943 :
人間七七四年:2009/11/19(木) 03:25:51 ID:IfgCvMRF
島津は挑戦で伝説になってるだけなんだ実は。とほほ・・・
944 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 16:31:44 ID:+hM2NcW6
945 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 16:44:30 ID:+hM2NcW6
946 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 05:56:49 ID:t9mu1X7e
じゃあ手取川に石碑を建てた、有名な歌人にも文句を言うんだな
荒しはスレチ
947 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 10:46:40 ID:6okFQdKh
じゃ織田軍は手取川で謙信と戦った関東部将と同じ戦法とって加賀からすたこら撤退したんだ。
なるほど手取川で戦わないわけだ
948 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 13:06:52 ID:MxnCjEsh
>>945 何が捏造の証拠になっているのかが分からん。
個人的には、手取川付近で小競り合いはあったのだろうが大きな戦いはなかったんだろうなぁ、って思う。
手取川以外の信長の敗戦は織田方史料にすら載っているのに、手取川だけは織田方史料どころか公家・寺社・戦場近辺勢力や織田包囲網方の記録にも一切登場しない。
また、負けた織田はともかく勝った上杉には手柄を挙げた者がいてもおかしくないと思うのだが、織田にも上杉にも、一族の誰其が手取川で討死したとか手柄を挙げたとか主張している者がいない。
これだけ謙信個人の手紙以外で無視されているってのは、特記するほど価値のある戦いではなかったからなのだろうなぁ、個人的には思う。
ただ、同時期に手取川近辺で”織田方が”勝利したという感状は残っているようなので、その直後に上杉方から反撃があったとしても不思議ではない。
結局、川中島と同じように、手取川を挟んで小競り合いがあり、双方が自分が勝ったと主張して引き上げた、と言うのが真相ではないだろうか?
949 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 03:56:31 ID:hrcae1kE
950 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 04:19:26 ID:hrcae1kE
閏三月三十日付織田信長朱印状は、この戦果に対して「賀州凶徒など過半討ち果たし候段、心地よく候」と認めている。
(「金沢御堂・金沢城調査報告書T』)。十一月十七日、一揆方の将一九人の首級が安土に届けられ、信長も大いに感じ入ったという(『信長公記』)。
信長が、賀州凶徒を討ち果たしたという史実を、
上杉家では、謙信が信長を破ったという話しに、摩り替えた。。。
951 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 19:11:49 ID:WYLV2ghm
謙信書状以外に記録のない手取川の実在を仄めかすとされる感状の中では何故か勝ったのは織田方になっている。
前哨戦での織田勝利後に上杉方が逆襲した証拠とされる感状も何故か日付が違っていて
「今まで(年不詳)5月25日の堀才助宛とされてきた感状は実は (天正)5(年9)月25日 と脱字した手取川の感状なのではないか?」
という多分に推測を含んだもの。
確かに怪しい部分が多いな。
952 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 19:37:01 ID:hrcae1kE
日付が19日の書状なのに、23日のことが書かれていて、
そこに敗北とあるのが、信長だという?
信長敗北、とは、どこにも書かれていない。
文脈から、信長一向に知らず、・・・・・敗北・・・・・・・・・・
だから、信長???????
歴代古案には、信長公記からの丸ごと転載と思われる、信長が、武勇天下第一という足利義昭の言葉も載ってる。
阿部氏によると、歴代古案は、元禄以降に作成されたものだという。
織田信玄って、誰だよ?
953 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 21:34:36 ID:Bh0c8t+u
まあ独自研究の発表はスレチだからブログにでも書けばいいよ
954 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 21:43:02 ID:unrfodQX
手取川でまけるより光秀なんてちょぼいのにやらレ他方が恥ずかしいと思うのだが
なぜ病気で死んだことにしなかったんだ。手取川はないことにできたのに。
955 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 07:31:29 ID:4lGhdJTj
だって光秀にやられたのは事実だからな。
956 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 13:46:07 ID:eiv57fpN
松川といい何で上杉は捏造するの?
キモイよ。
オマイは源田実か。
やり方がまんま旧日本軍。
勝った勝ったーと宣伝するも相手側の損害記録に該当する損害無し。
織田の大敗だと言う手取川には有名武将が一人も死んでない時点で大規模な戦いなんて無いのはわかりきってる。
織田が損害隠してるとかアホの上杉厨はほざくけど伊勢一向一揆の惨敗、弟、氏家卜全討ち死に三方が原でも惨敗討ち死に書いてる。
なんで手取り川だけ隠すなんておもうのかな?
損害隠して大勝したように捏造するのは上杉だけだよ。
957 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 14:45:38 ID:4lGhdJTj
織田の記録にないより本願寺や(元禄時代以前の)上杉家の記録にすらない方が不思議だけどな。
織田相手に大勝利したなら「俺(の一族か先祖)も、あの手取川で手柄を立てた/手取川にいた」と言ってる奴がいそうなんだが、それすらない。
手取川の戦いは、元禄時代になってから初めて歴史上に登場する、誰も死んだ記録が無く、誰も従軍した記録のない不思議な戦。
958 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 16:22:30 ID:eiv57fpN
そうそう。
普通自慢するよね。
松川の戦いでさえ重臣のさらに部下の下っ端クラスでさえ死んだって残ってるのにさ。
おかいしでしょ手取り川。
織田と敵対していた勢力からお祝いの書状とか他家の記録にも残るでしょ普通。
959 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 20:09:48 ID:TP0QZeQ9
織田家オールスターズを派遣したけど加賀は謙信の勢力圏に入った事実が残るだけ
960 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 20:36:08 ID:eiv57fpN
七尾城に上杉勢攻め入る→畠山、織田に救援要請→勝家出陣→織田勢着く前に七尾城落城→勝家撤退
これだけの話だろ。
だったらどういう戦いだったか詳しく解説しろや。
上杉の先陣は誰の隊?どういう布陣?誰の部隊と誰の部隊が衝突したの?
なんで名のある武将一人も死んでないの?
961 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 20:58:14 ID:4lGhdJTj
謙信が七尾城を攻める
→畠山が織田に救援要請
→信長が勝家を派遣
→謙信と結んだ加賀一向一揆が勝家の進軍を阻む
→9月14日頃、勝家が手取川付近で漸く加賀一向一揆に勝利
→9月15日頃、勝家到着前に七尾城が落城
→勝家が七尾城落城の報せを受け撤退開始
→9月23日夜、謙信が精鋭数百騎を率いて撤退中の勝家軍を強襲。
と言われている。
撤退中の部隊を急追して攻撃したのだから、布陣とかは特にないだろう。
>織田家オールスターズを派遣したけど加賀は謙信の勢力圏に入った事実が残るだけ
加賀が謙信に付いたのは織田家オールスターズが派遣されるより前だけどね。
長島も石山も伊賀も、制圧まで最初の派遣から数年かかってるよ。
962 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 22:06:37 ID:eiv57fpN
追撃の武将名もわからんの?
織田の襲われた部隊名は?
ほんとにあったなら上杉の武将も誇らしげに記録にやら手紙に書いて残ってるはずだよね。
島津の退き口には追撃、しんがり武将わかってるのになんでこれにはそういったのが一切ないの?
大内も尼子攻めで負けて撤退した時追撃喰らって息子だか養子死んでるのに手取川一切無し。
三方が原でさえ織田武将死んでるのになんで手取川には下っ端武将の討ち死にさえ乗ってないの?
三津刈屋口の戦い
こんな超マイナーな戦いでも毛利方2人の討ち死に載ってるよ。
963 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 22:53:07 ID:JWXepsu5
勝家は手取川付近で何日間も追撃されるの待ってたのか?
964 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 08:14:13 ID:cxta2yol
14日、(織田)織田方が手取川付近で一向一揆に勝利。
15日、(上杉)七尾城が落城。
16日、
17日、(上杉)末盛城を攻略。
18日、(上杉)上杉軍が手取川に到着・布陣。勝家は謙信の存在や七尾城の落城に気づいていない。
19日、(上杉)謙信が「23日に手取川で大勝した」と手紙を書く。
20日、
21日、
22日、
23日、(織田)手取川渡河後に七尾城落城を知って撤退を開始した勝家を謙信が急襲。
だけ見ると、23日夜ってのは18日夜の間違いとしか思えんのだが。それなら、
18日(朝)、謙信到着・布陣。勝家は謙信到着や七尾城落城を知らずに手取川渡河を開始。
18日(昼)、勝家が手取川渡河完了後に七尾城落城の報せを受ける。謙信の存在には気付かず。
18日(夜)、勝家が撤退命令。謙信の存在に気づかず目の前で無防備に渡河を開始した勝家を謙信が急襲。
な感じで納得できる。
965 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 08:17:36 ID:cxta2yol
誤)23日、(織田)手取川渡河後に七尾城落城を知って撤退を開始した勝家を謙信が急襲。
正)23日、(上杉)手取川渡河後に七尾城落城を知って撤退を開始した勝家を謙信が急襲。
に訂正。
966 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 08:28:23 ID:x4RFLFbp
967 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 08:46:53 ID:x4RFLFbp
結局、上杉茂憲(旧藩主)と伊佐早謙(旧上杉家の家臣)によって、
手取川の大勝が、捏造されたことがわかる。
歴代古案=伊佐早謙の蔵本=造本とも言うな。
968 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 09:31:47 ID:APhR47zj
サブはヤフー知恵袋にも同じことを書き込んでた基地外
969 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 10:11:57 ID:x4RFLFbp
天正三年正月十一日、二一歳のときに景勝と改名し、弾正少弼に任ぜられた。
景勝が後継者であったという説については、上杉謙信が弾正少弼の官位を譲り
与えたことがその根拠となっている。ところが『新潟県史』は、これに関係
する二通の上杉謙信書状が、元和六年(一六二〇)頃の景勝自筆書状と
筆跡が同じであるとしている。すなわち、景勝が自己の立場を正当化する
ため、後年に偽作した可能性がある、ということだ。
970 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 14:37:50 ID:E3mIfJBU
景勝の敵対者であった景虎ですら
景勝を少弼と呼んでいる上
二通の謙信書状以外にも
謙信が書いた「上杉弾正少弼宛」の礼状があるんだけどな。
971 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 15:27:44 ID:7UMKzJTk
>>966 あなたは凄い。
上杉こんなんばっか^^
お隣の国もびっくりな捏造だ。
972 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 16:04:30 ID:cxta2yol
別に上杉に限らない。
里見とか南部とか、家督争いがあった一族が編纂した歴史書には捏造が多い。
973 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 19:37:50 ID:x4RFLFbp
直江状=偽書。謙信書状=景勝筆跡のニセモノ。手取川の大勝=捏造。
謙信の軍師の宇佐美定行、鬼小島弥太郎、前田慶次郎、いずれも存在しない。
加賀・能登・越中・飛騨が上杉領=大ウソ。本願寺の金沢御坊(北陸の本寺)を陥落したのは、織田軍です。
本願寺は、謙信の家臣ではありません!!
能登七尾城は、遊佐の謀反であって、上杉軍は入城していない、落としたのは織田軍。
上杉120万石は、インチキ。秀吉朱印状の会津知行目録、秋田家史料いずれも91万石。
974 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 20:07:47 ID:cxta2yol
>謙信の軍師の宇佐美定行、鬼小島弥太郎、前田慶次郎、いずれも存在しない。
さすがに前田慶次は存在するだろ、1581年頃まで尾張で浪人している。
「生活が厳しいから早く仕官したい」みたいな記録も残っているらしいし。
まあ、史実の前田慶次は随分と情けない人間だったらしいが。
975 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 23:44:17 ID:APhR47zj
サブはID変えようが文体が独特だからすぐ分かってしまうというw
976 :
人間七七四年:2009/11/30(月) 15:51:26 ID:e9oknq6j
歴史ブームでないころはよかったね
だって信長って単に名前知ってるってのでなんとなくファンになるだけだろ無バカとか
レベル高い歴史ファンが増えたら人気落ちちゃうね
977 :
人間七七四年:2009/12/02(水) 18:07:46 ID:WDsZcBny
上杉も伊達もどっちのファンでも無いけど松川の戦いって手取り川みたいに
相手が勝手に引き上げたのを上杉武将が大活躍して撃退したみたいに記録捏造したでいいの?
978 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 18:30:54 ID:P9IzBGNc
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。
@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。
最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
上杉軍を宮代で打ち破り(実に300余名、騎馬武者100騎を討ち取り、信夫山で首級実検
まで行っている)、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。これが慶長5年10月6日の戦い。
伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。
この伊達の「掃討戦」を根にもった国枝清軒のルサンチマンの敗者の文学。それが『会津陣物語』の哀しい本質だね。
国枝は慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、それは真っ赤な嘘
だったことは、『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らかだろう。 w
979 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 19:42:08 ID:UHqljX0Y
手取川の方は皆が分かりやすく説明してくれているが、その
>>978 の説明だと根拠が全く分からんな。
なぜ1〜5だと言われているのか誰か分かるように説明してくれ。
980 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 22:46:37 ID:rUmLTjcu
関が原がいつ起こったか考えてみろ
981 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 23:24:41 ID:P9IzBGNc
この「松川の戦い」に関する謎は、伊達勢二万五千人ほどが1601年4月に出兵した上、
かつ甚大な損害を被り千三百人にのぼる莫大な死傷者を出したというが、
そこに名のある武将の姿が見られないのはなぜか、という素朴な疑問にある。
(最大のなぞは、A.開戦の動機とB.開戦時期)
なお、「松川の戦い」を考える際に、戦いの規模が似ている天正19年の宮崎城の
戦いのケースの場合を、参考までにあげておくと、
大崎の遺臣2千人 VS 伊達軍2万4千人
1591年6月24〜25日の二日に渡って一揆を鎮圧した戦いで、伊達方はほぼ10倍
の戦力で城攻めをしたが、相手は要害の宮崎城に立てこもり、大量の銃で武装して
いたため、伊達軍も相当の被害を受けている。被害状況は下記の通り。
重臣の宿老・浜田伊豆隆景(戦死)
成田荘八郎、松木伊勢、小島上衛門、前田河上総、峰左近、伊庭野惣八郎、
塩森六郎左衛門、生出阿弥(以上、名のある家臣と見られる武者が討死)
この戦いは接近戦となり、伊達政宗の馬にも弾丸が命中している。
他、足軽100余人他、多くの家臣が討死したとある。
(「伊達秘鑑」)
982 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 23:26:26 ID:P9IzBGNc
1601年正月に直江景続は宇都宮にいた結城秀康を通して徳川家康に詫 びをいれ降伏した。
この降伏の申し入れは、3月の初めに、江戸城に帰還 していた徳川家康のもとに届いた。
(家康は、この申し出を受諾し、6月に西上して、謝罪せよと命じた。
景勝一行は、6月中旬に伏見に到着、7月2日家康と対面し、会津召し上げを 通告される。)
つまり、史的には、東北版関原の戦いは、家康の裁断が下った以上、1601年3月
で事実上終了したということになる。ここで、伊達、上杉間の小競り合いが消滅する。
一方、伊達は1601年4月14日に仙台城に入府。上杉の古老が主張する4月26日にあったと主張する「松川の戦い」が上杉の捏造だと判明。
983 :
人間七七四年:2009/12/04(金) 02:35:46 ID:ExSB+adA
松川なんてどこ有るか興味ないし芋煮会でもしてれば?
手取川はどっちにしても部将の格が違うからね。おもしろい
984 :
人間七七四年:2009/12/04(金) 20:01:47 ID:nrg4bXMY
>>981さんすごい。
よくわかる解説ありがとう。
なるほどねー。
家康は上杉許してるのに伊達が上杉領に侵攻するわけないよね。
そんなことしたら御家取り潰しだ。
985 :
人間七七四年:2009/12/04(金) 21:27:41 ID:SI3NExVF
3月初めに上杉が家康に降伏を申し入れ、7月に降伏が受け入れられた。
だから4月に家康と交渉中の上杉に伊達が攻め込むはずがない。
……それだけの理由?
松川があると言ってる根拠は何か、傍証は何か、その根拠に対する反論は何か、今までに見つかっている証拠/反証は何か、……とか、もっとツッコンだ議論とか他の人の意見はないのか?
986 :
人間七七四年:2009/12/05(土) 01:13:07 ID:V3frqtpZ
お前はアホ。
3月の時点で許してるんだよ。
正式な手続きが7月なだけだ。文章ちゃんと読めよ。
それと家康の許可も無く攻めるわけも無い。
そんぐらいわからないの?
987 :
人間七七四年:2009/12/05(土) 06:49:50 ID:/+MfAMbz
へぇ、そうなのか。
一般には
1601年3月に上杉が降伏申入を行い、
千坂景親らが徳川の本多正信らと交渉を重ねた結果、
6月頃になって初めて降伏が受け入れられ、
6月の千坂景親からの報告を受けて7月に景勝が謝罪に赴いた、
って説明されるし、
島津の場合も降伏申入から降伏受入まで交渉に2年近くかかっているから、
上杉も降伏申入て即受入なんてありえず
降伏受入までに普通に3ヶ月かかっていたのは史実だと思っていたよ。
3月から6月まで本庄繁長や千坂景親らが交渉していたってのも上杉の捏造だったんだな。
988 :
人間七七四年:2009/12/05(土) 07:35:11 ID:/+MfAMbz
それと、家康の許可も無く攻めるわけが無い、ってのは何で?
実際、伊達以外の諸大名は家康の許可など無しに兵を動かし続けていたわけだし、伊達だって家康の許可を得る必要なんて特にないんじゃない?
989 :
人間七七四年:2009/12/05(土) 08:31:49 ID:/+MfAMbz
俺は上杉や伊達じゃなく島津ファンとして読んでるが、調べてみた限りだと
「手取川合戦は小規模な小競り合い」「松川合戦では伊達側の主張が怪しい」
という感想だな。
理由は史料の量と相互参照性だな。
どちらも一次史料がないにせよ、松川合戦での上杉方勝利は延宝年間には既に上杉方史料以外にも記録されているのに
>最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
>上杉軍を宮代で打ち破り、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。
>伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。
等の記録は元禄期以降の伊達家編纂の軍記物にしか登場しない。
しかも伊達家史料が下敷きにした原本では松川合戦での上杉方勝利が記されているのだが、なぜか伊達家による編纂時に事実無根として切り捨てられている。
結局、上杉方史料にしか存在しない手取川を怪しいと感じたのと同様、
松川合戦については伊達家史料の内容だけが浮いている(怪しい)としか感じないな。
990 :
人間七七四年:2009/12/05(土) 09:09:24 ID:V3frqtpZ
>島津の場合も降伏申入から降伏受入まで交渉に2年近くかかっているから、
>それと、家康の許可も無く攻めるわけが無い、ってのは何で?
自分で答え書いてるじゃん。
関ヶ原すぐあとに黒田加藤鍋島の島津討伐軍が水俣まで進軍したけど島津と交渉することになった家康の鶴の一言で撤兵してんのもしらんのか。
上杉厨って手取り川といい松川といい何処までずうずうしいんだ?
隣の国もびっくりな捏造戦を必死にあったニダって気持ち悪いよ。
991 :
人間七七四年:2009/12/05(土) 09:38:35 ID:/+MfAMbz
結局、都合が悪いことは認めないってだけなのね。
捏造を認めない上杉厨も、何でもかんでも捏造にしたがる捏造厨も、厨はどっちもロクでもないな。
真面目に相手にして損した。
992 :
人間七七四年:
>>989氏の調査を持って
松川合戦については伊達家史料の内容だけが浮いている(怪しい)
この結果にてこのスレは終了。次スレなんざもってのほか。立てた奴はsub認定。