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三増峠ってどお? :
お久しぶりです。第二幕の「第一次駿河侵攻」が仲々完成できないので取りあえず3つに分けようと思います。
第二幕第一場「第一次薩垂峠の戦い」→これだけ掲載。
第二幕第二場「第二次薩垂峠の戦い」→以降は、次回へ。
第二幕第三場「駿河・伊豆侵攻」
「三増峠の戦い」第二幕「第一次駿河侵攻」
(永禄十一年(1568)12月6日から永禄十二年(1569)4月24日まで)
1.リード
(1).第一次薩垂峠の戦い。
信玄の目的…駿遠支配⇒失敗。
信玄の目標…氏真(の身体確保orクビ)⇒失敗。
信玄の重心…今川家臣・被官(の忠誠心)⇒成功・失敗半々。
(2).第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)。
信玄の目的…駿河支配⇒失敗。
信玄の目標…北条軍を駿河から駆逐⇒失敗。
信玄の重心…北条・今川同盟の打破⇒家康もこれに加わったため大失敗。
結論。第一次駿河侵攻で
得をしたのは…○北条・家康。
損をしたのは…●氏真・信玄。
結果
北条は信玄が(軍事)占領した以外の駿河(の形式的な支配権)を獲得。
家康は、遠江の大半を獲得。氏真は国土を失い、信玄は静岡市一帯・北遠江を獲得。
2.本文
(1).第一次薩垂山の戦い(永禄十一年(1568)12月12日)。○信玄vs.●氏真。
@直前までの両軍の動き。
信玄率いる武田軍は、12月6日甲府を出発し、富士川沿いの駿州往還道を南下して駿河に侵入、
一部の兵は富士信忠・信通父子が拠る大宮城(富士宮市)を攻め(12月9日、第一次富士城攻防戦。武田軍敗退)、
主力軍は北松野(富士川町)から現、県道76号線を通って、薩垂峠・八幡平に陣する今川軍(後述します)を右手に見つつ、
同月12日、東海道の宿場町由比に達した。
対する氏真は、15000を率いて駿府の今川館を出発し、
庵原安房守率いる1500は薩垂峠に、
岡部忠兵衛(のちの武田水軍の大将となる土屋貞綱)・小倉勝久(掛川開城後、家康に仕える)を、その北の八幡平に、氏真自身は興津の清見寺に本陣を置き、主力軍を薩垂峠と清見寺の間に配置した。
A氏真の戦略。
武田軍が東海道(由比〜興津)を行軍中、縦長の陣形になった所を…
氏真本隊が、興津にて武田軍先陣を拘束、
薩垂山(由比〜興津の間にある山)の庵原隊が、武田軍中央を攻撃して分断し、
八幡平の岡部・小倉隊が、武田軍の後方(つまり駿河往還)を襲って連絡路を発ち信玄を駿河に封じ込める
(さらに北条の援軍を要請し、謙信には甲信を突いてもらう)という、壮大かつ積極的なものだったと思われる。
B経過
しかし信玄は、北条軍が到着する前に事を済まそうと、今川一門の瀬名信輝、駿河衆の重臣で庵原城主朝比奈信置、
同じく駿東郡の領主葛山氏元、信玄の弟で氏真に仕えていた武田信友(信虎の十一男。駿河で誕生)などをあらかじめ内応させていた。
彼らは武田軍が薩垂山に近づいた12日、手はず通りに(清水と静岡の間にある)瀬名へ退いてしまったのである。
この「裏崩れ」のため氏真は作戦を変更し、本格的な戦闘を交えずに残兵を率いて今川館へ帰陣するが、
信玄が前もって今川館の詰城である賎機山(しずはたやま、浅間山とも言う。静岡市街北方にある山)城を攻め落していたらしく、
13日未明、駿河を捨てて15日遠江掛川城に逃げ込んだ。この時よほど慌てていたのか、氏真室(氏康娘)が腰を使えずに、はだしで夫に付き従った。
13日正午、駿府に入った武田軍は、氏真をいぶりだすために今川館に火をかけた。
将軍家から拝領した先祖伝来の家宝、蓄えた金銀財宝や兵糧、今川領統治に必要な公文書の一部が、全て燃えた。
火は瞬く間に駿府市街に広がり、とみに応仁の乱以降、
一流の文化人(連歌師宗長)・公家(歌道や有職故実の大家、冷泉為和・為益父子は今川家の食客になっていた)・商人が盛んに往来して、山口の大内文化・一乗谷の朝倉文化と並び称されるほど大繁栄し、栄華を誇った「今川の首府」は灰燼に帰した。
(駿府は江戸時代前期になるまで完全に再興できなかったらしい。)
捕捉説明
なぜ氏真は掛川城に逃げたのか?理由は3つ。
1.あらかじめ氏真が、掛川城に兵糧・鉄砲・玉薬・矢などを3〜5年分蓄えるよう命じていた。
2.掛川城主朝比奈氏は代々遠江衆の重臣であり、かつ現城主泰朝の父泰能の正妻は中御門宣秀娘で、寿桂尼の姪。義元の従姉妹に当たる人物であった。(ひょっとしたら、泰朝の母は中御門氏?)
3.泰能は、かつて大原崇斎とともに三河支配を任せられるほど義元から信頼されており、かつ泰朝は永禄六年(1563)の遠州惣劇でも一貫して氏真に味方していた。
次回「第二次薩垂峠の戦い」へ続く。