【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】

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448人間七七四年:2013/11/16(土) 18:32:26.01 ID:FTJwDxdD
小早川秀包(と桂広繁)に戻ってきましたか。
449人間七七四年:2013/11/17(日) 06:49:12.64 ID:hWCXneXk
日向記は内容の違う写本が数多あるという状態です。
これは写す際の校正で他の書物を参考にした結果ですので
黒田家譜に汚染された可能性大です。

編纂物の宿命とも言えますが「複数の編纂物に収録されている=事実」
とはなりません。編纂物はオリジナルまたは古い写本が残っている
とかでなければ、史料の裏付けなく用いるのは危険ですから。
450人間七七四年:2013/11/17(日) 11:32:41.24 ID:ch3H4OFr
とは言え、現状での信憑度は、日向記が、黒田家譜や新訂寛政重修諸家譜を上回っているでしょうか。
色々な日向記を付き合わせて検証するくらいの事が出来ない限りは、
「毛利方の人質は、日向記によると、小早川秀包と桂広繁。」。
これに付記する場合なら、「新訂寛政重修諸家譜では宍戸某。」と言ったところでしょうか。
451人間七七四年:2013/11/17(日) 11:34:54.20 ID:hWCXneXk
>>450
何れも編纂史料だからアテにするのはかなり危険
ちゃんとした一次史料で裏付けを取らないと駄目。
452人間七七四年:2013/11/17(日) 16:15:32.48 ID:/JaRmnwU
極端な話家譜ってのは100年後に作られた御家自慢本だから
一次史料その他信頼できる史料や推論で裏が取れないと実際にあったことにはならんよ
複数の家譜で同じ事書いてあっても元ネタが両方甫庵信長記だったとかザラだし
議論するならその点を留意してもらいたい
453人間七七四年:2013/11/19(火) 21:45:17.34 ID:zXsLWZxm
>>445
そう中国攻め当時もその後の宇喜多・毛利間の国境交渉時も
羽柴方の黒田・蜂須賀の交渉相手はあくまで毛利方の安国寺であって
小早川隆景本人との直接交渉ってしてないんですよ
だからこそ和睦直後の小早川の陣まで黒田が直接会いに行った
という黒田家譜の記載が疑わしいわけで
454人間七七四年:2013/11/20(水) 02:49:37.01 ID:NO0xOW1x
黒田と蜂須賀の陣も秀吉の陣の側にあったし
安国寺も隆景の陣の近くにいたのではないでしょうか?
455人間七七四年:2013/11/20(水) 09:56:02.77 ID:GO6y201W
可能性はあるのではないのでしょうか?ばっかりだな
456人間七七四年:2013/11/20(水) 12:51:08.85 ID:NO0xOW1x
一次資料がないとそこで思考停止となっても仕方ないですし、
最近の水攻めの築堤を、川並衆の蜂須賀がやったんじゃないかという説も、
同類ではないのでしょうか?
457人間七七四年:2013/11/20(水) 13:20:55.64 ID:GO6y201W
可能性は無限大。確証が無ければ完全否定は出来ず。ゆえにどうとでも言える
辛抱強くレス返してくれてる人居るけど
落とし所を見つける共同作業をする気が無いなら、相手にされなくなるっすよ
458人間七七四年:2013/11/20(水) 13:24:42.45 ID:LYrf9Ll7
マトモな史料で裏付けが取れないのでは検証とは言えない

推論や仮説を構築する場合も、同様の例ではこうしてるとか
そう言ったものは必要だろう

可能性があるからあったかもしれないで済むのは小説家の類でしょ
459人間七七四年:2013/11/20(水) 13:43:35.74 ID:NO0xOW1x
学者としても一次史料が無いというだけで
可能性の高い事象を否定するのは思考停止だと思われます。
460人間七七四年:2013/11/20(水) 13:56:33.12 ID:LYrf9Ll7
それでは「可能性の高い事象」の根拠を示してください
461人間七七四年:2013/11/20(水) 14:09:01.17 ID:GO6y201W
もうなにが言いたいか分からないけど学者が思考停止って何の話だよ
そもそも史料の制約から確証がある事柄の方が珍しく、
一次史料であっても書かれてることが真実とは限らないもんだし
確証が無くとも可能性の高いものを取り上げてくのが歴史学だろ
極論すれば各種論説なんか可能性が高いか低いかでしかない
そのなかで可能性の高い低いを議論しようともせず
可能性の有るか無いかしかレスしない態度は相手にできないだろといってる訳
ここまで言えば分かると期待するけど無理かなぁw
462人間七七四年:2013/11/20(水) 15:14:22.05 ID:NO0xOW1x
>>460
>>454>>456の話ですよ。

>>460
こちらも、そういった議論も期待していますが、
今のところ、一次史料のあるなしのみが論点になっていますね。
463人間七七四年:2013/11/20(水) 15:39:47.49 ID:GO6y201W
無理ですか。後は奇特な方お願いします、
464人間七七四年:2013/11/20(水) 15:44:55.15 ID:LYrf9Ll7
>>462
示して欲しいのは仮説の「根拠」であって、あなたの空想ではありません。
一次史料以前の問題です。
465人間七七四年:2013/11/20(水) 18:11:44.71 ID:Ya8odxGR
>>447
ちょっと調べてみたが日向記のその段はおそらく『甫庵太閤記』のところが元ネタだと思われる。
でこの備中高松城の和睦のことなんだけど一次史料の吉川広家の書状である程度裏付けできるからあながち間違いではなさそう。
ただ太閤記なので秀吉を持ち上げるよう若干改変されている部分はあると思われる。
466人間七七四年:2013/11/20(水) 20:02:33.32 ID:NO0xOW1x
>>464
あなたは黒田家譜という、我々よりも当時に近い時代の人の記録を疑っているのでしょう?
もちろんその中に、正しくない記述があることも理解しています。

だからと言って、全否定されるものでもない。
今回の、「だからこそ和睦直後の小早川の陣まで黒田が直接会いに行った
という黒田家譜の記載が疑わしいわけで」を繰り返されるだけでは何も進まない。

繰り返すのであれば、一次史料なり、
その他の情勢からの推測なりの根拠を示して下さい。

それだけのことです。
467人間七七四年:2013/11/20(水) 20:08:09.60 ID:LYrf9Ll7
自分が信じるから事実だと言い張るのであれば
もはや議論の余地はありません。

あなたは黒田家譜と共に生きてください。
私はまっぴら御免です。
468人間七七四年:2013/11/20(水) 20:25:21.53 ID:NO0xOW1x
黒田家譜の信用度に対して、個々に検討する是々非々の態度を示しているはずですので、
私が「自分が信じるから事実だと言い張る」などの、間違った発言をされるのは、困ります。

あなたとは検討が不可能なようなので、失礼致します。
469人間七七四年:2013/11/21(木) 12:31:16.43 ID:d2i+TOrH
まぁ黒田家譜(と日向記等)の元ネタが信用度の低い「甫庵太閤記」でほぼ確定
旗(武器)を貸した話は福岡日南や高柳等現代の学者のツッコミの通り
昨日一昨日休戦したばかりで同盟国ですらないのに貸す訳がない
安全保障の面でおかしいし当時において類型もない
長久手の戦いの時を基にした創作と思われる
隆景はこの時の先見の明を時たま書状で自慢しているが
この手の話が出てきたことはない

人質に関しては休戦の証人としては小早川秀包の格が高すぎる
吉川広家は一悶着あってやっと人質として送り込めたのに
同格の小早川秀包をたかが休戦の証人に即日出すとは思われないし
元就の実子で小早川後継の秀包と
2・300石程度の秀吉の旗本の森兄弟とでは釣り合いが取れ無過ぎであり
寛政重修諸家譜の高政と宍戸某程度が適切である
山崎戦後の人質と混合したものと思われる

小早川黒田会談としては元ネタの「甫庵太閤記」でも蜂須賀と福原・安国寺が交渉役で
蜂須賀が小早川と有ったとも書いてない
取次ぎ制を取っている両国が手順を飛ばすとも考えられないし
黒田は秀長と蜂須賀に次ぐ家禄をもらってる主力であり停戦直後の敵陣に乗り込んで
虜囚の危険を犯すとは思えず、殿だとすれば殿の責任者が居なくなってしまうのでなおさら
さらに黒田においてはある意味前科持ちでもあり可能性は低いとしかいえない
御家顕彰のための創作であろう

すでにチャンチャンって感じすけどまとめてみた
470人間七七四年:2013/11/21(木) 16:01:36.67 ID:op7G8cQj
常識的に考えたらその通りなんだろうな。
ただ、だからこそ、その上をいくような孝高と隆景は、智謀で讃えられるようになったとも考えられる。

外交官は、有岡城でも小田原城でも、丸腰で入っていかなければならない訳で、
既に和睦が成立しているところを訪れて、旗を借りるくらいなら、それらに比べれば容易。

あと、宍戸って吉川との関係が強いから、
小早川秀包・桂広繁と別に、人質とされたとしても、不自然ではないかな。

むろん、これが正解だと断言出来るとは思っていないが。
471人間七七四年:2013/11/21(木) 17:01:27.86 ID:5SYle3Mt
黒田家譜真理教
472人間七七四年:2013/11/21(木) 17:06:43.95 ID:d2i+TOrH
そりゃ断言できんでしょう。根拠がないですから。

智謀の士は常識的な事はしないのですか?
外交官が敵地に行くことと旗を借りることの軽重の判断基準はなんですか?
小早川秀包が停戦の証人になるのは不自然といってるのに
同時に行っても問題は無いという返しは何が言いたいのですか?
473人間七七四年:2013/11/21(木) 19:29:01.45 ID:op7G8cQj
>小早川秀包が停戦の証人になるのは不自然

まず、なぜ不自然だと思うのかを考えれば、
そのままそれは、隆景の先見性の説明になるんじゃないか?
474人間七七四年:2013/11/21(木) 19:34:56.04 ID:d2i+TOrH
ほんとあやふやな答えしかできないんだな。相手したのが馬鹿だったわ。
475人間七七四年:2013/11/21(木) 19:52:09.81 ID:8DCD40Fu
>>469
>旗(武器)を貸した話は昨日一昨日休戦したばかりで同盟国ですらないのに貸す訳がない

常人の考えではそうかもしれませんが葉隠や黒田家譜においてすら賢人と讃えられている隆景のことですから
思慮をめぐらし先行投資として秀吉に武器を提供してもなんら不思議ではありません。
このときの秀吉は明智光秀を討伐するために少しでも戦力が必要な状態でしたからただでさえ困ってる秀吉に
さらに恩を売るにはそれこそ絶好の機会だったことでしょう。
それに甫庵独自の創作だと仮定すると武器の数量があまりにも具体的な記述をしているのが気になります。
果たしてここまで具体的な数量を記す必要があったのでしょうか?
そして羽柴側としては毛利側から武器等の提供を受けたということは不名誉だったと思われます。
なので『甫庵太閤記』では秀吉が毛利側に強引に武器等を要求したと改変されているのではないでしょうか?

また隆景が書状で和睦のことしか記していないのもお家安泰の決定打となったのは『秀吉と和睦した』という事象のみで
あって和睦に不随する武器提供のような些細な事象は語るまでのことではなかったと取れます。

この和睦の下りは一次史料である程度保証されているわけですから自分では理解できないからといって証拠もなしに
即座に否定するするのは史料検証のあり方として正しくないと思われます。
476人間七七四年:2013/11/21(木) 20:19:03.26 ID:8DCD40Fu
>>472
横槍失礼。
残念ながら隆景自身が秀吉の陣へ交渉しにいったということは可能性としては限りなくゼロに近いと思われます。
他の史料と比べて見てもらえばわかりますが黒田家譜はどちらかといえば客観性が低い史料の部類です。
特に官兵衛の活躍を記してある部分はまずそのまま信用してはいけません。
他の比較的客観性の高い史料と比べた場合、このとき隆景が交渉役として赴いている史料はまずありません。
全て他の人物が交渉に赴いております。

また隆景のこのときの立場は実質総大将に近い立場なのでいきなり直接交渉に赴くというのは
臣従に行ったと誤解されても仕方がない危険極まりない行為です。
とても賢慮ある方のなされる行為ではないと思われます。
477人間七七四年:2013/11/21(木) 20:47:53.18 ID:d2i+TOrH
武器数に関してですが500挺300張が具体的だとはさほど思えません。
信長公記の首帳の記述のように下一桁まで書き起こしたあれば
わざわざそこまで偽造する必要はないと考えられますが

一次史料による交渉の過程は安国寺恵瓊が
いささか秀吉と親密と思える以外は通常の同盟交渉としか思えませんし
交渉終了が4年後の天正14年ですので普通と言うよりいささか手間取りすぎのように思います
小早川が大きな恩を売っていればもっと交渉が速やかに進行していても良いのではないかと思われます
もしくは史実の秀吉の請求をほぼ飲んだものではなく譲歩を引き出せるとか。

また秀吉が大返しの顛末を語った浅野長政宛書状や天正記に無いのが不名誉だからとすれば
逆に毛利側では名誉なことになり毛利側が書き残してもいいように思います。

>>472に対してのレスは意味が図りかねます。
478人間七七四年:2013/11/21(木) 21:58:28.05 ID:8DCD40Fu
>>477
一桁まで記すのでなければ具体的でないという考え方には残念ながら賛同致しかねます。
そこまで突っ込むのはもはやただの揚げ足取りだと言っても過言ではありません。

備中高松城の和睦後の領土交渉についてですが毛利側が秀吉に大な恩を売ったからこそ
交渉が長引いたとも言えるのではないでしょうか?
事情もなしに秀吉優位の状態であれほどまで交渉が長引くとはとても思えません。
毛利側が秀吉に領土での譲歩をねだるくらいの行為を行ったからこその結果だと考える方が自然です。
また領土交渉で長きにわたって揉めたにもかかわらず毛利と秀吉の関係は異常ともいえるくらい良好な状態で
秀吉が毛利側に何かと便宜を図っている史料が数多く見受けられます。

あと毛利側の史料では『江系譜』に同様の記述があり、信長への弔い合戦の餞別として
「銃五百挺・弓百張・籏三十本」を秀吉に渡したとあります。

よってこのときの武器提供の話は他の史料や状況から推量しても筋は通っており否定できる史料もないため
通説として採用しても問題ない水準ではないかと考えられます。
もちろん完全に確証を得るためにさらなる検証が必要なのは言うまでもないことですが。
479人間七七四年:2013/11/21(木) 22:33:45.33 ID:op7G8cQj
>>476
・人質交換。
・小早川秀包人質。
・小早川隆景による秀吉訪問の有無。
・黒田孝高による隆景訪問の有無。
・毛利家の旗20本の借用。
・毛利家からの鉄砲500艇、弓100張の提供。

今回の考察は、大体この部分ですよね。
人質交換はあったで、ほぼ確定として、残りにも十分に可能性はあったと思われます。
その理由は、やはり隆景も孝高も、常識では計れない、讃えられるだけの人物だったと思われるからですね。

ただ、これらの中でも、孝高による隆景訪問と、旗20本の借用は、
比較的、敷居の低いものではないでしょうか。
人質交換のついでにでも、行えたものではないかと思われます。
480人間七七四年:2013/11/21(木) 23:27:55.44 ID:d2i+TOrH
>>478
江系譜や池田家譜その他にも同様の話があるの存じていますが
個々の信頼性はともかくいずれも広く世に流布した甫庵太閤記の影響を受けざるを得ない後世の編纂物ということです
家譜の信頼性を論議してるときに同レベルの史料を持ってきて堂々巡りでもさせたいのでしょうか
この時期の戦国大名の中でも毛利は史料が非常に豊富であり
編纂物に頼らなくても多くの事が分かるとされています。
その中で関連史料がないということは、まして広く流布した説話で
人の目に留まりやすいのに残ってないと言うのは信頼性も押して知るべきだと思います。

また旗を貸すことに筋は通っていないと思います。
旗と言うのは古今東西において軍隊の精神的シンボルであり非常に重要なものです。
旗が乱れれば旗奉行が謹慎切腹申し付けられるほど重要なものであり
敵の勇将の旗を戦地で得れば、誉として自ら使用したり
近代においては連隊旗を取り戻すために損害無視して何度も突撃したり
沈み逝く軍艦から負傷兵を差し置いて軍旗を退官させるなど精神的支柱たるべきものです
昨日まで敵だったものに渡すことができるものではありませんと考えます
敵に利用されることを考えれば利敵行為えり一応は家臣の小早川においても越権行為です
類型があればご教授願いたい
481人間七七四年:2013/11/21(木) 23:35:21.52 ID:N7Q2MHK3
毛利家文書真理教
482人間七七四年:2013/11/21(木) 23:40:17.70 ID:d2i+TOrH
残念ながら豊臣側史料にもありません
また最近では研究者ですら鼻で笑う甫庵太閤記であっても頭から否定する立場でもありません
三段撃ちは無かった説とか単純に否定しているものを疑問に思います。
483人間七七四年:2013/11/22(金) 01:11:49.42 ID:7Hg4n3kX
下郎の不敬や馬印の話しとかならともかく
幟旗20本を和睦して人質預けた相手に預け惜しみするかね?

国家主義史観に国民を教化した話しを
首脳レベルの外交戦略に当てはめるのも違和感。

「毛利すら主殺しの非道に憤り、奸たる明智誅抜を助けるための
和睦の証しとして、旗20本を授けてくれた。」
みたいなプロパガンダに使用して、日和見している勢力を引き込む。

隆景もそんな使い道を察した上で、秀吉たちの器量に賭けて、
預けたのではないかと、
484人間七七四年:2013/11/22(金) 01:21:18.39 ID:eZ0Ts2P3
プロパガンダと利用した痕跡があればどうぞ
485人間七七四年:2013/11/22(金) 02:18:06.59 ID:8B3VKhDm
旗は毛利が秀吉に預け惜しみする物じゃない
というのは同意したってことか。
486人間七七四年:2013/11/22(金) 06:32:16.52 ID:YMhGHtjq
>>480
毛利側にとっては秀吉と和睦したことが最も重要な事象であり武器等の提供については自慢するまでもない些細な事象だった
と言うことは前にも述べました。
また「信長の死去を知り年の若い下々の者が和睦に反対するも、吉川元春、小早川隆景両氏が諌め和睦に賛成し再度羽柴側と交渉した」
という事象を確実に証明できる史料ですらわずか2つしかありません。
いくら毛利家の史料が豊富といっても細部においては記してないことの方が多いのが実情です。

昨日まで旗を敵だったものに渡すことはできないとのことですが毛利側とくに小早川隆景や安国寺恵瓊は羽柴秀吉と
様々な交渉した関係が10年以上前からありました。
恵瓊などは早くから秀吉を高く評価しそのことを毛利側へ報告しています。
毛利側がこれまでの経緯から秀吉を無道なことはしない非常に信頼の置ける武将として旗や武器を渡してもなんら不思議はありません。
また秀吉側にとって毛利側の旗を受け取るというのは備中高松城攻めにおいて毛利側に勝ったという証明にもなります。
戦利品として敗者側の旗を持ち帰るという事例は昔からよくあることです。
餞別としてはこれ以上ない大変喜ばれる送り物だったことでしょう。

以上のことから筋は通っており武器等の提供の話は可能性としては完全に否定できるものではないでしょう。
487人間七七四年:2013/11/22(金) 17:48:16.61 ID:eZ0Ts2P3
>様々な交渉した関係が10年以上前からありました。〜

書状による外交的な付き合いが長ければ敵でも信頼できるというのは根拠が希薄です。
戦国時代の多くの同盟はどうなりましたか、付き合いの長い武田今川はどうでしたか
付き合いがあってもいやな人とか身近に居ないのですか


>毛利側がこれまでの経緯から秀吉を無道なことはしない非常に信頼の置ける〜

本能寺以前に秀吉を誠意の人と評している毛利側文書があればご教授ください。私は知りません。
輝元が「彼の者達を全て討ち倒し、串刺しにしたい」とぶちぎれている文書ならありますが
毛利側の武将を次々と引っこ抜いたり
上月城で女性を磔にし幼児を串刺しにした秀吉が
毛利にだけは無道を働かないと隆景が認識したという根拠はなんでしょうか
本能寺直後を見れば信長が生きてると偽って誓詞を交換し
6月6日付け輝元書状や隆景書状で「柴田勝家らに背かれて信長が死んだらしい」と
いってるように秀吉は毛利に情報を与えず
秀吉軍は2日に渡って毛利軍を警戒してから引き上げるなど、
毛利が信頼できる人物としてみれる行動を取ってはいませんね。
秀吉視点では安全保障上的確な処置を行ったと評価できなますが


>戦利品として敗者側の旗を持ち帰るという事例〜

逆に言うと小早川は停戦直後にわざわざ敗者の立場を取ったとい訳になりますが
他戦線では戦争が継続中の行動としては利敵行為ですね
これから交渉が続くという面から見ても利敵行為です。
また講和の反対者が毛利内まだまだ多い状態で
家中の方針が定まってないのに(隆景広家安国寺書状等)
行うのは越権行為でもあります。
488人間七七四年:2013/11/22(金) 17:48:56.62 ID:eZ0Ts2P3
さて軍旗の重要性についてご理解いただけないは参りますが
関ヶ原や地黄八幡や近代欧日の例を出しましたので
帝政ローマの軍団旗やシナの話はしつこいのでやめます。
軽視する根拠も出してくれなさそうなのでこれもやめます。

では視点を変えて、鉄砲500挺は正確な数字とおっしゃるので
仮に採用して、ほぼたとえ話になりますが
火縄銃の重要性は各大名が確保に血眼になった各資料を提示しなくても
ご理解いただけると思うので飛ばしまして
火縄銃の充足率は毛利に豊臣期以前の適切な史料がないので他家の平均を拝借すると
だいたい戦闘員の1割となります。小早川軍1万だと1000挺ですね。500挺だと所持数の半数です。
山本浩樹氏算出の吉川小早川両軍で1万を採用すると小早川軍の火縄銃全部にあたります。
また装備数の過半は小早川のものではなく配下の国人のものです。勝手にはあげれません。
実行したなら>自慢するまでもない些細な事象<である訳がありません

戦力を半減させて500挺の火縄銃を気前良く差し出すことがあるでしょうか
まして繰り返しになりますが備中高松の陣が休戦合意しただけで未だ同盟国でもなく
山陰や瀬戸内海ではその後数ヶ月戦闘が継続されてる潜在的敵国以上というかいまだ敵国に
自分に向かって放たれるかも知れない強力な兵器を譲渡する事がありうるのでしょうか
しかも状況的に考えて臨戦態勢でこちらを警戒している相手にです。
まして毛利側は情報が錯綜していて正確な判断材料に欠けている状態です。
どこに筋が通っているのでしょうか
隆景は知将ならぬ池沼でお花畑だといいたいなら同意しかねます。
489人間七七四年:2013/11/22(金) 18:16:52.75 ID:2ljH09UW
490人間七七四年:2013/11/22(金) 19:31:10.08 ID:7Hg4n3kX
池沼ではなく智将だから十年来のやり取りで人柄を知れる。

すぐ逃げ出す農民兵が主力の戦国乱世に
命より旗が大事だなんて道徳が行き渡っていた
なんて持論に固執する人間とまともな議論も不可能だわな。

城を調略したり
立て篭もってた女性や幼児を串刺しにしたから無道とかも何それ?
人権思想?
491人間七七四年:2013/11/22(金) 20:10:56.20 ID:2ljH09UW
>>487
>書状による外交的な付き合いが長ければ敵でも信頼できるというのは根拠が希薄です。

恵瓊と秀吉は実際に会って交渉してますが?

>本能寺以前に秀吉を誠意の人と評している毛利側文書

安国寺恵瓊の報告書を前に提示しましたが?
その報告書で詳しくは口頭でということを書いていますので口頭でいろいろと説明したのでしょう。
また誠意については文書に残らずとも和睦後の秀吉の対応をみれば誠意のある対応をしていることが一目瞭然です。

>毛利にだけは無道を働かないと隆景が認識したという根拠

戦争における凄惨極まりない行為と交渉での無道行為を混同してはいけません。
少なくとも秀吉は武田信玄によく代表されるように他国との契約・交渉において無道行為を働く人物ではありません。

>信長が生きてると偽って誓詞を交換し6月6日付け輝元書状や隆景書状で〜秀吉は毛利に情報を与えず

その書状は秀吉が毛利側に情報を与えなかったという根拠には全くなりません。
そもそも当の秀吉すら何故信長が光秀に突然討たれたのか理解できていない状態です。
また吉川広家の書状で『甫庵太閤記』のこの部分の記述の正しさは証明されていますので
あなたのおっしゃっていることは歪曲した根拠でデタラメを論じているだけです。

>秀吉軍は2日に渡って毛利軍を警戒してから引き上げる

武将としてそのくらいの危機管理をするのは当然の行為です。
和睦して餞別jをもらっただけで相手を無条件で信頼するのは武将として致命的欠陥をもっていると言えるでしょう。

>講和の反対者が毛利内まだまだ多い状態で家中の方針が定まってない

家中の方針が定まったからこそ秀吉と和睦したのでしょう。言ってることが本末転倒です。
あと越権行為と盛んに連呼されていますが主君の輝元の許可さえとっていれば越権ではありません。
しかも隆景は輝元の最重要補佐として許可をとりやすい立場にあります。

>>488
そもそも旗を軽視してたら秀吉が喜ぶような贈り物になりません。
あなたが勝手にそう思いたいだけならどうぞご勝手に。

火縄銃についても毛利軍の全保有量及び配備状況すら全くわからないと定義しているにもかかわらず
他の国人のものを渡さなければならない状況と勝手に結論付けてるのは暴論以外のなにものでもありません。

また秀吉は鉄砲500挺をいきなり気前よく差し出されたらどう思うでしょうか?
表面上は喜んでも内心では毛利は鉄砲500挺を簡単に手放せるほどの鉄砲を大量に保有している手強い相手だと思うことでしょう。
このように相手に自分の力を強大であるかのように錯覚させるような行為は他にも似た事例が数多くあります。
隆景はとくに賢慮ある智将として有名ですので戦略の一環として武器等の提供を行ってもなんら不思議ではありません。

>隆景は知将ならぬ池沼でお花畑だといいたい

それはあなたが思っていることではないのでしょうか?
議論する上において不適切極まりない侮蔑表現であり全くもって儀礼を欠いています。

最後にあなたの歪曲解釈や侮蔑表現が目立ってきましたのでこれ以上は議論の価値がないと判断し
とても残念ではありますが私はこれで退かせていただきます。
492人間七七四年:2013/11/22(金) 20:33:33.69 ID:eZ0Ts2P3
では最後でいいので吉川広家書状のどの部分どの表現が甫庵太閤記の旗鉄砲の記述を肯定しているのかだけお聞きしたい
なんども根拠と言われてるのですからお答えできるはずです。
493人間七七四年:2013/11/22(金) 23:22:35.37 ID:eZ0Ts2P3
答えれませんか。答えれませんよね。意地悪な質問でした。
和議の顛末を語った吉川広家書状には甫庵太閤記を肯定する文言はほぼありません。
逆に甫庵太閤記を否定して川角太閤記を肯定する材料に使えるくらいです。
他の返答もすべてツッコミ所ばかりですが
ご丁寧にご推薦の吉川広家書状と矛盾する箇所まで盛り込んで恐れ入ります。
さて歪曲解釈はどちらでしょう。逃げ口上まで落第点です。
494人間七七四年:2013/11/22(金) 23:26:33.61 ID:IXBFi4Pi
毛利家文書真理教教徒、
これからも電波撒き散らすんだろうな。
495人間七七四年:2013/11/22(金) 23:44:38.08 ID:eZ0Ts2P3
どっちかと言うと秀吉文書の方が得意です
496人間七七四年:2013/11/23(土) 08:01:37.07 ID:xXjNz4nl
>>488
ググったらこんな記事が。

綱成の「地黄八幡」の旗指物は現在、長野県長野市松代の真田宝物館に現存する。
これは、武田氏と後北条氏が対立していた元亀2年(1571年)、
綱成が守備していた駿河深沢城を、武田信玄に対し開城して小田原に去った際、城内に放置されていた物である。
信玄は「左衛門大夫(綱成)の武勇にあやかるように」と、家臣真田幸隆の息子・源次郎(真田信昌)に与えたとされる(『寛政譜』巻655)。
497人間七七四年
>>493
>>494

菅沼遼犬くんこんなことで遊んでたのか
やっぱり下品な性格は隠しきれてないねー