【宇宙最強の】織田信長総合スレ【天才】

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934人間七七四年:2009/07/24(金) 19:49:23 ID:1RRcAusV
運がいいだけだろ
935人間七七四年:2009/07/24(金) 20:06:01 ID:7+i/2L+8
強運だったのは確かだが、「運だけ」で渡れる程世の中甘くないのは今も昔も変わらない。
実際信長は不運な目にも何度か遭っている。
信長に限らずだが、チャンスを活かし不運に堪えたから成功したんだろ。
信長信者の過大評価もうんざりだが、きみのような過小評価も、信者達と同じくレベルが低いな。
936人間七七四年:2009/07/24(金) 20:14:03 ID:fGBf/j9t
いいや違うね 運がいいのを認めない奴らがそれを否定するために
宇宙天才の信長という偶像を作ったんだろ

信長は運がよすぎる 
937人間七七四年:2009/07/24(金) 20:27:56 ID:fGBf/j9t
信長の急激な勢力拡大を説明するのに運は欠かせない
それを無理やり分析しようと原因探していきついたのが革命児信長だの
と時代錯誤な現代の願望を歴史に映しこんだような虚像だろ 宗教ともいうか
まずは信長がいかに普通だったかを認識するところからじゃないと始まらん
938人間七七四年:2009/07/25(土) 01:00:58 ID:VGBg7LRJ
信長は、むしろ旧時代的なシステムだったがゆえに、未だ改革過渡期であった時代、
近世的体制への流れについていけない層が雪崩をうって信長陣営に参画し、勢力の
急拡大を可能にした、とも言える。
信長陣営は、軍役さえ負担すれば、後は既得権丸呑みだったからね。

上杉謙信が関東で、プレ近世大名と言うべき北条に対抗して10万の勢力を作りえたのと一緒。
新しい体制はそれが定着するまで、反対者の方が圧倒的に多いのだ。

つまり現代風に言えば、信長は旧守派の糾合者であったわけだ。
939人間七七四年:2009/07/25(土) 04:20:20 ID:oJeA/s1i
>>932
井沢氏の論調は
信長は兵農分離をした、他はしていなかった、という前提からいきなりはじまる。
そしてなぜ信長がそれをできたか〜という理由づけに入っていく。
普通はどういう資料にこうあり、こんな影響がみられ、それは他の大名の資料とはこう違う、
だから信長は兵農分離をしており、他はしていなかった、
それならなぜ信長はそれをできたのか〜、と移っていくのだが
井沢氏が兵農分離を論じるとき、この資料に基づいた立証が行われないまま進んでいく。
当然のことながら当時の軍役について資料に基づいて述べる事も
当時の信長以外の大名達の出陣シーズンを一年を通してみる事もしてない。
ひたすらに最初から信長は兵農分離をした、他はしていなかった、という前提で
文が進んでいくので、当時の軍役や他の大名がオールシーズンで戦ってる事については
あまり触れてない。

天下取りのグランドプランについても、そもそも何を持って天下取りというのかという問題がある。
井沢氏は信長が将軍を擁して京都を抑えるのが革命的だったように述べているが
それ以前に似たような事は大内がやっているし、そもそも将軍位を争う立場の足利一族が
地方の有力大名の力を借りて将軍になろうとしたり権威の上昇を図るのは
室町時代によくあった傾向だったりする。
信長のケースも将軍位争いに敗れた義昭が近場の有力大名である織田の助力を頼んだのが
始まりで、特に革命的な要素とやらはみつからない。
信長は義昭を追放した後も戻ってきてくれるように交渉して断られ
手元に置いた義昭の息子を未来の将軍として立てたり
義昭がその後もしばらく将軍としてふるまい続ける事からも
信長は室町幕府の権威を捨て切れてもいないし、破壊し切れてもいない。
さすがに1582年に近づくにつれて義昭の息子を建てようとするのはやめるようになるが、
それでものちの豊臣政権や徳川政権のように全国を従わしめる全国政権としての論理も権威も体制も
もっておらず、戦国大名領国の枠におさまっていた事は最近指摘されている。
正直な話、信長だけが持っていた天下取りのグランドプランというのは
史実をかなり後付けで解釈しないといけない気がする。
940932:2009/07/25(土) 10:53:17 ID:DNab2egG
>>939
なるほどよくわかりました。
前例のあることだから、と評価しなかったり、では最初にした人に対しては、運が良かった、とかいうのは
どうかと思うけど、井沢の場合は手法自体に問題があるわけですね。
というか事実誤認からはじまっていてはいけないですね。

次のグランドプランなんだけど、「戦国大名領国の枠におさまっていた事」というのは、1582の時点でまだ
統一は完成してないし、回りがそういった状況の中にあった、ということではないでしょうかね。
1568から14年で三職を得るほどの地位に上り詰める、このこと自体がグランドプランの帰結であり
将軍を擁するとかそういうのはその場その場での利用法というか「天下取り」のための戦術の一つで
その分析を持ってして「革命的かどうか」というのはちょっとなんかまた井沢らしい手法自体に問題があるというのかな。

ほんのもう少し長生きしてくれれば家督とかを息子に譲るといういわば伝統的な段階を踏んで織田家の安定を図ってきた
信長が、「この後何を考えていたか」わかったと思うのだけど、研究家の方たちはそういうところまでは踏みこまないのでしょうね。
それはもう史学ではなく仮定、推論、小説家のすることだ、という感じで。

なんだけど、あの新し物好き、自分で何でも試したい、という信長が素直に隠居するわけもないし、やはり将軍にしろ
関白にしろ信忠に譲った後、有力大名からは人質でも取って反乱できないようにする、そうして織田家政権の基礎を固めた後
何を考えていたか、興味あるのですよね。
天下取りというよりはわがままの究極のグランドプランってとこですが。
941人間七七四年:2009/07/25(土) 11:42:06 ID:DVg64UUj
新し物好きっていうか新しいものがたまたま時代的に転がり込んできただけだろ
鉄砲にしろ ザビエルにしろ
942人間七七四年:2009/07/25(土) 13:32:15 ID:VGBg7LRJ
信長は「新しい物」に関してはむしろ慎重かつ保守的だな。既に評価の定まった物にしか手を出さない
慎重さと賢明さが信長にはある。
むしろ新しいものをどんどん取り入れたのは、世間では保守的と見られがちな家康。
家康はとにかく最先端である事にこだわってた節がある。
943人間七七四年:2009/08/07(金) 13:05:47 ID:KIeioG0s
若いときの信長って
押尾学のような感じだったんだろう。
944人間七七四年:2009/09/09(水) 09:21:47 ID:0PUmyeyB
>>942
朝鮮人にも生まれ付き二重はいる
正確に見分けるには顔の表面より骨格を見る必要がある
例えば鼻の下が長かったら、まず間違いなく朝鮮人だと思っていい
945人間七七四年:2009/09/10(木) 15:15:46 ID:mcTPnbxJ
またとんでもないオカルト人種論だな
946人間七七四年:2009/10/21(水) 00:38:38 ID:QT83NjLB
人間生きてる事自体がオカルトなんだよ。わかるだろ

この世の物理法則なんて一瞬のこの時点でのもの、絶えず変わってるんだよ

宇宙の存在からすれば幽霊も超能力も現実に遙かに近い
947人間七七四年:2009/10/21(水) 23:26:02 ID:+tz37Fqh
織田信長は、近隣諸国と商売するにあたって、まず、大規模な土木工事を行い、街道の整備を行ったようです。
そうして、より素早く、より大量に物資を運べるようにしたようです。
そのうえで、密偵を使って、近隣諸国で不足しているものを調査して、他国の商人が商品を運びこむ前に大量にその不足している国に物資を送ったようです。
このため、他国の商人がモノ不足の噂を聞いて物資を運んで行ったときには、すでに物資が飽和していて値崩れしている状態です。
信長の国以外では、敵の進入を阻止するため、わざと街道の整備を放置したり、通行に時間がかかるようにしていましたが、信長はそんな行為は愚かだと考えており、より、民衆が通行しやすいように、道路整備と拡張工事を進めていったようです。
こうした考え方も、織田信勝やそれを支持する国人衆の反発をかっていたようです。
道路を整備したら敵が素早く自国に侵攻してくる。
自国が危機にさらされると考えたのです。
しかし、信長は、道路整備をして、他国より素早く大量に物資を運び、日ごろから近隣諸国より圧倒的な経済規模を保有していれば、より大きな軍隊が養うことができる。
軍事力の基礎は経済力であるのだから、たとえ、攻め込まれやすい道路をつくっていても、圧倒的軍事力を保有していれば、簡単に撃退できるという発想をもっていたようです。
しかし、織田信勝やそれを支持する国人たちは、尾張の精鋭、強兵があればこそ、尾張を守れるのであって、簡単に敵が侵入できるのであれば、何度も敵に攻め込まれ、兵が消耗してしまう。
兵はいったん消耗すれば、育成してお大人になるまで時間がかかる。
そう簡単に尾張兵は育成できるものではない。
と主張したようですが、それに対して信長は、尾張兵が足りなくなるというのなら、他国の者を集めて訓練し、専業の軍隊を作ればよい。
雑兵は訓練し、福利厚生を充実し、負傷したときの保護を保障してやれば、どこの国の兵であろうと、対して変わるものではない。という発想をもっていたようです。
これは、国人を中心とした村社会の人々にとっては、非常に不快な発想であったようです。
それに、日ごろから、流民兵の弱さや逃げ脚の速さなどを知っているので、信長の発想を机上の空論と考えていたようです。
しかし、信長の考えていたのは、それらの者でも生活の保障をしてやれば、十分に軍役衆と同様の働きをする。
土地柄による精鋭と弱兵の差などないという発想をもっていたようです。
そして、その生活の保障の裏打ちになるものが経済力でした。

これが兵農分離の基礎発想です。
948人間七七四年:2009/10/22(木) 01:00:27 ID:2gdrdqe3
>>947
信勝の名前が出て来るとこをみると、尾張統一前からのことを言っているようだね。
悪いが僕は名古屋で郷土史を調べてるんだが
>大規模な土木工事を行い、街道の整備を行った
とか
>近隣諸国で不足しているものを調査して、他国の商人が商品を運びこむ前に大量にその不足している国に物資を送ったようです。
> このため、他国の商人がモノ不足の噂を聞いて物資を運んで行ったときには、すでに物資が飽和していて値崩れしている状態です

なんて事思い当たらないんだが、具体的な街道名や「近隣諸国」名を教えてくれないかな。

ちなみに信長を待つまでもなく、信秀の代から織田弾正忠家は通商に熱心だったよ。
津島、熱田という商業地を押さえてたからね。陸路を整備するより水運で栄えたんだけどね。
現在確認出来る最も古い信長の発給文書も熱田の国人達を保護する内容のものだ。
信勝も信秀の子だからこうした開放策の方針に反対した形跡はない。

つか流通の盛んな地を押さえていた大名達はだいたい同じようなことをやっている。
駿河の今川なんか顕著な例だ。

信長だけじゃないんだよ。
949人間七七四年:2009/10/22(木) 01:56:24 ID:wMk8S0od

この画像が信長に一番近いか?キリスト教西洋人による西洋画の写し・・凄くリアル!

http://www.shouzou.com/mag/p2.html
950人間七七四年:2009/10/22(木) 09:56:31 ID:Bfw8gSOH
>>947
そんでその流民兵なんてものを組織した証拠も
兵農分離なんてものを指示した資料も、
>>しかし、織田信勝やそれを支持する国人たちは、尾張の精鋭、強兵があればこそ、尾張を守れるのであって、簡単に敵が侵入できるのであれば、何度も敵に攻め込まれ、兵が消耗してしまう。
>>兵はいったん消耗すれば、育成してお大人になるまで時間がかかる。
>>そう簡単に尾張兵は育成できるものではない。
>>と主張したようですが、それに対して信長は、尾張兵が足りなくなるというのなら、他国の者を集めて訓練し、専業の軍隊を作ればよい。
こんなやり取りが存在した事を示す一次資料の文献も一切存在しない。
大体晩年にいたるまで兵農分離どころか信長自身が軍役軍役と言い続けてるのだから
軍役衆で軍を構成してたのは明らかなのに。

物資の流通とか掌握とかも
本能寺前の武田征伐の時でさえ「遠陣になるから兵糧を保つために人数を少なくしてね。
でもちゃんと戦えるように力の強い奴を連れてきてね。」とか
わざわざ指示してるくらいなのに。
信長による流通政策はほとんど行われておらず、領地政策も基本丸投げ。
後の秀吉とかと比べて物資の流通・掌握力ははるかに下だった事は明らかになってる。
951人間七七四年:2009/10/22(木) 23:48:05 ID:mWpv8Mc9
>>948
誰も陸路だけだと言ってませんよ。
跡目争いのときは、大々的に街道整備をするだけの余裕はありませんでしたが、まず、港湾の整備から始めました。
しかし、そこで鉄砲購入などを優先すべきだという信勝との対立が激化したようです。
信勝は、最新鋭兵器を買いそろえない信長は時代遅れで頭の固い人間だと思っていたようです。

貿易相手は一番大きいのが美濃ですね。
ついで、伊勢。
駿河には水野を迂回して松平から物資を流したようです。
あと小規模ですが大和との交易もあったようです。

湾岸の近隣の街道の整備をはじめました。
それを見た信勝派は、そんな公共事業の無駄遣いするより、最新兵器の鉄砲だとうと、信長を見て時代遅れだと思ったみたいですね。
売買物資はいろいろですね。
大和に対しては、舶来品や麻の繊維製品を輸出していたようです。
そのかわり、大和から油と酒を輸入していたようです。
美濃への主流輸出品は油ですね。
駿河も油が中心で、金で代金を受け取っていたようです。
その金で、伊勢から堺経由の木綿や舶来品を購入していたようですね。
伊勢に対しては麻製品や農産物を輸出していたようですね。
伊勢からは堺経由の油も買っていたと思います。
奈良は油の生産地だったようですね。
そのため、織田家も重視していたようですが、鈴鹿峠を越えて、陸路だと大量に運ぶにはコストがかかりますからね。
大和から尾張にかけての陸路の陸運をつかさどるために生駒氏は発展したと思います。
952人間七七四年:2009/10/22(木) 23:55:32 ID:mWpv8Mc9
>>950
>一次資料の文献も一切存在しない。
はいはい、資料ね。
資料に書いてないなら存在しない。
資料がないから実証できない。
はいはい、資料。資料。
資料なんていくらでも改ざんできるからね。

織田信雄が信忠の母を書いてある資料を改ざんした可能性があるって論文を読んだばかりだ。
京大の教授の論文だったかね。
少なくとも>>950よりはたくさんの資料を読んでる教授だと思うけど、資料一辺倒になってないのは凄いよ。

資料資料www

>>950に聞くけど、信忠の実母は誰か知ってるかい?
信忠の養母は誰か知ってるかい?
資料に書いてあるかいwww(爆笑)
953人間七七四年:2009/10/23(金) 00:12:29 ID:0DXfXPoy
国人は戦になると兵隊の動員を命じられますが、農繁期や長期遠征で農業労働者を大量に奪われると、農業生産力が極度に落ちます。
このため、君主から動員を命じられた時、すぐに出陣できる専用要員を用意していました。
これが軍役衆です。
建前上はそうです。
しかし、農繁期に彼ら軍役衆が遊んでいるわけにもいきません。
また、農家の次男坊、三男坊などで構成されており、国人の農家一族の中での立場も低い者たちであったため、よく雑用を押し付けたれたようです。
実質的には平時には農作業に従事させられ、農家としても、人件費の抑制のためにも、実質的専業軍人のような雇用体系にはもっていけませんでした。
馬廻り衆は、もともと軍役衆の組織に組み込まれていたもののようです。
戦国大名家自体がもっている直轄軍隊は、自分がもっている領地の田畑の収益で生計をたてている大名家が直接経営している軍役衆の構成員でした。
つまり、大名家が直接運営している田畑の収益で養っている人員以上には直轄軍隊は持てず、それ以外は、同盟関係、契約関係で利害的、姻戚的関係で結びついている国人衆が独立採算制で運営している軍役衆の軍隊でした。
このため、独立採算性の国人の軍隊の構造改革には、国人の主権を侵害するおそれがあり、それらに手をつけようとした、武田信虎は国を追放され、今川氏輝も命を落としたのだと思います。
そうした過去の失敗を参照し、信長は商業収益と港の関税の収益によって、国人から二男、三男を登用し、その育成と扶養は織田家が請け負ったのです。
このため、国人としては教育費や食費の負担を軽減でき、安心してより多くの子作りすることができます。
子供が多ければ、もし、跡取りが戦で死んでも家が絶える危険性が軽減できるので、国人たちからも小姓制度は歓迎されたようです。
元々港の運営と油の既得権益があったからこそ、できたことです。
954人間七七四年:2009/10/23(金) 00:15:17 ID:0DXfXPoy
織田信長は自分が尾張の政権をとると生駒氏などの馬貸が運んできた荷物と馬を城下に一同に集めさせ、より効率的に各地へ運べるよう、荷駄と馬の体力、運送距離を計算して、荷駄の再分配をして配送させていたようです。
尾張に入ってくるすべての荷駄をチェックして再配分するのですから大変な労力であったことでしょう。

本来、一般の大名、国人は、自分たちの自前の運送部隊を作ってものを運ぶことが一般的であったようですが、信長は城下の馬貸を統合して、均等に物流を配分する方式をとっていたようですね。
これは、効率的なやり方ですが、再配分の計算ができなければ不可能なやり方ですので、規模の小さな国人などではなかなかできないことであったようです。
このため、信長配下から送ってくる物資、信長配下に送られる物資はこの統合委託配送のシステムに依存していて、陸運における国人の負担コストは大幅に軽減され、経済的発展につながったようです。
ただ、このシステムが活用できるのは、軍事物資(兵站)、商業物資もしくは、信長に関する物資が中心であったようで、
武士個人の個々の私財の運搬や引越しの荷物などはそれぞれの武士と使用人自身が運んでいたようなので、宅配便のような制度にまでは発達はしていなかったようです。


955人間七七四年:2009/10/23(金) 01:43:52 ID:0DXfXPoy
信長の統治時代、熱田の湊、津島の湊から東に行く荷物は、佐治氏が小分けにして船で運ぶか、佐治氏の護衛付きで東へ運ぶか、熱田か津島に陸揚げして、尾張の商人が買い取り、
それを水野や松平が買い取って自分の領地に運んでそこから他に売るか、という選択肢くらいしかなかったようです。
どのみち、一度、尾張の湊に寄港して、尾張に利益を還元しなければ、東へ行けない。
尾張の湊を無視して、佐治を無視して東に行こうとすると、非公式ですが佐治が海賊に変身して襲撃してくるわけです。
そして、船を沈められて、船主に「ああ、お気の毒に、佐治の護衛を付けていればこのようなことにはならなかったものを。」と佐治の人が告げることになります。
しかし、佐治の護衛といってもタダではないわけで、コストがかかる。
尾張の湊に寄港料を払った上ですからここから東に行くと、格段にコストが跳ね上がるわけです。
今川義元が健在のときでも、駿河が経済的に発展して、京から大量の荷物を発注すると、途中の寄港で関税をとられて、非常に物流コストがかかる。
これに今川義元は非常に苛立ちを感じていたわけです。

そこで思いついたのが村木砦です。
水野領に今川の砦を築き、ここに湊を作って、尾張の湊を無視してこちらに荷を降ろさせる。
そして、佐治のいる海を通らず、水野から松平、松平から今川へと陸路で物資を運ぶ。
こうすれば、今川の経済活動に織田の利益をコミットさせずにすむわけです。
これが成立すれば、尾張から東へいく船の関税を熱田、津島はとることができず、経済的衰亡は明らかだったので、津島衆、熱田衆は死活問題です。
この重要性がわかっていたので、信長はすぐさま、大軍を率いて、最新鋭の鉄砲を装備して全力で村木砦を攻撃したのです。
津島衆、熱田衆も死に物狂いです。
956人間七七四年:2009/10/23(金) 08:25:31 ID:OoCSVAYe
>>952
改竄ねえ。
その改竄とやらができるのはあくまでも
文献のようなもの。
当時に行われた指示である書状を改竄する意味もないし
どうやってやるのか不思議。

信忠の母親がどうだとか信雄の母親がどうだとか
この議論に全く関係ない話だと思うんだが。
第一君が言ってる事自体あやふやすぎてまるで話にならんし。
なんていう教授がなんていう論拠に基づいてなんていう資料を
改竄したといったのか、って事を説明しないと妥当性の検討しようもない。
957人間七七四年:2009/10/23(金) 08:34:02 ID:OoCSVAYe
>>951
>>しかし、そこで鉄砲購入などを優先すべきだという信勝との対立が激化したようです。
だからこんなやり取りどこの資料にあったの。
なんか小説か漫画でも鵜呑みにしてるとしか思えない。

>>大和から尾張にかけての陸路の陸運をつかさどるために生駒氏は発展したと思います。
これも妙な感じ。生駒氏は信長以前から織田家と親密な一族のはず。

そもそも尾張においてはもともと信長以前から、信秀の時代から非常に流通は盛んで
信秀はそれで莫大な財産を得ている。
なんでろくに資料も残ってない信長によるものなのか激しく疑問。

ぶっちゃけ何をもとにしてるわけ?
958人間七七四年:2009/10/23(金) 08:42:28 ID:OoCSVAYe
>>953
またまた空想に基づいてるとしか思えない理論だ。
>>このため、独立採算性の国人の軍隊の構造改革には、国人の主権を侵害するおそれがあり、それらに手をつけようとした、武田信虎は国を追放され、
>>今川氏輝も命を落としたのだと思います。
信虎が何をしたって?信虎が恨まれたのは数多く戦争をしていながら中々領土を拡大させられなかったから。
軍隊の構造改革なんて手をつけていた証拠も根拠となりそうな事象すらない。
武田宗家の直接的武力の拡大として信虎が使ったものとしては上位の足衆だけど
これはそれ以後も信玄時代にも引き継がれてる。
>>そうした過去の失敗を参照し、信長は商業収益と港の関税の収益によって、国人から二男、三男を登用し、その育成と扶養は織田家が請け負ったのです。
小姓制度なんてそれこど信長以前からあるのですが。
謙信とかをはじめとして小姓衆なんて普通です。
959人間七七四年:2009/10/23(金) 08:50:40 ID:OoCSVAYe
>>954
ですからそのようなシステムをつくったとかいう資料や根拠はなんなんですか?
もともと尾張は信長以前から信秀の時代から経済的に発展してるんですが。
商人や職人、流通の掌握に関しては有力な戦国大名なら大抵取り組んでいるのですが
信長の場合は基本丸投げにする傾向が強く、様々な流通再編を行ったのは秀吉です。
なんでかこう、もともと信長以前から尾張では流通が発展していて信秀はそれをもとに
勢力を拡大したのに、それを無視して信長のもとでいきなり経済が発展したという事に
したがるのはなんとかならないのでしょうか。
ろくに資料もないのに。
960人間七七四年:2009/10/23(金) 08:57:27 ID:OoCSVAYe
>>955
村木砦攻防の後でも今川氏は尾張に勢力を進出させていくのですが。
村木砦はもともと織田方の緒川城と織田勢力を分断する為に作られた
付け城だというのが地図をみると一目瞭然な気がします。
961人間七七四年:2009/10/23(金) 09:45:22 ID:dEe1F9Sn
資料や根拠を求めても無駄でしょう。
ネットで検索したら、これらの書き込みは「歴史の泉」http://blog.m.livedoor.jp/ninzya5/というブログのコピーでした
このブログの信長の物語を漫画化している人によると

>さて、この『歴史の泉』ブログを書いていらっしゃる楠乃小玉(前・ねこ太郎)さんは、歴史上の人物やその周辺の出来事を
>色々見る(霊視?)ことが出来る方で、歴史の話はもとより、日々、見たこと感じたことを歴史に限らず綴っていらっしゃいます。

なんだそうです。
突っ込むだけ無駄ですよ。
962人間七七四年:2009/10/23(金) 09:52:51 ID:dEe1F9Sn
ごめんなさい。本人によるブログ紹介を引用すべきでした。

「2ちゃんねるのオーラの泉スレッドに、私がオーラの泉を見て感じたことを 書いたところ、多くのお褒めの言葉
をいただき、 ブログを作ってもっと詳しく書くようにお勧めいただいたので、ブログを作ってみることに
しました。 歴史上で起こった出来事を思念して、実際にはどんな感じだっただろうかと、 考え、頭に浮
かんだことを記述する内容です。 あくまでも私の頭に浮かんだ内容を記述するもので、実際の歴史や
文献と 同じとは限りませんので、その点はご容赦ください。 これまでは、頭に浮かんできたもののみを
書いてきましたが、 これからは、ひまをみて、歴史の勉強もしていきたいと思います。」

実際の歴史と同じでないと本人も語ってるのに…

別人が引用したのか?
963人間七七四年:2009/10/24(土) 21:19:51 ID:qPMC/72R
確かに「前野家文書」は信用できないわ。
信忠の生母については生駒吉野と言われているけど、同時代の文献には織田信忠の生母が記録されていないのは、なぜだと思う?
濃姫の養子になったのは本当だろうね。複数の文献に書いてある。

あと墨俣一夜城も嘘だろうね。
「信長公記」にも書いてないし、未だに信じている人は多いよね、一夜城。
斉藤道三は一代で油売りから国盗りをなしたって信じているのと同じでさ。
学会では笑われるような説を信じている人もいるな。
964人間七七四年:2009/10/25(日) 00:23:31 ID:plWPiOYt
墨俣城は土台を佐々が数ヶ月かけて作った話が他にあるから
一夜ではないにしても城は作ったんだとおもうぞ
965人間七七四年:2009/10/25(日) 08:00:18 ID:yIAcNvDv
土豪未満だった男が、
気がついたら佐々だの前田だの譜代衆と並んで高級将校の一人に参列している。
一夜城や三日普請のような“何か”があったことは事実なんだろうがね。
一体何をやったんだろうね。
966人間七七四年:2009/10/25(日) 08:36:39 ID:rWYOyY/7
金ヶ崎までは官僚的な仕事が多いことから、事務系で頭角を現したんでしょうな
967人間七七四年:2009/10/25(日) 14:39:14 ID:eiP6YzoO
>>964
城というか、砦みたいな物は元々あったと思う。
それをちょこっと手直ししただけでは?

あと「前野家文書」にある秀吉が作ったのも改竄だと思われる。
信長公記にも記載がないし、秀吉はあの時の美濃攻めに参加してないのでは?
968人間七七四年:2009/10/25(日) 17:28:22 ID:UKJ7Nm5r
信長公記は首巻だけに限っては年号の取り違えもあってあまり当てにはできないけどね。
尾張時代の信長に関しては不明な事が多い。
まあ僕も墨俣は秀吉が絡んでいるかどうかは疑問だと思ってるけど。
969人間七七四年:2009/10/25(日) 21:33:43 ID:Bt+KVMoR
前野家文書っていうか武功夜話って言った方が通りがいいと思うんだけど。
武功夜話に関しては戦後の市町村合併で出来た地名を堂々と記してる時点で
製作年代が割れてるようなもんだと思うけど。
しかし>>952は偽書説がさんざん言われてる武功夜話を種にして
史料の信憑性を語ってたのか。本末転倒な気がする。
970人間七七四年:2009/10/27(火) 16:57:15 ID:Uucmbfzs




【宇宙最強の】織田信長総合スレ 2 【天才】
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971人間七七四年:2009/10/27(火) 19:41:55 ID:FkyT15iT
>>969
> しかし>>952は偽書説がさんざん言われてる武功夜話を種にして
> 史料の信憑性を語ってたのか。本末転倒な気がする。

客観的に見れば武功をネタに妄想を膨らませてるんですが、
何せ本人は信長や濃姫の魂と交流し、直接見ているのですから。
ネタ元のブログには着物の色や柄まで出てきます。
そこまで見えるお方ですから、史料なんざ屁の河童ですな。
972人間七七四年:2009/10/28(水) 00:30:55 ID:IlX4Tek6
>>971
武功をネタに妄想って、仮想戦記小説をネタに妄想しているのと一緒なんだが。
973人間七七四年:2009/10/31(土) 00:49:35 ID:i2Rk9Mnc
wikiには信忠の母は生駒氏の女性って書いてあるよ。
嘘なの?
同時代の文献には織田信忠の生母が記録されていないのは、なぜだろう?
気になるな。
やっぱり事実を残せない理由があって、改竄した可能性が高いのでは?
974人間七七四年:2009/10/31(土) 00:50:44 ID:4MECqVTj
>>973
> wikiには信忠の母は生駒氏の女性って書いてあるよ。
> 嘘なの?

正確には「不明」と言うべきだな。
975人間七七四年:2009/10/31(土) 07:09:56 ID:LjzfMxXt
>>973
信長の正室である帰蝶との間に子供はいなかったからね
信忠の母親は身分がそれほど高くなかったのかそれとも早死にしたのか
生駒氏の女性が母親っていうのは結局の所、同時代ではなく後年に書かれた文献
信雄系の顕彰の為とか言われてるね
まして武功ともなると鵜呑みにはできない

不明なものを後の時代に設定つけるのは「改竄」ではなく「捏造」だしね
それでもって同時代の文献の信憑性を疑うというのは本末転倒かと
976人間七七四年:2009/10/31(土) 10:29:05 ID:9mkdn4BI
帰蝶という名前も江戸時代からのものだぜ(笑)

まあ>>975のように批判批評家気取りでも知らず知らず俗説に染まってるんだ。
難しいよな。
977人間七七四年:2009/10/31(土) 19:29:57 ID:LjzfMxXt
>>976
単に道三息女じゃ味気ないからね
978人間七七四年:2009/11/01(日) 11:13:58 ID:CqMO6QfH
>>973>>975
そもそもウィキ自体武功以上に胡散臭いですからねえ。
特に信長の項は出鱈目も多く、彼がいかに誤解されてるかがよくわかります。
信長厨も加筆してるんでしょうね。
979人間七七四年:2009/11/01(日) 11:19:50 ID:CqMO6QfH
例えば「内政」の項

「質の悪い貨幣ではなく良い貨幣を使うよう呼びかける選銭令を発令したり」

なんてありますが、信長はこんなの出してませんよ。
980人間七七四年:2009/11/01(日) 22:27:05 ID:wTkYipjV
>>979
あるよねー、それ。
本当は全然逆の政策なのにね。
しかも失敗してる。
書いた人は何を基にしたんだろうか。
981人間七七四年:2009/11/02(月) 08:22:54 ID:vcZMpNd2
撰銭って鐚銭などを使わず良貨を使用することじゃないの?
982人間七七四年:2009/11/02(月) 09:50:08 ID:B4uT5cOO
>>981
少なくとも信長がやったのは逆。信長がやったのは撰銭禁止令。
撰銭をやる事を禁止し、悪銭とされていた銭にも公的に価値を定める事で
流通貨幣量の増加をはかった。
しかし当時は既に悪銭の増加によって銭の信用性が低下していたこと、
信長自身の権力が安定してなかったこと、それ故に大衆から信用性がなかったこと、
銭の流通を掌握できるほど信長の領域が広くなかったこと、
などの様々な理由から失敗。畿内ではこの政策に反発する形で
むしろ米が現物貨幣になっていく。(信長は米を現物貨幣とする事を禁じているにも関わらず。)
こういった状態から再び銭や金の流通貨幣問題に取り組み、安定的流通の掌握・強化・保証を行ったのが秀吉。
983人間七七四年
信長は経済政策も場当たり的なものしかないからな。
彼の人生を通していえるが、なんに対しても事前のグランドデザインと言うものが全く感じられない。