【輝宗】伊達氏を語ろう 2【稙宗】

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637人間七七四年
また秀吉の会津進駐のため、小田原から会津まで「横三間の海道」と「御座所」の譜請という大土木工事が命じられ
伊達氏のみで白河から会津までの奥州側の全区間の高速道路を大急ぎで行う膨大な資金が必要な使役を命じられ
これまでの伊達氏の軍事行動費用の借財や家臣達への棚上げになっていた褒美ももはや不可能となり政宗の信用は地に落ちた。
そんな無理難題に頭を痛めていた時に大事件が勃発。矢田野兄弟事件である。
伊達全軍を挙げて砦レベルの大里城たかが500の籠城に一ヶ月に渡り超苦戦した無能伊達軍

大崎葛西の乱の首謀者として
政宗は今度ばかりは俺も殺されるダメだ・・・あきらめたって
涙ながらに語ったって報告を聞いた秀吉がwww状態になってたし、
秀吉に土下座しに行ったら
自分で煽った一揆の責任と取らされて
米沢・伊達・信夫などの父祖の地を召し上げられたじゃん。
しかも転封先が現在一揆勢が蜂起してる地
政宗が一揆鎮圧に失敗したらそのまま伊達滅亡と言う笑える超展開
実際は鎮圧に強力してくれてありがとう蒲生さん状態www
改易の恐怖から政宗は大崎葛西の遺臣達に褒美をやると山谷に呼び出して、
卑怯にも騙し討ちアチコチでもう必死になって大虐殺をしまくったんだよな。

岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、
石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。

藤木氏によると
国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
南部信直は「畿内ではどんな小物でも主に奉公をよくこなせば、すぐ身分を引き上げられ侍にしてくれるようで、それを見た者たちも我も劣らないように一層奉公した」ように実力本位。
しかし奥羽では「名字をチェックし縁で上に」と言う古い格式と伝統に縛られたもので「古本」「すたり物」と自重した。
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。