【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
織田信長の妻。斎藤道三と明智光継の娘小見の方の娘。
明智光秀とは従兄妹同士という説がある。本能寺の変で薙刀を振るい戦死したという説があるが実際は不明。
「濃姫」という通称は「美濃出身の高貴な女性」という意味である。

道三が「信長侮れず」として政略結婚で妻とさせた女性で、
甘美な果実のようだが毒を含む、いわゆる毒苺的な役目も担ってたという説があります。
濃姫が道三の言う通り隙あらば信長を暗殺しようとする後世の作品・逸話もいくつか見受けられます。

このように濃姫は謎の人物で、史実云々を語るよりも時代小説・大河ドラマなどで
脚色された新たな濃姫像を語る方が多いかもしれません。
色々な作品の濃姫を語ってもらっても全然おkです。もちろん史実の濃姫も大歓迎!
2人間七七四年:2007/10/31(水) 02:35:20 ID:0WOLyXtr
やった、2だーーー(w

今宵も、なぞの女性・濃姫のなぞの人生なぞを考えている


1、乙
3人間七七四年:2007/10/31(水) 16:26:11 ID:bQnjvgz8
【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152424560/

前スレ

このスレはpart2
4人間七七四年:2007/10/31(水) 18:37:47 ID:tckdpolV
>>1
5人間七七四年:2007/11/02(金) 00:33:00 ID:ReJDP/8Y
以前の書き込みが嘘のようなかそぶりだな
6人間七七四年:2007/11/02(金) 13:50:59 ID:vYZEs+X7
濃姫ファンとしては、天寿をまっとうして欲しいが
兄が弟と父を殺し実家は滅び、
側室達はボコボコ子供を産み
夫の非業の死、織田家没落と普通に考えてつらい人生だよなぁ。
7人間七七四年:2007/11/02(金) 16:03:29 ID:z+P7Kgou
実家は滅びといっても、一応道三直系の家は現代まで残ってるし
当時だって信長に召し抱えられて、優遇されているし、
本能寺後も、織田家そのものは残っていて、正室なら普通に庇護されただろうし
大名家のお姫様として育った濃姫が、側室に子供ができるのが辛いと思ったとも思えないし。

道三の死と、信長の死は、やっぱり辛かったかなとは思うけど。
8人間七七四年:2007/11/05(月) 02:04:48 ID:8id45tlc
信長は濃姫の尻に敷かれていました。
9人間七七四年:2007/11/05(月) 06:09:06 ID:XMsB0NI1
信長は濃姫の鼓で舞い、
濃姫の膝枕でくつろぐ。
10人間七七四年:2007/11/05(月) 09:59:55 ID:+vGCZHOA
濃姫と信長がお互いをどう思っていたのかは気になる。

二人の間に子供がないのは、あまり若い頃から一緒に居すぎて
異性としての魅力を感じることがなかったからではないかという説をどこかで読んだけど。
自分もこれに近い状態だったんじゃないのかなあと。
兄弟のような感情はあったんだろうけど、性的な魅力を感じていたかというと
それはどうかなあ。
人間がフェロモンを感じる相手というのは、自分と遺伝子が異なる相手だそうだし。
これは科学的に証明されているらしいね。
もしかしたら、二人の遺伝子が似ていて身内のような感情はもてても異性としての
感情はもてなかった可能性もあるのかなと。
11人間七七四年:2007/11/05(月) 10:38:12 ID:wQKUXAq6
ただたんに濃姫が子供が出来にくい体だったのか

子供が出来ることによって外戚として介入されることを避ける為に
妊娠しても降ろさせてたいたか、初めから行為自体をしていなかったか

信長が男色に夢中で、当初はまだ女に目覚めてなかったか
(子沢山だった割に信忠が生まれたのが21の時で遅めだし)
12人間七七四年:2007/11/05(月) 11:03:12 ID:+vGCZHOA
>子供が出来ることによって外戚として介入されることを避ける為に
>妊娠しても降ろさせてたいたか

これはないぞよ。
不自然な流産や降胎があったらそれこそ斉藤家へわかってしまうでそ。
当時はどこにスパイがいるかわからんのだから。

あと、信忠が生まれたのは信長が23才の時では?
本能寺の時点で信長49才で信忠が26才なので逆算すると。
13人間七七四年:2007/11/05(月) 11:49:42 ID:KUATTjw5
>>12
てことは、信長が側室に手を出したのは道三の死後?
14人間七七四年:2007/11/05(月) 17:32:12 ID:XMsB0NI1
>>てことは、信長が側室に手を出したのは道三の死後?

道三の死んだ翌年に信忠が生まれているから
そう考えられるね。

道三に遠慮してそれまでは濃姫一筋だったのかどうかはわからないけど。
道三からの美濃国譲渡し状で天下を意識しはじめて
子作り専門に側室を持ち始めたのかもしれない。

本当なら濃姫の子供が欲しかったと思う。
でなければ信忠をわざわざ濃姫の養子にはしないだろう。
15人間七七四年:2007/11/05(月) 18:30:58 ID:Ut7Rik0n
信長は嫡男信忠が生まれた後も晩年にいたるまでさまざまな側室との間に
20人近い子供を作ったから単に女が好きだったとも言えるw
もっとも、道三生前は舅に気を使っていたのだろう
若い頃から一緒に居すぎて〜とはいっても、
濃姫が嫁いだとき、信長と濃姫はともに十代半ばにはなっていたと
考えられており、嫁いだときから性交することは可能だった。
当時の女性が十代半ばごろから子供を産んでいることを考えれば、
幼馴染だから異性を感じることなく性交をしなくなり、
それが理由で子供が出来なかったとは考えにくいけれど。
むしろ、男性の性欲のピークは十代後半だといわれているから。
その頃、信長の妻は濃姫一人だったし。
16人間七七四年:2007/11/05(月) 19:08:01 ID:rFAc05CO
濃姫との間に子供がいないために不仲説もあるが、
普通に女性側の不妊なんだろうな。
10代に愛妾がいたら、子作り名人の信長のことだから
それこそ毎年のように子供が生まれていただろう。

10代のお盛んな時期にさんざんやった濃姫との間に子供ができないので
道三死後側室解禁か。

もしかして好奇心旺盛な信長が、
10代に変なプレイで濃姫をおもちゃにして子供を生めない体にしちゃったとかw
17人間七七四年:2007/11/05(月) 19:20:21 ID:q7LcFJ6h
濃姫が子供を身ごもって産んでたとしても、夭逝したら記録にも残らんしな。
姫だったとしたら、母親が正室だったとしても記録はほとんど残らない。

譲り渡し状をもらった事で、子づくり専門に側室を置いたというのは同意だな。
ほぼ同時期に生駒と坂を側室にしているし、冬姫の生母も同時期に側室になったと思えるし。
18人間七七四年:2007/11/05(月) 19:59:15 ID:XMsB0NI1
信長と濃姫が不仲であったら
道三が信長に援軍を送ったり
長良川の戦いでの信長の援軍もなかっただろう。
もちろん譲渡し状もしかり。
また道三末子の斉藤新五の寵用からも
信長と濃姫の関係は良好だったと思われる。

もっとも子作り要員とは言え、
側室には好みの女を選んだだろうし
それなりに愛情を注ぎ
亡くなった時にな涙くらい流したとは思う。
(武功は偽書だと思うが。)
19人間七七四年:2007/11/05(月) 20:15:00 ID:q7LcFJ6h
信忠生母が生駒とは別人と考えると、
ほぼ同時期に信忠生母、生駒、坂、冬姫生母が側室になってるんだよな。
信忠生母が側室になったのが少し早かったのか、
たまたま身ごもったのが少し早かっただけかはわからないが、
時期的にも、信長自身が織田家中で台頭してきて少し落ち着いた時期だから
色んなところから側室を差し出された時期が一致しているのかもな。
全員子供を生んだとも、生んだ子供が生き延びたとも限らないから
実際は他にもいた可能性がある。
弾正忠家の財力を考えれば、そのくらい側室を置いていても平気であったろう。

その後の子供達も、意外と時期的に同じくらいに生まれている子供が多い事を考えると、
戦などが一段落して、戦後処理で側室を差し出される時期が同じで、
側室が増えて閨に呼んで、同じようなタイミングで子供が生まれたとも思えるよな。

身内には甘い信長の事だから、情をかけた側室にはそれなりに遇してたんだろ。
だが、奥関係の乱れた話が出てこない事を考えると、その辺りは配慮したんだろうな。
武将として優秀な人物でも、傾倒する女性がいて、それが記録に残るような事は
よくある事だが、信長の場合はほとんどないからな。
だから、そこから男色好みで女性には淡白というイメージが出てきたりするんだろうが。
20人間七七四年:2007/11/05(月) 20:26:00 ID:rFAc05CO
>>奥関係の乱れた話が出てこない事を考えると

信長の女の扱いがうまかったのか、
利口な女が多かったのかは知らぬが、
妻妾それぞれが己の立場をわきまえ調和を保って生活していたのだと思う。

それに引き換え、松平信康と五徳は失敗したな。
信康は女房操作に失敗し、五徳は夫の側室に嫉妬して夫婦仲破綻。
21人間七七四年:2007/11/05(月) 21:40:57 ID:FtJv86LZ
夫婦仲の本当のところなんて、所詮はわからないことであるし、
ましてや信康事件に関しての夫婦仲なんて断言できないはずだが。
22人間七七四年:2007/11/05(月) 21:50:00 ID:KUATTjw5
>>14
>道三の死んだ翌年に信忠が生まれているから

道三の死の1年後くらいに、謀反起こして逆に謀殺された信行には、すでに二人の男子がいたらしい。
てことは、道三が死んだ後、信長はかなりあせって集中的に子作りをしただろうな。
23人間七七四年:2007/11/06(火) 00:21:09 ID:/1aB5Fzo
斎藤家の連中ってやっぱ諸悪の根源なんでしょうかね?
なんかこいつらってヤバイ匂いがするんだよな
織田徳川の宗門大虐殺も裏に斎藤連中が潜んでいると
イエスキリスト曰く「まむしの子かよ」みたいな連中なんでしょうかね
24人間七七四年:2007/11/06(火) 00:37:15 ID:/1aB5Fzo
とにかく不吉だ こいつら
25人間七七四年:2007/11/06(火) 03:30:45 ID:/1aB5Fzo
神殺し 
26人間七七四年:2007/11/06(火) 09:28:26 ID:Xmp2YQ3q
1aB5Fzo=生駒厨

27人間七七四年:2007/11/06(火) 13:29:06 ID:DhT/QBrU
変なの涌いてるな。
28人間七七四年:2007/11/06(火) 23:38:26 ID:r3w+zHD1
>>26
どっちかっていうと、生駒厨のせいにしたい痛いただの馬鹿、という印象がw
29人間七七四年:2007/11/07(水) 06:09:36 ID:9zQUzTPY
いや、土岐廚かもしれんぞ。(そんなのいるのか?)
30人間七七四年:2007/11/07(水) 07:28:24 ID:IttytKmL
やっぱり資料少なすぎだよな
31人間七七四年:2007/11/07(水) 08:27:42 ID:O4ssist9
戦国無双の濃姫はフェロモンムンムンで抱かれてたい
32人間七七四年:2007/11/07(水) 08:45:51 ID:qukuWaXN
濃姫についての史料はないからどんな女性だったのかも
わからないね。だから色々な妄想が生まれるのかも。
名前だけ聞くと色気がある人のように思えるけど。
意外と中性的な人だったとか。

濃姫って夫に従順な・・と解釈されることが多いみたいだけど
壷事件から察すると意外と気が強かったようにも思えるし
けど、外見的には小柄だったのか、どちらかというとふくよかだったのか
とか、何が好きだったとか何も残されていないのが寂しいよね。
個人的には濃姫は赤い着物が似合っていたような気がするけどな。
(これも濃姫いちごの影響かもしれないけど)
33人間七七四年:2007/11/07(水) 09:36:17 ID:9zQUzTPY
ところで、光秀が濃姫にホの字って設定は
司馬遼太郎の小説だけ?
江戸時代あたりに元になる創作があったのかな?
34人間七七四年:2007/11/07(水) 10:32:02 ID:1oGmrYN0
>23 
諸悪の根源というのはさすがに言い過ぎだし 
現在おられる斎藤家末裔の方々にも大変失礼だと思うが 
江戸時代でも忠臣蔵主要人物の大石母は元助の系統だから 
まぁお騒がせを起こすのが好きというか口より手というかの 
家風だったのかもしれんな。今の末裔さんはわからんけど。
35人間七七四年:2007/11/07(水) 11:10:43 ID:qukuWaXN
>>34
てか、>>23などが斉藤家をそこまで嫌う理由がわからん。
しかもここは濃姫スレだし。濃姫スレで斉藤家をこき下ろすレスつける
って生駒厨しか考えられんでしょ。しかも前スレにも、信長が斉藤家と縁を
結んでかわいそう〜などの書き込みもあったし。明らかに悪質という他ない。
36人間七七四年:2007/11/07(水) 14:58:23 ID:kA8UlZSc
ただの煽りでしょw
自分の都合の悪いことを書かれると
すぐに生駒厨と書き込まずには居られないのも
同じ穴の狢。あなたも同類の荒らし。
放置しときゃあいいのにw
37人間七七四年:2007/11/07(水) 15:18:20 ID:+qeItg4S
>>33
完全な司馬の創作だよあんな物
信長が農姫に「光秀が好きか?」と問いただす場面には
あきれ果てて物も言えんよ
38人間七七四年:2007/11/07(水) 16:07:11 ID:qukuWaXN
>>36
生駒の名前が出るとごちゃごちゃいうあんたも同じじゃ!
えらそうに人のこといえるんか〜
読んでて気分悪くなる書き込みは、
斉藤家末裔の人にも失礼だと言ったまでだが。


>>37
濃姫の字が違っている時点で説得力なし!
39人間七七四年:2007/11/07(水) 19:04:09 ID:biT54GCc
高橋幸治や役所広司の信長なら脇目もふらず一生をささげるが
舘の信長じゃ不倫でも駆け落ちでもなんでもいいよ。
魅力ないもん。
でも相手は坂東三ちゃんじゃなくて近藤正臣光秀にしてね。

>農姫
なんか居室に大根や米俵積んでいそうな姫様だな。
40人間七七四年:2007/11/07(水) 20:36:51 ID:9zQUzTPY
確かに去年の大河はストーリー以前に配役にがっかりだった。

自分は「国盗り物語」の光秀が濃姫に淡い初恋を抱いていたという設定好きだな。
道三の後継者である信長と光秀。
濃姫は道三の大きな遺産の一つ。

もちろんフィクションであることは十分承知の上だけど。
41人間七七四年:2007/11/07(水) 22:09:40 ID:bp473VgK
自分は役所さんの信長が良かったなあ〜
あれ見て信長ファンになったぐらいだし。
自分はその後役者の役所さんに惚れてしまい、彼の出る映画・ドラマは
ほとんど見るようになったし。
あの時の濃姫役の人も良かったね。個人的には和久井映見は好きだし良かった
けど、信長役はちと・・まあ、信長はあくまでも一豊の引き立て役だし
脇だから別にどうでもいいけど。
風林火山には信長はやはり出ないのかな。声だけ?ちょっと寂しい気が・・
でも今回は今川義元役の人、かっこいいからいいね。次回はこの人に信長役
を演じて欲しい。
再来年は誰やるんだろうね、信長役。直江が主役だとあまり出番ないか。
また変な役者さんになりそうだね。
42人間七七四年:2007/11/07(水) 22:41:00 ID:9zQUzTPY
自分は小学生の時に見た「黄金の日日」で
高橋幸治の信長が刷り込まれちゃった。
役所もはまっていたけど、「影武者」の隆大介も捨てがたい。
役所の時の濃姫は藤真理子だね。
彼女も良かった。
「太閤記」のDVDを買って見たけど、これの濃姫も良いよ〜。
ちょっと年増だけど、この時代の女優さんじゃないと出せない雰囲気だ。
信長に「お濃(おこい)」と呼ばれている。

43人間七七四年:2007/11/08(木) 00:00:45 ID:OhIDahRZ
>>42
高橋幸治の相手役の、お濃い姫役は誰だったんですか?
44人間七七四年:2007/11/08(木) 01:47:11 ID:SBWv8Jy1
やっぱり濃姫といえば、松坂慶子だよ
これで決まり
45人間七七四年:2007/11/08(木) 02:19:22 ID:JJJwoKVa
>>43
42じゃないけど・・・ 稲野和子です。

高橋幸治の織田信長最高でした。
ストイックで。 声が凛として。
46人間七七四年:2007/11/08(木) 06:25:50 ID:2YxHDaF6
稲野和子さんの濃姫、若い女優さんが48歳の濃姫を演じたというのではなく、
リアル48歳の濃姫に見える。
こういった気品やたおやかさって、今の女優さんにはないなあ。

>>44
松坂の濃姫は記憶にないので今度DVD買ってみますね。
きれいだろうな。

>>45
高橋幸治氏はもう神がかり的な信長ですよね。
「黄金の日日」に濃姫は出てなかったのが残念。
47人間七七四年:2007/11/08(木) 09:28:26 ID:27JFGS6s
松坂慶子の濃姫、DVDレンタルして見たんだけど
可憐なお姫様という感じで可愛かった。
でも、本能寺の時に信長と一緒に泊まるんだけど
その頃になってもいつまでも可憐なお姫様という感じで・・
ちょっと違和感あったなあ。嫁いだ頃は可憐なお姫様でもいいんだけど
本能寺の頃には嫁いでから30年以上経ってるわけだし
もっと「かみさまらしく重々しく〜」ないといけないんじゃないかなと。
途中で役者かえたらいけないのかねえ。
でも濃姫演じた頃の松坂慶子は20歳ぐらいだったんだっけ?
松坂慶子といえば、「江戸を斬る」のおゆき役の頃すごく好きだったな。
カッコ良かった。あの頃のような面白い時代劇が最近少ないのも寂しいよね。

信長役は高橋幸治が良かったと聞いたんですが、自分は見たことないんで
自分の中ではやはり役所広司かな。
大河って秀吉主役は結構あるけど、信長・家康主役って一回だけだよね。
もう一度信長主役でやってほしいけど、そういう時に限っていい役者さんを
使わないんだよね。配役をもっとちゃんとして欲しいよね。
話もなるべく史実にそった話にして欲しいし。
48人間七七四年:2007/11/08(木) 09:58:13 ID:Hz6SJRGC
まあ今の松坂慶子は親父が朝鮮人だから、朝鮮人特有の頬骨が顕著だが
濃姫を演じた頃はそれほどでもなかったな
全体的に肉付きが今ほどではなかったので、目もぱっちりしてたし
整形にも限界があるようだ
49人間七七四年:2007/11/08(木) 12:44:27 ID:dmT1IXgP
信長の次男信雄が改易された際、五徳は尾張小牧に移住しましたが、
これは母方生駒氏の本拠地だったから、というのは正しいのでしょうか?
正しければ、信雄と五徳は同母ということになります。
さらに、前田家へ嫁いだ永姫が信雄の娘を養女としたのも、
母方の生駒つながりで信雄と特に親しい姉妹だったからでしょうか?
詳しい方、お願いします。
50人間七七四年:2007/11/08(木) 13:54:59 ID:27JFGS6s
>>49
>信長の次男信雄が改易された際、五徳は尾張小牧に移住しましたが、
>これは母方生駒氏の本拠地だったから

すみませんがこれは、どこにそう書かれているのでしょうか。
徳が移住したのは秀吉の命によるものと聞いていますが・・
その理由に生駒の本拠地だったから〜と記載されているのでしょうか?
その後また秀吉の命で徳は京都に移住して最後は京都で亡くなって
いますし、生駒の本拠地が理由なら、なぜわざわざ秀吉は
京都に移住させたのでしょうか?
51人間七七四年:2007/11/08(木) 19:32:44 ID:P8FsC8sG
生駒家の本拠地は尾張「小折」
小牧とは別の場所。
52人間七七四年:2007/11/08(木) 19:42:22 ID:IK5DtGjB
地図で確認したわけではないのだけど
生駒ってたしか木曽川系で活動していた土豪だよな?つまり尾張美濃の西側。
一方の小牧は信長が東美濃経略のためにうつした土地だったのでは?
5349:2007/11/08(木) 20:47:07 ID:dmT1IXgP
すいません。
文字を間違えていました。
信雄が改易された際、五徳が移住した場所は尾張小折です。
信雄と秀吉が講和した際、五徳は人質として秀吉の下に差し出されて京都に住み、
信雄が改易された際にいったん尾張に戻された後、
再び秀吉の要請で京都へ行き、京都で亡くなったようです。
兄が改易された際、五徳が戻された場所は尾張小折です。
54人間七七四年:2007/11/08(木) 21:07:48 ID:P8FsC8sG
小折に住んだ理由は秀吉の指示。
これは史料が残っている。
徳姫が生駒腹だからかどうかは不明。
ただし、信雄が生駒腹なのは確定。
徳姫の出身が生駒でなくても、信雄絡みで
秀吉に処遇を自由にされているため
生駒と関係なくても、信雄に繋がりのある地に
居住させられたとしても不自然ではない
生駒腹だから小折に住まわす事になったと
一次史料に出てこない限り、徳姫の生駒腹は確定できない。

個人的には信雄、徳が生駒腹。
永は別の生駒女子の腹だと思っている。
55人間七七四年:2007/11/09(金) 04:37:15 ID:62MxDv7j
「加納口の戦い」なんとかしろ 斎藤衆
5千人も織田の犠牲者でてるぞ おい
56人間七七四年:2007/11/09(金) 07:18:22 ID:8m86fYCN
濃姫が信長の軍師だって信じてる奴いるんだろなやっぱり
57人間七七四年:2007/11/09(金) 08:47:38 ID:zF6gZbgK
>>55
煽りにマジレスするが、
美濃に侵攻したのは織田側。
意外にも道三は他国を攻めたことがない。

なんか変なのが常駐しているね。
58人間七七四年:2007/11/09(金) 09:05:24 ID:/xOz6mN7
斉藤家をこき降ろすことによってしか
存在意義を示せない馬鹿な連中だよ。
気にすることはない。
その連中の正体もわかってる。

どんなに煽っても信長にとっては
斉藤家>>>>>>>>>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>生駒家
だしな。

くやしいのぉ〜w くやしいのぉ〜
59人間七七四年:2007/11/09(金) 13:05:51 ID:d5J57J4Q
武功の生駒吉乃のファンはファンで良いと思う。
ただ武功は創作で史実ではないし
吉乃という名すら武功の創作。
その事実をふまえた上でファンをやっててくれ。
そしてこんな所へ毒を吐きに来ないでね。

やんごとなき姫君>>>>>>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>馬借の娘

60人間七七四年:2007/11/10(土) 01:23:04 ID:5dRQnK78
つうかこれ以上くだらん論争するなら他所でやるか 
専用のスレを作れよ。ただし、斎藤VS生駒なんてのは無しでな
61人間七七四年:2007/11/10(土) 10:16:34 ID:C50irwnm
このスレ、もうネタ出尽くした感あり。
生駒厨が来ると活気づく悲しさ。。。
62人間七七四年:2007/11/10(土) 10:37:43 ID:BPrRnvX5
つか生駒厨ですらないでしょ。

濃姫オタの痛い人間が生駒厨演じて怒りの矛先向けようとしてるだけか、
それかただの荒しがやってるだけ。
63人間七七四年:2007/11/10(土) 11:59:23 ID:juvdyodo
吉乃って、蜂須賀小六の親戚(いとこ?)と聞いたことがある。

秀吉も吉乃の「つて」で、織田家の足軽になったと聞いた。
64人間七七四年:2007/11/10(土) 12:20:44 ID:/PdoAV04
>>63
またネタかよw
大体が「吉乃」という名前すら創作だとされているんだし
秀吉の仕官の話も創作だろ。
なんで、架空の人物の「つて」で仕官出来るんだ?
そんな話どこの秀吉関連史料に載ってるというんだ。
蜂須賀小六の親戚(いとこ?)だというのも
信秀正室が生駒の親戚というのと同じくらい信憑性の無い話だが。

しかし〜ここまで生駒側が信長と縁続き〜を捏造するのは醜いな。
なんでこんなに捏造だらけの話を宣伝しているんだ。
いいかげんにしろ!!と感情的に叩かれるのもこれだと仕方ないよな。
捏造したもん勝ちって風潮をなんとかしないとな。
信長史が嘘で塗り固められていくのはどうしても許せない!!!!
65人間七七四年:2007/11/10(土) 12:32:45 ID:5dRQnK78
では真実の信長史とやらを教えて頂きものだ。
66人間七七四年:2007/11/10(土) 13:38:18 ID:qrdx0X5a
そろそろ史板に帰ったらどうだ。>>64など帰蝶に全く関係ない長文だぞ。
67人間七七四年:2007/11/10(土) 14:47:11 ID:EEGJgpj1
濃姫との間に子が生まれていれば織田家は安泰だったろうに
68人間七七四年:2007/11/10(土) 15:00:34 ID:As2JNWUl
信忠の立場がないな
立派な濃姫の息子だぜ

まぁ、運がよければ(史実の)信忠の役回りを演じるだけだろう
(史実の)信忠より才能が劣れば、本能寺は起きず、
織田の天下だったかもしれん
69人間七七四年:2007/11/10(土) 15:12:37 ID:TRpr1ze2
濃姫が信長生前に亡くなっていたら、どこに濃姫の墓があったとしても
信長の葬儀の時に総見院の同じ菩提の中に濃姫の供養塔だけでも建てられたん
じゃないか?
俺は離縁説が濃厚だと思うけどね。
信長死後まで生きていたというなら、信長御台の処遇があまりに疎か。
その後権勢を思うがままに手にいれた淀殿だっていたわけで、淀殿にとって
義叔母であり、秀吉にとっても主筋の御台である信長御台を粗末に扱うわけもなく、
織田家の没落で信長御台が困っていたら何かしらの援助はしたと思う。
淀殿がらみの史料はたくさん残されているのにそっちからもなんの消息を
示すものがない。
淀殿は信長の法要の施主をしたこともあるのだけど、
御台を差し置いてなぜ淀殿なのか?という疑問もある。
70人間七七四年:2007/11/10(土) 16:52:52 ID:/PdoAV04
秀吉の協力者でもない濃姫がなんで秀吉がむりやりつくった
総見院で法要をしないといけないんだか・・
信長の法要なら他の寺でも行なわれているだろ。
いくら織田家が衰退していたといっても、濃姫がなんで秀吉の世話にならないと
いけないんだか・・濃姫は嫁いだ時の化粧料もあるんだし信雄から知行をもらっていた
としたら充分生活できると思うんだが。
あと、信長が濃姫を最初から離縁するつもりだったなら信忠を濃姫の養子にはしないと思うが。
全く意味ないだろう。信忠は濃姫の息子として亡くなっているんだがな。
濃姫と離縁したため、信忠を養子から実子に戻ったという記録があるなら話はわかるが、そういった
記録もないんだし、信長生前の死亡の記録も全くないんだが。
71人間七七四年:2007/11/10(土) 19:09:39 ID:AQG/y4hZ
せめて本名ぐらい判明しないかな。
72人間七七四年:2007/11/10(土) 19:10:45 ID:TRpr1ze2
>>70 でも濃姫が信長死後も生きていたという記録も全くないだろ?
それなのになぜ真っ向離縁説を否定できるんだ?
論じていること全て史料もない推測でしかないのに。
織田宗家も信雄系織田家も秀吉の支配下にあったのは紛れもない事実なのだから
濃姫一人が逆らって生きていたと確証はどこからきたもんなのかな?
それに信忠の養子になった後に離縁されたところで問題ないだろ?
信忠が正室の養子という事実は離縁後も変わらない。
信長がその後継室を娶った事実がないのだから揺るがないことだがな。
73人間七七四年:2007/11/10(土) 20:18:54 ID:+ZWYYR7p
そもそも離縁する理由がわからないけど
74人間七七四年:2007/11/10(土) 20:38:45 ID:yvJ4eoKn
光秀の従姉妹らしいじゃん 濃姫
75人間七七四年:2007/11/10(土) 20:44:09 ID:J8AzQN8o
逆に離縁したというのなら、記録が残らないほうがおかしいんだが。
76人間七七四年:2007/11/10(土) 21:05:04 ID:BPrRnvX5
>>75
離縁したなら記録に残らないほうがおかしい。
と同時に、道三の娘であり信長の正室の地位にあった女性なのに
離縁どころかその他の情報も一切が謎のまま。

離縁の記録がないから離縁は有り得ない、そんな考え方はおかしいってよりも
まるで存在しなかったかのように完全に信長室というポジションが空白のまま
でいるという感覚がすでに「おかしい」んだと思う。
勿論、御台がどうのという文献はあるけれど全て消去法による=濃姫なんだよね。
御台=斎藤殿というストレートに一発でわかるようなものがない事がもどかしいなぁと思う。
77人間七七四年:2007/11/10(土) 21:39:37 ID:+ZWYYR7p
うーん

実は濃姫は病気で亡くなっていたが、
美濃統治のためにも信長には濃姫の存在は重要だったから
影武者をたてて、でも表にも出さずに・・・・・・

うん、オレには文才はないらしい(妄想力?)
78人間七七四年:2007/11/10(土) 23:51:25 ID:5dRQnK78
つうか別居生活だったんじゃないかな…。 
仲が悪いからとかのネガティブ理由じゃなく、 
お濃の性格が自由奔放を好んだからとか 
どんなに戦国とはいえ兄弟と違い、親である父を殺すというのは 
周りへの印象も縁起も決して良くないから 
その妹ということで城中からは身を引いていたとか 
父と兄の業の為に信長に黙って勝手に出家しちゃって 
頑固なまでに還俗をつっぱのけてたとか…。 
 
そんで、信長もお濃に関しては父は殺されるわ、兄は父殺しだわ 
子供ができず肩身が狭いしで可哀想に思って? 
とりあえず好き勝手を認めて、反面、斎藤家とのパイプは 
切りたくないし、お濃と同等なそれなりのかみさんが 
やはり必要になってきたから馬場殿事件発生とか…。
79人間七七四年:2007/11/10(土) 23:54:46 ID:/PdoAV04
>>72
そもそも信忠を濃姫の養子にしていることからして
濃姫を離縁する理由がないけど?
しかも、濃姫を離縁したんだったら濃姫の養子になっている信忠は
織田家嫡男としての資格が無いことになるんだが。
その辺り矛盾してるよ。
また、離縁したならなぜそう書かれないのか。信長の父の信秀でさえ
名古屋史にだが、最初の正室とは離縁したとか記録にあるのに。
信秀よりもずっと有名になり、天下人となった信長正室に何か変化があれば
記録されるはずだが。しかも信忠養子の件にしても信長の娘婿の家臣が書いた
記録にあるんだしな。知らない筈はないし、そんな重要なことが記録にないのがおかしいだろ。

>>76
濃姫の史料がほとんどないのは仕方ないかも。織田家の史料自体が他家が作成したものが
ほとんどだから。織田家宗家を継いだ三法師の記録さえ満足に残されなかった位だし。
三法師の妻子の記録なども、織田家庶家には満足に伝わっていなかったそうだし。
信長の母親にしてもはっきりと出自を示す史料も織田家にはないし。
いずれも他家の記録に残されるのみだしね。
お市のように二度も城落ちするなど波乱万丈な
人生だったなら記録に残りやすいのかも知れないけど、
当時は女性の記録は残されないことが多いから。
濃姫の生母の小見の方さえ、道三死後どうなったかとか記録ないんだし。
言継の日記に信長が小見の方を訪ねたらしいことが書かれているから
美濃に住んでいたことは確かなんだろうけど。

せめて、三法師で絶えずにあと何代か宗家が続いたなら何かしら記録が残った可能性は
あると思うけど、関が原後既に宗家は無くなってしまったわけだし、その宗家を継いだ
三法師やその養祖母のことなどを記録にまとめたりする人も特にいなかったんだろうね。
政治の表舞台から退いたから、織田家宗家のことを記録する必要がなくなり
その後の消息なども不明になってしまったんではないか。
80人間七七四年:2007/11/11(日) 00:33:15 ID:YOh1Mnjj
戦国時代のセルウィリア
81人間七七四年:2007/11/11(日) 09:24:19 ID:UeexcoSR
>>76 >>完全に信長室というポジションが空白のまま
でいるという感覚がすでに「おかしい」んだと思う。

なにもおかしくないよ。
家康だって秀吉との政治的なかけひきがなければ旭を娶ることなく
築山死後は正室不在のままでいただろうさ。現にあの段階まで
正室不在でいたのだから。忠興もガラシャ死後は正室を娶ってない。

嫡子をもうけて、後継者ができたらもはや正室はいなくてもなんの問題も生じない。
政治的に政略結婚が必要となれば、ある程度の年齢になった子供たちを駒にすれば
いいだけ。

>>79 >>濃姫を離縁したんだったら濃姫の養子になっている信忠は
織田家嫡男としての資格が無いことになるんだが。

なんでなくなるんだよ?
正室の養子となったのなら後から側室に何人子供が生まれようが
立派な嫡子じゃないか。
離縁や死別したことで、正室の子供に正嫡性がなくなるとでも?
その後仮に継室を何人もらおうが正室の子は嫡子だよ。
離縁しようが死別しようがね。

離縁の記録がないということもさほど疑問はないがな。
だって亡くなったことの記録だってどこにも残されてない。
信長死後どこかでひっそり亡くなったが記録も戒名も伝わらないのは、織田宗家も
斉藤家も断絶してしまったという理由で納得できるなら
離縁の記録が織田家にも斉藤家にも残されていないのは当然じゃないか?
82人間七七四年:2007/11/11(日) 11:03:23 ID:wiZc6phn
>>81
離縁されても正室の子供は嫡子でおかしくない、というのはあくまで正室本人が
産んだ場合のみじゃないの。
信忠の場合は、庶子だったんだしまあ別にそのままでも織田家嫡男として信長が
決めたなら立派な跡継ぎなんだしね。だけど、なぜかそのままでもいいのにかかわらず
わざわざ濃姫の養子にしているということからして、離縁するつもりだったとは
考えられないけど。
濃姫が織田家と無関係となれば、その養子になっている信忠も織田家と無関係になるし。
なんで信忠を濃姫の養子にしているかを考えると、信長の息子という立場よりも
濃姫の息子という立場の方が都合が良かったからではないのかな。
だとすると、濃姫の養子にしてから濃姫を離縁するのは全く織田家として意味が
ないんでないの。
それと、離縁の理由は?全く根拠がないと思うんだけど。
道三の敵を討ち、美濃国も手に入ったし美濃斉藤家が織田家の家臣になったことで
信忠を養子にした、濃姫を離縁する理由が見当たらないけど。

あと、正室不在だったというなら本能寺後に安土から逃げる人の中に
「北の方」「御台所」と記載されているのはなんで?
記録がないから離縁だとか死亡だというなら、正室がいたという記録があるのに
それを考慮しないのはなんで?
君の話は都合のいい妄想としか考えられないが。

それに、信長生前に離縁なら記録に残らない方が変だと思うが。
また、それなら斉藤家の菩提寺にも濃姫らしき墓や位牌などがあっても
いいのだがそれもない。道三系の末裔は今でもいらっしゃるのに
斉藤家の菩提寺も現在でも存在しているのに、実家へ戻ったというなら
それらしい記録があってもいいのにそれもない。これはどう考えてもおかしいと思うが。
信長死後に亡くなったなら、記録からもれることもあると思うが、
信長生前に亡くなったというなら、記録からこれだけもれてしまうのは
おかしい。

83人間七七四年:2007/11/11(日) 11:49:57 ID:UeexcoSR
>>82 離縁されても正室の子供は嫡子でおかしくない、
というのはあくまで正室本人が産んだ場合のみじゃないの。

なんでそんなこと勝手に決めてるの?
養子縁組がそんな希薄であっさり反故にされるのなら、制度の意味がないじゃん。
豪姫は秀吉の死後まで秀吉の幼女として扱われてたけどね。

>>正室不在だったというなら本能寺後に安土から逃げる人の中に
「北の方」「御台所」と記載されているのはなんで

史料によってはまったくそんなこと触れてないものもある。
信長公記は安土にいた女性に関しては「御上臈衆」としかでてないし、
蒲生氏郷が後に伊藤半五郎に送った手紙には「信長公御目懸衆二十人余〜」
を日野に引き取ったとしか書いてない。

全ての史料にそう書かれていたわけでもなく、明らかに日野に信長北の方が
いたというその後の消息を示すものもなく、なぜなんの疑いもなく
信じることができるの?
一方的に私の主張を妄想と断言することができるのか不思議だね。

だいたい離縁後の濃姫がすぐに亡くなったと決めてるのもそもそも妄想
以外のなにものでもないな。
誰かと再婚し、寿命をまっとうしその家も没落してしまっていたとしたら?
その場合斉藤家の菩提寺に濃姫の墓がある可能性が極めて低い。

義龍の治世に実家に戻ったとしたら、あの若さですぐに亡くなったとするよりも
すぐにどこかに嫁がされた可能性のほうがはるかに高いだろうに。
離縁後早世と思い込んでいるのはなぜ?
84人間七七四年:2007/11/11(日) 12:25:01 ID:RkySHgtd
信長が寡夫であった、ていう証拠を探す方が楽じゃないか?

その証拠があれば、少なくとも濃姫とは離縁・死別したという事実は特定できるから

信長が寡夫であるという事実は、織田家のみならず、
当時の政治状況的には非常に重要でしょう、当時の他勢力にとっても

どこかしらに、その旨の記載はあるんじゃないの、離縁・死別したっていう
(信長は寡夫だから、継室に自分とこの娘を・・・とかさ)
85人間七七四年:2007/11/11(日) 12:28:25 ID:CrJNF+WY
>>83
> 義龍の治世に実家に戻ったとしたら

揚げ足取るようだが、父を殺した兄の元に帰るのはありえない。
86人間七七四年:2007/11/11(日) 13:02:55 ID:A9/vADHr
>>81
>離縁の記録が織田家にも斉藤家にも残されていないのは当然じゃないか?
おかしい。
「織田家」から離縁したのなら、そのことが織田家の記録にないのはとってもおかしい。
「離縁後の記録」が織田家に残っていないというのなら、別段おかしくもない話だがね。
87人間七七四年:2007/11/11(日) 13:58:39 ID:wiZc6phn
>>83
濃姫が再婚はありえない。だって父親が亡くなっているから。
当時は父親が亡くなり、後ろ盾の実家が亡くなった娘にまともな嫁ぎ先が
あるわけもない。
また、信忠を養子にしている濃姫が織田家を出て他家へ嫁ぐなんて
ことがあるわけない。
それに濃姫を離縁するなら信忠を使って養子縁組を結ぶ理由もない。
君は信長が一体何のために信忠を濃姫の養子にわざわざしたかという
理由に答えていない。
濃姫を離縁したとしたら、織田家の正室として濃姫は必要なかったということになるが
それなら、信忠を養子にする理由が全くないのだが。
なんか記録もろくすっぽないのに、やたらと離縁説を持ち出しているが
根拠がなさすぎる。
信長が斉藤家美濃衆を、外様であるにもかかわらず尾張衆と同等か
それ以上に優遇しているのに。
斉藤家美濃衆が信長に謀叛を起こしたとか、信忠に危害を加えたとか
いう事情があるならわかるが、そんな事実は全くないんだしな。
信長がそこまで濃姫を邪険にする理由がそもそもないんだが。

あと、安土から逃げる人の話には正室がいたとはっきりわかる書き方をしていない
文書もあるが、しかし圧倒的に正室がいたと明記されている資料が
複数あるにもかかわらず、安土に絶対にいなかったと主張するあんたの方が
すごーく変だが。
88人間七七四年:2007/11/11(日) 14:06:07 ID:wiZc6phn
あと、付け加えるなら壷事件の頃に信長本妻として濃姫のことが
記載されているから、義龍時代に実家へ帰されたということも
ないことがわかる。
まあ、父を殺した男の所へのこのこ帰るような馬鹿はいないだろうしな。
信長にしても、せっかく国譲状をもらったのに
切り札として濃姫は手元に置いておいた筈。よってこの段階で離縁はありえないと思うね。
89人間七七四年:2007/11/11(日) 15:50:40 ID:NbGL//OC
>>86
そもそも織田家の記録ってなんだ?
三法師の記録すら曖昧なものでしかないというのに。
そんな立派に体系化されたものがあるの?
どこの家に伝わっているのか知りたい。

>>87
父親が亡くなったら家督を継いだ兄が後見人となって妹達の面倒をみるものでは?
後家になったお犬は信長が嫁がせているぞ。
父親が亡くなったから再婚がありえないって…それはありえない。

養子にしたのは、濃姫に男子が生まれなかったからという史料そのままの
解釈でなんでいけないんだ?嫡子がいなかったので、出自に問題のない側室の
産んだ長子を嫡子とした、というだけだろ?その後仮に濃姫に実子が
生まれたところで家督相続前なら、家督は実子が優先になる。
生まれなければ信忠が自動的に嫡男になるだけ。
濃姫とわけあって離縁したところで、信長が継室を娶らず、
嫡子をもうけられなかったら、先妻の嫡子である信忠が嫡男となる
ことになんら問題もない。

国譲状なんて道三亡き後はそんなものがあってもなくても美濃攻略をしただろうさ。
父親の代から戦が絶えなかった間柄で、濃姫との縁組によって同盟関係にあった
だけにすぎない。美濃国が滅んだのはなにも信長の攻略ばかりが原因ではなく
義龍親子の治世の悪さも大きな原因なわけだし、濃姫がいたところで
何の切り札になるんだ?そもそも男系によって家督が継承されていた
武家社会において、女婿である信長に家督相続権はないんだから。

壷事件だって文脈的に生存、死亡、離縁、全部解釈可能なのに
相変わらず御台として生きていた証拠だと言い張る連中が多いけど、
明らかにその時点で信長御台として生きていた証拠だと証明するには
その後生きている濃姫と断定できる信長御台がなにかしらの史料で
確認されないと不可能じゃないのか?
90人間七七四年:2007/11/11(日) 16:55:04 ID:u+gYdOgQ
濃姫に関する歴史小説や大河ドラマのイメージを全て払拭したら、
果たして早世説や離縁説に対してこれほど多くの反論や異論がでただろうかと
いつも思う。
濃姫生前の足跡は何も残されず、夫婦仲がどうだったかを示す史料もなく、
子供のいない夫婦。斉藤家と敵対関係になり美濃を事実上乗っ取った信長。
客観的にこれだけの事実から、離縁となっていたところで
そんなに違和感を覚えないんだけど。
濃姫が正室の座をまっとうしたと頑なに主張する人って、冷静な考察というより
小説の影響とかでそう信じたい気持ちが強いんじゃないかなと思うんだけど、
どうなんだろう?
91人間七七四年:2007/11/11(日) 18:03:49 ID:M3qPKEK4
父親と敵対した弟は、兄側の斎藤家が滅びる前から
信長の元にあるし、信長の仲介した森可成の正室は
濃姫に従って尾張に来た林氏の息女で、林氏が
離婚に伴い美濃に戻った記録はないし、信長に従い続けてる。
濃姫の直接の史料はないが、史学における常套手法の周辺史料からは
少なくとも離婚、信長生前の死去は考えにくいと思える。

徳姫没後50年後位に庶民の京都の観光案内書に、徳姫は京都で
織田家後家と共に住んでいたとされるものがあり
その当時、側室を〇〇家の後家とは書かないから
推測出来る対象は、織田家の正室だった、犬山殿、土田御前、濃姫くらい。
しかし、犬山殿は京都に住んでいたが、徳姫の屋敷とは
離れた場所の屋敷だった事が分かっている。
土田御前は信包の元に住んでいたし、早い段階で亡くなっていたし。
濃姫だといいなと思っている。
92人間七七四年:2007/11/11(日) 18:09:13 ID:M3qPKEK4
>>91
>父親と敵対した弟は、兄側の斎藤家が滅びる前から
ごめん、まちがえた。

「濃姫の弟は、父親と敵対した兄側の斎藤家が滅びる前から」
と、書くつもりだった。
93人間七七四年:2007/11/11(日) 19:07:35 ID:A9/vADHr
>>89
>父親が亡くなったら家督を継いだ兄が後見人となって妹達の面倒をみるものでは?
父親と後継者の息子が通常の関係ならな。美濃斎藤家の場合、父と息子は合戦にまで
及び、濃姫の母方の実家も道三派に属して最終的には義龍によって滅ぼされた。
この状況で義龍の保護を受けてその後見で再婚?ちょっと考えられないな。

>濃姫がいたところで何の切り札になるんだ?
義龍―龍興派と対立する、旧道三派を味方につける旗頭になる。

>90
現在残っている記録では、信長の結婚はただ一度濃姫との婚姻しかない。そして
信長が離縁しただとか再婚しただとかいう記録も一つも残っていない。
これでは、諸記録に残る「御台」という言葉は、唯一記録に残る正室濃姫であると
みるしかない。小説や大河ドラマのイメージの話じゃあないんだよ。
子供がいなければ離縁というのなら、なんでわざわざ養子をとらせたのか?
信長が争った美濃斎藤家は義龍の流れであって、濃姫が属する道三の流れではない。
そちらのあげる理由なんてあっさり否定できるものでしかないんですよ。

そちらこそ、誰かの説の受け売りをそのまま刷り込まれてイメージで語ってません?
94人間七七四年:2007/11/11(日) 19:40:06 ID:MHuqIZLp
早世したとか離縁したって記録が多々残ってるのなら
早世説、離縁説への反論はイメージで語ってると言われても仕方ないけど
そんな記録も今のところ発見されてないしね。
史料がなく状況証拠だけってことなら、早世説、離縁説だってそうだし
冷静な考察が求められるのは双方同じだな。
95人間七七四年:2007/11/11(日) 19:43:34 ID:vDNgVdc9
>>93 >>義龍の保護を受けてその後見で再婚?

あの時代の感覚なら義龍の後見云々ではなく、戦略の駒として
再婚させられたとしたらなんの疑問もないが?

>>義龍―龍興派と対立する、旧道三派を味方につける旗頭になる。

美濃攻略の時、濃姫が旗印になった形跡がまるで無いが?
旧道三派ではなく、反義龍&龍興派を上手く寝返らせ内部崩壊を招くことが
できたのは濃姫の存在云々ではなく、織田家での重用を約束し実行した信長の
器量によるもの。嫁に行った姫が実家の旗印になるようなことは男系社会
ではありえない。

>>諸記録に残る「御台」という言葉

そもそもこれの言葉が信長の正室をさすかどうかも確定されていないのに。
所領の台所入を御台と書くことがあるって知ってた?

義龍は道三の嫡男であって、家臣一同異議承諾して家督も継いだのだし
廃嫡される前に道三が先に葬られたのだから、義龍こそが正当な斉藤家の当主。
道三の遺言なんかよりはるかに正嫡性が強いのが義龍。
一派も何も道三から斉藤家の家督を継いでいたのだから嫡流であって、
濃姫にとって道三亡き後の実家は義龍を当主とする斉藤家ということになる。

好むと好まざるとに関わらず、信長から離縁を申し付けられたら濃姫は
義龍の元に帰るしかないし、義龍も斉藤家の当主としてで戻った濃姫を引き取る
しかない。そんなこと戦国時代じゃ当たり前だろうに。

なので
>>そちらのあげる理由なんてあっさり否定できるものでしかないんですよ。

あっさり自分勝手な臆測による理由で否定されても困りますので。

父親を殺されて義龍が仇、というのだっておたくの推測でしかないわけだろ?
濃姫が義龍と通じていたという関係だったら?
義龍が家督を継いでからは実家の繁栄のために兄を支持していたとしたら?
96人間七七四年:2007/11/11(日) 19:52:08 ID:MHuqIZLp
だから思い込みや都合のいい推測、イメージで語ってるって言うなら
どっちもどっちだって。
97人間七七四年:2007/11/11(日) 20:07:40 ID:vDNgVdc9
>>96 だが、離縁説を否定するのは「濃姫にとって義龍は父の仇」というのが
大前提なわけだから、その前提が違うとしても、
離縁説を否定できるのか、っていいたいわけ。

長生きしたという証拠と主張するものは、片っ端から断定不可能なもの
ばかりじゃん。濃姫どころか、正室をさしているかどうかも断定不可能。
それなのに離縁説をことさら否定するのが疑問で仕方ないよ。
こっちだって断定するつもりはないよ。
可能性の一つとして自分はそれが一番納得がいくってだけのことなのに。
98人間七七四年:2007/11/11(日) 20:10:25 ID:RkySHgtd
で、信長は寡夫なのか?
99人間七七四年:2007/11/11(日) 20:24:54 ID:MHuqIZLp
離縁説否定の大前提は、離縁したって史料が発見されてないことじゃないか。
100人間七七四年:2007/11/11(日) 20:28:14 ID:A9/vADHr
>>97
濃姫は義龍にとって、父の仇だけでなく母方の実家の仇でもある。

だからさ、離縁したとされる史料を出してくださいよ。状況証拠だとか、戦国は
こうだからというようなイメージだけでなく。こちらは記録に基づいて離縁説を
否定しているんですが?
101人間七七四年:2007/11/11(日) 20:47:09 ID:QJDp6aZy
>>99 それなら濃姫が亡くなったとする史料が未発見だからいまだに生きているとでも?

>>100 母方の実家の仇?濃姫の母親が土岐明智の出身とするものは
地誌類のものでしか確認されてないが?その地誌の類を鵜呑みにするというので
あれば、同じ地誌の類の「美濃明細記」や「美濃国守護伝記」に
濃姫が亡くなっている云々のものもあるのだがそれも鵜呑みにして良いのかな?

それならこちらも、濃姫が正室をまっとうしたという史料を出して欲しいな。
それから離縁したという記録もないのに、どうやって記録に基づいて
離縁説を否定できるの?なんの記録に基づいているのかもう一度わかりやすく
提示してくれないか?どの部分が記録に基づいて否定しているのかなんて
全然わかりませんよ。

個人特定不可能の史料を持ち出して、これが証拠だと力説されたところで
承諾できるわけもない。そちらの提示してくる証拠というものが
あまりに説得力がないから納得できない、というだけのことなんですけどね?

納得できないものは納得できない。
それを妄想だ、イメージだ云々と中傷されるおぼえはないですよ。
史料的に提示が難しいのなら、臆測なりに理論的に説明してくれればいい。
それなのに「父親がいないから再婚はできるはずはない」「信忠を養子にしたのに
離縁するわけがない」なんていう、稚拙で理論性に乏しい理由付けに納得しろという
方が無理でしょ。
102人間七七四年:2007/11/11(日) 20:55:02 ID:QJDp6aZy
>>99 それなら濃姫が正室をまっとうしたというのを否定する大前提は
命日すら確定できないことでしょうか。

>>100 記録に基づいてというのは、どのあたりのことでしょうか?
具体的に提示してください。濃姫に関してそんな具体的な記録があったとは
知らなかったなぁ。
103人間七七四年:2007/11/11(日) 20:55:56 ID:QJDp6aZy
>>100

行き詰まると「史料をだせ」だよねw
104人間七七四年:2007/11/11(日) 21:08:40 ID:MHuqIZLp
だから史料がないんだから、どっちも思い込みや自分勝手な推測に過ぎず
双方共に冷静な考察が必要だって言ってるわけで。
自分の推測には史料の裏づけは必要なくて、他人の推測には史料が必要ってことはない。
105人間七七四年:2007/11/11(日) 21:15:43 ID:MHuqIZLp
納得できないものは納得できないってのも双方同じなんだよ。
違う意見の他人を納得させるのは納得させるだけの裏付けが必要なのも。
その裏付けを出せないと妄想扱いされるのも双方同じ。
106人間七七四年:2007/11/11(日) 21:28:34 ID:A9/vADHr
>>101
>離縁したという記録もないのに、どうやって記録に基づいて離縁説を否定できるの?
悪魔の証明という言葉をご存知ですか?

あなたはまず歴史学の前段階として論理学と議論の仕方を学んでくださいお願いします。
それから歴史学における史料の扱いというものを学んでください。
107人間七七四年:2007/11/11(日) 23:19:24 ID:wiZc6phn
>>101
だ、か、ら 離縁の根拠を示してくださいよ。
直接的な記録がなくても、信長のその時の置かれた状況や行動から
判断がつくのでしょ。
信忠をわざわざ養子にしているにもかかわらず、離縁しなくてはいけなかった
理由を説明くださいな。それが反対派が納得のいく理由を示せない限り
あんたの説は全く納得のできる話でないよ。
離縁したとしても何の問題もない〜などのあんたの妄想はいいから。
信長がなぜそういう行動をとらなくてはいけなかったかを提示して欲しいんですが。
それすら、あんたはさっきから提示出来てないでしょうが。
108人間七七四年:2007/11/11(日) 23:48:02 ID:cFIXOlOg
>>101->>103
な、何だこれ・・・・・
自演age??

109人間七七四年:2007/11/12(月) 00:03:42 ID:xmV9rlsA
それと、

>濃姫が義龍と通じていたという関係だったら?
>義龍が家督を継いでからは実家の繁栄のために兄を支持していたとしたら?

もし、本当にそういう関係だったら濃姫は織田家や道三系の斉藤家の裏切り
者として滅ぼされていた筈、だがそういう記録もない。合戦や裏切り行為などで
死んだ場合は記録に残らないのがおかしいから、それはないと思うね。
また、本当に濃姫が義龍のスパイだったら、信長がわざわざ信忠を濃姫の養子に
するわけもない。全く意味のない行為だしね。
よって、濃姫は父道三の敵として織田家にいたと思うが。
また、信長と濃姫が良好だったから道三は信長に国譲状を書いたのだろうし。
道三と信長の関係も良好だったと考えられる。援軍を送ったりしていることを
見ても。その三人の関係は良好だったと見るのが自然ではないかと思うが。
それに、信長が美濃攻略を急いだのは国譲状があったからともいえる。
それがなかったら先に伊勢国を攻めていたかも知れないのだし。
濃姫は切り札にならんというが、濃姫が織田家にいて道三の国譲状があるから
それを武器に美濃衆等を寝返らせることに成功したともいえる。
本当の美濃支配者にふさわしいのは信長の方だといってね。こういった相手を
寝返らせるかけひき等は他の大名もやっていること。大抵が策略をしかけ相手の家臣を寝返らせて、内部から
崩していく作戦をとっている。
武田の時も勝頼に反発している家臣をうまく味方につけている。
信長が力だけで相手を倒したことはほとんどない。
110人間七七四年:2007/11/12(月) 04:20:28 ID:BGLI1nlQ
文脈的に考えて、言継卿記にでてくる「信長御台」は斎藤氏・美濃に
ゆかりの強い人物とみるのが妥当だし、織田信忠をわざわざ濃姫の
養子としたなんて話が蒲生氏郷家臣の子の著書にでてくるんだから、
すくなくとも信長が上洛にかかるころまでは存命で、信長正室として
健在だったとみるのが一番妥当だと思うんだけどねえ。
111人間七七四年:2007/11/12(月) 06:02:01 ID:P18bo05D
濃姫が光浦並みのブスであって欲しい
こいつがブスであるほうが都合がいいのに
112人間七七四年:2007/11/12(月) 11:08:54 ID:6pMfO5IU
>>100 >>だからさ、離縁したとされる史料を出してくださいよ

これを言ったら議論上負けを認めたようなもんじゃないのかな?
そんな史料があったのならこのスレは最初からないわけで
臆測や、推察であれこれ議論していくためのスレのはず。

記録に基づくということだが、ずっとロムらせてもらったが
貴殿のその記録に基づく反論というのはどのあたりかよくわからん。
113人間七七四年:2007/11/12(月) 12:37:32 ID:djUmCF1b
生駒厨がどんなに濃姫を中傷しても
信長にとっては

濃姫=信忠母としての立場=織田家の正室>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>>>生駒女

なのは明らかに明白。

くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwwwww  くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwwwwww
114人間七七四年:2007/11/12(月) 14:10:15 ID:+faXKRZ0
濃姫はたとえ離縁でなくとも別居の可能性はあるがな
信長はただでさえ愛妾が多かったし
晩年まで多くの子供を作っていたところを見ると
安土城にも相当数の側室がいたのだろう
離縁でなくとも信長から知行をもらって隠棲することは可能
信長存命中は安土城の女主人として君臨し、
信長死後も行き続けたにしてはあまりにも影が薄い
全く政治的には無力で、あらゆる発言を拒んだ女性だったとしても
五徳同様秀吉の人質になるくらいの存在価値はあっただろうに
それさえなっていない。
115人間七七四年:2007/11/12(月) 15:21:02 ID:djUmCF1b
生駒厨がどんなに濃姫に嫉妬しても
濃姫の人気には足元にも及ばない。
濃姫は単独スレがたつぐらい大人気!!
謎が多く、脚色しやすく、過大妄想されるぐらいだが〜
ところが、生駒単独スレはひとつもなし。
文献もあるのは武功夜話の捏造文書だけ。
残っている史料はすべて濃姫がらみ〜

しかも史料から推察されるものも
信長にとって
斉藤家=濃姫>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>>>生駒女
なんだしな。

くやしいのぉWWWWWWWWWWWWWWWWW  くやしいのぉWWWWWWWWWWWWWWWWWW

116人間七七四年:2007/11/12(月) 15:54:49 ID:qK/lJOuB
本能寺の変のときの文献に出てくる
「安土殿」は安土城主織田信長の正室を指すんだから
思いっきり濃姫のことじゃん
だから信長が死ぬまでは正室として安土城にいたのは確認されてる。

側室妾が多いのは他の大名でも当たり前のことなんだし
色に溺れて側室妾の為に、国の同盟の証である大事な正室を追い出すなんて信長は馬鹿殿か。
信忠のことだって、直接信長の養子にすれば成立するんだし
わざわざ妻の養子にして迎え入れる必要は無い。離縁する気があったなら尚更。

信長にとって美濃代表として嫁いできた濃姫より利になる姫君が存在して
その姫と戦略結婚するために離縁するというなら考えられるけど。
(浅井長政や黒田長政のように)
ただそれだけの力を持った家柄の姫君と再婚するとなると
織田家の資料に相手の大名や(または公家)の名前が残るし
相手側の資料にも、誰がいつ織田信長に嫁いだか残ってるはず。
家臣の記録にも勿論残る。でもそんな記録は皆無だしね。
117人間七七四年:2007/11/12(月) 15:56:26 ID:qK/lJOuB
>信忠のことだって、直接信長の養子にすれば成立するんだし

これはおかしかったわ
信長の養子って元から実子だったww
118人間七七四年:2007/11/12(月) 16:30:39 ID:djUmCF1b
どんなに生駒厨が煽っても
信長の子供に対する評価は

信忠>>>>>>>>>>勝長>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>>>>>>信孝>>>>>>>>>>>信雄

なんだしな。
同じ庶子でもこの違い。

くやしいのぉWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW   くやしいのぉWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
119人間七七四年:2007/11/12(月) 16:49:56 ID:+faXKRZ0
>>116
濃姫=安土殿ならば、信雄の分限帳で
安土殿は随分あとのほうに記されているのと、
知行が少ないことはどう説明するの?
知行が少ないことについては
他から知行地を貰っていたと力説する人(史料は何にもないけどねw)
がいたが、父の正室にしては随分後ろのほうに名前が出てきて
扱いが低かったね。
120人間七七四年:2007/11/12(月) 17:16:00 ID:i7AQqJy5
>>119
本家筋を貶めて自分の筋を正嫡にしようとしたんじゃない?
121人間七七四年:2007/11/12(月) 17:45:57 ID:BskyN0RJ
>>112
100はどうだか知らないけど、個人的には議論の勝ち負けなんてどうでもいいんだけど
(勝ち負けにこだわってる人もいるようだけどw)
憶測をぶつけ合う平行線の議論で勝ち負けがどうのというのより
何らかの史料に基づいた推測をいろんな角度から話し合ってみる方が
建設的で楽しくないか。
まぁ、そんな史料がなかなかないのが難点ではあるけど。
122人間七七四年:2007/11/12(月) 20:26:55 ID:JJAqwtHK
岐阜が地元なんだけど、濃姫は離縁されてもどされたと
教えられてたぞ。母方実家の土岐明智家筋に引き取られたということだ。
123人間七七四年:2007/11/12(月) 20:31:47 ID:8fMpHUi3
>>116
少し決め付けていない?
>思いっきり濃姫のことじゃん
>信長が死ぬまでは正室として安土城に居たことが確認されている
って、どう確認されているのだろう。
存在の明確な証しが無いから議論してるのでは・・・
124人間七七四年:2007/11/12(月) 20:52:01 ID:4K+amDo/
>>116
安土殿=信長正室(=濃姫?)という確証が得られないからこそ、
濃姫の死んだ時期、離縁されたかもしれない、別居していたかもしれないといった
事が議論に上がっているんだと思うけど。

安土殿=濃姫とわかりきっているのなら、誰もこんな何度も同じ議題で
同じ書き込みをするわけがないw


個人的には信長ご自慢の居城であった安土の名を冠している女性なんて
正室くらいしか考えられないけど、信雄の知行が少ないこと、金額も飛びぬけて高いわけでない事
という微妙な位置づけの為にちょっと考える部分があるなぁ。
125人間七七四年:2007/11/12(月) 21:35:23 ID:VJE0Q53R
>>121
離縁否定派は史料を出してますよ。
信長が結婚したという記録は一度、濃姫としかない。
その後に離縁もしくは再婚したという記録はない。織田家の記録のみならず、他家史料にも。
そして信長晩年にいたるまで、諸史料に信長正室の存在が記録されている。

この状況でどうやったら離縁説が成立し得るのか、逆に不思議だ。
126人間七七四年:2007/11/12(月) 21:38:42 ID:c7XIrkBU
悪魔の証明だからな
お互い
127人間七七四年:2007/11/12(月) 22:00:05 ID:lxjfHpT3
>>122
武功夜話が発表された後、偽書説が浸透するまで
本当にそう思われていたからね。
継室に生駒がなったと信じられていたから
死別か離婚にするしかなかった。
死別の可能性を言わなかったのは、壷事件が
知られてきてからかもな。
壷事件も始めの頃は、信長が岐阜に入った後
生駒が死んだので濃姫が正室に戻って来たなんて
説が堂々と語られていたんだよ
あの岡田正人氏でさえ、そんな主旨を言った事が
あったくらいだ。
すぐに史学的にあり得ないので、離婚から別居程度の
話しになったがな。
128人間七七四年:2007/11/12(月) 23:48:57 ID:xmV9rlsA
安土殿の知行が少ないというが、600貫文だろ。
けっこうな額だと思うが。
順番がどうのというが、大方殿様もずっと後に登場しているから
あまり関係ないんでないか。あくまでも信雄の分限帳なので、
伊勢の関係者を先に明記したのだろうし、本家の織田家関係者は
後になったと考えられる。また濃姫は宗家の三法師からも知行を
もらっていた可能性もある。それを考えるとそれほど低い額とは
思えないが。

あと、別居の件だが自分も濃姫は安土に入らなかったんではないかと
思っている。信長は家臣にも家族で移住するように
勧めてはいるが、美濃国主に信忠がなったことで、信忠母という立場で
濃姫が美濃に居続けたとしてもおかしくはない。
美濃は濃姫の故郷でもあるし、母親の小見の方も美濃にいたと思われるから
近くに居たかったとしてもおかしくない。
安土に正室の部屋らしきものもあるが、濃姫がたまに泊まりに来るために
とりあえず作っておいた可能性もあるし、信長も濃姫がいない方が
大勢の側女と楽しめただろうし、そういうことも考慮して別居を許したとも
考えられるが。

信長公記には、安土での相撲大会などイベントの話もあるが
濃姫についてはまるで記述がない。いくら政治的な話だけといっても
ふたりで観戦したならそう書かれてもいい筈なのにそれもない。
以前も書いたんだが、信長が自分の留守中に勝手に持ち場を離れていた
侍女たちを成敗〜と書かれている箇所にしても、濃姫のことはまったく
書かれてない。濃姫と出かけたならなぜそう書かないのか。あるいは濃姫が
安土にいて侍女たちの外出を止められなかったなら、逆に濃姫が信長に
怒られる筈である。しかし公記にはそういう記述もない。
これから察するに、濃姫は安土に常駐していなかったとしか思えないんだが。

129人間七七四年:2007/11/13(火) 01:23:22 ID:O6JE/cDd
早くに病死した可能性が高いね
130人間七七四年:2007/11/13(火) 01:38:29 ID:pMEVR11+
ホントに安土にいなかったのか、ただ単に信長公記に書いてないだけなのか
現時点では決め手になる史料もないだけにわからないな。
〜な筈という推測はいくらでも出来るけど。
131人間七七四年:2007/11/13(火) 07:21:25 ID:i1b0xynZ
絶対濃姫はブサイクだったと思うんだよね
132人間七七四年:2007/11/13(火) 08:27:49 ID:7YCqd8c6
若い頃の道三は絶世の美男子だったらしいぜ?
133人間七七四年:2007/11/13(火) 08:29:16 ID:0n3Wt1+P
ばぁちゃんが岐阜出身なんだけど、濃姫は離縁されて母方実家の土岐明智氏
の方に引き取られたと伝わってるって言ってたぞ。
生母も道三亡き後は実家の明智氏にいたからじゃないの?
濃姫が再婚してなければ土岐明智縁の菩提寺に墓なり位牌なりがあるかもな。
134人間七七四年:2007/11/13(火) 08:45:42 ID:qd9VMYxD
そんな伝説みたいな事を言い出したら、
本能寺後、出家して、清洲の近くに、
屋敷を構えていたって伝説だってあるぞ。
離婚していたら出家する必要ないし、清洲にも住まない。
135人間七七四年:2007/11/13(火) 09:24:24 ID:Bno9PIfB
>>134
信雄の分限帳の安土殿のもらっている知行地が
清洲辺りだとされているんだよね。
そこから推察すると、濃姫が清洲に住んでいたとされる
伝説は案外当たっている可能性もある。
しかし、徳姫と京都に住んでいたとされる織田家の後家は
濃姫ではなかったのか。濃姫はずっと清洲にいたんだろうか。
信雄が改易になったため、清洲を出て京都に移住したんだろうか。

この時代の女性に関しては、正室であってもほとんど記録がないから
どこに住んでいたとか決め手になる資料がないとなんともいえないよね。

築山殿も、以前は岡崎城に信康と住んでいたと考えられてきたけど、
家忠日記の記述から、家康とともに浜松にいたらしいし。
意外と濃姫も史料がないだけで、安土にいたんじゃないの。
136人間七七四年:2007/11/13(火) 10:35:19 ID:0ikk6qJk
壷事件で濃姫が齋藤家の後家を庇っているところを見ると
濃姫はもし生存なら齋藤家一族の女性たちと共に
岐阜にいたほうが的を得ていると思うがね
信長の元を出て継子である信忠と同居の線は薄いと思う
養子とはいえ継母と継子の仲が同居するほど良かったとは
思えないし、例もない
安土城入城前に死没か安土に入城せずに齋藤家を守った
出家は独身の女性でもしている人がいるから、
別居や事実上の離縁状態でも出家する可能性はある
夫と死に別れた未亡人だけが出家するわけではない
137人間七七四年:2007/11/13(火) 10:49:06 ID:s7I80KOo
夫が亡くなっても主家しない女性も多かったしね
138人間七七四年:2007/11/13(火) 10:50:24 ID:Bno9PIfB
>>136
誰も濃姫と信忠が同居していたとは言ってないんだけど・・?
あと、二人が不仲だと推測できる文献でもあるのな。
夫婦の関係同様、濃姫・信忠の親子関係も当人同士にしかわからないんじゃない。
養子縁組した親子が仲が悪かった例〜というけど、
仲が悪かった親子がいたから、必ずしも他の親子関係も悪かったと断言はできないんじゃないの。

あと、濃姫の墓は実家の斉藤家の菩提寺にもそれらしきものは何もないけど。
そちらで亡くなったなら、小見の方同様に記録されてもいいけど
そういう記録もないんだけど。これはどう説明するの。
139人間七七四年:2007/11/13(火) 10:54:26 ID:s7I80KOo
つまり武功夜話が出てくるまでは離縁・死別は考えられてなかったのか?
生駒の為に史実が捻じ曲げられて今日の騒動になってるとしたら
偽書を作った奴は罪が重いな
140人間七七四年:2007/11/13(火) 11:16:02 ID:Bno9PIfB
>>139
同感。
今だに江南市では、武功夜話を一級史料としていて
濃姫なきあと、生駒吉乃が正室になったなどと堂々と宣伝しているらしいし。
かな〜り、悪質だよね。武功夜話なんかすでに偽書だと判明しているのというのに。
ここで、濃姫および斉藤家を非難しているのは江南市の人間じゃないの。
濃姫が織田家の正室として全うしたということが
明るみになるのが都合が悪いからだと思うね。

さっきからやたらと岐阜に住んでいるから〜とかの書き込みあるけど、
岐阜に住んでんだったら、例のお濃の墓というHPに紹介されている
墓の存在ぐらい知ってるんじゃない。本能寺で亡くなったと信じている人が
未だに花を置いていっているらしいし、離縁説や早世説がどの位浸透していないか
わかりそうなもんだけど。というか、岐阜市でもそれほど信長や濃姫に関して
興味がない人間が多いということなのかも知れないけど。
何にしても、武功の捏造話は絶対に許せない!!
141人間七七四年:2007/11/13(火) 12:15:03 ID:0ikk6qJk
>>139
「武功夜話」が出てくるまでは
濃姫は信長と一緒に本能寺で死んだと言われてきた。
(逃げた次女の中に「おのう」がいたからね。
 実際にはおのうとはよばれてなかっただろうが。)
どちらにせよ、信長没後も生きていたとは
思われていなかった。
142人間七七四年:2007/11/13(火) 12:32:40 ID:xWYE9Th0
濃姫好きで熱くなるのはわかるけど、
「○○は絶対に許さない!」なんてまで言い続けるのって
ちょっとひく。
143人間七七四年:2007/11/13(火) 12:35:57 ID:s7I80KOo
>>141
明智軍記のイメージが強かったのかな?
突然裏切って明智に味方したなんて書かれちゃってたし
(明智擁護のための大嘘だけどw)
少なくとも本能寺の変まで正室の座にあったから
明智軍記でそういう扱いになったと思うんだけど
144人間七七四年:2007/11/13(火) 12:43:01 ID:s7I80KOo
>>142
でもさ嘘を史実だと押し通す人たちと
それに便乗する人たちが何が何でも態度を改めようとしなかったら
怒りたくなるのも分かるよ
ゴッドハンドと同じことをしてるんだし
145たられば君:2007/11/13(火) 13:01:11 ID:3FJ3eYy1
>養子とはいえ継母と継子の仲が同居するほど良かったとは
>思えないし、例もない

有名どころでは毛利元就の例があるね。
146人間七七四年:2007/11/13(火) 13:03:19 ID:0ikk6qJk
>>143
「明智軍記」は江戸時代中期元禄年間の成立。
明智軍記の作者が濃姫の消息など知ってはいなかったと思うがね。
「明智軍記」をもって濃姫が本能寺まで生きていたなんていうのはナンセンス。
147人間七七四年:2007/11/13(火) 13:46:51 ID:Bno9PIfB
>>146
明智軍記は裏切り者の光秀を擁護するために、かなり信長に関しては
捏造話が多いと見られているけど、濃姫に関しては捏造はないと思うね。
明智軍記は噂や俗説なども記録したと思われるから(美濃国諸旧記と同じで)
濃姫が離縁したとか、信長生前に死亡したなどの記録も特にないところを見ると
普通に、本能寺の段階で織田家の正室として生きていたという認識だったと
見ていいんじゃないの。

しかも、ナンセンス〜なんて言葉、古くさw

148人間七七四年:2007/11/13(火) 13:51:46 ID:9w3Q/D8p
勝頼夫人の北条氏が勝頼の子供達(当然腹違い)を可愛がったとか、大坂落城後に
生き残った千姫が秀頼の遺児(側室腹)を保護して可愛がったとか、いろいろとある
けどねえ。
149人間七七四年:2007/11/13(火) 13:52:28 ID:0ikk6qJk
>>147
>濃姫に関しては捏造はないと思うね。

君の推測を語る場所ではないんでね。
自分に都合の良い史料は全部、正しい!といいたいだけだろw
資料的には同時代史料ではないのだから、価値はないよ。
いつから君の思い込みスレになったんだい?
ああ、はじめからかw

150人間七七四年:2007/11/13(火) 14:07:49 ID:Bno9PIfB
>>149
>養子とはいえ継母と継子の仲が同居するほど良かったとは
>思えないし、例もない

あんたもおもいっきり決め付けてんじゃんw
信忠と濃姫を不仲にしたいとしか思えん書き込みですなあ。
しかも、例はないというけどたくさんあるらしいしねえ〜
無知だと恥ずかしいねえ〜

明智軍記に濃姫を捏造する理由がないから、ないといったまでだが。
信長なら、光秀が謀反しているからその理由付けが必要だったので
あれこれとない話を創作されたようだけどね。


151人間七七四年:2007/11/13(火) 15:01:46 ID:0ikk6qJk
>>150
濃姫に子孫は居ないのだから、
信長殺害の主君殺しに正室が加担していたと
創作することは充分可能。
子孫に怒られることもないし、
そのほうが読み物としては面白いしね。
元禄時代といえば、歴史に取材して面白おかしく書き直した
ものが馬鹿売れしていた時代だし。
読み物として面白ければ、当然そう書くと思うがね。
だが、史料としては持ち出す意味がない。
152人間七七四年:2007/11/13(火) 17:37:14 ID:pMEVR11+
>>142
武功夜話をすっかり信じ込んじゃってたのに、後から騙されてたとわかった人の
武功に対する恨みは深いらしいから。
153人間七七四年:2007/11/13(火) 18:40:43 ID:s8hlTLNh
>>100 史料をだせ、つまり、議論で負けを認めたってことなんですね?
154人間七七四年:2007/11/13(火) 20:24:06 ID:kXrgjOF2
濃姫がいつ死んだか明確な答えは現段階では出ない。
どんなに議論しても勝敗などつかない。
155人間七七四年:2007/11/13(火) 20:49:48 ID:3SUry3Kc
濃姫が美濃に返され母方実家に引き取られた話もなんかの伝承で読んだことがある。
道三亡き後に濃姫生母も実家に引き取られていたからだと思ったが。
濃姫が亡くなった後に、濃姫の姪の姫を信長が所望したが龍興が叔母の夫だった
信長に妹はくれられない、と拒否した話も「美濃明細記」と「美濃守護伝記」
に残ってる。両方とも江戸期編纂の地誌。

一方で濃姫が本能寺の変ご地方に逃亡し、その後佐竹義重の側室となり、
周囲から安土御前と称され、のちに姫を出産(濃姫は一体何歳だ??)
その姫が戦で巴御前のごとき大活躍をし、姫の死後上杉景勝が
その姫を軍神として祀ったという話もある。

一般的に地誌・伝承の類は寺の縁起なみに信憑性が乏しいために専門家からは
放っておかれる。 実際眉唾話ばっかりだし。特に佐竹の側室になって云々は
怪しすぎる。だがその子孫と称する人物はいるそうだ。
156人間七七四年:2007/11/13(火) 21:25:07 ID:pMEVR11+
馬場殿の話は、「亡くなった後に」とも解釈できるし
「例え亡くなったとしても」とも解釈できる。
何にしろ信長による懐柔策を、龍興が死んでも嫌と
拒否したというエピソードなんだろうね。
157人間七七四年:2007/11/13(火) 21:36:25 ID:iJqVG/jl
>>155
佐竹の話ははじめて聞いた。
そんな伝承もあるんですね。でも、美濃国の地誌の話と佐竹の話では
どっちにしても矛盾していますしね。やはりどちらも信憑性のない
話とするのが妥当なんですかね。
濃姫が子供を産んだという話もやはり眉唾なんでしょうか。
あと、以前から気になっていたのですが、岐阜の歴史館?らしき場所で
信長と濃姫の間に女子と書かれた家系図があるらしいとwikiに書かれて
いたけど、誰か見たことある人います?
158人間七七四年:2007/11/13(火) 22:25:47 ID:7Tr0YE7L
>>140
>ここで、濃姫および斉藤家を非難しているのは江南市の人間じゃないの。

現在江南市に住んでる人間、及び市長、市役所職員にとって
濃姫が正室の座にずっといようと、生駒がただの借り腹扱いのいち側室に過ぎなかろうと
どうでもいいっていうかむしろ誰それ?って感じだと思うけど。
159人間七七四年:2007/11/13(火) 23:15:27 ID:w+0VyzvS
斎藤明智はうざい
160人間七七四年:2007/11/14(水) 00:11:33 ID:5CV6wiuX
>158 
観光資源という言葉を知らないお子様を相手にすると疲れるよ。
161人間七七四年:2007/11/14(水) 01:23:11 ID:7GVx+SHN
そう言えば今年の大河で、勘助の生誕地を駿河富士宮にしたら
生誕地説のある他の市からNHKに苦情がきたって話があったなw
どうでもいいことのようでも関係者にとっては重大事。
162人間七七四年:2007/11/14(水) 02:28:59 ID:5CV6wiuX
どうでもいい話で悪いけど 
駿河富士宮ってなんか違和感が…。 
富士宮を使うなら静岡県富士宮、 
駿河を使うなら駿河の大宮だとしっくりくるけどね。
163人間七七四年:2007/11/14(水) 05:09:52 ID:sxaVUxge
>>161
勘助の実在すら怪しいのにねww
164人間七七四年:2007/11/14(水) 06:55:46 ID:doSbFmfw
>>163
でも今の大河のせいで「勘助は桶狭間の合戦をプロデュースした」という
事が一人歩きしそうな悪寒www
165人間七七四年:2007/11/14(水) 09:13:40 ID:KYdEeH6L
何でもかんでも、主人公の手柄にするのはまつや千代の時と同じだなw
166人間七七四年:2007/11/14(水) 09:23:47 ID:41cB/pcN
>>156 でも「たとえ死んだとしても」なんていう必要もないし。
濃姫が生きていたという前提なら、信長が濃姫の姪を側室に望むのも不自然。
濃姫の姪を養女に迎えて(事実上の人質)懐柔しようとしたのを
信長を悪者にして側室云々という伝承になったんじゃないかな?

>>157 御台出産も地誌なので、たぶん創作話だと思う。
信長が滞在先で夫人(側室)が出産した云々の話は別件の地誌でも書いて
あるらしいよ。場所もまちまちだけど、一貫してるのが、神仏のおかげで
安産できたことを信長が感謝したとか、そんなオチだから
庶民の信仰心を煽るためにそんな伝承が生まれたのかも。
趣味でマイナー地誌を専門に研究してる人から聞いた話。
超有名人は庶民への知名度も高いしいろんなことに利用されたってことでしょう。

濃姫の子供がいても不思議じゃないから、普通に考えて夭逝したか
養子のことかもね。
167人間七七四年:2007/11/14(水) 10:20:31 ID:KYdEeH6L
>>166
そういえば、濃姫は道三の娘を(濃姫から見ると妹だけど)引き取って
養女にして育てていたよね。
信長も道三の娘を引き取って養女にしているし。
信長には実子、養女合わせてかなりの姫がいたと言われているから
しかもほとんど生母は不明だし、濃姫が生んで早世した姫などがいても
おかしくはないよね。
だけど夭逝したとしたとしても、記録になんらかの形で残って欲しかったな。
168人間七七四年:2007/11/14(水) 23:44:26 ID:PdVzRTuV
道三さんが森さんや土岐さんを追い出したから
斎藤対織田が成立しました 道三さんはよっぽど醜い方法で美濃を乗っ取ったのでしょう
斎藤氏が織田氏に負けたのは当然のことですね
169人間七七四年:2007/11/15(木) 01:48:47 ID:1yMsseMO
伝承、伝説は、「その成立の前提に何らかの史実が隠されているかも」
なんて良く言われたりするけれど
そういうことはとても稀なことで、
実際に検証してみると、すぐに誤りであることがわかったり、
年代や人物があからさまにずれていて到底不可能なことであったり、
ただの勘違いや故意な創作であることが多かったりするよね。

浪漫が無くてすみません・・・な事なんだけど。
170人間七七四年:2007/11/15(木) 08:44:56 ID:eorEN5Sw
伝承、伝説、地誌だけでなく家系図などもそれだけだと信憑性がないらしいしね。
結局は裏づけできる史料なり記録などがないと、信用に値する内容とは
見なされないってことなのかな。

だけど、濃姫に関する伝説も色々あるんですね。
本能寺後が不明だから、濃姫のその後は・・という感じで
複数の伝説や伝承が生まれたのかもね。いつ亡くなったとかはっきり史料に
書かれていればここまで色々な話が創作されることもなかっただろうし。
171人間七七四年:2007/11/15(木) 10:18:00 ID:dIarjszq
濃姫マンセーから思いっきり逆の立場で見ると
織田家にとって斉藤家女との婚姻は否応無く決まったもので
愛情が無くてもおかしくはない。
壷事件も濃姫が大事だからではなく
斉藤家の人間が揃って自害することで隣国美濃との争いが起きることや
壷の為に正室と実家の人間を死に追いやったと
世間に知られたらそれこそ自分の名を貶めることになるし
それらを懸念して手を引いたのかも知れない。
(斉藤側にも当然そういう思惑があっただろう)
道三に援軍を送るのも政略婚の意味を考えれば至極普通のことでもあるし
それをもって夫婦仲を決めるエピソードとするのはどうか。
172人間七七四年:2007/11/15(木) 10:54:16 ID:eorEN5Sw
>>171
当時の大名家はすべて政略結婚が当たり前だったから、
愛情がなくてもおかしくはないけど、なかったという証拠もない。
それをいうなら側室にしても当時は人質の意味合いで送り込まれてくる
ケースがほとんどなので、当人を見るのは城に着いてからという条件は正室も側室も同じ。
(写真で相手の容姿を確かめるなどする時代ではない)
よほど当主と顔見知りで個人的に気に入られて〜というケースでない限り、
愛情うんぬんはそれこそわからない。
濃姫と信長の仲が良好と解釈されているのは、道三の国譲状があるからだと思う。
道三は、対立した義龍以外にも息子はいたのに、信長に美濃を譲ると一筆書いている。
二人の仲が最悪だったなら、わざわざ娘婿には譲らないんじゃないかな。
また、濃姫と信長だけでなく道三も含めた三人の仲が良好だったから、
自分の亡き後、美濃国を頼むと同時に濃姫や斉藤家を信長にお願いしたいという意味で
国譲状を贈ったと見ていいんじゃないの。
173人間七七四年:2007/11/15(木) 12:09:21 ID:dXhYCxJG
>>171
ところで、壷事件を美濃攻略以前と勘違いしてませんか?

それと、政略だから愛情がないってのも現代的な見方。別に政略結婚に限らず、
かつての結婚というのは愛情に関係なくまずする、そのあとで愛情を育むという
もの(もちろんできない場合もあるが)。愛情があって結婚するという現代とは
逆なんですよ。
174人間七七四年:2007/11/15(木) 17:39:30 ID:InF5s5oO
>>172 >>濃姫と信長の仲が良好と解釈されているのは、
道三の国譲状があるからだと思う。
道三は、対立した義龍以外にも息子はいたのに、
信長に美濃を譲ると一筆書いている。

その国譲状そのものは現存してないし、国譲状と言われているのは
それを信長に渡したとしたためてある道三が息子に宛てた
末期の手紙。
もしかしたら信長に譲るというのではなく、信長の息子(濃姫の息子)に
譲りたい、という主旨だったのかもしれない。
それゆえに必用のない濃姫と信忠との養子縁組を行って
遺言に正統性をもたせたのか?とも推測できる。
現に美濃攻略後すぐに家督を信忠に譲ってるしな。
濃姫が生きていようが亡くなっていようが、濃姫の養子になった
という事実さえあれば、強引ながら遺言の正統性はでてくるとは思う。

ただ常識的に考えて斉藤家→織田家という家督相続はいくら女婿であっても
孫であっても、外孫なのだから男系社会においてはありえない話なんだけどな。
後継者に信長を指名したというのではなく「美濃のことはまかせる、
義龍を破って美濃を治めて欲しい」という程度の内容だったんじゃ?
とにかく国譲状がないので真相はわからん。
175人間七七四年:2007/11/15(木) 19:56:32 ID:dXhYCxJG
>>174
>美濃攻略後すぐに家督を信忠に譲ってるしな
はい?美濃攻略(1567)から信忠家督相続(1575)まで軽く8年の間があいてますけど?
176人間七七四年:2007/11/16(金) 09:16:20 ID:w8K0I/pF
それもそうだし、信長が信忠を濃姫の養子にした時期は
はっきりしていなかったんじゃなかったっけ。
生まれてすぐなのか、ある程度成長してからなのか、
家督を譲った段階でなのか・・その辺りも謎なのでなんともいえないよね。

だけど、信長って肝心な書類は全然残ってないんだね。
どうせなら、道三が息子に宛てた手紙は残らなくても良かったけど
道三が信長に宛てた国譲状そのものが残れば良かったのに。
177人間七七四年:2007/11/16(金) 12:51:52 ID:wHZvZRfa
>>176 ゆえに道三の息子への手紙というのは偽造だという話もある。
内容も書体も違う道三が息子へあてた国譲り渡し状が2通あるし、
どちらかには花押が押してあるそうだが、
私文書に普通は花押は押さないもんだ。

それから地誌がそんなに信憑性のないものだとしたら、
小見の方が土岐明智だとか、濃姫の実母が小見の方とかいう話も
鵜呑みにできないんじゃないか?
小見の方が正室だったかどうかも。
濃姫は側室腹であったとか、もしかしたら濃姫が義龍と同腹であった
可能性もなくはない。
桑田さんは深芳野ではなく稲葉氏を義龍の生母としていたよ。
178人間七七四年:2007/11/16(金) 13:02:26 ID:w8K0I/pF
>>177
>内容も書体も違う道三が息子へあてた国譲り渡し状が2通あるし
それは、同じ息子に宛てたものなんか?

偽造の理由は?誰が何のために偽造するの?
どうせ偽造するんなら、息子に宛てた手紙よりも
国譲状そのものを偽造したほうがいいじゃん。

小見の方が土岐明智でないというのは?
小見の方は継室だったらしいけど。
土岐家の史料ではどうなってるかな。
179人間七七四年:2007/11/16(金) 13:29:04 ID:wHZvZRfa
>>178 妙覚寺にいる息子宛て。
妙覚寺にある遺言書は江戸後期に織田家の末裔が寄進したもの。
ずっと妙覚寺に伝わっていたものじゃないから、偽造と疑りたくもなるのだが?

濃姫が帰蝶という名前というのはみなが違うと思ってる、だが
同じ地誌に書いてある生母が小見の方というのは誰もが信じてる。
なぜ?
正室であったのになぜ、鷲山殿や金華山殿や井口殿、と称されなかったの?
小見の方という名で呼ばれていたのが事実なら、恐らく側室だからでしょ。
180人間七七四年:2007/11/16(金) 14:30:30 ID:w8K0I/pF
>>179
織田家の末裔の人が偽造したとする根拠は?
どうせ偽造するんなら息子宛よりも、国譲状そのものを偽造したほうが
効果的だと思うけどな。

濃姫が帰蝶という名前が正しいという証拠も違うという証拠もないから。
生母にしても小見の方という呼ばれ方も正しいかどうかも・・
正室であっても濃姫だって、清洲殿や美濃殿などの呼ばれ方をしていないようだし。
安土殿も濃姫の可能性はあるけど、知行が御局よりも低いことから確定できないようだし。
濃姫が明智の姫と呼ばれていたという話もあるし、土岐明智家の筋から
正室を新たに迎えたというのはあっているんじゃないの。


181人間七七四年:2007/11/16(金) 15:10:33 ID:wHZvZRfa
>>180 
有名な戦国武将の偽手紙はこれに限らず多数存在しているのだから
疑ってかかって当然じゃん。
信長の手紙の鑑定依頼のそのほとんどが右筆のものですらないと
専門家が著書に書いていたぐらいだ。
著名な戦国武将である道三の手紙とあれば、それだけで価値があるんじゃないの?
しかも死の間際、信長云々というあたりも興味をひくしね。
国譲状そのものが実在し、周知の事実ならば公記に書いてあってもいいと思うけど?
それが大義名分で美濃攻めをしたというのならね。

濃姫が周囲からなんと呼ばれていたかはまったくの不詳。
宣教師の記録に尾張の奥方とかとでていたような記憶があるが、
この場合固有名詞でなく、尾張に住む信長の奥方、という意味だと思う。
帰蝶も鷲山殿というのも「美濃国諸旧記」に記されているだけ。
当然信憑性は低いといわざるを得ない。
「明智の姫」と呼ばれたのは小説の話では?
濃姫は生母は誰であれ明智ではなく「斎藤の姫」だよ。
だけど濃姫の生母が正室か側室かを確定できる史料は実はないんだよ。
もっとも濃姫が正室腹であろうが、なかろうが織田家との縁組にはまったく問題は
ないけどな。その頃の力関係は斉藤家>>織田家で、
織田家が嫡子にこだわれるほどの立場じゃないし。

Wikiには小見の方が側室で、道三の寵愛が深かったためにその後正室に昇格し
云々と書いてあるけど、当時の婚姻制度からしたらそういうことも
なかったろう。
182人間七七四年:2007/11/16(金) 15:14:08 ID:PbY4k9IZ
帰蝶は江戸期に作られた創作名じゃないの?
183人間七七四年:2007/11/16(金) 15:35:42 ID:PbY4k9IZ
>>173
してないよ
でも美濃を元支配してたのは斉藤家
その娘が信長に嫁いで婚姻関係を結んだことで
道三は娘婿である信長に国譲り状を渡し譲った
(今議論中の譲り状が実在したかは置いといて)
濃姫は美濃を手中に治めるために重要な役割を果たしてたんだから
その濃姫をはじめ斉藤家の人間が自害したら
既に織田家の支配下であっても
美濃衆の中には反発を覚える奴も出てくるだろう
184人間七七四年:2007/11/16(金) 18:00:11 ID:eDdsgPoo
道三の遺言状は江戸期の史料では児島の斉藤家(新五郎の血筋)が
所持していた事が分かっている。
それが、大阪城の展示室ににあるものかどうかは不明。
また、あの書状と同一かどうかも不明。
書状は一つが原本で、もう一つは写しという話もあり、書状の最後が少々違う。
花押があるのは大阪城にあるものの方。

児島の斉藤家は、本格的に調査された事はない筈なので、
できればどこかの大学で、調査に行ってほしいと思うのだが。
185人間七七四年:2007/11/17(土) 08:41:09 ID:Qw/PW9Sp
>>184
>書状の最後が少々違う。

具体的にはどう違うの?あと、内容は具体的にはなんて書いてあるんだろ。

斉藤家末裔の先祖の新五郎って、濃姫と同腹なのかなあ。
濃姫に関するお宝みたいなものって何かないのかな。先祖代々伝わってる
ものとか。新五郎は信忠の側近でもあったし何か織田家関係に関するものが
あってもよさそうだけどね。

織田家の場合は、信長・信忠が本能寺関係で死んでしまったし、また
二人の側近だった家臣達もほとんど一緒に討ち死にしてる関係からか、
織田家の内情に詳しい記録がほとんどないんだよね。
家康における家忠日記のような、信康と築山殿・徳姫に関する話などの
ような内情のことがわかるものが織田家家臣の中にあれば、
濃姫や信忠とその生母に関することも少しはわかった可能性もあるんだけど。
186人間七七四年:2007/11/17(土) 09:24:07 ID:T4jI+aRv
天守閣にある方は織田家の末裔が持っていて、妙覚寺にあったのは
斉藤家の末裔が持っていた、というのも変な話だな。
そもそも妙覚寺にいた僧侶である息子宛てに書いたのだから、その息子なり
妙覚寺で保持しているのが筋だろうに。
仮にその後道三の遺品として斉藤家に渡ったとしても、同じような内容の
手紙が織田家に伝わっていたのが不自然すぎる。
織田家には本来国譲渡し状そのものがあるはずで、道三の息子あての手紙が
織田家の手に渡るはずもない。
どちらかが写しというなら一字一句同じでなければそれは写しとは言えない。
写本作業で勝手に内容を変えたりすることは許されない。
どちらかが明らかな偽物、あるいは、両方偽物なのかもな。
187人間七七四年:2007/11/17(土) 12:20:33 ID:6zRe9iO2
>>186
>天守閣にある方は織田家の末裔が持っていて、妙覚寺にあったのは
>斉藤家の末裔が持っていた、というのも変な話だな。

反対。
妙覚寺にあるのが織田家の末裔の持っていたもの。
188人間七七四年:2007/11/17(土) 14:10:16 ID:Qw/PW9Sp
>>186
>天守閣にある方は織田家の末裔が持っていて、妙覚寺にあったのは
>斉藤家の末裔が持っていた、というのも変な話だな

そんなこと言い出したら、史板の濃姫スレで話題になっていた信忠の書状にしても
武田家の家臣だった真田家に、合戦の報告をするのはおかしいから
なんで真田家末裔の人がもっていたのかってことになるじゃんw
こちらの書状にしてもきちんと鑑定がおこなわれたかどうか不確かみたいだし。

道三の書状については鑑定ってされてんのかな?
大阪城の展示室にあるくらいだから誰か鑑定したんだろうか。
どっちにしても、きちんと調査されないとなんともいえないんじゃw
189人間七七四年:2007/11/17(土) 17:50:48 ID:qNBCTjTC
>>188 信忠→信雄宛てとなると、なんで関係もない真田家に?となるけど
誰宛かは定かじゃないんじゃなかったか?
「御方」とあるので濃姫と信じて疑わない連中もいるし、
その他親王宛説、北畠氏宛説、将軍宛、諸説あったようだが?
どっちにしても真田家とは関係ないがな。
ただ現代では有名人の消息を金銭でやり取りしている収集家もいるし、
現代ならどこの家で保管しているかは関係ないだろうな。
道三の遺言書は江戸期にそれぞれの家で保管されていたことがわかってるんだから
信忠の手紙と一緒にするのはどうかな?
190人間七七四年:2007/11/17(土) 18:12:35 ID:cQSZoD0j
風俗勤務女= 魔界 ◆RC3h9.WHho = 東芝産業システム社
191人間七七四年:2007/11/18(日) 05:49:37 ID:QvrTh33T
濃姫とは直接関係ない話だけど、道三塚って元々は崇福寺の横にあったんだな。
信長が崇福寺を菩提寺にしたのはそれも関係あるんだろうか。
192人間七七四年:2007/11/18(日) 15:12:48 ID:nbrDYf1d
BSジャパンで道三特集
193人間七七四年:2007/11/18(日) 17:01:23 ID:yQJuhK5m
岡山だけじゃなく鳥取も含めた池田家について徹底的に 
調べて研究すれば埃ぐらいは出てくるかもな。 
清洲会議も真田も斎藤末裔も全て池田が絡んでいる。 
そして信長だけだけでなく他二人の三傑近くに 
常に位置づいていたのも池田家。 
織豊時代を抜け江戸時代まで家が没落することもなく 
生き延びた信長側近中唯一といっても過言ではない 
それが池田家。まぁ内親王が降嫁して天皇家の姻戚でもある 
今となってはむやみに調べるのも難しいだろうけどな。
194人間七七四年:2007/11/18(日) 20:07:43 ID:zN6pxRuW
厚子様は、岡山でも微笑ましく見守られている存在だよな。

備前池田藩の史料はほとんど調べられているんじゃないかな?
ただ、有力者に関係ある物を中心にだから、新五郎や濃姫関係は
そこまで研究されていない気がする。
濃姫にスポットが当たるようになったのって、結局武功以降、
そして、岡田氏が発表した墓の存在の可能性以降だからな。
それまでは、歴史オタはともかく、史学的には調査対象じゃなかったからな。

池田家文庫
http://www.lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/
195人間七七四年:2007/11/18(日) 20:17:14 ID:XhE86P7a
濃姫の生母が土岐明智の姫というのを示す確かな史料はないとえばない。
それに後年濃姫生母が光秀の近親者であったとするのは、
光秀サイドの家系図等での検証からのようだし。
そもそも光秀家系図も怪しいし、諸説あるし、光秀の出自も明白ではないし。
光秀は同じ土岐庶流の妻木氏とは姻戚関係にあったのは確かなようだが…
濃姫生母が小見の方と呼ばれていたのが本当なら、母方は小見氏とか?
岐阜には小見山というのがあるので、そのあたりの豪族の娘だったとか?
濃姫生母は壷事件の頃には生きていたのは確かなのだけどな。
196人間七七四年:2007/11/18(日) 20:50:59 ID:zN6pxRuW
>>195
>光秀は同じ土岐庶流の妻木氏とは姻戚関係にあったのは確かなようだが

最近では、光秀自身が妻木氏出身で、何らかの理由で明智を名乗ったという説もある。
光秀の姉妹と、実父と思われる人物が、妻木氏なのだそうだ。
197人間七七四年:2007/11/19(月) 08:08:28 ID:1Dzj+nLi
濃姫は生母を小見の方とし、小見の方は土岐明智氏である。

濃姫は生母は小見の方であるが、小見の方の出自は不詳。

濃姫の生母は小見の方ではないが、土岐明智氏である小見の方という
道三の妻(正or側室)がいた。

濃姫の生母は小見の方ではないが、出自不詳の小見の方という女性が道三の妻
(正or側室)であった。

小見の方という名は地誌の上での創造上の名前である。


これらの可能性があるってことか?

確かなのは、濃姫は道三の息女であり、生母が壷事件の頃に生存していた
ということだけか。

光秀と濃姫になんの血縁関係もなかったというほうが、光秀マンセーの
光秀サイドの史料にそのことが全然触れていないということに納得がいくのだが。
198人間七七四年:2007/11/19(月) 12:51:48 ID:TBwBMC1F
>>197
濃姫の母が道三の正室でなかった(側室)とすれば、
壺事件の時、美濃国衆と信長の間に立って仲裁ができるかな?
数日後、信長が「禮」に行ったのは、この仲裁の謝礼だと思うのだが
199人間七七四年:2007/11/19(月) 14:15:53 ID:u5ufdf9X
>>198 濃姫生母が壷事件の仲裁をした、というのはどっからそんな話が
でてきたの?ソースを教えて欲しい。
濃姫の実母がいたのなら、婿さんの信長が挨拶に行くことに不自然さはないけど。

この場合「禮(礼)」は何かをしてもらったことへの「御礼」ではなく
目上のものへ挨拶をする、相手と親しみをこめて挨拶をする、という意味でしょう。
「しうとめ」に「禮」に行くという直前に、言継にも「禮」をしているとあるし、
単純な意味での挨拶だと思ってたよ。
200人間七七四年:2007/11/19(月) 14:27:36 ID:j5Lc3pfI
>>199
そうなると、日常的に信長は姑に「禮」をしていたんだろうか?
わざわざ屋敷に訪ねている訳だからな。
仲裁等々、壷事件に関わる「禮」ではなく、
日常的に挨拶にいく「禮」だとしたら、
姑と信長は相当親しい間柄ってことになるぞ。
201人間七七四年:2007/11/19(月) 14:48:44 ID:u5ufdf9X
>>200 そんなに親しい間柄ではないからこそ、婿が出向いたと思ったんだけど。
親しかったら城に呼ぶと思う。
親しい間柄じゃないと挨拶をしに行くのはおかしいかな??
恐らく初対面だろうし、仮にも相手が姑さんなので、
出向いていったと、俺はなんの疑問もなく思ってたけど変か?
お舅さんの道三には一度会った事があるようだが、
この時代他国の姫を嫁にもらって、その実両親と婿が面識を
持つことの方が珍しいだろうしさ。
城に呼ばず、わざわざ会いに行ったあたりで
もしかしたら病気見舞いとかかな、ぐらいは想像してたけど、
壷事件の仲裁に入って、信長が礼をしにいったというのは
なんの史料に書いてあるの?言継の日記にそれらしいことがあったの?
202人間七七四年:2007/11/19(月) 15:12:49 ID:j5Lc3pfI
壷事件の解決した三日後に「禮」に赴いてるからだと思うぞ。
それで、岡田氏がそういう説を唱えているんだな。
単なる挨拶の「禮」を、特に何もない時期にしにわざわざするのかって事だろう。

毎月1日には、「禮」に赴いてたとかだったら笑えるがな。

岐阜城は年配女性の足では登るのは大変だったろうから、
呼び出すとなると、輿だとかを利用した大掛かりなものになりかねない。
親しい相手に、そんな手間をかけさせるかな?

言継卿記
永禄十二年七月廿七日
晩頭佐藤錫携来 一盞受用了 故一色義龍後家壷可為所持 可被出之由信長連連被申
一乱之刻被失云々 尚於責乞者可自害云々 然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害
國衆大なる衆十七人 女子之男以上卅余人可切腹由也 仍中分失弗に治定
今日無事に成了 佐藤も十七人之内也

永禄十ニ年八月一日
早旦弾正忠所へ罷出 於門前曾禮申之 しうとめの所へ禮に被行 彼門前迄同道
山上城可見物之由被申
203人間七七四年:2007/11/19(月) 17:53:15 ID:bXB+hYUU
そんな遠くない所に住んでるようだし、いくらなんでも姑とは初対面じゃないだろ。
信長が美濃に入った時に顔合わせぐらいはあったんじゃないの。
204人間七七四年:2007/11/19(月) 18:27:51 ID:j5Lc3pfI
信長は、言継にも、城まで登ってくるのは大変だからといって
城下の夕庵の家までやってきて対面しているんだよな。
それを考えると、城に呼びつける事はしない気がする。

ところで、
>言継にも「禮」をしているとあるし
っていつの話?
京都で出会った頃?
言継卿記には、永禄12年の言継が美濃に滞在中に
信長が言継に対して「禮」をした記述はないと思うが。
205人間七七四年:2007/11/19(月) 19:11:41 ID:qfmIFHWY
高貴な身分の女性は平坦な道だろうが、山道だろうが
短距離だろうが長距離だろうが、御輿でしか
移動しないよ。御簾越しでしか顔も見せない時代なんだから。
登城しろということになれば、自分のところの御輿で
くるか、城から用意してもらったのに乗るかどっちか。
山城には専門の担ぎやもいたし、女だけでなく男だって
登城は一苦労だったそうだ。

「於門前曾禮申之」とあるので、言継は信長に門前で「禮」をした、
ってことでしょ?この場合は明らかに挨拶という意味。
そのあとのしうとめの「禮」も普通に解釈して挨拶程度のことなんじゃ?
しうとめが出張ってきて解決したのなら、佐藤もそのことを言継に
言うと思うんだけど。言継は壷事件のことは佐藤経由でしか知らなかったわけで
佐藤がしうとめのことを口に出さなければ、信長がしうとめのところに
仲裁のお礼をしに行ったとわかるわけもないじゃん。

永禄十二年七月廿七日の日記だって、佐藤氏が多少大げさに
斎藤一族や美濃国人衆の意地が信長を退けたんだ、どうだぁ!、
ぐらいの勢いで語っただけかもしれないよ。
誰でも勝ち戦は大げさに語るものだろうから、そんな大げさな事件でも
なかったと思う。実際信長公記をはじめ、他のどの史料にもそんな騒動のこと
でてこないし。
206人間七七四年:2007/11/19(月) 20:50:48 ID:TBwBMC1F
>>205
どこにも、
>斎藤一族や美濃国人衆の意地が信長を退けたんだ
とは、書いてないけどな。
義竜後家、信長本妻の姉妹16人が自害、美濃国衆17人と姉妹の夫(計30余人)が切腹を言い出す騒ぎになって、
誰かが仲裁して、「今日、無事になり了んぬ」
佐藤は、もちろん誰が仲裁したか言ったけど、言継は省略して書いただけ。
信長が結局、壺をあきらめたとはどこにも書いてない。
ただ、誰かが仲裁したことは「中分」という言葉で明らかだ。
そして、美濃国衆と道三の娘たちを説得できるのは、道三の正室だった、濃姫の母しかいない。

また、「しうとめ」という言葉は正室の母にしか使わない。
大名が、わざわざ自ら出向いて「禮」をするだから、単なる挨拶であるわけがない。
したがって、数日前の騒動の仲裁の謝礼以外に考えられない。
207人間七七四年:2007/11/19(月) 21:13:49 ID:WGkl4WL6
>>205-206
「信長本妻兄弟女子十六人 然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害
國衆大なる衆十七人 女子之男以上卅余人可切腹由也」は
信長の本妻の姉妹と、兄弟の妻子(元服してない男子も含むだろう)16人は自害
国衆17人と、姉妹の夫と元服済みの子供達合わせて30人あまりが切腹って事だろうな。

50人弱の、正室の身内の騒ぎだな。
確かに言継卿記以外に見られない事件だが、言継卿記が一次史料として
信長公記などよりも優秀なのは事実。
実際にあった事件と考えるのが妥当だろう。

確かに、姑への「禮」は挨拶かもしれないし、仲裁のお礼かもしれない。
仲裁のお礼と考える方が自然のように思うが、
もし仮に、日常的に信長が姑の屋敷へ挨拶に赴くような仲であったとするならば、
かなり親しい間柄という事になるだろう。
正室の母親と一生会う事もないというのが普通の時代だからな。
208人間七七四年:2007/11/19(月) 21:32:30 ID:I64rKitr
>>206 
「中分」というのは妥協という意味もある。
本当に壷もなさそうだし、死ぬのなんのと国人衆までもが騒ぎ出したので
信長が妥協したので、誰も死ぬことなく事態が収拾した、という解釈だって
なりたつのでは?

間に入った仲裁者が濃姫母だといっても、そもそも濃姫は義龍が実父の仇で
当然道三の正室であったのなら濃姫生母にとっても、義龍は夫の仇。
美濃にいた斉藤一族は義龍&龍興派であったろうから、義龍後家をはじめ
義龍の親族に濃姫生母が仲裁出来る立場であったかどうかは疑問。
濃姫も実父の仇ゆえに離縁して義龍のもとに返ることは絶対ないという
主張もあったが、壷事件ではどういうわけか義龍の後家に肩入れするとなると
かなり矛盾している。

しうとめが正室の母にしか使わないというが、濃姫が正室なのだから
当然では?しうとめ自身が側室であっても、信長の正室の母には違いないのだから
「しうとめ」と記載して何の問題もないぞ。古語辞典をみても
「夫もしくは妻の母」となっていて、姑が正妻であることに限定はしてない。
209人間七七四年:2007/11/19(月) 21:41:37 ID:WGkl4WL6
>>208
>美濃にいた斉藤一族は義龍&龍興派であったろうから、義龍後家をはじめ
>義龍の親族に濃姫生母が仲裁出来る立場であったかどうかは疑問。
おいおい、佐藤は新五郎を養子にしているし、義龍&龍興派ではない美濃の国人衆も
信長について美濃に戻っている者が多いんだぞ。
義龍後家は浅井家縁者と言われていて、この時期、浅井家縁者なら
義龍の後家であっても退けるような時期でもないし、
龍興でさえ殺さず追放ですませているんだから、
その他の親族にしても、それほど敵対関係にあったと思えないがな。
210人間七七四年:2007/11/19(月) 22:07:27 ID:I64rKitr
>>209 道三の正室や濃姫にとっては、義龍が敵というのは変わらんわけでしょ?
それに関しては、濃姫離縁説を反対する根拠の一つであったわけだし。

義龍や龍興の治世下では、少なくとも濃姫と義龍&龍興一派は没交渉のはず。
完全に織田家と敵対関係にあったから。
濃姫生母が美濃でどのような状況下に置かれていたのかはまったく謎だが
道三があのような最期を遂げたのであれば、義龍の生母でもない限り
厚遇されていたとは思えない。
そう考えると、濃姫の生母が斎藤一族にさほど影響力があるとは思えないんだよな。
それに濃姫だってなんで会ったこともない義龍後家のために、死ぬのなんのと
騒いで騒動を大きくしているのが、信長の奥方としてあるまじき行為としか
思えない。

もし、義龍と濃姫が同腹で、しゆうとめというのが義龍の生母であったとするなら
後家にとってもしゅうとめだし、一族にとっても大方様もしくはお袋様ということで
影響力はあったろうけど。

もしくは「本妻の兄弟姉妹〜」という解釈で、あくまで濃姫は圏外にいたとか。
211人間七七四年:2007/11/19(月) 22:09:08 ID:bXB+hYUU
生きてる時には対立してた道三と義龍だけど、死後は親子として常在寺で一緒に弔われてるんだよな。
212人間七七四年:2007/11/19(月) 22:09:38 ID:TBwBMC1F
「しうとめ」が道三の正室なら、義竜後家も、「義理の娘」。道三のほかの娘たちも、「娘同然」。
説得されれば、仲裁を受け入れるのは当然。
213人間七七四年:2007/11/19(月) 22:30:33 ID:I64rKitr
>>212 そこまで斎藤家に影響力があるのなら、美濃国内に
濃姫生母で、道三正室であったしうとめの墓が確認されていないのはなぜ?
道三正室で、義龍にとっても御方様という立場なら常在寺に墓か
せめて位牌ぐらいあっても当然だろうに。
しかも娘同然の女性がそんなに大勢美濃国内にいたのでしょ?
214人間七七四年:2007/11/19(月) 22:35:13 ID:WGkl4WL6
義龍は小見の方の腹って説は確かにあるんだよな。
江戸期の史料だが、そのように書かれているものがある。
義龍に殺された三男が深吉野の腹とそれでは書かれていたかな?
濃姫の出自は、その史料には書かれていなかったように思う。

結局のところ、その辺りわからない訳だがな。

それに、義龍は死亡、龍興は既に美濃におらず、その一派であった国人衆も
追放されるか、信長に恭順しているかっていう時期だしな。
壷事件の斎藤家側が義龍&龍興一派と言っているが、むしろこの時期には
義龍&龍興がいない以上、新たな支配者たる信長の正室が中心になっていると
考える方が妥当。
義龍&龍興時代には、小見の方は厚遇はされていないだろうし、
小見の方が本当に明智氏であったなら
明智氏は道三についたため義龍に攻められ離散しているが、
女性を追放や殺害はしないのは、最低限の礼儀。
それらの処遇をも含んでの人質ではなく、曲がりなりにも父親の正室か側室。
寺や庵を結んでひっそり隠棲というのが、普通だと思うぞ。
それが、信長が美濃を平らげて復権というところだろう。
215人間七七四年:2007/11/20(火) 07:01:45 ID:AtshbdIr
>>女性を追放や殺害はしないのは、最低限の礼儀。

信長は浅井氏の生母を世にも残酷な殺し方で処刑したぞ?
実妹の姑さんだったのに。
一族婦女子まで全員焼き殺したというのもあったがな?
秀吉なんて秀次の妻妾子皆殺しだぞ。実の甥の一族なのに。
戦国期なんてケースバイケース、勝手に礼儀だとか決め付けるなよ。
濃姫生母が復権して、美濃で新支配者の奥方の生母、旧支配者の長老として
大事にされていたというなら、斉藤家の菩提寺のどこにも道三正室の墓がないのは
なぜなんだ?濃姫生前中に亡くなったろうし、信長生前中なら
美濃で立派な葬儀をあげてもらえたろうにな。
新五郎も生きてたし、その他腹違いでも「娘同然」であるはずの
濃姫の姉妹も大勢生きてたんだから。

道三が正室を娶ったという記録すらどこにも残されていないのだから
誰が道三の正室だったかなんて誰にもわからん。
そういう前提のもとに考察をすれば、濃姫生母は道三正室だ、
と証明できるような証拠はなにもないのだから、そんなに偏った意見ばかり
でるはずもないのに、濃姫は嫡子だ、という思い込みが強すぎて
こじつけ感の強い不自然なレスが目立つな。
216人間七七四年:2007/11/20(火) 08:17:19 ID:gQOEUdyR
>信長は浅井氏の生母を世にも残酷な殺し方で処刑したぞ?

>一族婦女子まで全員焼き殺したというのもあったがな?

それを行った背景を全然考慮していないじゃないか。
浅井の生母を処刑したという嶋記録も、信用できない史料とあなたが言っている
明智軍記や美濃国諸旧記と同じ程度に、浅井側に有利に書かれている部分も
多いのだけどね。
嶋記録は姉川合戦については、詳しい史料ではあるけれど。

信長に限らずだが一族を処刑する場合、きちんと背景がある。
裏切り行為や、何度も交渉を拒否しているなどな。
荒木などがいい例だろうか。
それらと、斎藤義竜と道三の正室(または側室)の処遇問題を一緒にする方が
詭弁だと思うのだがな。
217人間七七四年:2007/11/20(火) 09:01:02 ID:D5eN7RMX
>>215では>>>>女性を追放や殺害はしないのは、最低限の礼儀。

と断言しているので、手っ取り早く違う例をだしただけだろ?
その他敗将の婦女子が殺される、あるいは奴隷として売買されたりと
悲惨な例はいくらでもある。
礼儀だと断言しておきながら、それ以外のケースはどう説明するんだ?

信長のケースの真偽がどうのというなら、濃姫生母の話の
信憑性ある史料とはなんだ?言継日記に信長が面会に行ったと、その時登場している
だけじゃないか。
騒動の時に明らかに濃姫生母が仲裁に入ったと明記などされてない。
ましてや道三の正室だ、土岐明智出身だ、などとは地誌にすら一言も
書いてないがな。

それなのに、濃姫実母は道三正室で、濃姫生母なので、
信長にも斎藤一族や嫁に行った姫達にも影響力があったと主張する。

そこまでいうなら、なぜその後彼女は美濃のどこにも足跡を残してないのだ?
218人間七七四年:2007/11/20(火) 09:23:23 ID:xRDpKcW0
>>217
濃姫もその後の足跡はさっぱりなんだから、
濃姫生母もさっぱりなのは仕方ないんでは。
しかも、墓とかどこにもないというけど
あんた自分で調査に行ったりしているわけ?
自分で斉藤家菩提寺や心当たりの場所を調査なりしたけど、
濃姫生母のことが何も出てこなかったって事は確かなんだろうね。
219人間七七四年:2007/11/20(火) 09:39:22 ID:xRDpKcW0
>>215
>濃姫生前中に亡くなったろうし

あんたも思いっきり決め付けてるし。
濃姫が亡くなった時期は特定できてないでしょうが。
なんで、濃姫生母が濃姫より先に亡くなったと断言できるの?

自分は不確かな情報でも決め付けて、人の意見はまるで受け付けないんでは
全く議論にならないんじゃないの。
220人間七七四年:2007/11/20(火) 09:42:41 ID:gQOEUdyR
>>217
>>214では
>女性を追放や殺害はしないのは、最低限の礼儀。
>それらの処遇をも含んでの人質ではなく、曲がりなりにも父親の正室か側室。
と、書いてあるんだがな。
それらを前提とする例が、浅井氏生母や荒木一族だ。
221人間七七四年:2007/11/20(火) 09:43:19 ID:D5eN7RMX
>>218 なんで濃姫の足跡と関係あるの?
濃姫生母は濃姫長寿説を採用すれば、濃姫生前中に亡くなっているだろうし、
美濃には濃姫の嫁いだ姉妹や斎藤一族がいて濃姫生母を母とあがめ
影響力があったと皆さん主張してるんだから、その人たちだって
放ったらかしにはしないでしょ?
濃姫生前に亡くなっていれば、道三と同じ寺に埋葬されないまでも、
位牌ぐらいは常在寺でつくって、供養しただろうさ。

少なくとも道三の菩提寺である常在寺には正室の位牌も墓も確認できなかったよ。
ちなみに濃姫の墓や位牌も。

明智の菩提寺とされる寺にもきいたけど、道三正室の墓や位牌は存在してなかった。
222人間七七四年:2007/11/20(火) 09:47:46 ID:D5eN7RMX
>>219 おや?
こちらはみなさん濃姫長寿説じゃないと納得いかないようなので
例えとしてそう書いただけ。

長寿ではなかったらいつお亡くなりになったと思っているのですか?

信長御台として華やかなころなら、なおさら生母の葬儀などは
きちんとしたでしょうね。

信長死後織田家が没落して、ひっそりどこかで亡くなったとしても
濃姫生母を母と崇める兄弟姉妹は生きていましたが?
道三の菩提寺に位牌所をもうけることもなく、みなさんスルーですか?
223人間七七四年:2007/11/20(火) 10:02:08 ID:xRDpKcW0
>>221
あんたが、正室なら足跡が残らんのはおかしいというから
濃姫は正室だったのに足跡がないので、例としてあげたんだけど。
そんなことも言われないとわからんなんてねえ〜
鈍いよねえ〜
濃姫以外でも滅んだ家の場合は女性に関する記録に残りにくいから
不明になってしまうこともあるということじゃないの。

>>222
>濃姫長寿説じゃないと納得いかないようなので

これも思いっきり決め付けじゃないの。
誰も長寿説を証明できないから、早世説なり離縁説まで出てきているんでしょ。
あんたは長寿説を証明できるの?
ならやって見せてよ。
224人間七七四年:2007/11/20(火) 11:02:12 ID:kxtt/uUY
>>223 ただの感情的なレスなら書かないほうがいいぞ。
スレ上は荒らしでしかないな。
だいたい早世、離縁説に対して以前あれだけ攻撃的なレスが続いて
スレが荒れたのだから、決め付けるのもなにもないだろうに。
誰がみたってここの住人は長寿説を前提に考察をしてるし、
それならそれにあわせた考察をすればしたで、長寿説を証明しろとは
ずいぶん自分勝手な理屈だな。

ちなみに以前離縁説を主張していたのは俺だよ。
全然別のアプローチで、濃姫が信長の本妻だったという前提で
検証をはじめたらこの流れ。
まぁ想定内だがな。
これだけ史料に乏しい人物の検証なんてしょせん仮定での空論なんだから、
反対レスに矛盾が生じるのも無理ないが。

土岐明智は江戸期も庶流があちこち残っているが、本当に
濃姫の生母が土岐明智氏なら道三と婚姻したという
なにかしらの記載が残っているはずだけど、それすら現段階では
確認されてない。
濃姫はそのへんは確かに信長の正室であったとあちこちの史料から
確認されてる。

濃姫の実母に関しては濃姫よりも足跡がないというのに
道三正室だと信じてる連中はなにを根拠にそんなに信じ込めるのか不思議なもんだ。
225人間七七四年:2007/11/20(火) 11:59:17 ID:YxBUmHKt
それを言い出したら、信長の生母だって、
ずっと土田御前だと信じられているが
その根拠が捏造前提の寛政譜や武功夜話だしな。
津島大橋記を最初に指摘したのは、
10年程前に載った雑誌の文章だろ?
信忠の生母にしろ、生駒と信じられてきたし、
今は結論が出ていない状態。

あの有名で足跡残りまくってる毛利元就の養母でさえ
墓も何も分からない。

基本的の女性の足跡は、史学上は長く重要視されてこなかったしな。

自分は濃姫は妙覚寺辺りに足跡が残ってないか問い合わせた事があるんだが、
濃姫が生存してたとされる頃の記録は散逸して、濃姫に限らず残っていないそうだ。
226人間七七四年:2007/11/20(火) 12:20:48 ID:xRDpKcW0
濃姫の生母が果たして「小見の方」と呼ばれていたかもはっきりしてないんでしょ。
正室だったか、側室だったかはわからないとしても
壺事件後に信長が訪ねているくらいだから、
それなりに信長が禮をつくすほどの関係だったってことぐらいしかわかってないし。
あと、道三や義龍の墓の近くに、道三正室らしい墓も全く確認できないなら
義龍の生母は道三正室だったとされているけど、もしかしたらそうじゃなかった
可能性もあるってこと?道三は正室をもたなかったってことになるわけ?

227人間七七四年:2007/11/20(火) 14:07:06 ID:YxBUmHKt
>>226
>義龍の生母は道三正室だったとされているけど
されていない筈。

義龍は側室腹と長らくいわれてきている。
確かに小見の方の子供という話が伝わる史料もあるが、
大抵は深芳野の子供とされている。
深芳野は土岐頼芸の元側室で道三に払い下げられた道三の側室。
深芳野を正室とし、小見の方が嫁いで以降側室にされたという説もあるが
これは当時の奥の慣習からはあり得ない事なので、後世の創作と考えられている。
ただし、小見の方が嫁ぐ以前に義龍は誕生し、嫡男とされているので、
正室腹の孫四郎を嫡男に据え直そうとしたのが、義龍の謀反の理由と考えられている。
そのときに、土岐頼芸の種であるという噂を利用したとされる。
義龍自らは「范可」と名乗っているので、道三を父とは考えていたようだが
(種はともかくとして)、実際に土岐氏の血筋と考えていたかどうかは不明。
一色とは名乗っているが(深芳野が一色氏息女という説がある)、土岐とは名乗っていない。
228人間七七四年:2007/11/20(火) 15:50:07 ID:DlpaEfK0
>>225
>信長の生母だって
>津島大橋記を最初に指摘したのは、
>10年程前に載った雑誌の文章だろ?
金山記に森可成の正室妙向尼の母親は、
林氏息女で信長の別腹の妹という話が載っている。
しかし、これを素直に読むと、信長は林氏息女が生母という事になる。
妙向尼は信長の姪という事になるが、
妙向尼の父親は林氏で、元々は美濃の斎藤家家臣。
林家覚書によれば、濃姫の供回りとして尾張に移り、信長に使えたとされる。
また、妙向尼の兄は森氏の家臣になったとされる。
しかし、妙向尼の母親は不明なのだが父親と同じ林氏とは考えにくい。
母親の記載を間違えているのか、父親の記載が今ひとつはっきりしないところから
父親が林氏の婿養子なのかとも思える。
母親が林氏じゃなく小嶋氏だったら面白かったんだがなぁ。
他の家系図では、森可成の父親の妹が妙向尼の母親という説もある。

信長の生母に限らず、色んな説があると言う事だな。
229人間七七四年:2007/11/20(火) 15:53:08 ID:xRDpKcW0
>>227
はっ?
最近の研究では、義龍は深芳野の子供ではなかったと聞いているんですが。
230人間七七四年:2007/11/20(火) 17:38:48 ID:ffKsIkLk
>>229
これについても、決定打は無いわけで、ハッキリ言って「わからない」
としか言いようが無い。斎藤氏は資料が少な過ぎるな・・・
231人間七七四年:2007/11/20(火) 17:51:12 ID:WyqJoXkc
信長ほどの有名人の生母すら誰だかはっきりしないんだから困るよな。
研究だって年月と共に二転三転。
5年後ぐらいには信長生母は土田御前っての古い説になってる可能性もあるし。
232人間七七四年:2007/11/20(火) 18:18:27 ID:DlpaEfK0
>>229
深芳野の子供ではなかったと確定している訳ではないよ。
深芳野の子供ではなく、小見の方とする史料もあると発表されているだけ。
他にも確か、別の女性が生母だという説もあるな。

道三正室の腹という説は、義龍の生母を小見の方とする史料からの物と、
深芳野が生母で、正室だったのを側室に降格されたという後世の創作からの物。
233人間七七四年:2007/11/20(火) 19:20:53 ID:QLCYF0RN
老侍女頭おのう
234人間七七四年:2007/11/20(火) 19:49:12 ID:OkPQTGNP
深芳野の話って「美濃国諸旧記」に書いてあるだけでしょ?
違ったかな。
大永6年12月に道三の側室になって、翌7年6月10日に義龍が誕生した
ので月足らずだから頼芸の胤だろうって話。
道三のこともこの史料はかなり矛盾が多いし、
深芳野の話も怪しいと思う。

義龍生母が小見の方という説があることは初めて知ったが、
稲葉良通の姉妹であるとする史料は残ってるよ。
江戸期編纂の「翁草」ともう一つあった。
どっちも信憑性は「美濃国諸旧記」と似たり寄ったりかな。
ちなみに義龍生母が稲葉氏、孫四郎の生母が濃姫生母、
喜平次生母が深芳野と桑田忠親氏は推測してた。
確かに稲葉良通が道三を裏切って義龍についたあたりで、
生母の実家として利益がからんでのことかもしれない。
桑田氏の斎藤道三の考察はかなり掘り下げてあって興味深いよ。
235人間七七四年:2007/11/20(火) 20:00:46 ID:OkPQTGNP
連投ごめん、書き忘れた。

中世史の専門家である勝俣鎮夫氏の道三と義龍の考察も面白いよ。
従来の説を否定して、家臣による強制家督相続(道三の強制排除だったかな?)
の結果、道三が挙兵して敗れたとしてる。
家臣主導によるお家騒動としている点で、武田信虎と信玄のケースに似てるかも。
そう考えると、斉藤家の話はそんなに特殊なことではなく
戦国時代ならどこの家でもありえる話だった、という側面もあるんじゃないかな。
236人間七七四年:2007/11/21(水) 11:50:56 ID:ASxSJQmK
義龍の父親殺し云々に関しては義龍が「范可」と名乗った時期が
道三が亡くなる前から禁制などで確認されているので
(例えば弘治元年12月に岐阜の美江寺に「斎藤范可」の署名で禁制をだしている)
父親殺しの中国故事に従って「范可」と名乗ったとする、信長公記の
記載に矛盾が生じる。
道三が挙兵し逆らわなければ、義龍は道三の命までは
奪うつもりはなかったのではないだろうか?
武田家も信虎を追放して実権を完全に掌握したら命まではとろうとしてはない。
道三が素直に応じることなく織田に援軍を求めたり、
明らかにお家騒動をきっかけに美濃が他国から攻め入られる危険があったので、
仕方なく道三が殺された、という見方も確かにできるよ。

そうなると、濃姫は実家のそういう騒動をどういう立場で見ていたかというのも
重要になってくるんじゃないか?
美濃国大事、斉藤家安泰が大事、となれば家臣から叛かれ味方もいなかった
道三の死は仕方がない、ととるか、あくまで実父を殺した義龍は仇、ととるか、
それによって濃姫と織田家との関係も違ってくると思うな。
237人間七七四年:2007/11/21(水) 12:04:38 ID:woGHuA5u
美濃の連中は足手まといだぞ
238人間七七四年:2007/11/21(水) 12:55:53 ID:Q5gc6Ufv
>>236
どんな理由があるにせよ、実父を殺されて仕方ないと思う娘はいないと思う。

義龍は織田家と仲良くするつもりは毛頭ないし、
濃姫生母が道三の死後にどういう扱いをされたかにもよると思うけど。
あきらかに義龍と濃姫は別腹で、濃姫生母が不遇の立場に置かれていたなら
義龍側につくとは思えない。
また、壷事件から考えると濃姫は織田家を出て、
義龍の所へいったという事実もなかったのではないかと思うけど。
239人間七七四年:2007/11/21(水) 14:29:07 ID:MbgNNnQF
>>238 両家の確執のために離縁した、というところまで飛躍しなくても、
夫婦仲は微妙になってくるんじゃないか?

反対勢力をやっつけて、家臣の総意のもとに義龍が斉藤家を継承したのだとしたら、
道三の遺言書なんてなんの効力もないし、第一他家の婿を
後継者に指名したところで、家臣や美濃国人衆は誰も承知しないでしょ。
そうなると斉藤家からしたら美濃侵攻は織田家の侵略行為でしかなくなる。
奥方の立場としたら微妙だろうと思うよ。
建前は敵討ちだの、国譲状だのといったところで、お家騒動のどさくさに
乗じて信長が前から狙っていた美濃をゲットしようとしているのはあきらか。
義龍が亡くなったらさらに激しく侵攻を始めてるしな。
自分の故郷が旦那の侵略で焼け野原にされる、自分が住んだ
かつての城が丸焼けに…と思ったら平気ではいられんだろう。
伊達政宗のところも奥方の実家を伊達家で乗っ取ったみたいになって
夫婦仲がしばらくぎくしゃくしていたらしいし、信長夫婦も
仲が良かったとはたして断言できるかどうか?
240人間七七四年:2007/11/21(水) 15:06:12 ID:EyHCmlM+
斎藤家の全部が義龍についたならそうなるかもしれないが、
斎藤家や国人衆でも義龍につかず、信長を頼ったりした者は
そこそこいた訳だしな。
美濃衆が義龍死後、義興追放後、織田家中において重用されている事を考えても、
美濃が全て義龍に傾いた訳じゃないと思うんだよな。
新五郎にしても、濃姫と同腹という説もあるんだが(異腹説の方が有力だが)、
織田家中ではかなり優遇されているしな。
241人間七七四年:2007/11/21(水) 15:28:26 ID:MbgNNnQF
重用、優遇を条件に寝返りに応じるわけだから、それは
美濃衆と織田とに限らないんじゃないの?
追いつめられてぎりぎりで投降してきた敵将なのに恭順の意をみせれば
家臣にして重用されていることってたくさんあるじゃん。
蒲生氏郷親子もそんなんじゃなかった?
氏郷が人質にされてたけど、元々敵方だったのに織田家一門で大活躍してた。
義龍は早く亡くなったし、龍興は若く主君の器がなかったと
いうことだし、斉藤家を見限っておいでおいでしてくれた信長になびいていった
美濃衆が続出したのも仕方ないよ。
稲葉一鉄なんて主君チェンジはすごいよ。
土岐→道三→義龍→龍興→信長→秀吉
それぞれの当主から信任厚くて、どんどん出世してる。
主君変えは出世のチャンスでもあったんだろうね。
242人間七七四年:2007/11/21(水) 16:08:32 ID:Q5gc6Ufv
>>239
実際問題、夫婦仲なんて当人同士にしかわからんのに
勝手な憶測で仲が良かった、悪かったなんて言うのもどうなん。
斉藤家美濃衆がこぞって信長についていったのは事実だし。
濃姫だって父が死んだ後、頼りになるのは夫だけなんだし。
美濃衆同様ついていったとしてもおかしくないんじゃw
243人間七七四年:2007/11/21(水) 16:54:16 ID:4Ku523eL
信長の野望に濃姫が夫唱婦随していたのか
苦々しく思っていたのか妄想の域を出ないよ。
色んな可能性を考えて検証するのは楽しいけど。

道三の末子の斎藤新五は美濃攻略で大活躍をしているので、
新五は織田家が斎藤家を追い払って美濃をgetとは思っていないでしょう。
親父の無念を晴らしたと考えて良いと思う。
まあだからと言って姉と弟が同じ思いかどうかもわかんないけどね。

道三の死から美濃攻略まで、信長は幾度も修羅場をくぐり抜けており、
濃姫もともに生活していたのなら、
美濃攻略で夫婦仲がぎくしゃくって可能性は低いと思う。
夫婦仲が悪いのならもっと前から悪いだろうし、
運命共同体として良好な関係なら
美濃攻略後でも夫婦仲は変わらなかったと思う。
(これまた妄想の域を出ないけど)
244人間七七四年:2007/11/21(水) 17:18:13 ID:OTioOdpd
>>242-243 結婚当初から形式的な仮面夫婦であったという前提では
考えたことないの?
武家の場合、離縁するだけの強い動機や原因がなければどんなに
冷め切った夫婦でも形式上は沿い遂げるよ。
245人間七七四年:2007/11/21(水) 17:43:02 ID:Q5gc6Ufv
>>244
っうか、仮面夫婦だったと推測できる史料も特にないわけで。
なのになんでこうも不仲説を唱えたがるのか。
これも武功の影響か??

滅ぼされた家の娘が、滅ぼした当主の側室になったり
子供を生んだり普通にあったわけで。
まして、恋愛結婚なんて皆無だった時代の武家の男女について
一夫一婦制の時代に生まれた我々が理解できるはずないし。
政略結婚だから不仲に違いない〜という単純な図式でしか
ものを考えられないゆとり脳にはわからんみたいだけどw
246人間七七四年:2007/11/21(水) 18:19:47 ID:OTioOdpd
>>245 だからといって夫婦仲が良いと推測できるような史料は何かあるのか?
唱えたがるもなにも、素朴に思うのだけどね。

信長夫妻が利害関係上つながっていた仮面夫婦、であって何か都合悪いのかな?
利害関係でつながった夫婦だから、感情的にならず、
双方のことを邪険にすることもせず、表面上波風立たない夫婦でいたのだろうから、
別にかまわんじゃないの。
生駒も同じ政略的に側室になったのに、生駒はただの側室、正室格などでは
なく信長の愛情もその他大勢の側室と変わらない、と生駒のことは頭ごなしに
否定的だけど、ずいぶん矛盾してますねぇ?
247243:2007/11/21(水) 18:49:17 ID:4Ku523eL
>>結婚当初から形式的な仮面夫婦であったという前提では
考えたことないの?

仮面夫婦として結婚当初から本能寺まで過ごした可能性は否定しないよ。
自分はおしどり夫婦だったとも断定していない。

>>感情的にならず、
双方のことを邪険にすることもせず、表面上波風立たない夫婦

十分ありえると思うよ。
信長は義務として正室を庇護し、濃姫も正室としての務めを静かにまっとうした。
数多くの側室達も己の務め(性欲処理と子産みマシーン)を忠実に果した。
で、信長の恋愛相手は小姓達だけだったのかもしれない。

なんか、あの世で信長や濃姫が苦笑(いや、激昂しているかも)していそうなんだけど。。。
248人間七七四年:2007/11/21(水) 18:54:21 ID:EyHCmlM+
>>246
>生駒も同じ政略的に側室になったのに、生駒はただの側室、正室格などでは
>なく信長の愛情もその他大勢の側室と変わらない、と生駒のことは頭ごなしに
>否定的だけど、ずいぶん矛盾してますねぇ?

情が大勢の側室と同じか否かはともかく、正室格ではないのは事実だろうしな。
情の部分は当人達以外誰にも分からんさ。
生駒と同時に坂、冬姫生母なども側室にいたのは事実だろうし、
抜きん出たと想像できるものが、ないからな。
武功がウケたのは、それまで女性に対して淡白と評されていた信長が、
実は一人の女性に入れ込んでいたという意外性も一つの要因だ。

ただ、信長がぜひとも側室に迎えたいと惚れ込んだとされる女性が
全く史料に残されていない訳ではない。
公家の史料などからは、三条西息女などは、信長が政略を超えて
側室に望んだと考え得る記述があったりする。
249人間七七四年:2007/11/21(水) 18:56:30 ID:QXzMWD+o
生駒は吉乃最愛の人説が小説や大河で大流行して、それを鵜呑みにしちゃった人も多かったけど
武功の信憑性が低いとわかった時に、それまでの反動で否定的な意見も多くなったんだろう。
死んだ離縁したと言われてた濃姫はその逆で見直されたと。
不仲だったのか、仲が良かったのか、お互いに割り切った関係だったのか
史料が少なすぎてわからないけど、信長が斎藤家を邪険にしてたという様子は見えないよな。
250人間七七四年:2007/11/21(水) 20:42:25 ID:075CFRud
濃姫の場合、離縁して実家に戻らなかったという点で義龍に近いという考えはならないと思う。
政略結婚で考えた場合、道三死亡によって織田と斎藤の同盟は解消された。この点では織田家
には濃姫を正室におく価値はない。
ここから推測になるが
濃姫が義龍に近い(少なくとも敵対するような理由がない)。
濃姫が信長と不仲。
この二点が存在したのなら、濃姫にはもう織田家に残る理由はない。さっさと離縁でもして兄の
庇護下にはいればいい。
251人間七七四年:2007/11/21(水) 23:10:04 ID:eBxvMHDx
>>237
捏造と歴史改ざんの生駒家よりはずっーとましだと思うがなw
252人間七七四年:2007/11/21(水) 23:22:38 ID:eBxvMHDx
>>246
>生駒も同じ政略的に側室になったのに、生駒はただの側室、正室格などでは
>なく信長の愛情もその他大勢の側室と変わらない、と生駒のことは頭ごなしに
>否定的だけど、ずいぶん矛盾してますねぇ?

ぷっ、生駒が正室格だったという証拠になる文献がありますかな。
捏造文書の武功夜話しかないのでは、話になりませんなあ。
それほど思われていたわりには、生駒家は織田家では全く取り立ててもらっていませんが?

しかも、子供の待遇を見ても

信忠(濃姫の養子)で嫡子>>>>>>>>>>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信雄(生駒女の息子)

であることは明らかに明白。

いやはや
くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwwww  くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwwwww
253人間七七四年:2007/11/21(水) 23:36:57 ID:eBxvMHDx
どんなに濃姫と信長の不仲を煽っても
信長にとっての優先順位は

濃姫(道三息女で織田家正室=信忠の母)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>生駒(馬借の娘)

であるのは、明白。

どんなにあがいても生駒は濃姫にはなれん。濃姫以上の存在になることはできん。

くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwww  くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
254人間七七四年:2007/11/21(水) 23:50:55 ID:eBxvMHDx
どんなに生駒が煽っても
信長のねねへの心遣いあふれる手紙を見れば

正室>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>側室

であることは、明白。

くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwww  くやしいのぉwwwwwwwwwwwwwwww
255人間七七四年:2007/11/22(木) 08:23:06 ID:HQqYH9jP
>>250 >>道三死亡によって織田と斎藤の同盟は解消された

濃姫は義龍の実妹なんだから同盟継続だよ。
もっとも道三ほど後見は期待できない形式だけの同盟だった可能性大だけど、
とりあえず他国からみても織田と斎藤は同盟国だから、
両家へのちょっかいもむやみに出来ない、という効果はあったはず。
信長は当時尾張統一以前で親族に敵だらけ、今川の脅威もある状態で
好んで大国美濃を敵にまわすわけがない。

なので
>>濃姫を正室におく価値はない

どころか、価値があったと判断すべき。
美濃侵攻を本格的に始めるのは尾張統一後、桶狭間の後。
国内外から攻め込まれる心配がなくなって初めて
美濃への侵攻を本格的に始めた。
それまでは信長も内外敵に囲まれながら
大国美濃を相手にするだけの兵力も、余裕もないよ。
西美濃侵攻は同盟解消しての侵攻になるので、その時は
濃姫に実家に戻るか、織田家にとどまるか、の選択が迫られた可能性はある。
その時はもはや濃姫が織田家にとどまる価値は両家にとってなくなってるから。
そうなると、兄妹なので、あくまで濃姫を返せと迫ったか、
あるいは自己責任で濃姫の意志に任せたか、推測の域をでないけど
状況的に離縁の可能性はこの時期しか考えられない。
そうこうしているうちに美濃侵攻翌年に義龍が急死してしまったので、
織田家にとどまったまま、となったんじゃないかと思うよ。
甥の龍興が家督を相続した時はすでに織田家とは敵対関係にあったから
濃姫を返せのなんのとはその後に及んでは言わなかったろうと思う。

ただ↑だから夫婦仲が良かったとは結論付けられないよ。
濃姫の場合義龍に追われた弟のこともあったし、
信長の行為に賛同しかねることがあって気分を害していても、弟や家臣のために
織田家に残った方がいいと判断したから、残ったのかもしれないしね。
256人間七七四年:2007/11/22(木) 08:36:17 ID:tPR4fBee
>>255
>濃姫は義龍の実妹なんだから同盟継続だよ。
信長が同盟を結んだのは道三。
道三と敵対関係になったのは義龍。
同じ斎藤氏と言っても、道三系斎藤氏と義龍系斎藤氏は
区別して考える必要がある。


信長が義龍と道三の敵対関係に口を出さず、
道三に明らかな肩入れをしていない状態なら、
同盟継続の道も残されていたが、
信長は自ら軍を率いて道三の援軍に向かっている。
国のトップがすげ変わる戦いの、一方に肩入れしている訳だからね。
その時点で、濃姫が義龍の異腹妹であったとしても、
義龍と信長の同盟は成り立たないよ。
信長は道三の味方をし、それを義龍が追い払っているんだから
同盟を継続していると考える方に無理がある。
257人間七七四年:2007/11/22(木) 08:36:59 ID:tPR4fBee
その後、一時的に小康状態になったのは、
ある意味和睦であって同盟継続にはならないよ。
258人間七七四年:2007/11/22(木) 09:12:47 ID:ulvAONM7
しかも、信長公記に書かれていたと思うけど
義龍の刺客が出て、信長が追っ払ってるじゃん。
なんでこの状態で同盟関係なわけ?
ありえん。
しかも同盟は一代限りという条件だよね。この時代は。
父親のころは同盟していても息子の代になったら
あっさり敵対関係なんて他の大名家でもよくある話。
また、義龍が信長と同盟関係だったら美濃に攻めることはしないんでは。
つーか、信長が道三に援軍を送った時点で義龍との同盟話は実現せんわな。
259人間七七四年:2007/11/22(木) 09:35:18 ID:HQqYH9jP
>>256
織田家からしたら、道三から息子であり、濃姫の実兄である
義龍に家督相続がされたのだから斉藤家との同盟に支障をきたす
理由はなにもないよ。
家督相続人が道三直系でなく、第三者に分捕られて斉藤家が継承された
というならまだしも、義龍が継承し、濃姫が信長の正室におさまっている以上
は同盟関係は持続してると考えるべき。
お家騒動による親子間との諍いは第三者との敵対関係とは次元が異なる問題だよ。
斉藤家はともかく織田家にとっては斎藤との同盟解消に何のメリットもないから
織田家から言い出さない限り、同盟は自動的に継続してただろう。
武田と今川も信虎がお家騒動で今川に追放されたが、信玄の妹を嫁がせ
信虎が今川と結んだ同盟は信玄の代になっても継続していたぞ。
信長が援軍を送ったといっても一戦交わったわけでもなく
道三がなくなるや否やすぐに引き返してるとされているけど
そのあたりのことも諸説あって定かじゃないし、
挙兵すら間に合わなかったという説もある。

明らかに義龍と一戦を交えた美濃侵攻をもって同盟解消とするべきで
>>257のいう和睦や小康状態は同盟継続が背景にあったからに
他ならないと思うが?
260人間七七四年:2007/11/22(木) 09:59:41 ID:ulvAONM7
>>259
>義龍に家督相続がされたのだから斉藤家との同盟に支障をきたす
>理由はなにもないよ。

それは単なるあんたの妄想。
義龍が織田家と同盟結ぶ気はさらさらないのになんで同盟関係継続と
なるわけ?しかも信長なんて義龍の刺客に襲われそうになってんだし。
斉藤家の親子関係の争いに外部は関係ないというが、
信長にとっては、美濃国主が道三になるか義龍になるかは死活問題。
道三の援軍には兵を出したが間に合わなかった説もあるし
その辺りはなんともだけど、道三が倒され美濃国主が義龍になったことで
信長に味方する絶対的な勢力は無くなったからこそ、織田家の家督争いまで
勃発したんじゃないの。義龍が信長につく様子があったなら、
弟の信勝にしても、信長と敵対して謀反を起こしたりしないんでは。
道三の死により信長が孤立したため、織田家内での争いになっていったと思うけど。
この状態でなんで、義龍と信長の同盟継続してるといえるのか不思議だ。
はっきりいってあんたの説は
濃姫との不仲説にこじつけようとした浅はかな説だという印象しかないな。


261人間七七四年:2007/11/22(木) 11:08:32 ID:iVkPbWUW
>>260 >>はっきりいってあんたの説は
濃姫との不仲説にこじつけようとした浅はかな説だという印象しかないな。

なにもこんな感情的になる必要はないと思うけど。
>>255>>259も不仲云々はにはどう解釈しても書いてない。
>>状況的に離縁の可能性はこの時期しか考えられない。
そうこうしているうちに美濃侵攻翌年に義龍が急死してしまったので、
織田家にとどまったまま、となったんじゃないかと思うよ。
甥の龍興が家督を相続した時はすでに織田家とは敵対関係にあったから
濃姫を返せのなんのとはその後に及んでは言わなかったろうと思う。

と書いてあるじゃん。
離縁があったとしたらこの時という可能性は考えられるけど、
でもそれはなかったろうと。
そもそもが道三が亡くなったら濃姫の存在価値がなくなる、と思っていた人が
いたので、それについてもその真逆であると主張してるのに
ちゃんと最初から読んでるの?

感情的になりすぎて、主旨を読み飛ばしてるよ。

信長公記だって書いてあること全てが真実でないことは
あちこちの矛盾からわかっているのだし、
>>236の話からしたら、義龍に関して後年の噂話などをそのまま
書いている節もある。義龍の刺客に襲われたという話も
美濃攻略の口実にするための創作話かもしれないし。
織田家の騒動は織田家内でのお家騒動に乗じて織田の親戚が介入してきたことで
他家の義龍が介入できる話じゃないし、国政とお家騒動をごっちゃにしている
人多いな。

それから道三の死で信長が孤立した、というのなら新たにどこかの
国と同盟を結ぶなり、いくらでも手段はあるでしょうに。
なにも同盟国を美濃に限定する必要はどこにもないのに。
当主との婚姻だけじゃないんだよ、同盟の方法は。
妹を嫁がせたり、相手の家の子供を養子に迎えたりと、同盟のやり方も多様。
262人間七七四年:2007/11/22(木) 11:27:33 ID:ulvAONM7
>>261
感情的って、別にこちらは冷静に分析してるだけだけど?
あんたこそ感情的になってるから人の意見がそう見えるんじゃないの。

当時の弱小織田家に同盟してくれる勢力なんてどこがあるんだ。
美濃の斉藤家とは、道三が亡くなったことで同盟解消だし。
手を結べる勢力があるならとっくにそうしてるだろうよ。
織田家家中においてさえ、謀反されたり一枚岩でなかった状態で
どこが好き好んで信長と同盟を結びたいという大名家があるんだ。
263人間七七四年:2007/11/22(木) 11:37:51 ID:ulvAONM7
しかも、>261って信長公記を捏造文書よばわりだしな。
ひどいもんだ。苦労して牛一が書き上げたのに報われんな。
義龍の刺客に襲われた件のどこが、他の一次史料と矛盾しているのか
具体的に説明してや。
264人間七七四年:2007/11/22(木) 11:38:30 ID:tPR4fBee
道三と義龍の家督相続が、普通の物なら、信長と義龍の話し合いで
一代限りのものが、義龍の代にも引き継がれ、同盟継続もあり得るんだがな。

同盟というのは、同盟先に敵対する者に対して、一緒に敵対する事は大義名分として
あるわけで、この場合、同盟先である道三に敵対する義龍に対して、
同盟相手である信長は敵対するのが、本分という事になる。
義龍が同盟先の息子かどうかなんてこの際関係ない訳よ。
お家騒動というには、そんな内々のもので収まらなかったからこそ、
仕方がない事だよ。
それこそ徳川家康と信康のお家騒動とは、ちょっと違うしな。
大体義龍に引き継がれたのに、その子供である義興には
引き継がれなかったとするのも、矛盾するよ。

まぁ、同盟継続したかどうかは、その後の信長周辺の情勢を見れば、
継続していなかったというのは明らか。
大体、同盟継続していたら、濃姫と同腹説もある新五郎が、
信長の家臣になって美濃攻略に活躍する訳がないんだよ。
265人間七七四年:2007/11/22(木) 11:52:57 ID:m7Hfb1FQ
>>262 >>冷静に

というなら、「それは単なるあんたの妄想。」とか、
「はっきりいってあんたの説は」とか、「浅はかな説」というような
感情的な表現は慎むべきだな。
いくら不特定多数のものが書き込む掲示板であっても
自分に意見に反論を唱える相手に対して「あんた」という
ような喧嘩腰の言い方をする人の意見には、なんの説得力がない。

ちなみに >>当時の弱小織田家に同盟してくれる勢力なんてどこがあるんだ

さらに弱小国の時代に同盟を結んでくれたのが斉藤家じゃないか。
その頃だって>>織田家家中においてさえ、謀反されたり一枚岩でなかった状態
だったぞ?

信長系織田家は経済基盤がかなりしっかりしていたから、
同盟を望む大名はいたとは思うがな。
266人間七七四年:2007/11/22(木) 11:57:09 ID:m7Hfb1FQ
>>264 だってそもそもが西美濃攻略の時から両家が同盟破棄、
ということでの検証なんでしょ?
それなら龍興に引き継がれなかったのは当たり前。

しかも義龍が亡くなっても、離縁はなかったとする主旨での検証なんでしょ?
それなら濃姫が信長の正室でいたのだから、義龍の代から新五郎が
織田家で重用されるのも、同盟破棄後もそのまま織田家にとどまるのも当たり前。
267人間七七四年:2007/11/22(木) 12:10:58 ID:ulvAONM7
>>265
>信長系織田家は経済基盤がかなりしっかりしていたから、
>同盟を望む大名はいたとは思うがな。

じゃあ、なんでそうしなかったんの?
全く矛盾してるじゃんw
どこからも相手にされなかったからじゃないの。
うつけと評判だった信長に、いくら経済基盤があろうとも
同盟結びたい大名なんていなかったと思うけど。
軍事力が長けているとかの評判があったなら別だけど。
桶狭間の合戦でも織田家の勝利なんて誰も予想していなかったですが。
斉藤家との同盟はあくまで信秀が存命中の間だけど。
信長単独で結んだわけではないよ。
織田家から信長の妹も斉藤家へ行ってるわけだし、
お互いに人質を取ってる。
その妹の子供も信長が引き取って面倒みているわけだし。
義龍が信長と同盟継続なら、引き取る必要ないじゃん。
義龍が親代わりになって面倒をみればすむ話。でも実際は違ったんじゃないの。
なんで、そうも義龍と信長が同盟していたとこだわるのかわからんw

268人間七七四年:2007/11/22(木) 12:28:33 ID:m7Hfb1FQ
>>267 
だから大国美濃とは同盟関係にあったし、あの時点で
特に他国と同盟を結ぶ必要なかったからでしょ?

とりあえずは美濃が同盟国ということで、第三国からの侵攻は防げる。
尾張を統一し、今川を破っても他国からのそれ以上の追従はなかったのは
そのためとも解釈できる。その後もはや美濃との同盟の必要性がなくなったので
解消して侵攻を始め、義龍の死でいっきに美濃を攻略。念願の美濃を手に入れれば、
あとは織田家主導の同盟国をたくさん作って、天下統一にむけた頑張ったと。

>>その妹の子供も信長が引き取って面倒みているわけだし。

面倒をみてたかどうかは不詳。
ただ信長の養女(濃姫の養女という説もあり)にして、
畠山氏に政略の駒として嫁がせてはいるけど。
昭高が城を信長軍に包囲され、和議の条件としてこの養女との婚姻をしたのだから。
引き取る必用があったとかではなく、姪を利用できる立場にいたというだけのこと。

同盟は単独の方がむしろ多いね。
浅井も徳川も武田とも信長の親族を嫁にもらってるだけ。
織田家とトレードはしてない。
269人間七七四年:2007/11/22(木) 12:29:06 ID:tPR4fBee
>>266
>しかも義龍が亡くなっても、離縁はなかったとする主旨での検証なんでしょ?

というよりも、義龍の斎藤家が斎藤家全てではないと言いたいだけ。
今回のもともとの話は、壷事件で、
「義龍一派の斎藤家に対して、なんで義龍が殺した道三正室(側室)の小見の方の仲裁が
あり得るのか分からない」というから、壷事件を起こした斎藤家&国人衆が
必ずしも義龍一派とはいえないと言っているんだよ。
だから、道三死後の斎藤家が、義龍&義興一派とそうではない一派に別れている例を挙げているのさ。
斎藤家としてまとまっていなかったし、国人衆としてみんなが義龍についた訳でもない。
壷事件を起こした人々=義龍&義興一派ではなく、
義龍&義興一派+それ以外の斎藤家の混合で、新しい美濃の支配者である信長の
正室を中心とする事を了承している人々になるわけだから、
壷事件を仲裁するのに、義龍&義興一派に対し小見の方の影響力などないという
論に対する様々な反論から発展している流れな訳。
270人間七七四年:2007/11/22(木) 12:36:48 ID:ulvAONM7
>>268
では、斉藤家との同盟が続いていたのに
信長がそれを破った理由はなんですか?
義龍と同盟関係だったなら、なんで侵略しているのですか?
また、息子龍興がどうしても信長にとりこまれることなく
美濃を去ったのは??
しかも織田家では今川家が攻めてくるのに、まったく斉藤家を頼った
形跡はありませんが?同盟関係なら普通は援軍を要請しますよね??
また斉藤家の方でも同盟関係である織田家がピンチなのに
助けようとした形跡は皆無ですが??
271人間七七四年:2007/11/22(木) 12:45:49 ID:ulvAONM7
しかも信長は、義龍系斉藤家には全く歯が立たず
一方的に敗北しているのですが?
同盟関係継続ならなんで、尾張衆よりはるかに強い美濃衆を
相手にして戦いを挑んだんですかねえ。
やはり信長はうわさどおりのうつけだったって事ですかねえ〜。
272人間七七四年:2007/11/22(木) 12:49:44 ID:iAy9GCX4
>>270 破った理由は美濃を欲しかったから。まさに侵攻だよ。
同盟は片方が破棄したら、その日から裏切り行為はOKなので。

同盟関係であっても必ず援軍要請をする、相手も応じてくれるとは限りませんよ。
その家の事情だってあるので。
経済援助のみの場合もあれば、よほどのピンチになってから、という
いざという時のための同盟国でもある。
それに主要部隊がでてしまってからっぽになった国を背後から
別の敵が襲ってくるかもしれない、という抑止力のために同盟国が
存在する場合もありますのでね。

桶狭間では武田からはスルーだし、妹が嫁いでいても、
いくら同盟国であっても自国にプラスにならんことは他国を
優先することはしないということでしょう。
273人間七七四年:2007/11/22(木) 13:01:59 ID:ulvAONM7
なんで武田が今川家に援軍を送るんだか。
攻められているのは織田家であって、今川家ではないんだけど??
しかもこの時点では圧倒的に、今川家>>>>>>>>>織田家
なんですが。
今川側は弱小織田家など勝てると踏んでいたんでしょう。
だから、武田の力など借りずとも尾張をとれるともくろんでいた。
この段階で織田家の勝利を予想したいた人はどれぐらいいたんでしょうかねえ〜

それと、斉藤家との同盟は信長の勝手な同盟破棄ですか。
そうですか。だとすると、信長というのはやはりそうとうなうつけものですなあ。
まだ自国の軍隊がそれほど強力でもなく、どうみても尾張衆>>>>>美濃衆
だったんですがねえ。
その段階で唯一の同盟国を切って、美濃を攻めて勝てると思っていたなんて、よほど
間抜けとしかいいようないですなあ。
また、武田のように自分の勝手なわがままで同盟破棄するような
大名は、信用されませんからねえ。その後他の大名家との同盟なども結べなくなって
しまいますなあ。
家康はよく同盟を破棄されなかったですなあ。よほど運が良かったんですかなあ。
274人間七七四年:2007/11/22(木) 13:07:01 ID:ulvAONM7
まちがえた
美濃衆>>>>> 尾張衆
でしたね。
しかし、そうとうなやつですなあ。信長は。
275人間七七四年:2007/11/22(木) 13:13:52 ID:s+l0kYP6
>>270
道三への援軍をとりあえず除けると、信長が美濃に攻め込むのは桶狭間の後になる。
ちなみにその間に、義龍支援による信長謀反計画があった。庶兄信広による謀反未遂
事件ね。

それでも義龍と信長は同盟関係だったとかいうのか?
そうだと主張するのなら、同盟を先に破ったのは義龍ということになるね。
276人間七七四年:2007/11/22(木) 13:44:02 ID:+05w/eng
信長の同盟相手はあくまでも道三
277人間七七四年:2007/11/22(木) 14:04:16 ID:g+FWY6Pr
>>275 義龍の呼応によるものとされるだけで、事実関係は証明できるの?
正嫡性のない諸兄をたきつけたところで、意味のないこと。
実際あっさり計画が露見して、敵国の当主と通じて謀反を企てたというのに
見逃されそれっきりというのも?なんだか信憑性のない話。

信長公記は牛一の日記などによるかなり信憑性の高い箇所と、
人づてに聞いた伝聞の箇所が混在してるので、
そのあたりはわけて検証すべき史料。
信長に仕える前のことは全て伝聞であり、信憑性が均一ではないという
ことも考慮すべき。牛一は永禄11年から信長直臣、それでも全て行動を
ともにしていたわけでもなく、そのあたりも考慮すべき点。
義龍の「范可」の件もその矛盾点から、
明らかに後年の創作話をそのまま書いてるに過ぎない。

>>276 同盟は個人間でするもんじゃないよ。
「家同士」ですること。
斉藤家は兄が当主、織田家は妹が当主夫人、これで両家に同盟関係にない、
と言われても説得力がなし。
濃姫が離縁などしてない、というのが大多数の意見なんでしょ?
それなら濃姫は正室の座も安泰であったという解釈になる。
好きだからとか、夫婦の愛情がとか、父親の仇だから兄のもとには戻らない、とか
戦国時代においては通用しない理由で離縁しなかったという説よりも
同盟関係にあったので離縁する必要がなかった、とする方がよほど説得力があるがな。
278人間七七四年:2007/11/22(木) 14:38:54 ID:s+l0kYP6
>>277
元亀年間の浅井と織田。
御館の変以降の武田勝頼と北条氏政。
天文の大乱時の伊達家と他の姉妹の嫁ぎ先。
ああ兄弟ではないけど、伊達政宗と最上義光。
やはり兄弟ではないが、徳川家康と今川氏真。

同盟関係とした場合の信長と義龍の政治軍事にかんする行動の方がよっとど
説得力がありません。

私は正室が兄弟姉妹の関係でも敵対関係になる例を出した上でそちらの説を
否定しておりますので。そちらもかもしれないな話でなく史料と事実を元に
反論してください。
279人間七七四年:2007/11/22(木) 14:51:47 ID:ulvAONM7
どうやら、道三亡き後の斉藤家と織田家の同盟関係維持は
無理だったようですねえ〜

無理やりなこじつけを散々してきた人、残念ですなあ。
280人間七七四年:2007/11/22(木) 15:01:01 ID:g+FWY6Pr
>>278 何が言いたいのかよくわからないけど、濃姫は義龍の代では
同盟関係にあるので当然正室安泰。信長が浅井のように突然
同盟破棄をして美濃侵略を始めたので、実家に返るべきところが
自分の意志で織田家にとどまった。義龍の急死もあるけど、義興の代も然り。
お市や勝頼夫人と同じく、自分の意志で嫁ぎ先に残る選択をしたんだから
何をどう否定するのかな?

同盟関係だからといって常に同盟国にあわせて挙兵しなきゃならんなんて
ことはないよ。要請があって、国内に余裕があって、なおかつある程度の勝算が
あって初めて決断すること。道三の最期には紛れもない同盟国だったのに
信長は国内の諸事情もあって、結局舅を見殺し、ただの傍観者だったもんなぁ。
281人間七七四年:2007/11/22(木) 15:17:01 ID:ulvAONM7
急に方向転換ですかい。
>同盟関係だからといって常に同盟国にあわせて挙兵しなきゃならんなんて
>ことはないよ。

力関係によっては要請があれば受けないといけないんでは。
どうしても断る場合はそれなりの理由を相手にわかってもらう必要があるし。
家康が信長の援軍要請を断れたとでも?
景勝にしても、武田の姫を嫁にもらっていたから
勝頼が織田方と合戦になり、勝頼側から援軍要請があれば断れなかったんでは?
当時の力関係が、斉藤家>>>>>>織田家
である以上、要請があれば受けないわけにはいかんでしょう。
282人間七七四年:2007/11/22(木) 15:27:14 ID:g+FWY6Pr
受けたくても、それだけの兵力がなければ受けられないでしょ?
国内のことそっちのけで、他国のために挙兵しろとでも?
信長が道三の救出に間に合わなかったとされる理由は?
国内のことそっちのけで駆けつければ間に合ったかもな。
でも帰る家がなかったろうけどw
同盟関係は隷属関係とも主従関係とも違うから、
根本的に誤解してるね。

方向転換なんてしてないよ。
濃姫もお市や勝頼夫人のように自由意志で織田家にとどまったことに
なにか納得いかない点でも?
283人間七七四年:2007/11/22(木) 15:35:59 ID:ulvAONM7
>>282
そんな考えの当主だったらとっくに滅ぼされているね。
援軍要請を断るにしても大変だったみたいだよ。
自国のことが優先だから、援軍は一兵たりとも出せん!
なんてばか正直に話せるわけないじゃんw
相手もそれをわかっていてあえて頼みに来てんだし。
その辺りのかけひきも全くできないんでは、
どのみち誰からも相手にされなくなるんでは。
284人間七七四年:2007/11/22(木) 15:39:49 ID:g+FWY6Pr
>>283 はいはい、なんとでも。
最初の勢いもないし、つまらなくなってきたのでそろそろ外出してくる。
どうせ同盟関係と主従関係を混同してる人たちには理解が難しいでしょうしね。

285人間七七四年:2007/11/22(木) 15:54:09 ID:ulvAONM7
信長と家康については、同盟関係といわれているが
実際は主従関係だったと噂されている位なんですがねえ〜
何をどう混同するとか、ほざいているのですかねえ。
反論できなくなったら急に話を変えてきてるしねえ〜
あくまで義龍と信長との間に同盟関係があったと主張するのは
いささか無理があると思うんですがねえ。
しかも、信長を勝手に同盟破棄したとんでもなやつと言い出す始末。
信長はそんな人間でないしw
武田と一緒にしてもらっては困りますなあ。
286人間七七四年:2007/11/22(木) 17:30:34 ID:s+l0kYP6
で、それだと信長より先に義龍が同盟を破っていると書いたら信憑性が低いなどと
根拠もしめさずに否定してくれたわ。
287人間七七四年:2007/11/22(木) 17:42:46 ID:tPR4fBee
大体、最初は、壷事件の後、信長が姑に「禮」に行ったのはなんでか?って
話じゃなかったのか?
壷事件を起こした斎藤義竜&義興ぶ組した斎藤家一派に
小見の方が仲裁できる訳がないって主張だっただろ?
288人間七七四年:2007/11/22(木) 17:43:42 ID:tPR4fBee
>>287
>斎藤義竜&義興ぶ組した ×

斎藤義龍&義龍に組した ○
289人間七七四年:2007/11/23(金) 00:52:52 ID:W6EtFeC3
義興って誰?
290人間七七四年:2007/11/23(金) 08:15:17 ID:/+CoSozo
すまん、ナチュラルに間違えてた。
斎藤龍興だ。
291人間七七四年:2007/11/25(日) 12:43:39 ID:2g1bv9EY
>>225
毛利元就の義母、杉の方の墓はちゃんとわかっているよー。
何もかも不明なのは、正室の方。


この正室も濃姫同様、謎が多いんだよね。
毛利元就なんて特に、おしどり夫婦の代表選手みたいなもんなのに
(晩年、側室は何人かいるし、正室の死ぬ直前にも女の影はあるようだけど)
そのわりには正室の墓はどこにあるのか謎のまま。
織田家と違って宗家が没落していったわけでもなければ、
元就と正室の嫡孫が跡を継いでいるのに・・・。

それ考えると、家が没落し、嫡孫さえいなかった濃姫の記録が残ってないのも当然なのかも。
292人間七七四年:2007/11/25(日) 18:21:14 ID:xtuMUrln
元就の正室妙玖の墓所は、ある程度特定されているよ。
元就の自筆文書も残り、妙玖の法名も死亡年も確定している。
文書の中で元就は4人の実子に生母妙玖の供養を求めており、
濃姫とは比べ物にならない。
http://www.robot.ne.jp/~manolito/soturon3th.html
293人間七七四年:2007/11/25(日) 21:33:58 ID:Lmv4vqK9
濃姫もそうなんだけど、濃姫生母も謎だよね。
斉藤家の正室も当主と同じ墓地に葬られていないらしいし。
道三正室が、義龍生母か濃姫生母だったかはともかく
斉藤家の菩提寺に墓らしきものがないのはどうしてなんだろ。
そういえば、義龍正室も確か壺事件の時は生存していたのは
わかっているけど、その後息子の龍興と美濃を離れたのかな?
義龍正室も斉藤家菩提寺には墓はないの?
斉藤家にからむ女性全般謎だよねえ。
294人間七七四年:2007/11/25(日) 21:56:41 ID:ghymzPNN
龍興は庶子説濃厚だからなあ。
言継は正室は死別後○○後家と書くけど、
側室は妾などと、後家とは区別して書いてた筈だから、
壷事件の時に美濃にいたのは、義龍の正室だろうから、
龍興の生母ではないんじゃないのか?
壷事件の時は既に伊勢に移った後だしな。
295奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/11/25(日) 22:32:24 ID:ZW+fR2pf
龍興の庶子である証左はその諱にある。
296人間七七四年:2007/11/25(日) 23:28:20 ID:loynPytl
>>295
よく詳細を知らんのでkwsk
297奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/11/25(日) 23:32:25 ID:ZW+fR2pf
いや、通字が上にあるか下にあるかということだけだよ。
298296:2007/11/25(日) 23:47:59 ID:loynPytl
(´・∀・`)へー
ドー三とこの通字は、「龍」だよね?
通字が上に来ると庶子の可能性があるのか。
初めて知ったので勉強になりました。

となると、上にちょいと名前が挙がってる
毛利元就の場合、
家の代々の通字は「元」。元就は次男坊だけど
ワキ腹ってわけではなかったよね? スレチガイだが素朴な疑問・・・
299奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/11/25(日) 23:53:17 ID:ZW+fR2pf
家系を書くと 興元─幸松丸=元就

こうなるわけで。元の字をくれた兄興元が主君。
庶子ということばの認識違いがあるかも。ごめんよ。
300296:2007/11/25(日) 23:59:40 ID:loynPytl
ああなるほど、偏諱もらうケースもあるよな。
しかもそれが、他家のお殿とかじゃなくて
一族の近親から字をもらったりする場合、
さらにややこしいスよね。 
そのあたりはケースバイケースだったんでしょうなあ

こちらこそスレ違い脱線スンマソ
301人間七七四年:2007/11/26(月) 08:39:44 ID:OslHELYL
龍興が庶子だったなら、義龍とその正室の間には男子はいなかったのかな。
義龍後家も、自分の生んだ子でないなら美濃を出ようが何処へ身を寄せようが、
あまり関係なかったろうね。
しかし、濃姫に限らず女性の墓は不明のことが多いねえ。
302人間七七四年:2007/11/26(月) 13:57:38 ID:AKbBeZ85
龍興の生母は浅井久政の娘でよいの?
これも諸説あるの?
303人間七七四年:2007/11/26(月) 15:28:26 ID:94mMuMGr
龍興の生母が浅井久政の娘という説って
どこにあったんだっけ?
浅井久政の娘が義龍正室という説はあるが、龍興の生母という説は
聞いた事がないんだが。
ただ、実際は浅井家の縁故の娘で、久政の娘じゃないらしいが。
304人間七七四年:2007/11/26(月) 20:48:45 ID:USC0JnSk
>>303
浅井家の縁故の娘で、龍興の生母でない、義龍の後家は、
何故、斉藤家の滅亡後、実家へ帰らなかったんですか?

織田家には、彼女を引き取らねばらない義理があったんですか?
305人間七七四年:2007/11/27(火) 01:07:15 ID:Ag3b282f
>>304
斎藤家は別に滅亡していない。
義龍&龍興が敗れただけで、
他の道三直系の斎藤家も残っている。
龍興にしても、殺されもしないで、
美濃を離れるだけで許されているしな。

帰る方が都合が良かったら帰っただろうし、
そうではなかったら帰らなかっただけだろう。
龍興の生母ではない可能性は高いが、
娘などがいた可能性はある訳だから、
何が何でも帰らなくてはならないものでもない。
306人間七七四年:2007/11/27(火) 19:10:04 ID:mwmkWkJB
義龍後家が浅井氏なら実際の血縁関係はともなく長政の妹にあたるので
織田と浅井が同盟関係にあったことから後家に身に危険が及ぶことは
まずなかったろう。
ただ壷事件で信長にいじめられていることを考えると後家が浅井氏だった
可能性は薄いような気がする。
義龍と浅井が同盟解消し、浅井が織田と手を組んだ、という経緯を考えると、
浅井氏が実家に返された可能性も高い。
「大こうさまぐんきのうち」に「義龍妻女」に「一条殿御むすめ」という
女性も登場してくるので、後家は浅井氏でないのではないかな。
龍興生母が浅井氏かどうか、正室腹かどうかも証明するようなものが
何もないからな。
307人間七七四年:2007/11/28(水) 10:12:36 ID:crTSWlhF
だけど、義龍正室が浅井氏でなくても龍興生母が浅井氏ということは
ないのかな??何かよくわからないけど・・
龍興が、その後美濃を出て朝倉家へ頼ってるって事は、生母は朝倉氏出身って事はないの?
色々な説が出るってことははっきりしてないのかな。
浅井氏も織田家とその後同盟結ぶこと考えても、それほど仲が悪かったとも思えないしね。
浅井氏が実家へ帰ったなら、義龍後家は浅井氏ではなさそうだけど。
その辺り浅井家にも記録はないんだろうか。
道三の息子だし、義龍の嫡男だった龍興生母もわからないなんて
織田家に限らず宗家が滅んでしまった家ってのは、ろくな記録が残ってないって典型なんだね。
308人間七七四年:2007/12/09(日) 14:47:32 ID:c1YoYfYA
斉藤明智vs信長秀吉
信長秀吉の勝ち
309人間七七四年:2007/12/09(日) 15:08:13 ID:c1YoYfYA
信長と秀吉は親戚みたいなものだ
310人間七七四年:2007/12/09(日) 22:35:18 ID:UHSW35Mk
捏造の生駒よりはずーとましだがな。
311人間七七四年:2007/12/11(火) 05:05:42 ID:6hzEbod/
はいはい、次の方どうぞ〜。
312人間七七四年:2007/12/11(火) 06:19:34 ID:0eAJguRA
基本的な事が全く分かってない奴がいる。
義龍の生母は一色義清の娘で土岐頼芸の側室の深芳野で、
義龍は一時一色を名乗っていた。
道三vs義龍の構図の中で、美濃譲受状というものがあり、
これを根拠に信長は美濃を攻めた訳だよ。
帰蝶は美濃侵攻には重要な大義名分な訳で手放すなど有り得ん。
313人間七七四年:2007/12/11(火) 14:02:59 ID:gJ/0E6ux
>>312
一色義清の娘が深芳野っていうのは出典なんなの?
314人間七七四年:2007/12/11(火) 15:03:56 ID:1hA7ifbk
そう言えば、言継の日記にも「一色義龍」の名で
登場していなかったか。
315人間七七四年:2007/12/11(火) 17:23:26 ID:3j5I/Z9k
ただそれだと、一応は守護大名家である一色の娘を正室ではなく側室で、しかも
それを家臣に下げ渡すってすごい無茶やってないか?
言ってしまえば、土岐頼芸ってもとは弟で正式な嫡男でもなかったろ?
316たられば君:2007/12/11(火) 17:31:48 ID:gJ/0E6ux
岐阜城の東南には鎌倉時代の荘園に一色という地名があるね。
今は野一色や北一色という名前に代わってるあたり。

僕は稲葉良通の姉という説が読みが同じで間違って伝わっただけだと思ってるけれど
仮に一色義清が義竜の祖父や叔父だとしても、丹後の大名とは別人じゃないのかな。
四職家の娘を側女にするのはまだしも、家臣に譲り渡したりできるわけがない。
317人間七七四年:2007/12/11(火) 20:28:21 ID:6Jgf4Vt4
お前の思う思わないなど誰も聞きたくないんだよ。
318奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/12/11(火) 23:47:02 ID:/LtyH+PI
稲葉良通と一色義道の混同ならオレも見たことあるな。
319人間七七四年:2007/12/11(火) 23:51:16 ID:6Fm6m5cj
混同するほど・・似てるか?
320人間七七四年:2007/12/12(水) 00:50:58 ID:emR5R1FW
あと疑問なんだけどさ、母方の姓を名乗るってのは普通のことなのか?
「血のつながりがあるから母方の家に養子として入って、母方の家の姓を名乗る」
ってのは極普通にあるけど、養子でもなんでもなくいきなり母方の姓を名乗る
ことってあまり聞いたことがない。
321人間七七四年:2007/12/12(水) 08:39:50 ID:CB3fPOJS
父親の道三に兵を挙げているわけだし、「斉藤」を名乗りたくなかった
わけがあったのかもな。
322人間七七四年:2007/12/13(木) 00:09:05 ID:KEXLj9TA
美濃守護土岐持益の嫡男持兼が早世したため、
持益は持兼の子の亀寿丸を後継ぎにしようとしたが、
守護代の斎藤利永(宗円)がこれに反対して
一色氏(諸説あり、土岐氏の一族の饗庭氏ともされる)の成頼を擁立して抗争となり、
康正2年(1467年)に持益は隠居させられ成頼が守護となった。
323人間七七四年:2007/12/13(木) 00:12:17 ID:KEXLj9TA
一色義直が第八代将軍・足利義政の信任を受けるが、
1467年の応仁の乱では細川勝元の東軍に与した若狭武田氏との反目から
山名宗全の西軍に与して敗れたため、次第に衰退の一途をたどるようになる。
324人間七七四年:2007/12/13(木) 00:13:10 ID:KEXLj9TA
明智 光継(あけち みつつぐ、生没年未詳)は、室町時代後期の武将。
子に明智光秀の父と伝えられる明智光綱、娘は斎藤道三正室となり、
間に濃姫を産む小見の方。室は若狭守護・武田信豊の娘。
325人間七七四年:2007/12/13(木) 00:14:40 ID:KEXLj9TA
応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は西軍に属した。
326人間七七四年:2007/12/16(日) 14:22:52 ID:8IzI3DlO
 
327人間七七四年:2007/12/17(月) 09:46:44 ID:IFuQmKik
魔王様と濃姫
328人間七七四年:2007/12/17(月) 13:05:18 ID:IFuQmKik
魔王様に愛された人生
329人間七七四年:2007/12/17(月) 22:43:06 ID:vAEmk1aO
>320
滅亡したり追手から身元を匿すときに結構聞く気がする
330人間七七四年:2007/12/18(火) 14:34:21 ID:f2QwUm9U
魔王様と濃姫・・・永遠に
331人間七七四年:2007/12/18(火) 14:35:05 ID:f2QwUm9U
やはり、魔王様には濃姫が
332人間七七四年:2007/12/18(火) 14:44:38 ID:3fqOOCPI
濃姫命
333人間七七四年:2007/12/18(火) 22:41:46 ID:kXNnRnV2
濃姫は色っぽいw
334人間七七四年:2007/12/20(木) 10:30:40 ID:xuc6N/Ik
帰蝶、濃姫、鷺山殿。
どの名も容姿に恵まれたイメージがある。

美人と言われていても犬姫なんて名だと萌えない。
335人間七七四年:2007/12/20(木) 10:46:06 ID:UfAxQCaG
濃姫・・道三の娘というだけで美人だと連想してしまう。
やはりブランドイメージってあるんだな。

実際はどうだったんだろう。父親の道三に容姿は似ていたんだろうか。
女の子は父親に似ているほうが圧倒的に多いらしいけど。
336人間七七四年:2007/12/20(木) 13:37:32 ID:E4QGg56u
戦国期の美人の条件知ってる?
顔デカ、色白、目細、目鼻立ちが小さく口はおちょぼ口、無表情
鼻は高いよりも低い方が良しとされた。

↑に見せるように、鉛入りの白粉を塗りたくり、鼻を低く見せるために
両頬に真っ赤な頬紅をさし、口紅は上下の唇の中央のみにちょこっとつけるだけ。
さらに結婚後は眉をそり落としお歯黒を塗った。

わかりやすくいえば、↑のようなメークをした無表情の花子が絶世の姫と
もてはやされたってわけだな。

有名なお市の肖像画もよくみれば上の条件通りの顔立ち。
じゃっかん受け口ではあるが、ごつい顔した淀殿などとは比べものにならんくらい
顔全体のバランスが絶品にいい。現代人がみても肖像画は美人にみえるけど
実物は恐らく萎え萎えだろうと思われる。

白粉を塗りたくって眉をそっちまってみな同じ髪型だから
よほどの欠陥のある顔でなければ、どの姫様も美人で通ったんじゃないの?
337人間七七四年:2007/12/22(土) 08:02:22 ID:xdSkyWUd
薄暗い室内で美人に見える白塗り仮面。
外の光を浴びれば・・・。
貴婦人が御簾から出らないわけがわかった。
338人間七七四年:2007/12/22(土) 09:57:57 ID:r8xXa1cR
>>337 そう常に照明の薄暗い室内だから、ソフトフォーカス作用もあって
白粉顔にお歯黒はなんともなまめかしく見えたそうだ。白い歯は逆に
違和感を覚える価値観だったとか。

それから江戸期あたりまで美人=裕福・豊穣の象徴、という意識も強く、
高価な鉛入りの白粉をふんだんにつかって、きちんと手入れされた髪、
整えられた眉をした女性は、それだけ侍女の手を借り、金を
かけていたということになって、そのことだけで「美女」という
認定をもらえた。現代でもデブ(経済の豊かさの象徴)ほど美人と思われている
アフリカや中東の国はまだ多数あるから、それに似てるかも。

実際の顔の造作よりも、実家の経済的な背景によって美醜が決まった時代とも
いえるんじゃないかな。嫁いだ先も美しく着飾り、実家の豊かさを示すために
実家は娘の経済基盤のために化粧料をもたせた、という見方もある。
もちろん嫁ぎ先の経済力によってさらに磨きをかけていく姫も多数いたろうけど
婿殿がさほど裕福ではない縁組だと無税である女性の化粧料は婿殿にとっても
非常にありがたかったものらしい。

そうなると、大国美濃から嫁いできた濃姫は絶世の美女として
迎えられたと思う。嫁ぎ先の織田家なんかよりもはるかに立派な城から
来てくれたわけだし、美濃の国力を尾張に見せ付けるためにも
道三が立派な花嫁支度を用意したと思われるね。
339人間七七四年:2007/12/23(日) 15:46:05 ID:08eWWHlT
政略結婚の駒として使うなら
ある一定水準以上の容姿と性格の姫様じゃないと送り出せないよな。
ドブスや愚鈍な姫様だと笑いものになるだけだ。
340人間七七四年:2007/12/23(日) 16:33:26 ID:q7hPEc39
>>ドブスや愚鈍な姫様

下手に賢いよりも、むしろ無意思で周囲のものの言いなりになるような姫こそ
理想の嫁だったと思うよ。愚鈍者という意味ではなく、
自分の意志で軽軽しい言動をしない女性こそ賢い女性、そうしつけられ、
育てられるのが当時の深窓のお姫様という意味なんだど、仮に
真性の愚鈍で何にも出来ない姫であっても和平の使者としての仕事はできたと思うよ。
正室として嫁ぎ先の奥に居住すればいいだけだから。

明らかな身体障害者や虚弱体質なら当時の医療技術からして
結婚適齢期まで生存できない、もしくは生まれてすぐに間引かれていたろうから、
嫁として送り出せる姫は人間として一定水準はクリアしていたと考えてもいいと思う。
政宗生母みたいに意思が強くて、行動力がありすぎて
両家を引っ掻き回すぐらいなら、お付の言いなりでいる姫の方が実家にとっても
婚家にとっても良かったんじゃないだろうか。
当時のお姫様は自発的に話すことや感情を顕にしないことがたしなみと
されていたぐらいだし(代弁者は乳母や侍女)、お付がきちんとしていれば
姫様は愚鈍であってもOKだったと思う。

婚姻の時に姫の乳母や侍女、実家の家臣たちがぞろぞろ一緒にくるもんだけど、
身のまわりのこと、婿さんとのあれこれ、代筆、日常の細々したこと
全て乳母や侍女が万事抜かりなくやってくれていたから、姫のお付が
気の利かない、愚鈍者だと、それこそ実家がもの笑いにされただろう。

政略結婚で姫といっしょにやってくる家臣は嫁ぎ先の家でも家老なみに
厚遇されているケースが多いんだよ。その後その子孫も嫁ぎ先の家に
生涯奉公していたりする。姫の実家への配慮もあるだろうけど
それなりに実力のあるものが追従してくるので婚家でも厚遇された、という
側面もあるんじゃなかろうか。敵陣に直接入り込めるわけだから
愚か者を送り込んでも意味がない。ああいう状況での政略結婚だから
濃姫にくっついてきた美濃衆はえり抜きだったと思うよ。
341人間七七四年:2007/12/23(日) 16:44:52 ID:CcPfcfc9
濃姫についてきた林新右衛門の娘が、森可成の正室になったという史料もあるな
342人間七七四年:2007/12/23(日) 18:10:51 ID:BW1CQKmf
本人に聞いたとかってのはだめかなぁ?

スレ違いかWWW
343人間七七四年:2007/12/23(日) 18:32:39 ID:xoavkacp
>>31
俺は天下人の美少女濃姫のほうが好きだけど
色っぽい濃姫が多い中でこうゆう濃姫も良い
344人間七七四年:2007/12/23(日) 21:53:51 ID:KzxKDUix
住んでいた地名が「美濃」だし、そこから来た国主の娘だから
後世「濃姫」と名づけられ、美しい〜姫だったのだろうと連想されて
名づけられた感じだね。江戸時代においても濃姫はいいイメージで語られて
きたんだろな。
345人間七七四年:2007/12/24(月) 01:39:49 ID:Ww96Z+zC
毒苺ってのはひどくない?
346人間七七四年:2007/12/24(月) 07:21:16 ID:W0YZQD9r
そうか?かっちょいいと思うんだが>毒苺
347人間七七四年:2007/12/24(月) 08:17:41 ID:8/t0jSvK
「濃姫」って名のいちごがあるんだね。
店頭で見たことないけど一度食べてみたいな。
348奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/12/24(月) 23:23:57 ID:WK9b0MUt
軟らかめで酸味もちゃんとあって旨いよ。
349人間七七四年:2007/12/25(火) 10:11:33 ID:xiqNXzFX
濃姫の名前つけたイチゴ農家の人、すごいね。
「濃姫」いちごってすごくインパクトあるし。
スーパーで見つけても他の名前のイチゴより何だか目がいくしね。
あと、「帰蝶」って名前のお店もあると聞いたんだけど?
350人間七七四年:2007/12/25(火) 19:30:51 ID:mhONA2jJ
すご〜く亀だが、義龍が一色に改姓した件だけど、弟の喜平次(龍定)も
一色右兵衛大輔と名乗っている。
義龍にしろ生母が一色氏だからというのは違うんじゃないの?
側室である生母の実家の姓を名乗る理由が無い。

武家が改姓するパターンとしては
・道三、秀吉みたいな出世魚の場合
・細川家みたいな宗家を凌いだ別姓の庶流下っ端が宗家の姓を名乗り出す場合
・織田と津田のように親戚関係にあるけど主筋と家臣筋を明確にする場合
・徳川家康みたいに突然創始する場合
・婿入りして嫁の姓を名乗る場合
・他家に養子にだされた場合
・領地替えになどで新領地の地名を名乗る場合

などがあるけど、斉藤家は元々一色を宗家とする家柄だったとか?かもよ。
斉藤家の出自もまったく謎なので、織田家同様に強引に名家を先祖に
仕立て上げただけかもしれないけどさ。
元々道三が斎藤姓を名乗ったのはそれまでに何度も主筋の苗字に改姓し
最終的に美濃守護代の斎藤利良が亡くなって、その名跡を継いで斎藤姓に
したってだけだから、道三系斉藤氏は道三が初代。
先祖代々の姓でもないから大事に継承せんでも、
一色氏が先祖縁であったとすれば、美濃を掌握した義龍が心機一転
改姓した可能性はあるんじゃないかな。
351人間七七四年:2007/12/25(火) 20:46:41 ID:SjuerC2S
義龍は、正当美濃国主・土岐頼芸の種と噂されていて、
その視点からいえば「謀反人」である斉藤道三を討って国主になったんだから、
土岐性を名乗るかと思えば、
一色姓だから、、、何で?いう疑問はあるね。
352人間七七四年:2007/12/25(火) 23:11:36 ID:ms0ONCzQ
ためになるスレだ
353人間七七四年:2007/12/26(水) 09:28:31 ID:tQS2CEyF
足利氏の支流で、室町幕府四職のひとつに
一色家(源氏)があるね。
これと関係があるの?
斎藤道三が源氏の土岐氏を破った後、
同じく源氏の一色氏の末裔を名乗ったとか?
354人間七七四年:2007/12/26(水) 12:57:58 ID:/5OJ1Arb
ちょっと、話かわるんだけど
この話のどこが濃姫早世と判断できるのか全くわからないんですが??


信長ヒソウの虎福女
題にある虎福女は岡田正人氏は自著事典では不詳とされているが、
和田裕弘氏は歴史読本2003年5月号信長幻の子供たちの小論においてこの虎福女を伊勢貞為(虎福丸)の女であろうと論じられている。
伊勢系図によると信長御台所つまり濃姫の妹を娶っている。
そこで素朴な疑問なのだが、信長が秘蔵していたとするならば安土城に在城していたであろうと思うが、何故に信長御台の妹ないしは、信長御台ヒソウの虎姫女とならなかったのであろうかという疑問が湧く。
濃姫は安土在城しなかった傍証ではなかろうか。
355人間七七四年:2007/12/26(水) 18:27:54 ID:wdyqnoVC
自分の論に都合の良いように解釈するものだからさ
356人間七七四年:2007/12/26(水) 19:06:42 ID:hBwySkbl
信長が秘蔵していたとするならば安土城に在城していたであろう。
濃姫にゆかりのある虎福女が安土に在城していたということは
濃姫も安土在城していた傍証ではなかろうか。

って解釈もありだろうw
357人間七七四年:2007/12/26(水) 20:13:53 ID:2QLbobbe
虎福女を秘蔵した場所が安土城とは限らないんじゃないの?
血のつながった親子でさえ一緒に住むとは限らないわけで
家臣や乳母の家に預けられ、そのまま他家の養子、嫁にだされて
いった場合もある。
あまり周知でない濃姫の養女が信長にいて、その姫を
「秘蔵」と表現しただけのように思えるけど。
虎福女が濃姫の養女であるなら、信長亡き後や義昭の側室となった後に
養母の濃姫との関係はどうだったのか、
そっちの方が気になるな。
358人間七七四年:2007/12/27(木) 09:13:23 ID:GJawESpx

>自分の論に都合の良いように解釈するものだからさ

だとすると、354の話を論じた人は濃姫早世説なんかな。
濃姫が早世だとすると、その後に登場する北の方や御台などの人物は
誰だと解釈してんのか知りたいね。
自分の説がその後の記録などにおいて矛盾すると思わないのかな?

濃姫の養女になったとされる濃姫の妹などは
一緒に住んでいたんだろうと思われるけど
その「秘蔵」の娘はどうなんだろうね。
359人間七七四年:2007/12/27(木) 11:25:51 ID:oxtXQbI/
虎福とは伊勢貞為と推測されていて、濃姫の姉妹を娶った
父貞良の年代を考えると、貞為の娘とするには矛盾があるので
貞為は妹を自分の養女として嫁がせたのではないか、ということだ。
「伊勢系図」によるとこの虎福女は最初池田元助の妻となったが、
元助が後妻に迎えているのも確からしいので、元助とはどういう理由か
離縁して実家に戻ったと推測できる。
離縁されたとしたら、織田家との関係上本能寺の変後に羽柴秀吉に
くだった元助が織田家との訣別のために離縁したとしか
考えられないので、安土に戻れず実家に戻ったんじゃないのかな。
その後兄の養女となり義昭に嫁いだ(側室としてあがった)ということだろう。

結局濃姫との接点は形式上養母だったというだけで、
安土に住んだことがあったかどうかも不詳だね。
360人間七七四年:2007/12/27(木) 12:29:46 ID:kOAbX7fs
伊勢貞為は永禄2年の生まれだから、別に娘でもいいように思うが。
361人間七七四年:2007/12/27(木) 12:42:45 ID:GJawESpx
>>359
では、この「秘蔵」の娘は濃姫との血縁関係はなかったのかな?
何かややこしい。
とりあえず、濃姫の養女となって元助に嫁いだらしいことだけかな。
一緒に住んでいたとする史料がないから一緒に住んでいない可能性もあるってことかな。

元助が織田家決別のために、この娘と離縁しているということだと
織田家と秀吉はこの時期対立していたと見ていいと思うんだけど
三法師の養祖母濃姫はやはり織田家側だったと見ていいのかな。
しかしその後、新五郎が池田家に仕官していることを見ると
斉藤家としては織田家側というより、秀吉側だったってこと?
なんかややこしくてわからなくなってきたwwwwwww
362人間七七四年:2007/12/27(木) 18:04:16 ID:UYDIz8ER
伊勢貞為の弟の貞興が本能寺の変の時に明智方で敗死してることも
信長に近しい池田家としては嫌だったんじゃないか。
363人間七七四年:2007/12/27(木) 18:52:24 ID:oozyS3uN
>>361 伊勢系図が正しいのであれば血縁関係はあったよ。
濃姫の姉妹を嫁にした伊勢貞良の娘(濃姫の実姪)を濃姫が養女にしてる。
ただ虎福丸という名前であった貞良の息子である貞為の養女(兄の養女)として、
足利義昭の側室になったんじゃないかということだから。

信長の乳兄弟であった池田恒興ですら早々に秀吉に味方し、
柴田&信孝を攻めてるからね。
元助本能寺の変の2年後に亡くなっているから、離縁したとしたら
その間じゃないだろうか?それ以前というのはさすがに考え難いけど。
364人間七七四年:2007/12/27(木) 19:08:38 ID:kOAbX7fs
児島の斎藤家では之助(元助)室は「由之を生み卒す」とされていて、
亡くなったと伝わっているんだよな。
おまけに、道三の外孫女で斎藤義興の女といわれているのは間違いだとも。
由之の息子の由成の過去帳だったかにも同様のことが書かれているそうだしな。
365人間七七四年:2007/12/27(木) 19:11:07 ID:kOAbX7fs
児島の斉藤家じゃない、天城池田家だった、すまん。
366人間七七四年:2007/12/28(金) 08:54:09 ID:0ly6sptX
では、伊勢系図と天城池田家の史料は矛盾しているってこと?
367人間七七四年:2007/12/28(金) 09:49:49 ID:XI0k+SLT
ttp://www.kct.ne.jp/~kshimizu/saito.htm

ここに天城斉藤家のことはいろいろ書いてあるよ。
368人間七七四年:2007/12/28(金) 19:35:03 ID:4j56njC3
所詮斎藤道三は織田信長の悪の部分が作り上げた
似非信長です
369人間七七四年:2007/12/28(金) 19:45:20 ID:4j56njC3
斎藤家は織田家の連中を悪に誘うための
悪魔シャーマニストたちです
織田家 神に愛された方々
斎藤家 神に愛されている織田家の連中を地獄に落とすために
神を憎む悪魔と契約を結んだ哀れな連中
370人間七七四年:2007/12/28(金) 19:49:33 ID:4j56njC3
織田家の連中を悪魔に捧げようと必死なんですよ
斎藤家の連中って
この宇宙のどこかに潜んでいるだろう悪魔に
織田家の連中を捧げようと必死なんだ
斎藤家の人たちは
371人間七七四年:2007/12/28(金) 19:50:40 ID:4j56njC3
これを絶対許してはなりません
372信長:2007/12/28(金) 20:09:17 ID:4j56njC3
こいつら今度は秀吉を地獄に落とそうと考えている
斎藤家の連中が地獄の底に私を突き落としたんですよ
俺をイスカリオテのユダの連中が見ている
義龍も濃姫も道三もコキュートスで俺を苛めている
373信長:2007/12/28(金) 20:16:36 ID:4j56njC3
神を蘇らせるしかないでしょう
こいつらを操っているくそったれを許してはならない
374人間七七四年:2007/12/28(金) 21:06:33 ID:vH0sP1Mp
伊勢系図と、池田家に伝わる内容とを考えて、
虎福の娘が2人いて、元助正室と義昭側室を
後年混同してしまったということも考えられないだろうか?
375人間七七四年:2007/12/28(金) 21:17:10 ID:4j56njC3
こいつと結婚しても絶対幸せにはなれない
376人間七七四年:2007/12/28(金) 21:42:24 ID:jmyljcsk
こいつキモイ=ID:4j56njC3

信長歴史を捏造、改ざんしたのは徳川と生駒家だろ〜
そのおかげでこんにち信長歴史が歪められてしまったんだがw
信長も、馬鹿女の生駒女の息子なんかが織田家の代表になったために、
秀吉時代から江戸時代に至るまで、かつての信長家臣の前田家や池田家
にもぬかれるしょぼい家になったわけだがw

斉藤家などよりもそっちの方がよほど許してはならない事件だな。
377人間七七四年:2007/12/28(金) 22:47:39 ID:r8ycbHYQ
>>374 リアルタイムに書かれた「多門院日記」に
「信長ノヒゾウノ虎福女」とあるので、義昭側室の娘の方が
濃姫の姪(養女)じゃないかな。

元助室はどうだろう?
>>367を読む限り、濃姫の姪が元助室とは考えられない。
墓碑に先祖が道三とあったり、その他の史料の考察から
濃姫の姉妹と結婚したと解釈している
系図が正しいかんじがするけど。
378人間七七四年:2007/12/29(土) 00:06:50 ID:jhiNEX7K
>>377
確かに>>367を読むと、濃姫の同母か異母かは分からないが姉妹が元助室という話しと、
その姉妹と伊勢貞良の間に生まれた娘(濃姫からは姪)の両方の説があるのが分かるが、
後年書かれた寛政譜よりも、墓などに残された記録の方が確かなように思う。
だが、伊勢系図や多聞院日記との兼ね合いもあるので、虎福女と書かれた姪が
姉妹とか、別の姪とかと混同されている可能性も考慮に入れるべきかも。
379信長:2007/12/29(土) 00:31:23 ID:1tAEXCXE
消えろ 斎藤家
お前らはマムシの
子だ 消えろ
消えろ
消えろ
消えろ 二度と生まれてくるな お前ら
こいつらを消すためには宗教を再考するしかない
徹底的に宗教で弾圧するべき こいつら
キリストもこいつらのこと忌み嫌ったからな
380信長:2007/12/29(土) 00:35:52 ID:1tAEXCXE
斎藤家の連中が悪でのさばる事を絶対許すな
織田家ゆかりの方々はとっとと斎藤家なんかと縁を切るように
お前ら最期には負けるだけだ
負けしか味わえない連中だろ
不幸や失敗しかお前らは味わえない
381信長:2007/12/29(土) 00:38:22 ID:1tAEXCXE
生駒のがこいつよりいいよ
こいつうざい
つーか死ね
382信長:2007/12/29(土) 00:39:32 ID:1tAEXCXE
俺は織田家の関係者だが
本当に斎藤家邪魔でクズ
383信長:2007/12/29(土) 00:41:48 ID:1tAEXCXE
こいつらを殺して神に捧げよ
384ミノムシ ◆RECORD.cY. :2007/12/29(土) 00:45:05 ID:I6TwoiXF
変なのがわいてやがんな
385ミノムシ ◆RECORD.cY. :2007/12/29(土) 00:50:31 ID:I6TwoiXF
>>383

お前その名前を名乗るならそれなりの覚悟があるんだろうなぁ?
386人間七七四年:2007/12/29(土) 00:52:39 ID:jhiNEX7K
IDをNGワードに突っ込んでスルーしなよ。
相手するだけ無駄だよ
387人間七七四年:2007/12/29(土) 18:57:20 ID:1tAEXCXE
織田信長の悪の部分が作り上げた
幻 それが斎藤家
388人間七七四年:2007/12/29(土) 21:25:01 ID:1tAEXCXE
こいつと信長が結婚したのは宇宙人の陰謀なんだ
389人間七七四年:2007/12/29(土) 22:19:59 ID:j+XCnqtl
生駒の捏造が明るみになって口惜しいんで
斉藤家叩きですかw
あ、それとも最近江南市の観光資源が減ってるんですかねえ〜
それにしても生駒女は人気ないですなあ、単独スレ立たずでマンせーできませんなあ〜
織田家の正室になれなかった事実がそんなにくやしいんですかねえ〜
生駒女本人でもないのに、何をそんなにくやしがっているんですかねえ〜(笑)
生駒がどんなに逆立ちしたって、斉藤家には敵わなかった事実はどうしようもないんですがねえ。
生駒女も大名家の娘に生まれていたら、正室として嫁げたんですがねえ〜
馬借の娘では一生かかっても無理ですし、いや〜残念ですなあ。
390人間七七四年:2007/12/30(日) 01:43:26 ID:Uce11P2q
嫡子信忠が生駒の葬儀の喪主でない時点で
跡継ぎの母になれなかった事がほぼ確定なんだからそれでいいじゃんもう
煽るなって
391人間七七四年:2007/12/30(日) 08:41:56 ID:kliYrQFK
生駒女もある意味武功の犠牲者だな。
後世の捏造話は彼女の意図したことじゃないのにな。
392人間七七四年:2007/12/30(日) 13:14:36 ID:Uce11P2q
大河ドラマで濃姫と生駒の二人が正室だったなんて描き方されるんだぜ
自分の主を貶めちゃってないか?
まぁ、元はと言えば織田家の女性に関する史料がろくに残ってないのが原因だな
信忠の生母が久庵慶珠という説も彼女の喪主が信忠だからで
彼女が信忠より長生きしちゃったらわかんなかったろうし
濃姫について確実なことは信長と婚約したって事くらいで
壺事件についても斉藤家との関係上
「信長本妻」が濃姫の可能性が高いというだけだよな
393人間七七四年:2007/12/30(日) 15:10:12 ID:3Jc9fCNk
大河ドラマでっていうけど、昨年の大河では濃姫しか出てこなかったですけど?
生駒が正室だったなんていう話は、武功を基にした「歴史小説」を引用した場合
のみですけど・・

濃姫が婚約だけってことはないんですが。
一次史料には、信長御台は濃姫とはっきり書かれているんですがw
濃姫に子供がなかったので、信長は妾が産んだ子供を濃姫の養子にした
とはっきり記録あるんですがw

壺事件においても、濃姫以外が信長御台の可能性があるとは思えない内容なんですがw
生駒が正室になれなかった事実がくやしいからといって、濃姫が織田家へ嫁いでいない
と主張するのはかなり無理があると思われます。

斎藤道三の肖像画の奇進した人物にしても、「信長北の方」とされていますし、
斎藤家と織田家の同盟が成立しない段階で、二人の会見はありえないですし。
もう、いい加減にしてほしいですよ。
生駒信者は認めたくないようですが、残された史料を見る限りは
生駒が正室になった可能性は皆無なんですがね。
394人間七七四年:2007/12/30(日) 15:45:48 ID:Uce11P2q
まじすまんかった
濃姫と生駒をなるべく公平にと思ったらあまりに濃姫についてシビアに書きすぎたw
色々と勉強不足で申し訳ない
訂正ありがとう

離婚した記録がない
再婚した記録もない
記録に残っている正室は濃姫以外いない
正室の死亡記録も残っていない
という事から信長公御台養華院は濃姫以外ないだろと思ってるよ

あ、大河ってのはずっと昔の「信長 KING OG ZIPANG」の事ですた
395人間七七四年:2007/12/30(日) 15:48:16 ID:Uce11P2q
訂正>信長 KING OF ZIPANG
396人間七七四年:2007/12/30(日) 16:23:33 ID:9nMIjxMu
利家と松では濃姫は正室だが不仲で睨んでるだけで
生駒と信長は仲睦まじい2ショットが頻繁にあったなw
物事決めるのも何故か正室濃姫じゃなくて生駒w
397人間七七四年:2007/12/30(日) 16:41:59 ID:89TqwDvl
ドラマなんていいかげんなもんよ
軍師山本勘助が主役張るくらいですから
398人間七七四年:2007/12/30(日) 18:18:07 ID:3Jc9fCNk
松が大活躍の大河を史実だと思っている人、まだいるんですね(笑)
所詮、女を無理やりスーパーヒーロー如くに活躍させたつまらんドラマですがw
信長が誰を一番好きだった、なんて話が一次史料に載っているとでも思ってるんですかねえ(笑)
生駒女を一番愛した、なんて載っている一次史料なんてあるわけないでしょう。
小説やドラマなんて、作者の創り話ですからw

男なんて、どんなにいい嫁をもらっても長年一緒にいると新鮮味が失われて、新しい女
や若い女に興味が移ってしまうもんだし、当時は一夫一婦制でもないので
信長にしても、寵愛がその都度新しい側室や若い側室へ移っていったと見ていいと思うんですが。
生駒女だけが側室だったわけでもないのに、生駒女が正室格だっただの、特別な女だっただのと
捏造するのはやめてもらいたいですね。
生駒女以外の女達も、それぞれのポジションで信長を支えたのですし、生駒信者は特別だったと
思いたいようですが、そういう証拠は何もないんですから。
また、残された史料を見ると生駒女のために、濃姫が邪険にされていたという事実は
なかった事は確かですね。
399人間七七四年:2007/12/30(日) 19:07:35 ID:jS0r071L
>>393
>濃姫に子供がなかったので、信長は妾が産んだ子供を濃姫の養子にした
一応訂正しておくけど、濃姫に子供がなかったじゃなく、
濃姫に「若君」がいなかったからだよ。
つまり、信忠を養子にした時点では、男子がいなかったとしか書かれていない。
いくつかの史料では、信雄の出生前に信忠は養子になったとされていて、
そうなると、弘治2年中か、永禄1年1〜3月くらいの間になる。
その時点で男子がいなかったと言うことにしかならないんだよ。
また、信雄出生前に養子になっていなかったとしても、
美濃を手に入れた永禄10年あたりには、信忠は養子になっていたと考えられているので、
その頃までは男子がいなかったということになる。

それ以降については不明。
ただ、特に記述がないので男子はいないだろうけどね。
400奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/12/30(日) 19:16:23 ID:omvzCBCi
五徳だけでも産んでいてくれれば道三の血が名家で残ったと言えるのにな。
401人間七七四年:2007/12/30(日) 21:10:19 ID:+x6c8AgL
>>399
>いくつかの史料では、信雄の出生前に信忠は養子になったとされていて、

どの史料?
あと濃姫に男児がいなくて信忠が養子だったっていう史料は「勢州軍記」だよね?
あれって一次史料的扱いでよいの?
まぁ、信忠の周辺に濃姫の親族がいたりして状況からして信忠の母として
名実ともに織田家で認識されてたのは確かだと思うけど。
402人間七七四年:2007/12/30(日) 22:23:40 ID:jS0r071L
「勢州軍記」は一次史料ではないな。
1638年に完成している。

「余吾庄合戦覚書」が信雄出生前の信忠養子を書いている。
他に養子についての記述があるのは「津嶋大橋記」と他にもあったが名前を忘れた。
また調べておくよ。

「余吾庄合戦覚書」は信雄に都合のいい記述ばかりだから、あまり当てにはならんがな。
信忠が御台の養子になって嫡男になっていたから、同腹の信雄が生まれた時に、
信長に直ちに報告されて、卑しい身分の信孝生母に子供が生まれたのは
20日以上も放っておかれたので、三男の信雄が次男になったって内容。
卑しかろうが、男子ならすぐに報告するての。
まして、当時の生駒氏と坂氏なら、坂氏の方が身分は上だってのにな。
403人間七七四年:2007/12/30(日) 23:37:59 ID:6BUkXo2X
>>402

401ですが即レスありがとう。
信忠の養子の件については史料的価値はともかくも色々な記事が残ってるんだね
信雄出生時の生駒氏と坂氏の身分についても初めて知った。
坂氏の出自って明らかになっていたっけ?
岡田正人氏の事典の坂氏の項目では熱田の岡本太郎右衛門良勝の家で信孝を出生、
坂氏本人は身分の低い家の出であるともいう、としかないけど。

生駒氏は武家でもあり商家でもあって、経済力があり、
坂氏よりは閨閥として力があったような気も。
404人間七七四年:2007/12/31(月) 00:06:58 ID:tgYS5Fwi
はっきりと判明している訳じゃないけど、ほぼこうだろうというのは分かってきている。
史板の濃姫スレにあったものだけど、簡単な家系図を張っておくよ。
それから、次のレスに家系図の捕捉が書かれたコピペしとく。

ズレてたらすまん。

 ┌縁者─岡本秀成
 │  ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
 │  │
岡本氏─┴─女  信長
      │   ├───信孝
      ├──信孝生母
      │   ├───小嶋少輔
      坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘
│┌─────────── 女
││      ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐           │
     │┏━←養女━━━━━┓│
小嶋信房ー┴┻─女  ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
        ├──┴─信長
       織田信秀
405人間七七四年:2007/12/31(月) 00:08:28 ID:tgYS5Fwi
>>404の捕捉コピペ

>596 名前:日本@名無史さん メェル:sage 投稿日:2007/06/07(木) 11:18:22
> 信秀の娘が小嶋信房の養女として大橋重長に嫁いでいる。
> これは信秀と大橋氏の抗争の和睦のためだとされていて、
> その後大橋氏は信秀に従うようになるので、関係は深かったと考えられる。
> その大橋氏の記録で、信秀正室が小嶋信房息女なのだが、
> なぜ、信秀の娘が嫁ぐ時、小嶋信房の養女としてなのか疑問だったが、
> 正室が小嶋信房息女なら、別におかしくはないと、改めて思った。
>
> 実は、織田信孝の異父兄とされる小嶋少輔という人物がいて、信孝の神戸氏粛正時に
> 山路氏に変わって高岡城主になっている。
> この人物は小嶋信房の縁者と考えられている。
>
> 家康の祖母は大橋氏の二男の川口氏に嫁いでいるが、川口氏より前の松平清康と婚姻したとき、
> 取り持ったのが岡本善七秀成といわれている。
> また、この岡本秀成は、信孝の生まれた家である熱田の岡本氏の関係者だが、大橋氏の縁者ともいわれている。
> ちなみに、岡本良勝は信孝の母方の大叔父だという説があるな。
> 家康の祖母が川口氏との間に生んだ川口宗吉は、小嶋信房の娘と婚姻している。
>
> かなり大橋氏、小嶋氏、岡本氏辺りと織田氏は、かなり密接な関係があると思える。
> 信孝も、その関係で母親が信長の側室になったのかもな。
406人間七七四年:2007/12/31(月) 00:20:41 ID:tgYS5Fwi
続き

>599 名前:日本@名無史さん メェル:sage 投稿日:2007/06/07(木) 14:24:53
> 信長の父親の信秀の縁談ということは、祖父信定の時代の政略的なことが絡んでくると思う。
> 織田信定はまだ清洲三奉行の一人にすぎなかったものの、勢力を拡大し
> 津島の港を手中に収めてる。ここを基盤に信定系織田家は発展していくんだけど、
> そう考えると信定の代で津島に土着していた津島衆といわれた尾張津島四家七党との
> 関係はとても重要だったと思うんだ。
> 岡本家も大橋家も四家の一つだし信定・信秀の代では津島を支配する
> 上では津島衆と婚姻関係を結んで姻戚関係になり、基盤を固めることが必須だったのでは
> ないかと考えられる。
407奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/12/31(月) 00:30:11 ID:pjRIFJU5
>>404
それ前にズレ直した記憶が
408人間七七四年:2007/12/31(月) 00:45:45 ID:HdEOsGqv
>>404->>406
またまたありがとう!小嶋氏とそんな風に繋がってたんだ。
信孝の異父兄はそういや信孝の神戸入りのとき高岡城主になってたような。

しかし、側室たちの背景も政治絡みで考えるともの凄く面白いね。
どうして小説家って、こんなに面白くなりそうな設定を放置して使わないんだろうw
見初めて側室にしただの、誰が誰を一番愛してたのどうのと言うより、
こういう背景から書いた方が、絶対に深みも出るし、面白いと思うんですがね。
409人間七七四年:2007/12/31(月) 01:29:24 ID:ZE0zPstt
当時生駒氏より坂氏の方が身分が上だったとしても
幼少期は信孝より信雄の方が立場が上だったイメージがあるんだよな。
あくまでも勝手なイメージだけどw
信孝は努力して信長に認めてもらえたイメージというか
コンプレックスの裏返しのプライドの高さを感じる。
ま、あくまでも勝手なイメージなんですが。
410信長:2007/12/31(月) 19:35:53 ID:tQuL0fIz
とっとと濃姫消えろ
うざい
織田家に来るな
411人間七七四年:2007/12/31(月) 19:41:29 ID:tgYS5Fwi
歴史と、現在の区別がついていない頭のおかしな人がいますな。
本日のNGワードは「ID: tQuL0fIz」ですね。
412信長:2007/12/31(月) 20:16:27 ID:tQuL0fIz
濃姫マジでいらん
誰か冴えない不幸な男でも見つけて結婚でもしろ 傷でも舐めあっていろ
お前らお似合いだよ
斎藤十三の娘なんていらん
斎藤13は不吉な男だから
うざい
地下がお似合い
稲垣吾郎見たいな奴と結婚させとけばいいんだ
こんなやつは


413人間七七四年:2007/12/31(月) 21:42:34 ID:oj+BsXGm
もうすぐ少年法の適用年齢が引き下がるかも!
 
みなさん、憲法改正のための国民投票法を知っていますか?
成人年齢が20歳から18歳に引き上げられます。
つまり、18歳の人でも憲法改正の投票が出来るわけですが、
それに合わせて民法や公職選挙法の改正が予定されています。
さぁこの機会に少年法も改正しましょう。
少年法の適用年齢を引き下げましょう。
18歳の人間が
(憲法9条を改正すべきか)といった大問題を決めることが出来るのに
18歳の人間が犯罪を犯したときには少年として扱われるのは
おかしいでしょ?
国民投票に投票できるなら18歳でも成人とすべきと
考えます。
少年法の改正に向けて世論を盛り上げていきましょう!!

国民投票法成立、「18歳成人」検討委を設置へ
http://www.rights.or.jp/archives/200
何で?成人年齢:引き下げ、09年秋にも法案 国民投票法で政府7/05/events070515.html
http://topic.nifty.com/topic_detail/index/general/social/24684/comment
414人間七七四年:2007/12/31(月) 21:45:43 ID:cBxlw+4b
>>412
キモくてうざいのはお前だよw
頭のネジがトンでるんじゃないのか(笑)病院行った方がいいぞ〜
生駒信者ってのは馬鹿でキモいやつしかいないのか(笑)
キモい生駒信者のせいで、もともと人気ないのにますます生駒女の評判下がるぞ!

>>409
>幼少期は信孝より信雄の方が立場が上だったイメージがあるんだよな。

そうかなあ〜信孝が先に生まれていたのに三男になったってのは、信雄の方が先に
認知されたからじゃないのか?信孝が生まれたのが清洲でなくて、岡本家の屋敷で
なんだし、普通に考えて生駒は先に清洲で側室になっていたから、先に報告され認知
された。しかし、坂氏は(これは自分の想像だが)清洲で側室になっていなかったん
ではないのか。信長が個人的に気に入って関係をもっただけかも知らんし、熱田の
伽係として坂氏がついていた関係でかはわからんが、正式に側室になったのが遅かった
だけじゃないかと思うが。
信長はそれほど信雄と信孝を差別しているとは思えんが。どっちも自分の息子なんだし。
生母の関係で差別するような人間ではないと思うな。
しかし、信雄関係の史料にしても、信孝や坂氏を身分が卑しいとか書くなんて悪質だね。
たとえ、身分が卑しくとも秀吉や浪人の光秀があれほど出世したことを見ても、信長は
身分とかで差別などする人間ではなかったと思うな。本人の器量とかを判断して適切に
取り立てているしな。

415人間七七四年:2007/12/31(月) 22:01:04 ID:ZE0zPstt
生母個人の関係で差は付けないだろうけど
その当時の実家の重要度、利用価値で差が付いたりはあるのでは
416人間七七四年:2008/01/01(火) 00:35:02 ID:m3pX9G/G
生駒家は信長生前はあまり重要視されていないからなぁ。
せいぜいが秀吉の与力に付けられているだけだし。
家臣のそのまた家臣みたいな位置づけな訳で。
やっぱり尾張津島四家七党と縁続きで、鹿伏兎氏縁者の坂氏とは
扱いは違うんじゃないだろうか?

ただ、信孝を生んだ時点で正式な側室ではなかった説には一票。
熱田での伽係だろうと思う。
伽係って言っても、熱田を押さえていた織田家の頭領である信長辺りに付けられるのは、
それなりの立場の女性で、不特定多数を相手にするようなことはないからな。
417人間七七四年:2008/01/01(火) 02:00:27 ID:YU6e6AH6
正式な側室ではなかった説には賛同するけど、そこそこ重要な家関連の娘なら
妊娠した時点で正式な側室にしたりはしないものなのかな?
子供の死亡率が高いから無事に生まれてから?
次男、三男問題だって例え報告が遅れても、信長が生まれた順に信孝次男にするといえば
反対する者もいなかったんじゃ。
別に生駒氏が重要視されてたとも思わないけど、それ以下の扱いっぽく思えてしまって
生駒氏より坂氏の方が身分が上ってことだけに余計に不思議でね。
418人間七七四年:2008/01/01(火) 02:54:37 ID:s75WlzfD
斎藤家はローマ出身らしい
カトー家の奴らか
419人間七七四年:2008/01/01(火) 11:42:31 ID:FaDyaqjE
多分どの側室も信長の奥で仕込まれて、信長の奥で生んでいると思う。
確かに信孝を生んだ時点で、母親は奥に入ってなかったとか
そういうほうがドラマ性を感じるけどね。
現実は濃姫の支配する奥で、側室のひとりとしてお役目に励んでいただけだろうと思う。


外で子作りして外で子供生んで・・・みたいな事がまかり通るのなら、
戦国時代の正室を頂点とした奥制度そのものの真意が問われる事になるよ。
420人間七七四年:2008/01/01(火) 15:36:58 ID:TM8WoV4I
>>419
> 外で子作りして外で子供生んで

結城秀康ってそんな感じじゃなかったか?
421人間七七四年:2008/01/01(火) 15:38:09 ID:ba9u2S98
明智が、信長に伽係として付けた女性が気に入られたので安土にあげる算段をしていた所
亡くなってしまって落胆したと解読できる史料もあるから、
伽係から側室にあげることもあっただろうな。

熱田で生まれたか、清洲で生まれたか分からんが、
当時、信清派の生駒と、信長派の熱田じゃ
その扱いに差が出てくるのは仕方がないことだと思う。
生駒は側室だけど、「人質」の側面の方が大きくて、
信長が手元に置いておかねばならない類いの立場。
坂は熱田の伽係であったとすれば、「人質」として監視する必要があまりない立場。

後年の強大な権力の持ち主になった信長の奥と、
当時の一地方領主の更に家臣の立場であった信長の奥とは
比べても仕方がない気がする。

その本家の織田家を凌駕する財力を手に入れた信秀の功績は大きいな。
422人間七七四年:2008/01/01(火) 16:12:44 ID:YU6e6AH6
熱田サイドは織田家がもうしっかり抑えてたから大して気を使う必要がないけど
まだまだ微妙な関係だった生駒家には、それなりに気を使った対応をしないとダメだったって感じか。
423人間七七四年:2008/01/01(火) 17:57:03 ID:ba9u2S98
上の系図を参考にするなら、坂氏は信長の生母の親戚の後家で、
その子供(信孝の異父兄)は、信長の従兄弟とか、はとこだろ?
後家になって、信長が元服して最初に制札を出す程密接な関係があった熱田で
(最初に出す制札などは、形式的なものだから)
選ばれて信長の伽係にでもなって、側室に上がったか、まだ上がる前かって頃。

まだ敵対している信清の家臣である生駒の娘を人質にするのとは
意味合いが全く違う訳だよ。
信長生母が土田氏で生駒の親戚という前提が崩れると、
人質以外の何物でもない存在だよな。
424人間七七四年:2008/01/01(火) 18:22:43 ID:ISimyLvb
生駒氏や坂氏がどこで信長の子を産んだのか、
戦国末期の制度を確定できる史料がない以上はいろんな可能性があるよね。

ただ、坂氏の存在が、従来考えられていた以上に
織田家や信長本人とも関わりの深いものであることはレス読んでてよくわかったけど、
信雄と信孝は、やっぱり信長に明確に差別化されていたようにしか思えない。
永禄11、12年に養子として入嗣させられた家の家格も北畠氏>神戸氏だし、
その後、信孝が軍団の長として重要な戦功を遂げたあとでさえ、
天正9年の馬揃えでは信雄が信忠に次ぐ第二位なのに対して、
信孝は叔父の信包のあとの第四位。

やはり生母、というかその実家の力関係が信雄の方が高かったためじゃないの?
(単純に信雄の方が可愛かったから、という可能性もあるだろうが、
信長はそういうことで公的な序列をつけない厳格な面があるだろうから却下)

あと、生駒氏の兄の家長って商家であるとともに信長の馬廻りでもあるよね?
越前攻めのときには、突きかかってきた敵から自ら信長の身を守っている。
425人間七七四年:2008/01/01(火) 18:50:28 ID:GCF7Mmvh
>やはり生母、というかその実家の力関係が信雄の方が高かったためじゃないの?

その割にはあまり生駒家は織田家で取り立ててもらっていない気がする。
信雄と信孝に差がつくのは一応ニ男と三男だからじゃないの。
信孝が神戸家へ養子へいったんは、坂氏が神戸家と近しい関係だったかららしいし。
(信孝スレに詳しく書かれていたけど)
馬揃えの件は、武将としては信孝>>信雄だから、馬揃えの時ぐらいニ男の信雄>>信孝
でないと立場的に示しがつかないからじゃないのかな。
信孝も本来のニ男は自分だと吹聴していた感があるし、フロイスの日本史でさえ「ニ男信孝〜」
と書かれているしね。
それに、信雄もっと武将として優秀だったら信孝も信雄を兄として敬うことも出来たんだろうけど
織田家の重臣からも、信雄は馬鹿だと疎んじられていたから信孝も信長・信忠が急死した後
信雄と本格的に対立したんじゃないのかな。
426人間七七四年:2008/01/01(火) 19:05:33 ID:ba9u2S98
神戸家は坂氏の縁者である鹿伏兎氏の本家みたいなもんだからな。
全く無関係の人間を送り込むより、親戚の方が体裁がいいだろ?
馬揃えの時は、官位の関係であの順番は当然だし。
曲がりなりにも次男三男を、養子先で次男<三男にする訳にもいかない。
とはいえ、信孝は四国征伐以降は三好の養子になることが決まっていたようだし
その差もなくなる予定だった訳だしな。

実家の力関係といっても、何を持ってして力関係?
昔は生駒の財力に頼っていたって武功夜話の説がまかり通っていたけど、
今は、信長は津島と熱田を抑えていて、莫大な収入があったことは分かるから、
生駒にお金を頼っていたのは創作だといわれているし。
生駒家そのものは、信雄と秀吉に付けられている。
馬廻り衆だから出世したって訳じゃないから、何とも言えないな。
大脇伝内も商人と兼業で馬廻り衆だし、熱田の関係者でいえば加藤氏も
武家だが商人として、生駒以上に織田家と密接な関わりがあるし、
信長と信忠の小姓に次男を差し出している。
信秀にもと推測できる史料もある。
427人間七七四年:2008/01/01(火) 19:16:01 ID:GCF7Mmvh
生母の実家の力関係で〜というなら信忠生母はますます謎じゃない?
公式記録には、信忠生母は誰かという記述はないし。
生駒なら信雄同様そう書かれた筈だから、生駒ではなかったと思う。
しかし、生駒や坂氏は記録されているのに、信忠生母と思われる久庵慶珠は
まったく何処の誰なのか記録はないし。
記録されないほど身分の低い人だったんだろうか?信忠を生んだ後すぐに奥を
下がったとかで、あまり家臣などにも知られていない人だったんだろうか?

そもそも信長が信忠を嫡男にしたのはただ一番先に生まれた男子だった〜
というだけなんだろうか?信忠、信雄、信孝とほぼ同時期に生まれているし
三人一緒に元服したようだし、信忠が生まれてすぐに濃姫の養子になったのは
本当なんだろか?信雄寄りの史料だからあやしいんだよね。
子供たちがある程度成長するまでまって、三人のうち一番武将として優れている
信忠を嫡男に指名したんじゃないのかな。
もし、一番先に生まれた男子が信雄だったとしても信長は馬鹿の信雄を嫡男に
したかなって考えると、いくら自分の息子でもあまり器量のない息子を嫡男に
するのは自分の死後、家臣が謀反しないか心配だと思うし。

そう考えるとあまり生母の実家とは無関係な気がするな。
428人間七七四年:2008/01/01(火) 19:26:01 ID:ba9u2S98
生母が記録されているということは、政治的にその実家が信長と関わりがあるという記録だから
その必要のない政治的背景の薄い女性だったと考えることは可能だと思う。
濃姫の侍女であったり、縁者であったりなど、正室が用意した側室の可能性な。
長く側室を持たなかった場合、正室が最初の一人を用意することは別に珍しくはないから。
他には、身寄りが後年死に絶えてしまったなどな。
記録を残した時点で、既にない家系だったりすると、分からなくなることはある。
通常、側室など正室になっていない女性は、実家の菩提寺に奉られるのが普通なので、
久庵慶珠が崇福寺にまつられているってことは、身寄りなどがあてにできない程で
織田家で葬礼関係仕切るしかない状態だったか、
稲葉氏の縁者のように、崇福寺が元々菩提寺だったかと考えられる。
お鍋の方でも、江戸中期に信吉の家系が総見院に墓を建立するまでは、どこにあったか不明だし。
429人間七七四年:2008/01/01(火) 19:28:57 ID:YU6e6AH6
信雄と信孝って官位でも差が付いてるよな。
養子先の家柄のせい?
この二人の微妙な差が生駒が最愛の人だった説とかが出てきちゃう
要因のひとつではないのか。
信雄の扱いがいいのは生駒の子だったからみたいな説。
織田家が長く続いて、信雄と信孝の立場が逆転してたら
そんな説もでなかったかも。
430人間七七四年:2008/01/01(火) 19:35:02 ID:GCF7Mmvh
信雄を北畠家へ養子にするという案は、滝川一益の意見だったって本当?
431人間七七四年:2008/01/01(火) 19:42:28 ID:ba9u2S98
>>429
>養子先の家柄のせい?
そうだな。
基本的に、家柄でもらえる官位なんて決まっているしな。
三好の養子になったあとなら、また違う官位になっただろう。
織田家だの豊臣家だの徳川家だのは、官位もらうにしても例外だよな。
432人間七七四年:2008/01/01(火) 20:34:20 ID:s75WlzfD
斎藤家の女wwwwww
433人間七七四年:2008/01/01(火) 22:54:13 ID:817iUBQg
>>429
普通に考えれば、養家の格の差。坂氏と生駒氏ならともかく、坂氏と北畠氏とでは
比べ物にならない。

>>427
信憑性に目をつぶれば、信忠以前の信長の子が何人か記録にはあります。
庶長子とされる信正。かれは信長の庶兄信広の娘を娶ったようで、その家を
継いだ可能性がある。もう一人、隠し子といわれる埴原乙殿。
434人間七七四年:2008/01/06(日) 16:30:37 ID:o5eGPrJ1
信孝の方が先に神戸家への養子縁組が決定しているのだけど
北畠と神戸、次男と三男の格に従ったというだけじゃないかな。

三男の方が次男よりも家格の高い家へ養子にだすということは
武家ではあってはならんことだったんだとおもう。

そこに生母の実家の家格や影響力、当主の生母への寵愛なんて
まったく関与していなかったろうし。

だから信雄、信孝が養子にだされて織田姓を離れた時期に
信忠が嫡子として安定したと考えてもいいんじゃないかな。

秀吉も秀頼誕生後に、突然秀次から関白職を剥奪した
のではなく秀次の姫と秀頼の婚姻を約束させ、将来的に秀頼が豊臣・関白を
継げるように画策したとも伝えられてる。
一説にはその他秀次の継ぐべき領地の5分の一を秀頼に継がせるように
秀吉が命令したことなどに秀次が反発したためにあんなことになった
とも言われてるし、庶子や養子であっても
対外的に嫡子と決まった人物を、嫡子がひょっこり生まれたからといって
廃嫡するのは当主であっても難しいんじゃないかと思う。
嫡子として土台が固まったあとでは家臣間の争いも生むしね。

信忠を濃姫が養子にした、という箇所が事実であればよほどの覚悟だよね。
信雄が養子にだされた時期あたりじゃないかと推測してるんだけど
そのあたりまでは確実に濃姫が生きていたといえるんじゃないだろうか。
嫁いでから10年以上男子をもうけることが出来ない正室としては
そのあたりで決断をせまられ、家のために嫡子相続をあきらめた
と考えるのは自然なことに思うのだけど。
435人間七七四年:2008/01/06(日) 17:53:24 ID:d+FIcme8
信雄にしろ信孝にしろ、側近に生母の実家筋が付いてるのに
信忠だけそれらしき人達が見当たらないよな。
美濃衆の中の誰かがそうなんだろうか。
436人間七七四年:2008/01/06(日) 18:55:54 ID:tsC3Y+kv
>>435
兄弟の側近を考えれば、そうなのかなーと思えるよね。
まー、濃姫の養子になったという事が正しいのなら
濃姫の息子だから、美濃衆がついたとも言えるけど。
437人間七七四年:2008/01/06(日) 21:34:46 ID:h/25EXPh
輿入れの時に一緒に濃姫と来た侍女の中に濃姫の血縁者とかがいて
その女性が濃姫の腹となって信忠を産んだとか?
細川忠興に明智氏という側室がいて、その女性が産んだ子も
同じ明智氏なのでガラシャの子と混同されていたらしいけど、
輿入れの時にガラシャに付き添った縁者の侍女だろうと推測されるぐらいで
それ以外の詳細は不詳。
信忠生母についても詳細が明らかでないのは、実家の斉藤氏が滅んでしまった
からじゃないか?
438人間七七四年:2008/01/06(日) 21:47:26 ID:tsC3Y+kv
>>437
まぁ同意なんだけど、濃姫の腹となって・・・って表現が何となく嫌だ。。。
439奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2008/01/06(日) 22:03:52 ID:bnEUtUvT
もう濃姫腹でええやん。
440人間七七四年:2008/01/06(日) 23:28:44 ID:GHTKtheY
山岡小説で、信長が濃姫の侍女を口説くシーンがあったのを思い出した。
あれは笑ったな〜
実際に、侍女や乳母など家中の者を側室にする際は、信長が直に口説いたんだろうか?
何かそっちの方が気になるw

坂氏は伽係だったけど、生まれたのが男子だったから側室として迎えられ
子供は認知されたんじゃないのかな?濃姫に男子が生まれないのもあって、
信長はとにかく男子が欲しかった。
仮に坂氏が生んだのが女子だったらどうなったかわからないし、公式記録にも
載らなかったんじゃないかと。

子供で差別はないというけど、四男秀勝と五男勝長も同時期の生まれなのに
信長のこの二人の扱いが、勝長>>秀勝 だよね。
勝長は実の叔母の所へ養子だけど、秀勝は秀吉の養子だしかなり差をつけられているよね。
秀勝生母はかなりがっかりしたんじゃないかと思うね。
二人の生母が判明しないのでなんともだけど、なんで信長は叔母さんの申し出に
四男秀勝を出さずに五男勝長を出したんだろか?
441人間七七四年:2008/01/07(月) 09:00:25 ID:eu3T4l9r
有力家臣に養子にだすのは必ずしも劣った扱いとはいえないよ。
その家臣の家を取り込み、事実上織田家が乗っ取るわけだから。
まぁ出自の低い秀吉に子供をあげるのはとても違和感あるけど
秀吉はすでに城持ち大名にまで出世してたしね。
男子のいない秀吉に自分の子供をあげたことが美談のように
伝わっているけど、見方を変えれば今後秀吉に男子が
産まれてもその子に継承権がない(秀勝が養嗣子扱いだったから)
という事態になっていたわけだから、けっこう信ちゃんひどいことしてる。
ねねだってまだ30才そこそこで子供を産まないとも限らないのに。

>>438 「御腹様」の語源なんだから仕方ないよ。
奥務めの侍女はみなそういう可能性を含めて奉公してたから
御方様の腹の代わりも務めのうち。
442人間七七四年:2008/01/07(月) 10:04:54 ID:9PgxpBWG
>けっこう信ちゃんひどいことしてる。

秀勝養子の件は、そもそも秀吉が自ら願い出てだから、
秀吉も信長の子供を養子にもらって置けば、後々良いことがあると踏んで
の事なんだからどっちもどっちなんじゃないの。

その後は実際、秀吉の都合のいい時期に秀勝死んじゃってるし・・
散々利用したのは秀吉側なんじゃないの。
あ〜本能寺さえなかったら・・
443人間七七四年:2008/01/07(月) 11:00:40 ID:eu3T4l9r
>>442 >>秀勝養子の件は、そもそも秀吉が自ら願い出てだから、

これが通説になってるけど、そもそもどこのソース?
ずっと気になってた。

秀吉は子供に恵まれなかったのは事実だけど、
早世した石松丸という側室腹の実子がいたのは
寺の奉加帳などからも明らかだし、いくら主筋の子供とはいえ
まだ実子をもてる可能性を捨てて自ら願い出て養嗣子をもらったとは
考え難いんだよね。

信長とのつながりが強くなる、というメリットはあるけど
その手の戦略なら姫を養女にもらうことでも用は足りる。
北畠、神戸家同様に信長の実子を養嗣子にしてしまうと
織田宗家を中心に織田の支配下におかれ
行動に制限ができるし、家の繁栄に限界がでてくる。
信長が有能で抜け目の無い秀吉が離反しないように、
先手を打ったのか?とも思えるんだよな。

秀勝は後見に一族の木下氏や杉原氏をつけられていたようだから
ねね公認の嫡子として育てられたようだし、秀吉から
かわいがられていたのは秀吉の手紙や秀勝の待遇からも
わかるから、秀吉にとってはプラスのことばかりだったとは思うけどね。
444人間七七四年:2008/01/07(月) 11:36:23 ID:9PgxpBWG
>>443
自分もソースは知らない。
通説では確かに秀吉が頼んだってことになってるね。
だけど、信長が秀吉に自分の子供を押し付けたとは思えないけど。
秀吉は子供に恵まれなかった、やっとできた男子なのに早世してしまって
かなり落胆していた事は想像できる。信長もその事は耳に入っていたから
それなら、自分は信忠以外にも何人か男子がいるから秀吉に自分の息子を養子に
どうかと慰めたということも考えられる。

>信長が有能で抜け目の無い秀吉が離反しないように、
>先手を打ったのか?とも思えるんだよな。
そんなに秀吉を警戒していたようには思えないけどなあ。
信長はもともと部下を信頼していたように思えるけど。
それまでも散々謀反されてきたんだし、そのたびに事後対応の信長が
秀吉の謀反を見越して、というのもね。それほど秀吉の事を信用してないなら
最初からトップマネジメントの職につけることないんだし。
本能寺での死に方を見ても、己の成功に酔っていた、かなり油断していたのはわかる。
織田家No.2の光秀を無警戒なのに、秀吉にだけ警戒していたとも思えないしね。
445人間七七四年:2008/01/07(月) 12:20:05 ID:eu3T4l9r
秀吉に限らず譜代の家臣とですら婚姻して関係を強化しているのだから、
有力家臣の離反の警戒は常にあったと思う。

この時代の主君替えは武士の恥ではなく、むしろ推奨されたぐらいだし
最前線に送られる有力家臣がエサをぶらさげられてあっさり敵方に寝返っても
困るわけだしさ。信長に限らずどの殿様も婚姻や養子縁組による
家臣の抱え込みはやってたよ。

光秀も織田信澄に娘を嫁がせ、織田一族とは姻戚関係にあって
この縁談が信長の意向によるものは明らかだろうし、
無警戒だったというのでもないと思う。
446人間七七四年:2008/01/08(火) 01:26:43 ID:WyIWa2Cv
>>443
秀吉の元に行った後の書状に、織田次と署名して、秀吉と連名になっているものがあるんじゃなかったけ?
信長としては、例えば、柴田勝家に津田信澄を預けた感覚で、養子に出したつもりは全く無かったのかもしれないよ?
本能寺の後まで元服してなかったようなのに、長浜の寺に早々に「羽柴 次 秀勝」と署名した記録が残っている不思議。
信長の死後、強引に「養子」だったということにしてしまった可能性とかないのかな?
447人間七七四年:2008/01/08(火) 08:22:03 ID:ZTKik68X
>>446 長浜八幡宮の奉加帳のことでしょ?
天正8年に「秀勝」と署名されているのだから、名前からして
明らかに秀吉の子として元服してると思う。
確かに大名家では家臣に嫡子以外の男子を幼少から預けて養育させることは
よくあることだったみたいだったから、当初はそのつもりで預けたけど
秀吉に後継者がなかなか生まれないので、その後正式に養子になった
という流れだったのかもね。
448人間七七四年:2008/01/08(火) 17:46:41 ID:dfoglUPe
ほとんど生まれ年が違わないといわれている秀勝と信房(勝長)だけど、
単純に上から順番に養子にいっただけじゃないの?
信房が4男という説もある訳だし、秀勝が永禄11年生まれ、
信房も永禄9年から12年辺りで生年に幅がある。
449人間七七四年:2008/01/09(水) 17:29:29 ID:3UH2tcbJ
勝長が秀勝よりあきらかに早く生まれてるんなら
なんで秀勝が四男、勝長五男ってされてんだろ?
生母の実家の関係とかじゃないよね。
っていうか、勝長生母の件で濃姫だという説をとなえている人の
ブログ?見たんですけど・・・
その理由ってのが、勝長の戒名に織田家の「岩」の字が入ってないから、
濃姫が秀吉に強力しなかったから秀吉が勝長を差別したって話。
勝長の生まれた順が秀勝より後にされたってのがホントなら
生母は濃姫って事はないと思うんだけど・・・
450人間七七四年:2008/01/09(水) 18:16:22 ID:FrbxWtLc
「岩」の字が入ってないのは、確かに不思議だよな。
織田復帰後は信房なのに、それが勝長にされてるのも不思議だ。
信房の子供まで勝良で、まるで信房の名前がなかったことになっているかのようだ。
451人間七七四年:2008/01/09(水) 20:15:11 ID:2PvPBVa5
織田家に戻った後は勝長の署名は信房オンリーだから
勝長という名前の方こそなくなってた。
勝良はどこかの家に養子になって、そこの家に相応しい
名前をあたえられたんじゃないの?
信房が亡くなったのが15〜16才なら、かなり小さい頃から
親代わりに育ててくれたものがいたはず。
452人間七七四年:2008/01/10(木) 10:26:03 ID:ZsL86jXD
乳父(乳母の夫?)五十若久助勝貞という者が、岩村城にも付き添って
秋山に攻められた時も、守るために戦っているね。
その後、秋山が信長叔母と結婚して、
武田に人質として送られるくだりでは
もう登場しないから、戦死したか、遠ざけられたか。
武田には、当然付き添ってない筈だから
織田に帰った後、傍付きがどうなったか、気になるな。
池田氏息女が、側室らしいし、犬山城は、尼崎城に移るまで、
池田氏の居城だから、池田氏が傍付きの立場になったのかな?
453人間七七四年:2008/01/10(木) 11:12:18 ID:sxJwSAgw
素朴な疑問なんだけど、勝長には信忠同様に正室は不在だったのかな?
池田の娘は正室ではなかったの?
勝長は武田にいたときに結婚していたという説もあるらしいし、
マイナーな人物なのに、子孫があちこちにいるとされているしね。
本当に謎だよね。
信長の息子達は、それぞれが生母の実家筋が側近になっているよね。
勝長の側近には生母らしき人物はいないのかな。
454人間七七四年:2008/01/11(金) 15:05:03 ID:wMCxrZqz
勝良が信房の実子ということなら、
正妻を娶る前にできた子なので、庶子認定すらしてもらえず
信長の庶長子と言われる信正同様に、家臣の家に預けられ
そこの姓を名乗って養育されていたのかもな。
信正は村井氏に預けられて村井性を名乗っていて、信長生前は
織田家の一員という扱いすら受けてない。
その場合は勝良という名前は勝長の「勝」じゃなくて、養父から
もらったものだと思われるな。
455人間七七四年:2008/01/11(金) 16:40:42 ID:Ipy8oE9n
信正は濃姫輿入れ後の誕生だし、江戸後期になって
信長庶子説が出てきたから、実際は庶子ではないと思うけどな。
456人間七七四年:2008/01/11(金) 23:20:37 ID:wMCxrZqz
信正に関することは、信正が開基した見性寺にある史料にしか記されてなくて
そこに信長庶子ということになってるそうだ。
なので寺の格を上げたいがための捏造された寺伝、という
ことは考えられるけど、信広の姫を嫁にもらっているので、織田一族とは
何かしらの血縁関係にはあったんじゃないかな、と思う。

勝良も信房の子供と伝わったけど、実際は織田一族の誰かと勘違い
されただけかも。勝良が仕官した加賀藩には津田一族も多く仕官したので
津田氏だったか、もしくは津田氏の養子になった信房の庶子だった可能性は
払拭できないな。
457奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2008/01/12(土) 00:16:38 ID:UhJnaGB7
もうね、信忠は濃姫の子でもいいと思うんだ。
458人間七七四年:2008/01/12(土) 11:47:16 ID:x7p4e865
>>457
濃姫の子でしょ。
養子縁組しているという文献が正しいのなら。


というか、基本的に武家の息子の系譜上の母親は正室なんだから、
信忠どころか信雄も信孝もみーんな濃姫が「おかか様」だよなぁと思う。
まぁ実際は胎痛めて生んだ実母を母と慕っていただろうけど
公式には濃姫が母親だと思う。
459人間七七四年:2008/01/12(土) 12:20:42 ID:F7Cv2jec
濃姫が生母でないにしろ、勝長が秀吉から差別された理由って何だったんだろうね。
勝長生母が伽係だったとかで、最初は信長の息子扱いされていなかったとか?
でも、それなら武田から帰ってきてからの信長の優遇振りが不思議だしね。
また牛一が、勝長の事を詳細に信長公記に書き残した事を考えても、
かなり織田家で優遇されていたと思っていいだろうしね。
勝長生母の実家が反秀吉派だったから?
それにしては、誰につながるかもはっきりと残っていないのは実に不思議だ。

460人間七七四年:2008/01/12(土) 14:50:29 ID:nrV47SFX
信房の乳父の五十若氏ってどこの出身なんだろう?
美濃か?
461人間七七四年:2008/01/12(土) 15:18:48 ID:x7p4e865
>>459
わざと「岩」の字を与えず、差別したのか
たまたま記録的に何故か「岩」がかけてしまったのか。
信房ではなく、勝長にしているのも何故か気にはなるけど・・・。

可能性として考えられるのは
1.信長が幼くして養子に出した息子(御坊)が帰ってきたのが嬉しすぎて、思わず優遇。
  「信忠の跡目」として三法師を担ぎ上げた秀吉としては、信忠以下は全てゴミ扱いしたかった。
2.信房生母の実家が、結構力を持っていてさらに反秀吉だった。
3.濃姫の息のかかった家柄(美濃斎藤家関係)で、濃姫との関わりが濃すぎた為
  これから乗っ取る為にも1のように信忠以下はゴミ扱いしたかった。


というか、個人的には絶対的能力主義で、無能な善人より有能な悪人!って信長が
家柄だけで信房を優遇したかなぁという疑問がある。
例え濃姫が信房の実母だったとしても、既に信忠という有能な嫡子があった状態で
信長が嫡室出の息子を手放しで優遇したかと言われたら、何となく違和感がある。
幼い頃に叔母の家に養子にいき、さらに武田に人質として出され、
武田でも冷遇されずに勝頼に可愛がられていたという経緯のある息子を
帰ってきていきなり手放しで喜ぶとは思えないんだよなぁ。信長って。
秀吉なら何となくそれも想像出来てしまうけどw
462人間七七四年:2008/01/12(土) 16:24:39 ID:KBg1C2sH
つか、信房が優遇されているようには全然思えないんけど。
戻っても信忠の家臣扱いだし、かなり小さい頃に養子にだされてるわけだしな。
他の兄弟と比べて信長から厚遇されているというのはどのあたりのこと?

子供といわれる勝良は津田姓で加賀藩に仕えたというし、
実子かどうかも定かじゃない。まだかなり年少者であった可能性もある。
信房がまだ12才〜13才の年少者だったとしたら、院号もないシンプルな
戒名をつけられただけなんじゃないの?他の息子達は
みんな「岩」が入ってるけど、信長が亡くなってから慣習化されたも
のかもしれないしね。
463人間七七四年:2008/01/12(土) 19:05:48 ID:nrV47SFX
「巌(岩)」は信長以前からだよ。
祖父 織田信定:月巌
父  織田信秀:萬松寺桃巌道見
叔父 織田信康:白巌
叔父 織田信光:梅厳信忠
兄  織田信広:大龍寺殿寛厳大居士
464人間七七四年:2008/01/12(土) 19:28:38 ID:KBg1C2sH
>>463 でも全員ではないよ。信長の兄弟姉妹たちでついていないものもいる。
信長の直系にはほとんどつけられているけど、それ以前はそこまで多くない。
織田宗家が滅んだことで「岩」という文字に織田宗家一族の証を残したように
も思える。信房にの子孫がきちんといて、その後供養がされていたら、
一族に相応しい院号の「岩」入りの戒名をあらたにつけてもらった可能性はあった
と思う。だけどそれをしてもらっていないので、
直系の子孫が比較的早く絶えていた、あるいはいなかったんじゃないかな。
465人間七七四年:2008/01/12(土) 22:52:23 ID:nrV47SFX
信房が養子に行ったのが元亀2年(1571年)だから
乳飲み子の時に養子に行ったとしたら、12歳でもあり得るな。
ただ、そうなると、今度は、武田攻めに武将として参加していたり、
北条の逸話として上杉に武田自体の信房の武将話しが残っているのが不思議だ。
466人間七七四年:2008/01/12(土) 22:53:03 ID:nrV47SFX
>>465
>武田自体
「武田時代」の間違い
467人間七七四年:2008/01/13(日) 00:11:01 ID:HmrqQ9WR
でも武田時代にそこそこ武将話が残っていた、と考えると
自分としては10代後半〜20代前半を想像してしまうけど
そうなると五男ではなくなってくるんだっけ?

まぁこの当時は15,6歳で成人男子と見なされていたし
15,6歳が妥当な線なのかな
468人間七七四年:2008/01/13(日) 11:07:14 ID:UdFYuxoz
信忠は宗家当主なので、信房とは死後扱いに差がついたとしても仕方ないけど
戒名はちょっとお粗末だね。
信房の葬儀は本能寺の変で亡くなった人たちと一緒に
合葬されてそれっきりみたいだし、あの戒名はその時につけられたものでしょ?

濃姫が生きていて、濃姫の実子だったとすれば、秀吉がどうのこうのは関係なく
個人的にきちんと法要をしたろうから、その線はないだろうね。
469人間七七四年:2008/01/13(日) 17:11:54 ID:TDcgc1DK
本能寺後は、信長や信忠の戒名自体にも秀吉の意向が反映されたものになってるし、
他の信長の子供たちも同様だと思うね。だからいくら濃姫が勝長の生母であったと
しても勝手に変えることができたかは疑問。

それと、勝長がというよりも信長や信忠の法要をした形跡が濃姫にはないので、
本当に濃姫は江戸時代まで生きていたんだろうか。信忠が位牌所を設置したとする
久庵慶珠が濃姫で、養華院が信忠生母だったという可能性だってある。
久庵慶珠自体が戒名や出自などはっきりと史料が残っていないし、人物の特定ができないから
どっちの可能性だってある。
自分は濃姫好きだし、できるなら養華院は濃姫であってほしいけど、本能寺後の濃姫の
足跡がまったくつかめない事が早世説や離縁説・黒幕説などにつながっているのではないか。
自分は濃姫が織田家で嫡男生母の位置についていることからも、そんなことはないと思っているけど
(個人的な感情はともかく)自分の夫や息子が死んだのだから、何かしら法要を行った形跡があっても
いいと思うんだけど、濃姫に関してはまるでないんでしょ。
その辺りがはっきりすると、もっと養華院などの件についてもわかってくると思うんだけど。
470人間七七四年:2008/01/13(日) 17:26:35 ID:HmrqQ9WR
>>469
養華院が法要をしていない、という証拠もない。
これから見つかるかもしれないし。
471人間七七四年:2008/01/13(日) 17:51:13 ID:g4l2rPYj
>>濃姫が勝長の生母であったと
しても勝手に変えることができたかは疑問。

仮に秀吉生前は秀吉をはばかったといっても、
秀吉死後いくらでも変えられるよ。
秀吉は信長の死後16年後に亡くなってて、
その頃なら勝長の兄弟も濃姫と思われている養華院も生きてる。

秀吉の意向で戒名云々も、大徳寺に埋葬されている信長と信忠以外の
織田一族は秀吉没後に亡くなってるのだから、そんなのありえない。

少なくとも養華院が大徳寺で信長の法要を施主した、
という記録は残ってないのは事実。
養華院が濃姫であれば、側室や(鍋の方)、淀殿が施主をするわけもないので
養華院が濃姫という線はないだろうな。
472人間七七四年:2008/01/13(日) 17:55:55 ID:cEdbnOKU
ええええええええええーっとここの住人が驚くような史料が発見されてほしいな。
あるとすれば池田家とか前田家関係あたりか。
森家とかはどうなんだろう。
473人間七七四年:2008/01/13(日) 19:30:14 ID:g4l2rPYj
>>472 代々続いた家老の家や家臣筋の家とかから、主家に関する
重要な古文書が見つかったりするケースが多いんだけど、
宗家が滅んだからその線がない、というのが大きいと思う。

濃姫の墓、というのもよく話題になってるけど、当時は妻であっても嫁ぎ先の墓に
埋葬されていないケースもあるので、織田家の菩提寺に埋葬されていない
可能性もある。岐阜で亡くなったのなら斉藤家縁の寺の方が可能性が
高いと思ってる。
ただ一般的に位牌は織田家の仏前や信長の菩提寺に伝わっているものだろう。
だがそれもないようだ。
信長の正妻だから、立場は当主に準ずるけど
嫁は他家のものという認識のせいで、位牌や戒名も
織田家に伝わらなかったのか?
信長の正妻でも信雄系統からは直接の血縁関係にないということで、
死後はさほど一族から重要視されなかったのか?

濃姫が長生きしていたとしたら、長生きしすぎてその死を偲ぶ子孫が
誰もいなかった、という悲しい現実があったのかもしれない。
亡くなっても豪華な葬儀をする費用すら捻出するのが難しいような経済状態で
あった可能性は、徳川幕府下の織田一族なら充分考えられる。
ひっそり亡くなり、遺体の腐敗のこともあって身近な無名の寺で荼毘に付され、
そのまま埋葬され、世間からも織田家からも忘れ去られていったのであろうか?
474人間七七四年:2008/01/14(月) 20:49:10 ID:LqOPAV1s
信包の元にいったとされる信長生母の報春院が実は濃姫ってことはない?
生母と伝わったけど、実際は信長の御台で、信雄が改易されて
仕方なく信包の元に身を寄せたとか。
報春院は墓や位牌が残っているそうだけど、出自やその他の情報は
そこから読み取れないのかな。
信長生母の出自も謎だということは、そのへんのことが墓石や位牌には
記されていないということなんだろうけど、そうなると報春院が
信長生母である、というのはどのへんから判明したんだろう?
475人間七七四年:2008/01/14(月) 23:02:20 ID:+NaY+tuc
信長生母に関しては信包の元に身を寄せていたから、
信包が喪主をしたなら、おそらく信秀正室で信長生母だろうと
判断されたのかもね。
墓や位牌に信長生母とかはっきり書いてあるんだろうか?
信長生母の出自についても、信長公記にも記されていないし、
他家の史料に、小嶋氏息女と書かれているのみだしね。
確かに位牌や墓に何と書かれているのか気になるね。
476人間七七四年:2008/01/14(月) 23:06:06 ID:L/wZdCqZ
信長関係の女の人は大体ストレートに「これは○○さんのことだね」って
わかるパターンではなく、消去法とかが多いんだよねぇ。
「○×じゃなく、×△でもないから、○□さんじゃないかな?」みたいな。
今の定説となっている事も大体そんな感じで決まった事な気がする
477人間七七四年:2008/01/15(火) 08:13:01 ID:X/dq/AJV
報春院の墓石が磨耗していて、解読不明だとしても
菩提寺には何かしら記録は残っていないのだろうか?
もしかしたら菩提寺の方には信長生母、ということで埋葬した
記録があるのかもしれないけど、文献を読むと〜らしい、
〜と思われる、みたいなニュアンスが多いのが気になる。

生駒氏の位牌には、生駒の息女で、信忠・信雄・五徳の生母で、
と生前の故人を特定することが書いてあるので、報春院の位牌の裏には
出自や子供が誰か、なども書いてあると思うんだけど。
記憶が正しければ、総見寺にも報春院の位牌が奉られていたはず。
裏側をみたいね。
478人間七七四年:2008/01/15(火) 09:04:32 ID:kaVq4HrK
>
生駒氏の位牌には、生駒の息女で、信忠・信雄・五徳の生母で

少なくとも信忠に関しては別人だと思うけど。

位牌のこととか、記録とかはっきりと調べた人っているんだろうか。
報春院に関しては、信包が喪主をしたという事で信長と信包が同腹で
信長生母だとされただけの可能性もある。
他にも、本当は濃姫なのに別人だと解釈されてしまった事はあるんじゃないかな。
当時は母親が亡くなった時の喪主なりは、息子がおこなっていただろうし、
濃姫の場合は息子がいなかったこともあって、連想されにくかったのかも知れない。


479人間七七四年:2008/01/15(火) 15:16:29 ID:GA+VhRvq
生駒家に伝わる位牌に信忠・信雄・五徳の生母が生駒氏だとあるなら
それが史実となるね。明らかに違うという確証を提示できない限り。

位牌、墓石、墓標、寺の法要記録、って立派な史料だからね。
480人間七七四年:2008/01/15(火) 21:55:50 ID:Dh/KVwgu
>>478
生駒が側室に上がった時代が問題じゃないかなーと自分は半信半疑。
もし側室に上がった時期が武功のとおりなら、信忠は生駒腹じゃないだろうし
それ以前に側室に上がっているのなら、生駒腹の可能性はあると思う。
生駒の葬儀の喪主を茶筅がした理由も「奇妙は濃姫の養子になっていた為」という
理由が通るなら、それが適用されるし。
ただ濃姫の養子になっていた、という情報が真実ではないなら
また振り出しに戻るとは思うけど・・・。
481人間七七四年:2008/01/15(火) 22:45:51 ID:85cqckzg
生駒の位牌だけど、真実を書いているにしては
他の一次資料と矛盾するよね。
あと、信忠生母が生駒なら信忠が設置した「久庵慶珠」は誰?
って事になるよ。奇妙のままで位牌所を設置するのは、母親以外ありえないそうだし。
その後、元服してからも出しているし、生駒が生母だというなら
なんでこんな大事な情報が生駒家に伝わってないの??
また、生駒が信忠生母なら信雄同様になんで記述されていないの??
これまでの通説に疑問視する声多数だよ、生駒に関しては。
武功が偽書となってからは、生駒家の情報にしても疑われるようになってきたよね。
武功がなかったら、ここまで生駒家の史料についても通説どおりに
信忠の生母だと思われたんだろうけど。
482人間七七四年:2008/01/15(火) 23:43:59 ID:GA+VhRvq
>>信忠が設置した「久庵慶珠」は誰?

「慶」は「桂」の音読み異体文字ともとれるので、上三文字は同一の戒名になる。
「昌」の異体は「珠」にはならないけど、この時代の判物ならオリジナルでは
なく写しと考えられるので、後年遜色がひどく書き写した時に誤記、
あるいはその文字が鮮明でなくそれらしい文字があてがわれたんじゃ
ないかと思ってるんだけど。
もしくは、「久庵慶珠」は崇福寺でつけられた生駒氏の戒名で
「久庵桂昌」が久昌寺でつけられた生駒氏の戒名だったとか。
それとも、二人は姉妹だったとか。それならそこまで似通った戒名でも理解できる。
どっちにしろ生駒氏になるので、同一人物と思われてしまったのかもしれない。

とにかく「織田家雑録」にも信忠生母は生駒氏となっているのだから、
信忠の生母は生駒氏というのは事実だったんじゃないかな。
安土に移ったので安土の寺に生母の位牌所だけでもと設置して供養した
としてもおかしくないよ。

江戸期の生駒家の視点で考えると、とっくの昔に亡くなった信忠との
関係を強調しても意味をなさず、信雄系織田宗家に癒着して
大名にまで出生したのだから、信雄生母は一族の祖先だ、
信雄系織田家とは縁が深い、と強調することに生駒家の家格をあげる
意味があったんじゃないかと思う。
江戸期の感覚だと信長は悪人扱いだし、世間的に評価はされていなかった
わけで、ましてや信忠の存在意義はまるでなかっただろう。
そこらへんで茶筅が生母生駒氏の喪主をした、なんていう逸話もあえて縁起に
書かれたのかなと思うんだよね。
483人間七七四年:2008/01/16(水) 01:07:50 ID:jmDUuroN
信雄の生母が生駒氏ってのは確実なんだろうけど
信雄自身が生母の供養を熱心にしてたような様子はあまりないような。
484人間七七四年:2008/01/16(水) 01:08:53 ID:/f0251pf
写しが間違ったとか言い出したら、他の史料みな違っている可能性が出てくるよ。
「久庵慶珠」も「久庵桂昌」も、似たような境遇なら似たような戒名になった可能性もある。
似ているから同一人物とは言えない。
また、「織田家雑録」には、五徳は信忠の姉であるとか矛盾した記述もあるため
書かれていること全てが正しいとは言えない。

あと、安土総見寺に生駒の位牌なんてあったっけか?
聞いたことないんだけど。
生駒の位牌についても、なぜか信忠を故人として書いている。
生駒は信忠よりずーと早く死んだ筈なのに、あの位牌を見ると
生駒は信忠死後に没したことになってしまう。そうなってくると
久昌寺のあの墓の主はやはり生駒ではないんではないのか。
色々と矛盾が出てくるんだけど。
また、信忠生母が生駒と出てくるのは、信雄が織田家の主流となってから以降の
史料にだよね。当時の資料にはなぜか信忠生母について出自はかかれていない。
信雄や信孝か書かれてるのに。生駒だとその理由がわからない。
あと、永姫の件もあるしね。なんで肝心なアピールポイントを見逃してるのか
わからないね。
また、生駒が「久庵慶珠」ならなぜその後ほったらかしにされているのか。
今では崇福寺にも位牌はないし、記録も残ってない。
信忠の直系が無くなっても、庶家や実家は存在していたのだから、「久庵慶珠」の
供養を誰もしていないというのはおかしいのではないのか。
485人間七七四年:2008/01/16(水) 07:07:24 ID:7CbY46Ej
総見院に生駒の位牌があるなんてどこにも書いてないよ。
生駒の位牌は生駒家に代々伝わってる。
その裏側に3子の生母だと書いてあるのだから、ある意味これ以上確かな
現存する史料はないと思うけど。
それから実際五徳が長子だった可能性はなくはないと思うよ。
男子を先に書くのは普通のことだから。

ようするに生駒家では信忠ははなから眼中になく、信雄命、だったという視点なら
信雄系統が主流になってからその手の史料がさかんにでてきたことにも
納得がいくよ。信雄の生母が誰か、ということを強調したいために
信忠と同じ生母の生駒だよ、ってことを言いたいだけでしょ。
生駒家が利用価値のなにもない信忠に執着する理由なんてどこにもない。
利用価値がないゆえに信忠のことは生駒家は放ったらかしでしょうに。
信忠の供養搭なんかも建ててくれないし。
生駒が久庵慶珠なら立派にその後供養されてるよ。
久昌寺は生駒のために改名までして、生駒家で歴代当主なみに
大事にされてるじゃん。
486人間七七四年:2008/01/16(水) 08:53:31 ID:AYg0ZBYt
は?誰も総見院の話はしてないんだけど・・・・?
安土総見寺と総見院とは全く別物なんですが。

>信忠の生母は生駒氏というのは事実だったんじゃないかな。
>安土に移ったので安土の寺に生母の位牌所だけでもと設置して供養した
>としてもおかしくないよ。

思いっきり書いてるじゃないの。
安土の総見寺には信忠生母らしき位牌はないけど・・・?

安土総見寺に位牌があったとされる人物は以下の通り。

成徳院 信包の子
眞珠院 信包
恵照院 信包の子
報春院 信長母
万松院 信長父、信秀
大雲院 信忠
大善院 秀信
松岳院 織田信安
豊国大明神 秀吉
秀頼公
金剛院 佐々九郎左衛門
眞源院 織田長種
月松院 信雄長男秀雄
秋響 津田頼房男
智光院 四世住持姉子
蔭涼院 四世住持母
常照院 織田信貞(九男)
小白華院 織田信吉(八男)
徳林院 織田信好(十男)
瑞林院 羽柴秀勝(四男)
長好院 有楽斎次男の長男、三五郎
正傳院 有楽斎
雲生寺 有楽斎次男頼長
円明院 織田信武
天高院 織田長亮
水月院 織田信朝
徳源院 織田信雄
瑞泉院 織田高長
徳雲院 織田長頼
普放院 織田長清
長徳院 織田信休
栢樹院 織田長能
布鼓院 織田貞置
耕雲院 織田高重
雲光院 織田信当
修眞院 津田内蔵介
道古禅門 不明
妙性尼 不明
妙林日貫 不明

残念ながら、養華院がないです。総見寺には、養華院を御台と記された記録は残ってるのに。
また、信長の子でも、信秀がないのは不思議ですね。
総見院にも信秀はないし。あと、長次もないか。

487人間七七四年:2008/01/16(水) 09:31:17 ID:7CbY46Ej
>>486 安土の寺って崇福寺という意味だった。正確には安土じゃなくて
岐阜の寺だった。これは確かにこちらの間違い。
美濃攻略後に岐阜の寺に奇妙が生母の位牌所を
設置した、ということを書こうとして勘違いしてた。

なので最初から総見寺にあるなんて思ってないよ。
久昌寺にある生駒の位牌の裏書は
「 小折邑生駒蔵人家宗女也、織田信長之室而則羽林信忠、
内府信雄、岡崎源信康主室之三母也、永禄九年丙寅五月十三日、
掩休於小牧城、送葬於小折新野」

だいたい織田家における信忠のことをそこまで重きをおいて、
信雄と同腹にしたくて位牌を捏造したくらいなら
久昌寺にでも信忠の供養搭を建てるなりしてもよさそうなもんだ。
それこそさらに証拠がためになる。
でもそんなことをしないで信忠も五徳のことも基本スルーなのは
江戸期に入ってからの生駒家にとっては残った織田家の中で宗家となった
信雄系織田家の開祖である信雄こそが生駒家と織田家との接点のルーツであって、
他の二人は生駒家にとってはさほど重きをおく存在じゃなくなってたって
ことじゃないの?
五徳だって徳川の嫁だけど、徳川ではタブーの存在の信康嫁だし
徳川での信康の扱いをみても、五徳がその後徳川から重きをおかれる
存在でないことは明らか。だから五徳も生駒家から
スルーされてしまったんだと思う。
もし五徳が二代将軍御台所にでもなっていたら、生駒家では
信雄以上の扱いだったんじゃないかな。
488人間七七四年:2008/01/16(水) 09:33:24 ID:SQrRGZVE
久庵慶珠と久庵桂昌は似た戒名だけど、それぞれの寺の宗派が違うから
同じ人物の法名をわざわざ似せたりしない。
むしろ、道号なんか変える。
それに、法名を音読み異体文字で書くなんてしない。
織田家の「巌」が「岩」みたいに簡易化されることはあっても、
「慶」と「桂」は別の字だし、まして、位牌より制札の方が難しい字になるなん
てない。
それに、位牌があるのは生駒家じゃなく、久昌寺。
墓と同じで、武功以降に出てきた。

また、生駒の位牌だけど、信忠だけじゃなく、信雄の死後にできたもの、
少なくとも内大臣になった天正15年以降にできたものだよ。
羽林は信忠の法名じゃなく、生前最高官位だった中将の中国名だよ。
三品羽林で三位中将って意味。
内府信雄も同じく内大臣の中国名。
生前最高位が内大臣だったって分かってるってことは、信雄死後にできたものだ
ろうな。
生駒家は江戸中期にいきなり織田家との繋がりを強調し始めるから、
早くてもその頃作られたものじゃないかと思う。
寛政譜前後かも。
信雄の生母法要の記録などが残ってないのは、それまで単純に軽視されてただけ
だろう。

>>486
信房もないね
489人間七七四年:2008/01/16(水) 09:47:38 ID:SQrRGZVE
>>487
徳姫は徳川(正確には家康4男の松平家。徳姫と血縁はない)から知行もらって
るし、
寛永年間になっても孫(家康からはひ孫)から
奥向きについて相談を受けてたりするから、
重きを置かれていないとか、無視されてたとか
そういうこともないんじゃないの?


個人的には、妙覚寺に江戸中期以前の記録がないのが痛いな。
天明の大火で燃えたらしい。
濃姫の足跡が残っているとしたら妙覚寺だったと
思うのにな。
490人間七七四年:2008/01/16(水) 09:48:38 ID:7CbY46Ej
>>488
判物、手紙にはしばしば人名や固有名詞を異体文字で書かれていたのを
みたことがあるが、戒名に関しては絶対違うとなぜ言い切れる?

それからなぜそこまで信忠の生母を別人にしたいのか理解できない。
そのことで歴史的になにか変わるの?
生駒のポジションは何も変わらないだろうに。
信忠3兄妹の実母は生駒だ、だけど武功夜話は捏造だ、ってことで
なんの問題もないでしょうに。

痛んだ位牌を作り直すなんてどこの家でもやってるし、
分家があらたに造ることもある。
位牌の裏書も信用できないなら、又聞きもがほとんどの「信長公記」
すらも信用できないってことになる。
491人間七七四年:2008/01/16(水) 09:51:40 ID:7CbY46Ej
>>489 生駒家の子孫の視点からしたら、五徳生前はともかく、
五徳が亡くなった後に五徳が将軍家からどう扱われていたか、ってこと。
五徳の墓には葵の紋はないし、死後は五徳が徳川家の人間という扱いで
将軍家から何かしらの優遇をされていた形跡はないでしょ。
492人間七七四年:2008/01/16(水) 10:19:20 ID:AYg0ZBYt
>>490
そちらこそ、なんでそれほど信忠生母にこだわっているのか理解できない。
自分が生駒だと信じているのならそれでいいのでは。
久庵慶珠の位牌も今では残っていないようだし、信忠生母だと思われるが
それを特定することは今の段階では不可能。

あと、濃姫の話に戻したいのだけど、信長公記に信長の兵法の師匠として登場する
平田三位こと祐秀和尚が濃姫から鏡を贈られているそうなんだけど、

張州雑誌所収、十輪山密巖寺の寺宝に
圓鏡 織田信長御台所寄付ト云

と寺の縁起にはなってるそうだけど、濃姫と親交があったらしいので
濃姫の葬儀を行なった寺が、この十輪山密巖寺ってことはないの?
安土殿が濃姫なら、信雄から知行をもらって清洲に住んでいた可能性もあるし。



493人間七七四年:2008/01/16(水) 14:15:44 ID:g1f4Nrdh
生駒の位牌にそう書いてあるならそれでいいのでは?
少なくとも奇妙の判物には久庵慶珠が生母かどうかも明確に
書いてないのだから、本来なら疑う余地がない。
ただ武功夜話のせいで生駒家に不審感があるので
別母説ももっともな流れになっちゃったけど、
武功夜話の編纂うあ生駒家主導でああなったわけじゃないしな。
相対的にみて生駒家も利用されてる側だ。
494人間七七四年:2008/01/16(水) 17:43:59 ID:jmDUuroN
織田家っていろいろあるけど、本家ってどこになるの?
嫡流の信忠系は絶えちゃったし、やっぱりその弟の信雄系が本家扱い?
供養とかはどこがすることになるんだろう。
495人間七七四年:2008/01/16(水) 18:30:40 ID:g1f4Nrdh
血統という意味では、信長系織田本家は断絶、ってことになって
信雄系は織田分家筆頭、ってかんじかな。
考えてみたら信雄は二代将軍御台とは従兄妹だし、3〜5代将軍とも
血縁関係にあったわけだから、徳川の時代になったらけっこう
貴重な存在だったかも。生駒氏の位牌を奉った5代生駒利勝の時代は
まさに家綱、綱吉の時代。大名として安定したあたりで
将軍家とも血縁のある信雄を盾に、生駒家がルーツを美化しだしたのかもね。
496人間七七四年:2008/01/16(水) 21:16:48 ID:/f0251pf
なんだかここの住人って、生駒のことしか興味ないようだ。

濃姫スレなんだから、濃姫の話をしようよw
497人間七七四年:2008/01/16(水) 22:27:07 ID:wHaqZmZk
>>496
濃姫のことより生駒の現在の間違ったポジション(正室格)から
どうにかして引きずり降ろしてやろうと必死な人が多いのです。
498人間七七四年:2008/01/17(木) 02:27:52 ID:rYi54VZ7
新五郎ほど話題にはならないけど、信孝家臣の斎藤利堯も濃姫の縁者だよね。
もし濃姫が本能寺の時点まで生きてて安土から避難し岐阜に向かった場合
利堯と合流ってことも考えられるんだろうか。
499人間七七四年:2008/01/17(木) 09:55:13 ID:LF4wBknn
そういえば、以前に本能寺後の崇福寺に宛てた書状のことで、
濃姫と斎藤利堯が連絡を取り合っていたんじゃないかという説を
唱えているのを見たけど。

思うんだけど、信長や濃姫の縁者が信孝と密接な関係あるんで、
案外と本能寺後は濃姫は信孝支持だったんじゃないのかな。
織田家重臣の勝家や一益なども信孝支持だったしね。
お市が勝家夫人になったりとかって事も関係しているんだろうけど。

でも、勝家も信孝も秀吉に負けて、あんなことになったから
勝者のいいように勝家も信孝も後年言われてしまったのじゃないかな。
信孝の生母の坂氏が、生駒より身分低いとか、卑しいとか捏造されてしまったのもそうだろうし。
500人間七七四年:2008/01/17(木) 13:21:17 ID:/0Ig4tMG
斎藤利堯は信忠の家臣だったのに、信忠の死後岐阜城を
事実上乗っ取って、光秀死後に秀吉に降伏しているわけだから、
当初は光秀サイドについていたのは明らかだよ。
それに本能寺の変の直後には、家臣がいっせいに安土から逃げ出すありさまで、
斎藤利堯が敵にまわるか見方になるかも見当もつかない状態だろうから、
信長の親族が無防備に斎藤利堯の元に行くとは思えないな。

濃姫が本能寺の変の黒幕で光秀、利堯とグルだとしたら
ありえるだろうけどさ。
501人間七七四年:2008/01/17(木) 17:38:14 ID:rYi54VZ7
どこかで本能寺直後の岐阜城は中立の立場だったような事が書いてあるのを
見たような気がするけど、どんな内容だったか忘れた。
502人間七七四年:2008/01/17(木) 17:52:25 ID:2o3Axftc
利堯って、本能寺後、崇福寺に鍋からと言われる書状よりも先に制札出してるよな。
503人間七七四年:2008/01/18(金) 09:22:24 ID:/XYeqVIT
>>502 その制札は崇福寺にピンポイントでだされているの?
それとも近隣の寺社にもだされているの?

戦が予想されると特別縁のない寺社でも保護するための禁制をだすので
そのあたりで意味合いが違ってくると思う。
もしピンポイントで崇福寺に禁制をだしたのであれば、
通説のように利堯は主君亡き後岐阜を乗っ取って光秀に味方し、
岐阜城主の後釜に座ろうとしたのではなく、あくまで光秀勢に対抗しようと
城にこもった、というだけかも。
504人間七七四年:2008/01/18(金) 11:34:44 ID:JfDdkw7F
>>500
斎藤利堯は天正10年6月4日に
瑞龍寺、善福寺、崇福寺に禁制を出しているのが分かっている。
それ以外に出しているかは、文献が残ってないから分からん。
他に6月8日に超宗寺に判物を出しているな。
505人間七七四年:2008/01/18(金) 17:58:33 ID:omVZmm9+
利堯って加治田城(佐藤が元城主で養子の新五郎が跡を継いだ)落城の時にも名前が出てくるね。
岐阜城を乗っ取り?→秀吉勢に岐阜城を渡す→加治田城へ移るって流れか。
506人間七七四年:2008/01/18(金) 21:43:52 ID:sdMdTgy+
生駒氏が事実上の正室格だった、という記述をよく見るが、
言い出したのは桑田忠親氏だろうか?
氏は帰蝶(濃姫)は生駒氏が信忠を産む前に死亡していた、
という見解だったし。
その後、帰蝶が江戸初期まで生きていたらしいと分かった
後でも、嫡男の生母ということで正室格ということなの
だろうか。
507人間七七四年:2008/01/18(金) 22:15:31 ID:Er4GETUG
生駒が嫡男生母かどうかもあやしいのにねえ〜
信忠生母なら、なんで実家の生駒家が信忠が発行した崇福寺の制札について
何も知らないのかねえ。
その方が不自然だと思うが。
正室格なんて言い出したのは、武功以降じゃないの。
それまでは、生駒はその他大勢の側室としか思われていなかったと思うが。
武功以前の有名な作家たちは誰一人として生駒女を正室格だったなんて
書いているやつはいないしねえ〜
508人間七七四年:2008/01/18(金) 22:24:32 ID:Er4GETUG
生駒が正室格だったなんて、捏造しているけど
信長の行動がそれに伴っていないからねえ〜
たとえ嫡男生母だったとしても、信忠自身が濃姫の養子になっている以上、
嫡男生母がそれほどの価値を持っていたとも思えんが。
509人間七七四年:2008/01/18(金) 23:24:14 ID:rqdiOZnm
>>506
濃姫の死んだのはいつか、未だにはっきりとはわかっていないよ。
早世説、長寿説、一長一短という感じ。


ってか相変わらず生駒sageするの好きな人いるなーw
生駒をsageねば濃姫が語れないのかねw
510人間七七四年:2008/01/19(土) 01:34:01 ID:TUTBwtnB
せっかく違う話題になったってのに、また生駒話になってんのかよ。
武功関連を嫌う人の気持ちもわかるけど、濃姫を利用して叩くのも程々にしてね。
511人間七七四年:2008/01/19(土) 09:06:32 ID:zvswCddN
じゃ話題を変えて
本能寺の変の時、道三の子とされる妙覚寺の日饒上人はどうしていたんだろう?
512人間七七四年:2008/01/19(土) 20:50:43 ID:DU3VrZq/
正室格というより、大奥でいう上臈、年寄みたいなかんじだったのでは?
正室の有無に関係なく子供をもうけた側室なら奥でそれなりの
厚遇を受けたであろうとは想像できる。
逆に嫡子までもうけた側室が冷遇される理由はない。
生駒は子供が幼少期に亡くなっているので、上臈最高位まで権力をもつ
ことはなかったろうけど、お鍋は崇服寺の書面や丹羽にあてた書面から
上臈でも上の方の地位にいたんじゃないかな。
お鍋も生駒亡き後の正室格と紹介されてるけど、
正室の存在とは別に機能していた奥独特の制度なのに
濃姫の存在が薄いがために同一に解釈されてしまったような気がする。
513人間七七四年:2008/01/19(土) 20:57:58 ID:fqfo3zh9
>>512
それ、一応制度として整ったのは、江戸の大奥以降だから。
戦国期はそういうのはごく一部でしかない。

崇福寺の鍋の書状は署名が「なへ」だから鍋のものとされているけど、
実際に当時「鍋」って名前はメジャーだからなぁ。
他の側室の可能性もあれば、それこそ濃姫の本名の可能性もある。
織田家の親族の可能性だってある。
信長生母とか、信長姉妹とか。
実子と確定している信吉の席次が下げられている程度の側室が
そこまで奥で権力があったとは思えないんだよな。
丹羽への書状にしても、とても小倉氏、または高畑氏の女が、
いくら信長の側室とはいえ、あんな物言いで書くとも思えないんだけどな。
514人間七七四年:2008/01/19(土) 21:31:04 ID:emkh8jf7
そういや濃姫の本名という説がある(信憑性は・・・だけど)
「帰蝶」ってどっから出てきた名前なんだろ・・・。


そして>>513にあるあの手紙が本当は誰が書いたものなのか、気になる。
今までの説どおり「小倉殿」が書いたのか、それとも他の側室が書いたのか。
信長の母親の可能性もあるだろうし、濃姫の可能性も十分ある。
そして本当に「なへ」なのか。
史板の方では「なへ」とは読めない。「なや」に近くないか?という人がいたね。
515人間七七四年:2008/01/19(土) 22:15:40 ID:DU3VrZq/
>>513 秀吉の書状にはすでに「大奥」がでてくるんだよ。
大阪城の大奥は男子禁制が厳格に守られ、ねねがいた頃は奥の総監督が孝蔵主、
淀が大阪城に入ったあとは大蔵局が筆頭上臈として仕切っていたのは事実。
正室を頂点に組織化されていた奥だけど、実際の取りまとめは
上臈たちによって運営されていたという構図がすでに秀吉の時代に
みられているのだから当時最高権力者であった信長の奥でも
同様だったと思われる。
それに「上臈」が奥にいる身分の高い女性たち、
という意味で信長公記にも登場してる。
もしお鍋が上臈として奥で権威ある立場だったら、丹羽に対しての手紙も
納得がいくし、実際そうだったんじゃないか?
そのあたりの影響力もかわれてお鍋にまで秀吉が知行を与えたのでは
と思う。息子たちだけでも構わんでしょ、主君の息子を庇護するためだけであれば。
516人間七七四年:2008/01/19(土) 23:58:18 ID:MvPzmoBu
鍋がそんなに織田家の奥で力があったんだったら、
なおさら、鍋が生んだ信吉の席次が後にまわされるのはおかしくないの?
側室の実家の力関係とか、あったんだろうけどそうなると
鍋よりも力のあった実家を持つ側室がいたはずだけどな。
例えば稲葉氏とか。稲葉氏などが「上臈」の立場にいたというならわかるんだけど。

信雄と信孝の件もそうだし、実家の関係でというなら信孝が二男でもおかしくないんだけどな。
なんか、この辺りのことが矛盾しているというかおかしいよね。
517人間七七四年:2008/01/20(日) 00:11:45 ID:NMbo9Ebs
>>515
それは秀吉の奥がそのように整備されていたということで、信長の奥もそうだったと
イコールで結び付けられるものではないでしょう。
518人間七七四年:2008/01/20(日) 03:38:55 ID:6nkhkl4v
秀吉は信長の延長線上にあるのはあるんだろうけど
すべてにおいて信長と同様であったわけじゃないだろうからな。
信長時代も自分だったらこう整備するのにと内心秀吉は思ってたのかもw
奥関係の事は記録にも残さないらしい織田家と
女が政治的にも表に出てきてる秀吉の奥とが同様だったかは不明。
そう言い切るだけの織田家の史料も残ってないし
信長公記にしても秀吉の時代に書かれてるわけだから
秀吉時代の意味で「上臈」という言葉が使われても不思議じゃないし。
どうしても記録の多く残ってる秀吉関係を踏まえて信長時代も推測しちゃうけど
それが思い込みを生んでるところもあるのかもしれない。
519人間七七四年:2008/01/20(日) 10:46:57 ID:xmSIfQoW
別にお鍋が上臈でそれなりの権威があったとしても不思議はないんじゃない?
信長の子供も産んでるし、丹羽にあんな書状をだしているのだから。
正室がいてもいなくても、それに代われる立場だったわけじゃないし
お鍋が正室の代理で書状を書いたという可能性だってある。
その場合はお鍋は正室の依頼を受けるほどの立場で、
鍋の署名であても正室のそれと同等の効力があるほどの
地位じゃなければかえって矛盾する。
孝蔵主だって大蔵卿局だって正室を差し置いていたわけじゃないし、
女主人のねねや淀殿の代理人として実務をこなしていたわけだから、
高貴な女主人の代理人として上臈たちが機能していたということは
あの時代であっても十分考えられる。
信長、秀吉ほどの規模の大名ならなおさらだよ。

奥がらみでいうなら、むしろ秀吉の時代ではなく
江戸期の大奥の思い込みが強いように感じるね。
大奥は将軍家特有の制度で、大名家で江戸時代であっても
はむしろ大奥成立前の奥制度に近い。
大奥は厳格な階級社会だけど、普通の大名家はそこまで
厳格じゃないし、参勤交代のせいで国元には
嫡男生母の側室やその取り巻きで奥が機能していたわけだから
ねねの去ったあとの大阪城の奥に近いものがあったろう。
520人間七七四年:2008/01/20(日) 12:03:07 ID:qLuMzOxE
>丹羽にあんな書状をだしているのだから

だから、丹羽長秀に宛てた手紙の主が「小倉鍋」と同一人物とはいえないから。
この手紙だけをもって、上臈の職についていたと断定はできない。
信長公記に登場する上臈なる人物が、小倉鍋であるとはっきりわかる書き方をしていない限り。
小倉鍋が「なへ」という名前は当時よくある名前だったから、別人の可能性はある。
それこそ織田家親族の誰かの可能性だってあるし。

確かに奥を管理するような職についていた人物はいたとは思う。
正室がひとりであれだけ多くの側室や伽係などその他を見るのは不可能だろうし、
奥の管理をまかされていた女性はいたと思うが、それが小倉鍋だったという史料は何も
残ってない。いたとしても別人の可能性はある。
521人間七七四年:2008/01/20(日) 12:10:40 ID:Bx7gF+wl
ようは「小倉殿でもいいし別の誰かでもいい」が現在は正解。
新史料出てこない限りこれ以上は分からん、でいいんじゃね?

そう何度も持論をご披露せんでもさ。
522人間七七四年:2008/01/20(日) 12:34:03 ID:NMbo9Ebs
>>519
>正室の代理で書状を書いたという可能性だってある
その場合は、きちんと書状に「正室の代理である」ということを明記する。
523人間七七四年:2008/01/20(日) 12:43:27 ID:xmSIfQoW
>>520 上臈について思い違いをしているようだけど、
正室を含めた側室、そのお付きの中で権威のある女性達を
ひっくりめて上臈と称したんだよ。
公記には「御上臈衆」と複数形ででてきたので、そういった
不特定多数の奥の女性達のこと示している。
正室も含めて表記されたかどうかは特定不可能。
でも安土城の財宝のことや、城に火をかけろなどと丹羽に進言できるほど
上臈衆たちの立場が上にあったという当時の価値観はわかる。

なので安土城ほどの規模の城には上臈なんて何十人もいたろうし、
お鍋がその中でどの程度の地位にいたかも不明だけど、
秀吉から知行をもらい、その後加増されるほど信頼されていたあたりで
低かったとは考え難い。
手紙の件も仮にお鍋の方ではない、別の鍋がいたとしても
上臈として安土内で権威のあった人物でないとあの手紙をだすのは不自然だし、
そうなるとお鍋の方以外にもああいう手紙をだすことのできた立場の
上臈がいたということになるのだから、どっちにしても一緒だろう。
524人間七七四年:2008/01/20(日) 12:51:11 ID:xmSIfQoW
>>522
上臈が権限をもてたのは、上臈の言動が正室のお言葉そのもの、
と見なされていたからだよ。崇服寺はお鍋がそういう立場の女性である
とわかっていたのだろうから、いちいちそんなこと書く必用もない。
丹羽も同様だろう。

崇福寺のお鍋の書状こそ、信長の正室が生存していた証拠になりえるものじゃないか
と思っているぐらいだ。
525人間七七四年:2008/01/20(日) 12:54:04 ID:xmSIfQoW
>>523 丹羽じゃなくて、蒲生賢秀に進言の間違いだったな。
526人間七七四年:2008/01/20(日) 13:12:31 ID:R8S5X3JS
確かに、あの書状を出せる立場にいた「なへ」という人物がいたのは確かで、それは誰かは不明。
だが、正室の代わりに出したなら、書状にはその旨書く。
いちいち書かないなんてことないよ。
信忠や信房の書状だって、上からの命令だと分かり切っている書状でも
そう書いているのと同じだよ。
女性の書状なんかでも、もちろんそうなってる。
わざわざ折紙で出していることからしても、もしそうなら、書くと思う。
だから、あの書状は書き手が独断か、誰かと相談したのだとしても、
相談した相手の指示を受けたというのではない状態で書いていると考えられる。
位牌所のことだから、織田家の親族じゃなければ、実際はおかしいんだよね。
側室は親族じゃないし。
個人的には、信長生母、正室、信長伯母、信長姉妹くらいが濃厚だと思う。
信忠に正室がいたら、その正室でもいいんだが、今は正室がいたかどうか不明だからな。
いなかった方が濃厚だろ?

どこそこの「なへ」と書かなくても分かるほど、
頻繁に崇福寺とやり取りしていたとすれば
織田家の菩提なんだから、織田家の親族と思う。
527人間七七四年:2008/01/20(日) 16:22:09 ID:6nkhkl4v
「ねね」や「まつ」も当時は平凡な名前で大勢いたんだろうけど
秀吉関係で出てくる「ねね」は北政所、前田関係で出てくる「まつ」は芳春院と普通に判断される。
小倉鍋が名前を残したのは、信長の側室だったからというより秀吉に仕え
北政所の侍女になって記録に残ったからだろう。
いったん元信長側室お鍋という情報が認識されると、それ以降織田関係の「なべ」は
「なべ」がありふれた名前(丹羽の息子だって鍋丸)でも、当然小倉鍋となっちゃったんじゃないか。
信長の生母すらわからないほど、織田家の奥の情報は少なすぎるし。
528人間七七四年:2008/01/20(日) 16:32:55 ID:OBSTfK4K
やはり、安土城の焼失が障壁なのだろうな。
「公記」には奥関係のことがほとんど出てこないし。
安土城が燃えなかったら何らかの史料が残ったろう。
>>514
帰蝶は江戸時代にできた「美濃国諸旧記」というものに
出てくる名前。
529人間七七四年:2008/01/20(日) 18:22:21 ID:xmSIfQoW
>>526 親族ではなくてもなんの不思議もない内容だろうに。
お鍋が制札をだしたわけでもなく、位牌所設置したとも書いてない。
位牌所だから誰の立ち入りも禁止して位牌所を守って欲しい、というだけのこと。
信長への忠誠心があれば親族に限らずだして不思議はないと思うが。
現に親族でもない斎藤利堯が寺への禁制をだしているのはなぜだ?
正室と親族だというのであれば正室の依頼を受けてやったという
可能性だって考えられるが、それも否定するのか?
530人間七七四年:2008/01/20(日) 18:42:41 ID:icAa78ci
>>528
いや、それは知っているんだけど
どっからその名前が出てきたのかなぁと。
もともと美濃にあった伝承で、信長室になった姫は
「帰蝶」というものがあったのか、その名前を出したソースはなんだろうな。と。

作者の想像かね?
531人間七七四年:2008/01/20(日) 19:20:07 ID:6nkhkl4v
信長だけじゃなく信忠の遺品まで崇福寺に納めてるんだよな。
お鍋と信忠の接点って何かあったんだろうか?
信忠の遺品は岐阜城から持ってきたのか?
でも岐阜城って利堯に乗っ取られてたのでは。
それに岐阜城には信長娘の五徳がいたはずだけど、どうなっちゃったの?
同筆だとされる丹羽への手紙では自分が指示したように書かれてるけど
五徳がいたなら五徳が指示する方が普通なんじゃ。
五徳の本名が「なべ」ってことはいくらなんでもないかw
532人間七七四年:2008/01/20(日) 20:03:51 ID:R8S5X3JS
結局、親族以外が出したとすると、おかしな書状なんだよな。
鍋という名前の別人で、小倉ではないと思う。
信孝でさえ「上様」と書いているのに、「上」とだけしていることからも
家臣扱いの側室とは思えないな。
自分は親族説を推すよ。
533人間七七四年:2008/01/20(日) 21:44:04 ID:R8S5X3JS
>>529
>現に親族でもない斎藤利堯が寺への禁制をだしているのはなぜだ?
別におかしくないでしょ?
崇福寺以外にも出しているし、岐阜城を早々に押さえているんだし。
禁制には信長の位牌所だからとか、織田家の菩提寺だからとか書かれてないよ。
他の寺に出している禁制と同じ内容。
534人間七七四年:2008/01/20(日) 22:54:20 ID:CA3NYdCz
>>530
>作者の想像
そこまで考えることはないだろう。
何らかの根拠があったかも知れないしなかったかも知れない。
不明としておくのがいいだろう。
「濃姫」にしても美濃から来たお姫様という意味で本名でないことは
明らかだから自分は使いたくないが。
535人間七七四年:2008/01/21(月) 06:48:59 ID:S7G0eNZU
>>534
濃姫って本名でない事は明らかだけど、そこまで・・・w
紫式部、清少納言・・・とかも使わない人?w
536人間七七四年:2008/01/21(月) 07:25:56 ID:1mBf6cGx
信孝は他家の養子にいって織田宗家の家臣扱いだから
「様」をつけるのは当然だと思う。
お鍋個人ではなく、織田宗家からの依頼と解釈すべきことなんだから「様」
をつけなくてもいいんじゃないの?
つけてもいいだろうけど、ないから身内以外考えられない、という解釈は
ちょっとリードしすぎってかんじがする。

なんかお鍋や他の側室を否定することで濃姫の存在を見出そうとしすぎ。
違和感ある展開だよ。
537人間七七四年:2008/01/21(月) 08:00:07 ID:1mBf6cGx
お鍋は子孫がいたこともあるだろうけど、一次史料にも存在が確認されて
名前が確認されているほど、信長の側室の中では目立った存在だったのは
否定できないのだから、崇福寺のお鍋が小椋鍋、と解釈されても
ある意味当たり前。崇福寺で小椋鍋と断定してきたのには署名以外にも
別の根拠もあるのかもしれないし。

正室の存在が希薄になるという理由で小椋鍋=鍋の方否定説もでるのだろうけど、
それとこれとは別問題で、正室が存在していたところでお鍋が書いたことに
さほどの不自然さはないよ。

仮に濃姫の確かな足跡が信長死後もあった場合なら、この書状が
お鍋の方じゃない、これは正室や身内なんだ、と論議されることすらなかった
と思う。

濃姫なら妙心寺やお膝元の総見寺あたりに真っ先に位牌所の設置を指示しても
おかしくないし、崇福寺という信忠の領地内に位牌所を設置したのは
信忠メインのための設置だったとも解釈できる。
当時の慣習から位牌所の設置が一箇所のみのはずがないのだから、
崇福寺の位牌所をそんなに重要視することでもないさ。
538人間七七四年:2008/01/21(月) 08:51:57 ID:uuhpT+vI
仮に濃姫が亡くなっていたとしても、嫡男生母でもないただの側室が
親族が誰もしていないのに、勝手に遺品を持ち出したり手紙出したりとか
していいの??
信長生母や信長姉妹だって生存していたわけだから、正室不在であったとしても
実子の席次が下げられるほどの立場の側室が、他家に養子にいっていたとしても実の息子の
信孝よりもえらいの??
なんか内容からして小倉鍋が書いたにしてはえらそうすぎる書状だしね。
お前、何様って感じだよねえ〜
そういう理由で、信忠生母生駒説同様にこの手紙を書いた人物が小倉鍋だという説にも
疑問視する声多数だしね。
自分もこれは織田家の親族の誰かが書いたという説に一票だね。
539人間七七四年:2008/01/21(月) 09:07:52 ID:uuhpT+vI
>なんかお鍋や他の側室を否定することで濃姫の存在を見出そうとしすぎ。
>違和感ある展開だよ。

違和感あるのは、名前だけで小倉鍋であると決め付けている意見だけど??
しかも、この手紙の主にしても誰も濃姫に違いないなどと決め付けているわけではないし。
この時代の女性は、身分の高い人ほど本名で呼ばれることはなかったわけで、
織田家親族の女性達にしても名前の特定は難しい状態だから。
この書状にしても、出された時期や内容なども検証されるべきで
そうなると、どうしても嫡男生母でもない小倉鍋が書いたとは思えない。
遺品を岐阜城から持ち出したとはとても思えない。
そんなことできるのはやはり織田家親族だけだと思うね。
息子の信孝でさえ、「様」をつけているわけで、そうなると信長に「様」を
つけずにすまされるのは、信長生母、正室、信長姉妹、信長叔母くらいじゃないの。
小倉鍋がいくら個人的に気に入られたらしい?側室であっても、信孝よりもえらそうな
内容の書状を書けるとは思えない。基本的に側室は当主の子供よりも身分が低いので。
しかも、織田家の菩提寺に「なへ」だけで誰かわかるほど頻繁に書状を出していたわけで
そうなると、嫡男生母でもない側室が、織田家親族を差し置いて頻繁に崇福寺に書状のやりとりを
勝手にしていたとは思えない。小倉鍋だと断定するほうが違和感大だね。
540人間七七四年:2008/01/21(月) 09:09:55 ID:1mBf6cGx
>>疑問視する声多数だしね。

これはきちんとした学説雑誌等にも載ってるの?
自分が見聞きした限りでは、2チャン以外では見たことない。
多数というのがどの層による意見で、何を根拠にそう検証しているのか
知りたいのだが。

遺品云々も埋葬するに際して遺体の代わりに織田家から何かしらの
遺品を持ち込んでも当たり前。晩年奥内でそれなりの地位にあった
側室が代行したところでなにも目くじらをたてて否定することでもないだろうに。

お鍋が個人プレーしている、と思い違いをしてるからそう思うんだよ。
あくまで織田宗家当主親子の供養のためなんだから、
織田家の人間ではないお鍋の行為は織田家の意思による代理行為でしかないよ。
541人間七七四年:2008/01/21(月) 09:18:21 ID:1mBf6cGx
>>539 >>基本的に側室は当主の子供よりも身分が低いので

信孝は格下の家に養子にいってそこの当主だから立場上は
織田家の家臣、信長の側室を前にしたら平伏してる立場だったろう。
信長の側室なら丹羽も平伏していたろうさ。

そもそもあの丹羽への手紙を読んで高飛車だと解釈する理由がわからん。
丹羽との関係上あたりまえの文面だよ。

お鍋の手紙の件はここで初めて知ったが、どの文献でどの学者が
そう提唱しているのか知りたい。もっと確かな根拠があるのであれば
そのソースも知りたいのだが、知っている限りの信長研究の
検証では大家といわれる先生方もお鍋の手紙を疑った検証は
みたことない。名前が一致した、というだけではなく
それはお鍋がやったことに違和感がないから
そう信じられてきたのではないかと思うぞ。
実際、側室のくせに、というのはなんの根拠にもなってないから。
542人間七七四年:2008/01/21(月) 09:25:56 ID:O0wJB4bJ
信孝が「上様」と書いている書状は
織田信孝に戻ってからだよ。
神戸信孝の時代じゃないよ。

あの書状が「なへ」だから鍋の方だと決めつけるのは疑問だな。
鍋の方が記録に残ったのは、織田時代じゃなく、秀吉時代の功績だからな。
織田家の側室として有名だった訳じゃなく、秀吉の手ごまとして有名になった。
となると、あの時点での書状では、鍋の方と決めるには早計だと思うな。
543人間七七四年:2008/01/21(月) 09:26:50 ID:uuhpT+vI
>多数というのがどの層による意見で、何を根拠にそう検証しているのか
>知りたいのだが。

そんなこと知ってどうする?
検証内容はここでの内容とほぼ変らない内容だったけど??
歴史研究や論文発表しているような人が多い場所では、そういう意見多数だったけどね。

別に小倉鍋が代理する必要まったくないと思うんだけど?
しかも、代理なら代理だと明記されてしかるはずでは???
なんでそうなっていないのか。
無理やり小倉鍋であると決め付けている意見の方がどうかしていると思うね。
「なへ」という他の人の可能性もあるわけで、その意見をはなから濃姫に結びつけすぎとか
むちゃくちゃな反論しているのは、小倉鍋でないとわかると都合が悪いからか??
544人間七七四年:2008/01/21(月) 09:32:56 ID:O0wJB4bJ
>>541
>お鍋の手紙の件はここで初めて知ったが、どの文献でどの学者が
>そう提唱しているのか知りたい。
お鍋の手紙そのものは、昭和期の始めに調べられて、「なへ」と読めるから
その当時鍋という名が広く知れ渡っていた信長関係者が鍋の方だけだったので
そのまま鍋の方という事におさまっただけなんだよ。
「〜と言う理由があるので、鍋の方が書いたと思われる」という解釈はいっさいない。
鍋って名前だから、鍋の方なんだろうってだけ。
寺の方にも、鍋の方が書いたとは伝わっていなかったと聞いた。

鍋って秀吉に優遇されているように見えて、
実は信秀なんかの方がよほど信吉よりも優遇されているし、
単純に、信吉の家系が残ったから、age扱いになってるだけのような気がするよ。
総見院の墓所も、信吉の家系が江戸中期に作ったものだしな。
545人間七七四年:2008/01/21(月) 09:37:30 ID:1mBf6cGx
>>542 信孝が織田姓を名乗ったところで、神戸氏を改称しただけで
事実上養子の関係は変わってないし、分家扱いには変わらない。
分家の当主は宗家当主の家臣。親子だって急に敬称を略して
いい身分になれるわけもない。
宗家、分家の格付けは武家はかなり厳格だから。

でも言経卿記だかに鍋との接触のことが書いてあって、信長入魂の公家との
個人的な交流があったということは、側室でも閉じこもりきりの
御腹様であったというのではなく、ある程度外部との接触が自由が許された、
つまり側室以外の側面の強い女性であった可能性を感じるね。
546人間七七四年:2008/01/21(月) 09:42:53 ID:O0wJB4bJ
>>545
>>言経卿記だかに鍋との接触のことが書いてあって

あれも、信長妾の鍋と最近の書籍にはなってるが、
昔のものは信長妻の鍋とされているものもあって、
信吉の生母とも何も書かれてない鍋だから、
信長妻が鍋なら、濃姫が鍋の可能性もある。
崩し文字で似てるんだが、妻の可能性の方が高いんだよ。
ただ、「鍋」なら側室だから妾に違いないってことになってるだけ。
547人間七七四年:2008/01/21(月) 09:46:54 ID:O0wJB4bJ
>>546
>「鍋」なら側室だから妾に違いないってことになってるだけ
補足すると、言経は妻や妾の使い分けは、かなり厳密におこなっているため、
鍋の方であるなら、妻と書く訳はないという前提がある。
鍋の方が、たとえどれほど奥で上の立場だったと解釈されていても、
継室になったとは絶対にされないため、言経の記述では妾でなければおかしいとされている。
548人間七七四年:2008/01/21(月) 09:49:09 ID:1mBf6cGx
>>546
 
女性史をまともに勉強したことあるのか?
「妻」とあっても本妻側室両方言い表すケースは多数ある。
それに公家のいう「妻」なんて側室どころか、ただの愛人のこともさす。
その辺の背景すら無視して、単語一つ、しかも不確かな臆測でよく
そこまで書けるな。

基本的にここの連中は、又聞きばかりのことを書き込んでいるのがよくわかったよ。
恐らく過去に書き込まれたレスを実際自分で検証することなく
延々自論を繰り返しているだけなんだろうな。
549人間七七四年:2008/01/21(月) 09:50:34 ID:1mBf6cGx
>>547 そこまで厳格に使い分けているなら妾鍋でいいじゃん。
なにをくだらないことにこだわっているのだか、さっぱりわからんね。
550人間七七四年:2008/01/21(月) 09:54:50 ID:O0wJB4bJ
>>549
だから、鍋が小倉鍋の事を指しているとは
言経は書いていないんだから、しょうがないじゃないか。
単純に、信長妻鍋と書いているにすぎない。
信長妾鍋と変質した理由が、使い分けが厳密だからなんだから
本来信長妻鍋と解釈できる以上は、色々考えられるってことだよ。
それこそ、「妻」が「鍋」って名前ってことになったら、
崇福寺の書状だって「妻」の「鍋」が書いた可能性が出てくるし、
「妾」の「鍋」が書いたとは限らなくなるんだよ。
551人間七七四年:2008/01/21(月) 09:55:23 ID:1mBf6cGx
>>543 
>>歴史研究や論文発表しているような人が多い場所では、
そういう意見多数だったけどね。

だからどの論文でどの歴史検証雑誌だったかを教えてよ。
そういう論文にはソースが必ず提示してあるから、
参考になるし、知っておきたいのは当然でしょ?
ずいぶん安土桃山の女性史の検証をしてきたが
学術書で多数の意見など目にしたことがないので。

きちんとしたソースを検証して、それからまた意見を書かせてもらうよ。
論文を書いた学者や、大学の研究室、雑誌のバックナンバー、
を教えてくれないかな。
552人間七七四年:2008/01/21(月) 10:15:56 ID:uuhpT+vI
>>論文を書いた学者や、大学の研究室、雑誌のバックナンバー

具体的には手元にないからわからない。
でも、論文を出したりしている人達がそういう意見も多かったって話。
自分が話を聞いた人達が具体的にいつ論文に発表したとかは確認していない。

ただ、自分も「なへ」の手紙の話を聞いていてこれは違和感ありと思ったから
そうここで述べているだけ。別に「なへ」=小倉鍋だと思う人がいてもおかしくないけど、
それ以外の意見はかたくなに違うと否定するのもどうかと思うね。
言経卿記同様に、この書状にもはっきりと「小倉鍋」とはかかれてない。
単なる「なへ」だけ。だから別人の可能性もあると思うのは自然のこと。
信長生母の名前ですら、判明していないんだし判明していない女性の方が多いんだしね。
553人間七七四年:2008/01/21(月) 10:27:12 ID:uuhpT+vI
あ、あと私が聞いた人達は「なへ」の書状を書いた人は
織田家親族なんて曖昧な意見ではなく、あれは織田家正室の濃姫以外は
考えられないと言っていたけどね。
まあ、自分はそこまで断定はできないと思っているけど。
信長親族の誰かだろうなとは推測しているけどね。
554人間七七四年:2008/01/21(月) 11:53:52 ID:qtefVuy4
>>553
それって史版の「濃姫の謎」での論争じゃないの?
そこでも具体的にソースはなくて結局臆測での話だった。
でも論文で発表していたというのなら、手元になくても
どの本だったとか、いつ頃発表されたものぐらいはわからないの?
濃姫なら崇福寺で信長御台の手紙、というふうに伝わっていると思うな。
それならその手紙は寺宝級でしょう。元々信長とはさほど縁の深い寺ではなくて
美濃攻略後に菩提寺扱いになったというけど、信忠生母以外は
関係者が世話になっていた寺じゃないのだし、堂々と信長の御台の手紙と
伝承されてきてるはず。側室と混同するほどぞんざいな扱いをされるのって変。

それと位牌所を設置したということは、それに伴い織田家から
崇福寺に寄進があったはず。その奉加帳の記録がないのだろうか、と
疑問だった。その寄進が誰の名前でされているか、の方が大事だね。
鍋という女性であれば、正室も鍋で同一人物であったという可能性が大。
でも違う女性の名前で寄進があれば、寄進した方が正室の可能性大。
信雄あたりが寄進して位牌所をもうけた、と考えてもいいけど、
さすがに寄進者の名前は正室である濃姫じゃないとおかしいだろうな。
実際知行をだした人物ではなく、施主の立場に相応しいとなると
当主不在の織田家では正室以外いないだろうし。
555人間七七四年:2008/01/21(月) 12:40:17 ID:uuhpT+vI
>>554
これは2chの話ではなく、別のところで聞いた話。
史板でどんな話になっているのかは知らない。
自分は過去スレ見られないので。
論文についても自分は普段目を通していない。
論文に発表するようなことは言っていたけどいつ頃発表するのかとかは
具体的には知らない。
自分は歴史研究は趣味でしているだけだし、色々論文とか目を通すと楽しいんだろうけど。

崇福寺は織田家の菩提寺だったから、確かに濃姫関係のお宝がもっとあってもいいと思うんだけど
ないんだよね。
織田家や斉藤家とも関係が深かった妙覚寺でも当時の資料はないそうだし、崇福寺にも残ってない
ことも仕方ないのかなとも思う。
「なへ」の手紙が濃姫と伝わらなかったのも、不思議だけど織田家宗家が早くに
滅んでしまったから、位牌を守り伝える子孫もいなかったからだと思ってる。
久庵慶珠の位牌にしても、信忠が設置しているのにそれすら現在は残っていないのでしょ。
信忠生母だと主張している生駒家でさえ、知らなかった位だから。
宗家の正しいことが庶家に伝わらなかったってことはあると思うね。
556人間七七四年:2008/01/21(月) 13:39:12 ID:cgjQp93R
>>555 >>位牌を守り伝える子孫もいなかったからだと思ってる。

でも信長親子の供養搭は現代まで大事に供養されているし、
秀信縁の血天上なんかもあって、織田家に関するものは
寺の売りとばかりに大事にしてる。
手紙の主が濃姫ならなおさら強調しているところだと思うよ。
宗家は滅んでも総見寺では信長縁の人の位牌は安置してあるし
天童藩を中心に定期的に法要も営んでいるし、先祖を守り伝えているほうだと思う。
557人間七七四年:2008/01/21(月) 13:59:55 ID:uuhpT+vI
崇福寺の手紙が濃姫でなかったとしても、誰のものとも伝わっていなかったんだから
やはり伝える子孫がいなかったとしか思えないよね。
織田家宗家が亡くなったからきちっとした記録も残らなかったんだろうしね。
信長生母だって誰であるといった記録さえないわけだし。
女性に関する記録はそれほど重要視されていなかったのかも知れない。
基本的に他家の残した記録のみだしね。

>宗家は滅んでも総見寺では信長縁の人の位牌は安置してあるし

信長生母の位牌の裏には何と書かれているの?
見たことある人いる?

あと、信長の息子でも総見寺に位牌のない人物もいるわけで・・
やはり子孫がきちっと伝えてなかったからとも考えられるね。
または、生母の実家が早くに滅んだとか、生母自身が早くに亡くなっていたか。
558人間七七四年:2008/01/21(月) 14:06:06 ID:cgjQp93R
>>557 報春院の位牌の裏を見たことはないけど、いくらなんでも
寺が誰の位牌かも確認せずに設置するわけはないので、信長の生母である
という記載があるんじゃないの?総見寺でつくった位牌ならなおさら
信長生母、ということで管理してるはず。
もしくは、信秀公正室、という記載があって、信長が正室の子だと
信じられていたので報春院が信長生母、と伝わったかのどちらかだな。
559人間七七四年:2008/01/21(月) 14:11:15 ID:uuhpT+vI
>>558
だから、信長生母の出自がはっきりしていないから、位牌の裏には何処の誰と
なっているかを正確に知りたいわけ。
〜じゃないの、〜な筈、とか曖昧な話じゃなくて。
位牌を見たことないならはっきりしたことはわからんのじゃないの。
560人間七七四年:2008/01/21(月) 14:19:00 ID:cgjQp93R
>>559 なら総見寺に電話して聞けば?
位牌の裏書を教えてくださいって。
そのぐらい自分ですればいいじゃないか。
2ちゃんでごたごた書いてるぐらいなら。

俺は一般的に寺が身元の特定もできない位牌を
織田一族の中、しかも信秀の隣りに置いておくわけないだろうと
おもったから、そう書いただけ。
561人間七七四年:2008/01/21(月) 14:23:50 ID:uuhpT+vI
>身元の特定もできない位牌

誰かそんなこと言った?

電話でどこの誰かもわからん人に、織田家親族の位牌のことについて
寺側が教えてくれるってんだったら、見もしないで適当なこと書くより先に
自分が聞いてみればいいじゃんW
562人間七七四年:2008/01/21(月) 15:06:16 ID:/vS1ukIG
崇福寺の書状の署名といえば、
変態仮名で「奈遍」と解釈されているんだが
「奈」が「奈」であるなら、「遍」という字がおかしくなるし、
「遍」が正しいなら、「奈」のくるっとまわる部分が一つ足りないように思う。
一つ足りないと、他の文字の可能性もあるし、一文字で他の字の可能性もある。

ただ、崩し文字は癖もあるから、解読に慣れている研究者が
「奈遍」としているなら「奈編」なんだろうが、
色んな古文書を見る機会があるんだが、少々違和感はあるんだよな。
563人間七七四年:2008/01/21(月) 17:22:24 ID:00VftJNw
>>562 崩し文字に詳しい人に聞いたら「奈遍」以外読めないって。
全体的にくせのない字だから、間違いないだろうと。
解読に悩むレベルじゃないらしく、あっさり「奈遍だよ」と教えてくれた。
それと恐らく書き写されたもののようで、最後の刻印の文字が
それを知らしめるための意味不明文字が入っているってさ。
564人間七七四年:2008/01/21(月) 17:33:07 ID:/vS1ukIG
>>563
そうなのか。
古文書読み慣れてる方だと思うし、うちの研究室の人間もよく読んでる方だと思うが
少しおかしいよなって話しが出てたんだよな。

扱ってる古文書によって違うのかな?
565人間七七四年:2008/01/21(月) 17:42:11 ID:anRybYNu
特に言いたい事もないので傍から見てるだけの人間だけど、どちらの側も
2chでありがちな「スーパーハッカーw」系の話を持ち出すのは頂けないと
思うのだが。

あえて悪く書くなら「詳しい人」も「研究室」もふかしにしか聞こえねぇから
止めとけよ、て事で。
566人間七七四年:2008/01/21(月) 18:37:56 ID:dlzU+cRi
2ちゃんのこんなスレでまで、おえらい先生方の素晴らしい説を
有り難がって拝聴してどうするんだw
えらい先生の説は絶対マンセーなんて、どんだけ権威に弱いんだよ。
こんな大した価値もない場所でこそ、何か変じゃないか?って話もできるんだろ。
妄想スレスレの異説をガンガン出して欲しいもんだ。
567人間七七四年:2008/01/26(土) 20:20:44 ID:oHdK3VEx
「奈遍」というのは奥の上臈の上の立場の女性なら家老級の権威があったろうから、
側室とかではなく上臈の誰かだったんじゃね?
お手つきが上臈を兼ねたのは大奥での制度で、一般的に奥の取締役は
奥方の乳母や奥方付侍女のトップやその息のかかったものだったはず。
それと信長ではなく信忠の奥の上臈の誰かが亡き主君と信長のために
崇福寺と丹羽に手紙をだしたというのは考えられないか?
その上臈が信忠亡き後は宗家当主となった三法師の側に仕えたとしたら
丹羽へのもの言いも、三法師の代理という立場上納得できるんだけど。
568人間七七四年:2008/01/27(日) 00:38:35 ID:bhF/+zxf
>>567
でも信長奥の上臈にしても、信忠奥の上臈にしても、
どっちにしても信長よりも身分が低い者が
時の権力者であり、自分の主でもある信長を
「上」と呼び捨てるかなぁ。
569人間七七四年:2008/01/27(日) 09:34:12 ID:kvxj8L3/
>>568 逆にたとえ母親であっても「上」と呼び捨てることもないような。
当主に対しては息子であっても敬称を略することはないと思うけど。
ケースバイケースじゃないのかな。
例の「御方」と書かれた手紙も「信長」と呼び捨てだけど、
差出人が信長の親や兄弟なわけないし。
570人間七七四年:2008/01/27(日) 16:28:21 ID:yr+UQCZX
古文なんかではむしろ様なんていう敬称がないのが普通じゃないか?
「上」というのはよく目にする。

本人を前にかしこまる時は「上様」と呼ぶだろうけど、
手紙や当主を面前にせずにさらに下のものに物を言う時なんかは
家臣が「上」と使っても、状況的に前後にきちんと敬語が
使われていればかまわないんじゃないかな。
571人間七七四年:2008/01/27(日) 17:56:05 ID:wPY0Xn0J
戦国期には、もう、「殿」「様」などの敬称は規則化されてる。
「様」>「殿」であるのだが、「上」だけだったら、
「様」と「殿」の間に入るんだろうか?
もしそうであるなら、親族辺りなら使いそうだな。
だが、家臣扱いであったとすると、「上様」にならないのは
少々不思議に思う。
572人間七七四年:2008/01/28(月) 09:36:33 ID:P/cwChUK
敬称のことなら、言経が信長の正室を「なへ」などと呼び捨てにする方が
はるかに疑問だ。さらにいうなら高貴な女性である信長の正室であれば
なにも本名ではなく「信長本妻」「信長御台」などと書くんじゃないの?
それか「なへ様」なりの尊称をつけるでしょう。
側室である鍋は周囲から鍋の方みたいに呼ばれていたとしたら
言経が「なへ」と記したとしても納得がいくんだけど。
573人間七七四年:2008/01/28(月) 10:01:53 ID:FpN1HDLs
言経の場合は日記だから。日記というのは基本的に他の誰かに見せるものではないし。
誰かに宛てた書状などに呼び捨てに書かれているというのとはちょっと違うと思う。
574人間七七四年:2008/01/28(月) 12:02:35 ID:JIZF1yO4
いくら日記の中だからといって目上のものに対してそういう無礼なことするかな?
あの時代きっての教養人でもあったわけだし。
日記の他の箇所に目上のものに対して呼び捨て箇所があるというので
あればそういう説もありだなとは思うけど。
あれって誰だか忘れたけど、鍋から仲介者を通して書写の依頼があったって
話でしょ?その頃は信長の正室なら御台と称されている立場だから
大喜びで「信長御台の依頼で」と書きそうだけど。
「妻」という単語であってもそれはそれで違和感あるよ。
575人間七七四年:2008/01/28(月) 13:07:58 ID:W9s+G9+Y
当時の日記は現在と違ってそこまでプライベートなもんじゃないだろ。
後世に記録を残す側面もあったわけだし。
576人間七七四年:2008/01/28(月) 14:12:01 ID:FpN1HDLs
でも後世に伝えるつもりの記録だったんならなおさら、どこの「なへ」さんなのか
はっきり書かれててもいいと思うんだけどな。
言経が自分がわかってればいいと思って書いたから「妾(妻か?)なへ〜」と
だけ書いたんでは。当時は「なへ」というのはよくある名前だったみたいだし。
侍女でも「なへ」という名前の人何人かいたよね。
自分もこの「なへ」が濃姫なら、「御台」と記されたはずだからおそらく濃姫では
なかったと思う。
「妾」なのか、「妻」なのかはわからないけど、でも側室でもいいおう妻と解釈
されるわけだからおかしくはないんだろうけど。
577人間七七四年:2008/01/28(月) 14:40:29 ID:JIZF1yO4
その段階では「信長の妾、お鍋」とあれば
一人しかいなかったんじゃないの?
周囲からお鍋と呼ばれた信長の側室は
小椋鍋だけだから、言経もそう記しただけってことじゃないのかな。
もし同じ名の側室が複数いたら、部屋の名前や実家の姓とかで
区別したんじゃないだろうかね。
578人間七七四年:2008/01/28(月) 14:53:02 ID:FpN1HDLs
その前に言経が信長の側室全員の名前を知っていたのかという疑問。
武家の女性ってあまり本名で呼ばれることは少なかったんじゃないの。
側室でも○○殿ってよばれていたんだろうし。
以前、史板の濃姫スレでなんで小倉鍋だけが本名を知られていたんだろうって
話が出ていたよね。
不思議なのは、信長の側室でも嫡男生母だとか、生駒もそうだけど冬姫生母だとか坂氏などの
比較的古くからいる側室でも名前が全く知られていないのに、なんで小倉鍋だけが
知られていたのかは疑問。
579人間七七四年:2008/01/28(月) 15:02:54 ID:JIZF1yO4
信長時代は言継の日記だけなら「どこの鍋さん?」となったけど
秀吉の消息に「小椋鍋」とはっきり書かれて確認されているし、
お鍋の方は信長の葬儀にも一周忌法要にも史料で
名前が登場しているしね。総見院の法要の施主にもなっていたはず。
後年残った史料に頻繁に登場しているので
一般的にも知られていったんだと思う。
580人間七七四年:2008/01/28(月) 15:06:12 ID:xaw+4y4F
秀吉の庇護を受けてからは、書状が残っているから「鍋」は確定しているけど
側室時代は「小倉」と呼ばれていた訳だし、対外的にも「小倉」だったと思うんだがな。
信長周辺人物の娘や妻で「鍋」と分かっているのは、森可成の娘とか、
他に数名いたように思うが、この時代、女性が本名で呼ばれないのに
複数名分かってるってことは、相当メジャーな名前だったんだろうな。
581人間七七四年:2008/01/28(月) 15:19:22 ID:JIZF1yO4
言経は「御なへ」と書いているので、一般的に呼ばれていたのが
「おなへの方」ってことは?小椋殿とももちろん呼ばれたろうけど。
本名+〜の方という表記は将軍の側室には多くいるけど。
582人間七七四年:2008/01/28(月) 18:44:31 ID:OIV9mrBW
北政所に仕えてた時の小倉鍋はなんて呼ばれてたんだろう?
ここまで「なべ」という名前が残ってるってことは「お鍋」とかか?
女の本名が不明で不思議でもない時代で、信長周辺でも本名不明な人が多いのに
なんかお鍋の名前が逆に残りすぎてるような気もするんだけど。
583人間七七四年:2008/01/28(月) 18:55:39 ID:OIV9mrBW
>>578
言経が信長側室の名前に詳しかったとも思えないよな。
仲介者が信長側室の御なへからの依頼だと言ってるから
誰だかよくわからなくてもそのままそう書いただけなんじゃ。
584人間七七四年:2008/01/28(月) 20:01:31 ID:xaw+4y4F
信長の奥で「小倉」と呼ばれていたというのが不思議なんだよな。
他にも「鍋」がいて、区別するためにと推測する事もできる。
わざわざ逸話として、『「鍋」ではなく「小倉」と呼ばれた』と残っている事自体
特異な事だと思うんだ。
585人間七七四年:2008/01/28(月) 20:39:57 ID:JIZF1yO4
「小倉」と呼ばれても特異と言われ、
「鍋」と言われても疑問がられ、
一体全体なんと呼ばれていたら納得がいくのだろう?

>>『「鍋」ではなく「小倉」と呼ばれた』

これってはっきり明言されている史料って何?
鍋が当時、鍋ではなく小倉と呼ばれていた、なんて書いてあった
史料あったっけ?
586人間七七四年:2008/01/28(月) 21:08:42 ID:OIV9mrBW
他の女性達と同じく小倉氏としかわからない状態なら疑問も持たれないのかも。
587人間七七四年:2008/01/29(火) 02:34:49 ID:LhwrHAi2
だます奴
588人間七七四年:2008/01/29(火) 02:36:13 ID:LhwrHAi2
蛇だ
589人間七七四年:2008/01/29(火) 07:45:20 ID:AXK1aWyk
織田家雑録では杓子は鍋につきもと、ということでそう名付けられたとあるし
織田家では名前で呼ばれていたということだろう。
信長の妹達は市や犬など名前が明らかな女性もいるし不詳のままの姉妹もいる。
名前が判明していたからといってそんなに疑問なんてないがな。
秀吉時代に足跡がここまで明らかに残されている側室は他にいないわけだから
大勢いた側室の中ではやはり特別な存在だったことは否めんだろう。
590人間七七四年:2008/01/29(火) 08:10:08 ID:EEHyr+8z
>>589
>大勢いた側室の中ではやはり特別な存在だったことは否めんだろう

信長奥にいた時点で特別と言うよりは、秀吉にとって信長側室の中で
自分に有利に動いた庶子生母という意味で特別だったんだと思うがな。
591人間七七四年:2008/01/29(火) 08:29:34 ID:AXK1aWyk
>>590 でも信長時代にもある程度特別な地位にいないただの側室を秀吉が
取り立てても、自分に有利に動いたところで秀吉にはなんのメリットも
ないと思うけど?あの時点では信長の子供を産んだ側室は多数生存していた
だろうに、お鍋だけが特別扱い。知行をだし加算までしてる。
ただ織田家の女性として庇護、保護したかったというなら、
息子達を厚遇して知行を与えればいいことだけど、あえて女性の
お鍋に知行をだしたということは、お鍋そのものを家臣として配下に
おきたかったということ。織田家内での働きを秀吉が認めたという
ことじゃないかな。
592人間七七四年:2008/01/29(火) 09:19:28 ID:IpidHgCz
>織田家内での働きを秀吉が認めたという

具体的に小倉鍋が織田家でどんな働きをしたの?
政治的にも大活躍したならなんで記録にないの?
小倉鍋大活躍の話があったならなんで信長公記や他の史料に出てないの?
またなんでそんなに重要視されていた側室だったのに、実子の信吉は席次が
下げられてんの?その事がすごく不思議なんだけど。
自分は織田家でそれほど特別だったとは思えない。嫡男生母でもないしね。
実家がそれほど有力な勢力を持っていたわけでもないし。

小倉鍋は秀吉としては利用しやすい相手だったってだけなんじゃないの。
本当に優遇するんだったら、何も侍女などの下働きさせることないじゃんw
知行を与えるだけでいいはずだし。
豊臣政権にかかわるにしても、もっと違ったかかわり方がいくらもあったと思うし。
それに、信長の息子でも秀吉が優遇度では信秀>>>>>信吉だし。
信秀は信長の父親と同じ名前をもらっているし、生母は小倉鍋よりもずっと身分の高い人だしね。

>織田家雑録では杓子は鍋につきもと、ということでそう名付けられたとあるし

鍋ってのは別にニックネームでなくて本名だから。
本名が鍋だと知っていたなら「そう名付けられた」とは書かないんじゃないの。

それに、「なへ」って名前が残り過ぎているのはそれだけ「なへ」って名前がポピュラーだったって
事なんじゃないの。

593人間七七四年:2008/01/29(火) 09:20:58 ID:EEHyr+8z
それはどうだろう?
他の庶子生母達の、推測されている実家は、
秀吉と当初敵対した等が考えられる家が意外と多い。
ま、当たり前だ。
本能寺以降は、信長の家臣間で勢力争いが多少はあった訳だからな。
だから、庶子達でも、秀吉時代は駄目でも徳川時代に高家に浮上したりしている訳だしな。
また、当初は、実家に頼ってある意味安心と思える家だったりする。
小倉氏や高倉氏だった場合、生母である鍋ががんばらないと
信吉の目はなかったんじゃないか?
生母ががんばったなんて記録はなくても、厚遇されている庶子もいる訳だしな。
594人間七七四年:2008/01/29(火) 09:52:22 ID:v7kra+Wz
自分も鍋は子供のために必死に生きた女性と想像するな。
595人間七七四年:2008/01/29(火) 09:59:44 ID:EEHyr+8z
>>594
そうだな。
信吉もまだ幼かったろうし、
とにかく母としてがんばったんだと感じるな。

だから、江戸中期になっても、信吉の子孫は
お鍋の墓を総見院に建てたりしているんだろうな。
596人間七七四年:2008/01/29(火) 10:32:22 ID:IpidHgCz
>>595
それは自分も感じる。
信長側室達の中ではお鍋だけだよね。
孫がわざわざ墓を総見院に持ってきたのは。

他の子供の生母は早くに亡くなっていたのか、それほど愛着がなかったのかは
わからんけど、子供を育てるために必死で生きて苦労してきたことが、信吉を
はじめ孫にも伝わったんだろうと思うね。
597人間七七四年:2008/01/29(火) 10:41:45 ID:EEHyr+8z
母親として具体的イメージがあるんだよな。

当時は子供は乳母一家が育てたり宿老が育てたりする訳だから
それほど母子密着はない筈だ。
信高や信秀も、本能寺以降そういった所で育てられている。
だから、生母が不明になっているし、母子の関係性が見えてこないんだが、
信吉だけは、本能寺のとき鍋に連れられて実家に戻ったとされているし、
長く同じ城で共住みしていたとも史料から伺える。
反対に、身分が低く宿老などに預けられるほどの事もなかった身分なのかもしれないとも
席次が下げられている事からしても、伺えるんだが、
それだからこそ、生母として信吉とセットで考えられるんだと思う。
598人間七七四年:2008/01/29(火) 11:01:56 ID:IpidHgCz
>>597
なるほど。
それで信長生母も不明になってしまったんですね。
当時は身分が低いほど、名前が残りやすかったのはあるかも知れないし。
身分が高いほど、母子との密着は少なかったし愛着などは生まれなかった
から出自すら不詳になってしまうって事ですかね。
599人間七七四年:2008/01/29(火) 11:43:44 ID:ll644+hV
>>592

前の当主の家臣を雇用するに際して、以前はどの程度の働きだったかが
雇用するかどうか、どのぐらいの知行にするか、の判断規準になる。
女性とはいえ知行をだして側においたのだから鍋も
それと一緒と考えられないか?
当時は侍女や乳母は独立した女性の立派な職業だから、
あらたな就職先で雇い入れてもらうに際して
先の主君の側室でした、というだけでは果たしてそこまで
厚遇されただろうか?

小倉鍋の功績を示すものが何もないというが、
小倉は信長の葬儀や法要などにも招かれていたとする史料が残ってる。
他の側室が列席していたとしても名前すら史料に残されていないあたりで
他の側室との差がその時点ですでに歴然とあると解釈できるんだじゃないか?
秀吉サイドの史料だからだという指摘もあるが、もしはっきり名前がわかっている
側室たちがいたら省略する必要もないし、秀勝や三の丸の生母など、
秀吉にとってお鍋よりも価値のありそうな信長側室の存在は
その史料でも不詳のまま。

秀吉が息子達にはさほど興味も期待もしていなかったのは
指摘の通り処遇からわかる。
それならば、小倉への秀吉の処遇から他の側室に比べかなり厚遇されていた、
ということは認めざるを得ないんじゃないのか?
秀吉が知行をだしてまで取り込んでおきたかった理由は何か?
と考えたら、小倉鍋の存在や器量をかっていた、ということになって
その理由に小倉の信長生前の地位が低かったとは考え難いというわけだ。

北政所付きの上臈になったということだから、実務能力が長けていた
女性だったんだろう。

小倉鍋に関してはきちんとした足跡が残っているのだから、
それをきちんとふまえて検証すべきだよ。
側室たちの存在価値を低く見積もろうとする傾向が強いけど、
関白家の上臈を勤め、最終的に秀吉から1000石もの知行をもらったというのだから
当時の女性としてはお鍋の器量はかなり評価すべき。
600人間七七四年:2008/01/29(火) 12:35:20 ID:IpidHgCz
>先の主君の側室でした、というだけでは果たしてそこまで
>厚遇されただろうか?
知行をもらって侍女として採用されたということがそれほど厚遇だとも思えないし、
秀吉の下で働かなくても、実子が十分優遇されていた人もいるわけで。

>小倉は信長の葬儀や法要などにも招かれていたとする史料が残ってる。

別に小倉鍋だけが招かれたわけでもないしね。
小倉鍋が名前が残っているのは、秀吉の手紙とかあるからだと思う。
秀吉主催の葬儀に出席した時は、何と書かれているのか知りたい。
信吉母と書かれているのか、それともきちんとフルネームで書かれているのか。

あと、別に小倉鍋の存在価値を低く見ているわけではないけど。
秀吉政権下では立派な働きをしたんだろうし、北政所の下で侍女などを務めていたから
器量のある人だったとは思うけど、織田家側室の中で嫡男生母も飛び越えて
特別だったという意見には疑問なだけ。

小倉鍋は実家にそれほど力がなかったから、乳母などがつけられることもなく、
信吉など子供を自分で育てなくてはならなかった。だから、信吉の孫などが
総見院に墓を移したりといった行動につながったことが、他の側室達とちがうと
いっているだけ。別に小倉鍋自身を低く見ているとかそういうことではないよ。
601人間七七四年:2008/01/29(火) 12:51:27 ID:ll644+hV
>>600

まず「侍女」と「上臈」を混同してる。
侍女といってもピンキリで上臈クラスなら家老と同等の扱いの
ものもいた。有名な孝蔵主も侍女の中で最高位の上臈。
奥の女性をひとくくりで侍女、女中、女衆、上臈、などと
表記していることが多いがその中では立場や地位はピンキリ。

お鍋は天正11年8月に128石の知行で秀吉に召抱えられているが、
その石高もらって下っ端の侍女をやってるわけない。
下っ端の侍女達は賃金制。知行をもらっている侍女なら
かなりの上臈でなければありえない。
秀吉の直属の家臣扱いだしな。

それから若君の乳母は生母の実家なんぞまったく関係なく乳母や側近をつけられて
養育されたのが大名家の慣習。当然例外なく信吉にも乳母や養育係がいて
育てられたろうさ。貴人の若君がそんなぞんざいな扱いを受けるわけもない。
あの信孝だって乳母がいたんだぞ。
家臣に預けられるのはぞんざいにあつかわれていたからではなく、
これまた武家の慣習にすぎない。嫡子以外はどうせ他家に養子にだされたり
仏門にだされることが多かったから、肉親から早くから離して
養育した方がよい、と考えられていたから。
602人間七七四年:2008/01/29(火) 13:01:38 ID:IpidHgCz
>>601
>あの信孝だって乳母がいたんだぞ。

ちょっと、これ失礼じゃないの。
信孝生母はそんな身分低くないよ。

信吉は鍋と寝起きを共にしていたとされる史料があるから、
生母に対して愛着があったんだろうと想像できる。
乳母や側近がついて、早くから親と離されて育てられるのは
当時の大名家では当たり前だったんじゃないの。
別に誰もぞんざいに扱われていたなんて意見してないじゃないの。

秀吉主催の葬儀に出席したとされる鍋はどう表記されてるかと聞いてんのに
スルーですか。それとも知らないのですか?
記録をしっかり見たこともないのに、側室達の中で特別だったと主張するわけですか。

603人間七七四年:2008/01/29(火) 13:08:52 ID:Py4JzVBL
秀吉から知行をもらう=鍋は侍女、軽く扱われていた
というわけでもないんだろう。
北政所ねねだって家康からあれほどの厚遇をされている。
むしろ、逆だろう。
秀吉や北政所がぜひ自分の陣営に取り込んでおきたい女性だったのだろう。
「なへ」が小倉鍋では非常にまずい、といっている人がいるが、なぜなんだろう?
小倉鍋が晩年の信長のお気に入りの妻であったとして、それを否定する根拠は何もない。
鍋が寵愛を背景に信長から信長の後宮で一定の地位を与えられていたとしたら、
仮に鍋が信長の位牌を寺に預けてもまったく不思議はないんだが。
604人間七七四年:2008/01/29(火) 13:13:59 ID:IpidHgCz
>信長の後宮で一定の地位を与えられていたとしたら、

織田家関係でそう推測できる史料がないからね。
だって、いくら「上臈」の立場であったとしても、
実子の席次が下げられている程度の側室が、信孝よりも上の立場なわけない。
「なへ」が小倉鍋とするには自分は矛盾を感じるね。
自分は信長親族の誰かだと推測しているけど、逆になんでそれだと不味い訳?
無理やりに名前が判明している人間を当てはめなくてもいいと思うんだけど。
605人間七七四年:2008/01/29(火) 13:23:26 ID:7sw8zE59
>>600 
>>小倉鍋は実家にそれほど力がなかったから、乳母などがつけられることもなく、
信吉など子供を自分で育てなくてはならなかった

>>604
>>実子の席次が下げられている

このソースは?

606人間七七四年:2008/01/29(火) 13:24:56 ID:Py4JzVBL
上のほうで「一側室の分際で信長の位牌を寺にあずけるなんてありえない、
信長の位牌を預ける権限があるのは正室だけ、そしてそれをやれるのは
信長唯一の正室であった濃姫だけ」という議論があったからね。
側室だって、夫の菩提寺を建てたりしている例はいくらでもあるのに、
正室でなければ位牌を置いたり菩提寺建てたりできないわけがない。
小倉鍋が位牌を置いた可能性を否定するほどのことではない、といっているだけ。
信長親族の誰かだといったところでそれも憶測でしょ?
鍋が位牌を置いた可能性はまったくない、という意見を否定しているだけ。
鍋が位牌を置いた可能性だってあるってこと。
607人間七七四年:2008/01/29(火) 13:41:33 ID:7sw8zE59
>>604 
>>信長親族の誰かだと推測しているけど、逆になんでそれだと不味い訳?
無理やりに名前が判明している人間を当てはめなくてもいいと思うんだけど。

その後のお鍋の足跡を見る限り無理やりではなく、そう解釈されてきたのは
自然だし、仕方がないだろうと思うが?
お鍋が正室格、という従来の説は承服しかねるけど、
上臈として奥での地位が高かったというのであれば
そんなに違和感ない。
正室を凌駕する立場だったというのとも
当主の寵愛が深かったというのとも、次元が違う話だし。
だいたい上臈がそこまでの権限がもてたのは、正室の権限がそれほど
高かったということの証拠なわけだからな。
608人間七七四年:2008/01/29(火) 14:00:50 ID:IpidHgCz
>>605
クグったら出てくるよ。

>>607
大体が小倉鍋が、織田家で上臈の地位についていたかどうかもわからんのにねえ。
上臈という立場だと時の権力者を呼び捨てにできるんだってねえ〜
北政所の上臈のときにも太閤様を呼び捨てにしていたんだろうかねえ〜。

織田家の菩提寺にいち早く信長・信忠の位牌を置いたり、遺品を親族が誰もしないのに
勝手に持ち出して、署名も「なへ」だけ。
どこの「なへ」さんか寺がわかるぐらいに頻繁に寺とのやり取りをしていたと
推測できるのはやはり織田家親族だけだと自分は思うね。
小倉鍋が勝手にそんなことして、その後織田家を見捨てるように秀吉側についたなら
完璧な裏切り行為だと思うがな。秀吉と織田家重臣との間も対立していた訳だしね。
また、秀吉対織田家親族(信雄や信孝)との争いも実際あったわけだし。
その頃はすでに小倉鍋は秀吉側にいたんじゃないの。
どう考えても小倉鍋が織田家でそれほどの地位にいたとは自分は思えないな。
609人間七七四年:2008/01/29(火) 14:06:11 ID:Py4JzVBL
>>608
織田家親族に「なへ」という有名人がいたのならば、
勿論、素性はわかっているよね?
どこのどなた?
「なへ」は小倉鍋であっても問題ないはず。
小倉鍋が信長の側室であったことは否定のしようもないし、
鍋以外に織田家の有名人を探してくるほうが難しい。
610人間七七四年:2008/01/29(火) 14:11:40 ID:IpidHgCz
>>609
なんでも自分の知ってる有名人しか当てはめて考えられないんだねえ〜
それじゃ、検証する意味ないねえ。
自分が小倉鍋以外考えられないと思ってんならそれでいいじゃないの。
えらい先生の説をありがたがってるんだったら、このスレきて文句たれる
必要全くないねえ〜。



611人間七七四年:2008/01/29(火) 14:13:28 ID:7sw8zE59
>>608 クグッてもでてこないので、直接ソースの文献なりを教えてくれ。

秀吉と信孝との争いの時は信雄は秀吉とがっちり手を組んでるんだがね。
信孝への切腹命令をだしているのは信雄だよ。
信長の主だった重臣は即行秀吉にくだってるし
対立した重臣は、柴田・信孝についたので対立しただけで
その後恭順を誓って秀吉にくだった家臣もいる。
前田も蒲生も裏切りものか?
建前は三法師を奉じる、という姿勢の秀吉なんだから
秀吉に逆らったら主君に逆らうことになってしまうじゃないか。
そもそも信孝の切腹は三法師への逆賊行為という理由だぞ。
612人間七七四年:2008/01/29(火) 14:16:28 ID:Py4JzVBL
>>610
君だって「根拠はないけど、史料にも出てこないけど」
の空想論語ってるだけでしょ?
君の論だって、誰の賛同も得てないことは十分承知してるよね?
他人にこのスレに来るなというなら、君もこないでくれる?
所詮、2ちゃんねるでしょ?
君が「明らかに「なへ」は小倉鍋ではないのだから、
小倉鍋説をとる奴はここへ来るな!」というなら、
証拠となる史料を出せばいいじゃん?脳内史料じゃなくてねw
史料もないのに相手を言いまかそうったってできるわけないじゃんw
613人間七七四年:2008/01/29(火) 14:26:58 ID:IpidHgCz
>>小倉鍋説をとる奴はここへ来るな!」というなら、

被害妄想杉〜だね。
史料もないのに空想語ってんのはそっちじゃないのかねえ〜
説明だって、〜だったら、〜だったとしたらってばっかりじゃんW
きちんと、こういう関係でこういう記録があるから、こう推測できる〜とかじゃないし。
根本的に織田家での小倉鍋の立場がはっきりわかる記録がないから。
信長公記などに登場する「上臈」が小倉鍋であるとはっきり書かれてないのだし。
結局はっきりしたことはわからんという結論ならそれはそれで別にいいじゃんW

>所詮、2ちゃんねるでしょ?


ああ、そうでした。
ここは歴史検証の場といいながら、全く史料を出さずに憶測や想像で
語っているばかりの場所だったね。
もう、来ないわ。もっといい歴史検証の場所が他にあるから、そっちへ移動するよ。

614人間七七四年:2008/01/29(火) 14:34:54 ID:7sw8zE59
>>613 >>史料もないのに空想語ってんのはそっちじゃないのかねえ〜

それをいうなら、早く>>605のソースを提示してくれ。
そうでなければ君だって空想語りじゃないか。

それから
>>織田家側室の中で嫡男生母も飛び越えて
特別だったという意見には疑問なだけ。

とあるが、嫡男生母はとっくに亡くなってる。
それから当然他にも大勢上臈はいたよ。
もっと位の高い上臈だっていたかもしれない。
正室付き、お局付、など大勢いるなかで、子供の将来もからんで
秀吉の厚意を受け名が後世に残ったということだろうから。
615人間七七四年:2008/01/29(火) 14:39:07 ID:Py4JzVBL
>>613
>ここは歴史検証の場といいながら、全く史料を出さずに憶測や想像で
>語っているばかりの場所だったね。
>もう、来ないわ。もっといい歴史検証の場所が他にあるから、そっちへ移動するよ」

あれえ〜?
君が史料を提示したこと、一度でもありましたっけ?
何処へ行っても相手されないよ。
早く、史料を出そう。
616人間七七四年:2008/01/29(火) 18:43:36 ID:BhRvGDn2
>>613
>嫡男生母はとっくに亡くなってる。

具体的には誰のこと?このスレでもさんざん議論されているけど、
生駒説でないという意見もあるし、信忠生母に関しては今の史料では
確認できないと思うけど。たとえ、生駒であっても没年が本当に久昌寺の
墓の主かどうかは・・?かなり矛盾点もあるしね。
また、たとえ信忠生母が早くに亡くなっていたとしても、信忠生母が嫡男生母であるという
立場は変わらないんじゃないかな。


信吉の席次が下ってのは自分も聞いたことある。
なんでも信高と入れ替わっているとか。信高が鍋腹と伝わっているけど、
同じ腹の子供が席次が入れ替わるのはおかしいから、信高生母は別人だろうと
されているんだよね。
信吉は一緒に住んだとされる史料があるらしいし、(詳しくは濃姫スレで書かれていたので
記憶がおぼろだけど)信高と鍋は接点がないとも。
鍋が身分が低くて信高生母の実家の方が優遇されたからなのか、
鍋が信吉を生んだとき正式な側室でなかったのかはわからないけど。
617人間七七四年:2008/01/29(火) 18:47:19 ID:EEHyr+8z
実子の席次が下げられているってのは、生年がはっきりしている信吉の席次だよね。
信高の席次の方が、生年があとなのに上にきている。
これは多くの織田家の家系図ではっきりしているよ。
実際、信高の家系の方が、信吉の家系より高家だしな。
以前は鍋の子供とされていた信高だけど、根拠そのものが薄く、当時の史料からは
まったく接触が見られないんだよな。

鍋ってさ、本当に最初から側室扱いで信長奥に入ったのかな?
それほど実務に長けていた可能性があるとしたら、
むしろ、正式な側室じゃない可能性の方が高くない?
だって、鍋が側室になったとされる頃の信長奥ほどの規模なら、
正式な側室は実務なんてしないよ。
するのは実務専門の侍女や老女達でしょ?
正室の役割だって、奥を直接取り仕切るというよりは、侍女や老女の監督が主だもの。
そういう意味では、完全にピラミッド型の構図だよね。
侍女で奥に勤めていて手がついたけど、そのまま家臣に下げ渡されるような伽係ってほど
身分が低くない、それこそ侍女頭とかさ、管理職辺りなら、元々勤めるだけでも
そこそこ身分が必要だし、側室にシフトされたってだけじゃないの?
単に側室が能力があって高台院の侍女になんてなれないと思うし、まず何より、
単なる側室にそんな能力を発揮する場は、奥が大規模になればなるほどない。
もしそんな経緯なら、信長奥で重要視されていない程度だったのも説明つくし、
実家に頼れるほどでなかったのも分かるし、高台院の侍女頭として活躍したのも納得できるよ。
618人間七七四年:2008/01/29(火) 18:54:47 ID:fx02stsT
下世話な話、お鍋は一回ぐらいは秀吉とやってるだろうな。
それを非難する気はないけど。
619人間七七四年:2008/01/29(火) 19:12:16 ID:EEHyr+8z
前の方で、言経の日記で「前右府妾(妻)御ナヘ」と呼び捨てにしているのは
疑問だと書かれているけど、「様」とか「殿」とか
敬称がついている人物って出てくるか?
公家社会では「様」「殿」なんて敬称は、明治時代までなかったんだが。
天皇に対しても「主上」って呼ぶし、信長に対してだって「前右府」で「様」も「殿」も
ついていないし、敬称と言えるのは「さん」なんだが。
あと、公の役職で呼ぶ訳で、女性はそういうものがないから、呼び捨てでも違和感ないが。
他に「〜公」って言うのはあるが、もちろん女性には使わない。
620人間七七四年:2008/01/29(火) 19:13:12 ID:EEHyr+8z
>>619
>敬称と言えるのは「さん」なんだが。

「話し言葉の場合に限るみたいだけど」って言うのが抜けてた。
621人間七七四年:2008/01/29(火) 20:49:55 ID:7sw8zE59
嫡子以外の庶子の席次が入れ替わってだからなんだ?
すでに家督は信忠が継いでいたのだから、庶子の弟達の順番なんて
どうでもいい問題だろうに。どうせ他家にだされて苗字も変わり、織田家一門に
なる運命だったんだから。

信高と信吉が同腹の兄弟といわれている根拠として、
天正19年4月23日に近江上内に秀吉から知行をもらっているが、
そこはお鍋の実家である小倉氏の所領であったこと、
また慶長4年12二月1日に信高に二千石、信吉に二千石、お鍋に5百石が
家康、宇喜多秀家、毛利輝元の連署で扶助されてる、ということからも
それを裏付けてるんじゃないか?同日付で3人ワンセットで扱われている
あたりで、信高とお鍋が親子関係にあったと解釈されても仕方あるまい。

それから家系図の兄弟の順番はよほどはっきりしたもの以外は
順番はまちまち。子供の数も統一されてない。
家々に伝わるものがまったく一緒でなくて、織田家だけでも
20パターン以上あると言われてるんだよ。
家系図の順番が違うから、兄だ、弟だ、というのは
あまりの素人の視点に目が点になった。
622人間七七四年:2008/01/29(火) 21:00:37 ID:7sw8zE59
>>621だけど、天正19年4月23日に近江上内に秀吉から知行をもらったのは信高。

>>617信吉の系統は関ヶ原で西軍について、その後
領地召上げになってそれっきり没落し、家が断絶したから残れなかった。
信高は東軍についたのでその後高家に取り立てられ残ることができたってだけ。
生母のことなんて全く関係ないよ。 
623人間七七四年:2008/01/29(火) 21:14:30 ID:fx02stsT
通説の受け売りはつまんないので、一風変わった説プリーズ
624人間七七四年:2008/01/29(火) 22:13:28 ID:BhRvGDn2
信忠以外の息子はどうでもいい問題というけど、信雄・信孝の例だってあるし。
二人の間には二男と三男ってことであきらかに差がついている。
嫡男以外どうでもいいなら、差をつける必要もないしね。信吉が信高よりも後に
なったのは、織田家としてはそうする必要があったからじゃないのかな。
鍋が、信吉を生んだ時点で正式な側室でなかった関係で認知が遅れたとかじゃないの。
信孝だってそういう感じだしね。

自分も信高はお鍋とは無関係な感じがするな。総見院の墓を見ても信高とは無関係ぽいし。
あと、信高がお鍋腹なら、関が原後なんで信吉やお鍋を庇護してもよさそうだけど、
そういった接点はまるでないんでしょ。

何か一部必死な人がいるけど、自分はお鍋があの手紙を書いたとはとても
思えなくなってきた。どう考えても時の権力者を呼び捨てにするのは違和感あるし。



625人間七七四年:2008/01/29(火) 22:49:57 ID:ZAy4SGfc
ここはいったいいつから小倉鍋スレになったんでしょうか('A`)
626人間七七四年:2008/01/29(火) 23:04:38 ID:EEHyr+8z
そういえば、信長生母が小嶋信房息女だったとしたらだけど、
信孝生母の坂氏は小嶋信房縁者に最初嫁いでいたとされるみたいだし、
岡本家や大橋家とも縁が深いようだから、
通説というか武功以降は、信雄生母の生駒氏が信長生母縁者って事になっていたけど
どちらかと言うと、信孝生母の方が縁者って事になるんじゃないのかな?
反対に、生駒氏が土田弥平次に嫁いでいたかどうかは別として、
生駒と土田は同族で、土田氏は明智家臣で、土田氏が小折に一斉に移ったとされるのも
明智城の戦いの時に土田城も落とされたからだろ?
となると、生駒氏の方が濃姫の関係で側室に上がって、
坂氏の方が信長生母の関係で側室に上がった可能性もあるんだよな。
もしそうだとすると、勢力争いじゃないけど、奥での鍔迫り合いみたいなのも見えてきて面白いな。
627人間七七四年:2008/01/30(水) 01:42:39 ID:M/0UcWti
斎藤家がローマ出身だという
情報をウィキ
で確認しましたが
本当なのですか?
628人間七七四年:2008/01/30(水) 01:47:42 ID:M/0UcWti
斎藤家って古代ローマで言うカトー家と被るのだが
629人間七七四年:2008/01/30(水) 02:53:37 ID:M/0UcWti
斎藤道三と斎藤義龍コンビが東条英機と昭和天皇コンビに被って見えて
しょうがないのですが?気のせいですか?
630人間七七四年:2008/01/30(水) 03:02:58 ID:M/0UcWti
東条英機が斎藤道三と被って見えてしょうがないです
昭和天皇が斎藤義龍と被って見えてしょうがないです
以上 あと
アインシュタインが織田信長と被って見えてしょうがないです
ロバートオッペンハイマーが豊臣秀吉と被って見えてしょうがないです
631人間七七四年:2008/01/30(水) 03:12:04 ID:M/0UcWti
斎藤家と織田家って一体どんな関係で結ばれてるのかな?
濃姫自体信長に限らず秀吉とセックルしまくりだし
632人間七七四年:2008/01/30(水) 07:39:21 ID:7WuQc7nG
>>624 信雄、信孝だって結局兄の信雄は家督を継げなかったじゃん。
順番が逆だってそうだったんじゃないの?嫡子さえ確定したら
どうだっていいことなんだよ、その他大勢の末子たちの兄弟の順番なんて。
ましてや側室でしかない生母の出自なんて、そんなに側室の出自が重要視
されるなら、最初から高貴な家の側室にのみ子供を生ませればいいだけのこと。

それに徳川政権下において、いくら親兄だって西軍についたものを庇護する
ことなんてできるわけないだろうに。信高だって東軍についたけど
家康から日和見と思われぎりぎり本領安堵だったんだぞ。
信吉とお鍋が一緒に暮らした記録というのは京都に隠棲していた時でしょ。
二人とも家康らからもらった領地を召上げられ、お鍋の淀殿からもらった
50石の知行で食いつないでいた頃の話。それ以外で信吉母子が
乳母もつけられず母子密着で生活していたなんていう記録は見たことない。
あるなら教えて欲しいよ。
633人間七七四年:2008/01/30(水) 07:42:22 ID:7WuQc7nG
>>624 それから呼び捨てというけど、「上」という言葉そのものが尊称なのだから
厳密には呼び捨てとはいわないの。
634人間七七四年:2008/01/30(水) 08:52:49 ID:sZffQTb1
>それに徳川政権下において、いくら親兄だって西軍についたものを庇護する
>ことなんてできるわけないだろうに。

母親だけでも引き取って庇護してもいいんでは??
お鍋自身が合戦に参加していたわけでもないのに。
すごく不思議な関係だねえ〜
やはり信高の母親ではなかった説の方に一票だね。

>二人とも家康らからもらった領地を召上げられ、お鍋の淀殿からもらった
>50石の知行で食いつないでいた頃の話。

この程度の知行で乳母が満足に養えたかどうかは?家臣を養うだけでも大変だったんじゃないの。

>それから呼び捨てというけど、「上」という言葉そのものが尊称なのだから
>厳密には呼び捨てとはいわないの。

子供の信孝が「様」をつけているのは??
それほど身分が低いお鍋が信長だけでなく、信忠の遺品まで勝手に持ち出したというのも
すごく違和感ある。信忠の元に身を寄せていたとされる徳姫だっていたわけだしね。
お鍋が信忠との接点もそれほどあったとも思えないしな。
これもお鍋でない説に一票だね。

>>632>>633
なんでそうも必死なの??
635人間七七四年:2008/01/30(水) 09:18:47 ID:3Z/8Ah6Y
お鍋の事は、これまで出ている以上の事は、
当面分からないと思うんだけど。
織田家ではそれほど重要視された確定的な史実は見つかっていない、
秀吉の庇護下に入ってからは厚遇されているって言うのだけが真実でしょ?
最初から厚遇された訳じゃなく、秀吉奥で功績をつんで加増されてるし
その辺りの経緯は不明っていのはしょうがないよ。
側室が侍女に転身して、かつての主の家臣の奥仕えって時点で、
身分の低さは分かってること。
公家出身の側室などでも、再嫁した足跡が残っていたりするし、他の庶子の生母でも
奥仕えなんかしてなくて、隠棲しているような事は書状や他家の史料から分かるものもいる。

信吉とお鍋はは直接接触があり、信高とはなく、
どちらかと言うと信高は佐々氏の縁者と思われる、
確か秀勝も佐々氏腹の可能性が示唆されていて、
信高と同母と言う可能性も言われている。
同母と言えば、秀勝と冬姫も同母の可能性が大きいから、
信高とも同母の可能性があるという事になるよな。
信秀は稲葉氏説が今は有力らしいし、
信貞は土方氏か青山氏、
長次はお鍋の子の可能性が大きくて、
信房と信好は完全に不明。

個人的には、佐々氏の側室説辺りが気になる所だけど。
636人間七七四年:2008/01/30(水) 09:26:27 ID:kPbUonCj
なんで昨日からそんなにムキになってお鍋の存在を否定したいの?

具体的に史料を提示して根拠を述べてるわけじゃなくて、
他人の意見にいちゃもんつけるだけで
自論に固執してるだけにみえるから説得力がないんだよ。

それに遺品を勝手に持ち出した、とかなんで決め付けてるの?
織田家の許可を得て持って行ったかもしれないよ。
普通はそう解釈するけど。
「勝手に持ち出した」というソースは提示できるの?
「それほど身分が低い」とこれまた決め付けてるけど
仮にも男子を産んだ御腹様だから、数多くいた側室の中では
低い立場でないはずなのだが、「身分が低い」と決め付けているには
ソースがあるのだろ?提示してくれ。

とにかく自論を展開するなら裏付ける史料の提示してくれよ。
それが歴史検証の決まりごとなんだよ。
申し訳ないが、史料の裏付けのない自論はただの妄想としか受け取れないよ。
ずっとロムってるが、お鍋否定派はそれを裏付ける史料の提示は一切ない。
史料に基づいて推論している人たちはそれなり説得力があるが、
それに噛み付いているだけで、裏付ける史料もないのに苛立ちながら
自論に固執してるだけにしか見えんな。

まずは>>621にあるようなお鍋と信高の親子関係を思わせる史料に
対して反論があれば、具体的な史料を提示してご意見を拝聴したいな。
否定するそれなり納得のできる根拠があるのであれば、自分も
あらためて検証したいね。
637人間七七四年:2008/01/30(水) 09:43:35 ID:kPbUonCj
>>635 お鍋は秀吉から182石、その後1,000石にまで加算されて
関白家の奥に入ったのだから、下働きの侍女ではなく自分も多くの
侍女を侍らせる立場での上臈クラスで雇われてるよ。

侍女と聞いて下働きだ、と思い込んでいるからお鍋の身分が低いと
勝手に思いこんでるけど、女性で1000石の知行をもらえるのは
上臈でもトップクラスでしかない話。
信雄の分限帳をみたって、女性で知行をもらっているのは
一族の女性らと家臣団の中では数人程度でそれも微々たるもの。

知行の高さでお鍋がどれだけの地位にいたかが容易にわかるんだよ。

他の側室も秀吉から知行をもらって庇護された可能性も大いにあるけど
たまたまはっきりとその証拠が残ったのがお鍋だけだったから
注目されてるというのも大きいだろうな。
信好の生母も近江に知行があったと織田家雑録に記録があるが
それが秀吉から与えられたものかどうかは不詳。
だが信長追善供養に秀勝以外に唯一出席した信長の息子である
信好で、その後も秀吉に完全に取り込まれているから、お鍋同様に
秀吉から生母に知行が与えられた可能性は高いとは推測できるがね。
638人間七七四年:2008/01/30(水) 09:54:55 ID:sZffQTb1
>仮にも男子を産んだ御腹様だから、数多くいた側室の中では
>低い立場でないはずなのだが、

男子を産んだ側室はお鍋だけじゃないからねえ〜
しかも嫡男生母でもないしさ。
跡継ぎの信忠以外は、どうでもいい男子達だから兄弟の順番もどうでもいいらしいしねえ〜
お鍋は、公家や大名家の姫出身でもないのだから、身分が高いとはいえないんじゃないの。
側室として迎えられたから、それほど低いってこともないんだろうけどさ。

それに、お鍋が正式な側室でなかった説は興味深い。
確かに側室でもきちんと世話係り等付くし、普通は実務なんて担当しない筈だよね。
それが、信長が死んで秀吉の時代になったら、実務担当の侍女として秀吉に仕えてる。
これは、お鍋が最初に侍女頭などの立場で織田家に仕えていたから、豊臣家にも同じように
侍女などの立場で仕えることが抵抗なくできたんだろうと思う。
正式な側室として城に入ったいたなら侍女頭などの実務はやらせてもらえないだろうしね。
側室は子供を生むことが仕事なわけだし。
639人間七七四年:2008/01/30(水) 10:31:14 ID:3Z/8Ah6Y
天正19年の近江内にもらった所領が小倉氏の所領?
慶長4年の山上の方が小倉氏の旧領じゃなかった?

>>637
>知行の高さでお鍋がどれだけの地位にいたかが容易にわかるんだよ
地位にいたかどうかは問題じゃなく、侍女になってる事自体が身分が分かるという事だよ。
いくら地位が高くても、侍女は侍女なんだよ。
知行をもらったから、即、侍女になる訳じゃない。
知行や化粧料をもらって、悠々自適、または菩提を弔って隠棲して暮らす方が、
それなりの身分を持っているなら普通。
他に再婚する道もあるしね。

下働きなんて事もまったく思ってないよ。
そんなのは、それこそ身分なんていらないからね。

信高に関しては、席次が入れ替わってるのはどうでもいいというけど、
同じ生母腹の中で入れ替わるのはおかしいよ。
信雄や信孝だって、生母は違うしね。
家系図はバラバラだというけど、信高、信吉の席次順は、
そのように伝わってきているものだからね。

とにかく、お鍋に関しては信吉生母というのは確定だけど、
信高に関しては、不明としか言いようがない。
家系図にしても、信吉の生母は書いていなくて、信高は高畑某女と書かれているけど、
鍋と、信高生母が同一人物とされたから、鍋は高畑氏と言われてきたんだしな。
鍋の小倉氏説が有力になってくれば、じゃ、高畑氏って誰だって事にもなる。
640人間七七四年:2008/01/30(水) 11:26:27 ID:voKa5buX
>>639 >> 同じ生母腹の中で入れ替わるのはおかしいよ。

入れ替わったというのは確定なの?
勝長以下の男子で誕生年がほぼ確実なのは信吉、信貞、だけけしか
現状では確認できないけど。
それ以外は家系図では適当に書いているだけでしょ。
信好は「追善記」では八男となってるしね。

信高は天正19年4月23日に近江神崎群山上内山田町に1610石を
拝領してるよ。ここは元々小倉氏の所領。
慶長4年の連名での拝領は近江、犬上群と愛知郡のあたりで2000石。

侍女も大名家の女衆は完全ピラミッドだからな。
秀吉ほどの大名家の上級の侍女なら下手な大名なんかと
結婚するよりはるかにいい暮らしができたろうさ。
俺は北政所付上臈として奥女中を束ねていた、と本で読んだから
むしろ秀吉政権下でのほうがお鍋はかなりの権勢を持った女性だったろうな
と思ってたよ。総見院で何回目かの法要の施主もしてるというし、
施主を務めていたのが秀吉や淀殿たちなんだから、
お鍋が施主をつとめられたというなら相当な権限もあったろうしな。
それと秀吉とねねに仕えたのも違和感があるのかもしれないけど
それをいうなら、元々秀吉より身分が高かったのに秀吉にくだった
譜代の大名たちなんかはどうなっちゃうんだ?
信包なんかも娘を側室にあげて保身に走ってるし、下克上の時代なんだから
実力主義で決まることで、みんなそういう価値観で生きていたんじゃないの?
641人間七七四年:2008/01/30(水) 11:41:03 ID:voKa5buX
>>638 君はまず>>636の主張するように、自論を裏付ける
ソースを提示するのが先じゃないか?
お鍋が側室でない、という話に興味をもったらそれを裏付ける
史料を探してされから自論を書くべきだよ。

ちなみに側室にあがる経緯なら侍女あがりで側室になるものもいたし、
乳母から側室になるものもいたし、侍女頭からなったものもいるだろうし、
風呂係の下っ端がなることもあったろうな。
戦国期特有の人質のような側室でない限り、最初から側室であがってくる
ケースの方がむしろレアだったろう。

だが仮にも当主の子供を産んで、信長の子供と認知され、
安土城の奥に居住しながらその生母が側室でなかったということは
通常ではありえん話。
なので側室ではなかったということを裏付ける史料があるなら
非常に興味があるから、提示してもらいたいところだが?
642人間七七四年:2008/01/30(水) 12:11:22 ID:sZffQTb1
>>641
別にお鍋が子供を生んでからもずーっと侍女務めをしていたとは言ってないよ。
でも坂氏同様に伽係りから側室になった説が興味深いといってるだけ。

>俺は北政所付上臈として奥女中を束ねていた、と本で読んだから

どの史料?
>秀吉ほどの大名家の上級の侍女なら下手な大名なんかと
>結婚するよりはるかにいい暮らしができたろうさ。

では、これの資料的裏づけは??

どんなに鍋が奥務めで地位が高かろうとも、時の権力者の実子よりも身分が上のわけない。
だから、違和感あるといってるだけ。
また、鍋が織田家でも他の側室よりも特別だったという説にも違和感あるね。

なんか、人の意見には史料史料というくせに、自分は単なる憶測だけじゃないの。


643人間七七四年:2008/01/30(水) 12:16:00 ID:6wC7OjDZ
>>642
 
>>坂氏同様に伽係りから側室になった説

坂氏が伽係というのも臆測なんじゃなかった?
坂氏に関する記述そのものがほとんどないんだから。

というか、結局自分のソースなんにもでせないまま
ああだこうだと負け犬の遠吠えも虚しく聞こえ…
644人間七七四年:2008/01/30(水) 12:16:56 ID:sZffQTb1
信雄・信孝や信高・信吉の順にしても、織田家の公式史料でそうなってるからじゃないの。

順番関係ないなら、生まれた順に二男、三男、四男・・と書けばいいだけのことだし。
その順になったってことは、織田家にとって必要だったからそうなっているんじゃないの。

645人間七七四年:2008/01/30(水) 12:22:18 ID:sZffQTb1
>>643
でも、それだと信雄・信孝の順番だって説明つかないじゃないの。
史料にはなぜか信孝は清洲で生まれてなくて、岡本家の屋敷で生まれてる。
当時、正式な側室が実家など縁者の家に帰って子供を生む習慣はなかったそうだし。
坂氏のことについても、信長生母だとされる小島氏の縁者だとしたら
先に生まれてるのに順番があとにされるのは不思議だしね。
憶測はそうだけど、でもそれを絶対違うとは言い切れるの??
絶対違うと主張するほどの史料なりをお持ちなんですか??
646人間七七四年:2008/01/30(水) 12:26:04 ID:6wC7OjDZ
>>644 当時は幼少期に亡くなったり、成人前に亡くなったりする子供が
かなり多かったから、安易に次男、三男、なんて書けないんだよ。

だから家系図によって子供の数がまちまちだったり、生年が混同されて
不詳になってしまったりしてたの。
647人間七七四年:2008/01/30(水) 12:31:01 ID:6wC7OjDZ
>>645 伽係と断言できる史料はお持ちなんですか?

私は「それは臆測でしょ」と述べただけ。

絶対違うとは一言も述べておりませんが?
648人間七七四年:2008/01/30(水) 12:55:58 ID:sZffQTb1
>>647
信孝は、信忠や信雄みたく清洲で生まれていません。
なぜか岡本家の屋敷でうまれてます。
しかも、信雄よりも早く生まれているのにもかかわらず
信孝は三男になっています。
これは、信長が認知した順番が信雄、信孝だったからと思えます。
しかも、坂氏が正式な側室であったなら清洲で生んで、信孝が生まれたときすぐに
認知され、二男になっていたはずです。ところがなぜかそうなっていません。
その理由を考えると、納得のいく解釈は坂氏が伽係であったため、
信孝を生んだ時点では清洲の奥に入っておらず、信雄よりも先にうまれながら
信長の認知が後になってしまったと推測できるんですが。
信長の個人的な感情から、二人の生母に対して差がついたとは思えません。
それ以外の二人の順番の逆転で納得のいく説があるのですか?
他の説をお持ちならぜひ教えてほしいですね。
649人間七七四年:2008/01/30(水) 13:53:32 ID:ql7HHo5e
>>648って、人の説には難癖つけて、ソースを提示しろと言われば
完璧スルーで、挙句に人に意見を求めるだけか?
自分で納得のいく説を検証して、ソースもってやってこい。
それから意見してやるよ。
650人間七七四年:2008/01/30(水) 14:51:26 ID:sZffQTb1
>>649
ここはあんたの独断場ですか?
そうですか。

人の意見を妄想だとか、非難するならそちらもそれなりの史料を出して欲しいですが。
信雄・信孝の件に関しては、資料がそう書かれているからそれについて
読み取れる解釈を自分なりにしたつもりなんですがね。
それ以外に考えられる説があるなら示して欲しいといっただけですが。
何をそんなに必死になって意見してやるとか言っているのですかね。
難癖つけてるのはそちらの方だと思うんですが。

651人間七七四年:2008/01/30(水) 14:56:53 ID:ql7HHo5e
>>650

ではまず>>636の要求するソースを先に提示しろよ。
順番からいったらそれが先だろ?

朝からずっと待ってるやつもいるんじゃねぇの?

だいたい信高の知行がどこだったかもうろ覚えだったくせに
まともな史料なんて検証したことなんじゃね?
記憶が不確かなら自分で史料の確認しろよ。
それから確かなことを書き込め、浅はかな知識しかねぇくせに。
652人間七七四年:2008/01/30(水) 15:01:07 ID:sZffQTb1
>>651
はっ?
自分は別に信高の知行に関して意見したことは全くありませんが?
何か?
人違いでは??
勝手に決め付けてもらっても困りますね。

>朝からずっと待ってるやつもいるんじゃねぇの?
麻からとはずいぶん暇なんですね。


653人間七七四年:2008/01/30(水) 15:29:02 ID:ZDhR3vte
どうでもいいからID:sZffQTb1は早急に>>636の質問に答えるべし。

>>636は明らかに>>634の君のレスに対してのレスだ。

ところで>>634の君の書いたレスだが
>>二人とも家康らからもらった領地を召上げられ、お鍋の淀殿からもらった
>>50石の知行で食いつないでいた頃の話。

>この程度の知行で乳母が満足に養えたかどうかは?家臣を養うだけでも
大変だったんじゃないの。

この頃一体全体信高は年がいくつ思ってんだ?
なんで乳母なんて必要なんだよ、馬鹿か?
654人間七七四年:2008/01/30(水) 15:44:24 ID:sZffQTb1
>>653
なにが、どうでもいいのだかね。人違いしておいて、あやまりもなくえらそうにいうね。
人の意見を馬鹿か?というだけ、おたくそんなにえらいの?

>>二人とも家康らからもらった領地を召上げられ、お鍋の淀殿からもらった
>>50石の知行で食いつないでいた頃の話。
なら、なおさら信高がお鍋腹ならなぜお鍋だけでも引き取らなかったのか不思議だと言ってるんだけど。

>それに遺品を勝手に持ち出した、とかなんで決め付けてるの?
>織田家の許可を得て持って行ったかもしれないよ。
>普通はそう解釈するけど。
>「勝手に持ち出した」というソースは提示できるの?

ではお鍋が、具体的に誰に許可を得て遺品を持ち出したと解釈されてんの?
通説ではお鍋が勝手にやったと聞きましたが。しかもそれをお鍋の手柄だとされているし。
そういう話を聞けば、いやでもお鍋単独でやったと解釈されても当然じゃないの。
誰からかの依頼ならそう伝わってもいいはずだけど、全く伝わっていないんでしょ。
その辺りを詳しく聞きたいよ。

655人間七七四年:2008/01/30(水) 16:10:40 ID:RfOXx9Bi
>>651とは別人なのに、一人で逆上してて馬鹿みたいw

で、信高乳母の件はまたまたスルーですか?
都合の悪いことは華麗にスルー。

通説で聞いたというなら、濃姫は早々に亡くなったという通説を俺も聞いたぞ。
生駒が正室もしくは正室格になり、信忠をはじめ信雄、五徳を産んで、
信長晩年はお鍋の方が正室格として信長をささえたという通説を
聞きましたが?

通説語りなんてやめろよw

そもそも通説でもお鍋の方が「勝手に遺品を持ち出して」なんていう
話だったっけ?どこに書いてある通説だ?

「勝手に」なんてそれこそ勝手に尾ひれをつけてしまうから、
「お鍋の手柄だ」なんて悪意に思い込むんでるだろうねぇ。

通説をそこまで信用するなら↑で書いたような信長の通説通りの
正室、側室の話もそっくり信じてればいいじゃん。
08:52:49からずっと粘着してここのスレに居座ってなくてもさw
656人間七七四年:2008/01/30(水) 16:20:52 ID:sZffQTb1
>>655
質問に答えろというから、答えたら文句つけて。
通説に疑問だから、疑問だと書いたんだけど??
ちゃんと文章読んでる??通説を信じてるんだったら何もここで議論する必要ないし。
朝から粘着しているのはそっちじゃないの。
ID変えてまでご苦労さんだね。
信長、信忠の遺品を納めたのは、お鍋の手柄だということで寺側では公開しているじゃん。
もう、くだらん話はあきた。
通説はやめろというなら、自分も異説だしてみれば。
657人間七七四年:2008/01/30(水) 16:32:33 ID:RfOXx9Bi
>>656 結局ソースってないんじゃんw
IDなんて変えてないのにまたまた思い込みだけで断定しちゃって。
自分こそ謝罪もしないで、ID変えたなんて言い訳して恥ずかしくないの?

で、「お鍋の手柄」と寺がHPででも紹介してるの?
本にでも書いてあるの?
確認しえる範囲でも「お鍋の方がやった」とはあっても
「お鍋の方が勝手にやった」「お鍋の方の手柄だ」などと
書いているものはどこにもないな。
そこまで歪んだ見方をして、お鍋の方になんか恨みでもあるの?

ところで知らないようだから教えてあげるよ。
50石あれば親子二人と数人侍女でも雇って、
贅沢しなきゃ食うに困らない生活はできたよ。

乳母は雇う必用がないので雇わんしなw
658人間七七四年:2008/01/30(水) 16:48:17 ID:sZffQTb1

「お鍋の方がやった」と書かれてあっても
「お鍋が織田家の許可を得て持って行った」とは書いてないけど???
公開している寺でもそうなってないけど・・・・?
どうしたら、そう解釈できるのかねえ。

何か知らんが通説でない異説が出ると、必死になる人がいるね。
2CHでの、しかも史板でもない趣味板で必死でさ、そっちの方が馬鹿みたい。
659人間七七四年:2008/01/30(水) 17:02:32 ID:RfOXx9Bi
>>658 はてはて、またまた勝手な思い込みでの難癖ですか?

「お鍋が織田家の許可を得て持って行った」

なんて俺がどこに書いたんだよ!
08:52:49から張り付いてるから妄想入ってんじゃないの?
頭大丈夫w

貴方が知りたがってる信雄と信孝の件は別のアプローチでの
説はあるんだけど、書きたくないな。
どうせ人の意見に対して難癖つけることしかせんだろうに。
他人の意見に耳を傾けるという謙虚な態度もないやつになんか教えたくもない。
それに少しは自分で検証したらどうだ?
武家では信孝みたいなケースは昔からなかったわけじゃないんだから。
中世の武家の慣習や女性史に関する文献でももっと読んで、
自分なりに考えるんだな。
660人間七七四年:2008/01/30(水) 17:28:23 ID:sZffQTb1
>>659
別のアプローチあるなら書けばいいじゃないの。
もったいぶってあるようなこと書いて、本当はないんでしょ。
通説以外の立派なすごい説があるなら、ずーっと以前から議論されているテーマなんだし、
出してもいいじゃん、もちろんソースつきで。
他人の意見に謙虚にってさ、ここ2CHだよ。どんな人間だってアクセスできる。
不特定多数の人間が見に来る場所なのによくいうよ。
あ、これから仕事行ってくる。つまらん話に延々付きあってくれて悪かったね。
661人間七七四年:2008/01/30(水) 18:46:53 ID:4qxc7RXT
>>618
あ、わかる。枕営業ってことね。

お鍋って、権力者に取り入るのがうまくて立ち回りのいい女だったって
印象しかないな。自分的には。
生きていくためにはそうするしかなかったんだろうけど。
662人間七七四年:2008/01/30(水) 22:42:59 ID:7h9/dCd/
いくらんなんでも実子の信高が東軍に付いて安堵されてたんなら
生母を貧乏暮らしなんてさせずに引き取るだろ。
生母の面倒を見たぐらいで非難されたりはしないよ。
663人間七七四年:2008/01/30(水) 23:07:17 ID:7h9/dCd/
>>626の生駒氏の方が濃姫の関係で側室に・・・って意見が面白いので
あれこれ妄想してみたいと思ったけど、生駒に関しては武功の記述が
無意識に入り込んじゃってて素のままで考えられない。
信憑性が低いとわかった今となっても知らず知らず引き摺っちゃう感じ。
史料を探し知識を得るのは大事な事だけど、いったんそれが固定観念になると厄介だ。
664人間七七四年:2008/01/30(水) 23:22:25 ID:4qxc7RXT
>>662
無駄だと思うよ。
上の方で同じ何度か質問あったけど、お鍋派組はこの件についてまるでスルーしてるし。
疑問に答える気は全くないみたいね。
665人間七七四年:2008/01/30(水) 23:30:58 ID:MEqRFkPs
小倉鍋が信長の側室だったことには異論はない。
だが、その身分立場がどの程度であったのかという点には確定史料がない。
かつて言われたような実質的な正室だったとか、信長の奥で重要な人物だったと
するには裏付ける史料がない。
彼女に関して残されている、表向き(政治的な)の活動の記録は全て本能寺以後、
信長の奥から離れて秀吉の元での事跡。
666人間七七四年:2008/01/30(水) 23:36:15 ID:4qxc7RXT
そういえば、お鍋って秀吉からの手紙の類は残されているけど、
信長からの手紙って一通もないよね。
ねねでさえあるのに。
織田家の側室で特別な位置だったとするには、信長からの指示を受けている書状などが
がないと裏づけが出来ないよね。
667人間七七四年:2008/01/31(木) 08:16:52 ID:BWk+F0YZ
>>662

それではかつての主君であった織田宗家の秀信の末路はどうだった?
東軍についた織田家の誰かが庇護した形跡はあったっけ?
墓が織田家の菩提にすら葬ってもらえなかったのはなぜ?


現代人の視点で語りすぎだね。
家の存続に関わる一大事だから敵方だったものに接触することは命取り。
徳川政権下で旧豊臣派の徹底的な弾圧がその最たる例だろうに。
戦では徳川に味方しながらも豊臣への忠誠心をもっていた武将はなんだかんだで
潰されてる。戦国時代は親兄弟でも敵味方なんてざらにある話さ。
それにお鍋は50石もらっていたんだから全然貧乏生活じゃないよ。
1石は大人一年分の米で換算してるんだから大人50人分一年分の米だぞ?
浪人生活の信吉に家臣も必要ないし、大人二人なら庶民よりはるかに
いい暮らしができたろう。

>>665-666

それをいうなら、濃姫がどういうポジションだったかを示す史料も
足跡を残す史料も、信長からの書状や関係を示すものだって
なにもないよ。なにもないから形ばかりの御台だったとか、
織田家で位牌も継承してもらえないほど織田家ではどうでもいい御台だったという
可能性だってある。
可能性のある範囲での検証なら真っ向反対意見であっても参考にすべきだと思うな。
668人間七七四年:2008/01/31(木) 08:48:15 ID:Viwx1xDM
だからここはいつから小倉鍋スレッドになったんですか?('A`)
669人間七七四年:2008/01/31(木) 08:59:09 ID:wD3sjtSk
>家の存続に関わる一大事だから敵方だったものに接触することは命取り。

実子が東軍についているなら、なんで鍋が敵方にされているのですかねえ。
それとも、鍋は実子の息子からもほおっておかれるほどの母親だったってことですかねえ。
息子がめんどうをみたいと思えない位の価値のない女だったってことですね。
670人間七七四年:2008/01/31(木) 09:43:09 ID:ZHvmHI/S
>>669 お鍋はが西軍についたのは秀吉直臣だったから。
それともう一人の息子の信吉が西軍だったから。
お鍋は信吉と京都で隠棲していたという記録があるから
息子に放っておかれていないのだけど?

そんなことも知らなかったの?

お鍋と信吉がセットだったので信高が表向き手を出せなかったという側面も
あるんじゃねぇの?裏では金を送金したりぐらいのことはできたろうけど
しれんが、お鍋の知行が50石あったというなら経済的援助は必要ないじゃん。
671人間七七四年:2008/01/31(木) 09:53:20 ID:wD3sjtSk
別に実子と書いただけで、信吉とは名言していないがね。
人の文章をキチンと読めば。

東軍についた信高が鍋を引き取らなかったのは、鍋と縁を切りたかったのかもね。
西軍についた信吉の母親として暮らした形跡しかないからねえ。

枕営業で権力者に媚売って仕事をもらっていた母親を、信高は嫌ってたんじゃないの。
むりやりに信高生母説をとるならそういう可能性もあるんじゃないの。

まあ、単なる肉便器だった女に価値なんてないね。
しかし、ここはいつから小倉女のスレになったんだかね。

672人間七七四年:2008/01/31(木) 09:58:27 ID:ZHvmHI/S
真田家だって親兄弟で東西分裂、西軍の父親は流罪で東軍についた方の息子は
助命嘆願をしたという話はあるが、それっきり改名までして親とは絶縁。

真田信之・昌幸親子は実は親子じゃなかったんかな?
673人間七七四年:2008/01/31(木) 10:04:32 ID:ZHvmHI/S
>>671 しかし下品な言葉づかいだな。

ところでお鍋がその「単なる肉なんとか」であったという証拠はあるのか?

あったらソースだしてみろよw
674人間七七四年:2008/01/31(木) 10:16:22 ID:wD3sjtSk
>>673
信長や秀吉ぐらいの権力者の元で働くなら
肉便器としての仕事もあったのはふつうだろ。

そっちこそ、小倉女が肉便器でなかったという証拠はあるのかよ。

なんか知らんが小倉女が、信高の母親であるというなら、全く一緒に暮らした形跡もないのは、
東軍についた信高から疎まれていたんだろうよ。
675人間七七四年:2008/01/31(木) 10:52:32 ID:s8ZPOwAt
>>674 
その理屈だと夫を秀吉の殺されたのに
弟の助命嘆願のために即行秀吉の側室になった
京極殿も肉便器ってことになるわけだ。
肉便器の京極殿の権勢は淀殿に次ぐものだったから
お鍋が多くの知行を得たのも秀吉の寵愛のため、ってことなのか。
淀殿も妹達の後見もあって秀吉の肉便器になったってことだな。
三の丸も信長の姫なのに家のために肉便器、姫路殿も信長の姪なのに肉便器。

あれれ、でも肉便器の彼女達はずいぶん高貴な出自だな。
出自が低いから肉便器に成り下がる、ってわけでもないんだね。

ところで信高とお鍋が一緒に暮らした形跡がないっていうけど
生駒と信雄もないんじゃない?
坂氏と信孝もないよ?

生母を特定する史料はあるけど一緒に住んだかどうかは不詳としか
いいようがない。家臣の家で養育されたかもしれないし、
母の局で養育されたかもしれないし。

そもそも一緒に住んだ=親子の証明になる得るの?
だいたいそんなこと史料に残す必用ってあるの?
生母とともに一緒に暮らしていた、なんて。

信吉もね、幼少期にお鍋とともに暮らしたと書いてある史料は
どこにもないし、京都で母子で晩年を過ごしたとはあるけど
同居していたかどうかは不詳。信吉には妻子がいたしね。
一緒に暮らした、と力説するからには何かそれらしい史料でも残ってるの?

あったらみたいな、とても興味あるよん。
676人間七七四年:2008/01/31(木) 11:24:16 ID:wD3sjtSk
もう、小倉女は権力者の肉便器でその程度の女だったってことでいいじゃんW

小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪


677人間七七四年:2008/01/31(木) 11:44:28 ID:5sxqmfcQ
ID:wD3sjtSkが発狂しちゃったw
やっぱ頭のおかしいやつだったんだね。
もう二度と来るなよ、メンヘルにでも行くといいぞ。

678人間七七四年:2008/01/31(木) 11:49:19 ID:wD3sjtSk
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
679人間七七四年:2008/01/31(木) 11:49:50 ID:wD3sjtSk
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
680人間七七四年:2008/01/31(木) 11:54:12 ID:wD3sjtSk
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
681人間七七四年:2008/01/31(木) 11:59:10 ID:5sxqmfcQ
ID:wD3sjtSkは自説がなにも通らなくてよほど悔しかったんだろうな。
でもそれはお鍋が悪いんじゃなくて、君の頭が悪かったからだから。
人のせいにするなよw

682人間七七四年:2008/01/31(木) 12:25:10 ID:wD3sjtSk
単なる肉便器に過ぎない女を必死になって持ち上げるスレはここでつか?

なんか、スレタイとすっかりズレてまつねW
683人間七七四年:2008/01/31(木) 13:13:07 ID:ckqx+Mw1
>>682 スレタイとズレてるのはおまえのせいだろ?
自分がどれだけスレを荒らしてるのか自覚もなく
ぬけぬけとよく書き込めるよな。

頭が悪いのは致命傷だな、まったく。
684人間七七四年:2008/01/31(木) 13:39:28 ID:NFIThEKP
>>682みたいなやつはスルーしようぜ。
このてのやからはいつも生駒やお鍋がちょっとでも
評価されるととたんにわいてきて、
行き詰まる→発狂→荒らし→逃亡とパターン。
お鍋のことを理由なくそんな偏見の目でみてるやつに
信長の女性にまつわるまともな検証なんてできるわけもないさ。
お鍋を貶めるということは、そういう女性を側においた信長を貶めることにも
なるし、正室をはじめ信長の奥の女性達へのとんでもない侮辱だよ。

ところで肝心の濃姫がらみのネタは目新しいものはでないね。
自分はちょっと前にちょろっとでた、信包のもとに身を寄せた、
という説が気になってるな。
信包に庇護されて近くに住んでいたとしたら地方住まいだから
表舞台にあられないのも納得できるし、信包系織田家も孫の代で断絶してるから
詳細な記録が残らなかったことも納得できる。
報春院が埋葬されている寺が菩提を弔っているから、よもや生母と
御台を間違っている可能性はないだろうけど。
685人間七七四年:2008/01/31(木) 14:09:01 ID:kU2aRNU8
>>670
鍋の立場がどうだったかはおいておいて、一点。
>西軍についたのは秀吉直臣だったから
これは関係ないよ。なぜなら、関が原に参加したのは東軍も西軍も全て秀吉直臣だから。
関が原は豊臣政権内における家康と三成の主導権(執政権?)争いであって、徳川vs豊臣なんて
構図のものではない。
東軍参加者は家康を豊臣政権における正統な執政者として、クーデターを起こした三成を
排除しようとしたのだし、逆に西軍派は家康を豊臣政権を揺るがす存在だから排除せねば
ならないと参加した。どちらも豊臣家臣として、家康につくか三成につくかを選択した。
(もちろんその決断に、利害とか感情とか成り行きでとかもあっただろうが)
686人間七七四年:2008/01/31(木) 14:21:20 ID:kU2aRNU8
>>667
>それをいうなら、濃姫がどういうポジションだったかを〜
悪魔の証明だそれは。
濃姫のポジションを明確にしめす史料はない。しかし彼女が嫌われていたとか
夫婦仲が酷かったという史料もない以上、「織田家ではどうでもいい御台だった」
と主張するのであればそれなりの根拠が要求される。根拠の提示なしにそんな
主張をしても、まず相手にされない。ご自分で言っているように、可能性だけで
語るのならいくらでもどんなとっぴなことでも言えてしまい、収拾がつかなく
なるから。

逆に、小倉鍋が信長の元でそれなりに重要な政治的立場にあったと看做せる様な
史料はない。それでも「小倉鍋は信長奥で重要な立場にあった女性だ」と主張する
のであれば、ちゃんとした史料根拠を挙げたうえで論証することが求められる。

「立証責任」は、常に主張した側に求められるものですよ。
687人間七七四年:2008/01/31(木) 15:12:52 ID:aSyEinCF
>>685 >>関が原に参加したのは東軍も西軍も全て秀吉直臣だから

秀吉から直接知行をもらってないものは秀吉の直臣とはいわないよ。
家康の家臣たちは家康の直臣であって、秀吉の直臣ではない。
全てというのは間違いだよ。

>>686

織田家内で重要なポジションにいたというのは、秀吉政権下で
1000石もの知行を拝領したのだから、その権勢を考えたら
織田家内でただの側室として低く見られているとは
考えにくい、という推測でしょ?
上臈なんて多数いたわけで、そのうちの一人だというのすら
納得できないというのが、理解できない。
上臈の最上位は正室付のトップだけど、そこまでではないにしろ
局を賜った側室なら上臈の仲間入りだし、それぐらいなら不自然じゃない。

少なくとも秀吉政権下での知行の詳細など詳しく史料を提示して
それを証明してるし、ふみこんで考えたら織田家での
ポジションだって自ずと推測できるな、とその説は理屈は通ってると思うよ。
自分はその意見に賛同してる。

そんなことはありえない、とまっこう否定する人たちには説得力がないでしょ?
侍女を下女なみに勝手に解釈してたり、側室を肉便器だなんて
蔑視してる意見を述べてる人たちこそ、どういうことを根拠に
そこまで蔑めるのか知りたいよ。

主張した側に求められるといってるけど、主張している人は
ずいぶん史料を提示して説明してるじゃん。
信高・信吉・お鍋の拝領の話もはじめて知ったけど
それを考えたら、お鍋と信高の親子関係はかなり信憑性が高いと思う。
同日付でということは、明らかに3人ひとくくりで配慮してるってころだろうし。

反対にそれに反論する人たちって、反論の立証する史料もなければ
矛盾をつかれてもそれにたいしてきちんとレスを返さない。
挙句に>>680みたいな切れ方して、そんなんじゃなにをえらそうなこと
書いてもなんの説得力もないね。

お鍋のことだって可能性としての一つの説であって、けして
断定ではないでしょ?ムキになって感情的にちゃちゃが入るから
それに対しては断定的に否定をするだけで。
688人間七七四年:2008/01/31(木) 15:42:23 ID:PMsLZW6i
>>686 そうや、その通り。

それじゃ「小倉女が肉便器」である証明をしてもらわなきゃなw

「立証責任」は、常に主張した側に求められるものなんでしょ?

でもさ、反論に対する立証責任は反論する側にも求められるんとちゃうんか?
立証されてない反論なんてただのいちゃもんやろ?
どうなん?
689人間七七四年:2008/01/31(木) 16:11:13 ID:Viwx1xDM
そういや最近発刊された信長関連の本(最初のやつだけ半額になる薄い本)では
濃姫は本能寺の変後、濃姫は尾張で暮らした・・・と書かれていたけど
最近の学会(っていうのかな?)では濃姫は長寿説になりつつあるのかな?
ちょっと前までは離婚しただの、何だのってなっていたけど。
690人間七七四年:2008/01/31(木) 17:28:38 ID:kU2aRNU8
>>687
>吉政権下で1000石もの知行を拝領したのだから
それは秀吉政権下において、秀吉に対する功績を認められて拝領されたもの。
逆にお聞きしますが、信長政権のもとで重用されていたというのなら、なぜ
小倉鍋は信長からそれなりの知行を拝領していないんですか?

そもそも信長政権下で重用されていたものが、全て秀吉政権下重用されたわけ
ではない。敵対したものは当然だが、敵対していなくても秀吉に重用どころか、
排除された人たちもいる。松井や矢部、武井のように。秀吉は信長側近から、
己の都合で堀や長谷川は重用した。奥の女性たちも同じだったというだけ。

>>688
>「小倉女が肉便器」である証明をしてもらわなきゃな
それは私が主張したことではないので知りません。当事者にお尋ねください。
ちなみに主張に対する反論は、主張論の矛盾や間違いを指摘するだけですみます。
そこから一歩進んでどうこうだと主張を始めたら、それには立証責任は生じますが。

私の意見としては
小倉鍋が女性として信長からどう遇されていたのかは史料がないのでなんとも言えない。
まあ子供の母としてそれなりに待遇はされていただろうと思うし、奥でもそれなりの立場
にあったのではないかと推測はできる。
ただ、彼女が政治的に(奥ではなく表向きに)武将に指示が出せるほどの強い立場にあったか
どうかについては、現状の信長生存時の史料からはとても考えられない。
691人間七七四年:2008/01/31(木) 17:37:31 ID:X2Lx2nyv
>>688 同意だね。

主張した側に立証責任があるなら、反論を主張する側にも
当然立証責任があるんじゃないか?
反論する方も立証できるだけの史料などの根拠を提示するべきだよ。

織田家に史料がないからお鍋のことは認められないと言い張るなら、
「濃姫は織田家ではどうでもいい御台だったんだろう」と主張され、
「だって証明する史料がないから認められないからだ」
と言われたらどう反論するんだ?

それでも「濃姫は信長奥で重要な立場にあった女性だ」と主張する
のであれば、ちゃんとした史料根拠を挙げたうえで論証することが求められる。

ということになるんじゃないのかな?
692人間七七四年:2008/01/31(木) 17:42:17 ID:X2Lx2nyv
>>690 

>>彼女が政治的に(奥ではなく表向きに)武将に指示が
出せるほどの強い立場にあったか

これは丹羽への書状がお鍋の方であるとの仮定に基づいているのだろうが
ざっと読んだ限り、この書状がお鍋であろうと書いている
レスはないようだが?

この書状の話とは違う次元で、お鍋の立場を考察していただけだと思われるが
違うかな?

ここ二日の流でどこかにそんなこと書いてあったか?
693人間七七四年:2008/01/31(木) 17:55:29 ID:X2Lx2nyv
>>690 
>>信長政権のもとで重用されていたというのなら、なぜ
小倉鍋は信長からそれなりの知行を拝領していないんですか?

側室は奥での賄い金で生活していたのが通常。
大名家の分限帳をみても一般的にはないのが当たり前だが、
上臈として奥での地位が高い女性には出されていたケースがある。
信雄の分限帳でも恐らく上臈と思われる女性数人にだしてる。
秀吉の元には側室としてあがってないから、生活を保障する
知行を拝領されたのだろうけど、給料制で雇われていた大多数の
女性に比べてはるかに厚遇されていたのは確かだね。

ところで信長分限帳がないので確認できないのに、
お鍋は知行を拝領していなかったとなぜ断言できるの?
知行を拝領してたかもしれないのに。

信長の分限帳があれば濃姫の確認もできたはず。
どこかで見たの?
694人間七七四年:2008/01/31(木) 18:30:04 ID:yP9v8ZDW
結局、小倉鍋の信長側室時代に関しては史料が少なすぎるので不明ってことだな。
言経卿記の「御なへ」や崇福寺の「なへ」は通説通り小倉氏かもしれないけど
別の女性の可能性もあるので確定できず。
信高生母が小倉氏と思える史料もあるが、そう明記してあるわけではなく
あくまでも傍証としてのものであると。

そろそろ濃姫の新しいネタが欲しいな。
>>689の本に出てくる本能寺後は尾張で暮らしたという説の根拠は何だろう。
695人間七七四年:2008/01/31(木) 18:48:12 ID:yP9v8ZDW
>>667
秀信と鍋を比べてどうするw
信長縁者で秀吉の庇護を受けた者としては同列だけど
織田宗家の跡を継いだ秀信とは立場も責任も影響力も違いすぎるだろ。
鍋が大名並に政治の表舞台で活動し合戦の行方をも左右したのなら
鍋本人も厳しい処分を受けたかもしれないけどね。
696人間七七四年:2008/01/31(木) 18:55:38 ID:ej+WTRN9
もう、お鍋特別説は聞き飽きた。
確定的な史料もないことだし、可能性だけなら誰でもある。別の説頼むわ。
坂氏特別説でも冬姫生母特別説でもいいし。

あと、>>635の話が気になっている。
佐々氏の側室説ってのはどの程度信憑性があるの?
697人間七七四年:2008/01/31(木) 19:51:13 ID:Viwx1xDM
>>649
根拠はなんだったんだろうねぇ。
家系図が出ていて、そこにある濃姫の名前の隣に小さく
「本能寺の変後は尾張で過ごした」とあった。

今まで色々出てきた考察の中で、晩年尾張で過ごしたっていうのあったっけ?
自分が覚えている限りだと、
 ・本能寺前に死亡
 ・本能寺で死亡
 ・信雄に知行を貰っていた(安土殿・御局説)
 ・晩年徳姫と京都で過ごした(織田の未亡人説)

こんなもん?
あとはこれのどれかにくっついて「なへは濃姫説」とか
「京都で出産した御台は濃姫説」とか色々あるかもしれないけど。
698人間七七四年:2008/01/31(木) 19:55:53 ID:X2Lx2nyv
>>695 
お鍋も厳しい処分を受けてるよ。
信吉が西軍についたことで連座して知行召上げにされてるから。
699人間七七四年:2008/02/01(金) 08:29:22 ID:SCxfmUJ9
Wikiがソースで申し訳ないが、
『北政所に仕えて孝蔵主、大谷吉継の母東殿と共に側近の筆頭であったという。
長男甚五郎が1583年加賀松任城主に任じられたという記録もあり、
豊臣政権の奥向きにあって重きをなしたことは確かなようである。』

とあるので、時期からして甚五郎の重用も秀吉のおかげと見るべきだろう。
信長の息子たちを取り込みたいから、という理由でお鍋を重用した
という従来の説は違うんじゃないかな。元主君の息子たちにしては
秀吉政権下でさほど厚遇されているわけじゃないし。
連れ子まで厚遇しているとなると、お鍋そのものを取り込みたいことへの
配慮ということになろう。

ここまで秀吉がお鍋を厚遇する理由に、信長生前にお鍋に何かしらの
とりなしてもらったり、秀吉とのパイプが元々強かったんじゃないか、
とも思われる。顔も知らない、接触がまったくない側室に対して
ここまで厚遇をするのも、いくら器量があったところで不自然だ。
奥の上臈として表の重臣たちとの直接の接触があったんじゃないかと想像できる。
そうなると、織田家の奥も大大名に相応しく、上臈衆による
組織図がある程度できあがっており、正室が表にでる必要が
まったくないほど仕事が細分化され、組織化されていたという
ことになって、信長正室の史料がほとんど見当たらない、というのも
納得ができる。将軍御台所級に仕事がなかったはず。
現段階だと大奥の原型は大阪城からその史料が残されているので、
秀吉が大奥の創始者と思われがちだが、すでに安土にもそのような
ものがあったとしたら、秀吉がそれを模倣をした可能性だってある。

さほど気にとめていなかったお鍋を含め、信長の側室たちへの視点が
変わってきたので、これからの信長周辺の女性達の検証に役立てたい。

それからあらかじめ断っておくが、お鍋や濃姫に関することは既出の史料に
推測を肉付けしているだけだから、肉付け部分の史料をだせ、といわれてもない。
歴史検証は大家でさえ7割が推測なわけだし、それでも構わんと思っているが
納得できん人は自分の意見は「スルー」してくれ。
荒らしたくはないので。
700人間七七四年:2008/02/01(金) 08:41:08 ID:iO691t0J
しかし、確定的な史料もないというのにここ最近は小倉だ、いやそうじゃないと
いう話ばかり。
このスレの住人って生駒とか小倉のことしか興味ないのかねえ。
濃姫の話題になるととたんに過疎るし。

701人間七七四年:2008/02/01(金) 10:14:17 ID:5z2PQDRp
濃姫のことを書き込んでも、すぐにそこから他に話しが行っちゃうからなぁ。

濃姫を信包が庇護したっていう説はどこから出てきたんだろう?
確か清洲と犬山の間くらいに、濃姫が晩年過ごしたと屋敷跡と
民間伝承で伝わる場所があると思うだが(子供の頃の記憶なんで曖昧ですまない)
その関係だろうか?
信包は確か、浅井から戻ってきた市と三姉妹を庇護した説もあったように思うが。
信包はそういう役回りだったのか?
702人間七七四年:2008/02/01(金) 10:32:11 ID:iO691t0J
濃姫は実子の息子がいなかったから、信忠が亡くなった後は
誰かが庇護する役目をしなくちゃいけなかったんだろうし、
濃姫が晩年過ごした屋敷跡が尾張だったとしたら、
濃姫は尾張で亡くなった可能性の方が高くない?
京都で過ごした織田家の後家は濃姫ではないかもよ。
濃姫の葬儀を行なった寺にしても、京都でないかも知れないよね。
703人間七七四年:2008/02/01(金) 10:55:02 ID:smdOCbR9
>>700 確定的な史料がないのは濃姫も一緒だから、それが嫌なら
このスレに参加しないほうがいいよ。濃姫のことだって似たような展開になって
過疎って、別の話題で盛り返して、濃姫で…のループ。
確定的な史料がないからこそ、いろんな推測がでてそれもまた楽しいわけで、
一つの仮説にみなが賛同するわけもないし。

>>701 濃姫を信包が庇護したっていう説は
報春院が濃姫だったとは考えられないか?という仮説が
上の方がでただけで、伝承の類でも、史料上でもお目にかかったことない。

信長生母だ、という伝承を元に報春院が信長生母として
扱われただけなのか、それとも
位牌や過去帳などにきちんと信長生母と断定できるだけの記載があって
それゆえに報春院が信長生母となったのか、がはっきりしてないから。
過去帳や位牌には誰の娘かぐらいの記載があって、出自ぐらい特定
できそうなのに、いまだに報春院は出自も諸説あるから
そこまでふみこんで調査されたことがないのか疑問だな。
総見寺や報春院の菩提のある寺は現存してるし、調査そのものは
簡単だろうに。

信包系統は断絶してるからね。
もし続いていたら落城後のお市と幼い浅井三姉妹の様子なんかも
記したものが残っていたかな、なんて思うと惜しいよ。
704人間七七四年:2008/02/01(金) 11:08:38 ID:iO691t0J
>>703
ループはそうかも知れないけど、でもここは濃姫スレなんだし・・。
濃姫の話題が出す人がいても反応がなくて、すぐ、違う話題になってしまうのはなんだかなって思ったから。



705人間七七四年:2008/02/01(金) 11:22:24 ID:smdOCbR9
>>704 濃姫個人の史料が限られている以上は、ある程度は
関係者の検証からアプローチする、というのも仕方ないと思う。
お鍋や生駒が信長の側室だったことは事実なのだから、
同じ奥で居住した彼女達の冷静な考察をするのも、濃姫の考察において
必用だよ。実際生駒に関して誤った認識をとっぱらわなければ
濃姫の存在が完全に埋もれていたままになってた。
706人間七七四年:2008/02/01(金) 12:57:08 ID:5z2PQDRp
>>702
>京都で過ごした織田家の後家は濃姫ではないかもよ。
京都の織田家の後家は誰だろうな。
犬山殿も同時期に京都に住んでいるんだが、別の場所なんだよな。
近くはあるが、同居と言われるほど近い場所じゃない。
信長生母はもう亡くなっているしな。
江戸期の一般人は後家って名称を、正室と違って、
側室にも使うのは違和感あるんだよな。
一般人向けの観光案内だから、「御愛妾」「御手懸」「気良し」
みたいに書きそうなものだけどな。
707人間七七四年:2008/02/01(金) 13:02:46 ID:5z2PQDRp
途中で送ってしまった。

だから、後家だと正室のような気がするし、
仮に生駒が長生きだったりしたとしても、
織田家後家じゃなく、徳姫の母親だから、
母親とともに住んだと書きそうだし、
やはり可能性としては、犬山殿の屋敷と混同されたりして
犬山殿と間違えているのかなって気がする。
708人間七七四年:2008/02/01(金) 13:16:59 ID:ORGcLd+I
原文を見てないからなんともいえないけど、
岡崎殿の注釈じゃないかと思ったんだけど。
つまり「岡崎殿、織田家の姫で元岡崎城主の後家」という意味で
「岡崎殿、織田家の後家」と表記されたのかなと。

岡崎殿は織田殿と称されてもいいわけで、当時後家と呼ばれる
立場の織田の女性なら大方殿、濃姫、岡崎殿ぐらいでしょ。
岡崎殿と後の二人のどちらかが同居していた、というのが非常に不自然なんだよね。
人質なら織田家の女性一人でいいわけだし。
709人間七七四年:2008/02/01(金) 13:44:38 ID:5z2PQDRp
「北行に岡崎殿と織田家の後家住給し其御やしき今は町人の家となれり」だから
岡崎殿の注釈じゃないと思うよ。
御やしきと書いてあるから、一つの屋敷に共に住んでたって事だろうしな。

それに、別に人質と言っても、岡崎殿は監禁されていた訳じゃないし、
京都の目の届く範囲にいればいいだけだから、京都に住んでいる織田の女性がいれば
その女性も一緒に監視対象だったかは分からないけど、預けておけば
織田家の他の者達に対しても面目もたつし、別におかしくはないと思う。
710人間七七四年:2008/02/01(金) 13:54:34 ID:6iXGMYd/
>>700
「崇福寺へ信長の位牌を預けた文書に出てくるなへは小倉鍋じゃない!
 それは濃姫以外ありえない!なへは濃姫の意向を受けた濃姫侍女」
って話から始まったんでしょう?
鍋が位牌を預けた可能性だってあるでしょう、と。
あまりにも史料がないから、これも濃姫だろう、これも濃姫だろう、
って議論がほとんどだけど、
なんでも濃姫の手柄にするのも、濃姫の実像を見失うよ。
711人間七七四年:2008/02/01(金) 13:58:31 ID:ORGcLd+I
>>709 それが原文なの?当時のものにその後読み下しやすいように
解読したものではなくて?

原文がそうなら、二人いたことになるけど、
そうでなくて解釈した人の判断で助詞を添加した場合だと
解釈がまた異なってくる。
この時代の読み物はネットで出回っているものは現代人が読みいいように
ある程度平仮名を加えてしまっているものが多いので、そう思ったんだけど。
712人間七七四年:2008/02/01(金) 14:09:58 ID:5z2PQDRp
史板の濃姫スレにあったものだから、そこまでは分からん。
近いうち原文を確認してみるよ。
713人間七七四年:2008/02/01(金) 14:36:26 ID:ORGcLd+I
>>710
養華院が信長公寵妾というのが事実なら、
総見院には葬儀の記録、墓、寄進の記録からも、
養華院はお鍋よりもさらに権威のあった女性だったと思われるし、
安土から逃亡する女性達の中に「東、西の局」なんていう
上級上臈(側室?)もいたわけだし、安土城の奥は想像以上の女の園だったかもね。
正室なんて城がでかくなるにつれ、奥の規模もでかくなり、
むしろ全て上臈任せでの〜んびり過ごしていたんじゃないだろうか、と思うけど。
714人間七七四年:2008/02/01(金) 15:04:04 ID:6iXGMYd/
>>713
崇福寺に位牌を置く=織田家で最も力のあった女性の行為、というのではなく、
崇福寺に位牌を置くくらい、側室でもありうると思うのだけど?
織田家の女性たちが結束して、代表者が置いたというのならばいざ知らず。
信長在世中には華やかだった後宮も、信長が死んで織田家が勢力を失えば
上臈たちもばらばらになってしまう。
むしろ、秀吉に庇護されて経済的に豊かだったお鍋なら、置いてもおかしくないけど?
信長の遺物が一緒に収められたのだって、
お気に入りの側室や側女だったら、信長の生前、信長からもらい物をしたり、
信長の私物が側室の部屋においてあってもおかしくないし。
715人間七七四年:2008/02/01(金) 18:02:47 ID:5z2PQDRp
>>714
位牌所だと書いてある書状は、本能寺の4日後だよ。
まだ秀吉庇護下には入っていない時期。
お鍋は、実家の小倉家に戻ってる所を、秀吉が偶然見つけて
信吉の事を哀れに思って母子で引き取ったと文献にはある。
一次史料ではないので、哀れと思ったのが本当かどうかは知らないけど、
書状の時期に経済的に豊かではないだろうな。

信長の遺品だけなら、別に側室でもおかしくないけど、
信忠の遺品までおさめてるからおかしいと言われている。
716人間七七四年:2008/02/01(金) 18:21:57 ID:6ONttRJb
岡崎殿は尾張小折に住んだ後に京にも住んでたんだよね。
晩年過ごしたって言ってもそこにずっと住み続けたとは限らないわけだし
濃姫も尾張にも京にも住んでたのかも。
確か冬姫も京に住んでたはずだけど、織田に戻ってない冬姫は「織田家の後家」ではないし
岡崎殿(織田家の後家)の可能性もあるけど、徳川の時代になってからの岡崎殿は
「織田家の後家」というより「元徳川(松平)の嫁」って印象の方が強そうではある。
717人間七七四年:2008/02/01(金) 18:46:53 ID:9lNrxV7b
>>715 >>お鍋は、実家の小倉家に戻ってる所を、秀吉が偶然見つけて
信吉の事を哀れに思って母子で引き取ったと文献にはある。

どの文献?

地誌だけど手元の史料には、小倉は本能寺の変後、息子と一緒に
小倉の実家に身を寄せていたところを、秀吉が息子を
召し出し、小倉周辺に知行を与え、高野に館を構えた、
とあるよ。これは昨年話題になったあの高野館跡のことだろう。

ただこの地誌だと、秀吉が2万石を与えたとなっているので
信憑性はわからん。しょせん地誌なので。

偶然見つけたとか、哀れに思ったとかって、
すごく創造くさいんだけど、ちなみにどの史料?

お鍋が崇福寺に信長、信忠の遺品を納めたというけど、
それも伝承の類で具体的に何を納めたのかは伝わってないし
二人の供養搭をつくる時にそれを埋めたとか、二人の首級を埋めたとか、
あれこれ伝承されてるだけ。

わかっていることは、信長公愛用と言われている櫓時計は納められているが
誰が持ち込んだかは不明、天正10年6月6日付けで「奈遍」と署名された手紙が
残っているが、位牌所をもうけたのが誰かは不明だし「奈遍」は
側室鍋という通説ではあっても断定には至らず、ってそれだけ。

あの手紙がお鍋だとしても、実際は手柄というほどのことは何もしてない、
という可能性が大だよ。信長の位牌所だから寺に乱暴狼藉がないように
頼みます、程度の手紙を書くことがそんなにお手柄?

「お鍋が位牌所を設置した」という前提での話が一人歩きしすぎ。
718人間七七四年:2008/02/01(金) 19:12:49 ID:5z2PQDRp
そう、お鍋の書状は、上の位牌所だから誰も狼藉を働かないようにというだけ。
だから、位牌所をもうけたという訳じゃない。
だが、6日というと、まだ明智方が信長の遺体を見つけられなくて生存も含めて探している時期。
その時期に、死んだ事を公に認めて位牌所をもうけた権限のある人間がいたということ。
少なくとも、それをできるのは、織田家の親族で、親族間でも位の上のもの。

だが、天正10年12月の丹羽長秀宛の書状では、この「なへ」という人物が
自分で制札を立てるよう命じたとある。
さらに、「親子」の記帳を丹羽長秀に頼んでいる。
「総見院、大雲院」ではなく、単なる「親子」と書いているのも違和感。
また12月までの間に、崇福寺に出された禁制は6/4の斎藤利堯と12/21の信孝しか分かっていない。
12月の丹羽への書状は、信孝討伐に向かう丹羽に、近くだからついでに記帳していってくれってもので
その当の信孝に命じて禁制を出させたとは思えないので、斎藤利堯の禁制が有力。
4日にすでに位牌所だからと禁制を出すのを命じれる側室にも疑問。
残っていない、禁制や制札があったのかもしれないがな。
719人間七七四年:2008/02/01(金) 19:37:53 ID:5z2PQDRp
>>718
>「総見院、大雲院」ではなく

すまん、この時期はまだ、「天徳院、」だった。
720人間七七四年:2008/02/01(金) 20:29:52 ID:LoB0+Odj
>>718 
>>6日というと、まだ明智方が信長の遺体を見つけられなくて
生存も含めて探している時期。

「家忠日記」によると変の翌日には本能寺の変の知らせが入り、
4日には岡崎と緒川から光秀の陰謀により親子が討たれた
のは事実であり、家康はその時境にいる云々と連絡が入ってる。
家康の家臣にその時点でそう伝わっているということは、変の翌日には
すでに織田家で公にそれを認めたんだろ。
なので4日に禁制がだされていても何の不思議もない。
すでに近隣諸侯には知れ渡っていた事実なのだから。

それから親子の死を公に認め、位牌所の設置をしたのは織田家の女性ではなく、
信雄などの後継者を狙う息子の仕事であったという解釈もなりたつ。
信雄は5日には光秀追討の要請を家康にしている、つまり
親や兄の敵討ちという名目もあるが、織田宗家の後継者をめぐって信雄も
迅速に動いていたという側面もあるので、信長たちの位牌所の設置などの
指示をだしたということも当然ありえる話。

丹羽への手紙も崇福寺は親子の忌中なので、戦になっても人が入らないように
くれぐれも頼みます、という内容。制札をたてさせたとはあるが
禁制を命じたとは書いてない。

そもそも禁制は禁じる行為を書き示した命令書。
制札は禁制などを箇条書きに記して、寺社の境内などに立てた木札のこと。
中世の制札はすべての制札が実際に掲示されていたわけではなく、
必要に応じて見せるのみで、普段は室内のしかるべき場所に保管されていた
場合もかなりあった。

崇福寺の周辺が戦下になったことでなへが寺に念押しして
大門に制札の掲示を働きかけたってことだろ。
721人間七七四年:2008/02/01(金) 21:11:08 ID:6ONttRJb
秀吉が信長は無事逃げ延びたというような流言を流し
疑心暗鬼になった諸侯が様子見するように仕向けて
大返しに成功したような話を聞くけど、あれは物語?
722人間七七四年:2008/02/01(金) 21:28:20 ID:LoB0+Odj
>>721 本当。

秀吉は6月5日付の書状で茨木城主中川清秀に信長・信忠父子が無事であるとの
偽の返信をして、清秀が光秀方に付かないように策略した。
中川は秀吉の味方になることを約束して11日には秀吉軍と中川は合流し、
山崎の合戦に参加してる。

この手紙は原本が残ってるはずだよ。
723人間七七四年:2008/02/01(金) 21:30:26 ID:LoB0+Odj
書き忘れたが、>>721の話はこの偽手紙の話を元にした
小説上の創作話だろうから、正確には【嘘】になるのかなw
724人間七七四年:2008/02/01(金) 21:41:15 ID:5z2PQDRp
丹羽への書状は
「いらしたとき申し上げた事、よろしくお願いします。
こちらへ来てくれたのは、嬉しく思いました。
長良に陣取りするとの事、近くなので崇福寺のお寺で親子の記帳をして下さい。
寺、大門に、私が命じて制札を立てさせました。
人が入らないよう、あなたも命じて下さい」
と言う内容では?

禁制と制札の関係は分かっていますよ。
だからこそ、禁制の内容を制札にしている訳で、
禁制を知っている前提になります。
書状によれば、崇福寺の近くに住んでいる訳ではなく
どこか別の場所にいて、先に丹羽長秀が訪ねていて
その時に「なへ」が何かを頼んだ事があるというのが分かります。
725信長:2008/02/01(金) 23:10:09 ID:qcS1nUHl
濃姫の斎藤家は俺は倒したぞ
726人間七七四年:2008/02/01(金) 23:16:32 ID:LoB0+Odj
「崇福寺では親子の忌中(忌中法要)をさせました」だよ。

死後すぐに位牌所を設置したから、法要はワンセット。

親子の位牌所だし、忌中法要もしてもらった寺だから、
私が制札も立てさせたけど、近くで陣取っている貴方からも
くれぐれも崇福寺には狼藉者が入らないように申し付けてくださいませ、

と重ね重ね長秀にお願いしてるの。

なへはものすごく信長に忠誠心があるけなげな女性だが、信孝にはないらしい。
信孝追討にきた長秀に「こちらにきたのをうれしく思います」と書いているし。
727人間七七四年:2008/02/02(土) 00:22:19 ID:M1SAxfeW
>>726
それを考えると一体どういう立場の人間なんだろうって
すごく不思議だよね。

まぁ信孝への忠誠がないってよりも、
「自分が忠義を尽くしている信長→
彼の死後も忘れず挨拶をしにきてくれた丹羽→
なへ、とっても嬉しく思います^−^
みたいな流れだろうとは思うけど、その丹羽がきた背景見りゃ
自分が敬愛する主(または夫)の息子を討ちに来たってんだから・・・なんとも複雑。
その辺は一切スルーして、とりあえず挨拶にきたこと自体を喜んでいる感じなのかねぇ
728人間七七四年:2008/02/02(土) 00:39:20 ID:vvW//qqs
>>726
ってことはなへは信雄関係者の誰かなんかな?
信孝を討ちにきているのに、うれしく思うってのもね・・
その辺り、親族だとすると不思議だけど。
729人間七七四年:2008/02/02(土) 02:01:52 ID:Aq3paST2
信長だけじゃなく信忠と親子セットで考えてるようだし
不思議と信忠には思い入れがありそうなんだよな。
本能寺の変の後は安土からも早々に逃げ出す者も多かったみたいで
なへにしてもその事態の急変ぶりにショックを受けてただろう。
そんな中でわざわざ訪ねてきた丹羽が信長への忠義を忘れてない様子で
なへ、とっても嬉しく思います^−^ な気持ちになったとかかな。
一体どんな話をしたんだろう。
丹羽に対して嫌な感情は持ってなさそうだけど。
730人間七七四年:2008/02/02(土) 09:59:40 ID:/41Bf1yd
あの頃は三法師を人質に岐阜に立てこもっていた頃だし、
信長親族ならかなり緊張していてなきゃおかしい。
戦によって三法師がどうなるかも、信孝がどうなるかもわからず
織田家の行く末がどうなるかもわからなかった。

なへは崇福寺を保護することに熱心だけど、織田家内の親族同士の
争いからはどこか圏外の様子が見て取れる。
そのあたりからも信長親族というのは考え難い。

岐阜の崇福寺の保護を熱心に訴えているとことろをみると、
なへは岐阜城主だった信忠の上臈衆の誰かかもな。

信長の遺品の時計は信忠が信長から賜ったものだったのかもしれないし、
血天井は秀信に縁のものだし、崇福寺には信忠の依頼を受けて久庵の
位牌所も設置してるし、信長というより信忠縁の寺という印象が強いから。
731人間七七四年:2008/02/02(土) 10:49:20 ID:zhPAf0dZ
12月の時点で岐阜近辺にいた女性という事を考えても、やはり信忠関係者か
信忠の生母くらいなら納得がいきそうな文章だな。
信忠生母はないとすると、信忠乳母で信長の側室になった慈徳院辺りだとちょうどいいんだが。
732人間七七四年:2008/02/02(土) 10:55:39 ID:zhPAf0dZ
気になるのは、本当に、上だとか親子だとかは信長を指しているのか?ってことだよな。
崇福寺は、織田家の岐阜での菩提寺となってるけど、元々稲葉家の菩提寺の方が色濃い時代だろ?
織田家の関係者で、信長の遺品をおさめたりできる人物ではあるが、
書状と同時におさめたかどうかはっきりはしないし、
書状の対象者が信長とは限らないってこともあり得る。
稲葉氏は信長の側室の中にもいたようだし。
敬称の使い方を見ていても、本当に信長の事なのか?と思わなくもない。
733人間七七四年:2008/02/02(土) 14:17:23 ID:Aq3paST2
例えば、丹羽が会いに来た時に信孝を討つような状況になったことを
信長に申し訳ないとしきりに詫びていたとしたら
その後の手紙でまで信孝の件について非難するような事は書かないよな。
丹羽に対する慰めとして、こんな状況にはなってしまったけど
久しぶりに丹羽に会えたのは嬉しかったという文を付けたのかも。
いらしたとき申し上げて丹羽に頼んだことが、信孝に関することや
三法師の今後への協力依頼だったかもしれないし
あの手紙の内容だけじゃ織田家圏外の立場とも言い切れないんじゃ。
734人間七七四年:2008/02/02(土) 14:50:10 ID:Aq3paST2
いらしたとき申し上げた事、よろしくお願いします。 ←主文
こちらへ来てくれたのは、嬉しく思いました。 ←丹羽への労い
長良に陣取りするとの事、近くなので崇福寺のお寺で親子の記帳をして下さい。 ←追伸
じゃないかと思うんだよね。
長良に陣取りするのなら近いからとわざわざ書いてるんだったら
1行目でよろしくお願いしますと頼んでるのは崇福寺の件じゃないだろう。
735人間七七四年:2008/02/02(土) 19:03:04 ID:7kF5LckW
>>732
疑問はもっともだと思うが、一点。
「上」が信長でないとしたら、一体誰になるんだ?となる。
「上」というのは単に主君に対するものではなく、天下人・公権力の執行者を指す。
信長が「上」と呼ばれるようになるのは、義昭を追放して足利幕府に替わる武家
政権の執行者となってから。
織田家関係者で信長以外を「上」を呼ぶなんて有り得ないと思うんだが。
736人間七七四年:2008/02/03(日) 11:43:21 ID:TwaD2nRv
阿弥陀寺みたいに信長に縁が強い寺は自主的に位牌所をもうけた寺も多そう。
あそこまで権力のあった人物なら必ずしも親族の依頼を受けて
位牌所ができるとは限らないと思う。

なへが信長の親族である必要はないんじゃないの?
丹羽への書状を見る限り、崇福寺への保護がメインではあるけど
信長の菩提を供養する大寺院はあちこち複数あったわけだし、
すでに禁制のしかれた寺に対して親族がそこまで熱心に
崇福寺の保護を訴えるのもちょっと不自然。
信孝だって保護を認める判物を崇福寺にだしてくれてるわけだし。
信長の女性親族があの時期美濃にいたとは思えないし、京都で
秀吉に引き渡された、という史料があるから京都あたりにいた可能性が高い。
美濃に三法師に付随している織田家の親族なんていただろうか?
三法師生母の信忠側室や若君を養育する上臈衆は親族ではないし。
あの手紙からなへが美濃にいたことは推測できるので、
三法師の上臈衆の誰かか、信孝が新城主になった後に岐阜城を去り、
美濃国内に居住していた信忠の元上臈衆の誰かとかじゃないかな。
737人間七七四年:2008/02/03(日) 14:02:08 ID:fjA7sJq6
それから、丹羽長秀嫡子の長重は信長の姫を本能寺の変後正室に迎えているから
長重室の生母が「なへ」、ということも可能性としてはゼロではないかもね。
長重室は岐阜で生まれているから、生母は美濃出身の女性で
本能寺の変後美濃の実家筋にでも見を寄せていたとかも考えられるかな。
輿入れの件が手紙の冒頭のことで「姫のことをくれぐれも頼みます」という
意味だったかも。たぶん12月はすでに報恩院は輿入れしてたんじゃなかった?
738人間七七四年:2008/02/03(日) 14:18:50 ID:l2iYJZ+m
なへが美濃にいたとは限らないんじゃないか。
こちら=美濃ではなく、自分の住んでいる場所とも考えられるし。
丹羽がなへを訪れたのがいつなのかも文面だけでは不明だ。
会った時は長良に陣取るとはわからなくて、しばらく後にそれがわかったので
それなら戦場に近い崇福寺に狼藉者が入らないように丹羽に頼もうと
あの手紙を書いたのかもしれないしな。
とりあえず、岐阜に土地勘があり長良と崇福寺が近いと知ってて
自分が制札も立てさせたと重臣の丹羽に書ける女性ってことしかわからない。
739人間七七四年:2008/02/04(月) 09:23:37 ID:HHZVcB5/
でも崇福寺に真っ先にあれこれ指示をだしたということは
なへは美濃にいたんじゃないの?

6月6日の段階なら、信長親族や安土の上臈衆たちは日野城に非難してるし、
信長とさほど縁が深いというわけでもない遠く離れた寺の保護に
気をかける余裕などあったかどうか。
740人間七七四年:2008/02/04(月) 09:44:43 ID:E+sqwtu4
そうなると、6月の時点で安土にいた人物達ではなく、
美濃にいた織田家中での上位の人物の
可能性の方が高いのか?
12月に美濃にいないのはともかくとして、
6月に美濃にいないと不自然だというなら、
正室でも小倉でもないのかも。

自分の持っている史料でも「きちう」は「記帳」と注釈がついていた。
741人間七七四年:2008/02/04(月) 09:44:54 ID:wx7GECBm
安藤が暴れだしたりして、近江美濃のあたりも安閑とはしていられない状況だからなあ。
たしかに、安土にいたというより最初から岐阜にいた、信忠関係者と見るほうがいいのかも?
742人間七七四年:2008/02/04(月) 11:40:59 ID:h9mFmV0t
>>740 原文だと「おや子の『きちう』をさせ申候」
となっているから、記帳という解釈なら
「その近くの崇福寺にて記帳所を設置させるように言いました」という訳になる。
「申す」は「言う」の丁寧語、もしくは目上相手に「言う」時の謙譲語だから
この場合「自分(なへ)が〜と言いました」となる。

長秀に記帳をしてもらいたいというなら、
「きちうを御させ候べく候」あたりになるだろうな。

だれかの指摘のあった通りに「おや子きちうをさせ申候」は文脈から
「親子の忌中法要を(崇福寺に)するように言いました」と訳になると思うけど?
その方が意味が通じるし、だいたい合戦前に墓参りしろだのと
誘うのは、当時の武士の穢れ思想からもとても違和感を感じる。
743人間七七四年:2008/02/04(月) 11:49:52 ID:E+sqwtu4
忌中法要は七七日忌までの事なので、要するに四十九日まで。
12月の時点でわざわざ書くには日が開きすぎているという事で、
記帳所を設置させたという解釈をしているのかもな。

自分が見た史料は2種類あって、どちらも原文が載っているが
訳文は載っていない。
「きちう(記帳)」と書いてある物と、
きちうに印がついていて欄外に「*は記帳の事」と書いてある物。
「きちう(記帳)」は岐阜県史。
欄外の方は、コピーなので書籍名不明。
744人間七七四年:2008/02/04(月) 12:09:55 ID:h9mFmV0t
>>743 それから記帳というのも意味不明なんだけど、
当時からそんな制度あったのかな?
現代だと有名人の墓参りの時に遺族が礼状を書く都合で
もうけている場合や、皇族などの葬儀で一般人が葬儀に
参加できない場合なんかは記帳所があるけど。

ただ記帳所をもうけるように指示したとしても、
丹羽に記帳してほしい、と言っているわけではないから
なへの意図はひたすら崇福寺の保護を願っての手紙。
崇福寺の信長親子の菩提はどんなことをしても守りたい、
というけなげさは伝わってくるよ。
745人間七七四年:2008/02/04(月) 20:21:53 ID:pJn8lg/t
6月の時点で岐阜にいたと思われる信長親族といえば岡崎殿だよな。
彼女は一体どうしてたんだ。
なへが丹羽に手紙を書いたのは丹羽が長良に陣取ると知ったからだろうけど
そういうことって誰でも知ってることなんだろうか。
「いらしたとき申し上げた事」って何だかもったいぶった言い方だけど
輿入れした姫のことなら、そのまま「姫の事よろしくお願いします」で不都合ないよね。
手紙にはっきり書くのが憚られるようなことだったようにも思える。
746人間七七四年:2008/02/05(火) 09:48:33 ID:qLKNrx0u
誰か丹羽へのなへからの手紙の原文を誰か載せてください。
「記帳して欲しい」なんていう話が訳違いだとしたら
もっと別の箇所も解釈違いがあるのかもしれない。
747信長:2008/02/06(水) 09:20:53 ID:scTkiFqD
ある種斎藤家は悪魔の僕だよ
不吉な連中ども
コキュートスがお似合いだよ
ダンテもお前らのこと嫌ってたぞ
748信長:2008/02/06(水) 09:23:26 ID:scTkiFqD
ポルキウス氏族カトー家は悪魔の僕だと
ダンテが言ってたぞ
お前らも同じだ
749信長:2008/02/06(水) 09:27:51 ID:scTkiFqD
カトー=斎藤道三 義龍
セルウィリア=濃姫
ブルートゥス=光秀
悪魔の系譜
750人間七七四年:2008/02/07(木) 09:49:20 ID:fHW96t9I
結局お鍋の方のことも歪んだ見方をしすぎたってことだな。
手紙を正確に解釈もせず、伝承をそのまま信じた思い込みだけで
お鍋の方の実像を完全に見失っていたみたいだ。

総見院に墓をつくることを許された二人の側室のうちの一人だけど、
養華院と供養搭が差別化されているあたりで、不遇な晩年のせいなのか、
秀吉政権下でのポジションの差なのか、あるいは信長生前中のポジションの差
なのか、まだまだ検証の余地のある女性だ。

安土城の奥は逃避する様子を記した史料から北は正室としても、
東西南それぞれ局の長の女性がいたようだし、
晩年はお鍋の方しか注目されてないけど、奥で権勢を持った側室は
他にいたんじゃないかな。
751人間七七四年:2008/02/07(木) 11:26:56 ID:GJ3AXDqe
だけど、側室だとしたら養華院って一体誰なんだろうね。
立派な供養塔を作ってもらっているし、それほど権威のある側室だったんだろうか。
お鍋も総見院に墓を許されたといっても、江戸中期に孫に当たる人が総見院へ
墓を他から移したそうだし、その時期は信長の子孫といってもとても立派な墓を建てるだけの財力がなかった
ってことなんだろうな。お鍋の墓も総見院に移されるまでは何処にあったかも不明だそうだし。
となると、お鍋の墓も子孫の人が総見院に移さなかったら今頃知られていなかったかもね。
きちっと墓などを守っていく子孫がいたっていうのは大きいね。
養華院は子孫が絶えちゃった人物なんだろうか。
752人間七七四年:2008/02/07(木) 11:31:58 ID:Rltgovw6
養華院は、総見院に養華院って寮舎を寄贈しているから
寄進した寮舎からつけられた法名だし、
生前は相当な財力があったんだろう。
だから、総見院では養華院だが、実際に葬られた寺では他の法名だろ。
753人間七七四年:2008/02/07(木) 11:39:11 ID:MLw+I5ib
>>752 養華院は葬儀記録が総見院に残っているから
総見院の菩提に遺骨も埋葬されてるはず。
754人間七七四年:2008/02/07(木) 11:44:47 ID:Rltgovw6
その葬儀記録が、通常の葬儀記録に比べて不可解。
出席したとされる寺側の顔ぶれの豪華な事この上ないのに、
織田家関係者の名前無し。
住職達の言葉もなし。

単に、総見院でおこなうとしたらこうするという計画書に見えてしまう。
または、本来あったものが紛失したとか消失したとかで、
後々作り直したので具体的内容に欠けているのか。
755人間七七四年:2008/02/07(木) 12:30:30 ID:MLw+I5ib
>>754 でも側室であったのなら、織田家関係者が葬儀に
列席する必要もないんじゃない?
子供はでたろうけど、子供はいなかったようだし。

計画書なんて書いて残す必要もないし、計画でしかなかったといっても
現にあそこに供養等が建立されているから矛盾してる。

なんでそこまで葬儀記録に疑問を持つのか不思議なんだけど、
他者の総見院の葬儀記録にも事実と異なる記載があったとかなの?
養華院が信長の寵妾で、化粧料などのそれなりの私財を持っていて、
総見院にも寄進をした関係で寺からも丁重に扱われていた、
ってだけのように思うけど。総見寺には御台として伝わったそうだけど
総見寺には位牌も設置してないし、葬儀を取り仕切った総見院の
史料の方が信憑性が高いだろうね。
756人間七七四年:2008/02/07(木) 12:35:29 ID:Rltgovw6
>>755
葬儀記録読んでみるといいよ。
757人間七七四年:2008/02/07(木) 12:50:58 ID:GJ3AXDqe
>>755
でも、織田家関係者どころか親族も誰も出ない葬儀なんてありえるの?
そのくせ総見院きっての高僧ばかりが取り仕切っているってのが不思議だし。
よほどの人物じゃないとここまでしてくれないんじゃないのかな。
この養華院は子供がいたかどうかもわかっていないけど、でも信長となんらかの関係があった
人物だろうけど、なんで御台と混同されたのかも謎。
しかも、秀吉政権でも実家が裕福だったのか知らないけど、かなりの財力が
あったそうだし、そのくせ何処の誰かもわかっていないってのもね。
とにかく、養華院に関してはわからない事だらけ。
758人間七七四年:2008/02/07(木) 13:46:25 ID:SKZDLvIQ
親族が誰もでていないとかってなんの史料に載ってるの?
葬儀に参列した人の名簿なんて残ってるもの?
施主が大徳寺の僧侶なら、その僧侶と養華院が親族関係にでも
あったんじゃないのかな。当時の僧侶は出自が武家の次男、三男なんかも
かなり多かったし、養華院は武家の娘である可能性は高いだろうから。

養華院が、信長、秀吉、秀頼の元でしたたかに生きた女、
なんていう歴史小説でもあったら面白いかも。
本能寺の変の黒幕が養華院だったとかね。
759人間七七四年:2008/02/07(木) 14:37:17 ID:Rltgovw6
だから葬儀記録だよ。
葬儀の席順のなど見ると、寺関係者以外がまったく記載されていない。
親族席すら記載無し。
寺関係者は末端の小僧辺りまで、名前は書かれてないけど、席などが書かれているけどね。
それに、死後何十年もたってから、寮舎養華院に対して織田各家で寄進をしているにも関わらず、
織田関係者も親族も記載されていない葬儀記録は、不可解だと思う。
それに、住職が葬儀でどんな事を話したかなどが葬儀記録などでは書かれる。
というかそれがメインみたいなものなんだ。
例えば三条夫人なども、葬儀記録の僧の話しなどがあるから、あれだけヲタが揉めたりする訳。
だから、あとで作り直したか、まだ親族の誰が出席するかなんて分かってない時点の
あらかじめの計画書なのかって感じなんだよ。
個人的には、焼失したなどであとから作り直したんじゃないかと思っている。
寮舎の養華院そのものが焼けたという説もあるらしいしな。
760人間七七四年:2008/02/07(木) 15:55:31 ID:kJLBHk9O
>>759 計画書ならそれならそれでかまわんのでは?
どっちみち側室であった、ということを
否定するもんでもないし。

正室など、織田家関係者の有力女性なら、葬儀記録以外からも
墓の主を特定できるものは残ってるはずだしな。

761人間七七四年:2008/02/07(木) 16:10:13 ID:GJ3AXDqe
養華院が側室であったかどうかも、葬儀の記録も出自を示すものも残っていないのでは
わからないよね。誰であったかの特定すら難しいし。
あと、何で御台と間違われたのかもよくわからないし。
計画書だけでも、かまわんというけど何で計画書しか残ってないのかも不思議だしね。
計画だけで葬儀は行なわなかったってこと?
実際の葬儀を本当に行なったのなら、記録はあるはずなんだけどね。
あるいは葬儀記録は紛失したのか、焼失したのかわからないけど、計画書だけが焼けずに
残ってしまったって可能性もあるのかな。
762人間七七四年:2008/02/07(木) 18:51:17 ID:1I10+Yks
養華院は火事で焼けて、その後も再建されなかったらしいよな。
前田家の芳春院は火事で焼けた後でも再建されたのに。
当時の財力の差か?
763人間七七四年:2008/02/08(金) 11:20:50 ID:axwJBRul
>>762 芳春院は前田利家正室というだけではなく、
前田家が徳川時代も生き残ることに貢献した前田家の象徴
みたいな女性だから、前田家の威信に関わることだし再建するよ。
先祖の菩提を立派に維持していくことも、家格の高さを
示す行為じゃないだろうか。でも石高の少ない織田庶家にとっては総見院の
菩提を維持するのが精一杯だったろうから、再建は断念せざるを得なかった
というところじゃないかな。

ところで養華院の出自が謎というけど、信長生母も墓や位牌があるにも
関わらず出自は諸説あって特定できてないから、
当時の女性では出自が不詳なのも、珍しくないのかなと思ってたけど。
加賀に永姫生母と言われる信長側室の供養搭があるけど
その女性も出自が特定されてないわけでしょ?
墓も位牌も残ってるのに。
764人間七七四年:2008/02/08(金) 12:23:08 ID:b8XI4zFg
墓や位牌がきちっと残っているなら、ある程度は特定できるんじゃないの。
信長生母の位牌とかきちんと調べた人いないみたいだし、
何と書かれているのか興味あるけどね。他家の記録では小嶋日向守信房息女や
佐々木六角高頼息女だと書かれているし、諸説出ているけど。
永姫生母に関しては、前田家の史料で「生駒氏」となっているそうだし、
でも信雄生母と同一人物なのかは謎。
永姫生母も墓や位牌が金沢にあったと伝わっていると聞いているけど現在もあるの?
あるなら調べればある程度特定できそうなものだけどね。

養華院に関しては、この二人と違ってまるで何も残ってないから。
記録さえ、「信長寵妾」しかない。葬儀記録も不完全なものしかない。
せめてきちんと葬儀記録さえ残ったなら、施主や喪主などから出自の推測はできそうなものだけど、
それすら全くできないし。総見院に養華院寮舎を建てるほどの人物で、
総見院の高僧達が取り仕切るほどの人物なのに、どこにも出自を示すものが
残されていないというのは不思議だと思うね。
765人間七七四年:2008/02/08(金) 13:35:52 ID:1WRidBjr
>>763
>加賀に永姫生母と言われる信長側室の供養搭があるけど

福井の瑞龍寺の石廟の事?
あれは、元々濃姫の石廟と寺伝では伝わっていた。
福井県史を編纂した人が、信長夫人なら側室でも夫人だ、
前田家の菩提寺だから、永姫生母に違いないと言い出しただけ。
寺の記録には正覚院となっているから信長息女の万里小路充房室と
混同されている可能性もあるが、石廟の並びからすると息女ではなく、
正室でなくてはおかしい。
利長、利家、信長、信長夫人、信忠
信長が中心の上座で、左右に下座が流れている。
信忠より上位に来る側室というのも疑問。
仮に信忠生母であったとしても、信長、信忠、生母の3人だけならともかく
利家や利長も一緒だからな。
また、前田家の記録によると永姫生母の没年は元和4年。
しかし、石廟が建立されたのは慶長18年と測量により推測されている。
永姫生母といわれ出した時には、分かっていなかったけど。

>>764
永姫は母氏の旧跡追崇のために、金沢久昌寺を建立しているから
永姫生母は生駒氏だろうが、信雄と同腹かどうかは分からないね。
生母の追崇ではなく、母氏だから、信雄生母と近しい親戚って感じではないかな。
輿入れする時に、生母方の生駒の武将がたくさん付き従っていっただろうから、
生駒の菩提寺を金沢に作ったんだろうな。
766人間七七四年:2008/02/08(金) 13:41:23 ID:1WRidBjr
>>764
>永姫生母も墓や位牌が金沢にあったと伝わっていると聞いているけど現在もあるの?
今はない。
墓も位牌も不明になっているそうだ。
でも、生母とは思えないけどね。
永姫は母氏の追崇ために金沢久昌寺を建立しているのに、
永姫生母の墓や位牌があったとされるのは別の寺。
767人間七七四年:2008/02/08(金) 13:44:05 ID:1ZtssflU
>>764

信長生母の位牌や墓を誰も調査していないとは考えられないので、
特定できるような出自が書いていないのだと思う。

ねねも出自は諸説あって、木下氏、杉原氏、浅野氏、ある。
あれだけ史料を多く残した彼女でさえ出自の確定不可能ということになる。

位牌には女性の場合は、出自を示すことが書かれている場合もあるけど
○○室、○○に住んでいた、としか書いてないことだってある。
生まれた年すら書いてないことも多い。
子供の名前をずらずら書いてある生駒みたいに
いちいち全員の子供の名前を書くケースはむしろ稀。
正室なら嫡子だけで後省略、側室なら生母を庇護して
葬儀や法要の責任者となった実子だけとか。

あくまで自分が見た範囲での位牌の裏書の話だけどね。
768人間七七四年:2008/02/08(金) 14:10:16 ID:1ZtssflU
>>765

永姫が生前中生母が亡くなったのなら、永姫へ配慮し
信長の供養搭の横に側室の供養搭を建立したとしても
何にも不思議なことはないぞ。

別の史料もあるから永姫生母の終焉の地が加賀なのだろうから
それならなおさら。

織田家主導の供養搭ではなく、前田家主導で建立した供養搭だしな。
そこまで厳格に正室がどうのこうのとはこだわる必要もない。

第一瑞龍寺の信長公夫人が正室なら、リアルタイムに正室と関わった
織田家関係者が生きていた頃。肝心の織田家で
葬儀もせず、位牌を縁の寺におさめることもしてないのに、
家臣筋の前田家だけが供養搭を建てたというのは、ありえんだろうに。
769人間七七四年:2008/02/08(金) 14:39:58 ID:1WRidBjr
前田家主導で織田家を中心にした石廟を建てた理由は、
単なる供養のためと考えるよりも、関ヶ原後、大阪冬の陣へ至るまでの期間で
豊臣より織田を重視する事で、徳川との軋轢を避けるためのアピールと考えられるんだがな。
永姫が前田家で重要視されたのも同じ理由だ。
前田は豊臣とも繋がりが深いし、豪姫などの存在もあるから、ことさら目に見える形で
豊臣べったりではなく、同じ織田の家臣同士だからというのを見せる必要があった。
その際側室なんて、出番はないと思うがな。
770人間七七四年:2008/02/08(金) 14:41:41 ID:1ZtssflU
それから
>>信忠より上位に来る側室というのも疑問。

とあるが、この場合上座下座よりも、信長夫人とされている女性の墓が
小さいことに注目すべき。

武将の夫婦の墓をずいぶんみたが、隣接してつくる場合は
墓石にここまで顕著な差をつけることはないよ。
正室なら同じ大きさの石廟を建立していたろう。
多くの大名家では正室は当主と同等クラスの立派な葬儀をし墓石を建てる。

側室ゆえに小さく、遠慮がちに建立されているのだと思う。
側室だと本来世継ぎ生母であっても家の菩提の中への埋葬も許されない
家があるぐらいだ。永姫生母なので信長の横に建てたが、
側室ゆえにそのような差別化をされたと思う。

一目でそれとわかるので、信忠と信長の間に入ってもなんの問題もない。
771人間七七四年:2008/02/08(金) 14:44:10 ID:1ZtssflU
>>769 それと正室説とのリンクがまったくわからん。
墓の主が永姫生母であっても効果は一緒だろうに。

信長と正室夫妻を崇めないと徳川からにらまれる理由でもあるの?

772人間七七四年:2008/02/08(金) 16:50:04 ID:b8XI4zFg
前田家の記録には、正覚院と永姫生母とは別人だとされているね。
命日が違うから。
永姫生母だとされる人物の没年は元和4年となってるから。
前田家の史料が正しいとするなら、正覚院は永姫生母ではないね。
773人間七七四年:2008/02/08(金) 18:22:49 ID:/h1k93pF
前田家の記録、永姫が金沢久昌寺を建立してることとかから
永姫生母が生駒氏であることは確かなんだろう。
でも、瑞龍寺でも正覚院が永姫生母であるとは伝わっていなかったらしいこと
正覚院と永姫生母とされる人物の没年が違うこと、わざわざ金沢久昌寺を建立したのなら
生母の供養はそちらでする方が自然なのでは?という疑問もあったりで
今の時点では正覚院が永姫生母であるかどうかは確定できないって感じか。
774人間七七四年:2008/02/08(金) 19:39:03 ID:1ZtssflU
瑞龍寺の過去帳には正覚院が玉泉院の母儀と書いてあるから
永姫の生母だよ。信長の正室ならそういう書き方をせずに
信長正室、と書いてあるさ。
775人間七七四年:2008/02/09(土) 01:59:14 ID:wr/AdWIv
「母」っていうのはある意味微妙な表現だからな
776人間七七四年:2008/02/09(土) 09:51:31 ID:H405mB9r
過去帳は故人を特定するために書いたものだから、母儀とあったら生母をさすよ。
でなきゃ過去帳の意味をなさない。
777人間七七四年:2008/02/09(土) 12:30:49 ID:l134C9Le
じゃあ、なんで前田家では永姫生母の没年は元和4年ってなってんの?
正覚院と同じでないとおかしいのにね。
778人間七七四年:2008/02/09(土) 15:27:12 ID:RM5X8J3g
>>777 前田家ではというんじゃなくて、永姫生母を埋葬したという
鶴林寺でそういう寺伝になっていたんだよ。
ただ移転したせいなのか、その後墓も位牌も確認できない。
加賀藩の「本藩歴譜」には永姫生母を生駒氏と記載しているだけ。

金沢久昌寺が母方の旧蹟を追崇したいという由来で建立したというけど、
金沢久昌寺が津田氏の菩提寺となっていた点、開祖の織田家の血筋をひく
明巌も津田氏だった可能性があることから、もしかしたら永姫生母は津田氏
じゃないかな、なんて思うんだけど。

加賀藩には津田氏一族が多く仕官してるし、
信房の子供の勝良も津田姓になっていたというしね。
永姫は生駒というより津田との縁が強そう。
779人間七七四年:2008/02/11(月) 12:51:22 ID:QrFDl3pH
金沢久昌寺には永姫の生母の墓がないんでしょ?
それだと寺の縁起と矛盾してるよね。建立の目的が縁起通りなら
生母こそまっさきに埋葬するだろうに。

ちょっと調べたら明厳は初代ではなく2代目だって。
明厳の師である宝円寺四代量山繁応という僧侶が初代らしい。
永姫の引きで創建は明厳だけど、初代には自分のお師匠を招いたんだろうね。
780人間七七四年:2008/02/12(火) 19:22:12 ID:Pl8X0QjY
どえらい亀だが、「信長公妾御ナへ」の件だが、
「御」は敬称の「御」と解釈すれば、敬意がこめられた表記となる。
淀殿のことも「御茶茶」と書かれた史料だかをみたことがある。

それから、同時代の日記史料だとたまたま家忠日記しか手元になかったのだが
家忠日記だと家康も信康も敬称はない。例えば
「家康浜松より信康御〜の中なをし二被越候、」とある。
〜の部分は原文が痛んで読めない部分なのだけど、文脈から
恐らく「御新造様(五徳)」と解釈されてて、五徳のことは敬称をつけてる。
家忠日記の中では信長のことは「御家門様」とあるし、
家康や信康の敬称は意図的に省いているように思う。
プライベートな日記であっても、そのへんをきちんと使い分けしている
ところをみると、主君に敬称を用いないのが常識だったのかも。
現代も他人と話すときは身内や自社のお偉いさんのことなどにも
敬称をつけないのが普通だし。

つまり崇福寺の書面で「上」とあっても、
敬称がないからといって必ずしも母親や正室など近親者しかあり得ない、
とはならないと思ったんだ。
直臣や信長直属の奥の女性たちなら「上」としても無作法には
ならなかったんじゃないかな。
781人間七七四年:2008/02/13(水) 18:41:30 ID:60DEn2aK
>>780

「御方」宛ての手紙も信長と書いてあるしな。
家の直属の家臣が第三者に手紙を書く場合は当主に
敬称をつけないのが作法だったのかもな。

そう考えると信孝が「上様」と敬称をつけていたところをみると
他家に養子にだしたら息子であっても完全に宗家と切り離されていたって
ことなんだろうな。
782人間七七四年:2008/02/14(木) 07:39:27 ID:ooFqaM4E
濃姫と秀吉が縁を結んでいる以上
秀吉は明智斎藤とも縁を結ぶわけで
秀吉は山崎恨まれてすっ殺されるかも
783人間七七四年:2008/02/14(木) 13:23:48 ID:eUP8NrGG
>>781 養子にだした以上は信雄も信孝も秀勝と一緒。

形式上は父親は北畠家や神戸家の先代になるわけだし、秀勝は秀吉が父。
現代で想像する以上に信長への上下関係は絶対的だったと思う。

784人間七七四年:2008/02/14(木) 15:18:17 ID:z6Br90lv
ということは、信忠以外は息子扱いされていなかったってことなのか。
785人間七七四年:2008/02/14(木) 16:21:46 ID:eUP8NrGG
>>784 嫡子が決定ていたから他家を継いだ息子は
家臣扱いという位置付けだろうな。

もちろん息子ゆえに家臣の中でもダントツで厚遇されていたけど、
信雄は伊勢の要となる北畠を継承したから、織田宗家にとっても
大事なポジションだったというのもあるかな。

信雄は伊賀出陣の失敗を信長から叱責をされているが、
「父への奉公、兄への忠節こそ信雄自身のため」とこんこんと諭されている。
親子、兄弟の絆ではなく、主従の絆を諭しているあたりで
信長と信雄との関係はわかる。

これは信長親子に関わらずどこの大名家でもそうだよ。
嫡子以外は他家に養子にだされたり、寺にやられたりされてたから。

嫡子以外は家の財産の相続権がない時代だから、そうしてあげるのも
嫡子以外の子供のためではあるのだけど。
786人間七七四年:2008/02/14(木) 17:32:39 ID:+Q/417K2
信孝なども、母方が縁者に連なる神戸氏に養子だし、
全く縁も所縁もない所へって訳じゃない。
更にステップアップして三好氏の養子になる予定だった訳だから
養子に行くにしても、何も配慮されていないという訳でもないな。
信雄も信孝も側近に生母方の縁者をつけてあるし。

信孝が三好氏の養子になったあとだったら、席次はどうなってたんだろうな。
馬揃えの順位は信雄、信包、信孝だったが、これは養子先の家格と官位によるものだから
信包が養子に行った長野氏よりは三好氏は上になる筈だし、北畠とはどうだろう?
787人間七七四年:2008/02/14(木) 19:03:46 ID:eUP8NrGG
>>786 三好康長は三好宗家じゃないよ。庶流の一家にすぎない。
三好宗家なら立派な家格だが、康長系三好家ならさほどの家格じゃない。

ただ康長は三好宗家や一門に影響力があった存在なので、四国平定に備え
養子縁組の話がでただけ。康長そのものはとっくに信長に降っていた
わけだし、四国平定というのがなかったら信孝の養子縁組の話もなかったろう。

もっとも四国平定後は信孝を康長の養子にし、その後三好宗家を強引に乗っ取らせ、
結果的に三好宗家の基盤を信孝が継承する、という流になっていったろう
というのは想像できる。
788人間七七四年:2008/02/15(金) 04:07:48 ID:1hqAOxhJ
濃姫は明智光秀もってとっとと消えろ
789人間七七四年:2008/02/15(金) 08:34:11 ID:M96kfZ1c
>>788
先ずお前が消えろ!
気に入らんなら来るなよ。
790人間七七四年:2008/02/17(日) 01:10:05 ID:IiKUODXy
いつも思うことだけど、このスレの内容は
是非とも岡田正人氏に読んで欲しいよ。
791人間七七四年:2008/02/17(日) 12:40:01 ID:d7hC70kS
>>790
何で岡田氏なの?
792人間七七四年:2008/02/18(月) 11:12:18 ID:3/AvQsON
>>785
ただし伊賀攻めの失敗に
「お前がそんな覚悟なら親子の縁を切るぞ」と言っている
ので、親子であることに変わりはないようだ。
それに折檻と言っても所詮紙の上のことに過ぎない。
これが家臣なら改易されていたかも知れない。
信長は信雄を息子扱いしてることが分かる。
793人間七七四年:2008/02/18(月) 15:08:01 ID:MgAxgG9T
>>792 その後二年間は勘当同然で放置されてたけどな、信雄。
794人間七七四年:2008/02/18(月) 19:29:51 ID:MwLvgjI3
失敗の2年後には信雄に滝川・丹羽を添えて再度
伊賀攻めをして今度は成功させている。
なんだかんだ言ってもやはり信長は親バカだよ。
795人間七七四年:2008/02/18(月) 20:05:09 ID:u919jZC1
信忠も折檻とまでは言わないが、譴責というか謹慎処分はくらってんだよな。
理由が「能にはまりすぎ」だっけか。
戦国大名の親子関係としてはなんというかほほえましいものを感じる。
796人間七七四年:2008/02/19(火) 07:48:23 ID:HVKrVHYd
信雄や信忠のことも謀反などとは本質の違うことだから、
あのぐらいの処遇が妥当なんじゃないかな。
信雄は仮にも北畠当主だったわけで、北畠家の判断で伊賀侵攻を
やって失敗した、というわけだから命令違反とか、信長を脅かそうという
ことでもないし。
言われているほど特別子供に甘かったというかんじはしないけどな。
797人間七七四年:2008/02/19(火) 11:28:53 ID:yagkJF5x
身内を大事にする信長様、素敵ですね。
798人間七七四年:2008/02/19(火) 11:39:14 ID:pzkK7Vnh
>>790
「大徳寺総見院に濃姫の墓を発見!」以降に、
何か新しい文献発掘とか、新見解はないのだろうか。

最近の講演や執筆で、濃姫に触れていることはあるのかな。
799人間七七四年:2008/02/19(火) 12:06:59 ID:ycfWokD6
>>797 それは秀吉も家康も同じことだよ。
秀吉は高台院の一族も厚遇してるし、妻子(養子含)達への愛情もなみなみならぬ
ものがあるし、戦国時代なら秀吉に勝る家族思いはいないだろうな。

しかし信長の子作り期間がもっと早ければ歴史は変わってたかもしれない。
通常なら信忠より6〜7才は年上の子供がいてもおかしくないし、
そうなると信忠の子供も10才ぐらいの若君に成長していたろうし、
若君を中心とした側近も機能していただろうから、信長・信忠が急死しても
織田宗家の後継者としての基盤はできていたはず。
むざむざ秀吉の傀儡になることはなかったろうな。
800人間七七四年:2008/02/19(火) 17:50:19 ID:D5XRimlA
なんだかんだで信雄は宗家ではないにしろ、信長直系織田家の存続が
できたというGJはしてくれた。
この点は褒めてあげてもいいんじゃないかな。
信孝みたいな世渡り下手だったら家の存続はなかったろうから。
信高と信好も然りだけど。
時の権力者に降っても、恥をしのんでも家の存続こそが武士の最大の仕事。
信雄は絶対的な権力者だった父と主君でもあった兄との関係から
身についた処世術が役に立ったのかも。
生駒やお鍋たち側室も立派に織田家に貢献しているんだよな。
側室の役割というのも戦国期は特有のものがあって非常に興味深いところだ。
801人間七七四年:2008/02/22(金) 21:33:17 ID:HUAa+px1
>>799
家康が身内に甘い?
信康は自害させてるし、秀康、忠輝は毛嫌いしてるが。
802人間七七四年:2008/02/22(金) 23:09:32 ID:+Qiy1Fim
>>799
「若君」が庶長子吉法師ならば、
たとえ10歳になっていても家督も継げず意味がないが。
秀吉没時7歳だった秀頼が滅ぼされたことを考えれば
10歳の子供でも大した違いはない。
803人間七七四年:2008/02/23(土) 02:30:45 ID:nu8N/o5q
織田vs斎藤で最初に喧嘩売ってきたのは斎藤です
804信長:2008/02/23(土) 02:32:17 ID:nu8N/o5q
俺は加納口忘れんぞ
805人間七七四年:2008/02/23(土) 03:16:51 ID:nu8N/o5q
織田は毛利や伊達や島津と仲良くやればいいんじゃないかな
斎藤なんかと考えが合わないと思うけど
806人間七七四年:2008/02/25(月) 15:46:29 ID:XZ+5D7sv
捏造と歴史改ざんの生駒よりはずーっとましだな。

807人間七七四年:2008/02/25(月) 19:15:31 ID:X4fr5Y/Y
生駒は信長の側室となり、信雄を産み、江戸期に信長直系を残す
大事な仕事をした。お鍋も然り。

なんの業績も残してない正室、濃姫よりましだよ。
斉藤家との和睦なんて濃姫じゃなくても、道三の姫なら誰だって
出来た仕事だからな。
808人間七七四年:2008/02/25(月) 21:21:20 ID:QeCvDu/6
まぁ別に偉大な夫を持ったからって、素晴らしい偉業を残さなきゃいけないわけでもないし
のほほんと幸せに暮らしました、でもいいんじゃない?
まぁ夫や息子(養子縁組が正しいなら)が殺された時に生きていたら
幸せな人生ともいえないけど。
809人間七七四年:2008/02/25(月) 22:49:02 ID:zxk4gHqW
業績なんていらないけど、穏やかな晩年をすごせたんだったらいいな。
810人間七七四年:2008/02/26(火) 08:48:57 ID:v4XEk7Rj
生駒なんて馬鹿息子しか生まない女だったしねえ〜
もっと器量のある子供を生んでおけば、織田家がここまで落ちることもなかったんじゃないのか。

それにしても、信長の子供は碌なのがいないねえ〜
数だけいても意味ないってことだ。
ああ信長本人自体、前代未聞の間抜けな死に方してるからねえ〜
その息子が馬鹿でもしかたないか。
811人間七七四年:2008/02/26(火) 11:09:48 ID:DiX05t3d
>>810 腰抜けの馬鹿だからこそ家の存続が可能だったってことだよ。
守るべき織田宗家よりも豊臣様、徳川様、といったりきたり、
でどうにかこうにか家の存続ができたんだから。

変に気骨があったら信孝同様切腹、お家断絶でお終い。

武家は家の存続がなによりも一大事なのさ。

将軍家にも数人馬鹿将軍がいたけど、殿様は馬鹿でもつとまるし、それでもいいの、
家さえ残れば。
812人間七七四年:2008/02/26(火) 22:53:57 ID:dhdNX5A5
斎藤明智の故郷岐阜は2流の県
813人間七七四年:2008/02/27(水) 05:42:45 ID:Wi67wXHL
イエスキリスト(信長か?)はまむし(道三か?)の子(光秀、利三)に殺された
戦国時代にキリスト教が伝来したのは偶然か?
何か神秘的な因縁を感じざるを得ないと思うのは俺だけか?
814人間七七四年:2008/02/27(水) 08:24:32 ID:oYW/OrXw
変なの涌いてるなぁ。
そろそろ趣味板じゃ限界か?
815人間七七四年:2008/02/27(水) 08:49:11 ID:G8a1dVor
いい加減、生駒厨うざいねえ〜
よっぽどくやしかったんだろうけどさ、みっともないねえw
史実では、どう見ても信長にとっての優先度は

斉藤家>>>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>>生駒家

だしね。
どうあがいても、生駒家は斉藤家にはなれないんだしね。
知名度、武将としての器と実力、どれをとっても生駒は斉藤家にはかなわないんだから、
ここでいくら煽ってもむなしいだけなんだが。
ますます生駒の評判下がるだけ。
生駒信者は、自分たちの行動が生駒の評価を落としていることにいつになったら気づくんだろw

趣味板というか、2chではもう限界だと思うね。
濃姫など女性史全般の歴史検証できる別の場所(サイト)などがあればいいと思うね。
以前、濃姫のまとめサイトをつくるって話でていたけど、そこで意見交換できる場所などを
設けるとかしてもいいと思うけど。
816人間七七四年:2008/02/27(水) 11:04:31 ID:oYW/OrXw
>>815
いや、厨とかどうでもいいから。

最近、文献の検証の書き込みもないし。
まぁ、史板の濃姫スレの時からこの時期の書き込みは減るんだよな。
長期休暇の時期に入ると仕方がないけどな。
817人間七七四年:2008/02/29(金) 16:27:50 ID:CfVrK5i9
>>815
>生駒信者は、自分たちの行動が生駒の評価を落としていることにいつになったら気づくんだろw

どっちもどっち。
818人間七七四年:2008/02/29(金) 18:48:09 ID:MwV6jrnq
生駒アンチでも生駒信者でも何でもいいけど
生駒を叩くのに濃姫を利用するのは程ほどにしといてね。
819人間七七四年:2008/03/01(土) 00:56:35 ID:zgVYSHIz
>>818
同意。
濃姫だけじゃなく、信長身辺の女性全てに興味がある自分としては
生駒の話題も鍋の話題も面白く見ているけど
叩きあい、罵りあう話題はもういい加減お腹いっぱい。

ぶっちゃけ400年以上昔に生きていた人のことで
ここまで感情的になれるのが不思議でならない。
自分は濃姫とか淀殿や、愛姫とか好きだけど
悪く言われても実際自分の親兄弟友人でもないし、痛くも痒くもないがw
820人間七七四年:2008/03/01(土) 10:51:16 ID:DVp7XIfr
淀殿も歪んだ認識をそろそろ軌道修正したほうがいいと思うな。

曲直瀬玄朔道三という淀殿を診察した慶長8年の記録には「御気鬱滞」による
食欲減退等の記載が残ってる。

寺社への寄進の記録が多数残っていることから、豊臣の行く末を神仏にすがり
心身を弱らせていったか弱い女性、必死に子供を思う母、の様子が想像できる。

信長の側室たちも残された史実だけを読み解いていけば、
ずいぶん誤解されてる部分もあるよ。
逆に濃姫は史実を読み解こうにも、あんなに記録が少ないのに
そこまで感情移入できる人が不思議だ。
後年の歴史小説やドラマの影響が大きいのだろうか??
821人間七七四年:2008/03/01(土) 13:32:31 ID:zgVYSHIz
>>820
まぁ既存のイメージってなかなか崩れないよね。
淀の方(茶々)なんて、大抵「勝気でワガママな美少女」「空気読めない大坂の女主」
みたいなものが未だに蔓延っているしね。
ステレオタイプの淀しか知らない人からすれば、彼女が神仏にすがったり(信仰厚い人間だった事)
食欲がどんどんなくなっていったなんて、思いもしないんだろうし。

濃姫も「いい意味で信長に相応しい伴侶」みたいなのが定説になりつつあるし。
それこそ「勝気で勇ましく、賢く、美しい奥方様」みたいな。
本能寺で共に死んだという描写の刷り込みのせいなのかもしれないけど。
生駒のネタが出てきてからは、冷め切った夫婦、プライドが高いって感じが主流だったのかな。


自分としては、濃姫はここまで表舞台に出ることもなく、結婚以来足取りがつかめないあたりから
ごくごく普通のお姫様で、信長ともたまに喧嘩して、仲直りして、普通に暮らしていたんじゃないかなーと思う。
勝手な想像なんでソースはないがw
822人間七七四年:2008/03/01(土) 14:37:04 ID:8a2iDCxp
濃姫に関しては、道三の娘で信長の正室という派手な?立場でありながら
記録が少ない所がミステリアスでいいんだよw
昔の小説のような良妻タイプだったのか、武功以降のイメージの冷めた夫婦だったのか
どう生きてどう死んだのかもわからないから、いろんな想像ができる。
823人間七七四年:2008/03/01(土) 18:02:03 ID:qntuJ5M7
>>818
それ言うなら、ここで濃姫および斎藤家を叩いている連中にも
ほどほどにしろと言えよ!

生駒の話になるとやたらと過剰反応しすぎだろw

824人間七七四年:2008/03/01(土) 19:57:03 ID:zgVYSHIz
>>823
このスレで濃姫やら斎藤家叩いてる奴は、生駒厨でも鍋厨(いるかは知らないけど)
でもなくただの釣り煽りでしょう。
相手にするだけ無駄な連中だよ。
825人間七七四年:2008/03/02(日) 00:17:32 ID:tJLyIaHS
いつまでもいつまでもしつこく粘着してて、キモイw
826人間七七四年:2008/03/03(月) 06:57:41 ID:rJ86M55x
斎藤道三はイスカリオテのユダだよ
織田の人間はキリスト者だよ
827人間七七四年:2008/03/04(火) 14:04:59 ID:D1vy16sp
すんません。壺事件ってなんですか?
828人間七七四年:2008/03/04(火) 22:39:52 ID:wpcMkeDb
>>827
言継卿記
「永禄十二年七月廿七日
晩頭佐藤錫携来 一盞受用了 故一色義龍後家壷可為所持 可被出之由信長連連被申
一乱之刻被失云々 尚於責乞者可自害云々 然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害
國衆大なる衆十七人 女子之男以上卅余人可切腹由也 仍中分失弗に治定
今日無事に成了、佐藤も十七人之内也

永禄十ニ年八月一日
早旦弾正忠所へ罷出 於門前曾禮申之 しうとめの所へ禮に被行 彼門前迄同道
山上城可見物之由被申 」
829人間七七四年:2008/03/05(水) 15:27:33 ID:5mjPBh9D
>>828

よくわからんです(T_T)
830人間七七四年:2008/03/05(水) 16:24:54 ID:FChU//q5
壷事件については、岡田氏監修の信長人名事典にも載ってたし、
このスレでもさんざんガイシュツなんだがw
831人間七七四年:2008/03/05(水) 18:13:13 ID:Fk5lbHva
>>829
言継卿記って言うのは、山科言継の日記で直接見聞きした事が書かれている当時の一次史料。
永禄12年に、言継が徳川に朝廷への寄付を求めるため下る途中、岐阜に寄ったんだが、
信長が徳川に話しを通してあげるから、返事が来るまで岐阜でのんびりしてなと言われて
滞在中に岐阜で起きた事を書いてある。

7月27日の夜に佐藤忠能(濃姫弟新五郎の養父)が言継を訪ねてきて、
信長が斎藤(一色)義龍の後家に、義龍が所有していた壷を差し出すように言ったが、
戦乱のごたごたのさなかになくしてしまったと答える。
それでも「差し出せ」と信長が言うので、後家はもう自害するしかないといい、
信長本妻の姉妹と兄弟の妻、それらの子(元服前の子と思われる)16人も一緒に自害、
国衆17人と、姉妹の夫や息子(これは元服していると考えられるかな)などの、
合わせて30人あまりが切腹(女子供は自害で、大人の男は切腹ってこと)すると言ったので、
信長が折れて、今日おさまったんだという話し。
佐藤忠能も17人の国衆のうちの一人だったと。

3日後の8月1日は、言継が訪ねていったら、信長と門の前で会ったが、
姑にお礼に行くというので、姑宅の門前まで一緒に行ったという話し。

ゴタゴタ後なので、それらの関係でのお礼じゃないかと岡田氏が推測している。
832人間七七四年:2008/03/05(水) 18:41:13 ID:5mjPBh9D
>>831

詳しく教えて頂いてありがとうございます。
こんなあほですがよく分かりましたm(__)m 
833人間七七四年:2008/03/06(木) 11:03:32 ID:ebwFRFnU
素朴な疑問。
なぜ「しうとめ」は平仮名なの?
助詞以外の単語は全部漢字なのに。

「姑」と解釈されたけど、実は違う単語なんじゃないか?
原本のその部分が痛んでいてはっきり読み取れず、とりあえず
それらしい字の「姑」と解釈したので、あえて平仮名で「しうとめ」と
記してるとか?
834人間七七四年:2008/03/06(木) 11:25:22 ID:O6FUsnG9
>>833
じゃあ、そっちは「しうとめ」以外に何と読めるんだよ。
原本見たことあって言ってるのかW
835人間七七四年:2008/03/06(木) 13:08:33 ID:AAoxOsYj
>>833
「しうとめ」は注釈文ではひらがなだけど、原文はカタカナで「シウトメノ」と
はっきり書かれているので、間違えようはないと思うよ。
他にも注釈で助詞以外で平仮名で書かれている物は、原文はカタカナが多い。
836人間七七四年:2008/03/11(火) 10:10:17 ID:XJ0mbGZg
濃姫のこと詳しくのった本ってないかな?
837人間七七四年:2008/03/21(金) 19:23:59 ID:A07ox0Ct
ないね〜
838人間七七四年:2008/04/06(日) 02:08:20 ID:NT6jKt13
 
839人間七七四年:2008/04/13(日) 02:30:50 ID:+gDaH5sG
斎藤氏=物事をを不幸や失敗に導くことに命がけになる
840人間七七四年:2008/04/13(日) 18:55:33 ID:BmM1pC6p
戦国時代は姑、舅というのは夫サイドの両親という意味合いで使われてたんじゃ
なかったか?妻の両親を姑、舅というようになったのはかなり後のことだと
習った記憶がある。

信長が訪れた「しゅとめ」というのは、娘婿の母親のことじゃ?
841人間七七四年:2008/04/14(月) 22:11:48 ID:vE4yrdv3
娘婿の母親ってまさか築山殿か
それはさすがにないと思うが。
842人間七七四年:2008/04/14(月) 23:53:45 ID:7XtZXlLs
永禄12年に結婚してた娘って徳姫だけか。

大体、なんで娘の姑が、信長から見てしゅうとめだよ。
○○室って記載ならともかく。
843人間七七四年:2008/04/15(火) 00:05:21 ID:S/ZQS3sF
おっと、書き忘れた。
枕草子などの平安文学にすでに男から見て岳父を舅と表現している箇所もあるから
少なくとも公家の間では、婿から見た舅姑という表現はあったようだ。
言経は公家なので、しゅうとめは信長から見て正室の母親と思っていいのではないか?
844人間七七四年:2008/04/15(火) 21:22:45 ID:BDvOXQhP
>>840
姑とは「先代の女主」という意味があるので、側室も正室と同居していた武家
では「妻の母親」という意味ではあまり使ってない、と私も習いました。
姫達が正室の子供とは限らないため、正室を差し置いて側室である母親を
「姑」とすることに支障があっただめじゃないか、ということでしたが。

どっちにしても公家だと通い婚の母系家族だったので、
武家とは習慣が異なったのかもしれないですね。
845人間七七四年:2008/04/16(水) 00:01:33 ID:xn0Xcbh4
側室腹の場合は、御袋様と書き記している史料を見た覚えがあるな。
846人間七七四年:2008/04/16(水) 13:06:53 ID:McL3P0mS
たいてい側室だとお袋様やお腹様だな。
本妻の子宮の一部、と見なされてたあたりで
準家族の扱いをされても、本妻とは厳格な一線はあったろう。
公家の場合は武家よりかなりアバウトだよな。
本妻、妻公認側室、非公認妾、ぜ〜んぶ「妻」と称してもOK。
愛人の実家の勢力次第で本妻の子供を蹴落として跡継ぎになったりも
できたし。
847人間七七四年:2008/04/17(木) 02:29:51 ID:JYep43jc
お前らイスカリオテのユダとかなんかなんだろ?
848人間七七四年:2008/04/18(金) 15:48:58 ID:VL2GyxD+
てことで、
「しうとめ」=正室の母=小見の方、、で間違いないよね
849人間七七四年:2008/04/18(金) 17:52:16 ID:Q8il8QqM
>>848
間違いないとまでは言えないだろうが、
永禄12年当時の信長周辺を考えれば、
言継という第三者が書くなら、
正室の母以外には、考えにくいという感じだろうな。
特に、直前に正室の一族である斎藤家や国人衆との諍いもあるし。
850人間七七四年:2008/04/20(日) 01:58:01 ID:95GJqu5N
信長の美濃侵略は何も悪くない
信長の美濃侵略は何も悪くない
信長の美濃侵略は何も悪くない
851人間七七四年:2008/04/20(日) 02:13:54 ID:95GJqu5N
加納口の戦い
で阪神大震災並みの被害を織田の人間は受けました
852人間七七四年:2008/04/20(日) 13:04:41 ID:23PV5LeU
阪神淡路大震災の被害者がリアルに生きているってのに、人間性を疑うよ。
853人間七七四年:2008/04/21(月) 11:17:31 ID:RQ+2M48t
濃姫が森三中並みの不細工だったらいいのにな
神様お願い
854人間七七四年:2008/04/21(月) 12:33:30 ID:RQ+2M48t
斎藤の連中が生駒の事叩いてるが
生駒氏は織田氏以外にも木下氏や徳川氏と縁が深いけどね
斎藤さんは聞くところによると暗殺家業が
売りとか。
道三さんが息子に殺されたのも自分の子供たちを暗殺の道具
として扱き使ったからこその悲劇ではないでしょうか?
信長が濃姫を大切にしなかったと皆嘆きますが
濃姫を大切にしていないのは道三さん自身であると思います
855人間七七四年:2008/04/22(火) 05:23:31 ID:EGEKpO41
道三なんて所詮信長さんが見捨てた奴
856人間七七四年:2008/04/22(火) 13:50:54 ID:MV1RWnFj
道三は信長贔屓からみると、いい舅、悲劇の舅と定番だけど
実は統治者としての器量に欠けた人物だったんだよ。
牛一の史料には公記以外の史料にも道三の残忍さを示す記述が書いてある。
書いてあることが事実かどうかは別としてよほど評判の悪い当主だったのだろう。
義龍に攻められた時、味方がわずか3000兵もいなかったのがその証拠。
その後を継いだ義龍に期待しても、宗教戦争おこして国内を混乱させて
これまたダメ領主の烙印を押された。
尾張に内通するものがぞくぞくとでたのもそういう背景があってのこと。
だから大した労力もなく美濃を信長がゲットできたんだけど。

そう考えると、果たして道三と信長の関係が小説にあるような
信頼関係が基盤の関係だったかどうか??という疑問だってでてくる。
美濃国での影響力がほとんどなくなった舅を守るメリットなんてなにもない。
とりあえず義龍との関係を良好なものにした方が尾張にとってメリットになる。
舅の仇云々は江戸期に入ってからの武士の発想だし、実際は道三が家督を譲り、
影響力がなくなった時点で信長は道三を用なしと見なしてただろうさ。
857人間七七四年:2008/04/22(火) 18:28:51 ID:m9ERvR0I
たしかに美濃の国主が、尾張一の実力者とは言え、
守護の陪臣風情に娘をやるかね
よほど国内の基盤が弱かったと見える
858人間七七四年:2008/04/22(火) 21:11:33 ID:ckeDFUzB
信長の側室って少ない。秀吉や家康の側室の数をみるとね。
859人間七七四年:2008/04/22(火) 22:02:16 ID:RALZqm9I
しかし秀吉や家康以上に子沢山でありまする。すごいよね〜♪
860人間七七四年:2008/04/23(水) 00:35:25 ID:7Kj2P0Od
>>857
美濃斉藤家だって守護代の家系。織田弾正忠家と比べて、隔絶しているというほどでもない。
一方は守護代なのに実質美濃の国主としつつ、もう一方はおなじく実質上は尾張の国主といって
よいけど守護代の重臣と家柄を持ち出して見下すというのは公平は評価とは言えないだろう。

信秀は幕府から大名衆と認められ、朝廷から正式に備後守・三河守に叙任されてもいる。
公式の地位・身分でいったら、道三より信秀が上とも言えるのだが?
861人間七七四年:2008/04/23(水) 07:54:19 ID:YqZIR9dC
>>860 信秀>道三、なら道三に娘を側室にさしだすわけもない。
敵国の嫁を迎えるだけで充分和平交渉は成立してるはずなのに
さらに側室をさしだしたのは、それだけ信秀の立場が弱かったってこと。

どんな手を使っても美濃国主に登りつめた道三と財力、地位があったところで
しょせん織田庶流の家臣筋であった信秀とは歴然たる差がある。

地位や身分関係なくトップに立ったもの勝という下克上が許されたのが
戦国時代だからな。
862人間七七四年:2008/04/23(水) 10:02:48 ID:7Kj2P0Od
>>861
だからそれは現実の力関係であって、家柄とか血統とかの上下ではないだろう?

道三は現実の力でもって美濃国主としつつ、「どんな手でも使って」実質尾張の盟主
にまで成り上がった信秀を「しょせん織田庶流の家臣筋」といって下に見下すのが
不公平な評価だといっているんだよ。

道三を家柄とか地位で評価するのなら、比較する信秀も家柄や地位をもってすべきで、
実質的な力でいうのなら、信秀だってその面で評価比較するべきだろうに。
>857は道三を美濃国主と公式な地位でなく実質な地位で評価しているのに、信秀には
「守護の陪臣」と家柄をもって両者を比較しているからその点を指摘したんだ。
863人間七七四年:2008/04/24(木) 06:23:18 ID:cW/b/A8V
道三は信長に騙された
864人間七七四年:2008/04/24(木) 06:54:31 ID:cW/b/A8V
騙すやつは騙される
騙す癖が逆に仇になっている
騙すから逆に騙され被害も多くなる
865人間七七四年:2008/04/24(木) 07:16:18 ID:cW/b/A8V
道三は騙そうとするから不幸に見舞われるだけ
自らの汚らしい心意気が逆に自分を苦しめる結果に終わる
ミイラ取りがミイラになるだけ
866人間七七四年:2008/04/25(金) 11:08:13 ID:KFlEAq9W
信長は影響力も勢力もなくなった道三に本気で援軍に行くつもりだったのだろうか?
数倍の勢力のあった義龍をまともに敵にまわして勝算があるわけもない。
下手したら尾張を攻められ信長も義龍軍に一網打尽。
尾張には反信長派もいたわけだし、背後から攻められる可能性も高かった。
道三不利、道三軍2700あまり、ということを知り、
国譲状をもらった手前挙兵してかけつける振りだけだったんじゃ!?

いつも思うのだが道三は正式に朝廷から美濃守護に任命されたわけじゃなく、
自称美濃国主という立場。そういう立場の人間の国譲状ではなんの効力というか
正当性はないんじゃ?
867人間七七四年:2008/04/25(金) 14:34:54 ID:5wbFwUKI
朝廷から美濃守護に任じられる
国譲り状
868人間七七四年:2008/04/26(土) 09:56:56 ID:i79w1Mua
>>866 武家は直系男子による相続が原則だから、女婿の信長には
道三の遺言書があっても権利はないよ。第一その時期道三は
家督を義龍に譲って隠居してたわけだし。
それに国人衆の集合体である国の統治は個人の意思で決められるものではないしね。

義龍を攻撃する大義名分を信長に与えてあげた、義龍への末期の嫌がらせ、って
だけじゃね?
869人間七七四年:2008/04/27(日) 20:08:28 ID:tgftznir
その大義名分が大切なんじゃね。
870人間七七四年:2008/04/28(月) 19:05:54 ID:yogCGGCf
なんで信長や家康が斎藤氏の連中の面倒を見ないといけないのだ
こいつらの面倒をみたところで一円の特にもならないどころか
逆に損をするだけだよ
871人間七七四年:2008/04/28(月) 19:19:53 ID:yogCGGCf
斎藤氏の連中の習性「あれして」「これして」「大切にしてくれない」常に人に物を頼むような
餓鬼チックなセリフがこいつらの口癖wwwwwww
自分のことを人任せにするwwwwww
飼われるしか能がないのに主人に噛み付くwwwwww
つまり従順なペットにすらなれないwwwwww
どれほど聡明で誠実な主人の教育でもこいつらは噛み付くwwwwww
872人間七七四年:2008/04/28(月) 22:33:42 ID:jOJ59Rd9
ちょっと見ないうちに変なのが住み着いているな
873人間七七四年:2008/04/29(火) 16:23:13 ID:HVgQnNDZ
結局斉藤家が信長にとってさほど重要なポジションになくなったことで
濃姫の影も薄くなっていったってことだな。
それにしても濃姫が生きていたというのなら、諸大名からの付け届けなんかは
濃姫にはないもんだろうか?公家あたりも、権力者の奥方へのご機嫌伺い、
というのも常套手段なのだが。そうすれば日記などにも記録があるはず。
ねねがいなくなり、事実上の大阪城の女主となった淀殿にはひっきりなしに
ご機嫌伺いの大名や公家衆が後を絶たなかったというのに。
874人間七七四年:2008/04/30(水) 21:42:56 ID:Hn+HzSQR
徳川将軍家で築山殿がタブーだったように織田家でも濃姫はタブーの存在になったの
かもよ。信長と義龍が敵対関係になったあたりから、
別居して実体のない夫婦でいつのまにかひっそり亡くなって…(実は暗殺!?)

で、葬儀もせず密葬ですまされ世間からも織田家からも忘れ去られていったとかね。
875人間七七四年:2008/05/01(木) 02:18:47 ID:97mkCmIy
それだと、諸記録に出てくる「信長御台」とかが誰になるのか?という問題が生じるんだよね。
876人間七七四年:2008/05/01(木) 08:03:00 ID:UzZfz76x
>>875 それさんざん既出だけど、別に信長の亡くなった御台、と解釈されても
意味は通じるんじゃかった?

御料地の件も信長の御台(御料地の台所入を御台というので)
という解釈の方が自然だし。
877人間七七四年:2008/05/01(木) 09:49:20 ID:jzbvqy4W
>>876
しかし、亡妻という表現を他の箇所で何度も使っている記録でも
信長御台は亡妻と書かれているものはないという矛盾。
878人間七七四年:2008/05/01(木) 09:52:12 ID:jzbvqy4W
濃姫の存在が義龍絡みでタブーになったのなら、
その後新五郎を重用したり、濃姫の妹達の嫁ぎ先を
信長が世話したりしているのは、なぜ問題ではないのかという事になる。
義龍との絡みなら、斎藤家そのものがタブーになってもおかしくないのだが。
879人間七七四年:2008/05/01(木) 10:49:59 ID:UzZfz76x
>>877 いちいち「亡」なんていれる必要ないから。
亡くなった人物にいちいち「亡」なんて書いてないじゃん。
信長の正室は死んでようが生きてようが濃姫だったというのは変わらん事実だろ?

>>878 築山殿の死後家康は瀬名家を冷遇したりせず、家の復興をしてるから
新五郎が信長に対して恭順の意を示していたら姉のことはスルーなんじゃん?
信康もタブーだったけど、娘達は信長死後も徳川から嫁にだしてるし、
一族連座、という発想とはちと違うような。
880人間七七四年:2008/05/01(木) 21:12:44 ID:jzbvqy4W
>>879
築山殿は築山殿自身と信康自身の事が問題で粛正された訳だけど、
義龍の事でなら、濃姫自身の問題じゃない。
また反対に、義龍の事で濃姫が粛正されるのなら、
新五郎や濃姫の妹も、濃姫と立場は同じだと思うが?
881人間七七四年:2008/05/01(木) 23:39:28 ID:97mkCmIy
そもそも義龍と敵対したからって、なんで濃姫がタブーになるんだ?
普通に離縁すればいいだけの話で、わざわざ別居だの秘密にするだの面倒なこと
する必要性がない。

この時代、別に離婚がスキャンダルになったり倫理的に不道徳だなんて非難される
ようなことでもないのに。
882人間七七四年:2008/05/02(金) 02:37:22 ID:RRP2nEFW
そこで信長と濃姫入れ替わり話ですよ
883人間七七四年:2008/05/02(金) 08:02:16 ID:LQ7Rz4lc
濃姫が義龍に内通してたという可能性はないのかな?
政宗母も実家に内通して当主暗殺を図った首謀者の一人ということになって、
実家に逃げたらしいけど。
もしそうなら、離縁されその後消息不明、あるいはどこかに蟄居幽閉されて
密かに亡くなっても、家的にスルーされたとかかも。
築山殿みたいなケースが実際あったわけだから、
あの時代ならそのぐらいのことありそうだしさ。
とにかく正室の座をまっとうしたのならば、あれだけ有名人の妻の墓も
供養搭も、晩年の伝承すらもないなんてことが不自然なんだから
それなりに理由があるんだと思うよ。

ガラシャも光秀謀反後離縁されて、明智領に放置されたけど
あのまま秀吉の許しを得られず細川家に戻ることが許されなかったら
細川家ではガラシャの存在がスルーされていた可能性が高いし、
家の都合で濃姫の存在が意図的に操作された気がする。
884人間七七四年:2008/05/02(金) 08:31:56 ID:Ynec6o+l
濃姫の晩年の伝承は愛知には意外と残ってるけどな。
特に清洲辺りに。
晩年を過ごした屋敷があった場所とか、伝わってる場所はあるよ。
ただし、あくまで伝承だけどな。

大体、信長生前に亡くなってれば記録が残り、
信長自身がタブー視されるようになった江戸時代になってから亡くなれば、
そっちの方が記録が無いって方が自然だと思うね。
築山殿がタブーだったと言った所で、権現様家康の正室だから
記録を抹消できなかった現実がある。
天下人目前まで言った信長ほどの正室なら、記録も残るだろう。
残っていないのは、むしろ、信長自身が死後おとしめられてからと考える方が
可能性としてはある気がするね。
885人間七七四年:2008/05/02(金) 08:44:02 ID:LQ7Rz4lc
>>884 信長は江戸時代にタブー視なんてされてないよ。
徳川政権下では織田家は大名家7家、高家3家に取り立てられてるじゃん。
徳川政権下では豊臣がタブー。秀吉の菩提の破壊行為、元豊臣方への不公平人事、
家のお取り潰しでそれは明らか。
光秀贔屓の歌舞伎が流行ったので、信長が必然的に悪役というイメージが
定着して、庶民に根付いたってだけだよ。赤穂浪士の吉良みたいなもん。

濃姫を正式に弔うことに将軍家にはなんの遠慮もいらないし、
子孫の大名家や高家のものたちがそんだけいたのだから、
家にとって問題のない人物ならそれなりの葬儀・法要をして当然だよ。

清洲に晩年の伝承があるのだとしたら、やはり離縁なり幽閉されて
織田家とは一線をひいた形で亡くなったからじゃないの?
886人間七七四年:2008/05/02(金) 18:13:32 ID:dHSeVqAq
信長生前に離縁や死別なら逆に記録に残りそう。
新五郎も信忠の側近になってるぐらいだから、斎藤家と疎遠ってわけでもないし。
ホントに途中から入れ替わって別の人になっちゃったのかもw
織田家の子孫に濃姫の存在を抹殺したい何らかの理由が・・・ってこともないだろうな。
一番記録が残ってそうな信雄系子孫の家には何か伝承でも伝わってないのか。
887人間七七四年:2008/05/02(金) 18:51:09 ID:DeiYTzmH
信長の正室だけど信雄の母親じゃないので、生きてるうちは表面上丁重に扱われたが死後ほぼ無視されるようになった。
なんて、ね。
888全板トナメ戦国板の投票日は5/3!:2008/05/02(金) 22:38:46 ID:NFfon+AX
【第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント】
明日5/3日は戦国板の投票日だよー

選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/
投票方法
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/477
889人間七七四年:2008/05/06(火) 02:25:10 ID:yKlAMoOI
濃姫は義龍に殺されただけです
ハッキシ言って信長が殺したとか大切にしなかった
なんて大嘘なんですよ
斉藤家は内部争いで崩壊してしまっただけで
信長のせいにされては困ります
信長が美濃侵略したおかげで
すっかり信長は斎藤氏の連中から悪人扱いされていますが
それは誤解であって事実ではありません
斎藤氏の連中によって我々織田氏やそれに
順ずる木下氏や前田氏の兵隊も加納口の戦いで
かなりの数が死別しました
斎藤氏に苦労させられた連中の為に信長が一肌脱いだ
だけです
信長の美濃侵略はどう考えても斎藤氏が悪いだけで

逆に世間の同情を買うべきなのは織田氏の方々なんです
890人間七七四年:2008/05/06(火) 02:32:03 ID:yKlAMoOI
斎藤氏や明智氏が世間の同情を集めるのが俺は気に入らん
斎藤氏は信長に、明智氏は秀吉に痛い目を味合わされたが
それは連中に何かしらの悪い原因があるからなんです
891人間七七四年:2008/05/06(火) 03:03:10 ID:yKlAMoOI
何故斎藤氏は東海地方で悪人武将扱いなのか?
1 濃姫は信長暗殺(斎藤氏は暗殺のプロだと忘れてはならない)の
為に織田氏に嫁がれた
2 道三(旧姓松波)の悪質な美濃乗っ取り(道三が美濃領主の土岐やオリジナル
斎藤氏の連中をお世話になったにも関わらず殺しまくって乗っ取った)
3 加納口の戦いで尾張美濃の武将(具体的に森氏や土岐氏)に散々な迷惑をかけた事
これらの現実を世間の皆様が知ることになれば斎藤氏=薄情すぎる悪人
であることが分かって頂けると思います
悪人の凄惨な結末は認識不足の連中からみれば同情するべきだと
思うかもしれません
しかし真の悪人は惨めな結末を迎る定めにあり
決して同情するべきではない

892人間七七四年:2008/05/06(火) 17:50:23 ID:kqx7nGwt
道三の人物評価に関しては、主君殺しの極悪人、そういう人物の悲惨な末路は
自業自得、というイメージを植え付けようとした幕府の意図のもとに
武士並びに庶民への道徳教育の歴史上の人物、として利用されてたかんじもする。

信長つながり以外には道三がこれほどまでに後世に名を残すほどの
ことはしてないし、典型的な下克上でなりあがったの戦国大名は他にもいるが、
そういうやり方ではしょせん長く続かぬ権勢、という非常にわかりやすい
例として息子に殺され、最終的に婿に国を乗っ取られた
「マムシの道三」が語り継がれてきたのではないかと思う。

なので実際どこまで極悪非道なやり方で成り上がったかは大いに疑問のあるところ。
本当は器量を認められ出世し、運良く主君が病気で亡くなり、
その名跡を継ぐことができ、反土岐氏の連中のオファーもあって
土岐を追い落とし、事実上の守護になりあがっただけかもしれない。
時代的に中央政権支配の限界にきていた頃だから、遅かれ早かれ土岐氏は
誰かに追放されていただろうし。
893人間七七四年:2008/05/08(木) 11:56:15 ID:h30Ts697
>>890
豊臣は末代まで栄えたからな
894信長:2008/05/09(金) 23:51:36 ID:fYNDZu3r
斉藤さんもう許してくれ
895人間七七四年:2008/05/10(土) 13:09:10 ID:Q1kUKD9u
>濃姫は義龍に殺されただけです

ってさあ、信長の正室として「安土殿」と言う名が記録に残っているよ。
すくなくとも1580年には存命だったわけで。
本能寺以降はいろんな説があるけど。
896人間七七四年:2008/05/10(土) 17:43:40 ID:uT5NSEcu
>>895 信長の権勢のわりに安土殿の影薄すぎない?
事実上武家のトップに君臨していた男の北の方なのに足跡なさ杉。
897人間七七四年:2008/05/10(土) 23:29:04 ID:20+WRhTq
>>895
そもそもその「安土殿」が信長正室を指しているかどうかも怪しいわけで。
その可能性は高いけど、必ずしも一致しているわけじゃない。
898人間七七四年:2008/05/13(火) 12:17:53 ID:0zARP6Q6
濃姫が義龍に殺された可能性はないわけではない
親族でも平気で殺すような奴だ
義龍はさ
899人間七七四年:2008/05/13(火) 12:19:25 ID:1Wca7+rz
美人→失敗してもドンマイドンマイ ブス→あーあやっぱりな…もういいわ
美人 →「一回ヤらせてあげるからお金頂戴?w」男「高くても仕方ねーなぁ☆・・・///」
ブス→「一回ヤらせるからお小遣い・・」男「気持ちわり!脳腐ってんじゃねーの鏡見ろ」
イケメンがエロいこと言う→こいつ可愛いのにエロいんだーラッキー、やらせてくれんかなー?//ブスがエロいこと言う→聞きたくない・エロ女か、やらせろ
美人の笑顔→(*^_^*) ブスの笑顔→(*'∀`*)
アドレス変更 美人→送る  ブス→送らない
美人「人が嫌がる事を進んでやります」 男「君がやらなくていいよ(汗)優しい人なんだな」
ブサメン「人が嫌がる事を進んでやります」 男「あっそう…何か楽できたなw」
歩いていて肩がぶつかった場合 美人→「ごめんごめん!大丈夫?」
ブス→思い切り嫌な顔され舌打ちされる カラオケとかに呼ばれる理由
カラオケとかに呼ばれる理由美人:華がなきゃねー キモメン:…誰がこいつ呼んだの?
フツメンの感想 美人 →(ブスばっかw)
ブス →「普通じゃない?」
美人「1万年と2千年前から愛してる〜」→「付き合いましょう!」
ブス「1万年と2千年前から愛してる〜」
→「×ゲーム?嘘だといってくれ!!」
ブスガン見チラ見
→顔きもいんですけど…俺のこと好きなのかなあいつ、やだなあ 
美人ガン見チラ見
→えっ??もしかして俺のこと好きなのかな・・可愛い〜 ポーとなる

900人間七七四年:2008/05/13(火) 15:56:33 ID:3EOLPV11
>>899
アドレスは顔写真見るまではとりあえず送るよな
901人間七七四年:2008/05/14(水) 01:29:01 ID:JXmXCGux
日本がキリスト教国ならなぁ
902信長:2008/05/15(木) 00:18:09 ID:A0l7mGA5
ダ斉藤に俺の死まで支配されているようで気分が悪い
903人間七七四年:2008/05/15(木) 08:22:02 ID:A0l7mGA5
濃姫なんて軍隊集めて集団でぶっ殺しておけばよかったのに
信長
904人間七七四年:2008/05/15(木) 17:55:06 ID:jkikPJyj
信長が死んだあとは、豪商のイケメン捕まえて、再婚しました。
905人間七七四年:2008/05/16(金) 19:21:37 ID:nbo0CP4/
と、思ったら若返った信長でした…。
906人間七七四年:2008/05/25(日) 21:38:18 ID:3cCtLW6X
ある意味パラレルなものだけど、
某サイトにあった濃姫像が結構イイ。
眉がきりっと太めで顔立ちがはっきりした美人で
蝶や花柄の赤い着物を好んでいたとかいうの。
907人間七七四年:2008/05/26(月) 11:02:37 ID:AbxjQk0s
濃姫でグーグル検索すると、なんとも破廉恥な・・
908人間七七四年:2008/05/26(月) 21:14:49 ID:sZMYaogq
義龍なら倒せる 信長でも
909人間七七四年:2008/05/27(火) 01:14:04 ID:M+9gsD24
なぜかここで話題にあがっていないんだけど
【濃姫のひざまくら】という本読んだ人いる?

小説だし濃姫が主人公だから表舞台(起伏)が少なくて
物足りない人もいるかもしれないけど、久々に信長と濃姫が
ほのぼのとしていて良かったよ。
910奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/05/27(火) 01:34:39 ID:hSBRNRWp
義龍の妹なら極端に高い膝枕かも知れないというに。
911人間七七四年:2008/05/27(火) 06:51:29 ID:1yyZeMXh
斉藤家の連中は騙せ
912人間七七四年:2008/05/27(火) 07:06:34 ID:1yyZeMXh
信長に騙された道三ヒャハはははハハwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
信長に見捨てられた道三ヒャハははははwwwwwwwwwwwww
信長に美濃を乗っ取られた道三ヒャハははははwwwwwwwwwwwww
信長に大切にされなかった濃姫惨めですねヒャハははははwwwwwwwwww
信長の侵略に耐え切れず惨めに病死した義龍ヒャハははははははwwwwwwwwwww
913人間七七四年:2008/05/27(火) 09:14:15 ID:QwzQbChm
914人間七七四年:2008/05/27(火) 18:10:52 ID:ZpKsCbqx
濃姫って記録に残ってないよね
915人間七七四年:2008/05/30(金) 22:33:33 ID:cfervi9m
新しい話題もないし、久しぶりに来て見たけど
あいかわらず、変なアンチが粘着しててキモイ〜
916人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 18:38:27 ID:Tmg6NSS0
安土殿が信長正室でなくてもそう称されることはありえる話だぞ。
淀殿は秀吉の正室じゃないのに淀殿と称され淀城の事実上の女主だった。
濃姫がすでに亡くなっていたか、離縁していなかったか不明だが
信長が後妻を娶らなかった場合、信長の側室兼上臈トップが安土城の女性陣トップとして
安土殿と称されていた可能性は高い。

それならば安土殿が信長の寵妾であるという養華院である可能性が極めて高いな。
917人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 13:39:39 ID:UTMuT/x0
信雄に600貫文を出させる立場の女性だから、
側室等が考えにくいってことだよ。
仮に、有力な側室が安土殿だったとしても、
信雄が600貫文を出す必要はない。
事実、鍋は出してもらっていないし、
秀吉(寧々)の家臣扱いになっている。
分限帳に載っている、有力侍女なども、
ついている女主より多くもらっていたりはしない。

織田家血縁者が側室の安土殿なら、あり得る話しだが。
もしくは、信雄の側室で織田家の縁者がいた筈だが、
その人物くらいなら、あり得るかもな。
918人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 22:04:18 ID:+K4ypzkK
>>917 信長の側室が安土殿であった場合、信雄が面倒を見ないとは限らないと思うぞ。
見る必要はないが、見なかったとは断言するのはどうかと思う。
安土殿が信雄にとってどういう存在だったかは不明だが、
彼女と信雄に何かしらの接点があり、一時的にせよ面倒を見た可能性は
ゼロではないと思う。
御局のようにその名称から明らかに従者の立場の女性が女主人よりも
多くの知行をもらっていることもはっきりわかるわけだから、
一概に否定はできないのでは?
919人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 07:06:59 ID:j4QPMwmF
>>918
何かここだか日本史板だったか忘れたけど、
御局が濃姫説もあったよ。
現代感覚だと、御局っていうと従者っぽく聞こえるけど
同時の価値観だと、濃姫を指してもおかしくない呼称だとか。
(局=奥殿を示す意、御=尊敬語?だとか。
つまるところ奥殿様=奥の主=濃姫ってなるらしい)

個人的には安土殿が濃姫だったらいいなーとは思うけど。
信長の城である安土の名を冠する事が出来るのって、当時の信長の
奥のNo.1だった女性だと思うし。
ただ娘(丹羽に嫁いだ娘?)がそう呼ばれていた可能性もあるとかなんとか。
920人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 09:40:31 ID:NXHH1RPb
お市のことも、浅井家にいた時「局」と呼ばれていたと考えられる史料があった筈だ。
921人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 09:43:03 ID:NXHH1RPb
>>920はお市が分限帳の「御局」って意味で書いた訳じゃなく、
当主の正妻が「局」と呼ばれることがあった、と考えられる例です。
誤解させかねない表現ですまない。
922人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 13:03:47 ID:RdYi0v8r
>>919-920 それは小谷城跡の「お局屋敷」のことがあるからじゃないの?
浅井長政の妻子、ようするに奥の女性達がいた空間だから
後年「お局屋敷跡」と称されたってだけ。お市がお局なんて呼ばれていたなんていう
史料があったらぜひみたいものだよ。
どんなに有名人で位が高くても「局」とつく女性は当主から部屋を賜り
従者の立場で家に仕えた女性をさすから当主の正妻を局と呼ぶことはないよ。

信雄分限帳の「御局」に関しては信雄の乳母だと思うけどね。
うちの実家の近くに池上本門寺があってそこに関東最古の五重塔があるんだけど、
その寄進は徳川秀忠によるものなんだ。その時のことを示す消息が残っていて
「御局の発願により秀忠が建立」と書かれてる。消息では御局としか書かれてないけど
秀忠、御局とあっただけでその局が乳母の岡部局だと周囲がわかるほどの
立場だったようだし、信雄の分限帳にある「御局」も信雄乳母じゃないかと思うよ。

池田氏や春日局みたいな足跡はなくても、信雄にとっては1000貫の知行に
価するような別格の上臈として活躍してたんじゃないかな。
923人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 16:14:08 ID:NXHH1RPb
確か、史板の時に、戦国期から江戸中期までで、
他家の分限帳の記載を見ても
身内女性より高い知行を得ている乳母の例が
なかったから、御局=乳母は疑問視されてたよね。
御局が乳母だとしたら、一千貫文だから、
他の誰よりも知行が多くなってしまう。

お局屋敷跡と称されているというのは知らなかった。
淀殿の生母について書かれている部分で、局という表現が出てくる史料があると
聞いただけなので、詳しくは知らないから、これ以上は、この話しはよすよ。
924人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 07:49:51 ID:lSWbrI2d
>>922
毛利元就の長女は宍戸隆家の正室だけど、五龍局と呼ばれていたよ。
あと次男・吉川元春の正室は新庄局とある。

自分的にも局って身分の高い侍女(または乳母)というイメージがあるんだけど
戦国当時だと局という呼称で呼ばれた正室はいたらしい。
925人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 07:52:11 ID:lSWbrI2d
あと、ついでに毛利隆元正室も尾崎局と呼ばれていたらしいね。

なんか毛利ばっかりだけどw
926人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 09:32:15 ID:zSlA4IiN
確かに武家でも公家風に正室のことも「〜局」と称していた家はあったかもよ。
こういうのって家の慣習的なものが大きいように思う。
織田家でも正室のことを〜局と呼ばれせていた例があれば
御局が信長正室である可能性はなくもないけど、
信長正室に限り御局と称するのは不自然な気がするなぁ。
御内様は信雄と同格、大方殿様が信雄より目上にあたる人物だから
敬語の使い方からして信雄の目上にあたる信長正室は
御局でも安土殿でもないような気もしてくるんだけど。
927人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 15:26:01 ID:lSWbrI2d
個人的には大方殿様が信長生母(または養母。信秀正室)ではなく、
濃姫の可能性もあるかなーとは思っているんだけど・・・。

あと前に史板かここで見たけど、当時は
「殿>様」だったっていうのは本当なんだろうか。
928人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 16:35:16 ID:hKpwSid1
>>927 http://www.geocities.jp/ittunjp/sibaryou/tonosamaokusama.html

室町にはすでに様>殿という説だね。

信雄家臣の視点からもっとも上の敬称をつけている大方殿様が
濃姫というのもありだよね。先代の正室という意味では濃姫は大方様にあたるわけだし。
信長生母は晩年は信包が面倒をみて、墓も信包縁の土地にあるから、
孫である信雄よりも実子と言われる信長死後は信包みに最初から世話になったと
考えてもおかしくないよ。

安土殿が濃姫でないとしたら、その名称から信長生前から安土城にいた位の高い上臈
=側室の女性であったと推測できるけど、信雄が面倒を見ているとしたら
もしかしたら信雄の正室の北畠氏の血縁者で信長の側室になった女性とかかも。
信雄が織田姓になったけど、北畠の宗家当主は信雄になるわけで、
実家に戻るような境遇になった北畠の女性の後見を信雄がやっても当然。
それらしい記録はないけど、貫高からみても信雄の妹と同じぐらいの
倖待遇だし、安土殿は北畠の宗家血筋ぐらいの毛並みのいい女性だったとか。
929人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 17:25:18 ID:lSWbrI2d
>>928
ありがとう。
室町には既に様>殿なんだね。

まぁそう考えると、信雄の分限帳での記載はどうとでも解釈しようと思えば出来るし、
あくまでも予測の域を超えないものなんだね。
安土殿を濃姫とする事も出来るし、丹羽に嫁いだ娘とする事も出来るし、
北畠出身の信長側室と見ることも出来る。
全てに正解の可能性はあるけど、全てに正解というだけの根拠がない。

「安土殿は信長正室、斉藤道三の女である」とか
○△=信長正室である斎藤道三女、くらいはっきりとしたものがない限り
どれも真実にはたどり着けないような気がする。
濃姫長寿説も短命説も、消去法によって「こうだと思います」みたいな状態だと
どっちがどうとも言い切ることが出来ないというか・・・何ていうかまどろっこしい('A`)
930人間七七四年:2008/06/28(土) 16:08:02 ID:hjlgRfZf
age
931人間七七四年:2008/07/07(月) 18:51:23 ID:FNKGMhWp
濃姫って、結構な知名度と注目度がありながら、これだけ謎が多いのは、
小説家等からしてみると、いじりやすい(創作しやすい)から、
これからも様々な作品で出てくれるだろうな。現に濃姫を主人公とした、Web漫画もあるし。

あと、ここに色々な話が出てるけど、
とりあえず、自分は信長と帰蝶はラブラブだったと、思いたい。
932人間七七四年:2008/07/08(火) 14:40:36 ID:G8o981jJ
普段は普通に長年連れ添った世の中の夫婦のように仲がよく、
時々喧嘩して、ごくたまに大喧嘩して、ちょっと時間をおいて
仲直りはしないまままた元に戻って・・・というのを
繰り返していた夫婦だったのかな、と思う。
秀吉におけるねねのように、恋女房ってわけじゃなく、
特別めちゃくちゃ仲睦まじいというほどでもないけど、
お互い長年連れ添った相方として、気心知れた関係だったんだろうなと思う。


ラブラブというと、自分の中ではちょっと違和感が・・・。
933人間七七四年:2008/07/23(水) 03:36:38 ID:UFu5ShH7
嫡子の一人もいればラブラブだったと言えるんだがな……
934人間七七四年:2008/07/23(水) 07:47:16 ID:e4ecL0fp
信忠を養子にしているという文献もあるし、
濃姫が女子を出産しているという話もある。
また「御台出産」の記事もあるし、ラブラブだったと信じたい><


個人的な妄想では信忠は濃姫が生んだ事になってますwww
935人間七七四年:2008/07/23(水) 09:36:41 ID:36lGJwz/
>>934
いや、それは無理があるだろう。

久庵慶珠が濃姫だとしたら、少し可能性はあるかもしれないが。
0.01%くらいね。
936人間七七四年:2008/07/23(水) 18:42:58 ID:34r75zI6
濃姫女子出産は前夫との子だろ。針阿弥=濃姫
937人間七七四年:2008/07/24(木) 20:51:53 ID:kNE9fmwK
当時の夫婦関係に今で言う恋愛感情があったかどうかなんて
わからんからなぁ・・・。
938人間七七四年:2008/07/25(金) 12:14:45 ID:uLQ8I/uR
しかし、信長も個性的だか、まわりの人間も面白いやつらばっかりだな。
939人間七七四年:2008/07/25(金) 21:49:39 ID:vU+Eq48A
今の恋愛結婚した夫婦だって、長年連れ添えばラブラブとは言えねぇ。。。
940人間七七四年:2008/07/26(土) 11:58:11 ID:o6gBjQXs
でもラブラブな夫婦もいるし。
941人間七七四年:2008/07/29(火) 23:14:57 ID:atwby7Cl
おもいっきり政略結婚だから、道三が死んだあとも、夫婦してたなら、愛はあったんじゃね?
942人間七七四年:2008/07/29(火) 23:16:01 ID:atwby7Cl
おもいっきり政略結婚だから、道三が死んだあとも、夫婦してたなら、愛はあったんじゃね?
943人間七七四年:2008/07/30(水) 19:54:26 ID:fUbzYAGg
別に愛がなくとも情があれば夫婦するだろうな
944人間七七四年:2008/08/19(火) 15:19:23 ID:EvPsfJGe
「濃姫のひざまくら」アマゾンに注文しました。
楽しみ。

信忠を濃姫の養子にしたのは美濃を自分の物にするとき
嫡男が道三の娘の養子の方がいいという政治的判断と
子供のできない濃姫を嫡男の母にしてあげたいという信長の愛情だと
強く思いたい。

吉乃に会いに生駒屋敷に通ったなんて信じてる人もう居ないよね?
945人間七七四年:2008/08/24(日) 21:15:46 ID:paFs//SY
>吉乃に会いに生駒屋敷に通ったなんて信じてる人もう居ないよね?
残念ながらいるな。
ニワカ歴史好きとか、武功夜話をそっくりそのまま信じていたりする人
未だにいるし。
テレビの歴史番組とかでも、未だにその説を普通に取り上げているしね。
歴史に興味がない人はそもそもそういう番組は見ないし、
詳しい人間は「わろすわろすw」で終わるけど、適度に歴史好きって連中が
ああいうのを見てそのまま信じる。
946濃姫:2008/08/24(日) 22:59:37 ID:D6ItN5dZ
私だけを見てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇー!
私のアソコだけを見てぇぇぇぇぇぇぇぇぇー!
947濃姫:2008/08/24(日) 23:30:09 ID:D6ItN5dZ
乳首感じるわー
もっと抓んで
948人間七七四年:2008/08/26(火) 02:15:59 ID:3k8CJ2l0
斎藤さん可哀想だな
949人間七七四年:2008/08/28(木) 17:26:10 ID:/sJluaFa
濃姫の記録がほとんどないから
作家がどう書こうと勝手なんだけど
何故か濃姫は愛されてなかったって書き方が多いのが不満。
せめて坂口安吾の「信長」のように病気になって死を待つばかりって
書き方のほうがまだ救われる。あの作品では心はしっかり結ばれてたって
感じだったし。

なにか濃姫と信長がいい感じの小説教えてください。
「濃姫のひざまくら」・・・なかよし夫婦ですが歴史小説っていうには
物足りなかった。
950人間七七四年:2008/08/28(木) 17:41:57 ID:jUk9Kfrs
考えてみたら濃姫は、敵国に
嫁いだから、立場は危ういし、
記録に残っていないのとか
愛されて無かったって書かれるのは、
しょうがないよね。
少し前まで殺し合いして、
親、兄弟、子供、親戚を殺されたって人がわんさかいた所だから、
信長が濃姫を表に出さなかったんだろ。
951人間七七四年:2008/08/28(木) 20:24:08 ID:DL1lgKms
>>949
山岡荘八「織田信長」
あれで、信長*濃姫ファンになった人が多いと思う。
952人間七七四年:2008/08/28(木) 23:41:37 ID:Xyp/+Cht
仲の良い夫婦だったかなんて到底わかりそうも無いことだし
別に冷え切った夫婦でも構わない。

ただ、生存説なら確かのその痕跡が、
また、真の墓はどこかに実在するのか(岡田氏説は置いといて) 
そういう疑問が解明される日が早く来ることを望んでいる。
953人間七七四年:2008/08/29(金) 00:52:12 ID:gv/0dgL1
斎藤利治も信長のもとでそこそこの地位にあったみたいだしな。
954人間七七四年:2008/08/29(金) 03:25:22 ID:sE63lFpW
脳姫が生存していた!とハッキリ断言することは現時点ではできないようですが
では本能寺、あるいはそれ以前に氏んだという決定的な証拠はあるのでしょうか。
955人間七七四年:2008/08/29(金) 09:34:10 ID:lqsPChi/
ない
956人間七七四年:2008/08/29(金) 10:31:46 ID:TyizL64C
949です。
951さんありがとう。実は私も山岡さんの「織田信長」と司馬さんの
「国盗り物語」で信長と濃姫のファンになりました。

最近は武功夜話を下敷きにしたものが多いのか・・・残念です。
957人間七七四年:2008/08/30(土) 20:34:25 ID:a3ctUQoC
>>954
ない。
生存説派は「死んだと書かれてないから死んでないはず」という意見で
死亡(離婚)説派は「その後の記録がないから離婚(死亡)したはず」という意見。
どっちも決定打にはならない消去法での意見でしかないね。
958人間七七四年:2008/08/31(日) 02:10:12 ID:Ddu1XAcb
>>957
「言継卿記」のつぼのエピソードはどういう扱いなの?
美濃攻めの後で、信長の妻妾について触れられた数少ない、かつ信の置けそうな
逸話だと思うんだが
959人間七七四年:2008/08/31(日) 08:35:04 ID:Qb+jAH9i
>>958
信長本妻の記事は、既に濃姫が死んでいるのか(離縁されているのか)
現在生きているのかははっきりとはわからんのだよね。
生存派も死別(離縁)派もどっちもが自分の都合よく解釈できる感じ。

生存派・・・信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし→濃姫とその姉妹16人が自害すると言った
死別(離縁)派・・・信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし→濃姫の姉妹16人が自害すると言った

まぁ「信長本妻」とあるから生きているんだ!って人と、いや、生きてるかどうかわからんじゃんw
っていう人で解釈というか、自分の理想をどっちに持ってくるかで変わってくる問題。
960人間七七四年:2008/08/31(日) 13:41:27 ID:mRXJe+xp
>>959
それ、ちょっと違うような?
生存派の考え方は、「信長本妻」は現在進行形の表現で、
死亡していたなら言継は「信長亡妻」と書く筈なので
(別の箇所に他の女性を亡妻と書いてるところがあったからって聞いた)
本妻は生きているという解釈。

死亡派は、本妻だけじゃ、生きてるか死んでるか分からないし、
濃姫の父道三を殺した義龍の、さらにその後家の事を、
そこまでこぞって斎藤一族がかばうのは、
本妻がすでに、義龍側の女性に変わっているからでは?という説を持ち出している。
それが、濃姫の姪の女性のこと。

「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし」の解釈自体は、生存派でも、
濃姫自身は自害すると言ったと読み取れないとしている人もいた。
姑が建前上仲裁に入ったと推測出来る日記が直後にでてくるから、
濃姫は仲裁側にいたとも解釈出来る(濃姫飛び越えて姑が一足飛びにしゃしゃり出ては来ないからな)。
961人間七七四年:2008/08/31(日) 15:08:10 ID:Ddu1XAcb
>>960
いわゆる「馬場殿」という人か。この人については、ほとんど史料が無いしなあ・・・
962人間七七四年:2008/08/31(日) 16:03:17 ID:mXoIKgfX
「馬場殿」説って、とんでも扱いじゃなかったのか
963人間七七四年:2008/08/31(日) 16:09:37 ID:mXoIKgfX
そう言えば、「戦国ちょっといい話」スレで見た↓のレスって壷事件の事だよね

497 :人間七七四年:2008/07/16(水) 01:38:03 ID:jrnwjRYY
信長が上洛した頃の事

京には、今は亡き斉藤義龍の妻が隠棲していた。その女が、美濃斉藤家に伝わる茶道具の名品を、
義龍の形見として持っていると言う事を知った信長、早速その名品を自分に献上させる様に命令した。

だが、彼女はそれを拒否。信長の使者を追い返した。これを聞いた信長は、女を殺してでも奪って来いと
怒った。その時、稲葉、安藤、氏家の、西美濃三人衆をはじめとする、今は信長に仕える旧斉藤家の家臣たちが、皆
信長への面会を求めてきた。何事かと召し出すと、彼らは、「義龍公の奥方から茶道具を取り上げるとの事、
どうか、考え直していただきたい」

さもなくば、

「我ら一同、この場で腹掻っ切ります」


これには信長も、彼らの要求を呑むしかなかった。
美濃系の武将の家に、長く伝わったお話。
964人間七七四年:2008/09/02(火) 02:09:51 ID:y3bC/GXv
『郷土文化』第62巻 第1号 2007年 横山住雄「濃姫の死去の時と場所をめぐって」
この論文読んだ人いますか?
965人間七七四年:2008/09/02(火) 09:51:47 ID:ODFa4Nd3
>>964
知りたい。どういう内容なの?
966人間七七四年:2008/09/02(火) 10:24:07 ID:AOcIfXB0
天正元年に亡くなった説じゃなかったか?
自分も手に入れてなくて、読んでいないが。
967人間七七四年:2008/09/03(水) 19:30:43 ID:N/DDyzYZ
天正元年って言うと、濃姫38歳くらいか?

その論文を裏付ける史料とか何か見つかったんだろうか
968人間七七四年:2008/09/05(金) 18:41:08 ID:VgC6sSCS
>>967
論文の内容に関して触れてるブログがあるけど、
ブログのタイトルとかここに書いて大丈夫でしょうか?
969人間七七四年:2008/09/05(金) 18:42:25 ID:VgC6sSCS
>>967
論文の内容に関して触れてるブログがあるけど、
ブログのタイトルとかここに書いて大丈夫でしょうか?
970人間七七四年:2008/09/05(金) 19:47:22 ID:M37NIAt6
>>969
ぐぐればいいだけだから、やめといたほうがいい。

「岐陽太守鐘愛の女性」だから濃姫なのではって事みたいだけど
濃姫ならそんなもったいぶった言い方でなく
「御台所」とかでいいんじゃないかとも思うんだけど。
971人間七七四年:2008/09/05(金) 23:09:25 ID:X227pNPj
カトーのキハ30、いいね!
972人間七七四年:2008/09/05(金) 23:10:44 ID:VgC6sSCS
>>970
レスありがとうございます。
止めておきます。
そうですよね。
御台や本妻と記述されていて、そのうえ齋藤山城女と記述されていれば確実に濃姫なんですけどね。
これだけだと「岐陽太守鐘愛の女性」が天正元年に死去したことしかわかりませんね。
973人間七七四年:2008/09/06(土) 10:54:12 ID:IYIH9PK5
鐘愛ってどういう意味?
974人間七七四年:2008/09/06(土) 15:06:50 ID:8aTyrFhO
975人間七七四年:2008/09/07(日) 07:24:55 ID:qH7JlbL4
976人間七七四年:2008/09/07(日) 08:42:44 ID:qH7JlbL4
977人間七七四年:2008/09/07(日) 13:29:29 ID:rkjLZLDV
誰もわからないのに偉そうに語っていたんですよね
わかります
978人間七七四年:2008/09/07(日) 14:06:17 ID:2cJST4MR
わからない言葉があったら、とりあえず検索しろ。
たいていすぐわかる。
979人間七七四年:2008/09/07(日) 14:10:36 ID:qH7JlbL4
980人間七七四年:2008/09/07(日) 15:12:08 ID:q44jt2cy
>>973
鐘愛ってのは中国語源で、特にかわいがっているって意味。
史料を読みたいなら、漢文の知識は必須だよ。

もちろん鐘愛に「正室」なんて意味は無い。
981人間七七四年:2008/09/07(日) 19:53:48 ID:bOR6DJHA
>>969
そのブログ以前から私も見てるけど
この人、濃姫早世説をとってるんですよねえ〜
だから、この論文に飛びついてしまったのではないかと。
だけどよく考えると「岐陽太守鐘愛の女性」イコール濃姫だとされる史料でもないかぎり
はっきりとは言えないですよね。
思うんですけど、信忠生母ってことはないですかね。
982人間七七四年:2008/09/07(日) 20:49:16 ID:2cJST4MR
美濃出身の側室、妾のうちの誰かかなって思うな。
信忠生母というのも考えられるよね。
濃姫の可能性もあるけど、鍾愛の女性ってだけでは決め手にはならない。
何かもっとこれは濃姫だろうと思えるような史料はないものなのか。
983人間七七四年:2008/09/07(日) 20:59:32 ID:q44jt2cy
正室を表現するなら、岐陽太守夫人でいいんだよな。
原文読んでないので、わからないのだが、岐陽太守鐘愛女なのかな?
娘のことだったり。
984人間七七四年:2008/09/07(日) 21:58:44 ID:qH7JlbL4
帰蝶ってかわいいの?
985人間七七四年:2008/09/08(月) 00:05:24 ID:mTUA8f5U
そもそも岐陽太守が信長ってのは確定でいいわけ?
986人間七七四年:2008/09/08(月) 05:36:35 ID:o1UwE8cE
 
987人間七七四年:2008/09/08(月) 05:41:33 ID:xwssv02p
988人間七七四年:2008/09/08(月) 05:43:25 ID:xwssv02p
989人間七七四年:2008/09/08(月) 05:44:47 ID:xwssv02p
990人間七七四年:2008/09/08(月) 05:45:19 ID:smfs+d0Z
991人間七七四年:2008/09/08(月) 05:46:50 ID:smfs+d0Z
992人間七七四年:2008/09/08(月) 05:47:58 ID:smfs+d0Z
993人間七七四年:2008/09/08(月) 05:49:24 ID:xwssv02p
994人間七七四年:2008/09/08(月) 05:49:43 ID:smfs+d0Z
995人間七七四年:2008/09/08(月) 05:51:41 ID:xwssv02p
996人間七七四年:2008/09/08(月) 05:51:42 ID:smfs+d0Z
997人間七七四年:2008/09/08(月) 05:52:37 ID:xwssv02p
998人間七七四年:2008/09/08(月) 05:52:38 ID:smfs+d0Z
999人間七七四年:2008/09/08(月) 05:54:34 ID:smfs+d0Z
1000人間七七四年:2008/09/08(月) 05:54:36 ID:xwssv02p

      ☆     _-‐-、 l:::::l┐      l::::l ,.‐-__  ☆
        /-=ニヽヽ/-──-v-─-、//ニ=‐ヽ
   ☆    /-ニニ、─.._二 ─ 十‐ ニ_`..-─,ヽヽ   ☆
         /-ニ| i::::::./ ̄`ヽ l /`ヽ:::::: /|ヽヽ
            /// | ヽ./ / ! l l ! l l ! lヽヽ/./l lヽ!
            / ll l`>/ _l l l l ! l l l l l !_l l |ヽ レ
        、-‐ l ! l | l l l‐l-l_l l l _l-l‐l !l/i. |
          \、ヽl | l レ ' ̄\  /`ヽl | l |
.            _.>、` !l | "" ,‐v─┐"" ノ__!l |
        l ̄ ‐、.'v─-、>lヽ. (  _.ノ_ ∠,‐ ‐K _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧
     _.└─-〈    l  ニl` T l //l l lニ  l \  
      l  ̄ニ,-`ー一l   -!ヽヽl_//┴'‐ !-   l <  帰蝶ーーーー
.    └‐ ̄ l  ,‐  `ー,‐'l ̄`ロ'´ ̄l `ー‐' < 
         〉'   /  / └─´ `┬┘     <   
         ヽ./     ̄ー一 ̄ー''ヽ、_        ∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨
         ヽ./  /   l  l   l   !
     ☆    \, ヘ _, へ ,ヘ_, ヘ_/    ☆
            l_,-─l l_,-─l
   ☆     ☆    l  _l l  __l_    ☆    ☆
            ┌ ~l><l,┌ ~l><l,
            l`ー'二ヽ.l`ー'二ヽ.
            ト,-‐─‐|ト,-‐─‐|
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/