越相同盟について

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甲越和与
信玄は永禄十一年本庄を叛かせて芦名を味方につけ自身も北信濃に侵攻しますが、謙信はなんとかしのぎます。
正月二十一日の芦名方の小田切への書状で越後へ乱入するとともに、北条と相談して倉内を攻めるとあります。
信玄の北信攻め中に北条が動いた形跡はありませんが、気になるのが同年十二月二十四日の本庄→北条宛て文書。
本庄は同月五日の沼田への御出馬を祝い、協力を求めています。でもこれは信玄の駿河攻めと同時期。
どうも信玄は北条に沼田を攻めようと言って、軍を集め、北条が北上したのを見計らって駿河に侵攻した?検討の余地有り。
本題、信玄は本庄の乱が鎮圧される以前に信長を通じて義昭に甲越和睦の御内書を届けさせます。(丸山和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」
謙信のもとには二月に、信玄には三月に届いたようです。五月に交渉本格化、七月下旬に成立。
北条はほぼ毎度のように信濃出兵を求めており、謙信も応じるそぶりを見せますが、七月二十九日鮎川盛長宛書状で
信州を攻めようと準備していたが向こうが子細申してきたので延長したとあります。
八月十八日氏政→千葉書状で輝虎は六日に越府出張、五日以内に沼田に着陣を告げてきたと有り、
その他にも複数の書状で謙信が一度沼田に入ったことがわかります。しかしこれは今後も数度行われる戦うふり越山で、信玄と戦う気はなかったようです。
同月、足利義昭より甲越和与がまとまったことは然る可きと。
謙信がこの頃沼田から引き上げて越中へ『百日』の遠征を行うと、ほぼ同時期に信玄は関東に侵入。
まるで示し合わせたかのようですね。
この間、信玄は武田神社文書にある書状で沼田、厩橋撃破を伝えていますが、実際のところは戦いはなかったでしょう。
十一月に越中から帰国、二十日沼田に入る。二度目の戦うふり越山。佐竹も参加する予定で太田父子に「急度催促簡要」と伝える。
十二月八日氏康→由良書状で倉内で越年するよう要請していますが、
同月十日信玄→信長書状では謙信が沼田に出張したが義昭、信長をたてて家臣の反対を押し切り防備を固めなかったとしています。
もちろん謙信は信玄が確信していたように信玄とは戦わず、翌年正月に佐野に出兵、北条から抗議されます。
同年三月頃、北条は甲越和与を察知したらしく、これを破棄するかしないかの話が出始めます。
謙信は八月に甲越和与を破棄しますが、結局信玄と本気で戦うことはありませんでした。