 14:36:04 ID:K2tpCXCv
>>125さん。とても素晴らしい解説、頭が下がります。
>上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
>岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
彼らに加えて、河井堅忠もね!! (上杉家文書。私は見た)。
で、北条家(というか氏政)には、馬場篤親を使者として送っているよね?
馬場篤親はどの位置にいたのかな?
127 :
人間七七四年:2009/01/23(金) 15:48:50 ID:rGaveVw/
てどお氏、流石やのう。要所をビシッとついてくるわ。
馬場篤親=佐竹基親は勿論御一家。
ただあくまで格式なので、実際には馬場はほとんど近進(=直臣、旗本)と
同じ程度の実力しか持っていなかったと思われる。
これは山入や部垂に加担した宇留野や小田野も同じで、
大山や小場のように自立気味だった家々とは違うと思う。
馬場は半ば浪人的に常陸にやってきたし、宇留野は謀反人だからね。
で、馬場は元々室町幕府奉公衆的な家なので、同じ奉公衆の
備中伊勢庶流=北条にはそういう繋がりで派遣されたわけだぬ。
縁故で外交する中世だぬ。佐竹は、或いはこの頃の人々は、
北条の出自を早雲の父のところまで完全に知っていたわけだ。
128 :
東義久ってどお?:2009/01/23(金) 16:14:44 ID:K2tpCXCv
>>127さんへ。
いえいえ、それほどでも…
そうゆうつながりだったんですね。説明ありがとう。
確か、馬場家は鎌倉〜南北朝時代に美濃に分家した子孫なんだよね?
奉公衆・美濃といえば遠山氏もそうだよね?
あなたのレスは、佐竹研究に大いに役立つので
あとこれからも不定期的にカキコしてください。頓首。
129 :
人間七七四年:2009/01/23(金) 22:59:27 ID:VnhMZIFU
>>127 小場氏も宇留野氏同様に謀反人だよ
小場氏の地位が飛躍的に高まったのは後に義重の弟を当主に迎えた為
小田野氏は山入氏一族だが佐竹宗家側についた
最終的に山入氏を討ったのも小田野氏
130 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 09:39:50 ID:TinKFnJU
佐竹と高倉家(藤原北家)の関係について詳しい方はいませんか?
大概の佐竹関連書籍では存在すらスルーされているけど
義重の娘は高倉権大納言永慶の正室となっていますよね
戦国時代に高倉家を介しての朝廷や中央政権との動きがあったのだろうか
131 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 18:35:41 ID:GZZOxzLG
>>129 スマン。佐竹の近進とほとんど同じ扱いになったということね。
宇留野や天神林(多分小田野も山入から)などは元々は大山家などと同じで、
宗家の手が入らない所本領を分け与えられていたが、
謀叛のせいで没収されて、佐竹から「抱え」と言われる土地を
一代の間のみ預け置かれるか、数十貫程度の所領を宛がわれる給人的な感じになった。
それではあんまりだと思ったのか、家格だけは近進より高く設定された。
小場や山能は義昭に過去の謀叛のことで圧力をかけられて
本領を安堵される代わりに養子を受け入れざるを得なくなった可能性が大有り。
これは江戸も同じだったが、忠通は拒否したのか、義昭に攻められて降伏してるね。
これ以降やっと別家を立てないという政策に変化したらしく、
手綱の再庶の大縄義辰なんかは有能だったので
「抱え」ではなく所領を貰ったが、やっぱり近進と同じ扱い。
近進真崎重宗も兄義保の戦死で真崎家を継いだが、真崎家の本領は
重宗の「抱えの地」的な扱いを受けて、そのまま宗家に接収されるという形になった。
132 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 12:02:25 ID:NingtQUk
>>130 その義重の娘は江戸重通の長男に嫁ぎ、江戸氏滅亡時に救出された後に公卿高倉家に再嫁したんじゃなかったか…
高倉家に嫁いだ時期は、(推測ですが)豊臣政権が全国統一してからだと思う。
133 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 01:01:03 ID:Gq406UBO
「違乱」「かかへ」の地
134 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 23:16:10 ID:wnvTtZjb
この前、近衛龍春著の「佐竹義重」とゆうのを読みました。
とても面白かったです。
これ原作で大河ドラマは、どれぐらい現実味があるでしょうか?
135 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 00:32:58 ID:a+/38exg
近衛の史料調査能力は一流だけれど、
それを消化して小説として完成させる能力は皆無だから、
永遠に大河作家にはなれないだろう。
136 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 11:38:17 ID:7UYxD/Ev
近衛著の「佐竹義重」と「佐竹義宣」を更に加筆訂正して、NHK出版から出せば…或いは?
序章として義昭を取り上げ、転封後の家中騒動や大坂の陣を丁寧に描けば良いと思う…
137 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 12:18:23 ID:9Rf2g8hl
無理だな。そもそも近衛は佐竹のことを何も分かってない。
史料の調査能力なんてものも全くありゃしない。
あれは国盗り大名ゲームをそのまま文章にしただけ。
「おのれ高増め!」「うおおー!」「そうかの」「されど」「左様か」
「おのれ昭為!」「仕寄るかの」「不憫よの」「氏政め、たばかったか」
こんなんばっか。
小説でも三文足らずなのに、ドラマになる可能性なんか微塵もないわい。
138 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 00:37:32 ID:yTL0S5Ak
大河決定の何年か前に、原作がNHKから出版される、という政治的な話はどこかで聞いた事があります。
原作がどれだけクズだって、或いはどれだけ素晴らしくても
脚本と演出によって全然別物になりますから。
139 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 12:04:03 ID:WuHMPLTN
茨城では「桜田門外の変」映画化支援の会が発足して幕末フェアが開かれている
やはり茨城では幕末史があまりに強烈だから佐竹が省みられる事がない…
秋田の方で支援してもらわねば映像化はまず無理
140 :
人間七七四年:2009/03/06(金) 13:17:10 ID:wdDcDnb+
佐竹は知名度無さ過ぎてムリだろ。
常陸の佐竹ゆかりの観光地自体がほとんどないから観光の誘致は難しいし。
佐竹寺くらいなのがもうちょっとあればなぁ。
秋田は関ヶ原後だからなー。
常陸太田市と宇都宮市で共同誘致とか県を越えた同盟誘致しかないだろ。
でもまぁ県を越えた誘致なら、より結び付きの強い群馬栃木両毛地区の由良足利兄弟に遅れを取るかも知れん。
141 :
人間七七四年:2009/03/06(金) 13:52:09 ID:b3ISh67n
>>138 政治的でもいいんだよな、立派な原作だったら。
ところが天地人ときたら!wwwwwwww
142 :
人間七七四年:2009/03/07(土) 09:27:47 ID:7asJ7pXb
>>140 義宣を主役にすればよいかと
義宣時代は歴代で最大の繁栄を誇ったし久保田藩初代藩主でもある
そうすれば茨城と秋田が繋がるし
143 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 05:23:36 ID:Qbk18K1u
>>142 1 北条に圧迫され、北から伊達も圧力をかけてきて滅亡寸前
2 小田原の役で復活、常陸全土を領国化 全盛期
3 関ヶ原
4 減封され秋田へ
メリハリがあって良いのか?
・・・いやなんかストーリーのバランス良くないよな?
144 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 10:45:03 ID:P03DhLlh
伊達と和平しろと惣無事令における天下人秀吉の恫喝で苦悩し葦名救援を躊躇する義宣
葦名家臣団からは佐竹が葦名支援から手を引き続けるなら伊達を頼るしかないと脅迫される。
しかし小田原参陣で常陸一国を安堵され選択が間違ってなかったことに家中の声望がたかまり、父の鬼義重も越えられたかと噂される。
会津征伐では隣国徳川を牽制し天下への野心を見せる。
しかし上杉と打ち合わせした白河口決戦シナリオと違い、徳川は上杉侵攻せず引き返す。
三成では家康には勝てない!ここに至って家臣分裂し義宣は無念に思う。
そして秋田での再出発では新たに経済通の家臣を使って新たな佐竹を作る!
145 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:42:29 ID:wXc1E6jv
よし
そのストーリーで原作を書いて
NHKに提出するんだ!
146 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:45:18 ID:f3GfrRJW
>>145 とりあえず誰か原作小説を書かないと・・・
147 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 18:02:01 ID:3tqa5IFY
来年の「龍馬伝」は、原作がないNHKのオリジナル作品という事らしい。
脚本家にすべてを委ねるみたいだ
やっぱり良い企画書と地元の政治力かな
148 :
人間七七四年:2009/03/15(日) 02:54:30 ID:7/5huUQk
ともあれ、人取橋での義政の暗殺がすべてを変えた訳だよね
やっぱりくノ一役は長澤まさみかなw
149 :
人間七七四年:2009/03/30(月) 23:12:16 ID:92T0lItM
天地人は関ケ原後の大減封でもリストラしなかったから取り上げられたんだよね?
150 :
人間七七四年:2009/03/30(月) 23:43:41 ID:yimXVsre
もちろん派遣社員(足軽、用兵)は能力のある奴以外は懐古しています。
懐古された派遣は大坂に入って景勝に退治されています。
つーかここ佐竹スレッドです。
151 :
人間七七四年:2009/04/11(土) 23:42:21 ID:I9UhF6jJ
佐竹の毛虫、かなり有名だったらしいね。源氏と後退を知らないことにかけたんだって。たしかにかなり格好いい。
152 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 21:15:05 ID:TlDFcTaj
末裔は羽前を統一できたね
153 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 21:16:54 ID:TlDFcTaj
羽前じゃねえ羽後だ
154 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 21:57:37 ID:hZmWTw0G
出羽の北半分!
…北家の当主なだけに
155 :
人間七七四年:2009/04/13(月) 12:57:19 ID:h5LfAAb1
道州制で山形を呑み込み、出羽統一!
156 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 14:10:09 ID:oTdi+4iM
秋田県知事
源姓佐竹出羽守敬久公
久保田城に入城し補修を開始!
源氏の旗を掲げて
引きこもりや無職の牢人を
全国から集めて
山形県へ進駐併合の上、
出羽独立と佐竹幕府樹立宣言キボンヌ!
157 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 16:07:02 ID:L2qEVQji
↑↑↑↑↑
バカタレ
158 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 22:27:48 ID:5d2VIHRM
>>156 おもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ
159 :
新羅三郎義光:2009/04/14(火) 22:28:50 ID:5d2VIHRM
>>156 おもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ
160 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 09:42:13 ID:/H8b/2A8
羽州筆頭佐竹義宣推して参る!
161 :
人間七七四年:2009/05/18(月) 23:02:09 ID:OR4QsA39
保守
162 :
人間七七四年:2009/05/30(土) 15:59:29 ID:vjJFbWOW
NHK!竜馬は飽きた!佐竹を出せ!もう何回同じネタじゃ!
もう竜馬は観とうなかった!
163 :
人間七七四年:2009/05/30(土) 19:12:03 ID:klJRdSqn
竜馬役は…彼、ですか。まぁ西郷が大物に描かれれば良いけど。
164 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:34:13 ID:eRkUHYrH
独眼竜三楽が主人公の大河は絶対に面白くなる。
165 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 02:12:30 ID:huMJ/jmq
wikiにどっかの馬鹿が義重と蘆名盛隆が男色の関係にあったらしいと書いたおかげで、
佐竹義重でググるとそのネタが結構出てくる。
ワシは佐竹を相当調べているが、義重と盛隆がそんな関係にあったなんてことは
一切見たことも聞いたこともない。
つーか、戦国時代の一大名同士が衆道関係だったなんてことはまず有り得ない。
そんで義重と盛隆が実際に会ったことなんて一度も無かった可能性が強い。
二人が同じいくさに出陣したという記録は無い。会合したという話も無い。
だが腐女子は取り付き始めているようだ。
166 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 09:18:44 ID:+Zn471Ki
腐女子じゃなくてリアルガチホモの仕業だと思うな、それは。
ナッちゃんみたいに社会的に抑圧されてる連中特有の世間への復讐心が感じられるし。
167 :
人間七七四年:2009/07/02(木) 16:44:30 ID:pct0qbFe
wikiは工作サイトだからね
明らかに悪意のあるものも多い
佐竹関連もだいぶやられてる
168 :
人間七七四年:2009/07/21(火) 09:08:21 ID:q2kz7mCP
>>165 >義重と蘆名盛隆が男色の関係
そりゃ『武功雑記』にあるネタだね。全く以てネタをネタと(ry
169 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 00:09:57 ID:Pexjg2hb
佐竹義重〜天龍源一郎
佐竹義宣〜ピエール瀧
これで2時間ドラマ
170 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 00:13:40 ID:CmVmlAvU
171 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 07:05:07 ID:xq2FVnoL
佐竹って、関東より東北人と仲いいよね
172 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 11:42:04 ID:9tSWfOJI
そもそも茨城人は通訳無しで東北人と喋れるし
173 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 13:50:36 ID:gF6gVacd
筑波の学園都市に行った時に
現地の年寄りがまったく理解不能な言語で会話しててびっくりした。
関東地域で会話が理解できない地は初めて。
ばっちり会話は理解できるが群馬と北埼玉のイントネーションが同じなのもワロタ
174 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 23:11:26 ID:yBrqwYEB
そりゃ茨城人(若者)でも理解不能だからねw
文章に直して見ると古語だったりするんだけどイントネーションと早口で聞き取れない。
茨城弁は東北弁、関東弁、京弁(古語)が混ざっているから結構独特なようだ
逆に言うと茨城人は広範囲の方言を理解できる
まあ、茨城・栃木・福島・宮城と山形の一部は同じ系統らしいが。
茨城県南(土浦以南の常磐線沿い)は完全に標準語化していて他地域とは掛け離れている
やはり水戸藩領(佐竹領)と他藩の文化の違いが影響しているのだろう
175 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 23:42:16 ID:RtTgUCDC
偶然なのか必然か分からんが、
現在の(伝統的な)方言分布と戦国大名の行動範囲が奇妙に一致してるんだよなあ。
関東南西部を本拠とする北条の影響が、東北部の常陸・下野には最後まであまり及ばなかったし、
逆に佐竹の勢力圏が南奥州(福島県地方)に及んでるという事実。
こうなったのは地形もからんでるのかねえ?
176 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 08:43:31 ID:WAKtib1z
正にその通りだと思う
勢力伸長は直線距離じゃなく交通の便によって進む
そして現代と戦国時代頃では地形も主要道路も差がある
例えば佐竹の勢力範囲は大まかに見て那珂川が境界になっている
下野でも那珂川内は佐竹の支配領域だ
そして上那須衆と佐竹が結び付いたのも、江戸時代までは
太田→大子(依上)→黒羽→白河のルートが西廻りの主要街道だったからだ
そして北廻りは太田→小里→東館→近津→赤館で
赤館からは白河、石川、鮫川(赤坂)の方面に伸びる事ができる
そして洞という広域の意味での支配地は、南は鬼怒川と霞ヶ浦系の内海で仕切られている
後は元々常陸は奥州支配の前線基地だったのが大きく影響しているのだと思う
かつて常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
現在の方言圏と一致するのは偶然ではないだろう
南陸奥には常陸と同じ地名も多く移民も多かった
常陸にとって奥州は古代から身近な存在であり
常陸北部に割拠した佐竹が陸奥に支配を拡げていったのも必然と言えるかもしれない
177 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 08:52:38 ID:1fGesz86
>>175 すごく面白いところに気づいている。つーかもうそれがほとんど答え。
何を言っているのかわからねーとと思うが、俺も頭がどうにかなりそうだ。
東国と奥羽の習俗は出雲近辺と一致する傾向がある。
しかし何故か北関東から南陸奥あたりは、出雲を含まない西国の習俗に近い。
例えば、「砂の器」のように、出雲の方言は東北の方言に似ている。
あるいは出産の習俗で、東国奥羽や出雲では子供の健康を願って胎盤を戸口に埋めるが、
西国と北関東南陸奥では出産の為に母屋から離れた場所に産室を設け、
出産後は胎盤を、血を嫌い、穢れを忌避して産室の床下深くに埋める。
東国奥羽=出雲、西国=北関東南陸奥が不思議に結ばれているのだ。
さらにオオクニヌシの息子のタケミナカタは天孫のタケミカヅチに敗れ、信濃の諏訪まで逃げたこと。
東国に出雲系の国造が多いという事実。南関東に氷川(斐川)神社が多く分布するという事実。
一方、天孫のタケミカヅチを祀る鹿島社とフツヌシを祀る香取社が、
言わば東国の出入り口となる常総の内海の南北両脇に鎮座しているということ。
そして西国政権に対して新皇将門の出現、鎌倉幕府の誕生。
民俗学だとかダビンチコードだとかそんなチャチなもんかも知れんが、
もっと恐ろしいものの片鱗かもうわなにふじこ
178 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 22:40:03 ID:MZCsi05s
>>176 >常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
伊達厨が怒り狂うぞw
179 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 23:23:52 ID:WAKtib1z
>>178 いや、伊達とか全く関係ない
その頃は佐竹も伊達も存在してないし
180 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 23:36:29 ID:hBx+G+kS
>>174 >茨城人は広範囲の方言を理解できる
>まあ、茨城・栃木・福島・宮城と山形の一部は同じ系統らしいが。
白河結城→芦名に養子に行った義広も、ことばのギャップは感じなかったのかな?w
義広の母親が誰か調べれば、言葉の問題などないだろうなと感じる。
182 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 23:16:51 ID:we5W6p04
ああそうだった。
小大納言は伊達晴宗の娘だったな。
183 :
人間七七四年:2009/08/27(木) 00:49:36 ID:rW3bbVnd
小大納言は伊達御台(義重室)の侍女ジャマイカ?
184 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 09:11:25 ID:eI0gniYD
小田原役が延期になってれば
上杉佐竹最上連合軍が伊達をフルボッコしてたのに残念だ。
185 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 11:53:21 ID:99BxaFIf
「北城様」は
「ほくじょうさま」なのか
「きたしろさま」なのか
いまだに分からん
186 :
人間七七四年:2009/11/15(日) 19:30:57 ID:+5edpc01
>>185 音読み訓読みで分けると確かに「ほくじょうさま」「きたしろさま」のどちらかですね。
音訓交じりで読むと「きたじょうさま」
義昭が隠居して義重に家督を譲り常陸府中に在った時は何と呼称されてたのだろう?
もしかして「南城様」とかだったりして…?
187 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 00:27:55 ID:htzrRbcl
>筑波の学園都市に行った時に
>現地の年寄りがまったく理解不能な言語で会話しててびっくりした。
あの辺りは旧小田氏や武蔵の太田氏や梶原氏の影響じゃないの?
もっと山の方の八郷や柿岡に行くと三楽という屋号の家が多数存在しますね。
188 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 08:24:38 ID:C7oliXZF
いや実は伊達の娘の小納言は佐竹正室の侍女にされ辱められた
189 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 08:37:35 ID:zvaEYb73
ありえないし、それじゃ義重の正室は誰なんだ?となる
190 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 10:07:09 ID:lTzRFQHj
晴宗の娘はかなりの恐妻だったみたいだね
義重も義宣もかなり振り回されている
義久などは骨抜きにされていたし
191 :
人間七七四年:2009/11/18(水) 00:13:28 ID:DIiodkwq
私は個人的に義久は白河義親と談合し(騙し)義広を養子に出して佐竹三家の東家を乗っ取ったのではないか…と考えている
192 :
人間七七四年:2009/11/18(水) 11:21:44 ID:a+9B+5Cm
伊達の脅威をモロに受ける二階堂と違い、佐竹に嫁いだからか、実家愛がかなりあったみたいだしね。
義広が葦名を継ぐと余計に伊達と戦うなって義宣に言ってたらしいし。
193 :
人間七七四年:2009/11/18(水) 11:30:23 ID:4ACWuLtX
形だけとはいえ和睦の証としての輿入れだからね。
実家と嫁ぎ先が戦わないようにするのは当然の役目だったろう。
194 :
人間七七四年:2009/11/19(木) 15:15:23 ID:hNlLiiVv
実家の方がやる気まんまんなのに
止め立てしてくるんじゃ
獅子身中の虫みたいなもんだ
195 :
人間七七四年:2009/11/19(木) 20:49:25 ID:fXGy/8Qp
両家に「戦い、止めーい!」と呼びかけるんじゃなくて、
実家が優位になるように嫁ぎ先の裏でコッソリ工作…が
何となくいやらしい。
196 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 00:35:15 ID:lTII7Xur
おいおいここは義廣と伊達何某スレかい
197 :
人間七七四年:2009/12/06(日) 14:15:54 ID:ekcgNu25
>>44 源姓はまれだよ。配下の小野崎一族のような藤原姓が多いな。
198 :
人間七七四年:2009/12/08(火) 00:13:08 ID:/gyX8lUp
199 :
人間七七四年:2009/12/08(火) 16:22:33 ID:oz2nk6L+
>>198 なんというツインテールw
これも前立てなのか?
200 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 08:02:47 ID:t/R9rAv+
義重ちゃん(笑)
義宣ちゃんはポニーテール(笑)
201 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 20:41:23 ID:p9pZKFRJ
前立ては毛虫
202 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 00:27:34 ID:5vlWb5XD
毛虫は後退しないから勇猛さの象徴らしいぜw
203 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 16:39:59 ID:72QUkaff
同じ理由で百足や兎も人気だったらしい
204 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 22:43:38 ID:LW5/gegT
ウサミミ萌えの兜は良く見るね。
205 :
人間七七四年:2009/12/15(火) 01:02:04 ID:ZYBsLw9O
>義重ちゃん(笑)
>義宣ちゃんはポニーテール(笑)
まるで暗黒帝団のプリキュアみたいだ。
それとザクとは違うのだよザクとはと毛虫が方っているなっ。
凄すぎる。でも野戦や夜戦には強いだろう。
206 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 01:40:36 ID:qYwvHPwP
黒一色というのが渋すぎ。
207 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 03:09:09 ID:qRE9Slfp
佐竹家の武将達も黒一色の「黒備え」だったのだろうか?
208 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 00:23:14 ID:tKZp65Ws
Jリーグ参入目指してるブラウブリッツ秋田もマスコットを毛虫にすりゃあ良かったのに…
エンブレム見た限りなまはげにするつもりなんだろうな…
209 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 15:16:09 ID:iKPV4b8T
秋田にはナマハゲとハタハタしかないと宣言しているようなものだな orz
210 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 15:46:33 ID:u9vHdhE+
211 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 20:11:41 ID:kpU5lZ/z
>>176 >かつて常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
常陸国風土記にもそんなこと書いてないけどな。それは何を根拠にしてるんだ?
212 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:42:41 ID:7YQKAVF7
こないだ義重公の甲冑みてきた
そして画像がネット上に全然ないんだよね〜
小さいサイズしか
213 :
人間七七四年:2010/05/25(火) 12:37:39 ID:UKRDkU0+
>>211 wikiにはそう書いてあるが、誰かの工作の可能性もある
214 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 19:15:35 ID:3OVON/HU
工作というか妄言だな。
215 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 22:42:26 ID:4i/ItxUW
つか出典がwikipediaってどういうギャグだよ?
216 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 23:23:50 ID:iH+Ba/OG
この板もwikiと同レベルかそれ以下だけどな
217 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 23:36:59 ID:4i/ItxUW
まだwikipedidaをwikiって略する人がいるんだな。
それに驚いた。
218 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 23:38:04 ID:4i/ItxUW
ごめんね。いうまでも無くミスタイプをwikipediaに訂正。
wikiってのはwikipediaで使われるシステムの名称。
219 :
人間七七四年:2010/05/27(木) 10:49:26 ID:IsY4AXkS
wikipeとでも略せというのか。
もとより、相殺がそうさつでも正しくなった世の中。
220 :
人間七七四年:2010/05/27(木) 12:56:27 ID:7CYhHjpQ
日本の略語てのは脈絡なく切るものだからな
単語としておかしな形になる事はしばしばあるが、そういう伝統だから気にする日本人はいない
いちいちツッコミ入れるのは在日かなんかだろ
221 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 16:20:10 ID:8pot5/+N
wikipでいいじゃん
222 :
源新羅三郎義光:2010/10/22(金) 22:18:46 ID:ZfIDRPkH
223 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 08:20:54 ID:Pr0BqS6o
カラーリングも含めて甲冑が戦国一かっこいい
224 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 12:33:36 ID:N2rYMoL+
関宿の重要性を理解できてなかったのか
どうしてああなった
225 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 19:38:05 ID:90jVp0OA
陸奥国に心奪われてたから
つか白河と田村と小田が連携してるっぽかったから小田を屈服させる為には白河撃ちたかったんでない?
226 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 05:46:49 ID:38M2sO16
人取橋で敵前逃亡の佐竹(笑)
227 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 05:50:51 ID:Diek0liL
散々蹴散らして家老まで討ち取ったんだから充分
あのまま攻めて政宗の首飛ばす事もできたんだし命助けてやっただけ有り難く思えよ
228 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 11:37:06 ID:taFbOw8c
>>226 あまりにも可哀想な白昼夢に耽る政宗厨…
229 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 12:52:05 ID:RZ5HcgOf
>>225 というか元々佐竹氏と白川結城氏は宿敵関係
100年前から争い続けている
と言うのも山入一揆の際に佐竹領であった依上や南郷が白川結城氏の手に渡ってしまったからだ
だから一揆終結後はこれの奪還こそが佐竹氏最大の悲願であった
特に佐竹義篤が依上を奪還してからは一進一退の激戦が展開され
葦名氏、田村氏、石川氏、岩城氏、那須氏らも加わり高野郡を巡る戦いは予断を許さない状況が続く
更には後北条や小田氏、結城氏なども絡み、より複雑化する
何より佐竹氏にとっては他の地域と違い白川結城氏との戦いは本領を守る戦いであり
南郷は本拠地の太田を守る上でも最大の懸念であった
佐竹氏にとっては何を差し置いても優先させるべき事だったのは当然と言える
230 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 00:08:09 ID:hJOSVbJr
義重公の記事が2011年1月20日の読売新聞全国版にでてたね。
静岡大学の小和田教授が執筆したものだが。あのイラストが酷過ぎるねぇ。
まあ兜が由来のものに近かったことと、小和田さんの面白みがない一般論の文面だったが。。。
今年発の歴史戦国記事だったのでまあいいとしましょう。
そろそろ佐竹家がブレイクする前兆でしょうかね。
231 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 01:05:17 ID:XSdzUk95
義重公の甲冑はリアルで見てみたい・・・
232 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 01:22:47 ID:snAnfnoR
秋田行けば見られるんじゃね?
こんな雪の中でも義重は布団を使わなかったのかと実感できるよ
233 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 02:09:51 ID:XSdzUk95
久保田に行った時に時間的余裕が無くて見れなかったんだよ・・・
234 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 02:20:24 ID:snAnfnoR
もう一度、ついでに六郷と横手にも行くんだ。
六郷では地元の郷土史家を紹介してもらって、佐竹や秋田の歴史について語り合ったけど
残念ながら茨城の歴史にはまるで疎い方だった。
曽我の兄弟が大好きで、その話ばかり語っておられたが元気だろうか・・・
235 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 02:51:43 ID:hJOSVbJr
ついでに岩城にも行くといいな。
六郷はなにもないが、資料館に直筆の手紙が秘蔵されている。
あとニテコサイダーがお薦めだよ。(サッカリン入り)
236 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 02:54:37 ID:hJOSVbJr
六郷の資料館では、秘蔵の六郷町史(戦国期〜江戸期)を譲りうけたけどな。。。
237 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 15:40:46 ID:XaITnNDK
六郷マニアいるんだ…すげーな!
238 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 12:49:57 ID:wvGYIdqU
>>230 大河にならない限り無理だな。
やるならその前の源義家・義光兄弟から始めて、戊辰戦争(みじめ・・・)までやらないと。
239 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 17:33:28 ID:XfVCuHV2
240 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 03:48:57 ID:htV+IU8T
主君 奥州探題大掾政宗
同盟 北関東管領上杉政虎
宿敵 常陸の粒小田氏治
241 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 22:57:19 ID:MpTgPh/i
>>239 今のニテコサイダーは残念ながら、昔のニテコサイダーの味にはかなわねえね!
おおかたお土産好きで保存料、甘味料依存症で、ぶよぶよで皮膚がただれていないかい?きみ?
242 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 00:44:45 ID:/IyCmpE4
>>241 そもそもあんたが
>>235のサッカリン野郎だろ。
自分の肌見てそう書いてるからヘンにリアルなんだね。
243 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 20:07:23 ID:PMAkZ2Yi
須賀川合戦で殿軍して討ち死にし
味方を無事に帰らせた河合忠條と
茅根通正は勇敢だったな。
奥羽永慶軍記―須賀川落城のこと
佐竹史探訪―秋田さきがけ新報社
に詳しく書いてある。。
244 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 20:24:51 ID:9UvfeKBP
謙信との協力を拒んで関宿落城以来、どんどん戦線が悪化してるよね。
小山降伏。結城大敗に怯え宇都宮降伏。
里見も北条に屈して相房和睦
佐竹も白川結城義親に攻撃され
「白川之城落居、其外数ヶ所被打明、義重敗北之由」で
北条が田村に来春には佐竹退治するから出兵依頼。
田村も安子島氏に出陣を促してる。
そして北条が春になり結城城攻めを再開。
謙信死去。
明らかに関宿での失策が北条に対等に戦う機会を失わせてしまってて佐竹にとって致命的だったよね。
245 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 18:13:23 ID:2mvERn4z
とはいえ、佐竹は北条に大敗したことはないでしょ?
ジリジリ押されていたとは思うが。
246 :
仙台藩百姓:2011/02/12(土) 23:45:14 ID:aTAMGC77
奥州では敗戦が多かったけど関東では負けらしい負けは無かったおね( ^ω^)
それに現実には関宿落城後に常陸方面への進攻は停滞して専ら上野方面に矛先が向いているおね( ^ω^)
そもそも関宿を落城させた原因は謙信の失策によるもので佐竹等は関係あるまいお( ^ω^)
247 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 04:36:09 ID:qkZnt2S2
人取橋では圧倒的勝利
248 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 14:39:28 ID:IBgm5iRR
そりゃあ謙信が死んで景虎を後継者にしようとして上野から上田長尾領まで攻め行ったり
勝頼が景勝から上野を譲渡されて出兵してきたから佐竹らもそれに合流したりしてたし
たびたび北条が依頼してんのに葦名が佐竹攻めに協調してくんないしで、
常陸北部まで攻め上がる余裕が無くなっただけ。
そのうち滝川が上野の来たら北条直轄地以外の影響圏の北関東諸将が織田に仕えて背を向けたし。
まあ謙信との戦いの為に氏康時代からは北関東諸将を排除して北条直轄化の進行がまったく進まずにいた自立勢力が織田への対立離反だから
謙信のやってたことは無駄にはなってなかった。
のち滝川逃亡からは直轄地化を進め由良足利領を強制譲渡させようとしたね。
結局、佐竹らの支援も無駄になり桐生へ転封させられる。
小山は佐竹に逃げてたけど滝川が北条を威圧して祗園城を返却してあげたら
滝川逃亡後に小山は北条に付いて佐竹涙目だし
佐野は仲間割れして討ち死にすると北条からの養子が継ぐことになるし
宇都宮城まで攻撃されて降伏したりと佐竹はどんどん追い詰められてる。
謙信死後も勝頼や滝川と西から北条を圧迫する有利な展開がありながら生かせなかった。
249 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 01:16:20 ID:n//9V5gq
最大の宿敵は常陸の柳 小田氏治だな
250 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 16:08:38 ID:GQvS15f9
まあ佐竹と葦名の敵は田村だからね。
251 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 20:40:23.01 ID:bSt/Rqep
小田氏治公は憎めない君主ですな。
実像は腑抜けなのか、はたまた太平の世では名君になれたのか?
圀敗れても人生を全う出来たことと仕えていた家臣がいたからには人間的には優れていたのであられような。
252 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 20:54:03.46 ID:0pUpnrMk
小田氏は関東八屋形の名家だからじゃね
253 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 22:26:27.68 ID:e2NHp21f
佐竹×小田
上杉×北条
豊臣×毒牙
葦名×伊達
254 :
人間七七四年:2011/03/02(水) 13:58:17.64 ID:1x7lifdY
自領を守ろうと強者の間をいったり来たりした関東南奥の諸将だけど
最終的にはより強大な勢力によってその多くが土地を失うことになった
悲劇であるが滑稽でもあるな
255 :
人間七七四年:2011/03/02(水) 15:11:59.81 ID:MMud4DU9
まあ利根川の代わりに門司海峡があった北九州の国人達と似たようなもんだ。
256 :
人間七七四年:2011/03/24(木) 16:19:04.54 ID:gEd3IRp/
>>251 乃木大将みたいなもんで
戦争は下手だが、統率能力はあったのではないか?
257 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 17:42:39.16 ID:bOETo3JX
人取橋で敵前逃亡した佐竹(笑)
258 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 20:28:39.11 ID:33irIAf+
後北条以外の関東南奥諸将は上杉景勝のこと長尾と呼んだことある?
佐竹と景勝どっちが目上?
259 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 20:49:29.01 ID:HjXwUhn9
たしか関ヶ原の時期に政宗が長尾と書いてるレアなのが1通だけあったと思う。
ただ政宗のは偽書状が多いから怪しい。
佐竹は源氏嫡流だけど、景勝は関東管領山内殿だから本能寺の変あたりの頃だと景勝の方が上じゃないか?
その後も会津120万石の大老だし。
260 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 22:43:37.47 ID:gIISAq5I
>>257 百姓がいなくなったとおもっていたが
まだ伊達の負け犬の遠吠えする奴いるんだな
冗談は震災前でも被災後の配給食と変わらないレベルの仙台の給食だけにしてくれよ
261 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 23:03:29.08 ID:qF/QjYCy
>>257 新喜劇の「今日はこのくらいにしたろか」みたいだ。
262 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 23:04:12.67 ID:HjXwUhn9
>>260 頭がかなり弱い子だから相手しない方がいいよ。
263 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 01:54:13.62 ID:BaZjA448
北関東の佐竹一派の大名は基本的に目上の山内上杉当主扱い。
確か東北会津の葦名盛氏が長尾と文書で呼んだことあるけど彼は親北条で御館の乱に出兵してる。
また後年弱体化し佐竹に吸収されている時に[羽柴政権]関東管領に泣きついている
264 :
人間七七四年:2011/10/01(土) 15:00:33.58 ID:L9W2iTZ+
大友宗麟も本名が「よししげ」で父親の名前が「よしあき」だな。
265 :
人間七七四年:2011/10/01(土) 22:55:13.16 ID:PdpPa8AV
諱って通字もあるせいで案外パターンが少いからな
同じ諱とか読みが一緒とか多い
266 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 23:25:19.09 ID:2b8I3iGs
まあ、最大の敵は伊達から嫁いで来た正室だろ
267 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 02:16:03.32 ID:Gjb7Gau9
268 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 01:57:57.92 ID:1tis8I16
269 :
人間七七四年:2012/05/19(土) 15:05:28.44 ID:hpWtw/Dd
270 :
人間七七四年:2012/06/03(日) 14:46:23.67 ID:4OmaneKu
自らの子女を蘆名氏などの諸大名に養子として送り込み、巧みに勢力を拡大している。
271 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 04:39:28.28 ID:fvxs281x
殿様秋田市長
272 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 05:25:10.35 ID:l3mVaLn3
>>271 秋田市長は佐竹一族だが殿様ではない家の出身。
273 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 15:22:14.63 ID:rRBarGLH
今は市長じゃなくて知事だけど
国持大名に復帰だな
そう言えば戦国時代の北家や南家、東家の居城って何処だっけ?
豊臣時代のはよく見るけど、それ以前の居城って何処だったのだろう
もしや、太田城内の館が本拠地だったのか?
274 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 22:49:56.08 ID:ijtMfM+C
東家は旧山方町の・・・何城だっけ?
275 :
人間七七四年:2012/06/12(火) 00:55:24.19 ID:chro5w7F
ああ〜
山方城か
そういや東家の城になってたんだっけ
何となく山方氏のイメージが強かったから忘れていた
地元なのに・・・
276 :
人間七七四年:2012/06/14(木) 16:20:14.63 ID:BQ1uAtf3
>>273 県知事選は与野党相乗りだった模様 で悠々当選
277 :
人間七七四年:2012/06/15(金) 11:01:35.53 ID:qR+hvwR1
278 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 18:47:39.50 ID:pVFDWKHL
鬼義重
279 :
人間七七四年:2013/04/01(月) 16:07:05.48 ID:lwxSAt/X
賀正
280 :
人間七七四年:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:TJTilDOu
今年2度めの書き込み
281 :
人間七七四年:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:IjddpYRp
282 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 19:58:13.62 ID:lEhxGM9c
うわ、まだあったのか
283 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 15:38:55.86 ID:ppzwYzU6
うわ、まだあったのか
284 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 22:58:34.26 ID:gBIE2Xtn
解る人いたら教えて、
手這坂の戦いって1569年と1573年どっち?
285 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:42:32.24 ID:Nl8bORwy
>>7 人糞はてめぇだろニシチョンバカサヨバカチョンバカシナトンスルキチガイ猿死ねカス
286 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 10:39:11.58 ID:vfmvv6V+
茨城人、糞スレ乱立だろJK……
287 :
人間七七四年:2014/04/12(土) 18:13:48.21 ID:vzkdKYrQ
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 10:39:11.58 ID:vfmvv6V+
茨城人、糞スレ乱立だろJK……
↑
後北条の工作員
288 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 06:42:18.71 ID:VfI9uI8+
>>284 それより、ウィキペディアに記事が欲しい
289 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 15:01:07.13 ID:ZSMj0Aut
出典厨に荒らされるだけだぞやめとけ
290 :
人間七七四年:2014/05/12(月) 11:36:01.50 ID:mJg+UQ4M
>>284 1569年とする軍記が複数、1573年とする軍記も複数
そこで軍記でなく書状・感状など一次史料で判断すると
1569年に佐竹方で活躍した武将に出された感状が現存してる
一方1573年にそれらしき感状は少なくとも俺は見たことない
291 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 08:32:54.11 ID:CB4gcyKK
烟田氏の日記的な覚書でも永禄十二年に氏治が
三楽斎と真壁に負けて土浦に逃げ延びたと書いてある
天正元年説はたぶん軍記とかにしかなさそう
292 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 08:53:32.93 ID:kaxRDyyz
, -−-、
\●/
×
293 :
人間七七四年:2014/06/28(土) 15:38:42.52 ID:TwT/aha9
>>291 結果論になるが氏治さんサイドとしてはどう処世するのがベストだったんだ?
294 :
人間七七四年:2014/06/30(月) 07:09:37.94 ID:U4hnVBa7
天庵様は何もやらなければ良かったんだよ
佐竹側は小田氏を滅ぼそうとか全く考えていなかったし
後北条も直接小田氏を攻撃してくるほど常陸方面にほ支配を及ぼしていなかった
他の土岐とか岡見みたいに適当にのらくらやっていれば遣り過ごせた
295 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 05:11:58.14 ID:lxgAmWEs
これといったネタはないが、そろそろ保守
296 :
人間七七四年:2014/10/09(木) 00:10:28.69 ID:yqVbiIzN
>>290 いくらかあたってみたが天正元年説は裏付けなさそうだな
感状だけでなく外交文書関係見ても永禄12年末には小田が大敗した件が
報告されて色々と動きがあったことがわかるが
天正元年=元亀4年にはそれもない
297 :
人間七七四年:
賀正