【輝宗】伊達氏を語ろう 2【稙宗】

このエントリーをはてなブックマークに追加
638人間七七四年
減転封と政宗の浪費で伊達は財政崩壊してて、豊臣秀次から大金を借金してたんだよな。
金を恵んでもらって秀次の子分になって得意満面になってたら
秀吉の秀次粛正の巻き添えに巻き込まれたバカ政宗。
政宗って政略の才能が致命的に無さ過ぎ。

左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗に殺されたのであった。

成実の正妻の亘理氏の没年は涌谷伊達家文書の記載の
文禄4年6月4日を現在の日付に修正すると
ほぼ秀次逮捕数日後という結果になるので間違いないと言われている。
このため文禄4年に成実が出奔して家族が殺されたのは確定。
ちなみに出奔前後の秀次自刃あたりで成実本人による成実記の記録も終了。
異本の政宗記などで、それ以後の記録はそれまでのパターンと変わっていて別人が付け足してると言われてる。
亘理夫人と家族を守って討ち死にした武将たち30人余りや家族を想い量り、
政宗への怒りから記録を取るのを一切止めたのだろう。
文禄4年に伏見で成実夫人や家族は政宗に殺され、成実は出奔し成実記の記述もその前後から破棄されていて
現在は謎の空白になっている。
政宗が秀次と謀反を企ているのを危険視した成実が秀吉の元で独立しようとしたので政宗が激怒したとも言われている。

政宗は小次郎を殺した時に弟の守役栗野藤八郎を殺し損ねた。
秀次の会った時に秀次寵臣に栗野木工之助と言うのがいて驚嘆した。
双方が下手に出ると言う笑える展開だ。
栗野はのち政宗が岩出山に帰る時に馬の鞍や帷子を贈り物し
秀次謀反の時はそれが有力な証拠とされ
秀吉の使者は、政宗が土下座して涙ながらに「もはや天命を尽きた。もう諦めた。」と言ったと報告している。
」政宗コト天道尽果、此事最前ニ言上セズ、運ノ極ミナリト申シ、落涙マデニテ、御請ハ申シ上ゲザル由」
絶望の余り落涙しての政宗三度目の命乞い土下座である。