天正10年の武田攻めを語るスレ

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689人間七七四年
天正十年三月、織田信忠率いる軍勢の前に甲斐の武田軍団は崩れ
当主勝頼は妻や嫡男信勝と共に自害した

それから数日経った頃、八王子城の城主大石氏照のもとに
甲斐から高貴な身分と思われる美しい女性が逃げてきたという知らせが届いた
さては勝頼に嫁いだ妹が落ち延びることができたのかと
氏照は喜んでその一行を訪ねたのだが、そこに居たのは氏照の妹ではなく
勝頼の妹でかつては織田信忠の婚約者であった松姫であった

いかにも取るものもとりあえず、命からがら逃げてきた様子の松姫は
氏照に兄盛信の高遠の顛末と恐らくもう勝頼も北条夫人も
助からないであろうことを伝えると泣き崩れたという

既に頼れる人もいない哀れな姫の境遇に同情した氏照は
松姫を妹の代わりに思い匿うことを快く引き受けた

そうして身を隠していた松姫のもとへかつての家臣から
「信忠様があなたに会いたがっている」という知らせが届いた
意を決し、信忠に会いにゆくことを決めた松姫はそれを氏照に知らせた
知らせを聞いて我がことのように喜んだ氏照は
支度を整えたり万が一のため護衛を付けてやったりして送り出したのだった
松姫の一行は上野原という所で織田信忠の迎えを待った

ところが迎えはなかなかやってこない
やがて松姫の元には迎えの代わりに京から本能寺の変の知らせが届いたのだった

その後松姫は出家し氏照からの支援を受けて
勝頼の娘と盛信の娘と小山田信繁の娘を立派に育てた

しかしそんな平和もそう長くは続かなかった
秀吉の小田原征伐が起こり、北条家が滅んでしまったのだ
松姫たちを支援をしてくれた氏照も敗戦の後責を取って果ててしまった
混乱の中、松姫は今度は寺で読み書きを教え、蚕を育て織物をして暮らしたということだ
690人間七七四年:2010/06/16(水) 21:34:20 ID:jfo0+9Nm
天正10年(1582)2月、武田勝頼の従兄である穴山梅雪(信君)が信長に黄金二千枚を贈り、
織田家に通じた。一門筆頭の裏切りにより国人衆が次々に離反。勝頼の弟・仁科盛信らの
奮戦も空しく、同年3月、織田信忠の軍勢の前に甲斐武田宗家は滅んだ。

これに先立ち、盛信は信忠の婚約者でもあった妹・松を、関東に脱出させた。
勝頼の娘・貞、盛信の娘・小督、小山田信茂の娘・香具を連れた松は、八王子に逃れる事に
成功。この地で兄たちの討死の報を聞くこととなる。

その後、松は奇妙な話を聞いた。武田を滅ぼした織田信忠だが、婚約を解消した松を未だ
求め、嫡子・三法師の生まれた今も正室の座を空けていると言うのだ。

「そこまで、この私を愛して下さるのなら・・・」松はわずかな供を連れて尾張まで行ったが、
そこで彼女が聞いたのは、本能寺の変で信忠が二条城に散ったという知らせだった。

八王子に戻った彼女は、出家して寺子屋や機織りで生計を立て、兄たちの遺児三人を
立派に育て、貞は鎌倉公方の子孫・宮原義久へ、香具は磐城平藩主・内藤忠興へ、
自分を慕って出家した小督の他は、しかるべき家に嫁がせている。

尼となった松の法号は『信松院』という。『信』の字は信玄からか、それとも信忠からか。

いっぽう、裏切った穴山家に見返りなどなかった。
一門筆頭でありながら真っ先に裏切り、長篠でもいち早く離脱した梅雪は「卑怯者」と
陰口を叩かれ、あげく本能寺の変後、家康を疑い別行動をとった結果、土民に討たれた。

追い討ちをかけるように嫡男・信治も早世し、穴山家は断絶。梅雪には信玄の次女が
嫁いでいたが、夫と息子に先立たれた彼女もまた出家。『見性院』と名乗り、家康の保護を
受け、のちに江戸城は田安門内・比丘尼屋敷に住まうことになる。

こうして亡国の姫君たちは、世をはばかり、細々と生きていった。