結局【謙信最強】を認めざるをえないpart2

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240上杉三郎ってどお?
>>227 >>232に加筆レス
上杉の収入源は主に3つ。
1.直江津・柏崎・蒲原・沼垂(蒲原・沼垂は現在の新潟市街)の津(港)の停泊料or関税。
交易が盛んな日本海ルート上にあるので…。

2.青苧(あおそ)、越後上布(麻布)。
戦国時代は「木綿」よりも「絹」「麻」が主流であり、特に庶民は安い「麻」を愛用した。
越後魚沼郡は麻の原料となる「青苧」の大生産地でもあった。
青苧は信濃川などを下って、小千谷へ運ばれ、 直江津や柏崎まで陸送され、そこから京・大阪へ運ばれ、織物に加工された。
あるいは、春日山城周辺の農家の副業として越後上布(麻)に織られて運ばれた。
上杉は府中の御用商人蔵田五郎左衛門を「青苧座(あおそ組合)」の元締めに任命し、国内取引の管理・売上税の徴収にあたらせた。
京の青苧組合の元締めは公卿である三条西家が取り仕切っていて、上杉の京都出張所支店長の神余氏を通じ、(蔵田氏と)値段交渉・上納金の額などのやり取りをしていたらしい。
ちなみに謙信が朝廷・幕府とやり取りしたのも、
二度にわたる上洛をお膳立てしたのもこのルート。

3.金山
(1).越後…高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?)
上田五十沢銀山(上田長尾や山内家の財源)などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
後に秀吉は景勝を会津へ転封させたが、その理由の一つにはこれら越後金山の利権獲得のためとも言われる。
甲斐に浅野長政が入ったように…

(2).越中…松倉金山(魚津市鹿熊)
永禄十一年、椎名康胤を破って征服。以後、松倉城(別名はズバリ金山城)将河田長親

(3).佐渡…西三川(にしみかわ…真野町)砂金
鶴子(つるし)銀山(佐和田町、天文年間、本間氏により開発)
新穂鉱山(新穂村)
柿野浦鉱山(両津市)など (ちなみに江戸時代の有名な相川金山は、景勝時代に発掘)
佐渡は、天正十七年(1589)に景勝によって征服されたので謙信時代には直接支配していないが、長尾派の国人からもらったり、食料を輸出した代金を「金=キン」でもらっていたと思われる。

(4).その他のデータ
独自通貨、天正越座を使っていた。
1578年、謙信が死んだ時その遺産は、黄金2700枚(27000両)あり、内訳は…
様々な貸付金・運上金(採掘した金や青苧の売上etc.)が1126枚
それらとは別に土蔵在金(繰越金か?)が1588枚あったそうだ。
金山の産出量 慶長三年(1598)のデータ。
越後金山…11244両
佐渡金山…7995両
出羽庄内金山…978両
全国の59%を占めていた
(大蔵省『大日本税志』所収、慶長三年伏見藏納目録より)

出典元『県史シリーズ15 新潟県の歴史』山川出版社
『埼玉県の歴史散歩 歴史散歩11』山川出版社
歴史群像シリーズ『戦国【関東三国志】』
同『真説【戦国北条五代】』
同『上杉謙信』
同『武田信玄』
同『織田信長』
など多数。