越相同盟について

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46 ◆HWcl3tDt8E
越相同盟後の「北条高広主導の甲相越三国同盟」説についてのレスです。

第二次甲越和与についてもちゃんと調べようと思っていたんですが、
当方、信長・義昭には疎いのでそう簡単にはまとめられそうになく、
とりあえずは平山優『武田信玄(吉川弘文館)』や
谷口克広『戦争の日本史13信長の天下布武への道(吉川弘文館)』等
手持ちの信玄、信長本から書いてみます。
確か謙信から信玄に対北条同盟を持ちかけた史料もあったように記憶していたのですが確認できませんでした。
『対北条』というのは甲越和与の話から自分が勝手にそう思っただけだったのかもしれません。
以下、明記していないものについては何所収か把握していません。
元亀三年正月の信玄→信長の祐筆武井夕庵宛て書状で謙信が甲越和与を望んでいるが承諾できないとしているそうです。
同年七月三十日、信長→謙信書状で謙信・信玄の和をすすめているそうです。
十月五日信長→信玄書状で甲越和与の調停中なので越後攻めはやめて欲しいと考えていたところ同意を得て喜ばしい、との書状。
しかし十月三日には信玄は西上をはじめており、平山優の本では信玄の出陣準備を信長は越後攻めのものと考えてたようだとしています。
『「織田信長文書の研究」補遺百三十号』、
『染谷光廣「武田信玄の西上作戦小考-新史料の信長と信玄の文書」日本歴史360号』等で扱われているとのこと。
十一月二十日信長→謙信書状で出し抜かれた信長はこの信玄の動きに激怒し、
義昭とともに甲越和与のため義昭のため努力していたのに
信玄の所行は前代未聞の無道さで、未来永劫信玄と結ぶことはないとしています。
これは歴代古案所収、上越市史別編にあり。

これらの限りでは第二次甲越和与については義昭信玄信長関係のなかで扱われているものばかりで
北条高広からのものは新視点かもしれません。