1 :
人間七七四年:
歴史のターニングポイント
2 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 21:53:49 ID:6PBfw8+u
>>1 水攻めを献策した人って誰? 複数の説があるようだが。
3 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 21:58:30 ID:d6xa1whv
光秀の密使が陣地間違えなかったらどうなってたと思う?
4 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 22:01:25 ID:6PBfw8+u
岡山県の歴史漫画ではこの事大きく取り上げられてるな。
6 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 22:28:12 ID:k9tneqMj
歴史上重要だからな
7 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 00:44:39 ID:NKZSVBrC
8 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 01:55:58 ID:oKk/FIlI
>>7 花房正成。
直家信者氏がこの辺りのことは詳しいと思うが。
9 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 22:16:59 ID:GRd0okbR
水攻めのこれ以外の例を教えて下さい
僕が知ってるのは忍城
10 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 09:52:20 ID:LEAEyZwG
日本では高所に城を築く例が多いからあまりないなあ。中国では
春秋から戦国の分岐点となった晋陽城攻防戦とかあるが。
11 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 10:17:01 ID:95/tWqal
三国志だと
呂布の最期と関羽の荊州攻めに水攻めが出てくるね
12 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 13:46:54 ID:xkvWF84w
数qに及ぶ大堤防とかはフィクションだろうな。
13 :
人間七七四年:2007/11/09(金) 16:15:23 ID:mEV3LN92
14 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 15:50:52 ID:IWYelHCT
15 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 03:01:14 ID:TTazeYcy
16 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 05:18:43 ID:EPEPMuIX
>>12 お前川を数箇所を止めたら、それで水攻めが出来ると思ってるんじゃないだろうな?
実際今の金額に治したら、数百音円もかかる巨大な公共事業に匹敵する大事業だ
あの当時の秀吉にどこにそんな金があったのか、お前には想像も出来んだろうね
17 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 07:16:05 ID:ZARLiUh5
やっぱりフィクションなのですね?
18 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 10:43:20 ID:pU+uD3RM
>>9 永禄2年(1559) 近江肥田城
天正10年(1582) 備中高松城
天正12年(1584) 美濃竹ヶ鼻城
天正13年(1585) 紀伊太田城
天正18年(1590) 武蔵忍城
明治10年(1877) 肥後熊本城
19 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 15:37:17 ID:AsBc2+RQ
>>17 まあ水浸しになったら、当然農作できんわな
それで秀吉が周辺の農民に金を与えて、一大土木作業にあたらせた
しかもその規模たるや、高松城の周辺にさらに城壁を築くといった万全の様な物で
毛利も三万の大軍で救援に向かったが、当然の如く手も足も出なかった
20 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 16:25:02 ID:9Xp1zl7q
>>19 >それで秀吉が周辺の農民に金を与えて、一大土木作業にあたらせた
>しかもその規模たるや、高松城の周辺にさらに城壁を築くといった万全の様な物で
見てきたような書き方だが、甫庵太閤記か何かが種?
21 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 16:47:18 ID:4hwU8QXf
「備中高松城主清水宗治の戦略」を読め
三村氏スレで少し話題が出てたはず
>>7 水攻めを献策したのは黒田官兵衛の家臣で黒田二十四騎にも数えられている
吉田長利との説もあります。
23 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 21:00:26 ID:aTegSNxi
>>22 お待ちしておりましたぞ。
色々と謎が多い、この高松城水攻めについて解説してくだされ。
24 :
人間七七四年:2007/11/20(火) 16:45:55 ID:6d/YAczf
そんな謎あるか?
25 :
人間七七四年:2007/11/20(火) 17:20:13 ID:VJemS+OR
備中高松城跡って観光する価値ある?
鬼の城を見たついでい寄ろうと思うのだけど。
26 :
人間七七四年:2007/11/22(木) 10:01:56 ID:h/HhTn6i
高松城付近の発掘調査で大規模な堤防が建築された跡が見つかったんでしょ?
墨俣一夜城や長篠の鉄砲三段撃ちみたいに戦国時代の逸話で、
近年実在が疑問視されてるものは多いが、これはどうやらガチ臭い
スケールのでかさからして一番有り得なそうな話だけどね
27 :
人間七七四年:2007/12/09(日) 19:44:27 ID:wv0QKcHJ
この時高松城以外に秀吉に攻められた城はあるの?
>>27 織田軍の侵攻に備えて、毛利は備中東南部の城に兵を入れ備えなおさせてます。
宮路山城(岡山市足守) 乃美元信の400
冠山城(岡山市下足守) 林重真の300
高松城(岡山市高松) 清水宗治の5000
加茂城(岡山市加茂) 桂広繁の1000
庭瀬城(岡山市撫河) 井上有景の1000
松島城(倉敷市松島) 梨羽中務の800
日幡城(倉敷市日畑) 日幡景親の1000
この以上七城があるも、冠山城は4月25日宇喜多忠家に攻められ城主林重真はじめほぼ全員が玉砕、
宮路山城は5月2日秀吉に水の手を断たれて降伏、
加茂城は元三村氏家臣生石治家が秀吉に内通、落城、
日幡城は備後から加勢に来ていた上原元将の裏切りによって城主日幡景親が討たれ落城、
庭瀬城は井上有景が良く踏ん張り、結局最後まで落城せず、
松島城は最後まで攻められる事は無かった、
と、こんなかんじです。
(参照、「岡山戦国合戦史」「戦国合戦大事典6 京都府兵庫県岡山県」)
>>28はミスです… 全文書き直すことになった
30 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 16:50:08 ID:xA6QFf/O
>>29 松島城が攻められなかったのは地理的な位置関係だからだけなのかな?
31 :
人間七七四年:2007/12/14(金) 12:16:54 ID:uSg6Aq2o
高松が邪魔だから
32 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 18:52:55 ID:UNLSVErj
早くもネタ切れか?
33 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 20:58:11 ID:himrZQy8
高松城が落ちても備中松山城があるから、まだ毛利に余力がある
34 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 19:56:10 ID:q7s/V+n0
武田と違い毛利の家臣団はしょぼいよな
秀吉ごときにあっさりと備中を抜かれるとは
35 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 21:19:53 ID:EaH96Jjg
高松城の防衛拠点としての意義とかなんで攻めにくかったのかとか
語ってみようぜ。
言いだしっぺだが、松山往来を押さえられる沼田中の丘に築かれた高松城は
土城の発展っぽい感じだよね。
守り易く攻め難いが、水攻めじゃなくても孤立しやすい構造ではあったわけだ。
周囲の城を落とされ拠点同士の連携を寸断されてしまったのが痛かったな。
36 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 21:47:10 ID:3XdDDYGe
フツーに四国の高松だと思ってました
毛利なのに?って疑問が生じたのつい最近
37 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 11:08:49 ID:lSzb6Bst
さすがに備中高松が落ちたら毛利はいよいよやばかったんじゃないの?
なんで輝元は駆けつけなかったの?
38 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 11:39:05 ID:21XXssFr
両川だけで十分だろ
39 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 12:05:38 ID:Xu78OkWz
お飾り当主がでてくりゃ多少は志気高揚にはなったとは思う。
が、やっぱり実質運営者は両川・四宿老だからたいした違いはないかなぁ。
この時の九州・四国の毛利情勢を詳しく書いた書物・サイトあれば教えて。
そちらにどういう武将が配備され、どの程度人数の軍勢が割かれたのか等
40 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 14:53:49 ID:wPHcCKPr
41 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 15:21:10 ID:lSzb6Bst
備中の要は高松上じゃなく松山城だと思ってた
42 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 15:59:10 ID:XDFRbCTg
隆景は来島に対処していて、本隊が高松へ向けて出陣したのは秀吉が要請して信長が光秀に援軍を命令したのよりも後なんだよな。
到着時には水攻め包囲が完成してて、隆景は状況を見てすぐに宗治に降伏を勧めたりしてる。
また初期に毛利から派遣された武将の一人が裏切ったりなど毛利方は戦意がみられず現地の人ばかり苦労してる。
もし高松と周辺諸城の後詰めに失敗したら次は山陽道の要衝の猿掛城や宍戸隆家の鬼身城他諸城で高梁川ライン防衛になるんだろうな。
ここからは清水のような外様ではなく毛利家や重臣の領地もあるので死守せざるをえない。
43 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 20:34:13 ID:8+DytCKN
実際のところ毛利はどのくらいピンチだったの?
実はまだ余裕あり?
44 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 21:35:35 ID:msVbUTSe
>>42 >>43 通説では、4万ぐらい後詰めにやってきているという事だが、実際は
山陰での抑えと大友の抑えで、輝元、元春、隆景あわせても、1万数千程度だったといわれている。
ソースは何処かにあったんだが・・・忘れた。ただ1万数千程度というのは確かなことらしい。
45 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 00:12:48 ID:fvPUHI5t
>>43 余裕は全くない。もっとも、あと数ヶ月本能寺の変が遅ければ
武田同様に崩れていたであろう上杉ほどの窮地ではないけど。
46 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 07:41:44 ID:gpcfcVGz
本能寺がなければ高松城へ信長軍5〜6万が到着していた
後は早いな
まあ輝元も勝頼よりは家臣にも慕われてただろうから
武田の時よりはもう少し粘っただろうとも思うが
47 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 09:12:18 ID:vMPm8IyA
その点、上杉は内部はバラバラだったからなぁ。
しかし東は武田・上杉、西は毛利と同時に事を構えていたんだから
当時の信長の勢力はすごいな。
48 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 12:02:43 ID:xt5pLVRO
毛利は高松でどうするつもりだったんだ?
決戦するつもり?それとも土下座
49 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 12:06:48 ID:FCY+3PjL
信長は宇喜多従属させた秀吉を褒めるどころか激しく叱るような性格だからな
50 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 20:10:42 ID:xt5pLVRO
宇喜多もなんで秀吉に従属してしまったんだろうな
51 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 10:36:31 ID:2QTLd2wM
それが直家の見事さだろうな
52 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 12:04:20 ID:0Hw2YkXe
なぜか毛利は秀吉との決戦を避けているよね
なぜなんだろうか?
53 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 14:10:42 ID:t6CeKO2k
>>52 当時の織田は総動員掛ければ10万は駆り出せれる。対して毛利はせいぜい3万。
だが、決戦はせず徹底抗戦って事に成ればその三倍(篭城の民入れて)は人員
を確保できると読んだんじゃないだろうか?
戦闘が長引けば遠征している織田から降りると言う、まぁ所謂負け組みが何時も
思うパターンですな。しかし、決戦した朝倉の末路を考えればそれも納得できる
と思う。
54 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 21:34:36 ID:0Hw2YkXe
つまりどうあがいても毛利に勝ち目はなしか
元就が生きていても無理だったんだろうな
55 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 00:28:16 ID:IVXU62Jy
元就の「中国地方だけ取れば十分、これ以上欲出すな
覇者がこっち来たらへりくだってお家残せ」って理論はあくまで
支配者が寛容だった場合に通用するものであって
信長みたいに「降伏など許すか、一族郎党根絶やしじゃ」って奴には通用しない
まあ元就の限界だな、戦国有数の謀将だが天下を取る器ではない
56 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 03:21:40 ID:tNsKPeuY
>>54 無理だねぇ。秀吉の中国遠征前に九州制圧でもしていない限り、
純粋に兵力で押し切られるので、毛利が信長の侵攻を止めることは不可能。
57 :
人間七七四年:2008/01/09(水) 15:38:53 ID:n8fo6IK7
じゃあ毛利としては後がないわけだ
ここであっさり全面降伏したら1国くらい残してくれたんだろうか
それとも徹底抗戦して粘るとか
どっちにしても無理があるな
58 :
人間七七四年:2008/01/09(水) 16:07:58 ID:6OZlT3wa
全面降伏しようにも、矛を交える前ならともかく、
宇喜田の降伏を受け入れた秀吉を叱責するような状況だからなぁ。
徹底抗戦すれば、それこそ朝倉や武田の二の舞。
東の上杉とほぼ同時に滅ぼされるんじゃない?
そしてその後、越前のように一揆で国内が荒れ果てる…
59 :
人間七七四年:2008/01/10(木) 23:20:20 ID:22MO/00+
60 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 18:59:10 ID:fabu5s07
61 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 23:32:51 ID:zHK+QGKj
高松城は古墳の上に造ったという説があるのですが、どれくらいの大きさ
の古墳だったのですか
62 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 03:20:42 ID:wRaMqCN2
>>55 時代の差だと思うが。
信長だって暗殺され天下はとれていない。
秀吉、家康はすでに天下の下地があった。
一方元就の時代は郡山周辺のみ。器に関して言えば不明としか言えない。
少なくとも俺は秀吉の状況にいたら陶謀叛の時みたいにうまくやって天下とれたと思ってる。
63 :
人間七七四年:2008/03/24(月) 23:19:11 ID:Q1kl5Dp3
水責め献策をした人物として>8さんが名を挙げておられる花房正成のソースはなんでしょうか?
直家信者さんは知ってるのかな
64 :
清水宗治:2008/03/24(月) 23:30:12 ID:a0bFIZJ8
見逃しくんねぇかなぁ
>>63 花房正成のソースは恐らく花房家系譜だと思います。
花房家史料集に収められている花房家系譜を参照すれば、正成の項には
『(略)秀吉芸州毛利征罰トシテ
中国ニ発向有、備中国高松之城ヲ攻、城主ハ毛利ノ幕下
清水長左衛門尉長治型ク守テ不落、時ニ天正十壬午年六月
正成策ヲ以板倉川ヲ堰留…』
とあり、他の史料とは違い正成が献策者と書かれています。
66 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 16:12:38 ID:lJrUcVpT
>>65 直家信者氏的には献策者は誰だと思う?(理由も聞きたい)
67 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 21:21:58 ID:/QGeccx8
これについては軍記物に頼らざるを得ないからなあ
専門家ですら判断に困ってるぐらいだし
68 :
人間七七四年:2008/03/27(木) 13:41:39 ID:uJsfhzVl
官兵衛献策説は、江戸時代に作られた「軍師」という虚像に箔を付ける為に出来たもんじゃないか?
竹中半兵衛と並べて、中国の名参謀に比せられてる所とかも。
69 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 20:33:59 ID:/v6x+YFu
どうなんだろうな
70 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 21:58:56 ID:35CHklTA
>>49>>58 そりゃ仕方ないでしょう。宇喜多に関しては、浦上の処遇問題と重なっているから。
信長はまず浦上宗景に備前の支配を認めている。それに対して毛利と組んで反逆した
のが宇喜多直家。つまり直家は宗景への謀反と同時に、信長の処置にも反逆した存在。
その後、宇喜多に追われて播磨に国外退去した宗景は信長の下に保護され、備前の
旧浦上家臣を蜂起させたりと備前への復帰を目指すと同時に、織田家の中国経略にも
協力している。おそらく、後の備前安堵くらいは口約束でも交わされていた可能性は
ある。
にもかかわらず秀吉が宇喜多の調略、降伏受け入れ(すなわち宇喜多の備前支配安堵)は
いってしまえば信長の統治構想を勝手に書き換えたようなもの。つまり家臣の身で
君主権を侵害したことにあたる。
たとえ信長が中国経略に当たって宇喜多の調略が必要なことであると認めていても、
信長の許可ないし事前報告もなしにやった以上、表向きはこれは秀吉を叱らなければ
ならない事柄。
>>66 献策者については、自分の意見じゃないですが、
いなかったとするのが正しいのではと思っています。
備中高松城は浅い盆地にあり、洪水の被害を受けやすく、
簡単に水浸しになってしまいます。
詳しい方に聞いてみると、この場所は過去にも数回、
洪水の被害を受けているとの事です。
つまり羽柴軍が城を囲むように軍用道路を造った直後に
雨が降り、
高松城周辺を水浸しにしてしまったのではないか
それを見て軍用道路を高くして堤防にしてしまったのでは
という説です。
この説は『備中高松城主清水宗治の戦略』を記された
多田土喜夫先生が唱えられています。
本には「水攻め戦術はなぜ生まれた」のかが
詳しく書かれていて興味のある人は面白いと思います。
72 :
人間七七四年:2008/04/06(日) 22:00:59 ID:S/0yU8pq
74 :
人間七七四年:2008/04/07(月) 01:20:00 ID:HVuvmTUF
>>71に一票!
花房説は、後に城主になったことに拠るからかな?
75 :
人間七七四年:2008/04/07(月) 01:31:32 ID:jij2PKiT
76 :
人間七七四年:2008/04/07(月) 18:17:32 ID:DLMh6Scq
通説の官兵衛献策よりは理解しやすいな
77 :
人間七七四年:2008/05/07(水) 15:42:39 ID:VYOTrBtX
黒田献策説の初出は何だろうか?
78 :
人間七七四年:
秀吉本人の発案だと思う。